主イエスが王であられる

マルコによる福音書11章1~11節 2025年3月2日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

今日の箇所は主イエスがエルサレムに入城される箇所です。前半の1~6節では、2人の弟子たちが、主イエスの乗られる子ろばを調達に行った時のことが記されています。後半の7節以下では、主イエスがいよいよ子ろばに乗ってエルサレムに入城された場面が生き生きと報告されています。

前半の1~6節は、日曜学校の子どもたちもよく知っているお話です。主イエスの命を受けて二人の弟子たちが、子ろばを借りに行くのです。子ろばの持ち主と主イエスが知り合いで、子ろばを借りる約束ができていたわけではないようです。村に入ってつないであった子ろばをほどいていた弟子たちに、その場にいた人々が「その子ろばをほどいてどうするのか」とたずねます。泥棒に間違えられたとしても不思議ではありません。しかし、主イエスから言われていたように「主がお入り用なのです。すぐそこにお返しになります」と言うと、子ろばを連れて行くのを許してくれたのでした。
これは大変不思議なことです。しかしここには事前の約束ができていたというのではなく、御子イエス・キリストの御力が表れ出ているのです。主イエスはその場にいませんでしたが、弟子たちに預けた御言葉によって、ご自身がなそうとされる計画を実現することができたのです。弟子たちは主の御業を自分の知恵や力で実現していくのではありません。主が預けてくださった御言葉が御業を推し進め、御心を成就していくのです。

でも、どうして主イエスはエルサレムに入られる時に、子ろばに乗られたのでしょうか。この子ろばは「まだだれも乗ったことのない子ろば」であったと言われています。それによって、この子ろばが聖なる目的のために用いられることが示されているのです。経験も実績もない子ろばでした。一人前と言うにはほど遠く、未熟としか言えない子ろばでした。しかし経験も実績もない時だからこそ、神さまが用いてくださるということがあるのです。そんな時だからこそ、神さまにお捧げできる奉仕があるのです。
しかし、この子ろばにはそれ以上に重要な仕事がありました。それは自分がお乗せする主イエスが、どのような御方であるのかを分かるように示すというお仕事でした。主イエスに付き従った人々も、エルサレムで主イエスをお迎えした人々も、主イエスを王としてお迎えしました。ダビデの血統に連なる新しい王さまとして、主イエスに歓呼の声を上げています。「我らの父ダビデの来たるべき国」というのも、ダビデの子孫から生まれる救い主のもたらす王国であり、それが今まさに主イエスの登場によって実現されようとしているということです。新しい王をお迎えして、人々は歓呼の叫びをあげているのです。
しかし、主イエスは軍馬に跨がって凱旋するような、軍事力によって支配する王さまではありません。主イエスは馬ではなく、荷物の運搬や農作業に用いられるおとなしく忍耐強いろばに乗って、エルサレムに入城されます。そのことによって、主イエスという王さまが力によって支配する王ではなく、柔和で謙遜な王さまであることが、はっきりと示されているのです。ですから主イエスをお乗せするのは、ろばの子でなければならなかったのです。
ろばの子に跨がる王さまは、どのような王さまなのでしょうか。今日の箇所の出来事を預言した旧約聖書ゼカリヤ書9章9節には、次のように記されています(旧約1489頁)。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って。雌ろばの子であるろばに乗って。」ここで預言されている王は、「高ぶることがない」と言われています。この言葉の元来の意味は「身をかがめた姿勢」ということです。また「押しつぶされ、虐げられて苦しんでいる様子、経済的に圧迫されている状態」を示します。そしてこの言葉には、「自らを低くする」という意味があるのです。ここから分かりますように、私たちが「王さま」と聞いて連想するのとは、まったく違った王さまの姿なのです。
その王さまの姿は、今日のすぐ前の箇所で述べられていました。私たちの記憶に新しい、弟子のヤコブとヨハネが、主イエスに次ぐナンバー2,ナンバー3の地位を与えてほしいと願った箇所です。主イエスが弟子たちに語った10章42~45節の御言葉です。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」そうです。イエス・キリストは、ご自分が仕える王であり、人間の罪を贖うために自分の命を献げる王であることを、宣言されているのです。
先週2月25日(火)の家庭礼拝暦は、列王記21章1~16節の「ナボトのぶどう畑」の箇所でした。多くの方がその箇所を読まれたと思います。こんな内容でした。北イスラエルの王アハブはサマリヤに宮殿がありました。その宮殿の隣りにナボトという人のぶどう園があり、アハブ王はそこを買って自分の菜園にしたいと思ったのです。アハブは別の土地と交換するからとか、相当の銀で代金を支払うからと話を持ちかけますが、先祖から受け継いだ土地ですからとナボトは断ります。アハブ王はすっかり気落ちしてしまいます。ところが、しょげた夫の姿を見た王妃イゼベルは、夫の代わりに恐ろしい方法を使って、ナボトからぶどう園を取り上げるのです。彼女はアハブ王の名を使って、ナボトの住む町の有力者に手紙を書いて指示を出します。それはその町で断食の祈りを行い、その人々の最前列にナボトを座らせる。そしてナボトの前に二人のならず者を座らせ、ナボトが神と王を呪った、呪いの言葉を口にしたと証言させたのでした。その悪巧みによってナボトは石打ちの刑に処せられます。そして所有者のいなくなった土地を、アハブ王は自分のものとしてしまったのです。王の権力を悪用して、民が大切に守ってきた土地を取り上げる。自分の欲望を満たすためなら、命を奪うことも平気で行う。この箇所を読んだ後、妻と二人で憤慨しました。いつの時代も王というのはこういうことをする。強大な権力を手にした者は、いつもこのような悪辣な方法で自分の欲望を満たそうとする。あの偉大な王と呼ばれたダビデ王ですら、バトシェバを我が物とするために、夫ウリヤを激戦地に行かせて殺してしてしまいました。王の地位と権力を手にすることが、どんなに大きな誘惑であるかをあらためて認識させられるのです。
そう言えば2月20日、ホワイトハウスが公式アカウントに、王冠を被ったトランプ大統領のイラストを載せ、そこには「国王万歳」というメッセージが添えられていたという報道がありました。それに対してマドンナという女性アーティストが、次のようなコメントをX(エックス)に投稿したことが話題になりました。「この国(アメリカ)は王の支配下を逃れた欧州の人々により、人民が統治する新世界を築くために建設された。われわれは今、自身を『われらの王』と称する大統領を頂いている。冗談であったとしても、笑えない。」民を支配し、権力を振るい、自分に反対する者の存在を許さない王たちは、私たちの時代にも確かに存在しているのです。

さて、二人の弟子は子ろばを連れて来ると、その上に自分の服をかけ、主イエスはそれにお乗りになりました。多くの人たちも自分の服を道に敷き、他の人たちは葉の付いた枝を切って道に敷きました。その上を子ろばに跨がった主イエスは進まれ、エルサレムへと入城されました。そして、主の前を行く者も後に従う者も、次のように叫んだのです。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来る国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
「ホサナ」というのは当時の人が使っていたアラム語で、「どうぞ、救ってください」という意味です。人々は主イエスが待ち望んだメシアであり、ダビデの王国を再建する王であると信じて、彼をほめ称えるのです。しかし、この歓喜に湧き立つ群衆も、主イエスがどのような王さまであるかを、正しくは理解していませんでした。彼らが期待していたのは、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる政治的・軍事的な力を持つ王でした。だから主イエスが逮捕されその期待が裏切られると、彼らは手のひらを返したように「イエスを十字架に付けよ」と狂い叫ぶ群衆に変わってしまうのです。

イエス・キリストは確かにダビデの家系に連なる王であり、神が遣わされた救い主でありましたが、地上の王たちとはおおよそ正反対の王さまなのです。力によってではなく、先週申しましたように、愛と憐れみによって私たちを救ってくださる御方なのです。私たちはこの御方に、地上の王に期待するようなことを求めても、何も得ることはできません。主イエスは人々の間違った期待を感じて、ひと言も語らず沈黙を守っておられたのではないでしょうか。主イエスはご自身を十字架に捧げられることで、私たちを罪と死の縄目から救い出してくださいました。仕えられるためではなく仕えるために、奪い取るためではなく与えるために、私たちのもとに来てくださいました。
そのような王さまとして、主エスをお迎えする必要があるのです。そして主イエスを信じる私たちは、仕える生き方、自らを献げる生き方を目指さなくては、主イエスの民となることはできません。この世の目指す王の姿ではなく、主イエスが先だって歩まれた僕としての生き方に倣うとき、主は私たちといつも共に歩んでくださいます。この世の人間の王とは異なり、民のことを第一に考えて、神の民である私たちを支え導いてくださるのです。
私たちが仕えるのは、この世のどんな王でもなく、King of kings、王の中の王と呼ばれるイエス・キリストだけです。この王は天地のすべてを神の愛と憐みをもって治めておられます。力を背景とした地上の王に期待をかけても、それは失望に終わってしまいます。私たちには、王のイメージを180度転換させたイエス・キリストという真の王さまがおられます。この御方に望みを置くならば、私たちの望みは決して失望に終わることはありません。私たちは唯一の主であり王であるこの御方の前にひざまずき、自らを捧げてまいりましょう。そして「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」と、ご一緒に讃美の声を挙げたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなた貴き御名を讃美いたします。今日もあなたをあがめる兄弟姉妹と、対面でオンラインで礼拝を捧げることができますことを感謝いたします。神さま、あなたは御子イエスを仕える王として
この世界に遣わしてくださいました。人々は主の十字架と復活を経験して初めて
そのことを知りました。神さま、私たちも地位や力を求め、それに惑わされてしまう者ですが、真の王である主イエスに倣い、仕える者、僕としての道を歩むことができますよう、導いていてください。そして主イエスを私たちの王としてふさわしくお迎えすることができるようにしてください。 今しばらく寒暖差の激しい日々が続きます。どうか教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

安心して立てる

マルコによる福音書10章46~52節 2025年2月23日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 主イエスがエルサレムへと向かう旅の途中のことです。主イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒にエリコの町を出て行こうとしていた時、道端に座っていた盲人の物乞いが突然叫び出しました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。多くの人々が彼を叱りつけ黙らせようとしました。しかし、その男は黙りません。ますます大声で叫び続けます。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。

 なぜ人々は彼を「黙らせようとした」のでしょう。単に「うるさかったから」ではありません。大勢の群衆がざわめきながら移動している最中です。一人の叫び声などたかが知れています。黙らせようとしたのは、恐らく、その男が無礼であると映ったからです。もしローマの皇帝が行進をしている時に、誰かが「憐れんでください」と叫び出して直訴したら、無礼者として制止されるでしょう。この場面はそれに近いと言えます。イエスの一行に人々が見ていたのは、まさにエルサレムへと向かう王の行進なのです。それがはっきりと分かりますのはエルサレムに入城する時です。次のように書かれています。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って道に敷いた」(11:8)。そこをイエスの一行が歩いて行く。まさに王の入城のような光景です。

 そのように、人々にとって主イエスはまさに王様だったのです。いや、正確に言うならば、王となるべき御方、間もなく即位すべき御方だったのです。主イエスに従う群衆の数は、エリコを出る時点で相当な数に上っていたものと思われます。過ぎ越しの祭りのためにエルサレムへと同行していた巡礼者の群れではありません。皆、主イエスが王になると信じて、ゾロゾロとついて行ったのです。ユダヤはローマの支配下にありました。しかし、主イエスは必ず我々をローマの支配から解放してくださるに違いない。そして、かつてダビデが王であった時のように、偉大なるイスラエルの王国を再建してくださるに違いない。そう信じて、ついて行ったのです。

 もちろんそのことを一番期待していたのは、主イエスが選ばれた十二人の弟子たちでした。自分たちは特別だと思っていますから。当然、主イエスが打ち建てる王国においては、特別なポジションが用意されていると信じています。ですから、先週共に学びました箇所では、ヤコブとヨハネという二人の弟子が、こんなことをお願いしたことが書かれていたのです。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)。「栄光をお受けになる」とは、「王になる」という意味です。その時には私たちをナンバー2、ナンバー3にしてくださいとお願いしているのです。そのように抜け駆けする者も現れてくる。当然、他の弟子たちは腹を立てました。皆、同じことを考えているのですから。

 ところで、いったいどうして弟子たちは、また大勢の群衆は、主イエスが王となることなど期待できたのでしょうか。どうしてそんなことが実現すると思ったのでしょうか。常識的には考えられないことでしょう。ローマの支配は絶対的なものでしたから。にもかかわらず、人々が新しい王国の到来を期待したのは、明らかに彼らが主イエスの力を見たからです。病気の人が癒される。悪霊に憑かれた人が解放される。五千人以上の人々が満腹させられる。人々は主イエスのなさる一つ一つの奇跡に、計り知れない《神の力》の現れを見たのです。

 力に期待して、力ある者の後に着いて行く集団。力に救いを求め、力による偉大な事業の実現を求める集団。ここに見るのはそのような集団です。そして、そのような集団にとって、助けを求めて叫んでいる一人の弱い人などは、邪魔者以外の何ものでもありません。それは偉大な事業の実現にとって妨げでしかないのです。「この御方をなんと心得る!王となるべき御方であるぞ。ダビデの王国を再興する御方であるぞ。物乞いなどに関わり合っている暇などあるか!」叱りつけた人々の思いは、大方そのようなものであったに違いありません。

 しかし、あの男は黙らなかったのです。制止されても叫び続けたのです。ナザレのイエスは絶対に憐れんでくださる。声さえ届けば、絶対に憐れんでくださる。彼はそう確信していたのです。もちろん、この男も主イエスが王となるべき御方であると信じています。「ダビデの子イエスよ」と彼は叫びました。ダビデの子孫として来られたまことの王であると信じているのです。しかし、それでもなお、その王は一人の盲人の物乞いを憐れんでくださる王だと信じているのです。

 なぜでしょうか。彼は主イエスのことを伝え聞いて知っていたからです。知っていなかったら、「ナザレのイエスだ」と聞いても叫び出すことはなかったでしょう。彼は既に聞いて知っていた。問題はそこで彼が何を聞いていたかです。単に神の力の現れを聞いたのではなかった。そうではなくて彼が聞いていたのは「憐れみ」だったのです。主イエスの御業を通して現わされた、《神の憐れみ》を聞いていたのです。だから「憐れみ」を求めて叫んだのです。

 先に申しましたように、目の見える人々は主イエスの奇跡に《神の力》を見たのです。だから力ある王としてのイエスに期待をかけた。しかし、目の見える人が、必ずしも事の本質を見ているとは限りません。むしろ聞くだけだったこの男にこそ、大事なものが見えたのです。《神の力》ではなく、《神の憐れみ》です。一人の小さな者も見過ごしにされない神の憐れみです。

 聞くだけだったこの男には分かったのです。神の憐れみの王国が到来したのだ、ということを。その事実を彼は見えないその目で既に見ていたのです。苦しみのどん底で這いつくばっている一人の人間にも、目を留めて憐れんでくださる神の憐れみが到来した!神の憐れみを体現してくださるメシアがついに来られた!彼はその事実を心の目で既に見ていたのです。

 だから彼は叫んだのです。力の限りに叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを《憐れんでください》」と。――そして、この人は間違っていませんでした。主イエスは立ち止まって言われたのです。「あの男を呼んできなさい」。

 彼は躍り上がって主イエスのもとに来ました。主イエスはその人に言われます。「何をしてほしいのか」。この男はすぐさま答えました。「先生、目が見えるようになりたいのです」。この人は目が見えないゆえに苦しんできました。物乞いをしなくてはならなかったのも、そのゆえでしょう。だから、目が見えるようになりたかった。確かにそうでしょう。

 しかし、目が見えるようになることで、彼が本当に見たかったのは何なのでしょうか。それは神の憐れみではなかったかと思うのです。神の憐れみの現れである主イエスの姿を見たかったに違いない。今まで耳にしてきた御方を憐れみの到来を、何よりもその自分の目で見たかったのだろうと思うのです。

 彼の願いはかなえられました。主イエスは言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。そして、「盲人は、すぐ見えるようになった」と書かれています。しかし、目が見えるようになった彼は、そのまま立ち去りませんでした。「盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と書かれているのです。彼は開かれた目をもって主イエスの姿を追ったのです。彼の目は主イエスを追いながら、なお道を進まれる主イエスについて行ったのです。

 さて、聖書に書かれているのはここまでです。しかし、バルティマイにとって話がそれで終わりにはならなかったことは、容易に想像できます。見える目をもって主イエスの姿を追って行った先には、何が待っていたのでしょうか。この直後に書かれているのは、主イエスがエルサレムに入城されたという出来事です。そして、そのエルサレムにおいて、主は十字架にかけられて殺されることになるのです。つまりこの盲人は、目が見えるようになったために、そして主イエスに付いていったがゆえに、その目で主イエスが十字架にかけられ殺される姿を見なくてはならなかったのです。

 「見えるようになんて、ならなければよかった!わたしは見たくなかった!」彼は心底そう思ったに違いありません。しかし、もしそれで終わりなら、彼が経験したことは神の憐れみなどではあり得ないし、彼の目が開かれたというこの物語も語り伝えられることはなかったでしょう。

 なぜこの物語が伝えられたのか。なぜ聖書に書かれているのか。そのことを考えて改めて読みますときに、この盲人の物乞いの名前があえて書き記されている事に気づかされます。もともと物乞いの名前を皆が知っていたはずがありません。にもかかわらず、福音書に名前があるということは、この福音書が書かれた頃、バルティマイがキリスト者として教会において良く知られていた人物だったということです。他に名前が記されている、あの十二人たちのようにです。彼はイエスに従った。そして、ティマイの子、バルティマイの名は、教会の歴史の中に書き残されることとなりました。

 言い換えるならば、十字架につけられた主イエスを目にした悲しみは、それで終わらなかったということです。やがて彼は知ることになったのです。このキリストの十字架こそ、罪の贖いの犠牲であり、罪の赦しと救いに他ならないということを。その意味において、彼はその開かれた目で、神の憐れみを見た人だと言えるでしょう。私たちの罪を赦すため、罪のあがないの犠牲として御子をさえ死に引き渡される、神の計り知れない憐れみを彼は見たのです。彼はその開かれた目をもって、神の憐れみの王国が確かにイエス・キリストにおいて到来したことを見たのです。

 「あなたの信仰があなたを救った」。主が彼の目を癒された時、主はそう言われました。そして、確かに彼は、ただ目を癒された人ではなく、救われた人として、どんな小さな一人に対しても向けられている計り知れない神の憐れみを、今もなお私たちに指し示しているのです。そして、彼と共に信じるようにと、主は私たちを招いていてくださっています。私たちもまた、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を聞くことができるようにと。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に、対面でオンラインで礼拝を守れますことを心から感謝いたします。神さま、あなたは御子イエス・キリストを通して、私たちへの深い憐れみをお示しくださいました。その憐みは御子を十字架にかけ給うことによって、私たちを罪と死から贖い出すほどに深い憐れみでした。私たちは今もあなたの憐みの中で、安心して生きていくことができます。そのことに深く感謝して歩む者とならして下さい。今しばらく冬の寒さが続きます。どうか大雪のために困難の中にある人たちを、守り支えていてください。教会に連なる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

仕えるために来られた主

マルコによる福音書10章35~45節 2025年2月16日(日)伝道礼拝説教

牧師 藤田 浩喜

 わたしたちには色々な願いがあります。それは健康を与えられたいとか、人間関係を修復したいといった人間としてごく自然な願いもあれば、ちょっと人には言えないようなひそかな願いもあります。自分では意識していないけれど、無意識に願っていることもあります。

 ヤコブとヨハネは、山上で主イエスのお姿が変貌された特別な場面にも連れて行かれた三人のうちの二人です。つまり、弟子の中でも特に主イエスに近い関係にあった二人でした。その彼らには切なる願いがありました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」つまりこれは、主イエスがこの世界の支配者となられたとき、自分たちをNo2とNo3にしてほしいということでした。

 今日、この記事を読むわたしたちは、その後の十字架と復活の出来事、そのときの弟子たちの行動を知っていますから、この場面で彼らがとんでもないことを願っていることがわかります。そもそも主イエスはこの世の支配者になられるために、この世界に来られたわけではないことをわたしたちは知っています。わたしたちはヤコブとヨハネがこの時、見当違いの愚かしいとも思えることを願っていると感じます。そしてまた彼らが主イエスに従って歩んでいながら、とても世俗的な願いをもっているとも感じます。No2とNo3になりたい、それは出世志向や権力志向のように思えます。序列をつけて人間関係を見ていくということは極めて世俗的なものの考え方に感じます。

 しかし一方で、この時の彼らにとって、この願いがごく自然で当り前のことだと感じられたとしても、それは不思議ではありません。今日の聖書箇所の直前で、主イエスは弟子たちに三度目の受難予告をなさっています。その予告では、過去二回の受難予告より、さらに詳細な予告がなされているのです。つまり受難というものが現実味を帯びて迫ってきている状況であることがわかります。その予告された受難の場所はエルサレムです。そして一行はまさに、そのエルサレムへと上って行く途上だったのです。

弟子たちは三度の受難予告をされても、その内容についてははっきりとは分かっていなかったでしょう。しかし、そこにたいへんな危険があることは覚悟をしていたのです。それでも彼らは主イエスに従って来たのです。具体的にはどういうことが起こるのか分からなくても、主イエスを見捨てることなくついてきたのです。彼らはどういうことなのかはっきりとは分からないまま、復活という言葉に賭けたのだと思います。そのとき主イエスは栄光をお受けになる、主イエスのご支配が実現するのだと考えていたのです。そのために自分たちも命をかけて共に戦う、それだけの覚悟をもって彼らは主イエスに従って来ました。だから、自分たちにはそれなりの報いがあるはずだと彼らは考えたのです。

 だからといって私たちは、彼らが報いを求めることを世俗的だと非難できる立場にはありません。私たち自身もまた信仰生活において、全く見返りを求めていないとは言えないからです。私自身、平安を求めて主イエスを信じました。主イエスを信じたら、不安のない生活ができるかと思ったのです。色々なことが楽になると思ったのです。みなさんひとりひとり、信仰に入られた経緯や思いは異なるでしょう。以前いた教会で知り合った方は「居場所が欲しかった」とおっしゃっていました。私自身は「居場所」という言葉に、多少の違和感を覚えました。信仰的というより、何か教会をこの世的な楽しいコミュニティのように捉えておられるのではないかと感じたからです。でも、どのような動機であれ、そのことを通じて神様は私たちを捉えてくださり、導いてくださいます。一方でご家族や友人に誘われて自然に信仰生活に入られた方も、教会にはたくさんおられます。しかし動機や経緯はどうであれ、私たちは皆、多かれ少なかれ、何らかの自分にとってのプラスになることがあるから、信仰生活を続けているのではないでしょうか。私たちの心は堅い石ころのようなものではありません。意識するしないにかかわらず、何らかの願いを抱いて私たちは信仰生活を送っています。そのわたしたちの願いの中には、ひょっとしたら神様からご覧になって、見当違いのものもあるのかもしれません。

そんなわたしたちに、主イエスはヤコブとヨハネにおっしゃったように「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」とおっしゃるでしょう。でも、主イエスはそうおっしゃりながら、「黙れ、お前たちは何も分かっていない、引き下がれ」とはおっしゃらないのです。わたしたちの信仰生活におけるちょっとズレたような願いも、端から見て信仰的にどうなのだろうと思えるような願いも、主イエスは聞いてくださるのです。そして受け取ってくださるのです。

 ヤコブとヨハネの問題に戻れば、彼らがNo2,No3になりたいと願ったのは単に個人的に立身出世したいということではなく、彼らにとって、イスラエルの救いというのが切実な問題だったという背景もあります。彼らはイスラエルの救いのために、自分を犠牲にしてでも働こうという覚悟はあったのです。彼らはまじめでした。むしろまじめすぎたのです。自分たちのまじめさ、熱心さのゆえに、主イエスがお受けになる栄光に自分たちもあずかれると考えていました。そんな彼らのまじめさを十分に主イエスはご存知でした。そして問われました。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマをうけることができるか」。ヤコブとヨハネはその問いに、真剣に誠実に答えたのです。「できます」と。本当に彼らはできるつもりだったのです。しかし私たちは、そう答えた彼らが実際にはできなかったことを知っています。

そもそも、これから主イエスが飲まれる杯と受けられるバプテスマは、すべての人間の罪を贖うために神の罰を受けられるということでした。神の怒りの重荷は、神でなければ担うことができません。人間には到底担いきることはできません。十字架の出来事は、神の怒り、裁きでした。それと同時に私たちを義として新しい命を与えてくださることでした。それは神でなければできないことでした。

 ヤコブとヨハネだけではなく、すべての人間には耐えることのできない杯を受け、バプテスマをお受けになられ、すべての人間に義と命をあたえてくださったのが、神の御子イエス・キリストでした。そのことを当時のヤコブとヨハネが知ることは、到底できませんでした。主イエスが飲まれる杯と受けられるバプテスマは、ただお一人神の御子だけが担うことのできるものである。それがまったくわからなかったからこそ、彼らは「できます」と答えたのです。

 

 さて、その主イエスへのヤコブとヨハネの直訴を知って、他の弟子たちは腹を立て始めたと言われています。抜け駆けという行為にも、ヤコブとヨハネが自分たちはNo2とNo3にふさわしいと考えていたということにも、他の弟子たちは腹を立てたでしょう。あいつらは自分のことを下に見ていたのか、と思ったことでしょう。しかし抜け駆けが腹立たしかったのは、自分たちも上に行きたいと願っていたからです。自分たちを下に見られて腹を立てたのは、自分たちもまた人間を上と下に分けて見ていたということです。

 そんな弟子たちに、主イエスはおっしゃいます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」これは人に仕える人が偉いのだ、みんなに奉仕する僕のような人が一番上なのだということではありません。そうであれば、逆の競争がおきます。自分こそ、だれよりも仕えている、だから偉いのだ。自分は誰よりも人のために頑張っているから、一番上だということになります。そうではなく、上だ、下だという価値観を棄てなさいということです。上だ、下だ、誰が偉い誰が偉くないという価値観は、私たちが自分たちの熱心さ、まじめさで何かを手に入れることができると考えている時、かならず起こってくるものなのです。

 ヤコブとヨハネは、まじめに主イエスについて行こうと考えていました。イスラエルを熱心に救いたいと考えていました。ですからそのことへの報いがあると考えていました。自分たちのまじめさや熱心さによって何かを手に入れようとするとき、そこには人と比べるということが自然に起こってくるのです。あの人より自分は頑張っている、なのにあの人はどうして不真面目なのだという思いがどうしても起こってきます。私たちも、まじめに頑張って何かを手に入れようとするとき、そこに他の人と比べるという思いが入り込んできます。No2、No3にという思いが入り込んでくるのです。逆に自分はまじめにやっているのに人より劣ってしまうと、劣等感を抱いてしまう。がんばってやろうとしてもできない自分に、自信が持てなくなるのです。人と自分を比べる価値観は人間を不幸にします。そして無駄に心身を消耗させてしまうのです。

モーセの十戒の中に「むさぼってはならない」という戒めがあります。むさぼりというのは、自分の欲求をコントロールできない心です。本来与えられた自分の賜物や恵みを越えてほしがる心です。他人のものをうらやみ、他人のものを欲する心です。人より上に、人より偉く、という上昇志向には、自分に本来与えられた恵みで満足しないむさぼりの心があります。そこには罪があります。しかし、そのように罪深く生きるために、神は私たちをお造りになったのではありません。むさぼりから解き放たれてもっと自由に豊かに生きるために、私たちはこの世界にあるのです。そのために、主イエスはお越しになりました。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と主イエスはおっしゃいました。人より上に人より偉く、そんな思いから私たちを解き放つために主イエスは来られました。「多くの人の身代金」とは「すべての人の身代金」ということです。その身代金が、十字架と復活の出来事によって、キリストの命によって支払われました。それは私たちがまじめだから熱心だから、支払われたのではありません。ただ神の愛と憐れみによって支払われたのです。私たちはその恵みを受けたのです。恵みの上に恵みを受けたのです。

 すでに罪の負債は返済されました。ですから私たちは神の前にあって、もうむさぼる必要はないのです。上に上にと努力する必要はないのです。一人一人に与えられた特別な賜物と役割があります。そこで仕えるのです。一人一人が与えられた隣人のために仕えるのです。それが私たちの杯でありバプテスマです。

 私たちは頑張って人に仕えるのではありません。自分の熱心に頼って人のために奉仕するのではありません。ましてや、自分の欲望を無理に抑え込む必要はありません。すでに身代金は支払われました。私たちは自由な心で喜びをもって神に願い、それぞれにあたえられた所で仕えるのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。御子イエス・キリストは、私たちを罪と死から救うために、十字架の杯を受け、復活してくださいました。主イエスが仕えてくださったことによって、わたしたちは朽ちることのない命に生かされています。どうか、その恵みをいただいているわたしたちが、自由と喜びをもって仕える者となることができますよう、一人一人を導いていてください。互いに仕え合うことだけが教会の歩みを貫くものとなりますよう、わたしたちをお支えください。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

わたしはあなたを祝福する

創世記12章10~20節 2025年2月9日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 創世記12章後半の物語は、アブラム(アブラハム)の失態を描いた物語です。アブラムは、神の召しに従って旅を続けていましたが、旅の途中、ネゲブという地方に来たときに、ひどい飢饉がありました。それでアブラムの一行は、エジプトに避難することにします。

 ところが、エジプトへ行くにあたって、アブラムには一つの心配事がありました。それは、彼の妻サライが美しすぎるということでした。自分の妻が美しいということは、恐らく、これまでアブラムの誇りであったと思いますが、その美しさがかえって災いのもととなろうとしていました。

 そこで、アブラムは一計を案じます。11~12節です。

 「エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。『あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、「この女はあの男の妻だ」と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。』」

 このアブラムの姿は、なんとも情けない感じがします。殺されるのが恐ろしいので、妻に向かって、「うそをついて、自分の命を守ってくれ」というのです。そしていかにも「こんなうそをつかなければならないのも、お前が美しすぎるからだ」と言って、自分の弱さを認めずに、妻のせいにしているようにも聞こえます。これを聞いた妻サライは、どんな気持ちだったでしょうか。「なんとふがいない夫だろう!」と思ったかもしれません。

 これが、私たちの信仰の父アブラムの姿です。ただ信仰によって出発したアブラムが、早くも信仰につまずき、挫折しています。

  

 今日の12章10節は、次のように始まっていました。「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。」

 アブラムは、飢饉を避けるため豊かなエジプトに逃れますが、どうもエジプト行きを決めたこと自体、神を信頼し、祈った結果、示された道ではないようです。飢饉という困難に直面して、おろおろしているアブラムの姿が目に浮かびます。

 アブラムの旅はそもそも、神の召しによって出発したものでした。もし今回も、アブラムの中に、神さまが「エジプトへ行け」と示されたのだという確信があったならば、彼はもっと自信をもって、エジプトへ行ったのではないでしょうか。一番神に信頼すべき大事なとき、最も苦しいときに、アブラムは神に祈るよりも、この世の知恵で行動しようとしたのです。何か、私たち自身の姿を見ているような感じがします。

 どんな信仰者であろうとも、困難に遭ったときに、試練に勝てないで屈服してしまうことがあるということを思い知らされます。

 私たちも普段は、「イエス・キリストこそ救い主」と告白して礼拝していても、何か問題が起きたときにはどうでしょう。自分を見失ってしまい、神を信頼するよりも、自分の知恵、あるいはこの世的な処世術の方により頼んで行動するということがあるのではないでしょうか。

 詩編30編に、こういう御言葉があります。(p860)7~8節です。

 「平穏なときには、申しました

 『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。

 主よ、あなたの御旨によって

 砦の山に立たせてくださったからです。

 しかし、御顔を隠されると

 わたしたちはたちまち恐怖に陥りました」

 まさに、私たち自身の信仰の姿を言い当てているように思います。

 ただアブラムは、ここで旅をやめて故郷に引き返したのではありませんでした。もともとアブラムが出発したハランという町は、キャラバン(隊商)の町として栄えていました。豊かでした。ですから、困難に陥った場合、引き返したいと思っても不思議はありません。しかし、彼は後戻りするという道は取らないで、何とか旅を続ける方法を考えたのです。

 宗教改革者カルヴァンは、「ここでアブラハムに、引き返すという最も安易な方法を取ることを拒ませたのは、信仰である。信仰をもっていたからこそ、とにかく旅を続けたのだ」というようなことを言っています。アブラムはハランへ引き返すという、いわば最悪の選択をせずに、ひとつの妥協策を講じたのでした。それがエジプト行きであったわけです。そしてエジプトで生き延びるために、妻サライに「妹だ」とうそをつかせることになるのです。

 しかしこのことも、決して欲のためではありませんでした。困窮の結果、どうすれば生き延びられるかを考え、思いついたことです。彼は結果として、エジプト王ファラオからいろいろな贈り物をもらうことになりますが、これをもらうためにサライを利用したのではありません。アブラムとサライはついにエジプトへ入ります。そして、アブラムの予感は見事に的中します。14~16節です。

 「アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ロバ、らくだなどを与えられた」。

 アブラムの作戦は、見事に功を奏します。サライはエジプトの女の中で最高の地位に達し、アブラムはあっという間に大資産家になります。アブラムは、この世的に言えば、最高のものを手にしたと言えるでしょう。

 しかし、この話はこれで終わるわけではありません。「アブラムは、ここで旅をやめ、エジプトの住人になった。妻を王に渡したためにひいきをされ、大金持ちとなり、生涯幸せに暮らした」という話ではないのです。話の後半は、「ところが主は」と始まります。ついに神さまが、直接介入されることになります。アブラムのエジプトでのエピソードは、神さま抜きで始まり、神さま抜きでうまくいきかけていました。しかし、このことを神さまは見過ごしにされません。主なる神さまご自身が、「待った」をかけられるのです。17節。

 「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」。

 ただ不思議なことに、アブラムの不信仰の行為によって神が打たれたのは、アブラムではなく、ファラオと宮廷の人々でした。これは理解に苦しむことです。一体どうなっているのか。まったく説明がありません。私たちに言えることは、神は私たちの想像の範囲を超え、私たちの倫理的基準を超えて行動されるということです。

 この物語は、神とアブラムを軸にして述べられていますから、ファラオはあくまでも二次的人物です。ファラオに罪を見いだそうとする人は、こう言うかもしれません。「ファラオの欲望には限りがなかった。たくさんの女性を囲っておきながら、それで満足せず、異国の美しい女性サライを見ると、それさえも自分のものにしようとした。」

 しかし、それは関係なさそうです。むしろ、病気の原因がアブラムにあるとわかったときに、ファラオは非常に適切な対応をしました。「逆上して、アブラムを捕らえ、殺してしまった」というのではありません。与えたものを取り上げることもせず、彼を去らせています。事情を知らずにアブラムに関わったファラオを、神さまも正しく導かれるのです。このことからすれば、むしろ、このファラオは神を畏れる、敬虔な異邦人であった、とも言えるでしょう。

 神さまは、アブラムに対して、12章3節のところで、こう言われていました。

 「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。

  地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

 「地上の氏族はすべて」です。たとえ神から疎外されているように見える他の民も祝福される。最初に祝福された人間を通して、順々に神さまの祝福が広がっていくのです。アブラムを通して、呪いではなく祝福が広がらなくてはならないのです。そして祝福は、ひとり占めするためではなく、他の人に手渡していくためにあるのです。それは生き物のようなもので、自分の籠に入れてしまうと、いつの間にか生気を失って、死んでしまう。他の人にどんどん手渡すことによって祝福は生き続けるのです。祝福された人、祝福された家庭というものには、そういうところがあるのではないでしょうか。泉から水が湧き出るように、それに接する人たちにとめどなく祝福を与えていきます。クリスチァンである喜びも、そのように周りの人に伝えていきたいものです。

 アブラムと神との関係で、もう一つ不可解なことは、アブラムの卑怯さにもかかわらず、神はアブラムを祝福するという約束を守り続けられるということです。

 「わたしはあなたを大いなる国民にし

  あなたを祝福し、あなたの名を高める

  祝福の源となるように。」

 この約束は無条件でした。神はアブラムに向かって、「もしあなたが私に従うならば」とか「あなたが正しい人であるならば」とかいう条件はつけていない。ただ一方的に、「私はあなたを祝福する」と言われる。神さまはそのように宣言されるのです。アブラムの方は、神さまに顔向けできないようなことをしでかしました。それにもかかわらず、神さまの方は少しも約束をたがえず、守り続ける。それがアブラムの神なのです。

 パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、こういうふうに言っています。(p279)「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:7~8)。

 正しい人でもなく、善い人でもなく、罪人である私たちのために、キリストは十字架にかかって死なれた。条件なし。それが神の愛です。これは私たちの理解を超えたことであり、説明がつかない。説明するとすれば、ただ神はそのようにして約束を守り、そのようにして愛を示される、ということだけです。

 だからこそ私たちも、それで高慢になってはなりません。この神の愛に応えて、人に祝福を与える人間として生きていきたいと思います。

お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と対面でオンラインで共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。あなたは信じる者に祝福を与え、いかなることがあろうともその祝福を全うしてくださいます。あなたの約束は取り消されません。私たちはそのようなあなたの愛に応えて、あなたに真実に従っていくことができますよう、どうか導いていてください。一年で最も寒さが厳しい季節を迎えています。大雪のために困難を強いられている人々を、あなたが支えていてください。群れの中で病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹をあなたが顧みてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

共におられる平和の神

2025年2月2日(日) 主日礼拝説教

教師 山田矩子

一年ぶりの説教ご奉仕を感謝いたします。今朝は、天候を心配しましたが、つくばひたち野伝道所の礼拝と総会のため、藤田先生がご奉仕くださって感謝しております。

昨年は、中島美穂子姉妹の突然の昇天に際し、南柏教会の皆様とお送りできましたこと、感謝しております。また、年末には、つくばひたち野伝道所の姉妹が天に召され、藤田先生には、重ねてお世話になりました。

今朝は、これまで読み進めてきました「フィリピの信徒への手紙」の続き、4章8〜9節の御言葉に聞いていきたいと思います。この前の所6節で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とのパウロの希望の言葉を聞きました。

パウロは、主イエス・キリストによって罪を赦され、救いの恵みに招かれた人々に、神様から賜った平安な生活を真実に送り続けるために、日々の中にある真実なこと、偽りでないものに、心と目を向けて生きていくように勧めています。

ここには8つの徳が勧められていますが、ギリシア時代には徳ということが大切にされていたといわれます。これは、すべての人が生きる上で大切なことですから、神に作られた一人一人の誰もが、心の中心に置きたい事柄です。特に、ギリシア世界の徳は、善を行うことで、人間の幸福を目指すといわれていました。「ガラテヤの信徒への手紙」には5章22節で「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」と徳をあげています。そしてコリントの信徒への手紙二の6章6節では「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力」などがあげられています。そして、「フィリピの信徒への手紙」4章8節では「すべて真実なこと、すべて気高いこと」というように、一つ一つの徳の前に、「すべて」という言葉が加えられています。それは、ある限定されたことだけではなく、良いものはすべて心に留めなさいという勧めです。

では、パウロは、この8つの徳から、どのようなことをフィリピの人々に伝えたいのでしょうか。ここに述べられていることは、人が生きていくうえで最も基本的なことであり、人と人が信頼して成長していくために、なくてはならないことなのです。

私たちは、真実をもって愛され、接せられて、人格が形作られていきます。喜んだり、悲しんだり、我慢したり、感謝したり、そしてしてはいけないことも学んでいきます。また、人から与えられるだけでなく、果たさなければならないことや担っていかなければならないことにも気付くようになります。ですからパウロは、日々の人とのかかわりの中で気付かされた事、教えられたことを心に留めなさいと言っています。

この「心に留める」という言葉には、物事をよく考えるという意味がありますが、しかし、考えて、それでおしまいというのではなく、助けを必要とされた時にはすぐに力を差し出すことが出来るという意味が込められているといわれています。人は真実に接してもらって生きてきた時、また他者に対しても、自分がしてもらったと同じように真実をもって接することができるといわれています。

続いてパウロは、「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」と勧めます。それはコリントの信徒への手紙一の15章3節、パウロが受けた「キリストの十字架の死と復活」です。キリスト者を迫害しているパウロに主が出会って下さり、罪の赦しを知らされた時、パウロは自分の力で生きているのではなく、神の命を与えられていることを知らされたのです。続く、「聞いたこと、見たこと」は、フィリピ1章30節の「あなたがたが、私の戦いを「かつで見」「今また」それについて聞いています」とあることです。それは、霊にとりつかれている女性を解放したことで牢に入れられ、その中で神に祈り、讃美し続けたことです。そして「今また」といわれていることは、キリストの福音を伝えたために、ローマの牢にとらえられていることです。しかし、ここでもキリストの福音が証されて、福音が前進している喜びの出来事がおこっているのです。

このように、パウロのどのような困難の時でも、神は共にいて下さって、神ご自身が戦って下さること、そして福音を前進させて下さることを信じることができたのです。

それは、パウロが困難から救われるだけでなく、まわりの人々が、まことの神の救いの中に入れられる願いです。パウロにとっての喜びは、一人でも多くの人が罪から救われて、本当の人としての命を全うすることでした。

ですから、フィリピにいる、今、迫害のただ中にあるあなた方も、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている」と福音のために戦ってほしいと、パウロは祈っています。このように、パウロの願いは、信仰者として、人間のまことの幸せを祈り、神の御心が何であるかを尋ねつつ、小さな一つ一つを勇気をもって、実際の行動へ向かっていくのです。そして、福音のために戦う時には、どのような時でも神が共にいて、その戦いは、平和をつくり出す神ご自身がなして下さるのです。平和の神ご自身が、私たち一人一人の一番近くにいて下さり、私たちは、新しい一歩を歩みだすことができます。

水を運ぶという人生

ヨハネによる福音書2章1~11節 2025年1月26日(日) 主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 日本でもそうかもしれませんが、婚礼というのは、家と家とのお祝い事でもありました。この時代のユダヤにおいてもそうであり、家と家との祝い事として婚礼が行われたのです。その婚礼には小さな村ですと、村中の人が集まってきました。調べてみますと、婚礼の宴というのは、当時、この地方では数日にわたって行われたとも書いてありました。ある場合には、おそらく家が傾くほどの出費を覚悟しなければならなかったと思います。

 その婚宴の席で、ぶどう酒がなくなってしまいました。花婿の家にとっては一大事です。面目が失われるような出来事と言ってもよいでしょう。おそらく台所の近くにいたマリアは、そのことを知らされて、主イエスのもとに伝えたというのです。こう言われています。

 「母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」(3節)

 これは単にぶどう酒がなくなったという事実を報告したという話では、おそらくないでしょう。イエス・キリストに対する願い、嘆願、あるいは祈りと言ってもいいかも知れません。そういうものが、この言葉には含まれていたと思います。ぶどう酒がなくなる。せっかくの楽しいお祝いの席でぶどう酒が切れてしまう。

 それはある意味で、私たちの人生に似ていると思います。若さとか力とかあるいは意欲とか、ある場合には美しさとか、そういうものを自分の中に持って、その勢いで、自分の持っているものによって道を突破していく。そういう時が人生にはあると思います。しかし、次第にその気力も体力もあるいは美しさも尽きてくる。弱ってくる。突破できなくなる。今までは気力でもって突破できたいろいろな問題が、分厚い壁になってくる。そしてそこに体をぶつけていったら、こちらが傷ついてしまう。みんなそういう地点に立つわけです。行き止まりの場所があるのです。これはまさに、現在の私たちキリスト教会の姿でもあります。どんどん進む高齢化と教勢減少の中で、かつてのような勢いを失い、これ以上は前に進めない閉そく感を覚えているのではないでしょうか。

 ぶどう酒はなくなりました。先ほども言いましたように、これはマリアの祈りです。そして花婿、花嫁の両家の困っている状況が、このマリアの背後にはあります。喜びや賑わいのこのお祝いの席でぶどう酒がなくなってしまうと、いっぺんに空気が冷えてしまう。これは切実な祈りです。

 しかし主イエスの答えはこうでした。「『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』」。(4節)

 ずっと長い間、私もこの言葉につまずきました。なんてつれない言葉だろうと思ったのです。しかしこれは、母と子の肉親の情によってキリストが応えられるということではない、ということを言われたのだと思います。「情に流される」という言葉がありますが、主イエスはそういう形ではマリアの願いにお応えにならない。そういう意味が込められているのではないかと思います。

 そしてこう言われました。「わたしの時はまだ来ていません。」イエス・キリストの時があるのです。イエス・キリストが応えられる時があるのです。マリアが願う時ではなく、あるいは私たちが願う時ではなく、イエス・キリストの時があるのです。だからマリアは拒絶されたとは思いませんでした。マリアは備えました。聖書にはこう書いてあります。

「しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」(5節)

 これは、マリアがイエス・キリストの時を信じて待つ姿勢です。彼女の思うとおりには応えられないけれども、イエス・キリストの時を信じて待つ姿勢です。その時を信じるからこそ、彼女は備えて待つのです。

 ここで私たちは、祈りということについて考えさせられます。祈る人というのは、待っている人のことなのです。祈った人は前に向かうのです。前方を見るのです。そして、備える。信仰というのは、もちろん神さまを信じることです。しかし、神を信じるということは、神さまがどこかにおられるということを信じることではありません。信じる者は神に向かって祈るのです。自分自身を神に向けて投げかけるのです。いろいろな問題をかかえた自分、重荷を負った自分、あるいは行き詰っている自分を、神に投げかけながら生きる。それが神を信じる者の生き方です。

 キリストは救い主として私たちを受け止め、そして応えてくださる。「わたしの時はまだ来ていません」。ここに書かれていることは、「救い主の時がある」ということです。私たちの願う時ではないけれど、イエス・キリストが準備してくださる時がある。私の願う時というのは、たいてい〈今、すぐ〉です。すぐ応えてくださらないといけないと私たちは考える。しかし、イエス・キリストの時、救い主の時がある。これはなんと深い慰めでしょうか。私の思うよりもはるかに良い時、私にとって最もふさわしい時、その時を救い主は備えてくださり、その時に応えてくださるのです。

 私たちの生きている現実の前にも壁があります。壁はこちらから破ることはできません。先ほど言いました。こちらから何とかして破ろうとしたら、こちらが傷ついてしまう。向こうから破っていただくのです。向こう側から、救い主の方から破っていただいて前に進む。イエス・キリストは言われました。「求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる」。求めるというのは、ただ欲しいと思うだけではありません。祈ることです。そして私たちは神の門をたたきます。門を向こう側から開いていただけるのです。向こう側から、私たちには開けないと思った扉を、一つひとつ開いていただきながら、私たちは前に向かって歩いていきます。それが信仰によって生きるということです。私たちの教会の歩みも、そのようにして道が開かれ、導かれていくのです。祈りつつ、扉を開かれ、前に進ませていただくことができるのです。

 「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレス入りのものである。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」(6~7節)

 大きな石の水がめです。清めに用いるのです。ユダヤ人たちは、外に出たら汚れる。だから手を洗います。外で汚れてきた汚れを落とすという意味があったのです。だから多量の水が清めのためにあったのです。水を汲むためには、村の真ん中にある井戸まで召し使いたちは歩いていかなければなりません。

 村というのは、たいていは井戸があって、その周りに小さな村ができるのです。ですから、水を汲みなさいと言われたら、井戸まで何回も往復しないといけません。僕たちはそうやって、何度も井戸のところまで往復いたしました。彼らは黙って水を運びました。なぜ水を運ばなければならないのか、おそらく彼らにはわからなかったのです。何でこんなことをしているのだろうと思ったと思います。しかし、わかりませんでしたけれども、彼らは黙って運びました。そしてその水がめに運んだ水を、宴会の世話役のところに持っていきなさいと言われたので、彼らはそれを世話役のところに持っていきました。

こう書いてあります。

 「イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました』。」(8~10節)

 良いぶどう酒がどこから来たのか、世話役にはわかりませんでした。しかし、水を汲んだ召し使いたちは知っていたと書かれています。召し使いたちは自分たちがどうして水を運ばなければならないのか、その時には訳がわかりませんでした。何でこんな重たい物を運ぶのか。もしイエス・キリストにぶどう酒を運ぶように言われたのであれば、彼らは喜んで運んだと思います。しかし、なぜ水を運ばなければならないかわかりませんでした。ただ、自分たちにはわからないけれども、主イエスはその訳を知っていてくださる。それを彼らは信じたのです。この重い荷物の意味を知っていてくださる方がいる。それを信じた。信じたから、彼らは黙って、黙々と運んだのです。

 今の自分にはわからないのです。けれども、この意味を知っていてくださる方がいる。信じるということはそういうことです。何もかも訳がわかって、私たちは生きているのではありません。訳がわからないことはいっぱいある。ことに、思いがけない荷を自分が負わなければならないとき、ドサッと何かが自分の肩にかぶさってきたとき、私たちはだれもが「なぜ」と思います。そして、「なぜ自分が」と思います。しかし、その時にも私たちは信じるのです。今、その意味は自分にはわからないけれども、その意味を知っていてくださる方がいる。そのことを信じるのです。信じるから、私たちは水を運ぶのです。黙って、耐えて、水を運ぶのです。

 この水は最上のぶどう酒になっていました。私たちの運んでいる重たい水。それはどこかで、ぶどう酒に変えていただく水なのです。悩みながら、そして苦しみながら運ぶその水が、そっくりぶどう酒に変えられるのです。変えていただけるのです。そういう水を私たちは、今運んでいるのだということを忘れてはなりません。

世話役は言いました。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」初めは良い、しかしだんだん味が薄くなる。それは多くの人の考えている人生観です。みんなそう思って生きています。しかし、救い主イエス・キリストにある人生というのは、そうではありません。最後に一番良いぶどう酒に変えていただける。それは私たちに与えられている約束です。すべての労苦がひっくり返って、最上のぶどう酒になる。その時を、私たち一人ひとりのために備えていてくださる方がいる。その方に向けて、その時に向けて、私たちは歩いているのです。

私たちの教会の将来を考える時、人間的に見れば、明るい材料は見当たりません。だんだん衰えていく、力を失っていくようにしか見えません。しかし私たちは、あまりにもこの「人間的に見れば」ということに、囚われすぎてはいないでしょうか。伝道は神の御業です、教会の将来は神の御手の中にあります。主イエス・キリストが、私たちの教会を導いておられます。イエス・キリストのために傾けられた労苦が、無駄になることは決してありません。そして主は、最上のぶどう酒を準備していてくださる。最上のぶどう酒に変えていただけるこの道を、みんなそれぞれに歩ませていただいているのです。約束に満ちた道を、みんな歩ませていただいているのです。私たちはそのことを心から喜び確信しながら、今日の定期総会を始めていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を心から讃美いたします。御言葉を通して私たちは、主イエス・キリストがご存じであるということを教えられました。水がめを満たすためにただ水を運んでいるとしか思えないような時も、わたしたちの人生はあなたのご計画の中で、あなたの貴いご用のために用いられています。どうか、そのようなあなたへの深い信頼の中で、信仰者として生きるわたしたちであらしてください。今日礼拝後もたれます今年の定期総会の上に、あなたのよき導きと祝福を与えていてください。群れの中で病床にある者、様々な困難にある者を、あなたたが支え顧みていてください。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

キリストのまなざしの中で

マルコによる福音書10章17~31節 2025年1月19日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜  

 主イエスは弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23節)。どうして主イエスはこんなことを言われたのでしょう。それは今日朗読してくださった話の流れから察することができます。その直前に、主イエスは財産のある人と話をしていたからです。

 その人は神の救いを求めて主イエスのもとに来た人でした。走り寄って、ひざまずいてこう尋ねたというのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)。彼が切に求めていたのは、死をもって失われないもの、世の終わりにおいても失われない、最終的な神の救いでした。

 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。彼はこれまで自分にできることをしてきたのです。伝えられてきた神の掟も一生懸命に守ってきました。主イエスが「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(19節)と言われた時、彼は即座に答えました。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」しかし、それで十分だとは思えなかったのです。まだ足りない。だから尋ねたのです。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と。

 主イエスは彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。この主イエスの言葉は、救いを求める彼を打ちのめしました。彼は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。「たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と聖書は説明しています。そこで主イエスは弟子たちを見回して言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。

 ところで、厳密に言いますと、この23節の「財産」と22節の「財産」では、元の言葉が異なります。23節で「財産」と訳されているのは、もともとは「使う」という言葉に由来する単語です。「使えるもの」のことです。確かに「財産」とはそういうものでしょう。彼は財産を持っていた。それは必要に応じて使うことができるものを持っていたということです。欲しいものを得るために、彼は財産を使うことができるのです。

 しかし、欲しいものが「永遠の命」だったらどうでしょう。神の救いだったらどうでしょう。それを得るために人は何を使うのか。使えるものは何なのか。通常考えられるのは「善い行い」でしょう。彼もそうでした。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。そう「何かをすること」が必要だと考えた。子供の時から律法を守ってきた積み重ねは、彼にとって永遠の命を得るために「使えるもの」だったのです。

 その意味では彼の「財産」はお金だけではありませんでした。幼い頃からの律法遵守、積み上げてきた善い行い、これらもまた彼の財産だったのです。その財産をもって、永遠の命を得、神の国に入ろうとしていたのです。そして、彼がそうしたがっているので、主イエスはそれを一緒に押し進めようとされたのです。「使えるもの」をもって永遠の命を得たいなら、「使えるもの」すべてをそのために使うべきだ、と。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とはそういうことです。しかし、そこで彼は悲しみながら立ち去ることとなりました。

 それを見て主は言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」何が問題だったのでしょう。金持ちだったことでしょうか。いわゆる財産を手放せなかったことでしょうか。いいえ、そもそもの問題は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねてきたことなのです。自分が神に差し出すことができるものをもって、救いを得ることができると考えていたことなのです。そうです、人間にはそれができると考えていたことです。

 主イエスは今日の27節で、「人にはできないが、神にはできる」とおっしゃいました。「人間にはできる」と思っているうちは、この言葉は大した意味を持ちません。人間にできるなら人間が自分の力でしたらよいのです。「神にはできる。神は何でもできるからだ」。この言葉が本当に意味を持ってくるのは、「人間にはできない」ということが見えてきた時です。主イエスがこう言われたのは、弟子たちが互いにこう言い合っていたからでした。「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)。正確には「それでは、だれが救われることが《できる》だろうか」と言っているのです。もちろん、その意味するところは「だれも救われることが《できない》ではないか」ということです。

 「使えるもの」があるならば「できる」と思っているとき、人はそれを使おうと思いますし、使えると思うのです。そのように人間にできると思っているかぎり、「神にはできる」ということに真剣に目を向けることはありません。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。――それは単にお金があるかないかの話ではありません。「人間にはできる」と思っているかどうかということなのです。

 「神にはできる」という主イエスの言葉が本当の意味で自分の信仰告白となるのは、救いを得るために「使えるもの」が自分にはない、神に差し出せるものなど何一つない、本当に貧しいものだと自覚した時だけです。ですから主イエスは別の福音書においてこう語っておられるのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)。なぜなら「人間にできることではないが、神にはできる」からです。

 そして、「神にはできる」と書かれているとおり、神にしかできないことを神はしてくださったのです。「神にはできる。神は何でもできる」と主は言われましたが、その神の全能を神がどのように使われたか、私たちは福音によって知らされているのです。何でもできる神はその独り子を私たちに与えてくださいました。神は御子を十字架にかけてくださいました。この贖いの犠牲のゆえに、私たちの罪を赦してくださいました。神は私たちを清めて神との交わりに入れてくださいました。神は罪人を救い、永遠の命を与えることがおできになります。「神にはできる。神は何でもできる」。そう語られた主イエスは、実際にその神の御業によって遣わされた方として語っておられるのです。

 しかし、そのことがまだ弟子たちには分かっていません。「神にはできる」と主イエスが言っておられるのに、弟子たちは人間がしたことについて語り始めます。ペトロは言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)。「このとおり」というのは文字通りの意味は「ごらんください」です。自分を見てください、というのです。

 彼らが考えているのは財産を処分して施すことをしなかった金持ちと自分たちとの比較です。主イエスが単純にお金を手放したか否かを問題にしていると思っている。だから、お金を手放したこと自体が、今度はペトロにとって「使えるもの」になっているのです。その「使えるもの」をもって神と取り引きしようとしている。マタイによる福音書では、ペトロの言葉はこう伝えられています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。

 主イエスはペトロの言葉を単純に否定することはしませんでした。弟子たちに対しては、さらに語るべきことがあったからです。主は言われました。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(30節)。

 主イエスは「わたしのためまた福音のため」と言われました。大事なことはここで「永遠の命を得るために」とも「神の国に入るために」とも、「来るべき世において報いを得るために」とも主は言われなかったということです。「わたしのためにまた福音のために」は、「わたしの故にまた福音の故に」という意味の言葉です。主イエスの故にとは、どういうことでしょう。福音の故にとはどういうことでしょう。

 先にも申しましたように、イエス・キリストという存在そのものが「神にはできる」の現れでした。私たちを救うことができる神の、一方的な恵みの現れだったのです。それゆえにイエス・キリストの到来は「福音」なのです。良き知らせです。その主イエスのためまた福音のために何かを捨てるとするならば、それは恵みに対する応答以外の何ものでもありません。主はそのことを言っておられるのです。

 実際に弟子たちはやがて迫害の時代を生きることになるのです。ここに語られていることがやがて実際に起こることを主は知っておられるのです。実際に兄弟や親子の縁を切られることもあるかもしれない。畑や財産を失うこともあるかもしれない。しかし、それは救いを得るために払わなくてはならない犠牲ではないのです。救いを得るために何かを捨てるわけではないのです。それらはすべて恵みに対する応答としてなされることなのです。

 それゆえに、主は言われたのです。「この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。この世においても報われ、後の世においても報われる。逆説的ですが、報いを求めてではなく「イエスの故にまた福音の故に」恵みに応えて行ったことが、結局は報いを受けるのです。

 そのように、今日の私たちにおいても、何かを行うにせよ、何かを献げるにせよ、何かを手放すにせよ、大事なことは、《ただ神の恵みへの応答として行う》ということなのです。ならば本当に必要なのは、恵みを知るということなのでしょう。恵みを知ることがなければ、わずかな献げ物でさえ惜しむ心や報いを求める心をもってしか献げられなくなります。あるいはペトロのように「ごらんください」になるのです。そうではなく、私たちは神の恵みを知る者となりたい。そして、ただひたすら神の恵みに応えて生きる者となりたい。惜しみなく私たち自身を献げ、必要ならば持てるものを手放せる自由さを持ちたいものです。そう、最終的に「神にはできる」は、そこにまで及ぶことを信じたいと思うのです。「人間にできなくても神にはできる」と。お祈りをいたしましょう。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美し、御栄を褒め称えます。今日も愛する兄弟姉妹と対面でオンラインで、礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。今日も共に御言葉に聞きました。どうぞ、あなたが御子を通して与えてくださった恵みを、何よりも私たちが感謝して受け取ることができますよう、導いていてください。昨日は敬愛する栗原章雄さんの送る会を行うことができて感謝いたします。ご遺族の上にあなたの慰めと平安をお与えください。この拙きひと言のお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

柔らかな心に生きる

マルコによる福音書10章13~16節 2025年1月12日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 主イエスとその一行は、エルサレムを目指して旅を続けられていましたが、その途中ペレヤ地方に入って行かれました。そこでも主イエスは、集まって来る人々に神の国の福音を宣べ伝えられました。また助けを求める多くの人たちのために、力ある業をなさっておられました。

 その時のことです。主「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た」のです。「人々」とあるのは、子どもたちの親かあるいは親戚であったでしょう。「子供たち」というのは、幅広い年齢を指す言葉ですが、ルカによる福音書の並行個所には「乳飲み子までも」とあるので、乳児か幼児ぐらいの子どもたちであったのでしょう。

 いつの時代も親は、子どもたちの将来に「幸(さち)多かれ」と祈ります。そして子どもたちの将来を少しでも不安のない確かなものとするために、寺社仏閣に詣でたり、徳の高い宗教者から祝福を受けたりすることを願います。それは主イエスの時代も同じであり、親たちは偉大なお方である主イエスが来られたと聞いて、自分の子どもたちを主のもとに連れてきたのです。

 ところが、主イエスの「弟子たちはこの人々を叱った」とあります。手をおいてもらおうと子どもたちを連れてきた親たちを、厳しく叱責したのです。それはなぜであったでしょう。主イエスはこの地においても、多忙を極めておられました。集まって来る群衆に神の国の福音を宣べ伝え、主に助けを求める大勢の人々に癒しの業をなさっておられました。弟子たちはそのような主イエスを、子どものことで煩わせてはいけないと思って、叱責したのかも知れません。

 あるいは弟子たちは、自己本位な御利益だけを求める親たちの姿を許しがたいと思ったのかも知れません。子どもたちを連れてきた親たちは、神の国の福音を聞こうとやって来たのではありませんでした。主イエスに救いを求めて、ここに来たわけではありませんでした。自分の子どもに少しでも主イエスの御利益があるように、それだけを求めてやって来ました。弟子たちはそのような親たちが、主イエスを真剣に求める人たちへの伝道には邪魔になるだけだと考えて、彼らを押し止めようとしたのではないでしょうか。弟子たちなりの配慮と真剣さからそうしたのではないかと思うのです。

 ところが、主イエスはどうなさったでしょう。14節にはこのようにあります。「しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』」主イエスは、親たちではなく、弟子たちに対して「憤られた」と言うのです。この「憤られた」という言葉は、マタイやルカの並行個所には見られず、マルコだけに使われている言葉です。弟子たちなりの配慮や真剣さを考えると、主イエスが急に「憤られた」というのは、奇異な感じすらします。しかし、「憤られた」ということの中に、主イエスの断じて譲ることのできない御心が、強く表わされているように思うのです。

 主イエスは、「神の国はこのような者たちのものである」と言われています。これは、神の国にはだれが招かれているかという問いに、置き換えることができます。「神の国には、子どもたちのような者たちが招かれている」と言うのです。

 子どもたちは、いつの時代にも親にとっては欠けがいのない存在です。しかし社会の中では、本当には大切にされていません。大人中心の社会の中では、たえず周辺に置かれ、軽んじられているのではないでしょうか。 ゲーム機やケイタイ、サブスクの購買者として、あるいは子育てや教育に関わる様々なサービスの対象としては、大事にされているかも知れません。大事なお客さんです。しかし、大人社会の勝手な都合や利害によって、利用され搾取される存在であるのです。

 今日の弟子たちにとっても、子どもたちは神の国、神の救いからいちばん遠い存在であったに違いありません。弟子たちはメシアである主イエスに仕える自分たちが、神の国にいちばん近いと考えていました。その彼らの外には、主イエスに救いを求めて集まって来た群衆がいる。その外には自分の救いには無関心で子どもの御利益のためだけに集まって来ている親たちがいる。そして何も分からず、ただ連れてこられた子どもたちは、神の国から最も遠いところにいるというのが、弟子たちの認識だったのではないでしょうか。

 しかし主イエスは、最も遠くにあると思われていた者、周辺に追いやられていた者、子どもたちのような者たちが、神の国には招かれていると言われています。神は誰よりも先に、それらの者を御国へと招かれます。それはクリスマスのメッセージでした。神が真っ先に招いておられる者たちを、人間が自分の思慮や判断で妨げてはならない。神の御心を妨げてはならない。主イエスは、彼らのしようとしたことが、神の御心を妨げることであったがゆえに、「憤られた」のです。

かつてフィリポ・カイザリアで、受難予告をされた主イエスを、弟子のペトロがいさめようとしたことがありました。そのとき主イエスは、「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロを厳しく叱責されました。それと同じような憤りを、ここにも見る思いがするのです。また主イエスは、徴税人や罪人と食事を共にしていたとき、それを批判するファリサイ派の人たちに対して、こう言われました。「『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マタイ9章12~13節)。救いから最も遠いと見なされていた者、周辺に押しやられている者が真っ先に招かれている。それゆえに主イエスは、「妨げてはならない!」と厳しく言われたのです。

 しかし、どうして主イエスは、そのように断言されたのでしょう。なぜ、救いから最も遠いと見なされていた者、周辺に押しやられている者が、真っ先に神の国に招かれているのでしょう。主イエスは、私たちの疑問に答えるかのように、次のように言われるのです。15節「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」主イエスは、神の国に入ることのできる要件は「子供のようになること」だ、と教えておられるのです。

 そこではもちろん、子ども、特に幼な子のもつ純真さとか汚れのなさとかが言われているのではありません。子どもと関わった経験のある人なら、だれでも知っているように、子どもはいつも純真であるわけではなく、汚れがないわけでもありません。そうではなく、ここでは親や世話をしてくれる大人にすべてを委ねきっている子どもたちのあり方に、光が当てられています。幼い子どもは、本能的と言ってもよいほど、親に頼り切っていいます。そして頼り切っているがゆえに、安心しきって、今日という日を力いっぱい生きています。そのような子どもたちの有り様が、私たちのお手本なのです。この子どもたちのように、父なる神にすべてを委ねきっていることが、神の国に入ることの要件なのです。

 幼稚園の子どもたちなどを見ていると感じますが、小さい子どもにとっては、親ほど大切な存在はありません。幼稚園では、先生たちがお母さん代わりです。お母さんやお父さんが大好きで、お母さん、お父さんに頼りきっているのです。子どもたちは、そんな大好きなお母さん、お父さんには、いつも注目していてほしい、見ていてほしいと考えます。そのため親にとって望ましいことをして褒められると、その褒められた行動を何度でも繰り返して、いつの間にか身に付けてしまうのです。他方、親にとって望ましくないことをして叱られても、親が叱るという仕方で注目してくれることが分かると、それを何度でも繰り返すのです。親は子どもが望ましい行動をとったときには、積極的に注目を与えてやるべきなのに、案外褒めることもせずにやり過ごしています。一方、子どもが望ましくない行動をとったときには、その行動を無視するべきなのに、叱る、怒るということを繰り返して、かえって子どもに注目を与えすぎてしまいます。その結果、子どもは望ましくない行動をすることで、親から注目してもらえることが分かっているで、望ましくない行動を繰り返してしまうのです。たとえ叱られたり、怒られたりしても、それでもいいから、大好きな親に注目してもらいたいと願うのが、小さな子どもなのです。親からまったく顧みなれないこと以上に、辛いことはありません。そのようなことから考えても、小さな子どもがいかに親に頼りきっているかが、痛いほどに分かるのです。

 考えてみると、世の人々から救いに遠いと思われていた人々、すなわち徴税人、遊女、罪人といった人たちは、この幼な子のような切実さで、父なる神さまに依り頼んでいたのではないでしょうか。彼らはこの次の箇所に出てくる富める青年のように、自分の正しさや功績に頼ることはできませんでした。この人たちは、主イエスの語る福音を聞き、主が罪にあえぐ自分たちのところに医者として来られたということを、驚きと喜びをもって聞き取ったに違いありません。そんな彼らにとって、父なる神さまに依り頼むことが、彼らを支えてくれるすべてでした。彼らは神さまに依り頼む以外に、自分たちが生きていく道はないことを知っていいました。それはまさに「幼な子」のもつ切実さでした。けれども、そのような切実さの故に、彼らは神の国に入る資格を得ていたのです。

 今日の個所で主イエスの弟子たちは、人々が子どもたちを主のもとに連れてくるのを叱った、妨げようとしました。それは弟子たちが、利己的な御利益を求める親たちを福音宣教の妨げになると考えたからです。人は自分の功績や敬虔さを積み重ねていくことによって、つまり自分の立派さによって、神の御国へと近づいて行かなくてはならないと、考えていたからだと思うのです。

 しかし、彼らは最後まで主イエスに従って行くことができたかというと、そうではありませんでした。主イエスのいちばん近くにあることを自負していた弟子が、主イエスがユダヤの官憲に逮捕され、十字架に付けられることが分かると、主イエスを見捨てて逃げ去りました。「命を捨てることになっても、あなたに従っていきます」と豪語したペトロさえ、3度も主イエスを知らないと否定しました。弟子たちは主イエスを裏切りました。彼らは主イエスに近い者であるどころか、弟子と呼ばれる資格すら失ってしまったのです。

 しかし、十字架の死から復活された主イエスは、もう一度彼らを、ご自分のもとに招かれました。復活された主イエスは、彼らの罪を赦し、再び弟子として立たせ、神の国の福音を宣べ伝えさせるために、彼らを派遣したのです。弟子たちそのような挫折と再生の経験をして、主イエスが今日の個所でおっしゃっていることの本当の意味が、分かったのではないでしょうか。

主は、「子どもたちをわたしのところに来させなさい、妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃいました。それは、私たち人間のだれもが、幼な子のような者でしかあり得ないからなのです。自らの力や立派さで、神の国に至ることはできません。何もできない無力さの中で、主イエスに依り頼み、招いていただくことによってしか、神の国にはいることはできないからです。主の憐れみと赦しの中でのみ、神の御国に入ることができるからです。主イエスは今日の個所で、まさに私たちのような者を招こうとされて、「妨げてはならない」と憤ってくださったのです。今日の聖書で、招かれ、抱き上げられ、手をおいて祝福していただいた幼な子は、実は私たち自身の姿なのです。

主イエスのそのような恵みと憐れみを覚えて、そして私たちを御国に招くためにご自身を十字架に捧げられた主の深い愛を覚えて、今日から始まる新しい一週間を歩んでいきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心より讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に、対面とオンラインで礼拝を守ることができ、感謝いたします。今日は主のもとに子どもたちが来るのを妨げた弟子たちに、主イエスが憤られたという箇所を学びました。主が憤られたということの中に、子どものように神の国を受け入れる者を、何としてでも招こうとされる主イエスの強い思いを知らされました。どうか、私たちも子どものように、神さまにすべてをゆだねて依り頼む者となることができますよう、私たちを導いていてください。群れの中には病床にある者、高齢ゆえに様々な労苦を抱えている者、人生の試練に立たされている者がおります。どうか、あなたが共にいまして、その御手をもって一人ひとりを支えていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

神の確かな導きを信じて

マタイによる福音書2章13~23節 2025年1月5日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 クリスマスの恵みの時を過ごし、今2025年最初の礼拝を守っています。ここにおられるお一人おひとりが、新たな思いをもって、このときを迎えておられることでしょう。そうした中で、わたしたちは今日、御子イエス・キリストの誕生後の出来事についてご一緒に学びたいと思います。

 クリスマス礼拝においては、マタイによる福音書2章1~12節から御子イエス・キリストの誕生に際して、本来そのことを喜ぶべきユダヤの人々、エルサレムの人々には何の喜びもなく、ただ、異邦の世界の占星術の学者のみが、御子に礼拝をささげ、大きな喜びを示した、ということを知りました。それによって、イエス・キリストが、ユダヤの国という限られた所においてだけでなく、全世界において崇められるべき真の救い主であり、王である、ということが明らかに示されました。

 このように、マタイによる福音書は、ルカによる福音書のように、喜びという色彩で御子キリストの誕生の物語を記すことはしていません。唯一、学者たちの喜びが記されているだけです。これは、何を意味しているのでしょうか。ベツレヘムへの旅、家畜小屋での誕生、ゆりかご代わりの飼葉おけ、あとで学ぶエジプトへの避難、ガリラヤのナザレでの滞在、その一つひとつが赤子の誕生と幼子の成長にとって、大変な困難と危険を伴うものであったことは、誰の目にも明らかなことです。

 神の御子であり、世界の人々を救う働きをなさるお方が、なぜに、これほどの苦悩を誕生のときから味わわねばならなかったのか。ほとんどの人々が、そのような問いを抱くのではないでしょうか。最初のクリスマスの出来事には、喜びや明るさももちろんありますけれども、特にマタイ福音書においては悲しみや暗さの方がより前面に出ているということが、わたしたちがもつ偽わらざる印象です。

 この暗さの中に、わたしたちは、少なくとも二つのことを見ることができるように思います。その一つは、わたしたち人間の主イエスに対する拒絶ということです。自分自身をすべてのものの主(あるじ)としたがる人間にとって、真の主としてご自身を表されるイエス・キリストに対する激しい拒否が、もう既に幼子イエスに対して投げつけられているということです。エルサレムの人々や律法学者・祭司長たちのイエスに対する無関心も、ユダヤの王として君臨していたヘロデ王の恐怖と殺意も、それはわたしたち自身が、生まれながらに持っている神の御業への拒絶を表しているものである、ということなのです。したがってわたしたちは、彼らの主イエスに対する冷淡で、憎悪に満ちた反応は、わたしたち自身も持っているのだ、ということを知らなければならないでありましょう。

 もう一つのことは、イエス・キリストの誕生と成長の初期における苦しみの中に、既に主イエスの十字架の苦難の予兆が表れている、ということです。幼子イエスが受けた苦しみは、やがて成長して十字架の上で受ける苦しみと死の予兆です。御子キリストが、人類の罪を担って、十字架の上で贖いの業を成しとげられるということが、既に御子の誕生とその後の成長における苦しみという形で示されているのです。マタイはそのことを明らかにしようとしています。

 神は、あえてそのような中に、御子キリストを生まれさせ給いました。ここに、罪人すべてに向けられた神の救いのご意志を読みとることができます。主イエスの飼い葉おけの上に既に十字架の影が射している、といわれるのは、そういう意味においてなのです。したがってクリスマスを祝うということは、わたしたちがキリストと共に苦難を担うとの決意が伴ってこそ意義がある、ということになるのです。このように、御子の苦悩には、単に当時そういう状況であったということではなくて、むしろ、神のご意図が隠されていることを、読みとることが求められているのです。

 ところで、御子キリストを拒絶したのは、当時のユダヤ人であり、また、その中に、わたしたち自身の主イエスに対する姿勢が示唆されていることを見たのですが、それを典型的に表したのがヘロデ王でした。このヘロデ王は、日曜学校の生徒たちが聖誕劇をやるときなどには、やり手がいなくて困ることがあるほどに、悪役のイメージが強い人物です。確かにそのとおりの人物であったのでしょうが、この人物の中に表されている罪を、わたしたちは自分の中にもあるものとして重ねて考察するということは、大切なことがらであるように思います。

 ヘロデは一体何をしたのでしょうか。よくご承知のとおり、学者たちがユダヤ人の王として生まれたイエスを確かめたあと、ヘロデのもとに立寄るように命じたのに、それを裏切ったことを知って(12節)、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(16節)のです。幼児虐殺という残忍行為の首謀者がヘロデでした。それだけでなく彼は、身内の者や我が子をも、自分の地位を狙うものとして殺した悪名高い人物であります。

 パスカル『パンセ』(随想録)に次の文章があります。「ヘロデが殺させた2歳以下の子どもたちの中に、ヘロデ自身の子どももいたことをローマ皇帝アウグストが知ったとき、こう言った、『ヘロデの息子になるよりは、ヘロデの豚になる方が安全だ』と」。それほどに言われる残虐なヘロデの手から、幼子イエスはどのようにして逃れることができたのでしょうか。それは、主の天使がヨセフに現れて、エジプトに逃れるように告げることによってでした。ヨセフに守られて、御子イエスは魔の手から逃れることができたのです。

 また、ヘロデの死後、その息子アルケラオがユダヤを治めるようになったときにも、ガリラヤのナザレに逃れて成長することができました。こうして御子は守られたのですが、その背後においてヘロデの手による幼児虐殺という大いなる犠牲が払われたのでした。そのようなことを伴いながらではあっても、主イエスの幼い命が守られたことはなぜだったのでしょうか。

 それらはすべて、やがて避けることのできない神の決定としての十字架の死のために備えるものであった、ということによるのではないでしょうか。十字架による贖い、救いの完成という大事業をなすまで、主イエスは神の御手によって守られたということでありましょう。仕えさせるためでなく、仕えるための生涯を主が全うするために、時が必要でありました。そして、その時が満ちたとき、神はご自身の御子の命さえ奪いとられることをお許しになったのです。わたしたちにおいても同じであります。それぞれに時がある、ということを深く思わせられます。自分に与えられた務めと命(めい)とに誠実に立ち向かっていくときも、立ち上がるときも走り出すときも、また辞するときも死ぬときも、神ご自身の定めのままにそのことが示され、また、行われるということを、わたしたちは確信してよいのであります。

 そのような神への固い信頼と全面的な明け渡しというものを、わたしたちは、ヨセフの行動の中に見ることができます。ヨセフの神の御言葉への忠実さは、既に1章18節以下のところに示されていました。天使の言葉である「妻マリアを迎え入れなさい」、「その子をイエスと名付けなさい」に対して、ヨセフは「妻を迎え入れ」(24)、「その子をイエスと名付けた」(25)というように素直に従いました。そのようなヨセフの姿勢は、今日の箇所においては、三度にわたって記されています。第一に13節と14節において幼子を連れてエジプトに逃げ、そこにとどまったこと、第二に20節と21節において幼子を連れてイスラエルの地に帰ったこと、そして第三に22節と23節においてガリラヤのナザレヘ行くようにとのお告げに従ったことです。14節において「夜のうちに」エジプトへ行った行為などは、特にヨセフの神の御言葉への全き従順と敏速な応答とを示しているといってよいでしょう。躊躇なく神に従う一人の忠実な僕がそこにいるのです。

 ほかに何の頼るべきものを持たないものであったとしても、これほどに自分と愛する家族とを神の御言葉に委ねて生き続けたヨセフの姿に、わたしたちは心ひかれるものを感じないわけにはいきません。信仰はある種の愚かさを伴うものであるのかも知れません。先が見えない中で、今示される御言葉に愚直なまでに従うということが、信仰の領域にはあるのです。

 それほど単純に信じてもよいのかとか、それほど献身的に仕える必要があるのかとか、そんなに素直に神の約束や希望を受け入れてもよいのかというように、他の人から見れば、愚かとしか思えないほどの信仰に生きることは、実際にあり得ることではないでしょうか。ヨセフがどれほど深く、主イエスを通してなそうとしておられる神の御業やご計画を知っていたのだろうか、という疑問はあるでしょう。しかし、つねに神の言葉を尋ね、それを待ち、それに依存して生きた生き方は、わたしたち一人ひとりに信仰の旅路のあり方を教え示してくれるものでありましょう。

 そして、さらに、ヨセフを超えて、このヨセフを導かれた神のみ腕の確かさを彼の上に見ることが求められています。ヨセフの従順を生み出しだのは神の確かさであったのです。「わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか」(イザヤ50:2)。そんなことはないと神は言われます。その確かなみ手、み腕が、この全世界と歴史とを導き、また、わたしたち一人ひとりの上にも伸ばされているのです。

 さて、御子のすべての出来事に神の隠されたご意図がある、ということを先ほど述べました。そのことをマタイ福音書は、旧約聖書における預言や約束が成就した、という形で示すのであります。そのことはすでに1章22節で示されましたが、今日の箇所では次のように言われます。15節の「主が預言者をとおして言われたこと」とはホセア書11章1節のことです。また17~18節のエレミヤの預言は、エレミヤ書31章15節に出てきます。さらに23節の「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言は、イザヤ書11章1節や士師記13章5節などがそのことを語っている、と考えられています。

 今詳細に旧約と新約を照らし合せて検討することはできませんけれども、マタイが御子に起こる一つひとつの出来事の背後に、神の確かなご意志とご計画があることを示すことによって、御子イエスが「インマヌエル」と呼ばれるにふさわしい実体を備えたお方であることを証ししようとしているのです。主イエスに起こることは、神のみ腕の中で起こるのだ、という信仰の告白がここにあります。  

そして、そのことを明らかにすることによって、この福音書は、わたしたち自身が主イエス・キリストと共にあるならば、このわたしたちにおいても、神は共にいてくださり、神の御腕の中でわたしたちのすべてのことが起こるのだということを教えようとしているのです。イエス・キリストが共にいてくださるから、大丈夫だと告げられているのです。どのように激しい苦悩でも、悲痛なことであっても、神が主イエスにおいてわたしたちと共にいてくださるならば、神がご存じであり、計画しておられること以外のことは起こらない、と確信してよいのです。インマヌエルと呼ばれる主イエス・キリストによって、そのような神との確かな結びつきが始まったことをわたしたちは確信できるのです。

 新しい年を、都エルサレムから主イエスを閉め出したユダヤ人のようにではなくて、自分の心の王座に、主イエス・キリストを唯一の主としてお迎えしましょう。そして、わたしたちの国と世界の平和と和解、私たちの社会における共に生きる関係の確立のために、それぞれの賜物に応じて用いられるものでありたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日2025年最初の礼拝を愛する兄弟姉妹と共に守ることができ、心から感謝いたします。御子イエス・キリスト誕生後の出来事を共に学びました。幼子が人間の憎悪をまとった支配者のゆえに翻弄されつつも、神さまに守られ導かれたことを共に聞きました。そこに父ヨセフのあなたにすべてをゆだねる信仰があったことを知らされました。わたしたちもヨセフの信仰に倣い、あなたの御心にゆだねていく1年を送らせてください。世界は今多くの危うさと不安の中にあります。どうか今戦争のさ中にある人々、激しい災害のために苦境に置かれている人々に、あなたの守りと平安をお与えください。群れの中には病床にある兄弟姉妹、高齢ゆえの労苦を負っている兄弟姉妹がおります。どうか、一人ひとりをあなたが支え導いていてください。あなたの平安で満たしていてください。このひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

救い主を抱きしめて

ルカによる福音書2章25~35節 2024年12月29日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 先ほど司式長老に読んでいただいた聖書の箇所は、クリスマスの後日譚とも言うべき所です。御子イエスは生まれて8日目に割礼を受け、正式にイエスと名付けられました。割礼は男の子が神の民イスラエルに属する「しるし」であり、イエスという名は生まれる前に天使から示された名前でした。それから33日後、ヨセフとマリアは赤ちゃんを連れて、エルサレム神殿にやって来ました。それは生まれた赤ちゃんを神さまに献げ、再び神さまから受け取る儀式に参加するためでした。ヨセフとマリアは貧しかったので、神さまから子どもを受け取る贖いのいけにえとして、山鳩一つがいか家鳩の雛二羽を神さまに献げたのでした。

 その神殿に来たヨセフとマリア、何より幼子イエスとまみえた人がいました。それはシメオンとアンナという人でした。大事なことの証人は、一人ではなく二人いなくてはならないとされていました。だから二人の人が、幼子イエスとまみえたのでしょう。二人には違ったところがありました。一人は男で、一人は女です。シメオンについてどういう人であったかそのプロフィールは分かりませんが、アンナについては結婚後7年で夫と死別したとか、今84歳であるとかプロフィールが分かります。しかし、二人には共通したところがありました。それは二人とも高齢であったということです。シメオンについて年齢は記されていません。しかし2章29節の「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉から、シメオンも高齢であると昔から考えられてきました。

 まず、シメオンについてですが、あらためて彼はどういう人だったのでしょう。25~26節を読んでみましょう。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」そして「シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき」(27節)、いけにえを献げに来ていたヨセフとマリア、幼子イエスと遭遇したのでした。

 シメオンが、どこに住み、どんな仕事をしていたか、家族はどうだったかなどは、少しも記されていません。特別な地位にある人でも、神殿に仕える聖職者でもなく、信仰をもった一庶民であったということかも知れません。しかし、ここを読んでいて気づかされるのは、「聖霊」や「霊」という言葉が3回も使われているということです。「聖霊が彼にとどまっていた」(25節)、「お告げを聖霊から受けていた」(26節)、「“霊”に導かれて神殿の境内に入って来た」(27節)とあります。ここから察するに、シメオンという信仰者は「神の御心を悟る賜物を持った」信仰者だったのではないでしょうか。「神の御心が何であるか」を、他の人よりも深く敏感に悟ることのできる人が、シメオンであったのではないかと思うのです。勿論それは、神さまが彼に「聖霊」を通して示されたのです。

 シメオンが「聖霊」を通して示された御心は、実に驚くべきものであり、人知では計り知れない深いものでした。まず、彼には「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」(26節)という御心が示されていました。その御心通りに、シメオンはエルサレム神殿で、救い主なる御子イエスに出会うことができたのです。そして、彼は幼子イエスを胸に抱きながら、このお方がどのような救いを成し遂げるお方であるかを、語ります。31~32節「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」シメオンは示された御心によって、救い主イエスが、イスラエルだけでない、全世界の異邦人にも救いをもたらす方であることを語るのです。また、34節以下を見ますと、主イエスが長じて救い主の働きを始められたとき、どのようなことが起こるのか、そして主イエスがどのような最後を遂げるのかまでも、正確に見通しているのです。救い主イエスのお働きによって、主に敵対する者も現れるが、主によって苦しみから立ち上がる者も多く現れる。そして、最後には人間の罪をすべて背負って、十字架の死を遂げられる。その時には、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と予告します。シメオンは母マリアが、主イエスの十字架の目撃者となることを、予告しているのです。

 そのように、神の御心を深く敏感に悟ることのできたシメオンでした。しかしだからこそ、それに伴う労苦もあります。彼は「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいました。彼は「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と示されていました。シメオンは神の御心を深く敏感に悟る人であったために、いつも将来に目を凝らしていました。援軍の到来を待つ見張人のように、緊張感をもって救い主を待ち望んでいました。周囲に救い主について希望を失っている者がいれば、「元気を出しなさい。救い主はかならず来られるから!」と励まし続けていたに違いありません。それは決して、簡単なことではなかったでしょう。御心を知らされた者にしか分からない、苦労や忍耐があったに違いありません。

 しかし、待ち続けていた救い主とお会いすることができ、そのお方を腕に抱くことができた。やっとお目にかかることができた。その時にシメオンは、あの有名な言葉を語るのです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(29節)。この言葉は、「救い主をこの目で見ることができたので、安らかに生涯を終えることができます」という意味でしょう。しかしそれと同時に注解者たちは、ここの「主」が神を表わす「キュリオス」ではなく、いわゆる「家の主人」を表わす「デスポテース」という言葉が使われ、「去らせる」も僕をその務めに「留めおくことなく自由にさせる」という言葉が使われていると指摘しています。つまり、長年果たしてきた僕としての仕事・役割から自由にされるという意味も、そこにはあるのです。神の御心を深く知らされた者は、その御心に生き続ける使命があります。挫けることなく、その御心の実現を待ち望み、その御心を周囲の人たちに伝え続けていく使命があります。シメオンは救い主イエスにお会いして、その重大な務めから解放されたと、安堵の思いを言い表してもいるのです。

 シメオンは特別な賜物を与えられた人でしたが、私たち現代を生きるキリスト者も聖霊を与えられ、聖霊に導かれています。そして、シメオンがそうであったように、神の御心をイエス・キリストを通して示されています。その御心の最大のものは、クリスマスに神の御子が到来され、十字架と復活によって人間の罪を贖い、死に打ち勝ってくださったということです。そして、終わりの日にもう一度主イエスが到来され、この世界の救いを完成してくださるということです。その神さまの御心を私たちは信じ、その日の到来を待ち望みつつ、この世に福音を語り続けているのです。それは、21世紀の日本に生きる私たちにとって、簡単なことではありません。世の無理解や反発を受けながら伝道していくのです。

 こうした状況は、野球になぞらえることができるかもしれません。クリスチャンチームとこの世チームが、試合をしています。9回裏2アウト、イエス様がバッターボックスに立ち、さよならホームランを打ってくださいました。白球は確かにフェンスを越えていきました。クリスチャンチームは勝利を確信します。ところがこの世チームには、イエス様のホームランは見えていません。試合が終わったことは認めません。そこで、そのまま延長戦に突入し、クリスチャンチームは防戦一方の戦いを続けている。いつ終わるか分からない、厳しい試合が続いていると言うのです。「なるほど」と思いました。イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、決定的な勝利がもたらされました。しかし、それは世の多くの人たちが認めるには至ってはいません。端(なな)からバカにする人もいます。しかし、御心を示されたキリスト者は、終わりの日を待ち望みつつ、緊張感をもって福音を語り続けていくのです。神さまがその務めを解いてくださるその日まで、神さまの御心に仕え続けていくのです。

 さて、神殿で幼子主イエスにまみえたもう一人の人は、女預言者アンナという人でした。この人については先に申し上げたように、かなり詳しくプロフィールが記されています。彼女は結婚しましたが、わずか7年で夫と死別しました。10代の後半が結婚年齢であったとすると、20代半ばでやもめとなったことになります。それから約60年の間、女一人で人生を生き抜いてきたのでした。夫との死別後のアンナの生涯がどのようなものであったかは、分かりません。女預言者という務めが、職業として成り立ったのかどうかも不明です。しかし、確実なことは、彼女が神殿での信仰生活を、どれだけ生きる拠り所としていたかです。「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」(37節)とあります。若い日の夫との死別という悲劇に見舞われたアンナは、神殿を拠り所とし、神さまから決して離れようとはしませんでした。礼拝をし、断食と祈りを欠かしませんでした。そのアンナに、神さまは思いもよらない恵みを与えられました。彼女はイスラエルが待ち望んだ救い主イエスさまとお会いし、そのことを周囲の信仰者たちに伝えることができたのです。預言者にとって、救い主の誕生を伝えることほど、誉れある大きな務めはありません。信仰生活を生きる拠り所として生涯を過ごしたアンナに、神さまは大いなる祝福を与えられたのです。

 私たち現代の信仰者も、人生で色んな出来事に見舞われたことをきっかけに、教会の門をくぐることになった方たちが多いと思います。人生には予想もしないことが起こります。心を刺し通されるような悲しみもあります。しかし神さまは、傷ついて御翼の陰に避難して来る者たちを、あたたかく抱きしめてくださいます。その者を癒し、養い、育ててくださいます。そしてアンナがそうであったように、新しい使命に喜びをもって、生きることができるようにしてくださるのです。

 今日はクリスマスの後日談として、シメオンとアンナが幼子イエスとお会いしたところを読みました。二人には違ったところがありましたが、いずれもその信仰の生涯を、神さまの守りと導きのうちに過ごしました。神さまが与えてくださる務めに生きたのです。それは簡単なことではなかったでしょう。しかし神さまはその生涯の最晩年に救い主と見える機会を与えてくださり、彼らの人生を満たしてくださったのです。「わたしは主なる神にあって生涯を全うした!」と感謝と共に人生を振り返ることができたのです。そのような祝福に満たされた人生を、神さまは一人一人に用意してくださっています。そのような主にある人生を歩む決意を、一年を終えるに当って心に刻みたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】この世界を導き、教会を導いてくださる父なる神さま、あなたの御名を讃美いたします。今日は今年最後の礼拝です。この一年も教会を守り導き、一人一人の生活を支えて下さったことを、心より感謝いたします。新しい年がどんな年になるかは分かりませんが、あなたから託された福音宣教の働きをたゆまず行うことができますよう、強めていてください。共に礼拝をなし、祈りと讃美を捧げ、御国を仰ぎ望みながら、歩み続ける私たちとしてください。このひと言の小さなお祈りを、主イエスの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。