天を見つめる者たち

使徒言行録1章6節-11節 2024年5月5日(日)主日礼拝説教

                                            牧師 藤田浩喜

 今朝注目したいのは、主イエスの昇天、復活された主イエスが天に上げられたことです。ところで、「昇天」という言葉は日本語で、死ぬことを意味する言葉として用いられることがあります。しかし主イエスの昇天はそれとは全く違う意味ですから、間違えないようにしなければなりません。主イエスの昇天とは、復活した主イエスが結局はまた死んでしまったということではありません。体をもって復活し、もはや死ぬことのない新しい命を生きておられる主イエスが、その生きた体のままで天に昇られたということです。使徒信条の言葉で言うならば、「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」ということです。復活された主イエスは、昇天して、今は、この地上にではなく、天におられ、父なる神様の右の座に着いておられる。そのように、復活して今も生きている主イエスのおられる場所が変わったこと、それが主イエスの昇天なのです。

 

 さて、使徒言行録は主イエスの昇天を語る前に、復活された主イエスと弟子たちとの問答を記しています。弟子たちは6節で主イエスにこう質問をしたのです。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。それに対する主イエスのお答えが7、8節に語られ、9節は「こう話し終わると、イエスは彼らの見ているうちに天に上げられ…」と昇天を語っています。6節以下の問答と昇天とは密接に結び付けられているのです。主イエスの昇天の意味を考える上で、この問答の内容はとても大事です。

 弟子たちはここで主イエスに、「イスラエルのために国を建て直して下さるのは、この時ですか」と尋ねています。イスラエルのために国を建て直す、それは旧約聖書に預言されていたメシア・救い主が現れる時に実現すると期待されていた救いです。長く国を失い、あるいは外国の支配下にあったイスラエルが、救い主の出現によって力を盛り返し、外国、敵の支配から脱して自分たちの国を、メシアの王国、神の王国として確立する。そういう救いをイスラエルの民は待ち望んでいたのです。弟子たちは、今こそ主イエスによってその救いが実現するのではないか、と期待しています。死に勝利して復活された主イエスこそ、まことのメシア、救い主であり、この主イエスならイスラエルの国を再興することがお出来になる、と彼らは考えたのです。

 主イエスは弟子たちのこの期待を込めた問いに対して、7節でこうお答えになりました。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」。このお答えは、イスラエルのための国の再興という救いが、今すぐに、もう間もなく実現する、という弟子たちの期待に対する否定です。「時や時期は、父なる神様がお決めになることなのであって、あなたがたの知るところではない」。「いつ」ということは父なる神様にお委ねして、今与えられている信仰の生活、主イエスに従う歩みを続けていくことが求められているのです。従ってこの問答に込められている含蓄は、主イエスが復活なさったことによって、神様の救いが完成してしまうと考えるべきではない、ということです。神様の救いのみ業は、まだ継続しているのです。先があるのです。あなたがたはこの先もなお、道を歩み続けていくのだと言っておられるのです。

 弟子たちに与えられているこの先の道、彼らがなお歩み続けていかなければならない道とはどのようなものでしょうか。それは、主イエスによって使命を与えられて遣わされていく道です。弟子たちのことが使徒言行録では「使徒たち」と呼ばれています。その意味は「遣わされた者」ということです。復活された主イエスと出会った弟子たちは、その主イエスによって使命を与えられて遣わされていくのです。その使命を語っているのが8節です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。彼らに与えられる使命とは、主イエスの証人、証し人としての使命です。主イエスのことを宣べ伝え、主イエスによって父なる神様が成し遂げて下さった救いのみ業を伝える、そのために彼らは派遣されていくのです。

 これは、弟子たちが期待していた、救い主である主イエスが「イスラエルのために国を建て直してくださる」ということとは、かなり違うことです。弟子たちは主イエスの復活によって、神の民イスラエルの王国が目に見える仕方で確立し、主イエスがその王となって下さるものと思っていました。しかし主イエスがお示しになったのは、そのようなイスラエルの王国の建設ではなく、主イエスのことを宣べ伝える証人、証し人の群れの成立だったのです。それは教会の成立です。

そのことが、弟子たちの上に聖霊が降ることによって実現する。それがこの後2章の聖霊降臨、ペンテコステの出来事において起ることです。8節の言葉はペンテコステにおける教会の誕生を予告しているのです。主イエスの復活によって実現していくのは、イスラエルのための国の再興ではなくて、教会の誕生です。

 弟子たちが、救い主メシアによる救いの完成として思い描いていたのは、「イスラエルのための」国の再興でした。つまり彼らが考える救いの範囲は、イスラエルの民、旧約聖書以来の、神様に選ばれた民であるユダヤ人に限定されていたのです。けれども主イエスはここで、彼らが聖霊の力を受けて、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と語っておられます。これは、ユダヤ人、イスラエルの民という範囲を越えて、ユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人にも、そして全世界の異邦人にも、主イエスのことが宣べ伝えられ、彼らも主イエス・キリストの救いにあずかり、教会に加えられていく、ということを示しています。使徒たちがこの主イエスのお言葉の通りに、聖霊によって力を与えられ、キリストの証人となり、ユダヤとサマリアの全土に、そして地の果てにまで主イエス・キリストの福音を宣べ伝えていった。そのことを、この使徒言行録は語っていくのです。

 主イエスは弟子たちの問いに答えて、このように、彼らに使命が与えられ、遣わされることをお語りになりました。つまり教会が誕生し、歩んでいくことを語られたのです。この主イエスのお言葉には、一つ、前提となっていることがあります。それは、弟子たちの、教会の歩みにおいて、主イエスは少なくとも目に見えるお姿においては、そこに共におられない、ということです。弟子たちが力を受け、主イエスの証人として遣わされるのです。それをしていくのは弟子たちであって、復活された主イエスが陣頭指揮を取ってしていくのではありません。弟子たちが主イエスの証人として遣わされることは、主イエスが共におられないことを前提としているのです。

つまり、今弟子たちの目の前におられ、語りかけておられる主イエスは、彼らの前からいなくなるのです。そのことが起ったのが、主イエスの昇天です。9節に語られている主イエスの昇天の記事は、昇天をそういう事柄として語っています。注意深く読んでみるとそれが分かるのです。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。ただ天に上げられたと語られているのではありません。「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」のです。弟子たちは主イエスを見ていた。するとその主イエスが天に上っていかれ、雲がそのお姿を覆い、もはや弟子たちは主イエスを見ることができなくなった。それが昇天において起ったことなのです。

 主イエスが去っていく、目に見えない存在になる。それは大変心細い、不安なことです。けれどもそこに、代って与えられるものがあるのです。それが聖霊です。天に昇り、去っていく主イエスに代って、聖霊が弟子たちに降り、与えられるのです。その聖霊が彼らに力を与え、彼らを全世界へとキリストの証人として遣わしていくのです。

この聖霊の働きの内にある私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることができないことを嘆いたり、心細く思う必要はありません。使徒言行録は、即ち教会の歴史は、主イエスの昇天から、つまり主イエスのお姿が見えなくなったことから始まったのです。主イエスが天に昇り、見えない方になられたからこそ、天から聖霊が与えられ、神様の力が豊かに注がれて、主イエスのことを証しする人たちが立てられたのです。主イエスが天に昇り、私たちの目に見えない方となられたことは、神様の救いの恵みの前進なのです。なぜなら、このことによってこそ私たちは、いつでも、どこにいても、復活された主イエスと共に歩むことができるからです。仕事をしている時も、学校へ行っている時も、家庭にいる時も、外出している時も、起きている時も寝ている間も、目には見えない主イエスが、聖霊のお働きによって私たちと共にいて下さるのです。また私たちは礼拝において、様々な妨げによってここに来ることができず、共に礼拝を守ることができない多くの方々のことを覚えて、執り成し祈ります。それらの方々に、それぞれの置かれた所で、主イエスが共にいて慰めと癒しと支えを与えて下さるように祈るのです。その祈りを神様は聞き届けて下さるのです。私たちはそういう神様の恵みを信じています。そのように主イエスがいつでも、どこでも、誰とでも共にいて下さることを、私たちが信じることができるのは他でもありません。肉体をもって復活された主イエスが、天に昇り、私たちの目には見えないお方となられたが、その代りに聖霊が降って、今私たちの中で働いていて下さることによるのです。

そしてそれに続いて、10節以下のことが語られているのです。「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」。弟子たちは、主イエスが昇っていき、見えなくなった天をいつまでも見上げていました。するとそこに白い服を着た二人の人、つまり天使が現れ、主イエスが「またおいでになる」ことを告げたのです。

天に昇られた主イエスは、またおいでになる方です。まことの神としての権威と力とをもって、主イエスが天から再び降って来られる日がいつか来るのです。その時、今は隠されている主イエスの、そして父なる神様のご支配があらわになり、完成するのです。それによって今のこの世は終わり、神の国が完成するのです。昇天は、主イエスについて語られるべき最後のことではありません。「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」の後には、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」が続いているのです。

主イエスの昇天を見つめ、思う時に、私たちは、同時にその主イエスがまたおいでになること、主の再臨を見つめさせられ、思わされるのです。教会の歩みは、主イエスが天に上げられてからまたおいでになるまでの、昇天と再臨の間の歩みです。この間の時、私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることはできません。しかしこの間の時、私たちは聖霊の働きを受けて歩みます。昇天と再臨の間の時代を、聖霊の導きによって歩むのが教会なのです。その教会に連なって生きる私たちは、目には見えないけれども、復活して永遠の命を生きておられる主イエス・キリストと共に生きることができます。復活された主イエスの証人として、主イエスを証しし、宣べ伝えていく力を与えられます。そしてその主イエスがいつかもう一度、目に見えるお姿で来られ、そのご支配があらわになり、私たちの救いが完成する日を待ち望みつつ、歩むことができるのです。そのような信仰の生活を私たちに与え、力強く導き、支えて下さる聖霊が、今私たちに働きかけていて下さるのです。そのことを忘れないようにしましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と礼拝を共にすることができ、感謝いたします。主イエスは復活され、弟子たちに顕現された後、昇天されました。復活された主イエスをいま私たちは、目で見ることはできません。しかし主の昇天によって遣わされた聖霊が、私たちには与えられています。その聖霊において、どんな時にも、どんな所においても、活ける主イエスが共にいてくださいます。主イエスの昇天が、くすしき神の救いの御計画の大いなる進展の出来事であったことを、私たちに覚えさせてください。そして私たち一人一人が、聖霊によって復活の主の証人として立てられ遣わされていることを覚えさせてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

愛の完成

ヨハネによる福音書21章15~19節 2024年4月28日(日)主日礼拝

                                             牧師 藤田浩喜

教会で行う結婚式では、結婚するふたりに次のように約束をしてもらいます。

「あなたはいま、○○さんと結婚することを神の御旨と信じ、今から後、さいわいな時も災いに会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、たがいに愛し、敬い、仕えて、ともに生涯を送ることを約束しますか。」

牧師が新郎と新婦にそのように尋ね、「はい、そう信じて約束します」と答えてもらうのです。ちょっと想像してほしいのですが、あなたがそう答えた時、牧師があなたに向かって、「本当ですか」と問い返したらどうなると思いますか。そしてあなたが「本当です」と重ねて答えた後で、さらにもう一度、「本当に本当ですか」と牧師が聞き直したらどうなるでしょうか。

 ちょうどそれと似たようなことが、今日お読みいただいたヨハネによる福音書の中で、主イエスとペトロとの間に起こったと言っていいでしょう。21章15~17節からにかけて、主イエスがペトロに向かって三度、「あなたはわたしを愛しているか」とお尋ねになり、そのたびにペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたという場面が伝えられています。

 三度目に問われた時、「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」とあります。「悲しくなった」とは、情けなくなったということでもありましょう。自分の言うことを信じてもらえないのかという思いでしょうか。

 それと同時に、あるいはここで、主イエスに問われ、主イエスに答えている間に、ペトロはかつて自分が主イエスに語った言葉、そして自分のとった行動を思い出したかもしれません。それは主イエスが十字架につけられる前の晩のこと、最後の食事を弟子たちと共にとっていた時のことです。主イエスはペトロに向かって、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われました。

 その場面にこう記されています。「ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』」(13章37~38節)事実は、主イエスの預言通りに進んだということを聖書は証言しています。

 「主イエスを知らない」と言ったのは三度。「わたしを愛しているか」と問われたのも三度。「ペトロは……悲しくなった」という文章の背後には、それに気づいたペトロの身のすくむような思いが含まれていたのかもしれません。「この方は覚えている。」それはあるいは、自分が今主イエスに「裁かれている」という思い、主イエスに「試されている」という思いだったかもしれません。

 だからこそと言うのか、あるいはまた、それにもかかわらずと言うべきか、ペトロの三度目の答えは、それまでの答えにはなかった、こういう言葉から始まっています。「主よ、あなたは何もかもご存じです。」(21:17)そして、この言葉に、「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と続くのです。

 私たちは人生の節目節目に大切なことを約束する場合があります。結婚もそうですし、キリスト者となることにおいてもそうです。しかし、現実には、その日その時には真剣な思いとあふれるような誠実さをもってなされた約束が、いつまでも変わることなく揺らぐことなく保ちつづけられているかといえば、そういうわけでもありません。

 人生そのものに波があり、山も谷もあるように、さまざまな現実の中でかつて自分の約束した言葉がその力を失い、約束した内容の重さが見失われてしまうような時が必ず何度か訪れます。ただ惰性で夫婦として生活しているように思われる時、ただ惰性で教会に通っているように思われる時が、誰にでもあるのではないでしょうか。また、この人生を生きることの意味が見失われたように思われる時が、誰にでもあるのではないでしょうか。そうした現実があることを認めようとしないのは愚かなことです。

 大事なことは、そういう現実に直面した時に自分の人生そのものをきちんと見つめることができるかどうかということであり、信仰者としての原点に立ち帰り、あるいは結婚の原点に立ち帰って、自分自身を見つめることができるかどうかという点にかかっています。

 信仰であれ、家庭であれ、そして人生であれ、その真価が問われ、またその豊かさを発見するのは、むしろそうした行き詰まりや挫折に直面した時、それにどう向き合ったかということにかかっている場合が多いように思います。そして、そうした時にこそ、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と答えた(答えざるを得なかった)ペトロの言葉を、私たちもまた、本当に痛切な思いをもって想起すべきではないかと思うのです。

 三度、主イエスのことを知らないといった「裏切り」は軽々しい出来事ではありません。三度、ペトロに投げかけられた問いもまた軽々しいことがらではありません。しかし、「三度の裏切り」と「三度の答え」と、思えばそういうきわどい難所において、私たちの信仰も家庭も人生も、鍛えられ、深められ、真実なものになっていくのではないでしょうか。そういったぎりぎりの難所にあって、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と心の底から告白し、すべてを主におまかせし、主のもとに立ち帰るということこそ、キリスト者の信仰生活の要であると思うのです。

 すべての人間はイエス・キリストの裁きのもとに置かれています。その裁きとは、人間を滅びに至らせるものではなく、逆に古き姿を裁くことによって、その人を新しい命へ生かそうとする裁きです。イエス・キリストは人間を新たなものに造りかえてくださる方であり、また人間に新しい仕事を示される方であります。

 「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と告白するペトロに対し、主イエスがおっしゃった言葉はこうでした。「わたしの羊を飼いなさい。」(21:17)三度とも、主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と命じられました。もともと漁師であった男に向かって、「羊飼いになれ、商売替えをせよ」と命じておられるのです。

 主イエスご自身が、ペトロの新しい仕事を決めるのです。ペトロは主イエスが命じられた仕事に従わなければなりません。漁師の仕事は「魚を取ること」であり、「取る」ということにポイントがあります。どんなに大漁であろうと、そこで「取られた魚」はまもなく死んでしまいます。羊飼いの仕事は「羊を飼うこと」であり、養い、育て、生かすことです。羊飼いは羊と共に生きるのです。

 「わたしの羊を飼いなさい」という言葉につづけて、さらに主イエスはペトロにこうおっしやいました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(21:18)。

 この言葉はペトロが後に十字架につけられて死ぬことの預言であったと言われます。「両手を伸ばして」とは、十字架に釘づけられるために「横に手を伸ばして」の意味であろうというのです。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。」

 ペトロは自分で自分の人生を選んで生きてきた人間です。選ばれて主イエスの弟子になったとはいえ、しばしば自分の判断を優先し、主イエスがどうおっしゃるかということよりも、自分がどうしたいか、自分の思いにこだわってきた人間です。それと同時に、一時的には熱して「あなたのためなら命を捨てます」と大見得を切りながら、すぐその後で我が身かわいさのあまり逃げ出すような人間でもあります。「自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた」ような、そういう「出来の悪い羊」、「わがままな羊」、「熱しやすく冷めやすい羊」を抱えながら、羊飼いである主イエスは我が身を捨てて羊を守ってくださいました。

 ここでは、その「羊」であったペトロ自身が、主イエスのような「羊飼い」になることを命じられているのです。

 ペトロがそのような「羊飼い」にふさわしい才能の持ち主だったわけではありません。しかし、ペトロには、「羊飼い」になることによって、彼自身が学び知らなければならないことがあったのです。自分が「羊」だった時に味わったイエス・キリストの御心を、及ばずながらも自ら「羊飼い」として働くことによってペトロは思いはからなければならないのです。

 俗に「子をもって知る親の恩」といいますが、「羊飼い」になってみて、初めて分かる「キリストの心」があるのではないでしょうか。このように「羊」であることと「羊飼い」であること。それはキリスト者として生きる上で私たちが深く味わい知るべきふたつの面であり、味わい知れば知るほどにいよいよ自分の無力さを思い知らされます。それと共に、いよいよ主の恵みに感謝を新たにする機会となり、そしていよいよ真剣に「主よ、あなたは何もかもご存じです」と告白し、主の赦しと支えを祈り求めながら歩みつづけていくことになる体験であると思います。

 私たちは「主の羊」として養われつつ、「主の羊を養う者」として、すなわち、互いに互いを配慮し合い、支え合い、導き合って生きていかなければなりません。

 ペトロだけが特別だったのではありません。私たちひとりひとりが主イエスの前では「主の羊」であり、大切な掛け替えのない人間です。私たちが心しなければならないことは、主イエスの前で自分がそれほどまでに大切な人間として取り扱われているという事実であり、同時に自分の隣りに座っている人もまた主イエスにとって掛け替えのない特別な人間であり、「主の羊」なのだという事実です。

 「主の羊」である私が同じく「主の羊」である隣人と共に生きるということ、そしてお互いに「主の羊を飼う者」として、隣人に対して責任を担い合うということ。それがペトロに告げられた命令の内容であり、私たちへの主の命令であるとは言えないでしょうか。

 このように、お互いを生かし合い、お互いに責任を負うという隣人愛のゆえに、キリスト者の生き方はただ自分の好き勝手に「行きたいところへ行く」というものではなく、主イエスのゆえに「行きたくないところへも行く」という課題も含まれているということを、わきまえておかなければなりません。

 賛美歌の一節にこうあります。

 「主よ、飲むべき わがさかずき、えらびとりて さずけたまえ。

  よろこびも かなしみをも、みたしたもう ままにぞ受けん」

                        (『讃美歌』285番3節)

 私たちのことをもっともよくご存じの主が、私たちの歩みも指し示してくださいます。この主の指し示しをまず第一に祈り求め、その示しに応じる備えをつねに整えている者でありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。復活の主がペトロに3度語られた「愛の命令」を今日は学びました。この3度の愛の命令の中に、失敗し、自ら絶望していた人間を立ち上がらせ、新しい使命に向かわせる主の深い愛を示されました。ペテロに与えられた愛の命令は、私たち一人一人にも与えられています。どうか、この主の御言葉を胸にこれからの人生を歩み続ける者としてください。このひと言の感謝と祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

備えていてくださる主

ヨハネによる福音書21章1~14節  2024年4月21日(日) 主日礼拝説教 

                                            牧師 藤田浩喜

 どうしてこういうものが聖書の中に含まれているのだろうと考え込んでしまう文書のひとつが、コヘレトの言葉(伝道の書)です。この中には、突き放したようなものの言い方がたくさん含まれており、神への信仰を語りつつ、人生は空しい、すべては空しいと語り、死んでしまえばすべてはおしまいだというふうな、あきらめとも思われるような文章が書き連ねられています。

 虚無的といえば虚無的ですが、ひるがえって考えてみると、こうしたコヘレトの言葉は現代社会に生きる多くの人々にとっては、むしろ身につまされるような痛切な事実を語っているのかもしれません。

 聖書というものは、現実の世界と歴史をリアルに受けとめて記録した文書を集めたものであり、そうした中で生きてきた人間たちの姿をリアルに映し出す文書を集めたものです。さらにまた、そうした人間たちに対して神の力がどのように働いたかということを伝える文書を集めたものです。

 そうである以上、ある時代のある人々が感じざるを得なかった空しい現実の姿、虚無的なものの見方を踏まえながら、なおかつそれでも神に目を向けようとした人々がいたことを、コヘレトの言葉は伝えている。このような文書が残されたということは、ある意味で聖書というもののふところの深さを示しているのかもしれません。

 さて、そのようなコヘレトの言葉の特色ともいうべき死生観を示す文章のひとつが、先ほどお読みいただいた9章4節後半~5節の中で次のように記されています。

  「犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。

   生きているものは、少なくとも知っている

   自分はやがて死ぬ、ということを。

   しかし、死者はもう何ひとつ知らない。」

 また、9節にはこうあります。

  「太陽の下、与えられた空しい人生の日々

   愛する妻と共に楽しく生きるがよい。

   それが、太陽の下で労苦するあなたへの

   人生と労苦の報いなのだ。」

 教会という場所では、結婚式や葬儀が行われます。結婚式であれ葬儀であれ、ただいま、お読みしたようなコヘレトの言葉の一節を朗読することは、まずありえません。結婚するふたりに向かって「人生がいかに空しいものか」を説教することはありえません。また、ご遺族の方々を前にして「死んでしまえばおしまいだ」などと説教することはありえません。

 しかし、それは私たちがキリスト者であり、キリスト教信仰を持っているからこそ言えることであって、現代社会に生きている多くの人々にしてみれば、コヘレトの言葉に語られている断片的な認識の方が、本当はずっと「現実的」だと感じられるかもしれません。

 11節以下にはこういう言葉も出てきます。

 「太陽の下、再びわたしは見た。

  足の速い者が競争に、強いものが戦いに

  必ずしも勝つとは言えない。

  知恵があるからといってパンにありつくのでも

  聡明だからといって富を得るのでも

  知識があるからといって好意をもたれるのでもない。

  時と機会はだれにも臨むが

  人間がその時を知らないだけだ。

  魚が運悪く網にかかったり

  鳥が罠にかかったりするように

  人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。」

 現実とはそういうもの、思いどおりにいかないもの、だからこそ、「すべては空しい」というのが、コヘレトの言葉の結論となるのです。

 さて、本日お読みいただいたヨハネによる福音書21章の記事の中にも、そういった現実を反映するような文章が出てきます。ヨハネによる福音書では、この場面に出てくる湖をティベリアス湖と呼んでいますが、これは他の福音書でガリラヤ湖と呼ばれている湖のことです。

 主イエスの弟子たちは、この時、エルサレムからここに戻ってきていたということなのでしょうか。イエス・キリストの十字架による死、そして、その後の復活という出来事を体験した弟子たちのはずです。しかしそれでもまだ、この時の弟子たちには、何かぼんやりとした雰囲気、ある種の虚脱状態に陥っているような印象が見受けられます。数週間、あるいは数日間の内に体験した大きな出来事の数々が、彼らを打ちのめし、これからどうしたらいいのか、何をなすべきなのか、考えがまとまらない。そんな雰囲気が感じられます。

 「わたしは漁に行く。」(21:3)

 そういってペトロは立ち上がりました。もともとガリラヤ湖の漁師だったペトロです。彼が漁師に戻るつもりだったのかどうか、それは分かりません。いずれにしろ、人は何かを食べなければならないわけで、とりあえず魚でもとってこようという気持ちだったのかもしれません。他の弟子たちも、とりあえずペトロについて立ち上がり、「わたしたちも一緒に行こう」と言いました。その中には、やはりもと漁師だった弟子もいましたが、そうでない者もいました。でも、彼らは皆、主イエスの弟子として一緒に生きてきた仲間でした。

 「わたしたちも一緒に行こう。」(21:3)

 そう言って、とりあえずひとつの舟に乗りこんだのです。しかし、「その夜は何もとれなかった」とあります。どんなにがんばっても、何もとれない夜がある。これこそ人生のリアルな一面であり、コヘレトの言葉にも記されているような、現実とはそういうもの、思いどおりにいかないもの、だからこそ「すべては空しい」という結論に結びつくような一場面であると言えるでしょう。

 しかし、ヨハネによる福音書の出来事は、コヘレトの言葉と同じ結論に至ったわけではありません。何もとれなかった夜であっても、やはりその夜は明けるという、現実のもうひとつの面をヨハネによる福音書は伝えています。

 「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」(21:4)

 夜明けの光の中で、イエス・キリストは弟子たちを見守っておられます。しかし、本当のことを言えば、夜が明ける前の暗闇の中でも、すでにイエス・キリストは弟子たちを見守っておられたのです。何もとれない夜の間も、弟子たちがそれに気づかない間にも、イエス・キリストは彼らを一晩中見守っておられたのです。 「だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」(21:4)

 そこで主イエスが見守っていてくれることが分からない時、私たちに残されるのはコヘレトの言葉の作者が感じたのと同じ気分です。すなわち、「すべては空しい」、これほど労苦しても何も得るものはない、これほどがんばっても人生には実りがない、「すべては空しい」という気分です。

 しかし、福音書が伝えていることは、どんな時でもイエス・キリストは私たちを見守っていてくださるという事実です。私たちにとって、人生の中でどんなにすばらしいことが起ころうと、あるいはまたどんなに悪いことが起ころうとも、いちばん大事なことは、その出来事の背後にいつもイエス・キリストが立っておられるという事実に気づくことに他なりません。

 パウロはローマの信徒への手紙8章28節に、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」という一句を記しました。文語訳聖書では「すべてのこと相働きて益となる」と訳されているこのパウロの言葉は、聞きようによってはずいぶん楽天的な言葉とも感じられる一句です。

 しかし、この言葉を記したパウロという人が、その伝道の生涯において味わった数多くの苦しみ、精神的にも肉体的にも経験した苦しみのことを思う時、そのような人物がその生涯の終わり近い時期に記したであろう、この手紙の中に残したこの一句は、決して安易な気休めといったものではなかったはずです。

 何もとれなかった夜のような体験を何度も味わいつくした後で、それでも、「神を愛する者たち(中略)には、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と記し得たパウロの実感こそ、キリスト教信仰によって生きる私たちが生涯を通して学ぶべき真実なのだと私は思います。

 それは人生とは決して空しいものではないことを宣言する言葉であり、私たちが出会うこと、私たちが体験すること、そのすべてはつねに神にあって豊かな意味を持っているということを教える言葉なのです。

 ヨハネによる福音書は、イエス・キリストが湖から上がってくる弟子たちのために、炭火を起こし、魚を焼き、パンを用意してくださっていたと記しています。

福音書の中には、主イエスがいろいろな人々と食事をする場面がたくさん出てきますが、主イエスご自身が火を起こし、食べものを料理したことが記されているのは、おそらくこの箇所だけではないでしょうか。

 主イエスはそのようにして手ずから整えられた食事を前にして、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」とおっしやいました。そして、パンを取り、弟子たちに与えられました。ここでもまた、エマオでの食事や、最後の晩餐や、それ以前に何度も繰り返された食事のように、主イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげ、パンを裂き、それを弟子たちに分け与えられたのです。

 一日を生きるための糧を、イエス・キリストは弟子たちのために備えてくださいました。人生を生きるための命の源を、イエス・キリストはいつも私たちのために備えてくださるのです。何もとれない夜であっても、主ご自身が私たちのために「朝の食事」を備えていてくださいます。

 今日ここに集う私たちもまた、この湖畔の弟子たちと同様、主イエスに見守られている存在であり、主イエスから命の糧をいただいている存在です。私たちは、この礼拝の場で主イエスに見守られていることを想い起こし、聖餐によって養われ、主に送り出されてこの世の旅路を歩むのです。

 私たちの人生のあらゆる時、あらゆる場面で、良い時にも悪い時にも、健康な時にも病んでいる時にも、喜んでいる時にも悲しんでいる時にも、私たちは測り知ることのできない神の恵みと憐れみの中に置かれています。その恵みと憐れみの中で、私たちはそれぞれの人生を、主に従って歩んでいくのです。私たちは決してひとりではありません。私たちは主と共に生きるのであり、主によって結ばれた仲間たちと共に生きるのです。

 信仰によって生きる時、私たちの人生は決して空しいものに終わることはないというこの事実を、私たちははっきりと心に刻みつけようではありませんか。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も主にある兄弟姉妹、またその家族や親族の方々と共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。父なる神さま、私たちは人生というものが思い通りに行かないものであることを知っています。精いっぱい努力しても、徒労に終わり、虚しさだけが残るような経験をします。しかし、そのような私たちの人生には、私たちを背後から見守ってくださる主イエスのまなざしがあります。そして主イエスは私たちの人生を導き、徒労に終わったかに思える人生にも新しい意味を創り出してくださいます。どうか、そのことを深く信じてあなたを見上げて、それぞれの生涯を歩ませてください。今日は午後に二人の敬愛する姉妹の埋骨式を教会墓地で行います。どうか、その上にもあなたのよき備えと導きを与えていてください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

見ないで信じる者は幸い

ヨハネによる福音書20章19~31節 2024年4月14日(日)主日礼拝説教

                                            牧師 藤田浩喜 

 ヨハネによる福音書20章27節には、復活のキリストがトマスに告げたという、次のような言葉が記録されています。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」キリストが十字架上で釘打たれた手のひらの穴、そしてやはり十字架上で槍で刺し貫かれたわき腹。そこに触ってみなさい、そこに手を入れてみなさいというのです。ずいぶん生々しい言葉です。

 ところで、今日お読みいただいたヨハネによる福音書20章19節に記されている「その日」とはイースターの日のことであり、イースターの晩に起こったことがここに記されています。その夜、キリストは弟子たちが集まっていた家の中にやって来られました。その場所がどこだったのか、詳しい説明はありません。ともかく、「恐れて」、「鍵をかけて」、じっと静まっていた弟子たちの前にキリストが姿を現し、弟子たちの平安を祈ってくださったのです。

 しかし、その晩、弟子のひとりであったトマスはそこにいませんでした。そこに居合わせなかったトマスが、仲間たちの証言を聞いても、ただちにそれを信じられなかったのはむしろ当然だったかもしれません。トマスは言います。  「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 このトマスの言葉に応じるようにして、「8日の後」、つまり一週間後、再びキリストが弟子たちのもとに現れ、トマスに向かって最初にご紹介したような言葉を告げたといいます。

 この場面に登場するトマスは、往々にして「疑いの人」というふうに語られることがあります。しかし、トマスはここで何を「疑った」のでしょうか。 単純に考えれば、トマスが疑ったのは「キリストの復活」だったと言えるでしょう。十字架上でキリストの体につけられた傷跡を見るまでは、「決して信じない」という強い言い方は、悪く言えばトマスの猜疑心の強さを表わしているように思えますし、よく言えば事実を確認しようとするまじめさを示しているようにも思えます。

 しかし、この物語を読む時、私はここでトマスが口走った言葉の真意はそうした復活そのものについての疑いとは少し違うことだったのではないかと感じることがあります。それはどういうことかというと、トマスが自分だけそこに居合わさなかったということ、結果的にであれ何であれ、「仲間外れ」の立場に置かれたということこそ、彼にとっていちばんの衝撃であり痛みだったのではないかということです。

 福音書は、その前後の情景を次のように記しています。「12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」

 この対話の中に、復活のイエス・キリストと再会した弟子たちが驚きを隠せず、それにもかかわらず喜びをもって報告しているのと対照的に、ひとりだけその場に居合わせなかったトマスの心境が反映されているように感じるのです。

 イエス・キリストに会えなかった。自分だけが会えなかった。自分の存在だけが無視されてしまったような、自分だけ仲間から取り残されてしまったような、そんな思い、そんな感情がトマスを襲い、思わず口をついて出てきた言葉が、その後につづく彼の言葉だったのではないかと思うのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」このトマスの言葉の中に、何か子どもがすねているような響きを感じるのは私だけでしょうか。

 とくに自分にとっていちばん大切な人々から見捨てられ、いちばん大事な出来事から取り残されてしまうこと。この場面のトマスとは状況が異なりますが、そういった仲間外れにされるという痛切な体験を、6歳の少年が味わい、そして書き記した詩があります。

「がっこうから うちへかえったら

だれもおれへんねん

あたらしいおとうちゃんも

ぼくのおかあちゃんもにいちゃんも

それにあかちゃんも

みんなでていってしもうたんや

あかちゃんのおしめやら

おかあちゃんのふくやら

うちのにもつがなんにもあらへん

ぼくだけほってひっこししてしもうたんや

ぼくだけほっとかれたんや

ばんにおばあちゃんかえってきた

おじいちゃんもかえってきた

おかあちゃんが

 『たかしだけおいとく』

とおばあちゃんにいうて

でていったんやって」

(灰谷健次郎『わたしの出会った子どもたち』、新潮文庫)

これは「あおやまたかし」という少年が書いた詩の最初の部分です。6歳というから、おそらく小学校一年生くらいでしょう。どういう事情があったのか分かりません。分かっていることは、この子だけが家族の中で取り残されたということです。親も兄弟もみんないなくなってしまった中で、自分だけがおいていかれたのです。

 トマスが経験したこととこの子の経験したことは、もちろんいろいろな面で異なっています。しかし、いちばん親しい人々の間で、思いもよらぬ時に、最も大事な出来事において、自分だけが取り残された、仲間外れにされたという点では、まったく同じです。「ぼくだけほっとかれたんや」という点では同じなのです。

「ぼくだけほっとかれた」という体験は、「交わり」にかかわる問題です。 神は人間を「交わり」の中で生きるものとしてお造りになりました。だから、「交わり」が失われた時、「交わり」が歪んだ時には、人間そのものの本質が歪められてしまったり、人間そのものが失われたりする場合があるのです。

 ところが、私たちが生きている現代社会においては、この「交わり」がたいそう歪められていたり、ひじょうに脆いものとなっていたりする場面に出くわすことがしばしばあります。例えば、教会にはいろいろな人たちがさまざまな問題を抱えて訪ねてきます。その中に、時々、「ホームレス」と呼ばれる人々がいます。話をしてみると、その人たちに共通しているのは「帰る場所がない」ということです。故郷がないわけではありません。家族もまったくいないわけではありません。でも、帰れないし、帰らない。あるいは帰りたくない、というのです。都会にいて何か希望や見通しがあるのかというと、そういうわけでもありません。どこかに知人や支えになる人がいるのかというと、そういうわけでもない人たちがほとんどです。

 「ホームレス」という言葉の本質は、物理的に「家がない」とか「職がない」ということと共に、またそれ以上に、「心のホームレス」、つまり、「交わりがない」、「帰属すべきものがない」ということを意味しているのではないかと思うことがあります。そういう意味における「ホームレス」の状態というものは、決して一部の人だけの問題ではありません。むしろ、それと似た状況は、多かれ少なかれ、私たちの身近なところで、私たちを取り巻いているとは言えないでしょうか。今日、小さな子どもたちから青少年や壮年、高齢者も含めて、また夫婦、親子、兄弟姉妹、友人、職場の仲間などを含めて、私たちの周囲にこのような「交わり」を巡る深刻な問題が横たわっているように思われるのです。

 私たちの時代は、誰もが「ぼくだけほっとかれたんや」という状況に追い込まれかねない時代です。誰もがそういうことに脅え、恐れているように感じられる時代です。そして、誰もが「ほっとかれない」ようにするために、SNSで情報を集めたり、絶えず仲間にメールしたり、あくせくしているように感じられる時代です。「ぼくだけほっとかれたんや」という体験は、人間を歪めてしまう可能性を秘めています。そして、「ぼくだけほっとかれたんや」という体験が頻繁に繰り返されたり、それが常態となってしまうなら、それはその人の人間性を破壊する結果をもたらさないとも限らないのです。

 聖書はイエス・キリストを、「ほっとかない人」として描いています。聖書が伝えるイエス・キリストは、家族から放り出された人、村や町から放り出された人、その社会の中で放り出された人、「ぼくだけほっとかれた」ことを体験した人々のもとにおもむき、そうした人々との間に「交わり」を形作り、それらの人々に生きる勇気を与える方として描かれています。

 今日の福音書は、このイエス・キリストという方が、十字架につけられ、死んで、よみがえった後にも、やはり「ほっとかない人」でありつづけたことを描き出しています。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」どうしようもない困惑と混乱の中に取り残された子どものように、大人気ない言葉を発したトマスに応えて、主イエスはそこにわざわざやって来て、そのようにおっしゃったと福音書は告げています。

 主イエスはここで、「私は決してあなたを忘れているわけではないよ」と言われたのです。ほかの弟子たちを差し置いて、ここで主イエスは、ただひとり、トマスに向かって、「私はあなたをほっておきはしない」とおっしゃったのです。

 トマスはどんな顔をしたのでしょうか。トマスは笑ったのでしょうか。それとも泣いたのでしょうか。本当の問題は主イエスの傷跡を確認するなどということにあったのではありません。主がトマスを忘れたのではないこと。  「ぼくだけほっとかれた」のではないこと。トマスもまた「私の仲間」だと確認してくれること。それがいちばん大事なことだったのです。

 私たちが生きていけるのは、だれかに愛されているからです。だれかが私たちのことを覚えていてくれるからです。キリスト者である私たちは、ぎりぎりのところで、この世のだれもが私のことを忘れ、私を見捨ててしまうような時でさえ、イエス・キリストだけは「私は決してあなたを忘れない」と言ってくださることを信じています。それが私たちを生かすのです。トマスを覚えていてくださった方は、私たちのことも覚えていてくださいます。トマスのためにわざわざやって来てくださる方は、私たちのもとにもその恵みと憐れみのまなざしを注いでくださいます。キリスト者である私たちは、どんな時でも、この方のまなざしのもとで生きているのです。私たちはこのまなざしによって、生かされて生きているのです。この方によって集められていることの喜びを、共に感謝し、共に歩んで行こうではありませんか。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを感謝いたします。復活された主イエスは、ご自身の方から弟子たちのもとに来てくださり、その姿をお示しになりました。そして、最初の時にいなかたったトマスのことを忘れずに、トマスのためだけにもう一度現れてくださいました。主イエスは、私たちをひとりぼっちにすることなく、主との豊かな交わりの中においてくださいます。私たちの教会の交わりも、そのような主との交わりを映し出す交わりとなりますよう、支え励ましていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

甦りの主にお会いして

ヨハネによる福音書20章11~18節 2024年4月7日(日)主日礼拝説教

                                             牧師 藤田浩喜

 先週、私たちはイースター礼拝をささげ、主イエスの復活を喜び祝いました。主イエスの復活は、単なる二千年前の不思議な出来事ではなくて、現在の私たちを生かす、私のために起きた出来事であることを改めて心に刻みました。今朝は、復活された主イエスが最初にその御姿を現された場面、マグダラのマリアと出会われた箇所から御言葉に聞いてまいりたいと思います。

 主イエスが復活された日の朝早く、まだ暗いうちにマグダラのマリアは主イエスの墓へ行きました。他の福音書は、この時マリアは香料を持って墓へ行ったと記しています。多分、主イエスの遺体に香料を塗るという、当時一般的に為されていた葬りの儀礼をしてあげたいと思ったのでしょう。ところが主イエスの墓に着いてみると、墓に蓋をするために置かれていたはずの大きな石が取り除けてあり、墓の穴の中に主イエスの遺体は無かったのです。この時マリアの頭に浮かんだのは、主イエスの遺体が誰かによって運び去られたということでした。主イエスが復活されたとは、少しも思っていません。そこで彼女は、主イエスの弟子であるペトロたちのところに走って行って、そのことを報告しました。

 

 主イエスの遺体が無くなっているという知らせを受けたシモン・ペトロともう一人の弟子は、主イエスの墓へと走りました。多分、マグダラのマリアも彼らの後を追うようにして、また主イエスの墓へ戻ったのだと思います。二人の弟子は主イエスの空の墓を見て家に帰ったのですが、マグダラのマリアは墓の前に立ち続け、泣いていました。彼女には泣くしかできなかったのです。

 木曜日の夜に主イエスが捕らえられて以来、彼女は何度泣いたことでしょうか。主イエスがゲッセマネの園で捕らえられたと聞いた時、彼女は泣いたでしょう。主イエスが十字架を背負ってゴルゴタに向かって歩まれた時、彼女は泣いたでしょう。主イエスが十字架につけられ、手と足に釘を打たれた時、彼女は泣いたでしょう。主イエスが十字架の上で息を引き取られた時、彼女は泣いたでしょう。そして安息日に入り、主イエスのいない土曜日、彼女は泣き続けていたことでしょう。そして日曜日の朝、主イエスの墓に来ると、そこに主イエスの遺体は無く、墓は空っぽでした。「わたしの主」、「わたしのイエス様」が取り去られた。誰かがどこかへ運んでしまった。どうしてこんなひどいことをするのか。マリアは墓の前で泣くしかありませんでした。

 泣くしかない。愛する者の苦しみを前にして何もできずに見続けなければならない時、私たちは泣くしかありません。そして愛する者を失った時、人はどうしようもなく泣くしかない。そういう時が私たちにもある。しかし、泣くしかない、もうどうしようもない時に、どうしようもないと思っていた現実の向こうから、私たちの思いを超えた神様の御業が始まっている。そう聖書は告げるのです。

 泣くしかないマリアに向かって、天使は言います。13節「婦人よ、なぜ泣いているのか。」これは、マリアに泣いている理由を尋ねているのではありません。泣いている理由は、分かり切っているのです。天使がここでマリアに告げているのは、「どうして泣いているのですか。もう泣くことはないのですよ。泣かなくてよいのですよ」ということです。しかし、マリアには天使が告げることの意味が分かりません。ですからマリアは、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と天使に言うのです。

 さて、ここで重大なことが記されています。14節です。「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」とあります。マリアは天使とのやり取りの後、後ろを振り向いたのです。するとそこに主イエスが立っておられたのですが、それが主イエスだとは分からなかったと言うのです。どうしてでしょうか。

 第一に、それ程までに主イエスの復活は、弟子たちの思いを超えたものであったということでしょう。弟子たちは主イエスが復活されることを信じ、期待し、その思いが復活の主イエスの話を作ったというようなものではないということです。第二に、主イエスの復活という出来事が、単なる肉体の蘇生というようなことではないということを示していると思います。マルコによる福音書16章12節には、「イエスが別の姿で御自身を現された」とあります。「別の姿」です。確かに主イエスは、十字架の上で死なれたその方として復活されました。その手と足には釘の跡がありました。しかし、その復活された体は、やがては朽ちていくこの肉体と全く同じではなかったということでしょう。別の姿だったから主イエスとは分からなかったということです。第三に、それ以上に大切なことがあります。それは、この主イエスの復活の出来事は、主イエスとの人格的な交わりの中で受け取られるものだということです。

 マリアは確かに、自分の後ろに主イエスが立っておられるのを見た。しかし、それが主イエスだと分からなかった。そして15節で主イエスが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言っても、マリアは相変わらず、主イエスとは分からずに墓の番人だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言っているのです。

ところが、主イエスが「マリア」と呼びかけると、彼女はこの人が主イエスであるとはっきり分かって、「ラボニ(先生)」と振り向きながら答えたのです。この「マリア」、「ラボニ」というやり取りは、マリアが主イエスに付き従ってきた日々の中で、何度も何度も繰り返されていたものでした。マリアは自分に語りかけられる「マリア」という声を聞いて、この方が復活の主イエスであることが分かったのです。それまでは分からなかったのに、です。どうしてか。私は、ここに主イエスの復活の出来事の重大な秘密があると思います。

 主イエスの復活の出来事は、物を上に投げたら下に落ちてくる、水は高い方から低い方へ流れるといった、誰の目から見ても明らかであり、もしその時代に写真機やビデオカメラがあったら写すことができるような、いわゆる客観的事実ということとは、少し次元が違うことなのだと思うのです。もちろん、私は主イエスの復活が実際に起きた歴史的事実ではない、と言っているのではありません。主イエスは確かに復活されたのです。しかし、その出来事は主イエスとの深い人格的な交わりの中でしか、受け取れないものだと思うのです。復活された主イエスに出会った者は、根本的にその人生が変わってしまうのです。主イエスを信じ、主イエスと共に生きるしかない者に変えられるのです。このことこそ、主イエスの復活の出来事の最も重大な点なのです。

 これは、私たちがこの主の日の礼拝のたびごとに経験していることと重なると思います。私は毎週ここで説教をしています。この説教から、自分自身に向けられた主イエスの御言葉を聞き取り、この主イエスに従っていこうとする信仰が与えられるという出来事に与ります。しかしそれは、この説教を聞くすべての人に与えられることではないのです。同じ説教を聞きながら、「さっぱり分からん」ということも起きるのです。聖餐にしても同じです。主イエスの体、主イエスの血潮として、ありがたくこれに与るという人もいれば、ただのパンとブドウ液にしか思えない人もいる。客観的に言えば、説教は牧師が語っていることですし、聖餐はパンでありブドウ液なのです。しかし、これがキリストの言葉となり、キリストの体、キリストの血潮となる。これは聖霊の働きにより私たちに信仰が与えられるから起きることなのです。そして主イエスの復活の出来事も、それと重なるのではないかと思います。

 復活の主イエスに出会うということは、一人ひとり違うのです。みんな同じように復活の主イエスと出会うのではないのです。聖書に記されている復活の主イエスと出会った人で、生前の主イエスとの交わりを持っていなかった人は一人もいません。このマリアのように、主イエスを愛していた人が復活の主イエスと出会っているのです。主イエスを知らない人、愛していない人は、復活の主イエスと出会うこともないし、出会っても気づかないし、意味もないのです。しかし、主イエスを愛する者にとって、主イエスの復活は、主イエスがまことの神であり、救い主であり、死を打ち破られた方であり、自分たちに生きる力と希望とを与えてくださる方であることを明らかにするのです。そして、この方と共に生きていく明確な信仰と決断が与えられるのです。

 

 さて、復活された主イエスとの出会いを与えられたマリアに対して、復活の主はこう告げられました。17節「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」マリアは、復活の主イエスの足もとにひれ伏し、その足を抱いて拝んだのだと思います。主イエスは、そのようなマリアに「そうではないのだ。わたしは天の父なる神様のもとに上っていかなければならない」と言われたのです。復活された主イエスは、いつまでも復活された姿のままで、マリアや弟子たちと共におられるわけにはいかない。天に上らなければならないと言われる。それは、復活された主イエスが天に上り、そして聖霊を注いでくださるためです。主イエスが天に上られるのは、再び聖霊として下られるためです。

 13節を見ますと、マリアは主イエスに対し「わたしの主」という言い方をしています。マリアは復活された主イエスにすがりつき、これが「わたしの主」、もう離さない、そんな思いだったでしょう。しかし、それはまさに主イエスを「わたしの主」にしてしまうことでした。わたしの思い、わたしの願い、わたしの理解の中に、主イエスを捕らえてしまおうとすることなのです。主イエスはそのようなマリアの思いを退けられます。主イエスには主イエスの道がある。それは天の父なる神様が定められたものであり、天より下り、また天に上る道です。主イエスは、マリアたちとは復活の姿ではなく、聖霊として共にいることになるのです。すべての者といつでもどこででも共にいてくださるためです。

 私たちは、主イエスの姿は見えません。しかし、説教が与えられ、聖餐が与えられています。これによって、私たちは主イエスの御声を聞き、主イエスの肉と血潮に、命に与るのです。私たちはここで、生ける主イエスとのいきいきとした交わりに生きることができるのです。この主イエスに励まされて、復活の希望と光の中を歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができ、感謝いたします。主は死の力を打ち破り、復活されました。そして、今はあなたの御許にあって、助け主である聖霊を送り、私たちを生かしてくださっています。御言葉による説教と主の聖餐によって、私たちを養ってくださっています。この恵みを深く覚える者としてください。群れの中には、病床にある者、高齢の労苦を負っている者、人生の試練に立たされている者がおりますが、復活の恵みを豊かに注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

忘れられた墓

ルカによる福音書24章1~12節 2024年3月31日(日)主日礼拝説教

                                            牧師 藤田浩喜

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」これが、あの最初のイースターの朝、主の墓に行った婦人たちに与えられたメッセージでした。あれから二千年近く経ったこのイースターにおいて、同じ言葉を私たちは耳にしています。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。―実際には、あの朝、あの婦人たちは、「生きておられる方」を捜してはいませんでした。彼らは死者に会いに行ったのです。死んでしまったイエスに会いに行ったのです。その手にあったのは香料と香油でした。それはイエスの「遺体」に塗るためのものでした。

 主イエスが処刑された日、それは金曜日でした。翌日は土曜日、すなわちユダヤ人の安息日です。しかも、その安息日は特別な「過越の安息日」でした。なんとか、安息日に入る前に埋葬を済ませておかなくてはなりませんでした。ユダヤ人の一日は日没と共に始まります。主イエスの埋葬は急を要しました。アリマタヤのヨセフという人が、遺体の引き取りを願い出ました。岩に掘られた墓に主の遺体を葬ることになりました。亜麻布で包み、とりあえず葬りだけを済ませましたが、油や香料を塗る時間はありませんでした。

 婦人たちはその墓の位置を確認し、遺体が納められるのを確認しました。そして、安息日が終わる前に香料と香油を準備しました(23:56)。安息日が明けた翌朝早くに墓に行って香料を塗り、遺体の処置をするためでした。彼らは主イエスの遺体について最善のことをしたいと思っていたのです。

 主の遺体に香料を塗り、ともかく遺体について為すべきことをした後に、いったいどうして生きていったらよいのか、分からなかったに違いありません。しかし、ともかく生きていかなくてはならないならば、せめて主イエスの思い出と共に生きていくしかないでしょう。せめて心に刻まれた主イエスの言葉と共に生きていくしかありません。せめて主イエスに倣って、その教えに従って生きていこうと考えていたのかもしれません。

 その生前の教えが今日に生きる人々になお大きな影響を及ぼしているという、偉大な歴史上の人物はいくらでもいます。彼らは死んでも、今なお語っていると言える。ナザレのイエスもまたしばしばそのような一人として挙げられます。その偉大なる高尚な生涯。その比類無き教え。それらは代々の人々の心を動かし、数多くの人生を変えてきたと言えます。しかし、それだけならばやはり、イエスは「死者」の一人に過ぎません。もし教会の伝えているのが「過去の人ナザレのイエス」の教えや生き様でしかないならば、教会のしていることは「死んだ方」に会いに行った、あの日の婦人たちと変わりません。

 しかし、そこで婦人たちは「なぜ、《生きておられる方》を死者の中に捜すのか」と問われたのです。あの御方は生きておられる御方なのだから、死者の中にはいないと言うのです。そして、この言葉を教会は今日に至るまで伝えてきたのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。教会が「イエスは生きておられる」と言う時、すでにお話ししてきたように、それは単に教えが生き続けているとか、心の中に主イエスの生き様が生き続けておられるという意味ではないのです。

 御使いたちは言いました。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」主イエスは「ここにはおられない」―「墓の中にいない」とは、「死の中に閉じこめられていない」ということです。主イエスは死に支配されてはいないということです。

 象徴的な描写が福音書の中にあります。「見ると、石が墓のわきに転がしてあり」(2節)と書かれている。マルコによる福音書では、わざわざ「その石は非常に大きかった」と書かれています。それは人の力によってはどうすることもできない死という現実を象徴していると言えるでしょう。しかし、それが転がされたというのです。誰によってでしょうか。「転がしてあった」というのですから、それは墓に行った人によってではありません。神によってです。

 神によって死の扉は開かれました。もはやキリストは死によって捕らえられてはいない。死に支配されていない。これがまさしく聖書の言っている「生きている方」という言葉の意味なのです。本当の意味で「生きている」とは、「死に支配されていない」ということなのです。

 そうしますと、聖書がここで言っている「生きている」という言葉と、私たちが通常使う「生きている」という言葉は、意味が全く違うということが分かります。確かに私たちもまた、自分を指して「わたしは生きている」と言います。しかし、正確に言うならば、私たちは「生きている者」ではなくて、「死につつある者(The dying)」なのです。死につつあるのは重病の人だけではありません。高齢者だけではありません。元気な若者も同じです。確実に死に向かっているという点では同じです。

一昨日の金曜、受苦日の祈祷会のあった朝、起きた時に頭が痛くて、ふらふらしており、多少の吐き気もありました。血圧を測ってみると、上が160近くあり、これはただ事ではないなと、怯えました。ひょっとすると持病のある心臓の血管にできた血栓が脳に飛んだのではないかと怖くなり、いつでも救急車を呼べるように身支度を始めました。さいわいその後、少し症状も収まり、祈祷会のあと急いでかかりつけ医に受診しました。「おそらく大丈夫なので経過を見ましょう」ということになり、安堵しました。血圧も120ほどに戻り、胸をなでおろしました。しかしこの金曜日の経験は、あらためて死が身近であり、自分が死に向かって生きていることを、痛感させられるものでありました。

 私たちの人生は、生まれた時から確実に死によって支配されています。生まれた時から死に向かって歩んでいるのです。もちろんその事実を忘れていることはできます。あたかも死なない者であるかのように生きていることは可能です。しかし、最後までそのように生き続けることはできません。

 私が子どもの頃、確かに自分がいつか必ず死ぬのだということは、全くリアリティのない話でした。しかし、やがて十代半ばの思春期になりますと、自分の人生が後戻りすることのできないものとして、終わりに向かっていることが実感となりました。つまり人生にはやり直しが利かないことがあるという事実と、向き合わざるを得なくなったのです。そこで一つ一つ何かを諦めながら生きていくことになります。取り返しがつかないこともあるのだと知り始めます。人生は後戻りすることなく終わりへと向かっている。その事実を実感としても否定できなくなりました。

 そうしているうちに、やがて身近な人の死に接することが多くなってまいります。私の父は10年余りの闘病の末、中学校2年生の時心臓病で亡くなりました。高校1年の時には、先週まで机を並べていた友だちが心不全で急逝しました。また、大学1年の時には、母子家庭となった私の家を何かと支えてくれていた伯父が、胃がんのために亡くなりました。年を追うごとに、死は極めて身近な現実となっていきました。

 確かに人は、死ぬまでは「生きている」とは言えます。しかし、繰り返しますが、実際には「生きている」時から既に死に支配されているのです。その意味では、産まれた時から、すでに墓の中にいるようなものだとも言えます。人生は墓の中に閉ざされているのです。

 しかし、そのような私たちに聖書はキリストの復活を伝えているのです。キリストは生きておられる。本当の意味で「生きておられる方」を、私たちに指し示すのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」

 あの御方は私たちのように死の中に閉じこめられていない。神はキリストを復活させられた。何のためですか。死に支配されている私たちを救うためです。キリストは永遠に「生きておられる」救い主として、私たちに与えられたのです。

 キリストの墓がどこにあったのか。このことは初代教会においても、かなり早い時点で忘れ去られてしまった問いであったようです。たしかに、イースターの朝、よみがえったキリストにとって、墓は無用のものでしかありません。イースターの朝、その墓の中には何もなかった、それは空の墓であった。そのため、墓そのものに興味を持ち続ける人は少なくなり、墓は忘れられていったのです。

 そして、その御方はあの二千年前の墓の中にはおられない。教えだけが生きているというのではありません。あの方は今も生きていて、私たちの人生に入ってきてくださるのです。クリスチャンとは、単にキリストの教えを信じた人のことを言うのではありません。そうではなくて、永遠に生きておられるキリストを人生にお迎えして、キリストと共に生きている人のことを言うのです。

 今も生きておられる主イエスは、死に支配された私たちの人生に入ってきてくださる。「生きておられる方」は罪の赦しとまことの命を携えて、いわば、私たちを閉じこめている墓の中に入ってきてくださるのです。いや、入ってきてくださるだけではありません。「生きておられる方」は、私たちを閉じこめている墓の扉を打ち壊してくださる。ならば私たちはもはや、死の中に閉じこめられた者として生きる必要はないのです。死に支配された者として生きる必要はないのです。もはや「死につつある者」として生きる必要はないのです。

 先ほど、人生は後戻りができないと言いました。しかし、キリストが死の扉を破ってくださるなら、本当はもう後戻りしたいと願う必要もないのです。たとえ年老いても、たとえ重い病気になったとしても、残された日を思いながら生きる必要はないのです。失ったものを数えながら、失う前に戻れたらよいのにと、思いながら生きる必要もないのです。キリストが死の扉を破ってくださるなら、私たちはただ人生の終わりに向かっているのではないからです。その先に開かれている復活の世界に、永遠の命の世界に向かって生きているのです。私たちは永遠に生きておられる御方と共に、本当の意味で「生きている者」として生きることができるのです。このイースターの日に、この大いなる恵みの出来事を覚えて、主の御復活を共にお祝いしたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。このイースターの礼拝を、愛する兄弟姉妹と共に覚え、守ることができますことを感謝いたします。独り子イエス・キリストは、私たちの初穂として復活してくださいました。主はもはや死に支配されることなく、私たちと共に生きてくださいます。また、私たちも主の十字架と復活を信じることによって、キリストと一つされ、死に支配されることのない者に変えられています。どうか、この驚くべき恵みを、イースターのこの日に噛みしめさせてください。病気のため、高齢のため、また様々な事情に阻まれてこの礼拝に与れない一人一人の上に、復活の恵みを豊かに注いでいてください。この拙きひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

ペトロの涙

マルコによる福音書14章66~72節 2024年3月24日(日)主日礼拝説教

                                             牧師 藤田浩喜

 主イエスの一番弟子ペトロは、もともとガリラヤの漁師でした。当時の主な職業は一般的に世襲です。彼は漁師の家に生まれたので、漁師の子どもとして育てられたのでしょう。一人前の漁師になるために、親のもとで厳しい訓練を受けてきたのだと思います。漁に出たならば、舟の上ではそれぞれが自分の責任をしっかりと果たさねばなりません。そこでは自分の責任を担う強さが要求されます。舟の上で弱さをさらけ出したり、狼狽(うろた)えたりして、仲間の足手まといになるわけにはいきません。それは一人前の漁師として恥ずべきことです。

 また、彼の家が通常のユダヤ人の家庭なら、彼もまたユダヤ人の子どもとして律法の教育を受けてきたことでしょう。ユダヤ人の子どもは十三歳になると成人を迎えます。「バル・ミツヴァ(律法の子)」と呼ばれるようになります。すなわち、ユダヤ人の共同体に属する者として、律法の義務が科せられるようになるのです。彼は責任ある大人として、定められたことをきちんと果たす強さを要求されることになります。律法を守ることができないということは、律法違反を咎められるだけではなく、一人前の大人として実に恥ずべきことだったのです。

 もちろん、子供が大人となっていくプロセスにおいて、そのような自立した強さを要求されるということは、何もユダヤ人や漁師の家に固有なことではありません。この国に生きる私たちにもある程度身に覚えがあります。この国の子供たちの多くは「人様に迷惑をかけないように」と言って育てられます。人の手を借りずに自分のことはきちんと自分で出来る子が、《しっかりした良い子》と呼ばれます。この国においても、やはり賞賛されるのは自立した強い人です。弱いこと、人に頼ることは、しばしば恥ずかしいことと見なされます。ですから、人生の最後まで「子供や孫の世話になどならない!」と言い張る人もいるのでしょう。

 しかし、現実はなかなか思い通りにはいきません。人の助けを得なくてはどうにもならない時はあります。自分の弱さをさらけ出してしまう時はあるのでしょう。一生の間には幾度も、狼狽えたり、取り乱したり、恥をかいたりということを繰り返すものです。しかし、本来は強いことが良いことだと思っているならば、弱さを覆い隠して、体面を取り繕おうとするのでしょう。いや、他の人に対してだけでなく、自分自身に対しても弱さを覆い隠そうとすることもあります。弱い自分だと思いたくない。できるだけ自分の弱さを見ないようにしたい。恥ずかしいことは、それこそ心の箪笥の一番奥の方にしまい込んでしまいたい、と。

 どうもペトロという人物もそうだったようです。福音書を読みますと、彼はしばしば自分の弱さをさらけ出しています。例えばこんなことがありました。ある日、主イエスと弟子たちがガリラヤ湖畔におりました時、主は「湖の向こう岸に渡ろう」と言い出されました。そこで主イエスと弟子たちは船出いたします。ところが突風が湖に吹き下ろしてきて、彼らは水をかぶり、危なくなりました。弟子たちは狼狽えます。見ると主イエスは嵐の中で舟が沈みそうだというのに、安らかにスヤスヤと眠っているではありませんか。彼らは主を起こして言いました。「先生、先生、おぼれそうです」。すると、主は風と荒波とを叱って静め、弟子たちにこう言われたのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(8:25)と。嵐の中で落ち着いていたのは、漁師でもない主イエスおひとりでした。全くもってプロの漁師としての面目丸つぶれです。それはペトロにとって実に恥ずかしい経験だったに違いありません。

 どんなに訓練を積んできたとしても、どれほど経験を積んでいたとしても、いざ命が危険にさらされる時、自分の心の内に何が起こるかわからない。そういうものなのでしょう。しかし、弱さをさらけだしたこの失態はペトロの心の箪笥の奥深くに仕舞い込まれてしまったようです。最後の晩餐を終えて主イエスと弟子たちがゲツセマネの園に向かっていた時、すなわち主イエスが捕らえられるその時が刻一刻と近づいていたその時に、主イエスはこう言われました。「あなたがたは皆、わたしにつまずく」と。それは弟子たちが主イエスを見捨てて逃げていくことを意味しました。もちろん、それはペトロをも含めて主イエスは言われたのです。しかし、その時、ペトロはかつて弱さをさらけ出した自分であることを思い起こすことはありませんでした。彼は言いました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(29節)。その思いは他の弟子たちにしても同じでした。

 しかし、主イエスは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言ったペトロにこう言われたのです。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(30節)。しかし、それでもなおペトロは自分の弱さを認めようとはしませんでした。ペトロはあの舟の中で取り乱していた自分の姿を思い起こすことはありませんでした。ペトロは力を込めて言い張ります。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(31節)。彼だけではありません。皆の者も同じように言ったのです。

 さて、実際にはどうなったのでしょうか。今日朗読された箇所の前のページの50節にあるように、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」のです。ペトロだけは、主イエスが捕えられ、大祭司の家に連れていかれたとき、遠くからついて行ったようです。そして屋敷の中庭まで入り込み、人々と共に火にあたりながら、事の成り行きを見守っていました。そして、今日の聖書個所において私たちが耳にしたことが起こりました。

 大祭司に仕える女中のひとりが、火にあたっているペトロをじっと見つめていました。そして、こう言ったのです。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」ペトロは女の一言に震え上がりました。そして、とっさにこれを打ち消します。「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」。そう言って出口の方へ出ていきました。

 しかし、屋敷に連れてこられた主イエスの事が気になって、出て行くことはできません。彼はなおも中庭に留まります。するとまた、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に言い出します。「この人は、あの人たちの仲間です」。ペトロは再びこれを打ち消しました。そして、しばらくすると、そばに立っていた人たちがまたペトロに言い始めます。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」おそらく、ペトロが答えているときに彼のガリラヤ訛りを耳にしたのでしょう。

 ペトロはこれを強く打ち消します。「呪いの言葉さえ口にしながら」と書かれています。「もし偽りを語っていたら神に呪われても良い」と言って激しく誓い始めたということです。彼はそのように神にかけて誓ってこう言ったのです。「あなたがたの言っているそんな人は知らない」。そのようなことを自分が口にするとは、夢にも思っていなかったに違いありません。しかし、その時、二度目に鶏が鳴きました。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」主イエスの言葉をペトロは思い出したのでした。

 ペトロがその時に思い出したように、主イエスは弟子たちが御自分を見捨てて逃げてしまうことをご存じでした。ペトロが三度も御自分を否んでしまうことをご存じでした。ペトロを含め、弟子たちの内にあるものをご存じでした。それが外に現れてしまうことをご存じでした。しかし、ただ内にあるものが外に現れることを主イエスが望んでおられたわけではありません。そこには、実は絶対に聞き落としてはならない言葉がありました。主イエスはあの時、こう言われたのです。「あなたがたは皆わたしにつまずく。…しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(27~28節)。

 「あなたがたより先にガリラヤへ行く」ということは、主イエスはガリラヤで再び弟子たちに会うことを考えておられたということです。主イエスは先に行って待っていてくださるということです。主イエスを裏切り、主イエスを見捨てて逃げていくその弟子たちを、主イエスは先にガリラヤに行って待っていてくださる。「あなたがたは散らされる。わたしを見捨てて逃げていく。そこであなたがたは徹底的に自分自身の弱さと惨めさを知り、自らの罪深さを思い知ることだろう。しかし、私は先にガリラヤに行って待っている。ボロボロになった惨めなお前たちが私のもとに来るのを待っている。」―「あなたがたより先にガリラヤへ行く」とはそういうことです。

 主イエスは「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」とペトロに言われました。しかし、その時、主イエスの内にあったのは、ペトロに向けられた、そして弟子たちに向けられた憐れみであり慈しみだったのです。ペトロは主イエスの言葉を思い出しました。しかし、そこでペトロの心に浮かんできたのは、「わたしの言ったとおりになったではないか」と言って責めている主イエスの眼差しではなかっただろうと思います。そうではなくて、憐れみに満ちた主イエスの眼差しであったはずなのです。

 だからペトロは泣いたのです。あたりを憚ることなく激しく大声を上げて泣いたのです。彼は弱い自分を悲しみ、罪深い自分を悲しんで、激しく泣いた。泣くことができたのです。それまで彼は、漁師として、ユダヤ人として、そして十二弟子の一人として、また将来はメシアの王国のナンバー2になるべき人間として、強くなくてはなりませんでした。他の人々のために泣くことはあっても、自分の弱さと罪深さを泣いているわけにはいかなかったのです。しかしもういいのです。主イエスは何もかもご存じだった。どんなに強がって見せたって、虚勢を張って見せたって、主イエスはすべてご存じだということが分かったから。だからペトロは泣きました。自分自身のありのままの姿を認めて激しく泣いたのです。

 これがペトロです。後に教会の指導者となる使徒ペトロです。この物語は四つの福音書すべてに記されています。恐らく後の使徒ペトロは、この出来事を繰り返し人々に語ったに違いありません。だからこの物語が残っているのでしょう。ペトロははばかることなく、自分の弱さを語り続けた。なぜなら、あの時の涙なくして、後のペトロはなかったからです。私たちも、同じです。神様に仕えて生きようとする時に、本当に必要なのは私たち自身の強さではないのです。そうではなくて、主は全てをご存知であることを知ることなのです。その上で、私たちをこの上なく愛してくださっている主が、共にいてくださることを知ることなのです。そして、そのような主が共に歩んでくださることを感謝して、主を見上げて生きていくことなのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から感謝いたします。神さま、今日から私たちは主イエスが十字架への道をたどられた受難集を過ごします。主イエスの苦難と十字架の死が、私たちの罪を贖うための出来事であったことを、心深く覚えることができますように。そして、あなたに背く人間の罪のゆえに、今も戦争や不条理な苦しみのさなかに置かれている人々に心を重ね合わせて、この一週間を過ごさせてください。ひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

人間の知恵と力の限界

マルコによる福音書6章1~6節前半 2024年3月17日(日)主日礼拝説教

                                             牧師 藤田浩喜

「ふるさとは遠きにありて思うもの、そして悲しくうたうもの。」作家の室生犀星の言葉です。犀星はふるさとに対して、単純ではない思いを抱えています。ふるさとは実際に帰っていく場所ではなく、心の中で懐かしく思い起こす場所である。たとえ異郷で物乞いに落ちぶれても帰って来るべき所ではない。だから懐かしい望郷の念を胸に、自分は都会に帰って行こうと歌うのです。私の故郷は三重県の亀山という所ですが、室生犀星の思いが少し分かるような気がします。懐かしい思い出はたくさんあり、折に触れて思い起こすこともあります。しかし、長く離れていた自分が、今その故郷で暮らしたいと思うかというと、なかなかそのようには思えない。そんな簡単なことではないのです。

 今日の聖書は、「そこを去って故郷にお帰りになった」とあるように、主イエスが伝道の拠点であるガリラヤ湖畔のカファルナウムから、親や兄弟姉妹の住む故郷ナザレに、弟子を伴い帰って来たという場面であります。その日は安息日だったので、主イエスはユダヤ教の会堂で教え始められました。主イエスの教えやその力ある業は、すでにユダヤの国の津々浦々に風の噂で伝わっていました。もちろん、主イエスの故郷ナザレでも例外ではなかったものと思われます。しかし、ナザレの人々にはあのよく知っていたイエスと、噂の主イエスとは、どうもイメージが重ならなかったようです。ですから、主イエスの教えを聞いた多くの人々は、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」と驚き、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と疑いをあらわにしたのです。

 しかし、彼らの戸惑いは、ある意味では無理からぬものであったかも知れません。小さい頃からついこの間まで、主イエスは、ナザレの住人の一人であったのです。だれよりも、イエスのことはよく知っているという気負いもあったでしょう。あの「いつも泣いていたイエス坊や」「優しいイエス坊や」といった感じではないでしょうか。ですから、ナザレの人々の「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」という思いは、決して不思議でも何でもないのです。けれどもそのイエスが、会堂で教えられたのです。

それは自分たちの知っているマリアの息子、大工の息子ではありませんでした。彼らの目の前に立つ人物は別人のように、知恵があふれ力に満ち、同一人物とは思えないのです。主イエスを噂で聞く預言者、神の子、あるいは救い主として受け入れるどころか戸惑うことしかできず、彼らの生活の延長線上に主イエスを置いて見ること以外、考えられなかったのです。そのことを聖書は、「人々はイエスにつまずいた」と記しています。

 では、主イエスの側から見ればどうでしょう。主イエスは、疲れをいやすために、自分の愛する母や、兄弟姉妹の住むナザレに帰って来たのでしょうか。もしそうであれば、なるほどナザレの人々の知っているイエスでもよかったでしょう。しかし、主イエスは休養のためにナザレに帰って来たのではないのです。主イエスは、単身ではなく、弟子たちと一緒に、御言葉を宣べ伝えいやしの奇跡を行うために帰郷したのでした。どうも、ナザレの人々の視線と主イエスの視線とは平行線となっているようです。ナザレの人々が、神の子とまでは言わなくても、預言者の一人だと思ってくれるならば、どこかで接点が得られるのですが、そうではないようで平行線のままです。そしてその平行線こそが、主イエスにつまずいたということなのです。故郷の人々の主イエスに対する信仰の問題のみに留まらず、主イエスをあの十字架へと追いやって行く同胞ユダヤ人の心の動きと重なるものがあります。そう見て行きますと、私たち一人ひとりの在り方も問われているように思います。

私たちは福音書を読んで、どのような主イエスの姿を思い浮かべるでしょうか。子どもたちにお母さんの似顔絵を描かせると、思い思いのイメージで描きます。私たちの中にも主イエスのイメージがあります。中世の美術に描かれているような、まことに神々しく威厳に満ちたイエス像や、理想的な聖者として書かれている主イエスの伝記に慣れすぎている私たちが、もし主イエスが昔ナザレの村に帰られた時と同じ姿で、私たちの前に現れたらどうでしょう。私たちもまた、その見栄えのしない姿に失望して、こんな人が神の子であるはずはないと言って、つまずくのではないでしょうか。

イエス・キリストを信じるということは、彼を王座に座る権力者のように、威厳に満ちた方として尊敬する、あるいは私たちのお手本になる模範的な、理想的な人として見習おうとすることではありません。そうではなく、ベツレヘムの馬小屋から十字架の死に至るまで、主イエスは私たちと同じふつうの人間として、生きる苦しみや悲しみや痛みをそのどん底まで経験された。そして、まことにみすぼらしい姿の大工の子イエスにおいて、神が御自身を私たちに現された、この主イエスを通してすべての人に対する救いの御業をなされたと信じることなのです。本当に価値のある宝は、美しく飾られた宝石箱の中にあるのではなく、「土の器」の中に隠されているのです(Ⅱコリント4:7)。

 「神の痛みの神学」の著者として世界的に著名な北森嘉蔵先生は、著書『聖書の読み方』の中で、猿と猫の親子の関係を対比しつつ、信仰について次のように記しておられます。猿の場合、親猿が木から木へと渡るとき、子猿は親猿のおなかにしっかりつかまっています。この場合、子猿は親猿にしがみついていなければ脱落してしまいます。それとは反対に、猫の場合、親猫が移動するとき、親猫が子猫をしっかりくわえていきます。ですから、親猫が油断して離さない限り、子猫は脱落しません。ここで問題になるのは、脱落するかしないかの決定権がどちらにあるのかということです。つまり決定するのは、猿の場合は子どもの方であり、猫の場合は親の方であるということです。そしてこの関係を信仰になぞらえて、猿式信仰と猫式信仰との二つがあると述べておられます。そして北森先生は、「聖書のいう信仰は、『猿式』ではなく、『猫式』である」と結論づけています。

 さて、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と言う人々の言葉には、自分の経験が絶対で、自分の目で見て手で触ってみないとその確かさをつかみ取れない姿が見えます。同時に、気に入らなければ放棄することもできます。大切なのは相手ではなく自分自身であるということです。これは、北森先生の分類で言えば「猿式信仰」とでも言えるものではないでしょうか。つまり、ナザレの人々のほとんどが、自分の納得のできる親猿にしがみついているのであって、それが自分たちの知っている大工、マリアの息子となると、もうそれだけで、ぶら下かっている意味も価値も見出せないということになるのでしょう。これが先ほど申しました人間の側から見たその延長線上にある主イエスなのです。人の判断で権威あるものにしがみつくような猿式信仰である限り、神と人との関係は平行線のままで、そこにはつまずきしかないのです。

 ところが、神さまは主イエスをとおして猫式信仰を示されるのです。そのイエスは自ら進んで十字架の道を選ばれました。平行線を交わりの線に変えられたのです。今日の聖書の箇所の前に、ヤイロの娘と十二年出血の止まらない女性のいやしの記事がありました。主イエスは女性に「あなたの信仰があなたを救った」と言われ、またヤイロに「ただ信じなさい」とおっしやいました。そしてヤイロも十二年の出血の女性も、すべてを主イエスに委ねたのでした。これは猫式信仰と言えるでしょう。猫式信仰の決め手を持つのは猫の親であり、子猫は親猫にすべて身を委ねるのです。主イエスをこの世に遣わして下さった神さまの思いが、そこには示されています。

 日本基督教団早稲田教会の牧師であった上林順一郎先生は、次のような話をされています。ある日、新聞の折り込みに、「犬を探してください」というチラシが入っていました。それには、犬の似顔絵とその種類、体つきや毛の色、そして十八歳になる雄犬であり、背中が曲かっていて、耳が遠く、目も不自由で歯も十分でなく、後足はいつもヨロヨロして歩くという特徴が記されていました。そして、最後に、「見つけて下さった方には、この大が死んでいても、失礼と思いますが、三万円のお礼をさしあげます」と記されていました。このチラシを読んだ上林先生は、犬に、しかも老衰で死んでいるかもしれない犬に多額の費用を使い、そのうえ、発見者にお礼をするなど、考えて見ればもったいないと言えるかも知れないが、無駄の中に、もったいないようなことの中に、飼い主の犬に対する深い愛情と優しさを感じてうれしくなったと言われます。

 皆さんはどう思われるでしょう。「大が死んでいても、お礼を……」と、どこまでも飼い主として関わろうとする姿の中に、全く次元は違うかもしれませんが、私たちに対する主イエスの姿が重なって見えないでしょうか。ましてや、私たちは神に似せて造られたという人間であり、その神はひとり子を賜ったほどにこの世を愛して下さった神さまです。「大工ではないか。マリアの息子ではないか」と言い放つ私たちです。しかし今日の終電車はなくなってしまっても、明日もまた、主イエスの救いの電車は、かたくなな私たちを救いへ乗せるためにやって来るのです。乗り損なったと失望することなく、始発の電車を待ちたいものです。すべてをゆだねて、またこの一週間を共に歩み続けたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。神さま、私たちは今イエス・キリストの苦難と十字架を覚えるレントの時を過ごしています。真の神である御子イエスが大工の子として生まれ、人としてのすべての苦しみや悲しみ、痛みを負われたことを、私たちは知らされ、その姿につまずきます。しかし、そのご自分を低くする測り知れないへりくだりを通して、主イエスは私たち人間の罪を贖ってくださいました。どうか、この主イエスにすべてをゆだねて、このレントの一週間を過ごさせてください。私たちの群れの中には、病床にある者、高齢の者、人生の試練の中にある者たちがおります。どうか、そのような一人一人を特に顧みてください。折にかなった助けと主にある平安を与えていてください。また、世界では今も不条理としか言えない戦争状態が続いています。ウクライナで、パレスチナのガザで、ミャンマーで、戦いによって貴い命が失われています。神さまどうか、このような戦争を一刻も早く終結へと導いてください。そして人々が当たり前の平和な日常を取り戻すことができますように。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

罪を自覚することから

ヨナ書2章4~11節 2024年3月10日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 ヨナ書2章3~10節には、海の中に投げ込まれたヨナが、魚の腹の中に呑み込まれた時にささげた祈りが、詩文的に記されています。この祈りから示されることの一つは、ヨナは苦しみの極みを経験することによって初めて、祈る者となったということです。3節には、彼が海の水の中で祈った事実が告白されています。そして、4節以下には、その時の苦しみがいかに厳しいものであったかという回想と、そこから救い出してくださった神への感謝と賛美が、告白的に語られています。

 これらを読みます時、様々な苦しみを味わうことのある私たちの持つべき心が、どうあったらよいのかを示される思いがいたします。不条理としか考えられない苦しみ、意味を見出せない艱難などに陥ることのある私たちです。その苦難から抜け出る道はあるのか、ヨナの祈りからそのことを聞いていきたいと思います。

 さて、ヨナが海に投げ込まれた次第を振り返ってみますと、1章11節、12節にそれが記されていました。船乗りたちが、くじに当たったヨナに対して、あなたをどうしたら海が静まるだろうか、と問いかけたのに対して、ヨナ自身がわたしの手足を捕えて海にほうり込むがよい、と答えています。そして、そのヨナの指示どおりに乗組員たちがヨナを海にほうり込みました。それが事柄の経緯です。

 しかし、ヨナの祈りを読んでみますと、事柄を進めて行ったのは神ご自身であるように語られています。4節を見てみますと、ヨナが神に向かって言った言葉として、「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた」と記されています。ヨナは、神がわたしを海に投げ込んだ、と語っているのです。

 また4節の3行目、「波また波がわたしの上を越えて行く」、これは口語訳では、「あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った」となります。このように波という言葉の前に「あなたの」という語があり、「神」の送った波がわたしを越えて行った、とヨナは述べているのです。本来ここに、「あなたの」という言葉が付けられていることを、見落とさないようにしなければなりません。

 このように、神がヨナを追放し、神がヨナを海に投げ入れ、神が自ら海の水をもってヨナに死の苦しみを味わわせられたのだ、とヨナ自身が祈りの中で述べています。これはどのように理解すべきものなのでしょうか。この受けとめ方には、大きく別けて二つあります。

 その一つは、ヨナが自分の罪や、自分の神への反逆を棚に上げて、自分を襲った苦しみの出来事をすべて神のせいにしている、そんなヨナの理解がそこに表されているという受けとめ方です。この場合、神に向かって、あなたのせいでわたしは死の苦しみを味わっているのだ、と抗議しているヨナの気持ちが表されているということになります。それは責任転嫁であり、また自分自身を正当化しようとするものであると言わざるを得ません。旧約聖書には、しばしばそのような人間の高ぶりが描かれています。エゼキエル書28章2節に次の言葉が出てきます。「主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ」。

 こういう高慢な心を持ちがちな私たち人間に対する、神の警告がそこに記されています。自分の心が神のようになって事柄を判断する。そのことは古代の人々だけでなく、今日においても私たちがなしやすいことです。私たち自身も、同じ傾向を持っています。自分の罪や過ちをまともに見ずに、自分にとって不利なことを神のせいにしたり、他人のせいにしたりする、ということを私たちはしがちなのです。そしてその結果、神と人とを呪うのです。ヨナは、そういう心の状況の中で、この祈りの言葉を口にしているという理解も、なるほど成り立つでしょう。しかしこれは果して正しい理解でしょうか。もう一つ別の理解を考えてみたいと思います。

 それは、自分が海に投げ込まれたのも、また一時期神から追放されたような状況に置かれたのも、それは確かに神がなさったことである。しかし、それは神の正当な行為なのだとの思いを込めて、「あなたがわたしを海に投げ込まれた」、とヨナが告白している祈りだと理解する。そういう理解の仕方です。つまり、そこにはヨナ自身の罪の認識がある、ということになります。自分が犯した罪に対して神が怒りを表わされた。神が自分を今罰しておられるのは、悔い改めを求めて、自分をこの苦しみの中においておられるのだ。これを受けるのは当然であるというヨナの認識が、そこにあるということです。

 この場合は、自分の苦しみを他人のせいにせず、神のせいにもせず、「わたしが罪を犯したのですから、神がわたしを懲らしめられるのは正当なことです」というヨナのへりくだりを、ここに読み取るのです。

 ヨナの祈りのこの部分は、このように二つの異なる理解が可能なところですけれども、祈り全体を見てみます時に、私たちは後者の理解に立つべきである、ということを教えられます。苦しみの極みまで追いやられた限界状況の中で、ヨナはやっとこれは自分の罪のゆえである、と自覚するに至ったのです。そのような悔い改めの中からこそ、この祈りが生まれてきたのです。

 神との関係の中で、正しく自分の状況や起こっている事柄を見ることができる時、そこから新しい事態が始まります。新しい状況へと自分が移されることが起こるのです。事実、ヨナは死の間際まで追いやられながら、再び命へと引き戻されることになります。

 自分の苦悩や悲しみや艱難が、神との関係の中で正しく捉えられ、正当に位置づけられることによって、かえってそこから新しい命の可能性が生じてくることがあるのです。苦しみが神との関係の中で正しく受けとめられる時に、事態は大きく変化することがあるということを、私たちはヨナの祈りから学ばされるのです。私たちの苦しみも悲しみも、何とかして神の御心をその中に見出そうと求める時に、神の業としてそれを受容できる時が来るに違いありません。そしてそこから、新しい何かが始まるのです。神はそのようにしてくださるお方なのです。

 ところで、ヨナが海の中に投げ込まれた時に、彼を襲った苦しみの状況が具体的な事柄や象徴的な表現を用いて、4節以下で描かれていますので、それを少し見ておきましょう。4節に、深い海に投げ込まれた、潮の流れがわたしを巻き込み、波また波がわたしの上を越えて行く、と記されています。このように、海とか水にまつわる言葉が繰り返されています。これは、人が危険にさらされた時の状況を描く場合に、旧約聖書においてしばしば用いられるものです。事実ヨナは、海の中に投げ込まれたわけですから、海や波が彼を襲っていることがそこに描かれています。

 6節に、「大水がわたしを襲って喉に達する」という表現が出てまいります。これもまた、生命の危険が迫っていることを言い表す時にしばしば用いられるものです。詩編69編2節に、「神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました」とあります。大水が喉元に達する、それは命の危険にさらされていることを表すものです。また今日の2章6節の2行目に、「深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく」とあります。もがけばもがくほど水草に体を奪われて、身動きできなくなっていく様子が描かれています。また、7節には、「わたしは山々の基まで、地の底まで沈み」という言葉があります。古代の人々は、山はその基が海の底にあって、海から突き出て山が陸上に立った、と考えました。ですから山の基まで沈んだということは、最も深い海の底、地の底まで沈んだということを、表現しようとしているのです。そして7節には、「地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」と述べられています。地の底まで落ちたヨナの上に、地の底の扉が閉ざされて、もはや脱出できない状況になったということを語っています。3節に、「陰府の底から、助けを求める」という言葉がありますが、死の世界、死人の世界まで自分が落ち込んで行ったということを、7節では別の言い表し方をしているのです。このような様々な描写によって、海底深く沈んで行く様子、それをとおしての苦しみ、死と隣り合わせの状況にまで陥ったことの絶望を、ヨナは語ろうとしているのです。

 そして、そこまで追い詰められた時に、やっとヨナは神に助けを叫び求める者となりました。3節がそのことを示しています。別の見方をすれば、そこまで苦しみを味わわなければ、彼は真の神を見つめることができない者となってしまっていた、ということになります。

 下り坂を転がり落ちるように、最も低く、最も深い所まで落ち込み、光を見失った時、その時に初めて彼は真の光とは何であるか、自分をゆだねるべきお方はどなたであるかを、思い起こすことができました。そして神に助けを求めて叫ぶ者となったのです。彼の下へ下へと向かう道がそこで止まり、新しい上向きの道へと、彼は方向転換させられるのです。そのことが今日の7節の後半以下に告白されているのです。

 苦しみや危機は、神から切り離される一面を持っています。しかし逆に、私たちを襲う苦しみや危機が真の神への信仰に繋がることがあるということを、聖書は恵みの約束として、私たちにしばしば語っています。

 イエス・キリストが語られた、放蕩息子の譬え話においても、同じことが教えられています。弟息子は飢え死にしそうな中で、次のように方向転換を決意しました。「父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」ルカによる福音書15章に記されている有名な譬え話です。

 神の恵みに値しない自分であることを知った時に、初めて神の恵みが逆にその人に与えられることがあるのです。神の恵みから切り離されたと思ったその時に、神をもう一度見つめることができるならば、新しい恵みがそこに用意されていることに気づかされる。そうしたことが私たちの人生にはあるのです。神は私たちの思いをはるかに超えた方法で、事をなさるお方なのです

 現在、自分の人生は下降の一途を辿っているとしか思えない人がいるかも知れません。ヨナが海の底に沈んで行くように、光のない暗闇の中に落ち込んで行くように、自分は滅びに向かって進んでいるとしか思えない。そういう人もこの中にはおられるかも知れません。命の力が弱り、生きる力が衰えている。そうとしか考えられないほどに、望み無き状態に陥っている人もおられるかも知れません。

 しかし、それを他人のせいにせず、運命のせいにせず、神のせいにもしないで、その中でなお神を呼び求めるようにと、ヨナが教えてくれています。神の手によって打たれたヨナでしたけれども、新たに神を呼び求める時に、彼を打った手が、逆に彼を助ける手として働いてくださっています。

 それと同じことが、今日においても起こります。私たちにおいても、起こります。神の御手が私たちを危機や困難に追いやることがあります。しかし同じ御手が、そこから新しく恵みへと引き上げてくださることもあるのです。いや、神に身をゆだねる者に対して、神は必ずそのようにしてくださいます。

 使徒信条が告白していますように、イエス・キリストは陰府をさえ、すなわち死人の世界をさえ、克服されたお方です。閉ざされた死の世界さえ打ち破って、命の扉を開いてくださった主です。ならばその主が、生きている私たちの世界で、命と光の扉を開くために働いてくださらないはずがないのです。

 私たちは苦難と死を克服されたイエス・キリストの勝利の確かさの中で、自分の苦しみを見つめることが求められています。そして、そうすることができる時に、必ずや私たちの生は神によって新しい展開を与えられます。私たちはその約束を信じて待ち望むことが、許されているのです。お祈りをいたしましょう。

【お祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と礼拝を共にすることができましたことを、感謝いたします。神さま、私たちは人生において様々な危機や困難に遭遇します。それらの危機や困難は、私たちをあなたから遠ざけてしまうことがあります。しかし、そうした危機や困難の中であなたを仰ぎ、祈りの声を上げるとき、あなたは御手を伸べて私たちを引き寄せてくださいます。そして今まで見えなかった新しい道を私たちに見させてくださいます。どうか、どのような時にもあなたの御許に留まらせてください。今、群れの中で病床にある者、高齢の者、大きな試練の中にある者を、特に顧みてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

背後の人

マルコによる福音書5章25~34節 2024年3月3日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

マルコによる福音書には奇跡物語が多く出てきます。奇跡を語ることによって、圧倒的な力をもって人を生かされた救い主の働きを印象深く伝えようとしたのです。今日の箇所の物語もその一例です。ここでは十二年もの間病苦に悩まされていた一人の女性の健康回復の過程が述べられると共に、それによって人間と主イエスとの出会いの姿が生き生きと描き出されています。

 この女性は出血の病気を患っていました。この出血がどのような病気か正確には分かりませんが、当時この出血を患う人がかなりいたようです。なかなか難しい病気で、この女性も治療のために多くの医者にかかりました。しかし色々手を尽くしても、あれもダメ、これもダメということだったのです。

 そしてこの病む状態は、単に肉体、身体にとどまりません。このような病を得ることで、彼女はそれまでの人生、生き方においても変更を余儀なくされた。心理的、精神的側面においても「ひどく苦しめられて」きたのです。当時のイスラエルにありましては、女性に継続的な出血があるということは、宗教的に、社会的に穢れた者とされたのです。彼女にとっては、身体(からだ)の病気という以上に、社会において人々から穢れているとのけ者にされて来たことが、大きな苦しみであったに違いありません。

この女性が、治りたいという一心から、群衆の中に紛れ込んで、だれにも気付かれないようにしてひそかに主イエスにさわったのでした。ここには庶民のずるさのようなものが感じられます。今申し上げたように、律法によればこのような病気の女は汚れたものと考えられ、人に触れてはならないとされていました(レビ記15章)。たしかにこのような規定そのものが、不合理で非人道的です。しかしそれなら、正面からこれに挑戦して、堂々とその禁令を破ったらよいのですが、彼女はそれほどの勇気は持ち合せていませんでした。人々の目も気になったに違いありません。何気ない様を装いながら、多数の陰に隠れて、ひそかに自分の願いを満たしているのです。

 しかしそれはずるさというよりも、表通りを歩くこともできない恥かしい思いの一人の人間が、それでも何とか人並みの生活をしたいという、切実な願いから考えついた、いじらしいばかりの苦肉の策であったというのが正確でしょう。日蔭の草が、太陽の光を求めてあちらこちらへ懸命に茎をくねらせて伸びてゆくような、弱者の精いっぱいの努力であったのです。

 さらにここには、この女性の主イエスに対する畏れが示されています。罪人は聖なる神の前に出ることはできません。神を見る者は死ぬのです。ペトロも主イエスの聖なる力に触れたとき「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と、畏れおののいたと言われています(ルカ5:8)。しかし、正面から主を仰ぐことができないにもかかわらず、私たちは主に近づき、主に帰る以外に行くべきところはありません。主から「あなたがたも去ろうとするのか」と問われれば、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」(ヨハネ6:67、68、口語訳)と、主に帰り、主のもとに留まる以外に、行くべきところはないのです。主に対して、恐れつつ近づき、近づきつつおののくのです。主を恐れつつ、主を慕います。その点からも、この女性の姿はそのまま私たちの姿なのです。

 このように背後から恐れおののきながら触れた手に対して、主の力が出てゆきました。ちょうど電源につながれたコードに電流が通じ、電流計にその変化が表示されるように、主イエスは、自分の内の霊的エネルギーが、背後から触れてきた手を通じて、何者かの内に流れ入ったことを、鋭敏に察知されました。

 背後の人の求めにも直ちに応えられる主イエスの姿は、私たちにとって深い慰めです。主イエスは、正面から御前に近づくことのできない人間を、背中で受け止めてくださいました。かつてモーセが神の御姿を見ることを願ったとき、神はモーセを岩の裂け目に入れ、神の栄光が通り過ぎるまで御手をもって彼を覆い、通り終えたときに手をのけて、その背後を仰がせてくださいました。「わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」(出エ33:23)。これは神の憐れみの行為でした。人間は神の御顔を見たのちに、なお生きることはできないからです。神は人間の罪を見ないで、人間に近づいてくださいます。

 実に、神が人になってくださったという、受肉の出来事が、神が神としての正面の姿でなく、人間性を介して私たちに出会ってくださるという、いわば後ろ向きに立ってくださったことを示しています。間接的に、私たちが罪あるままに近づくことのできる姿で、神は私たちの前に立ってくださるお方なのです。ルターが教えているように、私たちは私たちに背中を広げて近づいてくださる主イエスに対して、父親の背中に飛びついてゆく子どものように近づいてゆくのです。主イエスは、人間性という背中に私たちを乗せて、父のもとに私たちを導いてくださるのです。

 神と人間との関係は、神の側の恵みと憐れみによってのみ成り立つ関係です。私たちは、主と共に歩ませていただいていることを、何か当たり前のことのように考えてはなりません。使徒パウロが語っているように、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(Iコリ15:10)。

 主イエスは、このように背後の人をも癒されたのでありますが、その人を背後にいるままに放置してはおかれませんでした。「イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」(マルコ5:32)。この「見回しておられた」という言葉は、原語では未完了形が用いられています。この動作が一度で終わらず、くりかえし継続していたことを示しています。したがって、「見回し続けておられた」と訳した方が正確です。

 主イエスは人間を無個性の群衆とは見なされません。大衆操作の対象としては扱われないのです。近づいてくる一人一人と人格的な関係を結ぶことを求められるのです。人が主イエスに対して背後から近づいたとしても、背後で癒されたならば、それで用は終わったと、そのまま自分の家に帰って行く者であってはならない。背後で得た恵みへの喜びのあまり、恥かしさも忘れて、思い切って主の前に出て、感謝を表すという勇気と決断を持つことを望まれるのです。そのような恵みへの感謝の応答がなされるまで、主イエスは私たちを求めて「見回し続けられる」のです。

 信仰は神との出会いであり、神との生ける交わりです。この交わりそのものを目的としないで、交わりに伴う恵みだけを目当てとするような態度は、神を自分の目的のために利用することになります。入信による物質的な報酬を求めるいわゆる御利益宗教や、精神的な安心立命を強調する宗教も、神を自分の生活を幸福にするための手段と考える点では、いずれも宗教的エゴイズムです。主イエスはそのような宗教的エゴイズムに対して、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と命じられました(マタ6:33)。神の御支配に服し、神との交わりそのものを第一とする生活を確立しなければなりません。あの出血に苦しんだ女性も、初めは主との人格的な出会いよりも、その結果としての自分の幸福のみを手に入れようとしました。しかし、病気の癒しだけでなく、人格的な出会いを求めて、しきりに見回しておられる主イエスの視線にふれました。そしてその眼差しにうながされるように、「震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」(5:33)。自分のいささか虫のよい願いに対しても応えてくださり、しかもそこから成長して、自分の方から信仰の応答をするようにと、求め続けておられる主に接して、彼女は主の背後から引き出されて、御前に立つ者とされたのです。主のうながしによって、彼女は信仰者としての主体性を確立したのです。

 主イエスはこの応答を深く喜ばれて、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(5:34)と、祝福しつつ送り出されました。私たちの信仰は、主の恵みと招きに対する応答にすぎません。けれど主はこれを真剣に取り上げて、私たちを対等のパートナーとして取り扱われます。主は私たちを友のように処遇してくださいます。信仰によって私たちは、主の力を自分の力として生きることが許されるのです。主イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいました。しかし、本当のところ、主イエスこそ彼女を救われたのです。このように一人の信仰者として、彼女が主イエスの前に、そして神の前に立ち得るように導かれたのは、主イエスであったからです。そうでありながらなお、「あなたの信仰」と主イエスが彼女の信仰を称賛されたのは、彼女のそのような決断を慈しまれ評価なさったからです。そしてそのように褒めることを通して、彼女の信仰的自立を励ましてくださったのです。

 言い伝えによりますと、この女性の名はヴェロニカ(またはベレニケ)と言い、エデッサの王女であったと言われています。後に彼女は、主イエスが十字架を負ってヴィア・ドロロサ(悲しみの道)を歩まれたとき、苦しみのあまり油汗を流して躓きながら進まれる主の御姿に心を痛め、自分のハンカチで主の御顔を拭いました。ところがそのハンカチには、受難の主の御顔があざやかに残されたと言います。ヴェロニカのハンカチの言い伝えです。ルオーの作品にもこれを描いたのがあります。もちろんこれは伝説です。しかし、かつて主イエスの背後からひそやかに近づいた女性が、十字架の主を仰いだ時、人をも恐れず進み出た。そして勇気をもって主に仕えたという物語は、主への感謝と愛の故に、背後の人から御前に立つ人に変えられた、彼女の信仰の成長を示しています。そして、私たち一人一人もそうであるようにと、主イエスは励ましてくださっているのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を共にし、あなたを褒め称えることができましたことを、感謝いたします。主イエスは、うしろからしか近づくことのできない私たちの手を取って、主の御前に立つことのできる者としてくださいます。どうか、私たちが主の御手に引かれて力を得、主に呼びかけられて、勇気をもって応答する者にさせて下さい。今、私たちの住んでいる地には地震が頻発し、私たちは恐れと不安の中にあります。どうか、私たち一人一人にあなたの平安を与えてください。そして、私たちが備えを怠ることなく冷静に、毎日を過ごすことができますよう導いていてください。群れの中には病床にある者、高齢の者、困難に立たされている者がおります。神さまどうか、一人一人をその御手をもってお支えください。そして共に歩んでいるその家族の上にも、あなたの支えとねぎらいを与えてください。今も戦乱の中で命の危機に直面しているウクライナ、パレスチナのガザ、ミャンマーの人々を、あなたが守りお支えください。能登半島地震の被災者を、どうか顧みていてください。このひと言のお祈りを、主の御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン