日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 サムエル記上 3章1-10節
説 教 「サムエルの祈り」 藤田百合子
主日礼拝
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約) エレミヤ書9章9-12節
(新約) マルコによる福音書4章1-9節
説 教 「種をまき続ける農夫」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 サムエル記上 3章1-10節
説 教 「サムエルの祈り」 藤田百合子
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約) エレミヤ書9章9-12節
(新約) マルコによる福音書4章1-9節
説 教 「種をまき続ける農夫」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 サムエル記上 1章9-20節
説 教 「サムエルの誕生」 藤田百合子
午前10時30分 司式 山根和子長老
聖 書
(旧約) ヨナ書1章7-15節
(新約) 使徒言行録17章22-25節
説 教 「悔い改めを迫る神の愛」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書3章31~35節 2023年11月12日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日読んでいただいたマルコによる福音書3章34~35節にこうありました。「イエスは…周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』」。これは有名な御言葉です。この御言葉をあらためて読むとき、この主イエスの御言葉は今日の「家族」を考える上で、一石を投じているのではないでしょうか。
ある学者は「今日、家族は自明ではない」と言っています。私たちの時代、親たちの経済的な生活基盤が不安定であると指摘されます。核家族化の進行で、父親は仕事に取られ、ワンオペ育児を強いられている母親も増えています。かつて子育てを下支えしていた地域社会も機能してはいません。そうした中で家庭の教育力が低下してしまい、子育てに悩む家庭も多くなっています。日本キリスト教会岐阜教会は「児童育成園」という児童養護施設と深い関係がありますが、そこで暮らしている子どもたちは、その多くが親のいる子どもたちで、親のいない子どもたちは少ないそうです。また、関心が集まって周囲の人々が通報することが多くなったことも関係していると思いますが、ネグレクトやDV(ドメスティック・バイオレンス)などの虐待を受けている子どもたちの数も増加しています。もちろん個人の責任だけに帰せられるものではなく、社会情勢や行政の施策の貧しさも大きな背景をなしています。そうした複雑な状況の中で、「今日、家族は自明ではない」ということを実感として感じるのです。
2018年第71回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した是枝裕和(これえだひろかず)監督の「万引き家族」は、多くの方がご存じでしょう。映画の筋をばらすのは営業妨害ですが、5年前の作品ですので少しだけご紹介します。この映画は今日の私たちに、「家族」というものについて鋭い問題提起をしているように思います。おそらくは東京のビルが林立する町の一角に、狭く古い家が時代に取り残されたように立っています。高齢の祖母、中年の父と母、小学校高学年くらいの息子、そして高校生ぐらいの娘の5人が、身の置き所もないような雑然とした家で暮らしています。
この家族は、お世辞にも褒められた生き方をしてはいません。家族は6万円ほどの祖母の年金を当てにしています。父親は息子に万引きをさせ、足らない日用品や食品をまかなっています。母親はパートでクリーニング工場に勤めていますが、衣類のポケットに残っていたアクセサリーなどの忘れ物をくすねます。高校生ぐらいの娘は怪しげな風俗店で働いて、小遣いを稼いでいるのでした。しかし狭苦しい家で遠慮ない言葉をぶつけ合う家族ではありましたが、そこには親密さや暖かさがあるのです。お互い文句を言い合うのですが、なんだかんだ言って、それぞれが面倒を見合うのです。そして、この「家族」にネグレクトと虐待を受けていた小さな女の子が加わります。一度は両親のもとに返そうと家の前まで連れていくのですが、夫婦がののしりあい、母親がDVを受けている様子を耳にして、自分たちの家に連れ帰ってしまうのです。
しかし、この小さな女の子が警察によって捜索されることになり、それがきっかけとなって、この家族はバラバラになっていきます。祖母はすでに病死していますが両親は逮捕され、男の子も警察で事情聴取されます。そしてその過程を通して、家族一人一人の抱えていた過去が明らかになります。そして、家族と思われていた5人は、だれ一人血がつながっていない「疑似家族」であることが明らかになるのです。もうその家族がもとの姿に戻ることはありません。そしてあの小さな女の子も、ネグレクトと虐待の待つ自分の家庭に戻らざるをえなくなってしまうのです。「家族とはなにか」、「家族にとって本質的なことは何なのか」、そのことを深く鋭く問いかける作品であると思います。
さて、今日読んでいただいた箇所で、主イエスは身内である「肉親の家族」と「神の家族」というべきものを対置していることが分かります。主イエスは「肉親の家族」を絶対化してはいません。32節の後半で、主イエスに「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と告げられます。しかし33節で主「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え」られたのです。身内だからということで、主イエスを連れ戻そうとする家族の者たちを拒んでおられるのです。
もちろん、主イエスは「肉親の家族」を否定しているのではありません。公生涯に入るまでの30年間、主イエスは両親に従順な息子として成長してきました。父の仕事を継いで長男としての責任を果たしてこられたことでしょう。また主イエスが十字架に付けられたとき、主イエスは自分の弟子に「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:27)とおっしゃって、母マリヤのことをその弟子にゆだねています。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハネ19:27)と報告されています。ですから主イエスは、「肉親の家族」をないがしろにしてよいとか、ないがしろにしなさいとおっしゃったのではないのです。
しかし、真の神であり真の人である主イエスにとって、より本質的で大切な家族がありました。それが主イエスと「主の周りに座っている人たち」から成る家族、「神の家族」なのです。主は34節で、「周りに座っている人々を見回して言われました。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる』」。「神の家族」とは何か、どんな家族なのか。「神の家族」であるための要件は、主イエスが真ん中にいてくださるということです。主イエスが家族の中心になっていてくださることです。イエス・キリストは、この世界に受肉され、十字架と復活の御業によって、わたしたちのすべての罪を贖い、わたしたちを神さまを和解させてくださいました。わたしたちはイエス・キリストのゆえに、罪と死の縄目から解き放たれました。それだけでなく、イエス・キリストのゆえにわたしたちは神さまを「アバ、父よ」と呼ぶことができるようになりました。ですからわたしたちは、イエス・キリストの十字架と復活の救いを信じることで、この「神の家族」に迎え入れられているのです。「神の家族」に属するために、イスラエルの家系に属する必要も、律法学者たちのように律法に精通する必要もありません。イエス・キリストの十字架と復活の救いを信じるなら、どんな人でも「神の家族」に迎え入れていただけるのです。
そして、この「神の家族」に求められていることは何でしょう。主イエスは今日の35節でこのように述べておられます。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。「神の家族」に求められていることは、「神の御心を行うこと」なのです。「神は愛です」。そして神は愛という究極の御心を行うために、御子イエスを十字架にお掛けになったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。この決定的な御言葉は、そのことを証ししているのです。
そして、神は「神の家族」とされた私たちが、今度は互いに愛し合うことを求めておられます。それが神の御心を行うということなのです。ヨハネによる福音書15章9~12節をご一緒に読んでみましょう。新約198頁です。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっている。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」イエス・キリストがその身を捧げて示してくださった愛の掟によって、互いに愛し合うことが「神の家族」には求められています。しかしこの愛の掟を、神さまご自身が実践して下さり、御子イエス・キリストが模範となって愛の掟を実践してくださいました。私たち「神の家族」に迎え入れられた者たちは、神さまが御子イエスを愛して下さった愛、御子イエスがわたしたちを愛して下さった大いなる愛に支えられて、互いに愛し合うことが求められています。父なる神と御子イエス・キリストの大いなる愛に包まれるようにして、わたしたちは愛し合う者となっていきます。その意味で私たちは、「神の家族」の一員となることによって、互いに愛し合うことを学ぶのです。
今日は「肉親の家族」と「神の家族」という対照の中で、聖書の御言葉を聞いてきました。「肉親の家族」は、誰でもがつくれるものではありません。一度つくったとしても、それが壊れてしまうことがあります。長年「肉親の家族」であったとしても、年月の経過によってそれが失われてしまうこともあります。
誰もが「肉親の家族」を持っているわけではありません。しかし「神の家族」はそうではありません。「神の家族」は、どんな人にも開かれています。どんな人も「神の家族」に迎え入れていただくことができるのです。
そして「肉親の家族」を持っている人は、「神の家族」の大きな輪の中に入れられることが大切です。「神の家族」は、真の神であり真の人であるイエス・キリストを中心として形づくられた家族です。その「神の家族」の中に入れられることによって、家族にとって何が本質的なことか、何を失ってはならないかが、分かってくるのです。
皆さんもご承知のように、「肉親の家族」は遠慮のない関係です。そのあまりの密接さのゆえに、他の家族の心の中にズカズカと踏み込んでしまうこともしてしまいます。子を親の所有物のように見なし、自己実現、自己充足の手段としてしまうこともあります。子が親を便利に利用するだけの打算的な関係になってしまうこともあります。あまりに密接な関係だからこそ、歪んでいたとしてもそれが分からない、ということも起こりうるのです。
しかし、あの愛の掟を模範として実践してくださったイエス・キリストが、私たちの真ん中にいてくださることを、決して忘れないことが大切です。イエス・キリストを見つめ続ければ、それでよいのです。「神の家族」に属することで、「肉親の家族」は、何が家族の本質であるか、何を家族は失ってはならないかを、学び続けることができるのです。そのような「神の家族」が与えられていることを、私たちは心から感謝したいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、今日も兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができ、心から感謝いたします。あなたは御子イエスを中心とする「神の家族」を造ってくださいました。「神の家族」にはすべての者が招かれています。そしてこの「神の家族」に属し、イエス・キリストを見上げることで、私たちは「家族」にとって何が本質で大切であるかを知ることができます。どうか何よりも「神の家族」として歩ませてください。このひと言のお祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ルツ記2章1-16節
説 教 「み翼のもとに逃れて来た」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) ゼファニア書3章16-20節
(新約) マルコによる福音書3章31-35節
説 教 「主イエスの造る家族」 藤田浩喜牧師
コリントの信徒への手紙 二 5章1~10節 2023年11月5日(日)主日礼拝
牧師 藤田浩喜
今日は召天者記念礼拝を皆さまと一緒に守ることができて感謝です。ここにおられる皆さまのほとんどが、ご自分のご家族を亡くされた経験をもっておられることでしょう。突然、ある日ご家族を亡くされた方もあるでしょうし、しばらくの間看取りの期間を過ごした後、ご家族が亡くなったという方もあるでしょう。どんなに手厚く看取りをなさった場合でも、看取った家族には「悔い」というか「心残り」があるものです。「生きている間に、こうしてやればよかった。こんなこともできたのに」と、心残りを感じているのです。看取りの期間があった家族でもそう感じるとすれば、突然ご家族を亡くされた場合には、いっそう強く、そのように感じるのではないかと思います。
私は父を中学校2年生の時に亡くし、母を今から14年前に亡くしました。父の時は自分がまだ子どもでしたので、看取ったという記憶はありません。しかし、母の場合は私は50歳になろうとしており、西宮の牧師館に引き取った時期もありましたので、妻と一緒に母の世話をし、看取ったという記憶があります。
できることは精一杯したと思う反面、息子として至らなかったことも多く、「こうしてあげればよかった。どうしてできなかったんだろう」と、今でも心が痛むことがあります。「できることならあの世に行った時に、『あの時はごめんな』と謝りたい」と思う気持ちがあります。そのように謝りたいというだけではありません。「もう一度会えたら、こんな言葉も掛けたい、こんな報告もしたい」という願いを、ここにおられる皆さまも持っておられるのではないでしょうか。そのような願いを心に抱いている私たちに、今日の箇所でパウロは、私たちの死後のこと、死んで後に経験することを語っているのです。
今日読んでいただいた箇所のすぐ前、4章18節でパウロは「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言っています。有名な言葉です。私たちキリスト者は、信仰によって見えるものだけではなく、見えないものに目を注ぎ、見ています。その信仰によって見ているものは何か。その一つとして今日の5章1節以下で挙げられているのが、「天にある永遠の住みか」なのです。それは死んで後のことです。目に見えないものですから、一目瞭然というわけにはいきません。そのためパウロは、建物のイメージや着物を着るイメージを用いながら、「天にある永遠の住みか」を描き出そうとしているのです。
「天にある永遠の住みか」とは、そもそもどういうものか。パウロの他の手紙、たとえばコリントの信徒への手紙 一 15章などから示されることは、「天にある永遠の住みか」とは、新しい「霊的な『体』」と言い換えることができます。この「霊的な『体』」は、滅びることも、死んでしまうこともありません。「信じる者は、「肉体の『体』ではない、「霊的な『体』」を受ける。それは滅びることも、死んでしまうこともない。」パウロはそのように語っているのです。
では、その信じる者が死んで後受ける「霊的な『体』」である「天にある永遠の住みか」には、どんな性質や特徴があるのでしょう。私たちもイメージを豊かにしながら、パウロの語る言葉に聞きましょう。まず、第一に「天にある永遠の住みか」は、「地上の住みかである幕屋」とは対照的です。わたしたちの地上の住みかである幕屋は、先ほど述べた言葉で言えば、地上を生きる「肉的な『体』」です。今生きている地上の体です。幕屋はテントであり、テントは私たちが知っているように時が経つと劣化して、朽ち果ててしまいます。また、暴風などの自然災害によって、突然壊れてしまうこともあります。それが地上を生きる「肉的な『体』」です。しかし、「天にある永遠の住みか」は人間が造ったものではなく、神によって備えられた建物です。神が備えてくださった建物ですから、朽ちることも壊れることもありません。永遠に揺らぐことなく建ち続けるのです。
しかし「天にある永遠の住みか」と「地上の住みかである幕屋」は、まったく無関係で、何の接点もないのかと言うと、そうではありません。パウロは2~3節で次のように言っています。「わたしたちは、天から与えられる住かを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。」地上を生きる「肉的な『体』」は、皆さんも実感されているように、悩みや苦しみを避けることはできません。4節にありますように「重荷を負ってうめ」くように毎日を生きています。パウロにしても福音を宣べ伝える上で、筆舌に尽くしがたい苦しみを経験しました。しかし、「天にある永遠の住みか」は、そのような「地上の住みかである幕屋」の上に、重ね着するものであります。「地上の住みかである幕屋」が無くなったり、消滅したりすることはありません。そのイメージから分かるように、地上を生きる「肉的な『体』」は、新しい「霊的な『体』」を与えられても、私たちの人格は継続していきます。その人自身、私自身であることは変わりません。継続していくのです。私たちが地上の人生おいて過ごしてきた日々の記憶、私たちが結んできた様々な関係、たとえば親子関係や友人関係が、決して消滅してしまうことはないのです。
「天にある永遠の住みか」についてパウロが語る第3のことは、4節に記されています。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられた住みかを上に着たいからです。」ここでは、「天にある永遠の住みか」を上に着たい理由が述べられています。パウロは「死は最後の敵である」(Ⅰコリ15:26)と述べています。そして死をここにいる者は誰一人、経験したことはありません。死は善も悪もすべて飲み込んでしまう。死によって私たちの存在が飲み込まれてしまい、死すべきものは永遠に消え去ると思って、人は苦しむのではないでしょうか。人が死ねば「無」になる。何も残らないのではないかと、恐れるのです。
しかし、パウロはそうではない。死すべきものは命に、すなわち永遠の命に飲み込まれてしまうのだ、と言うのです。パウロはコリントの信徒への手紙 一15章54節で、同じようなことを次のように述べています。322頁、57節まで読んでみましょう。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」このように、イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、今や死そのものが、復活の命に飲み込まれているのです。信じる者を待っているのは死ではない。復活の命なのです。
先週、高木慶子(よしこ)さんが書いた『大切な人をなくすということ』という本を読みました。高木さんはカトリックのシスターで、死を迎える患者のターミナルケアや遺族へのグリーフケアを長年なさっている方です。小さな本ですが、とても中身の濃い本です。多くのことを教えられましたが、一つのエピソードだけ、今日はご紹介したいと思います。
高木さんは53歳の吉永さん(仮名ですが)を、病床に訪ねられていました。この方はバリバリ仕事をされ、会社の部長にまで昇進された方でした。この吉永さんにすい臓がんがあることが分かり、お医者さんからは余命3か月と言われました。ご本人は最初、「僕は仕事をするだけして、後はバタンキューでいい」とおっしゃっていました。しかしそれは「がんばっている姿を見せていないと家族が心配すると思った」、「自分自身を甘やかしたら、それでおしまいになるから」と思っていたからでした。
しかし、口ではそうは言っても、心は平静でいられるわけではありません。吉永さんの「死を受け入れるための」苦闘が始まります。ある日、吉永さんは高木さんに「家族と別れることがどんなに辛いことか分かりますか?」と尋ねます。そして、死が近づいてくる実感を淡々と語られるのです。「体がね、伝えてくるんです。家族と別れる時が近いということを。以前はね、砂を嚙むような感じしかしなくても、食事をとることができたんです。ちゃんと、食べることができました。でも、今は食べてももどしてしまう。食事のにおいをかぐだけでもイヤになってしまう。」「自分の体が刻一刻と変わっていくことが分かるんです。昨日の自分と今日の自分が違うなんてものじゃない。一時間前の自分といまの自分がすでに違うんです。」そして、吉永さんは目に涙を浮かべて、こうおっしゃったのです。「孫がくるとね、一か月後にはもう会えないんだと思ってしまうのです。もう、やり切れないですよ。」
しかし、高木さんとの対話が続いていく中で、がんの告知を受けてから一か月半が経った頃から、吉永さんは少しずつ、ご自分の死を受け入れることができるようになったのでした。そして、高木シスターの「また、向こうで会いましょうね」という語りかけに、「死んでもまた家族に会えるんですね」とホッとした表情を浮かべて、亡くなって行かれたと言うのです。
吉永さんと関わられたエピソードの中で、高木さんは次のような大変深い言葉を語っておられます。少し長いですがお聞きください。
「人は自分の死を突きつけられた時、そうそう簡単にはそれを受け入れることはできません。『人は死んだら無になる』とおっしゃる方は多いですよね。しかし、実際に死を突きつけられると、人間そんなことは言っていられないのです。自分が『無』になってしまう。そう思ったら、とてつもない虚無感と絶望感にさいなまれるはずです。無になるということの恐ろしさを、ありありと感じてしまうのです。なぜなら無になってしまうと、愛する家族と再会できなくなるわけですから。でも、亡くなる前に自分の人生を認め受け入れ、肯定できた方は、『また、向こうで会いましょうね』という言葉を口にすることができるようになられます。
それは、簡単なことではありません。……無になってしまうことの恐ろしさを感じて初めて、「そうじゃない、そうあってはならないと思うようになるのです。」「無になってしまうと考えたら、家族に会うことはできません。そこには希望がありません。でも、死んだ後でも会えると思えば、希望がわいてきます。家族に対して『向こうで待っているよ』と言えたら、それはご本人にとっても、遺される家族にとっても救いになるのです。」やがて死と直面しなければならない私たちとって、これは本当に深い切実な言葉ではないでしょうか。
今日の聖書の5節で、パウロは次のように言っています。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは神です。神はその保証として“霊”を与えてくださったのです。」私たちは信仰によって、見えないものに目を注いでいます。そのきわめて大切な一つが、「天にある永遠の住みか」を与えられるという約束なのです。信仰によって霊、聖霊を与えられた私たちは、見えないものに目を注ぎつつ、やがてその約束が実現することを確かに待ち望むことができるのです。ここの「保証」は「手付金」とも訳されます。完全な救いと新しい「霊的『体』」を与えられることは、確かにまだ起こっていません。しかし、本当の支払いは残っているとしても、手付金は最後の支払いを保証するものなのです。神さまがイエス・キリストにあって、そのことを保証してくださっているのです。心安んじて、イエス・キリストに委ねて歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたします。
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
【祈り】生と死を統べ治めたもう主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日の主日礼拝を、先に召された兄弟姉妹を覚える礼拝として守ることができ、感謝いたします。神さま、あなたは信じる者たちに聖霊をお与えくださり、見えないものを見させてくださっています。神さまが備えてくださっている「天にある永遠の住みか」がその一つです。地上にあっては重荷を負ってうめいている私たちではありますが、この「天にある永遠の住みか」を仰ぎ望みつつ、希望をもって歩ませてください。大切なご家族やご親族を天に送られた方々が、今日の礼拝を守っております。どうぞ、そのお一人お一人の上に、主の慈しみと平安を豊かに注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。
マルコによる福音書3章20~30節 2023年10月29日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日の箇所には、マタイ福音書、ルカ福音書に同じような内容を記した並行記事があります。その一つのルカによる福音書11章14節以下で、「主イエスは口を利けなくする悪霊を追い出し、口の利けない人がものを言い始めた」とあります。そうした状況を受けて、主イエスは律法学者たちと「ベルゼブル論争」をなさったのです。主イエスと身内の人たちとのやりとりについては、次回マルコによる福音書を学ぶときに扱いたいと思います。
今日登場している律法学者たちは、わざわざ「エルサレムから下って来た」のでした。律法学者というのは、ユダヤの宗教生活を規定していた律法の専門家です。その専門家たちが、近頃目覚ましい働きで評判になっている主イエスの正体を見極めようとやって来たのでしょう。専門家には専門家としての誇りと自負があります。そこで主イエスのことを見聞きして、彼らは一つの結論を出しました。それは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、あるいは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったのです。
「ベルゼブル」というのは、本来古くからあるシリアの神の名前であり、おそらく「神殿の主」という意味であったと言われています。この神の名は王国時代に言葉をもじって「バアル・ゼブブ」(蠅の王)と軽蔑的に呼ばれるようになりました。そして、その後次第に、この異教の神の名が悪魔を示すものとなっていったと言うのです。異教の神の名というのは、往々にしてこのような末路をたどってしまうのでしょう。いずれにしてもエルサレムの権威を帯びた律法学者たちは、主イエスの悪霊追放の業が神の聖霊ではなくて、悪霊の頭の力によってなされていると断定したのです。より力の強い悪霊が、それより弱い悪霊を追い出したと、彼らは考えたのです。
それに対して主イエスは、どのように応じられたでしょう。23節に「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた」とあります。たとえは、ある事柄を理解するとき、それを理解しやすいように語って聞かせるものです。主イエスはけんか腰で反論されたのではありませんでした。律法学者たちが十分理解して納得できるように、たとえを用いられたのでした。それは相手が民衆であっても、律法学者のような専門家であっても変わらなかったのです。
主イエスは言われました。23節後半以下です。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」国であろうと、家であろうと、サタンであろうと、内部で争ったり、分裂したりすれば、立ち行かない。滅んでしまう。そんな墓穴を掘るようなことを、狡猾なサタンがするはずがない。主イエスはこのたとえによって、悪霊を追放したのが同じ悪霊ではないことを分からせようとしたのです。
確かに国も、家も内輪もめして争えば、分裂し崩壊してしまいます。イスラエル王国は、ソロモン王の後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます。すると紀元前8世紀には北イスラエル王国がアッシリア帝国に、紀元前6世紀には南ユダ王国が新バビロニア帝国に滅ぼされます。確かに王国は、分裂すると立ち行くことはできないのです。今日の私たちの世界も、分裂や分断が進んでおり、このままでは機能不全に陥ってしまうのではないかと恐れます。しかし人間ではない狡猾なサタンは、墓穴を掘るようなことをするはずはありません。ますます結束を固くして、私たちの世界を神様の御心に反した方向へと連れて行こうとしているのです。
主イエスが語られたもう一つのたとえは、家に押し入る強盗のたとえでした。27節です。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」主イエスがこのようなたとえを語られたのは、ある人から悪霊を追い出すというのは、その人を支配していた悪霊に代わって、神からの聖霊が支配するようになることだからでしょう。
ある家に押し入り、その家を略奪する場合、最初にすることは、その家を守っている最も「強い人」を捕まえて、縛り上げることです。最も強い人をやっつければ、他の人たちは抵抗する気力が無くなり、略奪は一気に進みます。それによって、略奪する者はその家を自分のものにすることができるのです。
悪霊に支配された人から悪霊を追い出し、その人を奪還する場合も同じです。悪霊の頭とも言うべき「強い人」を捕まえ、縛り上げなければ、どれだけいるか分からない悪霊を屈服させ、追い出すことはできません。悪霊の頭は、主イエスにとって縛り上げるべき敵であって、力を借りるような存在ではありません。悪霊に支配されていた人から悪霊が追放されたのです。口が利けなくする霊に取りつかれていた人が、口が利けるようになったのです。それは主イエスが、まず悪霊の頭を縛り上げられたということです。主イエスは悪霊の頭を凌駕するさらに「強い人」であったということです。そのように語ることによって、主イエスは律法学者たちの思い違いを正そうとされたのです。
主イエスは神が遣わされた神の御子です。主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と宣言されました。神は主イエスにおいて、主イエスを通して働かれます。主イエスが悪霊を追い出す霊は、神の聖霊に他なりません。したがって人は、その聖霊を汚れた悪霊と混同してはいけません。御子イエスによってなされている神の救いの行為を、破壊的なサタンの行為と取り違えてはなりません。主イエスは「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)と言われました。主イエスは、どんな人に対しても神の国・神のご支配が始まっていることを、喜ばしく語り告げられるのです。
さて主イエスは、20節を「はっきり言っておく」という言葉で語り始めます。「アーメン レゴー ヒューミン」、「まことにわたしはあなたがたに言う」というのが直訳です。このフレーズは、主イエスがきわめて大切なことを語られるときに、使われるフレーズです。28~30節で主イエスが語られる言葉は、それほど大切な言葉なのです。それを信じるか否かで、救われるか滅びるかが決まってしまうような、分水嶺になるような言葉なのです。読んでみましょう。「『人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。』イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである。」
後半の29節以下で言われているのは、聖霊を冒瀆する者への警告です。聖霊を冒瀆するというのは、30節にあるように「彼(つまり主イエス)が汚れた霊に取りつかれている」と言うことです。主イエスがなさっておられる悪霊追放などの力ある業は、聖霊ではなく悪霊によってなされている」と言うことです。これは先ほど見ましたように、エルサレムの権威を帯びた律法学者たちが考え、言っていたことでした。主イエスの力ある業が神からの聖霊によってなされていることを、彼らは認めませんでした。「人々が言っていたからである」の「言っていた」という未完了形の言葉は、繰り返し、継続してなされていたことを示しています。彼らは心を頑なにして、主イエスの力ある業が聖霊によることを断じて認めようとしませんでした。神の御子である主イエスに心を閉ざし、決して開こうとしませんでした。そのような「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と警告されているのです。
ただし、ここでの「永遠に」は原語では、「この世に」という言葉です。慣用的に「永遠に」と訳されることが多いのですが、「その時代を通して」と訳すことも可能です。そうではありますが、主イエスによる力ある業を、聖霊による御業と認めないことは、決して許されない罪なのです。主イエスによって神の国・神のご支配が始まっていることを頑なに認めないことは、決して赦されない罪なのです。というよりも、唯一それだけが赦されない罪なのです。
「まことにわたしはあなたがたに言う」という言葉で始まる主イエスの言葉は、それだけではないのです。29節の警告の言葉に心を奪われて、よい知らせを不明確にしてはなりません。主イエスは一番大切な大前提として、このように語っておられるのです。28節です。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。」29~30節で言われていることは、唯一の例外規定のようなものです。主イエスが語られた御言葉の本体は、まさにこの28節にあるのです。人の子つまり私たちが犯す罪やどんな冒瀆の言葉もすべて赦されているということ。それらはすべて、主イエスの十字架の贖いによってすべて赦されているということなのです。
私たち人間は、時として疑ったり、迷ったりすることがあります。神さまに激しく反発して、神さまに背を向けてしまうことがあります。神さまの御心が分からなくなってしまい、神さまを疑ってしまうことがあります。しかし、そのような疑い、迷い、挫折がどのように大きなものであり、どのように遠く神さまから離れてしまっても、神さまはそれを赦してくださるのです。なぜなら、そのような罪を重ねる私たちを神さまと和解させ、救いに至らせるために御子イエスは来られたからです。
また、私たちは人の窺い知れないような罪を、心に抱えているかも知れません。私たちはその心に抱えている罪を、「赦されない罪」だと感じているかも知れません。自分には神さまに打ち明けることも叶わないような、赦されざる罪があると思っているのです。しかし、そうではありません。私たちは神さまの御前で、どんな罪も過ちもすべて赦されています。なぜなら、そのような罪を私たちに代わって贖うために、イエス・キリストは十字架に架かられたからです。神さまの目からご覧になる時、私たちの犯すどんな罪も赦されているのです。私たちは神さまの御前で、臆することなく顔を上げることができるのです。
しかし、赦されざるただ一つの罪があります。それは御子イエス・キリストを通して働かれる聖霊の御業を信じないことです。ある人はこう言いました。「聖霊の働きを信ぜず、赦しに反抗する者だけが、赦しから除外されるのである。」主イエスの到来によって、喜ばしい神のご支配が始まっているのです。罪に支配されていた私たちを、イエス・キリストはその支配から奪い返して下さり、神様の恵みのご支配へと移してくださったのです。その決定的な恵みの御業を、私たちは心を大きく開いて受け入れましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。神さま、あなたは御子イエスにおいて御業をなさいます。そこには神の聖霊が働いています。聖霊の働きは、主イエスこそ救い主であることを私たちに分からせ、罪の赦しを私たちに得させることです。どうぞ、そのような聖霊の働きを、心を大きく開いて受け取ることができるようにしてください。ハマスとイスラエル、ウクライナとロシアの間で戦闘が続けられています。被害が拡大しています。どうか神様、これらの地に平和をもたらしてください。ひと言の切なるお祈りを、御子イエスの御名によってお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ルツ記1章1-18節
説 教 「あなたの神はわたしの神」 𠮷田三枝子
午前10時30分 (召天者を覚える日) 司式 藤田浩喜牧師
(聖餐式を執行します)
聖 書
(旧約) 申命記7章6-8節
(新約) コリントの信徒への手紙二 5章1-10節
説 教 「天にある永遠の住みか」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書14章13-21節
説 教 「五千人の給食」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 (神学校日) 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) イザヤ書49章14-18節
(新約) マルコによる福音書3章20-30節
説 教 「誰がキリストを知るのか」 藤田浩喜牧師
マタイによる福音書22章15〜22節 2023年10月22日(日)主日礼拝説教
長老 山﨑和子
主イエスのところにファリサイ派とヘロデ派の人たちが一緒にやってきて、自分たちが皇帝に税金を払うのは律法にかなっているのか、いないのかと問いかけます。15節からの記述をもう一度読んでみます。「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そしてその弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた」とあります。この時、遣わした人々というのは議会の主だった人たちだったかもしれません。元々ファリサイ派とヘロデ派は互いに相容れない思想を持っていた人たちの集まりですからこの二つの派閥が「一つにまとまる」などということは有り得ない状況だったのです。でも、主イエスの評判が日に日に高くなっていったことを危険な兆候と思った議会は、何とかここで主イエスを徹底的に貶めなくてはならないと思ったのでしょう。それは16節からの、わざとらしい持って回った慇懃無礼な口上に如実に表れています。彼らは、このように尋ねればイエスが「おさめなくても良い」と答えるのではないかと想定していたのかもしれません。そうすればローマにすり寄っていたヘロデ派の人は怒ってその場でイエスをローマの総督に引き渡そうとするかもしれないし、仮に「おさめるべき」とイエスが答えたとしたら、今度はローマに反感を持っているファリサイ派が怒って、イエスはローマにへつらう裏切り者だと宣伝するようになるでしょう。どちらであっても、この日限りでイエスの人気は地に堕ちるでしょうし、どちらか一方の答え方しか有り得ないと、彼らは得意満面でやってきたに違いないのです。
けれども、勢い込んで税に対する詰問を付き付けた人々に対する主イエスの対応は、全く予想を裏切るものでありました。主イエスはその場でデナリオン銀貨を提出させて「これは、誰の肖像と銘か」と問われます。まことに周囲の意表を突く問いかけでありました。ここで問題にされている「税」とは、ユダヤ人がローマに支払いを義務づけられている人頭税のことです。人頭税は、ローマのデナリオン銀貨で支払うことが義務づけられていましたから、その銀貨にローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていることは誰でもがよくよく知っていることであって、わざわざこんな質問をされるイエスの意図が分からなかったのでしょう。「皇帝のものです」という答えの蔭には(それがどうした?)と言いたい気持ちがありありと見えるような気がします。が、主イエスはならば皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい、とはっきり皆の前で宣言されるのです。
この聖書の箇所はマタイによる福音書だけでなく、3つの共感福音書のすべてに記されている記事でもあり、よく知られている話です。私も子どもの頃からこの話は日曜学校で聞いていましたが、子どもの時にはイエス様の答えがどういうことなのか、分かりませんでした。つまりイエス様は税金を治めることがいいことだと言われたのか、それとも悪いことだ言われたのか、この答えではわからないし、その意味で問いの答えになっていないじゃないの、と思ったのです。だから長年この税金の記述は喉に小骨がささったような違和感を持ち続けてきたような気もするのです。
主イエスは「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われます。税金を納めるべきことに何の反発も示してはおられないのです。今日の箇所の少し前、17章の24節以下に神殿税に関する主イエスの見解が示されています。人々がペトロに「あなたがたの先生は神殿税を納めないのか?」と聞いた時にペトロは「納めます」と答えているし、その時に主が魚の口から銀貨を取り出してペトロと二人分の税を払うようにと指示されたと記されています。人がその所属社会の中で決められた規範に従って生きることを主イエスは決して否定されません。ここで私たちは、先ほど読んで頂いたサムエル記の記事のことを思い出します。旧約の時代、イスラエルの人々は、周りの国々と領土の獲得をめぐって絶えず争いに巻き込まれていましたが、自分たちも周りの国々のように王を持ちたいとサムエルに願い出たのです。この時サムエルは、人の手によって国が治められることに反対します。イスラエルは神が選んだ民族であり、これまでずっと神によって守られてきた民族でもあります。なぜ今になって唯一の神を信頼して御手に委ねることを拒むのかと問うのですが、人々は聞く耳を持ちません。そうして最終的に神ご自身が人の選択をお赦しになって、その判断を任せられるのです。これ以後イスラエルは王国としての歩みを始めることになるのですが、その歩みがどんなふうに滅亡へと進んでいったかは歴史が証明しています。間違いはいつも一方的に人の側にあるのです。神様は、人にご自分の気持ちを強制するのでなく、自由な選択に任せようとされるかたであります。主イエスご自身がそうあるべきと思って居られるのでなくても人が決めた決まりであるならそのようにすればいい、という程のお気持ちであっただろうと思われます。ならばもう一つの「神のものは神に返しなさい」のほうはどう考えればいいでしょうか?
創世記1章27節には、神は人を神にかたどって創造された、とはっきり記されています。私たち人間は誰でも初めから神にかたどって、即ち神の肖像と銘が刻まれたものとして創られているのです。そのことを忘れた時に人は神を退けて、自分自身を神のように扱い始めます。
私たちすべての人間には神の像が刻まれています。言い換えれば私たち自身が神の貨幣であります。神は、私たちをそのご計画の遂行のために貨幣のように用いられます。私たちのすべては神様のご用に用いられるために造られているのです。貧しい者はその貧しさによって、病気の人はその病気を以って現に今、主に用いられるのだと思います。何の役にも立たない、不必要な人間は一人も居ないのです。何と素晴らしいことではありませんか。
ファリサイ派とヘロデ派の人たちは、税金を払うことは良いことか、悪いことかという二者択一の問題でしか物を考えることが出来ませんでした。同様に「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」と言われた主イエスの言葉を私たちは、どれが皇帝のものでどれが神のものなのか、やっぱり二者択一の問題として捕らえてはいないでしょうか?
皇帝のものも神のものであります。私たちは神が良しとされた世界に生き、あらゆるものを神から賜っている中で、なおそれを自らの意志で使い道を考える自由を与えられています。私たちは、自分の判断で自由に使い道を考えていいような錯覚を起していますが、すべては神のものであることを思って、何をどのように使うにせよそれは神にお返しすべきものであることを忘れてはならないと思うのです。神の貨幣である私たちは、神様のご用のために用いられることだけを願って自身をささげ尽くすしか生きる意味を持っていない筈なのです。にも拘わらず私たちのうち誰一人として自分自身をまるごと主のものとして捧げつくす生き方など出来ないのです。例えばあなたの持ち物を全て売り払って貧しい人たちにささげなさいと言われたら、又あなたの一人息子を焼き尽くす生贄としてわたしにささげなさいと言われたら、わたしたちは喜んで従うことが出来るでしょうか?多分できないでしょう。今持っている財産も、与えられた家族も、みんな神様が下さったものだと頭ではわかっているはずなのに、いざとなったら「お願いです。これだけは私から取り上げないでください」と泣きながら懇願するしか無いのが私たちの姿であります。けれども、そんな欲深いわたしたちを深く憐れんで、父なる神様に執り成し続けてくださっているかたがおられます。主イエス・キリストです。
主は私たち一人一人を極限まで愛し給い、慈しみをこめて何度でも何十、何百回でも許してくださって、父なる神のみ元へといざなって下さっているのです。そのことを深く覚えて、こんにち只今よりおぼつかない足取りながらも主イエスが辿られた道筋を追うものとして一日一日を生かされていきたいと心から願っています。
祈り
父なる神様、私たち一人一人はあなたの貨幣であって、ただ御心のままに用いられる以外に生きる意味を持っていないものであることを教えられました。私たちはいつになっても自分のしたいことしか出来ない愚かで罪深いものであります。どうか犯してきた数々の過ちを許して、これから先の日々もあなたに従っていくものとして一人一人を導いてください。この拙いひとことの祈りを尊き主イエス・キリスのの御名によっておささげ致します。
アーメン
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書13章24-30節
説 教 「毒麦のたとえ」 高橋加代子
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約) サムエル記上8章1-22節
(新約) マタイによる福音書22章15-22節
説 教 「皇帝への税金」 山﨑和子長老