御心が行われますように

創世記14章1~16節  2025年5月11日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 

 今日の聖書である創世記14章は、創世記の中で最も謎に満ちた章です。旧約聖書の中で、最も解釈が難しい箇所の一つであるとも言われます。ここでのアブラムは、かなりの数の部下を従えて、戦場に赴くことのできる軍事指揮官として登場します。そういうアブラムというのは、ここだけです。

 また1~11節の問に9人の王の名前が出てきますが、この9人の王が一体誰であったのか全くわかりません。王の名前も地名も、ほとんど捉えどころがありません。この物語の背後には一体何かあったのか、それもわからない。何らかの歴史的事実に基づいているのかどうかもわからない。しかしそれならば、どうしてこんなことをたくさん書く必要があったのか、それも疑問です。この難解な章を解きほぐしながら、宝探しをするようなつもりで読んでみたいと思います。

 他のところでは、いつも最初からアブラムが関心の中心ですが、この14章では、最初アブラムとは関係のない王たちの戦いの物語で始まります。これは、聖書に出てくる最初の戦争です。そして残念ながら最後ではありません。この後、聖書には血なまぐさい戦争がたくさん出てくる。そしてその戦争の歴史は聖書の中にとどまらず、今日にいたるまで延々と続いています。

 アブラムが戦争に参加したということは、私たちの気持ちを重くさせます。「アブラムよ、お前もか!」と言いたくなります。ただ少しだけ彼を擁護して言えば、アブラムはただただ甥のロトを救出するために、戦争に参加したのでした。アブラムは、甥のロトが捕虜になったというところから登場いたします。

「ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。逃げ延びた一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て、そのことを知らせた。アブラムは当時、アモリ人マムレの樫の木の傍らに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと同盟を結んでいた。アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者318人を召集し、ダンまで追跡した」(14:12~14)。

アブラムは、いつの間にかものすごい力と兵を備えた人間になっています。ア

ブラムは不思議にもこの戦争に勝利し、一夜のうちに同盟軍の英雄になってしまいます(14:15~16)。今や彼には、何でも思いのままであったことと思います。一国の王、権力者になるチャンスでもありました。ここで、彼が権力を手にしていれば、彼の戦いも「甥ロトの救出」を名目にした打算的な戦いであったことになっていたでしょう。

 戦いに勝って凱旋したときに、ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」(14:21)と言いましたが、アブラムは「あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません」(14:23)と答えました。このとき、アブラムの心は神に対して開かれており、神が勝利をもたらしてくださったという思いであったのでしょう。ただし「若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々……の分は別です。彼らには分け前を取らせてください」(14:24)と言って、盟友に配慮を見せているのはおもしろいと思います。

 さて私たちは、この物語から「正義のための戦争」は正しい、という結論を引き出しそうになりますが、そのことは今日の世界においては、とても危険です。人が戦争をするときには、いつも「正義のために」ということが語られ、人道的動機や宗教的動機が表に担ぎ出されます。しかしその陰には、ほとんどいつも何か別の打算的な目的があって、それをカモフラージュし、その戦争を正当化するために、人道的・宗教的動機がもち出されるからです。

 木村公一という牧師が「パクス・アメリカーナとキリストの平和」という講演をなさり、それがブックレット『キリストの平和』に収められています。その中で、木村先生は、マクソーリーという人(米国のカトリックの倫理学者で平和活動家)の「アウグスティヌスとトマス・アキナスの戦争と平和に関する学説」を紹介しておられます。そこでは、「いかなる条件のもとで行われるとすれば、その戦争は正しいのか」という議論がなされているとのことです。誤解のないように言えば、「聖戦」(Holy War)ではなく、「正戦」(Just War)です。マクソーリーによれば、アウグスティヌスは「正戦」に五つの条件をあげているそうです。

 第一番目は、宣戦布告という原則です。宣戦布告をしないで開始した戦争、たとえば遊撃戦とか、奇襲とかはよくない。公権による宣戦布告が必要だということです。

 第二番目は、戦争は最後の手段であるという原則です。まださまざまな平和的手段が取れるならば、その努力を先にすべきであって戦争に訴えるべきではない。

 第三番目には、宣戦布告する側に求められる正しい意図の原則です。戦争突入は正義の回復のためであって、領土の拡張や経済権益の拡大のためであってはならない。

 第四番目は、無辜の民衆の殺傷禁止の原則です。民間人を巻き込んではならないし、攻撃してもいけない。つまり、軍と民を明確に区別して、軍だけを戦闘の対象とする、ということです。

 第五番目は、釣り合いの原則です。これは、戦争によって発生する被害と、戦争によって回復される善とを天秤にかけて、後者のほうが大きければ、その戦争は「正戦」と言えるということです。

 いかがでしょうか。昔は、その条件を満たす戦争があり得たかもしれません。しかし今日はたして、「正戦」は可能なのでしょうか。木村先生は、現代の戦争は、そのどの条件も満たし得ないと言われています。

 第一の宣戦布告に関して言えば、「真珠湾攻撃は宣戦布告のない戦争だ」と、しばしば引用されます。アメリカのベトナム戦争も宣戦布告はありませんでした。今日では、「ボタンを押したら24分間で大陸間弾道弾が届いてしまう」というのですから、国会を召集して「宣戦布告を承認してください」と決議をとる暇(いとま)はありません。核大陸間弾道弾や巡航ミサイルは、この宣戦布告の原則を無効にしてしまったのです。

 二番目の「最後の手段の原則」と三番目の「正しい意図の原則」は、非常に主観的です。戦争を仕掛ける側にとっては、それはいつも最後の手段であると思っているわけですし、そこにはいつも正しい意図があると思っているわけですから、もともと非常にあやしいものです。

 四番目の非戦闘員への攻撃禁止については、今日、民間人を巻き込まないということは、もはやあり得ません。戦争はいつも弱い側の国土が戦場になりますが、その国の民間人を必然的に巻き込んでしまいます。広島と長崎へ投下された原子爆弾も、国際法を無視した一般市民に対する大量殺戮でした。

 五番目の「釣り合いの原則」はどうでしょうか。もともと被害を数値化するなどというのはできないことですが、今日の戦争では、起きた後のことを考えると、どんなに回復されるものがよかったとしても、もたらされる被害は計り知れないほど大きいものです。

 私たちには、もはやどのような戦争ならあり得るか、と言っている余裕はありません。もはやいかなる戦争もできない時代に突入しているのだ、という現実を認識しなければならないと思います。

 さて戦争についての記述の後で、創世記の14章では、凱旋したアブラムの前に謎の人物が現れます。「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」です。サレムとはエルサレムのことであろう、と言われます。メルキゼデクは王であり、かつ祭司でもあったと言います。彼は謎のうちに現れ、謎のうちに去って行きます。「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。『天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。』」(14:18~20)

 このメルキゼデクが誰であるかは、よくわからないのですが、詩編110編において言及されて、さらにヘブライ人への手紙でも引用されています。ヘブライ人への手紙の著者は、このメルキゼデクについて、こう記しています。

「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。……メルキゼデクという名の意味は、まず、『義の王』、次に『サレムの王』、つまり『平和の王』です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」     (ヘブライ7:1~3)。

ヘブライ人への手紙の著者は、メルキゼデクがアブラハムよりも上に立ってい

ることを強調し(ヘブライ7:4参照)、彼は大祭司として、イエス・キリストを指し示しているというのです(ヘブライ4:14~8:6)。

 メルキゼデクは、アブラムを祝福するために現れました。彼は、王であり、同時に祭司でありました。祭司と王というのは、神と人間の間に立つ重要な職務であると考えられていました。さらに言いますと、もうひとつ神と人間の間に立つ職務は預言者でありました。預言者というのは、神様の言葉を人間に告げる人です。ベクトルで言うと、神から人間への方向の役割を担っている。それに対して、祭司というのは、民に代わって、民を代表して、神に向かって罪の贖いと執り成しを祈る人です。人間から神への方向のベクトルです。王というのは、神に代わって、神のみ心に従って、民を治める職務です。

 イエス・キリストというお方は、まさにこの神と人間の間に立つ三つの職務(預言者、祭司、王)を兼ね備えた存在として、この世界に来られました。預言者や祭司や王がその職務に就くときには、油注ぎがなされましたが(出エジプト28:41、サムエル下2:4、列王上19:16等)、まさにキリストという言葉は、「油注がれた者」という意味なのです(ヘブライ語ではメシア)。

 新約聖書は、イエス・キリストは神の言葉が肉体となった方(受肉、ヨハネ1:14)と告げています。神の言葉そのものであると言ってもよいでしょう。その意味で、「預言者の中の預言者」です。

 また祭司は、そのつど、そのつど、犠牲の捧げものをして罪の赦しを祈ってきましたが、イエス・キリストはご自身がどんな犠牲よりも尊い捧げものです。「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている」(ヘブライ7:26)。ご自身を、私たちの罪のために捧げて、執り成しをなされた「祭司の中の祭司」、大祭司でありました。

 同時に、イエス・キリストは、仕えられることによってではなく仕えることによってこの世界を支配された王、「王の中の王」、ヘンデルの「メサイア」のハレルヤ・コーラスにありますように「キング・オブ・キングズ」です。そのような形で、この世界を真実に支配される王です。

 メルキゼデクは、そういう祭司の中の祭司、王の中の王をほうふっとさせる存在です。それははるかにイエス・キリストを指し示しています。だからこそ、アブラムの上に立って、アブラムを祝福する地位にあったと考えるのです。

 私は牧師という仕事も、預言者と祭司という両方の側面をもっていると思います。大祭司キリストに仕える者として小さな執り成しをするのです。それと同時に、神様の言葉を取り次ぐ小さな預言者でもあります。王というのは直接的にはあてはまらないと思いますが、イエス・キリストが仕えられる王ではなく、人に仕える王であったということからすれば、牧師もそれにならって人に仕える者とならなければならないと思います。

 先週牧師のいない伝道所の委員さんたちと、伝道所の将来について話す機会がありました。無牧師の教会が年々増えています。委員さんの一人は、日本キリスト教会はもっと牧師を生み出す努力をしてほしいと、切実な思いを込めて語っておられました。本当にその通りだと思いました。イエス・キリストに仕える小さな預言者、小さな祭司である牧師がもっと生み出されるように、私たちも祈りを篤くしてまいりたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。今日は聖書の御言葉を通して、イエス・キリストが真の預言者・祭司・王であることを示されました。主イエスは神様と私たちの間に立って、御言葉を伝え、私たちのために執り成しをしてくださいます。また、神の御心を行うためにこの世に来られた真の王であられます。主は仕えられるためではなく仕えるために、王となってくださいました。私たちは仲保者であるこのお方によって救われ、永遠の命を与えられています。どうぞどのような時にもイエス・キリストに従い依り頼むことができますよう、私たちを導いていてください。今も世界では戦争が絶えません。為政者は人々のためではなく、人々を犠牲にして自分の欲望を満たそうとしています。どうか、為政者の誤った思いをただし、あなたの御心を天におけるように地にも為さしめてください。この拙き切なる願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

神に仕えることを学ぶ

マルコによる福音書12章13~17節 2025年5月4日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 今朝与えられております御言葉は、マルコによる福音書によれば、受難週の火曜日の出来事です。マルコによる福音書においては11章27節から13章の終わりまで、主イエスが神殿においてなされたたくさんの教えや問答が記されています。実にたくさんの分量が割かれているのですが、ここにある教えや問答がすべてこの火曜日だけでなされたと考える必要はないと思います。色々な時になされた教えが、ここにまとめられたと考えることができるでしょう。

 さて、今朝与えられている御言葉において、主イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人が数人、主イエスのもとに遣わされました。彼らは遣わされて来たのですが、遣わしたのは誰かと言えば、11章の終わりの所で、主イエスに権威についての問答を仕掛けた祭司長、律法学者、長老たちであっただろうと思います。彼らは、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の指導者たちであり、当時のユダヤ社会の指導者たちです。彼らに遣わされて、主イエスの言葉じりをとらえて陥れるためにやって来たのです。

 ここでファリサイ派やヘロデ派の人が遣わされているのですが、それは主イエスに向けられた問い、主イエスを陥れるためになされた問いの内容と関わっています。元々、ファリサイ派の人とヘロデ派の人とは政治的立場が全く違うのです。ファリサイ派の人というのは、ユダヤ教原理主義と申しますか、神の民であるユダヤ人として、自分たちは律法を守って神様の救いに与るために全精力をそこに注いでいる人たちです。彼らからすれば、汚れた異邦人であるローマに支配されているのはまことに面白くないわけです。一方、ヘロデ派の人というのは、当時のガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスを支持する人たちです。ヘロデ・アンティパスは、ローマ帝国のもとで領主であることを許されている存在ですから、当然、ローマ帝国による支配という現実を支持しているわけです。このようにローマに対しての姿勢ということから見れば、この二つのグループは全く正反対の立場だったわけです。

 その二つのグループの人が主イエスの所にやって来て、主イエスに問うのです。14節「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」この税金というのは、多分、人頭税であったと思われます。これは主イエスを陥れるための罠です。どういうことかと申しますと、「税金を納めなくてよい」と主イエスが答えれば、それはローマに反逆する者ということになります。ヘロデ派の人が黙っていません。ローマに訴えて、主イエスを捕らえることができます。逆に、「納めなければならない」と答えれば、人々は主イエスが神様に遣わされた方で、その不思議な力で自分たちをローマから解放してくれると期待していましたから、人々は失望し主イエスから離れるでしょう。更に、ファリサイ派の人々は「ユダヤには神様以外に王はいない」と叫んで、主イエスを糾弾することさえできるわけです。このように、どう答えようとも主イエスを追い詰めることができる、そういう罠がこの問いには仕掛けられていたわけです。

 これに対して、主イエスは彼らの策略を見抜かれます。そして、「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」と告げられました。デナリオン銀貨というのは、当時ローマ帝国が発行していた貨幣です。労働者の一日の賃金が1デナリオンでした。ですから、現代の日本で言えば五千円札とか一万円札に相当すると考えてよいでしょう。この銀貨には、当時のローマ皇帝であるティベリウスの肖像と銘が刻まれていました。お金というものは誰でもが造ることができるというものではありません。その国を支配する者だけが発行することができるのです。そして、お金というものは皆が使うものです。だから、ローマ帝国はそれに必ず皇帝の肖像と銘を刻むことにしていました。それは、このお金を造ったのが○○というローマ皇帝であると示すことによって、このお金を使う者は○○皇帝の支配のもとにあるのだということを示すためでした。ですから、ローマは皇帝が替わる度に、必ずその新しい皇帝の肖像と銘が刻まれた貨幣を造ったのです。

 エルサレム神殿においてはこのデナリオン銀貨は使うことができず、昔のユダヤのお金に両替しなければならなかったわけですが、ここには「神殿の中にローマの支配は及ばせない」という思いがあったのだと思います。更には、十戒の第二の戒め「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」に反するからということもあったのでしょう。そのようにローマのお金を使えないエルサレム神殿の中で、このようなやり取りが為されたというのも皮肉な気がします。エルサレム神殿の中では使うことのできないローマの銀貨を、彼らは持っていたのです。神殿を一歩出ればローマのお金しか使えないのですから、財布の中にはローマのお金が入っている。皆そうなのです。エルサレム神殿に巡礼に来た人も、ヘロデ派の人もファリサイ派の人も、財布の中にはローマのお金しか入っていないのです。しかし、エルサレム神殿に納めるものはローマのお金ではいけない、そう言って両替しているわけです。何か変です。

 神殿の内と外で全く違うように生きているわけです。神殿の外ではローマのお金を使い、ローマの支配の中に生きる。しかし、神殿の中ではローマのお金は使えない。神殿の中では、王はローマ皇帝ではなくて主なる神様ただ一人ということになっている。使い分けているわけです。

 主イエスは、彼らが持って来たデナリオン銀貨を見せて、「これは、だれの肖像と銘か」と問われました。彼らが「皇帝のものです」と答えると、主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました。この答えには、ファリサイ派の人もヘロデ派の人も言いがかりを付けようがなく、驚き、黙るしかありませんでした。主イエスは「皇帝のものは皇帝に」と答えることによって、税金は納めるべきだと言われたわけです。これでヘロデ派は黙るしかありません。しかし同時に、「神のものは神に返しなさい」と言うことによって、ただローマの支配だけを認めるのではなくて、ちゃんと神様の御支配を認めているわけです。これでファリサイ派の人も黙るしかありませんでした。

 主イエスはここで、ヘロデ派の人からもファリサイ派の人からも責められることのない見事な答えをされたわけです。しかしここで主イエスは、神殿を支配している人々が神殿の外はローマ皇帝の支配、神殿の中は神様の支配というような使い分けをしているのをよしとして、このように言われたのではないのです。聞いた方は、そのように受け取ったかもしれません。しかし、主イエスの意図はそうではありませんでした。確かに、この「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの言葉が、この世の領域・世俗の領域と、教会の領域・信仰の領域とを分けなければならない、そのような考え方の根拠となったという歴史はあります。そして、このような考え方をしなければいけない時もあるのです。例えば、政教分離というあり方は、近代民主主義国家においてはとても大切なもので、これを失えば近代民主主義国家は成り立たないと言ってもよいほどに重要なものです。この政教分離というあり方は、人類が本当に多くの血を流してやっとたどり着いた知恵であり、私は何としてもこれは守らなければならないと考えています。

 しかし、主イエスがここで言われたことは、「聖と俗とを分けなさい」ということではないのです。「皇帝のものは皇帝に」というのは確かに、この世の秩序というものを認めるということです。主イエスは、デナリオン銀貨を使うな、税金を納めるな、ローマと戦え、そんなことは言われないのです。いつの時代でも、どこの国でも、理想的な政治、神様の御心が完全に反映されるような政治が行われるなどということはないのです。政治というのは、色々な立場の人がいて、それを認めながら、より良い妥協点を見つけるしかないのです。色々と欠けがあっても、それを認めていくしかない。消費税に反対だからといって、それを納めなくてよいということにはならないのです。私たちはこの世の秩序を認め、良き市民としての歩みをしなければならないのです。

 問題は、「神のものは神に」です。この「神のもの」とは何なのでしょうか。デナリオン銀貨には、それを造った皇帝の肖像と銘がありました。では、神様によって造られたもの、それを造られた神様の肖像と銘が入ったものとは何なのでしょうか。それは、神様の似姿に造られた私たち自身です。つまり、私たちの命、私たちの富、私たちの時間、私たちの能力、それらはすべて神様のものなのです。主イエスは「神のものは神に返しなさい」と言われました。私たちは、自分の持てるすべてを神様にお献げして生きるのです。ここまでは皇帝に、ここからは神に、そして残りは自分に。そういうことではないのです。

 こう言ってもよいでしょう。私たちは、日曜日の朝だけキリスト者であるわけではないのです。教会にいる時だけ、礼拝している時だけクリスチャン。そんなわけがありません。私たちはいつでもどこでも、何をしていてもキリスト者なのです。この世の秩序のなかで、会社員として、主婦として、夫として、妻として生きている時も、キリスト者なのです。月曜から土曜までは皇帝の支配のもとで、日曜日は神様の支配のもとで。そんな使い分けはできないのです。どうしてか。それは、私たちはあの主イエスの十字架によって、完全に神様のものとされてしまったからです。私たちには最早、父・子・聖霊なる三位一体の神様以外に主人はいないのです。

 ですから、この世の秩序の中に生きている時も、私たちの主人、私たちの王は、ただ主なる神様しかいないのです。私たちは二人の王に兼ね仕えることはできません。ですから、もし私たちが、明らかに神様の御心に反することをこの世の主人から求められることがあれば、私たちは断固「No!!」と言わなければならないでしょう。皇帝もまた、神様によってその地位を与えられている者にすぎないからです。しかし、皇帝に仕える時、つまりこの世の秩序の中で生きる時、私たちは神様のものとされている者として、ためらうことなく、健やかに生きるのです。この世界のすべては、主なる神様のものだからです。私たちはキリスト者として仕事をなし、キリスト者として食事を作り、キリスト者として子育てをするのです。私たちの為す日常の営みのすべてが、主人である神様にお仕えする業なのです。牧師の仕事は聖なる業、信徒の日々の生活は俗なる業。そんなことは全くありません。どんな小さな業も、私たちは神様に仕える業として、神様の栄光のためになすのです。それが、あの主イエスの十字架という一点において全てを新しくされてしまった、キリスト者という存在なのです。神様の似姿を刻まれた一人一人として、心を高く上げつつ歩んでいきましょう。お祈りをいたします。 

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。今日も聖書を通して御言葉を与えられました。私たちキリスト者は神様の肖像と命が刻まれた神様の似姿です。あなた以外に私たちが仕えるべき方はおられません。どうか、真にお仕えするあなたにいつも心を向けつつ、日々の歩みを為すものとしてください。群れの中には病床にある者、齢を重ねて困難を覚える者、人生の試練の中にある者もおります。どうか兄弟姉妹一人一人

を励まし力づけてください。折に適った助けと導きを与えていてください。この拙き切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

死の壁を超えるもの

ヨハネによる福音書11章17~27節 2025年4月27日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 私は3つの教会で38年間牧師をしてきましたが、仕えてきた教会の交わりの中で、多くの方々が天に召されてまいりました。私は牧師として、お一人おひとりの方々の死に直面して、本当に死の持っている如何ともしがたい凶暴な力に圧倒されてきました。死というものが私たち人間の肉体にとっていかに決定的な力を持っているか、そして死を前にして、私たちの肉体がいかにもろいものであるかということを思い知らされてきたのです。

 何度にもわたる大きな手術を受けても効果なく、死に屈していかなければならなかった方もありました。思いもかけず突然、死が襲いかかってきた方もありました。長い病の中で確実にその命がむしばまれ、死に至った方もありました。死に至るまでの道のりには、それぞれ違ったものがありましたが、しかし、死は確実に私たちの命を飲み込んでいくということだけは、いやというほど思い知らされたものでした。

 こうした死の凶暴な力に直面するごとに、私はいつも大きな問いの前に立たされてきました。それは、「あなたは復活を信じていますか」という問いでした。そしてそのたびごとに私は、「率直に言ってよくわからない」、「主イエスにあって復活するというのが一体どういうことなのか、私にはまだよくわからない」という、自分自身の信仰の不確かさを思い知らされてきたのです。

 しかし同時に、不思議なことですけれども、死がすべてのものを支配しているように見えながらも、死がなお支配しきれないものがそこにある、ということも見させられてきたのです。なぜなら、死が命を飲み込もうとするまさにその瞬間に、かえって希望と喜びとが、死につつある人の中に満ちてくることを何度も見てきたからです。命が敗北しようとするまさにその時に、主イエスの命がそこで輝いていると感じられることが何度もあったからです。このことは私にとっては不思議としか言いようのないことでした。

 今申しましたように、私は牧師として多くの方々の死に直面してきました。しかしそんな時でも、いつも心はどこか冷ややかでした。人の死に立ち会いながらも、私の心の中のどこかで「死はいっさいの終わりだ」という声のささやくのを聞いていたのです。もちろん牧師としてそんなことを他の人に言うわけにまいりませんから、黙っていましたけれど、しかし心のどこかにそのようなしらけた思いがあったのは事実なのです。

「もうすべては終わったんです。いくら悲しんでも、もうその人は戻らないのです。死んだという事実を冷静に受けとめて対処する方が大切です」ということを思い、時には口から出したいような思いが何度もありました。恐ろしいニヒリズムです。死に対する深い絶望感のなせる業だったのでしょう。

 しかし今、私は死の中にこれまでとは少し違ったものを感じることができるようになりました。もちろん死が凶暴な力を失ったからということではありません。あるいは私が人の死に慣れてきたということでもありません。死そのものは相変わらずそのたびごとに凶暴で、正視できないほど恐ろしいものです。そのことは少しも変わることはないのですけれど、いま私は死に直面しても、何かゆとりといいますか、余裕というものを持つことができるようになっているのです。

 ゆとりとか余裕とかと言いますと、死と闘い、苦しんでいる人々に対しては何とも不謹慎な態度です。また、愛する者の死を悲しんでいる人々に対しては、心ないことだと批判されるかもわかりません。あるいは、他人事として冷ややかに傍観しているから、ゆとりや余裕など持ちうるのだと言われるかもしれません。

 けれども、私はそういう意味でゆとりとか余裕とかを言っているのではありません。死は相変わらず耐えがたいものですが、いまの私は、そうした苦しみうめく人と共に主イエスがいたもう、ということを見ることができるようになったのです。それは私か勝手に感じているとか、あるいは私だけがそのように思いこんでいるということではないのです。そうではなくて、死に直面している人がその苦しみの中で主イエスを見、主イエスにすべてをゆだね、死に向かいつつも、なおあるゆとりと余裕とを持っておられるその姿を、私が見ることができるようになったということなのです。

  

 兄弟ラザロの死を悲しんだマルタは、「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:21)と主イエスに不満をもらしました。

 マルタはここで、「もしあなたがいてくださいましたなら」と言っています。「もし……ならば」、私たちもこうした言葉をくりかえし口にします。もしあのとき病院に行っておれば、こんなことにはならなかったであろうにとか、もっと早くから健康管理をしていたならば、こんなに早く死ななくてもすんだだろうにとか、私たちはうしろへうしろへと目を向けていこうとします。

 マルタもまた過去へと目を向けて、主イエスに不満を言いました。「もしあなたがいてさえくださいましたならば……」

 その時主イエスは答えられました。「あなたの兄弟はよみがえるであろう」(ヨハネ11:23)と。

 ところがマルタはこれを聞いて、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」(ヨハネ11:24)と答えました。こんどはマルタは、終わりの日という未来に向かって目を向けたのです。このマルタの答えは一見信仰深いものに思えます。

 さきほど、私は死を前にして「あなたはよみがえりを信じていますか」と何度も問われる経験をしてきたと言いましたが、その時、マルタのように「終わりのの日の復活の時に復活することは存じています」と、確信を持って答えることができたなら、どれほど気が楽だったかと思います。しかし、私にはそこまでの確信はなかったのです。

 マルタははっきりと、終わりの日によみがえることは知っていると申しました。

 しかし、主イエスはこのマルタに向かって、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と答えられています。なんだか、すれ違いの問答に終わっている感じがします。そうです。確かに、マルタは一生懸命主イエスに向かって答えています。

 しかし、彼女は主イエスご自身を見ていないのです。マルタは「二つの時」に向かって目を向けていました。一つは「もしあの時にあなたがいてくださいましたならば」と過去に向けてです。そしてその次には、「終りの日の復活の時に復活することは存じています」と、目をはるか先の未来へと向けていたのです。

 しかし、主イエスが求めておられるのは、過去とか未来に目を向けるのではなく、いま、マルタの前に立つ主イエスを見つめるということなのです。いま、マルタの前に立っておられる主イエス、彼女の悲しみと嘆きとに共にいたもうその主に向かって目を向けること、それが新しい命のはじまりであることを主イエスは語っておられるのです。

 よみがえりの命は、はるか未来に起こることではなく、この主イエスと出会っているところからすでに始まっているのです。私たちの肉体がまさに朽ち果てようとしている時でも、死の苦しみに耐えられずにうめいている時でも、いやもう冷たい躯(むくろ)と化しつつあるその瞬間にあっても、主イエスに向かって目を向け、主イエスにすべてをゆだねることによって、主イエスの命が、すでに私たちのうちにおいて始まっているのです。「私を信じる者は、死んでも生きる」ということは、そういうことなのです。

 前任の教会でのことです。私たちはSさんというご婦人を天にお送りしました。Sさんは若き日に信仰を与えられ、家庭においても、また教会においても誠実そのものの人柄でした。長らく教会の執事としてもご奉仕くださり、日曜日にはだれよりも先に教会に来て、ご奉仕されていました。

 70歳を超えてから脳梗塞を起こされたことがあり、お嬢さんが看護師長をされている大阪府豊中市の病院で手術を受けられました。手術の直前にお訪ねしました時は、手術前の緊張からでしょうか、手術や病状への不安を訴えておられました。しかし、すぐに「クリスチャンのくせに、こんなことではイエス様に笑われますね」と、少し恥ずかしそうに笑っておられました。私は「そんなことありませんよ。みんな死ぬのがこわいのですから」と、慰めにもならないことを言うだけでした。

 その後小康状態となり、退院して同じ豊中市内の高齢介護施設に入所されていました。しかし一年ぐらい後に体調を崩され、病状がさらに悪化しました。お会いするたびに肉体は日ましに衰えているのは明らかでした。しかし、信仰はかえって強められておられることを感じました。

 亡くなる少し前にお訪ねしましたが、もう声を出す元気もなかったのでしょうか、ノートにボールペンで「もうすぐ神様のところに行けそうです」と書かれ、次に私の手のひらに指で「ありがとう、皆さんによろしく」と書き残されたのでした。手のひらに書かれた「見えない文字」を見ながら、私は主イエスの「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」という言葉を心の中でくりかえし味わっていたのでした。

  先週、私たちはイエス・キリストの復活を祝うイースター礼拝を守りました。私たちの毎日の生活にはいろいろな苦しみや悩みがあります。そして私たちの肉体は確実に死へと向かって進んでいくのです。しかし私たちの肉体が、そして私たちの人生がどのようなものであったとしても、私たちはそのまっただ中で「私を信じるならばたとい死んでも生きる」と語りかけ、私たちと共に歩まれる方のあることを知らされるのです。多くの人々の死に直面して、その死の悲しみと苦しみの中にありながら、それぞれの方が主イエスに向かって、「主を信じます」と告白してこられたのを見ることが許されてきました。

 イースター礼拝を守った私たちも、「主よ、信じます」という告白を共にしたいと願います。そしてその告白が私たちの口からなされる時、私たちの現実がどのようなものであったとしても、いまここで、キリストにある新しい命に生かされていることを、私たちは確信してよいのです。主イエスを信じる者は、死んでも生きかえるからです。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。神さま、私たちの目をいつも主イエスに注がせてください。私たちがイエス・キリストの復活の命に生きることができますよう、一人一人を支えていてください。今日礼拝後に行われる墓前礼拝の上に、あなたの導きと祝福をお与えください。このひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

復活の主が共におられる

ルカによる福音書24章13~35節 2025年4月20日(日)イースター礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今日お読みしました聖書個所には「二人の弟子」が出てきました。そうです、ここで彼らは確かに「弟子」と呼ばれています。イエス・キリストの弟子たちです。しかし、今日の箇所は、彼らがエルサレムから離れていく姿から始まります。他の弟子たちが集まっているエルサレムから離れていくのです。主イエスは死んでしまったからです。だからもはやキリストの弟子であり続ける理由もないし、キリストの弟子としてエルサレムに留まる理由もないのです。エルサレムをあとにした二人の弟子たちにとって、エマオへと向かう旅路は、いわばキリストの弟子であることから離れていく旅に他なりませんでした。そのように、キリストの弟子ではなくなりつつある二人の姿をもって、この話は始まるのです。

 しかし、今日お読みしました箇所の終わりに至りますと、なんと彼らは再びエルサレムにいるではありませんか。彼らはキリストの弟子として他の弟子たちと共にいるのです。いったい何が彼らをエルサレムに帰らせたのか。それが何であるかを伝えているのが今日の物語です。言い換えるならば、この物語は、何が人をキリスト者であり続けさせるのか、キリスト者であること、あり続けることは、いったい何を意味するのかを私たちに伝えている物語なのです。

 はじめに13節以下を御覧ください。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」(13~14節)。

 「この一切の出来事」とは、ナザレのイエスという方が十字架にかけられ殺されたこと、葬られたこと、そして、その遺体が無くなってしまったことなどの諸々の出来事です。その出来事について語り合っている彼らに、一人の人が近づいてきました。そして、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(17節)と尋ねたのです。

 「二人は暗い顔をして立ち止まった」(17節)と書かれています。そして、その人がさらに尋ねるので、彼らは答えました。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです」(19~20節)。

 彼らの思い出の中には、「行いにも言葉にも力ある預言者」としての主イエスがいました。預言者というのは神の言葉を語る人です。預言者は死んでもその言葉は残ります。いや、言葉だけではありません。「行いにも力ある預言者」と言われています。預言者の行為も残ります。言い換えるなら、預言者の生き様が残るのです。そのように、確かに主イエスという御方の言葉と行為は、主イエスが死んでしまった後でも、彼らの心の内にしっかりと生きていたに違いないのです。

 しかし、彼らは暗い顔をしていたのです。それは単に死別の悲しみのゆえではありませんでした。その次にこう書かれています。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)。「望みをかけていました」という言葉は、望みが「過去」になってしまった、ということを意味します。暗い顔をしていたのは、希望がもはや過去のものとなってしまったからです。

 つまり、主イエスの言葉と行いが記憶の中に残っていようと、その生き様による感化が残っていようと、それは希望に結びつきはしなかったということなのです。彼らがどんなに《過去の人》である主イエスについて語り、論じ合っても、そこには救いもなく希望もなかったのです。それゆえに彼らは、キリストの弟子であり続けることもできなかったのです。彼らはエルサレムを離れ、エマオへと向かう道を暗い顔をしながら歩いていたのです。

 さて、ここに見る二人の姿は、一つの大きな事実を示しています。どんなに主イエスの言葉や行為が大きな力を持っていたとしても、そのことによっては、主イエスの弟子たちは後の時代まで存在し続けることはなかった、ということです。それだけでは十字架の後の教会、十字架の後のキリスト者は存在し得なかったのだ、ということです。単に主イエスの言葉や行い、人格的感化が「生きている」というだけでは、キリストの弟子であることはできないのです。

 そこで、15節の御言葉が大きな意味を持つのです。「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」― 復活されたキリストが彼らと共に歩まれたというのです。しかし、彼らはそれが主イエスであることに気づきませんでした。なぜでしょうか。ただ聖書は「二人の目は遮られて」と説明しています。これは31節に関係します。そこで「二人の目が開け、イエスだと分かった」と書かれているのです。共に歩まれる復活のキリストは、目が開かれて初めて認識されるのだ、ということです。

 そのように、二人は復活のキリストに気づいていないのですが、そこにはキリストがなされた一連の働きかけが記されています。彼らが知る前に、すでにキリストの働きかけは始まっているのです。

 キリストは近づいて来られました。一緒に歩き始められました。彼らに問いかけられました。そして、大切なことが25節以下に書かれています。「『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(25~27節)。キリストが聖書の言葉を解き明かされたのです。

 そして、二人は主イエスと共に家に入ります。彼らは一緒の食事の席に着きます。ところが興味深いことに、キリストは客としてではなく、家の主人であるかのように振る舞うのです。キリストがパンを割き、賛美の祈りを唱え、パンを割いて渡されたのです。

 その一連のキリストの働きかけを経て、彼らの目が開かれました。「すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)と書かれています。これは大変奇妙なことです。「目が開けて見えるようになった」というのなら話は分かります。しかし、ここでは逆なのです。見えなくなったというのです。

 そうしますと、結局、キリストが目に見えるか見えないかは、本質的には重要ではないということなのでしょう。重要なのは「目が開けた」ことなのです。今まで共に主イエスが歩んでくださったし、これからも共に歩んでくださることが分かるということだからです。それが信じられるということこそ、大切なことなのです。

 そして、それが信じられた時、彼らは振り返ってこう言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。失望していた彼らの内に、命の火が灯りました。まさに死んでいたような彼らの心の内に、命の火が灯りました。そして、その炎が大きく燃え上がり始めたのです。

 彼らがかつて抱いていた望みはどうなったのでしょうか。相変わらずイスラエルは解放されてはいません。相変わらずローマ帝国の支配のもとにあります。見えるところは何一つ変わってはいません。しかし、彼らはもはや希望を失って暗い顔をして歩いている者ではありません。もはや失意の中に死んでいるような者ではありません。復活のキリストが伴ってくださったこと、これからも伴ってくださることを知ったからです。キリストによって命の炎を内にいただいた人だからです。そして、彼らはエルサレムに引き返します。弟子たちの仲間のもとに戻っていくのです。そこでキリストの弟子として、新たに生き始めるのです。生きておられるキリストの弟子として生き始めるのです。

 このように、キリスト者であり、キリスト者であり続けるということは、いったい何を意味するのかという問いに、今日の聖書箇所は明確に答えています。キリスト者とは、単に二千年前の主イエスの言葉を実践して生きる人ではありません。単に主イエスの行為を模範にして生きる人ではありません。そうではなくて、キリスト者とは復活のキリストと共に生きる人を言うのです。主イエスは単に「過去の人」として思い起こされたり、敬われたりすることを望んではおられません。私たちの現実の中に共に生きることを望んでおられるのです。

 ここに書かれていることは、単にあのクレオパたちの特殊な経験ではありません。教会において私たちに、今も与えられている賜物なのです。ここには今日(こんにち)もなお教会の内において起こっている事、起こり得る事が記されているのです。聖書が解き明かされ十字架と復活の意味が明らかにされることも、聖餐において復活のキリストのご臨在が示されることも、またそこに伴って湧き上がる喜びも賛美も、悲しみと失望によって沈んだ心に命の炎が燃えあがることも、その一切は復活のキリストの働きであり、キリストの賜物なのです。そのように、復活のキリストの働きかけを受けながら、キリストと共に生きる人、それをキリスト者と言うのです。

 そこで見落としてはならないことが一つあります。28節以下に次のように書かれています。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」(28~29節)。

 彼らの内に起こった全ての良きことは、主イエスの一方的な恵みの御業でした。しかし、そのような主の恵みの御業に目が開かれるに至るには、彼ら自身の側からも行ったことがあるのです。それは復活のキリストを《引き止める》ということでした。つまり彼ら自身が主と共にいることを《求めた》ということです。そして、主イエスがパンを裂かれる食卓に身を置いたということです。

 彼らはキリストと知らずに求めました。ありがたいことに、私たちにはすでにキリストの復活が伝えられていますから、私たちは知った上で求めることができます。キリストが御臨在くださることを知った上で、聖餐にあずかることができます。そのように、キリストと共にあることを求めて、私たちは今ここに集まっているのです。

 その求めは、祈りの言葉として讃美歌218番「日暮れてやみはせまり」に繰り返されている言葉です。「主よ、ともに宿りませ」。あの復活の日の夕方、あの弟子たちが主に願い求めたように、私たちも主に向かって共に祈り続けたいと思います。「主よ、ともに宿りませ」と。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を心から讃美いたします。今日、御子イエス・キリストの復活を祝うイースター礼拝を、敬愛する兄弟姉妹と共に守れましたことを感謝いたします。イエス・キリストは死に打ち勝ち、復活され、私たちと共に歩んでくださっています。今も生きて共に歩まれる主イエスの弟子として生きるのが、私たちキリスト者であることを示されました。あなたは今も、聖書の御言葉の解き明かしを通し、聖餐式の恵みを通して、私たちの心に信仰の炎を燃え立たせてくださいます。その大きな恵みを深く覚えつつイースターの出来事を祝わせてください。この礼拝において一人の姉妹が主イエスを救い主と告白し、洗礼を受けられます。どうか、私たちの群れに加わり、キリスト者として歩み始める姉妹の上に、主の祝福と励ましを与えていてください。

群れの中には病を得ている者、高齢のために様々な困難を抱えている者、人生の試練に立たされている者がおります。どうか、一人一人の上に復活のキリストの恵みを豊かに注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主のひとみの中の私

ルカによる福音書23章32~43節 2025年4月13日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 主イエスがかけられた十字架の上には、「これはユダヤ人の王」という札が掲げてありました。ローマ人が掲げた札です。明らかにユダヤ人を見下して馬鹿にして掲げた札です。「この惨めな無力な男が、彼らユダヤ人の王なのだ!」そんな嘲笑を込めた罪状書です。

 そんなユダヤ人たちを馬鹿にしたような罪状書が掲げられたのは、理由のないことではありません。実際、ユダヤ人の民衆たちは、つい数日前までその男が彼らの王となると本気で信じていたからです。もっともユダヤ人は「ユダヤ人の王」という言い方はしません。「メシア」と呼びます。イスラエルの民が待ち望んできた力ある王です。このナザレのイエスこそ待ち望んできたメシアに違いないと思って、多くの人々はついて来ました。実際、その御方は力ある御方でした。悪霊を追放し、病気を癒し、大群衆に食べ物を与えたなどの数々の奇跡について噂は噂を呼び、その御方の周りにはいつも群衆が取り巻いていたのです。

 5日ほど前にエルサレムに入城された時もそうでした。エルサレムに向かう道には、こんな賛美の歌声が響いていたのです。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」(19:38)。「力ある王がついにエルサレムに来られた!この御方がユダヤ人の王としてローマ人に支配されている我々を今こそ救ってくださる。この王がイスラエルのために国を建て直してくださる。」人々はそんな期待をもってここまでついて来たのです。

 しかし、今、そのメシアであるはずの人物が、十字架に磔(はりつけ)にされているのです。自分の手足すら動かすことができません。「民衆は立って見つめていた」と、今日の35節に書かれていました。彼らが見つめていたのは全く無力なメシアでした。ユダヤ人からすれば、無力なメシアなどあり得ない。無力なメシアなどいらないのです。

 はじめからメシアだとは思っていない議員たちは、嘲って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」それは今や、民衆の声の代弁でもあったことでしょう。「もしメシアなら!」― いや、もはやメシアなどではあり得ない。この嘲りをローマ人も真似します。彼らはメシアとは呼びません。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。ユダヤ人にせよ異邦人にせよ、もはや誰もが、力ある王などとは思っていません。本当に力ある王でなければ、いらないのです。

 結局、そこに見るのは、ある意味では普遍的な人間の姿です。自分たちの求めているものが与えられるという期待があればついて行くのです。しかし、無力であることが明らかになったら、もういらない。もう必要ないのです。その意味において「十字架につけられたメシア」は、普通に考えるならば人間にとって「いらないもの」の代表と言えます。

 しかし、教会は今日に至るまで、十字架につけられたメシア(キリスト)を宣べ伝えてきたのです。後にパウロはこう書いています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(Ⅰコリント1:22~23)。それはなぜなのか。「そんなものいらない」と言われても仕方のない、「十字架につけられたキリスト」を教会が今日まで宣べ伝えてきたのはなぜなのか。―その理由をはっきりと示しているのが、その後に書かれている話です。十字架につけられたメシアの傍らで、いったい何が起こっていたのか。その続きを読んでいきましょう。

 十字架につけられたメシアの両側には、他に二本の十字架が立てられていました。十字架にかけられている一人がイエスを罵ります。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)。先ほどの議員の嘲りに似ていますが、意味合いが少し違います。新共同訳では「自分自身と我々を救ってみろ」となっていますが、原文では「自分自身と我々を救え」という単純な命令文です。彼は嘲っているのではないのです。そこに込められているのは、「自分たちは救われて然るべきだ」という思いです。だからそうしないメシアを罵っているのです。「お前はメシアではないのか。ならば自分自身と俺たちを救え!」

 彼については「犯罪人の一人」と書かれています。いかなる罪を犯したのでしょうか。十字架刑というのは、手間と時間がかかる処刑方法です。そのように時間をかけてさらしものにする、大きな目的は見せしめです。見せしめにされるのは、主(おも)に主人に反抗して反乱を起こした奴隷たちか、ローマの国家権力に対する反逆を企てた活動家たちです。ですから多くの人は、この二人も単なる犯罪者ではなく政治犯であったろうと考えます。わたしもそう思います。

 彼らが政治犯であるならば、主イエスを罵った男の言葉は大変よく分かります。彼らは正義のために戦ってきたのです。神のために戦ってきたのです。少なくとも、彼らの意識としてはそうなのです。しかし、現実には異教のローマ人たちが勝ち誇り、自分たちは十字架にかけられて、苦しみもがいて死を迎えようとしている。正しい者が苦しんで、悪い者がそれを喜んでいる。そんなことは、あってはならないことだという怒りが湧き上がります。「神がおられるなら、メシアが来られたというなら、我々は真っ先に救われて然るべきだろう。お前はメシアではないのか。自分を救え。我々を救え!」

 彼の抱いた思いは、多かれ少なかれ私たちにも覚えがあるようにも思います。苦しみの中で、私たちもしばしば言うのではないでしょうか。「わたしは悪くないのに!」悪い方が苦しんでいなくて、悪くない方が苦しんでいる。もし神がいるなら、もし救い主なるものがいるならば、このような状態のままに置かれているのはおかしいではないか!その思いは私自身覚えがあります。皆さんも、おそらくそうではないでしょうか。

 しかし、同じような立場で、同じ苦しみの中にあったもう一人の人は、そこで全く違ったことを口にしたのです。彼はこう言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40~41節)。

 お前は神をも恐れないのか! そう彼は言いました。彼自身は苦しみの中にあって、死を目の前にしながら、神の御前に身を置いているのです。彼は神への恐れをもって神と向き合っているのです。誰が正しいとか誰が悪いとかいうこの世の判断の中に身を置いているのではなく、神の判断の前に身を置いているのです。その時に、彼は思うのです。わたしは決して正しくなどない!だから、彼は言うのです。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と。

 彼が言う「自分のやったこと」というのは、単にローマの法律に背くことや、反権力闘争において行ってきた、暴力や殺人のことではありません。彼は「自分のやったこと」と、神の御前において言っているのです。そこでは、他の人は知らないかもしれないけれど、神は知っておられることが問題になるのです。他の人は知らないかもしれないけれど、神だけは知っている心の最も深いところまでを含めた、「自分のやったこと」なのです。ある意味では、神だけが知っている自分の人生のすべて、それこそが「自分のやったこと」です。それが正しく裁かれ、正しく報われるとするならばどうなるのか。彼は自分が十字架の上にいることが当然だと思えたのです。

 その時に、隣にいる十字架につけられたメシアは、全く違って見えてくるのです。十字架につけられたメシアなんていらない? とんでもない!彼はメシアが同じ苦しみの中にまで来てくださっていることを見たのです。本来、苦しむ必要のない正しい方が、本当の意味で正しい方が、罪人である我々の苦しみの中にまで来てくださっている。こんなところにまで来てくださっている!そんな思いを込めて彼は言うのです。「しかし、この方は何も悪いことをしていない!」

 彼はそこに、メシアを遣わされた神の憐れみを見たのです。神を恐れる者だけが知ることのできる、神の憐れみを見たのです。ですから、その憐れみに寄りすがって最後の力を振り絞るようにして、彼はメシアに言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。「あなたはこの世に来られ、人間の罪の最も深きところにまで来てくださいました。そこで苦しみもがいている、私のところにまで来てくださいました。そこで見たわたしを、そこでこう祈ったわたしを、どうか忘れないでください」。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

 するとそこで主はすぐさま、彼にこう宣言されたのでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」メシアは苦しむ罪人の傍らにまで来てくださって、今、十字架の上におられる。しかし、メシアは王なのです。王の権能は裁きを行う権能なのです。メシアは最終的な裁きを行う王なのです。その王が権威をもって、十字架の上から宣言するのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる!」と。それは王が権威をもって宣言する、罪の赦しに他なりません。彼は罪を赦された者として、罪のゆえに滅びる者ではなく、主イエスと一緒に楽園にいることになるのです。

 彼は神の国においてではなく、死んだ後にでもなく、生きている間に、依然として苦しみのただ中にある時に、その御方から罪の赦しと救いの宣言を聞くことになりました。これが、今日も私たちに起こっていることなのです。ボッヘッファーという人は言いました。「人は神を十字架へと追いやる。神はこの世においては無力で弱い、しかし神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ、僕たちのもとにおり、また僕たちを助けるのである。」これが十字架につけられたキリストです。教会が宣べ伝えてきた、十字架につけられたキリストです。私たちもまた、十字架につけられたキリストの傍らにいるのです。否、キリストが、私たちの傍らにいてくださるのです。あの赦された罪人と同じところに、私たちもいるのです。そして、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる!」と宣言してくださっているのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。受難週の最初の日に、敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、感謝いたします。御子イエス・キリストは、二人の犯罪人と共に十字架に付けられ、死なれました。それは神様の前に死ぬほかない、罪を重ねてきた私たちを助けるためでありました。御子イエス・キリストは、そのようにして私たちを罪の縄目から解き放ち、永遠にわたって開かれた神の支配の園パラダイスに生きる者としてくださいました。どうか、苦しみのさ中にある時も、地上の死を間近にしている時でさえ、キリストが傍らにいてくださることを、私たちに覚えさせてください。群れの中には、重い病を得ている者、その生涯を終えようとしている者もおります。どうかあなたの全き平安をもって、支え励ましていてください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

神の悲しみ

マルコによる福音書12章1節~12節 2025年4月6日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜   

 「イエスは、たとえで彼らに話し始められた」(1節)。今読んでいただいた聖書において私たちが聞いたたとえ話は、群衆に向けて語られたものではなくて、ある特定の「彼ら」に対して語られた話です。その「彼ら」とは、11章27節に出てきた「祭司長、律法学者、長老たち」です。イスラエルの指導者たちです。このたとえは「彼ら」に対して語られたのです。

 時は主イエスがエルサレムに入城されて二日目です。火曜日のことです。その二日後の夜、主イエスは捕らえられ、金曜日に主は十字架にかけられることになります。つまりその時に向けて、主イエスの逮捕と処刑の準備が着々と進められていた時の話なのです。その準備を進めていたのが、他ならぬこの「彼ら」です。祭司長、律法学者、長老たちなのです。

 もちろん、主イエスはそのことをご存じです。すでにエルサレムに来られる前から、主は弟子たちにこう語っておられたのです。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(10:33)。そのように、今日読んでいただいたたとえ話は、間もなく殺されようとしている方が、自分を殺そうとしている人々に語りかけている話なのです。

 そして、殺そうとしている人々は、そのたとえが自分たちの話であることを、はっきりと理解したのです。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った」(12節)。これが今日読んでいただいた箇所の結末です。

 彼らは、このたとえ話が自分たちの話だと理解しました。息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった農夫たちとは、自分たちのことだと理解しました。主イエスがご自分をこの殺される「息子」にたとえていることも理解したことでしょう。思い当たることがあるからです。実際、目の前にいるナザレのイエスというこの男を、必ず捕らえて殺してやると決意していた彼らなのです。群衆さえいなければ、すぐにでも捕らえて殺してやりたいと思っていた彼らなのです。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」と聖書は語っているのです。

 しかし、この「当てつけて」という訳はある意味では一面的な翻訳です。確かに彼らは「当てつけられた」と感じたに違いない。しかし、もともとの言葉には「当てつけ」というネガティブなニュアンスはありません。ただ「彼らに向けて語られた」と書かれているだけです。

 確かに彼らは、「これは自分たちの話だ」と思って腹を立てたかもしれません。「当てつけやがって!」と。しかし、主イエスはただ単に「彼らの話」をしたかったのではないのです。このたとえ話の中心は悪い農夫たちではないのです。そうではなくて、ぶどう園の主人なのです。「ぶどう園の主人」によってたとえられているのは神様です。主イエスは、父なる神の話をなさりたかったのです。自分が間もなく殺されようとしている時に、自分を殺そうとしている人たちに、父なる神のことを話したかったのです。それは今、彼らがどうしても聞いておかなくてはならない話だったからです。

 たとえ話の内容を見ていきましょう。話は次のように始まります。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」(1~3節)。

 ぶどう園の主人は、「これを農夫たちに貸して旅に出た」と書かれています。ここには主人の信頼が語られています。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園の管理を託しました。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園における仕事を与えました。しかし、農夫たちは主人の信頼を裏切りました。農夫たちは分を忘れて、あたかもぶどう園の所有者であるかのように振る舞うのです。

 そのように人は神の信頼を裏切ります。私たちは神を信じるとか信じないとか言いますけれど、それ以前に神が人間を信じてくださるのです。そのように神はアダムとエバを信じてエデンの園を託されましたし、私たち人間にこの世界の管理を託してくださっています。そして、そのように祭司長、律法学者、長老たちは、イスラエルにおける指導者としての務めを託されたのです。神が信頼してくださって託してくださったのです。しかし、人間は神の信頼を裏切るのです。神を侮るようになるのです。神が主人だとは認めなくなるのです。神が何を求めているかなど、どうでもよくなるのです。自分が何を得るかが、何よりも重要になるのです。神の求めに答えるつもりなど、さらさらない。何かを求められること自体、いやなのです。「農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」。

 しかし、主イエスはこのような話を続けます。「そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された」(4~5節)。ここに語られているのは、まことに驚くべきことです。農夫たちが僕を侮辱したり殺したりしたことではありません。もっと驚くべきことは、この主人が《繰り返し》僕を送ったということです。

 このたとえ話の後に、主イエスはこんな問いかけをしています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。そうです、この主人はそのような力を持っているのです。農夫たちを全滅させる力を持っているのです。この主人が神様のことを喩えているならば、なるほどそうでしょう。神は無力ではありません。御自分を侮る者、逆らう者、信頼を裏切る者を、ただちに滅ぼすことがおできになるでしょう。

 しかし、この主人は農夫たちを直ちに滅ぼしてしまうのではなく、「他の僕」を送るのです。農夫たちは遣わされた僕の頭を殴り、侮辱して帰らせます。それでもなお「もう一人」を送ります。その僕は殺されます。しかし、そのようなことが起こったにもかかわらず、主人はなおも「多くの僕」を送ります。

 これはイスラエルの歴史において、実際に起こったことでした。神はそのように預言者たちを送られました。これを聞いている祭司長たちにとっては、洗礼者ヨハネがそれに当たります。預言者というのは、未来を予告する人のことではありません。日本語では「言葉を預かる者」と書くように、彼らは神の言葉を託されて伝える人たちです。預言者とは、いわば神の呼びかけなのです。神はイスラエルに預言者を遣わし、立ち帰るようにと、繰り返し呼びかけられたのです。

 いや、それだけではありません。このたとえ話はさらに驚くべき展開を見せることになります。このように書かれています。「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」(6節)。この主人の行動は常軌を逸して、愚かであると言わざるを得ないでしょう。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」― 今まで僕たちを侮辱したり殺したりした農夫たちが、息子だからと言って敬うはずがないのは、目に見えています。あまりにも愚かです。

 しかし、この主人の愚かとしか言いようがない行動こそ、このたとえの中心なのです。主イエスはこのようなたとえによって、わたしの父なる神は、このような御方だ、と語っておられるのです。「『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。」― 主イエスは、この最後に送られた「息子」として語っておられるのです。その「息子」として、「わたしの父である神は、愚かとしか言いようがないほどあなたたちを愛して、あなたたちが立ち帰るように呼びかけておられるのだ」と語っておられるのです。この父なる神のことを、彼らに話したかったのです。神はこのような御方なのだということを話したかったのです。そして、これこそ私たちもまた、このたとえから聞かなくてはならないことなのです。

 もちろん主イエスはそれでも、彼らは自分を殺すであろうことは分かっていました。主イエスの話は続きます。「農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」(7~8節)。そうです、主イエスは分かっておられたのです。実際この数日後に、イエス・キリストはエルサレムの外にあるゴルゴタの丘で、十字架にかけられて殺されることになるのです。

 結局、愚かとしか言いようのない神の愛の呼びかけも、無駄に終わってしまったように見えます。主人が息子を送ったこと自体、無意味に思えます。普通に考えたなら、結論は見えています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。

 そうです、これが結論のはずでした。それで全ては終わりのはずです。しかし、そこでイ主イエスは、なおも詩編118編を引用して話を続けるのです。「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』」(10~11節)。

 「家を建てる者の捨てた石」とは、イエス・キリストのことです。主イエスは確かに人の手によって捨てられました。十字架にかけられたということは、そういうことです。神の最後の呼びかけも、無に帰してしまったかのように見えます。しかし、それで終わりではありませんでした。むしろ、そこから決定的に新しいことが始まったと言うのです。捨てられたはずの石が、新しい家の隅の親石となったというのです。

 主イエスの言われるとおりでした。捨てられて十字架にかけられたイエス・キリストが、私たちの罪を贖う犠牲となりました。そこから罪の赦しの福音が、新たに宣べ伝えられるようになりました。そして、そこから教会が誕生しました。イエス・キリストは、確かに新しい神の民である教会の親石となったのです。神は呼びかけを止められたのではありません。そのような形において、イエス・キリストを十字架にかけた祭司長、律法学者、長老たちへの呼びかけを継続されたのです。そして、神を侮り、神の信頼を裏切っているこの世界への呼びかけを継続され、今に至っているのです。その独り子をお与えになるほどに、この世界を愛され慈しまれる神の切なる呼びかけに、心を開いて聞き従う者でありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。受難節の第5主日、敬愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。神さま、あなたは罪人である私たちに、繰り返し悔い改めてみ許に立ち帰るように呼びかけられます。御自身の独り子をさえお与えになるほどに、私たちに呼びかけ続けられます。神に造られた私たちは、神の御ふところに帰らない限り、まことの安らぎを得ることはできません。どうか、あなたの切なる呼びかけに、悔い改めて立ち帰る者としてください。

群れの中には、病を得ている者、高齢ゆえの弱きをおぼえている者、人生の試練に立たされている者がおります。どうか、その一人一人にあなたの恵みの御手を伸べていてください。新しい一週間もあなたの支えと導きを信じて、それぞれの場所で歩ませてください。この切なる願いと感謝を、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

人を生かす権威

マルコによる福音書11章27~33節 2025年3月30日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

 今日は、主イエスの最後の一週間の火曜日にあった、神殿での出来事です。

主イエスが神殿の境内をゆっくりと歩いておられると、待ちかまえていたかのように祭司長、律法学者、長老たちが、どやどやと近づいてきて、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と、頭ごなしに問い詰めてきました。

 論争の仕掛け人である「祭司長、律法学者、長老たち」というのは、すでに11章18節で登場しています。主イエスが神殿の商人たちを追い出して「わたしの家は…祈りの家と呼ばれるべきである」と宣言なさった、その直後のところです。「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」(18節)とあります。主イエスに対して殺意を持ったというのです。

 そして、彼らは主イエスをこの世から葬り去るためにはどうしたらいいか、策を練ったのではないでしょうか。今のままであれば、民衆が主イエスをメシアだ、エリヤの再来だと、熱烈に支持している状態ですから、やたらに主イエスを捕らえるというわけにはいきません。まずは民衆の面前で難しい神学論争を仕掛け、窮地に追い込み、化けの皮をはがしてやろう。そうすれば、民衆も目を覚まし、あの男がメシアであるなどという幻想から醒める違いない。そうなればこっちのもので、あの男を「人々を惑わす異端者」として始末すればいい。そんな筋書きが、彼らの中にできあがったのだろうと思います。そのため、この後も主イエスに対して、いくつもの論争が仕掛けられていくのです。

 ところが、実際には主イエスの化けの皮をはがすどころか、自分たちの化けの皮がはがれてしまうのです。もっと丁寧な言い方をしますと、彼らは、論争によって主イエスが偽物のメシアであることを暴こうとし、メシアをかたった罪で殺そうとしていました。ところが、主イエスと問答をしてみると、主イエスのお答えによって、逆に彼らこそが偽物であることがはっきりしてしまったのです。

 

今日は最初の論争である「権威についての問答」です。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」

 彼らが問題にしている「このようなこと」とは、主イエスがロバの子に乗って歓呼の声を浴びながらエルサレムに入城したことや、神殿から商売人を追い出したことなど、一連の主イエスの行動のことでありましょう。また、神殿の中で主イエスが「教えて」おられたことも含んでいたと思います。要するに、それは彼らの縄張りを荒らすことだったのです。

 というのも、彼らは当時のユダヤ教の正当な手続きによって、祭司長、律法学者、長老の職に任じられていました。だからこそ、人々は彼らを神様の僕と認め、教師、牧者、神殿の管理者として尊敬していたのです。それに応じるように、彼らもまた我々こそ神の僕であるという自負をもって、人々を教え、導き、また神殿の務めを果たしていたわけです。

 ところが、そこにどこの馬の骨とも分からないイエスという男がやってきて、誰に任じられたわけでもないのに人々を教えている、神殿で勝手なことをしている。しかも、人々にチヤホヤされている。それが、彼らには気に入らないのです。邪魔なのです。とっても不愉快なのです。だから、「こんなことをするお前は、いったい何様のつもりだ。どんな権威が、どんな資格が、お前にあるのか」と、彼らは主イエスに詰め寄った、というわけです。

 彼らの気持ちは分からないではありません。私が今、こうして聖書を解き明かし、説教をしているのは、私が正規の手続きを経て、牧師に任じられたという自負があるからです。また、みなさんが私のような者のお話を、御言葉の説教として真剣にお聞き下さるのも、同じ事であろうと思うのです。

 ところが、たとえばそこに外から誰かがやってきて、神学校も行かず、教師試験も受けず、按手も受けていないのに、勝手に教えたり、教会の運営を始めたりしたらどうでしょうか。やはり私も、「あなたはどんな権威をもって、そんなことをするのか。誰が、あなたにそんなことをしてもよいという権威を与えたのか」と、問うに違いないと思うのです。

 権威というのは宗教的な権威だけではなく、政治的な権威もありますし、家庭であれば父親の権威、学校であれば先生の権威、職場であれば役職の権威と、色々な権威があります。その権威を問うということは、その権威が正当なものであるかどうか、つまり「あなたにその資格があるか」ということを問うことなのです。あなたには牧師の資格があるのか。父親の資格があるのか。先生と呼ばれる資格があるのか。部長とか社長の資格があるのか。そのような振る舞いをする資格があるのか、と問うことなのです。

 相田みつをさんという方を、ご存じでしょうか。20年以上前に亡くなられた方ですが、素人にはうまいのか下手なのかよくわからない独特の書で詩を書かれて、今も根強い人気をもっておられる方です。仏教に造詣が深く、人の心に訴えてくる素晴らしい詩を書く方です。

 相田さんは書道家であり、詩人でもあるのですが、無名の頃はそれでは食べていけませんから、習字の先生をして生計を立てていました。ところが、道元の禅問答を学んで行くうちに、自分を深く見つめ直す機会を得るのです。「自分のやっていることは何だ」、「習字の先生をして親子四人の生計を立てている、この生ぬるい生き方は何だ」、「今のような安易な生き方をして、安易な書を書く書道家でいいのか」と、自分を問いつめるのです。

 そして、ついにある決心をします。お金や名声などはいらない、書家とか、詩人と呼ばれなくてもいい、ただ本当に自分の心が納得のいく生き方をし、自分の納得のいく仕事をし、自分の心の自由だけは守ろうと、ただ食うためだけにやっていた習字の先生をぱったりと辞めてしまったのです。

 その途端に「親子四人がどうやって食べていけるか」という現実問題が、相田さんに重くのしかかってきます。そこで思いついたのが、心ゆくままに書いた自分の書や詩を生かして、商店の包装紙のデザインをしようということなのです。相田さんは、自分でお店を一軒一軒回って「お宅の包み紙のデザインをさせてくれませんか」と仕事を探しました。ところが、当時はデザインなんて洒落た言葉もなく、そんなものにお金を払う時代でもありません。ことごとく門前払いをされてしまったのでした。

 ところがあきらめずに回っていますと、ようやく話を聞いてくれるお菓子屋さんがありました。ちょっとおもしろいところなので、文章をそのまま引用して紹介させていただきます。

(以下は『いちずに一本道、いちずに一ツ事』よりの引用です。)

 某市にある一軒のお菓子屋さんに飛び込んだ時の話です。「わたしはこれこれこういうもんですが、お宅の包み紙のデザインをやらせてくれませんか」と言って、肩書きも何もついていない名刺を差し出しました。店のご主人曰く、「あなたはどんな経歴の持ち主ですか?」「経歴や肩書きは何もありません。立派な肩書きがあればここまで注文を取りに来ません。ないから来たんです。」わたしは正直に答えました。「あなたはどこか他のお店の仕事をやっていますか?」「いいえ、やっておりません。お宅が初めてです。」「どうしてうちに来ました?」「はい、お宅がこの街で一番いいお店のように思えましたから。」「何か今までにやった仕事の見本はありますか?」「いいえ、ありません。こちらがはじめてです。」「ほう、初めてですか。うちで今使っている包み紙はこれですが」と言って、ご主人は、その時使用していた包装紙を広げて、「これよりもいいものができる自信がありますか?」と、私に聞きました。「そんな自信はありません。あるのはうぬぼれだけです。そのうぬぼれも、やってみなければわかりません。」私は絶対にいいものを作りますとは言いませんでした。それは嘘になるからです。「うん、確かにそうだ。おもしろい、ひとつ頼んでみるかね。」

(引用終わり)

 こうやって相田さんは初めての仕事を取ったというのです。相田さんの「そんな自信はありません。あるのはうぬぼれだけです」という返事、これは本当に素晴らしい返事だと思います。店のご主人に対するだけの返事ではなく、すべての人に対する返事であり、自分の人生に対する答えだと言っても大袈裟ではないと、私は思いました。

 「そんな自信はありません。あるのはうぬぼれだけです」という相田さんの言葉は、他人が自分の仕事を認めてくれるかどうか、それは判らないけれども、私は自分が納得できるような仕事をする、そういう約束ならできるということなのです。本当に自由な心をもった、いや、そういう心で生きていこうと決心をして、それを実行に移した相田さんだからこそ、言える言葉だと思います。

 このような心の自由さということが、実は権威ということと関係してまいります。聖書における「権威」とは、「主権」のことなのです。「主権」というのは、他のものに支配されない、自由で、独立した力です。他人に束縛や支配されないで、自由に振る舞うことができる力です。こういう力をもっているのは、本来は神様だけです。ですからこの言葉も、本当は神様だけに用いられる言葉であったとも言われています。

 それなら、この地上における様々な権威というのは何かといいますと、本当の権威、主権をもっておられる神様が、御心のままに一人一人にゆだねられた権威であると言うことができましょう。ローマの信徒への手紙13章1節にも、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」と書かれています。この地上にある権威というのは、天においても地においても唯一の主権者、独立した自由な力をもった神様にもとに位置づけられた権威だけなのです。その権威のもとにあるからこそ、人は捉われなく自由なのです。

 先ほど、みなさんが権威を問われたらどう答えられますか、とお尋ねしました。あなたには本当に父親なり、母親の資格があるのか、本当に先生と呼ばれる資格があるのか、本当に上司と呼ばれる資格があるのか、そのように問われて「はい」と答えることができますかとお尋ねしました。私は、本当に牧師の資格があるのかと問われたら、相田さんの言葉を借りて、「自信はないが、うぬぼれはあります」と答えるしかないと思うのです。

 皆さんも同じだと思います。紙切れ一枚に「あなたは牧師です」とか、「あなたは教師です」とか、「あなたは父親です」と書いてあっても、何の意味もありません。人が、あなたは良い先生だ、良い父親だ、良い母親だと言ってくれるか、どうかでもありません。自分にはその権威が神様に与えられているのだ、それに対して自分は誠実に生きているのだ、そのように自分で自分のことが信じられることが、その人を本当に牧師なり、教師なり、父親なり、母親にするのではないでしょうか。相田さんがうぬぼれと言ったのも、自分が書家であり、詩人であるということは他人が決めることではなく、天が自分に与えてくれたことなのだという意味だと思うのです。それが心の自由さ、つまり他人に左右されない資格、力、つまり権威というものになってくると思うのです。

 しかし、祭司長、律法学者、長老たちが主イエスに求めた権威は、そういう権威ではありません。あなたが教師である、あなたが祭司である、あなたがメシアであるということを証明する紙切れがあるかどうか、ということなのです。だれがそんなものをあなたに与えたのか、ということなのです。

 ですから、主イエスはこう答えました。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」

 祭司長たちは、「わかりません」と答えます。本当は判らないのではなく、「あれもヨハネが勝手にやったことだ」と思っているのです。けれども、彼らにそのようには言えませんでした。それは、どうしてか。

 「『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言うだろう。しかし、「人からのものだ」と言えば……。』彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、『分からない』と答えた。」(31~33節)

 彼らが自分の考えていることを正直に言えなかったのは、「群衆が怖かった」からであるというのです。もし、彼らが神様の権威に生きていたならば、人を恐れる必要はありません。神様から授かった自由をもって、誰に対しても自分が信じていることを言えばいいのです。それができないというのは、彼らが神様ではなく、人の評価とか評判とか、人間に寄り頼んだ権威に生きていた証拠なのです。

 こうして彼らは、主イエスの化けの皮をはがそうとして、逆に自分たちの化けの皮をはがされてしまった。主イエスの権威を問うて、自分たちの権威が問われてしまった。権威を問われるとは、生き方を問われることです。あなたは何に基にして生きているのか。何を気にして生きているか。あなたのしていることは正しいのか。そういうことが問われることなのです。そしてこの問いは、私たち一人一人にも問われていることを覚えたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日もあなたの御前に礼拝を捧げることができ、心から感謝いたします。神さま、わたしたちはあなたの権威のもとにある時に、まことの自由を得ることができます。人の評価に左右されることなく、あなたのみを見上げて歩んでゆくことができますよう、わたしたちを強めていてください。まだまだ気候の不順な時が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。また春の季節、新しい歩みを始める人たちをあなたが祝し、導いていてください。

このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

少しも疑わずに

マルコによる福音書11章20~26節 2025年3月23日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今朝私たちは、父・子・聖霊なる神様を拝むためにここに集まってまいりました。その私たちに、神様は聖書を通して一つの出来事と二つの祈りについての教えを告げられます。一つの出来事とは、実がなっていないいちじくの木が枯れてしまったという出来事です。そして、二つの祈りについての教えとは、祈り求めるものはすべて既に得られたと信じて祈れということと、赦しの心をもって祈れということです。この一つの出来事と二つの教えは、一つにつながっています。バラバラなことではないのです。

 主イエスはエルサレム入城をされた次の日、月曜日ですが、再びエルサレムに向かわれました。その道すがら、葉の茂ったいちじくの木を見て、実が付いていないかと近寄られたのですが、実は付いておりませんでした。すると、主イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」(14節)と言われました。そして、さらに次の日、火曜日ですが、主イエスたちが再びエルサレムに入ろうとすると、その途中で、昨日のいちじくの木が枯れているのを見たというのです。この出来事は何を意味しているのでしょうか。

 ここで起きたことを深く考えることなく読みますと、主イエスは空腹になった。そこでいちじくの木があったので、その実を食べたいと思って木に近寄った。けれど、実が付いていないので腹を立てて、いちじくの木を呪った。すると次の日、そのいちじくの木は枯れていたということになります。この時、いちじくは実をつける季節ではなかったのですから、実が付いていないのは当たり前なのです。それなのに、主イエスは実が付いていないと言って腹を立てて、その木を枯らせてしまわれた。主イエスは何とわがままな方か、ということになりかねません。そんなふうに受け止めますと、この出来事を完全に読み間違うことになると思います。主イエスの十字架は、もうすぐそこまで来ているのです。三日後の金曜日には、十字架にお架かりになって死なれるのです。三日後に自分は死ぬということを受け止め、それを見据えながら時を過ごされている主イエスです。主イエスは大変緊迫した時を過ごしていたはずです。そういう中での出来事なのです。主イエスは弟子たちに、残り少なくなったこの地上での日々の中で、どうしても伝えておかなければならないことがあった。主イエスには、この出来事を通してどうしても弟子たちに教えたいことがあったのです。

 では、この出来事によって主イエスが弟子たちに何としても伝えようとされたこととは一体何だったのでしょうか。それは、「求められた時に実を付けていなければ滅びる」ということです。神様の裁きがあるということです。いちじくというのは、ぶどうと並んで、ユダヤにおいては最も一般的な果物でした。そして、旧約において、いちじくはぶどうと同じように、神の民イスラエルを指すたとえによく用いられておりました。そして、神様の御心に適わない歩みをしているイスラエルの民は、酸っぱいぶどうの実を付けるぶどうの木、あるいは実を付けていないいちじくの木にたとえられてきたのです。主イエスが求めた時に実を付けていないいちじく、すなわち神様の御心に適った歩みをしていない者は、神様の裁きを受け、滅んでしまう。そのことを、この出来事をもってお示しになったということなのです。

 では、その実とは何なのでしょう。主イエスが私たちに求めておられる実とは何なのでしょう。それは信仰です。神様の愛、神様の憐れみを信頼することです。この主イエスが求められる実は、私たちがよい人になって、よい行いを積み上げるというようなことではないのです。そうではなくて、ただ信仰なのです。神様が事を起こし、道を拓いてくださるということを信頼することです。ですから主イエスは、ペトロが「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」と告げますと、すぐに「神を信じなさい」と言われたのです。つまり、「神を信じなさい。そうすれば、この枯れたいちじくのようにはならない。葉が青々と茂ったいちじくでさえ、一晩で枯れさせてしまう神様の力、神様の御業を信頼しなさい。」そう言われたのです。

 ここで主イエスが言われた「神を信じなさい」という言葉は、直訳しますと、「神様の信仰を持て」となります。直訳してもよく分からない言葉になってしまいますので、「神を信じなさい」と訳されているのですが、言われているのは「神様の信仰」なのです。「神様の信仰」という言い方が変ならば、「神様の真実」と言ってもよいでしょう。神様が私たちを造り、導いて、救ってくださろうとしているその御心。そして、実際にそのことをなしてくださる神様の御業。その神様の真実を信頼せよということなのです。ここで、主イエスははっきりと御自身の十字架を見ておられるわけです。神様は、主イエスを十字架に架けることによって、私たちの一切の罪を赦し、神との交わり、永遠の命へと招いてくださるのです。その神様の救いの御心、救いの御業に目を向けよということなのです。

 そして、その神様の真実を信頼するということは、祈りに表れてくるのです。そのような神様の真実を信頼する中で生まれてくる祈りとは、第一に「既に得られたと信じて祈る」というものだと言われるのです。23~24節で主イエスは言われました。「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」山に向かって「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、山に足が生えてきて、海まで歩いて行って飛び込むなどということはありません。山というのは動かないものの代表です。「動かざること山の如し」と言われるように、山は動かないのです。しかし神様は、このどうしても動かないと思える山さえも動かしてくださるということなのです。そのことを信じて祈るということです。これが私たちに求められている信仰であり、祈りなのです。

 私たちは、人生を歩んでいく中で八方塞がりのように思い、どうしたらよいのか分からずに思い悩んでしまう時があります。私はいつも言っていることですが、八方が塞がれても、いつも一方は開いている。それは天です。八方が塞がっても、天は開いている。その天に向かって、神様に向かって祈るのです。神様がこの八方塞がりの状況を、思いもしないあり方で打開してくださる。そのことを信じて祈るのです。

 神様は、私たちの見通しや計画の外におられます。出エジプトの出来事を思い起こしましょう。当時、世界最強・最大の国だったエジプトにおいて、イスラエルは奴隷でした。神様はそのエジプトから奴隷であったイスラエルの民を脱出させたのです。エジプトを脱出したイスラエルの民の前には海があり、エジプト軍が追ってきました。絶体絶命のこの時、神様は海の中に道を拓いてイスラエルを助けてくださったのです。そして40年の荒野の旅がありました。食べ物がないのです。神様は天からのマナをもってイスラエルを養い続けられたのです。水がなくなれば、岩から水を湧き出させてくださいました。どれ一つとっても、こんなことがあるはずがない、こんなこと起こりっこない、そういう出来事をもって神様はイスラエルを助け、救い、導いてくださったのです。

そして、その神様の御心と御業は、主イエスの十字架と復活において完全に成し遂げられたのです。救われるはずのない罪人である私たちのために、神の独り子が十字架にお架かりになって、私たちの裁きの身代わりとなってくださった。こんなことを誰が考え付いたでしょう。誰も思っていなかったことです。そして、このことによって私たちは、天と地を造られた神様に向かって、「父よ」と呼び奉ることを許されたのです。神様は、私たちのために愛する独り子さえ惜しまないお方なのですから、私たちの救いのためには何でもしてくださるのです。私たちはそれを信じてよいのです。いや、主イエスはそのことを信じなさいと、私たちを招いてくださっているのです。

 主イエスは、「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」と言われました。それは、私たちが信じて祈れば、その祈りの力によって事を起こすことができるという意味ではありません。そうではなくて、神様と私たちが、愛によって結ばれている。それゆえに、神様の救いの御心と私たちの心が一つにされ、私たちは神様の救いの御業が現れることを、第一に願う者とされる。そこでは、神様の御心と私たちの心が一つにされる。そうであるならば、祈り求めるものは既に神様の御手の中で与えると決めておられるものなのですから、必ずそうなるのです。つまり、既に得たりと信じて祈ることができるということなのです。神様の愛を私たちが心で受け止め、神様の心と一つとされるように、主イエスは私たちを招いてくださっているのです。それが、得たりと信じて祈るようにと、私たちを招いてくださっているという意味なのです。

 さて、主イエスは続けて、祈りについてもう一つのことを教えてくださいました。25節「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」ここで主イエスが教えてくださったのは、私たちが祈る時、赦しの心をもって祈るということです。神様の愛が、私だけに向けられているのではなく、この人あの人にも同じように向けられていることを心で受け止めること。赦しの祈りはそこから派生してくるのです。

 私たちの人生において最も大きな問題は、この赦しでしょう。私たちが辛く苦しい思いをするのは、愛の交わりが破れるからです。もちろん、病気や経済的問題が、小さな問題であるとは言いません。しかし、私たちが愛の交わりの中に身を置くことができるならば、それらは私たちから生きる力と希望とを奪うような、決定的な問題とはならないでしょう。けれども、愛が破れるならば、私たちは生きる力を、気力を失ってしまいます。この愛の交わりの破れこそ、私たちの人生の中で山のように動かずに、私たちを苦しめる原因なのではないでしょうか。主イエスは、「その山が動くのだ。神様が事を起こしてくださるのだ。」そう励まし、促してくださっているのです。

 私たちが祈る時、「父なる神様」と神様に呼びかけて祈ります。この呼びかけが成立するのは、私たちのために主イエスが十字架に架かってくださったからです。この「父なる神様」の一言が私たちの唇から出る時、私たちはすでに主イエスの十字架の救いの中に、罪の赦しの中に身を置いているのです。この主イエスによる罪の赦しの恵みに与ることなく祈ることは、私たちにはできません。けれども、この主イエスの十字架による赦しに与る者は、赦す者として生きるのです。

 この赦しこそ、私たちがそして世界が、いつの時代でも最も必要としているものなのです。赦せない、恨みと憎しみが支配する中で、私たちは決して幸いになることはできません。私たちの祈りは、自分の幸いを願うところから一歩出て、あの人この人との和解へと導くものなのです。それは、主イエスが平和の主だからであり、赦しを与えるために来られた方だからであり、その方によって私たちが救われたからです。この祈りは、主の祈りの中で、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え」という祈りとして与えられているのです。

 私たちが「父よ」と祈る時、主イエス御自身が私たちと一つになって、神様の前に立ってくださるのです。ここに私たちの祈りがあるのです。この祈りを与えられ、この祈りへと招かれていることを、心より感謝したいと思います。お祈りをいたしましょう。 

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と対面とオンラインで礼拝を守ることができましたことを心から感謝いたします。神さま、御子イエスは十字架を目前にして、一つの出来事を示され、二つの祈りを教えてくださいました。いちじくが枯れた出来事は、わたしたちにあなたの真実に全存在をもって依り頼むことを教えてくれます。

人間の罪の赦しのために御子をさえ惜しまずに与えられた、神さまの愛と真実に依り頼む時に、わたしたちは「既に得たり」という祈りと「赦す祈り」を捧げることができます。どうか、いつもそのことを覚え、心に刻ませてください。群れの中で病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、今試練の中にある兄弟姉妹を顧み、あなたの支えと励ましを与えてください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

祈りの家として生きる

マルコによる福音書11章12~19節 2025年3月16日(日)伝道礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 レント(受難節)第二の主の日を迎えています。今朝与えられております御言葉は、マルコによる福音書によれば、受難週の二日目、月曜日の出来事です。主イエスと弟子たちはエルサレムに入ると、エルサレム神殿に行きました。

 主イエスが神殿の境内に入ると、そこでは両替人や鳩を売る者たちが商売をしていました。多分、そこは異邦人の庭と呼ばれる、異邦人もここまでは入れる広場だったのではないかと思います。私たちは、神殿の境内と言えば、静かな聖なる畏れに満ちた所というイメージを持つと思いますけれど、主イエスが足を踏み入れたエルサレム神殿の境内は、とてもそのような場所ではなかったようです。多くの人でごった返し、鳩が売られ、両替がなされている。しかもこの時は過越の祭りの直前ですから、祭りに来る人たちで、いつもより多くの人が集まっていたと思います。ここで鳩を売っているというのも、10羽や20羽売っているというのではありません。何百、何千という鳩が売られていたと思います。全部生きている鳩です。この鳩の鳴き声だけでも、相当騒がしかったことでしょう。

 

ここで、どうして神殿の境内で両替したり鳩が売られたりしていたのか、そのことを説明しますと、こういうことだったのです。まず、両替ですが、巡礼者たちには神殿税とも呼ばれる、毎年すべてのユダヤ人が神殿に納めなければならないものがありました。ユダヤ人たちは巡礼でエルサレム神殿に来た時、必ずこれを納めるのです。問題は、納めるお金、貨幣です。当時使われておりました貨幣は、当然ローマ帝国の貨幣です。その金貨や銀貨にはローマ皇帝の顔がレリーフとなっていました。このローマの貨幣は、エルサレム神殿では使えないのです。エルサレム神殿で使われる貨幣は、ユダヤの国が独立していた時の、自分たちで貨幣を造ることが出来た時代の、昔のユダヤの貨幣でなくてはなりませんでした。でも、そんなものはもう流通していないのですから、巡礼に来た人たちが持っているはずもありません。ですから、この両替人の所に行って、エルサレム神殿用の昔のお金に替えてもらう必要があったということなのです。

 また、鳩を売る者ということですが、人々はエルサレム神殿に礼拝しに来るわけです。私たちは、この身体を教会に運んでくれば礼拝ができると思っています。しかし、当時のエルサレム神殿における礼拝は、そうではなかったのです。犠牲をささげる。それが、エルサレム神殿における礼拝のささげ方だったのです。羊とか牛をささげるということもありましたが、貧しい人々はそれができません。そのような場合は、鳩でもよいとされておりました。ですから、巡礼者の圧倒的多数の人々は、犠牲としてささげる鳩をここで買って中に入っていく。そういうことになっていたのです。人々は遠くから、人によっては何週間もかけてエルサレム神殿に来るわけです。とても犠牲としてささげる動物と一緒に旅することはできなかったでしょう。しかも、神様にささげる生き物は健康で傷の無いものでなければなりませんでした。生き物を傷付けないように連れて来るのは大変です。しかしここで買えば、これは傷の無い、神様に犠牲としてささげるのに適している証明書付きのようなものです。神殿が保証しているわけです。当然、神殿の外で買うより割高になります。

 巡礼に来る人たちの多くが、この両替人や鳩を売る者たちの世話になったわけです。そして、この両替人や鳩を売る者たちからは、神殿に対するお礼といった名目で、莫大なお金が祭司たちに入る仕組みになっていたわけです。言うなれば、神殿ビジネスと言ってもよいようなことが、公然と行われていたのです。

 皆さんはこのような話を聞いてどう思われるでしょうか。両替人や鳩を売る人々は巡礼者のためのサービスとしてやっているわけで、特に問題は無いのではと思われるでしょうか。それとも、神殿の中で商売をするというのはやっぱり変だと思われるでしょうか。

 主イエスはこの時、大変なことをなされました。15~16節「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」と記されています。主イエスは随分乱暴なことをされました。両替人や鳩を売る人々にしてみれば、いきなり商売道具を滅茶苦茶にされたわけです。営業妨害も甚だしい。今なら当然警察を呼ぶというような事態でしょう。

どうして主イエスはこんなことをされたのでしょうか。子どもにも、病人にも、貧しい人にも憐れみ深く、優しいイエス様の姿とイメージが重ならないと思われる方もおられるでしょう。この出来事は、宮清めと呼ばれてきました。この出来事は、主イエスがエルサレム神殿を清められた、神殿に相応しく清められたのだと理解されてきたのです。では、主イエスは何から清めようとされたのでしょうか。この宮清めの出来事の意味は何だったのでしょうか。

 私は、二つの意味があったと思います。一つは、この商売が異邦人の庭と呼ばれる所でなされていたということです。異邦人は神殿の一番外の所までしか入れませんでした。しかもそこでは今見てきたような商売がなされておりまして、とても神様を礼拝し、祈りをささげることができる状態ではなかった。主イエスは、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と言われたのです。これはイザヤ書56章7節の引用です。このイザヤ書56章は、異邦人も宦官も、つまり当時救われないと考えられていた人々ですが、これらの人々も主に仕え、主を愛し、主の僕となって契約を守るならば、その者たちのささげる犠牲を神様は受け入れる、つまり神様の救いに与る、そう預言されているところです。神様が「わたしの家」と呼ばれるのは神殿のことです。ところが、その神殿において何がなされているか。異邦人は、神殿の境内に入れると言っても一番外の所まで。しかもそこは、多くの巡礼者でごった返し、とても礼拝し祈りをささげることができるような状態ではない。これが神様の御心に適うと思うか。主イエスはそうお語りになったのでしょう。

 当時、人々は異邦人は救われないと考えていましたので、神殿の境内に入れるだけでもありがたく思え、そんな感じだったのではないでしょうか。ですから、そこで商売がなされても、それは巡礼者へのサービスなのだからよいことだと考えていたと思います。ここには、異邦人もまた神様に造られたものとして神様の愛の御手の中にあるという思いが欠落していました。主イエスはそれを、「違う」と言われたのです。神殿はユダヤ人も異邦人も含めて、「すべての国の人の祈りの家」でなければならないからです。

 さて、もう一つの点です。それは、この宮清めの出来事が、どのような構造の中で記されているかということから考えなければなりません。マルコによる福音書は、この15~19節の宮清めの記事を、実のないいちじくが枯れる、枯らされるという二つの記事の間に挟み込むようにして記しております。このようなサンドイッチのような構造は、外側のパンと内側の具が同じ事を告げている、同じメッセージを持っていることを示すために用いられる書き方なのです。

 この枯れたいちじくの木の出来事は、主イエスが求める時に実を付けていなければ滅びる、そのことを出来事として示されたわけです。ということは、この宮清めの出来事もまた、実を結ばない礼拝、何もない罪人として神様の憐れみだけを求めて、ただそれを信頼してささげるのではない礼拝、まことに神様を信頼して互いに赦し合う祈りをしていない神殿は、枯れたいちじくと同じように滅びる。根元から枯れる。そのことを、主イエスはこの荒々しい行動をもってお示しになったということなのです。旧約以来、預言者たちは人々の印象に残る行動、行為を行い、それと共に預言して、その預言を人々の心に刻ませるという伝統がありました。これを行動預言とか象徴預言と言ったりします。代表的なのは、エレミヤ書19章にあります、エレミヤが陶器の壺を人々の見ている前で砕き、エルサレムもこのようになると預言した所です。

 主イエスはこの宮清めという、一見突飛な荒々しい行動をもって、人々の心に残る行動をなさり、エルサレム神殿に下される神様の裁きを預言されたということではないかと思うのです。そして実際、エルサレム神殿はこの主イエスの預言の後40年ほどして、紀元後70年にローマ軍によって瓦礫の山と化すのです。

 ところで、主イエスはこの時、「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と言われました。しかし、問題はこの時主イエスが、どこに御自分の身を置いておられたのかということなのです。主イエスは、御自分をこのエルサレム神殿の滅び、神様の裁きと無関係な所に身を置いて、このことを告げられたのでしょうか。私は、そうではないと思います。

先ほどこの主イエスの行動が、旧約の預言者の行動預言の伝統にあると申しました。旧約の預言者たちは、エルサレムの滅びを告げる時、自分の身を安全な所に置いて、「エルサレムは滅びる。けれども自分は大丈夫。だが、お前たちは滅びる。」そのような思いの中で、神様の裁きを語るというようなことは決してないのです。そうではなくて、神様に遣わされた預言者たちは、神様の裁きを受ける神の民と同じ所に身を置いて、神の民と苦しみ、嘆きを共にして、悔い改めを求めたのです。愛する同胞の上に下される神様の裁きを、痛みと嘆きをもって告げたのです。自らもエルサレムにとどまり、その同じ苦しみを我が身に負い、神様の裁きの預言を語ったのです。

 主イエスもこの時、そうだった。主イエスは、このエルサレム神殿を強盗の巣にしてしまった人々の上に下される神の裁きを自らお引き受けになる、十字架につく、そのことをしっかり見据えて、この裁きの預言をお語りになったのです。主イエスは、この週の内に十字架にお架かりになるのです。主イエスは、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべき神殿を強盗の巣にしてしまった、その人々の罪をも一身にお引き受けになり、十字架にお架かりになるのです。それは、まことの神殿、ユダヤ人も異邦人もなく、神様を愛しその契約の中に生きようとするすべての人が、父なる神様との親しい交わりの中に生きることができる神殿を造られるためでありました。すべての民が神の子とされ、神様に向かって祈りをささげることができるようにされるためでありました。そして事実、主イエスは十字架に架かり、三日目に復活され、天に昇られ、そこから聖霊を注いで、まことの神殿としての教会、神様との親しい交わりが与えられる所としての教会、すべての国の人々の祈りの家である教会を建ててくださったのです。私たちはその恵みに与り、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきこの教会に集い、このように主の日の礼拝を守ることが許されているのです。主イエスの十字架の故に、許されているのです。

 私たちは、この教会を強盗の巣にしてはなりません。すべての人に与えられている救いの恵みを自分たちだけのものにするならば、他の人の救いの恵みを奪い取る強盗になってしまいます。私たちが強盗にならないためには、神様の救いの恵みが一人でも多くの人に伝えられ、これに与る者が増し加えられるように、祈りと奉仕をささげ、この主イエスの十字架の御業にお仕えするのです。それが、まことの祈りの家に集う私たちに求められている、まことの礼拝なのです。そのことを心に刻んで、新しい一週間を過ごしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、レントの第2主日を守ることができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と言われました。私たちの教会が、そのような開かれた祈りの家となるために、主イエスは十字架に御自身を捧げられました。そのことを深く心に刻みつつ、レントの日々を過ごさせてください。まだ寒暖差のある日々が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。今、私たちの世界はとても不安定な状態の中にあります。どうかこの世界が敵意と争いの方向ではなく、和解と平和の方向に導かれていきますよう、あなたの御手を伸べていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

最初の信仰に立ち帰る

創世記13章1~18節 2025年3月9日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 アブラムは飢饉から逃れるために、エジプトに一時滞在するのですが、そのとき、アブラムは自分の命を守るために、妻サライに妹だと嘘をつかせて、エジプトの王に嫁がせてしまうような、弱い、ふがいない人間でした。危機一髪のところで、神様がここに介入して、サライを嫁がせることをストップします。エジプトに疫病が広がって、その原因がアブラムとサライにあることに気づいたエジプトの王ファラオは、この二人をエジプトから去らせます。

 ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。

「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、 

言わなかったのか。なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。(12:18~20)                        

 彼らはファラオからもらったものを全部持って出ました(12:16参照)。ファラオのほうも、彼らに与えたものを取り上げませんでした。そのことが今日の13章の前提になっています。

 アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。(13:1~2)

彼らがエジプトに行ったときは、食べるものさえなかったのですが、今や家畜も金銀もある大金持ちになっていました。やがて、この財産が一族の争いの種となっていきます。恐らく、アブラムはエジプトを出るときには、そのことに気付いていなかったのではないかと思います。

  

 しかし、その問題に直面する前にアブラムの取った行動は、12章後半のアブラムの行動と違って、非常に信仰的です。彼はネゲブまで戻った後、さらにベテルとアイのほうに向かいました。ここはアブラムが最初に祭壇を築いた所でした。この旅は、彼が大きな回り道をして、また元の所へ帰って行く旅でありました。彼は、この旅の途上、自分の犯した過ちを恥ずかしく思い、悔い改めへと導かれたのではないでしょうか。しかもアブラムは、愛と恵みの中で悔い改めをしました。罰の中ではありません。普通に考えれば、私たちが悪いことをしたときには、それ相応の罰を受けて後悔し、「もう二度とこんなことはいたしません」と悔い改めをする、ということになろうかと思います。

 ところが、聖書ではそうでない場合のほうが多いのです。私たちは、神様の愛と恵みの中で、自分がそれにふさわしくない人間であるということがわかり、自分の罪もわかるのです。

 ルカによる福音書5章にこういう話があります。シモン・ペトロとその仲間たちが一晩中漁をしたけれども何もとれなかった。そこヘイエス・キリストがやってきて、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。本当は信じていないのです。ところが網を降ろすと、どうでしょう。ものすごい大漁になり、舟が沈みそうになりました。そのとき、ペトロはこう言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」(ルカ5:8)

 ペトロは、舟が沈みそうになるほどの大漁を経験して、罪の告白をしました。なぜそう導かれたのか、よくわかりません。ただ私たちが罪の告白に導かれるときというのは、こういう場合が多いのではないでしょうか。「お前は悪い奴だ」と言われるときには、かえって反発しますが、圧倒的な主の恵みと愛に触れるとき、それにふさわしくない自分に気付き、自分の罪を知るのです。

 アブラムはベテルとアイの間の最初に祭壇を築いた所まで戻ってきました。アブラムが実際に道を踏み外したのはネゲブでしたが、このとき、すでにアブラムの心は神様のほうを向いていませんでした。問題はネゲブ以前に、すでに始まっていたのです。ですから、彼は最初に祭壇を築いた所からやり直しました。「初心に帰る」ということです。

 ちょうど私たちが、洗礼を受けたときのことを思い起こして、自分の信仰を最初からやり直そうと思うのに似ているかもしれません。私たちが日曜日ごとに礼拝をするというのも、それに通じるでしょう。一週間、神様のことを忘れて生活し、行動してきたかもしれませんが、ここで礼拝するために呼び集められました。主の名を呼ぶことで一週間を始められることの恵みを味わい、アブラムが初心に立ち返ったような思いで、私たちも礼拝したいと思います。

さて、ここで一つの事件が起こります。それは土地所有をめぐる争いでした。

 その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。(13:6~7)       

 財産が多すぎたことで争いが起きる。財産がなければ起こらなかった問題です。財産をめぐって兄弟が絶交状態になってしまう、本家と分家が分裂する、というような話は、しばしば聞くことです。財産というのは、人間をさらにさらに貪欲にしていく恐ろしい面をもっていると思います。

 しかし、このときアブラムは、そういう貪欲からは自由であり、非常に適切な、寛大な判断をしています。

 アブラムはロトに言った。

 「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」(13:8~9)

 12章後半において、計算高く、自分の利益を図ろうとした姿とは大違いです。ここでは神様への深い信頼から、アブラムは心安らかに、ロトに向かって、「先に好きなほうを選びなさい」と言うのです。

 このとき、すべてのことを決定する権利をもっていたのは、年長者であり、伯父であるアブラムです。もしもアブラムがロトに向かって、「私は右へ行くから、あなたは左へ行きなさい」と言っていたとしても、ロトはそれに従ったであろうと思います。しかしアブラムは、自分がもっている決定権を、「ロトに先に選ばせてやる」というふうに用いたのです。これは彼にとって大きな決断であったと思います。条件が全く同じであれば、先に選ばせて「残りものに福がある」というようなこともあり得ます。しかし、条件は全く違うように見える。ロトが選ぶことになる「ヨルダン川流域の低地一帯」のほうがはるかによく見えるのです。

 ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。(13:10)           

 ロトは、やはりこちらを選びます。アブラムは、後になって、そのことでロトのことを悪く言ったりはしません。日本では、相手に対して一歩下がるのが礼儀とされていますので、本当は先に選びたいと思っても、一応「お先にどうぞ」と言います。相手がそれを真に受けて、「そうですか」と言って、先にとってしまうと、「なんという礼儀知らず」ということになってしまいます。

 しかしここでのアブラムは、そういうことではありません。ロトに先に選ばせるという決断をしているのです。だから、ロトの行動がどうか、ということよりも、アブラムの決断を立派と言うべきでありましょう。そしてこのときのアブラムは、「いかなるときも、主は自分を見捨てないで、自分と共にいてくださる」という信仰をもっていました。ですから、ロトに先に選ばせてやりながら、「神様はきっと自分にふさわしいほうを与えてくださる」と信じたのだと思います。「あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(12:2)と言われた神を信頼して、こう決断したのでした。恐らくアブラムには、「悪く見えるほうが残るであろう」という覚悟ができていたのだと思います。

 私の恩師がかつてこう言われたことがあります。「人生の重要な岐路において、どちらに進むべきか迷うことがある。どうしても決断がつかないとき、困難に見えるほうが主の示される道であることが多い」。

 この言葉を、そのまま物差しのようにして考えることはできないでしょう。あまりにも非現実的なことをやろうとして、深く考えないで、「困難なほうを選ぶ」などというのは間違っていると思います。ただそういうレベルではなく、もっと深いレベルで、私たちが本当に決断に迷うことがある。人生の大事な転機です。教会の歩みにおいてもそういうときがあるでしょう。そこで、どうして迷っているのかということをよく考えてみれば、自分には進みたいほうと、進みたくないほうがあって、しかも進みたくないほうが恐らく主の示される道だと感じているからではないでしょうか。

 イエス・キリストが十字架におかかりになるとき、ゲッセマネの園において、徹夜で祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)。しかし最後には、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と決断して、十字架への道を歩んでいかれました。

 このときのアブラムの決断とイエス・キリストの決断とを比べることはできませんが、アブラムの人生にとって、非常に大きなときであったことと思います。そして彼は自分の人生を導いてくれる主を信頼して、決断をしました。それは信仰と愛に満ちた決断であったと思います。彼は、このとき、財産や土地に対する貪欲というものから解放されています。これは恵みのしるしです。

 アブラムが立ち返って礼拝することができたことを第一の恵みのしるしであったとすれば、ここで彼が財産から自由になったということは第二の恵みのしるしだと思います。第一の賜物が信仰であるとすれば、第二の賜物は愛であると言えるでしょう。

 彼は土地や財産をめぐる争いを、力によって解決するのではなく、愛によって解決しました。今日、これと同じような争いは、あちこちで起きています。親族間の争い、国家間の争い。国家間の争いとなれば戦争になります。そして強いほう、力をもったほうが勝ちます。しかし実は、それで問題が解決したことにはならない。負けたほうはずっと根にもち、チャンスをねらってひっくり返そうとするでしょう。この物語は、力をもった側がどういう態度をとるときに問題が解決に向かうか、ということを示唆しているのではないでしょうか。

 エジプトの事件のときも、主が介入してこられましたが(12:17)、ここでも主なる神が登場します。あのときは、呪いをもたらすという形でありましたが、今回は祝福であります。

 「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(13:14~16)

ものすごい祝福です。スケールが違います。

 私はここで起こったことを見ながら、イエス・キリストの二つの言葉を思い起こしています。どちらもマタイによる福音書の山上の説教の中の言葉です。ひとつは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(必要なもの)はみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。アブラムは自分が生き延びることばかり考えて行動したときには、大きな失敗を犯しました。最初の信仰に立ち返って決断したときには、必要なもの、いやそれ以上のものを神様がちゃんと備えてくださいました。

 もうひとつは、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)という言葉です。このときのアブラムは、武力、暴力で争いを解決しようとせず、愛をもって解決した。神様は、そのような人々を祝福し、神の子として地を受け継がせられるのです。

 私たちも最初の信仰に立ち返って、主が共におられることを感謝しつつ、歩んでいきましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を共にすることができましたことを、感謝いたします。神さま、私たちは信仰生活の中で、あなたの御心から逸れてしまうことが度々あります。あなたに背いてしまします。しかし、あなたは私たちに働きかけられ、赦しを与え、信仰者として再び歩み始めるよう促してくださいます。どうか、あなたの大いなる愛と慈しみを心に刻みつつ、信仰者としての道を歩ませてください。春の気配を感じつつも、寒暖差の激しいこの頃です。どうぞ、兄弟姉妹一人一人の健康をお支えくださり、必要な助けをお与えください。今この世界にあって、戦争のさ中にある人々、様々な災害の中で労苦している人々の上に、あなたの御手を伸べていてください。この拙き感謝と切なる願いを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。