航路を主イエスと共に行く

マルコによる福音書4章35~41節   2024年2月4日(日)主日礼拝説教

牧師 藤田浩喜

 今日の4章35節を見ますと、「その日の夕方になって」と書かれていました。その日、主イエスは集まってきたおびただしい群衆に、たとえをもって神の国について教えておられました。主イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上から語りかけます。群衆は皆、湖畔にいてそれを聞いていました。そして、その日の夕方、主イエスは弟子たちに言われたのです。「向こう岸へ渡ろう」と。
 暗くなってから舟を出すこと自体は、珍しいことではありませんでした。夜通し漁をすることもあるのですから。また、弟子たちの多くは漁師ですから、舟を出して良い日かどうかも、ある程度はわかります。その日は舟を出しても良いと判断したのでしょう。「向こう岸へ渡ろう」と言っても、はるか彼方へ舟を出すわけではありません。せいぜい10キロ~20キロの間です。ですから主イエスは無理な要求をしているわけではありません。
 しかし、それでもなお弟子たちにとっては、正直言ってあまり気が進まない話だったと思います。というのも、主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と言って指さしていた先は、「ゲラサ人の地方」だったからです。それはユダヤ人ではなく異邦人が住んでいる地域です。5章を見ますと、その地方の人たちはどうも豚を飼っていたらしい。ユダヤ人の感覚からすると、そこは汚れた人々が汚れたことをして生活している土地なのです。そんなところには行きたくないし、そんな人々とは関わりたくもない。しかし、主は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。

 主イエスがそう言われるので、仕方なくも舟を出しました。群衆を後に残し、主イエスを舟に乗せたまま彼らは漕ぎ出します。すると、やがて激しい突風に見舞われることとなりました。経験を積んだ漁師たちでも予測を誤る時はあるようです。「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」(37節)。ちなみに「水浸し」と訳されているところは、「(水が)今や舟いっぱい」という表現ですから、事態はかなり深刻です。舟は沈みそうになっていたのです。
 しかし、その嵐の中にあって主イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられました。弟子たちは主イエスを起こして言います。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」 これが今日の聖書個所の前半部分です。
 皆さん、ここを読まれておかしいと思いませんか? 嵐なのに主イエスが寝ていることではありません。嵐なので主イエスを起こした、ということです。ガリラヤ湖と舟に関して弟子たちの方が専門家なのでしょう。一方主イエスと言えば、大工の息子ですから、舟に関しては素人以外の何者でもありません。
 実際、彼らは起こす直前まではそう考えていたと思います。「眠っておられた」と書かれていました。言い換えるならば、誰もそれまで起こそうとはしなかった、ということです。舟はいきなり水でいっぱいにはなりません。かき出しても水が入るから一杯になるのです。彼らがなんとか努力して、舟が沈まないように対処していたとき、彼らは主イエスを眠ったままにしておいたのです。必要ではなかった。素人ですから。嵐の中で格闘している時には、むしろ素人は寝ていてくれた方がよかったのです。
 ところがこの場面において、彼らはその素人でしかない主イエスを起こして、こう言っているのです。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38節)。おかしいでしょう。ここに書かれていることは、普通に考えるならば異常な光景です。

 しかし、もう一方で彼らの気持ちもよく分かります。多かれ少なかれ私たちにも身に覚えがあるからです。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったのは、実際おぼれそうになったからです。長年の経験と自分たちの持っている技術と持ち前の根性では、どうにもならなくなったから、今さらですが、彼らはこのような言葉を口にしているのです。
 想像してみてください。主イエスが群衆に語りかけていた時、彼らは舟の中にいたのです。一番近いところで主イエスの話を聞いていたのです。神の国の話を聞いていたのです。神の支配について聞いていた。百倍にもなる御言葉の種の話も聞いていたのです。そのように、神のなさることについて聞いていたのです。
 しかし、嵐の中にあっては、そんな話はどこかへ飛んでしまいました。神の話は神の話。現実は現実。今は現実の方が大事なのであって、神様関係の御方は寝ていてもらっていたほうがいい。素人は足手まといですから。
 このようなことは、私たちにもあるのでしょう。神の話は神の話。現実は現実。この大変な時に聖書や教会どころじゃありません。こんな時に信仰の話でもないでしょう!礼拝どころじゃないでしょう!そうやって、自分の経験や技術や根性で一生懸命に対処しようとしている時には、神様のことは後回しになります。
 しかし、彼らはどうにもならなくなった時に、そこに寝ている方のことを思い起こしたのです。きっと思い出したことでしょう。主イエスを通して神の権威と力が現わされていたことを。カファルナウムの会堂において、汚れた霊に「黙れ、この人から出て行け」と命じると、たちまち汚れた霊は出て行ったことを。また、中風の人が床に乗せられてつり降ろされてきた時に、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じられると、病は癒され、その人は床を担いで出て行ったことを。
 だから、自分の力や頑張りではどうにもならなくなった時、彼らは主イエスを求めたのです。この御方を通して現れた神の権威を求めたのです。「神の話は神の話。現実は現実」ではなくて、現実の中に神の権威と力が現れることを求めたのです。ならば主イエスを起こさなくてはなりません。おぼれそうなのですから。彼らは主イエスを起こして言いました。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。

 すると主イエスはにわかに起き上がり、あのカファルナウムの会堂の時のように、「黙れ。静まれ」と命じられました。そして話は「すると、風はやみ、すっかり凪になった」(39節)と続きます。奇跡を伝えたいだけならば、話はこれで終わりでしょう。しかし、大事なのはその後です。「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか』」(40節)。
 「なぜ怖がるのか」と主は問われます。それは「怖がる必要はないではないか」ということです。風がやんで凪ぎになったから、怖がる必要がないのではない。まだ突風が吹いている時でも、波をかぶって舟が沈みそうになっているその時でも、本当は怖がる必要などなかったということなのです。本当に目を向けるべきところに目を向けていたならば!
 そうです。彼らが必死で自分たちの力で対処しようとしていた時に、同じ舟の中に主イエスはおられたのです。「神の話は神の話。現実は現実」と思っていた時に、実はそこに主イエスはおられたのです。そこで主イエスは安らかに眠っておられたのです。何もなさらなかったのです。皆さん、神の権威や力は、ただ奇跡の類によってのみ現されるのではないのです。そうではなく、主イエスは眠っていることによって、何もなさらないことによって、奇跡を行う以上にはっきりと、神の圧倒的な権威と力を現しておられたのです。そして、彼らに必要だったのは、ただ信じることだけだったのです。主は言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。

 さて、最初の話に戻ります。そもそも、これらのことは「向こう岸へ渡ろう」という主の言葉から始まりました。主が指さしていたのは異邦人の地でした。そこには出会いたくない、関わりたくない人々がいる。しかし、主は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」。
 教会の歴史は、この「向こう岸へ渡ろう」という主イエスの言葉によって導かれてきた歴史でした。主イエスはユダヤ人でした。十二弟子もユダヤ人でした。当初は教会にはユダヤ人しかいなかったのです。そこに異邦人が加わって来るようになったのは、ある時から異邦人にも福音を伝えるようになったからです。
 もともとユダヤ人は、異邦人とは一緒に食事はしませんでした。異邦人が加われば、「異邦人との食事」という全く未知の要素が入ってきます。当然、まったく馴染みのない習慣やものの考え方も入ってきます。感じ方も違う人たちと、共にいることになる。当然、教会の雰囲気も変わってくるでしょう。ユダヤ人が自分たちにとって居心地のよい教会を望むなら、絶対に異邦人に伝道などしない方がよいのです。しかし、主イエスは言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。そして、教会は向こう岸へと渡ったのです。
 私たちもまた、安全なところ、自分たちの慣れ親しんだところ、今まで慣れ親しんだあり方に留まりたいと思うものです。前に踏み出したくない。舟は出したくない。ゲラサ人とは関わりたくない。異質なものとは関わりたくない。しかし、主イエスは先へと、向こう岸へと行こうとしておられる。自分一人ではなく、私たちと一緒に行くことを望まれるのです。ですから私たちにも言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。
 そこでこそ、あの弟子たちが舟の中において身をもって学んだことを、私たちもまた知っておく必要があるのでしょう。舟を出せばいろいろなことは起こってきます。嵐に遭うかもしれません。舟は沈みそうになるかもしれません。しかし、その時こそ、キリストが共におられることに目を向けなくてはならないのです。そして、求められているのは「信仰」であることを思い起こさなくてはならないのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と主は言われます。そこでこそ、「主よ、私たちは信じます。私たちは、あなたと同じ舟の中にいるのですから」。そのように言える者でありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を共にすることができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは私たちと共にあって、「向こう岸へ渡ろう」と促されます。それは教会の歩みにおいて、キリスト者の生き方において、私たちにも呼びかけられる促しです。どうか、主イエスを信じて、主にゆだねて、前進していくものとならしてください。南柏教会は先週の主の日に今年の定期総会を行い、あなたから福音宣教のヴィジョンを示されました。さまざまな波風が私たちを襲うことがあるかもしれませんが、主の御守りと御導きを信じて、あなたの託してくださった福音宣教の使命に喜ばしく仕えさせてください。群れの中には、病床にある者、高齢のゆえに労苦している者、人生の試練に立たされている者たちがおります。どうか一人一人と共にいてくださり、あなたの励ましと平安を与えてください。私たちの世界では不条理な戦争が各地で起こっています。そこで暮らす人々の苦しみや悲しみは計り知れません。どうか、そのような戦争が一日も早く収束に向かい、平和な日常生活を取り戻すことができますように。国内にあっては、能登半島地震の被災者の方々が、この寒さが一番厳しい時に、避難生活を強いられています。どうか、お一人お一人の健康を支えてくださり、この試練の時を無事に乗り越えさせてください。これらの拙き切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。