まことの安息への招き

マルコによる福音書2章23~28節  2023年9月3日(日)主日礼拝説教

                              牧師 藤田浩喜

主イエスの時代、安息日規定というものがありました。これは聖書には記されていないのですけれど、安息日を守るとは具体的にはどういうことなのかということを規定したものです。それには39種類の「してはならないこと」があって、それが各々6項目にわたって記されているので、安息日には合計234のしてはならないことがあったのです。例えば、安息日に歩いてよいのは約900メートルと決められていました。万歩計で言うと、1300歩くらいでしょうか。これなど、20分も歩いたら超えてしまいます。また、火を使って食事を作るのもダメです。こうなれば、家でじっとしているしかありません。

 どうしてそういうことになったのかと申しますと、これはイスラエルの歴史と深い関係があるのです。紀元前6世紀にバビロン捕囚という出来事がありました。神の民であるにもかかわらず神様に背いたイスラエルは、神様の裁きとして国を滅ぼされ、国の主だった人々は皆、遠いバビロンに連れて行かれるということが起きたのです。その後神様がバビロンをペルシャによって滅ぼされたので、イスラエルの民はエルサレムに戻って国を再建したわけです。そして、もう二度とバビロン捕囚のような目に遭わないようにと、しっかり律法を守り、神の民として真面目に歩んでいこう、そうイスラエルの民は心に刻んだのです。その結果、十戒を徹底的に守る、そういう姿勢がユダヤ教の基本となったのです。それが具体的な形として現れたものが、安息日規定なのです。ですから、現代の私たちから見れば首をかしげたくなるような234項目にも及ぶ禁止事項も、当時の人々は大真面目に、まさに命懸けで守ろうとしたのです。

 こんな話もあります。紀元前2世紀にユダヤがシリアと戦争をするのですが、その時、安息日に攻撃を受けました。するとユダヤの人々は、安息日に戦うことは律法違反であるとして、安息日規定を破るよりは殺されることを選ぶと言って、多くの者がこの時戦うことなく殺されていったというのです。

 安息日を守るということにはこのようなイスラエルの歴史が背景にあり、安息日規定は主イエスの時代ここまで厳格に規定されていたということなのです。

さて、聖書に戻りますが、23~24節「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った」とあります。主イエスの弟子たちは麦畑を通る時に麦の穂を摘んだのです。これは、弟子たちが腹を空かせていたので、麦の穂を摘んで、それを両手でこすって籾殻(もみがら)を落として食べたということでしょう。私はしたことはないのですが、以前、80代、90代の方に聞いたところ、自分たちも小学校の帰りによくやったものだと言っておられました。ちょうどガムを噛んだようになるそうです。ファリサイ派の人々はこの弟子たちの行動を、「安息日にしてはならないこと」をしていると言って見とがめるわけです。これは他人の畑の麦を盗んだと言って責めているのではないのです。律法には、貧しい人が自分のものではない畑で、手で麦の穂をとることは許されていたのです。律法は本来、貧しい人、弱い人に対して、そのような配慮に満ちたものなのです。ここで、ファリサイ派の人々が問題にしたのは、「安息日にしてはならないこと」をしているということでした。つまり、弟子たちの行動が、収穫するという労働にあたる、脱穀という労働にあたる、ということだったのです。

 これを、「馬鹿げている」と言って済ませることはできません。彼らは、本気で、命懸けで、律法を守ろうとしていたからです。安息日規定を破る者は石打ちの刑なのです。実際に、このようなことで石打ちの刑で殺されるということがあったとは考えづらいですが、そういう定めになっていたのです。

これに対しての主イエスの答えが、25節以下に記されています。ここで、主イエスは三つのことを語られました。

 第一に、主イエスは、ダビデが、律法で祭司しか食べることができないと定められている、神殿にささげられた供えのパンを食べ、供の者にも与えたという、旧約聖書に記されている出来事をまず告げました。これはサムエル記上21章に記されている出来事です。ダビデは王になる前、サウル王に命を狙われます。そして、逃亡していく中で空腹になった時、大祭司から神殿にささげられていたパンを受け取り、食べたのです。しかし、ダビデがそのことによって神様に裁かれたとは記されていないのです。このダビデの話は、もちろんファリサイ派の人々も知っています。

 ここで主イエスがダビデの話を出した時、ファリサイ派の人々はどう思ったでしょう。「何を言っているのだ。ダビデ王は神様に選ばれた、神の民の王ではないか。まだ王になっていなかったとはいえ、王になることはすでに神様によって決められていたのだから、飢え死にしたりすることが御心に適わないことは明らかではないか。ダビデ王は特別だ。そのダビデ王とお前と何の関係がある。ダビデ王と自分を同じ所に置くなど、もっての外。何と失礼な、分を弁えていない者なのか。」そんなふうに思ったのではないでしょうか。

 主イエスはここで、たまたま都合よくダビデの話があったので、これを持ってきたということではなかったと思います。そうではなくて、主イエスは、ファリサイ派の人々が感じたように、ダビデを持ち出して、ダビデと自分は同じではないかと言ったのだと思います。ダビデの子であるわたし、救い主であるわたしが、ダビデがしたようにしているのだ。何か問題があるのか。ダビデが問題なかったように、わたしも問題ない。いや、わたしはそれ以上に問題ないのだ。なぜなら、安息日を定めたのはわたしの父であり、わたしは父と一つなのだから。そう主イエスはここで告げられたのではないかと思うのです。

そして、第二に、主イエスは27節で、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と告げられました。これは、安息日に限らず、律法というものは、神様が神の民との間に愛の交わりという関係を保持するために与えられたものであるという、根本的な理解を示されたのです。そもそも安息日というのは、神様が6日間で世界を造られ、7日目に休まれたということに由来するのです。それは7日目の安息日を守ることによって、神様の創造の御業を覚え、神様に感謝を捧げ、神様との交わりを生活の中で整えていく、そのためのものであります。「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という第四戒において大切なのは、「これを聖別する」、神様のものとして分けるということです。だから、何もしないという点に意味があるのではなくて、神様のものとする、神様にこの日一日をささげる、神様のための日とする、自分のために使わない、神様のために用いるということに意味があるということなのです。

 そしてまた、安息日のもう一つの意味は、申命記5章14~15節に記されています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」とあります。ここでは明らかに、安息日は、天地創造の御業と共に、出エジプトの出来事を思い起こすための日とされているのです。そして、エジプトにおいてイスラエルの民は奴隷であったのだから、そこから神様によって解放されたのだから、今あなたが使っている奴隷も、あなたと同じように休ませなさい。それが神様の御心だと告げているわけです。イスラエルの民にも奴隷にも、つまりまさに人間に安息する日を神様は与えてくださったということなのです。何もしないということのために一生懸命努力する、そういう日なのではなくて、神様が与えてくださった安息、休み、これを感謝して受け止めるということが大切なのだ。それが御心なのだと告げられたのです。

第三に主イエスが言われたのは、28節「だから、人の子は安息日の主でもある」との言葉です。この「人の子」というのは、主イエスが御自分のことを言われる時に用いる言い方です。主イエスは御自分が安息日の主だと言われたのです。安息日というのは、今まで見たように、神様が天地を造られたこと、そして今もすべてを支配し、私たちを守り、支えてくださっていることを覚えると共に、出エジプトの出来事によって神の民を救われたことを覚えるために定められたものです。この安息日の意味が根本的に新しくされ、より徹底された。それが主イエス・キリストの到来であり、十字架と復活の出来事でありました。

 旧約における安息日は、週の終わりの日ですから、土曜日です。しかし、主イエス・キリストが与えてくださった安息に生きる私たちが守る安息日は、日曜日です。主イエスが復活され、新しい命の創造がこの日に始まったからです。この主イエスによって与えられる新しい命、復活の命に生きるよう召し出されたのが、私たちなのです。実に、主イエスは私たちに、律法を守ることによってではなく、ただ主イエス・キリストを信じる、このことによって与えられる新しい安息日を与えるために来られたのです。主イエスは文字通り、命を懸けて、新しい安息日を定められたのです。この新しい安息日は、人のためにあるのです。私たちは神様に愛され、神様を愛し、人を愛し、神様と人とに仕える者として新しくされた。そのことを心に刻み、新しくされた者として、ここから新しく歩み出していく。そういう日としてこの日を定められたのです。ですからまさしく、主イエス・キリストは安息日の主なのです。この主を愛し、主の御声を聞き、主と共にあることを感謝するために、新しい安息日としての主の日、この日曜日があるのです。

 私たちは今から主の聖餐に与ります。聖餐を受けることによって、主イエス・キリストによって与えられている安息を心に刻み、主イエス・キリストによって与えられた新しい命を受けるのです。御言葉を受け、聖餐に与った者として、まことの安息と平安を与えられた者として、今日から始まる新しい一週の歩み、御国への歩みへと踏み出してまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美し、あなたの御栄を褒め称えます。今日も私たちを礼拝に集わせてくださり、心から感謝いたします。あなたは私たちに日曜日という安息日を与えてくださいました。これは安息日の主である御子イエスが、新たに定めでくださった安息日です。この日は旧約の安息日と同じように、あなたを礼拝するために取り分けられた日であり、わたしたちが真の安息に入れられるために、あなたが与えてくださった日です。どうか、この主の日の礼拝において、主イエスが十字架と復活によって創造してくださった新しい命に生きることができますよう、私たちを導いていてください。今週の火曜日には鈴木充子姉の葬儀も行われます。どうかその上にも、あなたの御支えと祝福をお与えください。この拙き切なるお祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 9月3日(日) 

  

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイの福音書3章13-17節

説  教   「主イエスの洗礼」 髙谷史朗長老

主日礼拝   

第一主日ですので聖餐式を行います

午前10時30分より   司式  藤田浩喜牧師

聖  書

 (旧約) イザヤ書56章1-8節  

 (新約) マルコによる福音書2章23-28節 

説  教   「まことの安息への招き」  藤田浩喜牧師

喜びによって新しくされる

マルコによる福音書2章18~22節 2023年8月27日(日)礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

私が大学生の時ですが、学生の団体が主催して「飢餓ランチ」という取り組みをしていたことがありました。それはお昼ごはんに食パン1枚とインスタントコーヒー一杯を用意する。会場に集まってきた人は500円を箱に入れる。もちろん食パン1枚とインスタントコーヒー1杯が500円もするわけはありません。学生の団体はパンとコーヒーの原価を差し引いて、余ったお金を集めて定期的に、海外の飢餓地域の支援をする団体に送っていたのです。私も何回か「飢餓ランチ」を利用しました。食パン1枚とインスタントコーヒーでは、もちろん大学生の空腹を満たすことはできません。しかし何か少しだけですけれど、心に満たされたものを感じました。自分が質素な食事をすることで、見知らぬ他者と少しでもつながっているような思いがしたからかもしれません。

さて、今日お読みいただいた聖書の箇所では、「断食」のことが問題になっています。私たちの時代では「断食」(食を断つ)ということを健康のために行うことがあるようですが、主イエスの時代はそうではありませんでした。「断食」は神様の前に信仰者が罪を犯したことへの、ざんげや悲しみのしるしとして行われました。レビ記にはユダヤ暦の7月4日の大贖罪日に「断食」をするように命じられていました。主なる神様に対して犯した罪を、イスラエル全体がざんげし悔い改める日に、この「断食」は行われたのです。

 しかし、今日の聖書に登場するバプテスマのヨハネの弟子たちは、先生のヨハネが人々に強く悔い改めを迫る人でしたので、しばしば「断食」をしていました。また、ファリサイ派の人々も、週に2回月曜日と木曜日に「断食」をしていたと言います。バプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、

食を断つことで自分の罪を見つめ、神様に向かってざんげと悲しみを言い表したのでした。それは意義あることであり、本来敬虔な思いからなされていたのです。バプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、「断食」こそ信仰者のなすべき敬虔だと考えていました。

そのため、あまり熱心に「断食」を行わない主イエスの弟子たちを見て、「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と問うたのでした。そこには非難の思いが込められていました。また、先々週見ましたように、主イエスと弟子たちは徴税人レビの家の客となり、大勢の徴税人や罪人と呼ばれていた人たちと食事を共にしました。その食卓は大変賑やかで、大いに食べたり飲んだりしたことでしょう。そんな主イエスと弟子たちの姿を見て、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、敬虔さのかけらもないと感じたのでありましょう。

しかし主イエスは、彼らにこのように言われたのです。19節です。「イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない』」。これはだれにでもよく分かるたとえです。主イエスの時代、婚礼は人生の一大行事であり、祝宴は1週間以上も続いたと言われます。現代の結婚式の披露宴は平均3時間ぐらいでしょうが、豪華な食事をいただき杯を傾けながら、お祝いの時を過ごします。披露宴は喜びの雰囲気で満たされ、新しく歩み出す二人を祝福する思いに包まれています。披露宴の席は、何も食べず、何も飲まない「断食」とは対極にある場所です。

主イエスは、「わたしが来たことによって、今あなたがたは婚宴の席、断食など思いもよらない喜びの宴に招かれたいるのだ」と宣言されているのです。花婿は旧約聖書の時代から主なる神様を表わす言葉でありました。主イエスはこの福音書の冒頭で、「時は満ち、神の支配は近づいた」(マルコ1:15)と宣言されました。主イエスがこの世界に来られたことで、主イエスを通して神様ご自身が到来されました。そして神の国・神のご支配は今や完成に向かって進んでいるのです。そのことを知らされている信仰者にとってなすべきことは、苦悶の表情を浮かべて「断食」をすることではありません。そうではなく結婚式の披露宴に招かれた客のように、何よりも喜ぶことなのです。

先々週の箇所で、徴税人レビの用意した食卓に主イエスとその一行が客となって来てくださいました。丈夫な人ではなく病人を、正しい人ではなく罪人を御国に招いてくださる主イエスを食卓にお迎えしたのです。その場にいた徴税人レビたち、罪人と言われていた人たちは、どんなに大きな喜びに包まれたでしょう。主イエスの示してくださった愛と憐みに、どれほど心打たれたでしょう。それと同様、私たちのもとにはこのイエス・キリストが来てくださっているのですから、私たちは何よりもそのことを喜ぶのです。すべてのことはこの喜びから始まっていくのです。

ただしキリスト教会は、その歴史において「断食」をまったくしなかったかと言うと、そうではありません。主イエス御自身が荒れ野で40日40夜サタンの試みに遭われた時に「断食」されています。また使徒言行録には、使徒を選ぶ時や使徒を伝道に派遣する時に、初代教会の信徒たちが「断食」して祈ったという記事が出てきます。また、主イエスは今日の20節で「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」と言われています。初代教会においても、イエス・キリストが十字架で苦しまれ、死を遂げられたことを覚えて「断食」する習慣があったことを、聖書註解者たちは記しています。私たちがレントの時、受難節の時を、主の十字架の苦しみを想起して過ごすように、初代教会のキリスト者たちも「断食」をして、自分の罪を悔い改めたのでしょう。しかし、イエス・キリストが到来されたことによって、「断食」という敬虔を表わす行いは、今や全く違ったものになったのです。

敬虔さを表わす「断食」は、主イエスが到来した今、どのようなものとなったのでしょう。「断食」について述べている2つの聖書箇所から考えて見ましょう。一つはマタイによる福音書6章16~18節です。ここは主イエス御自身が「断食」について教えておられるところです。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

主イエスの時代、本来神の前に自分の犯した罪を悔いて悲しむために行われていた「断食」は、人に見せるためのものになっていました。自分が他の人よりどれだけ敬虔かを誇るために、「断食」が行われていました。顔を歪めて苦しさをこらえて週に何度も「断食」をすることで、周りの人々から賞賛を受けていました。そんな「断食」はもう人間から報いを受けている。神様から報いを受けることはできない。もし神様から報いを受けたいと思うなら、「断食」していることが周りの人に分からないようにしなさい。隠れたところでしなさいと言われるのです。「断食」は今日の信仰者には、「祈り」、「奉仕」、「献金」などに読み替えることができるでしょう。そうした信仰の表現である行為は、人に見せびらかすものでも、人と競うものでもありません。主イエス・キリストのゆえに「アバ、父よ」と呼ぶことのできる父なる神様が、私たちを見てくださっています。父なる神様は、私たちのどんなに小さな信仰の行為をも、あたたかく喜んで受け入れてくださいます。「この御方にだけ見ていただければ、それでよい。父なる神様だけに見て頂きなさい」と、主イエスは言われるのです。

もう一つ、「断食」について教えられるのは、今日司式長老に読んでいただいた旧約聖書イザヤ書58章です。ここでは3節から8節をもう一度読んでみましょう。最初に当時のイスラエルの人々が問います。「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。」それに対する神様の応答が語られるのです。「見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。 

わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。」

 イザヤは、神の御言葉を語ります。あなたが自分に仕えてくれる人に暴虐な振る舞いをするなら、いくら敬虔な仕草で「断食」を行ったとしても、それをわたしは受け入れない。正しさや正義が踏みにじられるところでは、神は「断食」を喜ばれないのです。また、同胞が悪者に苦しめられ、虐げられている。食べる物も着る物もなく、苦しんでいる。そのような同胞に何の手も差し伸べないなら、いくら熱心に「断食」しても、わたしはそれを少しも喜ばない。愛を失った冷えた心で行われた「断食」を、神は受け入れようとはされないのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されました」(ヨハネ3:16)。イエス・キリストは、私たちすべての者を罪と死の縄目から解き放つために、十字架にご自身を捧げられました。その主イエスに従う弟子たちの信仰の行いも、主イエスに倣うものでなくてはなりません。「祈り」、「奉仕」、「献金」といった信仰の行為も、正義を行うこと、愛の手を差し伸べることと何の関わりもないところで捧げられるのなら、神様がそれを喜ばれることはないのです。しかしそれとは反対に、イエス・キリストが到来され今わたしたちと共におられるという喜びの中で、正義を行うこと、愛の手を差し伸べる方向へと少しでも進んで行くなら、神様は私たちの捧げる信仰の行いを喜んで受け取ってくださるのです。そしてその行為によって私たち自身が癒されていくのです。

さて、今日の箇所の21節以下には、二つの小さなたとえが語られ、その二つは同じ一つのことを教えています。それは、新しいものを受け入れるためには、古いものでは間に合わない、役に立たないということです。新しい布切れで古い服を繕っても、縮んだ布切れに引っ張られ、服は破れてしまします。新しいぶどう酒を古い革袋に入れても、新しいぶどう酒は発酵して、古い革袋をダメにしていまいます。新しいものを受け入れるには、受け入れる側も新しくされなくてはなりません。新しいものとは、救い主イエス・キリストの到来と神のご支配の始まりです。人類がかつて経験したことのない、その新しい救いと喜びを受け入れるために、受ける側の私たちも新しくされる必要があるのです。古いものにこだわり、前例を踏襲して安心しようとする私たちです。しかしイエス・キリストの救いと喜びを、心から受け入れることができるように、聖霊によって絶えず新しくされていく私たちでありたいと思います。お祈りします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も色んな仕方で敬愛する兄弟姉妹と礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。神様、私たちはあなたに様々な敬虔な行いをお捧げいたします。しかしそれはあなたや周囲の人々に評価してもらうためではありません。主イエスによってあなたご自身が到来し、御国が完成へと向かっている喜びの中で、感謝の応答として捧げるものであります。どうか、その大きな喜びの中で、一つ一つの業を行わせてください。昨日、長く教会員として教会に仕え、主にある交わりを結んでくださった鈴木充子さんが、あなたの御許に召されました。どうぞ、姉妹をあなたの全き平安の内に憩わせてください。ご遺族の上にあなたの慰めと平安を与えてください。残暑の厳しい日が続きます。どうか兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。この拙き感謝と切なる願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 8月27日(日) 

  

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   申命記34章1-12節

説  教   「モーセの死」 藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分   司式 三宅恵子長老

聖  書

 (旧約) イザヤ書58章1-12節   

 (新約) マルコによる福音書2章18-22節 

説  教   「喜びによって新しくされる」  藤田浩喜牧師

神は顧みてくださる

ルツ記4章1~17節 2023年8月20日(日) 主日礼拝説教

                         牧師 藤田浩喜 

ルツ記を学んでいますが、今日は最後の第4章です。ルツとの結婚を決断したボアズは、それを実現するためにエルサレムの町に戻ってきます。それはナオミの夫であったエリメレクの一族の中で、第一の責任を持つ親戚と会って、話をつけるためでした。彼はエルサレムの町の門のところへ行きます。町の門は長老たちによる裁判が行わたり、話し合いや商取引の行われる町の中心でした。そこで座っていると、たまたま第一の責任を持つ親戚が、ボアズの前を通りかかったのです。「折りよく」とここには書かれていますが、単なる偶然ではないでしょう。そこには主なる神の導きがあったのです。

ボアズはこの親戚を呼び止めます。大事な話があることを伝えます。そして、二人の話し合いの証人となってもらうため、門のところにいた町の長老のうち十人に、その場に座ってもらったのでした。

こうして交渉の場は整いました。ボアズは早速、用件を切り出したのでした。3節後半からです。「モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。それでわたしの考えをお耳に入れたいと思ったのです。もしあなたが責任を果たすおつもりがあるのでしたら、この裁きの場にいる人々と民の長老たちの前で買い取ってください。もし責任を果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください。それならわたしが考えます。責任を負っている人はあなたのほかになく、わたしはその次の者ですから。」

旧約の時代イスラエルには、ゴーエールという制度がありました。それはある人が没落し、土地を手放さなくてはならなくなった時、その人に代わって親戚が土地を買い取り、神様が一族に与えられた嗣業の土地の散逸を防ぐというものでした。エリメレクの妻であるナオミが土地を手放そうとしています。親戚の責任としてあなたはその土地を買い取る意志がありますか、とボアズは尋ねたのです。

第一の責任をもつその親戚は、事情が分かり、「それではわたしがその責任を果たしましょう」と答えます。土地を買い取ること自体は、所有する土地が増えることでもあり、それほど難しいことではなかったのでしょう。

しかし、ボアズはこれに伴うもう一つの条件を、かの親戚に伝えたのでした。5節です。「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き受けなくてはなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。」ボアズがここで述べているのはレヴィラート婚という慣習です。これは通例、兄弟間で行われていたことでした。兄が男の子を残さずに死んだ場合、弟が兄の奥さんと結婚し、男の子をもうける。その最初に生まれた男の子に亡くなった兄の名を付けて、嗣業の土地をつがせるというのがレヴィラート婚という慣習でした。ボアズはその慣習を親戚の間でも適用して、エリメレクの息子マフロンの妻であったルツもまた引き受けるように、その親戚に迫ったのです。

土地だけならともかく、寡婦となったモアブの女性ルツまでも、引き受けなくてはならない。それはかの親戚にとっては、できかねることであったようです。ルツを引き受けることによって、家庭内にいざこざの種を持ち込みたくなかったのかもしれません。あるいはルツを娶って男の子が生まれれば、せっかく買い戻した土地がその子の土地になってしまうので、自分の嗣業を損することになってしまうと判断したのかもしれません。いずれにしても、第一の責任をもつ親戚は、本来自分が果たすべき責任を放棄し、彼に次ぐ立場にあるボアズに、親族の責任を果たしてくれるように頼んだのでした。

こうして、ボアズが願い、ルツに約束していた通りに事が運びました。かの親戚は、責任を譲り渡すことを、自分の履き物をボアズに渡すという所作によって、確証します。そしてそれを受けて、ボアズは長老とすべての民に向かって、高らかに次のように宣言したのです。9節以下です。「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです。また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」

ボアズは、町の門において正式な手続きをすべて果たした上で、エリメレクの土地を買い取り、ルツを自分の妻として迎え入れることになりました。前回の3章で見たように、ボアズとルツは互いに惹かれ合うようになっていました。ボアズがルツに心惹かれたのは、色んな理由があったでしょう。しかし、その中でも彼を感動させたのは、ルツの損得を超えた思いやりだったと思います。ルツは損得から考えれば、夫のマフロンが亡くなったとき、モアブの実家に帰ることもできました。姑と一緒に見知らぬイスラエルまでついてくることなどなかった。しかし、夫も二人の息子も亡くして、うつろな思いを抱えて故郷に帰る姑ナオミを、一人にしておくことはできなかった。ナオミと一緒に生きようと決心し、二人で生きていくために、毎日落ち穂拾いにやってきた。蔑まれたり、からかわれたりすることも覚悟の上で、落ち穂拾いにやって来ました。ボアズはそのようなルツの姑への損得を超えた思いやりに、心打たれたのではないでしょうか。

そのような思いやりに、ボアズもまた応えています。第一の責任を持つ親戚は、買い取った土地が自分のものにはならないことを見越して、ゴーエールの権利を放棄しました。買い戻した土地が、自分のものではなくなるという点では、ボアズも同じです。損得勘定だけ考えれば、ルツを自分の妻とするために、もっと他の方法もあったに違いありません。しかしボアズは、ルツの思いやりに自分もまた応えたいと思ったに違いありません。だからこそ彼は、町の誰もが異を唱える余地のない方法で、真正面から状況を突破しようと思ったのです。ルツの生き方、彼女のナオミへの思いやりに、恥ずかしくない仕方で応えなくてはならない。そうしたボアズの心意気が、私たちにも伝わってくるように思うのです。

私たちの時代というのは、利に聡い時代です。その関係が利益になるか、そうすることが得か損か、そんな基準で生きる傾向が、ますます顕著になっているのではないでしょうか。先週いただいたお休みの間に、歴史学者の磯田道史(いそだみちふみ)さんの欠かれた『無私の日本人』という本を読みました。そこには穀田屋十三郎たち、中根東里(とうり)、太田垣蓮月(れんげつ)という3組の人たちの実話が記されています。いずれも自分を無にして、自分の損得など全く考えずに、他者のために命を使った人々でした。詳しいことは申し上げるいとまがありませんが、たとえば穀田屋十三郎たちは、奥州街道にある吉岡宿で商いをしている商人たちでした。その吉岡宿は伊達藩のために伝馬の御用を課せられていました。馬によって通信網の維持をしていたのです。しかもこの吉岡宿は他の宿場町のように伊達藩からの手当てなしにこの御用を担わされてました。吉岡宿はそれもあってだんだん疲弊していました。将来の存続が危ぶまれる状況でした。そこで穀田屋十三郎たちは一世一代の賭けに出ます。当時伊達藩は参勤交代の莫大な支出もあり、多額の金子を必要とすることがありました。その伊達藩に千両の金子を貸し付け、当時の利子の相場であった1割の100両を毎年受け、それを宿場の家々に配ることで、吉岡宿を支えようとしたのです。そのために穀田屋十三郎他十名近くの商家が破産も覚悟で金子を提供しました。そして仙台藩の分厚い官僚組織に体当たりでぶつかり、幾多の試練を乗り越え、6年の歳月をかけて大願を成就したのです。この小さな歴史を埋もれさせまいと発掘した磯田先生は、今の私たち日本人の風潮を、少し嘆いておられるように感じました。目先の損得だけを考え、他者に対するあたたかい眼差しを失ってしまった私たちの時代に対して、「あなたがたはひよっとすると、大切なものを失ってしまってはいませんか?」と、問いかけられるように思うのです。

さて、11節以下の後半のところでは、物語のラストにふさわしく、人々の祝福と神の祝福がこだましています。まず、ボアズとルツの結婚が、民や長老たちによって、高らかに祝福されるのです。11節以下です。「そうです。わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。どうか、主がこの若い婦人によって子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツのように、御家庭が恵まれるように。」

ラケルとレアは族長ヤコブの二人の妻であり、彼女たちからイスラエルの12部族が誕生しました。また、タマルの勇気ある行動によって、タマルは義父ユダの子を身ごもり、ユダ族は家系を絶やすことなく、つないでいくことができました。それと同じような祝福が、ボアズとルツの家庭にも注がれますようにとの祈りが、捧げられたのでした。

そしてやがて、ボアズとルツの家庭には、男の子が与えられます。この男の子は、レヴィラート婚の習慣に従い、エリメレクの息子とされ、ナオミは思いがけない仕方で息子を得ることになります。そのナオミを近所の女たちが祝福して、次のように声をかけるのです。14節以下です。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」

ルツが産んだ子どもによって、ナオミの生涯が絶望から喜びに変えられたことを、声を合わせて祝福しているのです。モアブからイスラエルに帰って来たときも、女たちから声をかけられたナオミでした。それに対して、「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしをうつろにして帰らせたのです」(1:20~21)と、答えたナオミでした。生きている意味も、未来への希望も奪い取られたナオミに、主なる神は今、生きる意味と未来への新しい希望を、造り出してくださったのです。空手でむなしく帰って来たナオミの腕に、未来そのものである乳飲み子を抱かせてくださったのです。神様はその信じる民を、見捨てたままにしてはおかれません。その信じる民を顧みてくださいます。たとえ一時は、打ちひしがれ望みを失うことがあったとしても、生きる意味と未来への大いなる希望を、造り出してくださいます。主なる神は、必ず顧みてくださるのです。

今日のルツ記4章は、ユダとタマルの息子ペレツからダビデ王に至る系図によって締めくくられています。10人の名前が記され、ボアズは7番目に出てきます。ルツ記に登場する人たちは、ナオミもルツもボアズも、自分たちのつないだ系図がどこに至ったか、知る由もなかったでしょう。自分たちの子孫からイスラエル史上最大の王であるダビデが出ると、誰が思ったでしょう。それのみならず、その系図は遙かに時代を超え、救い主イエス・キリストにつながっていくなどと、誰が想像し得たでしょう。

ナオミもルツもボアズも、主なる神を見上げ、神の慈しみを信じて、その生涯をささやかに生きた人たちでした。神の示してくださる慈しみと思いやりに、自分なりの仕方でお応えしようと、誠実に生きることを志した人たちでした。時には迷い、神様の御手が見えなくなるような苦しみの谷を通りながらも、神様と共に生き続けた人たちでした。神様はそのような人たちのささやかな歩みを用いてくださり、イスラエルの民を導き、ご自身の救いの業に用いてくださったのです。 

私たちのささやかな歩みを、イエス・キリストの父なる神様は無駄にはなさいません。神様は必ずや顧みてくださる。主イエスの愛に少しでも誠実に生きたいと願う私たちを顧みてくださいます。その信仰に生かされ励まされて、新しい一週間の歩みを進んでまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹を色々な仕方で礼拝に招き、共にあなたを讃美することができますことを、心から感謝いたします。あなたは信じる者たちを顧みてくださいます。私たちがどのような状況に置かれても、あなたが新しい道を創造くださり、あなたの御心に適った希望の道へと導いてくださいます。そのことを深く信じて、あなたを見上げて、進ませてください。8月のこの時期、私たちは戦争と平和について考える時を与えられます。危機と不安が増す状況の中で、色んな言説が飛び交います。しかしあなたは「平和をつくり出す者はさいわいである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われます。この御言葉の意味を深く思いめぐらし、この御言葉に従う決意をもって日々を過ごさせてください。猛暑の日々が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の健康を支え、その歩みを導いていてください。この拙きひと言の感謝と願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 8月20日(日)

  

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   出エジプト記32章1-6節

説  教   「金の子牛」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分   司式 山﨑和子長老

聖  書

 (旧約) ルツ記4章1-17節   

 (新約) ローマの信徒への手紙5章1-5節 

説  教   「神は顧みてくださる」  藤田浩喜牧師

主の教えに従う道

ルカによる福音書6章27節~36節 2023年8月13日(日) 主日礼拝説教

長老 山根和子

 今日のテキストで、イエスは「敵を愛せ」と命じられました。主の教える愛について学びを深めたいと思います。

主イエスは、27-28節「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と命じられます。ここに敵への愛について三つの方法が示されています。それは、憎む者に対しては親切にすること、悪口や呪いについては祝福をすること、侮辱する者に対しては執り成しの祈りをすることです。主イエスは、この世を支配する原則に対して、同じ原則で対抗するのではなく、この世の力とは、相容れない、神の国の自由な愛をもって対応する事を求められます。

でも、わたしたちは、悪口を言われれば、相手への悪感情が増し、侮辱されれば、それ以上に相手を貶めたくなります。打たれれば、打ち返し、奪われれば、奪われた以上に取り返したくなります。これが、わたしたちの本性ではないでしょうか。

わたしたちは、自分を愛してくれる人を愛し、自分によくしてくれる人に善いことをし、返してもらうことを当てにして貸す者たちなのです。わたしたちは、愛を得るために人を愛し、親切を受けるために人に善いことをし、利益を見込んで人に貸し与えることを行っているだけにすぎません。恩には恩で報いる原則、恩返しであり、返礼でしかありません。すべて自分のために愛するのであり、見返りを求めて親切にし、貸すのです。自己の利益を求めているだけで、そこに神の恵みに値するものは何も見いだすことはできません。わたしたちの自己中心的な生き方に気づかされます。しかし主の教える愛は、自己中心とは反対のことなのです。わたしたちが行っている愛と、主の教える愛とは、あまりにもかけ離れているのです。

主イエスは、35節「敵を愛しなさい。人に善いことをしなさい。何もあてにしないで貸しなさい」と命じます。敵をも愛する制限のない、無条件で、徹底的な愛を教えられます。

敵に対する愛とは、自分のためにではなく、他者のために生きるということです。自分を放棄し、他者の利益を願うのです。わたしたちは、自分の愛する人のためには、自分を犠牲にして生きることができるかもしれません。しかし、主イエスの教える愛は、憎しみ呪う敵のために自分を捨てて、相手を生かそうとします。侮辱を受けるというだけの消極的なものではありません。罪を犯す者を救おうとする積極的な行動となります。主イエスは、わたしたちに、他者のために神のみ心にかなう善いことをしなさい、何も当てにしないで貸しなさいと勧めるのです。

そうすれば、神からの報い、交換原則によってではなく、神からの自由な恵みがあるに違いないと言われます。神は、恩知らずにも、悪人にも、情け深い方だからです。神は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる方なのです。だから「あなたがたの父なる神が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と命じられます。

ここで、旧約聖書のヨナ書を見てみましょう。4章1節に、ヨナはそれが大いに不満で怒ったとあります。それとは何か、前章までの流れを振り返りつつ見てみましょう。

神はヨナに、大都市ニネベに行って、主の言葉を語れと命じられます。ニネベは、神の民イスラエルを悩まし、苦しめているアッシリアの首都です。神は、ヨナに敵対するニネベに一人赴き、悪を告発することを命じました。しかし、ヨナは、恐ろしかったのでしょう。神の言葉に従うことを嫌って、神の命令に背きます。ヨナは、神の支配から逃れられると考えたのです。人は、自分の力を信じる時、自分が主となり、神に従わないのです。ヨナは、神に命じられたニネベとは反対のタルシシュに向かう船に乗り込みます。その結果、嵐の海に投げ込まれ、ヨナは魚の腹の中に閉じ込められました。命の危機に瀕した時、ヨナは、神に助けを求めて祈ります。悔い改めの祈りです。神は、この祈りを聞き入れ、彼を救われます。ヨナは、自分自身の判断で生きていけると考えましたが、神の支配からは逃れられず、強制的に神のみ言葉に仕える者とされました。

神はヨナをニネベの町に送り、主の言葉を告げさせます。それは「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」という災いを告げる言葉でした。ヨナは、悪がはびこる町に神の裁きを告げて回ります。すると、ニネベの人々は、神の言葉を信じたのです。ヨナの予想に反して、ニネベの人々は神の言葉を聞いて、すぐに悔い改めました。神は、ニネベの人々が悪を離れ、心から悔い改めたのをご覧になって、災いをくだすことを思い直されました。これが3章までのいきさつです。

ヨナは、ニネベを滅ぼすことを思い直された神の寛大さに対して激しく怒ったのです。ヨナは、神が恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとして思い直される方であることを知っていました。この神の憐れみが自分の仲間であるヘブライ人に対して与えられるのならば、ヨナは、共に喜び神に感謝したことでしょう。しかし、この恵みは、神の法を知らない、また守れない異邦人に与えられました。ヨナは、ニネベの人々に宣告した災いが撤回されたことに不満なのです。ニネベの人々は、神の好意を受けるに相応しくないとヨナは考えたからです。

ヨナは、神の偉大な愛を認識していたにもかかわらず、ヘブライ人としての選民意識にとらわれて、狭い民族愛から抜け出ることができません。ニネベの人を生かそうする神の良い業を見ても喜ぶことができません。それどころか、「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているより死ぬ方がましです。」と神に怒りをぶつけるのです。

不服を述べるヨナに、神は「お前は怒るが、それは正しいことか」と問います。反省を促される神の問いかけにヨナは答えません。ヨナの態度はかたくなです。ヨナは、都を出て東の方に行き、座り込みます。そして、仮小屋を建て、日差しを避けてその中に座りました。ヨナは言葉ではなく、態度で神に反抗するのです。40日後、どうなるか、ニネベの行く末を見届けようとします。ここに、ニネベの滅びを期待して座り込むヨナの頑固な姿が浮かびあがります。

神は、神のみ心を求めず思い違いをしているヨナを、体験を通して、神の真実の愛に目覚めさせようとします。強烈な日差しの中、仮小屋に座るヨナのために、神は「とうごまの木」を生えさせ、日陰を作られます。ヨナは、それを喜びます。ところが、主は、虫に命じて、一夜にして、「とうごまの木」を枯らしました。その上、東風を吹きつけさせ、ヨナを苦しめます。東風とはニネベに特有の草木を枯らし、人間の思考さえ失わせるほどの熱風です。頭上に照り付ける直射日光を遮るものもなく、熱風まで吹き付けてきました。ヨナはぐったりして、生きているより死ぬ方がましだと弱音を吐きます。涼しい木陰を作ってくれていた「とうごまの木」を失い残念でなりません。

これを聞いて、神はヨナに言われます。10節「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。

神は、神に背く民をも愛されます。神は、ニネベをその繁栄と偉大さのために惜しまれたのではありません。右も左もわきまえない人々の命を何よりも憐れまれ、惜しまれ、救われるのです。罪を犯す者を救おうとする愛です。

主イエスは、貧しい人、虐げられている人、弱い人、異邦人、罪人のためにこの世界に来てくださいました。神は、資格のない者、右も左もわきまえない者を救うために主イエスをこの世界に送ってくださったのです。神の深い憐れみ、慈しみは、人には、はかり知ることはできません。それは敵をも愛する愛だからです。神の愛は、わたしたちの思いをはるかに超えて大きいのです。神は、分け隔てなく一人一人を価値ある存在として愛しておられます。そして、神は、主イエスによって、すべての人々を救われるために今も働かれています。主イエスによる神の救いにおいては、人間の側から主張すべき何らの権利はありません。それにもかかわらず、神の側から自由に与えられる愛と、救いの御業は、すべての人に差し出されています。

かたくななわたしたちは、神の救いのご計画をなかなか理解することができません。そのため、ヨナのように、主の恵みの業に、戸惑い、悩み、苦しむことがあるかもしれません。たとえそうであっても、それは無駄にはならないと思えるのです。神を信じ、人とかかわり続ける中で、わたしたちは主の御旨を知らされ、変えられていくからです。

 わたしたち一人一人の力は、小さく、わずかなものです。取るに足らない者であります。一人の力でこの世界を変えることはできないでしょう。しかし、一人一人の力が、何も生み出さないわけではありません。神は、右も左もわきまえないわたしたちだからこそ、み言葉によって導いてくださるからです。わたしたちはこの神に望みをおき、自分のすべてをかけて従うのです。主の十字架を仰ぎ見つつ、慈しみ深い主に信頼して、平和を、真実を、良き未来のために祈りつつ行動するのです。救いは主にあります。何の力もないと嘆き、諦めるのではなく、このわたしを生かし、用いてくださる主イエスに信じ従うとき、この世界は確かに変えられていくのです。 

 信仰は、聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まります。この主に信頼して従っていきたいと思います。

祈り

父なる神様、いつもみ言葉によってわたしたちを導いてくださり感謝します。

どうか、わたしたちに向けられている、あなたの愛に気づかせてください。

わたしたちがあなたの愛の恵みに応えて、御心にかなう良き働きができますように、互いに支え合い、祈り合う者たちをなさせてください。

戦後78年を迎えます。平和を築き上げる努力を怠らないように、わたしたちを励ましてください。争いのない社会を作り出す知恵と力を与えてください。

連日の暑さで体を弱らせている一人一人の健康をお守りください。

主イエスキリストの御名によって祈ります。

次週の礼拝 8月13日(日)  

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   出エジプト記20章1-17節

説  教   「十戒」 山﨑和子長老

主日礼拝   

午前10時30分   司式 髙谷史朗長老

聖  書

  (旧約) ヨナ書4章1-11節   

  (新約) ルカによる福音書6章27-36節 

説  教   「主の教えに従う道」  山根和子長老

主は立ち帰る者を救われる

マルコによる福音書2章13~17節 2023年8月6日(日)主日礼拝説教

                        牧師 藤田浩喜

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(17節)。この聖句は皆さんもご存じの有名な聖句です。主イエスが徴税人のレビを弟子としてお召しになり、彼の家で仲間の徴税人や罪人たちと食事を共にされていました。その様子を見て主イエスを非難してきたファリサイ派の律法学者に、主イエスはこの言葉をお語りになりました。

 「丈夫な人には医者はいらない。」これは当たり前のことです。しかし私たちは果たして丈夫なのでしょうか。肉体の健康を保つために健康診断が必要なように、私たちは自分の生き方や心のあり方が果たして健全であるか、病んでいないかを診断しなくてはなりません。主イエスの御言葉は鋭いメスのように、あるいはCTやMRIのように、私たちがふだん自覚していない、心の奥にある病巣に迫るのです。私たちは健康でしょうか? 病気ではないでしょうか?

 ここで「丈夫な人」というのは、原語では「力を持っている人」という意味です。他人の力を借りなくても、自分の力で生きていくことのできる人です。主イエスを非難したファリサイ派の人々は、自分の努力で律法を守り、神の御心にかなう人間として生きていけるとうぬぼれていました。そして律法を持たない異邦人や、律法を守ることのできない罪人を軽蔑していました。主イエスはこのように、神の助けがなくても人間の力で生きることができると自負している人のことを、「丈夫な人」と呼んで皮肉(ひにく)っておられるのです。

 人間のすぐれた知性によって、すばらしい科学文明を築き上げた現代人もまた、神がなくても、人間の知性と人間が生み出した科学技術によって、輝かしい未来を築くことができると自負している「丈夫な人」です。多くの現代人にとって、神は死んだのであり、宗教は弱い人間がすがりつく迷信にすぎません。

 そして私たち自身もまた、自分の知恵や力によって生きていけるとうぬぼれている、「丈夫な人」となってはいないでしょうか。私たちは自分の考えによって将来の計画を立て、それを実現するために必要な学力、技術、財産、権力などを手に入れようと、懸命に努力しています。腕力や外見的な魅力も必要かもしれません。学校教育は私たちが「丈夫な人」として、自分の力で生きていける実力を身に付ける手段になっています。神なき世界では人間の力だけが頼りです。

 このような、人間の力だけが頼りである「丈夫な人」の社会では、隣人はもはや愛する対象ではありません。自分が生きるために蹴落とさなければならない競争相手です。「敵を愛しなさい」というような主イエスの教えは、センチメンタルな弱者の道徳としか見なされません。弱者は敗北し、社会の底辺にまで追いやられる。そのような傾向は、今日の新自由主義や自己責任論の台頭によって一層強まったように思います。こうした油断もすきもない、砂漠のような世界に、私たちは「丈夫な人」として、自分の力によって生きているのです。

 このような自分の力や能力だけを誇る、「丈夫な人」をつくる学校教育において、不登校やいじめなど、様々な問題が起こることは当たり前です。神を見失った現代の世の中で、自分は「丈夫な人」であると思い込んで生きている私たちこそ、最も根の深い文明の病に、知らず知らずのうちに冒されている病人であることを、認めなければなりません。宗教の根本問題は、神が存在するかどうかといった思弁的な事柄ではありません。私たち人間は果たして神なしに生きることができるかという、日常生活に直結する私たちの生き方が問われているのです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」ここで主イエスに病人と呼ばれているのは、主イエスと食事を共にしている徴税人や罪人のことです。徴税人は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国のために、同胞のユダヤ人から重税を取り立て、そのうえ税金のうわまえをはねて私腹を肥やしていました。

ユダヤ人が汚れていると見なしていた異邦人と接触することも多く、異邦人の手先として働いていたので、ユダヤ社会の嫌われ者だったのです。また、ここの罪人とは十戒をはじめとする律法を知らず、守らない人々でした。その中にはクリスマスに登場する羊飼いのような人たちも含まれていたでしょう。律法によってユダヤの民を指導していたファリサイ派の人たちは、彼らを社会の病人と見なし、あたかも伝染病を忌み嫌うように、彼らと食事をすることはもちろん、接触することさえ拒んでいたのです。

 徴税人や罪人たちは社会の落伍者として、一人前の人間とは認められず、だれからも相手にされませんでした。彼らは劣等感と寂しさにさいなまれながら、生きていたに違いありません。徴税人は、大勢の人を招いて食事を振る舞うだけの財力を持っていましたが、それは彼の心の穴を埋めてはくれませんでした。「丈夫な人」の社会は、常にこのように落ちこぼれ、疎外され、差別された人々をつくります。人間が支え合うのではなく、同じ人間を差別し、疎外することこそ、最も深い社会の病気です。「丈夫な人」として生きている時、私たちもこの病に冒されてはいないでしょうか。

 病人は「丈夫な人」のように、自分の力だけでは生きることができず、医師や看護師の助けがなければ一日も生きていけない弱い者です。自分の力に自信をもって生きてきた人も、いったん病気にかかると、そのことを痛感します。重い病気で入院した経験のある人は、不安と心細さに悩まされます。病院の先生や看護師さんの存在がどんなに安心感を与えてくれるかを知っています。

 それは身体上のことだけではありません。私たち人間の存在そのものが、弱く壊れやすい存在なのです。大切なことは、私たちもまた決して「丈夫な人」ではないことを認めることです。自分の力では律法を守ることができず、神の恵みによって支えられなければ、一日も生きることのできない病人であると認めることです。私たちの中には、「丈夫な人」は一人もいません。ただ自分は「丈夫だ」と思い込んでいる病人がいるだけなのです。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。主イエスはそう言われます。たいていの晩餐会や宴会には、いわゆる有名人が第一に招かれて、上席にすえられます。地位や富や業績のある人、人気者のタレントなどはひっぱりだこです。そこにわざわざ病人を招く人はありません。

 しかし医師は病院に、病人だけを招きます。健康な人を招いていたのでは、仕事になりません。毎日毎日、病人だけを相手にして全力で治療する医師の仕事は貴いものです。そしてイエス・キリストは、私たちの魂を癒す、まことの医師として働かれます。罪という死に至る病から私たちを解放し、本当に健康な人間として生かすために、私たちの世界に来られたのです。

 ところで主イエスは、「わたしは罪人を招くために来た」とおっしゃった。ところが、ここでは招かれているのです。徴税人レビが招いている。ここの光景はまことに不思議な光景だと思います。主は、「わたしは罪人に招かれるために来たのだ」と、おっしゃったかのようなのです。

 ある説教者が、ドイツのキリスト者たちの間でなされている食卓の祈りを紹介していました。こういう祈りです。「主よ、来てください。私たちのお客になってください。そして、あなたが与えてくださったものをここで祝福してくださいますように。アーメン。」食卓にお客を迎えた時にも、この祈りはささげられます。この祈りには、次のような信仰が込められているのです。「ここでわたしがもてなす食べ物はあなたがくださったものです。あなたがくださったものを、あなたがここで祝福してください。そうすればこの食卓は真実の食卓になります。

 徴税人のレビがそういう祈りをしたとは言えません。けれども私は、レビの心の中にあったものは同じであったと思います。主イエスを迎えながら、彼は主イエスに迎えられている喜びを味わっているのです。主イエスがここにお客さんになっていてくださるということで、自分がこの方の客として招き入れられたことを、どんなに喜んだかわからない。どんなに豪華なご馳走の並ぶ食卓であっても、これまでの食事はレビの心を満たすものではなかったでしょう。しかし、この主イエスというお客によって、はじめて自分の作った食卓が真実の祝福の中に置かれている。レビはそのことを信じることができて、喜んでいたと思います。

 「あなたが与えてくださったものをあなたが祝福してください」という祈りは、この食べ物で示されているようなわたしの命を、あなたが祝福してくださる時、ここに真実のいのちが生まれる、わたしの生活があるという信頼を言い表しています。それはしかし、食卓についてだけ言い得ることではありません。たとえば、私たちが忙しさの中に、どうしてよいのか分からなくなるようなことがあっても、もし、「主イエスよ、ここに一緒にいてください、この生活はあなたが与えてくださったものです、あなたが祝福してください」と祈ることができれば、どんなにさいわいでしょう。そのような祈りをなし得る確信の中に立つことができれば、私たちはどんな生活にも耐えられるように思うのです。主イエスが招かれるために来てくださったおかげで、主イエスが祝福していてくださることが見える。私たちの人生の中に、主イエスがお客として来てくださったことによって、私たちの人生はこれまでとは違った意味を持つものに変えられるのです。

 徴税人レビは主イエスに召しを受けて、本当にびっくりしたと思います。自分でも見たことがないようなまなざしで、自分の生活、自分を見て、祝福して、わたしについて来てごらん、あなたは健康になれる、と言ってくださった方があるのです。そう言われて気づいたのです。自分が病んでいたことを。人間としてまともに生きていなかったことを。どんな人々の厳しい言葉によるよりも、軽蔑の言葉によるよりも、痛い思いで知ったと思います。主イエスの愛はそういうふうに、私たちの間違った生活に気づかせます。そして呼び出してくださいます。わたしについて来い、と言われます。わたしの後について来ればそれでいいのだ、と言われます。わたしのいる所にいてくれればいいのだと言われます。わたしの祝福の中にいてくれれば、それであなたは健やかになれると言われます。それが、主イエスの招きなのであります。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今御子イエス・キリストは、わたしたちのところに客となって来てくださいました。それは「丈夫な人」と思い込んでいる私たちが本当は「病める者」であることに気づかせ、主が与えてくださる祝福と平安によって私たちを癒すためであります。どうか、その癒しを心を開いて素直に受け取ることができますよう、私たちを導いていてください。日本列島は今、大きな被害をもたらす台風と異例とも言える酷暑に見舞われています。どうか、この新しい一週間をあなたの御手の守りの中で無事に過ごすことができますよう、一人一人を支えていてください。今日は広島に原爆が落とされた日です。私たちの世界が核使用という愚かさを二度と繰り返すことがないよう、どうか導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

救いへの突進

マルコによる福音書2章1~12節  2023年7月30日(日)主日礼拝説教 

牧師 藤田浩喜

「四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」。病気の人を主イエスのところに連れて行こうとする人々がおりました。病人を連れて行こうとしますと、群衆がいっぱいいて、なかなか主イエスのところに行くことができませんでした。彼らは屋根にのぼり、穴をあけて病人を主イエスの前につり降ろしたと書かれています。信仰というものには、妨げがあるということを示唆している出来事ではないかと思います。神に近づこうとすると、そこに妨げが入ってくるのです。あるいは、祈ろうとすると、そこになんらかの妨げが入ってくるということです。四人はその妨げを突き抜けて近づいて行きました。自分たちと共にいる病気の友人のために、その妨げを越えて、主イエスのところに行ったのです。屋根がどんな屋根であったか詳しいことは分かりませんが、おそらく当時の建物からしますと、フラットな屋根であっただろうと思います。そして、家の外側には、屋根の上にのぼる階段がついていたようです。彼らはそこからのぼって行って、群衆のために近づけないので屋根をこじあけたのであります。

 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と、言われた」。「その人たちの信仰を見て」と書いてあります。そしてこの中風の人を癒されたということが最終的に言われているのです。その信仰というのは何かと言えば、おそらく困難を越えて近づいて行く信仰のことでありました。信仰というものはさまざまな困難を越えて近づいて行くところに、表われてくるのです。困難、妨げるもの、それは、人々の群れでありました。世間の常識がある場合には、困難ということであるかもしれません。あるいは、この世の騒がしさが信仰を妨げる困難であるかもしれません。そういう妨げを越えて行った人々の信仰というものに対して、主イエスは答えられたのだと聖書は言っているのです。つまり、信仰というものは妨げを突き抜けて、初めてそこで、生きたものとして証しがなされるのであります。

 人々は、床のままで病める人を、主イエスの目の前につり降ろしました。ずいぶん乱暴なやり方です。彼らは自分たちの困難を主イエスの前に、言わば突き出したのです。ありのまま突き出した。自分たちの今、悩んでいる課題、痛みというものをそのまま主イエスの前に突き出したのです。そこには体裁も、礼儀もありませんでした。実に不躾なやり方で主イエスの前に、病人を連れて行ったのです。しかし、主イエスは彼らの求めに答えられました。なぜならば、主イエスとの交わり、出会いというものは、そういう仕方で生まれるからです。私たちの抱えている問題や、痛みや苦しみが、そのまま持ち出される。そこから、救い主との交わりというものは始まるのです。それがなければ始まらないと言わなければなりません。私たちが日々担っている重荷や課題、それを持って私たちは、神に、救い主に出会っていくのです。それなしに、私たちが神に出会う道というものはありません。何か、いろいろ考えて結局、神がいるんじゃないか、というふうなことではないのです。自分が担っている課題を背負って、そしてそれを突き出して行くという中で、私たちは救い主に出会って行くのです。神は私たちの声を聞くことを求めておられるのです。私たちのぎりぎりの声を聞くことを、神は待っておられる。その一点から神との出会いは始まるのです。

 主イエスは、「彼らの信仰を見て」と言われています。彼らの信仰です。病気の人の信仰というのではありません。病気の人を連れて来た人たちの信仰とも考えられますし、あるいはこの病気の人を含めて、五人の人たちの信仰のことを指しているのかもしれません。この人々の信仰を見て、主イエスはその信仰に答えられたというのです。一人の病人に答えられたというよりも、五人のこの人々の求めに答えられたのです。

この人々は問題のない人々のグループではありませんでした。健康な人々だけが集まっているグループではありませんでした。病気の人たちを自分たちの中に抱えこんでいる、そういう共同体でありました。病める人の痛みを自分たちの痛みとして、病める人の課題を自分たちの課題として担っている、そういう交わりでした。彼らは自分たちの中に一人の病める人を抱えこみ、担い、その人のために行動し、その人のために声をあげ、そしてキリストに近づいたのです。主イエスはその人々の求めに答えられました。つまり、主イエスはこの中風の人を癒されることによって、この五人の人たちの共同体全体に答えられたのです。

この病める人というのは、このグループの誰でもありうることでした。この時にはこの人であり、別の時には別の人が病むということがある。ある時にはある人が弱り、他の時には別の人が弱るということがありうる。ある時にはこの人が困っており、ある時には他の人が切羽詰まるということがありうるものです。その弱さを共に悩みながら、その痛みをいっしょに痛みながら、共に重荷を負い合い助けを求めて行く。そうしていっしょに癒されて行く。それが共同体です。それが信仰の共同体であります。

聖書はこの共同体のことを、別のところでは「体」というふうに言っています。私たちは「体」だと言っています。ある者は「体」の手であり、ある者は足であり、ある者は目であり、ある者は口だ。その「体」のひとつが痛めば他もいっしょに悩む。そういう「体」だと言うのです。一つの「肢体」の調子が良くなれば「体」全体が喜ぶ。それが人間の共同体だと、聖書は言うのです。つまり、人間は、そのようにして一人一人として神の前に生かされて行くのではなく、一つの共同体として神の前に生かされ、そして神の前で癒されて行く存在だということです。どうしてこんな重荷を自分たちが背負わなければならないかと、私たちは思うかもしれない。しかしそうではない。それを担って行く中で、自分たちが癒されて行く。そういう形でしか、人間というものは、神によって癒され得ない存在だということを知らなければなりません。自分だけ癒されるなんてことはありえない。いっしょに重荷を担い合いながら、いっしょに課題を担い合いながら痛みを背負いながら、そして共にそこで癒されて行く。そこに、神の前に生きる共同体があるのであります。

 主イエスの癒しの言葉は、こうでありました。先ず「あなたの罪はゆるされる」ということであり、「起きて歩け」というものでした。赦されるということは、言うまでもなく神に赦されるという意味です。あなたの罪は神に赦される。神に受け入れられる。こういった時に人の赦しのために重荷を負う、十字架を負うという主イエスの決意がこめられているのです。キリストが赦すと言われた時には、背後にキリストの苦難があることを忘れてはなりません。人は赦され、そして受け入れられて、初めて歩くことができるのです。だから「赦された」と言い、「起きて歩け」と言われるのです。赦されたから、あなたは神に受け入れられているから、自分らしく起きて歩いて行きなさい、と。

 子どもは自分を愛してくれている人、自分を受け入れてくれる人の前で、真に子どもらしく振る舞うことができます。子どもらしく遊ぶ。しかし、知らない所で誰かに監視されたり、監督されたりしている状況の中で、子どもは子どもらしく振る舞うことはできません。萎縮をしてしまうのです。

 聖書の中に、タラントンの話があります(マタイ福音書25:14~30)。主人が旅に行く時に、僕たちにお金を預けます。ある者には五タラントン、ある者には二タラントンを預ける。たくさんのお金です。そして、ある者には一タラントンを預けて旅に出ます。五タラントンを預かった者は、その五タラントンで、主人がいなくなった間に商売をして五タラントンを儲けた。しかし、一タラントン預けられた人は、それを土の中に隠しておいた。主人が帰って来た時に、それを土から出してきて、主人に返したというのです。主人は、彼をこの屋敷から追い払えと言って、彼を排除するわけですが、その時に一タラントン預けられた人が言った言葉があります。こう言ったのです。「あなたが、過酷な人で、まかないところから刈り、散らさないところから集めるような残酷な人だと知っていたから、この預けられたお金を土の中に隠しておいたのです。そのまま、ここにあります」。

 このことは、私たちにたいへん重要なことを教えていると思うのです。主人が監視している、主人は自分を監督している。採点をしているとしか思えない時に、人は生きられないのです。自分が何か意地の悪い神か運命のもとで生かされているとしか思えない時に、私たちは生きることはできないのです。何をしても失敗するかもしれないと、恐れなければならない、失敗したらどうしようかと恐れなければならない。五タラントン預けられた人も、二タラントン預けられた人も、彼らは商売をしたと書いてあります。商売というものは、失敗をするかも知れません。失敗をする危険があります。しかし、彼らは失敗を恐れませんでした。主人が自分たちに任せてくれていると思ったから、彼らは疑わないで、失敗を恐れないで、この自分に与えられたタラントンを働かせたのです。失敗を恐れず、自分らしく生きる者が、人生の収穫を得ることができるのだと聖書は言っているのです。びくびくしながら、何かを恐れながら生きているかぎり、私たちは、何もこの人生から収穫を得ることはできない。あのたとえ話は、そのことを私たちに伝えているのです。

 主イエスは言われました。「あなたの罪はゆるされる、だから起きて歩きなさい」。あなたは、神に受け入れられ、赦されているのだから、だからあなたらしく生きて行きなさい。赦された者として、神を信頼して、自分の足で歩いて行きなさい。意地の悪いまなざしのもとにあるのではない。イエス・キリストによる赦しのうちに、祝福のうちに、私たちの命は今あるのです。それ以外ではない。だから失敗を恐れないで、自分の足で歩いて行きなさい。自分らしく歩いて行きなさい。そのために私たちは救われているのです。びくびくしながら生きるためでなく、私が私らしく生きることのできるために、私たちは神のもとに引き寄せられているのです。私たちはそういう命に今、生かされているのだということをぜひ覚えたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に、教会においてあるいはネットを通して礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。中風の友達を主の目の前に運んできた人たちの出来事を通して、私たちは信仰に生きる共同体のあり方を示されました。私たち教会も、様々なことが起こります。群れの中に病気に苦しむ兄弟姉妹があり、大きな困難に立たされる兄弟姉妹があります。そしてそれは私たちの誰にでも起こることなのです。神さまどうか、私たちの教会がそのような悩みや苦しみを共に担い合うことができますよう、導き強めていてください。群れの一人が癒されるために心を合わせて祈り、そのことを通して群全体が健やかにされていくことができますよう、支えていてください。前例のないような猛暑の日々が続いています。どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお守りください。この世界にあなたにある平和をもたらしてください。このひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、お捧げいたします。アーメン。