神の豊かさに生きる

マルコによる福音書4章21~25節 2024年1月14日(日)礼拝説教 

                          牧師 藤田浩喜

 今朝与えられている御言葉は、主イエスがお語りになった「ともし火」のたとえと「秤」のたとえです。これはどちらも「たとえ」ですから、とても単純な話です。こういう話です。誰かが「ともし火」を持って来る。この「ともし火」というのは、小さな皿のようなものに油が入っていて、芯が浸してあって頭が少し出ている。そこに火が灯されているものです。テレビの時代劇などに出てくるものと同じ様なものを考えていただけばよいかと思います。この「ともし火」を持って来た人は、それを升の下や寝台の下に置きはしない。燭台の上に置くではないかと言うのです。「ともし火」は、ストーブを消す時を考えていただいたらよいと思いますが、消す時には嫌な臭いがします。ですから、臭いが出ないように、升をかぶせて消したのです。そして、蹴飛ばしたりしてはいけませんので、ベッドの下に入れた。ここで主イエスは、当時の生活の一場面を用いてお語りになったのです。誰かが「ともし火」を持って来たら、それは燭台に置いて部屋を明るくするのであって、消すためではないと言われたのです。当たり前のことです。

 また、豆でも小麦でも、買う時には升のような秤で量って買うわけです。現代の日本では秤が店によって違うなどという事はありませんけれど、当時は升の大きさが店によって違い、多かったり少なかったりする。その日常の場面を用いて主イエスはお語りになっているわけです。そして、自分の秤が大きければ多く与えられるし、小さければ少ししか与えられないというのです。

 この二つのたとえは、当時の日常生活の一場面を切り取ったような話ですから、話そのものは単純なもので、よく分かります。しかし、それが何を意味しているのかということになりますと、話は別です。それは、以前学んだ種蒔く人のたとえでもそうでした。話としては難しいところは少しもない。しかし、何を言われているのか、その意味は何かということになると、さっぱり分からない。これが主イエスのたとえの、一つの大きな特徴なのです。どうして、そうなのでしょう。

 話は簡単で単純だけれども、何を言っているのか分からない。私は、これと全く同じ思いを抱いたことがあります。それは、私が初めて礼拝に通い始めた頃に持った、説教に対しての思いです。それが全くこれと同じだったのです。牧師の語る説教は、特に難しい日本語を使うわけではない。言葉としては分かるのです。しかし、何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。毎週礼拝に集っても、心に残るとか、「ああ、そうだ」と思うことが無い。今思いますと、あれだけ分からなくて、よく毎週通ったものだと思います。説教だけじゃなくて、讃美歌も分からない。祈っていることも分からない。どれもこれも日本語としては分かる。しかし、分からない。どうしてなのか。

 主イエスはここで、23節「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。この言葉は、以前「種蒔く人」のたとえを語られた時にも、9節で同じ言葉で言われています。「聞く耳のある者は聞きなさい。」なるほど、教会に通い始めた頃の私には、この聞く耳がなかったということなのだと思います。聞くには聞くが理解できない。それは聞く耳がないからなのです。実は、日本語としては分かるけれど何を言っているのか理解できないというのは、何も主イエスのたとえに限ったことではないのです。牧師の説教も、聖書の言葉も、主イエスのこのたとえと同じ性質のものなのです。

 主イエスのたとえも、聖書が告げていることも、説教も、いつもただ一つのことを語っている。それは主イエスの福音です。イエス・キリストとは誰なのか。イエス・キリストによって与えられた救いとは何か。イエス・キリストによって救われた者はどうなるか。そのことを告げているのです。それは、信仰を与えられなければ分かることはありません。それは、語られていることが訳の分からないことであるから分からないのではなくて、聞く者が語る者と同じ所に立っていないからなのです。あるいは、語る者が前提としていることと、聞く側が前提としていることが違っていれば、話は通じない。そう言ってもよいかと思います。主イエスはこのことを指して「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのです。

 「聞く耳のある者は聞きなさい」というのは、何か上からものを言っているように聞こえるかもしれません。話を聞いて分かる者だけが分かればいいのだ。そんなふうに聞こえるかもしれません。しかし、主イエスはそんな思いでこれを告げているのではありません。牧師もまた、そんな思いで毎週説教しているのではないのです。何とか分かって欲しいのです。しかし、本気で分かろうとしなければ、本気で聞こうとしなければ、分からないのです。自分の耳が変わらなければ、分からないのです。自分の耳が変わらなければ、自分が生きる上で自分が求めること、前提となっていることが変えられなければ決して分からないし、受け入れることができない。それが、主イエス・キリストの福音というものなのです。

 主イエスは今日の24節で、「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」と言われました。自分が聞いていることが何なのか、そのことに注意しなければならないのです。主イエスは、単に生活の一場面を語っているわけではないのです。当たり前です。主イエスは神の国の福音を告げているのです。私たちはそれぞれ自分の秤を持っています。それは、自分の経験やこの世の常識といったもので作られたものでしょう。ある人にとっては健康が一番でしょうし、ある人にとってはお金が一番かもしれません。この自分の秤が変わらなければ、主イエスが語っていることは分からないということなのです。しかし、この秤が主イエスの求めているものに変わりますと、どんどん分かってくる。どんどん与えられてくるのです。

 聖書というものは本当に不思議な書物で、一箇所分かりますとどんどん分かってくる。しかし、なかなかすべてが分かるということはない。ですから、次から次へと、どんどん与えられ続けていくものなのです。私は洗礼を受けて45年、牧師になって36年ですが、今もどんどん与えられ続け、分からされ続けております。「ほう、そういうことなのか!」と、分からせていただいています。

 では、この自分の秤が変わる時の重要点は何かと申しますと、「私は罪人である」ということを知ることだと思います。あれをしてしまった、これをしてしまった。そういう意味での罪人ということでもありますが、それ以上に重大なことがあります。それは、自分に命を与え愛してくださっている神様を裏切り、神様の愛に感謝することもなく、自分の欲を満たすためにばかり生きている者であったということを認めることなのです。

 自分が欲することを満たそうとすることのどこが悪いのか。確かに、この世の法律は、それを罰することはありません。しかし、そのことによって私たちは隣人(となりびと)を傷つけ、神様の御心を痛ませてきたのではないでしょうか。そのことは、人と比べてもそれは分かりません。他人と比べたら、自分はそれほど悪い人間ではない。どちらかと言えばよい人間ではないか、そう思うのが自然でしょう。しかし神様は、誰にも言えない、心の底にある闇の思いをも御存知です。そして、その闇の心を新しくしよう、そう言って招いてくださっているのです。そのために、主イエスは来てくださったのです。

 どうして自分が罪人であるということを知ることが重要であるかと申しますと、このことが分かった時、主イエスが私のために来られ、私のために十字架にお架かりになり、私のために復活されたということが分かるからなのです。大切なのは「私のために」です。「私の罪のために」です。聖書の言葉が、牧師が語る説教が、他ならぬ私のことを言っているということが分かるようになるからです。この時、自分の秤が変わるからなのです。

 さて、今朝与えられておりますもう一つのたとえ、「ともし火」のたとえですが、ここで語られている「ともし火」とは何を指しているのでしょうか。すぐに思わされることは、主イエス・キリスト御自身を指しているということでしょう。確かに主イエスは、御自分を殺そうとする人たちがいても逃げも隠れもせずに、十字架に架けられて殺されるということに至りました。その結果、主イエス・キリストというお方は、当時のローマ帝国から見れば、東の辺境の地ユダヤの、更に田舎のガリラヤから出て、今では全世界において何十億という人々が主の日のたびごとに礼拝をささげるまでになっています。22節「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と言われている通りです。主イエスはまことの世の光として、すべての人に生きる力と勇気を与えています。どのように生きればよいのかという、人生の灯台のように光を放ち続けておられるのです。

 そしてこの光は、私たちに与えられたイエス・キリストに対する信仰と愛をも表しているのです。この福音が記されました頃、キリスト教会は、社会における少数者であったと思います。自分はイエス・キリストを信じています。そのように明言できないような雰囲気があったのではないかと思います。それは私たちもよく分かるでしょう。この柏の地で、キリスト者ですと人前で言うことは何となく気が引けるという思いが、私たちもどこかであるのではないかと思います。しかし、主イエスは「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と言われるのです。わたしの与える信仰と愛は隠そうとしても隠せるものではないということでしょう。もっと言えば、主イエスはここで、「わたしが与えたともし火は、消そうにも消えない、圧倒的な力と輝きを持って、私たちをそして全世界を照らし続けるものなのだ。」そう告げられたということなのではないでしょうか。

 私たちは、自分に与えられている信仰と愛とを、あまりに小さなものとして考えているのではないでしょうか。私たちの信仰は、天と地を造られたただ独りの神様が私たちに与えてくださったものであり、それは私たち自身をそしてこの世界を造り変えていく大きなものなのです。現代人は、信仰というものを自分の心の中のことだと思っているところがあります。しかし、それは正しくないのです。主イエス・キリストが与えてくださった信仰そして愛は、到底私たちの心の中に収まってしまうような小さなものではないのです。私たちに注がれた主イエスへの信仰も愛も、それは私たちから外に向かって、この世に向かって溢れ出していくものなのです。いよいよ、主の救いの御業にお仕えする者として、私たち一人一人が用いられていくことを願い求めたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。あなたは御子を、この世界に、私たちの心に、光として遣わして下さいました。この光は、人の思いを超えて、この世界に広く、深く照り渡っていきます。どうかその大いなる御業に仕える者として、一人一人を用いていてください。あなたの御心がこの地においても実現されますように。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名において、お捧げいたします。アーメン。

夜の旅路-キリストを求めて

マタイによる福音書2章1~12節  2024年1月7日(日)主日礼拝説教 

                            牧師 藤田浩喜

マタイによる福音書のクリスマス物語には、救い主の誕生を祝うために、はるばる東方から旅をしてきた占星術の学者たちのことが語られています。はるか東方からラクダにまたがって来るのですから、2週間ほどかかるでしょう。そのため世々の教会は1月6日をエピファニー(公現祭)と定め、異邦人である学者たちに救い主が初めて顕現されたことを、記念するようになったのです。

その意味では、公現祭までがクリスマスと言うこともできるでしょう。

 ところで、ここでいう「東方」というのがどこのことなのかは、はっきりしません。パレスチナから見て東の方向ですから、ペルシアだという人もおれば、アラビアだという人もあり、またインドのことだという人もあります。

 いずれにしても、この話を語ったり聞いたりしてきた人々にとって、「東方の学者たち」という表現は、なにかエキゾチックで夢物語のような印象を与えたことでしょう。それだけに、後世になればなるほど、この学者たちについては、さまざまな解釈がなされ、またいろいろな伝説が生み出されていきました。

 長い間、代々のキリスト者たちは、「救い主に出会う」というただそれだけの目的をもってはるばると旅路を歩みつづけるこの「東方の学者たち」に、それぞれの信仰的な関心を寄せてきました。そして彼らの姿に自分自身の思いを重ね合わせてきたのです。

 さて、この物語を読んでいくと、学者たちは救い主への「贈り物」として「黄金、乳香、没薬」を携えてきたと伝えられています。これらはいずれもその時代にあっては高価な品物で、薬品や化粧品、また薬味としても用いられたといいます。

 ところが、この学者たちにとっては、いささか困ったことがありました。それは贈り物を携えてきたにもかかわらず、実は自分たちが「いったいどこの誰にこの贈り物を献げるのか」ということが、最後の最後まではっきりと分からなかったということです。

 彼らは自分たちがどこに行くのかということすら知りませんでした。これは不思議なことであり、不自然なことです。

 誰であれ、贈り物をしようというときに、いったいそれを誰に「贈る」のかも分からないなどということがあるでしょうか。人に出会うために旅に出た人間が、自分の目指している相手の人がどこの誰なのかも分からないなどということがあるのでしょうか。この学者たちの旅はあまりにも頼りない旅だったと言わねばなりません。

 けれども、実際に聖書の中から読み取ることのできる、「東方の学者たち」とは、誰に出会うのかも分からぬまま、その人のために贈り物を携えて、見通しのない旅路を行く人々。そういう人々だったのです。

さて、そうはいうものの、実は目的の定かならぬ旅路を歩むという点に関して言えば、この「東方の学者たち」の姿も、私たちひとりひとりの人生も、一脈相通じるところがあるように思います。

 人生を「旅」にたとえることは、キリスト教のみならずさまざまな宗教や哲学、また文学などの世界でも行われてきました。

「旅」というものは、ふつう目的地や旅程が決まっているものです。目的も、見通しも、計画もはっきりしないまま、歩き出さなければならないような旅は、私たちを困惑させます。けれども、実に困ったことに、実際の「人生の旅」とは、そういうたぐいの旅にほかならないのです。

 私たちは目的や見通しや計画を立てた上で、この世に生まれてきたわけではありません。「気がついてみたら生まれていた」というのが実態です。「気がついてみたら旅に出ていた」のです。恐ろしいことに、「人生の旅」はその日程ひとつを考えても、私たちの思い通りにはいかないしろものです。50年後に終わる旅なのか、それとも5日後に終わる旅なのか、それすら私たちは知りません。それはまさに、思いもよらぬうちに始まってしまった旅であり、思いがけない時に終わる旅です。「今夜、お前の命は取り上げられる」(ルカ福音書12章20節)という神の言葉が、いつ私たちに告げられるのか、だれひとり知らないのです。

 仏教のほうでしたか、「人生は無明長夜(むみょうじょうや)」という言葉があります。人生というものは、灯りのない長い長い闇夜の中を生きるようなものだという意味でしょうか。実際、本当の闇の中では、私たちの目はなんの役にもたちません。また、私たちの手足も感覚も、ほとんど役にたちません。闇の中で歩いていても、それが果たして前に進んでいるのか、道から外れているのか、それともただ堂々めぐりをしているだけなのか。私たちには分かりません。もしかしたら、私たちの人生というものは、多くの時間、そんな堂々めぐりをしながら、悩んだり、苦しんだり、悲しんだり、そして時には喜んだりして、過ぎていくというだけのことなのかもしれないのです。

 さて、マタイ福音書の東方の学者たちの物語には、ひとつの「星」が登場します。目的地も、旅程も、日程も、贈り物を贈る相手すらも分からない、この頼りない旅路を行く博士たちを、この星が導いたというのです。

 「星」が導くというからには、おそらく、この人たちは夜しか旅ができなかったのではないでしょうか。暗く見通しのきかない中を、足下も不安なまま、おぼつかない足取りで一歩一歩進んでいくのが、彼らの「夜の旅路」です。

 「人生の旅」を歩くために、私たちは闇の中で目を凝らし、知恵と力を振りしぼって先々を見通しながら、この世の荒波を泳ぎわたっていこうと努めます。「人生の旅」を進んでいくとき、私たちはただひたすらに前を見つめ、がむしやらに闇の中に進むべき道を探そうとします。

 けれども、このクリスマス物語の中で聖書が語っていることは、ただひたすらに前を見るということではなく、まず「星を見る」、「天を仰ぐ」ということです。「前を見つめて歩く」のではなく、むしろ「上を向いて歩こう」と、聖書は教えているのです。

 私たちにとって「天を仰ぐ」、「上を向く」という姿勢は、ある意味で、絶望的な姿を表しているといえるかもしれません。自分自身の知恵や才覚に行きづまった時、私たちは嘆息しながら「天を仰ぐ」ことがあります。

 しかしまた、そうしたとき、そうすることによって、今までとはまったく違った情景が見えてくることも事実です。

 天にある「星」は、人間の小さな努力や、自己満足や、欲求不満などにかかわりなく、いつもまたたいています。私たちが生まれる前から、そして死んだ後にも、そこにまたたきつづけているのです。

 詩編の中でひとりの詩人は、天を見ながらこう歌いました。

  「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。

  月も、星も、あなたが配置なさったもの。

   そのあなたが、御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。

   人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。」

(詩編8編4~5節)

 変わることなく大きく開かれた天、そこに散りばめられた星々に、昔の人々は神のみわざを見たのです。「天を仰ぐ」ことによって、この詩人は世界とその中に生きとし生けるすべてのものを支えたもう神の大いなる恵みを見たのです。

 人間の手のわざではなく、神のわざに目をそそぐこと。それが「天を仰ぐ」ということであり、「星に導かれる」ということです。「天を仰ぐ」ことは、自分自身と人間に対して絶望しても、神に対して絶望しないことを告白する信仰者の姿であるとさえ言えるかもしれません。それは、私の人生が、恵みとあわれみに富みたもう神の手の中にあることを信じ、感謝する信仰者の姿なのです。

 さて、先ほども触れましたが、星に導かれて歩んだ東方の学者たちは「黄金、乳香、没薬」という贈り物を携えていたといいます。

 この贈り物については、その当時の価値あるものを献げて、救い主の誕生をお祝いしようとしたのだという解釈がふつうです。しかしある説によると、これらのものは実はこの学者たちの商売道具だったとも言います。よく知られているように、古代の世界で「占星術の学者」というのは、「天文学者」でもあれば、「占い師」でもあり、また「魔術師」のような存在でもあったようです。  

「黄金、乳香、没薬」というのは、彼らがそうした仕事をする上で用いた道具だったというのです。もしこの解釈が正しいとすれば、彼らは、今までの自分たちの生活のもととなっていたもの、これまでの「人生の旅」を送る上で彼らを支えていたいちばん大事なものを、キリストのもとに差し出すために携えていったことになります。

 それはいったい何を意味するのでしょう。

 それは、彼らがただ単に高価なもの貴重なものを救い主の誕生プレゼントとして贈ったということではなく、彼らのそれまでの「人生」を象徴するもの、彼らのそれまでの生き方そのものを、イエス・キリストの前に献げたということであり、さらにいえば、そうした過去の生き方を清算しようとしたのだということを表しているのではないでしょうか。

 彼らの旅は、「救い主を見物しよう」といった好奇心からの物見遊山の旅ではありません。彼らの旅は歴史的イベントに立ち会い、そのお祝い騒ぎに参加するためのものでもありません。彼らの旅は「これまでの彼らの生き方を終える旅」だったのであり、「これからの新しい生き方を始めるための旅」だったのであります。

 クリスマスに立ち会うということは、私たちがこれまでの自分自身の生き方を清算すること、新たな生き方へ踏み出すことにつながっています。

 冬は空気が澄んで夜空がきれいです。私たちも「天」を仰ぎ、「星」を見つめながら、それに導かれて夜の旅路を進んでいく学者たちの姿を思い浮かべてみようではありませんか。そして、闇の中に浮かび上がるそのシルエットを想像しながら、私たちもまた主イエス・キリストにあって、これまでの人生を顧みつつ、またこれからの人生の歩みに目を凝らしつつ、冬の夜のひとときを送りたいと思うのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。2024年最初の主日礼拝を敬愛する兄弟姉妹と共に守ることができましたことを感謝いたします。この新しい一年も私たちの教会と一人一人の歩みを導いていてください。見通すことのできない地上の歩みに目を奪われがちな私たちですが、天におられるあなたにこそ目を注ぐ者としてください。心を高くし、あなたの語ってくださる御言葉にこそ耳を澄ますことができますように。一人一人を強めていてください。国内では能登半島を中心に大きな地震が起こり、多くの被災者の方々が避難生活を続けています。また海外ではウクライナやパレスチナのガザで戦争が続き、多くの人々が苦しみと悲しみの中にあります。神さまどうか、苦しみや嘆き、困難の中にある人たちを、励まし支えてください。このような状況を一日も早く過ぎ去らせてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主のよき力に守られて

マタイによる福音書2章13~23節  2023年12月31日(日)主日礼拝

                           牧師 藤田浩喜

◎今日は本年最後の礼拝を守っておりますが、クリスマスの時期にはあまり選ばれることのない箇所をテキストにいたしました。それは2千年前の最初のクリスマスも、決して平和なクリスマスではなかったということを、思い起こすためです。今日のテキストの直前部分には、有名な物語が記されています。それは東の国の占星術の学者たち(博士たち)が黄金、乳香、没薬の贈り物をもって、生まれたばかりの救い主キリストを礼拝するためにやって来たという美しい物語です。

 彼らは救い主の生まれた場所を探し当てる前に、エルサレムへ立ち寄り、ヘロデ王を訪ねました。そしてこう尋ねたのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)。ところが、それを聞いたヘロデは、「もしかすると自分の地位が脅かされるのではないか」と不安になり、一計を案じるのです。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(同2:8)。もちろんそれは、嘘です。彼らから、その赤ちゃんの居場所を聞き出し、暗殺しようと企んだわけです。

 しかし彼らは、その救い主を見つけて、礼拝した後で、夢で神からのお告げを聞きます。「ヘロデのところへ帰るな」(同2:12)。彼らは別の道を通って、自分たちの国へ帰っていきました。そのことを知ったヘロデは激怒いたします。そして、「二歳以下の男の赤ん坊を一人残らず殺せ、皆殺しにせよ」という命令を下すのです。

◎クリスマスの喜びの歌声が、自分の子供を殺された母親の泣き叫びでかき消されるようです。マタイはこのように記しております。「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから』」(マタイ2:17~18)。

 この言葉は少し説明が必要かもしれません。ラマというのは、ベツレヘムのこと、あるいはその近くにあった古代の町であります。ラケルの墓はそこにありました。ラケルというのは、創世記に出てくる女性であり、イスラエルの族長であったヤコブの妻です。ちなみにヤコブは、アブラハムの孫、イサクの息子です。ヤコブは神の人と格闘して、イスラエルという祝福された名前をもらうのです。イスラエルとは、「神は支配したもう」という意味です。ラケルはその「イスラエル」という名前の男の妻でありますから、いわば、イスラエル民族の母のような意味合いをもっているのでしょう。そのラケルが泣いている。墓の中から泣いている。子供が取られたから。このところに、預言者エレミヤの名前が出ていますが、この言葉は実は旧約のエレミヤ書からの引用です。エレミヤがずっと昔に語った言葉をマタイが用いたのでした。エレミヤ書31章15節に、こう記されています。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子はもういないのだから」。

 ここでは、イスラエルの民のもう一つの悲しい歴史が重ねられているのです。それはバビロン捕囚という出来事でありました。イスラエル王国はダビデ王、ソロモン王の時代には栄華を極めるのですが、その後どんどん落ちぶれていき、さらに国は北と南の二つに分裂いたしました。エレミヤの時代にはすでに北王国イスラエルは滅び、南王国ユダもバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々が捕虜としてバビロンに連れて行かれました。これが、紀元前6世紀に起こった、バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。このラマはバビロンに連れて行かれた時の通過点であったといわれています。その連れて行かれる人を見て、ラケルが墓の中から泣いている。慰めてほしくない。子供はもう帰らないのだから、ということなのです。

 マタイはこれを、ヘロデ王の幼児虐殺事件と重ね合わせました。あのエレミヤの預言の言葉が、今ここに実現している。ラケルの泣き声が時代を超えて、こだましているのです。バビロン捕囚の時代の母親の嘆きと、クリスマスの時のヘロデ王に殺された母親の泣き叫ぶ声がこだましている。ここ3か月、新聞やテレビのニュースで、イスラエル軍がパレスチナのガザを攻撃し、そこを必死で逃げ回っているパレスチナの子どもたちの姿、また死んだ子どもたちのために泣き叫んでいる人の姿が映し出されています。ウクライナにおいてもそうでありましょう。あのラケルの泣き声は、今日までもこだましているのです。あのラケルの泣き声が地球全体を覆い尽くすようにこだましているのです。

 2千年前にこの泣き声を生み出したものは、ヘロデ王の敵意でありました。それが、力をもたない者の上にふりかかってくるのです。力を持つ者、権力を持つ者、武力を持つ者の敵意と欲望、それが罪のない人々の死と、その家族の嘆きを生み出すのです。

◎しかし、いかがでしょうか。今日のテキストは、そうした暗い出来事の中で、かすかではありますが、確かな希望を告げております。それは、どのようなヘロデ王の敵意も、あるいは彼の暴力も、軍事力も、イエス・キリストを見つけ出して、殺すことはできなかったということであります。神が守ろうとされるものは、どんな力も及ばない、不思議な力で守られるのです。それは、彼がこの時死んではならなかったからです。彼が死ぬべき時は、別に定められていました。ですから、神はあらゆる手段を用いてイエス・キリストを守り抜かれました。このことは私たちの希望です。私たちは敵意がぶつかる中で起こる痛ましい現実について、ラケルと共に嘆かなければならないでしょう。またそのような現実を生み出している敵意というものを、憎まなければならないでしょう。そうした悲劇が一日も早くなくなるようにと、真剣に祈らなければならないでしょう。しかしそういう暗い現実の中にあっても、幼子イエスは不思議にも守られ、生き延び、成長していくのです。聖書は、そのことに私たちの目を向けさせようとします。私たちはそのことを信じるがゆえに、どんな時にも希望をもって、この世の困難な課題に対して真剣に、しかし心のゆとりを失わないで、立ち向かう勇気が与えられるのではないでしょうか。

 詩編46編にこういう言葉があります。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地は姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」(詩編46:2~4)。

◎幼子イエスを守るために、大切な働きをしたのは、マリアの夫ヨセフでした。彼は夢に現れた天使の言葉に聞き従い、自分の郷里を捨ててエジプトへ落ち延びていきました。実の子ではありません。彼が自分の子ではないこの幼子のために払った犠牲が、一体どれほど大きなものであったかと思います。やがて危険が去った時、彼は再び妻マリアとその子イエスを護衛して、故郷ナザレに戻って行きます。

 このヨセフという人物は、実は福音書の最初だけに登場する人です。2章の終わりに、無事にマリアと幼子イエスをナザレに戻した後は、もう出てきません。そういうところから、このヨセフは主イエスが成人する前に、世を去ったのであろうと言われています。もしもそうだとするならば、彼の短い生涯は、いわばイエス・キリストの母となったマリアを守り、彼女から生まれた幼子イエスを受け止め、その命を守るという課題に捧げられたと言うこともできるでしょう。聖書の中のヨセフは、一言もしゃべっていません。それはマリアと違うところです。彼の姿はただ、「信仰の服従」という一語に尽きると思います。美しい姿であると思います。

 私たちにも、このヨセフのような「信仰の服従」が求められているのではないでしょうか。もしもそうしようとするならば、ヨセフが背負ったような犠牲が伴ってくることもあるでしょう。イエス・キリストが後に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と、言われたとおりです。しかし私たちは、犠牲を払って主に従っていくときに、それによって逆に、私たち自身が支えられるという経験をするのではないでしょうか。

◎聖クリストフォロスの伝説をご存じでしょうか(英語ではクリストファーです)。クリストフォロスは川の渡し守でしたが、たまたま一人の少年を背負って川を渡ることになりました。しかし一歩一歩進むうちに、どういうわけか、少年がずしりずしりと重くなっていくのです。彼は水をかぶりながら、足をふんばって何とか川を渡り切りました。クリストフォロスがふとうしろを振り返ってみると、そこはものすごい急流でありました。その時、彼は悟るのです。もしもあの少年の重みがなければ、自分は完全に流されてしまっていたに違いない。その少年こそキリストであり、その重さは世界の重さであった。そういう伝説であります。クリストフォロスは、「少年を運ばなければ、守らなければ」、

と必死の思いでしたが、そこで逆に不思議にも、神のよき力に守られていたのです。ヨセフもきっと、何度もそのような経験をしたに違いないと思います。

◎ディートリヒ・ボンヘッファーという神学者がいました。この人はナチス・ドイツの時代に、ナチス政府に屈しない教会の抵抗運動を起こしましたが、それもやがて挫折していきます。そして最後にヒトラー暗殺を企てる地下組織に加わっていくのですが、些細なことから、それが発覚して投獄され、最後には処刑された人です。1945年4月9日、連合軍がナチス軍を破るわずか数週間前のことでした。このボンヘッファーが、1944年の年の終わりに、獄中で、一つの詩を書き残しております。

 「主のよき力に守られて」という題が付けられています。この詩の中には、いつ死刑に処せられるかわからない不安と主にある平安が、ない交ぜになっています。また彼にはマリアという若い婚約者がいましたが、そのマリアや家族に会いたいという気持ちが、ひしひしと伝わってまいります。しかしながら、それにもかかわらず、神がここに自分を置かれたという状況を受け入れて、獄中にある仲間や、看守たちと共に新年を迎えていこう、という信仰があります。こういう詩であります。

「主のよき力に、確かに、静かに、取り囲まれ、

不思議にも守られ、慰められて、

私はここでの日々を君たちと共に生き、

君たちと共に新年を迎えようとしています。

 過ぎ去ろうとしている時は、私の心をなおも悩まし、

 悪夢のような日々の重荷は、私たちをなおも圧し続けています。

 ああ主よ、どうかこのおびえおののく魂に、

 あなたが備えている救いを与えてください。

あなたが、もし、私たちに、苦い杯を、苦渋にあふれる杯を、

なみなみとついで、差し出すなら、

私たちはそれを恐れず、感謝して、

いつくしみと愛に満ちたあなたの手から受けましょう。

 しかし、もし、あなたが、私たちにもう一度喜びを、

 この世と、まぶしいばかりに輝く太陽に対する喜びを与えてくださるなら

 私たちは過ぎ去った日々のことをすべて思い起こしましょう。

 私たちのこの世の生のすべては、あなたのものです。

あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、

どうか今こそ暖かく、静かに燃やしてください。

そしてできるなら、引き裂かれた私たちをもう一度結び合わせてください。

あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私たちは知っています。

 深い静けさが私たちを包んでいる今、この時に、

 私たちに聞かせてください。

 私たちのまわりに広がる、目に見えない世界のあふれるばかりの音の響きを、

 あなたのすべての子供たちが高らかにうたう讃美の歌声を。

主のよき力に、不思議にも守られて、

私たちは来たるべきものを安らかに待ち受けます。

神は、朝に、夕に、私たちと共にいるでしょう。

そして、私たちが迎える新しい日々にも、

神は必ず私たちと共にいるでしょう」(村椿嘉信訳)。

 この歌にはメロディーがつけられ、賛美歌にもなっています。『讃美歌21』では日本語に訳されたものが、469番として収められております。このあとご一緒に、この賛美歌を歌いましょう。

 皆さんの2023年は、いかがだったでしょうか。様々な思いを秘めながら、私たちも主のよき力に守られていることを信じて、新しい年へと進んでいきましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日2023年最後の礼拝を愛する兄弟姉妹と共に守ることができ、感謝いたします。この1年は2年以上続くロシアとウクライナの戦争に加えて、10月からはイスラエルのガザ侵攻という戦争が今も続いています。2千年前と同様、子を亡くした母親の嘆きが慰められることも拒んで、世界に響き渡っています。権力や武力を持つ者の敵意と欲望は、いつもこのような不条理な悲惨を生み出します。しかしそれと同時に、そうした権力者の暴走を許した私たち自身の怠惰や無関心を懺悔いたします。神様どうかこうした不条理な戦争を一日も早く終結へと導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

主に先立って道を備える者

ルカによる福音書 1章57~66節   2023年12月17日(日)主日礼拝説教

                                            牧師 藤田浩喜

アドベント第三の主の日を迎えております。ルカによる福音書は、主イエスの誕生の前に洗礼者ヨハネの誕生を記しております。それは、主イエスの誕生が、偶然、たまたま、その時に起きたことではなくて、神様の御計画の中で起きたことである。そして旧約聖書において預言という形で示されていた神様の御心の成就であるということを示しているわけです。マラキ書3章1節にも「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」と預言されていたように、救い主が来られる前には、主の道を備える者、神様からの使者が遣わされることになっていたからです。救い主が来られる前に、救い主に先立つ者、道を備える者が来ることが預言されており、それが洗礼者ヨハネであると告げているわけです。

神の民は長い間、救い主が来られるのを待っていました。アッシリアに、バビロンに、ペルシャに、ローマに、神の民は800年にわたって世界帝国と言われる巨大な国家に支配され続けました。その中で彼らは待ち続けたのです。そして、遂に救い主が来られたのです。それが主イエス・キリストでした。神様はアブラハムとの契約を忘れず、神の民に救い主を与えてくださったのです。そのことを指し示す者として、洗礼者ヨハネが主イエスの誕生に先駆けて生まれたのです。その意味では、洗礼者ヨハネは、旧約と新約とを結びつける者としての位置が与えられていると言ってよいかと思います。マタイによる福音書は、その冒頭において長い主イエスの系図を掲げることによって、旧約と新約とのつながりを示しました。それに対して、ルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの誕生を記すことによって、旧約とのつながりを示したということなのではないかと思うのです。

今朝与えられております御言葉は、洗礼者ヨハネが誕生した場面が記されておりますけれど、その前に何があったのかをまず少し振り返っておきましょう。1章5~25節に記されていることです。

 洗礼者ヨハネの父ザカリアは祭司でありました。彼が、神殿で香をたく務めをしていた時、天使ガブリエルが現れて、こう告げました。13~17節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」この天使ガブリエルの言葉の中に、生まれて来る子が救い主のために道を備える者であることが示されていました。16~17節です。

しかしこの時、ザカリアは天使ガブリエルの言葉を受け入れることができませんでした。ザカリアも妻のエリサベトも既に年をとっていたからです。100歳のアブラハムと90歳のサラにイサクが与えられた出来事をザカリアは知っていました。しかし、そのようなことが我が身に起きるとは信じられなかったのです。だから彼は、天使にこう言いました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。」これは「しるし」を求めたということでありましょう。それに対して天使ガブリエルは、20節「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と告げ、ザカリアはその時から口が利けなくなってしまったのです。そして、それから妻のエリサベトは本当に身ごもったのです。

そして今日の聖書です。「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。」(57節)というのは、今申しましたようなことがあって、そして10ヶ月が過ぎて男の子が生まれたということです。当然、ザカリアはこの間、口が利けないままでした。この10ヶ月間の沈黙、それはザカリアにとってどういう時間だったのでしょうか。ザカリアは天使ガブリエルによって口が利けなくなってしまったわけですけれど、そのことを恨んで過ごす10ヶ月ということではなかったでしょう。そうではなくて、天使ガブリエルが言った言葉、先程お読みした1章の13~17節の言葉の意味を考え、思い巡らしていたのではないかと思います。そしてまた、アブラハムにイサクが与えられた時のような驚くべき奇跡が起きて自分たちにも子が与えられることの意味、神様がそのことによって示そうとされている御心、それらについて思い巡らす日々ではなかったかと思うのです。

 10ヶ月というのは短い時間ではありません。しかし、本当に神様の御心を知り、そのことによって自分が変わる、神様の御業に仕え切る者となる、そのためには三日や一週間ではダメだったのではないかと思うのです。人が変わるには、時間が必要なのです。そして、口が利けなくなるというのは、日常的に忘れることができないことです。声を発し、話そうとする度に、思い起こさせられることです。それは少しも観念的なことではなく、我が身に刻まれた神様の御業でありました。この神様の御業と共に10ヶ月間、ザカリアは生活しなければならなかったのです。このことは、とても大切なことだったと思います。ザカリアはそのような時を過ごし、そして遂に「月が満ち」たのです。

子どもが誕生するというのは、いつの時代でも、どこの国でも、喜ばしいこと、嬉しいことです。洗礼者ヨハネが生まれた時もそうでした。近所の人々や親類が皆喜んだのです。これは自然なことです。しかし、ここには神様の御業に対しての驚きと畏れがありません。私たちを根底から支え、生かす、力ある喜び。それは神様の御業に対する驚きと畏れというものと不可分です。自然な喜びというのは、悲しいことがあればそれによって取って代わられてしまうような喜びなのです。しかしここで、神様がザカリアと妻エリサベトに与えられた喜びは、自然な喜びを超えた、神様への驚きと畏れに満ちた喜びでありました。

 生まれた子に割礼を施し名前を付ける。この命名式というものが、当時のユダヤにおいては大変重要でした。近所の人や親類が集まってなされる、子どものお披露目のような意味を持ったものでした。その時に、生まれた子に父の名を取ってザカリアと名付けようとしたのです。ザカリアの家は祭司の家でした。親類の多くも祭司だったはずです。親類の中の偉い人がそう言ったのかもしれません。しかし、その時母のエリサベトが「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言ったのです。女性がこのような公の時に口を挟むことが許されるような時代ではありませんでしたから、人々は驚いたことでしょう。この嫁はなんということを言い出すのか。そんな空気が流れたことでしょう。そこで人々は父のザカリアに「この子に何と名を付けたいか」と尋ねました。するとザカリアは、口が利けませんので字を書く石板を出させ、「この子の名はヨハネ」と書いたのです。

 ザカリアは10ヶ月の間、口が利けませんでしたけれど、どうして自分の口が利けなくなったのか、神殿で天使ガブリエルに会った時のことを、妻のエリサベトに伝えていたに違いないと思います。口は利けないのですから筆談によったのでしょう。ザカリアはエリサベトに事の成り行きを話したに違いないのです。そして、ザカリアもエリサベトも10ヶ月の間に、神様の御心をきちんと受け取り、それに応える者へと変えられていったのだと思います。

 何気ないことでありますけれど、この時ザカリアとエリサベトが同じように神様の御心を受け入れたということが、とても大切なことだと思います。ザカリアだけ、エリサベトだけ、ではなかったのです。ここには信仰において一つとされた夫婦がいるのです。これはまことに幸いなことです。

 ザカリアが「この子の名はヨハネ」と書いた時、それはザカリアが単に天使ガブリエルの言った通りにしただけではありません。それ以上に、ガブリエルが告げたことをすべて、受け入れて信じたということを意味しています。示された神様の御心に従って歩んでいくということを意味していたのです。神様に対しての信仰の告白が、こういう形で成されたということなのです。

 64節「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」とあります。10ヶ月の長い沈黙の後にザカリアの口から出て来たのは、神様への賛美だったのです。ここに、神様の御臨在に触れた者、生ける神様と出会った者の姿があります。私たちの姿がここにあると言ってもよい。私たちは、ザカリアと同じように神様を賛美する者として、神様の救いに与ったのですから。

 ザカリアが神様を賛美する姿を見て、人々は恐れを感じたと65節にあります。どうして人々は恐れたのでしょう。それは、ザカリアの口が利けなくなったことから始まり、老いたエリサベトが身ごもったこと、子が生まれたこと、そして急にザカリアの口が開いて主を賛美したこと、その一連の出来事が神様の御業であることを知らされたからです。彼らは今まで、普通に赤ちゃんの誕生を喜んでいたのです。しかし、この普通だと思っていた出来事が普通ではない、神様の御業であるということを知って、恐れたのです。

 私たちはどうでしょうか。普通であると思っていることの中に、神様の御業を見る眼差しを持っているでしょうか。神様の御業は私たちの日常の中に溢れています。しかし、多くの場合、私たちはその前を普通のこととして通り過ぎているのではないかと思うのです。私たちの眼差しが神様の御業に開かれ、この唇が神様を誉めたたえるために開かれていくことを願うものです。

ザカリアは10ヶ月の間、天使ガブリエルの言葉を思い巡らし、まことの救い主によって救いの成就が成されるということ、そのために我が子ヨハネが用いられること、そのような神様の救いの御計画の中で、自分たち夫婦が選ばれたということを知るに至ったのでしょう。もちろん、それを悟らせたのは聖霊なる神様です。ザカリアの10ヶ月間も、口が利けないという状況は辛い日々であったに違いありません。しかし、その時を神様の時として過ごした者は、神様を賛美する者へと変えられていくのです。私たちもまた、そのような者として召されているのです。来週はクリスマスの主日礼拝です。色々と忙しい日々が続きます。その日々を私たちは、忙しさを嘆くのではなく、主が私に与えてくださった救いの御業を思い巡らす時としていきたいと思うのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。アドベントの第三主日を、敬愛する兄弟姉妹と共に守り、あなたを褒め称えることができましたことを感謝いたします。神様の救いの御業は、あなたを待ち望み、あなたを信じる民によって担われていきます。今日の祭司ザカリアと妻のエリサベトもそうでした。それは今日の信仰者である私たちも同じです。私たちも自らの生き方と奉仕の業によって、あなたの救いの御業を持ち運んでいきます。そのことに気づかされるとき、私たちは畏れに打たれると同時に、あなたに用いられている喜びを与えられます。どうかそのような喜びで、一人ひとりを満たしていてください。 主をこの世界にお迎えした時、この世界は軍事力を背景にした「ローマの平和」の中にありました。そのような冷酷な偽りの平和が、現代においても声高に叫ばれ、人々を支配しています。しかし、神様はそれとは対極にある神の平和の基として、御子をこの世界に誕生させてくださいました。どうか、私たち一人ひとりを、世界を和解させ命を生かす、あたたかさを湛えた神の平和に仕える者としてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

大いなる喜びの知らせ

ルカによる福音書2章8~14節  2023年 12月10日(日) クリスマス合同礼拝

                                             牧師 藤田浩喜

 今日は日曜学校の子どもたちも大人の人たちも一緒に、クリスマスの物語を聞きましょう。2千年以上前のユダヤの国のことです。羊飼いが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。野宿というのは、家の外でお泊りすることです。羊に草を食べさせるためにあちこち旅していた羊飼いたちは、夜も羊の番をしなくてはなりません。狼などの獣や人間の泥棒が羊を取っていかないように、見張っていなくてはなりません。羊飼いの仕事は、夜も起きていなくてはならない大変な仕事なのです。夜はどんどん更けていきました。

 その夜のことです。神さまの使いである天使が、羊飼いたちに近づきました。

「あ、天使だ、天使が立っている!」すると、今まで経験したことのない大きなまばゆい光が彼らを照らしました。「うぁ、まぶしい!」。羊飼いたちは思わず地面に顔を伏せました。そしてぶるぶる震え出しました。「どんなことが起こるんだろう」「どうなってしまうんだろう」。彼らは恐くなってしまったのです。

 すると天使は言いました。「羊飼いたち、恐がる必要はありません。わたしはすべての人々に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝えます。今日ダビデの町ベツレヘムで、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」そして天使は、その救い主である赤ちゃんがベツレヘムの町の飼い葉桶の中に寝かされていることを、教えてくれました。

 すると、どうでしょう。さらにびっくりすることが起こります。いつの間にか、天使だけでなくおびただしい天の大軍が、天使を取り囲むようにいるではありませんか。天の大軍は、戦争をするために来たのではありません。天使といっしょに神さまを賛美するためにやって来ました。天から来た合唱団です。すると天の合唱団は、いっせいに歌ったのです。「神さまのおられる天には、栄光がありますように!地上には平和がありますように!」まばゆい光が満ち溢れる中で、神さまを賛美する声が響き渡りました。「神さまのおられる天には、栄光がありますように!地上には平和がありますように!」

 羊飼いたちは、夢でも見ているように、この素晴らしい光景を見ていたに違いありません。そして、天使たちが彼らを離れると、だれかれなしに言い出したのです。「みんな、僕たちに起こったことを見たかい。天使と天の大軍が、大合唱して神さまを賛美していた。天の神さまの栄光が輝き、地に平和をもたらしてくださる。そんな救い主がお生まれになったんだ。僕たちのための救い主だ。さあ、ベツレヘムに行こう。救い主である赤ちゃんを拝みに行こう!」

 こうして羊飼いたちは、ベツレヘムの町にある馬小屋へと出かけて行ったのです。すべてが、天使が教えてくれた通りでした。羊飼いたちは飼い葉桶の中ですやすやと眠っている赤ちゃんイエスさまにお会いすることができたのです。羊飼いたちは、どんなに嬉しかったでしょう。羊飼いたちは自分たちが見たり聞いたりした不思議な出来事を会う人会う人に話してあげました。そして、神さまを大声で讃美しながら帰っていきました。

 羊飼いたちは、救い主イエスさまのお誕生を知らされましたが、それは不思議な体験でした。びっくりするような出来事でしたね。羊飼いたちが経験したように、救い主イエスさまがお生まれになったことは、天使や天の大軍が大合唱して神さまを賛美するような、素晴らしい出来事でした。

 そして、天使と天の大軍は歌いました。「神さまのおられる天には、栄光がありますように! 地上には平和がありますように!」神さまがおられる天には、栄光があります。そして、神さまが造られたこの世界には、神さまの栄光を表す平和がなくてはなりません。天の栄光には、地の平和こそがふさわしいのです。

 しかし2千年前の世界には、平和がありませんでした。ローマという大国が軍隊の力、富の力によって人々を支配していました。人々は苦しんでいました。今、わたしたちが生きている世界も同じですね。平和とは反対の戦争や争いが、多くの人たちを苦しめています。神さまに逆らい、神さまの御心に背く罪によって、この世界は神様の栄光を受けられなくなってしまったのです。  

 しかし、救い主イエスさまは、神さまの栄光がこの世界に満ち、この世界に本当の平和がもたらされるために、お生まれくださったのです。神さまの天とわたしたちの地をつなぐ架け橋となるために、イエスさまは生まれてくださったのです。そのような驚くべき出来事が、クリスマスの日に起こったのです。

 2016年の11月に作家の村上春樹さんが、デンマークでアンデルセン賞を受けられました。アンデルセンは、「マッチ売りの少女」や「人魚姫」など子ども向けのおとぎ話の作者として有名な人です。そのアンデルセン賞を受けた時、村上さんは受賞講演をしました。それは、アンデルセンの「影」という小さな作品、彼のいつもの作風とはまったく違う作品を取り上げて、語ったものでした。

 「影」という寓話のようなお話をわたしも読んだのですが、それは次のような話です。ある若い学者が南の国に旅をします。その国で過ごしていた彼は、向かいの家の中に何が起こっているのかを知ろうとして、自分の影をその家まで届かせます。しかしその影はそのまま戻っては来ず、学者は影を失くしてしまいます。

けれども彼には小さな影ができ、それが彼の新しい影になるのです。

 月日が流れ、何年も経ちました。ある晩のこと、学者の部屋をノックする音が聞こえます。ドアを開けるとどうでしょう。そこには自分のなくした影が立っていたのです。彼の身なりはとても立派で、高級な衣服や宝石を身に着けていました。しかも話を聞くと、彼はある国の美しい王女を愛するようになり、もうすぐ結婚することになっているというのです。学者の古い影は、知恵と力を得て独立し、今や経済的にも社会的にも、元の主人よりもはるかに卓越した存在になっていたのです。

 その後、学者はかつての影に世界旅行に連れて行ってもらったりしますが、その間に、学者とかつての影の立場は、すっかり逆転していきます。学者の影はいまや主人となり、主人であった学者は影になります。そして、かの美しい王女と結婚する日のこと、恐ろしいことが起こります。彼が影であった過去を知る元の主人は、その事実を口外することのないよう、哀れにも殺されてしまうのです。

 アンデルセンの「影」はそのような寓話なのですが、村上春樹さんはその寓話を取り上げつつ、私たち人間の心の中にある影ということについて、言及します。そして次のような、とても印象的な、洞察に満ちた言葉を語るのです。

「アンデルセンが生きた19世紀、そして僕たち自身の21世紀、必要なときに、僕たちは自分の影と対峙し、対決し、ときには協力すらしなければならない。それには正しい種類の知恵と勇気が必要です。もちろん、たやすいことではありません。ときには危険もある。しかし、避けていたのでは、人々は真に成長し、成熟することはできない。最悪の場合、小説『影』の学者のように自分の影に破壊されて終わるでしょう。」

そして、個人だけでなく国家や社会の中にある影についても、次のように言うのです。「ちょうど、すべての人に影があるように、どんな社会や国家にも影があります。明るく輝く面があれば、例外なく、拮抗する暗い面があるでしょう。ときには、影、こうしたネガティブな部分から目をそむけがちです。あるいは、こうした面を無理やり取り除こうとしがちです。というのも、人は自らの暗い側面、ネガティブな性質を見つめることをできるだけ避けたいからです。影を排除してしまえば、薄っぺらな幻想しか残りません。影をつくらない光は本物の光ではありません」。そして村上さんは、影の部分を無理やり取り除くような例として、侵入者を防ぐために高い壁を作ること、よそ者たちを厳しく排除すること、自らに合うよう歴史を書き換えることを上げます。そして、そのようなことしても結局は、自分自身を傷つけ、苦しませるだけだというのです。

 村上春樹さんは、私たち個人の中にも国家や社会の中にも、暗い影が存在することを指摘します。そのような影の部分を避けたり、無理やり取り除こうとしてはいけない。そうではなく、自分の影と共に生きることを辛抱強く学ばなくてはならない。そして、その内に宿る暗闇を注意深く観察しなさい。時には自らの暗い面と対決することを恐れるべきではない、と言われるのです。

 救い主イエスさまは、天と地をつなぐ平和の礎(いしずえ)として、この世界に与えられました。そして、そのことを知らされた御心に適うひとり一人によって、平和が創り出されていくのです。救い主イエスさまを信じるひとり一人が、平和のためのレンガを一つ一つ積み上げていくのです。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)。羊飼いたちがしたように、クリスマスの大きな喜びの知らせを、精いっぱい、周りにいる人たちに伝えていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。 

【祈り】御子イエスさまをこの世界に遣わしてくださった神さま、あなたを心から讃美いたします。今日は日曜学校の子どもたちも大人の人たちも、いっしょに礼拝を捧げることができました。ありがとうございます。平和の主であるイエスさま信じる私たちが、イエスさまから力をいただき、たとえ小さくても平和を造りだしていけますよう、どうか励ましていてください。午後の「子どものクリスマス」の時も祝福していてください。このお祈りを、イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

実を結ぶ神の言葉

マルコによる福音書4章13~20節  2023年12月3日(日)主日礼拝説教

                                          牧師 藤田浩喜

今朝与えられております御言葉は、主イエスがお語りになった「種蒔く人」のたとえの説明の部分です。「種蒔く人」のたとえは、一度聞いたら忘れられない、とても印象的な話です。日曜学校の子どもたちも知っている有名なたとえです。こういう話でした。「種を蒔く人が、種を蒔いた。ある種は道端に落ち、その種は鳥に食べられてしまった。ある種は石ころだらけの所に落ち、すぐに芽を出したけれど根がないため枯れてしまった。ある種は茨の中に落ち、茨に覆われて実を結ばなかった。そして、ある種は良い土地に落ちて、芽が出て、育って、30倍、60倍、100倍の実を結んだ」というものです。

 このたとえ話は大変印象深いのですけれど、何を語っているのか、これだけを聞いたのではよく分からないのではないかと思います。この話そのものは、当時のパレスチナ地方における種蒔きという農業の一場面を語っているに過ぎません。その様子は、私たちが考える種蒔きの様子とは随分違います。私たちが種を蒔く場合、畑を耕して、畝を作り、一粒一粒丁寧に蒔きます。しかし、主イエスの時代の種蒔きは、おおらかと言いますか、おおざっぱと言いますか、種を片手に握っては、文字通りばら蒔いていくのです。それから畑を耕して土をかけるのです。ですから、種が畑の外に飛んでしまうこともありました。道端、石地、茨の生えた中に落ちてしまうこともあったでしょう。当時の人は、種蒔きの農作業を思い起こしながらこの話を聞いていたに違いありません。そんなこともあると思いながら、一度聞いたら決して忘れなかったと思います。しかし、このたとえ話が何を語ったものなのか、それは決して分かりやすくなかったと思います。教会に長く来ておられる方は、この話を聞けば、すぐに「ああ、あの話ね」といった具合に、このたとえ話が何を意味しているのか分かるでしょう。しかし、教会に来られて間もない方は、このたとえ話を聞いて、昔の種蒔きの作業の一場面を語っていることは分かっても、何を意味しているのか、主イエスは何を語ろうとされたのか、そのことがすぐに分かるという人はまずいないのではないでしょうか。

 しかし幸いなことに、このたとえ話には13節以下に、主イエスが弟子たちにされた、たとえの説明が記されています。たとえ話を理解する上で決定的に重要なのは、そのたとえの中に出てくるものが何を指しているかということです。このたとえ話の場合、この蒔かれた種とは神の国の福音でした。それでは道端とは、石ころだらけの所とは、茨の地とは、良い土地とは、何かということです。

 先週私たちは、「種蒔く人」の側に自分を置いて、このたとえに聞くことをいたしました。しかし今日は「種を蒔く人」だけでなく、種が蒔かれる「畑」にも注目したいと思うのです。すでに見てきましたように、この「種を蒔く人」の中に主イエスを見ることができ、さらには私たち自身を見ることもできます。私たちはまた、この「畑」の中に私たち自身を見ることもできるのです。

 主イエスは四種類の土地について語られました。一つは道端、一つは石だらけで土の少ない所、一つは茨の中、最後に「良い土地」です。「四種類の土地」と申しましたが、実は主イエスは、互いに離れた四つの別な場所について語っておられるのではなく、一つの畑の話をしておられるのです。

道端というのは、人が通って踏み固められた、畑の中にできた道のことです。また、「石だらけで土の少ない所」も同じ畑の中です。もともとパレスチナの土地には石が多いのです。その石を一生懸命取り除いて畑にするのです。しかし、全部の石を取り除くことは到底できません。石はどうしても残ります。ここで言われているのは、そのような石の上に薄く土が残っている場所のことです。また畑には「茨」もつきものです。深いところに根を張っています。先週申しましたように灌漑は行いません。ですから深く耕すこともしないのです。水分が蒸発してしまうからです。それゆえに深い茨の根は残ります。それが麦と一緒に延びてくることは、いくらでもあったようです。

私は、このたとえ話を今までたくさんの教会員、求道者の方と読んできましたが、この話の中で、自分はどれに当たると思いますかと聞いて、良い土地ですと答えた人は一人しかいません。その他の100人を超える人たちはほとんど、石ころだらけの所あるいは茨の地と答えます。不思議なことに、道端という人もあまりいないのです。牧師と聖書を読もうして来ている人たちですから、自分は道端ではないだろうと思うようです。

 確かに、「自分は良い土地です。」そうはなかなか言えないと思います。まして信仰のゆえに苦しい目に遭う。迫害なんかに遭ったとしたら、信仰を守り切る自信なんて、誰にもあるというものではありません。そうすると、石ころだらけの所かなと思う。あるいは、いろいろな思い煩いがあって、信仰の生活に徹底できない自分がいる。富の誘惑だって大きい。そう考えると、自分は茨の地かなと思う。それが普通なのだと思います。

 この話の中に自分自身の身を置きますと、いろいろと見えてくることがあるのです。13節以下の主イエスの解説を読みます時、とても耳の痛い話として響いてくるかもしれません。主イエスは言われました。「道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」(15節)。すると私たちは思います。「ああ、これはわたしだ。いつもサタンに御言葉をもっていかれて、何にも残らない。わたしは道端だ」。

 さらに主イエスは言われます。「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」「また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」どれもこれも、自分に当てはまるように聞こえるかもしれません。

 しかし、先にも申しましたように、道端も石だらけの所も茨の地も良い地も、それぞれ別の場所にあるのではなくて、一つの畑の話なのです。ですから、道端が永遠に道端とは限りません。次の年には、石だらけの土地から石が取り除かれているかもしれません。茨が次の年にも生えているとは限りません。どれも皆、良い土地となり得る、畑の一部なのです。御言葉を聞いて受け入れるならば、三十倍、六十倍、百倍という大いなる実りをもたらす、そのような土地なのです。

私たちはそのような土地となり得るのです。そのような私たちとして主イエスは見ていてくださり、今も主は収穫を期待して種を蒔いていてくださっているのです。だからこそ主は言われるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

主イエスは私たちに種を蒔いてくださった。道端のような私たちの心に御言葉を与え、神の国が来ていることを、神様の御支配の中に私たちがすでに生かされていることを知らせようとしてくださった。そして、主の日のたびごとに、種を蒔き続けてくださっている。種を蒔くだけではなくて、様々な人との出会い、また様々な出来事を通して、導き続けてくださっているわけです。何とかして、私たちの中に御言葉が芽を出し、根を張り、大きく成長するようにと育んでくださっている。私たちが、道端から良い地へ、石地から良い地へ、茨の地から良い地へ変わるようにと、働き続けてくださっているのです。だから、私たちは良い地になることが求められています。私たちも良い地になることを求めていますし、必ず良い地になることができるのです。私たちはそのことを信じて良いのです。どうせ自分は石地だ、茨の地だと諦めてはならないのです。それは自分に対してだけではありません。あの人もこの人も、自分の愛するあの人も、道端のままであるはずがないのです。そのことを信じてよいのです。神の国が来ているということを信じるとは、この神様の御業、神様の御支配を信じるということなのです。

 そのように種を蒔く人として主イエスを思い描き、また種を蒔かれている畑として私たち自身を見ることは、私たちにとって大事なことなのだろうと思います。礼拝堂に集まることができない週があります。高齢のために、病気のために、教会に集うことができず、それぞれの場所において聖書を開きます。ネット配信によって、説教原稿を読むことで、神様を礼拝します。礼拝堂に身を置いている時のように説教を聞くことはできないかも知れません。しかし、それでもなおその週の御言葉は与えられているのです。その時も同じように、主イエスは収穫を期待して種を蒔いていてくださるのです。

 ならば大事なのはこちら側です。畑の側なのです。わたしは道端だ、石だらけの所だ、茨の中だ、などと言っていないで、自分自身が実り豊かな者となることを期待して、耳を傾けることが大事なのです。繰り返しますが、私たちはどれも皆、良い土地となり得る、畑の一部なのです。御言葉が私たちの内に留まって芽を出して実り始めるならば、何が起こるか分からない。どんな素晴らしいことがそこから起こってくるか分からない。私たちはそのような、とてつもない可能性を秘めた畑の一部なのです。

 かつてジョン・ウェスレーというひとりの人が、全く気が進まないままにロンドンのアルダースゲートにおける集会に参加しました。そして、蒔かれた御言葉の種が芽を出したのです。1738年5月24日水曜日午後9時15分前頃のことでした。その時、たった一人の人間が御言葉を聞いて受け入れたことが、ある意味でこの世界を変えたのです。この人からメソジスト教会が始まりました。その実りはイギリスからアメリカに、またカナダに広がり、そしてついにこの日本にまで及びました。あの一粒の種を受け入れた土地がなければ、日本にメソジスト教会はなかったのです。

 同じことが私たちの内に起こり得ます。主は「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われます。主イエスは収穫を期待して、今日も御言葉の種を蒔いていてくださっています。そして、私たちはとてつもない可能性を秘めた畑です。私たちの内に落ちた種から始まる神の御業は、私たちの内に留まりません。三十倍、六十倍、百倍にもなるのです。大きな実りを期待しながら、今日も神の御言葉に耳を傾け、神の御言葉を私たちの内に受け入れましょう。主は言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を褒め称えます。神様、今日から私たちは主のご降誕を待ち望むアドベントの時を過ごします。神の御子があなたの御許から、悩み多きこの世界に到来してくださいました。そして馬小屋の飼い葉おけの中に誕生され、御子がこの世界の最も低く、貧しく、悲惨な場所に共にいてくださることを示されました。御子は今も聖霊において、そこに留まり続けていてくださいます。そのことをこの世界に与えられた尽きざる希望として、今年のクリスマスを守らせてください。今、病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、悩みや苦しみの中にある兄弟姉妹を顧みていてください。今も戦闘の止まないウクライナやガザの地をあなたが、顧みていてください。あなたの平和を、天にあるように地にももたらしてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

主イエスの造る家族

マルコによる福音書3章31~35節 2023年11月12日(日)主日礼拝説教

                             牧師  藤田浩喜

 今日読んでいただいたマルコによる福音書3章34~35節にこうありました。「イエスは…周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』」。これは有名な御言葉です。この御言葉をあらためて読むとき、この主イエスの御言葉は今日の「家族」を考える上で、一石を投じているのではないでしょうか。

 ある学者は「今日、家族は自明ではない」と言っています。私たちの時代、親たちの経済的な生活基盤が不安定であると指摘されます。核家族化の進行で、父親は仕事に取られ、ワンオペ育児を強いられている母親も増えています。かつて子育てを下支えしていた地域社会も機能してはいません。そうした中で家庭の教育力が低下してしまい、子育てに悩む家庭も多くなっています。日本キリスト教会岐阜教会は「児童育成園」という児童養護施設と深い関係がありますが、そこで暮らしている子どもたちは、その多くが親のいる子どもたちで、親のいない子どもたちは少ないそうです。また、関心が集まって周囲の人々が通報することが多くなったことも関係していると思いますが、ネグレクトやDV(ドメスティック・バイオレンス)などの虐待を受けている子どもたちの数も増加しています。もちろん個人の責任だけに帰せられるものではなく、社会情勢や行政の施策の貧しさも大きな背景をなしています。そうした複雑な状況の中で、「今日、家族は自明ではない」ということを実感として感じるのです。

 2018年第71回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した是枝裕和(これえだひろかず)監督の「万引き家族」は、多くの方がご存じでしょう。映画の筋をばらすのは営業妨害ですが、5年前の作品ですので少しだけご紹介します。この映画は今日の私たちに、「家族」というものについて鋭い問題提起をしているように思います。おそらくは東京のビルが林立する町の一角に、狭く古い家が時代に取り残されたように立っています。高齢の祖母、中年の父と母、小学校高学年くらいの息子、そして高校生ぐらいの娘の5人が、身の置き所もないような雑然とした家で暮らしています。

 この家族は、お世辞にも褒められた生き方をしてはいません。家族は6万円ほどの祖母の年金を当てにしています。父親は息子に万引きをさせ、足らない日用品や食品をまかなっています。母親はパートでクリーニング工場に勤めていますが、衣類のポケットに残っていたアクセサリーなどの忘れ物をくすねます。高校生ぐらいの娘は怪しげな風俗店で働いて、小遣いを稼いでいるのでした。しかし狭苦しい家で遠慮ない言葉をぶつけ合う家族ではありましたが、そこには親密さや暖かさがあるのです。お互い文句を言い合うのですが、なんだかんだ言って、それぞれが面倒を見合うのです。そして、この「家族」にネグレクトと虐待を受けていた小さな女の子が加わります。一度は両親のもとに返そうと家の前まで連れていくのですが、夫婦がののしりあい、母親がDVを受けている様子を耳にして、自分たちの家に連れ帰ってしまうのです。

 しかし、この小さな女の子が警察によって捜索されることになり、それがきっかけとなって、この家族はバラバラになっていきます。祖母はすでに病死していますが両親は逮捕され、男の子も警察で事情聴取されます。そしてその過程を通して、家族一人一人の抱えていた過去が明らかになります。そして、家族と思われていた5人は、だれ一人血がつながっていない「疑似家族」であることが明らかになるのです。もうその家族がもとの姿に戻ることはありません。そしてあの小さな女の子も、ネグレクトと虐待の待つ自分の家庭に戻らざるをえなくなってしまうのです。「家族とはなにか」、「家族にとって本質的なことは何なのか」、そのことを深く鋭く問いかける作品であると思います。

 さて、今日読んでいただいた箇所で、主イエスは身内である「肉親の家族」と「神の家族」というべきものを対置していることが分かります。主イエスは「肉親の家族」を絶対化してはいません。32節の後半で、主イエスに「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と告げられます。しかし33節で主「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え」られたのです。身内だからということで、主イエスを連れ戻そうとする家族の者たちを拒んでおられるのです。

 もちろん、主イエスは「肉親の家族」を否定しているのではありません。公生涯に入るまでの30年間、主イエスは両親に従順な息子として成長してきました。父の仕事を継いで長男としての責任を果たしてこられたことでしょう。また主イエスが十字架に付けられたとき、主イエスは自分の弟子に「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:27)とおっしゃって、母マリヤのことをその弟子にゆだねています。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハネ19:27)と報告されています。ですから主イエスは、「肉親の家族」をないがしろにしてよいとか、ないがしろにしなさいとおっしゃったのではないのです。

 しかし、真の神であり真の人である主イエスにとって、より本質的で大切な家族がありました。それが主イエスと「主の周りに座っている人たち」から成る家族、「神の家族」なのです。主は34節で、「周りに座っている人々を見回して言われました。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる』」。「神の家族」とは何か、どんな家族なのか。「神の家族」であるための要件は、主イエスが真ん中にいてくださるということです。主イエスが家族の中心になっていてくださることです。イエス・キリストは、この世界に受肉され、十字架と復活の御業によって、わたしたちのすべての罪を贖い、わたしたちを神さまを和解させてくださいました。わたしたちはイエス・キリストのゆえに、罪と死の縄目から解き放たれました。それだけでなく、イエス・キリストのゆえにわたしたちは神さまを「アバ、父よ」と呼ぶことができるようになりました。ですからわたしたちは、イエス・キリストの十字架と復活の救いを信じることで、この「神の家族」に迎え入れられているのです。「神の家族」に属するために、イスラエルの家系に属する必要も、律法学者たちのように律法に精通する必要もありません。イエス・キリストの十字架と復活の救いを信じるなら、どんな人でも「神の家族」に迎え入れていただけるのです。

 そして、この「神の家族」に求められていることは何でしょう。主イエスは今日の35節でこのように述べておられます。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。「神の家族」に求められていることは、「神の御心を行うこと」なのです。「神は愛です」。そして神は愛という究極の御心を行うために、御子イエスを十字架にお掛けになったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。この決定的な御言葉は、そのことを証ししているのです。

そして、神は「神の家族」とされた私たちが、今度は互いに愛し合うことを求めておられます。それが神の御心を行うということなのです。ヨハネによる福音書15章9~12節をご一緒に読んでみましょう。新約198頁です。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっている。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」イエス・キリストがその身を捧げて示してくださった愛の掟によって、互いに愛し合うことが「神の家族」には求められています。しかしこの愛の掟を、神さまご自身が実践して下さり、御子イエス・キリストが模範となって愛の掟を実践してくださいました。私たち「神の家族」に迎え入れられた者たちは、神さまが御子イエスを愛して下さった愛、御子イエスがわたしたちを愛して下さった大いなる愛に支えられて、互いに愛し合うことが求められています。父なる神と御子イエス・キリストの大いなる愛に包まれるようにして、わたしたちは愛し合う者となっていきます。その意味で私たちは、「神の家族」の一員となることによって、互いに愛し合うことを学ぶのです。

 今日は「肉親の家族」と「神の家族」という対照の中で、聖書の御言葉を聞いてきました。「肉親の家族」は、誰でもがつくれるものではありません。一度つくったとしても、それが壊れてしまうことがあります。長年「肉親の家族」であったとしても、年月の経過によってそれが失われてしまうこともあります。

誰もが「肉親の家族」を持っているわけではありません。しかし「神の家族」はそうではありません。「神の家族」は、どんな人にも開かれています。どんな人も「神の家族」に迎え入れていただくことができるのです。

 そして「肉親の家族」を持っている人は、「神の家族」の大きな輪の中に入れられることが大切です。「神の家族」は、真の神であり真の人であるイエス・キリストを中心として形づくられた家族です。その「神の家族」の中に入れられることによって、家族にとって何が本質的なことか、何を失ってはならないかが、分かってくるのです。

 皆さんもご承知のように、「肉親の家族」は遠慮のない関係です。そのあまりの密接さのゆえに、他の家族の心の中にズカズカと踏み込んでしまうこともしてしまいます。子を親の所有物のように見なし、自己実現、自己充足の手段としてしまうこともあります。子が親を便利に利用するだけの打算的な関係になってしまうこともあります。あまりに密接な関係だからこそ、歪んでいたとしてもそれが分からない、ということも起こりうるのです。

 しかし、あの愛の掟を模範として実践してくださったイエス・キリストが、私たちの真ん中にいてくださることを、決して忘れないことが大切です。イエス・キリストを見つめ続ければ、それでよいのです。「神の家族」に属することで、「肉親の家族」は、何が家族の本質であるか、何を家族は失ってはならないかを、学び続けることができるのです。そのような「神の家族」が与えられていることを、私たちは心から感謝したいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、今日も兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができ、心から感謝いたします。あなたは御子イエスを中心とする「神の家族」を造ってくださいました。「神の家族」にはすべての者が招かれています。そしてこの「神の家族」に属し、イエス・キリストを見上げることで、私たちは「家族」にとって何が本質で大切であるかを知ることができます。どうか何よりも「神の家族」として歩ませてください。このひと言のお祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

天にある永遠の住みか

コリントの信徒への手紙 二 5章1~10節 2023年11月5日(日)主日礼拝

                         牧師  藤田浩喜

 今日は召天者記念礼拝を皆さまと一緒に守ることができて感謝です。ここにおられる皆さまのほとんどが、ご自分のご家族を亡くされた経験をもっておられることでしょう。突然、ある日ご家族を亡くされた方もあるでしょうし、しばらくの間看取りの期間を過ごした後、ご家族が亡くなったという方もあるでしょう。どんなに手厚く看取りをなさった場合でも、看取った家族には「悔い」というか「心残り」があるものです。「生きている間に、こうしてやればよかった。こんなこともできたのに」と、心残りを感じているのです。看取りの期間があった家族でもそう感じるとすれば、突然ご家族を亡くされた場合には、いっそう強く、そのように感じるのではないかと思います。

 私は父を中学校2年生の時に亡くし、母を今から14年前に亡くしました。父の時は自分がまだ子どもでしたので、看取ったという記憶はありません。しかし、母の場合は私は50歳になろうとしており、西宮の牧師館に引き取った時期もありましたので、妻と一緒に母の世話をし、看取ったという記憶があります。

できることは精一杯したと思う反面、息子として至らなかったことも多く、「こうしてあげればよかった。どうしてできなかったんだろう」と、今でも心が痛むことがあります。「できることならあの世に行った時に、『あの時はごめんな』と謝りたい」と思う気持ちがあります。そのように謝りたいというだけではありません。「もう一度会えたら、こんな言葉も掛けたい、こんな報告もしたい」という願いを、ここにおられる皆さまも持っておられるのではないでしょうか。そのような願いを心に抱いている私たちに、今日の箇所でパウロは、私たちの死後のこと、死んで後に経験することを語っているのです。

 今日読んでいただいた箇所のすぐ前、4章18節でパウロは「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言っています。有名な言葉です。私たちキリスト者は、信仰によって見えるものだけではなく、見えないものに目を注ぎ、見ています。その信仰によって見ているものは何か。その一つとして今日の5章1節以下で挙げられているのが、「天にある永遠の住みか」なのです。それは死んで後のことです。目に見えないものですから、一目瞭然というわけにはいきません。そのためパウロは、建物のイメージや着物を着るイメージを用いながら、「天にある永遠の住みか」を描き出そうとしているのです。

 「天にある永遠の住みか」とは、そもそもどういうものか。パウロの他の手紙、たとえばコリントの信徒への手紙 一 15章などから示されることは、「天にある永遠の住みか」とは、新しい「霊的な『体』」と言い換えることができます。この「霊的な『体』」は、滅びることも、死んでしまうこともありません。「信じる者は、「肉体の『体』ではない、「霊的な『体』」を受ける。それは滅びることも、死んでしまうこともない。」パウロはそのように語っているのです。

 では、その信じる者が死んで後受ける「霊的な『体』」である「天にある永遠の住みか」には、どんな性質や特徴があるのでしょう。私たちもイメージを豊かにしながら、パウロの語る言葉に聞きましょう。まず、第一に「天にある永遠の住みか」は、「地上の住みかである幕屋」とは対照的です。わたしたちの地上の住みかである幕屋は、先ほど述べた言葉で言えば、地上を生きる「肉的な『体』」です。今生きている地上の体です。幕屋はテントであり、テントは私たちが知っているように時が経つと劣化して、朽ち果ててしまいます。また、暴風などの自然災害によって、突然壊れてしまうこともあります。それが地上を生きる「肉的な『体』」です。しかし、「天にある永遠の住みか」は人間が造ったものではなく、神によって備えられた建物です。神が備えてくださった建物ですから、朽ちることも壊れることもありません。永遠に揺らぐことなく建ち続けるのです。

 しかし「天にある永遠の住みか」と「地上の住みかである幕屋」は、まったく無関係で、何の接点もないのかと言うと、そうではありません。パウロは2~3節で次のように言っています。「わたしたちは、天から与えられる住かを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。」地上を生きる「肉的な『体』」は、皆さんも実感されているように、悩みや苦しみを避けることはできません。4節にありますように「重荷を負ってうめ」くように毎日を生きています。パウロにしても福音を宣べ伝える上で、筆舌に尽くしがたい苦しみを経験しました。しかし、「天にある永遠の住みか」は、そのような「地上の住みかである幕屋」の上に、重ね着するものであります。「地上の住みかである幕屋」が無くなったり、消滅したりすることはありません。そのイメージから分かるように、地上を生きる「肉的な『体』」は、新しい「霊的な『体』」を与えられても、私たちの人格は継続していきます。その人自身、私自身であることは変わりません。継続していくのです。私たちが地上の人生おいて過ごしてきた日々の記憶、私たちが結んできた様々な関係、たとえば親子関係や友人関係が、決して消滅してしまうことはないのです。

 「天にある永遠の住みか」についてパウロが語る第3のことは、4節に記されています。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられた住みかを上に着たいからです。」ここでは、「天にある永遠の住みか」を上に着たい理由が述べられています。パウロは「死は最後の敵である」(Ⅰコリ15:26)と述べています。そして死をここにいる者は誰一人、経験したことはありません。死は善も悪もすべて飲み込んでしまう。死によって私たちの存在が飲み込まれてしまい、死すべきものは永遠に消え去ると思って、人は苦しむのではないでしょうか。人が死ねば「無」になる。何も残らないのではないかと、恐れるのです。

しかし、パウロはそうではない。死すべきものは命に、すなわち永遠の命に飲み込まれてしまうのだ、と言うのです。パウロはコリントの信徒への手紙 一15章54節で、同じようなことを次のように述べています。322頁、57節まで読んでみましょう。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」このように、イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、今や死そのものが、復活の命に飲み込まれているのです。信じる者を待っているのは死ではない。復活の命なのです。

 先週、高木慶子(よしこ)さんが書いた『大切な人をなくすということ』という本を読みました。高木さんはカトリックのシスターで、死を迎える患者のターミナルケアや遺族へのグリーフケアを長年なさっている方です。小さな本ですが、とても中身の濃い本です。多くのことを教えられましたが、一つのエピソードだけ、今日はご紹介したいと思います。

 高木さんは53歳の吉永さん(仮名ですが)を、病床に訪ねられていました。この方はバリバリ仕事をされ、会社の部長にまで昇進された方でした。この吉永さんにすい臓がんがあることが分かり、お医者さんからは余命3か月と言われました。ご本人は最初、「僕は仕事をするだけして、後はバタンキューでいい」とおっしゃっていました。しかしそれは「がんばっている姿を見せていないと家族が心配すると思った」、「自分自身を甘やかしたら、それでおしまいになるから」と思っていたからでした。

 しかし、口ではそうは言っても、心は平静でいられるわけではありません。吉永さんの「死を受け入れるための」苦闘が始まります。ある日、吉永さんは高木さんに「家族と別れることがどんなに辛いことか分かりますか?」と尋ねます。そして、死が近づいてくる実感を淡々と語られるのです。「体がね、伝えてくるんです。家族と別れる時が近いということを。以前はね、砂を嚙むような感じしかしなくても、食事をとることができたんです。ちゃんと、食べることができました。でも、今は食べてももどしてしまう。食事のにおいをかぐだけでもイヤになってしまう。」「自分の体が刻一刻と変わっていくことが分かるんです。昨日の自分と今日の自分が違うなんてものじゃない。一時間前の自分といまの自分がすでに違うんです。」そして、吉永さんは目に涙を浮かべて、こうおっしゃったのです。「孫がくるとね、一か月後にはもう会えないんだと思ってしまうのです。もう、やり切れないですよ。」

 しかし、高木さんとの対話が続いていく中で、がんの告知を受けてから一か月半が経った頃から、吉永さんは少しずつ、ご自分の死を受け入れることができるようになったのでした。そして、高木シスターの「また、向こうで会いましょうね」という語りかけに、「死んでもまた家族に会えるんですね」とホッとした表情を浮かべて、亡くなって行かれたと言うのです。

 吉永さんと関わられたエピソードの中で、高木さんは次のような大変深い言葉を語っておられます。少し長いですがお聞きください。

「人は自分の死を突きつけられた時、そうそう簡単にはそれを受け入れることはできません。『人は死んだら無になる』とおっしゃる方は多いですよね。しかし、実際に死を突きつけられると、人間そんなことは言っていられないのです。自分が『無』になってしまう。そう思ったら、とてつもない虚無感と絶望感にさいなまれるはずです。無になるということの恐ろしさを、ありありと感じてしまうのです。なぜなら無になってしまうと、愛する家族と再会できなくなるわけですから。でも、亡くなる前に自分の人生を認め受け入れ、肯定できた方は、『また、向こうで会いましょうね』という言葉を口にすることができるようになられます。

それは、簡単なことではありません。……無になってしまうことの恐ろしさを感じて初めて、「そうじゃない、そうあってはならないと思うようになるのです。」「無になってしまうと考えたら、家族に会うことはできません。そこには希望がありません。でも、死んだ後でも会えると思えば、希望がわいてきます。家族に対して『向こうで待っているよ』と言えたら、それはご本人にとっても、遺される家族にとっても救いになるのです。」やがて死と直面しなければならない私たちとって、これは本当に深い切実な言葉ではないでしょうか。

今日の聖書の5節で、パウロは次のように言っています。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは神です。神はその保証として“霊”を与えてくださったのです。」私たちは信仰によって、見えないものに目を注いでいます。そのきわめて大切な一つが、「天にある永遠の住みか」を与えられるという約束なのです。信仰によって霊、聖霊を与えられた私たちは、見えないものに目を注ぎつつ、やがてその約束が実現することを確かに待ち望むことができるのです。ここの「保証」は「手付金」とも訳されます。完全な救いと新しい「霊的『体』」を与えられることは、確かにまだ起こっていません。しかし、本当の支払いは残っているとしても、手付金は最後の支払いを保証するものなのです。神さまがイエス・キリストにあって、そのことを保証してくださっているのです。心安んじて、イエス・キリストに委ねて歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたします。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

【祈り】生と死を統べ治めたもう主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日の主日礼拝を、先に召された兄弟姉妹を覚える礼拝として守ることができ、感謝いたします。神さま、あなたは信じる者たちに聖霊をお与えくださり、見えないものを見させてくださっています。神さまが備えてくださっている「天にある永遠の住みか」がその一つです。地上にあっては重荷を負ってうめいている私たちではありますが、この「天にある永遠の住みか」を仰ぎ望みつつ、希望をもって歩ませてください。大切なご家族やご親族を天に送られた方々が、今日の礼拝を守っております。どうぞ、そのお一人お一人の上に、主の慈しみと平安を豊かに注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

誰がキリストを知るのか

マルコによる福音書3章20~30節  2023年10月29日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

 今日の箇所には、マタイ福音書、ルカ福音書に同じような内容を記した並行記事があります。その一つのルカによる福音書11章14節以下で、「主イエスは口を利けなくする悪霊を追い出し、口の利けない人がものを言い始めた」とあります。そうした状況を受けて、主イエスは律法学者たちと「ベルゼブル論争」をなさったのです。主イエスと身内の人たちとのやりとりについては、次回マルコによる福音書を学ぶときに扱いたいと思います。

 今日登場している律法学者たちは、わざわざ「エルサレムから下って来た」のでした。律法学者というのは、ユダヤの宗教生活を規定していた律法の専門家です。その専門家たちが、近頃目覚ましい働きで評判になっている主イエスの正体を見極めようとやって来たのでしょう。専門家には専門家としての誇りと自負があります。そこで主イエスのことを見聞きして、彼らは一つの結論を出しました。それは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、あるいは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったのです。

 「ベルゼブル」というのは、本来古くからあるシリアの神の名前であり、おそらく「神殿の主」という意味であったと言われています。この神の名は王国時代に言葉をもじって「バアル・ゼブブ」(蠅の王)と軽蔑的に呼ばれるようになりました。そして、その後次第に、この異教の神の名が悪魔を示すものとなっていったと言うのです。異教の神の名というのは、往々にしてこのような末路をたどってしまうのでしょう。いずれにしてもエルサレムの権威を帯びた律法学者たちは、主イエスの悪霊追放の業が神の聖霊ではなくて、悪霊の頭の力によってなされていると断定したのです。より力の強い悪霊が、それより弱い悪霊を追い出したと、彼らは考えたのです。

 それに対して主イエスは、どのように応じられたでしょう。23節に「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた」とあります。たとえは、ある事柄を理解するとき、それを理解しやすいように語って聞かせるものです。主イエスはけんか腰で反論されたのではありませんでした。律法学者たちが十分理解して納得できるように、たとえを用いられたのでした。それは相手が民衆であっても、律法学者のような専門家であっても変わらなかったのです。

 主イエスは言われました。23節後半以下です。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」国であろうと、家であろうと、サタンであろうと、内部で争ったり、分裂したりすれば、立ち行かない。滅んでしまう。そんな墓穴を掘るようなことを、狡猾なサタンがするはずがない。主イエスはこのたとえによって、悪霊を追放したのが同じ悪霊ではないことを分からせようとしたのです。

 確かに国も、家も内輪もめして争えば、分裂し崩壊してしまいます。イスラエル王国は、ソロモン王の後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます。すると紀元前8世紀には北イスラエル王国がアッシリア帝国に、紀元前6世紀には南ユダ王国が新バビロニア帝国に滅ぼされます。確かに王国は、分裂すると立ち行くことはできないのです。今日の私たちの世界も、分裂や分断が進んでおり、このままでは機能不全に陥ってしまうのではないかと恐れます。しかし人間ではない狡猾なサタンは、墓穴を掘るようなことをするはずはありません。ますます結束を固くして、私たちの世界を神様の御心に反した方向へと連れて行こうとしているのです。

 主イエスが語られたもう一つのたとえは、家に押し入る強盗のたとえでした。27節です。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」主イエスがこのようなたとえを語られたのは、ある人から悪霊を追い出すというのは、その人を支配していた悪霊に代わって、神からの聖霊が支配するようになることだからでしょう。

ある家に押し入り、その家を略奪する場合、最初にすることは、その家を守っている最も「強い人」を捕まえて、縛り上げることです。最も強い人をやっつければ、他の人たちは抵抗する気力が無くなり、略奪は一気に進みます。それによって、略奪する者はその家を自分のものにすることができるのです。 

悪霊に支配された人から悪霊を追い出し、その人を奪還する場合も同じです。悪霊の頭とも言うべき「強い人」を捕まえ、縛り上げなければ、どれだけいるか分からない悪霊を屈服させ、追い出すことはできません。悪霊の頭は、主イエスにとって縛り上げるべき敵であって、力を借りるような存在ではありません。悪霊に支配されていた人から悪霊が追放されたのです。口が利けなくする霊に取りつかれていた人が、口が利けるようになったのです。それは主イエスが、まず悪霊の頭を縛り上げられたということです。主イエスは悪霊の頭を凌駕するさらに「強い人」であったということです。そのように語ることによって、主イエスは律法学者たちの思い違いを正そうとされたのです。

主イエスは神が遣わされた神の御子です。主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と宣言されました。神は主イエスにおいて、主イエスを通して働かれます。主イエスが悪霊を追い出す霊は、神の聖霊に他なりません。したがって人は、その聖霊を汚れた悪霊と混同してはいけません。御子イエスによってなされている神の救いの行為を、破壊的なサタンの行為と取り違えてはなりません。主イエスは「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)と言われました。主イエスは、どんな人に対しても神の国・神のご支配が始まっていることを、喜ばしく語り告げられるのです。

さて主イエスは、20節を「はっきり言っておく」という言葉で語り始めます。「アーメン レゴー ヒューミン」、「まことにわたしはあなたがたに言う」というのが直訳です。このフレーズは、主イエスがきわめて大切なことを語られるときに、使われるフレーズです。28~30節で主イエスが語られる言葉は、それほど大切な言葉なのです。それを信じるか否かで、救われるか滅びるかが決まってしまうような、分水嶺になるような言葉なのです。読んでみましょう。「『人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。』イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである。」

後半の29節以下で言われているのは、聖霊を冒瀆する者への警告です。聖霊を冒瀆するというのは、30節にあるように「彼(つまり主イエス)が汚れた霊に取りつかれている」と言うことです。主イエスがなさっておられる悪霊追放などの力ある業は、聖霊ではなく悪霊によってなされている」と言うことです。これは先ほど見ましたように、エルサレムの権威を帯びた律法学者たちが考え、言っていたことでした。主イエスの力ある業が神からの聖霊によってなされていることを、彼らは認めませんでした。「人々が言っていたからである」の「言っていた」という未完了形の言葉は、繰り返し、継続してなされていたことを示しています。彼らは心を頑なにして、主イエスの力ある業が聖霊によることを断じて認めようとしませんでした。神の御子である主イエスに心を閉ざし、決して開こうとしませんでした。そのような「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と警告されているのです。

ただし、ここでの「永遠に」は原語では、「この世に」という言葉です。慣用的に「永遠に」と訳されることが多いのですが、「その時代を通して」と訳すことも可能です。そうではありますが、主イエスによる力ある業を、聖霊による御業と認めないことは、決して許されない罪なのです。主イエスによって神の国・神のご支配が始まっていることを頑なに認めないことは、決して赦されない罪なのです。というよりも、唯一それだけが赦されない罪なのです。

「まことにわたしはあなたがたに言う」という言葉で始まる主イエスの言葉は、それだけではないのです。29節の警告の言葉に心を奪われて、よい知らせを不明確にしてはなりません。主イエスは一番大切な大前提として、このように語っておられるのです。28節です。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。」29~30節で言われていることは、唯一の例外規定のようなものです。主イエスが語られた御言葉の本体は、まさにこの28節にあるのです。人の子つまり私たちが犯す罪やどんな冒瀆の言葉もすべて赦されているということ。それらはすべて、主イエスの十字架の贖いによってすべて赦されているということなのです。

私たち人間は、時として疑ったり、迷ったりすることがあります。神さまに激しく反発して、神さまに背を向けてしまうことがあります。神さまの御心が分からなくなってしまい、神さまを疑ってしまうことがあります。しかし、そのような疑い、迷い、挫折がどのように大きなものであり、どのように遠く神さまから離れてしまっても、神さまはそれを赦してくださるのです。なぜなら、そのような罪を重ねる私たちを神さまと和解させ、救いに至らせるために御子イエスは来られたからです。

また、私たちは人の窺い知れないような罪を、心に抱えているかも知れません。私たちはその心に抱えている罪を、「赦されない罪」だと感じているかも知れません。自分には神さまに打ち明けることも叶わないような、赦されざる罪があると思っているのです。しかし、そうではありません。私たちは神さまの御前で、どんな罪も過ちもすべて赦されています。なぜなら、そのような罪を私たちに代わって贖うために、イエス・キリストは十字架に架かられたからです。神さまの目からご覧になる時、私たちの犯すどんな罪も赦されているのです。私たちは神さまの御前で、臆することなく顔を上げることができるのです。

しかし、赦されざるただ一つの罪があります。それは御子イエス・キリストを通して働かれる聖霊の御業を信じないことです。ある人はこう言いました。「聖霊の働きを信ぜず、赦しに反抗する者だけが、赦しから除外されるのである。」主イエスの到来によって、喜ばしい神のご支配が始まっているのです。罪に支配されていた私たちを、イエス・キリストはその支配から奪い返して下さり、神様の恵みのご支配へと移してくださったのです。その決定的な恵みの御業を、私たちは心を大きく開いて受け入れましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。神さま、あなたは御子イエスにおいて御業をなさいます。そこには神の聖霊が働いています。聖霊の働きは、主イエスこそ救い主であることを私たちに分からせ、罪の赦しを私たちに得させることです。どうぞ、そのような聖霊の働きを、心を大きく開いて受け取ることができるようにしてください。ハマスとイスラエル、ウクライナとロシアの間で戦闘が続けられています。被害が拡大しています。どうか神様、これらの地に平和をもたらしてください。ひと言の切なるお祈りを、御子イエスの御名によってお捧げいたします。アーメン。

皇帝への税金

マタイによる福音書22章15〜22節  2023年10月22日(日)主日礼拝説教                

                                             長老 山﨑和子

 主イエスのところにファリサイ派とヘロデ派の人たちが一緒にやってきて、自分たちが皇帝に税金を払うのは律法にかなっているのか、いないのかと問いかけます。15節からの記述をもう一度読んでみます。「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そしてその弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた」とあります。この時、遣わした人々というのは議会の主だった人たちだったかもしれません。元々ファリサイ派とヘロデ派は互いに相容れない思想を持っていた人たちの集まりですからこの二つの派閥が「一つにまとまる」などということは有り得ない状況だったのです。でも、主イエスの評判が日に日に高くなっていったことを危険な兆候と思った議会は、何とかここで主イエスを徹底的に貶めなくてはならないと思ったのでしょう。それは16節からの、わざとらしい持って回った慇懃無礼な口上に如実に表れています。彼らは、このように尋ねればイエスが「おさめなくても良い」と答えるのではないかと想定していたのかもしれません。そうすればローマにすり寄っていたヘロデ派の人は怒ってその場でイエスをローマの総督に引き渡そうとするかもしれないし、仮に「おさめるべき」とイエスが答えたとしたら、今度はローマに反感を持っているファリサイ派が怒って、イエスはローマにへつらう裏切り者だと宣伝するようになるでしょう。どちらであっても、この日限りでイエスの人気は地に堕ちるでしょうし、どちらか一方の答え方しか有り得ないと、彼らは得意満面でやってきたに違いないのです。

 けれども、勢い込んで税に対する詰問を付き付けた人々に対する主イエスの対応は、全く予想を裏切るものでありました。主イエスはその場でデナリオン銀貨を提出させて「これは、誰の肖像と銘か」と問われます。まことに周囲の意表を突く問いかけでありました。ここで問題にされている「税」とは、ユダヤ人がローマに支払いを義務づけられている人頭税のことです。人頭税は、ローマのデナリオン銀貨で支払うことが義務づけられていましたから、その銀貨にローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていることは誰でもがよくよく知っていることであって、わざわざこんな質問をされるイエスの意図が分からなかったのでしょう。「皇帝のものです」という答えの蔭には(それがどうした?)と言いたい気持ちがありありと見えるような気がします。が、主イエスはならば皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい、とはっきり皆の前で宣言されるのです。

この聖書の箇所はマタイによる福音書だけでなく、3つの共感福音書のすべてに記されている記事でもあり、よく知られている話です。私も子どもの頃からこの話は日曜学校で聞いていましたが、子どもの時にはイエス様の答えがどういうことなのか、分かりませんでした。つまりイエス様は税金を治めることがいいことだと言われたのか、それとも悪いことだ言われたのか、この答えではわからないし、その意味で問いの答えになっていないじゃないの、と思ったのです。だから長年この税金の記述は喉に小骨がささったような違和感を持ち続けてきたような気もするのです。

主イエスは「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われます。税金を納めるべきことに何の反発も示してはおられないのです。今日の箇所の少し前、17章の24節以下に神殿税に関する主イエスの見解が示されています。人々がペトロに「あなたがたの先生は神殿税を納めないのか?」と聞いた時にペトロは「納めます」と答えているし、その時に主が魚の口から銀貨を取り出してペトロと二人分の税を払うようにと指示されたと記されています。人がその所属社会の中で決められた規範に従って生きることを主イエスは決して否定されません。ここで私たちは、先ほど読んで頂いたサムエル記の記事のことを思い出します。旧約の時代、イスラエルの人々は、周りの国々と領土の獲得をめぐって絶えず争いに巻き込まれていましたが、自分たちも周りの国々のように王を持ちたいとサムエルに願い出たのです。この時サムエルは、人の手によって国が治められることに反対します。イスラエルは神が選んだ民族であり、これまでずっと神によって守られてきた民族でもあります。なぜ今になって唯一の神を信頼して御手に委ねることを拒むのかと問うのですが、人々は聞く耳を持ちません。そうして最終的に神ご自身が人の選択をお赦しになって、その判断を任せられるのです。これ以後イスラエルは王国としての歩みを始めることになるのですが、その歩みがどんなふうに滅亡へと進んでいったかは歴史が証明しています。間違いはいつも一方的に人の側にあるのです。神様は、人にご自分の気持ちを強制するのでなく、自由な選択に任せようとされるかたであります。主イエスご自身がそうあるべきと思って居られるのでなくても人が決めた決まりであるならそのようにすればいい、という程のお気持ちであっただろうと思われます。ならばもう一つの「神のものは神に返しなさい」のほうはどう考えればいいでしょうか?

  創世記1章27節には、神は人を神にかたどって創造された、とはっきり記されています。私たち人間は誰でも初めから神にかたどって、即ち神の肖像と銘が刻まれたものとして創られているのです。そのことを忘れた時に人は神を退けて、自分自身を神のように扱い始めます。

 私たちすべての人間には神の像が刻まれています。言い換えれば私たち自身が神の貨幣であります。神は、私たちをそのご計画の遂行のために貨幣のように用いられます。私たちのすべては神様のご用に用いられるために造られているのです。貧しい者はその貧しさによって、病気の人はその病気を以って現に今、主に用いられるのだと思います。何の役にも立たない、不必要な人間は一人も居ないのです。何と素晴らしいことではありませんか。

 ファリサイ派とヘロデ派の人たちは、税金を払うことは良いことか、悪いことかという二者択一の問題でしか物を考えることが出来ませんでした。同様に「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」と言われた主イエスの言葉を私たちは、どれが皇帝のものでどれが神のものなのか、やっぱり二者択一の問題として捕らえてはいないでしょうか?

皇帝のものも神のものであります。私たちは神が良しとされた世界に生き、あらゆるものを神から賜っている中で、なおそれを自らの意志で使い道を考える自由を与えられています。私たちは、自分の判断で自由に使い道を考えていいような錯覚を起していますが、すべては神のものであることを思って、何をどのように使うにせよそれは神にお返しすべきものであることを忘れてはならないと思うのです。神の貨幣である私たちは、神様のご用のために用いられることだけを願って自身をささげ尽くすしか生きる意味を持っていない筈なのです。にも拘わらず私たちのうち誰一人として自分自身をまるごと主のものとして捧げつくす生き方など出来ないのです。例えばあなたの持ち物を全て売り払って貧しい人たちにささげなさいと言われたら、又あなたの一人息子を焼き尽くす生贄としてわたしにささげなさいと言われたら、わたしたちは喜んで従うことが出来るでしょうか?多分できないでしょう。今持っている財産も、与えられた家族も、みんな神様が下さったものだと頭ではわかっているはずなのに、いざとなったら「お願いです。これだけは私から取り上げないでください」と泣きながら懇願するしか無いのが私たちの姿であります。けれども、そんな欲深いわたしたちを深く憐れんで、父なる神様に執り成し続けてくださっているかたがおられます。主イエス・キリストです。

主は私たち一人一人を極限まで愛し給い、慈しみをこめて何度でも何十、何百回でも許してくださって、父なる神のみ元へといざなって下さっているのです。そのことを深く覚えて、こんにち只今よりおぼつかない足取りながらも主イエスが辿られた道筋を追うものとして一日一日を生かされていきたいと心から願っています。

祈り

父なる神様、私たち一人一人はあなたの貨幣であって、ただ御心のままに用いられる以外に生きる意味を持っていないものであることを教えられました。私たちはいつになっても自分のしたいことしか出来ない愚かで罪深いものであります。どうか犯してきた数々の過ちを許して、これから先の日々もあなたに従っていくものとして一人一人を導いてください。この拙いひとことの祈りを尊き主イエス・キリスのの御名によっておささげ致します。

                                アーメン