大いなる喜びの知らせ

ルカによる福音書2章8~14節  2023年 12月10日(日) クリスマス合同礼拝

                                             牧師 藤田浩喜

 今日は日曜学校の子どもたちも大人の人たちも一緒に、クリスマスの物語を聞きましょう。2千年以上前のユダヤの国のことです。羊飼いが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。野宿というのは、家の外でお泊りすることです。羊に草を食べさせるためにあちこち旅していた羊飼いたちは、夜も羊の番をしなくてはなりません。狼などの獣や人間の泥棒が羊を取っていかないように、見張っていなくてはなりません。羊飼いの仕事は、夜も起きていなくてはならない大変な仕事なのです。夜はどんどん更けていきました。

 その夜のことです。神さまの使いである天使が、羊飼いたちに近づきました。

「あ、天使だ、天使が立っている!」すると、今まで経験したことのない大きなまばゆい光が彼らを照らしました。「うぁ、まぶしい!」。羊飼いたちは思わず地面に顔を伏せました。そしてぶるぶる震え出しました。「どんなことが起こるんだろう」「どうなってしまうんだろう」。彼らは恐くなってしまったのです。

 すると天使は言いました。「羊飼いたち、恐がる必要はありません。わたしはすべての人々に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝えます。今日ダビデの町ベツレヘムで、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」そして天使は、その救い主である赤ちゃんがベツレヘムの町の飼い葉桶の中に寝かされていることを、教えてくれました。

 すると、どうでしょう。さらにびっくりすることが起こります。いつの間にか、天使だけでなくおびただしい天の大軍が、天使を取り囲むようにいるではありませんか。天の大軍は、戦争をするために来たのではありません。天使といっしょに神さまを賛美するためにやって来ました。天から来た合唱団です。すると天の合唱団は、いっせいに歌ったのです。「神さまのおられる天には、栄光がありますように!地上には平和がありますように!」まばゆい光が満ち溢れる中で、神さまを賛美する声が響き渡りました。「神さまのおられる天には、栄光がありますように!地上には平和がありますように!」

 羊飼いたちは、夢でも見ているように、この素晴らしい光景を見ていたに違いありません。そして、天使たちが彼らを離れると、だれかれなしに言い出したのです。「みんな、僕たちに起こったことを見たかい。天使と天の大軍が、大合唱して神さまを賛美していた。天の神さまの栄光が輝き、地に平和をもたらしてくださる。そんな救い主がお生まれになったんだ。僕たちのための救い主だ。さあ、ベツレヘムに行こう。救い主である赤ちゃんを拝みに行こう!」

 こうして羊飼いたちは、ベツレヘムの町にある馬小屋へと出かけて行ったのです。すべてが、天使が教えてくれた通りでした。羊飼いたちは飼い葉桶の中ですやすやと眠っている赤ちゃんイエスさまにお会いすることができたのです。羊飼いたちは、どんなに嬉しかったでしょう。羊飼いたちは自分たちが見たり聞いたりした不思議な出来事を会う人会う人に話してあげました。そして、神さまを大声で讃美しながら帰っていきました。

 羊飼いたちは、救い主イエスさまのお誕生を知らされましたが、それは不思議な体験でした。びっくりするような出来事でしたね。羊飼いたちが経験したように、救い主イエスさまがお生まれになったことは、天使や天の大軍が大合唱して神さまを賛美するような、素晴らしい出来事でした。

 そして、天使と天の大軍は歌いました。「神さまのおられる天には、栄光がありますように! 地上には平和がありますように!」神さまがおられる天には、栄光があります。そして、神さまが造られたこの世界には、神さまの栄光を表す平和がなくてはなりません。天の栄光には、地の平和こそがふさわしいのです。

 しかし2千年前の世界には、平和がありませんでした。ローマという大国が軍隊の力、富の力によって人々を支配していました。人々は苦しんでいました。今、わたしたちが生きている世界も同じですね。平和とは反対の戦争や争いが、多くの人たちを苦しめています。神さまに逆らい、神さまの御心に背く罪によって、この世界は神様の栄光を受けられなくなってしまったのです。  

 しかし、救い主イエスさまは、神さまの栄光がこの世界に満ち、この世界に本当の平和がもたらされるために、お生まれくださったのです。神さまの天とわたしたちの地をつなぐ架け橋となるために、イエスさまは生まれてくださったのです。そのような驚くべき出来事が、クリスマスの日に起こったのです。

 2016年の11月に作家の村上春樹さんが、デンマークでアンデルセン賞を受けられました。アンデルセンは、「マッチ売りの少女」や「人魚姫」など子ども向けのおとぎ話の作者として有名な人です。そのアンデルセン賞を受けた時、村上さんは受賞講演をしました。それは、アンデルセンの「影」という小さな作品、彼のいつもの作風とはまったく違う作品を取り上げて、語ったものでした。

 「影」という寓話のようなお話をわたしも読んだのですが、それは次のような話です。ある若い学者が南の国に旅をします。その国で過ごしていた彼は、向かいの家の中に何が起こっているのかを知ろうとして、自分の影をその家まで届かせます。しかしその影はそのまま戻っては来ず、学者は影を失くしてしまいます。

けれども彼には小さな影ができ、それが彼の新しい影になるのです。

 月日が流れ、何年も経ちました。ある晩のこと、学者の部屋をノックする音が聞こえます。ドアを開けるとどうでしょう。そこには自分のなくした影が立っていたのです。彼の身なりはとても立派で、高級な衣服や宝石を身に着けていました。しかも話を聞くと、彼はある国の美しい王女を愛するようになり、もうすぐ結婚することになっているというのです。学者の古い影は、知恵と力を得て独立し、今や経済的にも社会的にも、元の主人よりもはるかに卓越した存在になっていたのです。

 その後、学者はかつての影に世界旅行に連れて行ってもらったりしますが、その間に、学者とかつての影の立場は、すっかり逆転していきます。学者の影はいまや主人となり、主人であった学者は影になります。そして、かの美しい王女と結婚する日のこと、恐ろしいことが起こります。彼が影であった過去を知る元の主人は、その事実を口外することのないよう、哀れにも殺されてしまうのです。

 アンデルセンの「影」はそのような寓話なのですが、村上春樹さんはその寓話を取り上げつつ、私たち人間の心の中にある影ということについて、言及します。そして次のような、とても印象的な、洞察に満ちた言葉を語るのです。

「アンデルセンが生きた19世紀、そして僕たち自身の21世紀、必要なときに、僕たちは自分の影と対峙し、対決し、ときには協力すらしなければならない。それには正しい種類の知恵と勇気が必要です。もちろん、たやすいことではありません。ときには危険もある。しかし、避けていたのでは、人々は真に成長し、成熟することはできない。最悪の場合、小説『影』の学者のように自分の影に破壊されて終わるでしょう。」

そして、個人だけでなく国家や社会の中にある影についても、次のように言うのです。「ちょうど、すべての人に影があるように、どんな社会や国家にも影があります。明るく輝く面があれば、例外なく、拮抗する暗い面があるでしょう。ときには、影、こうしたネガティブな部分から目をそむけがちです。あるいは、こうした面を無理やり取り除こうとしがちです。というのも、人は自らの暗い側面、ネガティブな性質を見つめることをできるだけ避けたいからです。影を排除してしまえば、薄っぺらな幻想しか残りません。影をつくらない光は本物の光ではありません」。そして村上さんは、影の部分を無理やり取り除くような例として、侵入者を防ぐために高い壁を作ること、よそ者たちを厳しく排除すること、自らに合うよう歴史を書き換えることを上げます。そして、そのようなことしても結局は、自分自身を傷つけ、苦しませるだけだというのです。

 村上春樹さんは、私たち個人の中にも国家や社会の中にも、暗い影が存在することを指摘します。そのような影の部分を避けたり、無理やり取り除こうとしてはいけない。そうではなく、自分の影と共に生きることを辛抱強く学ばなくてはならない。そして、その内に宿る暗闇を注意深く観察しなさい。時には自らの暗い面と対決することを恐れるべきではない、と言われるのです。

 救い主イエスさまは、天と地をつなぐ平和の礎(いしずえ)として、この世界に与えられました。そして、そのことを知らされた御心に適うひとり一人によって、平和が創り出されていくのです。救い主イエスさまを信じるひとり一人が、平和のためのレンガを一つ一つ積み上げていくのです。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)。羊飼いたちがしたように、クリスマスの大きな喜びの知らせを、精いっぱい、周りにいる人たちに伝えていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。 

【祈り】御子イエスさまをこの世界に遣わしてくださった神さま、あなたを心から讃美いたします。今日は日曜学校の子どもたちも大人の人たちも、いっしょに礼拝を捧げることができました。ありがとうございます。平和の主であるイエスさま信じる私たちが、イエスさまから力をいただき、たとえ小さくても平和を造りだしていけますよう、どうか励ましていてください。午後の「子どものクリスマス」の時も祝福していてください。このお祈りを、イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

実を結ぶ神の言葉

マルコによる福音書4章13~20節  2023年12月3日(日)主日礼拝説教

                                          牧師 藤田浩喜

今朝与えられております御言葉は、主イエスがお語りになった「種蒔く人」のたとえの説明の部分です。「種蒔く人」のたとえは、一度聞いたら忘れられない、とても印象的な話です。日曜学校の子どもたちも知っている有名なたとえです。こういう話でした。「種を蒔く人が、種を蒔いた。ある種は道端に落ち、その種は鳥に食べられてしまった。ある種は石ころだらけの所に落ち、すぐに芽を出したけれど根がないため枯れてしまった。ある種は茨の中に落ち、茨に覆われて実を結ばなかった。そして、ある種は良い土地に落ちて、芽が出て、育って、30倍、60倍、100倍の実を結んだ」というものです。

 このたとえ話は大変印象深いのですけれど、何を語っているのか、これだけを聞いたのではよく分からないのではないかと思います。この話そのものは、当時のパレスチナ地方における種蒔きという農業の一場面を語っているに過ぎません。その様子は、私たちが考える種蒔きの様子とは随分違います。私たちが種を蒔く場合、畑を耕して、畝を作り、一粒一粒丁寧に蒔きます。しかし、主イエスの時代の種蒔きは、おおらかと言いますか、おおざっぱと言いますか、種を片手に握っては、文字通りばら蒔いていくのです。それから畑を耕して土をかけるのです。ですから、種が畑の外に飛んでしまうこともありました。道端、石地、茨の生えた中に落ちてしまうこともあったでしょう。当時の人は、種蒔きの農作業を思い起こしながらこの話を聞いていたに違いありません。そんなこともあると思いながら、一度聞いたら決して忘れなかったと思います。しかし、このたとえ話が何を語ったものなのか、それは決して分かりやすくなかったと思います。教会に長く来ておられる方は、この話を聞けば、すぐに「ああ、あの話ね」といった具合に、このたとえ話が何を意味しているのか分かるでしょう。しかし、教会に来られて間もない方は、このたとえ話を聞いて、昔の種蒔きの作業の一場面を語っていることは分かっても、何を意味しているのか、主イエスは何を語ろうとされたのか、そのことがすぐに分かるという人はまずいないのではないでしょうか。

 しかし幸いなことに、このたとえ話には13節以下に、主イエスが弟子たちにされた、たとえの説明が記されています。たとえ話を理解する上で決定的に重要なのは、そのたとえの中に出てくるものが何を指しているかということです。このたとえ話の場合、この蒔かれた種とは神の国の福音でした。それでは道端とは、石ころだらけの所とは、茨の地とは、良い土地とは、何かということです。

 先週私たちは、「種蒔く人」の側に自分を置いて、このたとえに聞くことをいたしました。しかし今日は「種を蒔く人」だけでなく、種が蒔かれる「畑」にも注目したいと思うのです。すでに見てきましたように、この「種を蒔く人」の中に主イエスを見ることができ、さらには私たち自身を見ることもできます。私たちはまた、この「畑」の中に私たち自身を見ることもできるのです。

 主イエスは四種類の土地について語られました。一つは道端、一つは石だらけで土の少ない所、一つは茨の中、最後に「良い土地」です。「四種類の土地」と申しましたが、実は主イエスは、互いに離れた四つの別な場所について語っておられるのではなく、一つの畑の話をしておられるのです。

道端というのは、人が通って踏み固められた、畑の中にできた道のことです。また、「石だらけで土の少ない所」も同じ畑の中です。もともとパレスチナの土地には石が多いのです。その石を一生懸命取り除いて畑にするのです。しかし、全部の石を取り除くことは到底できません。石はどうしても残ります。ここで言われているのは、そのような石の上に薄く土が残っている場所のことです。また畑には「茨」もつきものです。深いところに根を張っています。先週申しましたように灌漑は行いません。ですから深く耕すこともしないのです。水分が蒸発してしまうからです。それゆえに深い茨の根は残ります。それが麦と一緒に延びてくることは、いくらでもあったようです。

私は、このたとえ話を今までたくさんの教会員、求道者の方と読んできましたが、この話の中で、自分はどれに当たると思いますかと聞いて、良い土地ですと答えた人は一人しかいません。その他の100人を超える人たちはほとんど、石ころだらけの所あるいは茨の地と答えます。不思議なことに、道端という人もあまりいないのです。牧師と聖書を読もうして来ている人たちですから、自分は道端ではないだろうと思うようです。

 確かに、「自分は良い土地です。」そうはなかなか言えないと思います。まして信仰のゆえに苦しい目に遭う。迫害なんかに遭ったとしたら、信仰を守り切る自信なんて、誰にもあるというものではありません。そうすると、石ころだらけの所かなと思う。あるいは、いろいろな思い煩いがあって、信仰の生活に徹底できない自分がいる。富の誘惑だって大きい。そう考えると、自分は茨の地かなと思う。それが普通なのだと思います。

 この話の中に自分自身の身を置きますと、いろいろと見えてくることがあるのです。13節以下の主イエスの解説を読みます時、とても耳の痛い話として響いてくるかもしれません。主イエスは言われました。「道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」(15節)。すると私たちは思います。「ああ、これはわたしだ。いつもサタンに御言葉をもっていかれて、何にも残らない。わたしは道端だ」。

 さらに主イエスは言われます。「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」「また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」どれもこれも、自分に当てはまるように聞こえるかもしれません。

 しかし、先にも申しましたように、道端も石だらけの所も茨の地も良い地も、それぞれ別の場所にあるのではなくて、一つの畑の話なのです。ですから、道端が永遠に道端とは限りません。次の年には、石だらけの土地から石が取り除かれているかもしれません。茨が次の年にも生えているとは限りません。どれも皆、良い土地となり得る、畑の一部なのです。御言葉を聞いて受け入れるならば、三十倍、六十倍、百倍という大いなる実りをもたらす、そのような土地なのです。

私たちはそのような土地となり得るのです。そのような私たちとして主イエスは見ていてくださり、今も主は収穫を期待して種を蒔いていてくださっているのです。だからこそ主は言われるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

主イエスは私たちに種を蒔いてくださった。道端のような私たちの心に御言葉を与え、神の国が来ていることを、神様の御支配の中に私たちがすでに生かされていることを知らせようとしてくださった。そして、主の日のたびごとに、種を蒔き続けてくださっている。種を蒔くだけではなくて、様々な人との出会い、また様々な出来事を通して、導き続けてくださっているわけです。何とかして、私たちの中に御言葉が芽を出し、根を張り、大きく成長するようにと育んでくださっている。私たちが、道端から良い地へ、石地から良い地へ、茨の地から良い地へ変わるようにと、働き続けてくださっているのです。だから、私たちは良い地になることが求められています。私たちも良い地になることを求めていますし、必ず良い地になることができるのです。私たちはそのことを信じて良いのです。どうせ自分は石地だ、茨の地だと諦めてはならないのです。それは自分に対してだけではありません。あの人もこの人も、自分の愛するあの人も、道端のままであるはずがないのです。そのことを信じてよいのです。神の国が来ているということを信じるとは、この神様の御業、神様の御支配を信じるということなのです。

 そのように種を蒔く人として主イエスを思い描き、また種を蒔かれている畑として私たち自身を見ることは、私たちにとって大事なことなのだろうと思います。礼拝堂に集まることができない週があります。高齢のために、病気のために、教会に集うことができず、それぞれの場所において聖書を開きます。ネット配信によって、説教原稿を読むことで、神様を礼拝します。礼拝堂に身を置いている時のように説教を聞くことはできないかも知れません。しかし、それでもなおその週の御言葉は与えられているのです。その時も同じように、主イエスは収穫を期待して種を蒔いていてくださるのです。

 ならば大事なのはこちら側です。畑の側なのです。わたしは道端だ、石だらけの所だ、茨の中だ、などと言っていないで、自分自身が実り豊かな者となることを期待して、耳を傾けることが大事なのです。繰り返しますが、私たちはどれも皆、良い土地となり得る、畑の一部なのです。御言葉が私たちの内に留まって芽を出して実り始めるならば、何が起こるか分からない。どんな素晴らしいことがそこから起こってくるか分からない。私たちはそのような、とてつもない可能性を秘めた畑の一部なのです。

 かつてジョン・ウェスレーというひとりの人が、全く気が進まないままにロンドンのアルダースゲートにおける集会に参加しました。そして、蒔かれた御言葉の種が芽を出したのです。1738年5月24日水曜日午後9時15分前頃のことでした。その時、たった一人の人間が御言葉を聞いて受け入れたことが、ある意味でこの世界を変えたのです。この人からメソジスト教会が始まりました。その実りはイギリスからアメリカに、またカナダに広がり、そしてついにこの日本にまで及びました。あの一粒の種を受け入れた土地がなければ、日本にメソジスト教会はなかったのです。

 同じことが私たちの内に起こり得ます。主は「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われます。主イエスは収穫を期待して、今日も御言葉の種を蒔いていてくださっています。そして、私たちはとてつもない可能性を秘めた畑です。私たちの内に落ちた種から始まる神の御業は、私たちの内に留まりません。三十倍、六十倍、百倍にもなるのです。大きな実りを期待しながら、今日も神の御言葉に耳を傾け、神の御言葉を私たちの内に受け入れましょう。主は言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を褒め称えます。神様、今日から私たちは主のご降誕を待ち望むアドベントの時を過ごします。神の御子があなたの御許から、悩み多きこの世界に到来してくださいました。そして馬小屋の飼い葉おけの中に誕生され、御子がこの世界の最も低く、貧しく、悲惨な場所に共にいてくださることを示されました。御子は今も聖霊において、そこに留まり続けていてくださいます。そのことをこの世界に与えられた尽きざる希望として、今年のクリスマスを守らせてください。今、病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、悩みや苦しみの中にある兄弟姉妹を顧みていてください。今も戦闘の止まないウクライナやガザの地をあなたが、顧みていてください。あなたの平和を、天にあるように地にももたらしてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

主イエスの造る家族

マルコによる福音書3章31~35節 2023年11月12日(日)主日礼拝説教

                             牧師  藤田浩喜

 今日読んでいただいたマルコによる福音書3章34~35節にこうありました。「イエスは…周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』」。これは有名な御言葉です。この御言葉をあらためて読むとき、この主イエスの御言葉は今日の「家族」を考える上で、一石を投じているのではないでしょうか。

 ある学者は「今日、家族は自明ではない」と言っています。私たちの時代、親たちの経済的な生活基盤が不安定であると指摘されます。核家族化の進行で、父親は仕事に取られ、ワンオペ育児を強いられている母親も増えています。かつて子育てを下支えしていた地域社会も機能してはいません。そうした中で家庭の教育力が低下してしまい、子育てに悩む家庭も多くなっています。日本キリスト教会岐阜教会は「児童育成園」という児童養護施設と深い関係がありますが、そこで暮らしている子どもたちは、その多くが親のいる子どもたちで、親のいない子どもたちは少ないそうです。また、関心が集まって周囲の人々が通報することが多くなったことも関係していると思いますが、ネグレクトやDV(ドメスティック・バイオレンス)などの虐待を受けている子どもたちの数も増加しています。もちろん個人の責任だけに帰せられるものではなく、社会情勢や行政の施策の貧しさも大きな背景をなしています。そうした複雑な状況の中で、「今日、家族は自明ではない」ということを実感として感じるのです。

 2018年第71回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した是枝裕和(これえだひろかず)監督の「万引き家族」は、多くの方がご存じでしょう。映画の筋をばらすのは営業妨害ですが、5年前の作品ですので少しだけご紹介します。この映画は今日の私たちに、「家族」というものについて鋭い問題提起をしているように思います。おそらくは東京のビルが林立する町の一角に、狭く古い家が時代に取り残されたように立っています。高齢の祖母、中年の父と母、小学校高学年くらいの息子、そして高校生ぐらいの娘の5人が、身の置き所もないような雑然とした家で暮らしています。

 この家族は、お世辞にも褒められた生き方をしてはいません。家族は6万円ほどの祖母の年金を当てにしています。父親は息子に万引きをさせ、足らない日用品や食品をまかなっています。母親はパートでクリーニング工場に勤めていますが、衣類のポケットに残っていたアクセサリーなどの忘れ物をくすねます。高校生ぐらいの娘は怪しげな風俗店で働いて、小遣いを稼いでいるのでした。しかし狭苦しい家で遠慮ない言葉をぶつけ合う家族ではありましたが、そこには親密さや暖かさがあるのです。お互い文句を言い合うのですが、なんだかんだ言って、それぞれが面倒を見合うのです。そして、この「家族」にネグレクトと虐待を受けていた小さな女の子が加わります。一度は両親のもとに返そうと家の前まで連れていくのですが、夫婦がののしりあい、母親がDVを受けている様子を耳にして、自分たちの家に連れ帰ってしまうのです。

 しかし、この小さな女の子が警察によって捜索されることになり、それがきっかけとなって、この家族はバラバラになっていきます。祖母はすでに病死していますが両親は逮捕され、男の子も警察で事情聴取されます。そしてその過程を通して、家族一人一人の抱えていた過去が明らかになります。そして、家族と思われていた5人は、だれ一人血がつながっていない「疑似家族」であることが明らかになるのです。もうその家族がもとの姿に戻ることはありません。そしてあの小さな女の子も、ネグレクトと虐待の待つ自分の家庭に戻らざるをえなくなってしまうのです。「家族とはなにか」、「家族にとって本質的なことは何なのか」、そのことを深く鋭く問いかける作品であると思います。

 さて、今日読んでいただいた箇所で、主イエスは身内である「肉親の家族」と「神の家族」というべきものを対置していることが分かります。主イエスは「肉親の家族」を絶対化してはいません。32節の後半で、主イエスに「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と告げられます。しかし33節で主「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え」られたのです。身内だからということで、主イエスを連れ戻そうとする家族の者たちを拒んでおられるのです。

 もちろん、主イエスは「肉親の家族」を否定しているのではありません。公生涯に入るまでの30年間、主イエスは両親に従順な息子として成長してきました。父の仕事を継いで長男としての責任を果たしてこられたことでしょう。また主イエスが十字架に付けられたとき、主イエスは自分の弟子に「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:27)とおっしゃって、母マリヤのことをその弟子にゆだねています。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハネ19:27)と報告されています。ですから主イエスは、「肉親の家族」をないがしろにしてよいとか、ないがしろにしなさいとおっしゃったのではないのです。

 しかし、真の神であり真の人である主イエスにとって、より本質的で大切な家族がありました。それが主イエスと「主の周りに座っている人たち」から成る家族、「神の家族」なのです。主は34節で、「周りに座っている人々を見回して言われました。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる』」。「神の家族」とは何か、どんな家族なのか。「神の家族」であるための要件は、主イエスが真ん中にいてくださるということです。主イエスが家族の中心になっていてくださることです。イエス・キリストは、この世界に受肉され、十字架と復活の御業によって、わたしたちのすべての罪を贖い、わたしたちを神さまを和解させてくださいました。わたしたちはイエス・キリストのゆえに、罪と死の縄目から解き放たれました。それだけでなく、イエス・キリストのゆえにわたしたちは神さまを「アバ、父よ」と呼ぶことができるようになりました。ですからわたしたちは、イエス・キリストの十字架と復活の救いを信じることで、この「神の家族」に迎え入れられているのです。「神の家族」に属するために、イスラエルの家系に属する必要も、律法学者たちのように律法に精通する必要もありません。イエス・キリストの十字架と復活の救いを信じるなら、どんな人でも「神の家族」に迎え入れていただけるのです。

 そして、この「神の家族」に求められていることは何でしょう。主イエスは今日の35節でこのように述べておられます。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。「神の家族」に求められていることは、「神の御心を行うこと」なのです。「神は愛です」。そして神は愛という究極の御心を行うために、御子イエスを十字架にお掛けになったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。この決定的な御言葉は、そのことを証ししているのです。

そして、神は「神の家族」とされた私たちが、今度は互いに愛し合うことを求めておられます。それが神の御心を行うということなのです。ヨハネによる福音書15章9~12節をご一緒に読んでみましょう。新約198頁です。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっている。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」イエス・キリストがその身を捧げて示してくださった愛の掟によって、互いに愛し合うことが「神の家族」には求められています。しかしこの愛の掟を、神さまご自身が実践して下さり、御子イエス・キリストが模範となって愛の掟を実践してくださいました。私たち「神の家族」に迎え入れられた者たちは、神さまが御子イエスを愛して下さった愛、御子イエスがわたしたちを愛して下さった大いなる愛に支えられて、互いに愛し合うことが求められています。父なる神と御子イエス・キリストの大いなる愛に包まれるようにして、わたしたちは愛し合う者となっていきます。その意味で私たちは、「神の家族」の一員となることによって、互いに愛し合うことを学ぶのです。

 今日は「肉親の家族」と「神の家族」という対照の中で、聖書の御言葉を聞いてきました。「肉親の家族」は、誰でもがつくれるものではありません。一度つくったとしても、それが壊れてしまうことがあります。長年「肉親の家族」であったとしても、年月の経過によってそれが失われてしまうこともあります。

誰もが「肉親の家族」を持っているわけではありません。しかし「神の家族」はそうではありません。「神の家族」は、どんな人にも開かれています。どんな人も「神の家族」に迎え入れていただくことができるのです。

 そして「肉親の家族」を持っている人は、「神の家族」の大きな輪の中に入れられることが大切です。「神の家族」は、真の神であり真の人であるイエス・キリストを中心として形づくられた家族です。その「神の家族」の中に入れられることによって、家族にとって何が本質的なことか、何を失ってはならないかが、分かってくるのです。

 皆さんもご承知のように、「肉親の家族」は遠慮のない関係です。そのあまりの密接さのゆえに、他の家族の心の中にズカズカと踏み込んでしまうこともしてしまいます。子を親の所有物のように見なし、自己実現、自己充足の手段としてしまうこともあります。子が親を便利に利用するだけの打算的な関係になってしまうこともあります。あまりに密接な関係だからこそ、歪んでいたとしてもそれが分からない、ということも起こりうるのです。

 しかし、あの愛の掟を模範として実践してくださったイエス・キリストが、私たちの真ん中にいてくださることを、決して忘れないことが大切です。イエス・キリストを見つめ続ければ、それでよいのです。「神の家族」に属することで、「肉親の家族」は、何が家族の本質であるか、何を家族は失ってはならないかを、学び続けることができるのです。そのような「神の家族」が与えられていることを、私たちは心から感謝したいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、今日も兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができ、心から感謝いたします。あなたは御子イエスを中心とする「神の家族」を造ってくださいました。「神の家族」にはすべての者が招かれています。そしてこの「神の家族」に属し、イエス・キリストを見上げることで、私たちは「家族」にとって何が本質で大切であるかを知ることができます。どうか何よりも「神の家族」として歩ませてください。このひと言のお祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

天にある永遠の住みか

コリントの信徒への手紙 二 5章1~10節 2023年11月5日(日)主日礼拝

                         牧師  藤田浩喜

 今日は召天者記念礼拝を皆さまと一緒に守ることができて感謝です。ここにおられる皆さまのほとんどが、ご自分のご家族を亡くされた経験をもっておられることでしょう。突然、ある日ご家族を亡くされた方もあるでしょうし、しばらくの間看取りの期間を過ごした後、ご家族が亡くなったという方もあるでしょう。どんなに手厚く看取りをなさった場合でも、看取った家族には「悔い」というか「心残り」があるものです。「生きている間に、こうしてやればよかった。こんなこともできたのに」と、心残りを感じているのです。看取りの期間があった家族でもそう感じるとすれば、突然ご家族を亡くされた場合には、いっそう強く、そのように感じるのではないかと思います。

 私は父を中学校2年生の時に亡くし、母を今から14年前に亡くしました。父の時は自分がまだ子どもでしたので、看取ったという記憶はありません。しかし、母の場合は私は50歳になろうとしており、西宮の牧師館に引き取った時期もありましたので、妻と一緒に母の世話をし、看取ったという記憶があります。

できることは精一杯したと思う反面、息子として至らなかったことも多く、「こうしてあげればよかった。どうしてできなかったんだろう」と、今でも心が痛むことがあります。「できることならあの世に行った時に、『あの時はごめんな』と謝りたい」と思う気持ちがあります。そのように謝りたいというだけではありません。「もう一度会えたら、こんな言葉も掛けたい、こんな報告もしたい」という願いを、ここにおられる皆さまも持っておられるのではないでしょうか。そのような願いを心に抱いている私たちに、今日の箇所でパウロは、私たちの死後のこと、死んで後に経験することを語っているのです。

 今日読んでいただいた箇所のすぐ前、4章18節でパウロは「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言っています。有名な言葉です。私たちキリスト者は、信仰によって見えるものだけではなく、見えないものに目を注ぎ、見ています。その信仰によって見ているものは何か。その一つとして今日の5章1節以下で挙げられているのが、「天にある永遠の住みか」なのです。それは死んで後のことです。目に見えないものですから、一目瞭然というわけにはいきません。そのためパウロは、建物のイメージや着物を着るイメージを用いながら、「天にある永遠の住みか」を描き出そうとしているのです。

 「天にある永遠の住みか」とは、そもそもどういうものか。パウロの他の手紙、たとえばコリントの信徒への手紙 一 15章などから示されることは、「天にある永遠の住みか」とは、新しい「霊的な『体』」と言い換えることができます。この「霊的な『体』」は、滅びることも、死んでしまうこともありません。「信じる者は、「肉体の『体』ではない、「霊的な『体』」を受ける。それは滅びることも、死んでしまうこともない。」パウロはそのように語っているのです。

 では、その信じる者が死んで後受ける「霊的な『体』」である「天にある永遠の住みか」には、どんな性質や特徴があるのでしょう。私たちもイメージを豊かにしながら、パウロの語る言葉に聞きましょう。まず、第一に「天にある永遠の住みか」は、「地上の住みかである幕屋」とは対照的です。わたしたちの地上の住みかである幕屋は、先ほど述べた言葉で言えば、地上を生きる「肉的な『体』」です。今生きている地上の体です。幕屋はテントであり、テントは私たちが知っているように時が経つと劣化して、朽ち果ててしまいます。また、暴風などの自然災害によって、突然壊れてしまうこともあります。それが地上を生きる「肉的な『体』」です。しかし、「天にある永遠の住みか」は人間が造ったものではなく、神によって備えられた建物です。神が備えてくださった建物ですから、朽ちることも壊れることもありません。永遠に揺らぐことなく建ち続けるのです。

 しかし「天にある永遠の住みか」と「地上の住みかである幕屋」は、まったく無関係で、何の接点もないのかと言うと、そうではありません。パウロは2~3節で次のように言っています。「わたしたちは、天から与えられる住かを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。」地上を生きる「肉的な『体』」は、皆さんも実感されているように、悩みや苦しみを避けることはできません。4節にありますように「重荷を負ってうめ」くように毎日を生きています。パウロにしても福音を宣べ伝える上で、筆舌に尽くしがたい苦しみを経験しました。しかし、「天にある永遠の住みか」は、そのような「地上の住みかである幕屋」の上に、重ね着するものであります。「地上の住みかである幕屋」が無くなったり、消滅したりすることはありません。そのイメージから分かるように、地上を生きる「肉的な『体』」は、新しい「霊的な『体』」を与えられても、私たちの人格は継続していきます。その人自身、私自身であることは変わりません。継続していくのです。私たちが地上の人生おいて過ごしてきた日々の記憶、私たちが結んできた様々な関係、たとえば親子関係や友人関係が、決して消滅してしまうことはないのです。

 「天にある永遠の住みか」についてパウロが語る第3のことは、4節に記されています。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられた住みかを上に着たいからです。」ここでは、「天にある永遠の住みか」を上に着たい理由が述べられています。パウロは「死は最後の敵である」(Ⅰコリ15:26)と述べています。そして死をここにいる者は誰一人、経験したことはありません。死は善も悪もすべて飲み込んでしまう。死によって私たちの存在が飲み込まれてしまい、死すべきものは永遠に消え去ると思って、人は苦しむのではないでしょうか。人が死ねば「無」になる。何も残らないのではないかと、恐れるのです。

しかし、パウロはそうではない。死すべきものは命に、すなわち永遠の命に飲み込まれてしまうのだ、と言うのです。パウロはコリントの信徒への手紙 一15章54節で、同じようなことを次のように述べています。322頁、57節まで読んでみましょう。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」このように、イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、今や死そのものが、復活の命に飲み込まれているのです。信じる者を待っているのは死ではない。復活の命なのです。

 先週、高木慶子(よしこ)さんが書いた『大切な人をなくすということ』という本を読みました。高木さんはカトリックのシスターで、死を迎える患者のターミナルケアや遺族へのグリーフケアを長年なさっている方です。小さな本ですが、とても中身の濃い本です。多くのことを教えられましたが、一つのエピソードだけ、今日はご紹介したいと思います。

 高木さんは53歳の吉永さん(仮名ですが)を、病床に訪ねられていました。この方はバリバリ仕事をされ、会社の部長にまで昇進された方でした。この吉永さんにすい臓がんがあることが分かり、お医者さんからは余命3か月と言われました。ご本人は最初、「僕は仕事をするだけして、後はバタンキューでいい」とおっしゃっていました。しかしそれは「がんばっている姿を見せていないと家族が心配すると思った」、「自分自身を甘やかしたら、それでおしまいになるから」と思っていたからでした。

 しかし、口ではそうは言っても、心は平静でいられるわけではありません。吉永さんの「死を受け入れるための」苦闘が始まります。ある日、吉永さんは高木さんに「家族と別れることがどんなに辛いことか分かりますか?」と尋ねます。そして、死が近づいてくる実感を淡々と語られるのです。「体がね、伝えてくるんです。家族と別れる時が近いということを。以前はね、砂を嚙むような感じしかしなくても、食事をとることができたんです。ちゃんと、食べることができました。でも、今は食べてももどしてしまう。食事のにおいをかぐだけでもイヤになってしまう。」「自分の体が刻一刻と変わっていくことが分かるんです。昨日の自分と今日の自分が違うなんてものじゃない。一時間前の自分といまの自分がすでに違うんです。」そして、吉永さんは目に涙を浮かべて、こうおっしゃったのです。「孫がくるとね、一か月後にはもう会えないんだと思ってしまうのです。もう、やり切れないですよ。」

 しかし、高木さんとの対話が続いていく中で、がんの告知を受けてから一か月半が経った頃から、吉永さんは少しずつ、ご自分の死を受け入れることができるようになったのでした。そして、高木シスターの「また、向こうで会いましょうね」という語りかけに、「死んでもまた家族に会えるんですね」とホッとした表情を浮かべて、亡くなって行かれたと言うのです。

 吉永さんと関わられたエピソードの中で、高木さんは次のような大変深い言葉を語っておられます。少し長いですがお聞きください。

「人は自分の死を突きつけられた時、そうそう簡単にはそれを受け入れることはできません。『人は死んだら無になる』とおっしゃる方は多いですよね。しかし、実際に死を突きつけられると、人間そんなことは言っていられないのです。自分が『無』になってしまう。そう思ったら、とてつもない虚無感と絶望感にさいなまれるはずです。無になるということの恐ろしさを、ありありと感じてしまうのです。なぜなら無になってしまうと、愛する家族と再会できなくなるわけですから。でも、亡くなる前に自分の人生を認め受け入れ、肯定できた方は、『また、向こうで会いましょうね』という言葉を口にすることができるようになられます。

それは、簡単なことではありません。……無になってしまうことの恐ろしさを感じて初めて、「そうじゃない、そうあってはならないと思うようになるのです。」「無になってしまうと考えたら、家族に会うことはできません。そこには希望がありません。でも、死んだ後でも会えると思えば、希望がわいてきます。家族に対して『向こうで待っているよ』と言えたら、それはご本人にとっても、遺される家族にとっても救いになるのです。」やがて死と直面しなければならない私たちとって、これは本当に深い切実な言葉ではないでしょうか。

今日の聖書の5節で、パウロは次のように言っています。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは神です。神はその保証として“霊”を与えてくださったのです。」私たちは信仰によって、見えないものに目を注いでいます。そのきわめて大切な一つが、「天にある永遠の住みか」を与えられるという約束なのです。信仰によって霊、聖霊を与えられた私たちは、見えないものに目を注ぎつつ、やがてその約束が実現することを確かに待ち望むことができるのです。ここの「保証」は「手付金」とも訳されます。完全な救いと新しい「霊的『体』」を与えられることは、確かにまだ起こっていません。しかし、本当の支払いは残っているとしても、手付金は最後の支払いを保証するものなのです。神さまがイエス・キリストにあって、そのことを保証してくださっているのです。心安んじて、イエス・キリストに委ねて歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたします。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

【祈り】生と死を統べ治めたもう主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日の主日礼拝を、先に召された兄弟姉妹を覚える礼拝として守ることができ、感謝いたします。神さま、あなたは信じる者たちに聖霊をお与えくださり、見えないものを見させてくださっています。神さまが備えてくださっている「天にある永遠の住みか」がその一つです。地上にあっては重荷を負ってうめいている私たちではありますが、この「天にある永遠の住みか」を仰ぎ望みつつ、希望をもって歩ませてください。大切なご家族やご親族を天に送られた方々が、今日の礼拝を守っております。どうぞ、そのお一人お一人の上に、主の慈しみと平安を豊かに注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

誰がキリストを知るのか

マルコによる福音書3章20~30節  2023年10月29日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

 今日の箇所には、マタイ福音書、ルカ福音書に同じような内容を記した並行記事があります。その一つのルカによる福音書11章14節以下で、「主イエスは口を利けなくする悪霊を追い出し、口の利けない人がものを言い始めた」とあります。そうした状況を受けて、主イエスは律法学者たちと「ベルゼブル論争」をなさったのです。主イエスと身内の人たちとのやりとりについては、次回マルコによる福音書を学ぶときに扱いたいと思います。

 今日登場している律法学者たちは、わざわざ「エルサレムから下って来た」のでした。律法学者というのは、ユダヤの宗教生活を規定していた律法の専門家です。その専門家たちが、近頃目覚ましい働きで評判になっている主イエスの正体を見極めようとやって来たのでしょう。専門家には専門家としての誇りと自負があります。そこで主イエスのことを見聞きして、彼らは一つの結論を出しました。それは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、あるいは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったのです。

 「ベルゼブル」というのは、本来古くからあるシリアの神の名前であり、おそらく「神殿の主」という意味であったと言われています。この神の名は王国時代に言葉をもじって「バアル・ゼブブ」(蠅の王)と軽蔑的に呼ばれるようになりました。そして、その後次第に、この異教の神の名が悪魔を示すものとなっていったと言うのです。異教の神の名というのは、往々にしてこのような末路をたどってしまうのでしょう。いずれにしてもエルサレムの権威を帯びた律法学者たちは、主イエスの悪霊追放の業が神の聖霊ではなくて、悪霊の頭の力によってなされていると断定したのです。より力の強い悪霊が、それより弱い悪霊を追い出したと、彼らは考えたのです。

 それに対して主イエスは、どのように応じられたでしょう。23節に「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた」とあります。たとえは、ある事柄を理解するとき、それを理解しやすいように語って聞かせるものです。主イエスはけんか腰で反論されたのではありませんでした。律法学者たちが十分理解して納得できるように、たとえを用いられたのでした。それは相手が民衆であっても、律法学者のような専門家であっても変わらなかったのです。

 主イエスは言われました。23節後半以下です。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」国であろうと、家であろうと、サタンであろうと、内部で争ったり、分裂したりすれば、立ち行かない。滅んでしまう。そんな墓穴を掘るようなことを、狡猾なサタンがするはずがない。主イエスはこのたとえによって、悪霊を追放したのが同じ悪霊ではないことを分からせようとしたのです。

 確かに国も、家も内輪もめして争えば、分裂し崩壊してしまいます。イスラエル王国は、ソロモン王の後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます。すると紀元前8世紀には北イスラエル王国がアッシリア帝国に、紀元前6世紀には南ユダ王国が新バビロニア帝国に滅ぼされます。確かに王国は、分裂すると立ち行くことはできないのです。今日の私たちの世界も、分裂や分断が進んでおり、このままでは機能不全に陥ってしまうのではないかと恐れます。しかし人間ではない狡猾なサタンは、墓穴を掘るようなことをするはずはありません。ますます結束を固くして、私たちの世界を神様の御心に反した方向へと連れて行こうとしているのです。

 主イエスが語られたもう一つのたとえは、家に押し入る強盗のたとえでした。27節です。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」主イエスがこのようなたとえを語られたのは、ある人から悪霊を追い出すというのは、その人を支配していた悪霊に代わって、神からの聖霊が支配するようになることだからでしょう。

ある家に押し入り、その家を略奪する場合、最初にすることは、その家を守っている最も「強い人」を捕まえて、縛り上げることです。最も強い人をやっつければ、他の人たちは抵抗する気力が無くなり、略奪は一気に進みます。それによって、略奪する者はその家を自分のものにすることができるのです。 

悪霊に支配された人から悪霊を追い出し、その人を奪還する場合も同じです。悪霊の頭とも言うべき「強い人」を捕まえ、縛り上げなければ、どれだけいるか分からない悪霊を屈服させ、追い出すことはできません。悪霊の頭は、主イエスにとって縛り上げるべき敵であって、力を借りるような存在ではありません。悪霊に支配されていた人から悪霊が追放されたのです。口が利けなくする霊に取りつかれていた人が、口が利けるようになったのです。それは主イエスが、まず悪霊の頭を縛り上げられたということです。主イエスは悪霊の頭を凌駕するさらに「強い人」であったということです。そのように語ることによって、主イエスは律法学者たちの思い違いを正そうとされたのです。

主イエスは神が遣わされた神の御子です。主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と宣言されました。神は主イエスにおいて、主イエスを通して働かれます。主イエスが悪霊を追い出す霊は、神の聖霊に他なりません。したがって人は、その聖霊を汚れた悪霊と混同してはいけません。御子イエスによってなされている神の救いの行為を、破壊的なサタンの行為と取り違えてはなりません。主イエスは「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)と言われました。主イエスは、どんな人に対しても神の国・神のご支配が始まっていることを、喜ばしく語り告げられるのです。

さて主イエスは、20節を「はっきり言っておく」という言葉で語り始めます。「アーメン レゴー ヒューミン」、「まことにわたしはあなたがたに言う」というのが直訳です。このフレーズは、主イエスがきわめて大切なことを語られるときに、使われるフレーズです。28~30節で主イエスが語られる言葉は、それほど大切な言葉なのです。それを信じるか否かで、救われるか滅びるかが決まってしまうような、分水嶺になるような言葉なのです。読んでみましょう。「『人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。』イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである。」

後半の29節以下で言われているのは、聖霊を冒瀆する者への警告です。聖霊を冒瀆するというのは、30節にあるように「彼(つまり主イエス)が汚れた霊に取りつかれている」と言うことです。主イエスがなさっておられる悪霊追放などの力ある業は、聖霊ではなく悪霊によってなされている」と言うことです。これは先ほど見ましたように、エルサレムの権威を帯びた律法学者たちが考え、言っていたことでした。主イエスの力ある業が神からの聖霊によってなされていることを、彼らは認めませんでした。「人々が言っていたからである」の「言っていた」という未完了形の言葉は、繰り返し、継続してなされていたことを示しています。彼らは心を頑なにして、主イエスの力ある業が聖霊によることを断じて認めようとしませんでした。神の御子である主イエスに心を閉ざし、決して開こうとしませんでした。そのような「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と警告されているのです。

ただし、ここでの「永遠に」は原語では、「この世に」という言葉です。慣用的に「永遠に」と訳されることが多いのですが、「その時代を通して」と訳すことも可能です。そうではありますが、主イエスによる力ある業を、聖霊による御業と認めないことは、決して許されない罪なのです。主イエスによって神の国・神のご支配が始まっていることを頑なに認めないことは、決して赦されない罪なのです。というよりも、唯一それだけが赦されない罪なのです。

「まことにわたしはあなたがたに言う」という言葉で始まる主イエスの言葉は、それだけではないのです。29節の警告の言葉に心を奪われて、よい知らせを不明確にしてはなりません。主イエスは一番大切な大前提として、このように語っておられるのです。28節です。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。」29~30節で言われていることは、唯一の例外規定のようなものです。主イエスが語られた御言葉の本体は、まさにこの28節にあるのです。人の子つまり私たちが犯す罪やどんな冒瀆の言葉もすべて赦されているということ。それらはすべて、主イエスの十字架の贖いによってすべて赦されているということなのです。

私たち人間は、時として疑ったり、迷ったりすることがあります。神さまに激しく反発して、神さまに背を向けてしまうことがあります。神さまの御心が分からなくなってしまい、神さまを疑ってしまうことがあります。しかし、そのような疑い、迷い、挫折がどのように大きなものであり、どのように遠く神さまから離れてしまっても、神さまはそれを赦してくださるのです。なぜなら、そのような罪を重ねる私たちを神さまと和解させ、救いに至らせるために御子イエスは来られたからです。

また、私たちは人の窺い知れないような罪を、心に抱えているかも知れません。私たちはその心に抱えている罪を、「赦されない罪」だと感じているかも知れません。自分には神さまに打ち明けることも叶わないような、赦されざる罪があると思っているのです。しかし、そうではありません。私たちは神さまの御前で、どんな罪も過ちもすべて赦されています。なぜなら、そのような罪を私たちに代わって贖うために、イエス・キリストは十字架に架かられたからです。神さまの目からご覧になる時、私たちの犯すどんな罪も赦されているのです。私たちは神さまの御前で、臆することなく顔を上げることができるのです。

しかし、赦されざるただ一つの罪があります。それは御子イエス・キリストを通して働かれる聖霊の御業を信じないことです。ある人はこう言いました。「聖霊の働きを信ぜず、赦しに反抗する者だけが、赦しから除外されるのである。」主イエスの到来によって、喜ばしい神のご支配が始まっているのです。罪に支配されていた私たちを、イエス・キリストはその支配から奪い返して下さり、神様の恵みのご支配へと移してくださったのです。その決定的な恵みの御業を、私たちは心を大きく開いて受け入れましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。神さま、あなたは御子イエスにおいて御業をなさいます。そこには神の聖霊が働いています。聖霊の働きは、主イエスこそ救い主であることを私たちに分からせ、罪の赦しを私たちに得させることです。どうぞ、そのような聖霊の働きを、心を大きく開いて受け取ることができるようにしてください。ハマスとイスラエル、ウクライナとロシアの間で戦闘が続けられています。被害が拡大しています。どうか神様、これらの地に平和をもたらしてください。ひと言の切なるお祈りを、御子イエスの御名によってお捧げいたします。アーメン。

皇帝への税金

マタイによる福音書22章15〜22節  2023年10月22日(日)主日礼拝説教                

                                             長老 山﨑和子

 主イエスのところにファリサイ派とヘロデ派の人たちが一緒にやってきて、自分たちが皇帝に税金を払うのは律法にかなっているのか、いないのかと問いかけます。15節からの記述をもう一度読んでみます。「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そしてその弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた」とあります。この時、遣わした人々というのは議会の主だった人たちだったかもしれません。元々ファリサイ派とヘロデ派は互いに相容れない思想を持っていた人たちの集まりですからこの二つの派閥が「一つにまとまる」などということは有り得ない状況だったのです。でも、主イエスの評判が日に日に高くなっていったことを危険な兆候と思った議会は、何とかここで主イエスを徹底的に貶めなくてはならないと思ったのでしょう。それは16節からの、わざとらしい持って回った慇懃無礼な口上に如実に表れています。彼らは、このように尋ねればイエスが「おさめなくても良い」と答えるのではないかと想定していたのかもしれません。そうすればローマにすり寄っていたヘロデ派の人は怒ってその場でイエスをローマの総督に引き渡そうとするかもしれないし、仮に「おさめるべき」とイエスが答えたとしたら、今度はローマに反感を持っているファリサイ派が怒って、イエスはローマにへつらう裏切り者だと宣伝するようになるでしょう。どちらであっても、この日限りでイエスの人気は地に堕ちるでしょうし、どちらか一方の答え方しか有り得ないと、彼らは得意満面でやってきたに違いないのです。

 けれども、勢い込んで税に対する詰問を付き付けた人々に対する主イエスの対応は、全く予想を裏切るものでありました。主イエスはその場でデナリオン銀貨を提出させて「これは、誰の肖像と銘か」と問われます。まことに周囲の意表を突く問いかけでありました。ここで問題にされている「税」とは、ユダヤ人がローマに支払いを義務づけられている人頭税のことです。人頭税は、ローマのデナリオン銀貨で支払うことが義務づけられていましたから、その銀貨にローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていることは誰でもがよくよく知っていることであって、わざわざこんな質問をされるイエスの意図が分からなかったのでしょう。「皇帝のものです」という答えの蔭には(それがどうした?)と言いたい気持ちがありありと見えるような気がします。が、主イエスはならば皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい、とはっきり皆の前で宣言されるのです。

この聖書の箇所はマタイによる福音書だけでなく、3つの共感福音書のすべてに記されている記事でもあり、よく知られている話です。私も子どもの頃からこの話は日曜学校で聞いていましたが、子どもの時にはイエス様の答えがどういうことなのか、分かりませんでした。つまりイエス様は税金を治めることがいいことだと言われたのか、それとも悪いことだ言われたのか、この答えではわからないし、その意味で問いの答えになっていないじゃないの、と思ったのです。だから長年この税金の記述は喉に小骨がささったような違和感を持ち続けてきたような気もするのです。

主イエスは「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われます。税金を納めるべきことに何の反発も示してはおられないのです。今日の箇所の少し前、17章の24節以下に神殿税に関する主イエスの見解が示されています。人々がペトロに「あなたがたの先生は神殿税を納めないのか?」と聞いた時にペトロは「納めます」と答えているし、その時に主が魚の口から銀貨を取り出してペトロと二人分の税を払うようにと指示されたと記されています。人がその所属社会の中で決められた規範に従って生きることを主イエスは決して否定されません。ここで私たちは、先ほど読んで頂いたサムエル記の記事のことを思い出します。旧約の時代、イスラエルの人々は、周りの国々と領土の獲得をめぐって絶えず争いに巻き込まれていましたが、自分たちも周りの国々のように王を持ちたいとサムエルに願い出たのです。この時サムエルは、人の手によって国が治められることに反対します。イスラエルは神が選んだ民族であり、これまでずっと神によって守られてきた民族でもあります。なぜ今になって唯一の神を信頼して御手に委ねることを拒むのかと問うのですが、人々は聞く耳を持ちません。そうして最終的に神ご自身が人の選択をお赦しになって、その判断を任せられるのです。これ以後イスラエルは王国としての歩みを始めることになるのですが、その歩みがどんなふうに滅亡へと進んでいったかは歴史が証明しています。間違いはいつも一方的に人の側にあるのです。神様は、人にご自分の気持ちを強制するのでなく、自由な選択に任せようとされるかたであります。主イエスご自身がそうあるべきと思って居られるのでなくても人が決めた決まりであるならそのようにすればいい、という程のお気持ちであっただろうと思われます。ならばもう一つの「神のものは神に返しなさい」のほうはどう考えればいいでしょうか?

  創世記1章27節には、神は人を神にかたどって創造された、とはっきり記されています。私たち人間は誰でも初めから神にかたどって、即ち神の肖像と銘が刻まれたものとして創られているのです。そのことを忘れた時に人は神を退けて、自分自身を神のように扱い始めます。

 私たちすべての人間には神の像が刻まれています。言い換えれば私たち自身が神の貨幣であります。神は、私たちをそのご計画の遂行のために貨幣のように用いられます。私たちのすべては神様のご用に用いられるために造られているのです。貧しい者はその貧しさによって、病気の人はその病気を以って現に今、主に用いられるのだと思います。何の役にも立たない、不必要な人間は一人も居ないのです。何と素晴らしいことではありませんか。

 ファリサイ派とヘロデ派の人たちは、税金を払うことは良いことか、悪いことかという二者択一の問題でしか物を考えることが出来ませんでした。同様に「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」と言われた主イエスの言葉を私たちは、どれが皇帝のものでどれが神のものなのか、やっぱり二者択一の問題として捕らえてはいないでしょうか?

皇帝のものも神のものであります。私たちは神が良しとされた世界に生き、あらゆるものを神から賜っている中で、なおそれを自らの意志で使い道を考える自由を与えられています。私たちは、自分の判断で自由に使い道を考えていいような錯覚を起していますが、すべては神のものであることを思って、何をどのように使うにせよそれは神にお返しすべきものであることを忘れてはならないと思うのです。神の貨幣である私たちは、神様のご用のために用いられることだけを願って自身をささげ尽くすしか生きる意味を持っていない筈なのです。にも拘わらず私たちのうち誰一人として自分自身をまるごと主のものとして捧げつくす生き方など出来ないのです。例えばあなたの持ち物を全て売り払って貧しい人たちにささげなさいと言われたら、又あなたの一人息子を焼き尽くす生贄としてわたしにささげなさいと言われたら、わたしたちは喜んで従うことが出来るでしょうか?多分できないでしょう。今持っている財産も、与えられた家族も、みんな神様が下さったものだと頭ではわかっているはずなのに、いざとなったら「お願いです。これだけは私から取り上げないでください」と泣きながら懇願するしか無いのが私たちの姿であります。けれども、そんな欲深いわたしたちを深く憐れんで、父なる神様に執り成し続けてくださっているかたがおられます。主イエス・キリストです。

主は私たち一人一人を極限まで愛し給い、慈しみをこめて何度でも何十、何百回でも許してくださって、父なる神のみ元へといざなって下さっているのです。そのことを深く覚えて、こんにち只今よりおぼつかない足取りながらも主イエスが辿られた道筋を追うものとして一日一日を生かされていきたいと心から願っています。

祈り

父なる神様、私たち一人一人はあなたの貨幣であって、ただ御心のままに用いられる以外に生きる意味を持っていないものであることを教えられました。私たちはいつになっても自分のしたいことしか出来ない愚かで罪深いものであります。どうか犯してきた数々の過ちを許して、これから先の日々もあなたに従っていくものとして一人一人を導いてください。この拙いひとことの祈りを尊き主イエス・キリスのの御名によっておささげ致します。

                                アーメン

神さまの特別な恵み

ヨナ書1章4~6節 2023年10月15日(日)主日礼拝説教

                              牧師 藤田浩喜

 ヨナは、神さまから逃げて行きました。タルシシュ行きの切符を買って船に乗り、船底の方に行って寝てしまいました。神さまはこのことを全部ご存知でした。それでも「あれは失敗者だ。神を裏切った者だ」とレッテルをはって、葬り去るのではありません。嵐を起こして、ヨナがそれ以上遠くへ逃げないようにされました。そして、「自分が間違っていました。神さまの命令に従います」と言うようになるのを、待っておられたのです。

 ここで重要なのは神さまの恵み、恩寵に対しての正しい理解です。恵み、恩寵には3種類あることが知られています。第一は一般恩寵と言われる、すべての人に公平に与えられる恵みで、第二は救いの恵み、第三は特別な恵みです。

 まず第一の一般恩寵、一般的恵みですが、神さまの恵みはクリスチャンだけに与えられるのではなく、クリスチャンでない人にも与えられています。それを示す聖句を一つ挙げてみましょう。マタイによる福音書5章45節。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」太陽や雨がなければ、私たちは生きていくことができません。健康やお金もすべての人に与えられるものです。ですからこれは、クリスチャンであるなしに関わりなく、一般的に与えられる恵みなのです。

 第二の恵み、恩寵は救いの恵みです。救いの恵みは、私たちを救いに導いてくれる、救いを実現してくれる恵みです。これは私たちを教会に行かせ、キリストを信じて救われたいという願いを起こさせ、聖書が解き明かされる時に私は救われなければならないと悟らせ、信じる決断をした時に私たちの中に救いを実現してくださり、永遠の命をいただいて歩んでいくようにさせてくれる聖霊の働きです。それは、神さまの愛が行為として現れたものと言えるでしょう。私たちが救われたのは、自分の努力や決意、意志の力や功績によるのではありません。私たちが救われたのは、恵みにより信仰によると聖書は言っています(エフェソ2:8)。神さまの恵みがなかったら、だれ一人救われることはありません。神さまの恵み、恩寵が今日も働いているから、私たちは救われており、今日も教会に来て礼拝ができる、神さまを賛美することができるのです。神さまの恵みは、目に見えない形で今も働いているのです。

 第三の恵み、恩寵は、特別な恵みだと先ほど言いました。この特別な恵みとは、クリスチャンの間に働く神さまの特別な働きかけですが、特にクリスチャンが神さまの御心から離れている時に、その人たちを引き戻すために働く神さまの御業です。ですからここで、逃げて行くヨナに神さまが働きかけたのは、この第三の恵み、特別な恵みであったと言えるでしょう。ヨナが神さまから逃げ続けて行ったら、彼は永遠にレッテルをはられて、「ヨナは神さまを裏切った。ヨナは逃げて行った」で終わりになってしまったでしょう。でも神さまはヨナを愛しておられますから、ヨナを引き戻したい、もう一度神さまとの正しい関係に戻したいと願って働きかけたのです。これが特別な恵みです。それがこの場合、嵐を起こさせたのです。

 この特別な恵みは、頭をなでて「いい子だから帰って来なさいよ」と言うのではありません。神さまは時には、引き戻すために嵐を送ります。そして、ヨナのように「もうだめだ。これで自分の人生はおしまいだ」と覚悟して、海の中に投げ込まれるという、死を味わうような体験を通させるかもしれません。けれども、神さまはそこで滅ぼそうとしていないのです。神さまはしばしばこのように嵐を用いて、特別な恵みを与えられるのです。今現在、嵐に直面している人、苦難に直面し、私の人生は揺れ動いているという人がいるかも知れません。その人はその経験を、神さまの特別な恵みが私に及んでいるのだと、考えることもできるのです。

 ある人がクリスチャンホームで育ち、ずっと教会に行っていました。ところがこの人は、いつもいたずらをすると「おまえだろう」と言われ、「違うよ。お姉ちゃんだよ」と言っても、「おまえに違いない」と言われていたそうです。実際にお姉ちゃんがしていたのに、いつも叱られ役になっていました。けれどもこれも、神さまの恵みだったのです。というのは、その人は悪いことができないようにされていたからです。後で分かったことですが、その人のおばあちゃんが「神さま、この子は将来神さまのご用に立つ人です。どうぞ悪から守ってください。そして神さまのご用に大きく用いられるようにしてください」とお祈りしていたそうです。神さまの特別な恵みは、こういう具合にも働くのです。ある場合は罪を犯して逃げて行こうとする時に、それを止めるために与えられ、ある場合には罪を犯さないように止めるために与えられるのです。

 さて、次に今日の個所から示されることは、私たちが罪を犯し、神さまに逆らう生活をすると、それは他の人々にも影響を与えるようになることです。ヨナは自分だけの問題として、逃げて行きました。けれども、ヨナが船に乗ったために、船に乗っている人全員が迷惑をしたのです。船長を初め、船員たちは右往左往し、船に乗っていた乗客たちは生きた心地がしませんでした。しかも、「積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした」(1:5)と書いてあります。そのせいで財産を全部失った人もいたかもしれません。それに対してヨナは、どうやって弁償するのでしょうか。

 私たちの人生とはそういうものです。私たちが「神さまに従いたくない。別の所へ行きたい」と思うのは自由です。そして、それは自分だけのことで、他の人には関係ないと思うかもしれません。けれども、家族や親せき、友人、地域の人、さらに見知らぬ人など、多くの人々に影響を与えるのです。私たちはこの人生を、自分一人で生きているのではなく、多くの人に影響を及ぼしながら生きていることを覚えたいと思うのです。

 船長以下、船のクルーが右往左往していた時、ヨナはどうしていたでしょう。ヨナは嵐の中で、船の底に行って眠っていました。私たちも仕事がうまく行かないからと、ふて寝をしてしまうかもしれません。それは普通の寝方ではなく、何があってもひたすら寝続けるもので、これは心理的に逃避することです。船は揺れて沈みそうになり、水がどんどん入って来て、皆は荷物を投げ捨てているのに、ヨナは寝ていました。とうとう船長が来て、「起きてください。なぜ寝ているのですか?」とヨナを起こしました。

 本当は嵐がやって来た時に、ヨナが一番先に「私は神さまから逃げて来た。神さまはやっぱりお怒りになり、私を追いかけておられる」と気がつかなければいけなかったのです。けれどもヨナは、主なる神を知らない船長に起こされなければ、問題に気がつかなかったのです。そして「起きてあなたの神を呼びなさい、祈りなさい」と言われる始末だったのです。

 ここで私たちは、ヨナのことを自分のこととして考える必要があると思います。私たちも神さまの御心から離れていると、ヨナの状態になってしまいます。周囲が大変な嵐になっていて、周りの人々が騒いで右往左往しているのに、クリスチャンが知らん顔をしているようなことがないでしょうか。もしそうだとすれば、ヨナと同じなのです。本当はそういう問題に対して何が原因であるか、私たちはよく知っているわけですから、神さまに訴え、祈ることができるはずです。ある人は、クリスチャン以上に、世の中の人の方が今日の世界に対して危機感を持っていると言いました。クリスチャンは「私たちは恵まれています。救われています」と自分を安全圏に置いてしまって、周りがどこまで危険な状態になっているか気づいていません。しかし、世の中の人は神さまを知らないために、かえって危機感を持ち、どうしたら人類は救われるのか、どうしたら滅びから逃れることができるかを真剣に考えています。もしそうだとしたら、これは私たちに対する痛烈な批判であると言わなければならないでしょう。しかも世の人たちに、「あなたの神さまに真剣に祈ってください」と言われたらどうでしょう。私たちは他人から言われなくても、祈らなければならない立場にいるのではないでしょうか。

 世の中の人が今、悩んで、苦しんで、滅んでいこうとする時に、眠っている場合ではないのです。目をこらして、神さまの前に訴え、祈らなければならないはずです。それなのに、神さまから離れていくという間違った決断をしたために、祈るどころではない。信者でない人に「あなたの神さまに祈ってください」と言われるような状態にまでなってしまう。ここに、神さまの御心から離れて行った預言者ヨナの悲劇的な姿を見ます。しかし、それはヨナだけのことではなく、今日の教会やそこに集うクリスチャン一人ひとりに対する、痛烈な問題提起でもあるように思うのです。

 しかしこのようなヨナに対して、神さまは彼を見限るようなことはしません。神さまは「ヨナよ、これが罰だ!」と怒りをぶちまけるのではなくて、ヨナを引き戻そうとしておられるのです。

 『くまさぶろう』という絵本があります。くまさぶろうは、何でも盗んでしまうスリでした。しかも、盗まれた人が盗まれたことにまったく気づかないくらい鮮やかに、盗んでしまうのです。彼の技量は時が経つにつれて、どんどん巧みになっていきます。そして、小さい物や大きな物だけでなく、人の心の中にある気持ちまで、盗み取ることができるようになったのです。ところが、困ったことが起きます。くまさぶろうが、おできをこしらえた子どもの気持ちを盗み取ると、子どもはにっこり泣き止みます。でも、くまさぶろうの頭には大きなおできができ、痛くて仕方ないのです。一人暮らしのお年寄りの寂しい気持ちを盗み取ると、お年寄りには笑顔が戻ります。でも、くまさぶろうの心は寂しくて切なくて、いても立ってもいられなくなってしまうのです。

 イエス・キリストは、私たちと同じ人間としてお生まれ下さいました。それは、決して抽象的なことではありません。御子イエス・キリストは、くまさぶろうのように、私たちの心の中にある気持ち、痛さや寂しさや辛さや悲しみを、我がこととして受け留めてくださいました。受け留めてくださっただけでなく、私たちに代わって、そのような思いを引き受けて、担い切ってくださった。我がこととして全部引き受けて、私たちに笑顔を取り戻させてくださった。そのような本当に具体的なことが、イエス・キリストによって起こったのです。

 ヨナのように神さまから離れようとする私たちですが、イエス・キリストに示された神の驚くべき愛は決して変わることなく、いまも注がれ続けています。そのことを、いつも心に覚えつつ、クリスチャンとして与えられている使命を自覚して、新しい一週へと歩みを進めて行きましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。神さま、あなたは私たちに「特別な恵み」を与えてくださっています。それはあなたから離れようとするわたしたちを、あなたのもとに立ち返らせてくださる恵みです。どうぞ、どんな時もそのようなな恵みが与えられていることを、私たちに悟らせてください。ガザ地区で悲惨な戦闘が起ころうとしています。政治的な思惑や野心のためにいつも犠牲になるのは、名もなき市民や子どもたちです。神さまどうか、この不条理な状況を一日も早く終わらせ、この地に真の平和をもたらせてください。この拙きひと言の切なる願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

神の愛を証しする者として

マルコによる福音書3章13~19節  2023年10月8日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 「山」は聖書において特別な場所です。祈りのために赴く場所であり、神さまからの啓示が行われる場所でした。主イエスは「山」に登られると、そこで十二人の弟子たちを選ばれたのでした。今日の3章13節以下を読みますと、こうあります。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二名を任命し、使徒と名付けられた」(13~14節前半)。

この文章には、原語を見ると「彼自身が」という主語を強調する言葉が使われています。主イエスはこれまで自分と行動を共にしてきた人々の中から、彼自身がお決めになった弟子を選び出されたのでした。ヨハネによる福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と言われています。そのように十二使徒の選任も、主のご意志によって行われたのでした。

 その際、主イエスは「これと思う」人々を呼び寄せられたとあります。主イエスが「この人になってほしい」と望まれた人が選ばれたのです。おそらく主イエスは、それまで一緒に旅をし行動を共にする中で、適切な弟子たちを見極めておられたのでしょう。主イエスは一人ひとりのことを十分に熟慮された上で、十二人を選ばれたのです。

 このことは、今日の主の弟子である私たちも同じです。私たちがキリスト者となったのは、自分の意志が先にあったからではなく、主イエスが私たちの願う以前に私たちを選んでくださったからです。そして、私たちがキリスト者となったのは、主イエス御自身がそれを望まれたからなのです。主は私たちのことをよくご覧になった上で、「この人ならキリスト者としてやっていける」と見極めてくださり、私たちを選んでくださったのです。

 この「イエス・キリストに選ばれた」という確信以上に、大切なものはありません。私たちは人生において、信仰がぐらついてしまうことがあります。「こんな自分が信仰者であってよいのか」と、自分の信仰に自信が持てなくなるときがあります。しかし、私たちの信仰の土台は、私たちの意志や信念ではなく、イエス・キリストの選びです。「こんな私を主イエスがキリスト者として選んでくださった」という確信です。信仰の試練は何度も押し寄せて来るでしょう。私たちはその度に、この選びの確信に立ち返っていきたいと思います。

 

 ところで、十二使徒はどのような使命のために立てられたのでしょう。14節から15節を読んでみましょう。「そこで、十二名を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」ここは他の共観福音書と読み比べてみると、興味深いことが分かります。まず、ルカによる福音書は、十二人の使命については述べていません。「十二人を選んで使徒と名付けられた」(ルカ6:13)とあるだけです。一方、マタイによる福音書は「十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」(マタイ10:1)とあります。マタイとマルコを読み比べてみると、「悪霊を追い出す権能を持たせるため」というのはマタイによる福音書と同じです。主イエスの生きておられた時代、心身の様々な病気は「汚れた霊・悪霊」の仕業によると考えられていました。ですからマタイもマルコも、悪霊を追い出し、病気を癒す権能を授けられ、それを行使することが、十二使徒の使命であったことが分かります。

現代のキリスト教会においても、「癒し」の働きは重要です。心や体の病気については、そのほとんどの領域を現代医学が担っており、それはまことに感謝すべきことです。しかし、最先端の医学でも力の及ばない「たましいの癒し」や「人が全存在において癒される」という課題が、この世から無くなることはありません。そのような癒しの課題に、現代の教会は真剣に取り組み、それを担っていく必要があるのだと思います。

 さて、マルコによる福音書の今日の箇所は、「悪霊を追い出す権能を持たせる」使命の他に、2つの使命を記しています。「彼ら(十二人)を自分のそばに置くため」、「また、派遣して宣教させ」るためという、2つの使命を加えているのです。マルコ福音書だけが、これらの使命について丁寧に教えています。だからこそ、ぜひ注目したいのです。

 マルコによる福音書は、十二使徒として主イエスの側にいること、「主イエスと共にいること」が第一のことだと言うのです。そこに、使徒としての使命の「いのち」があると言うのです。私たちはここで、十二使徒がどのような日々をこの後送ることになったかを思い起こしてみましょう。彼らはガリラヤ地方から都のあるユダヤ地方へと旅をして行きます。主イエスはその場所場所で、神の国の福音を宣べ伝え、力ある業を行われます。汚れた霊を追い出し、様々な病気を癒されます。彼ら十二使徒は、主イエスの側にいて、主イエスの説く福音を聞き、主のなされる御業の目撃証人となります。そして、皆さんもご承知の通り、弟子たちは十字架に至る主の苦難を目撃し、その後時をおかずに復活の主の目撃証人となるのです。十二使徒たちは主イエスの側におかれることによって、主イエスの御言葉と御業の証人となったのです。

 しかし、主イエスの証人となっただけではありません。弟子たちは、主イエスと一緒に旅をしている間にも、二人一組となって各地に派遣され宣教しました。マルコによる福音書6章6節後半以下には、十二使徒が二人ずつ、汚れた霊に対する権能を授けられて、人々を悔い改めさせるために宣教したことが記されています。また、私たちが知っているように、使徒たちは主イエスが復活された後、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)という主イエスの大宣教命令に応えて、ユダヤを越えて、地中海世界全体への宣教に出かけていきます。

 この宣教は使徒たちだけで進めたのではありません。彼らは主イエスから聞いた神の国の福音や主イエスがなさった力ある業を、人々に証ししました。人間の罪のために身代わりとなって十字架に付けられたお方が、復活して今も生きておられることを証ししました。自分たちと共に歩んでくださっていることを証ししました。そうです。使徒たちは、主イエスが地上の生涯を歩まれている時も、天の父なる神さまの御もとに上られた後も、主イエスと共に宣教の業を続けたのです。使徒たちの使命にとって第一のことは、「主イエスと共にいる」ということなのです。主イエスと共にいて、主イエスから力をいただいて、「主イエスと共に」福音を宣べ伝えるのが、使徒たちの使命なのです。

 これは今日の主の弟子である私たちにとっても同じです。十二使徒にとって最も重要な使命は、主イエスと共にいることでした。それと全く同じように、どのキリスト者にとっても、特別な奉仕を任された時に、最も重要なのは主イエスと共にいることです。十二使徒は主イエスとの親しい交わりから、御国の宣教と悪霊追放の力を受けることができました。それは今日の私たちにとっても同じです。私たちは今も、私たちの祈りの生活によって、私たちが聖書を学ぶことによって、そしてキリスト者同士の交わりによって、イエス・キリストと共に居ることができます。主の御そばに置かれます。そして、私たちが奉仕の業を進める力は、まさにそこから生まれてくるのです。

 主イエスは弟子たちに、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)と言われました。主イエスの御後に従うとは、具体的にどういう歩みなのだろうかと、私たちは考えることがあるのではないでしょうか。どうしたら、主の御後に従って行くことができるのだろうか。当たり前のように思われるかもしれませんが、それはどこまでも「主と共にいる」ということなのです。主イエスから離れては、主イエスの御後に従って行くことはできないからです。この世でキリスト者とし歩む私たちの生き方は様々です。果たすべき役割、求められている務めも様々です。しかし、それぞれの遣わされた場で、主イエスと共にいること、生ける主イエスから離れないこと以上に、重要なことはないのです。私たちは立派に従って行かなくてもよいのです。転んだり立ち止まってしまってもよいのです。なぜなら、先立ち行くイエス・キリストは私たちを置いてきぼりにはしません。私たち一人ひとりが歩むペースに合わせて歩んでくださるからです。

 さて、今日の聖書に戻りますと、16節以下には十二使徒の名前が、何名かの者にはその仇名(あだな)と共に記されています。4人はガリラヤ湖の漁師であった人たちです。「雷の子ら」と仇名されるような、血の気の多い弟子たちもおりました。徴税人だった人も、イスラエルをローマから解放するためには武力行使も辞さない「熱心党」に属していた人もいました。他の11人はガリラヤ地方出身でしたが、12番目のユダだけは、ユダヤ地方のカリオテ出身の人でした。

 このように見てくると分かりますように、主イエスが選ばれた十二使徒は、出自(しゅつじ)も仕事も性格も違う、多様な人たちからなる集団だったのです。その中でも先ほど申しましたようにマタイは徴税人でした。他方シモンは、熱心党員でした。徴税人として実質上ローマ帝国に仕えていたマタイと、神以外のいかなる権力も否定し、ローマ帝国からの解放を武力で成し遂げようとしていたシモンが、同じ主イエスの弟子となったのです。水と油のような二人、およそ正反対の立場にある二人が、十二使徒の仲間となったのです。同じ主イエスの弟子であるということだけが、彼らの共通点だったのです。

 それは、今日の教会も同じです。教会にも様々な世代の人たち、様々な境遇の人たち、様々な性格の人たちが集められています。教会はその多様性を豊かさとして受け容れていくように召されている群れなのです。ある世代の人たち、ある社会層の人たち、ある考えの人たちが、教会を牛耳るようなことがあってはなりません。そうではなく、私たちはイエス・キリストの弟子であるということにおいて、一致するように召されているのです。人間の集まりである教会ですから、時として反目や対立も起こるでしょう。しかし、教会の頭であるイエス・キリストは、ご自身への信仰において、教会を一つにしてくださいます。一致へと導いてくださいます。そのことを心から信じて、主にゆだねて、教会形成と福音宣教に励んでいきたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。神さま、あなたは私たちをキリスト者として選び、その使命のために働く者としてくださいました。その使命は、私たちが主イエスと共にい続けることによって、果たされていきます。どうか、どんな時にも主イエスから離れずに、主イエスに支えられて進みゆくものとしてください。急に秋らしくなってきました。教会に連なる兄弟姉妹の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。

神の愛はあまねく注がれる

ヨナ書1章1~3節    2023年9月17日(日)主日礼拝説教

                              牧師 藤田浩喜 

ルツ記を読み終わりましたので、今日から月一回ヨナ書をご一緒に学んでいきたいと思います。

 ヨナ書は、旧約聖書においてホセア書から最後のマラキ書まで続く12の預言書の一つです。一般にそれを12小預言書と言いますけれども、ヨナ書はその中の一つの文書です。これはヨナという一人の人物が主人公となった、短編小説のような形で書かれています。多くの預言書は、神から預言者に託された言葉、すなわち、預言とか、悔い改めを求める言葉とか、救いの約束の言葉といった、神からの託宣が集められたものとして著されています。それに対してヨナ書は、新約聖書に出てくる一つの譬え話のような性格をもって書かれているのです。

 このヨナ書の主人公となっているヨナという人物は、実在したのかどうか、ということも問題にされることがあります。1節に「アミタイの子ヨナ」と記されています。この人物の名前が旧約聖書に登場する、他のただ一つの個所は、列王記下14章25節です。「ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイ子のヨナ」と記されています。ここに登場するヨナは、イスラエルの王がヤロブアム二世の時代ですから、列王記に出てくる時代をそのままヨナの時代と考えると、紀元前8世紀の半ばと推測されます。

 しかし、実際にヨナ書が書かれたのは、それよりもずっと後の時代、紀元前6世紀~4世紀の間であることが、様々な理由から言われています。言葉遣いとか、背景となった思想ということを考えるとき、ヨナは紀元前8世紀の時代の人物だけれども、実際にヨナ書が書かれたのはそれより200年、300年後の時代だと、推測することができるのです。

 紀元前8世紀頃は、イスラエルの隣国であるアッシリアという国が、力を誇っていた時代でした。イスラエルはその脅威にさらされていました。そしてついには、北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされます。2節に出てくるニネベというのは、アッシリア帝国の首都の名前です。今そのニネベに行くように神から命じられているヨナは、列王記においては預言者と記されていました。

ヨナは神によって、預言者的務めのために呼び出されているのです。

 しかし、ヨナはそれから逃げようとしています。そのヨナがこの書の中心人物であることは間違いないことです。しかし同時に、神がこの書のもう一人の主人公であるということも、ヨナ書を読んでいくときに示されます。ヨナ書はわずか4章で、数えてみても48節しかない短い文書です。その中に主、あるいは神という名が、40回近く用いられています。そのことも示しているように、ヨナ書はヨナを中心に事柄が展開されますが、むしろヨナが神にどのように関わるか、あるいは神がヨナにどのような関わりを持たれるか、そのことが主題となっていると言ってよいのです。誰も近づけないような偉大な預言者ではないヨナと神との関わりを見ていくとき、私たちは自分自身と神との関係をどうしても考えざるを得なくされます。ある人は、私たちの自画像がここに描かれているようであると語っています。そのように私たちは、自分自身のことをこのヨナ書を通して考えさせられるのではないかと思います。

 さて、この書は「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」という文で書き始められています。主の言葉がある人に臨むということは、神がその人に語るべき言葉を託したり、神がある人を何らかの行動に召し出すときに用いられる表現です。それは神の意思が、ある人にはっきりと示されることです。生ける神が今一人の人に向かって動き出しておられる、それが主の言葉が臨むということの意味なのです。神が自分に向かって働きかけておられる、そのことを知った人は、その時何らかの応答をしなければなりません。その言葉が無かったかのように生きることは、もはやできないのです。人はそれに応えなければなりません。

 その時、神の言葉が指し示す方向に素直に歩んで行く応答もあります。神の言葉が意味することがよく分からない、神の御心をもっときちんと知ろうと、祈りの格闘を始める者もいます。さらには、そのような神の御言葉を自分にとっては受け入れ難いと受けとめて、神の前から逃げ出す道を行く者もいます。ヨナはどうしたでしょうか。

 ヨナに臨んだ主なる神の御言葉は、「大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ」でありました。神がヨナに近づいて、ニネベに行きなさい、そこで神の言葉を語りなさいと、新しい務めをヨナにお命じになりました。しかし、それに対してヨナは「主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった」と、3節に記されています。ヨナは無言のうちに神の御言葉に反抗し、神が指し示す方向とは逆の方向に向かって行きます。彼の沈黙の行動の中に、彼の強い意志が読み取れるように思うのです。

 この時のヨナの心の内は、どのようなものであったでしょうか。それを知る手掛かりは、彼に行くように命じられた、「大いなる都ニネベ」に、彼の心の内を知る手掛かりがあると考えられます。ニネベは先ほども申しましたように、当時のアッシリアの首都でした。エルサレムからは、直線で東北方向に700キロ位のところに位置した都市です。国の政治、経済、文化の中心都市でした。それは繁栄の都であり、エルサレムと比べるならばあまりにも大きな街でした。それと同時に、頽廃と堕落の罪が満ちた都でもありました。ヨナにとっては、それは自分とは全く関係のない異国の大都市、そのようにしか、ニネベを捉えることができなかったのではないでしょうか。その悪が神の前に届いていると、主なる神は語られます。その都の悪が、自力では解決できないほど大きなものになっている、見過ごしにできないほど、ニネベの罪が深刻なものになっている。神を抜きにふくれ上がった人間の社会、人間の世界の象徴と代表がここにあります。

 そこに神の御言葉を携えて行けと、ヨナは命じられます。そこで語るべき言葉は、ここには記されていません。しかし、それは当然悪に対する神の警告の言葉であり、悔い改めを求める言葉であったことでしょう。それらの言葉をニネベの人々に語りかけよと言われる。それは裏を返せば、悔い改めるならば、神の救いの恵みが彼らにも与えられるということを、知らせることでもありました。ヨナはそのような神のご計画をいま知らされて、心が騒ぐのです。なぜニネベの人々に、そのようにしなければならないのか。どうして自分がその務めを担わなければならないのか。神はいったい何を考えておられるのだろうかと、ヨナは神への猜疑心に襲われたのかも知れません。

 さらにもう一つ決定的なこととして、自分が信じる神はイスラエルの神であって他の国の神ではない。他の民にとって神の恵みは必要ではない、という選民意識や特権意識が、ヨナの心を支配していたではないでしょうか。それはヨナだけではなくて、当時のほとんどのイスラエルの人々が持っていた偏狭な考え方であり、排他的な思想でした。ヨナはニネベの人々に神の御言葉を語る必要性も、必然性も感じないのです。その責任を覚えるということも全くないのです。救いはイスラエルのみと考えるヨナにとって、ニネベの都の人々は、全く自分の関心外のことである。そのことも、彼が神の前から逃げ出した、一つの原因になっていたのではないかと思うのです。

 しかし、私たちがここで考えなければならないことがあります。それは私たちが関心を持たないものであっても、神が関心を持たれることはあるのだ、ということです。そして神が関心を持たれることであるならば、私たちがそれまで関心を持つことがなかったとしても、私たちは関心を持つことが求められるのです。神の関心は、私たちの関心事にならなければならないということです。

ニネベの悪はヨナには全く関係のないこと、関心のないことでした。しかし、神はその悪の都ニネベにも心を向けられるお方です。そうであるならば、ヨナは自分の思いを超えて、神の関心事を自分の関心事とすべきであったのです。使徒パウロは、信仰の本質を次のように語っています。ローマの信徒への手紙3章29~30節です。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。」パウロはそのように述べています。

 もちろん、ヨナの時代の人々はそこまで神を、世界大の方として捉えることができませんでした。ヨナもその一人でした。しかし、今、神が異邦の国、悪の都ニネベに関心を持たれることが明らかにされた以上、ヨナもまたそれに関心を持つこと、それが彼に求められることでした。しかしヨナはまだ、そのような信仰を自分のものとすることはできていません。神は異邦の人の神でもあるという目を、ヨナはまだ持つことができないでいました。それゆえ、自分の思いとは反することを命じられる神から逃亡することを、彼は企てるのです。

 タルシシュがどこなのかということについては、幾つかの説があります。これについては、大方の人が考える今のスペイン南部にある町として受けとめておきたいと思います。地中海を船に乗って西へ西へ行くと、その果てにタルシシュがある、そういう場所です。ヨナはそこに逃れれば神の目も届かない、そのような地の果てまで行けばいやな務めをしなくてすむ、そう考えたに違いありません。

 タルシシュ行きの船に乗るためにヨナは、現在のテルアビブに近い港町ヤッファに下って行くのです。神は、ヨナに東の方に行けと命じられました。しかしヨナは、西の方に向かって行きました。神が行けと指し示される方向とは逆の方に行きました。神が指し示す方向とは逆の方向に行くこと、それはまさに主から逃れることであります。ヨナは神への不満をもって、神が定められたところではなくて、自分で勝手に決めたところへ向かって行きました。

しかし、いかに当時の地の果てである、土地に逃れたとしても、神から逃れることはできません。詩編の作者は、次のように歌っています。139編7~8節の言葉です。「どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。」神から逃れようとしても、逃れることはできない。それは裏を返せば、神の愛はあまねくそれぞれのところに与えられるということです。いかなるところに逃げようとも、神の愛から逃れる場所はこの世にはどこにも無いということです。そのような積極的なことも、同時に歌われているのではないでしょうか。

 ヨナは神を信じなかったのではありません。神の言葉を聞いて神から逃れようとすることは、神が生きておられることを信じていたからこそ、それに反抗しよう企てた行為です。しかし、神を信じていたとしても、また神の存在を知っていたとしても、いま知らされた神の御計画が、彼にはわずらわしく思えたのです。そのために、神から離れて生きようと試みたのです。人の思いが先行する時、愚かな行動が起こってきます。そしてそれは初めはうまく行っても、必ず失敗してしまうのです。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」、箴言19章21節の言葉です。

 もし、私たちに対する神の御声を聞いたならば、それに従わなくてはなりません。そして神との正しい関係を保って歩んで行くことが必要です。神は私たちと正しい関係を持ちたいと願っておられます。ですから、神の御言葉を受け入れ、神に従っていくことが、私たちのなすべきことなのです。お祈りをいたします。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。神様、あなたの御心は私たち人間の考えることを、遥かに超えて行かれます。あなたは、広く、深く、高く、この世界を見ておられ、この世界に対するご計画をお持ちです。どうか、私たちが人間の物差しであなたの御心を測ることなく、あなたの御心に心から従う者とならせてください。私たちの群れの中には、病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、人生の大きな試練の中にある兄弟姉妹がおります。どうか、それらの兄弟姉妹を特にあなたが顧みてくださり、あなたの御手をもって導いていてください。この拙きひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

真ん中に立ちなさい

マルコによる福音書3章1~6節  2023年9月10日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気を癒されるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に『真ん中に立ちなさい』と言われた」。安息日に会堂に入るということは、言うまでもなく礼拝のためです。礼拝のために会堂に入られますと、片手の不自由な人が礼拝の場にいました。聖書がわざわざそのことを書いているのは、神を礼拝するということと、そこに病める人がいるということとは、切り離されてはならない事柄だからでもあるからです。神は人間の病に関わってくださる方であるからです。人間の弱いところや醜いところを、神様が嫌がって近づかないなどということはないのです。神は人間の弱さや醜さに関わってくださる方であることを、私たちは覚えなければなりません。主イエスが貧しい馬小屋に生まれたことは、そのことを示しています。

 私たちはこの世で多くの人々の中で生きています。いろいろな交わりを持ちながら生きています。しかし、そうした中で私たちの一番弱い部分は、しばしば隠されているものです。あるいは自分の中の一番恥ずかしい部分は、人々の交わりの中では隠されているものであります。差し障りのないところだけで、私たちは多くの人々と出会っています。しかし神は、私たちの最も弱いところに関わってくださる方です。私たちの病める部分に触れ、そこのところで私たちと出会ってくださるのです。だから、私たちも隣人の弱さを覚えるのです。また兄弟姉妹の痛みというものに関わるのです。私たちは神を礼拝しながら、隣人の痛みに近づくことができる者に変えられて行くのです。

主イエスは、この手の萎えた人に向かって、大勢の会衆の中ではっきりとこう言われました。「真ん中に立ちなさい」。この言葉は、この病める人に向かって言われた言葉でありますが、同時にそこに集まって神を礼拝している人々に向かって言われた言葉でもあります。つまり、弱い人を「真ん中に立たせなさい」という言葉です。病んでいる人を礼拝する場所の真ん中に立たせなさいという意味です。弱い人を隅に追いやってはならない、そう言われたのです。人間の弱さや痛みが隠されないで真ん中におかれる、そのことが、神の民が生きているということのしるしとなるからです。人の弱さや痛みが、みんなの配慮の中に置かれ、そしてみんなの祈りの中に置かれる、そこで神の民は神の民として生かされて行くのです。弱いところや醜いところはみんな隠されて、きれいごとだけで出会っている、そんなところに神の民はあるのではありません。弱いところをめぐってみんなが集まっている、共に祈りが捧げられている、配慮されているということの中に、神の民の生きているしるしがあると言えるのではないかと思います。

「人々は、イエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」。ある人々がおりまして、彼らは果たして主イエスが片手の萎えた人を癒すかどうか注目していたというのです。彼らは、安息日の規定がひょっとしたら破られるかもしれないというふうに思って、主イエスの行動を見守っていたのです。安息日の規定とは、安息日には仕事をしてはいけないということであります。そして、病人をなおすということは、仕事と考えられていました。だから、主イエスは安息日の規定を破るのではないかと、人々は意地の悪い観察をしていたのであります。

今日の聖書で「片手の萎えた人」という言葉が出てきます。1節に出てきますが、3節にも「手の萎えた人」、5節にも「その人」と出てきます。そして、主イエスは安息日に許されているのは、「命」を救うことではないかと、ファリサイ派の人に問うておられるのです。ここの「命」はプシュケーという言葉ですが、人間である以上持っている人間の値打ちを示すもの、人間の値打ちがそこに根差すものが、この「命」プシュケーです。ファリサイ派の人々は、片手の萎えた人のことを、主イエスを罪に問うための道具のようにしか見ていませんでした。しかし主イエスは、「片手の萎えた人」を、「命」プシュケーを持っている人間として尊重なさるのです。ファリサイ派の人々は、体を損なったりするのは、神様からの祝福から落ちた人間だと考えていました。だから、手が萎えてしまった人も、そういう意味で劣等感を持ちながら片隅に座り込んでいたかもしれない。その人を真ん中に引き出して、そして主イエスが言われるのは、こういう人間こそ安息日の礼拝、私たちの礼拝のただ中に置かれるべきものであるということでした。この人々の、このような人の救いが問題にならないところでは、この人を殺すことをしていることになるのだと、言われたのです。

 安息日の規定、それはつまりしきたりです。しきたりや慣習は、しばしば人間の弱さや貧しさを周辺に置こうとします。なるだけ周辺に置いて人目に触れないところに置こうとする。人間はしばしばそういうふうに慣習やしきたりを造っていくのであります。そういう人々の中で主イエスは言われました。「真ん中に立ちなさい」。人間の弱さや痛みを真ん中に置いて、周辺に置かないで共に担っていきなさい、共に祈っていきなさい、と。そういう中で、神の民は生かされるから。そういう人間の痛みや貧しさを排除して、神を中心とした交わりは成立しないのです。神は失われた羊を訪ねる、そういう神であって、失われた者を排除してしまう神ではないからです。

 世には多くの交わりがあります。その交わりにおいて、人間の弱さは隠され、そして恥とされ、いいところだけを見せることで交わりは成り立っているのです。みんな、ある意味で背伸びしながら生きています。自分はこれだけ能力のある人間であり、自分にはこういう実績がある、自分の親戚には著名な誰々がいる、そんなことをほのめかしながら生きています。そんな交わりが人間を互いに出会わせることはありません。神が私たちの最も弱い部分において、私たちに出会ってくださるように、人間同志も弱さにおいてしか出会えないのです。

 さて、「真ん中に立ちなさい」とキリストは言われました。これは会衆に語られ、そして、手の萎えた人自身に言われた言葉であります。隅にいないで、あなたは「真ん中に立ちなさい」と言われた。自分を恥じて、隅っこのほうにいないで、「真ん中に座りなさい」と言われたのです。これは神に対する姿勢のことを言っています。あるいは人の生きる姿勢についても言っていると思います。つまり、神に対しては、隅っこにいてはいけない。真ん中に立たなければいけないのです。自分のような者は隅っこにいなければ、という意識、それは人間を歪めているものです。たいした人間じゃない、取るに足りないなどと考えて隅っこに身を置く―それが人間を根本的に歪めているのであります。

 主イエスは、人を神の真ん前に呼び出します。自分を恥じなくていい、卑下してはいけない、真ん中に立ちなさい。そのためにキリストは、私たちを贖って、救い出してくださったのです。この罪人を、神の真ん前に立たせるために、キリストは私たちを救い出してくださった。自分のような者は、みんなの足手まといだなんて言ってはいけない。ありのままで生きていい。ありのままで神の真ん前に立っていいのです。隅に隠れてはいけない。人々の陰に隠れて、こそこそしなくていい。神の真ん前に身を置くというところから、癒しは始まります。私たちが隅っこに逃げこんでいては癒されはしない。光の中に出てこなければ花は咲きません。神の真ん前に自分を立たせなければ、神の癒しは始まりません。神の前に身を置く、そこから自分の生活を始めなければならない、そこから神の御業が始まるのです。

「そこでイエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと手は元どおりになった」。「手を伸ばしなさい」と言われました。彼は手を伸ばしたことがありませんでした。その彼に向かって主イエスは、「手を伸ばしなさい」と言われたのです。つまり試みよと言われたのです。できないかも知れない、失敗するかも知れない、あるいは躓くかも知れない、しかしそれを恐れないで試みなさいと、主イエスは言われました。試みるというところから、できることが広がって行きます。なるほど能力には限界があるかも知れません。できないこともある、また他人のようにはできないかも知れないけれども、しかしできることがあるのです。必ずあるのです。人のようにはできない。だから自分にはなんにもできないと、私たちは考えます。しかしできることをやってみる。それが大切なことです。自分なりにできること、それをやってみる。それが私たちが生かされているということです。何一つできないけれど、生かされているという人は世の中には一人もいません。何一つ役に立たないけれど、生かされている人などはいません。だれもが生かされていることで、人の役に立っているのです。

 「手を伸ばしなさい」。できることがあるのです。他の人のようにはできないかも知れないが、あなたなりにできることが必ずある。それをするということが、すなわち私たちが生きるということです。そうでなければ、私たちは生きている意味がありません。神は私たちを生かしていてくださるのです。自分なりにできることをしないということは、自分を駄目にすることです。「手を伸ばしなさい」。試みるのです。できることをやってみるのです。あれができない、これができない、人のようにはできないと、できないことを探すのではなくて、自分に与えられているできることを探すのです。神は私たちに難しいことを求めておられるのではありません。私にできることをする、そのことを神は求めておられるのです。

「手を伸ばしなさい」。八方ふさがりで、何もできないということなどないのです。手を伸ばしてみる、試みてみる、そうすれば神は必ず私たちに救いの御手をさしのべてくださる。私たちにできることを必ず示してくださる。そうやって私たちは、癒されていくのです。何もしないで癒されるというのではないのです。神に生かされて、自分にできることをやってみるということで、人間として癒されていくのです。主イエスの御声に励まされて、神にわが身をゆだねて、前へと進みゆく私たちでありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。今日も私たちを様々な仕方でこの礼拝に集わしめてくださり、心から感謝いたします。今日も御言葉を通して、私たちの教会がどのような群れであるかを示され、感謝いたします。私たちは一人一人、弱さや欠け、痛みを抱えています。劣等感に苛まれることもたびたびです。しかし、主イエスはそれだからこそ、「弱さや欠けのまま、真ん中に立ちなさい、ためらわずに私の前に立ちなさい」と言ってくださいます。お互いが主の御前に立つよう、励まし合い喜び合う中で、私たちは群れとして癒されていきます。どうか、私たちの教会がそのような群れとなることができますよう、導いていてください。台風13号は千葉県にも多くの被害をもたらしました。今もその被害の中で労苦しておられる方々がたくさんおられます。どうか、そのお一人お一人を顧みてくださり、支え励ましていてください。この拙き、ひと言の切なるお祈りを、私たちの主、イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。