誰がキリストを知るのか

マルコによる福音書3章20~30節  2023年10月29日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

 今日の箇所には、マタイ福音書、ルカ福音書に同じような内容を記した並行記事があります。その一つのルカによる福音書11章14節以下で、「主イエスは口を利けなくする悪霊を追い出し、口の利けない人がものを言い始めた」とあります。そうした状況を受けて、主イエスは律法学者たちと「ベルゼブル論争」をなさったのです。主イエスと身内の人たちとのやりとりについては、次回マルコによる福音書を学ぶときに扱いたいと思います。

 今日登場している律法学者たちは、わざわざ「エルサレムから下って来た」のでした。律法学者というのは、ユダヤの宗教生活を規定していた律法の専門家です。その専門家たちが、近頃目覚ましい働きで評判になっている主イエスの正体を見極めようとやって来たのでしょう。専門家には専門家としての誇りと自負があります。そこで主イエスのことを見聞きして、彼らは一つの結論を出しました。それは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、あるいは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったのです。

 「ベルゼブル」というのは、本来古くからあるシリアの神の名前であり、おそらく「神殿の主」という意味であったと言われています。この神の名は王国時代に言葉をもじって「バアル・ゼブブ」(蠅の王)と軽蔑的に呼ばれるようになりました。そして、その後次第に、この異教の神の名が悪魔を示すものとなっていったと言うのです。異教の神の名というのは、往々にしてこのような末路をたどってしまうのでしょう。いずれにしてもエルサレムの権威を帯びた律法学者たちは、主イエスの悪霊追放の業が神の聖霊ではなくて、悪霊の頭の力によってなされていると断定したのです。より力の強い悪霊が、それより弱い悪霊を追い出したと、彼らは考えたのです。

 それに対して主イエスは、どのように応じられたでしょう。23節に「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた」とあります。たとえは、ある事柄を理解するとき、それを理解しやすいように語って聞かせるものです。主イエスはけんか腰で反論されたのではありませんでした。律法学者たちが十分理解して納得できるように、たとえを用いられたのでした。それは相手が民衆であっても、律法学者のような専門家であっても変わらなかったのです。

 主イエスは言われました。23節後半以下です。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」国であろうと、家であろうと、サタンであろうと、内部で争ったり、分裂したりすれば、立ち行かない。滅んでしまう。そんな墓穴を掘るようなことを、狡猾なサタンがするはずがない。主イエスはこのたとえによって、悪霊を追放したのが同じ悪霊ではないことを分からせようとしたのです。

 確かに国も、家も内輪もめして争えば、分裂し崩壊してしまいます。イスラエル王国は、ソロモン王の後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます。すると紀元前8世紀には北イスラエル王国がアッシリア帝国に、紀元前6世紀には南ユダ王国が新バビロニア帝国に滅ぼされます。確かに王国は、分裂すると立ち行くことはできないのです。今日の私たちの世界も、分裂や分断が進んでおり、このままでは機能不全に陥ってしまうのではないかと恐れます。しかし人間ではない狡猾なサタンは、墓穴を掘るようなことをするはずはありません。ますます結束を固くして、私たちの世界を神様の御心に反した方向へと連れて行こうとしているのです。

 主イエスが語られたもう一つのたとえは、家に押し入る強盗のたとえでした。27節です。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」主イエスがこのようなたとえを語られたのは、ある人から悪霊を追い出すというのは、その人を支配していた悪霊に代わって、神からの聖霊が支配するようになることだからでしょう。

ある家に押し入り、その家を略奪する場合、最初にすることは、その家を守っている最も「強い人」を捕まえて、縛り上げることです。最も強い人をやっつければ、他の人たちは抵抗する気力が無くなり、略奪は一気に進みます。それによって、略奪する者はその家を自分のものにすることができるのです。 

悪霊に支配された人から悪霊を追い出し、その人を奪還する場合も同じです。悪霊の頭とも言うべき「強い人」を捕まえ、縛り上げなければ、どれだけいるか分からない悪霊を屈服させ、追い出すことはできません。悪霊の頭は、主イエスにとって縛り上げるべき敵であって、力を借りるような存在ではありません。悪霊に支配されていた人から悪霊が追放されたのです。口が利けなくする霊に取りつかれていた人が、口が利けるようになったのです。それは主イエスが、まず悪霊の頭を縛り上げられたということです。主イエスは悪霊の頭を凌駕するさらに「強い人」であったということです。そのように語ることによって、主イエスは律法学者たちの思い違いを正そうとされたのです。

主イエスは神が遣わされた神の御子です。主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と宣言されました。神は主イエスにおいて、主イエスを通して働かれます。主イエスが悪霊を追い出す霊は、神の聖霊に他なりません。したがって人は、その聖霊を汚れた悪霊と混同してはいけません。御子イエスによってなされている神の救いの行為を、破壊的なサタンの行為と取り違えてはなりません。主イエスは「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)と言われました。主イエスは、どんな人に対しても神の国・神のご支配が始まっていることを、喜ばしく語り告げられるのです。

さて主イエスは、20節を「はっきり言っておく」という言葉で語り始めます。「アーメン レゴー ヒューミン」、「まことにわたしはあなたがたに言う」というのが直訳です。このフレーズは、主イエスがきわめて大切なことを語られるときに、使われるフレーズです。28~30節で主イエスが語られる言葉は、それほど大切な言葉なのです。それを信じるか否かで、救われるか滅びるかが決まってしまうような、分水嶺になるような言葉なのです。読んでみましょう。「『人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。』イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである。」

後半の29節以下で言われているのは、聖霊を冒瀆する者への警告です。聖霊を冒瀆するというのは、30節にあるように「彼(つまり主イエス)が汚れた霊に取りつかれている」と言うことです。主イエスがなさっておられる悪霊追放などの力ある業は、聖霊ではなく悪霊によってなされている」と言うことです。これは先ほど見ましたように、エルサレムの権威を帯びた律法学者たちが考え、言っていたことでした。主イエスの力ある業が神からの聖霊によってなされていることを、彼らは認めませんでした。「人々が言っていたからである」の「言っていた」という未完了形の言葉は、繰り返し、継続してなされていたことを示しています。彼らは心を頑なにして、主イエスの力ある業が聖霊によることを断じて認めようとしませんでした。神の御子である主イエスに心を閉ざし、決して開こうとしませんでした。そのような「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と警告されているのです。

ただし、ここでの「永遠に」は原語では、「この世に」という言葉です。慣用的に「永遠に」と訳されることが多いのですが、「その時代を通して」と訳すことも可能です。そうではありますが、主イエスによる力ある業を、聖霊による御業と認めないことは、決して許されない罪なのです。主イエスによって神の国・神のご支配が始まっていることを頑なに認めないことは、決して赦されない罪なのです。というよりも、唯一それだけが赦されない罪なのです。

「まことにわたしはあなたがたに言う」という言葉で始まる主イエスの言葉は、それだけではないのです。29節の警告の言葉に心を奪われて、よい知らせを不明確にしてはなりません。主イエスは一番大切な大前提として、このように語っておられるのです。28節です。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。」29~30節で言われていることは、唯一の例外規定のようなものです。主イエスが語られた御言葉の本体は、まさにこの28節にあるのです。人の子つまり私たちが犯す罪やどんな冒瀆の言葉もすべて赦されているということ。それらはすべて、主イエスの十字架の贖いによってすべて赦されているということなのです。

私たち人間は、時として疑ったり、迷ったりすることがあります。神さまに激しく反発して、神さまに背を向けてしまうことがあります。神さまの御心が分からなくなってしまい、神さまを疑ってしまうことがあります。しかし、そのような疑い、迷い、挫折がどのように大きなものであり、どのように遠く神さまから離れてしまっても、神さまはそれを赦してくださるのです。なぜなら、そのような罪を重ねる私たちを神さまと和解させ、救いに至らせるために御子イエスは来られたからです。

また、私たちは人の窺い知れないような罪を、心に抱えているかも知れません。私たちはその心に抱えている罪を、「赦されない罪」だと感じているかも知れません。自分には神さまに打ち明けることも叶わないような、赦されざる罪があると思っているのです。しかし、そうではありません。私たちは神さまの御前で、どんな罪も過ちもすべて赦されています。なぜなら、そのような罪を私たちに代わって贖うために、イエス・キリストは十字架に架かられたからです。神さまの目からご覧になる時、私たちの犯すどんな罪も赦されているのです。私たちは神さまの御前で、臆することなく顔を上げることができるのです。

しかし、赦されざるただ一つの罪があります。それは御子イエス・キリストを通して働かれる聖霊の御業を信じないことです。ある人はこう言いました。「聖霊の働きを信ぜず、赦しに反抗する者だけが、赦しから除外されるのである。」主イエスの到来によって、喜ばしい神のご支配が始まっているのです。罪に支配されていた私たちを、イエス・キリストはその支配から奪い返して下さり、神様の恵みのご支配へと移してくださったのです。その決定的な恵みの御業を、私たちは心を大きく開いて受け入れましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。神さま、あなたは御子イエスにおいて御業をなさいます。そこには神の聖霊が働いています。聖霊の働きは、主イエスこそ救い主であることを私たちに分からせ、罪の赦しを私たちに得させることです。どうぞ、そのような聖霊の働きを、心を大きく開いて受け取ることができるようにしてください。ハマスとイスラエル、ウクライナとロシアの間で戦闘が続けられています。被害が拡大しています。どうか神様、これらの地に平和をもたらしてください。ひと言の切なるお祈りを、御子イエスの御名によってお捧げいたします。アーメン。