主は立ち帰る者を救われる

マルコによる福音書2章13~17節 2023年8月6日(日)主日礼拝説教

                        牧師 藤田浩喜

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(17節)。この聖句は皆さんもご存じの有名な聖句です。主イエスが徴税人のレビを弟子としてお召しになり、彼の家で仲間の徴税人や罪人たちと食事を共にされていました。その様子を見て主イエスを非難してきたファリサイ派の律法学者に、主イエスはこの言葉をお語りになりました。

 「丈夫な人には医者はいらない。」これは当たり前のことです。しかし私たちは果たして丈夫なのでしょうか。肉体の健康を保つために健康診断が必要なように、私たちは自分の生き方や心のあり方が果たして健全であるか、病んでいないかを診断しなくてはなりません。主イエスの御言葉は鋭いメスのように、あるいはCTやMRIのように、私たちがふだん自覚していない、心の奥にある病巣に迫るのです。私たちは健康でしょうか? 病気ではないでしょうか?

 ここで「丈夫な人」というのは、原語では「力を持っている人」という意味です。他人の力を借りなくても、自分の力で生きていくことのできる人です。主イエスを非難したファリサイ派の人々は、自分の努力で律法を守り、神の御心にかなう人間として生きていけるとうぬぼれていました。そして律法を持たない異邦人や、律法を守ることのできない罪人を軽蔑していました。主イエスはこのように、神の助けがなくても人間の力で生きることができると自負している人のことを、「丈夫な人」と呼んで皮肉(ひにく)っておられるのです。

 人間のすぐれた知性によって、すばらしい科学文明を築き上げた現代人もまた、神がなくても、人間の知性と人間が生み出した科学技術によって、輝かしい未来を築くことができると自負している「丈夫な人」です。多くの現代人にとって、神は死んだのであり、宗教は弱い人間がすがりつく迷信にすぎません。

 そして私たち自身もまた、自分の知恵や力によって生きていけるとうぬぼれている、「丈夫な人」となってはいないでしょうか。私たちは自分の考えによって将来の計画を立て、それを実現するために必要な学力、技術、財産、権力などを手に入れようと、懸命に努力しています。腕力や外見的な魅力も必要かもしれません。学校教育は私たちが「丈夫な人」として、自分の力で生きていける実力を身に付ける手段になっています。神なき世界では人間の力だけが頼りです。

 このような、人間の力だけが頼りである「丈夫な人」の社会では、隣人はもはや愛する対象ではありません。自分が生きるために蹴落とさなければならない競争相手です。「敵を愛しなさい」というような主イエスの教えは、センチメンタルな弱者の道徳としか見なされません。弱者は敗北し、社会の底辺にまで追いやられる。そのような傾向は、今日の新自由主義や自己責任論の台頭によって一層強まったように思います。こうした油断もすきもない、砂漠のような世界に、私たちは「丈夫な人」として、自分の力によって生きているのです。

 このような自分の力や能力だけを誇る、「丈夫な人」をつくる学校教育において、不登校やいじめなど、様々な問題が起こることは当たり前です。神を見失った現代の世の中で、自分は「丈夫な人」であると思い込んで生きている私たちこそ、最も根の深い文明の病に、知らず知らずのうちに冒されている病人であることを、認めなければなりません。宗教の根本問題は、神が存在するかどうかといった思弁的な事柄ではありません。私たち人間は果たして神なしに生きることができるかという、日常生活に直結する私たちの生き方が問われているのです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」ここで主イエスに病人と呼ばれているのは、主イエスと食事を共にしている徴税人や罪人のことです。徴税人は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国のために、同胞のユダヤ人から重税を取り立て、そのうえ税金のうわまえをはねて私腹を肥やしていました。

ユダヤ人が汚れていると見なしていた異邦人と接触することも多く、異邦人の手先として働いていたので、ユダヤ社会の嫌われ者だったのです。また、ここの罪人とは十戒をはじめとする律法を知らず、守らない人々でした。その中にはクリスマスに登場する羊飼いのような人たちも含まれていたでしょう。律法によってユダヤの民を指導していたファリサイ派の人たちは、彼らを社会の病人と見なし、あたかも伝染病を忌み嫌うように、彼らと食事をすることはもちろん、接触することさえ拒んでいたのです。

 徴税人や罪人たちは社会の落伍者として、一人前の人間とは認められず、だれからも相手にされませんでした。彼らは劣等感と寂しさにさいなまれながら、生きていたに違いありません。徴税人は、大勢の人を招いて食事を振る舞うだけの財力を持っていましたが、それは彼の心の穴を埋めてはくれませんでした。「丈夫な人」の社会は、常にこのように落ちこぼれ、疎外され、差別された人々をつくります。人間が支え合うのではなく、同じ人間を差別し、疎外することこそ、最も深い社会の病気です。「丈夫な人」として生きている時、私たちもこの病に冒されてはいないでしょうか。

 病人は「丈夫な人」のように、自分の力だけでは生きることができず、医師や看護師の助けがなければ一日も生きていけない弱い者です。自分の力に自信をもって生きてきた人も、いったん病気にかかると、そのことを痛感します。重い病気で入院した経験のある人は、不安と心細さに悩まされます。病院の先生や看護師さんの存在がどんなに安心感を与えてくれるかを知っています。

 それは身体上のことだけではありません。私たち人間の存在そのものが、弱く壊れやすい存在なのです。大切なことは、私たちもまた決して「丈夫な人」ではないことを認めることです。自分の力では律法を守ることができず、神の恵みによって支えられなければ、一日も生きることのできない病人であると認めることです。私たちの中には、「丈夫な人」は一人もいません。ただ自分は「丈夫だ」と思い込んでいる病人がいるだけなのです。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。主イエスはそう言われます。たいていの晩餐会や宴会には、いわゆる有名人が第一に招かれて、上席にすえられます。地位や富や業績のある人、人気者のタレントなどはひっぱりだこです。そこにわざわざ病人を招く人はありません。

 しかし医師は病院に、病人だけを招きます。健康な人を招いていたのでは、仕事になりません。毎日毎日、病人だけを相手にして全力で治療する医師の仕事は貴いものです。そしてイエス・キリストは、私たちの魂を癒す、まことの医師として働かれます。罪という死に至る病から私たちを解放し、本当に健康な人間として生かすために、私たちの世界に来られたのです。

 ところで主イエスは、「わたしは罪人を招くために来た」とおっしゃった。ところが、ここでは招かれているのです。徴税人レビが招いている。ここの光景はまことに不思議な光景だと思います。主は、「わたしは罪人に招かれるために来たのだ」と、おっしゃったかのようなのです。

 ある説教者が、ドイツのキリスト者たちの間でなされている食卓の祈りを紹介していました。こういう祈りです。「主よ、来てください。私たちのお客になってください。そして、あなたが与えてくださったものをここで祝福してくださいますように。アーメン。」食卓にお客を迎えた時にも、この祈りはささげられます。この祈りには、次のような信仰が込められているのです。「ここでわたしがもてなす食べ物はあなたがくださったものです。あなたがくださったものを、あなたがここで祝福してください。そうすればこの食卓は真実の食卓になります。

 徴税人のレビがそういう祈りをしたとは言えません。けれども私は、レビの心の中にあったものは同じであったと思います。主イエスを迎えながら、彼は主イエスに迎えられている喜びを味わっているのです。主イエスがここにお客さんになっていてくださるということで、自分がこの方の客として招き入れられたことを、どんなに喜んだかわからない。どんなに豪華なご馳走の並ぶ食卓であっても、これまでの食事はレビの心を満たすものではなかったでしょう。しかし、この主イエスというお客によって、はじめて自分の作った食卓が真実の祝福の中に置かれている。レビはそのことを信じることができて、喜んでいたと思います。

 「あなたが与えてくださったものをあなたが祝福してください」という祈りは、この食べ物で示されているようなわたしの命を、あなたが祝福してくださる時、ここに真実のいのちが生まれる、わたしの生活があるという信頼を言い表しています。それはしかし、食卓についてだけ言い得ることではありません。たとえば、私たちが忙しさの中に、どうしてよいのか分からなくなるようなことがあっても、もし、「主イエスよ、ここに一緒にいてください、この生活はあなたが与えてくださったものです、あなたが祝福してください」と祈ることができれば、どんなにさいわいでしょう。そのような祈りをなし得る確信の中に立つことができれば、私たちはどんな生活にも耐えられるように思うのです。主イエスが招かれるために来てくださったおかげで、主イエスが祝福していてくださることが見える。私たちの人生の中に、主イエスがお客として来てくださったことによって、私たちの人生はこれまでとは違った意味を持つものに変えられるのです。

 徴税人レビは主イエスに召しを受けて、本当にびっくりしたと思います。自分でも見たことがないようなまなざしで、自分の生活、自分を見て、祝福して、わたしについて来てごらん、あなたは健康になれる、と言ってくださった方があるのです。そう言われて気づいたのです。自分が病んでいたことを。人間としてまともに生きていなかったことを。どんな人々の厳しい言葉によるよりも、軽蔑の言葉によるよりも、痛い思いで知ったと思います。主イエスの愛はそういうふうに、私たちの間違った生活に気づかせます。そして呼び出してくださいます。わたしについて来い、と言われます。わたしの後について来ればそれでいいのだ、と言われます。わたしのいる所にいてくれればいいのだと言われます。わたしの祝福の中にいてくれれば、それであなたは健やかになれると言われます。それが、主イエスの招きなのであります。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今御子イエス・キリストは、わたしたちのところに客となって来てくださいました。それは「丈夫な人」と思い込んでいる私たちが本当は「病める者」であることに気づかせ、主が与えてくださる祝福と平安によって私たちを癒すためであります。どうか、その癒しを心を開いて素直に受け取ることができますよう、私たちを導いていてください。日本列島は今、大きな被害をもたらす台風と異例とも言える酷暑に見舞われています。どうか、この新しい一週間をあなたの御手の守りの中で無事に過ごすことができますよう、一人一人を支えていてください。今日は広島に原爆が落とされた日です。私たちの世界が核使用という愚かさを二度と繰り返すことがないよう、どうか導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

救いへの突進

マルコによる福音書2章1~12節  2023年7月30日(日)主日礼拝説教 

牧師 藤田浩喜

「四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」。病気の人を主イエスのところに連れて行こうとする人々がおりました。病人を連れて行こうとしますと、群衆がいっぱいいて、なかなか主イエスのところに行くことができませんでした。彼らは屋根にのぼり、穴をあけて病人を主イエスの前につり降ろしたと書かれています。信仰というものには、妨げがあるということを示唆している出来事ではないかと思います。神に近づこうとすると、そこに妨げが入ってくるのです。あるいは、祈ろうとすると、そこになんらかの妨げが入ってくるということです。四人はその妨げを突き抜けて近づいて行きました。自分たちと共にいる病気の友人のために、その妨げを越えて、主イエスのところに行ったのです。屋根がどんな屋根であったか詳しいことは分かりませんが、おそらく当時の建物からしますと、フラットな屋根であっただろうと思います。そして、家の外側には、屋根の上にのぼる階段がついていたようです。彼らはそこからのぼって行って、群衆のために近づけないので屋根をこじあけたのであります。

 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と、言われた」。「その人たちの信仰を見て」と書いてあります。そしてこの中風の人を癒されたということが最終的に言われているのです。その信仰というのは何かと言えば、おそらく困難を越えて近づいて行く信仰のことでありました。信仰というものはさまざまな困難を越えて近づいて行くところに、表われてくるのです。困難、妨げるもの、それは、人々の群れでありました。世間の常識がある場合には、困難ということであるかもしれません。あるいは、この世の騒がしさが信仰を妨げる困難であるかもしれません。そういう妨げを越えて行った人々の信仰というものに対して、主イエスは答えられたのだと聖書は言っているのです。つまり、信仰というものは妨げを突き抜けて、初めてそこで、生きたものとして証しがなされるのであります。

 人々は、床のままで病める人を、主イエスの目の前につり降ろしました。ずいぶん乱暴なやり方です。彼らは自分たちの困難を主イエスの前に、言わば突き出したのです。ありのまま突き出した。自分たちの今、悩んでいる課題、痛みというものをそのまま主イエスの前に突き出したのです。そこには体裁も、礼儀もありませんでした。実に不躾なやり方で主イエスの前に、病人を連れて行ったのです。しかし、主イエスは彼らの求めに答えられました。なぜならば、主イエスとの交わり、出会いというものは、そういう仕方で生まれるからです。私たちの抱えている問題や、痛みや苦しみが、そのまま持ち出される。そこから、救い主との交わりというものは始まるのです。それがなければ始まらないと言わなければなりません。私たちが日々担っている重荷や課題、それを持って私たちは、神に、救い主に出会っていくのです。それなしに、私たちが神に出会う道というものはありません。何か、いろいろ考えて結局、神がいるんじゃないか、というふうなことではないのです。自分が担っている課題を背負って、そしてそれを突き出して行くという中で、私たちは救い主に出会って行くのです。神は私たちの声を聞くことを求めておられるのです。私たちのぎりぎりの声を聞くことを、神は待っておられる。その一点から神との出会いは始まるのです。

 主イエスは、「彼らの信仰を見て」と言われています。彼らの信仰です。病気の人の信仰というのではありません。病気の人を連れて来た人たちの信仰とも考えられますし、あるいはこの病気の人を含めて、五人の人たちの信仰のことを指しているのかもしれません。この人々の信仰を見て、主イエスはその信仰に答えられたというのです。一人の病人に答えられたというよりも、五人のこの人々の求めに答えられたのです。

この人々は問題のない人々のグループではありませんでした。健康な人々だけが集まっているグループではありませんでした。病気の人たちを自分たちの中に抱えこんでいる、そういう共同体でありました。病める人の痛みを自分たちの痛みとして、病める人の課題を自分たちの課題として担っている、そういう交わりでした。彼らは自分たちの中に一人の病める人を抱えこみ、担い、その人のために行動し、その人のために声をあげ、そしてキリストに近づいたのです。主イエスはその人々の求めに答えられました。つまり、主イエスはこの中風の人を癒されることによって、この五人の人たちの共同体全体に答えられたのです。

この病める人というのは、このグループの誰でもありうることでした。この時にはこの人であり、別の時には別の人が病むということがある。ある時にはある人が弱り、他の時には別の人が弱るということがありうる。ある時にはこの人が困っており、ある時には他の人が切羽詰まるということがありうるものです。その弱さを共に悩みながら、その痛みをいっしょに痛みながら、共に重荷を負い合い助けを求めて行く。そうしていっしょに癒されて行く。それが共同体です。それが信仰の共同体であります。

聖書はこの共同体のことを、別のところでは「体」というふうに言っています。私たちは「体」だと言っています。ある者は「体」の手であり、ある者は足であり、ある者は目であり、ある者は口だ。その「体」のひとつが痛めば他もいっしょに悩む。そういう「体」だと言うのです。一つの「肢体」の調子が良くなれば「体」全体が喜ぶ。それが人間の共同体だと、聖書は言うのです。つまり、人間は、そのようにして一人一人として神の前に生かされて行くのではなく、一つの共同体として神の前に生かされ、そして神の前で癒されて行く存在だということです。どうしてこんな重荷を自分たちが背負わなければならないかと、私たちは思うかもしれない。しかしそうではない。それを担って行く中で、自分たちが癒されて行く。そういう形でしか、人間というものは、神によって癒され得ない存在だということを知らなければなりません。自分だけ癒されるなんてことはありえない。いっしょに重荷を担い合いながら、いっしょに課題を担い合いながら痛みを背負いながら、そして共にそこで癒されて行く。そこに、神の前に生きる共同体があるのであります。

 主イエスの癒しの言葉は、こうでありました。先ず「あなたの罪はゆるされる」ということであり、「起きて歩け」というものでした。赦されるということは、言うまでもなく神に赦されるという意味です。あなたの罪は神に赦される。神に受け入れられる。こういった時に人の赦しのために重荷を負う、十字架を負うという主イエスの決意がこめられているのです。キリストが赦すと言われた時には、背後にキリストの苦難があることを忘れてはなりません。人は赦され、そして受け入れられて、初めて歩くことができるのです。だから「赦された」と言い、「起きて歩け」と言われるのです。赦されたから、あなたは神に受け入れられているから、自分らしく起きて歩いて行きなさい、と。

 子どもは自分を愛してくれている人、自分を受け入れてくれる人の前で、真に子どもらしく振る舞うことができます。子どもらしく遊ぶ。しかし、知らない所で誰かに監視されたり、監督されたりしている状況の中で、子どもは子どもらしく振る舞うことはできません。萎縮をしてしまうのです。

 聖書の中に、タラントンの話があります(マタイ福音書25:14~30)。主人が旅に行く時に、僕たちにお金を預けます。ある者には五タラントン、ある者には二タラントンを預ける。たくさんのお金です。そして、ある者には一タラントンを預けて旅に出ます。五タラントンを預かった者は、その五タラントンで、主人がいなくなった間に商売をして五タラントンを儲けた。しかし、一タラントン預けられた人は、それを土の中に隠しておいた。主人が帰って来た時に、それを土から出してきて、主人に返したというのです。主人は、彼をこの屋敷から追い払えと言って、彼を排除するわけですが、その時に一タラントン預けられた人が言った言葉があります。こう言ったのです。「あなたが、過酷な人で、まかないところから刈り、散らさないところから集めるような残酷な人だと知っていたから、この預けられたお金を土の中に隠しておいたのです。そのまま、ここにあります」。

 このことは、私たちにたいへん重要なことを教えていると思うのです。主人が監視している、主人は自分を監督している。採点をしているとしか思えない時に、人は生きられないのです。自分が何か意地の悪い神か運命のもとで生かされているとしか思えない時に、私たちは生きることはできないのです。何をしても失敗するかもしれないと、恐れなければならない、失敗したらどうしようかと恐れなければならない。五タラントン預けられた人も、二タラントン預けられた人も、彼らは商売をしたと書いてあります。商売というものは、失敗をするかも知れません。失敗をする危険があります。しかし、彼らは失敗を恐れませんでした。主人が自分たちに任せてくれていると思ったから、彼らは疑わないで、失敗を恐れないで、この自分に与えられたタラントンを働かせたのです。失敗を恐れず、自分らしく生きる者が、人生の収穫を得ることができるのだと聖書は言っているのです。びくびくしながら、何かを恐れながら生きているかぎり、私たちは、何もこの人生から収穫を得ることはできない。あのたとえ話は、そのことを私たちに伝えているのです。

 主イエスは言われました。「あなたの罪はゆるされる、だから起きて歩きなさい」。あなたは、神に受け入れられ、赦されているのだから、だからあなたらしく生きて行きなさい。赦された者として、神を信頼して、自分の足で歩いて行きなさい。意地の悪いまなざしのもとにあるのではない。イエス・キリストによる赦しのうちに、祝福のうちに、私たちの命は今あるのです。それ以外ではない。だから失敗を恐れないで、自分の足で歩いて行きなさい。自分らしく歩いて行きなさい。そのために私たちは救われているのです。びくびくしながら生きるためでなく、私が私らしく生きることのできるために、私たちは神のもとに引き寄せられているのです。私たちはそういう命に今、生かされているのだということをぜひ覚えたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に、教会においてあるいはネットを通して礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。中風の友達を主の目の前に運んできた人たちの出来事を通して、私たちは信仰に生きる共同体のあり方を示されました。私たち教会も、様々なことが起こります。群れの中に病気に苦しむ兄弟姉妹があり、大きな困難に立たされる兄弟姉妹があります。そしてそれは私たちの誰にでも起こることなのです。神さまどうか、私たちの教会がそのような悩みや苦しみを共に担い合うことができますよう、導き強めていてください。群れの一人が癒されるために心を合わせて祈り、そのことを通して群全体が健やかにされていくことができますよう、支えていてください。前例のないような猛暑の日々が続いています。どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお守りください。この世界にあなたにある平和をもたらしてください。このひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、お捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  8月6日(日)

  

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   出エジプト記16章1-16節

説  教   「荒れ野のマナ」 三宅恵子長老

主日礼拝   

午前10時30分   司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖  書    

 (旧約) イザヤ書55章1-7節   

 (新約) マルコによる福音書2章13-17節 

説  教   「主は立ち帰る者を救われる」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝  7月30日(日) 


日曜学校  

午前9時15分-10時  礼拝と分級
聖  書   出エジプト記14章19-30節
説  教   「葦の海の奇跡」 藤田浩喜牧師


主日礼拝   

午前10時30分   司式 山根和子長老
聖  書
(旧約) 創世記18章30-33節
(新約) マルコによる福音書2章1-12節 
説  教   「救いへの突進」  藤田浩喜牧師

主イエスは深く憐れまれて

マルコによる福音書1章40~45節 2023年7月23日(日)主日礼拝説教 

牧師 藤田浩喜

今朝、私たちに与えられております御言葉は、重い皮膚病を患っている人が主イエスによって癒やされたということが記されています。この「重い皮膚病」というのは、以前は「らい病」と訳されておりました。皆さんがお持ちの聖書には「らい病」と訳されているものあると思います。「らい病」というのは、現在は「ハンセン病」とも呼ばれているものです。しかし、現在ではこの「重い皮膚病」というのは、「らい病」「ハンセン病」と同じではないと考えられています。でも、この聖書の「重い皮膚病」にかかった人が、社会全体から差別を受け、はじき出され、隔離されたりしたのは、ハンセン病にかかった人と同じでありました。

この「らい病」「ハンセン病」にかかった人に対してなされた差別の歴史というものは、忘れてはならないものだと私は思っています。現在の日本では、この病気を発病する人は一人もいません。しかし、以前はこの病を治す薬もなく、大変恐れられて、天が刑罰を下したためにかかる病、「天刑病」とまで呼ばれていたのです。日本はこの病のために法律を作り、この病にかかった人は世間と交流することがない、隔離された施設に入らなければならないとしたのです。一度入ったら二度と出ることのできない施設です。この病にかかった人は名前を変え、家族もその人がどこに行ったのかを隠しました。このような政府の対応が不当であり、世間の差別を助長したということは確かでしょう。現在発病する人は一人もいないわけですから、このような施設に新しく入ってくる人はいませんし、住む人も高齢化しています。やがて、忘れられていくのかもしれません。しかし、それでよいのかと思います。

この重い皮膚病にかかった人はどうしなければならなかったか。レビ記13章45~46節に「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」と記されています。この病気にかかった人は「宿営の外に住まねばならない」のですから、主イエスの時代でも町の中に住むことができなかったのです。そして、誰かと会えば、「わたしは汚れた者です」と自分の口で呼ばわらなければならなかったのです。まことにつらいことだったでしょう。

 そのような人が主イエスの所に来たのです。理由ははっきりしていると思います。主イエスが様々な病を癒やされたということを聞いたからでしょう。主イエスなら自分のこの病も癒やしてくれるのではないか。そう期待したからです。しかし、この人が自分から町の中にいる主イエスの所に出かけて行ったというのは考えにくいと思います。重い皮膚病にかかっていることは、見た目で分かります。そのような人が町に入ってくれば大変な騒動になったでしょうし、石をもって追われかねなかったと思います。ですから、主イエスが町から町へ、村から村へと回る中で、町や村に入る前の所で、この人は主イエスを待っていたのではないでしょうか。この方なら私を癒やしてくれる。そう期待し、この方が来るのを待つ。どれくらい待ったのでしょう。一週間、二週間、一ヶ月と待ったかもしれません。 

そして、遂に主イエスが来られた。彼は主イエスの所に来て、ひざまずき、そしてこう願ったのです。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」何とも回りくどい言い方です。「わたしを清くしてください。」そう言えばよさそうなものです。しかし、彼は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったのです。この言い方の中に、この人の主イエスに対する思いが表れているのだと思います。これは、「イエス様、あなたがそうしようと思われるなら、わたしを清くすることがおできになる」ということです。確かにこの男の人は、「癒やしてください」「清くしてください」との思いを強く持ちつつも、「そうなるかどうかは、そうしてくださるかどうかは、イエス様、あなたの意思、あなたの思い一つです」と言ったわけです。

これは自分の願いを主イエスにぶつけるということ以上に、主イエスの意思、御心によって事が起きるのだという、彼の信仰が言い表されていると言ってよいと思います。それに対して、主イエスは「よろしい。清くなれ」と言われた。これも直訳すれば、「わたしは望む。清くなれ」「わたしは意思する。清くなれ」ということなのです。実に、このいやしは主イエスの意思によって行われたのだ。そのことがはっきり示されているのです。

 さて、この時の主イエスの御心でありますが、聖書は「イエスが深く憐れんで」と記しています。この「深く憐れんで」という言葉ですが、これは聖書において主イエスにだけ使われている言葉です。その意味は、「はらわたが痛む」というニュアンスを持つ言葉なのです。主イエスは、この重い皮膚病にかかった人と出会い、その思いを受け取り、「はらわたが痛む」ように憐れんだのです。「憐れむ」という日本語には、上の者が下の者に向かって、これを見て憐れに思うというニュアンスがあります。しかし、主イエスはこの時この人に対して、そのように思われたのではないのです。この人が置かれている状況、今までの歩み、そのようなものを主イエスは見通されたのでしょう。そして、はらわたが痛んだのです。これが主イエスの御心であり、主イエスの憐れみであり、主イエスの愛なのです。主イエスは、この思いを私たち一人一人に対してもお持ちなのです。

◎主イエスは、この時この男の人に「手を差し伸べて触れ」ました。この男の人は汚れた者だと思われていたわけですから、それは汚れた男に触れた人もまた汚れるということを意味していました。しかし、主イエスはそんなことは少しも気になさらないのです。この時、主イエスはこの男の人のどこに触れたのでしょうか。聖書には記してありませんので分からないと言えばその通りなのですが、私はこう思っています。この時主イエスは、この男の人の最も激しく病に冒されている患部、醜くただれた患部、自分も見たくないような最も汚れているそこに、手を伸ばして触れられたに違いない。なぜなら、主イエスはいつもそうされるからです。私たちが自分でも見たくない、触れたくない、隠しておきたい、そういう汚れた所に主イエスは触れてくる。そして、清め、癒やすのです。私たちの罪が赦されるというのも、そういうことです。私たちは、自分が罪人であるなどということは認めたくないのです。そんな所は人にも自分にも隠しておきたいのです。しかし、主イエスは「それを、わたしに隠しておいては駄目だ。そこが清められなければ、そこが癒やされなければ、あなたは健やかになれないではないか。」そう私たちに迫られるのです。

さて、この男の人は主イエスに重い皮膚病を癒やしてもらってどうなったでしょうか。主イエスはこの男の人を去らせる前に、厳しく注意して、こう告げました。44節「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」主イエスは、祭司に体を見せて、清めの献げものを献げて、人々に証明するように言われたのです。この重い皮膚病は、単に癒やされるだけではダメだったからです。この病は汚れによるものと考えられておりましたから、清められたということが明らかにならなければ、社会復帰ができなかったのです。

 そして、主イエスは「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と言われました。どうしてでしょうか。それは、この後を見れば分かります。45節「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた」とあります。この男の人は、主イエスの言いつけを守らず、「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」のです。気持ちは分かります。嬉しくて仕方がなかったのでしょう。主イエスはそうなることが分かっていたので、「だれにも、何も話さないように」とわざわざ言われたのでしょう。それでも、この男の人は主イエスの言われた通りにはしなかったのです。その結果、何が起きたでしょうか。主イエスは「公然と町に入ることができ」なくなってしまったのです。主イエスは町の外の、人のいない所にいるしかなくなってしまったのです。なぜか。それは、人々がこの男の人の癒やしを聞いて、主イエスに目に見える癒やしだけを求めて、集まって来るようになったからです。

 人々は主イエスにこのような目に見える癒やしだけを求めました。しかし、主イエスが来られたのはそのためではなかったのです。神の国の到来を告げ、悔い改めて福音を信じるようにと告げるためでした。しかし、人々はそんなことには関心がなく、目に見える癒やしだけを求めて集まって来た。その結果、主イエスは町の中に入ることさえできなくなってしまったということなのです。

この男の人は、町の中に入ることができるようになりました。その結果、主イエスは町の外にいることになったのです。この男の人はそのことが分かっていないのです。町の中に入れなかった男の人は町の中に入るようになり、町の中に入れていた主イエスは入れないようになった。それが、主イエスによるこの男の人の癒やし、清めにおいて起きたことなのです。コリントの信徒への手紙二8章9節にはこう言われています。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」重い皮膚病の人が癒やされ、清められ、町の中に入れるようになると、主イエスは町の外にいるようにされたのです。

この御言葉は、何よりも十字架の出来事を指し示しています。私たちの救い、私たちの清めには、対価があるのです。確かに、私たちは無償で救われました。ただ主イエスを信じる信仰だけで救われました。しかしそれは、私たちに代わって、私たちのために、その対価を支払った方がおられたからです。犠牲となってくださった方がおられたからです。十字架という、自らの命をもって私たちの罪の対価を支払ってくださった方がいた。主イエス・キリストです。その尊い血潮をもって、一切の罪の裁きから解き放たれ、自由になり、救われたのが私たちなのです。私たちの救いは、この神の御子の身代わりという出来事なしにはあり得ないのです。そのことを心に刻みつつ、今日から始まる新しい一週間を歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹を教会に集め、共に礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。一人の重い皮膚病を患っている人の出来事を通して、御言葉に聞きました。主イエスは深く憐れんで、この男の人を癒されました。しかしそれは上からの憐れみではなく、はらわたが痛むような強い思いからなされました。主はその人が生きなければならなかった過酷としかいえない状況に思いを重ねて下さり、自らがその苦しみを引き受けるようにして、癒しを与えてくださいました。その主イエスの思いは私たち一人一人の上にも向けられていることを、どうか覚えさせたください。今まで経験したことのないような酷暑の日々が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人を守り支えていてください。各地で大雨による水害も起きています。被害に遭われた多くの方々をあなたが顧みてくださり、支えと励ましを与えてください。このひと言の切なる願いを、主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 7月23日(日) 


日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級
聖  書   出エジプト記12章29-42節
説  教   「最後の災いと出発」 高橋加代子


主日礼拝   

午前10時30分  司式 三宅恵子長老
聖  書
 (旧約) イザヤ書42章1-4節
 (新約) マルコによる福音書1章40-45節 
説  教 「主イエスは深く憐れまれて」藤田浩喜牧師

真実を知るゆえの誠実

ルツ記3章1~18節 2023年7月16日 主日礼拝説教

牧師 藤田浩喜

◎ルツ記を月に一度学んでいますが、今日はその3回目です。ルツはボアズという人の畑にたまたま行き、そこでルツのことを伝え聞いていたボアズから、様々な親切を受けました。たくさんの落ち穂を拾わせてもらい、食べきれないほどの炒り麦を昼食としてもらいました。しかも、それだけではありません。これから大麦や小麦の収穫が終わるまで、他の畑には行かないで、ボアズの畑で落ち穂を拾うことができるよう、便宜を図ってくれたのです。

◎夕暮れになり、ルツはナオミのもとに帰ります。ルツの手には、1エファ(36ℓ)ほどの大麦と、ルツが昼食時に食べきれなかった炒り麦が携えられていました。ナオミはそれを見て、目を見張ります。驚いたナオミはルツに、次のように言ったのでした。「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか。あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように」(19節)。ルツに親切を示してくれた人のおかげで、このように多くのものを持ち帰れたことが、ナオミには分かったのです。

それを聞いてルツは、今日行った畑の主が、ボアズという名前の人だったことを報告します。するとナオミは、その名を聞いて思い出したに違いありません。彼女は、もう一度祝福の言葉を述べながら、次のように言ったのです。「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある一人です」(20節)。ナオミはこの有力な親戚の名前を聞き、たまたまルツが落ち穂拾いに行った先がその人の畑だったことを聞き、不思議な思いに捉えられたに違いありません。何か新しいことが、自分と異邦人の嫁ルツに起こりつつあるのではないかと、感じたのではないでしょうか。それまでの無気力で、生きることすら苦痛であったナオミに、小さな明るい兆しが生まれつつありました。そして彼女は、ルツに向かって、ボアズの示してくれた親切に甘えて、収穫の季節が終わるまで、これからも彼の畑で落ち穂拾いをするように、ルツを励ましたのでありました。

◎大麦と小麦の収穫は、約2ヶ月であったと言われます。ルツは、来る日も来る日も、ボアズの所有する畑に行って、雇われた女性たちと一緒に、落ち穂を拾い続けました。その中で毎日ではないにしても、主人のボアズと顔を合わせたり、言葉を交わしながら、昼食を共にしたりしたことでしょう。そうした中で、ボアズとルツの心は、少しずつ通い合っていったのではないでしょうか。ナオミも毎日、ルツの顔色、膚つや、立ち居振る舞い、ボアズの好意の数々をじっと観察しながら、二人の間に芽生えた愛情を感じ取っていたに違いありません。私の経験から申し上げても、こういった男女間の変化には、男性よりも女性の方が敏感であるように思われます。そこでナオミは、新しい事態が開かれるようにと、大変大胆な行動へと、ルツを促したのです。

3章1節の後半です。「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。あなたが一緒に働いてきた女たちの雇い主はわたしたちの親戚です。あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまでは気づかれないようにしなさい。あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。その後すべきことは、あの人が教えてくれるでしょう」(1~4節)。

ナオミは常軌を逸したようなことを、ルツに促しているように見えるかも知れません。しかし、今日の箇所に登場するナオミもルツもボアズも、お互いに対する愛と責任のゆえに、思い切った決断と行動に出ているのです。思い返してみれば、モアブの地で息子たちを失ったとき、姑のナオミが一番案じたのは、嫁たちが幸せになるための落ち着き先でした。それを得させようと、モアブの故郷に帰るように、ナオミは強く促したのでした。ルツはナオミと共にいることを選んで姑に付いてきましたが、「幸せになる落ち着き先」を見つけることは、ナオミが決して忘れることのない宿題であったに違いありません。彼女はルツの毎日の様子を見ながら、思いを寄せ始めているボアズとの結婚の道を開こうと、大胆かつ綿密な行動へと、ルツを向かわせたのです。

勿論、自分たちに責任のある有力な親戚ボアズに、ナオミが直接、ルツとの結婚を願い出てもよかったのではないかと、思われる方がおられるでしょう。そう考えるのも無理はありません。しかし、ナオミが感じているのは、二人の心が通い合っているという気配であり、どこまでも推測の域を出るものではありません。また、ルツを「わたしの娘よ」(10節)と呼んでいるボアズは、ルツとはだいぶ歳が離れていたようであり、ルツの本心が分からない状況では、たとえ姑が結婚を頼んできたとしても、まともに取り合おうとしなかったのではないでしょうか。人間通のナオミは、そうしたことも見通した上で、ルツを大胆な行動へと向かわせたと思うのです。

ナオミの大胆な提案に対して、ルツはどうしたでしょう。5節以下を見ますと、次のようにあるのです。「ルツは、『言われるとおりにいたします』と言い、麦打ち場に下って行き、しゅうとめに命じられたとおりにした。ボアズは食事をし、飲み終わると心地よくなって、山と積まれた麦束の端に身を横たえた。ルツは忍び寄り、彼の衣の裾で身を覆って横になった」(5~7節)。ルツは何の躊躇もなく姑の言う通りにし、ボアズのもとに赴いたのです。

モアブの地では、郷(さと)に帰るよう言われても、決して従わなかったルツが、ここでは何の迷いもないかのように、大胆に行動しているのです。勿論、そこにはボアズに対して、ルツが思いを寄せていたこともあったに違いありません。しかしルツもまた、ボアズが本当のところ自分をどう思っているか、確信を持てたわけではないでしょう。しかし、ルツにはナオミのために、しなければならないことがありました。それはナオミのために安定した生活を保障してあげること。そればかりでなく、すべてのものを失い、からっぽになって故郷に帰ってきたナオミのために、エリメレクの家を再興し、子孫を残すことでありました。ナオミに対するそのような愛と責任の故に、ルツも大胆な行動に出ることを辞さなかったのです。

そのようなルツの思いは、ルツがいることにボアズが気づいたときに、彼女が語った言葉にもよく表れています。ルツはボアズに、次のように言うのです。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」(9節)。ルツは、ボアズがエリメレクの家を再興する責任を負っている親戚であり、その力を持つ人であることが分かっていました。そのような責任を負う立場にある親戚を、ヘブル語では「ゴーエール」と言いますが、ボアズはその有力な一人でした。ルツは自分の願いからだけでなく、むしろ姑のために、ボアズが自分たちの庇護者になってくれるように、一心に願うのです。

◎そのようなルツの思いと行動を、当のボアズはどう受け留めたでしょう。彼もまた、真正面からルツの思いと決断を受け留めました。彼は次のように言うのです。「わたしの娘よ。どうかあなたの主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたの言うとおりにします」(10~11節)。ボアズもまた、「ゴーエール」の責任のゆえに、そしてルツへの愛の故に、ルツの願いを真正面から受け留めることを約束したのでした。

ここでボアズが「あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった」と言っています。若ければ若いというだけでその後を追っかけるような風潮が、当時はあったようです。先ほど述べましたように、ボアズとルツはだいぶ年齢差があったようですが、ルツはそうした風潮に流されることはありませんでした。

また、「今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています」とは、少しわかりにくいかも知れませんが、今示したルツの真心と、これまでの真心が比べられています。この真心という言葉は原語では「ヘセド」という言葉であり、神さまにはついては「真実」と訳され、人間については「誠実」とか「真心」と訳されます。神さまの「ヘセド」(真実)を知る人間が、それに励まされて他者に示すのが、人間の「ヘセド」つまり「誠実」であり「真心」なのです。ルツはこの「真心」のゆえに、故郷のモアブを捨て、ナオミの故郷であるベツレヘムにやって来ました。そして姑と自分が生きるために、毎日落ち穂拾いに出かけたのです。それが彼女の、今までの「真心」でした。ところが彼女は、姑のためにエリメレクの家を再興し、その子孫を残すために、ボアズの庇護を求め、結婚を申し出ています。その彼女の重い決断を、ボアズは「今あなたが示した真心」だと言っています。そしてその「真心」は、今までの「真心」よりもまさっていると言って、ルツの行動に心から感動しているのです。その真剣な決断に対して、彼もまた、真剣な決断で応えようとしているのです。

◎しかし、ボアズが言っていますように、「ゴーエール」の立場にいるのは、彼だけではありませんでした。ボアズ以上に、エリメレクの家に責任のある人が、エルサレムにはいました。その人が、「自分が責任を果たす」と言うならば、ボアズは引き下がるより他はなく、ルツと結婚することもかないません。そこでボアズは、明日その人と話をつけることを、ルツに約束した上で、「朝まで休みなさい」とルツに言うのでした。

ボアズは、そのような約束をした後、ルツをナオミのもとに帰すこともできました。所期の目的は果たされたからです。それなのになぜ、ルツを長く引き留めたのか。それは想像するほかはありませんが、よく言われるのは、夜中に外を歩き回ることで彼女が危険に晒されることを、ボアズが避けたかったからという説です。この説はもっともであり、ボアズの高潔な性格をよくあらわしています。しかし、ボアズはここでルツを自分の傍らに置いておきたい、せめて同じ場所にいてほしいと願ったのではないでしょうか。なぜなら、翌朝、最も親しい親戚が、どのような決断を下すかは、彼には分からないからです。ひょっとしたら、ボアズがルツとともに二人だけの時間をもてるのは、これが最初で最後かもしれないからです。こうした切ない思いを想像することは、たとえそれが聖書であったとしても、許されるのではないでしょうか。

◎さて、今日の3章1~18節を見てきましたが、そこにはお互いの愛と責任のゆえに、大きな決断をした3人の姿が語られていました。それは「ゴーエール」という当時の制度をめぐるものでしたが、ナオミもルツもボアズも、相手の人生において失われたものを、その人のために取り戻そう、買い戻そうとして、大きな決断をしました。その意味で「ゴーエール」という制度が、一族の中で子孫や土地を失った者を、その人に代わって親族が贖い、買い戻す制度であったことは、大変示唆的であったと思うのです。

私たち人間は、ナオミがそうであったように、人生において色々な掛けがいのないものを失ってしまいます。すっかり虚ろになり、生きる気力さえ失ってしまうことがあります。しかし、神さまはそのような虚ろなままで、人間を放置されることはありません。神さまはご自身が私たちの「ゴーエール」として、私たちの喪失したものを贖い、買い戻し、取り戻してくださいます。神さまは、ご自身の「ヘセド」(真実)のゆえに、贖い、買い戻し、取り戻してくださいます。それが最も端的に現れたのが、旧約における出エジプトであり、新約におけるイエス・キリストの十字架と復活だったのです。人間が罪によって喪失した最大のものを、神は取り戻してくださったのです。

そして、神の「ゴーエール」をイスラエルにおいて人間の間で映し出すものが、「ゴーエール」という制度への誠実であったのです。人間が神の真実に励まされ、他者のために真心をもって、保護と援助の手を差し伸べようとする。そのために愛と責任に基づく決断と行動をする。そのことは他でもありません。主なる神さまの救いと保護を、力強く証しものでもあるのです。それは、ルツの時代だけでなく私たちの時代においても、神さまが願われていることなのです。今日の箇所はそのことを、私たちに教えているのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。神様あなたは、信じる者たちのために「真実」を示してくださいます。その真実のゆえに、私たちが罪のゆえに喪ったものを、御子イエス・キリストによって贖い出してくださいました。どうか、そのようなあなたの真実に励まされて、私たちもそれぞれの場で誠実に、愛と責任をもって生きていくことができますよう、強めていてください。暑さの大変厳しい日が続いています。どうか教会につながる兄弟姉妹の健康を支え、日々の歩みを導いていてください。この拙きひと言のお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 7月16日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級
聖  書   出エジプト記12章1-13節
説  教   「過越の食事」 藤田百合子


主日礼拝   

午前10時30分   司式 山﨑和子長老
聖  書
 (旧約) ルツ記3章1-18節
 (新約) マタイによる福音書22章34-40節 
説  教   「真実を知るゆえの誠実」藤田浩喜牧師


祈りにおいてこそ知る喜び

マルコによる福音書1章29~39節 2023年7月9日(日)主日礼拝説教

牧師 藤田浩喜

◎木曜日にテレビを見ていましたら、「亀山リトリート」という看板が目に飛び込んできました。何でも最近は人込みを避けて、自然の豊かな場所でのんびり疲れを癒したり、キャンプをしたりするのが人気で、それがリトリートと呼ばれているとのことでした。その情報の紹介は他の場所についてものでしたので、「亀山リトリート」とはいったいどこだろうと気になりました。わたしは三重県の亀山市の生まれなので「もしや」と思ってググってみると、なんとそれは千葉県の君津市にあることが分かりました。「三重県の亀山じゃないんだ。でも千葉県の君津なら行ける!」近いうちにぜひ行ってみたいと思っています。

◎さて、今日読んでいただいた箇所の最後の方、35節を見ますと、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」と記されています。主イエスは日頃から毎朝、父なる神様に祈っておられたに違いありません。それは敬虔なユダヤ人の習慣でもありました。しかし、聖書を読むと、主イエスは時々人里離れた寂しい所へ行き、独り祈られることがありました。誰にも妨げられず、父なる神様と祈りの交わりを持たれたのです。

世々のキリスト教会は、この主イエスに倣って、日常生活の慌ただしさを避けて、自然の豊かな場所に行ってお祈りをしたり、黙想をして自分を見つめたりする時を大切にしてきました。それをキリスト教会も「リトリート」(退修・しりぞいておさめる)として大事にしてきたのです。今はなかなかできませんが、教会に集う人たちが自然の豊かな宿泊施設などに出かけて修養会を持つということがよく行われました。これもリトリートの一つであったのだと思います。

では、主イエスはなぜ、人里離れた所へ行って、静かに祈られたのでしょうか。ある聖書の注釈書は、「主イエスがそのような時と場所を要求する人間性をもっておられたからだ」と書いています。別の注釈者は、人里離れた所で祈られる「主イエスは完全な人間性を表わしている」と書いています。主イエスは私たちと同じ「真の人」として、リトリートの時を持たれたのです。いな、リトリートの時を持たずにはおられなかったのです。

思い出してみると、主イエスは宣教や病気の癒しなど、多くの業をなさった後で、寂しい所に退き祈られました。今日の箇所のような時がそれでしょう。33節にあるように、「町中の人が、(主イエスのおられた)家の戸口に集まって」来たので、主は色んな病気にかかっている大勢の人たちを癒され、悪霊を追い出されたりしたのです。また、主イエスは自分と一緒に福音宣教を担う12弟子を選んで派遣する時も祈られました。ゲッセマネの園で十字架の杯を受けるか否か、血の汗を滴らせて悩まれた時も一人祈られました。福音宣教を始められる前、荒れ野でサタン・悪魔の試みに遭われた時も、独りで祈られました。このように主イエスは「真の人」として、延々と続く御業に疲れたとき、大きな誘惑を受けた時、そして重大な決断をなそうとした時、力と導きを求めて神様に祈られたのです。そして、日頃の喧騒を離れて独り父なる神様と向き合うことは、主イエスがそうであるからには、どの人間にとっても必要なことなのです。「真の人」であるイエス・キリストが人生の節目節目でリトリートの時を必要とされたのですから、リトリートを必要としない人間など一人もいないのです。独り神さまの前に静まって、思いを神様に向けて祈り続ける。一生の中で、幾多の山や谷を通って行かなければならない私たちなのですから、日毎の祈りに加えて、独り一途に祈りに集中しなければならない時が私たちにはあるのです。

 ヘブライ人への手紙5章7節には、神と私たち人間を和解させる大祭司として仕えられた主イエスのことが記されています。主イエスは神と人間の仲立ちとなるために、「罪を犯されなったが、あらゆる点において、わたしたちと同様の試練に遭われたのです」(ヘブ4:15)。そのことが、5章7節で次のように記されているのです。新約聖書406頁です。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」

 「真の人」である主イエスがそうであったように、私たちも肉に生きている人間です。肉である私たちは、弱さと愚かさに苛(さいな)まれています。その現実の姿を嫌というほど見せつけられて、激しい叫びをあげること、涙を流さなくてはならないことが、幾度もあるのではないでしょうか。

 主イエスは、地上では「真の人」として生きられました。それは私たち人間がどのようにこの地上の生活を歩んで行くかの模範を示してくださったのです。主イエスは、人間の生活において、活動すること、休息すること、祈ることが、生活の本質的なリズムであることを例示されます。そこから考えると最近人気のリトリートには、祈ることが欠けているのではないでしょうか。そして主イエスは、私たち人間にとって、どのような時に、どのように祈るべきかも例示してくださいます。人には過重なストレスに押しつぶされそうになる時、強烈な誘惑に引きずられそうになる時があります。大きな決断を迫られて、身がすくんでしまいそうになる時があります。それは人生のピンチというべき時です。そうした時にこそ、主イエスがなさったように祈りに集中することが最善の方法なのです。日頃の慌ただしい生活からひと時離れて、父なる神様の御前にひざまずき、祈りの時を持つ。祈りは静かな祈りである必要はありません。激しい叫び声をあげ、涙を流しながらでもよい。思いの丈(たけ)を思いっきりぶつけたらよい。そのような一途で必死な祈りを、神様もまた真剣に真正面から受け留め、お聞き入れくださるのです。真の人である主イエスが、私たちの模範となってくださったのです。

◎さて、主イエスが人里離れた所へ出て行って祈らなくてはならなくなった事の始まりは、主イエスがシモンとアンデレの家で、ペトロの姑の熱病を治したことが始まりでした。このいやしのうわさや前週学んだ悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出したうわさが広まりました。その結果、町中の人が戸口に集まってきました。主イエスは彼らの求めに応じて、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやしたり、また多くの悪霊を追い出したりなさいました(34節)。

 主イエスは多くの力ある業をなさって、ひどく疲れておられたに違いありません。その疲れをいやし、父なる神様と聖霊によって新しい力をいただくために、主イエスは人里離れた所へ出て行かれ、祈っておられました。しかし、シモンたち4人の弟子たちは、そんな主イエスの大切な祈りの時を無視するかのように

主を探し出し、「みんなが探しています」と告げたのでした。弟子たちは、主イエスが多くの病人をいやしたり、悪霊を追い出されたりしたのを見て、驚き、興奮していたのではないでしょうか。自分たちが従う決心をした方が、次々に力ある御業をなされるのを見て、弟子である自分たちも何か特別な者になったかのように錯覚してしまったのではないでしょうか。4人の弟子たちは主イエスがなさった力ある業に心奪われてしまい、熱病に浮かされるように舞い上がってしまったのです。そのような弟子たちと対照的なのが、今日のペトロの姑なのです。

 ペトロの姑は熱病にかかり、床に就いていました。主イエスは彼女のそばに行き、手を取って起こされます。すると彼女の熱は去り、彼女は一同をもてなした、とあるのです。姑の熱病がどのような症状であったのかは記されていません。しかし「熱を出す」という言葉は、「火」・ファイヤーという言葉から来ています。なので単に熱があるという軽いものではなく、全身が燃えるような高熱に苦しめられていたのかもしれません。「熱中症」という病気があるように、高熱は時として人の命を脅かすことすらあるのです。

 また、今日の箇所での「熱病」は、この箇所を解き明かす説教において、体の病以上のこととして読み解かれてきました。ヒエロニムスという古代の教父は、紀元4世紀にエルサレムでなされた説教において、次のように語っています。「ああ、その方がわれわれの家に来て、中に入り、その命令によってわれわれの罪の熱病を癒してくださるように。なぜなら、われわれの誰もが熱病に苦しむからである…。」ヒエロニムスは、ここの熱病を肉体にとどまらない罪の熱病と受け取っているのです。また、J.H.ニューマンという牧師は有名な祈りの中で、次のように祈っています。「おお主よ、一日中われわれを守ってください。…人生の熱病がなくなり、われわれの仕事が終わるまで。」ニューマンも熱病が肉体の病であるだけでなく、われわれ人間を熱にうなされるような状態にしてしまう深刻な人生の事柄として捉えているのです。熱にうなされるような状態に陥って、正常な判断を失ってしまう。その結果、取り返しのつかないような致命的な状況へと自分を追い込んでしまう。そのような数々の熱病が、私たちの人生を取り囲んでいるのではないでしょうか。

 しかし、今日の31節で「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」とあります。このシモンの姑の出来事は、肉体の熱病の癒しにはとどまりません。この癒しは、あらゆる種類の熱病を癒す主イエス・キリストの力と権威を示しているのです。

 主によって熱病をいやされたシモンの姑は、その後どうしたでしょう。「彼女は一同をもてなした」とあります。ここで使われている言葉は、原語では「仕える、給仕をする、奉仕をする、世話をする」という意味を持っています。多くの聖書註解者は、食事などの給仕をしたと理解しており、おそらくそうであっただろうと思います。しかし、「彼女は一同をもてなした」というさりげない表現は、主イエスの癒しに対する姑の応答が、己を低くして仕えるという弟子の本来のあり方を示しているように思うのです。主イエス御自身が己を低くして僕のように私たちに仕えてくださいました。その主に倣って自らへりくだり、謙遜に仕えていくことが、主の御後に従うことなのです。あの4人の弟子たちのように、熱病に浮かされたように、舞い上がってしまうことではないのです。

 姑は主イエスに癒された感謝の応答として、自分にできることを精いっぱい行いました。心をこめて行いました。新約聖書に記された女性たちの奉仕は、主の十字架を見守ったこと、なきがらに香油を塗りに行ったこと、身の回りの世話をしたことなどです。その場でできることを、たとえささやかであっても献身的に行ったことが、印象的に記されています。そのことを通して聖書は、救われたことに対する精いっぱいの感謝の応答こそが、主イエスに仕える者として主の御後に従うことだということを、私たちに示しているように思うのです。そのことを私たちも、心に刻みたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹を教会に集め、共に礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。神様、主イエスは真の人としてこの地上の歩みを全うされました。主イエスの歩みの中に、私たち人間が追い求めるべき生き方があります。主のなされた祈りの中に、私たちに与えられた祈りの恵みと喜びがあることを、私たちの心に刻ませてください。今重い病床にある姉妹を顧み、永遠の命を賜る希望をもって姉妹を支えていてください。生きる上での様々な悩みと苦しみを抱えている兄弟姉妹を、あなたが支えていてください。この拙きひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  7月9日(日) 

日曜学校  

午前9時15分-10時  礼拝と分級
聖  書   出エジプト記3章1-12節
説  教   「モーセの召命」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分   司式 髙谷史朗長老
聖  書
       (旧約) サムエル記下23章2-5節
       (新約) マルコによる福音書1章29-39節
説  教   「祈りにおいてこそ知る喜び」  藤田浩喜牧師