すこやかに家に帰る者とされ

マルコによる福音書5章1~20節 2024年2月11日(日)礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

今日の箇所は墓場を住みかとした人の物語です。人はだれでも、いつか墓に入る時が来ます。しかしそれは、できるだけ先のことであってほしいし、生きている限りはそれを忘れていたいものです。ところがこの人は、墓場以外には安心して住むことができないかのように、そこに籠っていました。親しい者たちが自分たちのところに留まらせようと、足枷(あしかせ)や鎖でつなぎとめておいても、檻(おり)から抜け出そうとする野獣のように、鎖を引きちぎり足枷を砕いて、故郷に帰るように墓場へと走り去っていくのでした。

 家族や友人のもとよりも墓の方を選び、生きた人間よりも死人と一緒に暮らすことを願うのは、異常な生活です。通常は人間は死人を恐れます。しかしこの人にとっては、死人よりも生きた人間の方がもっと恐ろしかったのではないでしょうか。死人は呼んでも答えない淋しい相手かも知れませんが、そのかわり、向こうからは何もしないで、他人を静かにそっとしておいてくれます。

しかし、生きた人間は、他人をいじめたり、利用したり、他人の不幸をあざ笑ったりします。生きた人間の世界には、神経の敏感な人間には耐えられないような弱肉強食の生存競争が続いています。墓場に逃げ込むこの人は、個人的にか社会的にか、とにかく生きた人間との交渉の中で傷つけられ踏みにじられ、その傷の痛さのあまり、正常な人間関係に入ることができなくなった不幸な人間であったように思われます。

 しかし人里離れた墓場も、この人にとっては本当の憩いの場ではありませんでした。「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」(5:5)。加害者は外だけでなく、内にもいたのです。彼の内にはレギオンと名乗る悪霊が住んでいました(5:9)。レギオンというのはローマの軍隊用語で、約六千人の兵士から編成された軍団(マタ26:53参照)のことです。

ですからここでは、レギオンは悪霊の大群を表しています。無敵を誇るローマ軍団が地中海世界を制圧していたように、この人の内には狂暴な悪魔的な力が吹き荒れていたのです。ローマ軍の占領下では、人々は自分の土地でも自分の思いのままに用いることはできませんでした。それと同様に、この人は自分を自分でコントロールすることができず、心ならずも、暗い闇の力に引きずられていたのです。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」(ローマ7:18)。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。あのパウロの叫びがこの人の口からも出てくるような気がします。墓場や山で絹を裂くような鋭い叫びをあげて、我と我が身を傷つけているこの人は、制御がきかずに暴走する汽車の中で、運転手が悲鳴をあげ髪をかきむしっている状態のように思われます。

 闇の力に振り回され、自滅の道を転げ落ちていくこの人は、私たちには縁のない異常者でしょうか。私たちも欲望や衝動にかられて暴走します。政治的権力や経済的実力を持った人が、実は政治の駆け引き、経済の自己拡張的な運動に突き動かされ、真の国益や社会の福祉を損なう過ちを犯します。イデオロギーに踊らされて人間を殺します。ドストエフスキーの『悪霊(あくりょう)』という作品は、ある秘密結社で同志が脱退を申し出たのに対し、彼らが官憲に密告するのを恐れて惨殺したという、ネチャーエフ事件を素材として書かれたと言われています。しかしロシアだけでなく日本にも、そのような悪霊が現代の姿を見せたことは、私たちの記憶にまだ生々しいところです。私たちを非人間化しようとする闇の力は、どこでも私たちに対して攻撃を仕掛けてきます。

 しかし、レギオンがどんなに猛威を振るおうとも、彼らは人間を支配する権利をもっているわけではありません。神は人間が神以外のものの力に支配されることを決して許されません。神は人間をねたむほどに愛されます(ヤコ4:5)。ですから、主イエスが神の子としてこの人の前に立たれたとき、主はレギオンに対して、「汚れた霊、この人から出て行け」(5:8)と宣告し、彼らの城にしているこの男から出てゆき、その城を明け渡すように迫られたのです。

 ここで奇妙な豚の溺死事件が記されています。ある註解書によると、主イエスがあの人に近づかれたとき、彼は主イエスの人格的な威力に圧倒され、聖なる力に打ちのめされた。自分の不健康な生活が砕かれるのを感じ、恐れおののき、断末魔の叫びのような悲鳴をあげて、豚の群れに逃げ込んだ。豚は驚いて、群れ全体が走り出し、断崖から湖に雪崩を打って落ちて行ったのだというのです。一人の人間が狂気から正気に戻るために、イエス・キリストから物凄い力がこの人に注がれたことが示されているように思われます。

豚二千匹はこの地方の人々にとっては大変な財産です。後で、人々はその損失に驚いて、主イエスにこの地方から出て行ってもらいたいと、願っています。しかし主イエスは、一人の人間を救うために二千匹の豚を犠牲にすることを惜しまれませんでした。

 私たちはしばしば、豚を惜しんで人間を犠牲にします。『苦海浄土』を書いた作家石牟礼道子(いしむれみちこ)さんが、水俣病患者に対する補償のいきさつを記録して、人間の命がどんなに安価に扱われているかを鋭く指摘しています。

 「水俣病患者互助会五十九世帯には、死者に対する弔慰金三十二万円、患者成人年間十万円、未成年者三万円を発病時にさかのぼって支払い、『過去の水俣工場の排水が、水俣病に関係があったことがわかっても、いっさいの追加補償要求はしない』という契約をとりかわした。

 おとなのいのち十万円 こどものいのち三万円 死者のいのちは三十万円 と、わたしはそれから念仏にかえてとなえつづける。」(『苦海浄土』)

このような人間のいのちが安く値踏みされているのに対して、主イエスは、一人の人間が自分を取り戻すためには、豚二千匹を犠牲にすることをも、借しまれませんでした。そして、究極的には御自分の命さえ犠牲にされる、十字架の道を歩まれたのです。神の子が捨て身で人間を救おうとされる、その恵みの迫力のすさまじさに、さしものレギオンも敗走せざるを得なかったのです。

 やがて「レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって」(5:15)主イエスの足もとにすわりました。「正気になる」という言葉は、「酒に酔わない」「素面(しらふ)でいる」という意味です。衝動的な、ものにつかれた姿とは反対の、静かな落ち着いた様子です。私たちは荒波にもまれるような逆境の中では緊張と不安にふるえ、それから逃れようとして、一時の快楽に熱狂的に興奮したり、憑かれたような生活に流されます。しかし、主イエスが共にいてくださる時、恐れから解放され、落ち着いた生活を取り戻すのです。

 今までレギオンに、大勢の霊に取りつかれていた人が「正気になって」、キリストのそばに座っていたのでした。つまり彼は、おるべき場所に今、身を置いているということを示しています。おるべき所に身を置いた時に、正気なのです。癒されているのです。今日の説教の冒頭で、いつか死を迎えなくてはならない私たちのことに言及しました。人が死を克服するなどということは、困難なことであります。しかし、私たちが死というものを克服して生きられる道があるとするならば、それは私たちが神に前に自分自身を置く時です。神の前に自分自身が立って、神との交わりの中に自分の身を置く時に、私たちは初めて死というものを超えて生きることができる。神との出会いの中で、人は死に脅かされないでいのちというものを経験することが許されるのです。

 そして、人が自分自身を発見するのも、神の前に自分の身を置く時でありましょう。神に見出されている自分自身を知った時に、人は自分になることができます。自分が自分であることを喜ぶことが、初めてできるのです。「ああ、ここに自分がいる。自分という人間がここにいるのだ」ということを、本当に確信できるのは、私たちが神の前に立った時です。イエス・キリストの癒しというのは、そういう意味で、私たちを神に前に引き出し、連れ戻すことなのです。

 このようにして、主イエスによって人間性を回復したこの人は、この地を去ろうとされる主に、どこまでも従うことを願いました。しかし主はそれを許されないで、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(5:9)と命じられました。彼にとって主に従う道は、家族のもとに、故郷にとどまることでありました。その土地は、主イエスの恵みを与えられても、心を開こうとしないで、主に出て行っていただきたいと、心を閉ざす不信仰な地でありました(5:17)。ユダヤから見ると、ヨルダン川の向こうの、ユダヤ人にとっては汚れた獣である豚を飼う土地でありました。この地に主イエスは、彼を一人残して去っていかれたのであります。

 しかしそれは、主が彼を福音宣教の最前線に派遣されたことでありました。そこは福音を聞いたことのない、伝道の未開地であり、彼は開拓伝道のパイオニアとして遣わされたのです。それゆえ彼は、自分の恥かしい前歴を知っているこの土地に踏みとどまり、そこで自分に与えられた主の恵みを証しなければなりませんでした。私たちも、逃げ出したいと思う場所に敢えて踏みとどまり、主の御力をいただいて生き抜くことが命じられています。使徒パウロも急速な生活の変化を期待して浮足立ち、生活が落ち着かない人々に対して「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。……おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」(Iコリ7:17、20)と命じています。性急に身軽になろうとしないで、家族の中に、仕事の中に帰っていき、人々と連帯しながら、自分たちを導く主を証していきたいものであります。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と対面で、配信で、共に礼拝に与ることができましたことを感謝いたします。今日は主イエスによって悪霊から解放された人の記事を通して、あなたの御心を示されました。悪霊に取りつかれていた人は、私たち人間の姿でもあります。どうか、私たちを罪から贖うために、御子を遣わされ、十字架に付けられた愛によって、私たちが今や罪の縄目から解き放たれていることを、覚えさせてください。そして、あなたの御前に連れ戻していただいた私たちが、大いなる落ち着きと死をも乗り越えていく平安の中に守られていることを覚えさせてください。今も世界では、不条理としか言えない戦争が、各地で続いています。貴い命が奪われ、生活が破壊されています。どうか、為政者たちの頑なな心を砕き、この戦争を一日も早く収束に向かわせてください。能登半島地震の被災者の方々のことを覚えます。被災地にあって必死に生活を再建しようとしている方々を支え励ましていてください。この切なるお祈りを、イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。