行き悩む者と共に歩む主

マルコによる福音書6章45~56節 2024年6月23日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 旧約において最も有名な出来事は、皆さんもご存じの出エジプトの出来事です。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民に、エジプト軍が迫ってきています。前は海です。イスラエルの民は絶体絶命のピンチです。この時イスラエルの民はモーセにこう言うのです。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。いったい、何をするためにエジプトから導き出したのですか。」この時に至るまで、イスラエルの民は何度も何度も神様の御手による奇跡を経験しているのです。蛙の奇跡、あぶの奇跡、疫病の奇跡、雹(ひょう)の奇跡等々、そして過越の出来事も経験しているのです。それでも、前は海、後ろはエジプトの軍隊という状況になりますと、ダメなのです。大丈夫などととても言えないのです。神様に向かって、モーセに向かって、文句を言い始めるのです。

 そのような、うろたえ、つぶやくイスラエルの民に対して、モーセはこう告げました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」モーセは、イスラエルの民を叱りつけるように告げるのです。そして、モーセは神様に祈り、神様はモーセが海に向かって手を差し伸べると、海の水を分かれさせて道を造り、イスラエルの民はその海の中に拓かれた道を通って逃げることができたのです。これは本当に大きな、その後何千年にもわたって神の民において語り継がれる大きな出来事でした。

 しかし、イスラエルの民は、この出来事によってどんな時も大丈夫と言える民になったかと申しますと、そうはならなかったのです。食べ物が無くなればエジプトの方がよかったと不平を言い、水が無くなればつぶやくのです。そのたびに神様は、マナを与え、うずらの大群で肉を与え、岩から水を出して、イスラエルの民を養われたのです。神の民が、どんな時でも神様を信頼して大丈夫と言って歩むことができるようになるには、時間もかかるし並大抵のことではないのです。

 私たちもそうなのです。生まれつき信仰深いなどという人は一人もいないのです。神様を信じたといっても、誰でも不安になるし、大丈夫と言いたいけれど言えない時があるのです。しかし神様は、そのような不信仰な私たちを全部承知の上で召し出し、神の子とし、御国への道を歩ませてくださっているのです。神様は、その都度その都度、必要のすべてを備えてくださり、全能の御腕を以て私たちを守り、支え、導いてくださっているのです。

 さて、マルコによる福音書の御言葉を見ましょう。45節に「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」とあります。「それからすぐ」というのは、直前の、男だけで五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で養われたという奇跡が行われたすぐ後で、ということでしょう。主イエスは、弟子たちだけを舟に乗せてガリラヤ湖の向こう岸にあるベトサイダに向かわせ、御自身は群衆を解散させられました。ここで、主イエスと弟子たちは別れたのです。弟子たちは舟の上、主イエスは陸の上です。ところが、弟子たちが乗っている舟が逆風に遭って、少しも前に進まない。弟子たちが舟に乗ったのは夕方だと思われます。それが、夜が明ける頃になっても、つまり12時間、丸半日、夜通し舟を漕いでも、逆風にあおられて、向こう岸に着くことができなかったというのです。その間、主イエスは何をしておられたのでしょうか。46節「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた」とあります。主イエスは山の中で祈っておられたのです。

 マルコによる福音書4章35節以下にも、同じような状況が記されていました。弟子たちと主イエスを乗せた舟が、やはりガリラヤ湖で嵐に遭ったのです。この時、主イエスは風を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と言われました。すると、嵐は静まってしまいました。しかし、今回は弟子たちの乗った舟に主イエスはおられません。そのことを強調するように、47節「舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた」と記されています。弟子たちは湖の真ん中、主イエスは陸の上。携帯電話もヘリコプターもありません。この弟子たちと主イエスの隔たりは絶対的なものでした。しかし、48節には「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」とあります。いったい、主イエスはどのようにして弟子たちを「見た」のでしょうか。夜明け前の暗闇の中だけれど、主イエスは見晴らしの良い山の上にいたので、湖を見渡すことができた。弟子たちの舟が逆風の中で立ち往生しているのが見えた、ということなのでしょうか。そうではないでしょう。主イエスは祈っておられたのです。その祈りの中で、主イエスは弟子たちの状況を見たということではないかと思うのです。弟子たちには主イエスの姿は見えません。しかし、主イエスはいつでもどんな時でも、弟子たちの状況を祈りの中で覚えて、見てくださっているのです。この近さを、聖書は告げているのです。弟子たちには見えない。しかし、主イエスには見えている。私たちもそうなのです。主イエスのことは見えない。しかしそれは、主イエスが私たちから遠いということを意味していないのです。主イエスは、私たち一人一人を、その祈りの中で見ておられるのです。弟子たちが、主イエスに祈っていただいていたように、私たちもまた、主イエスに祈られ、見ていただいているのです。私たちの歩みは、この主イエスの祈りのまなざしの中にあるのです。

 主イエスは、弟子たちの困り果てた状況をただ見ていただけではありませんでした。主イエスは湖の上を歩いて、弟子たちのところに来られたのです。これは、弟子の誰も考えてもいないあり方でした。主イエスは、いつも私たちの思いを超えたあり方で、その御姿を現し、救いの御業を行われます。私たちが、こうなったらよいのにと思うようには、なかなかなりません。しかし、主イエスは、そして神様は、私たちの期待以上の、私たちが考えていなかったあり方で、大丈夫と言えるようにしてくださるのです。出来事を起こしてくださるのです。主イエスは何と湖の上を歩くというあり方で、弟子たちのところに来られたのです。

 しかしこの時、弟子たちは湖上を歩く主イエスを見て、幽霊だと思って、大声で叫んだのです。「ギャー!おばけー!」というような叫びだったかもしれません。暗い湖の上を人が歩いているのを見れば、誰でもそう思うでしょう。そして、主イエスが弟子たちの舟に乗り込まれると、風は静まりました。弟子たちは非常に驚きました。そして聖書は52節で「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と告げるのです。

パンの出来事。これは先週見ましたように、物質保存の法則を超えてしまっているわけで、これは主イエスが、無から全世界を造られた全能の神様の独り子であることを示しているわけです。しかし、弟子たちはそのことを理解していなかったというのです。大変な力を持った方だとは思ったでしょう。これで、食べることは心配しなくてよいと思ったかもしれません。しかし、主イエスがただ一人の神様の御子、まことの神であられるという理解には至らなかったというのです。

 実は、この湖の上を歩いてこられるこの出来事も、主イエスがまことの神であられるということを示しているのです。それは二つのことから言えます。第一に、48節「湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」という所と、50節の主イエスが弟子たちと話された「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という所です。

 どうして、主イエスは湖の上を歩いて近づいてきたのに「そばを通り過ぎようとされた」のでしょうか。通り過ぎて、先に何があるというのでしょう。しかし、これは旧約において、神様が自らの姿を現される時の現し方なのです。二つの例を挙げますと、モーセが神様に栄光を示してくださいと求めた時、神様はモーセを岩の裂け目に入れて、栄光を通り過ぎさせました(出エジプト記33章18~23節)。また、預言者エリヤがバアルの預言者と戦い、王妃イゼベルに命を狙われてホレブの山に逃げた時、エリヤの前を主が通り過ぎて行かれました(列王記上19章11節)。このように、主イエスが弟子たちの前を通り過ぎるというあり方は、主イエスがまことの神であることを示しているのです。

 また、主イエスがここで「わたしだ」と言われているのは、神様が御自身のことを言われる時の言い方なのです。ヨハネによる福音書には、ギリシャ語で「エゴー、エイミ」と言葉が何度も出てきます。これは神様がモーセに御自身の名を告げられた所で言われた言葉、「わたしはあるという者だ」(出エジプト記3章14節)をギリシャ語に置き換えたものなのです。つまり、主イエスはここで、「わたしは神だ。アブラハム、イサク、ヤコブが拝んだ神、イスラエルをエジプトから導き出した神である。だから、安心しなさい。恐れることはない。と言われているのです。天地を造られたまことの神様である主イエスが、共にいてくださる。だから大丈夫なのです。ここに私たちの平安の源があるのです。

 しかし、この時弟子たちが湖の上で逆風にあおられ、にっちもさっちもいかなかったのは、主イエスが舟に強いて乗せたからではないか。弟子たちは主イエスに舟に乗せられなかったら、そもそもこんな目に遭わなくて済んだのではないか。その通りなのです。イスラエルの民もエジプトにいたままだったら、奴隷のままでいたのなら、苦しい出エジプトの旅をする必要はなかったのです。このことは何を意味するでしょうか。それは、神様に召し出されて始まった私たちの信仰の歩みは、決して順風満帆であるわけではないということです。そして、たとえ順風満帆でなくても、それでも私たちは大丈夫なのです。

 それは、個々人の信仰の歩みにおいてもそうですし、昔から舟にたとえられるキリスト教会の歩みにおいても同じです。逆風に吹かれたり、嵐に遭ったりするのです。漕いでも漕いでも、ちっとも前に進まない。もうダメだ。沈んでしまう。そう思うような状況に追い込まれることもあるのです。しかし、大丈夫なのです。天と地を造られた全能の神様が、その全能の御力を以て、私たちを守り、支え、導いてくださるからです。父なる神様の御前にあって、主イエスが私たちのために執りなしの祈りをしてくださっているからです。この主イエスの祈りの中に、私たちの一日一日はあるのです。だから、大丈夫なのです。私たちの抱えている問題や課題は、私たちの願ったような形ではなくても、必ず道が拓かれます。海の中にさえも、道を拓いてくださる神様です。湖の上も歩いて来られる主イエスです。その主イエスが、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と告げておられるのです。だから、私たちは大丈夫なのです。この一週も安んじて、主の備えてくださった道を歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を共にし、あなたの御言葉に養われましたことを感謝いたします。主イエスはまことの神として、「安心しなさい、わたしである」とおっしゃいます。困難のときにこそ、ご自分が私たちと共におられることを示し、励ましてくださいます。そのことを心から信じ、主イエスにすべてをゆだねて、これからもそれぞれの生涯を歩ませてください。このひと言の切なる感謝と願いを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

託された御言葉を語る

ヨナ書3章1~4節  2024年6月9日(日)     主日礼拝説教

牧師 藤田浩喜

 魚の腹の中に三日三晩閉じこめられていたヨナは、神が魚に命じられると陸地へ吐き出されました。彼は、彼の身を襲った一連の出来事の最初の地点に戻ったと、言ってよいでしょう。1章1節の振り出しに戻ったのです。

 そしてここで、最初と同じように、主の言葉がもう一度ヨナに臨みました。主の言葉が臨む、つまり主なる神が再びヨナに向かって、直接的に語りかけられたのです。その神の言葉の内容は後で学びますけれども、要するに最初の命令と同じように、ニネベという大きな都へ行くことを命じる内容になっています。言葉は少し変わっていますが、1章2節の神の言葉と、3章2節の神の言葉とは、内容的には全く一つです。ニネベに行け、それがヨナに対する神の変わらぬ命令でした。

 ニネベに神の言葉を運んで行くのに、なぜヨナでなければならないのでしょうか。いやだと言って逃げるヨナではなくて、彼以外のもっとふさわしい預言者、もっとふさわしい人物を、なぜ神はお選びにならないのでしょうか。私たちがそう考えるだけではなくて、ヨナ自身もそのように考えたと推測することもできます。また、聖書に出てくる人物の中で、神の命令にすぐに応じることができなかった人々を私たちは幾人も知っています。例えば、出エジプトの指導者となるべく主なる神の命令を受けたモーセは、次のように神に訴えています。「ああ主よ、どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」。モーセは、「わたしは言葉が巧みではないのです。他の人を遣わしてください」と神に訴えました。

 偉大な預言者として知られるエレミヤも、主の言葉が初めて臨んだ時、次のように答えています。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」。エレミヤも神のご委託や命令に応えることができないと、最初に応じています。しかしモーセに対しても同じですけれども、エレミヤには再び次のような主の言葉が臨みました。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいる」。こう言われて、エレミヤは神の命令どおり預言者としての働きをせざるを得なくさせられました。彼らは自分に臨んだ主の言葉に従う者となったのです。ヨナも、そのような変化を強いられることになります。誰が、ある務めをなすのにふさわしいかは、人が決めるのではなくて、神がお決めになられる、ということを教えられます。ニネベに行って主なる神の言葉を語る者は、ヨナでなければならない、それは神がお決めになられたことでした。神がお決めになられたことであるならば、そこでは、人間の反抗や抵抗や挫折を超えて、神のご意志が貫かれていくのです。神の側の必然性は変わらないと、言わざるを得ません。箴言16章9節に、「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩備えてくださる」と、記されています。また19章21節には、「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」とも述べられています。このことがヨナにおいて起ころうとしています。

 ヨナに再び臨んだ主なる神の言葉は、先ほど触れましたように、1章2節の言葉と基本的には同じです。異なった点があるとすれば、第一回目の1章では、「彼らの悪はわたしの前に届いている」という言葉があって、それを受けて神の言葉がニネベに宣べ伝えられなければならないと語られていたことです。「もう見過ごしにできないほどに悪がその都に満ちているから、御言葉を携えてそこに行け」。ニネベに派遣される理由、神の動機がそのように記されていました。

 それに対して3章では、そのことは語られていません。3章には「わたしがお前に語る言葉を告げよ」という新しい命令が加えられています。そのように神がヨナに託す言葉のみを語れとの、厳しい制約を課せられている点が、最初の命令と表面的に違っています。この「わたしがお前に語る言葉」と言われている「言葉」という用語は、原語的には旧約聖書においてここだけにしか用いられていない言葉です。それは、宣言、宣告、通告といった内容を持つ用語なのです。つまり対話の言葉というものではない。相手の了解を求めたりするような性格の言葉ではなくて、ある意味では相手が承認しようがしまいが、とにかく一方的に語らなければならない、宣告しなければならない言葉、それが、わたしがお前に語る言葉といわれる「言葉」の性格なのです。

 主イエス・キリストが宣教活動を始められた時の第一声も、そういう性格の言葉でした。「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」。これは対話とか、相手の了解を求めて語る性格の言葉ではありません。神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ。これは罪の指摘の言葉であり、悔い改めを命じる言葉であり、そしてその言葉に従う時に、赦しとしての祝福が約束されていることを宣言する言葉なのです。

 ヨナは、神が語れと命じられた言葉のみを語ればよいのです。彼はニネベに行って、自分が語るべき言葉を工夫し、考え出し、ニネベの人々と対話しながら、何とかして彼の独特の話術、語り方で相手を説得しようとする必要はないということです。彼は、神の言葉を運ぶ器、道具に徹することが求められています。2章の終わりの「救いは、主にこそある」との確信に立って、ただ託された御言葉をそのまま語り告げればよいのです。もちろん心を込めて、相手を思いやりつつということは必要でしょうけれども、もっと大事なことは、神が命じられた言葉を曲げないで、その内容を薄めないで語る、ということです。今日(こんにち)の説教者の務めもそこにあります。ヨナはそのようにしてニネベに向かって新たな出発をいたしました。

 さて、彼が語ったのはどんな言葉であったでしょう。彼が語った言葉は極めて簡潔です。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」。これだけしか記されていません。文字どおり、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」とだけ彼は語ったのか、それとも要約すればこのことにつきる、ということなのか、それははっきりいたしません。

 しかし、それにしても、取り付く島もないほどに、冷たく言い放つような言葉です。まさに、宣告であり、宣言であり、通告です。こういう語り方をしたのはヨナの性格によるのか、それともこれだけしか彼は語ってはいけなかったのか、そういうことで論じられることがあります。ヨナは、割り当てられた言葉を機械的に、無機質に語っているに過ぎない、と考える人もいます。この語り方の中に、彼がニネベに行ったのは心からの服従ではなかった、仕方なく行ったことのしるしがあるのではないか、と考える人もいます。

 一方、ヨナが語った言葉は、ヨナ自身の人柄とか性格から出てくるものではなくて、これこそが神が語れと命じられた宣言的な言葉そのものである、と理解する人もいます。神が命じられた言葉は、この一語に尽きるという理解もできます。しかし重要なことは、その内容とその言葉がもたらした結果の方です。

 この結果については5節以下に記されていますので、次回ご一緒に学ぶことにいたします。今日は、その言葉の内容を考えてみましょう。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」。これは滅びの宣言です。しかも自然現象の中で滅んで行くのではなくて、明らかに神によって滅ぼされるとの通告です。巨大な都ニネベの悪も巨大であった。それゆえに神はあと四十日したらこの都を滅ぼすと告げておられます。

 四十という数字は一つの事柄が満ちることを示す数字として、聖書の中でしばしば出てまいります。モーセがシナイ山に登って、神から十戒を受けた時、彼は四十日四十夜山にいた、と出エジプト記に記されています。イエス・キリストがサタンから誘惑を受けて、荒れ野におられた期間も、四十日と記されています。その他、四十という数字は、一つの事柄が満ちるという意味をもつものとして、聖書の中にしばしば出てくる数字です。

 ニネベの都もあと四十日間だけが残されている、と語られています。この数字には二つの意味があります。一つは、悪に対する神の忍耐に期限があることを示す数字であるということです。異教の地とはいえ、ニネベの都の悪は目を覆うものがあった。神はこれ以上この都の悪を放っておくわけにはいかない、見過ごすわけにはいかない、という宣告がここにあります。このように、四十という数字は、神の忍耐の期限を表わすものとして理解することができる側面があります。

 もう一つの面は、四十日の猶予は、その間に人々が悔い改めれば滅びを免れることができる、という憐れみの期間を意味しているということです。つまり、神の第一の意思、神の最大の御心は、滅ぼすことにあるのではなくて、人々に警告を与え、悔い改めを促し、そして人々を赦すことにあるということです。これを私たちは、四十日の猶予ということの中に見ることができるのです。

 「心を翻してわたしのもとへ帰れ」と神はしばしば呼びかけられました。そのことこそが、神の御心の中心にあるのです。裁きの告知は裏を返せば、その審判から免れよという、救いへの神の激しい招きの言葉です。滅びが宣言される、裁きが告げられるということは、それを避けてわたしのもとに帰って来いという、神の熱い呼びかけを含んでいるのです。ニネベの都に対して四十日の猶予が与えられている、その間に彼らは神のもとに帰らなければなりません。私たちもまた許されている時の間に、神のもとに帰らなければなりません。

 こうして小さなヨナが、巨大な都ニネベに向かって、一回りするのに三日もかかるニネベに向かって、懸命に神の言葉をもって叫んでいます。大きな都ニネベにおける彼の宣教の姿を頭の中に思い描いてみる時に、痛々しさを覚えさせられます。一人で大きな都に向かって、しかも滅びを語らなければならない、痛々しいヨナの姿が浮かんできます。しかしそれがヨナに定められた生き方であるならば、彼はそれを生きていくほかありません。そしてそれを生きて行く先に、神からの祝福が備えられています。私たちにおいても同じです。辛くても与えられた務めを、置かれている場で果たしていく時に、その先に祝福が約束されているのです。また、辛くても、与えられた命を今ある場で生きていく時に、私たちだけが祝福を受けるだけでなく、他の人々の祝福の基として私たちが用いられていくのです。神は、そのように私たちを取り扱われるお方なのです。そのことを忘れてはなりません。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝し、あなたの御言葉を聞くことができましたことを、感謝いたします。神さま、あなたはヨナに宣教の言葉を託されたように、私たちにも宣教の言葉を託してくださっています。それは必ずしも世の人々にとって、耳ざわりのよい言葉ではないかもしれません。しかし、あなたの御言葉が世の人々にまことの命をもたらす言葉であることを信じて、その務めを果たさせてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

神の言葉は生きつづける

マルコによる福音書 6章14~29節 2024年6月2日(日)主日礼拝説教

                                            牧師 藤田浩喜

 今朝与えられております御言葉は、洗礼者ヨハネが少女の踊りの褒美に首をはねられたという、まことに痛ましい出来事が記されております。

 この出来事は、主イエスが人々を悔い改めさせるために12人の弟子たちを村々に二人ずつ遣わされたという記事と、弟子たちがその伝道の旅を終えて主イエスの所に来て報告したという記事との間に挟まれた形で記されております。ちょうどサンドウィッチのようになっているわけです。このようなサンドウィッチ構造のものは、挟まれているものが挟んでいるものをより明確にするために、強調するために、こういう構造にしてあると考えられるのです。この場合ですと、人々に悔い改めを求めるために主イエスによって弟子たちが遣わされたわけです。そのことを更に明確に強調するためにこの記事があるとすれば、それはここに記されている出来事は、悔い改めというものがどんなに難しいことであるか、あるいは悔い改めないとはどういうことなのか、そのことを具体的に示しているということなのでしょう。

 悔い改めるということが、主イエスの福音を信じてその救いに与るためにはどうしても必要なことです。そして、この悔い改めは、どうしても今までの自分が変わるということを意味するわけです。何も変わらないで悔い改めるということはあり得ない。しかし、人は変わりたいと思っても、なかなか変われない。あるいは、変わりたくないという、堅い、石のような心を持っているものなのです。これが砕かれないと、主イエスの福音を受け入れることができないわけです。

 今朝与えられております御言葉は、三つの部分に分けられます。初めは14~16節で、人々は主イエスをどう見ていたのか、そしてヘロデはどう見ていたのかということが記されています。次は17~20節に、ヘロデがヨハネを捕らえた理由が記されています。そして21~29節に、どのようにしてヨハネは首をはねられることになったのかということが記されています。

 順に見てまいりましょう。14節「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った」とあります。主イエスのことが人々の評判になり、遂にヘロデの耳にも入ったというのです。このヘロデというのは、ヘロデ大王の息子の一人でヘロデ・アンティパスという人です。彼は当時ガリラヤとベレアの領主でした。

 人々は主イエスのことを、「洗礼者ヨハネが生き返ったのだ」、「いや、エリヤだ。」「いや、昔の預言者のような預言者だ」と、いろいろ言うわけです。人々は、主イエスがただ者ではないということは分かるのです。ただの人なら、主イエスがなさるような奇跡を行えるはずがないからです。それは正しいわけですが、主イエスが救い主だ、キリストだ、神の子だと言う人は誰もいなかったようです。そういう中で、ヘロデはどう思ったかと言いますと、16節に「ところが、ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った」とあります。ヘロデはヨハネが生き返ったのだと思ったというのです。ここには、ヨハネの首をはねてしまったことへの恐れというものがあると思います。彼は、確信を持ってヨハネの首をはねたのではないのです。成り行き上、そうなってしまったと言ってもよいかもしれません。

 そもそも、どうしてヘロデはヨハネを捕らえて牢に入れたのか。17~18節には「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言ったからである」とあります。このヘロデ・アンティパスは、異母兄弟であるフィリポの妻であったへロディアを妻としたのです。ヨハネはそのことを、律法に違反していると糾弾したのです。これは、十戒の第七戒である、姦淫の罪を犯していることは明らかでしょう。民衆から大変な支持があるヨハネがそのように自分を糾弾するのを、領主であったヘロデは、黙って見ていることはできなかったのです。それで、捕らえて牢に入れたということなのです。

 領主ヘロデに対してこのようなことを大っぴらに言えばどうなるかということを、ヨハネ自身全く予想していなかったわけではないでしょう。しかし、ヨハネは言いました。なぜでしょう。理由ははっきりしています。ヨハネが預言者だったからです。神様の御前に生きる者だったからです。ヨハネにしてみれば、領主であろうと誰であろうと、神様の御前に、御言葉に従って生きなければならないのであって、明らかに神様の御心に反している者を黙っておくことはできない。そういうことだったのだと思います。

 このヨハネに対しての態度が、ヘロデとへロディアとでは随分違うことが19~20節に記されております。「そこで、へロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」妻のへロディアは、ヨハネを殺そうと思っていたのです。一方、ヘロデは、ヨハネを捕らえて牢に入れたといっても、それでもヨハネが正しい人、神様に遣わされた聖なる人であると分かっていたというのです。それ故、「彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」というのです。このヘロデの心をどう理解すればよいのでしょうか。私は、この時の領主ヘロデの心は、「悔い改めに遠くない」、そういう状態ではなかったかと思います。ヘロデはヨハネが語ることが正しいと分かっているのです。そして神様が自分に求めていることが何かということも分かっている。そして、分かるがゆえに、彼は「当惑した」のです。「そんなことを言われても困る。そんなふうには自分は変われない。」と思った。だから当惑したのです。でも、ヨハネの語ることは正しいから、それを退けたり、まして殺したりすることなどできない。それどころか、ヨハネの語ることに喜んで耳を傾けていたのです。

 そして、遂にその日が来ました。21節「ところが、良い機会が訪れた」とあります。ヨハネを殺すのですから少しも「良い」機会ではないのですけれど、それはヘロデの誕生日でした。地位の高い役人や軍人、有力者等々、ガリラヤの政財界の主立った人たちが集められ、宴会が催されたのです。その宴会の席で、へロディアの娘、これはヘロデとの間の子ではなく、前の夫との間の子と考えられています。聖書には名前は出て来ないのですが、その名はサロメと伝えられています。サロメはこの時はまだ少女と言われる年齢だったわけですが、この宴会の場で踊ったというのです。当時の宮廷の常識からすれば、王の娘が人前で、しかも宴会の席で踊るなどということは、全く考えられないことでした。考えられないことだからこそ、大いに盛り上がったのでありましょう。ヘロデは酒の勢いも手伝ったのでしょう。少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と言い、固く誓ったのです。少女は座を外し、母親のへロディアに相談しました。するとへロディアは、「洗礼者ヨハネの首を」と娘に告げたのです。娘はヘロデのところに戻ると、母親に言われたとおり、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願いました。何とも恐ろしい言葉です。へロディアの、ヨハネへの憎しみの深さには恐ろしいものを感じます。人は、自分のしたことが間違っていると指摘されると、ここまでの憎しみを抱くものなのかと思わされます。へロディアにしてみれば、自分のプライドも傷つけられたということでもあったでしょう。しかし、これは多かれ少なかれ、誰でも身に覚えがあることでもありましょう。

 問題は、この時のヘロデの対応です。「何をバカなことを言っているのか」で済ますこともできたと思います。しかし、そうはしなかったのです。26節「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった」とあります。何と愚かなことでしょう。ヘロデは客の手前、この願いを退けなかったというのです。客の手前です。招いた客に何と思われるか。そのことを思うと、この願いを退けたくなかったのです。彼は「ヘロデの口約束は当てにならない」と言われることを恐れたのでしょうか。そうではないと思います。「ヘロデはヨハネを恐れている」。そう思われたくなかったということなのではないでしょうか。自分は領主だ。何も恐れるものはないのだ。自分がこのガリラヤで一番偉いし力もある。そのことを示したかったということなのでしょう。

 まことに愚かなことです。先ほど、ヘロデは悔い改めに遠くないと申しました。確かに遠くなかったと思います。しかし、悔い改めるためには、一歩を踏み出さなければならない。その一歩を、ヘロデは踏み出せなかったのです。そして、そうしている内に、へロディアの策略によって、逆の一歩、神様の御心を退けるという一歩を踏み出してしまったのです。ここで注目すべきは、「客の手前」という言葉です。ヘロデは人の目、人の評価というもので自分の一歩を決めてしまったということなのです。一方、ヨハネは神様の御前に立ち続けました。人の目を気にして人の前で生きるのか、神様の目を考えて神様の御前に生きるのか。悔い改めるとは、この「誰の前に生きるのか」という所において、決定的な転換を求めるものなのです。私たちは誰の前に生きるのか。人の前か、神の前か。それが問われるのです。

 もちろん、私たちはこの世に生きているのですから、人の目など全く気にしないということはあり得ません。神の御前に生きているのだからと、傍若無人に生きてもよいということでもありません。しかし、人の目を気にして神様の御心に反することも行ってしまうということが、悔い改めた者の歩みでないことは明らかでありましょう。悔い改めるとは、何よりも神様の御前に生きる者となるということなのです。ヘロデは、その一歩を踏み出せなかったということなのです。そして、それゆえに主イエスの話を聞いて「ヨハネが生き返った」のだと思い、恐れ、怯えなければならなかったのです。

 さて、洗礼者ヨハネは、王の娘の踊りの褒美という、まことに愚かな理由で殺されることになってしまいました。何とも痛ましいことであります。しかしこのことは、主イエス・キリストの十字架を指し示しているのです。主イエスもまた、祭司長や律法学者たちの妬みのために十字架につけられたのです。ピラトは主イエスを十字架に架けないで済むようにしたいと思いましたが、「十字架につけよ」と叫ぶ人々の声に押されて、ヘロデと同じように、まさに人々の手前、十字架につけることを決めたのでした。ヨハネの死も、主イエスの死も、人間の罪のゆえでした。神様は、ヨハネの死も、主イエスの死も、お止めにはなりませんでした。神様は何もしない、そのようにも見えます。しかし、そうなのでしょうか。愚かな人間の、罪にまみれた、憎しみや妬みの結果もたらされた死です。しかし、そのヨハネの死は主イエス・キリストの十字架の死と一つにされ、永遠の命へとつながっているのです。私たちは、天の御国において、きっと洗礼者ヨハネとも相見えることでしょう。

 神様の御前に生きた者の命が、無駄に失われるなどということはあり得ないのです。神様の御前に生きる私たちにも、その命が備えられています。その希望を確かにしてくださるために、神様は聖餐を備えてくださったのです。ただ今から私たちは聖餐に与ります。この聖餐は、悔い改めて神様の御前に生きる者とされた者が、やがて天において主イエスと共に与る食卓を指し示しています。今、共々に聖餐に与り、御国に向かって神様の御前に生きる者としての歩みを、いよいよ確かにしていただきたいと心から願うのであります。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を心から褒め称えます。今日も御言葉をお与えくださり、あなたの御心を示してくださったことを感謝いたします。どうかヘロデのように人の目を気にするのではなく、神様の御前に生きる者として、私たちを導き支えていてください。あなたに望みを置きつつ、それぞれの人生を生きる者とさせてください。今週も教会につながる兄弟姉妹の歩みをお守りくださり、折にかなった導きと励ましをお与えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

遣わされた者として生きる

マルコによる福音書 6章6節b~13節 2024年5月26日(日)主日礼拝説教

                                             牧師 藤田浩喜

 主イエスの弟子たちは、いつも主イエスと一緒におりました。主イエスが村から村へと神の国の福音を宣べ伝えて旅をすれば、弟子たちも一緒に旅をしました。主イエスが奇跡をすれば、弟子たちはそれをいつも近くで見ておりました。主イエスがお語りなる言葉も側でいつも聞いておりました。しかし、今朝与えられた御言葉において、主イエスは12人の弟子たちを遣わされました。弟子たちは、初めて主イエスを離れて、自分たちだけで神の国の福音を伝えるために出かけたのです。ずっとではありません。この時だけです。これが終われば、また弟子たちは主イエスと旅を続けたのです。ですから、後に復活された主イエスは、弟子たちを全世界に福音を宣べ伝えさせるために遣わされますが、これはその時に向けての予行演習のようなものではなかったかと思います。主イエスが十字架にお架かりになり、三日目に復活されて、弟子たちを全世界に遣わされる。その本番に向けて、遣わすに当たっての具体的な指示を与え、その通り行ったら上手くいったという成功体験を弟子たちにさせておくためではなかったかと思います。その意味では、ここに記されていることは、現在に至るまで、主イエスに遣わされた者として生きる伝道者、主イエスに遣わされた者として生きる教会、キリスト者のあり様を示している、そう言ってよいと思います。私たちは、主イエスに遣わされた者なのです。

 まずここで目にとまりますのは、弟子たちが二人ずつ組にして遣わされたということです。一人ではなかったのです。これは何を意味しているでしょうか。すぐに考えつくのは、困ったり行き詰まったりした時でも、二人ならば、励まし合って、支え合って、事に当たることができるということでしょう。一人というのは大変弱いのです。誘惑にも負けやすいですし、独りよがりにもなりやすいのです。ここでは二人ずつとなっていますが、一人ではないということが大切なのだと思います。

 また、この二人ということには、こういう意味もあったと思います。伝道者が伝えるのは神様の愛ですから、自分自身がそのような愛の交わりに身を置いていなければ、語る言葉に力もリアリティーもなくなってしまうということです。その意味で、伝道者の交わり、同労者の交わりというものはとても大切で、また麗しいものだと思っています。神様の愛が現れ出る交わりだからです。

 しかし、このように申しますと、伝道者があるいは教会の奉仕者が立ち続けることができるのは、そのような交わりによって支えられることよりも、神様の召命に対する確信によるのではないか、と思われる方もおられるかもしれません。確かに、この召命という事実が何よりも大切なのです。ここで主イエスは「十二人を呼び寄せ」、そして遣わされたのです。主イエスに召し出された者として遣わされる。この事実が何より大切です。しかし、その召命に立ち続けるためには、同労者との交わりが必要なのです。主イエスは、召して遣わすだけではなくて、その召しに立ち続けることができるように、二人ずつ組にされたのです。

 教会は、この主イエスの愛と知恵に満ちた配慮を、大切なこととして受け止めてきました。復活された主イエスによって全世界に遣わされた弟子たちの様子が、使徒言行録に記されております。そこで私たちは大伝道者パウロの伝道の歩みを見ることができます。彼は何度も伝道旅行をしておりますが、あの大伝道者パウロは、いつも一人では伝道に行っていないのです。彼はバルナバ、シラス、テモテといった同労者といつも一緒だったのです。ここには、主イエスが二人ずつ組にして使徒たちを遣わされたということが生かされているのだと思います。

 8~9節には具体的な命令が記されています。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」ここには常識では考えられないことが記されております。パンも袋も金も持っていくなと言うのです。これと同じ記事がマタイによる福音書10章とルカによる福音書9章に記されておりますが、そこでは、杖も下着も二枚は持っていくなと言われています。ここでは、杖は持っていってよい、履物もよいと言われています。ここで、何は持っていってよい、何は悪いと、中学校の修学旅行の持ち物リストではないのですから、そんなことを詮索してもあまり意味はないだろうと思います。また、ユダヤ教徒の町ではどこでも、旅人のため食べ物と衣服の世話をする人がいたと言われます。

 大切なこと、主イエスがここで言われていることは、通常の旅においては持っていくのが当たり前、それが無ければ旅などできないと思うようなものを「持っていくな」と言われたということです。その理由ははっきりしています。弟子たちは神様の愛を伝えに行くのです。神の国は主イエスと共にもう来ている。神様は今、ここで生きて働いてくださっている。だから悔い改めよ。そう宣べ伝えに行くのです。その宣べ伝える事柄を、身を以て証ししなくてどうするかということなのです。神様を信頼しなさいと言っておいて、自分はお金を頼り、二、三日の食糧を確保しておこうというのでは、言っていることとしていることが違います。神様がすべてを守ってくださるのだから、そのことを信じ、神様にすべてを委ねて行きなさい。その神様への信頼がなくて、どうして神の国の福音を宣べ伝えることができますか。「神の国は来ているのです。神様の御支配を信じなさい。それを身を以て示しなさい。」そう主イエスは、この何も持っていくなということによって、告げられたのでありましょう。この生ける神様への信頼、これこそキリスト者になくてはならないものなのです。世の人々がキリスト者に、キリスト教会に目を見張るのは、この生ける神様への信頼と、その信頼に応えてくださる神様の御業なのです。これが無ければ、キリスト教会は語るべき言葉がありません。キリスト教会というものは、これだけ努力しました、その結果こうなりました、そういう世界に生きているのではありません。ただ神様の憐れみ、生ける神様の御業、神様の奇跡を証しする者として立っているのです。

 そして11節です。「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」何とも冷たい言葉のように受け取られかねない言葉です。しかし、これも実に主イエスの愛と配慮に満ちた言葉なのです。「足の裏の埃を払い落とす」という行為は、私はもう知らない、あなたとは関係ない、そういうことを示す行為です。ですから、何とも主イエスらしくないと感じてしまいますが、これは遣わされる弟子たちに対しての、主イエスの慰めの言葉なのです。こういうことです。主イエスの福音を携えて弟子たちは村々町々に行くわけです。しかし、そのすべての所で歓迎されるとは限らないのです。この直前のところで、主イエスが故郷のナザレでは歓迎されなかったということが記されています。主イエスでさえそうなのです。まして、弟子たちが、行った村全てにおいて歓迎されたと考える方が不自然でしょう。弟子たちも、村人に受け入れてもらえず、冷たくあしらわれるということがあるだろう。そのような場合、弟子たちはどう思うか。自分に力がなかったからだ。自分は伝道者としてふさわしくないのではないか。自分にはあれができない、これができない。そのように自分を責めるということが起きるのです。そのような思いを抱いたことが一度もないという伝道者はいません。この時主イエスに遣わされた弟子たちもそうだったと思います。主イエスはそのことをあらかじめ知っておられ、この言葉を告げられたのでしょう。つまり、「あなたがたを受け入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら」、それはそこに住む人々の問題であって、あなたがたの責任ではないのだ。それはそこに住む人々が自分で決めたことであって、その人たちの責任なのだ。そのように、前もって上手くいかなかった場合に備えて、お語りになったということなのでありましょう。

 もちろん、この主イエスの言葉を逆手に取って、私の言うことを受け入れないのはあなたがたの責任だ、私の責任ではない。そんなふうに伝道者が開き直るのは問題でしょう。自らの欠けをきちんと認めた上で、それでも、その人が福音に耳を、心を開くかどうかは神様がお決めになることであり、聞いた本人が決めることなのです。それは神様の領域であって、私たちの範囲を超えていることなのです。問題は、主イエスに遣わされた者として忠実にその業に仕えているかどうか、その一点に尽きるのです。

 さて、主イエスは弟子たちを遣わすに当たって、7節後半で「汚れた霊に対する権能を授け」られました。主イエスは何も与えないで、ただ何も持っていくなと言われたのではないのです。汚れた霊、悪霊と戦い、これを追い出す権能をお与えになったのです。権能という言葉は、耳慣れないかもしれませんが、教会ではとても大切な言葉です。意味は、文字通り権威・権限と力ということです。教会はキリストの権能を行使するために建てられています。キリストの権能は、教会以外のどこにも与えられていないのです。

 このキリストの権能は、キリスト教会にずっと与えられているものです。これが与えられているから、教会は教会であり続けているのです。説教、祈祷、洗礼、聖餐、あるいは戒規といったものは、この権能を行使する場面です。この礼拝の場が、汚れた霊を追い出す場なのです。私たちは、様々な心の傷を持っていますし、様々な具体的な課題を持っています。何の問題も持っていない人など一人もいません。しかし、私たちはこの礼拝に集っています。そして、この礼拝に集うたびに、神様が私を愛してくださっていることを、必ず私を救いの完成へと導いてくださることを、心に刻むのです。そのことによって、私たちは一切の悪しき霊の誘惑から守られているのです。悪霊・汚れた霊の働きは明らかです。私たちから生きる力・喜び・勇気・希望・信仰・愛を奪っていくのです。しかし、この礼拝において神様は働いてくださり、再び私たちに信仰を与え、悪しき霊の誘惑から助け出し、御国への歩みを新しく歩み出させてくださるのです。生きることの意味を教え、生きる力と勇気と希望を与えてくださるのです。

 悪霊を追い出す権能は、もちろんこの教会にも授けられています。このことを私たちはしっかり受け止めなければなりません。世には汚れた霊どもが跋扈(ばっこ)しています。そして、汚れた霊の囚われ人になっている人が、おびただしくいるのです。この人々を汚れた霊どもから解放し、神様のもとに取り戻すため、キリストのものとするために、この教会は立っているのですし、私たちは遣わされて行くのです。生きる力と勇気を失いかけている人々に、主イエス・キリストによる救いの希望を与える者として遣わされていくのです。聖霊なる神様の御業の道具として、それぞれ遣わされている場において、存分に用いられていくために、共に祈りを合わせましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を合わせることができ、感謝いたします。神様、教会は、キリスト者はイエス・キリストの福音を宣べ伝えるために遣わされています。宣教は権能をもって私たちに託されているあなたの御業です。どうか、主イエスの御命令に従いつつ、喜ばしく福音宣教に仕えさせてください。聖霊においてあなたが共に歩んでくださることを信じて、暗さが支配つつあるように見えるこの世界に、福音の灯を輝かすことができますよう、私たちを強めていてください。今日から始まる一人一人の一週の歩みを、あなたが支え導いていてください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

宣教する教会の誕生

使徒言行録2章1~4節       2024年5月19日(日)主日礼拝説教

                                             牧師 藤田浩喜

◎ペンテコステの日。弟子たちの上に聖霊が降るという出来事が起こりました。

「聖霊降臨」です。使徒言行録2章には、その時の様子とその結果として生じたことが詳しく記されています。

 ところで、私自身も教えられてきたことであり、また皆さんもそうではないかと思うのですが、しばしばこのペンテコステというのは「教会の誕生日」であると言われてきました。つまり、この日、聖霊が降ることによってキリストの教会が地上に生まれたという説明です。

 私も長い間そう思ってきましたし、とくに疑問も感じなかったのですが、ある時、聖書を読んでいてふと気づいたことがありました。それはこのペンテコステの日よりも前から、教会は存在していたという事実です。

 例えば、使徒言行録1章には、聖霊が降るよりも前から弟子たちは一つの場所に集まっていたこと、共に祈っていたことが記されています。さらにはイスカリオテのユダが死んだ後、12人目の使徒を選出して補充するという、教会の組織や制度にかかわる営みまで行われていたことが記されています。それはまさにエクレシア(神の民の集い)にほかなりません。ですから、ペンテコステの日に初めて「教会が誕生した」、「神の民の集いが始まった」というのは、間違っているとまでは言わないものの、不正確な表現のように思われるのです。

 そのことに気づいてから、今まで抱いていた先入観や思い込みをひとまず措いて、改めて使徒言行録2章の記事を読んでみました。そこではまず弟子たちの上に聖霊が降るという出来事が、次のように不可思議な、そしてまた一種異様な現象として描写されています。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(1~3節)。

「風」、「音」、「炎のような舌」など、ここには聖霊降臨の出来事が聴覚や視覚など五感に感じられる経験として描かれています。

 そして次に、その結果として人々の上に生じた現象が記されています。

 「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。聖霊はいろいろな言葉を語る能力を弟子たちに与えたというのです。それは一つの奇跡的な現象であったと言えましょう。

 しかし、ここで重要なことは「弟子たちがほかの国々の言葉で話しだした」という不思議な出来事よりも、そうしたさまざまな言葉を通して「福音が語られ始めた」ということこそ、肝心なことなのです。

 言い換えるなら、聖霊降臨とは「宣教の開始」を意味する出来事だったのです。

それゆえに、この点から見れば、ペンテコステとは「教会の誕生」というよりも「宣教する教会の誕生」を意味する出来事であり、弟子たちがこの世に向かって公けに主イエス・キリストを宣べ伝える力を与えられ、その働きを直ちに開始した日であったと言うべきなのかもしれません。

◎ところで、このようなペンテコステの出来事と宣教の関係を考える上で、とても大切なことを示唆してくれる一文をご紹介しましょう。これはJ・G・デーヴィスという神学者の記した文章です。

 「使徒行伝がえがいている教会は、まずはじめに教会形成を念いりにおこなうべく内省的な期間をついやし、十分な準備ができあがったと思われるようになったときはじめて宣教へと動きだした、というようなものではなかった。準備のあるなしにかかわらず、聖霊がくだったその瞬間から、直ちに、宣教の教会となったのである。なぜなら、その教会は、聖霊の支配のもとにある教会だったからである」(『現代における宣教と礼拝』、日本キリスト教団出版局)。

 たしかに弟子たちは、万全の準備や体制、高度の神学的理論や潤沢な活動資金が整ってから、宣教に乗り出したわけではありません。細かいことをいえば、主イエスの復活から数えて50日目、昇天から数えればわずか10日目に、このペンテコステの出来事が起こり、それこそ何が何やら分からぬまま、弟子たちは「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。あれよあれよという問に「宣教を開始させられた」というのが現実であったように思います。

 先ほども言いましたように、ペンテコステの前から弟子たちは集まりを持ち、祈っていました。12人目の使徒も補充しました。彼ら彼女らなりに教会を整えることに取り組んでいたと言えるでしょう。

 しかし、教会内部のことならともかく、つい50日前に主イエスが処刑されたエルサレムの町の中で、ローマ総督ポンテオ・ピラトや大祭司やファリサイ派の面々がわがもの顔に闊歩する状況のもとで、外部の人々にイエス・キリストの福音を告げ知らせよう、宣教しようなどということを、弟子たち自身が喜んで始めたとは思われません。生まれたばかりの小さな教会を取り巻く環境は、きわめて厳しいものだったはずです。

人間的に考えれば、外部に働きかけるのは「もっと良い機会に」、「もっと準備してから」、「もっと状況が好転してから」というほうが自然なことだったと言えるでしょう。しかし、聖霊は弟子たちの思惑や都合にかかわらず、風のように炎のように、自由自在に彼ら彼女らの上に降り注いだのです。

 宣教は聖霊のわざであり、また神ご自身のわざであって、すなわち「神の宣教」(ミッシオ・デイ)なのです。それは人間の計画や発意によるものではありません。弟子たちは「語りたいから語った」わけではありません。「“霊”が語らせ」たので、語らざるをえなかったのです。やむをえず語らなければならなかったとさえ言えるかもしれません。

 預言者エレミヤは叫びました。「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。

わたしの負けです」(20:9)。

 主イエスの弟子たちが、エレミヤほどの強烈な抵抗感を持っていたのかどうか分かりません。しかし、神が、そして聖霊がそれを強いたので、「語らせるままに語った」、「語らざるをえなかった」という点では同じです。

 それは私たちキリスト者にとって、まさに「強いられた恵み」です。私たちキリスト者は、神がまず最初に始められた宣教のわざに参加させていただく存在です。そして私たちキリスト者は、その宣教のわざを主イエス・キリストのなさった模範に倣って実践する存在です。そしてまた私たちキリスト者は、その宣教のわざを実践する力を聖霊からいただく存在です。

 この意味において、宣教とは私たちキリスト者が三位一体の神のもとで行う「神の民のわざ」にほかならないとも言えるでしょう。

◎ところで、先ほど引用したデーヴィスはさらに次のようにも書いています。

「使徒行伝の教会は、宣教それ自体のなかでみずからを革新し、一致を見いだしていったのである」(前掲書)。思いがけない時、聖霊が弟子たちに宣教を開始させます。すると、その宣教の中で、宣教の働きを通して、今度は教会が新たにされていった、そして一つになっていったというのです。

 このことについても、私たちは深く思いめぐらさなければなりません。先ほど、宣教とは「神の宣教」であり、私たちキリスト者は「強いられた恵み」として、このわざに参加し、「神の民のわざ」を実践するのだと申しました。しかし、それは宣教においては人間が単なる「神の宣教の道具」として利用されるにすぎないなどということを言いたいわけではありません。むしろこの宣教の出来事を通してもっとも大きな恵みを与えられるのは、宣教に参加する私たち自身なのです。

 私たちは宣教に参加することを通して、多くのことを教えられ、多くの恵みを与えられ、教会として「神の民」として育てられていくのです。すなわち、神ご自身が主導権を取られるこの働きに参加することを通して、私たちはそもそも「宣教とはいったいどういうことなのか」ということを、私たち自身の問題として考え抜く機会を与えられます。また、「そのような宣教を担う教会とはどうあるべきなのか」ということを考え抜く機会を与えられます。言葉を換えて言えば、宣教に参加するということは、キリスト者としての私たち自身の姿、私たちのアイデンティティーを確認し形成していくことに必然的に結びついているのです。

 すでに見てきたように、弟子たちは万全の態勢、万全の準備が整ってから、宣教に着手したわけではありません。むしろ聖霊によって宣教の働きに無理矢理引き出されたのであり、弟子たちは宣教の現場で苦闘し、悩み、祈ることを通して訓練され、鍛えられ、成長し、また自分自身を吟味していったのです。

 使徒言行録の記述は、ペンテコステの日の聖霊降臨という華々しい出来事の後も、しばしば弟子たちの間に問題が起こったこと、失敗や挫折が繰り返し起こったことを伝えています。その意味では、聖霊降臨は弟子たちや初代教会にハッピーエンドをもたらしたわけではありません。

 けれども、この時以降、聖霊はどんな時でも弟子たちと共にあり、ペトロやパウロをはじめとする多くの人々を導き、ついにキリストの福音はパレスチナからシリア、小アジア、ギリシア、そして当時の「世界の中心」であったローマにまで達したということが、使徒言行録の中に描かれています。

 私たちは使徒言行録において、ついペトロやパウロの個人的な活動や宣教の拡大ということにばかり目を奪われがちです。しかしこうした宣教が展開されていく中で常に弟子たちや初代教会を導き、さまざまな困難と葛藤を通して彼らを成長させてくださった聖霊の働きにこそ、心を向けなければなりません。ある人はこの使徒言行録のことを「聖霊言行録」であるといいました。「使徒」ではなく「聖霊」こそ、この物語の真の主役であるということでしょう。

二千年前に弟子たちや初代教会を導いた聖霊が、同じように現代の私たちをも導いてくださいます。このことを信じて、私たちもまた大胆に私たちの時代における神の宣教のわざに参加し、私たちの教会を形作っていこうではありませんか。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。ペンテコステの日に、あなたは主イエスが約束された聖霊を、弟子たちの群れに降してくださいました。聖霊は宣教する教会を誕生させてくださいました。また聖霊は主の御業を宣べ伝える宣教を通して、教会の群れを成長させ、一つとしてくださいます。その聖霊の風は、今も私たちの群れに吹き続けています。どうか、この聖霊の働きに身をゆだね、聖霊に押し出されて、宣教していくことができますよう、導き強めていてください。今病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹のことを覚えます。一人ひとりの兄弟姉妹と共にいましてくださり、あなたの与えてくださる平安の中で日々を過ごさせてください。この拙きひと言の感謝と切なる願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

天を見つめる者たち

使徒言行録1章6節-11節 2024年5月5日(日)主日礼拝説教

                                            牧師 藤田浩喜

 今朝注目したいのは、主イエスの昇天、復活された主イエスが天に上げられたことです。ところで、「昇天」という言葉は日本語で、死ぬことを意味する言葉として用いられることがあります。しかし主イエスの昇天はそれとは全く違う意味ですから、間違えないようにしなければなりません。主イエスの昇天とは、復活した主イエスが結局はまた死んでしまったということではありません。体をもって復活し、もはや死ぬことのない新しい命を生きておられる主イエスが、その生きた体のままで天に昇られたということです。使徒信条の言葉で言うならば、「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」ということです。復活された主イエスは、昇天して、今は、この地上にではなく、天におられ、父なる神様の右の座に着いておられる。そのように、復活して今も生きている主イエスのおられる場所が変わったこと、それが主イエスの昇天なのです。

 

 さて、使徒言行録は主イエスの昇天を語る前に、復活された主イエスと弟子たちとの問答を記しています。弟子たちは6節で主イエスにこう質問をしたのです。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。それに対する主イエスのお答えが7、8節に語られ、9節は「こう話し終わると、イエスは彼らの見ているうちに天に上げられ…」と昇天を語っています。6節以下の問答と昇天とは密接に結び付けられているのです。主イエスの昇天の意味を考える上で、この問答の内容はとても大事です。

 弟子たちはここで主イエスに、「イスラエルのために国を建て直して下さるのは、この時ですか」と尋ねています。イスラエルのために国を建て直す、それは旧約聖書に預言されていたメシア・救い主が現れる時に実現すると期待されていた救いです。長く国を失い、あるいは外国の支配下にあったイスラエルが、救い主の出現によって力を盛り返し、外国、敵の支配から脱して自分たちの国を、メシアの王国、神の王国として確立する。そういう救いをイスラエルの民は待ち望んでいたのです。弟子たちは、今こそ主イエスによってその救いが実現するのではないか、と期待しています。死に勝利して復活された主イエスこそ、まことのメシア、救い主であり、この主イエスならイスラエルの国を再興することがお出来になる、と彼らは考えたのです。

 主イエスは弟子たちのこの期待を込めた問いに対して、7節でこうお答えになりました。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」。このお答えは、イスラエルのための国の再興という救いが、今すぐに、もう間もなく実現する、という弟子たちの期待に対する否定です。「時や時期は、父なる神様がお決めになることなのであって、あなたがたの知るところではない」。「いつ」ということは父なる神様にお委ねして、今与えられている信仰の生活、主イエスに従う歩みを続けていくことが求められているのです。従ってこの問答に込められている含蓄は、主イエスが復活なさったことによって、神様の救いが完成してしまうと考えるべきではない、ということです。神様の救いのみ業は、まだ継続しているのです。先があるのです。あなたがたはこの先もなお、道を歩み続けていくのだと言っておられるのです。

 弟子たちに与えられているこの先の道、彼らがなお歩み続けていかなければならない道とはどのようなものでしょうか。それは、主イエスによって使命を与えられて遣わされていく道です。弟子たちのことが使徒言行録では「使徒たち」と呼ばれています。その意味は「遣わされた者」ということです。復活された主イエスと出会った弟子たちは、その主イエスによって使命を与えられて遣わされていくのです。その使命を語っているのが8節です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。彼らに与えられる使命とは、主イエスの証人、証し人としての使命です。主イエスのことを宣べ伝え、主イエスによって父なる神様が成し遂げて下さった救いのみ業を伝える、そのために彼らは派遣されていくのです。

 これは、弟子たちが期待していた、救い主である主イエスが「イスラエルのために国を建て直してくださる」ということとは、かなり違うことです。弟子たちは主イエスの復活によって、神の民イスラエルの王国が目に見える仕方で確立し、主イエスがその王となって下さるものと思っていました。しかし主イエスがお示しになったのは、そのようなイスラエルの王国の建設ではなく、主イエスのことを宣べ伝える証人、証し人の群れの成立だったのです。それは教会の成立です。

そのことが、弟子たちの上に聖霊が降ることによって実現する。それがこの後2章の聖霊降臨、ペンテコステの出来事において起ることです。8節の言葉はペンテコステにおける教会の誕生を予告しているのです。主イエスの復活によって実現していくのは、イスラエルのための国の再興ではなくて、教会の誕生です。

 弟子たちが、救い主メシアによる救いの完成として思い描いていたのは、「イスラエルのための」国の再興でした。つまり彼らが考える救いの範囲は、イスラエルの民、旧約聖書以来の、神様に選ばれた民であるユダヤ人に限定されていたのです。けれども主イエスはここで、彼らが聖霊の力を受けて、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と語っておられます。これは、ユダヤ人、イスラエルの民という範囲を越えて、ユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人にも、そして全世界の異邦人にも、主イエスのことが宣べ伝えられ、彼らも主イエス・キリストの救いにあずかり、教会に加えられていく、ということを示しています。使徒たちがこの主イエスのお言葉の通りに、聖霊によって力を与えられ、キリストの証人となり、ユダヤとサマリアの全土に、そして地の果てにまで主イエス・キリストの福音を宣べ伝えていった。そのことを、この使徒言行録は語っていくのです。

 主イエスは弟子たちの問いに答えて、このように、彼らに使命が与えられ、遣わされることをお語りになりました。つまり教会が誕生し、歩んでいくことを語られたのです。この主イエスのお言葉には、一つ、前提となっていることがあります。それは、弟子たちの、教会の歩みにおいて、主イエスは少なくとも目に見えるお姿においては、そこに共におられない、ということです。弟子たちが力を受け、主イエスの証人として遣わされるのです。それをしていくのは弟子たちであって、復活された主イエスが陣頭指揮を取ってしていくのではありません。弟子たちが主イエスの証人として遣わされることは、主イエスが共におられないことを前提としているのです。

つまり、今弟子たちの目の前におられ、語りかけておられる主イエスは、彼らの前からいなくなるのです。そのことが起ったのが、主イエスの昇天です。9節に語られている主イエスの昇天の記事は、昇天をそういう事柄として語っています。注意深く読んでみるとそれが分かるのです。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。ただ天に上げられたと語られているのではありません。「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」のです。弟子たちは主イエスを見ていた。するとその主イエスが天に上っていかれ、雲がそのお姿を覆い、もはや弟子たちは主イエスを見ることができなくなった。それが昇天において起ったことなのです。

 主イエスが去っていく、目に見えない存在になる。それは大変心細い、不安なことです。けれどもそこに、代って与えられるものがあるのです。それが聖霊です。天に昇り、去っていく主イエスに代って、聖霊が弟子たちに降り、与えられるのです。その聖霊が彼らに力を与え、彼らを全世界へとキリストの証人として遣わしていくのです。

この聖霊の働きの内にある私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることができないことを嘆いたり、心細く思う必要はありません。使徒言行録は、即ち教会の歴史は、主イエスの昇天から、つまり主イエスのお姿が見えなくなったことから始まったのです。主イエスが天に昇り、見えない方になられたからこそ、天から聖霊が与えられ、神様の力が豊かに注がれて、主イエスのことを証しする人たちが立てられたのです。主イエスが天に昇り、私たちの目に見えない方となられたことは、神様の救いの恵みの前進なのです。なぜなら、このことによってこそ私たちは、いつでも、どこにいても、復活された主イエスと共に歩むことができるからです。仕事をしている時も、学校へ行っている時も、家庭にいる時も、外出している時も、起きている時も寝ている間も、目には見えない主イエスが、聖霊のお働きによって私たちと共にいて下さるのです。また私たちは礼拝において、様々な妨げによってここに来ることができず、共に礼拝を守ることができない多くの方々のことを覚えて、執り成し祈ります。それらの方々に、それぞれの置かれた所で、主イエスが共にいて慰めと癒しと支えを与えて下さるように祈るのです。その祈りを神様は聞き届けて下さるのです。私たちはそういう神様の恵みを信じています。そのように主イエスがいつでも、どこでも、誰とでも共にいて下さることを、私たちが信じることができるのは他でもありません。肉体をもって復活された主イエスが、天に昇り、私たちの目には見えないお方となられたが、その代りに聖霊が降って、今私たちの中で働いていて下さることによるのです。

そしてそれに続いて、10節以下のことが語られているのです。「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」。弟子たちは、主イエスが昇っていき、見えなくなった天をいつまでも見上げていました。するとそこに白い服を着た二人の人、つまり天使が現れ、主イエスが「またおいでになる」ことを告げたのです。

天に昇られた主イエスは、またおいでになる方です。まことの神としての権威と力とをもって、主イエスが天から再び降って来られる日がいつか来るのです。その時、今は隠されている主イエスの、そして父なる神様のご支配があらわになり、完成するのです。それによって今のこの世は終わり、神の国が完成するのです。昇天は、主イエスについて語られるべき最後のことではありません。「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」の後には、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」が続いているのです。

主イエスの昇天を見つめ、思う時に、私たちは、同時にその主イエスがまたおいでになること、主の再臨を見つめさせられ、思わされるのです。教会の歩みは、主イエスが天に上げられてからまたおいでになるまでの、昇天と再臨の間の歩みです。この間の時、私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることはできません。しかしこの間の時、私たちは聖霊の働きを受けて歩みます。昇天と再臨の間の時代を、聖霊の導きによって歩むのが教会なのです。その教会に連なって生きる私たちは、目には見えないけれども、復活して永遠の命を生きておられる主イエス・キリストと共に生きることができます。復活された主イエスの証人として、主イエスを証しし、宣べ伝えていく力を与えられます。そしてその主イエスがいつかもう一度、目に見えるお姿で来られ、そのご支配があらわになり、私たちの救いが完成する日を待ち望みつつ、歩むことができるのです。そのような信仰の生活を私たちに与え、力強く導き、支えて下さる聖霊が、今私たちに働きかけていて下さるのです。そのことを忘れないようにしましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と礼拝を共にすることができ、感謝いたします。主イエスは復活され、弟子たちに顕現された後、昇天されました。復活された主イエスをいま私たちは、目で見ることはできません。しかし主の昇天によって遣わされた聖霊が、私たちには与えられています。その聖霊において、どんな時にも、どんな所においても、活ける主イエスが共にいてくださいます。主イエスの昇天が、くすしき神の救いの御計画の大いなる進展の出来事であったことを、私たちに覚えさせてください。そして私たち一人一人が、聖霊によって復活の主の証人として立てられ遣わされていることを覚えさせてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

愛の完成

ヨハネによる福音書21章15~19節 2024年4月28日(日)主日礼拝

                                             牧師 藤田浩喜

教会で行う結婚式では、結婚するふたりに次のように約束をしてもらいます。

「あなたはいま、○○さんと結婚することを神の御旨と信じ、今から後、さいわいな時も災いに会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、たがいに愛し、敬い、仕えて、ともに生涯を送ることを約束しますか。」

牧師が新郎と新婦にそのように尋ね、「はい、そう信じて約束します」と答えてもらうのです。ちょっと想像してほしいのですが、あなたがそう答えた時、牧師があなたに向かって、「本当ですか」と問い返したらどうなると思いますか。そしてあなたが「本当です」と重ねて答えた後で、さらにもう一度、「本当に本当ですか」と牧師が聞き直したらどうなるでしょうか。

 ちょうどそれと似たようなことが、今日お読みいただいたヨハネによる福音書の中で、主イエスとペトロとの間に起こったと言っていいでしょう。21章15~17節からにかけて、主イエスがペトロに向かって三度、「あなたはわたしを愛しているか」とお尋ねになり、そのたびにペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたという場面が伝えられています。

 三度目に問われた時、「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」とあります。「悲しくなった」とは、情けなくなったということでもありましょう。自分の言うことを信じてもらえないのかという思いでしょうか。

 それと同時に、あるいはここで、主イエスに問われ、主イエスに答えている間に、ペトロはかつて自分が主イエスに語った言葉、そして自分のとった行動を思い出したかもしれません。それは主イエスが十字架につけられる前の晩のこと、最後の食事を弟子たちと共にとっていた時のことです。主イエスはペトロに向かって、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われました。

 その場面にこう記されています。「ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』」(13章37~38節)事実は、主イエスの預言通りに進んだということを聖書は証言しています。

 「主イエスを知らない」と言ったのは三度。「わたしを愛しているか」と問われたのも三度。「ペトロは……悲しくなった」という文章の背後には、それに気づいたペトロの身のすくむような思いが含まれていたのかもしれません。「この方は覚えている。」それはあるいは、自分が今主イエスに「裁かれている」という思い、主イエスに「試されている」という思いだったかもしれません。

 だからこそと言うのか、あるいはまた、それにもかかわらずと言うべきか、ペトロの三度目の答えは、それまでの答えにはなかった、こういう言葉から始まっています。「主よ、あなたは何もかもご存じです。」(21:17)そして、この言葉に、「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と続くのです。

 私たちは人生の節目節目に大切なことを約束する場合があります。結婚もそうですし、キリスト者となることにおいてもそうです。しかし、現実には、その日その時には真剣な思いとあふれるような誠実さをもってなされた約束が、いつまでも変わることなく揺らぐことなく保ちつづけられているかといえば、そういうわけでもありません。

 人生そのものに波があり、山も谷もあるように、さまざまな現実の中でかつて自分の約束した言葉がその力を失い、約束した内容の重さが見失われてしまうような時が必ず何度か訪れます。ただ惰性で夫婦として生活しているように思われる時、ただ惰性で教会に通っているように思われる時が、誰にでもあるのではないでしょうか。また、この人生を生きることの意味が見失われたように思われる時が、誰にでもあるのではないでしょうか。そうした現実があることを認めようとしないのは愚かなことです。

 大事なことは、そういう現実に直面した時に自分の人生そのものをきちんと見つめることができるかどうかということであり、信仰者としての原点に立ち帰り、あるいは結婚の原点に立ち帰って、自分自身を見つめることができるかどうかという点にかかっています。

 信仰であれ、家庭であれ、そして人生であれ、その真価が問われ、またその豊かさを発見するのは、むしろそうした行き詰まりや挫折に直面した時、それにどう向き合ったかということにかかっている場合が多いように思います。そして、そうした時にこそ、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と答えた(答えざるを得なかった)ペトロの言葉を、私たちもまた、本当に痛切な思いをもって想起すべきではないかと思うのです。

 三度、主イエスのことを知らないといった「裏切り」は軽々しい出来事ではありません。三度、ペトロに投げかけられた問いもまた軽々しいことがらではありません。しかし、「三度の裏切り」と「三度の答え」と、思えばそういうきわどい難所において、私たちの信仰も家庭も人生も、鍛えられ、深められ、真実なものになっていくのではないでしょうか。そういったぎりぎりの難所にあって、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と心の底から告白し、すべてを主におまかせし、主のもとに立ち帰るということこそ、キリスト者の信仰生活の要であると思うのです。

 すべての人間はイエス・キリストの裁きのもとに置かれています。その裁きとは、人間を滅びに至らせるものではなく、逆に古き姿を裁くことによって、その人を新しい命へ生かそうとする裁きです。イエス・キリストは人間を新たなものに造りかえてくださる方であり、また人間に新しい仕事を示される方であります。

 「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と告白するペトロに対し、主イエスがおっしゃった言葉はこうでした。「わたしの羊を飼いなさい。」(21:17)三度とも、主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と命じられました。もともと漁師であった男に向かって、「羊飼いになれ、商売替えをせよ」と命じておられるのです。

 主イエスご自身が、ペトロの新しい仕事を決めるのです。ペトロは主イエスが命じられた仕事に従わなければなりません。漁師の仕事は「魚を取ること」であり、「取る」ということにポイントがあります。どんなに大漁であろうと、そこで「取られた魚」はまもなく死んでしまいます。羊飼いの仕事は「羊を飼うこと」であり、養い、育て、生かすことです。羊飼いは羊と共に生きるのです。

 「わたしの羊を飼いなさい」という言葉につづけて、さらに主イエスはペトロにこうおっしやいました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(21:18)。

 この言葉はペトロが後に十字架につけられて死ぬことの預言であったと言われます。「両手を伸ばして」とは、十字架に釘づけられるために「横に手を伸ばして」の意味であろうというのです。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。」

 ペトロは自分で自分の人生を選んで生きてきた人間です。選ばれて主イエスの弟子になったとはいえ、しばしば自分の判断を優先し、主イエスがどうおっしゃるかということよりも、自分がどうしたいか、自分の思いにこだわってきた人間です。それと同時に、一時的には熱して「あなたのためなら命を捨てます」と大見得を切りながら、すぐその後で我が身かわいさのあまり逃げ出すような人間でもあります。「自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた」ような、そういう「出来の悪い羊」、「わがままな羊」、「熱しやすく冷めやすい羊」を抱えながら、羊飼いである主イエスは我が身を捨てて羊を守ってくださいました。

 ここでは、その「羊」であったペトロ自身が、主イエスのような「羊飼い」になることを命じられているのです。

 ペトロがそのような「羊飼い」にふさわしい才能の持ち主だったわけではありません。しかし、ペトロには、「羊飼い」になることによって、彼自身が学び知らなければならないことがあったのです。自分が「羊」だった時に味わったイエス・キリストの御心を、及ばずながらも自ら「羊飼い」として働くことによってペトロは思いはからなければならないのです。

 俗に「子をもって知る親の恩」といいますが、「羊飼い」になってみて、初めて分かる「キリストの心」があるのではないでしょうか。このように「羊」であることと「羊飼い」であること。それはキリスト者として生きる上で私たちが深く味わい知るべきふたつの面であり、味わい知れば知るほどにいよいよ自分の無力さを思い知らされます。それと共に、いよいよ主の恵みに感謝を新たにする機会となり、そしていよいよ真剣に「主よ、あなたは何もかもご存じです」と告白し、主の赦しと支えを祈り求めながら歩みつづけていくことになる体験であると思います。

 私たちは「主の羊」として養われつつ、「主の羊を養う者」として、すなわち、互いに互いを配慮し合い、支え合い、導き合って生きていかなければなりません。

 ペトロだけが特別だったのではありません。私たちひとりひとりが主イエスの前では「主の羊」であり、大切な掛け替えのない人間です。私たちが心しなければならないことは、主イエスの前で自分がそれほどまでに大切な人間として取り扱われているという事実であり、同時に自分の隣りに座っている人もまた主イエスにとって掛け替えのない特別な人間であり、「主の羊」なのだという事実です。

 「主の羊」である私が同じく「主の羊」である隣人と共に生きるということ、そしてお互いに「主の羊を飼う者」として、隣人に対して責任を担い合うということ。それがペトロに告げられた命令の内容であり、私たちへの主の命令であるとは言えないでしょうか。

 このように、お互いを生かし合い、お互いに責任を負うという隣人愛のゆえに、キリスト者の生き方はただ自分の好き勝手に「行きたいところへ行く」というものではなく、主イエスのゆえに「行きたくないところへも行く」という課題も含まれているということを、わきまえておかなければなりません。

 賛美歌の一節にこうあります。

 「主よ、飲むべき わがさかずき、えらびとりて さずけたまえ。

  よろこびも かなしみをも、みたしたもう ままにぞ受けん」

                        (『讃美歌』285番3節)

 私たちのことをもっともよくご存じの主が、私たちの歩みも指し示してくださいます。この主の指し示しをまず第一に祈り求め、その示しに応じる備えをつねに整えている者でありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。復活の主がペトロに3度語られた「愛の命令」を今日は学びました。この3度の愛の命令の中に、失敗し、自ら絶望していた人間を立ち上がらせ、新しい使命に向かわせる主の深い愛を示されました。ペテロに与えられた愛の命令は、私たち一人一人にも与えられています。どうか、この主の御言葉を胸にこれからの人生を歩み続ける者としてください。このひと言の感謝と祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

備えていてくださる主

ヨハネによる福音書21章1~14節  2024年4月21日(日) 主日礼拝説教 

                                            牧師 藤田浩喜

 どうしてこういうものが聖書の中に含まれているのだろうと考え込んでしまう文書のひとつが、コヘレトの言葉(伝道の書)です。この中には、突き放したようなものの言い方がたくさん含まれており、神への信仰を語りつつ、人生は空しい、すべては空しいと語り、死んでしまえばすべてはおしまいだというふうな、あきらめとも思われるような文章が書き連ねられています。

 虚無的といえば虚無的ですが、ひるがえって考えてみると、こうしたコヘレトの言葉は現代社会に生きる多くの人々にとっては、むしろ身につまされるような痛切な事実を語っているのかもしれません。

 聖書というものは、現実の世界と歴史をリアルに受けとめて記録した文書を集めたものであり、そうした中で生きてきた人間たちの姿をリアルに映し出す文書を集めたものです。さらにまた、そうした人間たちに対して神の力がどのように働いたかということを伝える文書を集めたものです。

 そうである以上、ある時代のある人々が感じざるを得なかった空しい現実の姿、虚無的なものの見方を踏まえながら、なおかつそれでも神に目を向けようとした人々がいたことを、コヘレトの言葉は伝えている。このような文書が残されたということは、ある意味で聖書というもののふところの深さを示しているのかもしれません。

 さて、そのようなコヘレトの言葉の特色ともいうべき死生観を示す文章のひとつが、先ほどお読みいただいた9章4節後半~5節の中で次のように記されています。

  「犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。

   生きているものは、少なくとも知っている

   自分はやがて死ぬ、ということを。

   しかし、死者はもう何ひとつ知らない。」

 また、9節にはこうあります。

  「太陽の下、与えられた空しい人生の日々

   愛する妻と共に楽しく生きるがよい。

   それが、太陽の下で労苦するあなたへの

   人生と労苦の報いなのだ。」

 教会という場所では、結婚式や葬儀が行われます。結婚式であれ葬儀であれ、ただいま、お読みしたようなコヘレトの言葉の一節を朗読することは、まずありえません。結婚するふたりに向かって「人生がいかに空しいものか」を説教することはありえません。また、ご遺族の方々を前にして「死んでしまえばおしまいだ」などと説教することはありえません。

 しかし、それは私たちがキリスト者であり、キリスト教信仰を持っているからこそ言えることであって、現代社会に生きている多くの人々にしてみれば、コヘレトの言葉に語られている断片的な認識の方が、本当はずっと「現実的」だと感じられるかもしれません。

 11節以下にはこういう言葉も出てきます。

 「太陽の下、再びわたしは見た。

  足の速い者が競争に、強いものが戦いに

  必ずしも勝つとは言えない。

  知恵があるからといってパンにありつくのでも

  聡明だからといって富を得るのでも

  知識があるからといって好意をもたれるのでもない。

  時と機会はだれにも臨むが

  人間がその時を知らないだけだ。

  魚が運悪く網にかかったり

  鳥が罠にかかったりするように

  人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。」

 現実とはそういうもの、思いどおりにいかないもの、だからこそ、「すべては空しい」というのが、コヘレトの言葉の結論となるのです。

 さて、本日お読みいただいたヨハネによる福音書21章の記事の中にも、そういった現実を反映するような文章が出てきます。ヨハネによる福音書では、この場面に出てくる湖をティベリアス湖と呼んでいますが、これは他の福音書でガリラヤ湖と呼ばれている湖のことです。

 主イエスの弟子たちは、この時、エルサレムからここに戻ってきていたということなのでしょうか。イエス・キリストの十字架による死、そして、その後の復活という出来事を体験した弟子たちのはずです。しかしそれでもまだ、この時の弟子たちには、何かぼんやりとした雰囲気、ある種の虚脱状態に陥っているような印象が見受けられます。数週間、あるいは数日間の内に体験した大きな出来事の数々が、彼らを打ちのめし、これからどうしたらいいのか、何をなすべきなのか、考えがまとまらない。そんな雰囲気が感じられます。

 「わたしは漁に行く。」(21:3)

 そういってペトロは立ち上がりました。もともとガリラヤ湖の漁師だったペトロです。彼が漁師に戻るつもりだったのかどうか、それは分かりません。いずれにしろ、人は何かを食べなければならないわけで、とりあえず魚でもとってこようという気持ちだったのかもしれません。他の弟子たちも、とりあえずペトロについて立ち上がり、「わたしたちも一緒に行こう」と言いました。その中には、やはりもと漁師だった弟子もいましたが、そうでない者もいました。でも、彼らは皆、主イエスの弟子として一緒に生きてきた仲間でした。

 「わたしたちも一緒に行こう。」(21:3)

 そう言って、とりあえずひとつの舟に乗りこんだのです。しかし、「その夜は何もとれなかった」とあります。どんなにがんばっても、何もとれない夜がある。これこそ人生のリアルな一面であり、コヘレトの言葉にも記されているような、現実とはそういうもの、思いどおりにいかないもの、だからこそ「すべては空しい」という結論に結びつくような一場面であると言えるでしょう。

 しかし、ヨハネによる福音書の出来事は、コヘレトの言葉と同じ結論に至ったわけではありません。何もとれなかった夜であっても、やはりその夜は明けるという、現実のもうひとつの面をヨハネによる福音書は伝えています。

 「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」(21:4)

 夜明けの光の中で、イエス・キリストは弟子たちを見守っておられます。しかし、本当のことを言えば、夜が明ける前の暗闇の中でも、すでにイエス・キリストは弟子たちを見守っておられたのです。何もとれない夜の間も、弟子たちがそれに気づかない間にも、イエス・キリストは彼らを一晩中見守っておられたのです。 「だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」(21:4)

 そこで主イエスが見守っていてくれることが分からない時、私たちに残されるのはコヘレトの言葉の作者が感じたのと同じ気分です。すなわち、「すべては空しい」、これほど労苦しても何も得るものはない、これほどがんばっても人生には実りがない、「すべては空しい」という気分です。

 しかし、福音書が伝えていることは、どんな時でもイエス・キリストは私たちを見守っていてくださるという事実です。私たちにとって、人生の中でどんなにすばらしいことが起ころうと、あるいはまたどんなに悪いことが起ころうとも、いちばん大事なことは、その出来事の背後にいつもイエス・キリストが立っておられるという事実に気づくことに他なりません。

 パウロはローマの信徒への手紙8章28節に、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」という一句を記しました。文語訳聖書では「すべてのこと相働きて益となる」と訳されているこのパウロの言葉は、聞きようによってはずいぶん楽天的な言葉とも感じられる一句です。

 しかし、この言葉を記したパウロという人が、その伝道の生涯において味わった数多くの苦しみ、精神的にも肉体的にも経験した苦しみのことを思う時、そのような人物がその生涯の終わり近い時期に記したであろう、この手紙の中に残したこの一句は、決して安易な気休めといったものではなかったはずです。

 何もとれなかった夜のような体験を何度も味わいつくした後で、それでも、「神を愛する者たち(中略)には、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と記し得たパウロの実感こそ、キリスト教信仰によって生きる私たちが生涯を通して学ぶべき真実なのだと私は思います。

 それは人生とは決して空しいものではないことを宣言する言葉であり、私たちが出会うこと、私たちが体験すること、そのすべてはつねに神にあって豊かな意味を持っているということを教える言葉なのです。

 ヨハネによる福音書は、イエス・キリストが湖から上がってくる弟子たちのために、炭火を起こし、魚を焼き、パンを用意してくださっていたと記しています。

福音書の中には、主イエスがいろいろな人々と食事をする場面がたくさん出てきますが、主イエスご自身が火を起こし、食べものを料理したことが記されているのは、おそらくこの箇所だけではないでしょうか。

 主イエスはそのようにして手ずから整えられた食事を前にして、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」とおっしやいました。そして、パンを取り、弟子たちに与えられました。ここでもまた、エマオでの食事や、最後の晩餐や、それ以前に何度も繰り返された食事のように、主イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげ、パンを裂き、それを弟子たちに分け与えられたのです。

 一日を生きるための糧を、イエス・キリストは弟子たちのために備えてくださいました。人生を生きるための命の源を、イエス・キリストはいつも私たちのために備えてくださるのです。何もとれない夜であっても、主ご自身が私たちのために「朝の食事」を備えていてくださいます。

 今日ここに集う私たちもまた、この湖畔の弟子たちと同様、主イエスに見守られている存在であり、主イエスから命の糧をいただいている存在です。私たちは、この礼拝の場で主イエスに見守られていることを想い起こし、聖餐によって養われ、主に送り出されてこの世の旅路を歩むのです。

 私たちの人生のあらゆる時、あらゆる場面で、良い時にも悪い時にも、健康な時にも病んでいる時にも、喜んでいる時にも悲しんでいる時にも、私たちは測り知ることのできない神の恵みと憐れみの中に置かれています。その恵みと憐れみの中で、私たちはそれぞれの人生を、主に従って歩んでいくのです。私たちは決してひとりではありません。私たちは主と共に生きるのであり、主によって結ばれた仲間たちと共に生きるのです。

 信仰によって生きる時、私たちの人生は決して空しいものに終わることはないというこの事実を、私たちははっきりと心に刻みつけようではありませんか。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も主にある兄弟姉妹、またその家族や親族の方々と共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。父なる神さま、私たちは人生というものが思い通りに行かないものであることを知っています。精いっぱい努力しても、徒労に終わり、虚しさだけが残るような経験をします。しかし、そのような私たちの人生には、私たちを背後から見守ってくださる主イエスのまなざしがあります。そして主イエスは私たちの人生を導き、徒労に終わったかに思える人生にも新しい意味を創り出してくださいます。どうか、そのことを深く信じてあなたを見上げて、それぞれの生涯を歩ませてください。今日は午後に二人の敬愛する姉妹の埋骨式を教会墓地で行います。どうか、その上にもあなたのよき備えと導きを与えていてください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

見ないで信じる者は幸い

ヨハネによる福音書20章19~31節 2024年4月14日(日)主日礼拝説教

                                            牧師 藤田浩喜 

 ヨハネによる福音書20章27節には、復活のキリストがトマスに告げたという、次のような言葉が記録されています。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」キリストが十字架上で釘打たれた手のひらの穴、そしてやはり十字架上で槍で刺し貫かれたわき腹。そこに触ってみなさい、そこに手を入れてみなさいというのです。ずいぶん生々しい言葉です。

 ところで、今日お読みいただいたヨハネによる福音書20章19節に記されている「その日」とはイースターの日のことであり、イースターの晩に起こったことがここに記されています。その夜、キリストは弟子たちが集まっていた家の中にやって来られました。その場所がどこだったのか、詳しい説明はありません。ともかく、「恐れて」、「鍵をかけて」、じっと静まっていた弟子たちの前にキリストが姿を現し、弟子たちの平安を祈ってくださったのです。

 しかし、その晩、弟子のひとりであったトマスはそこにいませんでした。そこに居合わせなかったトマスが、仲間たちの証言を聞いても、ただちにそれを信じられなかったのはむしろ当然だったかもしれません。トマスは言います。  「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 このトマスの言葉に応じるようにして、「8日の後」、つまり一週間後、再びキリストが弟子たちのもとに現れ、トマスに向かって最初にご紹介したような言葉を告げたといいます。

 この場面に登場するトマスは、往々にして「疑いの人」というふうに語られることがあります。しかし、トマスはここで何を「疑った」のでしょうか。 単純に考えれば、トマスが疑ったのは「キリストの復活」だったと言えるでしょう。十字架上でキリストの体につけられた傷跡を見るまでは、「決して信じない」という強い言い方は、悪く言えばトマスの猜疑心の強さを表わしているように思えますし、よく言えば事実を確認しようとするまじめさを示しているようにも思えます。

 しかし、この物語を読む時、私はここでトマスが口走った言葉の真意はそうした復活そのものについての疑いとは少し違うことだったのではないかと感じることがあります。それはどういうことかというと、トマスが自分だけそこに居合わさなかったということ、結果的にであれ何であれ、「仲間外れ」の立場に置かれたということこそ、彼にとっていちばんの衝撃であり痛みだったのではないかということです。

 福音書は、その前後の情景を次のように記しています。「12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」

 この対話の中に、復活のイエス・キリストと再会した弟子たちが驚きを隠せず、それにもかかわらず喜びをもって報告しているのと対照的に、ひとりだけその場に居合わせなかったトマスの心境が反映されているように感じるのです。

 イエス・キリストに会えなかった。自分だけが会えなかった。自分の存在だけが無視されてしまったような、自分だけ仲間から取り残されてしまったような、そんな思い、そんな感情がトマスを襲い、思わず口をついて出てきた言葉が、その後につづく彼の言葉だったのではないかと思うのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」このトマスの言葉の中に、何か子どもがすねているような響きを感じるのは私だけでしょうか。

 とくに自分にとっていちばん大切な人々から見捨てられ、いちばん大事な出来事から取り残されてしまうこと。この場面のトマスとは状況が異なりますが、そういった仲間外れにされるという痛切な体験を、6歳の少年が味わい、そして書き記した詩があります。

「がっこうから うちへかえったら

だれもおれへんねん

あたらしいおとうちゃんも

ぼくのおかあちゃんもにいちゃんも

それにあかちゃんも

みんなでていってしもうたんや

あかちゃんのおしめやら

おかあちゃんのふくやら

うちのにもつがなんにもあらへん

ぼくだけほってひっこししてしもうたんや

ぼくだけほっとかれたんや

ばんにおばあちゃんかえってきた

おじいちゃんもかえってきた

おかあちゃんが

 『たかしだけおいとく』

とおばあちゃんにいうて

でていったんやって」

(灰谷健次郎『わたしの出会った子どもたち』、新潮文庫)

これは「あおやまたかし」という少年が書いた詩の最初の部分です。6歳というから、おそらく小学校一年生くらいでしょう。どういう事情があったのか分かりません。分かっていることは、この子だけが家族の中で取り残されたということです。親も兄弟もみんないなくなってしまった中で、自分だけがおいていかれたのです。

 トマスが経験したこととこの子の経験したことは、もちろんいろいろな面で異なっています。しかし、いちばん親しい人々の間で、思いもよらぬ時に、最も大事な出来事において、自分だけが取り残された、仲間外れにされたという点では、まったく同じです。「ぼくだけほっとかれたんや」という点では同じなのです。

「ぼくだけほっとかれた」という体験は、「交わり」にかかわる問題です。 神は人間を「交わり」の中で生きるものとしてお造りになりました。だから、「交わり」が失われた時、「交わり」が歪んだ時には、人間そのものの本質が歪められてしまったり、人間そのものが失われたりする場合があるのです。

 ところが、私たちが生きている現代社会においては、この「交わり」がたいそう歪められていたり、ひじょうに脆いものとなっていたりする場面に出くわすことがしばしばあります。例えば、教会にはいろいろな人たちがさまざまな問題を抱えて訪ねてきます。その中に、時々、「ホームレス」と呼ばれる人々がいます。話をしてみると、その人たちに共通しているのは「帰る場所がない」ということです。故郷がないわけではありません。家族もまったくいないわけではありません。でも、帰れないし、帰らない。あるいは帰りたくない、というのです。都会にいて何か希望や見通しがあるのかというと、そういうわけでもありません。どこかに知人や支えになる人がいるのかというと、そういうわけでもない人たちがほとんどです。

 「ホームレス」という言葉の本質は、物理的に「家がない」とか「職がない」ということと共に、またそれ以上に、「心のホームレス」、つまり、「交わりがない」、「帰属すべきものがない」ということを意味しているのではないかと思うことがあります。そういう意味における「ホームレス」の状態というものは、決して一部の人だけの問題ではありません。むしろ、それと似た状況は、多かれ少なかれ、私たちの身近なところで、私たちを取り巻いているとは言えないでしょうか。今日、小さな子どもたちから青少年や壮年、高齢者も含めて、また夫婦、親子、兄弟姉妹、友人、職場の仲間などを含めて、私たちの周囲にこのような「交わり」を巡る深刻な問題が横たわっているように思われるのです。

 私たちの時代は、誰もが「ぼくだけほっとかれたんや」という状況に追い込まれかねない時代です。誰もがそういうことに脅え、恐れているように感じられる時代です。そして、誰もが「ほっとかれない」ようにするために、SNSで情報を集めたり、絶えず仲間にメールしたり、あくせくしているように感じられる時代です。「ぼくだけほっとかれたんや」という体験は、人間を歪めてしまう可能性を秘めています。そして、「ぼくだけほっとかれたんや」という体験が頻繁に繰り返されたり、それが常態となってしまうなら、それはその人の人間性を破壊する結果をもたらさないとも限らないのです。

 聖書はイエス・キリストを、「ほっとかない人」として描いています。聖書が伝えるイエス・キリストは、家族から放り出された人、村や町から放り出された人、その社会の中で放り出された人、「ぼくだけほっとかれた」ことを体験した人々のもとにおもむき、そうした人々との間に「交わり」を形作り、それらの人々に生きる勇気を与える方として描かれています。

 今日の福音書は、このイエス・キリストという方が、十字架につけられ、死んで、よみがえった後にも、やはり「ほっとかない人」でありつづけたことを描き出しています。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」どうしようもない困惑と混乱の中に取り残された子どものように、大人気ない言葉を発したトマスに応えて、主イエスはそこにわざわざやって来て、そのようにおっしゃったと福音書は告げています。

 主イエスはここで、「私は決してあなたを忘れているわけではないよ」と言われたのです。ほかの弟子たちを差し置いて、ここで主イエスは、ただひとり、トマスに向かって、「私はあなたをほっておきはしない」とおっしゃったのです。

 トマスはどんな顔をしたのでしょうか。トマスは笑ったのでしょうか。それとも泣いたのでしょうか。本当の問題は主イエスの傷跡を確認するなどということにあったのではありません。主がトマスを忘れたのではないこと。  「ぼくだけほっとかれた」のではないこと。トマスもまた「私の仲間」だと確認してくれること。それがいちばん大事なことだったのです。

 私たちが生きていけるのは、だれかに愛されているからです。だれかが私たちのことを覚えていてくれるからです。キリスト者である私たちは、ぎりぎりのところで、この世のだれもが私のことを忘れ、私を見捨ててしまうような時でさえ、イエス・キリストだけは「私は決してあなたを忘れない」と言ってくださることを信じています。それが私たちを生かすのです。トマスを覚えていてくださった方は、私たちのことも覚えていてくださいます。トマスのためにわざわざやって来てくださる方は、私たちのもとにもその恵みと憐れみのまなざしを注いでくださいます。キリスト者である私たちは、どんな時でも、この方のまなざしのもとで生きているのです。私たちはこのまなざしによって、生かされて生きているのです。この方によって集められていることの喜びを、共に感謝し、共に歩んで行こうではありませんか。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを感謝いたします。復活された主イエスは、ご自身の方から弟子たちのもとに来てくださり、その姿をお示しになりました。そして、最初の時にいなかたったトマスのことを忘れずに、トマスのためだけにもう一度現れてくださいました。主イエスは、私たちをひとりぼっちにすることなく、主との豊かな交わりの中においてくださいます。私たちの教会の交わりも、そのような主との交わりを映し出す交わりとなりますよう、支え励ましていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

甦りの主にお会いして

ヨハネによる福音書20章11~18節 2024年4月7日(日)主日礼拝説教

                                             牧師 藤田浩喜

 先週、私たちはイースター礼拝をささげ、主イエスの復活を喜び祝いました。主イエスの復活は、単なる二千年前の不思議な出来事ではなくて、現在の私たちを生かす、私のために起きた出来事であることを改めて心に刻みました。今朝は、復活された主イエスが最初にその御姿を現された場面、マグダラのマリアと出会われた箇所から御言葉に聞いてまいりたいと思います。

 主イエスが復活された日の朝早く、まだ暗いうちにマグダラのマリアは主イエスの墓へ行きました。他の福音書は、この時マリアは香料を持って墓へ行ったと記しています。多分、主イエスの遺体に香料を塗るという、当時一般的に為されていた葬りの儀礼をしてあげたいと思ったのでしょう。ところが主イエスの墓に着いてみると、墓に蓋をするために置かれていたはずの大きな石が取り除けてあり、墓の穴の中に主イエスの遺体は無かったのです。この時マリアの頭に浮かんだのは、主イエスの遺体が誰かによって運び去られたということでした。主イエスが復活されたとは、少しも思っていません。そこで彼女は、主イエスの弟子であるペトロたちのところに走って行って、そのことを報告しました。

 

 主イエスの遺体が無くなっているという知らせを受けたシモン・ペトロともう一人の弟子は、主イエスの墓へと走りました。多分、マグダラのマリアも彼らの後を追うようにして、また主イエスの墓へ戻ったのだと思います。二人の弟子は主イエスの空の墓を見て家に帰ったのですが、マグダラのマリアは墓の前に立ち続け、泣いていました。彼女には泣くしかできなかったのです。

 木曜日の夜に主イエスが捕らえられて以来、彼女は何度泣いたことでしょうか。主イエスがゲッセマネの園で捕らえられたと聞いた時、彼女は泣いたでしょう。主イエスが十字架を背負ってゴルゴタに向かって歩まれた時、彼女は泣いたでしょう。主イエスが十字架につけられ、手と足に釘を打たれた時、彼女は泣いたでしょう。主イエスが十字架の上で息を引き取られた時、彼女は泣いたでしょう。そして安息日に入り、主イエスのいない土曜日、彼女は泣き続けていたことでしょう。そして日曜日の朝、主イエスの墓に来ると、そこに主イエスの遺体は無く、墓は空っぽでした。「わたしの主」、「わたしのイエス様」が取り去られた。誰かがどこかへ運んでしまった。どうしてこんなひどいことをするのか。マリアは墓の前で泣くしかありませんでした。

 泣くしかない。愛する者の苦しみを前にして何もできずに見続けなければならない時、私たちは泣くしかありません。そして愛する者を失った時、人はどうしようもなく泣くしかない。そういう時が私たちにもある。しかし、泣くしかない、もうどうしようもない時に、どうしようもないと思っていた現実の向こうから、私たちの思いを超えた神様の御業が始まっている。そう聖書は告げるのです。

 泣くしかないマリアに向かって、天使は言います。13節「婦人よ、なぜ泣いているのか。」これは、マリアに泣いている理由を尋ねているのではありません。泣いている理由は、分かり切っているのです。天使がここでマリアに告げているのは、「どうして泣いているのですか。もう泣くことはないのですよ。泣かなくてよいのですよ」ということです。しかし、マリアには天使が告げることの意味が分かりません。ですからマリアは、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と天使に言うのです。

 さて、ここで重大なことが記されています。14節です。「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」とあります。マリアは天使とのやり取りの後、後ろを振り向いたのです。するとそこに主イエスが立っておられたのですが、それが主イエスだとは分からなかったと言うのです。どうしてでしょうか。

 第一に、それ程までに主イエスの復活は、弟子たちの思いを超えたものであったということでしょう。弟子たちは主イエスが復活されることを信じ、期待し、その思いが復活の主イエスの話を作ったというようなものではないということです。第二に、主イエスの復活という出来事が、単なる肉体の蘇生というようなことではないということを示していると思います。マルコによる福音書16章12節には、「イエスが別の姿で御自身を現された」とあります。「別の姿」です。確かに主イエスは、十字架の上で死なれたその方として復活されました。その手と足には釘の跡がありました。しかし、その復活された体は、やがては朽ちていくこの肉体と全く同じではなかったということでしょう。別の姿だったから主イエスとは分からなかったということです。第三に、それ以上に大切なことがあります。それは、この主イエスの復活の出来事は、主イエスとの人格的な交わりの中で受け取られるものだということです。

 マリアは確かに、自分の後ろに主イエスが立っておられるのを見た。しかし、それが主イエスだと分からなかった。そして15節で主イエスが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言っても、マリアは相変わらず、主イエスとは分からずに墓の番人だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言っているのです。

ところが、主イエスが「マリア」と呼びかけると、彼女はこの人が主イエスであるとはっきり分かって、「ラボニ(先生)」と振り向きながら答えたのです。この「マリア」、「ラボニ」というやり取りは、マリアが主イエスに付き従ってきた日々の中で、何度も何度も繰り返されていたものでした。マリアは自分に語りかけられる「マリア」という声を聞いて、この方が復活の主イエスであることが分かったのです。それまでは分からなかったのに、です。どうしてか。私は、ここに主イエスの復活の出来事の重大な秘密があると思います。

 主イエスの復活の出来事は、物を上に投げたら下に落ちてくる、水は高い方から低い方へ流れるといった、誰の目から見ても明らかであり、もしその時代に写真機やビデオカメラがあったら写すことができるような、いわゆる客観的事実ということとは、少し次元が違うことなのだと思うのです。もちろん、私は主イエスの復活が実際に起きた歴史的事実ではない、と言っているのではありません。主イエスは確かに復活されたのです。しかし、その出来事は主イエスとの深い人格的な交わりの中でしか、受け取れないものだと思うのです。復活された主イエスに出会った者は、根本的にその人生が変わってしまうのです。主イエスを信じ、主イエスと共に生きるしかない者に変えられるのです。このことこそ、主イエスの復活の出来事の最も重大な点なのです。

 これは、私たちがこの主の日の礼拝のたびごとに経験していることと重なると思います。私は毎週ここで説教をしています。この説教から、自分自身に向けられた主イエスの御言葉を聞き取り、この主イエスに従っていこうとする信仰が与えられるという出来事に与ります。しかしそれは、この説教を聞くすべての人に与えられることではないのです。同じ説教を聞きながら、「さっぱり分からん」ということも起きるのです。聖餐にしても同じです。主イエスの体、主イエスの血潮として、ありがたくこれに与るという人もいれば、ただのパンとブドウ液にしか思えない人もいる。客観的に言えば、説教は牧師が語っていることですし、聖餐はパンでありブドウ液なのです。しかし、これがキリストの言葉となり、キリストの体、キリストの血潮となる。これは聖霊の働きにより私たちに信仰が与えられるから起きることなのです。そして主イエスの復活の出来事も、それと重なるのではないかと思います。

 復活の主イエスに出会うということは、一人ひとり違うのです。みんな同じように復活の主イエスと出会うのではないのです。聖書に記されている復活の主イエスと出会った人で、生前の主イエスとの交わりを持っていなかった人は一人もいません。このマリアのように、主イエスを愛していた人が復活の主イエスと出会っているのです。主イエスを知らない人、愛していない人は、復活の主イエスと出会うこともないし、出会っても気づかないし、意味もないのです。しかし、主イエスを愛する者にとって、主イエスの復活は、主イエスがまことの神であり、救い主であり、死を打ち破られた方であり、自分たちに生きる力と希望とを与えてくださる方であることを明らかにするのです。そして、この方と共に生きていく明確な信仰と決断が与えられるのです。

 

 さて、復活された主イエスとの出会いを与えられたマリアに対して、復活の主はこう告げられました。17節「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」マリアは、復活の主イエスの足もとにひれ伏し、その足を抱いて拝んだのだと思います。主イエスは、そのようなマリアに「そうではないのだ。わたしは天の父なる神様のもとに上っていかなければならない」と言われたのです。復活された主イエスは、いつまでも復活された姿のままで、マリアや弟子たちと共におられるわけにはいかない。天に上らなければならないと言われる。それは、復活された主イエスが天に上り、そして聖霊を注いでくださるためです。主イエスが天に上られるのは、再び聖霊として下られるためです。

 13節を見ますと、マリアは主イエスに対し「わたしの主」という言い方をしています。マリアは復活された主イエスにすがりつき、これが「わたしの主」、もう離さない、そんな思いだったでしょう。しかし、それはまさに主イエスを「わたしの主」にしてしまうことでした。わたしの思い、わたしの願い、わたしの理解の中に、主イエスを捕らえてしまおうとすることなのです。主イエスはそのようなマリアの思いを退けられます。主イエスには主イエスの道がある。それは天の父なる神様が定められたものであり、天より下り、また天に上る道です。主イエスは、マリアたちとは復活の姿ではなく、聖霊として共にいることになるのです。すべての者といつでもどこででも共にいてくださるためです。

 私たちは、主イエスの姿は見えません。しかし、説教が与えられ、聖餐が与えられています。これによって、私たちは主イエスの御声を聞き、主イエスの肉と血潮に、命に与るのです。私たちはここで、生ける主イエスとのいきいきとした交わりに生きることができるのです。この主イエスに励まされて、復活の希望と光の中を歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができ、感謝いたします。主は死の力を打ち破り、復活されました。そして、今はあなたの御許にあって、助け主である聖霊を送り、私たちを生かしてくださっています。御言葉による説教と主の聖餐によって、私たちを養ってくださっています。この恵みを深く覚える者としてください。群れの中には、病床にある者、高齢の労苦を負っている者、人生の試練に立たされている者がおりますが、復活の恵みを豊かに注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン