天にある永遠の住みか

コリントの信徒への手紙 二 5章1~10節 2023年11月5日(日)主日礼拝

                         牧師  藤田浩喜

 今日は召天者記念礼拝を皆さまと一緒に守ることができて感謝です。ここにおられる皆さまのほとんどが、ご自分のご家族を亡くされた経験をもっておられることでしょう。突然、ある日ご家族を亡くされた方もあるでしょうし、しばらくの間看取りの期間を過ごした後、ご家族が亡くなったという方もあるでしょう。どんなに手厚く看取りをなさった場合でも、看取った家族には「悔い」というか「心残り」があるものです。「生きている間に、こうしてやればよかった。こんなこともできたのに」と、心残りを感じているのです。看取りの期間があった家族でもそう感じるとすれば、突然ご家族を亡くされた場合には、いっそう強く、そのように感じるのではないかと思います。

 私は父を中学校2年生の時に亡くし、母を今から14年前に亡くしました。父の時は自分がまだ子どもでしたので、看取ったという記憶はありません。しかし、母の場合は私は50歳になろうとしており、西宮の牧師館に引き取った時期もありましたので、妻と一緒に母の世話をし、看取ったという記憶があります。

できることは精一杯したと思う反面、息子として至らなかったことも多く、「こうしてあげればよかった。どうしてできなかったんだろう」と、今でも心が痛むことがあります。「できることならあの世に行った時に、『あの時はごめんな』と謝りたい」と思う気持ちがあります。そのように謝りたいというだけではありません。「もう一度会えたら、こんな言葉も掛けたい、こんな報告もしたい」という願いを、ここにおられる皆さまも持っておられるのではないでしょうか。そのような願いを心に抱いている私たちに、今日の箇所でパウロは、私たちの死後のこと、死んで後に経験することを語っているのです。

 今日読んでいただいた箇所のすぐ前、4章18節でパウロは「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言っています。有名な言葉です。私たちキリスト者は、信仰によって見えるものだけではなく、見えないものに目を注ぎ、見ています。その信仰によって見ているものは何か。その一つとして今日の5章1節以下で挙げられているのが、「天にある永遠の住みか」なのです。それは死んで後のことです。目に見えないものですから、一目瞭然というわけにはいきません。そのためパウロは、建物のイメージや着物を着るイメージを用いながら、「天にある永遠の住みか」を描き出そうとしているのです。

 「天にある永遠の住みか」とは、そもそもどういうものか。パウロの他の手紙、たとえばコリントの信徒への手紙 一 15章などから示されることは、「天にある永遠の住みか」とは、新しい「霊的な『体』」と言い換えることができます。この「霊的な『体』」は、滅びることも、死んでしまうこともありません。「信じる者は、「肉体の『体』ではない、「霊的な『体』」を受ける。それは滅びることも、死んでしまうこともない。」パウロはそのように語っているのです。

 では、その信じる者が死んで後受ける「霊的な『体』」である「天にある永遠の住みか」には、どんな性質や特徴があるのでしょう。私たちもイメージを豊かにしながら、パウロの語る言葉に聞きましょう。まず、第一に「天にある永遠の住みか」は、「地上の住みかである幕屋」とは対照的です。わたしたちの地上の住みかである幕屋は、先ほど述べた言葉で言えば、地上を生きる「肉的な『体』」です。今生きている地上の体です。幕屋はテントであり、テントは私たちが知っているように時が経つと劣化して、朽ち果ててしまいます。また、暴風などの自然災害によって、突然壊れてしまうこともあります。それが地上を生きる「肉的な『体』」です。しかし、「天にある永遠の住みか」は人間が造ったものではなく、神によって備えられた建物です。神が備えてくださった建物ですから、朽ちることも壊れることもありません。永遠に揺らぐことなく建ち続けるのです。

 しかし「天にある永遠の住みか」と「地上の住みかである幕屋」は、まったく無関係で、何の接点もないのかと言うと、そうではありません。パウロは2~3節で次のように言っています。「わたしたちは、天から与えられる住かを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。」地上を生きる「肉的な『体』」は、皆さんも実感されているように、悩みや苦しみを避けることはできません。4節にありますように「重荷を負ってうめ」くように毎日を生きています。パウロにしても福音を宣べ伝える上で、筆舌に尽くしがたい苦しみを経験しました。しかし、「天にある永遠の住みか」は、そのような「地上の住みかである幕屋」の上に、重ね着するものであります。「地上の住みかである幕屋」が無くなったり、消滅したりすることはありません。そのイメージから分かるように、地上を生きる「肉的な『体』」は、新しい「霊的な『体』」を与えられても、私たちの人格は継続していきます。その人自身、私自身であることは変わりません。継続していくのです。私たちが地上の人生おいて過ごしてきた日々の記憶、私たちが結んできた様々な関係、たとえば親子関係や友人関係が、決して消滅してしまうことはないのです。

 「天にある永遠の住みか」についてパウロが語る第3のことは、4節に記されています。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられた住みかを上に着たいからです。」ここでは、「天にある永遠の住みか」を上に着たい理由が述べられています。パウロは「死は最後の敵である」(Ⅰコリ15:26)と述べています。そして死をここにいる者は誰一人、経験したことはありません。死は善も悪もすべて飲み込んでしまう。死によって私たちの存在が飲み込まれてしまい、死すべきものは永遠に消え去ると思って、人は苦しむのではないでしょうか。人が死ねば「無」になる。何も残らないのではないかと、恐れるのです。

しかし、パウロはそうではない。死すべきものは命に、すなわち永遠の命に飲み込まれてしまうのだ、と言うのです。パウロはコリントの信徒への手紙 一15章54節で、同じようなことを次のように述べています。322頁、57節まで読んでみましょう。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」このように、イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、今や死そのものが、復活の命に飲み込まれているのです。信じる者を待っているのは死ではない。復活の命なのです。

 先週、高木慶子(よしこ)さんが書いた『大切な人をなくすということ』という本を読みました。高木さんはカトリックのシスターで、死を迎える患者のターミナルケアや遺族へのグリーフケアを長年なさっている方です。小さな本ですが、とても中身の濃い本です。多くのことを教えられましたが、一つのエピソードだけ、今日はご紹介したいと思います。

 高木さんは53歳の吉永さん(仮名ですが)を、病床に訪ねられていました。この方はバリバリ仕事をされ、会社の部長にまで昇進された方でした。この吉永さんにすい臓がんがあることが分かり、お医者さんからは余命3か月と言われました。ご本人は最初、「僕は仕事をするだけして、後はバタンキューでいい」とおっしゃっていました。しかしそれは「がんばっている姿を見せていないと家族が心配すると思った」、「自分自身を甘やかしたら、それでおしまいになるから」と思っていたからでした。

 しかし、口ではそうは言っても、心は平静でいられるわけではありません。吉永さんの「死を受け入れるための」苦闘が始まります。ある日、吉永さんは高木さんに「家族と別れることがどんなに辛いことか分かりますか?」と尋ねます。そして、死が近づいてくる実感を淡々と語られるのです。「体がね、伝えてくるんです。家族と別れる時が近いということを。以前はね、砂を嚙むような感じしかしなくても、食事をとることができたんです。ちゃんと、食べることができました。でも、今は食べてももどしてしまう。食事のにおいをかぐだけでもイヤになってしまう。」「自分の体が刻一刻と変わっていくことが分かるんです。昨日の自分と今日の自分が違うなんてものじゃない。一時間前の自分といまの自分がすでに違うんです。」そして、吉永さんは目に涙を浮かべて、こうおっしゃったのです。「孫がくるとね、一か月後にはもう会えないんだと思ってしまうのです。もう、やり切れないですよ。」

 しかし、高木さんとの対話が続いていく中で、がんの告知を受けてから一か月半が経った頃から、吉永さんは少しずつ、ご自分の死を受け入れることができるようになったのでした。そして、高木シスターの「また、向こうで会いましょうね」という語りかけに、「死んでもまた家族に会えるんですね」とホッとした表情を浮かべて、亡くなって行かれたと言うのです。

 吉永さんと関わられたエピソードの中で、高木さんは次のような大変深い言葉を語っておられます。少し長いですがお聞きください。

「人は自分の死を突きつけられた時、そうそう簡単にはそれを受け入れることはできません。『人は死んだら無になる』とおっしゃる方は多いですよね。しかし、実際に死を突きつけられると、人間そんなことは言っていられないのです。自分が『無』になってしまう。そう思ったら、とてつもない虚無感と絶望感にさいなまれるはずです。無になるということの恐ろしさを、ありありと感じてしまうのです。なぜなら無になってしまうと、愛する家族と再会できなくなるわけですから。でも、亡くなる前に自分の人生を認め受け入れ、肯定できた方は、『また、向こうで会いましょうね』という言葉を口にすることができるようになられます。

それは、簡単なことではありません。……無になってしまうことの恐ろしさを感じて初めて、「そうじゃない、そうあってはならないと思うようになるのです。」「無になってしまうと考えたら、家族に会うことはできません。そこには希望がありません。でも、死んだ後でも会えると思えば、希望がわいてきます。家族に対して『向こうで待っているよ』と言えたら、それはご本人にとっても、遺される家族にとっても救いになるのです。」やがて死と直面しなければならない私たちとって、これは本当に深い切実な言葉ではないでしょうか。

今日の聖書の5節で、パウロは次のように言っています。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは神です。神はその保証として“霊”を与えてくださったのです。」私たちは信仰によって、見えないものに目を注いでいます。そのきわめて大切な一つが、「天にある永遠の住みか」を与えられるという約束なのです。信仰によって霊、聖霊を与えられた私たちは、見えないものに目を注ぎつつ、やがてその約束が実現することを確かに待ち望むことができるのです。ここの「保証」は「手付金」とも訳されます。完全な救いと新しい「霊的『体』」を与えられることは、確かにまだ起こっていません。しかし、本当の支払いは残っているとしても、手付金は最後の支払いを保証するものなのです。神さまがイエス・キリストにあって、そのことを保証してくださっているのです。心安んじて、イエス・キリストに委ねて歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたします。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

【祈り】生と死を統べ治めたもう主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日の主日礼拝を、先に召された兄弟姉妹を覚える礼拝として守ることができ、感謝いたします。神さま、あなたは信じる者たちに聖霊をお与えくださり、見えないものを見させてくださっています。神さまが備えてくださっている「天にある永遠の住みか」がその一つです。地上にあっては重荷を負ってうめいている私たちではありますが、この「天にある永遠の住みか」を仰ぎ望みつつ、希望をもって歩ませてください。大切なご家族やご親族を天に送られた方々が、今日の礼拝を守っております。どうぞ、そのお一人お一人の上に、主の慈しみと平安を豊かに注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。