神の愛を証しする者として

マルコによる福音書3章13~19節  2023年10月8日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 「山」は聖書において特別な場所です。祈りのために赴く場所であり、神さまからの啓示が行われる場所でした。主イエスは「山」に登られると、そこで十二人の弟子たちを選ばれたのでした。今日の3章13節以下を読みますと、こうあります。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二名を任命し、使徒と名付けられた」(13~14節前半)。

この文章には、原語を見ると「彼自身が」という主語を強調する言葉が使われています。主イエスはこれまで自分と行動を共にしてきた人々の中から、彼自身がお決めになった弟子を選び出されたのでした。ヨハネによる福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と言われています。そのように十二使徒の選任も、主のご意志によって行われたのでした。

 その際、主イエスは「これと思う」人々を呼び寄せられたとあります。主イエスが「この人になってほしい」と望まれた人が選ばれたのです。おそらく主イエスは、それまで一緒に旅をし行動を共にする中で、適切な弟子たちを見極めておられたのでしょう。主イエスは一人ひとりのことを十分に熟慮された上で、十二人を選ばれたのです。

 このことは、今日の主の弟子である私たちも同じです。私たちがキリスト者となったのは、自分の意志が先にあったからではなく、主イエスが私たちの願う以前に私たちを選んでくださったからです。そして、私たちがキリスト者となったのは、主イエス御自身がそれを望まれたからなのです。主は私たちのことをよくご覧になった上で、「この人ならキリスト者としてやっていける」と見極めてくださり、私たちを選んでくださったのです。

 この「イエス・キリストに選ばれた」という確信以上に、大切なものはありません。私たちは人生において、信仰がぐらついてしまうことがあります。「こんな自分が信仰者であってよいのか」と、自分の信仰に自信が持てなくなるときがあります。しかし、私たちの信仰の土台は、私たちの意志や信念ではなく、イエス・キリストの選びです。「こんな私を主イエスがキリスト者として選んでくださった」という確信です。信仰の試練は何度も押し寄せて来るでしょう。私たちはその度に、この選びの確信に立ち返っていきたいと思います。

 

 ところで、十二使徒はどのような使命のために立てられたのでしょう。14節から15節を読んでみましょう。「そこで、十二名を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」ここは他の共観福音書と読み比べてみると、興味深いことが分かります。まず、ルカによる福音書は、十二人の使命については述べていません。「十二人を選んで使徒と名付けられた」(ルカ6:13)とあるだけです。一方、マタイによる福音書は「十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」(マタイ10:1)とあります。マタイとマルコを読み比べてみると、「悪霊を追い出す権能を持たせるため」というのはマタイによる福音書と同じです。主イエスの生きておられた時代、心身の様々な病気は「汚れた霊・悪霊」の仕業によると考えられていました。ですからマタイもマルコも、悪霊を追い出し、病気を癒す権能を授けられ、それを行使することが、十二使徒の使命であったことが分かります。

現代のキリスト教会においても、「癒し」の働きは重要です。心や体の病気については、そのほとんどの領域を現代医学が担っており、それはまことに感謝すべきことです。しかし、最先端の医学でも力の及ばない「たましいの癒し」や「人が全存在において癒される」という課題が、この世から無くなることはありません。そのような癒しの課題に、現代の教会は真剣に取り組み、それを担っていく必要があるのだと思います。

 さて、マルコによる福音書の今日の箇所は、「悪霊を追い出す権能を持たせる」使命の他に、2つの使命を記しています。「彼ら(十二人)を自分のそばに置くため」、「また、派遣して宣教させ」るためという、2つの使命を加えているのです。マルコ福音書だけが、これらの使命について丁寧に教えています。だからこそ、ぜひ注目したいのです。

 マルコによる福音書は、十二使徒として主イエスの側にいること、「主イエスと共にいること」が第一のことだと言うのです。そこに、使徒としての使命の「いのち」があると言うのです。私たちはここで、十二使徒がどのような日々をこの後送ることになったかを思い起こしてみましょう。彼らはガリラヤ地方から都のあるユダヤ地方へと旅をして行きます。主イエスはその場所場所で、神の国の福音を宣べ伝え、力ある業を行われます。汚れた霊を追い出し、様々な病気を癒されます。彼ら十二使徒は、主イエスの側にいて、主イエスの説く福音を聞き、主のなされる御業の目撃証人となります。そして、皆さんもご承知の通り、弟子たちは十字架に至る主の苦難を目撃し、その後時をおかずに復活の主の目撃証人となるのです。十二使徒たちは主イエスの側におかれることによって、主イエスの御言葉と御業の証人となったのです。

 しかし、主イエスの証人となっただけではありません。弟子たちは、主イエスと一緒に旅をしている間にも、二人一組となって各地に派遣され宣教しました。マルコによる福音書6章6節後半以下には、十二使徒が二人ずつ、汚れた霊に対する権能を授けられて、人々を悔い改めさせるために宣教したことが記されています。また、私たちが知っているように、使徒たちは主イエスが復活された後、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)という主イエスの大宣教命令に応えて、ユダヤを越えて、地中海世界全体への宣教に出かけていきます。

 この宣教は使徒たちだけで進めたのではありません。彼らは主イエスから聞いた神の国の福音や主イエスがなさった力ある業を、人々に証ししました。人間の罪のために身代わりとなって十字架に付けられたお方が、復活して今も生きておられることを証ししました。自分たちと共に歩んでくださっていることを証ししました。そうです。使徒たちは、主イエスが地上の生涯を歩まれている時も、天の父なる神さまの御もとに上られた後も、主イエスと共に宣教の業を続けたのです。使徒たちの使命にとって第一のことは、「主イエスと共にいる」ということなのです。主イエスと共にいて、主イエスから力をいただいて、「主イエスと共に」福音を宣べ伝えるのが、使徒たちの使命なのです。

 これは今日の主の弟子である私たちにとっても同じです。十二使徒にとって最も重要な使命は、主イエスと共にいることでした。それと全く同じように、どのキリスト者にとっても、特別な奉仕を任された時に、最も重要なのは主イエスと共にいることです。十二使徒は主イエスとの親しい交わりから、御国の宣教と悪霊追放の力を受けることができました。それは今日の私たちにとっても同じです。私たちは今も、私たちの祈りの生活によって、私たちが聖書を学ぶことによって、そしてキリスト者同士の交わりによって、イエス・キリストと共に居ることができます。主の御そばに置かれます。そして、私たちが奉仕の業を進める力は、まさにそこから生まれてくるのです。

 主イエスは弟子たちに、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)と言われました。主イエスの御後に従うとは、具体的にどういう歩みなのだろうかと、私たちは考えることがあるのではないでしょうか。どうしたら、主の御後に従って行くことができるのだろうか。当たり前のように思われるかもしれませんが、それはどこまでも「主と共にいる」ということなのです。主イエスから離れては、主イエスの御後に従って行くことはできないからです。この世でキリスト者とし歩む私たちの生き方は様々です。果たすべき役割、求められている務めも様々です。しかし、それぞれの遣わされた場で、主イエスと共にいること、生ける主イエスから離れないこと以上に、重要なことはないのです。私たちは立派に従って行かなくてもよいのです。転んだり立ち止まってしまってもよいのです。なぜなら、先立ち行くイエス・キリストは私たちを置いてきぼりにはしません。私たち一人ひとりが歩むペースに合わせて歩んでくださるからです。

 さて、今日の聖書に戻りますと、16節以下には十二使徒の名前が、何名かの者にはその仇名(あだな)と共に記されています。4人はガリラヤ湖の漁師であった人たちです。「雷の子ら」と仇名されるような、血の気の多い弟子たちもおりました。徴税人だった人も、イスラエルをローマから解放するためには武力行使も辞さない「熱心党」に属していた人もいました。他の11人はガリラヤ地方出身でしたが、12番目のユダだけは、ユダヤ地方のカリオテ出身の人でした。

 このように見てくると分かりますように、主イエスが選ばれた十二使徒は、出自(しゅつじ)も仕事も性格も違う、多様な人たちからなる集団だったのです。その中でも先ほど申しましたようにマタイは徴税人でした。他方シモンは、熱心党員でした。徴税人として実質上ローマ帝国に仕えていたマタイと、神以外のいかなる権力も否定し、ローマ帝国からの解放を武力で成し遂げようとしていたシモンが、同じ主イエスの弟子となったのです。水と油のような二人、およそ正反対の立場にある二人が、十二使徒の仲間となったのです。同じ主イエスの弟子であるということだけが、彼らの共通点だったのです。

 それは、今日の教会も同じです。教会にも様々な世代の人たち、様々な境遇の人たち、様々な性格の人たちが集められています。教会はその多様性を豊かさとして受け容れていくように召されている群れなのです。ある世代の人たち、ある社会層の人たち、ある考えの人たちが、教会を牛耳るようなことがあってはなりません。そうではなく、私たちはイエス・キリストの弟子であるということにおいて、一致するように召されているのです。人間の集まりである教会ですから、時として反目や対立も起こるでしょう。しかし、教会の頭であるイエス・キリストは、ご自身への信仰において、教会を一つにしてくださいます。一致へと導いてくださいます。そのことを心から信じて、主にゆだねて、教会形成と福音宣教に励んでいきたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。神さま、あなたは私たちをキリスト者として選び、その使命のために働く者としてくださいました。その使命は、私たちが主イエスと共にい続けることによって、果たされていきます。どうか、どんな時にも主イエスから離れずに、主イエスに支えられて進みゆくものとしてください。急に秋らしくなってきました。教会に連なる兄弟姉妹の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。