背後の人

マルコによる福音書5章25~34節 2024年3月3日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

マルコによる福音書には奇跡物語が多く出てきます。奇跡を語ることによって、圧倒的な力をもって人を生かされた救い主の働きを印象深く伝えようとしたのです。今日の箇所の物語もその一例です。ここでは十二年もの間病苦に悩まされていた一人の女性の健康回復の過程が述べられると共に、それによって人間と主イエスとの出会いの姿が生き生きと描き出されています。

 この女性は出血の病気を患っていました。この出血がどのような病気か正確には分かりませんが、当時この出血を患う人がかなりいたようです。なかなか難しい病気で、この女性も治療のために多くの医者にかかりました。しかし色々手を尽くしても、あれもダメ、これもダメということだったのです。

 そしてこの病む状態は、単に肉体、身体にとどまりません。このような病を得ることで、彼女はそれまでの人生、生き方においても変更を余儀なくされた。心理的、精神的側面においても「ひどく苦しめられて」きたのです。当時のイスラエルにありましては、女性に継続的な出血があるということは、宗教的に、社会的に穢れた者とされたのです。彼女にとっては、身体(からだ)の病気という以上に、社会において人々から穢れているとのけ者にされて来たことが、大きな苦しみであったに違いありません。

この女性が、治りたいという一心から、群衆の中に紛れ込んで、だれにも気付かれないようにしてひそかに主イエスにさわったのでした。ここには庶民のずるさのようなものが感じられます。今申し上げたように、律法によればこのような病気の女は汚れたものと考えられ、人に触れてはならないとされていました(レビ記15章)。たしかにこのような規定そのものが、不合理で非人道的です。しかしそれなら、正面からこれに挑戦して、堂々とその禁令を破ったらよいのですが、彼女はそれほどの勇気は持ち合せていませんでした。人々の目も気になったに違いありません。何気ない様を装いながら、多数の陰に隠れて、ひそかに自分の願いを満たしているのです。

 しかしそれはずるさというよりも、表通りを歩くこともできない恥かしい思いの一人の人間が、それでも何とか人並みの生活をしたいという、切実な願いから考えついた、いじらしいばかりの苦肉の策であったというのが正確でしょう。日蔭の草が、太陽の光を求めてあちらこちらへ懸命に茎をくねらせて伸びてゆくような、弱者の精いっぱいの努力であったのです。

 さらにここには、この女性の主イエスに対する畏れが示されています。罪人は聖なる神の前に出ることはできません。神を見る者は死ぬのです。ペトロも主イエスの聖なる力に触れたとき「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と、畏れおののいたと言われています(ルカ5:8)。しかし、正面から主を仰ぐことができないにもかかわらず、私たちは主に近づき、主に帰る以外に行くべきところはありません。主から「あなたがたも去ろうとするのか」と問われれば、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」(ヨハネ6:67、68、口語訳)と、主に帰り、主のもとに留まる以外に、行くべきところはないのです。主に対して、恐れつつ近づき、近づきつつおののくのです。主を恐れつつ、主を慕います。その点からも、この女性の姿はそのまま私たちの姿なのです。

 このように背後から恐れおののきながら触れた手に対して、主の力が出てゆきました。ちょうど電源につながれたコードに電流が通じ、電流計にその変化が表示されるように、主イエスは、自分の内の霊的エネルギーが、背後から触れてきた手を通じて、何者かの内に流れ入ったことを、鋭敏に察知されました。

 背後の人の求めにも直ちに応えられる主イエスの姿は、私たちにとって深い慰めです。主イエスは、正面から御前に近づくことのできない人間を、背中で受け止めてくださいました。かつてモーセが神の御姿を見ることを願ったとき、神はモーセを岩の裂け目に入れ、神の栄光が通り過ぎるまで御手をもって彼を覆い、通り終えたときに手をのけて、その背後を仰がせてくださいました。「わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」(出エ33:23)。これは神の憐れみの行為でした。人間は神の御顔を見たのちに、なお生きることはできないからです。神は人間の罪を見ないで、人間に近づいてくださいます。

 実に、神が人になってくださったという、受肉の出来事が、神が神としての正面の姿でなく、人間性を介して私たちに出会ってくださるという、いわば後ろ向きに立ってくださったことを示しています。間接的に、私たちが罪あるままに近づくことのできる姿で、神は私たちの前に立ってくださるお方なのです。ルターが教えているように、私たちは私たちに背中を広げて近づいてくださる主イエスに対して、父親の背中に飛びついてゆく子どものように近づいてゆくのです。主イエスは、人間性という背中に私たちを乗せて、父のもとに私たちを導いてくださるのです。

 神と人間との関係は、神の側の恵みと憐れみによってのみ成り立つ関係です。私たちは、主と共に歩ませていただいていることを、何か当たり前のことのように考えてはなりません。使徒パウロが語っているように、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(Iコリ15:10)。

 主イエスは、このように背後の人をも癒されたのでありますが、その人を背後にいるままに放置してはおかれませんでした。「イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」(マルコ5:32)。この「見回しておられた」という言葉は、原語では未完了形が用いられています。この動作が一度で終わらず、くりかえし継続していたことを示しています。したがって、「見回し続けておられた」と訳した方が正確です。

 主イエスは人間を無個性の群衆とは見なされません。大衆操作の対象としては扱われないのです。近づいてくる一人一人と人格的な関係を結ぶことを求められるのです。人が主イエスに対して背後から近づいたとしても、背後で癒されたならば、それで用は終わったと、そのまま自分の家に帰って行く者であってはならない。背後で得た恵みへの喜びのあまり、恥かしさも忘れて、思い切って主の前に出て、感謝を表すという勇気と決断を持つことを望まれるのです。そのような恵みへの感謝の応答がなされるまで、主イエスは私たちを求めて「見回し続けられる」のです。

 信仰は神との出会いであり、神との生ける交わりです。この交わりそのものを目的としないで、交わりに伴う恵みだけを目当てとするような態度は、神を自分の目的のために利用することになります。入信による物質的な報酬を求めるいわゆる御利益宗教や、精神的な安心立命を強調する宗教も、神を自分の生活を幸福にするための手段と考える点では、いずれも宗教的エゴイズムです。主イエスはそのような宗教的エゴイズムに対して、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と命じられました(マタ6:33)。神の御支配に服し、神との交わりそのものを第一とする生活を確立しなければなりません。あの出血に苦しんだ女性も、初めは主との人格的な出会いよりも、その結果としての自分の幸福のみを手に入れようとしました。しかし、病気の癒しだけでなく、人格的な出会いを求めて、しきりに見回しておられる主イエスの視線にふれました。そしてその眼差しにうながされるように、「震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」(5:33)。自分のいささか虫のよい願いに対しても応えてくださり、しかもそこから成長して、自分の方から信仰の応答をするようにと、求め続けておられる主に接して、彼女は主の背後から引き出されて、御前に立つ者とされたのです。主のうながしによって、彼女は信仰者としての主体性を確立したのです。

 主イエスはこの応答を深く喜ばれて、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(5:34)と、祝福しつつ送り出されました。私たちの信仰は、主の恵みと招きに対する応答にすぎません。けれど主はこれを真剣に取り上げて、私たちを対等のパートナーとして取り扱われます。主は私たちを友のように処遇してくださいます。信仰によって私たちは、主の力を自分の力として生きることが許されるのです。主イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいました。しかし、本当のところ、主イエスこそ彼女を救われたのです。このように一人の信仰者として、彼女が主イエスの前に、そして神の前に立ち得るように導かれたのは、主イエスであったからです。そうでありながらなお、「あなたの信仰」と主イエスが彼女の信仰を称賛されたのは、彼女のそのような決断を慈しまれ評価なさったからです。そしてそのように褒めることを通して、彼女の信仰的自立を励ましてくださったのです。

 言い伝えによりますと、この女性の名はヴェロニカ(またはベレニケ)と言い、エデッサの王女であったと言われています。後に彼女は、主イエスが十字架を負ってヴィア・ドロロサ(悲しみの道)を歩まれたとき、苦しみのあまり油汗を流して躓きながら進まれる主の御姿に心を痛め、自分のハンカチで主の御顔を拭いました。ところがそのハンカチには、受難の主の御顔があざやかに残されたと言います。ヴェロニカのハンカチの言い伝えです。ルオーの作品にもこれを描いたのがあります。もちろんこれは伝説です。しかし、かつて主イエスの背後からひそやかに近づいた女性が、十字架の主を仰いだ時、人をも恐れず進み出た。そして勇気をもって主に仕えたという物語は、主への感謝と愛の故に、背後の人から御前に立つ人に変えられた、彼女の信仰の成長を示しています。そして、私たち一人一人もそうであるようにと、主イエスは励ましてくださっているのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を共にし、あなたを褒め称えることができましたことを、感謝いたします。主イエスは、うしろからしか近づくことのできない私たちの手を取って、主の御前に立つことのできる者としてくださいます。どうか、私たちが主の御手に引かれて力を得、主に呼びかけられて、勇気をもって応答する者にさせて下さい。今、私たちの住んでいる地には地震が頻発し、私たちは恐れと不安の中にあります。どうか、私たち一人一人にあなたの平安を与えてください。そして、私たちが備えを怠ることなく冷静に、毎日を過ごすことができますよう導いていてください。群れの中には病床にある者、高齢の者、困難に立たされている者がおります。神さまどうか、一人一人をその御手をもってお支えください。そして共に歩んでいるその家族の上にも、あなたの支えとねぎらいを与えてください。今も戦乱の中で命の危機に直面しているウクライナ、パレスチナのガザ、ミャンマーの人々を、あなたが守りお支えください。能登半島地震の被災者を、どうか顧みていてください。このひと言のお祈りを、主の御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

次週の礼拝  3月10日(日) 


日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級
聖  書   ルカによる福音書22章31-34節
説  教   「ペトロの裏切りの予告」  藤田浩喜牧師


主日礼拝   

午前10時30分  レントⅣ  司式 三宅恵子長老
聖  書
  (旧約) ヨナ書2章4-11節    
  (新約) ヘブライ人への手紙13章12-16節 
説  教   「罪を自覚することから」  藤田浩喜牧師

少女よ、起きなさい

マルコによる福音書5章21~24節、35~43節 2024年2月25日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

ここでは死の問題が取り扱われていると思います。そういう意味では極めて深刻な事柄が記されていると思います。

 死というものは、言うまでもなく誰もこれを避けて通ることはできない問題です。どんな幸運に生活をした人でも、死の問題に突き当たらないで自分の生涯を終わらせることはできないのです。また、この死の問題は、ただ本人の生きる、死ぬという問題であるだけではなくて、本人を取り巻く、周囲の人々との関係の問題でもあると思います。本人がこの地上における生涯を終わるというだけの問題ではなくて、親しい者と別れるという、そういう問題がそこにあるのではないかと思います。ですから、死というものは本人にとっても、本人を取り巻くまわりの人間にとっても、辛い事柄なのです。

 今日の箇所に出てきますのは、一人の会堂長の娘が死んだというその時の出来事です。娘を失うかもしれない父親のつらさというものが、表現されていると思います。22節には、こういうふうに書いてあります。「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。『わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。』そこでイエスは、ヤイロと一緒に出かけて行かれた」。この会堂長は、自分の娘のために主イエスのもとに行って、足もとにひれ伏して、しきりに願ったと書いてあります。

 「足もとにひれ伏す」というのは、単なる謙遜というのではなくて、自分のいっさいをかけて相手に願う。そういう姿がそこにあります。また「しきりに願った」というふうに書かれていますが、これは岩波から出た聖書の訳では、「必死に乞い願っている」というふうに訳してありました。「足もとにひれ伏して、必死に乞い願っている」。つまり、そこにあるのは、この父親の切実な気持ちです。死というものをめぐって、そこに娘の戦いがあり、また父親の肉親としての戦いがあるのです。その意味では、人は自分のためにだけ病と闘うのでなく、自分をめぐる人々のためにも生きる戦いをしなければならないという側面が、あるのだと思います。

 「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた」(35~36節)。主イエスがその家に向かう途中、娘は間に合わないで死んでしまいました。だから、もう死んでしまったから、先生にわざわざ来ていただくには及ばないという連絡が入ったというのです。命がある間は、希望がある。そう私たちは思います。そしてその一つの命が支えられるために、あらゆる努力をし、また祈り願う。しかし、死んでしまった。すべてが終わってしまったのです。冷たくて動かすことのできない壁が前に立ちはだかります。今までは何かの努力をすることができました。ひょっとすると、という希望があった。しかし、死んでしまった時には、もういっさいが前に向かっては動かなくなる。冷たい壁が立ちはだかる思いを経験するのです。つまり一人の人間のストーリーがそこで終わってしまう。主イエスが弟子たちといっしょに近づかれますと、多くの人々が泣いていたと書いてあります。

 「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騷いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。『なぜ、泣き騷ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。』人々はイエスをあざ笑った」(38~40節a)。多くの人々が死体を前にして、大声で泣きわめいて騷いでいたと書かれています。これはおおげさなようですが、人が亡くなった時に、ある人々が、おそらく近所から来たある人々が声をあげて泣く、というしきたりがあったからです。この泣くことを仕事とする人々さえいた、というふうにも言われています。むろん、悲しくて人間は泣きます。しかし、身近な人間ほどその悲しみは深くて、声にならないと思います。つまり、あまりつらすぎて涙も出ない。それがおそらく身近な者の実感ではないかと思います。私たちはテレビで、戦争や災害によって家族を目の前で亡くされた方が写っているのを見ます。しかし、たいていはもうほとんど泣いていない。泣けない。涙なく、茫然と立っている。それが肉親を失った者の姿でないかと思います。

 人間にとって死というものは、あまりにも残酷な行き止まりのように思います。もう終わったんだから、先生に来ていただかなくてもいい、ということになるのです。いろいろやったけれどもだめでした。先生を煩わすには及ばないでしょう。努力をしたけれど甲斐がなかった。しかし、その時主イエスは会堂長にこう言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい」。「恐れることはない」というのは、死を恐れることはないという意味です。「信じなさい」。会堂長は、ここまで主イエスを信じてやって来ました。ついて来ました。娘が死んで、それで信仰も祈りもそこで終わったというわけではないと言われたのであります。「なお、信じなさい」と、主イエスはこの会堂長に言われました。死んでしまったらおしまいであって、後は嘆くだけだ。悲しむだけだ。そしていつか時間がたって、あきらめるだけだというのではない。「なお、信じなさい」と、キリストは言われたのです。

 泣き騷いでいる人々に向かって主イエスは言われます。「なぜ泣き騷ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」。これを聞いた人々があざ笑ったと書かれています。不思議な表現です。今まで泣き騒いでいた人々が、今度はあざ笑ったというのです。眠っているだけだと言われて、喜んだというのではありません。一人の人間の死を前にして、人々は声を上げてさめざめと泣いていました。つまり、悲しみにふけっていたわけです。残された家族に同情して、悲しみにふけっていました。人間は往々にして、同情して悲しみにふけっている自分自身に酔ってしまうということがあります。誰かのために同情して嘆いている自分自身にふけってしまう。娘は眠っているだけだと言われて、その酔いを、言わば覚まされてしまったのです。だから、しらけてしまった。もうここで、終わりなんだ。ここはもう泣くだけ、悲しむだけという場面なのに、何か別のことをしようとしている主イエスに、人々はついて行けませんでした。

 「人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた」(40節)。主イエスはたくさんの弟子たちの中で、三人の弟子たちだけを選んで、そしてその娘の両親を連れて、他の人を外に出したと書いてあります。部屋の中に入って行ったというのです。つまり、あきらめてしまった人たちは、外に出したのです。もうこれで終わったと思っている人に対しては、その人を外に出してしまった。そしてなおあきらめきれない、なお希望を捨て切れない人だけをつれて、主イエスは部屋に入って行ったのです。なお祈らないではいられないその人々を連れて、主は少女のもとに行ったのです。

 私たちの信仰というものは、あきらめた所で終わります。ここまでだと思った所が、私たちの終わりです。ここまでは一生懸命祈ってきた。もうここからは何にもないと思った所で、私たちの信仰は終わります。こんなつらい場面では、もう信仰は役に立たないと思ったら、そこで終わるのです。こんなひどい場面では、こんな残酷な場面では、もう神様は関係ないと思ったら、そこで私たちの信仰は終わります。人々から見捨てられた。もうだめだと誰かに言われた。だからもう……そう思った所が、私たちの信仰の終わりです。しかし、主イエスはさらにその向こうに踏みこんで行かれます。その向こうに行くことを期待されます。ここから先はもうどうにもならないと、人々が投げ出す、その場所に主イエスは踏みこんで行かれるのです。その死に場所にまで、主は踏みこんで行かれる。そして、こう言われました。「タリタ、クム」。「これは、『少女よ。わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである」(41~42節)。

 「少女よ、起きなさい。少女は起き上がって歩き出した」と書いてあります。そして、「もう十二歳にもなっていたから」と注釈を付けているのです。つまり、聖書はこう言いたいのです。十二歳だから当然歩いたのだ、と。十二歳の少女だったから当然のように歩いたのだ。十二歳だから十二歳のその命がそこにあったのだと言っているのです。私は、主イエスが死の中に踏みこんで行ったと言いました。言うまでもなく、主イエスの十字架の死のことを言ったのです。主イエスが十字架で死んだということは、私たちを生かすための死でした。私たちの命を救うための死でした。人間の命を一つも滅ぼさない、そのためイエス・キリストは十字架に死なれたのです。十二歳の命を十二歳のままで生かすために、主イエスはそのために自ら苦しみを負われ、私たちの代わりに死んで下さいました。仕事を積み重ね、戦い労して倒れ五十歳の命を五十歳のまま滅ぼさないために、主イエスは死んで下さったのです。人生の辛酸をなめ、数えきれない喜びや悲しみをなめ、喜びや悲しみの刻まれた八十歳の命がどこかに消えてしまうことのないために、その命がかけがえのない大いなるものとしてありつづけるために、主イエスは死んで下さったのです。

 だから主イエスは御自分の全存在をかけて言われたのです。「娘よ、起きなさい」。十二歳の命はそこにあるのです。若葉のような十二歳の命はそこで神のもとにあるのです。滅びない。どこかに行ってしまった、などということはない。消えてしまった、などということはないのです。

 主イエスは、今も言われます。「起きなさい。だれそれよ、起きなさい」。誰かの生命がいつのまにか消えてしまう。そんなことはないのです。ある人の生命は軽いから、世間の人の誰にも知られなかったから、だからその命は消えてしまってなくなる。そんなことはありません。主イエスが言われるのです。「少女よ、起きなさい」。「わたしはあなたに言う。起きなさい」。そこでみんな起きるのです。主イエスの御手の中でみんな起きるのです。

私たちはみんな、そうしたキリストの前に生かされているのだということを忘れてはなりません。いずれなくなるような命を私たちは生きているのではない。いずれみんなに忘れられ、そしてどこかへ行ってしまうような命を、私たちは生きているのではないのです。キリストは一人一人に言われます。「起きなさい」。「少女よ、起きなさい」。決して、一人の命は滅ぼされはしません。そのために、キリストは十字架にかかり、よみがえられたのです。

 イザヤ書53章5節は言います、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。私たちは、癒されたのです。私たち一人一人の命は、永遠に癒されたものとしてあるのです。失われない命としてあるのだということ、そのような命を私たちはみんな生きているのだということを、忘れないようにしたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。神様、聖書の御言葉を通し、あなたの深い御心を示してくださり、ありがとうございます。御子イエス・キリストは、私たちの命が虚しく消え去らないように、十字架への道を進み、ご自身を捧げてくださいました。私たちの命は、地上の生を超えて、あなたの御許で保たれていきます。どうか、死を超えても失われることのない永遠の命への信仰を、私たちが固く持ち続けることができますよう励ましていてください。群れの中には、病床にある者、高齢の者、試練に立たされている者がおります。どうか一人一人を顧みて、折に適った助けと励ましを与えていてください。今世界で起こっております戦争が、一日も早く終結しますよう、そのための知恵と手立てをお与えください。能登半島地震の被災者の人たちが、今の状況を乗り越え、希望をもって歩むことができますよう、どうか励ましていてください。この拙きひと言の切なるお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   3月3日(日) 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級
聖  書   ルカによる福音書19章28-38節
説  教   「エルサレム入城」   山根和子長老

主日礼拝   

午前10時30分  レントⅢ  司式 藤田浩喜牧師
聖  書(旧約) 出エジプト記33章18-23節    
    (新約) マルコによる福音書5章25-34節 
説  教   「背後の人」  藤田浩喜牧師

主を叫ぶことに生きる

ヨナ書2章1~2節 2024年2月18日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 ヨナはアッシリアの都ニネベの人々に悔い改めをさせるために、神によって遣わされますが、まったく反対方向のタルシシュ行きの船に乗り込みます。しかしヨナの乗った船はそのことが原因で大嵐に遭い、難破しそうになります。ヨナは自分に原因があることを認めて、潔く自分を嵐の海へと投げ込んでもらいました。 

海に投げ込まれたヨナはその後どうなったのか、それが2章以下において展開されます。ヨナのこれまでの行動は、下へ下へと向かう下降の道でした。彼は神の命令から逃れるために港町ヤッファに下って行きました。さらに船に乗り込む行動も、乗り込むという言葉が、下るという意味の言葉です。続いて船の中では船底に下って、眠りに落ち入りました。そして今度は海の中に投げ込まれることによって、恐怖と死の世界へと彼は下って行きました。下ることの極限をヨナは体験しました。神から遠のくことは、死に向かって下って行くことであるということを、私たちは示されました。神が命であられるならば、神から逃れることは命とは反対の、死の世界へと望みなく下って行くことにほかならないのです。

 そのようにして遂にヨナは、海の荒波の中に投げ込まれたのです。ところが事態は思いがけない展開をいたします。ヨナは放り込まれた海の中で、主なる神が備えて下さった巨大な魚に呑み込まれ、その魚の腹の中で、三日三晩を過ごすことになるのです。ヨナは死を免れました。

 ヨナが死の瀬戸際まで追いやられた時の苦しみと恐怖、そのような中で神によって奇跡的に助け出された大いなる救いの恵みと憐れみ。そのことを思い起こしてヨナは、2章1~10節において感謝と神賛美の祈りを捧げています。苦しみと恐怖と危機の中で、何がヨナに起こったのかを、私たちはこの祈りから知ることができるのです。

 2章1節を見てみますと、こう記されています。「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた」。ヨナが海に投げ込まれた後、嵐の海が静まり、その後に神は初めから予定されていたかのように、魚をヨナのために備えられた、そういう感じがする記述がなされています。もちろん救いの業の主体は神であられますから、最初からこの出来事は予定されていたということもあり得るでしょう。しかし3節以下のヨナの祈りを読みます時に、「魚の腹の中での」祈り以外にも、神の業を引き出すためにヨナの祈りが「海の中で」ささげられたことが明らかにされます。彼は海の中に投げ込まれて初めて、祈る者として神の前に自らを表していることが分かるのです。

 2節に、「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげた」と記されています。これは明らかに、魚の腹の中でささげた祈りです。その祈りの内容が3節~10節まで記されていますが、3節で彼はこう語っています。「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった」。過去のこととして、この3節の言葉が語られていることに、私たちは注目したいと思うのです。

 わたしが叫ぶとか助けを求めるという言葉は、神への祈りを表している言葉です。ヨナは今は魚の腹の中で感謝の祈りをささげているのですが、その前にすでに荒波の中で、海に投げ込まれて死にそうになった時に初めて、神に向かって叫び、助けを求めて神の名を呼んだのです。ヨナはやっと祈る者となりました。

 苦難の中で、死の世界へ落ち込んでしまいそうになった時に、ヨナは自分を助け得る方は、自分がその前から逃げようとしているあの神以外にいないことに心底気づかされて、神に祈りをささげました。そして、それに神は応えてくださったと、3節でヨナは語っています。ヨナの叫ぶ声に、神は耳を傾けてくださいました。その結果が、巨大な魚をもってヨナを助けるという神の救いの業として差し出されたのです。

 荒れる海に投げ出され、自分の力では自分を助け得ない状況に陥って、初めてヨナは心から神に祈り、神に助けを求めました。その祈りに応えて神は魚を備え、その魚にヨナを呑み込ませることによって、彼を死から救い出してくださったのです。そういった意味で、巨大な魚はヨナを救うために、神が初めから用意されたものであると同時に、ヨナの祈りに応えてふさわしい時に神が備えてくださったものであることが分かります。死の間際まで追い込まれた者が、神以外に助け得る御方はいないことを知って、神に助けを求める時、神はそれに応えてくださる御方であるということが、私たちに示されています。

 ヨナは、神の憐れみの中で新しく造り変えられるために、再び主なる神の御手によってしっかりと捕えられました。魚の腹の中は、救いの場であると同時に、彼の再生の場になっています。祈りが真剣にささげられる時、その人は変えられていきます。祈りを聞きとどけられる神が、その人を変えてくださるからです。そういった意味で、祈りは人を変革する力を持っていると言ってもよいでしょう。

 イエス・キリストは、ヨナが三日三晩、魚の腹の中にいたこの出来事を、ご自分が墓の中に葬られることとの関連で、次のように語っておられます。マタイによる福音書12章40節です。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」

 これは、イエス・キリストが死んで葬られることを意味しています。三日三晩ヨナが魚の腹の中にいたように、イエス・キリストも三日間大地の底に沈まれます。しかし、それが終わりでなくて、葬られて三日目に、キリストはよみがえりの新しい命を持って、墓から出て行かれました。それと同じように、ヨナも古い自分が造り変えられて、魚の腹の中からやがて吐き出されることになります。新しいものが生まれるために、これほどの苦しみと恐怖を味わうことが、ヨナには必要だったのです。

 彼が神の命令にもっと従順であれば、これほどの苦しみや恐怖を味わう必要はなかったであろうと、多くの人々は考えます。しかし、また人は真に追いつめられなければ自分自身と向き合い、神と向き合うこともないということも、私たち人間の現実なのです。

 宗教改革者ルターが、このヨナについて次のように述べています。「ヨナが、いち早く祈っていたら、もっと早く救われただろう。ヨナは彼をまねて、このようなことをしないように(もっと早く祈るように)われわれに命じ、そして教えてくれている。……しかし、人が神に向かって叫び求め、訴えることは、どれほど難しいことであろうか。泣き叫び、嘆きおののき、疑うことはするけれども、祈りは出て来ない。」

 もっと早くヨナが祈っていたら、これほどの苦しみを味わうことはなかったであろうという教訓を私たちはここから読み取ってよい、ルターはそう語ります。しかし、実際の私たちは、叫んだり、わめいたり、疑ったりするけれども、心から神に祈ることはなかなかしない者である、こう語るルターの言葉を私たちはじっくりと噛みしめたいと思います。

 2節でヨナは、「自分の神、主に祈りをささげた」と記されています。神はイスラエルの民全体の神であられると同時に、また「わたしの神」、「自分の神」と言うことを許される一人一人の神でもあられます。使徒パウロが、神が「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を私たちの心に送ってくださったと、ガラテヤの信徒への手紙で語っているとおりに、私たちは神を全く自分一人の父でもあるかのように、神に向かって祈りをささげてよいのです。群れ全体の神、信仰者全体の神であられるイエス・キリストの父なる神は、わたし一人の神でもあってくださいます。そのような強い結び付きを、私たちは神との間に与えられているのです。

 さて、今日は全部を扱うことはいたしませんが、3節から10節まで続く祈りですが、旧約の詩編にもよく似た内容のものがあり、よく似た形のものが多く見られます。そのことについて少し触れておきましょう。

 詩編には、信仰者たちが神に向かって、「わたしの祈りに耳を傾けてください」と訴える祈りが数多く記されています。「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください。わたしに耳を傾け、答えてください」。これは詩編55編2節、3節の言葉です。神よ、わたしから隠れないで、わたしの叫びに耳を傾けてください。旧約の信仰者たちはそのように神に叫び続けました。それに対して主なる神もまた、そのような信仰者に対して、ご自身に呼びかけることを許し、またそれを求めておられます。そのことを示す詩も詩編の中に数多く出てまいります。「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。お前はわたしの栄光を輝かすであろう」。これは詩編50編15節の言葉です。これには救いの約束が伴っています。

 わたしに耳を傾けてください。そう叫ぶ私たちに、神はわたしの名を呼べ、わたしは苦難の日にあなたを救うと、約束してくださっています。そして、さらにそのような神の許しの中で神に祈りをささげる者は、実際に神によって救われた恵みの体験をも与えられて、神への感謝の祈りをささげています。そのような詩編も数多く見ることができるのです。

 神に祈り求め、神に願う者に、神はそれにふさわしい答えを与えてくださる。そのことを私たちは旧約の詩編をとおして、またイエス・キリストが示してくださった神の憐れみをとおして、知ることができるのではないでしょうか。

 神は私たちが失われた者、滅びに陥る者となることを、お喜びになる御方ではありません。それゆえに、叫び求める者を、御手をもって守り、救ってくださる御方です。それが私たちの神であります。ヨナには、巨大な魚を備えて、彼の祈りに応えてくださいました。ヨナには荒海の中で魚が必要でした。私たちに対しては、それぞれに必要な、それぞれに最もふさわしい助けをもって、神は応えてくださる御方であります。神は一人一人の声を聞き分けることがおできになる御方です。それゆえに、神は一人一人に必要な助けを具体的に差し出すことがおできになります。そのことを、私たちは確信することができるのです。苦難の中でこそ、主に叫ぶことに生きる。そのような私たちでありたいと心から願います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。預言者ヨナを通して、私たちが如何に頑なで、あなたに祈ることの少ないものであるかを知らされます。しかしあなたはそのような私たちを顧みてくださり、切羽詰まって祈る私たちの祈りにも答えてくださいます。私たちの信仰は、あなたへの祈りの中で深められ真実なものにされていきます。どうか祈りを通して、あなたの御臨在を生き生きと感じさせてください。今群れの中には病床にある者、高齢の者、試練のさなかにある者がおります。どうか一人一人を、御手をもって支えていてください。戦争や災害のために苦しんでいる人々を顧みてください。この切なるお祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   2月25日(日) 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ヨブ記42章1-6節

説  教   「ヨブの悔い改め」   藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分  レントⅡ  司式 山﨑和子長老

聖  書

  (旧約) イザヤ書65章1-5節前半    

  (新約) マルコによる福音書5章21-24、35-43節 

説  教   「少女よ、起きなさい」  藤田浩喜牧師

すこやかに家に帰る者とされ

マルコによる福音書5章1~20節 2024年2月11日(日)礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

今日の箇所は墓場を住みかとした人の物語です。人はだれでも、いつか墓に入る時が来ます。しかしそれは、できるだけ先のことであってほしいし、生きている限りはそれを忘れていたいものです。ところがこの人は、墓場以外には安心して住むことができないかのように、そこに籠っていました。親しい者たちが自分たちのところに留まらせようと、足枷(あしかせ)や鎖でつなぎとめておいても、檻(おり)から抜け出そうとする野獣のように、鎖を引きちぎり足枷を砕いて、故郷に帰るように墓場へと走り去っていくのでした。

 家族や友人のもとよりも墓の方を選び、生きた人間よりも死人と一緒に暮らすことを願うのは、異常な生活です。通常は人間は死人を恐れます。しかしこの人にとっては、死人よりも生きた人間の方がもっと恐ろしかったのではないでしょうか。死人は呼んでも答えない淋しい相手かも知れませんが、そのかわり、向こうからは何もしないで、他人を静かにそっとしておいてくれます。

しかし、生きた人間は、他人をいじめたり、利用したり、他人の不幸をあざ笑ったりします。生きた人間の世界には、神経の敏感な人間には耐えられないような弱肉強食の生存競争が続いています。墓場に逃げ込むこの人は、個人的にか社会的にか、とにかく生きた人間との交渉の中で傷つけられ踏みにじられ、その傷の痛さのあまり、正常な人間関係に入ることができなくなった不幸な人間であったように思われます。

 しかし人里離れた墓場も、この人にとっては本当の憩いの場ではありませんでした。「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」(5:5)。加害者は外だけでなく、内にもいたのです。彼の内にはレギオンと名乗る悪霊が住んでいました(5:9)。レギオンというのはローマの軍隊用語で、約六千人の兵士から編成された軍団(マタ26:53参照)のことです。

ですからここでは、レギオンは悪霊の大群を表しています。無敵を誇るローマ軍団が地中海世界を制圧していたように、この人の内には狂暴な悪魔的な力が吹き荒れていたのです。ローマ軍の占領下では、人々は自分の土地でも自分の思いのままに用いることはできませんでした。それと同様に、この人は自分を自分でコントロールすることができず、心ならずも、暗い闇の力に引きずられていたのです。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」(ローマ7:18)。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。あのパウロの叫びがこの人の口からも出てくるような気がします。墓場や山で絹を裂くような鋭い叫びをあげて、我と我が身を傷つけているこの人は、制御がきかずに暴走する汽車の中で、運転手が悲鳴をあげ髪をかきむしっている状態のように思われます。

 闇の力に振り回され、自滅の道を転げ落ちていくこの人は、私たちには縁のない異常者でしょうか。私たちも欲望や衝動にかられて暴走します。政治的権力や経済的実力を持った人が、実は政治の駆け引き、経済の自己拡張的な運動に突き動かされ、真の国益や社会の福祉を損なう過ちを犯します。イデオロギーに踊らされて人間を殺します。ドストエフスキーの『悪霊(あくりょう)』という作品は、ある秘密結社で同志が脱退を申し出たのに対し、彼らが官憲に密告するのを恐れて惨殺したという、ネチャーエフ事件を素材として書かれたと言われています。しかしロシアだけでなく日本にも、そのような悪霊が現代の姿を見せたことは、私たちの記憶にまだ生々しいところです。私たちを非人間化しようとする闇の力は、どこでも私たちに対して攻撃を仕掛けてきます。

 しかし、レギオンがどんなに猛威を振るおうとも、彼らは人間を支配する権利をもっているわけではありません。神は人間が神以外のものの力に支配されることを決して許されません。神は人間をねたむほどに愛されます(ヤコ4:5)。ですから、主イエスが神の子としてこの人の前に立たれたとき、主はレギオンに対して、「汚れた霊、この人から出て行け」(5:8)と宣告し、彼らの城にしているこの男から出てゆき、その城を明け渡すように迫られたのです。

 ここで奇妙な豚の溺死事件が記されています。ある註解書によると、主イエスがあの人に近づかれたとき、彼は主イエスの人格的な威力に圧倒され、聖なる力に打ちのめされた。自分の不健康な生活が砕かれるのを感じ、恐れおののき、断末魔の叫びのような悲鳴をあげて、豚の群れに逃げ込んだ。豚は驚いて、群れ全体が走り出し、断崖から湖に雪崩を打って落ちて行ったのだというのです。一人の人間が狂気から正気に戻るために、イエス・キリストから物凄い力がこの人に注がれたことが示されているように思われます。

豚二千匹はこの地方の人々にとっては大変な財産です。後で、人々はその損失に驚いて、主イエスにこの地方から出て行ってもらいたいと、願っています。しかし主イエスは、一人の人間を救うために二千匹の豚を犠牲にすることを惜しまれませんでした。

 私たちはしばしば、豚を惜しんで人間を犠牲にします。『苦海浄土』を書いた作家石牟礼道子(いしむれみちこ)さんが、水俣病患者に対する補償のいきさつを記録して、人間の命がどんなに安価に扱われているかを鋭く指摘しています。

 「水俣病患者互助会五十九世帯には、死者に対する弔慰金三十二万円、患者成人年間十万円、未成年者三万円を発病時にさかのぼって支払い、『過去の水俣工場の排水が、水俣病に関係があったことがわかっても、いっさいの追加補償要求はしない』という契約をとりかわした。

 おとなのいのち十万円 こどものいのち三万円 死者のいのちは三十万円 と、わたしはそれから念仏にかえてとなえつづける。」(『苦海浄土』)

このような人間のいのちが安く値踏みされているのに対して、主イエスは、一人の人間が自分を取り戻すためには、豚二千匹を犠牲にすることをも、借しまれませんでした。そして、究極的には御自分の命さえ犠牲にされる、十字架の道を歩まれたのです。神の子が捨て身で人間を救おうとされる、その恵みの迫力のすさまじさに、さしものレギオンも敗走せざるを得なかったのです。

 やがて「レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって」(5:15)主イエスの足もとにすわりました。「正気になる」という言葉は、「酒に酔わない」「素面(しらふ)でいる」という意味です。衝動的な、ものにつかれた姿とは反対の、静かな落ち着いた様子です。私たちは荒波にもまれるような逆境の中では緊張と不安にふるえ、それから逃れようとして、一時の快楽に熱狂的に興奮したり、憑かれたような生活に流されます。しかし、主イエスが共にいてくださる時、恐れから解放され、落ち着いた生活を取り戻すのです。

 今までレギオンに、大勢の霊に取りつかれていた人が「正気になって」、キリストのそばに座っていたのでした。つまり彼は、おるべき場所に今、身を置いているということを示しています。おるべき所に身を置いた時に、正気なのです。癒されているのです。今日の説教の冒頭で、いつか死を迎えなくてはならない私たちのことに言及しました。人が死を克服するなどということは、困難なことであります。しかし、私たちが死というものを克服して生きられる道があるとするならば、それは私たちが神に前に自分自身を置く時です。神の前に自分自身が立って、神との交わりの中に自分の身を置く時に、私たちは初めて死というものを超えて生きることができる。神との出会いの中で、人は死に脅かされないでいのちというものを経験することが許されるのです。

 そして、人が自分自身を発見するのも、神の前に自分の身を置く時でありましょう。神に見出されている自分自身を知った時に、人は自分になることができます。自分が自分であることを喜ぶことが、初めてできるのです。「ああ、ここに自分がいる。自分という人間がここにいるのだ」ということを、本当に確信できるのは、私たちが神の前に立った時です。イエス・キリストの癒しというのは、そういう意味で、私たちを神に前に引き出し、連れ戻すことなのです。

 このようにして、主イエスによって人間性を回復したこの人は、この地を去ろうとされる主に、どこまでも従うことを願いました。しかし主はそれを許されないで、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(5:9)と命じられました。彼にとって主に従う道は、家族のもとに、故郷にとどまることでありました。その土地は、主イエスの恵みを与えられても、心を開こうとしないで、主に出て行っていただきたいと、心を閉ざす不信仰な地でありました(5:17)。ユダヤから見ると、ヨルダン川の向こうの、ユダヤ人にとっては汚れた獣である豚を飼う土地でありました。この地に主イエスは、彼を一人残して去っていかれたのであります。

 しかしそれは、主が彼を福音宣教の最前線に派遣されたことでありました。そこは福音を聞いたことのない、伝道の未開地であり、彼は開拓伝道のパイオニアとして遣わされたのです。それゆえ彼は、自分の恥かしい前歴を知っているこの土地に踏みとどまり、そこで自分に与えられた主の恵みを証しなければなりませんでした。私たちも、逃げ出したいと思う場所に敢えて踏みとどまり、主の御力をいただいて生き抜くことが命じられています。使徒パウロも急速な生活の変化を期待して浮足立ち、生活が落ち着かない人々に対して「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。……おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」(Iコリ7:17、20)と命じています。性急に身軽になろうとしないで、家族の中に、仕事の中に帰っていき、人々と連帯しながら、自分たちを導く主を証していきたいものであります。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と対面で、配信で、共に礼拝に与ることができましたことを感謝いたします。今日は主イエスによって悪霊から解放された人の記事を通して、あなたの御心を示されました。悪霊に取りつかれていた人は、私たち人間の姿でもあります。どうか、私たちを罪から贖うために、御子を遣わされ、十字架に付けられた愛によって、私たちが今や罪の縄目から解き放たれていることを、覚えさせてください。そして、あなたの御前に連れ戻していただいた私たちが、大いなる落ち着きと死をも乗り越えていく平安の中に守られていることを覚えさせてください。今も世界では、不条理としか言えない戦争が、各地で続いています。貴い命が奪われ、生活が破壊されています。どうか、為政者たちの頑なな心を砕き、この戦争を一日も早く収束に向かわせてください。能登半島地震の被災者の方々のことを覚えます。被災地にあって必死に生活を再建しようとしている方々を支え励ましていてください。この切なるお祈りを、イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  2月18日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ヨブ記19章25-27節

説  教   「わたしをあがなう方」 山﨑和子長老

主日礼拝   

午前10時30分 伝道礼拝(レントⅠ) 司式 髙谷史朗長老

聖  書

  (旧約) ヨナ書2章1-3節    

  (新約) マタイによる福音書12章38-42節 

説  教   「主を叫ぶことに生きる」  藤田浩喜牧師

航路を主イエスと共に行く

マルコによる福音書4章35~41節   2024年2月4日(日)主日礼拝説教

牧師 藤田浩喜

 今日の4章35節を見ますと、「その日の夕方になって」と書かれていました。その日、主イエスは集まってきたおびただしい群衆に、たとえをもって神の国について教えておられました。主イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上から語りかけます。群衆は皆、湖畔にいてそれを聞いていました。そして、その日の夕方、主イエスは弟子たちに言われたのです。「向こう岸へ渡ろう」と。
 暗くなってから舟を出すこと自体は、珍しいことではありませんでした。夜通し漁をすることもあるのですから。また、弟子たちの多くは漁師ですから、舟を出して良い日かどうかも、ある程度はわかります。その日は舟を出しても良いと判断したのでしょう。「向こう岸へ渡ろう」と言っても、はるか彼方へ舟を出すわけではありません。せいぜい10キロ~20キロの間です。ですから主イエスは無理な要求をしているわけではありません。
 しかし、それでもなお弟子たちにとっては、正直言ってあまり気が進まない話だったと思います。というのも、主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と言って指さしていた先は、「ゲラサ人の地方」だったからです。それはユダヤ人ではなく異邦人が住んでいる地域です。5章を見ますと、その地方の人たちはどうも豚を飼っていたらしい。ユダヤ人の感覚からすると、そこは汚れた人々が汚れたことをして生活している土地なのです。そんなところには行きたくないし、そんな人々とは関わりたくもない。しかし、主は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。

 主イエスがそう言われるので、仕方なくも舟を出しました。群衆を後に残し、主イエスを舟に乗せたまま彼らは漕ぎ出します。すると、やがて激しい突風に見舞われることとなりました。経験を積んだ漁師たちでも予測を誤る時はあるようです。「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」(37節)。ちなみに「水浸し」と訳されているところは、「(水が)今や舟いっぱい」という表現ですから、事態はかなり深刻です。舟は沈みそうになっていたのです。
 しかし、その嵐の中にあって主イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられました。弟子たちは主イエスを起こして言います。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」 これが今日の聖書個所の前半部分です。
 皆さん、ここを読まれておかしいと思いませんか? 嵐なのに主イエスが寝ていることではありません。嵐なので主イエスを起こした、ということです。ガリラヤ湖と舟に関して弟子たちの方が専門家なのでしょう。一方主イエスと言えば、大工の息子ですから、舟に関しては素人以外の何者でもありません。
 実際、彼らは起こす直前まではそう考えていたと思います。「眠っておられた」と書かれていました。言い換えるならば、誰もそれまで起こそうとはしなかった、ということです。舟はいきなり水でいっぱいにはなりません。かき出しても水が入るから一杯になるのです。彼らがなんとか努力して、舟が沈まないように対処していたとき、彼らは主イエスを眠ったままにしておいたのです。必要ではなかった。素人ですから。嵐の中で格闘している時には、むしろ素人は寝ていてくれた方がよかったのです。
 ところがこの場面において、彼らはその素人でしかない主イエスを起こして、こう言っているのです。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38節)。おかしいでしょう。ここに書かれていることは、普通に考えるならば異常な光景です。

 しかし、もう一方で彼らの気持ちもよく分かります。多かれ少なかれ私たちにも身に覚えがあるからです。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったのは、実際おぼれそうになったからです。長年の経験と自分たちの持っている技術と持ち前の根性では、どうにもならなくなったから、今さらですが、彼らはこのような言葉を口にしているのです。
 想像してみてください。主イエスが群衆に語りかけていた時、彼らは舟の中にいたのです。一番近いところで主イエスの話を聞いていたのです。神の国の話を聞いていたのです。神の支配について聞いていた。百倍にもなる御言葉の種の話も聞いていたのです。そのように、神のなさることについて聞いていたのです。
 しかし、嵐の中にあっては、そんな話はどこかへ飛んでしまいました。神の話は神の話。現実は現実。今は現実の方が大事なのであって、神様関係の御方は寝ていてもらっていたほうがいい。素人は足手まといですから。
 このようなことは、私たちにもあるのでしょう。神の話は神の話。現実は現実。この大変な時に聖書や教会どころじゃありません。こんな時に信仰の話でもないでしょう!礼拝どころじゃないでしょう!そうやって、自分の経験や技術や根性で一生懸命に対処しようとしている時には、神様のことは後回しになります。
 しかし、彼らはどうにもならなくなった時に、そこに寝ている方のことを思い起こしたのです。きっと思い出したことでしょう。主イエスを通して神の権威と力が現わされていたことを。カファルナウムの会堂において、汚れた霊に「黙れ、この人から出て行け」と命じると、たちまち汚れた霊は出て行ったことを。また、中風の人が床に乗せられてつり降ろされてきた時に、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じられると、病は癒され、その人は床を担いで出て行ったことを。
 だから、自分の力や頑張りではどうにもならなくなった時、彼らは主イエスを求めたのです。この御方を通して現れた神の権威を求めたのです。「神の話は神の話。現実は現実」ではなくて、現実の中に神の権威と力が現れることを求めたのです。ならば主イエスを起こさなくてはなりません。おぼれそうなのですから。彼らは主イエスを起こして言いました。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。

 すると主イエスはにわかに起き上がり、あのカファルナウムの会堂の時のように、「黙れ。静まれ」と命じられました。そして話は「すると、風はやみ、すっかり凪になった」(39節)と続きます。奇跡を伝えたいだけならば、話はこれで終わりでしょう。しかし、大事なのはその後です。「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか』」(40節)。
 「なぜ怖がるのか」と主は問われます。それは「怖がる必要はないではないか」ということです。風がやんで凪ぎになったから、怖がる必要がないのではない。まだ突風が吹いている時でも、波をかぶって舟が沈みそうになっているその時でも、本当は怖がる必要などなかったということなのです。本当に目を向けるべきところに目を向けていたならば!
 そうです。彼らが必死で自分たちの力で対処しようとしていた時に、同じ舟の中に主イエスはおられたのです。「神の話は神の話。現実は現実」と思っていた時に、実はそこに主イエスはおられたのです。そこで主イエスは安らかに眠っておられたのです。何もなさらなかったのです。皆さん、神の権威や力は、ただ奇跡の類によってのみ現されるのではないのです。そうではなく、主イエスは眠っていることによって、何もなさらないことによって、奇跡を行う以上にはっきりと、神の圧倒的な権威と力を現しておられたのです。そして、彼らに必要だったのは、ただ信じることだけだったのです。主は言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。

 さて、最初の話に戻ります。そもそも、これらのことは「向こう岸へ渡ろう」という主の言葉から始まりました。主が指さしていたのは異邦人の地でした。そこには出会いたくない、関わりたくない人々がいる。しかし、主は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」。
 教会の歴史は、この「向こう岸へ渡ろう」という主イエスの言葉によって導かれてきた歴史でした。主イエスはユダヤ人でした。十二弟子もユダヤ人でした。当初は教会にはユダヤ人しかいなかったのです。そこに異邦人が加わって来るようになったのは、ある時から異邦人にも福音を伝えるようになったからです。
 もともとユダヤ人は、異邦人とは一緒に食事はしませんでした。異邦人が加われば、「異邦人との食事」という全く未知の要素が入ってきます。当然、まったく馴染みのない習慣やものの考え方も入ってきます。感じ方も違う人たちと、共にいることになる。当然、教会の雰囲気も変わってくるでしょう。ユダヤ人が自分たちにとって居心地のよい教会を望むなら、絶対に異邦人に伝道などしない方がよいのです。しかし、主イエスは言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。そして、教会は向こう岸へと渡ったのです。
 私たちもまた、安全なところ、自分たちの慣れ親しんだところ、今まで慣れ親しんだあり方に留まりたいと思うものです。前に踏み出したくない。舟は出したくない。ゲラサ人とは関わりたくない。異質なものとは関わりたくない。しかし、主イエスは先へと、向こう岸へと行こうとしておられる。自分一人ではなく、私たちと一緒に行くことを望まれるのです。ですから私たちにも言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。
 そこでこそ、あの弟子たちが舟の中において身をもって学んだことを、私たちもまた知っておく必要があるのでしょう。舟を出せばいろいろなことは起こってきます。嵐に遭うかもしれません。舟は沈みそうになるかもしれません。しかし、その時こそ、キリストが共におられることに目を向けなくてはならないのです。そして、求められているのは「信仰」であることを思い起こさなくてはならないのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と主は言われます。そこでこそ、「主よ、私たちは信じます。私たちは、あなたと同じ舟の中にいるのですから」。そのように言える者でありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を共にすることができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは私たちと共にあって、「向こう岸へ渡ろう」と促されます。それは教会の歩みにおいて、キリスト者の生き方において、私たちにも呼びかけられる促しです。どうか、主イエスを信じて、主にゆだねて、前進していくものとならしてください。南柏教会は先週の主の日に今年の定期総会を行い、あなたから福音宣教のヴィジョンを示されました。さまざまな波風が私たちを襲うことがあるかもしれませんが、主の御守りと御導きを信じて、あなたの託してくださった福音宣教の使命に喜ばしく仕えさせてください。群れの中には、病床にある者、高齢のゆえに労苦している者、人生の試練に立たされている者たちがおります。どうか一人一人と共にいてくださり、あなたの励ましと平安を与えてください。私たちの世界では不条理な戦争が各地で起こっています。そこで暮らす人々の苦しみや悲しみは計り知れません。どうか、そのような戦争が一日も早く収束に向かい、平和な日常生活を取り戻すことができますように。国内にあっては、能登半島地震の被災者の方々が、この寒さが一番厳しい時に、避難生活を強いられています。どうか、お一人お一人の健康を支えてくださり、この試練の時を無事に乗り越えさせてください。これらの拙き切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

次週の礼拝  2月11日(日) 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ヨブ記2章1-10節

説  教   「ヨブの信仰②」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分     司式 山根和子長老 

聖  書

  (旧約) イザヤ書55章6-13節    

  (新約) マルコによる福音書5章1-20節 

説  教   「すこやかに家に帰る者とされ」  藤田浩喜牧師