神の愛はあまねく注がれる

ヨナ書1章1~3節    2023年9月17日(日)主日礼拝説教

                              牧師 藤田浩喜 

ルツ記を読み終わりましたので、今日から月一回ヨナ書をご一緒に学んでいきたいと思います。

 ヨナ書は、旧約聖書においてホセア書から最後のマラキ書まで続く12の預言書の一つです。一般にそれを12小預言書と言いますけれども、ヨナ書はその中の一つの文書です。これはヨナという一人の人物が主人公となった、短編小説のような形で書かれています。多くの預言書は、神から預言者に託された言葉、すなわち、預言とか、悔い改めを求める言葉とか、救いの約束の言葉といった、神からの託宣が集められたものとして著されています。それに対してヨナ書は、新約聖書に出てくる一つの譬え話のような性格をもって書かれているのです。

 このヨナ書の主人公となっているヨナという人物は、実在したのかどうか、ということも問題にされることがあります。1節に「アミタイの子ヨナ」と記されています。この人物の名前が旧約聖書に登場する、他のただ一つの個所は、列王記下14章25節です。「ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイ子のヨナ」と記されています。ここに登場するヨナは、イスラエルの王がヤロブアム二世の時代ですから、列王記に出てくる時代をそのままヨナの時代と考えると、紀元前8世紀の半ばと推測されます。

 しかし、実際にヨナ書が書かれたのは、それよりもずっと後の時代、紀元前6世紀~4世紀の間であることが、様々な理由から言われています。言葉遣いとか、背景となった思想ということを考えるとき、ヨナは紀元前8世紀の時代の人物だけれども、実際にヨナ書が書かれたのはそれより200年、300年後の時代だと、推測することができるのです。

 紀元前8世紀頃は、イスラエルの隣国であるアッシリアという国が、力を誇っていた時代でした。イスラエルはその脅威にさらされていました。そしてついには、北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされます。2節に出てくるニネベというのは、アッシリア帝国の首都の名前です。今そのニネベに行くように神から命じられているヨナは、列王記においては預言者と記されていました。

ヨナは神によって、預言者的務めのために呼び出されているのです。

 しかし、ヨナはそれから逃げようとしています。そのヨナがこの書の中心人物であることは間違いないことです。しかし同時に、神がこの書のもう一人の主人公であるということも、ヨナ書を読んでいくときに示されます。ヨナ書はわずか4章で、数えてみても48節しかない短い文書です。その中に主、あるいは神という名が、40回近く用いられています。そのことも示しているように、ヨナ書はヨナを中心に事柄が展開されますが、むしろヨナが神にどのように関わるか、あるいは神がヨナにどのような関わりを持たれるか、そのことが主題となっていると言ってよいのです。誰も近づけないような偉大な預言者ではないヨナと神との関わりを見ていくとき、私たちは自分自身と神との関係をどうしても考えざるを得なくされます。ある人は、私たちの自画像がここに描かれているようであると語っています。そのように私たちは、自分自身のことをこのヨナ書を通して考えさせられるのではないかと思います。

 さて、この書は「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」という文で書き始められています。主の言葉がある人に臨むということは、神がその人に語るべき言葉を託したり、神がある人を何らかの行動に召し出すときに用いられる表現です。それは神の意思が、ある人にはっきりと示されることです。生ける神が今一人の人に向かって動き出しておられる、それが主の言葉が臨むということの意味なのです。神が自分に向かって働きかけておられる、そのことを知った人は、その時何らかの応答をしなければなりません。その言葉が無かったかのように生きることは、もはやできないのです。人はそれに応えなければなりません。

 その時、神の言葉が指し示す方向に素直に歩んで行く応答もあります。神の言葉が意味することがよく分からない、神の御心をもっときちんと知ろうと、祈りの格闘を始める者もいます。さらには、そのような神の御言葉を自分にとっては受け入れ難いと受けとめて、神の前から逃げ出す道を行く者もいます。ヨナはどうしたでしょうか。

 ヨナに臨んだ主なる神の御言葉は、「大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ」でありました。神がヨナに近づいて、ニネベに行きなさい、そこで神の言葉を語りなさいと、新しい務めをヨナにお命じになりました。しかし、それに対してヨナは「主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった」と、3節に記されています。ヨナは無言のうちに神の御言葉に反抗し、神が指し示す方向とは逆の方向に向かって行きます。彼の沈黙の行動の中に、彼の強い意志が読み取れるように思うのです。

 この時のヨナの心の内は、どのようなものであったでしょうか。それを知る手掛かりは、彼に行くように命じられた、「大いなる都ニネベ」に、彼の心の内を知る手掛かりがあると考えられます。ニネベは先ほども申しましたように、当時のアッシリアの首都でした。エルサレムからは、直線で東北方向に700キロ位のところに位置した都市です。国の政治、経済、文化の中心都市でした。それは繁栄の都であり、エルサレムと比べるならばあまりにも大きな街でした。それと同時に、頽廃と堕落の罪が満ちた都でもありました。ヨナにとっては、それは自分とは全く関係のない異国の大都市、そのようにしか、ニネベを捉えることができなかったのではないでしょうか。その悪が神の前に届いていると、主なる神は語られます。その都の悪が、自力では解決できないほど大きなものになっている、見過ごしにできないほど、ニネベの罪が深刻なものになっている。神を抜きにふくれ上がった人間の社会、人間の世界の象徴と代表がここにあります。

 そこに神の御言葉を携えて行けと、ヨナは命じられます。そこで語るべき言葉は、ここには記されていません。しかし、それは当然悪に対する神の警告の言葉であり、悔い改めを求める言葉であったことでしょう。それらの言葉をニネベの人々に語りかけよと言われる。それは裏を返せば、悔い改めるならば、神の救いの恵みが彼らにも与えられるということを、知らせることでもありました。ヨナはそのような神のご計画をいま知らされて、心が騒ぐのです。なぜニネベの人々に、そのようにしなければならないのか。どうして自分がその務めを担わなければならないのか。神はいったい何を考えておられるのだろうかと、ヨナは神への猜疑心に襲われたのかも知れません。

 さらにもう一つ決定的なこととして、自分が信じる神はイスラエルの神であって他の国の神ではない。他の民にとって神の恵みは必要ではない、という選民意識や特権意識が、ヨナの心を支配していたではないでしょうか。それはヨナだけではなくて、当時のほとんどのイスラエルの人々が持っていた偏狭な考え方であり、排他的な思想でした。ヨナはニネベの人々に神の御言葉を語る必要性も、必然性も感じないのです。その責任を覚えるということも全くないのです。救いはイスラエルのみと考えるヨナにとって、ニネベの都の人々は、全く自分の関心外のことである。そのことも、彼が神の前から逃げ出した、一つの原因になっていたのではないかと思うのです。

 しかし、私たちがここで考えなければならないことがあります。それは私たちが関心を持たないものであっても、神が関心を持たれることはあるのだ、ということです。そして神が関心を持たれることであるならば、私たちがそれまで関心を持つことがなかったとしても、私たちは関心を持つことが求められるのです。神の関心は、私たちの関心事にならなければならないということです。

ニネベの悪はヨナには全く関係のないこと、関心のないことでした。しかし、神はその悪の都ニネベにも心を向けられるお方です。そうであるならば、ヨナは自分の思いを超えて、神の関心事を自分の関心事とすべきであったのです。使徒パウロは、信仰の本質を次のように語っています。ローマの信徒への手紙3章29~30節です。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。」パウロはそのように述べています。

 もちろん、ヨナの時代の人々はそこまで神を、世界大の方として捉えることができませんでした。ヨナもその一人でした。しかし、今、神が異邦の国、悪の都ニネベに関心を持たれることが明らかにされた以上、ヨナもまたそれに関心を持つこと、それが彼に求められることでした。しかしヨナはまだ、そのような信仰を自分のものとすることはできていません。神は異邦の人の神でもあるという目を、ヨナはまだ持つことができないでいました。それゆえ、自分の思いとは反することを命じられる神から逃亡することを、彼は企てるのです。

 タルシシュがどこなのかということについては、幾つかの説があります。これについては、大方の人が考える今のスペイン南部にある町として受けとめておきたいと思います。地中海を船に乗って西へ西へ行くと、その果てにタルシシュがある、そういう場所です。ヨナはそこに逃れれば神の目も届かない、そのような地の果てまで行けばいやな務めをしなくてすむ、そう考えたに違いありません。

 タルシシュ行きの船に乗るためにヨナは、現在のテルアビブに近い港町ヤッファに下って行くのです。神は、ヨナに東の方に行けと命じられました。しかしヨナは、西の方に向かって行きました。神が行けと指し示される方向とは逆の方に行きました。神が指し示す方向とは逆の方向に行くこと、それはまさに主から逃れることであります。ヨナは神への不満をもって、神が定められたところではなくて、自分で勝手に決めたところへ向かって行きました。

しかし、いかに当時の地の果てである、土地に逃れたとしても、神から逃れることはできません。詩編の作者は、次のように歌っています。139編7~8節の言葉です。「どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。」神から逃れようとしても、逃れることはできない。それは裏を返せば、神の愛はあまねくそれぞれのところに与えられるということです。いかなるところに逃げようとも、神の愛から逃れる場所はこの世にはどこにも無いということです。そのような積極的なことも、同時に歌われているのではないでしょうか。

 ヨナは神を信じなかったのではありません。神の言葉を聞いて神から逃れようとすることは、神が生きておられることを信じていたからこそ、それに反抗しよう企てた行為です。しかし、神を信じていたとしても、また神の存在を知っていたとしても、いま知らされた神の御計画が、彼にはわずらわしく思えたのです。そのために、神から離れて生きようと試みたのです。人の思いが先行する時、愚かな行動が起こってきます。そしてそれは初めはうまく行っても、必ず失敗してしまうのです。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」、箴言19章21節の言葉です。

 もし、私たちに対する神の御声を聞いたならば、それに従わなくてはなりません。そして神との正しい関係を保って歩んで行くことが必要です。神は私たちと正しい関係を持ちたいと願っておられます。ですから、神の御言葉を受け入れ、神に従っていくことが、私たちのなすべきことなのです。お祈りをいたします。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。神様、あなたの御心は私たち人間の考えることを、遥かに超えて行かれます。あなたは、広く、深く、高く、この世界を見ておられ、この世界に対するご計画をお持ちです。どうか、私たちが人間の物差しであなたの御心を測ることなく、あなたの御心に心から従う者とならせてください。私たちの群れの中には、病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、人生の大きな試練の中にある兄弟姉妹がおります。どうか、それらの兄弟姉妹を特にあなたが顧みてくださり、あなたの御手をもって導いていてください。この拙きひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。