真ん中に立ちなさい

マルコによる福音書3章1~6節  2023年9月10日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気を癒されるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に『真ん中に立ちなさい』と言われた」。安息日に会堂に入るということは、言うまでもなく礼拝のためです。礼拝のために会堂に入られますと、片手の不自由な人が礼拝の場にいました。聖書がわざわざそのことを書いているのは、神を礼拝するということと、そこに病める人がいるということとは、切り離されてはならない事柄だからでもあるからです。神は人間の病に関わってくださる方であるからです。人間の弱いところや醜いところを、神様が嫌がって近づかないなどということはないのです。神は人間の弱さや醜さに関わってくださる方であることを、私たちは覚えなければなりません。主イエスが貧しい馬小屋に生まれたことは、そのことを示しています。

 私たちはこの世で多くの人々の中で生きています。いろいろな交わりを持ちながら生きています。しかし、そうした中で私たちの一番弱い部分は、しばしば隠されているものです。あるいは自分の中の一番恥ずかしい部分は、人々の交わりの中では隠されているものであります。差し障りのないところだけで、私たちは多くの人々と出会っています。しかし神は、私たちの最も弱いところに関わってくださる方です。私たちの病める部分に触れ、そこのところで私たちと出会ってくださるのです。だから、私たちも隣人の弱さを覚えるのです。また兄弟姉妹の痛みというものに関わるのです。私たちは神を礼拝しながら、隣人の痛みに近づくことができる者に変えられて行くのです。

主イエスは、この手の萎えた人に向かって、大勢の会衆の中ではっきりとこう言われました。「真ん中に立ちなさい」。この言葉は、この病める人に向かって言われた言葉でありますが、同時にそこに集まって神を礼拝している人々に向かって言われた言葉でもあります。つまり、弱い人を「真ん中に立たせなさい」という言葉です。病んでいる人を礼拝する場所の真ん中に立たせなさいという意味です。弱い人を隅に追いやってはならない、そう言われたのです。人間の弱さや痛みが隠されないで真ん中におかれる、そのことが、神の民が生きているということのしるしとなるからです。人の弱さや痛みが、みんなの配慮の中に置かれ、そしてみんなの祈りの中に置かれる、そこで神の民は神の民として生かされて行くのです。弱いところや醜いところはみんな隠されて、きれいごとだけで出会っている、そんなところに神の民はあるのではありません。弱いところをめぐってみんなが集まっている、共に祈りが捧げられている、配慮されているということの中に、神の民の生きているしるしがあると言えるのではないかと思います。

「人々は、イエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」。ある人々がおりまして、彼らは果たして主イエスが片手の萎えた人を癒すかどうか注目していたというのです。彼らは、安息日の規定がひょっとしたら破られるかもしれないというふうに思って、主イエスの行動を見守っていたのです。安息日の規定とは、安息日には仕事をしてはいけないということであります。そして、病人をなおすということは、仕事と考えられていました。だから、主イエスは安息日の規定を破るのではないかと、人々は意地の悪い観察をしていたのであります。

今日の聖書で「片手の萎えた人」という言葉が出てきます。1節に出てきますが、3節にも「手の萎えた人」、5節にも「その人」と出てきます。そして、主イエスは安息日に許されているのは、「命」を救うことではないかと、ファリサイ派の人に問うておられるのです。ここの「命」はプシュケーという言葉ですが、人間である以上持っている人間の値打ちを示すもの、人間の値打ちがそこに根差すものが、この「命」プシュケーです。ファリサイ派の人々は、片手の萎えた人のことを、主イエスを罪に問うための道具のようにしか見ていませんでした。しかし主イエスは、「片手の萎えた人」を、「命」プシュケーを持っている人間として尊重なさるのです。ファリサイ派の人々は、体を損なったりするのは、神様からの祝福から落ちた人間だと考えていました。だから、手が萎えてしまった人も、そういう意味で劣等感を持ちながら片隅に座り込んでいたかもしれない。その人を真ん中に引き出して、そして主イエスが言われるのは、こういう人間こそ安息日の礼拝、私たちの礼拝のただ中に置かれるべきものであるということでした。この人々の、このような人の救いが問題にならないところでは、この人を殺すことをしていることになるのだと、言われたのです。

 安息日の規定、それはつまりしきたりです。しきたりや慣習は、しばしば人間の弱さや貧しさを周辺に置こうとします。なるだけ周辺に置いて人目に触れないところに置こうとする。人間はしばしばそういうふうに慣習やしきたりを造っていくのであります。そういう人々の中で主イエスは言われました。「真ん中に立ちなさい」。人間の弱さや痛みを真ん中に置いて、周辺に置かないで共に担っていきなさい、共に祈っていきなさい、と。そういう中で、神の民は生かされるから。そういう人間の痛みや貧しさを排除して、神を中心とした交わりは成立しないのです。神は失われた羊を訪ねる、そういう神であって、失われた者を排除してしまう神ではないからです。

 世には多くの交わりがあります。その交わりにおいて、人間の弱さは隠され、そして恥とされ、いいところだけを見せることで交わりは成り立っているのです。みんな、ある意味で背伸びしながら生きています。自分はこれだけ能力のある人間であり、自分にはこういう実績がある、自分の親戚には著名な誰々がいる、そんなことをほのめかしながら生きています。そんな交わりが人間を互いに出会わせることはありません。神が私たちの最も弱い部分において、私たちに出会ってくださるように、人間同志も弱さにおいてしか出会えないのです。

 さて、「真ん中に立ちなさい」とキリストは言われました。これは会衆に語られ、そして、手の萎えた人自身に言われた言葉であります。隅にいないで、あなたは「真ん中に立ちなさい」と言われた。自分を恥じて、隅っこのほうにいないで、「真ん中に座りなさい」と言われたのです。これは神に対する姿勢のことを言っています。あるいは人の生きる姿勢についても言っていると思います。つまり、神に対しては、隅っこにいてはいけない。真ん中に立たなければいけないのです。自分のような者は隅っこにいなければ、という意識、それは人間を歪めているものです。たいした人間じゃない、取るに足りないなどと考えて隅っこに身を置く―それが人間を根本的に歪めているのであります。

 主イエスは、人を神の真ん前に呼び出します。自分を恥じなくていい、卑下してはいけない、真ん中に立ちなさい。そのためにキリストは、私たちを贖って、救い出してくださったのです。この罪人を、神の真ん前に立たせるために、キリストは私たちを救い出してくださった。自分のような者は、みんなの足手まといだなんて言ってはいけない。ありのままで生きていい。ありのままで神の真ん前に立っていいのです。隅に隠れてはいけない。人々の陰に隠れて、こそこそしなくていい。神の真ん前に身を置くというところから、癒しは始まります。私たちが隅っこに逃げこんでいては癒されはしない。光の中に出てこなければ花は咲きません。神の真ん前に自分を立たせなければ、神の癒しは始まりません。神の前に身を置く、そこから自分の生活を始めなければならない、そこから神の御業が始まるのです。

「そこでイエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと手は元どおりになった」。「手を伸ばしなさい」と言われました。彼は手を伸ばしたことがありませんでした。その彼に向かって主イエスは、「手を伸ばしなさい」と言われたのです。つまり試みよと言われたのです。できないかも知れない、失敗するかも知れない、あるいは躓くかも知れない、しかしそれを恐れないで試みなさいと、主イエスは言われました。試みるというところから、できることが広がって行きます。なるほど能力には限界があるかも知れません。できないこともある、また他人のようにはできないかも知れないけれども、しかしできることがあるのです。必ずあるのです。人のようにはできない。だから自分にはなんにもできないと、私たちは考えます。しかしできることをやってみる。それが大切なことです。自分なりにできること、それをやってみる。それが私たちが生かされているということです。何一つできないけれど、生かされているという人は世の中には一人もいません。何一つ役に立たないけれど、生かされている人などはいません。だれもが生かされていることで、人の役に立っているのです。

 「手を伸ばしなさい」。できることがあるのです。他の人のようにはできないかも知れないが、あなたなりにできることが必ずある。それをするということが、すなわち私たちが生きるということです。そうでなければ、私たちは生きている意味がありません。神は私たちを生かしていてくださるのです。自分なりにできることをしないということは、自分を駄目にすることです。「手を伸ばしなさい」。試みるのです。できることをやってみるのです。あれができない、これができない、人のようにはできないと、できないことを探すのではなくて、自分に与えられているできることを探すのです。神は私たちに難しいことを求めておられるのではありません。私にできることをする、そのことを神は求めておられるのです。

「手を伸ばしなさい」。八方ふさがりで、何もできないということなどないのです。手を伸ばしてみる、試みてみる、そうすれば神は必ず私たちに救いの御手をさしのべてくださる。私たちにできることを必ず示してくださる。そうやって私たちは、癒されていくのです。何もしないで癒されるというのではないのです。神に生かされて、自分にできることをやってみるということで、人間として癒されていくのです。主イエスの御声に励まされて、神にわが身をゆだねて、前へと進みゆく私たちでありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。今日も私たちを様々な仕方でこの礼拝に集わしめてくださり、心から感謝いたします。今日も御言葉を通して、私たちの教会がどのような群れであるかを示され、感謝いたします。私たちは一人一人、弱さや欠け、痛みを抱えています。劣等感に苛まれることもたびたびです。しかし、主イエスはそれだからこそ、「弱さや欠けのまま、真ん中に立ちなさい、ためらわずに私の前に立ちなさい」と言ってくださいます。お互いが主の御前に立つよう、励まし合い喜び合う中で、私たちは群れとして癒されていきます。どうか、私たちの教会がそのような群れとなることができますよう、導いていてください。台風13号は千葉県にも多くの被害をもたらしました。今もその被害の中で労苦しておられる方々がたくさんおられます。どうか、そのお一人お一人を顧みてくださり、支え励ましていてください。この拙き、ひと言の切なるお祈りを、私たちの主、イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 9月10日(日)

 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書4章1-11節

説  教   「荒れ野の誘惑」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分   司式 山根和子長老

聖  書

 (旧約) エレミヤ書17章14-18節   

 (新約) マルコによる福音書3章1-6節 

説  教 「真ん中に立ちなさい」 藤田浩喜牧師

まことの安息への招き

マルコによる福音書2章23~28節  2023年9月3日(日)主日礼拝説教

                              牧師 藤田浩喜

主イエスの時代、安息日規定というものがありました。これは聖書には記されていないのですけれど、安息日を守るとは具体的にはどういうことなのかということを規定したものです。それには39種類の「してはならないこと」があって、それが各々6項目にわたって記されているので、安息日には合計234のしてはならないことがあったのです。例えば、安息日に歩いてよいのは約900メートルと決められていました。万歩計で言うと、1300歩くらいでしょうか。これなど、20分も歩いたら超えてしまいます。また、火を使って食事を作るのもダメです。こうなれば、家でじっとしているしかありません。

 どうしてそういうことになったのかと申しますと、これはイスラエルの歴史と深い関係があるのです。紀元前6世紀にバビロン捕囚という出来事がありました。神の民であるにもかかわらず神様に背いたイスラエルは、神様の裁きとして国を滅ぼされ、国の主だった人々は皆、遠いバビロンに連れて行かれるということが起きたのです。その後神様がバビロンをペルシャによって滅ぼされたので、イスラエルの民はエルサレムに戻って国を再建したわけです。そして、もう二度とバビロン捕囚のような目に遭わないようにと、しっかり律法を守り、神の民として真面目に歩んでいこう、そうイスラエルの民は心に刻んだのです。その結果、十戒を徹底的に守る、そういう姿勢がユダヤ教の基本となったのです。それが具体的な形として現れたものが、安息日規定なのです。ですから、現代の私たちから見れば首をかしげたくなるような234項目にも及ぶ禁止事項も、当時の人々は大真面目に、まさに命懸けで守ろうとしたのです。

 こんな話もあります。紀元前2世紀にユダヤがシリアと戦争をするのですが、その時、安息日に攻撃を受けました。するとユダヤの人々は、安息日に戦うことは律法違反であるとして、安息日規定を破るよりは殺されることを選ぶと言って、多くの者がこの時戦うことなく殺されていったというのです。

 安息日を守るということにはこのようなイスラエルの歴史が背景にあり、安息日規定は主イエスの時代ここまで厳格に規定されていたということなのです。

さて、聖書に戻りますが、23~24節「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った」とあります。主イエスの弟子たちは麦畑を通る時に麦の穂を摘んだのです。これは、弟子たちが腹を空かせていたので、麦の穂を摘んで、それを両手でこすって籾殻(もみがら)を落として食べたということでしょう。私はしたことはないのですが、以前、80代、90代の方に聞いたところ、自分たちも小学校の帰りによくやったものだと言っておられました。ちょうどガムを噛んだようになるそうです。ファリサイ派の人々はこの弟子たちの行動を、「安息日にしてはならないこと」をしていると言って見とがめるわけです。これは他人の畑の麦を盗んだと言って責めているのではないのです。律法には、貧しい人が自分のものではない畑で、手で麦の穂をとることは許されていたのです。律法は本来、貧しい人、弱い人に対して、そのような配慮に満ちたものなのです。ここで、ファリサイ派の人々が問題にしたのは、「安息日にしてはならないこと」をしているということでした。つまり、弟子たちの行動が、収穫するという労働にあたる、脱穀という労働にあたる、ということだったのです。

 これを、「馬鹿げている」と言って済ませることはできません。彼らは、本気で、命懸けで、律法を守ろうとしていたからです。安息日規定を破る者は石打ちの刑なのです。実際に、このようなことで石打ちの刑で殺されるということがあったとは考えづらいですが、そういう定めになっていたのです。

これに対しての主イエスの答えが、25節以下に記されています。ここで、主イエスは三つのことを語られました。

 第一に、主イエスは、ダビデが、律法で祭司しか食べることができないと定められている、神殿にささげられた供えのパンを食べ、供の者にも与えたという、旧約聖書に記されている出来事をまず告げました。これはサムエル記上21章に記されている出来事です。ダビデは王になる前、サウル王に命を狙われます。そして、逃亡していく中で空腹になった時、大祭司から神殿にささげられていたパンを受け取り、食べたのです。しかし、ダビデがそのことによって神様に裁かれたとは記されていないのです。このダビデの話は、もちろんファリサイ派の人々も知っています。

 ここで主イエスがダビデの話を出した時、ファリサイ派の人々はどう思ったでしょう。「何を言っているのだ。ダビデ王は神様に選ばれた、神の民の王ではないか。まだ王になっていなかったとはいえ、王になることはすでに神様によって決められていたのだから、飢え死にしたりすることが御心に適わないことは明らかではないか。ダビデ王は特別だ。そのダビデ王とお前と何の関係がある。ダビデ王と自分を同じ所に置くなど、もっての外。何と失礼な、分を弁えていない者なのか。」そんなふうに思ったのではないでしょうか。

 主イエスはここで、たまたま都合よくダビデの話があったので、これを持ってきたということではなかったと思います。そうではなくて、主イエスは、ファリサイ派の人々が感じたように、ダビデを持ち出して、ダビデと自分は同じではないかと言ったのだと思います。ダビデの子であるわたし、救い主であるわたしが、ダビデがしたようにしているのだ。何か問題があるのか。ダビデが問題なかったように、わたしも問題ない。いや、わたしはそれ以上に問題ないのだ。なぜなら、安息日を定めたのはわたしの父であり、わたしは父と一つなのだから。そう主イエスはここで告げられたのではないかと思うのです。

そして、第二に、主イエスは27節で、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と告げられました。これは、安息日に限らず、律法というものは、神様が神の民との間に愛の交わりという関係を保持するために与えられたものであるという、根本的な理解を示されたのです。そもそも安息日というのは、神様が6日間で世界を造られ、7日目に休まれたということに由来するのです。それは7日目の安息日を守ることによって、神様の創造の御業を覚え、神様に感謝を捧げ、神様との交わりを生活の中で整えていく、そのためのものであります。「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という第四戒において大切なのは、「これを聖別する」、神様のものとして分けるということです。だから、何もしないという点に意味があるのではなくて、神様のものとする、神様にこの日一日をささげる、神様のための日とする、自分のために使わない、神様のために用いるということに意味があるということなのです。

 そしてまた、安息日のもう一つの意味は、申命記5章14~15節に記されています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」とあります。ここでは明らかに、安息日は、天地創造の御業と共に、出エジプトの出来事を思い起こすための日とされているのです。そして、エジプトにおいてイスラエルの民は奴隷であったのだから、そこから神様によって解放されたのだから、今あなたが使っている奴隷も、あなたと同じように休ませなさい。それが神様の御心だと告げているわけです。イスラエルの民にも奴隷にも、つまりまさに人間に安息する日を神様は与えてくださったということなのです。何もしないということのために一生懸命努力する、そういう日なのではなくて、神様が与えてくださった安息、休み、これを感謝して受け止めるということが大切なのだ。それが御心なのだと告げられたのです。

第三に主イエスが言われたのは、28節「だから、人の子は安息日の主でもある」との言葉です。この「人の子」というのは、主イエスが御自分のことを言われる時に用いる言い方です。主イエスは御自分が安息日の主だと言われたのです。安息日というのは、今まで見たように、神様が天地を造られたこと、そして今もすべてを支配し、私たちを守り、支えてくださっていることを覚えると共に、出エジプトの出来事によって神の民を救われたことを覚えるために定められたものです。この安息日の意味が根本的に新しくされ、より徹底された。それが主イエス・キリストの到来であり、十字架と復活の出来事でありました。

 旧約における安息日は、週の終わりの日ですから、土曜日です。しかし、主イエス・キリストが与えてくださった安息に生きる私たちが守る安息日は、日曜日です。主イエスが復活され、新しい命の創造がこの日に始まったからです。この主イエスによって与えられる新しい命、復活の命に生きるよう召し出されたのが、私たちなのです。実に、主イエスは私たちに、律法を守ることによってではなく、ただ主イエス・キリストを信じる、このことによって与えられる新しい安息日を与えるために来られたのです。主イエスは文字通り、命を懸けて、新しい安息日を定められたのです。この新しい安息日は、人のためにあるのです。私たちは神様に愛され、神様を愛し、人を愛し、神様と人とに仕える者として新しくされた。そのことを心に刻み、新しくされた者として、ここから新しく歩み出していく。そういう日としてこの日を定められたのです。ですからまさしく、主イエス・キリストは安息日の主なのです。この主を愛し、主の御声を聞き、主と共にあることを感謝するために、新しい安息日としての主の日、この日曜日があるのです。

 私たちは今から主の聖餐に与ります。聖餐を受けることによって、主イエス・キリストによって与えられている安息を心に刻み、主イエス・キリストによって与えられた新しい命を受けるのです。御言葉を受け、聖餐に与った者として、まことの安息と平安を与えられた者として、今日から始まる新しい一週の歩み、御国への歩みへと踏み出してまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美し、あなたの御栄を褒め称えます。今日も私たちを礼拝に集わせてくださり、心から感謝いたします。あなたは私たちに日曜日という安息日を与えてくださいました。これは安息日の主である御子イエスが、新たに定めでくださった安息日です。この日は旧約の安息日と同じように、あなたを礼拝するために取り分けられた日であり、わたしたちが真の安息に入れられるために、あなたが与えてくださった日です。どうか、この主の日の礼拝において、主イエスが十字架と復活によって創造してくださった新しい命に生きることができますよう、私たちを導いていてください。今週の火曜日には鈴木充子姉の葬儀も行われます。どうかその上にも、あなたの御支えと祝福をお与えください。この拙き切なるお祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 9月3日(日) 

  

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイの福音書3章13-17節

説  教   「主イエスの洗礼」 髙谷史朗長老

主日礼拝   

第一主日ですので聖餐式を行います

午前10時30分より   司式  藤田浩喜牧師

聖  書

 (旧約) イザヤ書56章1-8節  

 (新約) マルコによる福音書2章23-28節 

説  教   「まことの安息への招き」  藤田浩喜牧師

喜びによって新しくされる

マルコによる福音書2章18~22節 2023年8月27日(日)礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

私が大学生の時ですが、学生の団体が主催して「飢餓ランチ」という取り組みをしていたことがありました。それはお昼ごはんに食パン1枚とインスタントコーヒー一杯を用意する。会場に集まってきた人は500円を箱に入れる。もちろん食パン1枚とインスタントコーヒー1杯が500円もするわけはありません。学生の団体はパンとコーヒーの原価を差し引いて、余ったお金を集めて定期的に、海外の飢餓地域の支援をする団体に送っていたのです。私も何回か「飢餓ランチ」を利用しました。食パン1枚とインスタントコーヒーでは、もちろん大学生の空腹を満たすことはできません。しかし何か少しだけですけれど、心に満たされたものを感じました。自分が質素な食事をすることで、見知らぬ他者と少しでもつながっているような思いがしたからかもしれません。

さて、今日お読みいただいた聖書の箇所では、「断食」のことが問題になっています。私たちの時代では「断食」(食を断つ)ということを健康のために行うことがあるようですが、主イエスの時代はそうではありませんでした。「断食」は神様の前に信仰者が罪を犯したことへの、ざんげや悲しみのしるしとして行われました。レビ記にはユダヤ暦の7月4日の大贖罪日に「断食」をするように命じられていました。主なる神様に対して犯した罪を、イスラエル全体がざんげし悔い改める日に、この「断食」は行われたのです。

 しかし、今日の聖書に登場するバプテスマのヨハネの弟子たちは、先生のヨハネが人々に強く悔い改めを迫る人でしたので、しばしば「断食」をしていました。また、ファリサイ派の人々も、週に2回月曜日と木曜日に「断食」をしていたと言います。バプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、

食を断つことで自分の罪を見つめ、神様に向かってざんげと悲しみを言い表したのでした。それは意義あることであり、本来敬虔な思いからなされていたのです。バプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、「断食」こそ信仰者のなすべき敬虔だと考えていました。

そのため、あまり熱心に「断食」を行わない主イエスの弟子たちを見て、「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と問うたのでした。そこには非難の思いが込められていました。また、先々週見ましたように、主イエスと弟子たちは徴税人レビの家の客となり、大勢の徴税人や罪人と呼ばれていた人たちと食事を共にしました。その食卓は大変賑やかで、大いに食べたり飲んだりしたことでしょう。そんな主イエスと弟子たちの姿を見て、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、敬虔さのかけらもないと感じたのでありましょう。

しかし主イエスは、彼らにこのように言われたのです。19節です。「イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない』」。これはだれにでもよく分かるたとえです。主イエスの時代、婚礼は人生の一大行事であり、祝宴は1週間以上も続いたと言われます。現代の結婚式の披露宴は平均3時間ぐらいでしょうが、豪華な食事をいただき杯を傾けながら、お祝いの時を過ごします。披露宴は喜びの雰囲気で満たされ、新しく歩み出す二人を祝福する思いに包まれています。披露宴の席は、何も食べず、何も飲まない「断食」とは対極にある場所です。

主イエスは、「わたしが来たことによって、今あなたがたは婚宴の席、断食など思いもよらない喜びの宴に招かれたいるのだ」と宣言されているのです。花婿は旧約聖書の時代から主なる神様を表わす言葉でありました。主イエスはこの福音書の冒頭で、「時は満ち、神の支配は近づいた」(マルコ1:15)と宣言されました。主イエスがこの世界に来られたことで、主イエスを通して神様ご自身が到来されました。そして神の国・神のご支配は今や完成に向かって進んでいるのです。そのことを知らされている信仰者にとってなすべきことは、苦悶の表情を浮かべて「断食」をすることではありません。そうではなく結婚式の披露宴に招かれた客のように、何よりも喜ぶことなのです。

先々週の箇所で、徴税人レビの用意した食卓に主イエスとその一行が客となって来てくださいました。丈夫な人ではなく病人を、正しい人ではなく罪人を御国に招いてくださる主イエスを食卓にお迎えしたのです。その場にいた徴税人レビたち、罪人と言われていた人たちは、どんなに大きな喜びに包まれたでしょう。主イエスの示してくださった愛と憐みに、どれほど心打たれたでしょう。それと同様、私たちのもとにはこのイエス・キリストが来てくださっているのですから、私たちは何よりもそのことを喜ぶのです。すべてのことはこの喜びから始まっていくのです。

ただしキリスト教会は、その歴史において「断食」をまったくしなかったかと言うと、そうではありません。主イエス御自身が荒れ野で40日40夜サタンの試みに遭われた時に「断食」されています。また使徒言行録には、使徒を選ぶ時や使徒を伝道に派遣する時に、初代教会の信徒たちが「断食」して祈ったという記事が出てきます。また、主イエスは今日の20節で「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」と言われています。初代教会においても、イエス・キリストが十字架で苦しまれ、死を遂げられたことを覚えて「断食」する習慣があったことを、聖書註解者たちは記しています。私たちがレントの時、受難節の時を、主の十字架の苦しみを想起して過ごすように、初代教会のキリスト者たちも「断食」をして、自分の罪を悔い改めたのでしょう。しかし、イエス・キリストが到来されたことによって、「断食」という敬虔を表わす行いは、今や全く違ったものになったのです。

敬虔さを表わす「断食」は、主イエスが到来した今、どのようなものとなったのでしょう。「断食」について述べている2つの聖書箇所から考えて見ましょう。一つはマタイによる福音書6章16~18節です。ここは主イエス御自身が「断食」について教えておられるところです。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

主イエスの時代、本来神の前に自分の犯した罪を悔いて悲しむために行われていた「断食」は、人に見せるためのものになっていました。自分が他の人よりどれだけ敬虔かを誇るために、「断食」が行われていました。顔を歪めて苦しさをこらえて週に何度も「断食」をすることで、周りの人々から賞賛を受けていました。そんな「断食」はもう人間から報いを受けている。神様から報いを受けることはできない。もし神様から報いを受けたいと思うなら、「断食」していることが周りの人に分からないようにしなさい。隠れたところでしなさいと言われるのです。「断食」は今日の信仰者には、「祈り」、「奉仕」、「献金」などに読み替えることができるでしょう。そうした信仰の表現である行為は、人に見せびらかすものでも、人と競うものでもありません。主イエス・キリストのゆえに「アバ、父よ」と呼ぶことのできる父なる神様が、私たちを見てくださっています。父なる神様は、私たちのどんなに小さな信仰の行為をも、あたたかく喜んで受け入れてくださいます。「この御方にだけ見ていただければ、それでよい。父なる神様だけに見て頂きなさい」と、主イエスは言われるのです。

もう一つ、「断食」について教えられるのは、今日司式長老に読んでいただいた旧約聖書イザヤ書58章です。ここでは3節から8節をもう一度読んでみましょう。最初に当時のイスラエルの人々が問います。「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。」それに対する神様の応答が語られるのです。「見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。 

わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。」

 イザヤは、神の御言葉を語ります。あなたが自分に仕えてくれる人に暴虐な振る舞いをするなら、いくら敬虔な仕草で「断食」を行ったとしても、それをわたしは受け入れない。正しさや正義が踏みにじられるところでは、神は「断食」を喜ばれないのです。また、同胞が悪者に苦しめられ、虐げられている。食べる物も着る物もなく、苦しんでいる。そのような同胞に何の手も差し伸べないなら、いくら熱心に「断食」しても、わたしはそれを少しも喜ばない。愛を失った冷えた心で行われた「断食」を、神は受け入れようとはされないのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されました」(ヨハネ3:16)。イエス・キリストは、私たちすべての者を罪と死の縄目から解き放つために、十字架にご自身を捧げられました。その主イエスに従う弟子たちの信仰の行いも、主イエスに倣うものでなくてはなりません。「祈り」、「奉仕」、「献金」といった信仰の行為も、正義を行うこと、愛の手を差し伸べることと何の関わりもないところで捧げられるのなら、神様がそれを喜ばれることはないのです。しかしそれとは反対に、イエス・キリストが到来され今わたしたちと共におられるという喜びの中で、正義を行うこと、愛の手を差し伸べる方向へと少しでも進んで行くなら、神様は私たちの捧げる信仰の行いを喜んで受け取ってくださるのです。そしてその行為によって私たち自身が癒されていくのです。

さて、今日の箇所の21節以下には、二つの小さなたとえが語られ、その二つは同じ一つのことを教えています。それは、新しいものを受け入れるためには、古いものでは間に合わない、役に立たないということです。新しい布切れで古い服を繕っても、縮んだ布切れに引っ張られ、服は破れてしまします。新しいぶどう酒を古い革袋に入れても、新しいぶどう酒は発酵して、古い革袋をダメにしていまいます。新しいものを受け入れるには、受け入れる側も新しくされなくてはなりません。新しいものとは、救い主イエス・キリストの到来と神のご支配の始まりです。人類がかつて経験したことのない、その新しい救いと喜びを受け入れるために、受ける側の私たちも新しくされる必要があるのです。古いものにこだわり、前例を踏襲して安心しようとする私たちです。しかしイエス・キリストの救いと喜びを、心から受け入れることができるように、聖霊によって絶えず新しくされていく私たちでありたいと思います。お祈りします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も色んな仕方で敬愛する兄弟姉妹と礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。神様、私たちはあなたに様々な敬虔な行いをお捧げいたします。しかしそれはあなたや周囲の人々に評価してもらうためではありません。主イエスによってあなたご自身が到来し、御国が完成へと向かっている喜びの中で、感謝の応答として捧げるものであります。どうか、その大きな喜びの中で、一つ一つの業を行わせてください。昨日、長く教会員として教会に仕え、主にある交わりを結んでくださった鈴木充子さんが、あなたの御許に召されました。どうぞ、姉妹をあなたの全き平安の内に憩わせてください。ご遺族の上にあなたの慰めと平安を与えてください。残暑の厳しい日が続きます。どうか兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。この拙き感謝と切なる願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 8月27日(日) 

  

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   申命記34章1-12節

説  教   「モーセの死」 藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分   司式 三宅恵子長老

聖  書

 (旧約) イザヤ書58章1-12節   

 (新約) マルコによる福音書2章18-22節 

説  教   「喜びによって新しくされる」  藤田浩喜牧師

神は顧みてくださる

ルツ記4章1~17節 2023年8月20日(日) 主日礼拝説教

                         牧師 藤田浩喜 

ルツ記を学んでいますが、今日は最後の第4章です。ルツとの結婚を決断したボアズは、それを実現するためにエルサレムの町に戻ってきます。それはナオミの夫であったエリメレクの一族の中で、第一の責任を持つ親戚と会って、話をつけるためでした。彼はエルサレムの町の門のところへ行きます。町の門は長老たちによる裁判が行わたり、話し合いや商取引の行われる町の中心でした。そこで座っていると、たまたま第一の責任を持つ親戚が、ボアズの前を通りかかったのです。「折りよく」とここには書かれていますが、単なる偶然ではないでしょう。そこには主なる神の導きがあったのです。

ボアズはこの親戚を呼び止めます。大事な話があることを伝えます。そして、二人の話し合いの証人となってもらうため、門のところにいた町の長老のうち十人に、その場に座ってもらったのでした。

こうして交渉の場は整いました。ボアズは早速、用件を切り出したのでした。3節後半からです。「モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。それでわたしの考えをお耳に入れたいと思ったのです。もしあなたが責任を果たすおつもりがあるのでしたら、この裁きの場にいる人々と民の長老たちの前で買い取ってください。もし責任を果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください。それならわたしが考えます。責任を負っている人はあなたのほかになく、わたしはその次の者ですから。」

旧約の時代イスラエルには、ゴーエールという制度がありました。それはある人が没落し、土地を手放さなくてはならなくなった時、その人に代わって親戚が土地を買い取り、神様が一族に与えられた嗣業の土地の散逸を防ぐというものでした。エリメレクの妻であるナオミが土地を手放そうとしています。親戚の責任としてあなたはその土地を買い取る意志がありますか、とボアズは尋ねたのです。

第一の責任をもつその親戚は、事情が分かり、「それではわたしがその責任を果たしましょう」と答えます。土地を買い取ること自体は、所有する土地が増えることでもあり、それほど難しいことではなかったのでしょう。

しかし、ボアズはこれに伴うもう一つの条件を、かの親戚に伝えたのでした。5節です。「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き受けなくてはなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。」ボアズがここで述べているのはレヴィラート婚という慣習です。これは通例、兄弟間で行われていたことでした。兄が男の子を残さずに死んだ場合、弟が兄の奥さんと結婚し、男の子をもうける。その最初に生まれた男の子に亡くなった兄の名を付けて、嗣業の土地をつがせるというのがレヴィラート婚という慣習でした。ボアズはその慣習を親戚の間でも適用して、エリメレクの息子マフロンの妻であったルツもまた引き受けるように、その親戚に迫ったのです。

土地だけならともかく、寡婦となったモアブの女性ルツまでも、引き受けなくてはならない。それはかの親戚にとっては、できかねることであったようです。ルツを引き受けることによって、家庭内にいざこざの種を持ち込みたくなかったのかもしれません。あるいはルツを娶って男の子が生まれれば、せっかく買い戻した土地がその子の土地になってしまうので、自分の嗣業を損することになってしまうと判断したのかもしれません。いずれにしても、第一の責任をもつ親戚は、本来自分が果たすべき責任を放棄し、彼に次ぐ立場にあるボアズに、親族の責任を果たしてくれるように頼んだのでした。

こうして、ボアズが願い、ルツに約束していた通りに事が運びました。かの親戚は、責任を譲り渡すことを、自分の履き物をボアズに渡すという所作によって、確証します。そしてそれを受けて、ボアズは長老とすべての民に向かって、高らかに次のように宣言したのです。9節以下です。「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです。また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」

ボアズは、町の門において正式な手続きをすべて果たした上で、エリメレクの土地を買い取り、ルツを自分の妻として迎え入れることになりました。前回の3章で見たように、ボアズとルツは互いに惹かれ合うようになっていました。ボアズがルツに心惹かれたのは、色んな理由があったでしょう。しかし、その中でも彼を感動させたのは、ルツの損得を超えた思いやりだったと思います。ルツは損得から考えれば、夫のマフロンが亡くなったとき、モアブの実家に帰ることもできました。姑と一緒に見知らぬイスラエルまでついてくることなどなかった。しかし、夫も二人の息子も亡くして、うつろな思いを抱えて故郷に帰る姑ナオミを、一人にしておくことはできなかった。ナオミと一緒に生きようと決心し、二人で生きていくために、毎日落ち穂拾いにやってきた。蔑まれたり、からかわれたりすることも覚悟の上で、落ち穂拾いにやって来ました。ボアズはそのようなルツの姑への損得を超えた思いやりに、心打たれたのではないでしょうか。

そのような思いやりに、ボアズもまた応えています。第一の責任を持つ親戚は、買い取った土地が自分のものにはならないことを見越して、ゴーエールの権利を放棄しました。買い戻した土地が、自分のものではなくなるという点では、ボアズも同じです。損得勘定だけ考えれば、ルツを自分の妻とするために、もっと他の方法もあったに違いありません。しかしボアズは、ルツの思いやりに自分もまた応えたいと思ったに違いありません。だからこそ彼は、町の誰もが異を唱える余地のない方法で、真正面から状況を突破しようと思ったのです。ルツの生き方、彼女のナオミへの思いやりに、恥ずかしくない仕方で応えなくてはならない。そうしたボアズの心意気が、私たちにも伝わってくるように思うのです。

私たちの時代というのは、利に聡い時代です。その関係が利益になるか、そうすることが得か損か、そんな基準で生きる傾向が、ますます顕著になっているのではないでしょうか。先週いただいたお休みの間に、歴史学者の磯田道史(いそだみちふみ)さんの欠かれた『無私の日本人』という本を読みました。そこには穀田屋十三郎たち、中根東里(とうり)、太田垣蓮月(れんげつ)という3組の人たちの実話が記されています。いずれも自分を無にして、自分の損得など全く考えずに、他者のために命を使った人々でした。詳しいことは申し上げるいとまがありませんが、たとえば穀田屋十三郎たちは、奥州街道にある吉岡宿で商いをしている商人たちでした。その吉岡宿は伊達藩のために伝馬の御用を課せられていました。馬によって通信網の維持をしていたのです。しかもこの吉岡宿は他の宿場町のように伊達藩からの手当てなしにこの御用を担わされてました。吉岡宿はそれもあってだんだん疲弊していました。将来の存続が危ぶまれる状況でした。そこで穀田屋十三郎たちは一世一代の賭けに出ます。当時伊達藩は参勤交代の莫大な支出もあり、多額の金子を必要とすることがありました。その伊達藩に千両の金子を貸し付け、当時の利子の相場であった1割の100両を毎年受け、それを宿場の家々に配ることで、吉岡宿を支えようとしたのです。そのために穀田屋十三郎他十名近くの商家が破産も覚悟で金子を提供しました。そして仙台藩の分厚い官僚組織に体当たりでぶつかり、幾多の試練を乗り越え、6年の歳月をかけて大願を成就したのです。この小さな歴史を埋もれさせまいと発掘した磯田先生は、今の私たち日本人の風潮を、少し嘆いておられるように感じました。目先の損得だけを考え、他者に対するあたたかい眼差しを失ってしまった私たちの時代に対して、「あなたがたはひよっとすると、大切なものを失ってしまってはいませんか?」と、問いかけられるように思うのです。

さて、11節以下の後半のところでは、物語のラストにふさわしく、人々の祝福と神の祝福がこだましています。まず、ボアズとルツの結婚が、民や長老たちによって、高らかに祝福されるのです。11節以下です。「そうです。わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。どうか、主がこの若い婦人によって子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツのように、御家庭が恵まれるように。」

ラケルとレアは族長ヤコブの二人の妻であり、彼女たちからイスラエルの12部族が誕生しました。また、タマルの勇気ある行動によって、タマルは義父ユダの子を身ごもり、ユダ族は家系を絶やすことなく、つないでいくことができました。それと同じような祝福が、ボアズとルツの家庭にも注がれますようにとの祈りが、捧げられたのでした。

そしてやがて、ボアズとルツの家庭には、男の子が与えられます。この男の子は、レヴィラート婚の習慣に従い、エリメレクの息子とされ、ナオミは思いがけない仕方で息子を得ることになります。そのナオミを近所の女たちが祝福して、次のように声をかけるのです。14節以下です。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」

ルツが産んだ子どもによって、ナオミの生涯が絶望から喜びに変えられたことを、声を合わせて祝福しているのです。モアブからイスラエルに帰って来たときも、女たちから声をかけられたナオミでした。それに対して、「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしをうつろにして帰らせたのです」(1:20~21)と、答えたナオミでした。生きている意味も、未来への希望も奪い取られたナオミに、主なる神は今、生きる意味と未来への新しい希望を、造り出してくださったのです。空手でむなしく帰って来たナオミの腕に、未来そのものである乳飲み子を抱かせてくださったのです。神様はその信じる民を、見捨てたままにしてはおかれません。その信じる民を顧みてくださいます。たとえ一時は、打ちひしがれ望みを失うことがあったとしても、生きる意味と未来への大いなる希望を、造り出してくださいます。主なる神は、必ず顧みてくださるのです。

今日のルツ記4章は、ユダとタマルの息子ペレツからダビデ王に至る系図によって締めくくられています。10人の名前が記され、ボアズは7番目に出てきます。ルツ記に登場する人たちは、ナオミもルツもボアズも、自分たちのつないだ系図がどこに至ったか、知る由もなかったでしょう。自分たちの子孫からイスラエル史上最大の王であるダビデが出ると、誰が思ったでしょう。それのみならず、その系図は遙かに時代を超え、救い主イエス・キリストにつながっていくなどと、誰が想像し得たでしょう。

ナオミもルツもボアズも、主なる神を見上げ、神の慈しみを信じて、その生涯をささやかに生きた人たちでした。神の示してくださる慈しみと思いやりに、自分なりの仕方でお応えしようと、誠実に生きることを志した人たちでした。時には迷い、神様の御手が見えなくなるような苦しみの谷を通りながらも、神様と共に生き続けた人たちでした。神様はそのような人たちのささやかな歩みを用いてくださり、イスラエルの民を導き、ご自身の救いの業に用いてくださったのです。 

私たちのささやかな歩みを、イエス・キリストの父なる神様は無駄にはなさいません。神様は必ずや顧みてくださる。主イエスの愛に少しでも誠実に生きたいと願う私たちを顧みてくださいます。その信仰に生かされ励まされて、新しい一週間の歩みを進んでまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹を色々な仕方で礼拝に招き、共にあなたを讃美することができますことを、心から感謝いたします。あなたは信じる者たちを顧みてくださいます。私たちがどのような状況に置かれても、あなたが新しい道を創造くださり、あなたの御心に適った希望の道へと導いてくださいます。そのことを深く信じて、あなたを見上げて、進ませてください。8月のこの時期、私たちは戦争と平和について考える時を与えられます。危機と不安が増す状況の中で、色んな言説が飛び交います。しかしあなたは「平和をつくり出す者はさいわいである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われます。この御言葉の意味を深く思いめぐらし、この御言葉に従う決意をもって日々を過ごさせてください。猛暑の日々が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の健康を支え、その歩みを導いていてください。この拙きひと言の感謝と願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 8月20日(日)

  

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   出エジプト記32章1-6節

説  教   「金の子牛」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分   司式 山﨑和子長老

聖  書

 (旧約) ルツ記4章1-17節   

 (新約) ローマの信徒への手紙5章1-5節 

説  教   「神は顧みてくださる」  藤田浩喜牧師

主の教えに従う道

ルカによる福音書6章27節~36節 2023年8月13日(日) 主日礼拝説教

長老 山根和子

 今日のテキストで、イエスは「敵を愛せ」と命じられました。主の教える愛について学びを深めたいと思います。

主イエスは、27-28節「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と命じられます。ここに敵への愛について三つの方法が示されています。それは、憎む者に対しては親切にすること、悪口や呪いについては祝福をすること、侮辱する者に対しては執り成しの祈りをすることです。主イエスは、この世を支配する原則に対して、同じ原則で対抗するのではなく、この世の力とは、相容れない、神の国の自由な愛をもって対応する事を求められます。

でも、わたしたちは、悪口を言われれば、相手への悪感情が増し、侮辱されれば、それ以上に相手を貶めたくなります。打たれれば、打ち返し、奪われれば、奪われた以上に取り返したくなります。これが、わたしたちの本性ではないでしょうか。

わたしたちは、自分を愛してくれる人を愛し、自分によくしてくれる人に善いことをし、返してもらうことを当てにして貸す者たちなのです。わたしたちは、愛を得るために人を愛し、親切を受けるために人に善いことをし、利益を見込んで人に貸し与えることを行っているだけにすぎません。恩には恩で報いる原則、恩返しであり、返礼でしかありません。すべて自分のために愛するのであり、見返りを求めて親切にし、貸すのです。自己の利益を求めているだけで、そこに神の恵みに値するものは何も見いだすことはできません。わたしたちの自己中心的な生き方に気づかされます。しかし主の教える愛は、自己中心とは反対のことなのです。わたしたちが行っている愛と、主の教える愛とは、あまりにもかけ離れているのです。

主イエスは、35節「敵を愛しなさい。人に善いことをしなさい。何もあてにしないで貸しなさい」と命じます。敵をも愛する制限のない、無条件で、徹底的な愛を教えられます。

敵に対する愛とは、自分のためにではなく、他者のために生きるということです。自分を放棄し、他者の利益を願うのです。わたしたちは、自分の愛する人のためには、自分を犠牲にして生きることができるかもしれません。しかし、主イエスの教える愛は、憎しみ呪う敵のために自分を捨てて、相手を生かそうとします。侮辱を受けるというだけの消極的なものではありません。罪を犯す者を救おうとする積極的な行動となります。主イエスは、わたしたちに、他者のために神のみ心にかなう善いことをしなさい、何も当てにしないで貸しなさいと勧めるのです。

そうすれば、神からの報い、交換原則によってではなく、神からの自由な恵みがあるに違いないと言われます。神は、恩知らずにも、悪人にも、情け深い方だからです。神は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる方なのです。だから「あなたがたの父なる神が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と命じられます。

ここで、旧約聖書のヨナ書を見てみましょう。4章1節に、ヨナはそれが大いに不満で怒ったとあります。それとは何か、前章までの流れを振り返りつつ見てみましょう。

神はヨナに、大都市ニネベに行って、主の言葉を語れと命じられます。ニネベは、神の民イスラエルを悩まし、苦しめているアッシリアの首都です。神は、ヨナに敵対するニネベに一人赴き、悪を告発することを命じました。しかし、ヨナは、恐ろしかったのでしょう。神の言葉に従うことを嫌って、神の命令に背きます。ヨナは、神の支配から逃れられると考えたのです。人は、自分の力を信じる時、自分が主となり、神に従わないのです。ヨナは、神に命じられたニネベとは反対のタルシシュに向かう船に乗り込みます。その結果、嵐の海に投げ込まれ、ヨナは魚の腹の中に閉じ込められました。命の危機に瀕した時、ヨナは、神に助けを求めて祈ります。悔い改めの祈りです。神は、この祈りを聞き入れ、彼を救われます。ヨナは、自分自身の判断で生きていけると考えましたが、神の支配からは逃れられず、強制的に神のみ言葉に仕える者とされました。

神はヨナをニネベの町に送り、主の言葉を告げさせます。それは「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」という災いを告げる言葉でした。ヨナは、悪がはびこる町に神の裁きを告げて回ります。すると、ニネベの人々は、神の言葉を信じたのです。ヨナの予想に反して、ニネベの人々は神の言葉を聞いて、すぐに悔い改めました。神は、ニネベの人々が悪を離れ、心から悔い改めたのをご覧になって、災いをくだすことを思い直されました。これが3章までのいきさつです。

ヨナは、ニネベを滅ぼすことを思い直された神の寛大さに対して激しく怒ったのです。ヨナは、神が恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとして思い直される方であることを知っていました。この神の憐れみが自分の仲間であるヘブライ人に対して与えられるのならば、ヨナは、共に喜び神に感謝したことでしょう。しかし、この恵みは、神の法を知らない、また守れない異邦人に与えられました。ヨナは、ニネベの人々に宣告した災いが撤回されたことに不満なのです。ニネベの人々は、神の好意を受けるに相応しくないとヨナは考えたからです。

ヨナは、神の偉大な愛を認識していたにもかかわらず、ヘブライ人としての選民意識にとらわれて、狭い民族愛から抜け出ることができません。ニネベの人を生かそうする神の良い業を見ても喜ぶことができません。それどころか、「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているより死ぬ方がましです。」と神に怒りをぶつけるのです。

不服を述べるヨナに、神は「お前は怒るが、それは正しいことか」と問います。反省を促される神の問いかけにヨナは答えません。ヨナの態度はかたくなです。ヨナは、都を出て東の方に行き、座り込みます。そして、仮小屋を建て、日差しを避けてその中に座りました。ヨナは言葉ではなく、態度で神に反抗するのです。40日後、どうなるか、ニネベの行く末を見届けようとします。ここに、ニネベの滅びを期待して座り込むヨナの頑固な姿が浮かびあがります。

神は、神のみ心を求めず思い違いをしているヨナを、体験を通して、神の真実の愛に目覚めさせようとします。強烈な日差しの中、仮小屋に座るヨナのために、神は「とうごまの木」を生えさせ、日陰を作られます。ヨナは、それを喜びます。ところが、主は、虫に命じて、一夜にして、「とうごまの木」を枯らしました。その上、東風を吹きつけさせ、ヨナを苦しめます。東風とはニネベに特有の草木を枯らし、人間の思考さえ失わせるほどの熱風です。頭上に照り付ける直射日光を遮るものもなく、熱風まで吹き付けてきました。ヨナはぐったりして、生きているより死ぬ方がましだと弱音を吐きます。涼しい木陰を作ってくれていた「とうごまの木」を失い残念でなりません。

これを聞いて、神はヨナに言われます。10節「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。

神は、神に背く民をも愛されます。神は、ニネベをその繁栄と偉大さのために惜しまれたのではありません。右も左もわきまえない人々の命を何よりも憐れまれ、惜しまれ、救われるのです。罪を犯す者を救おうとする愛です。

主イエスは、貧しい人、虐げられている人、弱い人、異邦人、罪人のためにこの世界に来てくださいました。神は、資格のない者、右も左もわきまえない者を救うために主イエスをこの世界に送ってくださったのです。神の深い憐れみ、慈しみは、人には、はかり知ることはできません。それは敵をも愛する愛だからです。神の愛は、わたしたちの思いをはるかに超えて大きいのです。神は、分け隔てなく一人一人を価値ある存在として愛しておられます。そして、神は、主イエスによって、すべての人々を救われるために今も働かれています。主イエスによる神の救いにおいては、人間の側から主張すべき何らの権利はありません。それにもかかわらず、神の側から自由に与えられる愛と、救いの御業は、すべての人に差し出されています。

かたくななわたしたちは、神の救いのご計画をなかなか理解することができません。そのため、ヨナのように、主の恵みの業に、戸惑い、悩み、苦しむことがあるかもしれません。たとえそうであっても、それは無駄にはならないと思えるのです。神を信じ、人とかかわり続ける中で、わたしたちは主の御旨を知らされ、変えられていくからです。

 わたしたち一人一人の力は、小さく、わずかなものです。取るに足らない者であります。一人の力でこの世界を変えることはできないでしょう。しかし、一人一人の力が、何も生み出さないわけではありません。神は、右も左もわきまえないわたしたちだからこそ、み言葉によって導いてくださるからです。わたしたちはこの神に望みをおき、自分のすべてをかけて従うのです。主の十字架を仰ぎ見つつ、慈しみ深い主に信頼して、平和を、真実を、良き未来のために祈りつつ行動するのです。救いは主にあります。何の力もないと嘆き、諦めるのではなく、このわたしを生かし、用いてくださる主イエスに信じ従うとき、この世界は確かに変えられていくのです。 

 信仰は、聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まります。この主に信頼して従っていきたいと思います。

祈り

父なる神様、いつもみ言葉によってわたしたちを導いてくださり感謝します。

どうか、わたしたちに向けられている、あなたの愛に気づかせてください。

わたしたちがあなたの愛の恵みに応えて、御心にかなう良き働きができますように、互いに支え合い、祈り合う者たちをなさせてください。

戦後78年を迎えます。平和を築き上げる努力を怠らないように、わたしたちを励ましてください。争いのない社会を作り出す知恵と力を与えてください。

連日の暑さで体を弱らせている一人一人の健康をお守りください。

主イエスキリストの御名によって祈ります。

次週の礼拝 8月13日(日)  

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   出エジプト記20章1-17節

説  教   「十戒」 山﨑和子長老

主日礼拝   

午前10時30分   司式 髙谷史朗長老

聖  書

  (旧約) ヨナ書4章1-11節   

  (新約) ルカによる福音書6章27-36節 

説  教   「主の教えに従う道」  山根和子長老