愛の完成

ヨハネによる福音書21章15~19節 2024年4月28日(日)主日礼拝

                                             牧師 藤田浩喜

教会で行う結婚式では、結婚するふたりに次のように約束をしてもらいます。

「あなたはいま、○○さんと結婚することを神の御旨と信じ、今から後、さいわいな時も災いに会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、たがいに愛し、敬い、仕えて、ともに生涯を送ることを約束しますか。」

牧師が新郎と新婦にそのように尋ね、「はい、そう信じて約束します」と答えてもらうのです。ちょっと想像してほしいのですが、あなたがそう答えた時、牧師があなたに向かって、「本当ですか」と問い返したらどうなると思いますか。そしてあなたが「本当です」と重ねて答えた後で、さらにもう一度、「本当に本当ですか」と牧師が聞き直したらどうなるでしょうか。

 ちょうどそれと似たようなことが、今日お読みいただいたヨハネによる福音書の中で、主イエスとペトロとの間に起こったと言っていいでしょう。21章15~17節からにかけて、主イエスがペトロに向かって三度、「あなたはわたしを愛しているか」とお尋ねになり、そのたびにペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたという場面が伝えられています。

 三度目に問われた時、「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」とあります。「悲しくなった」とは、情けなくなったということでもありましょう。自分の言うことを信じてもらえないのかという思いでしょうか。

 それと同時に、あるいはここで、主イエスに問われ、主イエスに答えている間に、ペトロはかつて自分が主イエスに語った言葉、そして自分のとった行動を思い出したかもしれません。それは主イエスが十字架につけられる前の晩のこと、最後の食事を弟子たちと共にとっていた時のことです。主イエスはペトロに向かって、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われました。

 その場面にこう記されています。「ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』」(13章37~38節)事実は、主イエスの預言通りに進んだということを聖書は証言しています。

 「主イエスを知らない」と言ったのは三度。「わたしを愛しているか」と問われたのも三度。「ペトロは……悲しくなった」という文章の背後には、それに気づいたペトロの身のすくむような思いが含まれていたのかもしれません。「この方は覚えている。」それはあるいは、自分が今主イエスに「裁かれている」という思い、主イエスに「試されている」という思いだったかもしれません。

 だからこそと言うのか、あるいはまた、それにもかかわらずと言うべきか、ペトロの三度目の答えは、それまでの答えにはなかった、こういう言葉から始まっています。「主よ、あなたは何もかもご存じです。」(21:17)そして、この言葉に、「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と続くのです。

 私たちは人生の節目節目に大切なことを約束する場合があります。結婚もそうですし、キリスト者となることにおいてもそうです。しかし、現実には、その日その時には真剣な思いとあふれるような誠実さをもってなされた約束が、いつまでも変わることなく揺らぐことなく保ちつづけられているかといえば、そういうわけでもありません。

 人生そのものに波があり、山も谷もあるように、さまざまな現実の中でかつて自分の約束した言葉がその力を失い、約束した内容の重さが見失われてしまうような時が必ず何度か訪れます。ただ惰性で夫婦として生活しているように思われる時、ただ惰性で教会に通っているように思われる時が、誰にでもあるのではないでしょうか。また、この人生を生きることの意味が見失われたように思われる時が、誰にでもあるのではないでしょうか。そうした現実があることを認めようとしないのは愚かなことです。

 大事なことは、そういう現実に直面した時に自分の人生そのものをきちんと見つめることができるかどうかということであり、信仰者としての原点に立ち帰り、あるいは結婚の原点に立ち帰って、自分自身を見つめることができるかどうかという点にかかっています。

 信仰であれ、家庭であれ、そして人生であれ、その真価が問われ、またその豊かさを発見するのは、むしろそうした行き詰まりや挫折に直面した時、それにどう向き合ったかということにかかっている場合が多いように思います。そして、そうした時にこそ、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と答えた(答えざるを得なかった)ペトロの言葉を、私たちもまた、本当に痛切な思いをもって想起すべきではないかと思うのです。

 三度、主イエスのことを知らないといった「裏切り」は軽々しい出来事ではありません。三度、ペトロに投げかけられた問いもまた軽々しいことがらではありません。しかし、「三度の裏切り」と「三度の答え」と、思えばそういうきわどい難所において、私たちの信仰も家庭も人生も、鍛えられ、深められ、真実なものになっていくのではないでしょうか。そういったぎりぎりの難所にあって、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と心の底から告白し、すべてを主におまかせし、主のもとに立ち帰るということこそ、キリスト者の信仰生活の要であると思うのです。

 すべての人間はイエス・キリストの裁きのもとに置かれています。その裁きとは、人間を滅びに至らせるものではなく、逆に古き姿を裁くことによって、その人を新しい命へ生かそうとする裁きです。イエス・キリストは人間を新たなものに造りかえてくださる方であり、また人間に新しい仕事を示される方であります。

 「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と告白するペトロに対し、主イエスがおっしゃった言葉はこうでした。「わたしの羊を飼いなさい。」(21:17)三度とも、主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と命じられました。もともと漁師であった男に向かって、「羊飼いになれ、商売替えをせよ」と命じておられるのです。

 主イエスご自身が、ペトロの新しい仕事を決めるのです。ペトロは主イエスが命じられた仕事に従わなければなりません。漁師の仕事は「魚を取ること」であり、「取る」ということにポイントがあります。どんなに大漁であろうと、そこで「取られた魚」はまもなく死んでしまいます。羊飼いの仕事は「羊を飼うこと」であり、養い、育て、生かすことです。羊飼いは羊と共に生きるのです。

 「わたしの羊を飼いなさい」という言葉につづけて、さらに主イエスはペトロにこうおっしやいました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(21:18)。

 この言葉はペトロが後に十字架につけられて死ぬことの預言であったと言われます。「両手を伸ばして」とは、十字架に釘づけられるために「横に手を伸ばして」の意味であろうというのです。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。」

 ペトロは自分で自分の人生を選んで生きてきた人間です。選ばれて主イエスの弟子になったとはいえ、しばしば自分の判断を優先し、主イエスがどうおっしゃるかということよりも、自分がどうしたいか、自分の思いにこだわってきた人間です。それと同時に、一時的には熱して「あなたのためなら命を捨てます」と大見得を切りながら、すぐその後で我が身かわいさのあまり逃げ出すような人間でもあります。「自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた」ような、そういう「出来の悪い羊」、「わがままな羊」、「熱しやすく冷めやすい羊」を抱えながら、羊飼いである主イエスは我が身を捨てて羊を守ってくださいました。

 ここでは、その「羊」であったペトロ自身が、主イエスのような「羊飼い」になることを命じられているのです。

 ペトロがそのような「羊飼い」にふさわしい才能の持ち主だったわけではありません。しかし、ペトロには、「羊飼い」になることによって、彼自身が学び知らなければならないことがあったのです。自分が「羊」だった時に味わったイエス・キリストの御心を、及ばずながらも自ら「羊飼い」として働くことによってペトロは思いはからなければならないのです。

 俗に「子をもって知る親の恩」といいますが、「羊飼い」になってみて、初めて分かる「キリストの心」があるのではないでしょうか。このように「羊」であることと「羊飼い」であること。それはキリスト者として生きる上で私たちが深く味わい知るべきふたつの面であり、味わい知れば知るほどにいよいよ自分の無力さを思い知らされます。それと共に、いよいよ主の恵みに感謝を新たにする機会となり、そしていよいよ真剣に「主よ、あなたは何もかもご存じです」と告白し、主の赦しと支えを祈り求めながら歩みつづけていくことになる体験であると思います。

 私たちは「主の羊」として養われつつ、「主の羊を養う者」として、すなわち、互いに互いを配慮し合い、支え合い、導き合って生きていかなければなりません。

 ペトロだけが特別だったのではありません。私たちひとりひとりが主イエスの前では「主の羊」であり、大切な掛け替えのない人間です。私たちが心しなければならないことは、主イエスの前で自分がそれほどまでに大切な人間として取り扱われているという事実であり、同時に自分の隣りに座っている人もまた主イエスにとって掛け替えのない特別な人間であり、「主の羊」なのだという事実です。

 「主の羊」である私が同じく「主の羊」である隣人と共に生きるということ、そしてお互いに「主の羊を飼う者」として、隣人に対して責任を担い合うということ。それがペトロに告げられた命令の内容であり、私たちへの主の命令であるとは言えないでしょうか。

 このように、お互いを生かし合い、お互いに責任を負うという隣人愛のゆえに、キリスト者の生き方はただ自分の好き勝手に「行きたいところへ行く」というものではなく、主イエスのゆえに「行きたくないところへも行く」という課題も含まれているということを、わきまえておかなければなりません。

 賛美歌の一節にこうあります。

 「主よ、飲むべき わがさかずき、えらびとりて さずけたまえ。

  よろこびも かなしみをも、みたしたもう ままにぞ受けん」

                        (『讃美歌』285番3節)

 私たちのことをもっともよくご存じの主が、私たちの歩みも指し示してくださいます。この主の指し示しをまず第一に祈り求め、その示しに応じる備えをつねに整えている者でありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。復活の主がペトロに3度語られた「愛の命令」を今日は学びました。この3度の愛の命令の中に、失敗し、自ら絶望していた人間を立ち上がらせ、新しい使命に向かわせる主の深い愛を示されました。ペテロに与えられた愛の命令は、私たち一人一人にも与えられています。どうか、この主の御言葉を胸にこれからの人生を歩み続ける者としてください。このひと言の感謝と祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。