イエスとは何者か

マルコによる福音書8章27~30節 2024年9月15日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 マルコによる福音書をご一緒に読み進めていますが、今朝与えられております御言葉は、分量的にも内容的にも、マルコによる福音書の真ん中に当たります。今朝与えられております御言葉において、ペトロが遂に主イエスに対して「あなたは、メシアです」、救い主、キリストですと告白いたします。この告白以後、主イエスは御自身が十字架に架けられて死ぬこと、三日目に復活することを、弟子たちにはっきりと語り始められます。そして主イエスは、御自身が十字架に架けられるためにエルサレムへと歩みを進めていくことになるのです。主イエスは、これまでも様々な奇跡をなし、教えを語ってこられましたが、それらはすべて、御自身が誰であるかということを示すためであり、御自身を遣わされた神様の御心が何であるかを示すためでした。そして遂に、十分なあり方ではないにせよ、弟子たちが主イエスをメシアであると告白するに至りました。ここに至って、主イエスが御自身の本当の目的、なさねばならないことを明らかにすることのできる備えができたのです。

 さて、ペトロが主イエスをメシアであると告白する前に、主イエスは弟子たちにこう言われました。27節「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」この問いに対しては、弟子たちは比較的気楽に答えることができたと思います。「『洗礼者ヨハネだ』と言っている人もいます、『エリヤだ』と言っている人もいます、『預言者の一人だ』と言っている人もいます。」多分、これが当時の、主イエスに対する人々の正直な思いだったのでしょう。

 この三通りの答え方には、それぞれ背景があります。洗礼者ヨハネというのは、主イエスに洗礼を授けた人です。人々から大変な支持を受けておりましたが、ヘロデ王によって殺されてしまいました。人々の中には、主イエスを、このヨハネが生き返ったのだと思う人がいたと言うのです。それほどまでに、人々は洗礼者ヨハネを本当の預言者と思い、彼に対して期待する所が大きかったということなのでしょう。そしてそこには、ヨハネこそ救い主・メシアではないかと期待していた人々の思いもあったのではないかと思います。

 また、「エリヤだ」と言う人々もいました。このエリヤというのは、旧約聖書の列王記に出て来る人です。主イエスより800年も前の、旧約聖書における代表的な預言者であり、数々の奇跡をなした力ある預言者でした。主イエスをあのエリヤの再来だと言うのです。それは、救い主、メシアが来る時には、その前にエリヤが再び来るという預言がマラキ書などにあり、主イエスをエリヤだと言う人々は、その救い主・メシアが到来する事への期待があったということでしょう。

 そして、「預言者の一人」と言う人もいました。マラキという預言者が出て以来久しく、何百年もユダヤには預言者は現れていませんでした。しかし、洗礼者ヨハネといい、主イエスといい、本当の預言者が次々と現れている。次は本当に救い主、メシアが来るのではないか。そのような期待が人々の中にあったということなのだと思います。

 つまり、主イエスが生きた時代、イスラエルの人々の間には、救い主が現れるのではないかという期待があったということなのです。そしてその期待感が、主イエスに対する人々の思いの中に、現れていると見てよいではないかと思います。

 主イエスは次に、弟子たちにこうお尋ねになりました。29節「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」これは大変厳しい問いです。「人々は何と言っているか」という問いならば、自分のことではありませんので、気楽に答えることができたでしょう。しかし、「あなたは」と問われると、話は別です。この問いに対して、弟子たちは一瞬、沈黙したのではないかと思います。そして、その沈黙を破るようにして、一番弟子のペトロが「あなたは、メシアです」と答えたのです。

この答えは、それまでの、洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だという答えとは、全く質が違う答えなのです。洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だというのは、平たく言えば、「神様に遣わされた凄い人だ」ということです。しかし、ペトロが口にした「メシアです」というのは、凄い人だということではないのです。そうではなくて、旧約において預言されてきた救い主、この方によって歴史が変わり新しい時代に入っていく、この方によって神様の救いの業が完成する、この方によって神様の御心が完全に現される、もっとはっきり言えば、天地を造られた神様そのもの、私たちが拝むべきお方ということなのです。聖書は、天地の造り主である神様しか拝むことをしません。ですから、どんなに凄い人、偉い人であっても、それが人であるならば、拝むことはしません。しかし、メシアは全く別なのです。

 このメシアという言葉、これは直訳すれば、油注がれた者という意味のヘブル語です。この油注がれた者という意味のギリシャ語がキリストです。ですから、メシアもキリストも全く同じ意味です。旧約において、油を注がれて神様の御用に立てられる大切な職責が三つあります。預言者、祭司、王です。メシア、キリストは、まことの預言者、まことの祭司、まことの王として来られる。そういう方として旧約以来イスラエルの民が待望していた方だったのです。この方によって神様の御心は完全に明らかにされ、この方によって完全な救いが実現され、この方によって神様の御支配が完全に行われる。それがメシア、キリストなのです。それは、凄い人、偉い人というのとは全く次元が違います。この方によって天地創造以来の神様の救いの御計画が完成されるのです。

 マタイによる福音書16章13節以下にはここと同じ記事が記されておりますが、そこではペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えています。「メシア」を「生ける神の子」と言い換えています。これは、ペトロがメシアの意味を解釈しているわけです。ただの偉い人なんかじゃない、天地を造られた神様の独り子だと告白しているわけです。そして、それに対して主イエスは、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われました。主イエスのことを何か凄い人だ、偉い人だと思う、そのような方として受け入れる。それは難しいことではありません。主イエスの言葉を一つでも聞き、奇跡の一つでも見れば、そのくらいのことは誰でも思います。社会の教科書にだって、主イエスはソクラテスやお釈迦様や孔子と並んで聖人に数えられています。偉い人とは、そういうことでしょう。

 しかし、ペトロがここで告白したのは、そういうことではないのです。あなたはキリスト、神の子、救い主、私が拝むべきお方、私の主人。そう告白したのです。それは、主イエスを信じた、主イエスを信じる信仰がここに生まれたということなのです。ですから主イエスは、マタイによる福音書によれば「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われたのです。天の父なる神さまによって示されなければ、主イエスがキリストであるということは、誰も告白することはできないからなのです。信仰は与えられるものです。神さまが与えてくださるものです。そうでなければ、主イエスを神の子、救い主、キリストと信じることはできないからです。

 主イエスを救い主、キリストと告白するということは、単なる言葉の問題ではありません。その人がその信仰によってどう生きるかということです。この「信仰によって生きる」ということが抜けてしまえば、信仰にはなりません。当たり前のことです。もちろん、私たちの信仰はどこまでも不完全であり、私たちはどこまでも不信仰でありましょう。しかし、不完全なりに、不信仰なりに、何とか「イエスはキリストです」、「イエスは私の主です。」この信仰に生きたいと思う。そしてそのために、天の父なる神様の支えと導きを願い祈る。それが私たちの歩みなのでしょう。

 私たちが、「イエスはキリストです」と告白するということは、「イエスは主なり」と告白することと結びついています。この二つの告白は分けることができません。主イエスはキリストですが私の主ではありませんとか、主イエスは私の主ですがキリストではありません。そんな信仰はないでしょう。私たちの信仰は、「イエス様あなたはキリストです。そして、私の人生の主人は私ではなく、イエス様あなたです。」そう告白し、生きることです。この二つの信仰告白は分けることはできません。だから私たちは、「主、イエス・キリスト」と言うのです。「私の主人であるイエス様、あなたはキリストです。」そう告白し、その信仰に生きるのです。

 キリスト教会が生まれたのは、ローマ帝国の時代でした。ローマの文化は、ギリシャ神話と同じ神話を基礎にしていますから、元々多神教であり、自然宗教です。これは日本も同じです。多神教の文化の中では、人間が平気で神様になり、拝まれるということが起きます。ローマ帝国の時代、ローマ皇帝もまた拝まれました。主イエス・キリストは、ギリシャ語ではキュリオス・イエスース・クリストスと言うのですが、この主という言葉、キュリオスという言葉は、ローマ皇帝に対しても用いられていたのです。

しかしキリスト者たちは、キュリオス・イエスース・クリストスと言うことによって、私の主、私のキュリオスは、救い主キリストである主イエスであってローマ皇帝ではない、ということを言い表すことになってしまったのです。もちろん、ローマ皇帝に忠誠を誓わないとか、反逆するということではありません。しかし、私の主は主イエスなのです。主イエスを差し置いて、この世におけるどんな権力ある者に対しても、「あなたが私の主」とは言えなかったのです。これは当然、キリスト者たちを厳しい状況へと追い込みました。それでも、キリスト者たちは、自分の主人は主イエスです、主イエスは生ける神の子キリストなのですから、そう告白し、生きたのです。私たちの主は、ただキリストである主イエスだけなのです。この告白の意味することを、いつも心に刻みつけながら、新しい一週間を歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】私たちの主であるイエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。神さま、私たちはあなたの遣わされた御子を、主イエス・キリストと呼び、崇めています。私たちに救いを与え、私たちが主とするお方はこの方しかおりません。どうか、私たちがこのお方を世に向かって力強く告白すると共に、このお方に依り頼んで生きることができますよう、私たちを導いていてください。今日の礼拝後私たちの教会の信仰の先輩方を覚えて、お祝いの愛餐会を行います。どうか、信仰の先輩方があなたの御護りとお支えの中で日々歩むことができますよう、導いていてください。この拙き切なるひと言のお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

命を惜しみ給う神の愛

ヨナ書4章5~11節 2024年9月8日(日) 主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

 8回にわたって学んでまいりましたヨナ書も、最終場面に至りました。ヨブ記などがいわゆるハッピーエンドという形でその物語を閉じているのに対して、ヨナ書は、最後に神の言葉が語られることによって閉じられています。そのために一つの物語が終わったというよりも、そこから何か新しいものが始まるような雰囲気が、この終わりの部分に漂っている感じさえします。別の言葉で言えば、私たちのこれからの生き方に新しい課題が差し出されて、ヨナ書が閉じられているということです。

 さて最後の部分、神の言葉で締めくくられているこの部分を学ぶに当たって、ヨナの状況をもう一度確認しておきましょう。彼は、悔い改めて滅びから免れたニネベの都がこのままで終わることはあるまいと考えて、あるいはそのことに期待して、都の東の方に仮小屋を建てて、都の成り行きを見届けようとします。神はそのようなヨナのために、とうごまの木という一つの植物を生えさせ、木陰を作り、ヨナが暑さをしのぐことができるようにしてくださいました。ヨナはそのとうごまの木を非常に喜びました。

 ところが神は、ご自分で備えられたとうごまの木を、これもまたご自分で用意された一匹の虫によって食い荒らさせて、一夜にして枯らしてしまわれました。そのため灼熱の太陽の日射しがヨナの上に降りそそぎ、また東からの熱風もヨナに吹きつけて、ヨナは激しい苦しみと暑さの中で死を求めて叫んでいます。8節です。「生きているよりも、死ぬ方がましです」。

そのように死を願うヨナに神が語りかけられている言葉が、10節、11節に記されています。ヨナに語りかけられている最初の言葉は、「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる」というものでした。ここに「お前は」という呼びかけがなされています。その「お前は」というのは、11節に出てきます「それならば、どうしてわたしが…」という時の「わたし」との対比の中で用いられていることに、気づかされます。お前ヨナと、わたし神とが、対比的に描かれています。

ヨナが死ぬほどに悔しい思いをしている枯れてしまったとうごまの木は、ヨナが自分で植えて、丹精込めて、苦労をしながら育てたものではありませんでした。ヨナの知らない間に神が一夜にして生えさせて、ヨナの暑さを防いでくださったものでした。このとうごまの木に、ヨナの愛情が注がれてきたわけではありません。ヨナにとってはいわば自然現象の一つに過ぎないようなものでした。

しかしそれは、ヨナにとって都合のよいものであったことは事実です。思いがけない現象として生じてきたとうごまの木を、ヨナは単純に喜びました。そしてそれが枯れ果てて、暑さが襲って来た時、枯れたとうごまの木を残念に思い、暑さの苦しみの中で、彼は自ら死ぬことを願いました。神はそのようなヨナに対して、「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」と鋭い調子で問いかけておられます。神は、自分の死をさえ願うヨナの怒りが、過ちであることを自覚させようとしておられます。それと同時に、一本の木が死ぬことを惜しむヨナの心に目を向けられます。あなたはとうごまの木の死を悲しんでいる、その心を手がかりにして、もっと大切なことを考えてみなさい。神はそのようにして今、ヨナに教えようとしておられます。

とうごまの木が生えたことと枯れたこととは、神の教育的な目的がそこには込められていました。神は、身のまわりの出来事から霊的な事柄へと、ヨナを高めようとしておられます。そしてそれが、11節最後の言葉によって明らかにされます。「それならば、どうしてわたしがこの大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。神はそのように語っておられます。

ここでまず注目すべきことは、先ほども述べましたように、「それならば、どうしてわたしが…」と言われるこの「わたし」という言葉です。神がご自身について、強い調子で語っておられます。ヨナに対して、「お前は一本の木の死をさえ惜しんでいる」と語られ、「そうであるならば、ましてや、すべてのものの造り主であり、あなたがたの神であるこのわたしが、人の命を惜しまないでおられようか」と、これも強い調子で神はヨナに語りかけておられます。ヨナが、自分自身の都合・不都合、利益・不利益ということから目を離して、神の真実なお姿に目を向けることを、今求めておられます。

「惜しむ」という言葉が二度用いられていますが、これは憐れむとか、心ひかれるとか、いとおしく思うという意味を持っています。ヨナのとうごまの木の死を惜しむ心を、神は大切にしながら、そこに着目しながら、それ以上に神がニネベの都の人々の命を惜しむ心を、あなたは理解しなければならない。ヨナは神の御心に、畏れと感動とを持って触れることが求められているのです。

神は大いなる都ニネベについて、次のように語っておられます。「そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいる」。右も左もわきまえないというのは、物事の道理が分からない子どもに関して用いられることが多い表現です。ここでは子どものことだけではなくて、神の律法を知らない異邦の人々、あるいはもっと言うならば、真の神も真の救いもまだ知らされていない異教の国の人々という意味で、この言葉が用いられていると考えてもよいでしょう。そのような人々は、神の愛の対象外にあるのではなくて、彼らこそ神の愛が向けられるべき人々なのだというのが、ここでの神の教えです。しかもそれらの人々が、12万人以上もいると言われています。また人間だけではなくて、無数の家畜たちのことにも言及されているのです。

右も左もわきまえない12万人の人々。けれどもそうであっても、神の御言葉が語りかけられるならば、神のもとに戻ってくることができた人々でした。物言わぬ家畜であっても、これもまた、造り主なる神の御手によって造り出されたものです。これらの人々も家畜も、神の愛の対象なのです。それらが罪のゆえに滅んでいくことを、わたしは惜しまないでおられようかと、神はヨナに語りかけておられます。あなたが一本のとうごまの木を惜しんでいる以上に、わたしはそれと比べようもなく12万人以上のニネベの都の人々の滅びを惜しむのだ。無数の家畜たちが滅んでいくのを見過ごせないのだと、神の声が力強くヨナに語りかけられています。愛に急き立てられた神の御声が響いてくるように思います。

マタイによる福音書20章1節以下において、イエス・キリストは、よく知られているぶどう園の労働者の譬え話を語っておられます。朝早くから夕方まで、主人が町に出て労働者を雇ってくる話です。その中で、朝早くから働いた者にも、夕方わずか1時間しか働かなかった者にも、ぶどう園の主人は、夕方仕事が終わった時に、同じ賃金を払いました。その時、朝早くから働いた者が主人に不平をもらす場面があります。主人はその不平をもらす者に、こう答えます。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。この主人によって表されている愛と慈しみの大きさは、神の愛と慈しみの広がりを示すものです。神の愛はすべての人に及ぶ、先に選ばれた者だけではなくて、すべての者に及ぶのです。そのことを知ることは、それを知った者自身の救いと希望につながっていきます。ヨナは、この神の愛の広がりの中で、自分自身を正しく位置づけることが求められているのです。

そのことを知る時に、この認識は新しい世界の扉を開くものとなります。このヨナへの促しは、私たち一人一人にも実は向けられています。そのことを私たちは、二つのことを通して考えておきたいと思います。

その一つは、わたしたち自身の内にあるヨナ的なものを取り除けと、促がされているということです。救いに値する者とそうでない者とを私たちは簡単に選り分けてはいないか。交わりに値する者とそうでない者との仕分けを私たちはいつの間にかやってはいないか、そういう自己吟味が促されています。また、教会や信仰者が現在の状況で満足し切っていないかどうかも、問われています。主イエス・キリストは、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と、ヨハネによる福音書で語っておられます。その御言葉に従った業を、教会や信仰者は今なそうとしているのかどうか、このことが問われています。それと同時に、神の愛の広がりに仕えることへの新たなる召し出し・召命を、私たちは今ここで受けているのです。

そしてもう一つの考えておきたいことは、ニネベの都の右も左もわきまえない人々や無数の家畜を愛された神の愛は、今日生きるのに困難を覚えたり、望みや力を失っている一つ一つの魂に対しても、差し向けられているということです。神をすでに知っている者に対して、神は愛を注ぎ給います。それだけではなく、神をまだ知らない者にも神の愛は注がれます。神を知らない人々の命を惜しみ給う神は、懸命に生きようとしながらも、生きる喜びと意義を見出すことができないでいる人々の命をも惜しまれる、それをいとおしく思われるお方なのです。

分かりにくい社会です。生きにくいこの世です。誠実に生きようとする者が、必ずしも報われることのない社会です。しかし、そこに神は愛する独り子イエス・キリストを送ってくださいました。それはまさに、このような世界に生きる私たち一人一人への神の愛のしるし、そこに生きる私たちの命を惜しみ給う神の愛のしるしなのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

その神の愛にお応えする道は、私たちが今与えられている命を、イエス・キリストを与えてくださった神を見つめつつ、精一杯生き抜くことです。そのような私たちに、私たち一人一人の命を惜しみ給う神は、常に必要な助けと導きを与えてくださるでしょう。その神がい給う限り、私たちの人生は死ぬよりも生きる方がましなのです。そのような神がわたしの神としてい給う限り、私たちの人生は生きるに値するものなのです。ヨナ書を結んでいる神の最後の言葉は、今も力強く響いているのです。そのことを覚えましょう。お祈りをいたします。

【お祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を褒め称えます。今日も愛する兄弟姉妹と顔を合わせて、またネットを通して、共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。今日もヨナ書を通して御言葉を与えられました。あなたが願われるのは罪ある私たち人間が滅びることではありません。私たち人間が罪を悔い改めてあなたのもとに立ち帰ることです。あなたはまだあなたのことを知らない、囲いの外にいる人々の命をも惜しまれます。その命を救おうとされます。イエス・キリストを通して示されたその深い神の愛を、私たちの宣教の業を通して伝えさせてください。そのために私たち一人ひとりを用いてください。まだまだ残暑の厳しい日々が続きます。どうか兄弟姉妹の健康をお支えくださり、あなたの平安をもって導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。

主イエスが見えるようになる

マルコによる福音書8章22~26節 2024年9月1日主日礼拝説教 

                         牧師 藤田浩喜

 ガリラヤ湖畔の町ベトサイダで、主イエスが一人の盲人の目を開かれたという癒しの奇跡が、マルコによる福音書8章22節以下に語られています。この癒しの出来事は、7章31~37節の、耳が聞こえず舌の回らなかった人の癒しの出来事と対になっています。その箇所と本日の箇所との二つの癒しの御業には、共通していることがいくつかあります。先ず、どちらの御業も群衆の目の前でなされたのではなく、癒される人が外に連れ出されていることです。またどちらの癒しにおいても、主イエスが手を触れ、唾を用いておられること、癒しが一瞬で行なわれたのではなくて、ある時間がかかっていることも共通しています。それに、このどちらの話も、マルコ福音書のみが語っており、他の福音書には出てこないという共通点もあります。これらのことから、この二つの癒しの話が一対のものであることが分かるのです。これらの話によってマルコが語ろうとしていることは何でしょうか? それは、神様の救いの時には「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌う」、というイザヤ書35章5節以下の預言が、主イエスにおいて実現したということなのです。

 本日の箇所にはその中でも特に、「目の見えない人の目が開かれる」ということが語られています。その救いの御業はどのようにして行なわれたのでしょうか。主イエスは、ご自分のところに連れて来られた目の不自由な人を、その手を取って村の外に連れ出されました。人々の目の前で癒しをなさろうとはされなかったのです。このことは、主イエスが癒しの奇跡を、人々にご自分の力を示して信じさせるためになさってはおられないことを意味しています。目の見えない人の目を開くことができるというのは、神様の恵みをストレートに伝えることができる素晴しい力です。もし皆さんが信仰によってそういう力を得ることができたならばどうするでしょうか。私だったらそれで一儲けしようとするかもしれませんが、良心的な皆さんは、目の見えない人々を癒すことによって神様の恵みを伝えていこうと思うに違いありません。しかし主イエスはそうはなさらなかったのです。主イエスは確かにそういう力を持っておられましたが、それを用いて伝道しようとはなさらなかったのです。それは何故でしょうか。癒しの奇跡によって人を集めて伝道すれば、確かに人は集まるけれども、本当に伝えなければならない神の国の福音は伝わらないからです。

しかしもっと根本的な理由は、癒しの奇跡によって伝道するとしたら、それは病に苦しんでいる人、本日の箇所で言えば目の見えない人を、自分の目的のために利用することになってしまうからではないでしょうか。主イエスは、癒される人との出会いと交わりを大切にしようとしておられるのです。苦しみを抱えているその人と出会い、一対一の関係を結び、それによってその人が神様の救いの恵みを受けることを願っておられるのです。主イエスはそのために、この人を群衆の目のない村の外に連れ出されたのです。

 さて、彼と一対一になった主イエスは、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれました。あの耳が聞こえず舌の回らない人の癒しの時には、指を彼の両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられた、とありました。どちらにおいても主イエスは、その人の苦しみの原因となっている部分に、両手でしっかりと触れて下さったのです。その力強い御手によって癒しの御業が行なわれたのです。

彼に手を触れた主イエスは、「何か見えるか」とお尋ねになりました。これは単なる質問ではなくて、目の手術を受けてそれまで包帯を巻かれていた患者がいよいよ包帯を取られた時にお医者さんが、「あなたはもう見えるはずだから、目を開いていっしょうけんめい見てごらん」と促しているような言葉です。主イエスは彼を、そのように励ましておられるのです。「すると、盲人は見えるようになって」と24節にあります。この「見えるようになって」という言葉は直訳すれば「目を上げて」です。以前の口語訳聖書では「顔を上げて」となっていました。この盲人は主イエスの御言葉に励まされて目を上げたのです。すると、何かが見えてきたのです。彼は驚きつつ、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と言いました。

 この奇跡は、目の不自由な人にだけ関係する視力回復の出来事ではありません。私たち一人一人に起る救いの御業が、ここに描かれているのです。私たちも、本当に見るべきものを見ることができなくなっている者です。私たちも、目を上げることができなくなっているのです。私たちは、この世の現実をいつも見せつけられています。敵の大軍に包囲されて蟻の這い出る隙間もない、という現実をいつも見つめさせられているのです。そして肉の目に映る現実、圧倒的なこの世の力に取り囲まれている現実こそが、ただ一つの現実であると思ってしまうのです。そしてそこでうろたえ、本当には助けにならない色々なものを求めて右往左往してしまうのです。しかしそれは、私たちの目が閉ざされてしまっているからだ、と聖書は語っています。目を上げて見ることができないから、神様の恵み、守りが分からないのです。そういう意味で私たちは皆、目の見えない者です。先週読んだ8章18節において、主イエスは弟子たちに「目があっても見えないのか」と言っておられましたが、私たちも、たとえ肉体の目は開かれていても、信仰の目が閉ざされ、肝心なことを見ることができずにいるのです。

 私たちの、閉ざされている信仰の目は、何によって開かれるのでしょうか。私たちは自分で、この目を見えるようにすることはできません。この盲人がこれまで自分でいくら目を見開いても何も見えなかったのと同じです。また信仰というのは、本当は見えないものを見えたかのように、自分の心に暗示をかけて思い込むことではありません。神様の守りとか恵みは見えないしよく分からないけれども、それがあるということにして、そう思って生きていこう、その方が人生に支えができてよい…、信仰とはそういうものではありません。私たちが何かに支えを見出すこと、あるいは見出したと思い込んで生きることが信仰ではないのです。

そうではなくて、私たちは信仰によって目を開かれて、それまで見えなかった神様の恵み、守りを見ることができるようになるのです。しかも単なる気の持ちようや思い込みではなく、本当にそれが見えるようになるのです。そのことは、主イエス・キリストが私たちに出会って下さることによって起こります。主イエスが私たちに出会い、御言葉を語りかけ、御手を触れて下さると、私たちの目は開かれ、神様の恵みや守りを、目を上げて見ることができるようになるのです。

 主イエスとの出会いによって神様の恵みと守りが見えるようになるのは、どうしてでしょうか。それは主イエスがまことの神であられ、しかも私たちと同じ人間となって下さった方だからです。まことの神であられる主イエスが人間となり、私たちの罪を全てご自分の身に引き受けて、身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪の赦しを実現して下さったのです。その主イエスを父なる神様は復活させて、永遠の命を生きる者として下さいました。死に打ち勝って永遠の命を生きておられる主イエスが、今私たちに出会い、語りかけて下さるのです。私たちはその出会いによって、神様のはかり知ることのできない恵みと愛を、自己暗示や気の持ちようではなくて、目を上げてはっきりと見ることができるようになるのです。

 主イエスの促しによって目を上げたこの人は、「人が見えます」と言っています。そして、だんだんに彼の目は見えるようになっていったのです。彼が目を上げて真っ先に見た「人」、それは主イエス・キリストだったでしょう。主イエス・キリストという人を、目を上げて一心に見つめていくことの中で、彼の目は次第に見えるようになっていったのです。そこには私たちの信仰の成長が象徴的に示されていると言えます。主イエスを見つめ続けることの中で、私たちは神様の恵みを次第にはっきりと、具体的に見ることができるようになっていくのです。つまり私たちにとって主イエス・キリストは、神様の具体的な愛と恵みを見つめて生きるための唯一の道なのです。

 本当に目を開かれるとは、この主イエス・キリストにおける神様の具体的な恵みを見つめる目を開かれることです。それを見つめることができないうちは、私たちは「目があっても見えない」者なのです。それと同じことは、7章31節以下の、耳が聞こえず口の利けなかった人の癒しにおいても語られていました。本当に耳が開かれているとは、主イエス・キリストにおける神様の恵みの御言葉を聞く耳が開かれていることであり、本当に口が利けるとは、その恵みに感謝し、神様をほめたたえる言葉を語ることができることだったのです。そのように、この対になっている二つの癒しの話は、見るべきものを見ることができず、聞くべきことを聞くことができず、語るべきことを語ることのできない私たちが、主イエス・キリストによって目と耳を開かれ、語るべきことを語ることができる者とされた、つまりイザヤ書35章に預言されている救いが実現していることを語っているのです。  

 この後聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯にあずかることによって私たちは、主イエス・キリストが私たちの救いのために十字架にかかり、肉を裂き、血を流して死んで下さった、そのキリストの体と血とにあずかるのです。その聖餐は、洗礼を受けた者だけがあずかることができるものです。まだ洗礼を受けておられない方々には、聖餐の間、見守っていただくしかありません。しかしこの聖餐における恵みは、主イエス・キリストこそ神様の恵みと救いを具体的に与えて下さるただ一人の方であると信じ、その主イエスとの関係をかけがえのないものとして守っていく、そのような信仰告白と結びついてこそ、本当に恵みとして味わわれていくものなのです。そして主はこの聖餐へと、この礼拝に集っている全ての人を招いておられるのです。主イエスによって目と耳を開かれ、信仰告白の言葉を与えられて、ここにいる全ての人が聖餐に共にあずかる日が来ますように、心から祈り願っております。お祈りをいたします。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。台風10号が日本全体に大きな影響を与える中、過ぎし一週間の歩みを守り導いてくださったことを、感謝いたします。台風は熱帯低気圧に変わりそうですが、まだ大雨などの危険は去っておりません。どうか、これ以上被害が拡大することがありませんよう、あなたの守りと支えを与えていてください。今日も共に聖書の御言葉に聞くことができましたことを感謝いたします。どうか私たちに目を上げ、主イエス・キリストを見つめる信仰をお与えください。そして主を見上げて歩む中で、私たちの信仰が深められ、あなたの恵みの御業を見ることができますよう、導いていてください。まだ暑さ厳しい時が続きます。どうか、一人ひとりの心身の健康をお支えください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

主が与えるものを分け合う

マルコによる福音書8章1~21節 2024年8月25日 主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 今朝与えられました御言葉を聞いて、「おやっ」と思われた方も多いと思います。今朝与えられております四千人に食べ物を与える記事は、6章30節以下の五千人に食べ物を与えた記事と、ほとんど同じ出来事が記されています。人数が四千人なのか五千人なのか、パンの数が七つなのか五つなのか、残ったパン屑が七籠なのか十二籠なのか、そのような違いはありますけれど、出来事としてはほとんど同じです。どうして同じような出来事が繰り返し記されているのか。そんなことを思われて、「おやっ」と感じられたのではないかと思います。

 この同じような二つの出来事が記されていることについて、ある人は、一回の出来事が伝えられているうちに、二つの違った話になったと理解します。だから、ルカとヨハネは五千人の方だけを記したと理解するわけです。しかし、本当にそうなのか。本当は二回あったけれど、同じようなことなのでルカとヨハネは一回だけを記したとも考えられるわけです。ただ、マルコとマタイは二回記しており、それには理由がある、私はそう考えます。では、それはどういう理由かと申しますと、6章にあります五千人の方はユダヤ人たちが養われたのですが、四千人の方は異邦人が養われたという出来事なのです。7章24節で、主イエスはティルスの地方に行かれたと記されています。ここは地中海沿いの異邦人が住む所です。そして、7章31節において、主イエスは「ティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」とあります。この経路は地図を開いてたどってみますと、すべて異邦人の住む所なのです。7章の24節以下、主イエスは異邦人に対して救いの御業をなさいました。そうすると、この四千人に食べ物を与えるという出来事も、異邦人に対してなされた奇跡と理解してよいのだと思います。つまりマルコは、五千人の養いに続いて四千人の養いを記すことによって、主イエスの養いの中に生かされるのはユダヤ人だけではなく、異邦人もまた主イエスの養い、神様の救いに与るのだということを示した。そのように理解することができるのです。

 そして主イエスは、この大勢の人々をわずかなパンで養うという出来事を繰り返されることによって、人は神様の驚くべき御力によって養われ、生かされているのだということを、弟子たちの心に深く刻ませようとされたのでしょう。旧約において主の養いによって神の民が生かされた出来事として、私たちはマナの奇跡を思い起こすことができます。イスラエルの民は、エジプトの奴隷の状態から救い出されて約束の地にたどり着くまで40年の間荒野の旅を続けたわけですが、彼らはその間ずっと天からのマナによって養われ続けたのです。これは毎日のことですから、40年の間それが続いたということは、イスラエルの人々、神の民にとって、決して忘れることのできない出来事でした。そして、自分たちは神様の養いの中で生かされているのだということを知ることになったはずです。これは決定的に大切なことでした。神の民とは、主の養いの中で生かされていることを知る民なのです。主イエスは、このことを弟子たちにもしっかり心に刻ませるために、この不思議な出来事を繰り返されたのでしょう。逆に言えば、それほどまでに、主の養いに生かされているということは身につかない。自分の手で、自分の力で稼いで生きているのだという所から、私たちはなかなか離れられないということなのでしょう。実に、信仰に生きる、神の民として生きるということは、この主の養いというものを本気で受け取るという所に、かかっていると言ってもよいほどなのです。

 洗礼を受けるために準備する人に、私は、必ず食前の祈りをするようお勧めしています。家族の中でキリスト者が自分一人だけだと、なかなか食前の祈りをするのは難しいということがあるのかもしれません。そのような人には、婦人の方ならば食事の準備をする前に祈りなさいと言います。食事というのは毎日するものですから、食前の祈りが身につけば、今日は一度も祈らなかったということはなくなるわけです。そして、この食前の祈りにおいては、必ず「神様、あなたが備えてくださったこの食事を感謝します」という一言が入るはずです。これによって、私たちは食事の度毎に、自分は主の養いの中に生かされているということを心に刻むことになります。これが本当に大切なのです。また、主の祈りを祈る者は、「我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈るわけですが、そうすると、私たちの毎日の食事は、神様がこの祈りに応えて与えてくださったものとして受け取ることになるでしょう。食事の度ごとに、私たちは神様の愛を改めて心に刻み、神様をほめたたえ、感謝するということになるのです。ここに、生き生きとした神様との交わりに生きる生活が形作られていく一歩があるのです。食前の祈りというのは、ほんとに小さな習慣です。しかし、この様な習慣を身につけていくことによって、私たちは神様との生き生きした交わりの中に生きる姿勢が整えられ、身についていくのです。

 さて、11節を見ますと、「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」とあります。以前学んだ7章において、主イエスの弟子の中に食事の前に手を洗わない者がおり、それを巡ってファリサイ派の人々と主イエスは厳しい対立関係に入ってしまいました。ファリサイ派の人々にしてみれば、先祖たちから大切に伝えられてきた生活上の様々な律法を、主イエスが平気で破るというのならば、自分が本当に神様から遣わされた者であるという証拠を見せよということなのです。それが、「天からのしるしを求めた」ということです。

 主イエスはこれに対して、「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と告げられました。どうして「決してしるしは与えられない」と言われたのでしょう。四千人に食事を与えたり、耳が聞こえず舌の回らない人をいやしたり、主イエスはたくさんのしるしを示されたではありませんか。それなのに「しるしは与えられない」とはどういうことなのでしょう。それは、主イエスを試そうとする人を満足させるためには、決してしるしは与えられないということなのです。ここで主イエスは「今の時代の者たちには」と言われていますが、これは主イエスが生きた二千年前の人たちには、という意味ではありません。そうではなくて、いつの時代にもいる、しるしを求める人たちのことです。何か驚くべき奇跡を起こしてくれたなら信じてもよい、そう思っている人には主イエスは決してしるしを与えないと言われたのです。いつの時代でも、主イエスは生きて働いてくださり、驚くべき業をなしてくださいます。五千人、四千人の人々を養ったような奇跡だって起こされます。しかし、それが起きたら信じようという人には、決してしるしが与えられることはないのです。

 

 主イエスは再び舟に乗り、ガリラヤ湖を渡りました。この時、弟子たちは舟の上でパンを一つしか持ち合わせておりませんでした。主イエスの一行の食事を用意するのは、担当が決まっていたのかもしれません。その人がたまたま忘れてしまったのでしょう。その時、主イエスは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われました。これを弟子たちは何と聞いたかというと、自分たちがパンを持っていないからだ、主イエスはパンをちゃんと用意しなかった自分たちを叱っているのだと思ってしまったのです。そしてその責任をめぐって、議論し始める始末だったのです。

 こんな議論をしている弟子たちに、主イエスは17~18節「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」と告げられたのです。主イエスはパンが一つしかないことを叱ったりしません。忘れることなど、よくあることなのですから。しかし、主イエスがなさった奇跡が何を意味しているのか分からない、悟らない。それ故、主イエスが誰であるのか分からない。そして、主イエスと共にいるということがどういうことなのか分からない。そのような弟子たちに「いい加減、悟りなさい」と告げられたのです。主イエスが誰であり、主イエスと共にいるということがどういうことであるのか分かるならば、それさえ分かれば、パンを一つしか持ってこなかったことについて心配して、心を乱すこともないではないか。そう言われたのです。

 そして、主イエスは五千人と四千人に食事を与えた時のことを弟子たちに思い起こさせます。弟子たちはその時のことをちゃんと覚えていました。五つのパンで五千人を養った時、パン屑は十二の籠いっぱいになりました。七つのパンで四千人を養った時は、パン屑が七つの籠いっぱいになりました。弟子たちはそのことを覚えておりました。しかし、それが何を意味しているのかが分からなかったのです。それが主の養いを意味している。それ故、主イエスが共にいてくださるのならば食事の心配などいらない。大丈夫。弟子たちは、その安心の中に生きるということができなかったのです。自分たちは神様の御子と共にいる。神様が自分たちを養ってくださる。だから大丈夫。そう思えなかったのです。五千人の食事、四千人の食事、この出来事をきちんと受け止めていれば、主イエスが共におられるのだから大丈夫、その安心の中に生きることができるはずだということなのです。私たちに与えられているのも、この安心に他なりません。

 では、ここで主イエスが言われたファリサイ派の人々のパン種、ヘロデのパン種とは、何を意味しているのでしょうか。ファリサイ派のパン種とは、細かな律法をすべて守って救われようとする律法主義。自分は正しくて救われるけれど、律法を守らない人、異邦人は救われないとする考え方、信仰のあり方です。このファリサイ派のパン種は、いつでもキリスト教会の中に入り込んできます。自分のことは棚に上げて、あの人はどうだ、この人はどうだと非難するのです。このファリサイ派のパン種と無縁な教会などありません。本当に気をつけなければなりません。また、ヘロデのパン種とは、洗礼者ヨハネを殺したヘロデを指しているのでしょう。自分の面目を守るために神様に遣わされた預言者を殺す、そのような人々の思いの中で、主イエスも十字架につけられることになっていくのです。これに気をつけよと言われたのです。

 このファリサイ派のパン種にしてもヘロデのパン種にしても、パン種ですからほんの少し入ってくるだけで全体に影響を与えて、その色に染めていってしまう、そういう力を持ったものなのです。主イエスは、これによくよく気をつけなさいと言われたのです。キリスト教会は、その時代、その国の考え方や常識というものと無縁ではありません。いつでもその影響を受けているのです。しかし、どんな時代であっても、神様・主イエスが主なのであって、私たちは主イエスに従う者なのです。自分と主イエスの考えが同じなら従うというのではない。奇跡を見たら信じるのでもない。天地を造られた神様が与えてくださる養いの中に既に生かされているのだから、安心して主イエスと共に歩んでいけばよい。大切なのは、自分の面目を守ることでも、自分の正しさを守ることでも、自分の才覚を信じて生きることでもない。すでに主の養いの中に生かされている事実を感謝と共に受け入れる、そしてその主を心からほめたたえて、主の与えられる平安の中を生きることなのです。そのことを覚えて、ご一緒に歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを崇め礼拝することができましたことを、感謝いたします。あなたは私たち信じる者たちを、あなたの与えてくださっている恵みによって養っていてくださいます。どうか、いつもそのことを覚えさせてください。そして、あなたの豊かな恵みに養われている安心の中で、私たちも与えられている物を共に分かち合っていくことができますよう、導いてください。今週も台風の接近が予想されています。どうか、一人ひとりをそれぞれの場所で守り支えていてください。このひと言の切なるお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

神の道、神の御業は完全

ヨナ書4章1~4節 2024年8月18日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜 

 私たちの国は8月15日(木)今年の敗戦記念日を迎えました。この時期は平和について思いめぐらすことの多い時ですが、世界情勢を見ると私たちの中にも戦争に対する不安がじわじわと高まっています。ロシアによるウクライナ侵略、パレスチナのガザに対するイスラエルの攻撃、ミャンマーやシリヤでの内戦状態など、世界の各地で戦争状態が続いています。日本においても、中国や北朝鮮に対する危機が煽られる中で、防衛予算が大幅に増額され、台湾有事に備えて沖縄周辺の島々に兵器が配備されています。「戦争へと突入していった時代と状況が似てきた」と心配する人たちもいます。

 こうした状況の中で、私たちは私たちの国が戦争へと至らないために何をすればよいのでしょうか。小さな力しか持たない私たちがどうしたら平和を創り出していくことができるのでしょうか。そうした焦りにも似た思いを持っておられる方は、皆さんの中にも多いのではないかと思います。

 東京新聞の8月14日(水)朝刊に『考える広場』というページがあり、今回のテーマは「我々は戦争に無力なのか」というものでした。まさに私たちが切実に思っていることですが、そこには3人の方のインタビューが掲載されていました。一人目は歴史学者の藤原辰史さんで、この方は戦争と食物の関係を研究されています。「ナチスの暴力といえば600万人が犠牲になったホロコーストを想起するが、ナチスの食糧戦略で東欧では400万~700万人が餓死したと言われています。…またイスラエルは2007年からガザを完全封鎖し、今回の侵略では100万人以上が飢餓の危機にあると言われています。」イスラエルの攻撃によって4万人以上が亡くなったと報道されていますが、それとは別に食料を入れない戦略によって、比較にならない多くのガザの人々を死へと追いやろうとしているのです。そして、藤原さんは最後に私たち日本人への問題提起も忘れてはいません。かつてのナチスも現在のイスラエルも、「飢えてもいい人」がいると考えているのではないか。しかし日本人はどうであろう。「11人に一人が飢餓に直面する世界に暮らしながら、大量に食品を廃棄する消費生活を平気で続ける私たちの中にも、そうした考え方が根付いているのではないか。人を人として見ているのか。」そのように問うておられるのです。

 時間の関係で3人のうちもう一人だけ紹介しましょう。この方は自分の居場所からイスラエルのパレスチナ侵略に抗議している東大農学部3年生の八十島士希(やそじましき)さんです。八十島さんはイスラエル大使館への抗議デモなどに参加しましたが、持続的で地に足がついた運動が必要だと感じるようになりました。そんな時、アメリカの大学で大規模な連帯キャンプが行われていることを知りました。学生たちが大学内にテントを張って、イスラエルを投資先とする資金運用の中止などを大学に要求して抗議し、多くの学生が警察に拘束されていたのです。それを知って八十島さんは、いても立ってもいられなくなりました。東大の芝生広場にテントを張り、パレスチナの旗を掲げて寝泊まりするようになったのです。東大には、侵略で居場所を失った現地の研究者や学生の受け入れ、イスラエル企業と協力する日本企業との契約中止を求めていますが、聞き入れられてはいません。しかし、東大内外からキャンプに加わる学生たちが起こされ、テントには24時間誰かがいる体制を維持しています。教員の中にも差し入れをしてくれる人がいるそうです。自分の居場所での小さな運動ですが、東大のキャンパスを訪れた在日パレスチナ人からは、「元気づけられます。ありがとう」との言葉をもらい、活動の意義を実感したそうです。そして八十島さんも、私たち日本人がガザへの侵略に対して無力ではないことを、次のように述べているのです。「日本から縁遠いと感じる中東ですが、侵略国家と僕たち日本の市民は、企業や大学などを通じてつながっている。虐殺への加担をやめるよう、多くの人々が自分の居場所から訴えれば、平和への大きな力になると信じています。」平和への取り組みは、私たちと現代の戦争とのつながりを意識することから始まるということなのでしょう。

 さて、今日読んでいただいた個所は、ヨナ書4章1~4節です。4章1節に「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った」と書いてあります。ヨナの怒りの理由はどこにあるのでしょうか? それは神さまがニネベの町を滅ぼさなかったからだと書いてあります。ヨナは「あと40日したらニネベの町は滅びる。あと39日したら、あと38日したら」と、毎日毎日40日間言い続けてきました。それなのに神さまは、最後のところで「滅ぼさない」と言われたのです。ですからヨナは怒りました。ヨナは、これは不公平だと思ったに違いありません。「あの人たちは悪い人間だ。罪を犯し、神に逆らっている人たちではないか。自分たちイスラエルの民を圧迫し、支配してきたではないか」と怒るのです。

 しかし他方でヨナは、主なる神さまがこうなさるのではないかと、予想していました。今日の4章2節後半以下で、彼はこう告白してもいるのです。「わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐みの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」このヨナの告白は、旧約聖書の中で最も偉大な言葉の一つであると言われています。預言者ヨナは自分が信じている神様が、恵みと憐みの神であることを知っていました。たとえ神さまに背き、神さまの前に大きな罪を犯しても、自分の罪を認め、心から悔い改めるならば、それを赦される御方であることを知っていました。神さまは罰を下して滅ぼすことを願うのではありません。罪を認め悔い改め、自分に立ち返ることを何よりも願っておられます。ヨナはアッシリアのニネベに行くように命じられた時から、このことがうすうす分かっていました。自分の信じる神さまが「災いをくだそうとしても思い直される方である」と知っていました。それだからこそ、ヨナはニネベとは正反対のタルシュシュに行き、神さまの使命から逃れようとしたのです。

 しかし、神さまは海に投げ込まれたヨナを大魚に吞み込ませ、ニネベまで運ばれました。そして神さまが命じられたように、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫んで呼ばわると、ニネベの王を初めとして、ニネベ中の人たちが

悔い改めました。すると、ヨナが恐れていたように恵みと憐みの神さまは、宣告していた災いを下すことを止められたのです。

 ヨナは大きなジレンマの中に立たされていました。人間的に考えればアッシリアは神の民を武力によって蹂躙し、神の民に苦しみを与えた張本人です。憎んでも憎み足りない敵です。しかし、自分たちの信じる神さまは愛と憐みの神さまであり、「災いをくだそうとしても思い直される方である」と知っている。そのようなどうしようもないジレンマの中で、ヨナは苦しみのあまり死を願うのです。「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」(4:3)。しかし神さまはヨナに問われます。「お前は怒るが、それは正しいことか。」神さまは、人間が悲しみや憎しみをどうしても抱いてしまうことをご存じです。痛みや苦しみを与えた相手に、復讐せずにはおれない人間の心を知らない御方ではありません。しかし、それでもなお、自分の人間的な思いに縛られるのではなく、神さまの御業に目を注ぐように促されるのです。

 詩編18編31~35節に、このように言われています。「神の道は完全。主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を完全にし、わたしの足を鹿のように速くし、高い所に立たせ、手に戦いの技を教え、腕に青銅の弓を弾く力を帯びさせてくださる。」私たちの信じる神さまは、神の道を歩んでいく者を思いも寄らない仕方で導き、私たちの道を完全にしてくださるというのです。

 この夏、城内康伸(しろうちやすのぶ)という人の書いた『奪還―日本人難民6万人を救った男』(新潮社)という本を読みました。私は不勉強にして知らなかったのですが、日本が太平洋戦争で敗北した時、朝鮮半島にはたくさんの日本人が残されていました。日本は朝鮮を植民地支配していたので、たくさんの日本人が生活していたのです。しかし敗戦と同時に、朝鮮半島の北側はソビエト連邦の支配下に、南側はアメリカ合衆国の支配下に置かれました。アメリカは南部にいた日本人を早急に日本に帰還させる政策を取りましたが、ソビエト連邦が支配する北部はそうではありませんでした。北部の指定した場所に集団で移住させ、ソ連兵や朝鮮当局の管理下に置きました。シベリアに抑留される人もいました。食べる物も満足になく、伝染病に見舞われる中で、多くの日本人が生存の危機に立たされていました。しかしそうした中、松村義士男(まつむらぎしお)という人が時間も資金もない中で、同志の人たちと力を合わせ知恵を尽くして、6万人もの日本人を日本に帰還させることに成功したのです。

 この松村義士男さんは、戦争前は共産主義者として活動した人でした。危険人物として投獄されたこともありました。しかし、敗戦時に朝鮮半島にいた松村義士男さんは、ロシア語や朝鮮語を流暢に話すことができました。また、共産主義者であったことが、ソビエト連邦や朝鮮の要人たちと交渉をする際に、大いに役立つことになりました。たいへん肝の据わった人物でもあったようです。かつて共産主義者として迫害されたことを根に持つこともなく、同胞日本人を救わんとする人間愛のゆえに、この奪還事業を最後までやり遂げました。かつてマイナスであった共産主義者としての身分が、思いがけないプラスとして大きく用いられました。普遍的な人間愛が思いもよらない奇跡のような出来事を引き起こしたのではないかと、わたしには思われたのです。

 もう一つ先々週の8日(木)~9日(金)休暇の最中でしたが、東京中会ヤスクニ・社会問題委員会が主催する「福島フィールドワーク」に百合子と一緒に参加しました。この企画は2011年に起こった東日本大震災による福島第一原発の事故によって多大な被害を被った、福島県の浪江町の今の状況について学び、実際に出かけてフィールドワークをしようというものでした。8日(木)にはこの課題に長年取り組んでおられる日本バプテスト連盟 福島主のあしあとキリスト教会牧師 大島博幸先生から講演を聞き、翌日9日(金)は大島先生のご案内で主に浪江町の震災遺構や最近できた東日本大震災・原子力災害伝承館を見学することができました。また機会があれば皆さんにも報告したいと思います。

 ところで、8日(木)の大島博幸先生の講演で、先生はルカによる福音書10章25~37節の「善いサマリア人」のたとえを引いて、自分がなぜ13年も経過した今日、原発被災地の人々に関わっているのかを話されました。復興、復興の掛け声の中で、大部分の人は原発事故を過ぎ去った出来事のように生活している。それも止むを得ない面がある。しかし、自分は傷つき倒れた人を中心にして隣人をというものを考えたいと思う。今だ原発事故のために不自由な生活をしている人たちがいる。放射線の被害に不安をぬぐえないお母さんたちがいる。それは「小さな声」かもしれない。けれどもそのような「小さな声」に寄り添い、その人たちと共に歩んでいくことが、主イエスの問いに答えることではないか。「だれがその人の隣人になったか」という問いに答えることなのではないか。私は大島先生のお話を聞きながら、本当にそうだと思わされました。そして「小さな声」に寄り添うことを、キリスト教会は、そして私たちは忘れてはならないと強く思わされたのです。

 よく言われることですが、平和というのは「単に戦争状態のない状態」を指すのではありません。私たちの生きている社会において、人権が尊重され、言論の自由を初めとする様々な自由が保障されている状態を言います。人が人として重んじられ、互いの尊厳が尊重されなければ平和とは言えません。人権や自由が抑圧されている社会は、いつしか戦争を正当化する社会に転落してしまします。そうならないためにも、私たちはこの世界で起こっていることが、私たちの日常と地続きであることを認識しなくてはなりません。そして安易な現実論に取り込まれるのではなく、何が私たちの主イエス・キリストが願い給うことかを、聞き続けていかなくてはならないのです。「あなたは、恵みと憐みの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」この神さまのなさり方と御心にこそ、真実の平和への道が存在することを信じて、歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。台風7号が接近する中で、私たちを守り支えてくださったことを、感謝いたします。8月は戦争と平和について、とりわけ思いを深くするときです。主イエスは「平和を実現する人は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われました。その御言葉の意味を深く尋ね求め、思いめぐらす時を、私たちに過ごさせてください。相変わらず猛暑の日々が続きます。どうか、兄弟姉妹一人ひとりの心身の健康をお支えください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

天の国のたとえ

マタイによる福音書20章1−15節  2024年8月11日(日) 主日礼拝説教 

                     長老 三宅恵子

 皆様おはようございます。今朝与えられましたメッセージは、マタイによる福音書20章1節から16節のぶどう園に雇われていく労働者のたとえの話です。ただいま読んでいただいたこの話は、昔のことになりますが、当時、私が思ったようには単純な話でなかったようで、今回のお説教のご奉仕でもない限り、分からないまま、有耶無耶になったままの状態で私の中でとり残されたものになったことでしょう。今回、学び直して初めて分かったこともありますので、そのお話もしたいと思っています。

 藤田先生から勧められました聖書講解書には一番最初に、この例え話はよく誤解されている。と書かれています。よく誤解されているのは、どこのところなのかを問いかけていくだけでも、何かが分かるかもしれないと、良い方に考えてお話を進めていきたいと思います。この一連のお話の中では、明らかにぶどう園の主人の態度が不正なのではないだろうか、そして、最初から働いていた者たちがあとから来た者たちと同じ1タラントンしか貰えないことに憤慨するのも当然ではないだろうか。という意味で、このたとえは、誤解されていると言われています。そうだそうだと思われた方も、いやそんなことじゃないんだよ、と思われた方もいらっしゃるのではないかと思いますが、まずは、私がその昔、どのように間違って捉えたのかをお話したいと思います。

 25年くらい前、私は、「天の国は次のようにたとえられる。」というはじめの文章を読んで、単純に、天国はどんなところなのかを知りたいと思ったのです。そして、ここに書かれているように、あるぶどう園の主人が、農園で働く労働者を雇うために夜明けから始まって、9時ごろ、12時ごろ、3時ごろ、そして5時ごろと何度も出かけていって、何もしないで広場に立っている人々に賃金を払ってやるから、ぶどう園で働きなさいと誘う状況を想像してみました。

 ぶどう園の主人は、1日分の賃金である 1デナリオンを約束しながら、それぞれの時間にその場に立っている人々を 誘い続けるのですが、流石に、午後になると、そこにいる人々は、今日の分の収入はないのではないか、と諦めながら立ち続けていたことでしょう。そこに、1日分の賃金である1デナリオンを約束しながら、人々を雇い続けていくこの雇い主である人は、本当に、神様に見えます。

 「なぜ、何もしないで1日中ここに立っているのか」と尋ねられ、「誰も雇ってくれないのです」と答えている人々は、誰からも雇ってもらえない心細さを抱えてその場に立ち続けるしかなかった人々でした。理由はいろいろあるでしょう。家庭の事情で出遅れたのかもしれませんし、病気だったかもしれません、もしかしたら、立っていたにもかかわらず、何かのタイミングで 気づいて貰えないまま、ずっと立ち続けていたのかもしれません。わたしは、この時多分、自分自身をこの遅く雇われた人々と重ね合わせていたのだと思います。ですから、この遅くまで労働者を雇い入れるために、何度も辛抱強く足を運んでくれたぶどう園の主人に、感謝をしながら、なるほど、これは、このぶどう園は天国のようなもので、主人は神様だなぁと自分の中で納得したのです。農作物の収穫は、その収穫時期に合わせて一気にやってしまわなければなりません。しかし、このときの労働者の雇用は、ぶどうの収穫のための労働力の確保 というよりも、労働者の救済が目的のようです。私なりに天国というもののアウトラインが出来たように思えました。そして、それを、遊びに来ていた友人と夫に嬉々として話したのでした。

 その時の友人の返事はとても、衝撃的で、今でも鮮明に覚えていますし、今回説教題としてもう一度考えてみたいと思ったきっかけとなりました。

 その時の友人の返事は、遅く出かけて行ったにもかかわらず、雇われると言うような、そういう事態は考えられないというのです。彼女が、明日という日に、仕事を得ようとするならば、自分なら、前の日から準備をして、約束の時間より早く現地に着き、そして試験なり、面接なりを受けて、やっとそこで雇われるのであって、時間にも間に合わないように出かけていって、求職活動をするなどというのはもう、問題外だと言うのです。

 彼女の言っていることは、素晴らしく常識的で、なんの問題もありません。むしろ、私は、どこで自分が間違えてしまったのかと思ったくらいでした。言葉が足りなかったのか、十分に言いたいことの説明をすることが出来なかったのか、とにかく、私の思いは二人には、伝わらなかったのです。その時、私には、彼女の言わんとするところが分かりました。それは、慣れ親しんだこの世のルールだからです。

 しかし、彼女には、私の言いたいことは分かってもらえないだろうなということも理解できました。この世で生きている私達は、この世のルールに従って生きています。ですから、このように不確実な天国の話を、分かってもらうのは、これはどう考えても私の方が不利で、納得してもらうための説明責任はわたしの方にあります。

 このぶどう園の話は、あまりに私達の生きてきた方向性に逆らうものです。誤解を恐れず言うならば、私達は天国とは全く違う方向に促され、追い立てられて生きているのです。冒頭に申し上げました聖書講解書の言葉、「この例え話はよく誤解されている」という意味がよくわかります。

 例え話の中心は、15節に見られる<わたしが気前よくしているのでねたましく思うのか>という点です。この話は、ぶどう園の主人が神ご自身であり、すべてわたしたちが受けるものは、神の恵みによって受けているのだから、その神のみ前に当然要求できる報酬、というようなものはない、という点からのみ理解されます。

 神からの召しに応じて、自分自身の状況や心境にかかわらず、感謝とともに応答の生活に入っていくことは、まずは大事なスタートでしょう。洗礼が目的地、目標ではなくスタートだと言われる所以です。そこから始まる信仰の旅路だと言ってもいいのではないかと思います。問題は、その後のことだと、例え話はぶどう園の主人の言葉を借りて言っています。報酬である1デナリオンは、すべての人が生きていくうえで必要な恵みです。神による救いには、区別や差別がありません。何時から働き始めようと、1日に必要な金額は一緒なのです。働いた時間に合わせてもらう時間給とは、違うのです。未明から働こうが、5時から働こうが、私達一人ひとりにとって、1デナリオンは、本当に命を長らえるために必要な金額なのです。天国の営みは、私達の地上のやり方とは違います。 本当は、その恵みに値しないにも関わらず、救い主である、イエスキリストの尊い十字架の犠牲の上に成り立っている、申し訳ないような恵みなのです。

 信仰生活において、私は、そしてわたしたちは、神の恵みに対して怠惰に、傲慢になっていないだろうかと振り返ってみる必要があります。例え話の中核は、自らに奢っているパリサイ人たちと同様、自分たちこそ一番最初からの働き人だと誇っている弟子たちにもあてて語られています。

 そうであるならば、わたしたちは尚更そっと、自分を精査し、吟味する必要があるのではないでしょうか。当然のものとして貰える恵みなどは、ないのです。早くから来て働いていたからと言って、当然のものとして受け取る、1タラントンという、1日を生きていくのに必要な恵みは、私達にはないのです。神の恵みの点から申しますと、この世のルールでは、権利である報酬は、天国においては報酬ではなく恵みであり、なんの代償もなく得られてしまった贈り物であります。すべての人に与えられる、生きていくために必要な1タラントンの恵みは、ただただ主イエス・キリストの尊い十字架の贖いの業の上に、贖われたものなのだ、ということです。

 そして、私達が今持っている強みと弱みは、すでにこの恵みの生活に入れられているということではないかと思います。すでにぶどう園という天国の仲間に入れられているということではありますが、それ故に、1タラントンの恵みを当然の報酬と考える際どさです。そこには主イエス・キリストの贖いの十字架はありません。

 ルカによる福音書の15章1節から7節に「見失った羊のたとえ」というお話があります。「見失った1匹の羊を探すために、99匹の羊を野原に残して、その1匹の見失った羊を探さないだろうか?」という、イエス様の問いかけです。

 みなさんは、このお話をどう思われたでしょうか?初めて、この99匹の羊の話を読んだときのことを、思い出してみてください。私はと言いますと、「残された99匹の羊はいったいどうなるんだろう。」と思ったことを覚えています。この話は、迷いだして、迷子になった1匹の羊が、自分自身であると認識しなければ、理解できないところにあります。 

 自分の立場を、99匹の羊の中に置いたままで考えますと、福音の意味、救いの御業のありようが分からないということになってしまいます。今は、ありがたいお話だと思っていますが、当時の私はといいますと、自分が迷い出した1匹の羊だとは全く思っていませんでした。ぶどう園の労働者と同様に、神様の支配しておられる天国においては、当然貰うべき報酬や、迷って命が危険に晒されている時に、探し出して貰える権利、というようなものは存在しません。其れはひとえに、ただ「神の恵み」、と言うものであります。

 主イエス・キリストは、わたしたちが理解しやすいように例え話でお話されたとあります。しかし、必ずしも例え話が分かりやすいとは限らないことは、今日のたとえの箇所をみてもわかります。文化や風習、当時のイエス様が暮らした環境など考えますと、現代の日本という国に暮らしているわたしたちにとって必ずしも、例え話だからといって、イエス様のお生まれになった頃のたとえが分かりやすいとは言えません。でも、考えるための糸口になります。受ける側の私達の性別や年齢、その話を読むときの、その人の経験や状態などが、密接に関わってくるでしょう。

 そういう意味で、私達は、聖書を通して、今、この時の自分の思いや感情や立場を、聖書の中で働かれている主イエス・キリストの聖霊を信じて、そのイエス様に自分自身の思いを託し、繰り広げられる聖書の中のお話をその時その時に理解していいのではないかと思うのです。

 失敗しても、誤解したままでも、そのうち、時が巡れば、かならず、その時が来て、必要となった時に、理解させて頂けるのだ、ということで、よいのではないかと思うのです。主イエス・キリストと共にあることで、豊かになっていく人生や思いや生活が、さらに豊かなものとなっていくことを願い、人生という旅の中で、わたしたちが、何かが本当に必要になった時には、私達の救い主である、主イエス・キリストは、わたしたちが理解している以上のものを、教会や兄弟姉妹の交わりを通して、聖書や、聖霊の助けを通して、私達に、神の恵みとして豊かに与えてくださると信じます。お祈りします。

<お祈り>

私達の主、イエス・キリストの父なる神様

今朝は、このような形で兄弟姉妹とともに、あなたの礼拝に参加することを許され感謝いたします。教会の交わりの中で、より深く聖書を識ることが出来ますことに感謝いたします。聖霊の助けにより、正しく御言葉を識るものとしてくださり、識ることにより、神様と隣人を愛するものに、御心を訪ね求めることにより、平和を作るものにしてください。人と世界に、希望を見つけることができずにいる今という時代に、主イエス・キリストの十字架を想い、絶望することなく、日々新たにして、感謝を持って生きる者としてください。これらの感謝と願いを尊い主イエス・キリストの御名によって祈ります。

                               アーメン

主イエスを説得する信仰

マルコによる福音書7章24~30節 2024年7月28日(日) 主日礼拝説教

                                     牧師 藤田浩喜

 さて、今朝の説教題は、「主イエスを説得する信仰」としました。主イエスは神様の独り子です。ヨハネによる福音書によれば、天地創造の御業にも参与された子なる神様です。そんな神様が説得されるというのは、何か変ではないか。永遠の昔から完全にすべてを知り、予定しておられる神様が説得され、御心を変えるなどということがあるのか。そう思われる方もおられるかもしれません。しかし、神様の御心というのは、そんな薄っぺらなものではないのです。神様の救いに与った私たちは、神様が永遠の御計画の中で私を救ってくださった、そう信じております。それは、私たちに信仰が与えられ救われたことだけではありません。結婚にしても、子が与えられることにしても、この両親の元に自分が命を与えられたということも、皆、神様の永遠の御計画の中で与えられたものと受け取り、神様に感謝し、神様をほめたたえるのです。

 しかし、その逆に、あの人は救われないことになっているとは誰も言えないし、それは神様だけが知っておられることです。この神様の領域に、私たちは入り込んではならないのです。ですから、私たちは、この人があの人が救われることを願い、神様に祈ります。また、そのためにできるだけのことをいたします。そしてそのことを神様は喜んで受け取ってくださるし、その祈りに応えてくださるのです。それが、「神様が喜んで説得される」ということです。

 今朝与えられております御言葉において、主イエスはガリラヤからティルスの地方に行かれました。このティルスという町は、地中海に面した所にあります。大変古い町で、フェニキア人が建てた町です。このフェニキア人というのは、アルファベットのもとになる文字を使い始めた民族で、貿易を主とした海洋民族です。ティルスも貿易で大変栄えた都市でした。

 そこに主イエスが行かれたというのです。もちろん、弟子たちも一緒だったと思います。そこは異邦人の住む地方ですから、ユダヤ人たちはあまり行きたがらなかったと思います。特に、ファリサイ派の人々は、自ら汚れの中に入っていくようなものですから、行きたがらなかったでしょう。

主イエスがこの地方に来たのには、二つの理由が考えられます。一つは、7章において、エルサレムから来たファリサイ派の人々や律法学者たちと律法を巡って決定的な対立をしてしまいましたので、身を隠すためということが考えられます。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた」と記されておりますことが、それを暗示しているように思われます。もう一つは、6章30節以下の所で、弟子たちと共に休もうとされたのですが、それができないままでしたので、今度こそ、弟子たちも主イエスも休もうとされた、そう考えることもできるかと思います。いずれにせよ、主イエスはここでは人目につきたくなかった。じっとしていたかったのです。

 ところが、汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女性が、主イエスのことを聞きつけ、救いを求めに来たのです。この女性は、シリア・フェニキアの生まれで、ギリシャ人でした。つまり、ユダヤ人から見れば異邦人です。彼女は、主イエスの所に来ると、主イエスの足もとにひれ伏して、自分の娘をいやして欲しい、汚れた霊を娘から追い出して欲しいと願い求めました。この女性は、今までも多くの汚れた霊を追い出してこられた主イエスだから、きっと自分の娘の悪霊も追い出してもらえるに違いない、そう思ったでしょうし、そうして欲しいと心から願い求めました。私たちも、主イエスならきっとそうしてくださるに違いない、そう思うでしょう。

 ところが、この時主イエスは全く意外な言葉を口にされたのです。27節「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」一読しただけでは、ここで主イエスが何をお語りなったのか分かりにくいかもしれませんが、ここで「子供たち」と言われているのはユダヤ人のことであり、「子犬」と言われているのは異邦人のことを指しています。特にこの場合、幼い娘でしたので、子犬と言われたのでしょう。「パン」というのは救いのこと、この場合は、汚れた霊を追い出すといういやしの業を指しています。ここで、ギリシャ人、異邦人を「犬」にたとえるのは何とも酷いではないか、人種差別も甚だしい、主イエスともあろうお方が何と愛のない言い方をされるのか、そう感じる人もいると思います。確かに、ユダヤ人たちは当時、ギリシャ人や異邦人を犬と呼んで蔑視していたのです。主イエスも他のユダヤ人と同じなのか、そう思う人もいるかもしれません。確かに、そのように読むこともできるでしょう。しかし、ここで決定的に重大なことは、主イエスがこの女性の願いを退けているということです。理由ははっきりしています。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」ということです。つまりまず最初に、神の民であるユダヤ人が救われなければならない。今はその時だ。まだ、異邦人が救われる時は来ていない。そう言われたのです。

 まさに、ここで主イエスが言われていることは、神様の救いの御計画です。救われる者の順序です。主イエスは、「まずユダヤ人だ」と言われて、異邦人であるこの女性の願いを退けたのです。確かに、神様の救いに与るには順番があります。主イエスが十字架にお架かりになり復活されて、すぐに主イエスの福音は日本に来たわけではないのです。ザビエルが日本にキリスト教を伝えたのは16世紀のことでした。その後、鎖国があり、キリシタンの弾圧があり、再びキリストの福音が日本に伝えられたのは19世紀でした。そして、千葉の地に福音が伝えられたのは1870年台でした。何と長い時間がかかったことでしょう。この世界の人々が一斉にキリストの福音に聞き、悔い改めて救われるのではないということは、必ずそこに後先ということが起きるということです。そうやって次々に起きることが、神様の救い歴史、救済史です。どうして、何の理由で、このような順番があるのか、私たちには分かりません。それは、どうして私が先に救いに与り、あの人この人がまだ救いに与っていないのか分からないのと同じでしょう。はっきりしていることは、私たちの方が、まだ救いに与っていないあの人この人よりも立派であったとか、宗教的であったとか、信仰的に熱心であったとか、よい人であったというような理由ではないということです。

 教会では、まだ主イエスを信じていない人、救いに与っていない人を、「未信者」と言います。この言い方は、未だ信者になっていないという意味ですから、私たちは知らないけれども、後で信者になるであろう、なるかもしれない、そういうことを暗に示しているわけです。この言い方は、とてもよいと私は思っています。非信者ではないのです。私たちは、たまたま神様の御心の中で、その人たちより先に救いに与っただけなのです。そして、そのような人たちに私たちは囲まれているわけです。家族の中でも、自分だけがキリスト者であるという人も少なくないでしょう。そういう中で、私たちはどうするのか、その人たちをどう理解し、その人たちのために何をするのかということです。

 この女性は、主イエスにこれほどはっきりと「今は駄目。まだ時が来ていない。」そう断られたにもかかわらず、少しもひるむことなく、退くことなく、主イエスにこう迫ったのです。28節「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」何という言葉でしょう。この女性は、「子犬とは失礼な。何という言い方か。こんな人に娘のことを頼むのではなかった。」そんなふうに腹を立てたりしなかったのです。それどころか、「はい、私の娘は子犬です。しかし、子犬でも、子供が落としたパン屑を食べることはできるでしょう。」そう主イエスに迫ったのです。この女性は諦めなかったのです。そして、この女性の有り様を主イエスは喜ばれたのです。断られてもなお、娘のために救いを求めるこの女性の姿を、主イエスは喜んで受け入れられたのです。そして、29節「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言って、この女性の娘をいやされたのです。

 創世記18章16節以下には、アブラハムが、神様が滅ぼそうとされるソドムの町の人々のために、必死に執り成しをしているやりとりが記されています。ソドムの町に50人の正しい人がいれば、その人たちのためにソドムの町を赦してくださいと願い、それが聞かれると、45人、40人、30人、20人、10人とその数を減らしていき、何とかソドムを助けようとしたアブラハムでした。結局この時、ソドムの町には10人の正しい人もいなかったので、ソドムの町は滅ぼされてしまったのですけれど、神様はアブラハムの、ソドムの町のための執り成しを受け入れてくださいました。この時の神様のお姿と、シリア・フェニキアの女性の、我が娘のための怯まぬ執り成しを受け入れられる主イエスのお姿は、全く重なっています。ここには、愛する者のために必死に執り成し救いを求める者を、決して退けようとはしない神様の姿があるのです。

 このことを知った私たちはどうするのか。それはもう言うまでもないほどに、はっきりしているでしょう。アブラハムのように、この女性のように、まだ救いに与っていない人のために執り成すのです。その人の救いを求め、祈り願うのです。この女性のように、断られても断られても、願い求め祈るのです。救ってくださる方は主イエスしかいないのですし、滅びるのを黙って見ているわけにはいかないのです。その人を愛しているからです。神様を説得するほどの思いを持って、祈ればよいのです。主イエス御自身、マタイによる福音書18章19節で「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と約束されています。マタイによる福音書7章7~8節では「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と約束してくださっています。この主イエスの約束を信じて、執り成しの祈りをしていくこと。それが、先に救われた私たちに求められていることであり、神様、イエス様は、それを喜んで受け取ってくださるのです。愛するが故に、私たちの覚えるあの人この人のために、信じて祈ってまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。神様、あなたの御計画を私たちは人間の知恵で測ることはできません。しかしあなたは人格的なお方であり、私たちの祈りの言葉に耳を傾けてくださいます。あの人この人の救いのために必死に祈る私たちの言葉を、あなたは受け入れ願いを叶えてくださる方です。どうか、そのことをいつも忘れずに、執り成しの祈りを捧げさせてください。命の危険を感じるような猛暑日が続きます。どうか、兄弟姉妹の健康をお守りください。今、病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、悲しみや悩みの中にある兄弟姉妹を、お支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン

誰があなたを汚すのか

マルコによる福音書7章14~23節 2024年7月21日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

 主は言われました。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7:14~15)。

 「外から人の体に入るもの」というのは、食べ物のことです。「外から人の体に入るもの」については、程度の差こそあれ、私たちは皆、様々なことを気にするだろうと思います。賞味期限を気にします。添加物についてとても気にする人もいるでしょう。それらは皆、健康に関することです。

 そのように、健康に関わる様々なことは気にしますが、食べ物を食べる時に、「これによってわたしは汚れるだろうか」と心配する人は、私たちの中には恐らくいないだろうと思います。「食べ物が人を汚す」という概念は、私たちの生活にはないからです。ところが主イエスの時代のユダヤ人、特にファリサイ派のユダヤ人は違うのです。食べ物によって人は汚れると信じている。そして、それは重大なことなのです。

 例えば、食事の前には手を洗います。これは衛生のためではありません。宗教儀式です。洗わない手で食事をしますと、その食事によって汚れるのです。いや、それだけではありません。この章の3節以下にはこんなことが書かれていました。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(3~4節)。市場では宗教的に汚れた人たち、例えば異邦人などに接触したかもしれません。だから身を清めて食事をしないと「汚れる」のです。

 さらに言うならば、何を食べるかも重要なのです。ユダヤの世界では、食べてはいけない「汚れた」食べ物というものがあるのです。その代表は豚です。トンカツを美味しそうに食べるなんて、もっての他。そんなことをしたら汚れてしまいます。今日でも、厳格なユダヤ人は、例えばやたらにその辺でパンを買って食べたりしません。豚の脂肪であるラードが入っている可能性があるからです。これがユダヤ人の戒律の世界です。

 そのような背景を考えますと、今日お読みした主イエスの言葉が、いかに過激な言葉かが分かるのではないでしょうか。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものなんて何もない」。そう主イエスは言い放ったのです。みんな目を丸くして、「信じられない。あなたはとんでもないことを言っています」と言いたくなるような言葉なのです。

 しかし、主イエスがそのような過激なことを言われたのは、その次を語るためなのです。主はこう言われました。「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。さて、主イエスは何を言わんとしておられるのでしょう。弟子たちには、よく分からなかったようです。ですから、群衆が帰った後に、こっそりと主イエスに尋ねました。すると主はこう答えられたのです。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」(18~19節)。

 「外に出される」と訳されていますが、本当は「便所に出される」って書いてあるのです。食べ物は心の中に入るわけじゃない。腹に入って便所に落ちるのだ。――本当に汚れるか汚れないかを考えるならば、確かに重要なのは「腹」ではなくて「心」だと思います。主イエスは極めて現実的な話をしているわけです。

 では「心」が問題ならば、何が心の中に入って人を汚すのでしょうか。「食べ物」ではなくて、「人の中から出て来るもの」だと主は言われるのです。人の心から出て来るものです。「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」と主イエスは言われるのです。

 「心から出て来る悪い思い」とは何でしょう。その後には、具体的に、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」と書かれています。しかし、口に入るものとの対比で考えられているのですから、「人間の心から、悪い思いが出て来る」と言う時に、まず主の念頭にあったのは、特に「言葉」のことであったと考えられます。すなわち、具体的な悪として現れてくる以前に、既にその心の中にある「悪い思い」が問題なのです。そして、「悪い思い」が心から出て来る時の「言葉」が問題なのです。

 ですからマタイによる福音書では、もう少し詳しくこう表現されているのです。「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」(マタイ15:17~18)。これならはっきりしています。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」。口から出て来る言葉の話です。言葉こそ人を汚すのです。先にも申しましたように、ユダヤ人はどんな食物を口に入れるかに細心の注意を払いました。しかし、それ以上に注意しなくてはならないことがあるのです。どんな言葉を心に入れるかです。言葉によって心は汚されるからです。

 主イエスがこう言われた理由は、分からなくもありません。ユダヤ人の戒律の世界を想像してみてください。表向きはとても秩序だった清い世界です。しかし、戒律の世界は、同時に簡単に裁き合いの世界になるのです。神への感謝と喜びをもって守っているのならよいでしょう。しかし、ただ義務として、自分が嫌々仕方なく守っていることがあると、他の人が同じように守っているかどうかが気になるようになります。守っていないと許せない。批判したくなる。取り決めやしきたりの多い社会は、簡単に悪口と陰口に満ちた社会になるものです。

 また悪口と陰口に満ちた社会では、人からどう見られるかが気になります。他の人からどう見られるかが気になって気になって仕方ない。すると外側だけを一生懸命に取り繕うようになります。しかし、無理が生じますから、見えないところで悪いことをするようにもなってしまいます。ですから、主イエスが言っておられる、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」などは、恐らくユダヤ人社会に生きる彼らにとって、決して無縁のことではなかっただろうと思うのです。

 そして表向きだけきれいな戒律社会において、互いの裁き合い、悪口、陰口、人に対する非難、中傷に耳を傾けていたらどうなるでしょう。あるいは隠れて行っている姦淫やみだらな行いについての話に耳を傾けていたら、またそれらを心に入れながら一緒に話をしていたら、確実に心は汚れていくと思いませんか。それこそゴミ箱のようになっていくことでしょう。

 そう考えますと、これは私たちにとっても無縁の話ではありません。実際どうでしょう。私たちは、普段、どのような言葉を心に入れているのでしょうか。悪口や陰口の輪に加わっている時、誰かそこにいない人を一緒に中傷している時、そのことが自分を汚していることには気づかないものです。いやむしろ、そこで妙な連帯感さえ生まれるかもしれません。あるいは自分が外れていると、今度は自分が悪く言われているのではないかと心配になって、ついつい話に加わってしまうことも起こり得ることでしょう。

しかし、そのようなことをしていれば、心は確実にゴミ箱になっていきます。それは確かです。そして、それは本人だけで終わりません。ゴミ箱は悪臭を放ち始めるのです。やがてそこからゴミが溢れ出ます。心から溢れたものが口から出て来るようになる。すると、今度は他の誰かを汚すことになるでしょう。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」のです。ですから、どのような言葉を心に入れて生活するのかということは、本当は私たちの生活を大きく左右し、さらには人生そのものを左右する大問題であるはずなのです。

 ところで、今日の聖書箇所は「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた」(14節)という言葉から始まっていました。そのように、今日の箇所はその前に書かれていることの続きなのです。今日の箇所の直前には、主の語られたこんな言葉が記されています。「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」(13節)。「あなたたち」というのはファリサイ派の人々と数人の律法学者たち(1節)のことです。

 このことがあったので、主イエスはもう一度群衆を集めて語られたのです。宗教的指導者たちが「神の言葉を無にしている」からです。そして、それは群衆においても同じだからです。「人の中から出て来るものが、人を汚す」という現実が起こっているのは、そもそも本当に心に入れなくてはならないものを入れていないからなのです。「あなたたちは神の言葉を無にしている」と。律法を与えられていながら、聖書を与えられていながら、そこから本当に神の言葉を聞こうとしていない。聞いていない。それこそがそもそもの問題なのです。

 毎年10月31日を私たちは宗教改革記念日として覚えます。なぜ10月31日なのかというと、1517年のこの日、マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に「95か条の提題」を張り出し、そこから宗教改革が始まったからです。かつてキリスト教会においても、神の言葉が無にされていた時代がありました。そのような教会において、宗教改革が起こったことは必然でした。

 今から500年以上前、宗教改革者たちが手がけた大きな事業の一つは、キリスト者が自国語で聖書を読めるようにすることでした。それまではラテン語で読まれていたのです。マルティン・ルターは、聖書をドイツ語に訳しました。何のためでしょう。教会が神の言葉を無にしないためです。神の言葉を聞くためです。本当の意味で、心に入れるべきものを入れるようになるためです。

 それは宗教改革を経て、神がここにいる私たちにも与えてくださっている、とてつもなく大きな恵みです。しかし、私たちはその恵みを本当の意味で受け止めて生活しているのでしょうか。私たちはどのような言葉を、心に入れて生活しているのでしょうか。そのことを今一度心に問いつつ、新しい一週間を歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝し、あなたの御言葉に聞くことができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは「人から出て来るものこそ、人を汚す」と言われました。人から出て来るもの、それは私たちの語る言葉です。私たちの時代は、私たちの歪んだ醜い思いが、人を傷つける言葉となって拡散されてしまう時代です。私たちの内から出るどんなに多くの言葉が、他者を傷つけ、偏見や対立を煽っていることでしょう。どうか、そのことを深く反省する者とならせてください。そして私たちがあなたの御言葉に根差した、塩で味付けられた言葉を語ることができますよう、どうか導いていてください。猛暑の日々が続きます。兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。

神のもとに帰れ

ヨナ書3章5~10節 2024年7月14日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

 陸に戻ったヨナは、神の命令を再び受けて、外国の大きな都ニネベに向かって行きました。そして神から語れと命じられた言葉を、彼は語りました。神から命じられた言葉というのは、4節の後半に記されています。「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる。」そして一日分の距離を歩いただけ、つまり一日分の働きをしただけで、彼の語った言葉の効果はすぐに表れたと、5節以下に記されています。「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。」

 断食をすること、粗布をまとうこと、これは悔い改めのしるしです。そのことが身分の高い者にも、低い者にも起こったと記されています。ニネベの人々の早い反応に驚かされます。彼らはヨナを信じたのではなく、神を信じた、と5節に記されています。そして少し劇的には描かれていますけれども、ニネベの人々は、ヨナの宣教の言葉、神の言葉を正しく理解して、悔い改めの行為をいたしました。何か目に見える奇跡とかしるしによって、ニネベの人々が変えられたのではなく、ヨナが語る言葉だけが人々を悔い改めに導き、そして彼らの生き方に180度の変化をもたらしました。

 イザヤ55章11節に、「そのように、わたしの口からでるわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と記されています。神の言葉が語られる時、その言葉の中に込められている神の意思が現実の出来事となる。イザヤはそのように神の言葉が持つ力を語りました。その一つの典型例が、ニネベの人々において起こっていることを知らされます。神の言葉に秘められている力、それは人々を大きく変えることができるものです。私たちは、神の言葉が持つ力への驚きと共に、御言葉を語る者が常に持つべき畏れと謙虚さを同時に示されていることを思うのです。

 ニネベの都においては、さらに驚くべきことが続いて起こっています。それはこの都の王に関わることです。6節において、「このことがニネベの王に伝えられると」と、書き始められています。「このこと」とは、ヨナの宣教の言葉と、それによってニネベの都の人々が悔い改めに導かれたという事実を指しているのでしょう。それを伝え聞いた王は、「王座から降り、王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、そして断食をした」と記されています。これは最大級の悔い改めを示す行為です。この王は、ヨナが語る言葉を聞くことによって、自分自身の中に、神によって裁かれても仕方がない罪や悪があることを認識しました。だからこそ彼に、悔い改めの行為が起こっているのです。ニネベの王は、滅びを予告する神の言葉を、自分とは無関係とは考えませんでした。その言葉によって初めて、自分自身の真の姿を知る者とされました。御言葉を真に聞く時、一人一人の中に新しい自己認識が起こる。そしてその新しい自己認識は、新しい生き方をその人に始めさせる。このことは今日においても真理ではないかと思います。

 ニネベの王はこのように自ら悔い改めただけでなくて、王と大臣たちとの名によって布告を出しました。王が出した布告の内容は、7節後半から9節に記されています。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」この布告は極めて特徴的なものであることが分かります。

 その一つは、断食とか粗布をまとう悔い改めの行為を命じられているのが、国民だけでなくて、牛、羊といった家畜にまで至っているということです。家畜までが断食し、粗布をまとって悔い改めを命じられるのは、何か奇妙な気がします。これは王自身が、神の怒りの激しさを徹底的に理解していることの表れと、見ることができるのではないでしょうか。人間だけでなく、人間の罪によって命ある他のすべてのものが、本来の姿からかけ離れたものになっている。そのような王の認識をとおして、私たちも人間の罪がどれほどこの世界と被造物の上に大きな影を落としているかということを知らなければなりません。そのような訴えがここで差し出されています。

 第二の特徴は、「おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ」と命じられていることです。断食するとか粗布をまとうことは、心の中の悔い改めを表現する行為です。王はそれと同時に、悪の道を離れ、その手から不法を捨てよと言います。それによって心の中だけでなくて、実際の生き方においても方向転換することを命じています。悪の道を離れ、不法を捨てよとの言葉は、現実の生き方そのものにおいて、新しく生きることを命じているのです。

 さて、もう一つ王の布告の特徴を見ますと、重要な言葉が最後に付け加えられていることが分かります。「そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」これが最後の言葉です。これは、嵐の船の中で一人眠っているヨナを起こして、ヨナに祈ることを命じた船長の言葉に通じるものがあります。

 1章6節に、船長が語った言葉が記されています。「船長はヨナのところに来て言った。『寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない』」。ここにも、「かもしれない」という言葉が語られていました。ニネベの王の最後の言葉も、「われわれは滅びを免れるかもしれない」でした。結果を神に委ねる謙虚さと神への畏れとを、船長もニネベの王も持っていることが分かります。王は、先ほど申しましたように、自分やニネベの都の人々の中に、神から滅びを宣告されても止むをえない、罪や悪があることを認識しています。だからこそ、自ら悔い改めの行為をなし、布告を出しました。しかしそれと同時に、神はもしかするとその大きな憐れみと愛とによって、私たちを赦してくださるかもしれない。そうした一縷(いちる)の期待と希望をも捨ててはいないのです。

 この神が思い直されるかもしれない、ということによって表されている信仰には、何が込められているのでしょうか。それは、神は単なる原理や法則ではないということ、神は単に機械的に動くお方ではないということです。生きて働く人格あるお方、その方への信頼が、「神は思い直されるかもしれない」という言葉の中に言い表わされています。しかし同時に、「もしかすると」という言葉の中には、自分たちの期待はそうであるとしても、最終的に事柄を決定されるのは神であるということを承認する謙虚さもこめられている。そのことを私たちは知らなければならないのです。

 さて、結果はどうなったでしょうか。それは10節に記されているとおりです。「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことをご覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と、ニネベの人々に御計画を告げ知らされた神は、御心を変えられたのです。神は、王をはじめニネベの人々や家畜までも断食している、そういう悔い改めの様子を見て、それを心からの悔い改めとして受けとめられたのでした。

 旧約聖書には、神が思い直されるかも知れないという記事だけでなくて、実際に神が思い直されたという記事もしばしば出てきます。出エジプト記32章14節に、「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」とあります。モーセの執り成しによって神は災いを思い直された、と記されています。アモス書にも、神が民にくだすと告げられた災いを、アモスの執り成しの祈りによって思い直されたとの記事が、繰り返し出てきます(特に7章)。

 旧約聖書においてはこのように、神の決定や通告が神によって思い直されて、神の計画が変更されることがしばしば起こっています。それはコロコロと考えが変わる神さまのきまぐれによるものなのでしょうか? 決してそうではありません。神が思い直される出来事には、一つの方向性というものがあります。あるいは一つの原則がある、と言ってもよいかもしれません。神が思い直される時のその方向性とか原則とは何か? それは一言で申すならば、より多くのものを救う方向へと神の決定が変更されるということです。そしてそれは、神の愛から出てくるものなのです。

 私たちはそこに、絶対的な方であられる神のなさることの不思議さを思わされます。決して機械的に動かれる神ではありません。きまぐれに心を変えられるお方でもありません。慈しみとまことに満ちた人格的な存在としての神は、より多くを救うために怒りを起こされることがあり、また同じ目的で裁きの決定を取り除かれることもあるのです。それが私たちの神であります。そしてその不可思議な神の愛の業は、やがて御子イエス・キリストをこの世に遣わす出来事において頂点に達したのです。

 主イエス・キリストは、ニネベの都の人々が、ヨナの宣教によって悔い改めたことを引用しながら、ヨナにまさるものがある、と言われました。ご自身のことであります。神の愛と憐れみと赦しのしるしである主イエス・キリストが、この世に来られました。ヨナではなく神の御子が、この世に派遣されました。教会はそのことを知っています。

 私たちは神の忍耐強さがさらに持続されるように祈りながら、より多くの人々が悪の道から離れて、神との結び付きの中で、新しい自分の命と存在を見出す者となるように、和解と執り成しの務めに励みたいと思います。

 「あなたがたの方向をどこに定めるべきか分からない時は、まず主なる神のもとに帰れ」と、語っている人がいます。迷っている時、どう生きたらよいか分からない時、行き詰った時、まず主のもとに帰れ! 私たちはその言葉を自らへの言葉として聞き取りたいと思います。それと同時に、ヨナがあの短い言葉を語り続けたように、私たちも「神に帰れ、迷っている時には神に帰りなさい」というこのひと言を、今の時代において熱心に語り続けていくよう遣わされています。今日そのことを心に刻みたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。ニネベの町に悔い改めを迫ったヨナの言葉に、ニネベの人々と王は、自らの罪を認め心から悔い改めました。神様もその悔い改めの真実さを受け入れ、ニネベに対する審きを思い留まりました。神様は何にも増して、私たちが砕かれた思いをもってあなたに立ち返り、罪を悔い改めることを願っておられます。神様のその深い愛の御心を私たちが忘れることがありませんよう、どうか私たちを導いていてください。これから季節は、どんどん暑さへと向かいます。どうか、一人一人の健康をお支えください。このひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。

神の言葉を無にせず

マルコによる福音書7章1~15節 2024年7月7日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

私たちは食事の後で食器を洗うとき、まず洗剤で洗い、そのあとよく濯いで拭きます。でも研修旅行をしたドイツではあまり濯ぐことなく、少々洗剤の泡が食器に付いていても、布巾で泡を拭いているのをよく見かけました。私たち日本人には大変違和感を覚えるものです。習慣の違いなのでしょう。

 今日の聖書の箇所も、食器の洗浄の違いではありませんが、手を洗う、洗わないということから問題が起こっています。私たちも食事の前に手を洗ったり、あるいは外出して帰宅した時にシャワーを浴びたりと、健康を維持するため、あるいは快適に過ごすために、各自が努力しています。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちの言う、手を洗わず食べるという「汚れ」は、どうも衛生上の問題というよりも、宗教上の問題のようで、主イエスの弟子たちを宗教的に攻撃しているようであります。

 ご存じのように、旧約聖書のレビ記などには、清いものと不浄のものについての規定が詳細に記されています。これらは、唯一なる神を聖なる者として位置づけ、イスラエルの民が歩むべき道を具体的に示し、それを守ることによって、選ばれた民の栄光が約束されると、実に分かりやすく命じています。たとえば、外出先で知らないうちに汚れた物に触れたり、あるいは異邦人、異教徒との接触で受けた汚れ、そういう汚れたものをいかに清めるかが重大な関心事でした。また、先祖たちが荒野でさまよい、空腹のときにも導き手である神は見捨てず、天からのパンをもって養われたという体験もありまして、食事というのは、ユダヤ人にとっては特に清められ感謝されたものでなければなりませんでした。ですから、手を洗わないで食事をすることは許されないことでした。

 確かに、このような清浄規定は、本来神への畏れを表明するものであったでしょう。しかし、今日のファリサイ派や律法学者たちは、純粋に神を畏れるゆえに手を洗えと言っているのではないようです。そのことを主イエスは、「神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」、「自分の言い伝えを大事にして、神の掟をないがしろにした」と言われるのです。彼らの言葉の根拠を、「人間の言い伝え」、「自分の言い伝え」として、決して聖なる神に根拠づけられてはいないと喝破されたのです。彼らの信仰を別なものにすり替えていると言われたのです。いつの間にか、モーセの律法の根本精神から離れ、それに味付けし色付けした人々の言い伝えが一人歩きして、唯一絶対なる神が、ないがしろにされてしまった現実を主イエスは指摘されたのです。そして、主イエスは「人から出て来るものが、人を汚すのだ」と、「汚れ」ということの中に、更に深い意味を語られたのでした。

 武蔵野美術大学教授吉田直哉氏が、1985年の夏、撮影のためヒマラヤの麓、ネパールのある村に行った時のことを記しています。この村は海抜1500メートルの傾斜地に位置し、ここへ至るには凸凹の道を歩くしかなく、ポーターを雇って機材と食糧を運びました。余分な物は持って行けず、真っ先にいちばん重いビールを諦めなければなりませんでした。一日の仕事を終え、目の前に流れる清流を見て思わず、「ここで、ビールを冷やしたらおいしいだろうな」と口にしたのを聞きつけた村の少年が、「ビールが欲しいのなら、僕が買って来てあげる」と言いました。そこで、どこまで買いに行くのかと尋ねると、一行が車を捨てた峠までだと言います。大人の足でも往復三時間はゆうにかかる距離です。それは遠すぎると言うと、暗くならないうちに帰るから大丈夫だと言うのです。そこで吉田先生は少年にお金を渡して頼みました。少年は夜の8時頃、5本のビールを背負って帰って来ました。翌日また、「今日はもういらないのか」とその少年が聞くので、「飲みたいが、君にまた頼むのは申し訳ない」と言うと、「今日は土曜日で学校がなく、明日も休みだから、大丈夫だ」と言うもので、1ダースは充分に買えるお金を手渡して頼みました。ところが少年は夜になっても帰って来ません。村人に事故に遭ったのではないかと聞くと、「それほどの大金を預かったのなら持ち逃げしたに決まっている」と、大人たちは口々に言いました。次の日も、学校のある月曜日になっても帰って来ません。そこで、吉田先生は学校に行き、事情を説明して謝罪しました。ところが学校側も、「事故ではなく、持ち逃げしたのだ」と言うのです。吉田先生は、ネパールの予供にとっては信じられないほどの大金を持たせたために、素晴らしい子供の人生を狂わせてしまったと、大変後悔しました。しかし、先生にはどうしてもあの少年が盗みをするとは考えられず、やはり事故ではないかという思いで、いても立ってもおられない気持ちでした。すると、三日目の深夜、宿舎の戸を激しくたたく音がしたので、開けて見ると泥まみれの少年が立っています。訳を聞くと、少年が買いに行った村の店にはビールが三本しかなく、山を四つも越した別の峠の店まで買いに行き、合計十本手に入れたが、途中で転んで三本割ってしまったと、べそをかきながら、七本のビールと割れたビンの破片とつり銭を見せました。その時、吉田先生は思わず少年の肩を抱いて泣いてしまいました。そして、あんなに深く反省したことはないとおっしゃっています。

 さて、主イエスは、「人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と言われます。本当の汚れは手を洗わないというような可視的、衛生的なものによるのではなく、人の心の中から出て来るものによると言われるのです。これは、当時のファリサイ派や律法学者たちの理解とはまったく異なったものでした。それは、清めに関する多くの掟と言い伝えを破棄するのみならず、信仰理解の根本的な変革を主イエスは求められたと言えましよう。儀式、形式を守れば、「汚れ」というものが消えるものではなく、むしろ妬み、欲望、憎しみ等、そのような人の心から出て来るものが、他者を傷つけるのだといわれているのです。神に赦されているのに他者を許せないのが私たちであります。信仰を持って生きるということは、私たちが何か立派に生きることでも、人から誉められる人間になることでもありません。むしろ、見えないところにおられる神に出会い、その神の前に立ち、その神に向かって生きることであります。そのような生き方を阻害する要因は外的条件にあるのではなく、自分自身の中にあるのだと主イエスは言われるのです。そして、「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」というのは、ファリサイ派や律法学者だけに向けられた言葉ではなく、今ここにいる私たち一人ひとりに向けられた言葉でもあるのです。私たち一人ひとりの教会生活をも問うておられるように思えます。先ほどの、吉田先生が、少年の肩を抱いて泣いたこと、そして反省したことの中に、えも言われぬ思いが込められています。それは、深く考えもせず、少年にお金を渡したことだけではありません。それにも増して、村人たちが、事故ではなく持ち逃げしたのだという言葉に納得しようとする思いと、もしも事故であったならどうしようという先生の良心との間で、心が揺れ動き、惑わされている姿であります。しかし、少年が約束したことを最後までやり通したことで、吉田先生は救われました。どこからか、主イエスの「人の中から出て来るものが、人を汚す」の言葉が響いて来るように思うのです。

 ひまわりの便りが聞かれる季節、青く澄んだ夏空のもと、畑や道端で、風に揺れながら咲いている光景は絵のようです。ファリサイ派や律法学者たちは、自分たちの言い伝えを固守することによって、独善的な絵になろうとしたのでしょうか。しかし、主イエスは私たちの汚れをも知り尽くし、まるで一本のひまわりのような、寄る辺ない私たちを、神の愛という青空で包んで下さり、なくてはならない一本一本のひまわりとして、咲かせて下さいます。ひまわりが絵になるこの季節、私たちも感謝をもって咲きほころびたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も猛暑の中、、敬愛する兄弟姉妹と礼拝を守ることができ、心から感謝いたします。主イエスは私たち人間を汚すものがどこから来るのかを示されました。「人の中から出てくるものが、人を汚すのである」。その御言葉は、私たち一人一人の歩みを鋭く問うものです。どうか、主の深い御言葉を見つめつつ、この一週間を過ごさせてください。夏本番のような猛暑が続きます。また新型コロナ感染症も身近なところで流行っています。どうか、一人一人の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン