少女よ、起きなさい

マルコによる福音書5章21~24節、35~43節 2024年2月25日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

ここでは死の問題が取り扱われていると思います。そういう意味では極めて深刻な事柄が記されていると思います。

 死というものは、言うまでもなく誰もこれを避けて通ることはできない問題です。どんな幸運に生活をした人でも、死の問題に突き当たらないで自分の生涯を終わらせることはできないのです。また、この死の問題は、ただ本人の生きる、死ぬという問題であるだけではなくて、本人を取り巻く、周囲の人々との関係の問題でもあると思います。本人がこの地上における生涯を終わるというだけの問題ではなくて、親しい者と別れるという、そういう問題がそこにあるのではないかと思います。ですから、死というものは本人にとっても、本人を取り巻くまわりの人間にとっても、辛い事柄なのです。

 今日の箇所に出てきますのは、一人の会堂長の娘が死んだというその時の出来事です。娘を失うかもしれない父親のつらさというものが、表現されていると思います。22節には、こういうふうに書いてあります。「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。『わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。』そこでイエスは、ヤイロと一緒に出かけて行かれた」。この会堂長は、自分の娘のために主イエスのもとに行って、足もとにひれ伏して、しきりに願ったと書いてあります。

 「足もとにひれ伏す」というのは、単なる謙遜というのではなくて、自分のいっさいをかけて相手に願う。そういう姿がそこにあります。また「しきりに願った」というふうに書かれていますが、これは岩波から出た聖書の訳では、「必死に乞い願っている」というふうに訳してありました。「足もとにひれ伏して、必死に乞い願っている」。つまり、そこにあるのは、この父親の切実な気持ちです。死というものをめぐって、そこに娘の戦いがあり、また父親の肉親としての戦いがあるのです。その意味では、人は自分のためにだけ病と闘うのでなく、自分をめぐる人々のためにも生きる戦いをしなければならないという側面が、あるのだと思います。

 「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた」(35~36節)。主イエスがその家に向かう途中、娘は間に合わないで死んでしまいました。だから、もう死んでしまったから、先生にわざわざ来ていただくには及ばないという連絡が入ったというのです。命がある間は、希望がある。そう私たちは思います。そしてその一つの命が支えられるために、あらゆる努力をし、また祈り願う。しかし、死んでしまった。すべてが終わってしまったのです。冷たくて動かすことのできない壁が前に立ちはだかります。今までは何かの努力をすることができました。ひょっとすると、という希望があった。しかし、死んでしまった時には、もういっさいが前に向かっては動かなくなる。冷たい壁が立ちはだかる思いを経験するのです。つまり一人の人間のストーリーがそこで終わってしまう。主イエスが弟子たちといっしょに近づかれますと、多くの人々が泣いていたと書いてあります。

 「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騷いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。『なぜ、泣き騷ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。』人々はイエスをあざ笑った」(38~40節a)。多くの人々が死体を前にして、大声で泣きわめいて騷いでいたと書かれています。これはおおげさなようですが、人が亡くなった時に、ある人々が、おそらく近所から来たある人々が声をあげて泣く、というしきたりがあったからです。この泣くことを仕事とする人々さえいた、というふうにも言われています。むろん、悲しくて人間は泣きます。しかし、身近な人間ほどその悲しみは深くて、声にならないと思います。つまり、あまりつらすぎて涙も出ない。それがおそらく身近な者の実感ではないかと思います。私たちはテレビで、戦争や災害によって家族を目の前で亡くされた方が写っているのを見ます。しかし、たいていはもうほとんど泣いていない。泣けない。涙なく、茫然と立っている。それが肉親を失った者の姿でないかと思います。

 人間にとって死というものは、あまりにも残酷な行き止まりのように思います。もう終わったんだから、先生に来ていただかなくてもいい、ということになるのです。いろいろやったけれどもだめでした。先生を煩わすには及ばないでしょう。努力をしたけれど甲斐がなかった。しかし、その時主イエスは会堂長にこう言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい」。「恐れることはない」というのは、死を恐れることはないという意味です。「信じなさい」。会堂長は、ここまで主イエスを信じてやって来ました。ついて来ました。娘が死んで、それで信仰も祈りもそこで終わったというわけではないと言われたのであります。「なお、信じなさい」と、主イエスはこの会堂長に言われました。死んでしまったらおしまいであって、後は嘆くだけだ。悲しむだけだ。そしていつか時間がたって、あきらめるだけだというのではない。「なお、信じなさい」と、キリストは言われたのです。

 泣き騷いでいる人々に向かって主イエスは言われます。「なぜ泣き騷ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」。これを聞いた人々があざ笑ったと書かれています。不思議な表現です。今まで泣き騒いでいた人々が、今度はあざ笑ったというのです。眠っているだけだと言われて、喜んだというのではありません。一人の人間の死を前にして、人々は声を上げてさめざめと泣いていました。つまり、悲しみにふけっていたわけです。残された家族に同情して、悲しみにふけっていました。人間は往々にして、同情して悲しみにふけっている自分自身に酔ってしまうということがあります。誰かのために同情して嘆いている自分自身にふけってしまう。娘は眠っているだけだと言われて、その酔いを、言わば覚まされてしまったのです。だから、しらけてしまった。もうここで、終わりなんだ。ここはもう泣くだけ、悲しむだけという場面なのに、何か別のことをしようとしている主イエスに、人々はついて行けませんでした。

 「人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた」(40節)。主イエスはたくさんの弟子たちの中で、三人の弟子たちだけを選んで、そしてその娘の両親を連れて、他の人を外に出したと書いてあります。部屋の中に入って行ったというのです。つまり、あきらめてしまった人たちは、外に出したのです。もうこれで終わったと思っている人に対しては、その人を外に出してしまった。そしてなおあきらめきれない、なお希望を捨て切れない人だけをつれて、主イエスは部屋に入って行ったのです。なお祈らないではいられないその人々を連れて、主は少女のもとに行ったのです。

 私たちの信仰というものは、あきらめた所で終わります。ここまでだと思った所が、私たちの終わりです。ここまでは一生懸命祈ってきた。もうここからは何にもないと思った所で、私たちの信仰は終わります。こんなつらい場面では、もう信仰は役に立たないと思ったら、そこで終わるのです。こんなひどい場面では、こんな残酷な場面では、もう神様は関係ないと思ったら、そこで私たちの信仰は終わります。人々から見捨てられた。もうだめだと誰かに言われた。だからもう……そう思った所が、私たちの信仰の終わりです。しかし、主イエスはさらにその向こうに踏みこんで行かれます。その向こうに行くことを期待されます。ここから先はもうどうにもならないと、人々が投げ出す、その場所に主イエスは踏みこんで行かれるのです。その死に場所にまで、主は踏みこんで行かれる。そして、こう言われました。「タリタ、クム」。「これは、『少女よ。わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである」(41~42節)。

 「少女よ、起きなさい。少女は起き上がって歩き出した」と書いてあります。そして、「もう十二歳にもなっていたから」と注釈を付けているのです。つまり、聖書はこう言いたいのです。十二歳だから当然歩いたのだ、と。十二歳の少女だったから当然のように歩いたのだ。十二歳だから十二歳のその命がそこにあったのだと言っているのです。私は、主イエスが死の中に踏みこんで行ったと言いました。言うまでもなく、主イエスの十字架の死のことを言ったのです。主イエスが十字架で死んだということは、私たちを生かすための死でした。私たちの命を救うための死でした。人間の命を一つも滅ぼさない、そのためイエス・キリストは十字架に死なれたのです。十二歳の命を十二歳のままで生かすために、主イエスはそのために自ら苦しみを負われ、私たちの代わりに死んで下さいました。仕事を積み重ね、戦い労して倒れ五十歳の命を五十歳のまま滅ぼさないために、主イエスは死んで下さったのです。人生の辛酸をなめ、数えきれない喜びや悲しみをなめ、喜びや悲しみの刻まれた八十歳の命がどこかに消えてしまうことのないために、その命がかけがえのない大いなるものとしてありつづけるために、主イエスは死んで下さったのです。

 だから主イエスは御自分の全存在をかけて言われたのです。「娘よ、起きなさい」。十二歳の命はそこにあるのです。若葉のような十二歳の命はそこで神のもとにあるのです。滅びない。どこかに行ってしまった、などということはない。消えてしまった、などということはないのです。

 主イエスは、今も言われます。「起きなさい。だれそれよ、起きなさい」。誰かの生命がいつのまにか消えてしまう。そんなことはないのです。ある人の生命は軽いから、世間の人の誰にも知られなかったから、だからその命は消えてしまってなくなる。そんなことはありません。主イエスが言われるのです。「少女よ、起きなさい」。「わたしはあなたに言う。起きなさい」。そこでみんな起きるのです。主イエスの御手の中でみんな起きるのです。

私たちはみんな、そうしたキリストの前に生かされているのだということを忘れてはなりません。いずれなくなるような命を私たちは生きているのではない。いずれみんなに忘れられ、そしてどこかへ行ってしまうような命を、私たちは生きているのではないのです。キリストは一人一人に言われます。「起きなさい」。「少女よ、起きなさい」。決して、一人の命は滅ぼされはしません。そのために、キリストは十字架にかかり、よみがえられたのです。

 イザヤ書53章5節は言います、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。私たちは、癒されたのです。私たち一人一人の命は、永遠に癒されたものとしてあるのです。失われない命としてあるのだということ、そのような命を私たちはみんな生きているのだということを、忘れないようにしたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。神様、聖書の御言葉を通し、あなたの深い御心を示してくださり、ありがとうございます。御子イエス・キリストは、私たちの命が虚しく消え去らないように、十字架への道を進み、ご自身を捧げてくださいました。私たちの命は、地上の生を超えて、あなたの御許で保たれていきます。どうか、死を超えても失われることのない永遠の命への信仰を、私たちが固く持ち続けることができますよう励ましていてください。群れの中には、病床にある者、高齢の者、試練に立たされている者がおります。どうか一人一人を顧みて、折に適った助けと励ましを与えていてください。今世界で起こっております戦争が、一日も早く終結しますよう、そのための知恵と手立てをお与えください。能登半島地震の被災者の人たちが、今の状況を乗り越え、希望をもって歩むことができますよう、どうか励ましていてください。この拙きひと言の切なるお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

主を叫ぶことに生きる

ヨナ書2章1~2節 2024年2月18日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 ヨナはアッシリアの都ニネベの人々に悔い改めをさせるために、神によって遣わされますが、まったく反対方向のタルシシュ行きの船に乗り込みます。しかしヨナの乗った船はそのことが原因で大嵐に遭い、難破しそうになります。ヨナは自分に原因があることを認めて、潔く自分を嵐の海へと投げ込んでもらいました。 

海に投げ込まれたヨナはその後どうなったのか、それが2章以下において展開されます。ヨナのこれまでの行動は、下へ下へと向かう下降の道でした。彼は神の命令から逃れるために港町ヤッファに下って行きました。さらに船に乗り込む行動も、乗り込むという言葉が、下るという意味の言葉です。続いて船の中では船底に下って、眠りに落ち入りました。そして今度は海の中に投げ込まれることによって、恐怖と死の世界へと彼は下って行きました。下ることの極限をヨナは体験しました。神から遠のくことは、死に向かって下って行くことであるということを、私たちは示されました。神が命であられるならば、神から逃れることは命とは反対の、死の世界へと望みなく下って行くことにほかならないのです。

 そのようにして遂にヨナは、海の荒波の中に投げ込まれたのです。ところが事態は思いがけない展開をいたします。ヨナは放り込まれた海の中で、主なる神が備えて下さった巨大な魚に呑み込まれ、その魚の腹の中で、三日三晩を過ごすことになるのです。ヨナは死を免れました。

 ヨナが死の瀬戸際まで追いやられた時の苦しみと恐怖、そのような中で神によって奇跡的に助け出された大いなる救いの恵みと憐れみ。そのことを思い起こしてヨナは、2章1~10節において感謝と神賛美の祈りを捧げています。苦しみと恐怖と危機の中で、何がヨナに起こったのかを、私たちはこの祈りから知ることができるのです。

 2章1節を見てみますと、こう記されています。「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた」。ヨナが海に投げ込まれた後、嵐の海が静まり、その後に神は初めから予定されていたかのように、魚をヨナのために備えられた、そういう感じがする記述がなされています。もちろん救いの業の主体は神であられますから、最初からこの出来事は予定されていたということもあり得るでしょう。しかし3節以下のヨナの祈りを読みます時に、「魚の腹の中での」祈り以外にも、神の業を引き出すためにヨナの祈りが「海の中で」ささげられたことが明らかにされます。彼は海の中に投げ込まれて初めて、祈る者として神の前に自らを表していることが分かるのです。

 2節に、「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげた」と記されています。これは明らかに、魚の腹の中でささげた祈りです。その祈りの内容が3節~10節まで記されていますが、3節で彼はこう語っています。「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった」。過去のこととして、この3節の言葉が語られていることに、私たちは注目したいと思うのです。

 わたしが叫ぶとか助けを求めるという言葉は、神への祈りを表している言葉です。ヨナは今は魚の腹の中で感謝の祈りをささげているのですが、その前にすでに荒波の中で、海に投げ込まれて死にそうになった時に初めて、神に向かって叫び、助けを求めて神の名を呼んだのです。ヨナはやっと祈る者となりました。

 苦難の中で、死の世界へ落ち込んでしまいそうになった時に、ヨナは自分を助け得る方は、自分がその前から逃げようとしているあの神以外にいないことに心底気づかされて、神に祈りをささげました。そして、それに神は応えてくださったと、3節でヨナは語っています。ヨナの叫ぶ声に、神は耳を傾けてくださいました。その結果が、巨大な魚をもってヨナを助けるという神の救いの業として差し出されたのです。

 荒れる海に投げ出され、自分の力では自分を助け得ない状況に陥って、初めてヨナは心から神に祈り、神に助けを求めました。その祈りに応えて神は魚を備え、その魚にヨナを呑み込ませることによって、彼を死から救い出してくださったのです。そういった意味で、巨大な魚はヨナを救うために、神が初めから用意されたものであると同時に、ヨナの祈りに応えてふさわしい時に神が備えてくださったものであることが分かります。死の間際まで追い込まれた者が、神以外に助け得る御方はいないことを知って、神に助けを求める時、神はそれに応えてくださる御方であるということが、私たちに示されています。

 ヨナは、神の憐れみの中で新しく造り変えられるために、再び主なる神の御手によってしっかりと捕えられました。魚の腹の中は、救いの場であると同時に、彼の再生の場になっています。祈りが真剣にささげられる時、その人は変えられていきます。祈りを聞きとどけられる神が、その人を変えてくださるからです。そういった意味で、祈りは人を変革する力を持っていると言ってもよいでしょう。

 イエス・キリストは、ヨナが三日三晩、魚の腹の中にいたこの出来事を、ご自分が墓の中に葬られることとの関連で、次のように語っておられます。マタイによる福音書12章40節です。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」

 これは、イエス・キリストが死んで葬られることを意味しています。三日三晩ヨナが魚の腹の中にいたように、イエス・キリストも三日間大地の底に沈まれます。しかし、それが終わりでなくて、葬られて三日目に、キリストはよみがえりの新しい命を持って、墓から出て行かれました。それと同じように、ヨナも古い自分が造り変えられて、魚の腹の中からやがて吐き出されることになります。新しいものが生まれるために、これほどの苦しみと恐怖を味わうことが、ヨナには必要だったのです。

 彼が神の命令にもっと従順であれば、これほどの苦しみや恐怖を味わう必要はなかったであろうと、多くの人々は考えます。しかし、また人は真に追いつめられなければ自分自身と向き合い、神と向き合うこともないということも、私たち人間の現実なのです。

 宗教改革者ルターが、このヨナについて次のように述べています。「ヨナが、いち早く祈っていたら、もっと早く救われただろう。ヨナは彼をまねて、このようなことをしないように(もっと早く祈るように)われわれに命じ、そして教えてくれている。……しかし、人が神に向かって叫び求め、訴えることは、どれほど難しいことであろうか。泣き叫び、嘆きおののき、疑うことはするけれども、祈りは出て来ない。」

 もっと早くヨナが祈っていたら、これほどの苦しみを味わうことはなかったであろうという教訓を私たちはここから読み取ってよい、ルターはそう語ります。しかし、実際の私たちは、叫んだり、わめいたり、疑ったりするけれども、心から神に祈ることはなかなかしない者である、こう語るルターの言葉を私たちはじっくりと噛みしめたいと思います。

 2節でヨナは、「自分の神、主に祈りをささげた」と記されています。神はイスラエルの民全体の神であられると同時に、また「わたしの神」、「自分の神」と言うことを許される一人一人の神でもあられます。使徒パウロが、神が「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を私たちの心に送ってくださったと、ガラテヤの信徒への手紙で語っているとおりに、私たちは神を全く自分一人の父でもあるかのように、神に向かって祈りをささげてよいのです。群れ全体の神、信仰者全体の神であられるイエス・キリストの父なる神は、わたし一人の神でもあってくださいます。そのような強い結び付きを、私たちは神との間に与えられているのです。

 さて、今日は全部を扱うことはいたしませんが、3節から10節まで続く祈りですが、旧約の詩編にもよく似た内容のものがあり、よく似た形のものが多く見られます。そのことについて少し触れておきましょう。

 詩編には、信仰者たちが神に向かって、「わたしの祈りに耳を傾けてください」と訴える祈りが数多く記されています。「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください。わたしに耳を傾け、答えてください」。これは詩編55編2節、3節の言葉です。神よ、わたしから隠れないで、わたしの叫びに耳を傾けてください。旧約の信仰者たちはそのように神に叫び続けました。それに対して主なる神もまた、そのような信仰者に対して、ご自身に呼びかけることを許し、またそれを求めておられます。そのことを示す詩も詩編の中に数多く出てまいります。「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。お前はわたしの栄光を輝かすであろう」。これは詩編50編15節の言葉です。これには救いの約束が伴っています。

 わたしに耳を傾けてください。そう叫ぶ私たちに、神はわたしの名を呼べ、わたしは苦難の日にあなたを救うと、約束してくださっています。そして、さらにそのような神の許しの中で神に祈りをささげる者は、実際に神によって救われた恵みの体験をも与えられて、神への感謝の祈りをささげています。そのような詩編も数多く見ることができるのです。

 神に祈り求め、神に願う者に、神はそれにふさわしい答えを与えてくださる。そのことを私たちは旧約の詩編をとおして、またイエス・キリストが示してくださった神の憐れみをとおして、知ることができるのではないでしょうか。

 神は私たちが失われた者、滅びに陥る者となることを、お喜びになる御方ではありません。それゆえに、叫び求める者を、御手をもって守り、救ってくださる御方です。それが私たちの神であります。ヨナには、巨大な魚を備えて、彼の祈りに応えてくださいました。ヨナには荒海の中で魚が必要でした。私たちに対しては、それぞれに必要な、それぞれに最もふさわしい助けをもって、神は応えてくださる御方であります。神は一人一人の声を聞き分けることがおできになる御方です。それゆえに、神は一人一人に必要な助けを具体的に差し出すことがおできになります。そのことを、私たちは確信することができるのです。苦難の中でこそ、主に叫ぶことに生きる。そのような私たちでありたいと心から願います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。預言者ヨナを通して、私たちが如何に頑なで、あなたに祈ることの少ないものであるかを知らされます。しかしあなたはそのような私たちを顧みてくださり、切羽詰まって祈る私たちの祈りにも答えてくださいます。私たちの信仰は、あなたへの祈りの中で深められ真実なものにされていきます。どうか祈りを通して、あなたの御臨在を生き生きと感じさせてください。今群れの中には病床にある者、高齢の者、試練のさなかにある者がおります。どうか一人一人を、御手をもって支えていてください。戦争や災害のために苦しんでいる人々を顧みてください。この切なるお祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン。

すこやかに家に帰る者とされ

マルコによる福音書5章1~20節 2024年2月11日(日)礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

今日の箇所は墓場を住みかとした人の物語です。人はだれでも、いつか墓に入る時が来ます。しかしそれは、できるだけ先のことであってほしいし、生きている限りはそれを忘れていたいものです。ところがこの人は、墓場以外には安心して住むことができないかのように、そこに籠っていました。親しい者たちが自分たちのところに留まらせようと、足枷(あしかせ)や鎖でつなぎとめておいても、檻(おり)から抜け出そうとする野獣のように、鎖を引きちぎり足枷を砕いて、故郷に帰るように墓場へと走り去っていくのでした。

 家族や友人のもとよりも墓の方を選び、生きた人間よりも死人と一緒に暮らすことを願うのは、異常な生活です。通常は人間は死人を恐れます。しかしこの人にとっては、死人よりも生きた人間の方がもっと恐ろしかったのではないでしょうか。死人は呼んでも答えない淋しい相手かも知れませんが、そのかわり、向こうからは何もしないで、他人を静かにそっとしておいてくれます。

しかし、生きた人間は、他人をいじめたり、利用したり、他人の不幸をあざ笑ったりします。生きた人間の世界には、神経の敏感な人間には耐えられないような弱肉強食の生存競争が続いています。墓場に逃げ込むこの人は、個人的にか社会的にか、とにかく生きた人間との交渉の中で傷つけられ踏みにじられ、その傷の痛さのあまり、正常な人間関係に入ることができなくなった不幸な人間であったように思われます。

 しかし人里離れた墓場も、この人にとっては本当の憩いの場ではありませんでした。「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」(5:5)。加害者は外だけでなく、内にもいたのです。彼の内にはレギオンと名乗る悪霊が住んでいました(5:9)。レギオンというのはローマの軍隊用語で、約六千人の兵士から編成された軍団(マタ26:53参照)のことです。

ですからここでは、レギオンは悪霊の大群を表しています。無敵を誇るローマ軍団が地中海世界を制圧していたように、この人の内には狂暴な悪魔的な力が吹き荒れていたのです。ローマ軍の占領下では、人々は自分の土地でも自分の思いのままに用いることはできませんでした。それと同様に、この人は自分を自分でコントロールすることができず、心ならずも、暗い闇の力に引きずられていたのです。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」(ローマ7:18)。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。あのパウロの叫びがこの人の口からも出てくるような気がします。墓場や山で絹を裂くような鋭い叫びをあげて、我と我が身を傷つけているこの人は、制御がきかずに暴走する汽車の中で、運転手が悲鳴をあげ髪をかきむしっている状態のように思われます。

 闇の力に振り回され、自滅の道を転げ落ちていくこの人は、私たちには縁のない異常者でしょうか。私たちも欲望や衝動にかられて暴走します。政治的権力や経済的実力を持った人が、実は政治の駆け引き、経済の自己拡張的な運動に突き動かされ、真の国益や社会の福祉を損なう過ちを犯します。イデオロギーに踊らされて人間を殺します。ドストエフスキーの『悪霊(あくりょう)』という作品は、ある秘密結社で同志が脱退を申し出たのに対し、彼らが官憲に密告するのを恐れて惨殺したという、ネチャーエフ事件を素材として書かれたと言われています。しかしロシアだけでなく日本にも、そのような悪霊が現代の姿を見せたことは、私たちの記憶にまだ生々しいところです。私たちを非人間化しようとする闇の力は、どこでも私たちに対して攻撃を仕掛けてきます。

 しかし、レギオンがどんなに猛威を振るおうとも、彼らは人間を支配する権利をもっているわけではありません。神は人間が神以外のものの力に支配されることを決して許されません。神は人間をねたむほどに愛されます(ヤコ4:5)。ですから、主イエスが神の子としてこの人の前に立たれたとき、主はレギオンに対して、「汚れた霊、この人から出て行け」(5:8)と宣告し、彼らの城にしているこの男から出てゆき、その城を明け渡すように迫られたのです。

 ここで奇妙な豚の溺死事件が記されています。ある註解書によると、主イエスがあの人に近づかれたとき、彼は主イエスの人格的な威力に圧倒され、聖なる力に打ちのめされた。自分の不健康な生活が砕かれるのを感じ、恐れおののき、断末魔の叫びのような悲鳴をあげて、豚の群れに逃げ込んだ。豚は驚いて、群れ全体が走り出し、断崖から湖に雪崩を打って落ちて行ったのだというのです。一人の人間が狂気から正気に戻るために、イエス・キリストから物凄い力がこの人に注がれたことが示されているように思われます。

豚二千匹はこの地方の人々にとっては大変な財産です。後で、人々はその損失に驚いて、主イエスにこの地方から出て行ってもらいたいと、願っています。しかし主イエスは、一人の人間を救うために二千匹の豚を犠牲にすることを惜しまれませんでした。

 私たちはしばしば、豚を惜しんで人間を犠牲にします。『苦海浄土』を書いた作家石牟礼道子(いしむれみちこ)さんが、水俣病患者に対する補償のいきさつを記録して、人間の命がどんなに安価に扱われているかを鋭く指摘しています。

 「水俣病患者互助会五十九世帯には、死者に対する弔慰金三十二万円、患者成人年間十万円、未成年者三万円を発病時にさかのぼって支払い、『過去の水俣工場の排水が、水俣病に関係があったことがわかっても、いっさいの追加補償要求はしない』という契約をとりかわした。

 おとなのいのち十万円 こどものいのち三万円 死者のいのちは三十万円 と、わたしはそれから念仏にかえてとなえつづける。」(『苦海浄土』)

このような人間のいのちが安く値踏みされているのに対して、主イエスは、一人の人間が自分を取り戻すためには、豚二千匹を犠牲にすることをも、借しまれませんでした。そして、究極的には御自分の命さえ犠牲にされる、十字架の道を歩まれたのです。神の子が捨て身で人間を救おうとされる、その恵みの迫力のすさまじさに、さしものレギオンも敗走せざるを得なかったのです。

 やがて「レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって」(5:15)主イエスの足もとにすわりました。「正気になる」という言葉は、「酒に酔わない」「素面(しらふ)でいる」という意味です。衝動的な、ものにつかれた姿とは反対の、静かな落ち着いた様子です。私たちは荒波にもまれるような逆境の中では緊張と不安にふるえ、それから逃れようとして、一時の快楽に熱狂的に興奮したり、憑かれたような生活に流されます。しかし、主イエスが共にいてくださる時、恐れから解放され、落ち着いた生活を取り戻すのです。

 今までレギオンに、大勢の霊に取りつかれていた人が「正気になって」、キリストのそばに座っていたのでした。つまり彼は、おるべき場所に今、身を置いているということを示しています。おるべき所に身を置いた時に、正気なのです。癒されているのです。今日の説教の冒頭で、いつか死を迎えなくてはならない私たちのことに言及しました。人が死を克服するなどということは、困難なことであります。しかし、私たちが死というものを克服して生きられる道があるとするならば、それは私たちが神に前に自分自身を置く時です。神の前に自分自身が立って、神との交わりの中に自分の身を置く時に、私たちは初めて死というものを超えて生きることができる。神との出会いの中で、人は死に脅かされないでいのちというものを経験することが許されるのです。

 そして、人が自分自身を発見するのも、神の前に自分の身を置く時でありましょう。神に見出されている自分自身を知った時に、人は自分になることができます。自分が自分であることを喜ぶことが、初めてできるのです。「ああ、ここに自分がいる。自分という人間がここにいるのだ」ということを、本当に確信できるのは、私たちが神の前に立った時です。イエス・キリストの癒しというのは、そういう意味で、私たちを神に前に引き出し、連れ戻すことなのです。

 このようにして、主イエスによって人間性を回復したこの人は、この地を去ろうとされる主に、どこまでも従うことを願いました。しかし主はそれを許されないで、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(5:9)と命じられました。彼にとって主に従う道は、家族のもとに、故郷にとどまることでありました。その土地は、主イエスの恵みを与えられても、心を開こうとしないで、主に出て行っていただきたいと、心を閉ざす不信仰な地でありました(5:17)。ユダヤから見ると、ヨルダン川の向こうの、ユダヤ人にとっては汚れた獣である豚を飼う土地でありました。この地に主イエスは、彼を一人残して去っていかれたのであります。

 しかしそれは、主が彼を福音宣教の最前線に派遣されたことでありました。そこは福音を聞いたことのない、伝道の未開地であり、彼は開拓伝道のパイオニアとして遣わされたのです。それゆえ彼は、自分の恥かしい前歴を知っているこの土地に踏みとどまり、そこで自分に与えられた主の恵みを証しなければなりませんでした。私たちも、逃げ出したいと思う場所に敢えて踏みとどまり、主の御力をいただいて生き抜くことが命じられています。使徒パウロも急速な生活の変化を期待して浮足立ち、生活が落ち着かない人々に対して「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。……おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」(Iコリ7:17、20)と命じています。性急に身軽になろうとしないで、家族の中に、仕事の中に帰っていき、人々と連帯しながら、自分たちを導く主を証していきたいものであります。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と対面で、配信で、共に礼拝に与ることができましたことを感謝いたします。今日は主イエスによって悪霊から解放された人の記事を通して、あなたの御心を示されました。悪霊に取りつかれていた人は、私たち人間の姿でもあります。どうか、私たちを罪から贖うために、御子を遣わされ、十字架に付けられた愛によって、私たちが今や罪の縄目から解き放たれていることを、覚えさせてください。そして、あなたの御前に連れ戻していただいた私たちが、大いなる落ち着きと死をも乗り越えていく平安の中に守られていることを覚えさせてください。今も世界では、不条理としか言えない戦争が、各地で続いています。貴い命が奪われ、生活が破壊されています。どうか、為政者たちの頑なな心を砕き、この戦争を一日も早く収束に向かわせてください。能登半島地震の被災者の方々のことを覚えます。被災地にあって必死に生活を再建しようとしている方々を支え励ましていてください。この切なるお祈りを、イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。

航路を主イエスと共に行く

マルコによる福音書4章35~41節   2024年2月4日(日)主日礼拝説教

牧師 藤田浩喜

 今日の4章35節を見ますと、「その日の夕方になって」と書かれていました。その日、主イエスは集まってきたおびただしい群衆に、たとえをもって神の国について教えておられました。主イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上から語りかけます。群衆は皆、湖畔にいてそれを聞いていました。そして、その日の夕方、主イエスは弟子たちに言われたのです。「向こう岸へ渡ろう」と。
 暗くなってから舟を出すこと自体は、珍しいことではありませんでした。夜通し漁をすることもあるのですから。また、弟子たちの多くは漁師ですから、舟を出して良い日かどうかも、ある程度はわかります。その日は舟を出しても良いと判断したのでしょう。「向こう岸へ渡ろう」と言っても、はるか彼方へ舟を出すわけではありません。せいぜい10キロ~20キロの間です。ですから主イエスは無理な要求をしているわけではありません。
 しかし、それでもなお弟子たちにとっては、正直言ってあまり気が進まない話だったと思います。というのも、主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と言って指さしていた先は、「ゲラサ人の地方」だったからです。それはユダヤ人ではなく異邦人が住んでいる地域です。5章を見ますと、その地方の人たちはどうも豚を飼っていたらしい。ユダヤ人の感覚からすると、そこは汚れた人々が汚れたことをして生活している土地なのです。そんなところには行きたくないし、そんな人々とは関わりたくもない。しかし、主は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。

 主イエスがそう言われるので、仕方なくも舟を出しました。群衆を後に残し、主イエスを舟に乗せたまま彼らは漕ぎ出します。すると、やがて激しい突風に見舞われることとなりました。経験を積んだ漁師たちでも予測を誤る時はあるようです。「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」(37節)。ちなみに「水浸し」と訳されているところは、「(水が)今や舟いっぱい」という表現ですから、事態はかなり深刻です。舟は沈みそうになっていたのです。
 しかし、その嵐の中にあって主イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられました。弟子たちは主イエスを起こして言います。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」 これが今日の聖書個所の前半部分です。
 皆さん、ここを読まれておかしいと思いませんか? 嵐なのに主イエスが寝ていることではありません。嵐なので主イエスを起こした、ということです。ガリラヤ湖と舟に関して弟子たちの方が専門家なのでしょう。一方主イエスと言えば、大工の息子ですから、舟に関しては素人以外の何者でもありません。
 実際、彼らは起こす直前まではそう考えていたと思います。「眠っておられた」と書かれていました。言い換えるならば、誰もそれまで起こそうとはしなかった、ということです。舟はいきなり水でいっぱいにはなりません。かき出しても水が入るから一杯になるのです。彼らがなんとか努力して、舟が沈まないように対処していたとき、彼らは主イエスを眠ったままにしておいたのです。必要ではなかった。素人ですから。嵐の中で格闘している時には、むしろ素人は寝ていてくれた方がよかったのです。
 ところがこの場面において、彼らはその素人でしかない主イエスを起こして、こう言っているのです。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38節)。おかしいでしょう。ここに書かれていることは、普通に考えるならば異常な光景です。

 しかし、もう一方で彼らの気持ちもよく分かります。多かれ少なかれ私たちにも身に覚えがあるからです。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったのは、実際おぼれそうになったからです。長年の経験と自分たちの持っている技術と持ち前の根性では、どうにもならなくなったから、今さらですが、彼らはこのような言葉を口にしているのです。
 想像してみてください。主イエスが群衆に語りかけていた時、彼らは舟の中にいたのです。一番近いところで主イエスの話を聞いていたのです。神の国の話を聞いていたのです。神の支配について聞いていた。百倍にもなる御言葉の種の話も聞いていたのです。そのように、神のなさることについて聞いていたのです。
 しかし、嵐の中にあっては、そんな話はどこかへ飛んでしまいました。神の話は神の話。現実は現実。今は現実の方が大事なのであって、神様関係の御方は寝ていてもらっていたほうがいい。素人は足手まといですから。
 このようなことは、私たちにもあるのでしょう。神の話は神の話。現実は現実。この大変な時に聖書や教会どころじゃありません。こんな時に信仰の話でもないでしょう!礼拝どころじゃないでしょう!そうやって、自分の経験や技術や根性で一生懸命に対処しようとしている時には、神様のことは後回しになります。
 しかし、彼らはどうにもならなくなった時に、そこに寝ている方のことを思い起こしたのです。きっと思い出したことでしょう。主イエスを通して神の権威と力が現わされていたことを。カファルナウムの会堂において、汚れた霊に「黙れ、この人から出て行け」と命じると、たちまち汚れた霊は出て行ったことを。また、中風の人が床に乗せられてつり降ろされてきた時に、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じられると、病は癒され、その人は床を担いで出て行ったことを。
 だから、自分の力や頑張りではどうにもならなくなった時、彼らは主イエスを求めたのです。この御方を通して現れた神の権威を求めたのです。「神の話は神の話。現実は現実」ではなくて、現実の中に神の権威と力が現れることを求めたのです。ならば主イエスを起こさなくてはなりません。おぼれそうなのですから。彼らは主イエスを起こして言いました。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。

 すると主イエスはにわかに起き上がり、あのカファルナウムの会堂の時のように、「黙れ。静まれ」と命じられました。そして話は「すると、風はやみ、すっかり凪になった」(39節)と続きます。奇跡を伝えたいだけならば、話はこれで終わりでしょう。しかし、大事なのはその後です。「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか』」(40節)。
 「なぜ怖がるのか」と主は問われます。それは「怖がる必要はないではないか」ということです。風がやんで凪ぎになったから、怖がる必要がないのではない。まだ突風が吹いている時でも、波をかぶって舟が沈みそうになっているその時でも、本当は怖がる必要などなかったということなのです。本当に目を向けるべきところに目を向けていたならば!
 そうです。彼らが必死で自分たちの力で対処しようとしていた時に、同じ舟の中に主イエスはおられたのです。「神の話は神の話。現実は現実」と思っていた時に、実はそこに主イエスはおられたのです。そこで主イエスは安らかに眠っておられたのです。何もなさらなかったのです。皆さん、神の権威や力は、ただ奇跡の類によってのみ現されるのではないのです。そうではなく、主イエスは眠っていることによって、何もなさらないことによって、奇跡を行う以上にはっきりと、神の圧倒的な権威と力を現しておられたのです。そして、彼らに必要だったのは、ただ信じることだけだったのです。主は言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。

 さて、最初の話に戻ります。そもそも、これらのことは「向こう岸へ渡ろう」という主の言葉から始まりました。主が指さしていたのは異邦人の地でした。そこには出会いたくない、関わりたくない人々がいる。しかし、主は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」。
 教会の歴史は、この「向こう岸へ渡ろう」という主イエスの言葉によって導かれてきた歴史でした。主イエスはユダヤ人でした。十二弟子もユダヤ人でした。当初は教会にはユダヤ人しかいなかったのです。そこに異邦人が加わって来るようになったのは、ある時から異邦人にも福音を伝えるようになったからです。
 もともとユダヤ人は、異邦人とは一緒に食事はしませんでした。異邦人が加われば、「異邦人との食事」という全く未知の要素が入ってきます。当然、まったく馴染みのない習慣やものの考え方も入ってきます。感じ方も違う人たちと、共にいることになる。当然、教会の雰囲気も変わってくるでしょう。ユダヤ人が自分たちにとって居心地のよい教会を望むなら、絶対に異邦人に伝道などしない方がよいのです。しかし、主イエスは言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。そして、教会は向こう岸へと渡ったのです。
 私たちもまた、安全なところ、自分たちの慣れ親しんだところ、今まで慣れ親しんだあり方に留まりたいと思うものです。前に踏み出したくない。舟は出したくない。ゲラサ人とは関わりたくない。異質なものとは関わりたくない。しかし、主イエスは先へと、向こう岸へと行こうとしておられる。自分一人ではなく、私たちと一緒に行くことを望まれるのです。ですから私たちにも言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。
 そこでこそ、あの弟子たちが舟の中において身をもって学んだことを、私たちもまた知っておく必要があるのでしょう。舟を出せばいろいろなことは起こってきます。嵐に遭うかもしれません。舟は沈みそうになるかもしれません。しかし、その時こそ、キリストが共におられることに目を向けなくてはならないのです。そして、求められているのは「信仰」であることを思い起こさなくてはならないのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と主は言われます。そこでこそ、「主よ、私たちは信じます。私たちは、あなたと同じ舟の中にいるのですから」。そのように言える者でありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を共にすることができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは私たちと共にあって、「向こう岸へ渡ろう」と促されます。それは教会の歩みにおいて、キリスト者の生き方において、私たちにも呼びかけられる促しです。どうか、主イエスを信じて、主にゆだねて、前進していくものとならしてください。南柏教会は先週の主の日に今年の定期総会を行い、あなたから福音宣教のヴィジョンを示されました。さまざまな波風が私たちを襲うことがあるかもしれませんが、主の御守りと御導きを信じて、あなたの託してくださった福音宣教の使命に喜ばしく仕えさせてください。群れの中には、病床にある者、高齢のゆえに労苦している者、人生の試練に立たされている者たちがおります。どうか一人一人と共にいてくださり、あなたの励ましと平安を与えてください。私たちの世界では不条理な戦争が各地で起こっています。そこで暮らす人々の苦しみや悲しみは計り知れません。どうか、そのような戦争が一日も早く収束に向かい、平和な日常生活を取り戻すことができますように。国内にあっては、能登半島地震の被災者の方々が、この寒さが一番厳しい時に、避難生活を強いられています。どうか、お一人お一人の健康を支えてくださり、この試練の時を無事に乗り越えさせてください。これらの拙き切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神の国のビジョンに生きる

マルコによる福音書4章26~32節  2024年1月28日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜 

 今日は、この礼拝の後で2024年度の教会総会が開かれます。2023年度の歩みを振り返り神様が導いてくださったことを感謝すると共に、2024年度の計画を立て、心を合わせ、祈りを合わせて、御心に適った歩みをしていくことを具体的に決めていく時です。皆さん出席していただき、共に祈りを合わせていただきたいと思います。そのような教会総会に先立って今朝与えられました御言葉は、主イエスがお語りになった神の国についての二つのたとえです。二つとも、神の国を植物の種にたとえているものです。神の国のたとえと申しましても、神の国はこんな所だと言って絵に描くようなイメージを持っているわけではありません。花が咲いていたり、天使が飛んでいたり、そんなことを語っているのではないのです。神の国というのは、直訳すれば神の支配という意味ですが、神様の御支配は主イエスと共に来ました。神の国はもう来ているのです。ここに来ている。この教会に、私たちの中に、既に来ている。まだ完成はしていません。しかし、既に来ている。ですから、神の国についてこんな所だ、あんな所だと言ってイメージする必要はないのです。そうではなくて、既に来ている神の国がどんなに力強く成長するものなのか、そのことに私たちの目を向けさせる、気づかせる。それが、この二つの神の国のたとえが語られた意味なのです。

 順に見てまいりましょう。26~28節「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。』」とあります。ここで告げられていることは、神の国、神様の御支配というものは、蒔かれた種が自然に成長するように、種を蒔いた人の力によるものではなく、神様の力によって芽を出し、成長して、実を結ぶものだということです。

 種を蒔いた人は、水をやったり雑草を取ったりはしますけれど、蒔いた種そのものには何もしません。種が根を張り、芽を出すのを待つだけです。待つしかない。種の持っている力、芽を出し、成長し、実をつける力を信じて待つしかないのです。神の国もそれと同じだと言うのです。

 私たちは、神の言葉を伝える業に励みます。それは、神の国の種を蒔くようなものです。礼拝や祈祷会、様々な集会などで御言葉が語られる。祈りがささげられる。それらはすべて神の国の種蒔きです。もっと言えば、そのような聖書が開かれて読まれる時ばかりではなく、私たちが出会ういろいろな人たちとの会話、仕草、そのすべてが種蒔きなのです。私たちは、そんな意識はしないで生きているかもしれません。しかし、そういうものなのです。キリスト者として、神様に愛され、神様を愛する者として生きる。そこにおいて私たちは、自分が意識しようとしまいと、神の国の証人として立っているのです。私たちが教会に来るようになった時、あるいは来てからでもいいですが、私たちは具体的な誰かに出会って、教会に来よう、教会に来続けようと思ったはずです。その出会った人は、私に神の国の種を蒔いているつもりはなかったかもしれない。しかし、あの人に出会って、あの人と知り合いになって、教会につながった。それは事実なのです。その時、あの人がこう言った、こうしてくれた。それがきっかけだったのです。そんなことを言われても、その人は「えっ!」と思うだけかもしれません。しかし、そうなのです。もちろん、私たちが主イエスを信じ救われるまでには、その一人の人との出会いだけではなく、いろいろな人との出会いがあり、導きがあったでしょう。いろいろなことがあった。それは「神様のお導き」としか言いようがないのです。神の国とはそのように、私たちがこれをした、あれをした、そういうことを超えて、「神様のお導き」としか言いようのない出来事の連鎖によって成長するものなのだということなのです。

 こう言ってもよいでしょう。私たちが蒔いた神の国の種は、神様のお導きの中で成長していくのだから、それを信じ、安心して待てばよいのだということです。 私たちは、2023年度、いろいろなことを行いました。主イエスの福音が、この筑波の地により豊かに、より広く、より深く伝えられていくために、そのことを願って、いろいろなことをしました。それは、すぐに結果が出たものもあれば、出ないものもある。しかし、種が蒔かれたことは確かなことなのですから、私たちは神様のお導きというものを信じて、待てばよいのです。

 29節を見ますと、「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」とあります。この収穫というのは二通りに理解できると思います。一つは、終末です。主イエスが再び来られる時、それは神の国の完成の時であります。それまで神の国は成長を続けるということです。歴史を貫き、世界中に広がっていくのです。もう一つの収穫についての理解は、私たちが主イエスを信じ、主イエスと共に生きるようになるということです。具体的には、洗礼や信仰告白の時も、この収穫の時と受け取ることができるだろうと思います。洗礼者が生まれるということは、神様が生きて働いてくださっていることを私たちが具体的に知らされる時です。そして、一人の洗礼者が出るまでには、気が遠くなるような長い間、神様が導き続けてくださったということがあるわけです。

 教会総会においては、必ず教勢報告というものがあります。教勢という言葉は、「教える」に「勢い」と書くのですが、これは教会用語だと思いますが、教会がとても大切にしているものです。何人の人が洗礼を受け、何人が天に召され、礼拝には何人が出席したのかということが報告されるわけです。それは「ただの数字だ」と言えば数字なのですけれど、その数字一つ一つの背後に、気が遠くなるような神様の具体的なお導きというものを、私たちは見るのです。そこで私たちがよくよく心しておかなければならないことは、この教勢報告というものを、決して「私たちがしたことの成果」として見てはいけないということです。たとえば、洗礼者何名という記述においても、私たちがこれこれをした結果こうなったということではないのです。もちろん、神様は私たちがなしたすべてのことを用いてくださいます。しかし、その自分がしたことの結果ではないのです。いくつもの教会を経て、私たちの教会で洗礼を受ける場合だってあります。逆もあるでしょう。長い間日曜学校で学んだ子が、大人になって別の教会で洗礼を受ける。そんなことはよくあることです。私たちは種を蒔く。その種が必ず芽を出し、成長し、豊かな実をつけることを信じて、種を蒔くのです。しかし、その種が芽を出し、茎を伸ばし、実をつけるのは、その種の力、福音の力、神様の力によるのであって、私たちがこれこれをしたから実を結んだということではないのです。私たちは種を蒔く。その種が、成長してやがて実を結ぶことを信じて種を蒔く。それがいつ、どこで実を結ぶのかは分かりません。しかし、必ず実を結ぶ。このことが信じられなければ、私たちは伝道などできないと思います。伝道とは、この必ず実を結ばせてくださる神様のお導きというものを信じて、なせる精一杯のものをささげていくことなのです。

 さて、二つ目のたとえは、「からし種」のたとえです。からし種というのは、粒マスタードに入っている、あの小さな粒です。ゴマよりもっとずっと小さい、小さな小さな種です。しかし、これが生長しますと、3mにもなるといいます。神の国は、このからし種のようなものであると言うのです。

 この「からし種」のように小さな種だと言われているのは、主イエス・キリスト御自身、またその御業や言葉を指していると考えてよいでしょう。主イエスがなされた業も言葉も、歴史的に言えば、当時の巨大なローマ帝国の辺境の地における、小さな出来事に過ぎませんでした。パレスチナ地方で一時、人々の注目を集めたかもしれませんけれど、主イエスが公の場で宣教されたのは、たったの3年です。弟子たちも、数えるほどしかいませんでした。歴史の流れの中で、誰にも憶えられず、忘れ去られ、消えていっても少しもおかしくなかった。しかし、そうはなりませんでした。それは、イエス・キリストというお方がまことの神であられたからです。神の国の到来そのものであったからです。主イエスと共に神の国が来たからです。主イエスと共に生きることが、神の国に生きることだからです。主イエスというお方は、十字架の上で死んで終わりではなかったからです。

 主イエスがもたらした神の国は、十字架の死で終わらず、主イエスの復活、さらにペンテコステの出来事を経て、全世界に広がり、極東にある日本の私たちの所にまでやって来ました。小さなからし種から始まった神の国の到来は、全世界の人々が宿るほどに枝を張り、成長を続けています。

 私は、この神の国の成長というものを、アブラハムの祝福の継続であり、展開だと理解しています。先ほど、創世記15章を読んでいただきました。神様によって召し出されたアブラハム。彼は、ある日神様から召命を受けます。創世記12章1~3節「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』」

この神様の言葉に従って、彼は生まれ故郷を離れ、旅立ちました。75歳の時です。しかし、彼には子どもがいませんでした。時が経ち、それでも子どもは与えられませんでした。彼は、自分の子孫が大いなる国民となるということを信じられなくなりました。その時与えられた御言葉が15章4~5節です。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」アブラハムは、この神様の言葉を信じました。後にアブラハムは、100歳の時に一人の男の子、イサクを与えられます。そして、イサクの子がヤコブ、ヤコブの12人の男の子がイスラエル12部族となりました。アブラハムと交わした神様の約束は、イスラエル民族という形で成就したように見えます。しかし、それで終わりではなかったのです。新しいイスラエルとしての神の教会の誕生によって、アブラハムの約束は更に継続され、発展した形で展開したのです。アブラハムから始まった神の民は、ユダヤ民族だけでなくキリスト教会というあり方で異邦人にも開かれ、全世界に広がったのです。今、神の民は、天の星の数ほどに、海辺の砂粒ほどに、増えました。そして、これからも増し加えられていくでしょう。

 アブラハムはこの時、神様の御言葉を信じる、目に見える根拠は与えられていませんでした。しかし、彼は信じたのです。6節「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。このアブラハムの信仰こそ、神の国の到来という救いの現実に生かされている私たちが立っている所でもあるのです。アブラハムは信じたのです。そして、神様はそれを義と認められたのです。

 私たちもまた、主イエス・キリストを信じるのです。ただ独りの神の子と信じる。この方の十字架によって一切の罪が赦され、私たちも神の子とされたことを信じるのです。この御子の復活によって、自分にも永遠の命が与えられたことを信じるのです。その信仰によって、私たちは神様に義と認められ、神の国に生きる者とされたのです。ただ信仰によって義とされた。私たちがよき業をなしたから義とされたのではありません。ただ、神様が憐れんでくださり、私たちを愛してくださり、主イエスの尊い血潮のゆえに神の子として私たちを受け入れてくださったからです。この神様の愛によって、神の国は広がり、成長し続けるのです。私たちの業によってではありません。ただ神様のお導きによってなのです。ですから、私たちに求められていることは、いつもこの一つのことです。神様の御業を信じるということです。信じて、心安んじて、精一杯種を蒔き続けるということです。

 種の蒔き方を工夫するのはよいことです。しかし、成長させてくださるのは神様です。この神様の、生きて働いてくださる具体的なお導きを信じて、私たちはそれぞれが遣わされている場において、精一杯種を蒔き続けていくのです。すぐに芽が出なくても、動じることなく、安んじて蒔き続けていけばよいのです。なぜなら、神の国は既にここに来ているからです。私たちはもう、神の国に生き始めているからです。この種の成長力を一番よく知っているのは私たちです。それは、だれよりも私たち自身が変えられたからです。神の国に宿る者とされているからです。神様を愛し、主イエスを愛し、神様を信頼し、主イエスを信頼し、神様の言葉に従い、主イエスと共に生きる。ここに神の国は既に来ています。私たちは、その完成を願い、待ち望みながら、2024年度の歩みを主の御前にささげていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に、あなたの御前に礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。神様、私たちは既に神の国、神の御支配に生かされています。そして、この神の国、神の御支配は、あなたの愛によって広がり、完成へと向かっていきます。私たちの目にしている現実にもかかわらず、神の国、神の御支配は力強く前進しています。どうかそのことを深く信じさせてください。今日は礼拝の後、定期総会が行われます。この大切な教会会議を初めから終わりまで、導いていてください。あなたの示してくださる宣教のビジョンに導かれて、私たちの群れが進んでいくことができますように。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

神の豊かさに生きる

マルコによる福音書4章21~25節 2024年1月14日(日)礼拝説教 

                          牧師 藤田浩喜

 今朝与えられている御言葉は、主イエスがお語りになった「ともし火」のたとえと「秤」のたとえです。これはどちらも「たとえ」ですから、とても単純な話です。こういう話です。誰かが「ともし火」を持って来る。この「ともし火」というのは、小さな皿のようなものに油が入っていて、芯が浸してあって頭が少し出ている。そこに火が灯されているものです。テレビの時代劇などに出てくるものと同じ様なものを考えていただけばよいかと思います。この「ともし火」を持って来た人は、それを升の下や寝台の下に置きはしない。燭台の上に置くではないかと言うのです。「ともし火」は、ストーブを消す時を考えていただいたらよいと思いますが、消す時には嫌な臭いがします。ですから、臭いが出ないように、升をかぶせて消したのです。そして、蹴飛ばしたりしてはいけませんので、ベッドの下に入れた。ここで主イエスは、当時の生活の一場面を用いてお語りになったのです。誰かが「ともし火」を持って来たら、それは燭台に置いて部屋を明るくするのであって、消すためではないと言われたのです。当たり前のことです。

 また、豆でも小麦でも、買う時には升のような秤で量って買うわけです。現代の日本では秤が店によって違うなどという事はありませんけれど、当時は升の大きさが店によって違い、多かったり少なかったりする。その日常の場面を用いて主イエスはお語りになっているわけです。そして、自分の秤が大きければ多く与えられるし、小さければ少ししか与えられないというのです。

 この二つのたとえは、当時の日常生活の一場面を切り取ったような話ですから、話そのものは単純なもので、よく分かります。しかし、それが何を意味しているのかということになりますと、話は別です。それは、以前学んだ種蒔く人のたとえでもそうでした。話としては難しいところは少しもない。しかし、何を言われているのか、その意味は何かということになると、さっぱり分からない。これが主イエスのたとえの、一つの大きな特徴なのです。どうして、そうなのでしょう。

 話は簡単で単純だけれども、何を言っているのか分からない。私は、これと全く同じ思いを抱いたことがあります。それは、私が初めて礼拝に通い始めた頃に持った、説教に対しての思いです。それが全くこれと同じだったのです。牧師の語る説教は、特に難しい日本語を使うわけではない。言葉としては分かるのです。しかし、何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。毎週礼拝に集っても、心に残るとか、「ああ、そうだ」と思うことが無い。今思いますと、あれだけ分からなくて、よく毎週通ったものだと思います。説教だけじゃなくて、讃美歌も分からない。祈っていることも分からない。どれもこれも日本語としては分かる。しかし、分からない。どうしてなのか。

 主イエスはここで、23節「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。この言葉は、以前「種蒔く人」のたとえを語られた時にも、9節で同じ言葉で言われています。「聞く耳のある者は聞きなさい。」なるほど、教会に通い始めた頃の私には、この聞く耳がなかったということなのだと思います。聞くには聞くが理解できない。それは聞く耳がないからなのです。実は、日本語としては分かるけれど何を言っているのか理解できないというのは、何も主イエスのたとえに限ったことではないのです。牧師の説教も、聖書の言葉も、主イエスのこのたとえと同じ性質のものなのです。

 主イエスのたとえも、聖書が告げていることも、説教も、いつもただ一つのことを語っている。それは主イエスの福音です。イエス・キリストとは誰なのか。イエス・キリストによって与えられた救いとは何か。イエス・キリストによって救われた者はどうなるか。そのことを告げているのです。それは、信仰を与えられなければ分かることはありません。それは、語られていることが訳の分からないことであるから分からないのではなくて、聞く者が語る者と同じ所に立っていないからなのです。あるいは、語る者が前提としていることと、聞く側が前提としていることが違っていれば、話は通じない。そう言ってもよいかと思います。主イエスはこのことを指して「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのです。

 「聞く耳のある者は聞きなさい」というのは、何か上からものを言っているように聞こえるかもしれません。話を聞いて分かる者だけが分かればいいのだ。そんなふうに聞こえるかもしれません。しかし、主イエスはそんな思いでこれを告げているのではありません。牧師もまた、そんな思いで毎週説教しているのではないのです。何とか分かって欲しいのです。しかし、本気で分かろうとしなければ、本気で聞こうとしなければ、分からないのです。自分の耳が変わらなければ、分からないのです。自分の耳が変わらなければ、自分が生きる上で自分が求めること、前提となっていることが変えられなければ決して分からないし、受け入れることができない。それが、主イエス・キリストの福音というものなのです。

 主イエスは今日の24節で、「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」と言われました。自分が聞いていることが何なのか、そのことに注意しなければならないのです。主イエスは、単に生活の一場面を語っているわけではないのです。当たり前です。主イエスは神の国の福音を告げているのです。私たちはそれぞれ自分の秤を持っています。それは、自分の経験やこの世の常識といったもので作られたものでしょう。ある人にとっては健康が一番でしょうし、ある人にとってはお金が一番かもしれません。この自分の秤が変わらなければ、主イエスが語っていることは分からないということなのです。しかし、この秤が主イエスの求めているものに変わりますと、どんどん分かってくる。どんどん与えられてくるのです。

 聖書というものは本当に不思議な書物で、一箇所分かりますとどんどん分かってくる。しかし、なかなかすべてが分かるということはない。ですから、次から次へと、どんどん与えられ続けていくものなのです。私は洗礼を受けて45年、牧師になって36年ですが、今もどんどん与えられ続け、分からされ続けております。「ほう、そういうことなのか!」と、分からせていただいています。

 では、この自分の秤が変わる時の重要点は何かと申しますと、「私は罪人である」ということを知ることだと思います。あれをしてしまった、これをしてしまった。そういう意味での罪人ということでもありますが、それ以上に重大なことがあります。それは、自分に命を与え愛してくださっている神様を裏切り、神様の愛に感謝することもなく、自分の欲を満たすためにばかり生きている者であったということを認めることなのです。

 自分が欲することを満たそうとすることのどこが悪いのか。確かに、この世の法律は、それを罰することはありません。しかし、そのことによって私たちは隣人(となりびと)を傷つけ、神様の御心を痛ませてきたのではないでしょうか。そのことは、人と比べてもそれは分かりません。他人と比べたら、自分はそれほど悪い人間ではない。どちらかと言えばよい人間ではないか、そう思うのが自然でしょう。しかし神様は、誰にも言えない、心の底にある闇の思いをも御存知です。そして、その闇の心を新しくしよう、そう言って招いてくださっているのです。そのために、主イエスは来てくださったのです。

 どうして自分が罪人であるということを知ることが重要であるかと申しますと、このことが分かった時、主イエスが私のために来られ、私のために十字架にお架かりになり、私のために復活されたということが分かるからなのです。大切なのは「私のために」です。「私の罪のために」です。聖書の言葉が、牧師が語る説教が、他ならぬ私のことを言っているということが分かるようになるからです。この時、自分の秤が変わるからなのです。

 さて、今朝与えられておりますもう一つのたとえ、「ともし火」のたとえですが、ここで語られている「ともし火」とは何を指しているのでしょうか。すぐに思わされることは、主イエス・キリスト御自身を指しているということでしょう。確かに主イエスは、御自分を殺そうとする人たちがいても逃げも隠れもせずに、十字架に架けられて殺されるということに至りました。その結果、主イエス・キリストというお方は、当時のローマ帝国から見れば、東の辺境の地ユダヤの、更に田舎のガリラヤから出て、今では全世界において何十億という人々が主の日のたびごとに礼拝をささげるまでになっています。22節「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と言われている通りです。主イエスはまことの世の光として、すべての人に生きる力と勇気を与えています。どのように生きればよいのかという、人生の灯台のように光を放ち続けておられるのです。

 そしてこの光は、私たちに与えられたイエス・キリストに対する信仰と愛をも表しているのです。この福音が記されました頃、キリスト教会は、社会における少数者であったと思います。自分はイエス・キリストを信じています。そのように明言できないような雰囲気があったのではないかと思います。それは私たちもよく分かるでしょう。この柏の地で、キリスト者ですと人前で言うことは何となく気が引けるという思いが、私たちもどこかであるのではないかと思います。しかし、主イエスは「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と言われるのです。わたしの与える信仰と愛は隠そうとしても隠せるものではないということでしょう。もっと言えば、主イエスはここで、「わたしが与えたともし火は、消そうにも消えない、圧倒的な力と輝きを持って、私たちをそして全世界を照らし続けるものなのだ。」そう告げられたということなのではないでしょうか。

 私たちは、自分に与えられている信仰と愛とを、あまりに小さなものとして考えているのではないでしょうか。私たちの信仰は、天と地を造られたただ独りの神様が私たちに与えてくださったものであり、それは私たち自身をそしてこの世界を造り変えていく大きなものなのです。現代人は、信仰というものを自分の心の中のことだと思っているところがあります。しかし、それは正しくないのです。主イエス・キリストが与えてくださった信仰そして愛は、到底私たちの心の中に収まってしまうような小さなものではないのです。私たちに注がれた主イエスへの信仰も愛も、それは私たちから外に向かって、この世に向かって溢れ出していくものなのです。いよいよ、主の救いの御業にお仕えする者として、私たち一人一人が用いられていくことを願い求めたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。あなたは御子を、この世界に、私たちの心に、光として遣わして下さいました。この光は、人の思いを超えて、この世界に広く、深く照り渡っていきます。どうかその大いなる御業に仕える者として、一人一人を用いていてください。あなたの御心がこの地においても実現されますように。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名において、お捧げいたします。アーメン。

夜の旅路-キリストを求めて

マタイによる福音書2章1~12節  2024年1月7日(日)主日礼拝説教 

                            牧師 藤田浩喜

マタイによる福音書のクリスマス物語には、救い主の誕生を祝うために、はるばる東方から旅をしてきた占星術の学者たちのことが語られています。はるか東方からラクダにまたがって来るのですから、2週間ほどかかるでしょう。そのため世々の教会は1月6日をエピファニー(公現祭)と定め、異邦人である学者たちに救い主が初めて顕現されたことを、記念するようになったのです。

その意味では、公現祭までがクリスマスと言うこともできるでしょう。

 ところで、ここでいう「東方」というのがどこのことなのかは、はっきりしません。パレスチナから見て東の方向ですから、ペルシアだという人もおれば、アラビアだという人もあり、またインドのことだという人もあります。

 いずれにしても、この話を語ったり聞いたりしてきた人々にとって、「東方の学者たち」という表現は、なにかエキゾチックで夢物語のような印象を与えたことでしょう。それだけに、後世になればなるほど、この学者たちについては、さまざまな解釈がなされ、またいろいろな伝説が生み出されていきました。

 長い間、代々のキリスト者たちは、「救い主に出会う」というただそれだけの目的をもってはるばると旅路を歩みつづけるこの「東方の学者たち」に、それぞれの信仰的な関心を寄せてきました。そして彼らの姿に自分自身の思いを重ね合わせてきたのです。

 さて、この物語を読んでいくと、学者たちは救い主への「贈り物」として「黄金、乳香、没薬」を携えてきたと伝えられています。これらはいずれもその時代にあっては高価な品物で、薬品や化粧品、また薬味としても用いられたといいます。

 ところが、この学者たちにとっては、いささか困ったことがありました。それは贈り物を携えてきたにもかかわらず、実は自分たちが「いったいどこの誰にこの贈り物を献げるのか」ということが、最後の最後まではっきりと分からなかったということです。

 彼らは自分たちがどこに行くのかということすら知りませんでした。これは不思議なことであり、不自然なことです。

 誰であれ、贈り物をしようというときに、いったいそれを誰に「贈る」のかも分からないなどということがあるでしょうか。人に出会うために旅に出た人間が、自分の目指している相手の人がどこの誰なのかも分からないなどということがあるのでしょうか。この学者たちの旅はあまりにも頼りない旅だったと言わねばなりません。

 けれども、実際に聖書の中から読み取ることのできる、「東方の学者たち」とは、誰に出会うのかも分からぬまま、その人のために贈り物を携えて、見通しのない旅路を行く人々。そういう人々だったのです。

さて、そうはいうものの、実は目的の定かならぬ旅路を歩むという点に関して言えば、この「東方の学者たち」の姿も、私たちひとりひとりの人生も、一脈相通じるところがあるように思います。

 人生を「旅」にたとえることは、キリスト教のみならずさまざまな宗教や哲学、また文学などの世界でも行われてきました。

「旅」というものは、ふつう目的地や旅程が決まっているものです。目的も、見通しも、計画もはっきりしないまま、歩き出さなければならないような旅は、私たちを困惑させます。けれども、実に困ったことに、実際の「人生の旅」とは、そういうたぐいの旅にほかならないのです。

 私たちは目的や見通しや計画を立てた上で、この世に生まれてきたわけではありません。「気がついてみたら生まれていた」というのが実態です。「気がついてみたら旅に出ていた」のです。恐ろしいことに、「人生の旅」はその日程ひとつを考えても、私たちの思い通りにはいかないしろものです。50年後に終わる旅なのか、それとも5日後に終わる旅なのか、それすら私たちは知りません。それはまさに、思いもよらぬうちに始まってしまった旅であり、思いがけない時に終わる旅です。「今夜、お前の命は取り上げられる」(ルカ福音書12章20節)という神の言葉が、いつ私たちに告げられるのか、だれひとり知らないのです。

 仏教のほうでしたか、「人生は無明長夜(むみょうじょうや)」という言葉があります。人生というものは、灯りのない長い長い闇夜の中を生きるようなものだという意味でしょうか。実際、本当の闇の中では、私たちの目はなんの役にもたちません。また、私たちの手足も感覚も、ほとんど役にたちません。闇の中で歩いていても、それが果たして前に進んでいるのか、道から外れているのか、それともただ堂々めぐりをしているだけなのか。私たちには分かりません。もしかしたら、私たちの人生というものは、多くの時間、そんな堂々めぐりをしながら、悩んだり、苦しんだり、悲しんだり、そして時には喜んだりして、過ぎていくというだけのことなのかもしれないのです。

 さて、マタイ福音書の東方の学者たちの物語には、ひとつの「星」が登場します。目的地も、旅程も、日程も、贈り物を贈る相手すらも分からない、この頼りない旅路を行く博士たちを、この星が導いたというのです。

 「星」が導くというからには、おそらく、この人たちは夜しか旅ができなかったのではないでしょうか。暗く見通しのきかない中を、足下も不安なまま、おぼつかない足取りで一歩一歩進んでいくのが、彼らの「夜の旅路」です。

 「人生の旅」を歩くために、私たちは闇の中で目を凝らし、知恵と力を振りしぼって先々を見通しながら、この世の荒波を泳ぎわたっていこうと努めます。「人生の旅」を進んでいくとき、私たちはただひたすらに前を見つめ、がむしやらに闇の中に進むべき道を探そうとします。

 けれども、このクリスマス物語の中で聖書が語っていることは、ただひたすらに前を見るということではなく、まず「星を見る」、「天を仰ぐ」ということです。「前を見つめて歩く」のではなく、むしろ「上を向いて歩こう」と、聖書は教えているのです。

 私たちにとって「天を仰ぐ」、「上を向く」という姿勢は、ある意味で、絶望的な姿を表しているといえるかもしれません。自分自身の知恵や才覚に行きづまった時、私たちは嘆息しながら「天を仰ぐ」ことがあります。

 しかしまた、そうしたとき、そうすることによって、今までとはまったく違った情景が見えてくることも事実です。

 天にある「星」は、人間の小さな努力や、自己満足や、欲求不満などにかかわりなく、いつもまたたいています。私たちが生まれる前から、そして死んだ後にも、そこにまたたきつづけているのです。

 詩編の中でひとりの詩人は、天を見ながらこう歌いました。

  「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。

  月も、星も、あなたが配置なさったもの。

   そのあなたが、御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。

   人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。」

(詩編8編4~5節)

 変わることなく大きく開かれた天、そこに散りばめられた星々に、昔の人々は神のみわざを見たのです。「天を仰ぐ」ことによって、この詩人は世界とその中に生きとし生けるすべてのものを支えたもう神の大いなる恵みを見たのです。

 人間の手のわざではなく、神のわざに目をそそぐこと。それが「天を仰ぐ」ということであり、「星に導かれる」ということです。「天を仰ぐ」ことは、自分自身と人間に対して絶望しても、神に対して絶望しないことを告白する信仰者の姿であるとさえ言えるかもしれません。それは、私の人生が、恵みとあわれみに富みたもう神の手の中にあることを信じ、感謝する信仰者の姿なのです。

 さて、先ほども触れましたが、星に導かれて歩んだ東方の学者たちは「黄金、乳香、没薬」という贈り物を携えていたといいます。

 この贈り物については、その当時の価値あるものを献げて、救い主の誕生をお祝いしようとしたのだという解釈がふつうです。しかしある説によると、これらのものは実はこの学者たちの商売道具だったとも言います。よく知られているように、古代の世界で「占星術の学者」というのは、「天文学者」でもあれば、「占い師」でもあり、また「魔術師」のような存在でもあったようです。  

「黄金、乳香、没薬」というのは、彼らがそうした仕事をする上で用いた道具だったというのです。もしこの解釈が正しいとすれば、彼らは、今までの自分たちの生活のもととなっていたもの、これまでの「人生の旅」を送る上で彼らを支えていたいちばん大事なものを、キリストのもとに差し出すために携えていったことになります。

 それはいったい何を意味するのでしょう。

 それは、彼らがただ単に高価なもの貴重なものを救い主の誕生プレゼントとして贈ったということではなく、彼らのそれまでの「人生」を象徴するもの、彼らのそれまでの生き方そのものを、イエス・キリストの前に献げたということであり、さらにいえば、そうした過去の生き方を清算しようとしたのだということを表しているのではないでしょうか。

 彼らの旅は、「救い主を見物しよう」といった好奇心からの物見遊山の旅ではありません。彼らの旅は歴史的イベントに立ち会い、そのお祝い騒ぎに参加するためのものでもありません。彼らの旅は「これまでの彼らの生き方を終える旅」だったのであり、「これからの新しい生き方を始めるための旅」だったのであります。

 クリスマスに立ち会うということは、私たちがこれまでの自分自身の生き方を清算すること、新たな生き方へ踏み出すことにつながっています。

 冬は空気が澄んで夜空がきれいです。私たちも「天」を仰ぎ、「星」を見つめながら、それに導かれて夜の旅路を進んでいく学者たちの姿を思い浮かべてみようではありませんか。そして、闇の中に浮かび上がるそのシルエットを想像しながら、私たちもまた主イエス・キリストにあって、これまでの人生を顧みつつ、またこれからの人生の歩みに目を凝らしつつ、冬の夜のひとときを送りたいと思うのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。2024年最初の主日礼拝を敬愛する兄弟姉妹と共に守ることができましたことを感謝いたします。この新しい一年も私たちの教会と一人一人の歩みを導いていてください。見通すことのできない地上の歩みに目を奪われがちな私たちですが、天におられるあなたにこそ目を注ぐ者としてください。心を高くし、あなたの語ってくださる御言葉にこそ耳を澄ますことができますように。一人一人を強めていてください。国内では能登半島を中心に大きな地震が起こり、多くの被災者の方々が避難生活を続けています。また海外ではウクライナやパレスチナのガザで戦争が続き、多くの人々が苦しみと悲しみの中にあります。神さまどうか、苦しみや嘆き、困難の中にある人たちを、励まし支えてください。このような状況を一日も早く過ぎ去らせてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主のよき力に守られて

マタイによる福音書2章13~23節  2023年12月31日(日)主日礼拝

                           牧師 藤田浩喜

◎今日は本年最後の礼拝を守っておりますが、クリスマスの時期にはあまり選ばれることのない箇所をテキストにいたしました。それは2千年前の最初のクリスマスも、決して平和なクリスマスではなかったということを、思い起こすためです。今日のテキストの直前部分には、有名な物語が記されています。それは東の国の占星術の学者たち(博士たち)が黄金、乳香、没薬の贈り物をもって、生まれたばかりの救い主キリストを礼拝するためにやって来たという美しい物語です。

 彼らは救い主の生まれた場所を探し当てる前に、エルサレムへ立ち寄り、ヘロデ王を訪ねました。そしてこう尋ねたのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)。ところが、それを聞いたヘロデは、「もしかすると自分の地位が脅かされるのではないか」と不安になり、一計を案じるのです。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(同2:8)。もちろんそれは、嘘です。彼らから、その赤ちゃんの居場所を聞き出し、暗殺しようと企んだわけです。

 しかし彼らは、その救い主を見つけて、礼拝した後で、夢で神からのお告げを聞きます。「ヘロデのところへ帰るな」(同2:12)。彼らは別の道を通って、自分たちの国へ帰っていきました。そのことを知ったヘロデは激怒いたします。そして、「二歳以下の男の赤ん坊を一人残らず殺せ、皆殺しにせよ」という命令を下すのです。

◎クリスマスの喜びの歌声が、自分の子供を殺された母親の泣き叫びでかき消されるようです。マタイはこのように記しております。「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから』」(マタイ2:17~18)。

 この言葉は少し説明が必要かもしれません。ラマというのは、ベツレヘムのこと、あるいはその近くにあった古代の町であります。ラケルの墓はそこにありました。ラケルというのは、創世記に出てくる女性であり、イスラエルの族長であったヤコブの妻です。ちなみにヤコブは、アブラハムの孫、イサクの息子です。ヤコブは神の人と格闘して、イスラエルという祝福された名前をもらうのです。イスラエルとは、「神は支配したもう」という意味です。ラケルはその「イスラエル」という名前の男の妻でありますから、いわば、イスラエル民族の母のような意味合いをもっているのでしょう。そのラケルが泣いている。墓の中から泣いている。子供が取られたから。このところに、預言者エレミヤの名前が出ていますが、この言葉は実は旧約のエレミヤ書からの引用です。エレミヤがずっと昔に語った言葉をマタイが用いたのでした。エレミヤ書31章15節に、こう記されています。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子はもういないのだから」。

 ここでは、イスラエルの民のもう一つの悲しい歴史が重ねられているのです。それはバビロン捕囚という出来事でありました。イスラエル王国はダビデ王、ソロモン王の時代には栄華を極めるのですが、その後どんどん落ちぶれていき、さらに国は北と南の二つに分裂いたしました。エレミヤの時代にはすでに北王国イスラエルは滅び、南王国ユダもバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々が捕虜としてバビロンに連れて行かれました。これが、紀元前6世紀に起こった、バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。このラマはバビロンに連れて行かれた時の通過点であったといわれています。その連れて行かれる人を見て、ラケルが墓の中から泣いている。慰めてほしくない。子供はもう帰らないのだから、ということなのです。

 マタイはこれを、ヘロデ王の幼児虐殺事件と重ね合わせました。あのエレミヤの預言の言葉が、今ここに実現している。ラケルの泣き声が時代を超えて、こだましているのです。バビロン捕囚の時代の母親の嘆きと、クリスマスの時のヘロデ王に殺された母親の泣き叫ぶ声がこだましている。ここ3か月、新聞やテレビのニュースで、イスラエル軍がパレスチナのガザを攻撃し、そこを必死で逃げ回っているパレスチナの子どもたちの姿、また死んだ子どもたちのために泣き叫んでいる人の姿が映し出されています。ウクライナにおいてもそうでありましょう。あのラケルの泣き声は、今日までもこだましているのです。あのラケルの泣き声が地球全体を覆い尽くすようにこだましているのです。

 2千年前にこの泣き声を生み出したものは、ヘロデ王の敵意でありました。それが、力をもたない者の上にふりかかってくるのです。力を持つ者、権力を持つ者、武力を持つ者の敵意と欲望、それが罪のない人々の死と、その家族の嘆きを生み出すのです。

◎しかし、いかがでしょうか。今日のテキストは、そうした暗い出来事の中で、かすかではありますが、確かな希望を告げております。それは、どのようなヘロデ王の敵意も、あるいは彼の暴力も、軍事力も、イエス・キリストを見つけ出して、殺すことはできなかったということであります。神が守ろうとされるものは、どんな力も及ばない、不思議な力で守られるのです。それは、彼がこの時死んではならなかったからです。彼が死ぬべき時は、別に定められていました。ですから、神はあらゆる手段を用いてイエス・キリストを守り抜かれました。このことは私たちの希望です。私たちは敵意がぶつかる中で起こる痛ましい現実について、ラケルと共に嘆かなければならないでしょう。またそのような現実を生み出している敵意というものを、憎まなければならないでしょう。そうした悲劇が一日も早くなくなるようにと、真剣に祈らなければならないでしょう。しかしそういう暗い現実の中にあっても、幼子イエスは不思議にも守られ、生き延び、成長していくのです。聖書は、そのことに私たちの目を向けさせようとします。私たちはそのことを信じるがゆえに、どんな時にも希望をもって、この世の困難な課題に対して真剣に、しかし心のゆとりを失わないで、立ち向かう勇気が与えられるのではないでしょうか。

 詩編46編にこういう言葉があります。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地は姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」(詩編46:2~4)。

◎幼子イエスを守るために、大切な働きをしたのは、マリアの夫ヨセフでした。彼は夢に現れた天使の言葉に聞き従い、自分の郷里を捨ててエジプトへ落ち延びていきました。実の子ではありません。彼が自分の子ではないこの幼子のために払った犠牲が、一体どれほど大きなものであったかと思います。やがて危険が去った時、彼は再び妻マリアとその子イエスを護衛して、故郷ナザレに戻って行きます。

 このヨセフという人物は、実は福音書の最初だけに登場する人です。2章の終わりに、無事にマリアと幼子イエスをナザレに戻した後は、もう出てきません。そういうところから、このヨセフは主イエスが成人する前に、世を去ったのであろうと言われています。もしもそうだとするならば、彼の短い生涯は、いわばイエス・キリストの母となったマリアを守り、彼女から生まれた幼子イエスを受け止め、その命を守るという課題に捧げられたと言うこともできるでしょう。聖書の中のヨセフは、一言もしゃべっていません。それはマリアと違うところです。彼の姿はただ、「信仰の服従」という一語に尽きると思います。美しい姿であると思います。

 私たちにも、このヨセフのような「信仰の服従」が求められているのではないでしょうか。もしもそうしようとするならば、ヨセフが背負ったような犠牲が伴ってくることもあるでしょう。イエス・キリストが後に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と、言われたとおりです。しかし私たちは、犠牲を払って主に従っていくときに、それによって逆に、私たち自身が支えられるという経験をするのではないでしょうか。

◎聖クリストフォロスの伝説をご存じでしょうか(英語ではクリストファーです)。クリストフォロスは川の渡し守でしたが、たまたま一人の少年を背負って川を渡ることになりました。しかし一歩一歩進むうちに、どういうわけか、少年がずしりずしりと重くなっていくのです。彼は水をかぶりながら、足をふんばって何とか川を渡り切りました。クリストフォロスがふとうしろを振り返ってみると、そこはものすごい急流でありました。その時、彼は悟るのです。もしもあの少年の重みがなければ、自分は完全に流されてしまっていたに違いない。その少年こそキリストであり、その重さは世界の重さであった。そういう伝説であります。クリストフォロスは、「少年を運ばなければ、守らなければ」、

と必死の思いでしたが、そこで逆に不思議にも、神のよき力に守られていたのです。ヨセフもきっと、何度もそのような経験をしたに違いないと思います。

◎ディートリヒ・ボンヘッファーという神学者がいました。この人はナチス・ドイツの時代に、ナチス政府に屈しない教会の抵抗運動を起こしましたが、それもやがて挫折していきます。そして最後にヒトラー暗殺を企てる地下組織に加わっていくのですが、些細なことから、それが発覚して投獄され、最後には処刑された人です。1945年4月9日、連合軍がナチス軍を破るわずか数週間前のことでした。このボンヘッファーが、1944年の年の終わりに、獄中で、一つの詩を書き残しております。

 「主のよき力に守られて」という題が付けられています。この詩の中には、いつ死刑に処せられるかわからない不安と主にある平安が、ない交ぜになっています。また彼にはマリアという若い婚約者がいましたが、そのマリアや家族に会いたいという気持ちが、ひしひしと伝わってまいります。しかしながら、それにもかかわらず、神がここに自分を置かれたという状況を受け入れて、獄中にある仲間や、看守たちと共に新年を迎えていこう、という信仰があります。こういう詩であります。

「主のよき力に、確かに、静かに、取り囲まれ、

不思議にも守られ、慰められて、

私はここでの日々を君たちと共に生き、

君たちと共に新年を迎えようとしています。

 過ぎ去ろうとしている時は、私の心をなおも悩まし、

 悪夢のような日々の重荷は、私たちをなおも圧し続けています。

 ああ主よ、どうかこのおびえおののく魂に、

 あなたが備えている救いを与えてください。

あなたが、もし、私たちに、苦い杯を、苦渋にあふれる杯を、

なみなみとついで、差し出すなら、

私たちはそれを恐れず、感謝して、

いつくしみと愛に満ちたあなたの手から受けましょう。

 しかし、もし、あなたが、私たちにもう一度喜びを、

 この世と、まぶしいばかりに輝く太陽に対する喜びを与えてくださるなら

 私たちは過ぎ去った日々のことをすべて思い起こしましょう。

 私たちのこの世の生のすべては、あなたのものです。

あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、

どうか今こそ暖かく、静かに燃やしてください。

そしてできるなら、引き裂かれた私たちをもう一度結び合わせてください。

あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私たちは知っています。

 深い静けさが私たちを包んでいる今、この時に、

 私たちに聞かせてください。

 私たちのまわりに広がる、目に見えない世界のあふれるばかりの音の響きを、

 あなたのすべての子供たちが高らかにうたう讃美の歌声を。

主のよき力に、不思議にも守られて、

私たちは来たるべきものを安らかに待ち受けます。

神は、朝に、夕に、私たちと共にいるでしょう。

そして、私たちが迎える新しい日々にも、

神は必ず私たちと共にいるでしょう」(村椿嘉信訳)。

 この歌にはメロディーがつけられ、賛美歌にもなっています。『讃美歌21』では日本語に訳されたものが、469番として収められております。このあとご一緒に、この賛美歌を歌いましょう。

 皆さんの2023年は、いかがだったでしょうか。様々な思いを秘めながら、私たちも主のよき力に守られていることを信じて、新しい年へと進んでいきましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日2023年最後の礼拝を愛する兄弟姉妹と共に守ることができ、感謝いたします。この1年は2年以上続くロシアとウクライナの戦争に加えて、10月からはイスラエルのガザ侵攻という戦争が今も続いています。2千年前と同様、子を亡くした母親の嘆きが慰められることも拒んで、世界に響き渡っています。権力や武力を持つ者の敵意と欲望は、いつもこのような不条理な悲惨を生み出します。しかしそれと同時に、そうした権力者の暴走を許した私たち自身の怠惰や無関心を懺悔いたします。神様どうかこうした不条理な戦争を一日も早く終結へと導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

主に先立って道を備える者

ルカによる福音書 1章57~66節   2023年12月17日(日)主日礼拝説教

                                            牧師 藤田浩喜

アドベント第三の主の日を迎えております。ルカによる福音書は、主イエスの誕生の前に洗礼者ヨハネの誕生を記しております。それは、主イエスの誕生が、偶然、たまたま、その時に起きたことではなくて、神様の御計画の中で起きたことである。そして旧約聖書において預言という形で示されていた神様の御心の成就であるということを示しているわけです。マラキ書3章1節にも「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」と預言されていたように、救い主が来られる前には、主の道を備える者、神様からの使者が遣わされることになっていたからです。救い主が来られる前に、救い主に先立つ者、道を備える者が来ることが預言されており、それが洗礼者ヨハネであると告げているわけです。

神の民は長い間、救い主が来られるのを待っていました。アッシリアに、バビロンに、ペルシャに、ローマに、神の民は800年にわたって世界帝国と言われる巨大な国家に支配され続けました。その中で彼らは待ち続けたのです。そして、遂に救い主が来られたのです。それが主イエス・キリストでした。神様はアブラハムとの契約を忘れず、神の民に救い主を与えてくださったのです。そのことを指し示す者として、洗礼者ヨハネが主イエスの誕生に先駆けて生まれたのです。その意味では、洗礼者ヨハネは、旧約と新約とを結びつける者としての位置が与えられていると言ってよいかと思います。マタイによる福音書は、その冒頭において長い主イエスの系図を掲げることによって、旧約と新約とのつながりを示しました。それに対して、ルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの誕生を記すことによって、旧約とのつながりを示したということなのではないかと思うのです。

今朝与えられております御言葉は、洗礼者ヨハネが誕生した場面が記されておりますけれど、その前に何があったのかをまず少し振り返っておきましょう。1章5~25節に記されていることです。

 洗礼者ヨハネの父ザカリアは祭司でありました。彼が、神殿で香をたく務めをしていた時、天使ガブリエルが現れて、こう告げました。13~17節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」この天使ガブリエルの言葉の中に、生まれて来る子が救い主のために道を備える者であることが示されていました。16~17節です。

しかしこの時、ザカリアは天使ガブリエルの言葉を受け入れることができませんでした。ザカリアも妻のエリサベトも既に年をとっていたからです。100歳のアブラハムと90歳のサラにイサクが与えられた出来事をザカリアは知っていました。しかし、そのようなことが我が身に起きるとは信じられなかったのです。だから彼は、天使にこう言いました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。」これは「しるし」を求めたということでありましょう。それに対して天使ガブリエルは、20節「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と告げ、ザカリアはその時から口が利けなくなってしまったのです。そして、それから妻のエリサベトは本当に身ごもったのです。

そして今日の聖書です。「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。」(57節)というのは、今申しましたようなことがあって、そして10ヶ月が過ぎて男の子が生まれたということです。当然、ザカリアはこの間、口が利けないままでした。この10ヶ月間の沈黙、それはザカリアにとってどういう時間だったのでしょうか。ザカリアは天使ガブリエルによって口が利けなくなってしまったわけですけれど、そのことを恨んで過ごす10ヶ月ということではなかったでしょう。そうではなくて、天使ガブリエルが言った言葉、先程お読みした1章の13~17節の言葉の意味を考え、思い巡らしていたのではないかと思います。そしてまた、アブラハムにイサクが与えられた時のような驚くべき奇跡が起きて自分たちにも子が与えられることの意味、神様がそのことによって示そうとされている御心、それらについて思い巡らす日々ではなかったかと思うのです。

 10ヶ月というのは短い時間ではありません。しかし、本当に神様の御心を知り、そのことによって自分が変わる、神様の御業に仕え切る者となる、そのためには三日や一週間ではダメだったのではないかと思うのです。人が変わるには、時間が必要なのです。そして、口が利けなくなるというのは、日常的に忘れることができないことです。声を発し、話そうとする度に、思い起こさせられることです。それは少しも観念的なことではなく、我が身に刻まれた神様の御業でありました。この神様の御業と共に10ヶ月間、ザカリアは生活しなければならなかったのです。このことは、とても大切なことだったと思います。ザカリアはそのような時を過ごし、そして遂に「月が満ち」たのです。

子どもが誕生するというのは、いつの時代でも、どこの国でも、喜ばしいこと、嬉しいことです。洗礼者ヨハネが生まれた時もそうでした。近所の人々や親類が皆喜んだのです。これは自然なことです。しかし、ここには神様の御業に対しての驚きと畏れがありません。私たちを根底から支え、生かす、力ある喜び。それは神様の御業に対する驚きと畏れというものと不可分です。自然な喜びというのは、悲しいことがあればそれによって取って代わられてしまうような喜びなのです。しかしここで、神様がザカリアと妻エリサベトに与えられた喜びは、自然な喜びを超えた、神様への驚きと畏れに満ちた喜びでありました。

 生まれた子に割礼を施し名前を付ける。この命名式というものが、当時のユダヤにおいては大変重要でした。近所の人や親類が集まってなされる、子どものお披露目のような意味を持ったものでした。その時に、生まれた子に父の名を取ってザカリアと名付けようとしたのです。ザカリアの家は祭司の家でした。親類の多くも祭司だったはずです。親類の中の偉い人がそう言ったのかもしれません。しかし、その時母のエリサベトが「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言ったのです。女性がこのような公の時に口を挟むことが許されるような時代ではありませんでしたから、人々は驚いたことでしょう。この嫁はなんということを言い出すのか。そんな空気が流れたことでしょう。そこで人々は父のザカリアに「この子に何と名を付けたいか」と尋ねました。するとザカリアは、口が利けませんので字を書く石板を出させ、「この子の名はヨハネ」と書いたのです。

 ザカリアは10ヶ月の間、口が利けませんでしたけれど、どうして自分の口が利けなくなったのか、神殿で天使ガブリエルに会った時のことを、妻のエリサベトに伝えていたに違いないと思います。口は利けないのですから筆談によったのでしょう。ザカリアはエリサベトに事の成り行きを話したに違いないのです。そして、ザカリアもエリサベトも10ヶ月の間に、神様の御心をきちんと受け取り、それに応える者へと変えられていったのだと思います。

 何気ないことでありますけれど、この時ザカリアとエリサベトが同じように神様の御心を受け入れたということが、とても大切なことだと思います。ザカリアだけ、エリサベトだけ、ではなかったのです。ここには信仰において一つとされた夫婦がいるのです。これはまことに幸いなことです。

 ザカリアが「この子の名はヨハネ」と書いた時、それはザカリアが単に天使ガブリエルの言った通りにしただけではありません。それ以上に、ガブリエルが告げたことをすべて、受け入れて信じたということを意味しています。示された神様の御心に従って歩んでいくということを意味していたのです。神様に対しての信仰の告白が、こういう形で成されたということなのです。

 64節「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」とあります。10ヶ月の長い沈黙の後にザカリアの口から出て来たのは、神様への賛美だったのです。ここに、神様の御臨在に触れた者、生ける神様と出会った者の姿があります。私たちの姿がここにあると言ってもよい。私たちは、ザカリアと同じように神様を賛美する者として、神様の救いに与ったのですから。

 ザカリアが神様を賛美する姿を見て、人々は恐れを感じたと65節にあります。どうして人々は恐れたのでしょう。それは、ザカリアの口が利けなくなったことから始まり、老いたエリサベトが身ごもったこと、子が生まれたこと、そして急にザカリアの口が開いて主を賛美したこと、その一連の出来事が神様の御業であることを知らされたからです。彼らは今まで、普通に赤ちゃんの誕生を喜んでいたのです。しかし、この普通だと思っていた出来事が普通ではない、神様の御業であるということを知って、恐れたのです。

 私たちはどうでしょうか。普通であると思っていることの中に、神様の御業を見る眼差しを持っているでしょうか。神様の御業は私たちの日常の中に溢れています。しかし、多くの場合、私たちはその前を普通のこととして通り過ぎているのではないかと思うのです。私たちの眼差しが神様の御業に開かれ、この唇が神様を誉めたたえるために開かれていくことを願うものです。

ザカリアは10ヶ月の間、天使ガブリエルの言葉を思い巡らし、まことの救い主によって救いの成就が成されるということ、そのために我が子ヨハネが用いられること、そのような神様の救いの御計画の中で、自分たち夫婦が選ばれたということを知るに至ったのでしょう。もちろん、それを悟らせたのは聖霊なる神様です。ザカリアの10ヶ月間も、口が利けないという状況は辛い日々であったに違いありません。しかし、その時を神様の時として過ごした者は、神様を賛美する者へと変えられていくのです。私たちもまた、そのような者として召されているのです。来週はクリスマスの主日礼拝です。色々と忙しい日々が続きます。その日々を私たちは、忙しさを嘆くのではなく、主が私に与えてくださった救いの御業を思い巡らす時としていきたいと思うのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。アドベントの第三主日を、敬愛する兄弟姉妹と共に守り、あなたを褒め称えることができましたことを感謝いたします。神様の救いの御業は、あなたを待ち望み、あなたを信じる民によって担われていきます。今日の祭司ザカリアと妻のエリサベトもそうでした。それは今日の信仰者である私たちも同じです。私たちも自らの生き方と奉仕の業によって、あなたの救いの御業を持ち運んでいきます。そのことに気づかされるとき、私たちは畏れに打たれると同時に、あなたに用いられている喜びを与えられます。どうかそのような喜びで、一人ひとりを満たしていてください。 主をこの世界にお迎えした時、この世界は軍事力を背景にした「ローマの平和」の中にありました。そのような冷酷な偽りの平和が、現代においても声高に叫ばれ、人々を支配しています。しかし、神様はそれとは対極にある神の平和の基として、御子をこの世界に誕生させてくださいました。どうか、私たち一人ひとりを、世界を和解させ命を生かす、あたたかさを湛えた神の平和に仕える者としてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

大いなる喜びの知らせ

ルカによる福音書2章8~14節  2023年 12月10日(日) クリスマス合同礼拝

                                             牧師 藤田浩喜

 今日は日曜学校の子どもたちも大人の人たちも一緒に、クリスマスの物語を聞きましょう。2千年以上前のユダヤの国のことです。羊飼いが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。野宿というのは、家の外でお泊りすることです。羊に草を食べさせるためにあちこち旅していた羊飼いたちは、夜も羊の番をしなくてはなりません。狼などの獣や人間の泥棒が羊を取っていかないように、見張っていなくてはなりません。羊飼いの仕事は、夜も起きていなくてはならない大変な仕事なのです。夜はどんどん更けていきました。

 その夜のことです。神さまの使いである天使が、羊飼いたちに近づきました。

「あ、天使だ、天使が立っている!」すると、今まで経験したことのない大きなまばゆい光が彼らを照らしました。「うぁ、まぶしい!」。羊飼いたちは思わず地面に顔を伏せました。そしてぶるぶる震え出しました。「どんなことが起こるんだろう」「どうなってしまうんだろう」。彼らは恐くなってしまったのです。

 すると天使は言いました。「羊飼いたち、恐がる必要はありません。わたしはすべての人々に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝えます。今日ダビデの町ベツレヘムで、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」そして天使は、その救い主である赤ちゃんがベツレヘムの町の飼い葉桶の中に寝かされていることを、教えてくれました。

 すると、どうでしょう。さらにびっくりすることが起こります。いつの間にか、天使だけでなくおびただしい天の大軍が、天使を取り囲むようにいるではありませんか。天の大軍は、戦争をするために来たのではありません。天使といっしょに神さまを賛美するためにやって来ました。天から来た合唱団です。すると天の合唱団は、いっせいに歌ったのです。「神さまのおられる天には、栄光がありますように!地上には平和がありますように!」まばゆい光が満ち溢れる中で、神さまを賛美する声が響き渡りました。「神さまのおられる天には、栄光がありますように!地上には平和がありますように!」

 羊飼いたちは、夢でも見ているように、この素晴らしい光景を見ていたに違いありません。そして、天使たちが彼らを離れると、だれかれなしに言い出したのです。「みんな、僕たちに起こったことを見たかい。天使と天の大軍が、大合唱して神さまを賛美していた。天の神さまの栄光が輝き、地に平和をもたらしてくださる。そんな救い主がお生まれになったんだ。僕たちのための救い主だ。さあ、ベツレヘムに行こう。救い主である赤ちゃんを拝みに行こう!」

 こうして羊飼いたちは、ベツレヘムの町にある馬小屋へと出かけて行ったのです。すべてが、天使が教えてくれた通りでした。羊飼いたちは飼い葉桶の中ですやすやと眠っている赤ちゃんイエスさまにお会いすることができたのです。羊飼いたちは、どんなに嬉しかったでしょう。羊飼いたちは自分たちが見たり聞いたりした不思議な出来事を会う人会う人に話してあげました。そして、神さまを大声で讃美しながら帰っていきました。

 羊飼いたちは、救い主イエスさまのお誕生を知らされましたが、それは不思議な体験でした。びっくりするような出来事でしたね。羊飼いたちが経験したように、救い主イエスさまがお生まれになったことは、天使や天の大軍が大合唱して神さまを賛美するような、素晴らしい出来事でした。

 そして、天使と天の大軍は歌いました。「神さまのおられる天には、栄光がありますように! 地上には平和がありますように!」神さまがおられる天には、栄光があります。そして、神さまが造られたこの世界には、神さまの栄光を表す平和がなくてはなりません。天の栄光には、地の平和こそがふさわしいのです。

 しかし2千年前の世界には、平和がありませんでした。ローマという大国が軍隊の力、富の力によって人々を支配していました。人々は苦しんでいました。今、わたしたちが生きている世界も同じですね。平和とは反対の戦争や争いが、多くの人たちを苦しめています。神さまに逆らい、神さまの御心に背く罪によって、この世界は神様の栄光を受けられなくなってしまったのです。  

 しかし、救い主イエスさまは、神さまの栄光がこの世界に満ち、この世界に本当の平和がもたらされるために、お生まれくださったのです。神さまの天とわたしたちの地をつなぐ架け橋となるために、イエスさまは生まれてくださったのです。そのような驚くべき出来事が、クリスマスの日に起こったのです。

 2016年の11月に作家の村上春樹さんが、デンマークでアンデルセン賞を受けられました。アンデルセンは、「マッチ売りの少女」や「人魚姫」など子ども向けのおとぎ話の作者として有名な人です。そのアンデルセン賞を受けた時、村上さんは受賞講演をしました。それは、アンデルセンの「影」という小さな作品、彼のいつもの作風とはまったく違う作品を取り上げて、語ったものでした。

 「影」という寓話のようなお話をわたしも読んだのですが、それは次のような話です。ある若い学者が南の国に旅をします。その国で過ごしていた彼は、向かいの家の中に何が起こっているのかを知ろうとして、自分の影をその家まで届かせます。しかしその影はそのまま戻っては来ず、学者は影を失くしてしまいます。

けれども彼には小さな影ができ、それが彼の新しい影になるのです。

 月日が流れ、何年も経ちました。ある晩のこと、学者の部屋をノックする音が聞こえます。ドアを開けるとどうでしょう。そこには自分のなくした影が立っていたのです。彼の身なりはとても立派で、高級な衣服や宝石を身に着けていました。しかも話を聞くと、彼はある国の美しい王女を愛するようになり、もうすぐ結婚することになっているというのです。学者の古い影は、知恵と力を得て独立し、今や経済的にも社会的にも、元の主人よりもはるかに卓越した存在になっていたのです。

 その後、学者はかつての影に世界旅行に連れて行ってもらったりしますが、その間に、学者とかつての影の立場は、すっかり逆転していきます。学者の影はいまや主人となり、主人であった学者は影になります。そして、かの美しい王女と結婚する日のこと、恐ろしいことが起こります。彼が影であった過去を知る元の主人は、その事実を口外することのないよう、哀れにも殺されてしまうのです。

 アンデルセンの「影」はそのような寓話なのですが、村上春樹さんはその寓話を取り上げつつ、私たち人間の心の中にある影ということについて、言及します。そして次のような、とても印象的な、洞察に満ちた言葉を語るのです。

「アンデルセンが生きた19世紀、そして僕たち自身の21世紀、必要なときに、僕たちは自分の影と対峙し、対決し、ときには協力すらしなければならない。それには正しい種類の知恵と勇気が必要です。もちろん、たやすいことではありません。ときには危険もある。しかし、避けていたのでは、人々は真に成長し、成熟することはできない。最悪の場合、小説『影』の学者のように自分の影に破壊されて終わるでしょう。」

そして、個人だけでなく国家や社会の中にある影についても、次のように言うのです。「ちょうど、すべての人に影があるように、どんな社会や国家にも影があります。明るく輝く面があれば、例外なく、拮抗する暗い面があるでしょう。ときには、影、こうしたネガティブな部分から目をそむけがちです。あるいは、こうした面を無理やり取り除こうとしがちです。というのも、人は自らの暗い側面、ネガティブな性質を見つめることをできるだけ避けたいからです。影を排除してしまえば、薄っぺらな幻想しか残りません。影をつくらない光は本物の光ではありません」。そして村上さんは、影の部分を無理やり取り除くような例として、侵入者を防ぐために高い壁を作ること、よそ者たちを厳しく排除すること、自らに合うよう歴史を書き換えることを上げます。そして、そのようなことしても結局は、自分自身を傷つけ、苦しませるだけだというのです。

 村上春樹さんは、私たち個人の中にも国家や社会の中にも、暗い影が存在することを指摘します。そのような影の部分を避けたり、無理やり取り除こうとしてはいけない。そうではなく、自分の影と共に生きることを辛抱強く学ばなくてはならない。そして、その内に宿る暗闇を注意深く観察しなさい。時には自らの暗い面と対決することを恐れるべきではない、と言われるのです。

 救い主イエスさまは、天と地をつなぐ平和の礎(いしずえ)として、この世界に与えられました。そして、そのことを知らされた御心に適うひとり一人によって、平和が創り出されていくのです。救い主イエスさまを信じるひとり一人が、平和のためのレンガを一つ一つ積み上げていくのです。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)。羊飼いたちがしたように、クリスマスの大きな喜びの知らせを、精いっぱい、周りにいる人たちに伝えていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。 

【祈り】御子イエスさまをこの世界に遣わしてくださった神さま、あなたを心から讃美いたします。今日は日曜学校の子どもたちも大人の人たちも、いっしょに礼拝を捧げることができました。ありがとうございます。平和の主であるイエスさま信じる私たちが、イエスさまから力をいただき、たとえ小さくても平和を造りだしていけますよう、どうか励ましていてください。午後の「子どものクリスマス」の時も祝福していてください。このお祈りを、イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。