目を覚ましていなさい

マルコによる福音書13章28~37節 2025年7月27日(日)主日礼拝説教

                              牧師 藤田浩喜

 主イエスは、御自身が十字架にお架かりになる直前に、世の終わり、終末について預言なさいました。マルコによる福音書13章全体がその預言を記していたのですが、その最後の所が今朝与えられている御言葉です。

 少し前に、世の終わりである大きな終末と、私たちの人生の終わりである小さな終末があるということをお話ししました。世の終わりである終末についてはあまりピンと来ない人でも、自分の人生に終わりがあるということは分かります。

この二つの終末、大きな終末と小さな終末には重なるところがあります。それは、この世界にしても、自分の人生にしても、それが閉じられることによって完全に終わってしまうのではないということです。大きな終末は、ここで主イエスが「人の子が戸口に近づいている」と言われたように、「人の子」つまり主イエス御自身が再び来られる。そのことによって、この目に見える世界は終わり、新しい世界、新天新地が来るわけです。それと同じように、小さな終末、私たちの人生は死をもって終わるのですけれど、それですべてが終わるのではないのです。死の向こうに、復活の命によみがえって主イエスと再びお会いするということがあるのです。このことを悟れと、私たちは言われているのです。

 

 では、悟ってどうするのでしょうか。それは、終わりが来ることを知っている者として生きよ、いつ終わりが来てもよいように備えて生きよ、ということです。この「終わりがいつ来てもよいように生きる」、それが「目を覚ましている」ということなのです。

 主イエスは32節で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」と言われました。大きな終末がいつ来るのかは、主イエスも天使たちも知らないのです。天地を造られた父なる神様しか知りません。いつの時代にも、「○年○月に世の終わりが来る」と言って不安をあおる人々がいます。しかし主イエスは、「わたしも天使たちも知らない」と言われたのです。それゆえ、いつ終わりが来るかを知っていると言う人は、自分は主イエスよりも知恵があると言っているのと同じです。これはあり得ないことでしょう

 主イエスはここで、終末がいつ来るのかは分からないと言われたのですが、分からないから備えていなければならないということなのです。主イエスがこのことを告げられて2000年経つけれど、まだ「終わりの日」は来ていないではないか。だったら、自分の目の黒いうちには来ないだろう。そう思う人も多いかもしれません。しかし、たとえそうであっても、私たち一人一人にやがて来る小さな終末から逃れられる人は誰もいないのです。そして、それはいつやって来るか分からない。私は怖がらせているのではありません。主イエスも私たちを恐れさせようとされたのではないのです。そうではなくて、終わりが来ることを知らない者のように、ただ面白おかしく生きればよいということではダメだ。そしてまた、終わりが来るのだから何をやっても無駄だと、すべてを諦めて生きるのでもない。主イエスが再び来ることによって来る終わり、新しい世界の創造、そして自分の人生の終わり、主イエスの御前に立つその日が来ることを知っている者は、第三の道を歩むのだ。それが「目を覚まして生きる」ということなのです。

 「目を覚ましていなさい」ということを、33節、35節、37節で、主イエスは繰り返しお語りになりましたけれど、その前に31節で、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と告げられました。天地は滅びる。それがいつ来るのかは分からない。でも心配することはない。なぜなら、主イエスがお語りになった言葉、救いの約束、それは決して滅びないからです。それはこの世界が終わる時、主イエスが再び来られて世界を新しくされるという約束です。この地上での生涯を閉じた者が、その時主イエスの御前に復活させられるという約束です。その約束は確かなことだから、「目を覚まして生きよ」と言われたのです。

この「目を覚まして生きる」というあり方を、主イエスは34節で、「家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」と言われました。このたとえにおいて、「僕たち」とは私たちのことです。「家を後に旅に出る人」とは主イエスのことでしょう。

 主イエスはこのことを教えた数日後に、十字架にお架かりになるのです。もちろん主イエスは、十字架にお架かりになって終わったのではありません。三日目に復活され、40日にわたってその復活の姿を弟子たちに現されました。そして、天に昇って行かれました。今は天の父なる神様の右におられ、この世界を支配しておられます。しかし、私たちはこの目で主イエスを見ることはできません。その意味で十字架にお架かりになられる主イエスは、僕たちを残して旅に出るようなものなのです。そして主イエスは、この地上に残される弟子たちに仕事を与え、再び御自身が来られる時まで「目を覚ましているように」と言われたのです。

 主イエスは旅に出たのですから、必ず戻って来られるのです。それが主イエスの再臨です。もう戻って来られないのであれば、僕たちは待つ必要はありません。目を覚ましている必要は無いのです。しかし、主イエスは来られるのです。だから、私たちは目を覚まして待っていなければならないのです。

 この「目を覚ましているように」と告げられた門番の仕事、目を覚ましてし続けなければならない仕事、責任とは何でしょうか。ここには具体的には記してありませんが、幾つも考えることができるでしょう。三つのことを考えてみます。

 第一に思わされますことは、この「目を覚ましていなさい。」と主イエスが言われたもう一つのとても有名な場面、それは14章32節からのゲツセマネの祈りの場面です。この時、主イエスは御自身の十字架の死を目前にして本当に必死に祈られたのですが、その時ペトロたちは眠りこけてしまったのです。しかも、何度主イエスに起こされても眠ってしまう。実に三回も眠りこけてしまったのです。その弟子たちに主イエスが言われたのが、「目を覚まして祈っていなさい」という言葉でした。

 この出来事はペトロとヨハネとヤコブしか知らない出来事ですから、彼らが黙っていればこのように聖書に記されることはなかったでしょう。しかし、この様に聖書に記されているということは、彼らが自分でこの出来事を話したということです。私は、彼らが何度もこの話をしたのではないかと思います。「私たちは、イエス様が十字架にお架かりなる前の日に必死で祈っておられたのに、眠りこけてしまった。イエス様は『目を覚まして祈っていなさい』と言われた。だから、もう眠りこけることなく、私たちは祈りつつ歩んでいくのです。」そのように話したのではないでしょうか。

 このことを考えますと、「目を覚まして生きる」ということは、祈る者として生きる、祈りを忘れずに生きる、ということになるのではないかと思います。終わりが来る。しかしそれは、主イエスが再び来られるというあり方で来るのです。ですから、いつ主イエスが来られてもよいように、主イエスの御前に生きる。それは祈る者として生きる、祈りつつ生きるということでありましょう。

 第二に、ここで主イエスは、弟子たちつまり私たちを門番にたとえられているのです。門番とは、主人の家を守るために立っている者でしょう。もちろん、一人の門番がずっと寝ないで起きているというわけにはいきません。現代で言えば、三交代制ということだったのかもしれません。この主人の家とは、主イエスの家ですから教会のことでありましょう。ですからこれは、教会を守る、主イエスの教え、主イエスの救い、それを盗まれないように、つまり間違ったものに変えられないように守るというようにも読めるでしょう。そして、そのように使徒以来の信仰を守っていくという責任・使命というものは、一人の門番だけに課せられている責任ではありません。僕全員、つまり教会全体に課せられている使命であり、責任なのです。

 第三に、主イエスは一番大切な教えとして、神様を愛することと隣人を愛することを教えてくださいました。ですから、この「目を覚まして生きる」ということは、愛に生きることなのだとも言えるでしょう。神様に愛され、神様を愛する。隣人を愛し、隣人に仕える。この愛に生きることこそ、目を覚まして生きる者の姿なのだと言ってもよいと思います。山に籠もって大変な修行をすることなど、主イエスは私たちにお求めになったりはしません。そうではなくて、日常の、目の前にいる一人一人に心を遣い、時間を使い、体を使うことです。愛に生きるということは、仕える者として生きるということです。自分の目の前にいる人を愛し、これに仕えるということです。

 祈って、教会を守り、愛に生きる。それが終わりの来ることを知った者としての、私たちの責任・使命であり、「目を覚まして生きる」ということなのです。

 私たちは、毎週ここに集まって主の日の礼拝を守っています。この礼拝を守る中に、祈って、教会を守り、愛に生きる私たちの具体的な姿があります。祈りつつ生きる、教会を守る、愛に生きるということの扇の要の位置にあるのが、この主の日の礼拝なのです。主の日の礼拝を守ることによって、私たちは「祈って、教会を守り、愛に生きる者」として整えられ、押し出されていくのです。

 言い換えますと、私たちは主の日のたびごとにここに集まって、終わりの日への備えをしている、いつ終わってもよいための備えをしているということなのです。この礼拝において、私たちは主イエスの御言葉、主イエスが与えてくださった救いの約束が確かなものであることを心に刻み、その御言葉を信頼して、新しい一週へと歩み出していくのです。この礼拝において、私たちは祈る者としての姿勢を正され、主イエスの教えを聞き、愛に生きる者としての志を新たにされるのです。今朝、「目を覚ましていなさい」と主イエスは私たち一人一人に告げられました。この主イエスの御言葉が私たち一人一人の心に宿り、私たちの一足一足の歩みを導いてくださることを、心から祈り願っていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。主イエスは「目を覚ましていなさい」と私たちに語られます。それは再臨の主が、いつこの世界に戻られてもよいようにということです。その日は大いなる喜びの日です。どうか、その日を待ち望みつつ、祈り続け、教会を守り、愛に生きることができますよう、私たちひとりひとりを強めていてください。

猛暑の日々が続いています。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。熱中症などの危険からお守りください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。

わたしの言葉は滅びない

マルコによる福音書13章28~31節 2025年7月20日(日)伝道礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

                      

今朝朗読されたマルコによる福音書第13章28節に、「いちじくの木から教えを学びなさい」という主イエス・キリストの御言葉が記されています。いちじくの木は、主イエスがおられた地域ではごくありふれた、どこにでもある木でした。主イエスもここで、いちじくの木の様子が季節によって変わっていくことを示しておられます。それによって教えようとしておられるのは、移り変わっていく木の姿から、今がどのような時なのかを知れ、ということです。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近いことが分かる」ということです。

ここに、聖書における物事の見方、捉え方の一つの特徴が表れています。それは、物事を時の流れの中で捉え、今がどのような時で、これからどうなっていくのかを考える、ということです。それを歴史的感覚と言うこともできます。歴史の年表を思い浮かべて下さい。年表は直線的です。そういう直線的な歴史の流れの中を生きているという感覚です。そこでは、過去を振り返り、過去の影響の下にある現在を見つめ、今どうすることによってこれからどうなっていくという展望を持って、将来に向かって進んで行かなければならないのです。

主イエスがいちじくの木から学べと言っておられるのは、そういう歴史的感覚です。しかもそれは、私たちがよく耳にしているような、これからの世界経済はどうなっていくかとか、少子高齢化が社会にどのような影響を及ぼしていくか、気候変動によって地球はどうなっていくかなどといった、深刻な問題ではありますが、しかし目先の歴史を見つめる感覚ではありません。主イエスはもっと根本的な、この世の終わりをも視野に入れた歴史的感覚を持つようにと言っておられるのです。29節に「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」とあります。いちじくの葉から夏の接近を知るように、「これらのこと(すなわち、13章のこれまでのところで述べられた出来事)」を見たら「人の子が戸口に近づいている」ことを悟れ。それは、主イエスがもう一度この世に来られ、それによってこの世が終わる時が近づいているということです。主イエスの再臨によるこの世の終わりを視野に入れて生きよ、と主イエスは言っておられるのです。

しかしそれは、あと何年で主イエスがもう一度来てこの世が終わるのか、ということをいつも考えながら生きるということではありません。「人の子が戸口に近づいている」という言葉をそのような感覚で捉えるなら、初代の教会の時代からもう二千年が経とうとしているのに、まだ人の子は来ていない、主イエスのこの御言葉は間違っていたのではないか、ということになるでしょう。しかしこの御言葉は、世の終わりまであと何年か、ということを考えさせようとしているのではないのです。教会の歴史の中には時折そういう間違いに陥った人々が現れました。何年何月何日にこの世が終わる、などと言い出す人が現れたのです。そのような思いに捕えられてしまった人は、本来神様から自分に与えられているはずの日常の生活に手がつかなくなってしまいます。そして「もうじきこの世が終わるなら、今さら何をしても仕方がない、せいぜいやりたいことを好きなだけして楽しもう」という享楽的な生き方になるのです。しかし「人の子が戸口に近づいている」ことを意識しつつ生きる生き方とは、そのようなものではないのです。

それでは、どのように生きることが世の終りを意識して生きることなのでしょうか。宗教改革者ルターの言葉とされていますが、「たとえ明日この世が終わるとしても、私は今日リンゴの木の苗を植える」という言葉があります。この言葉に現されている生き方こそ「人の子が戸口に近づいている」こと、つまりこの世の終わりが始まっていることを、正しく意識して生きる信仰者の生き方なのです。

このルターの言葉には、この世の終わりを視野に入れた歴史的感覚が語られています。歴史的感覚を持つとは、過去を振り返ることによって今の時代の意味を捉え、将来への展望を持って、今自分がなすべきことを見定め、実行していくことです。つまり「私は今日リンゴの木の苗を植える」ということに示されているように、今をしっかりと生きることです。つまりこの言葉に言い表されているように、この世の終わり、終末を見つめつつ、それでも刹那的な生き方に陥らない歴史的感覚を持ちつつ、将来への展望を持って、今を生きることが大切なのです。

それは、この世の終わり、終末を見つめる時だけのことではありません。私たちの人生の終わりである死を見つめる時にも、同じことが起こります。死は、私たちの人生の終末であり、この世において自分が持っている全てのものを失う時です。この世における自分の営みが無に帰することです。そういう死が自分にも必ず訪れますし、人生は その死に向かって確実に近づいているのです。死は私たちに「終わり」があることを意識させます。私たちの人生が、閉じられた円の上を繰り返し回る円環的なものはなくて、始めがあり終わりがある直線なのだということを、死が教えているのです。つまり死は、私たちの人生に終わりがあることを見つめさせることを通して、この世の終わり、終末を私たちに見つめさせるのです。この世の終わりが、私たちの人生において先取りされるのが死であると言うことができます。その死を正面から見つめる時、私たちはやはり空しさに捕えられ、刹那的になってしまう。そうならないためには、明白な事実である死をできるだけ見ないように、それには触れないように蓋をして、ごまかして生きている、それが私たちの現実なのではないでしょうか。その点からいえば、「たとえ明日この世が終わるとしても、私は今日リンゴの木の苗を植える」と言ったあのルターの言葉は驚くべきものです。それは言い換えれば、明日死ぬことが確実に分かっているとしても、私は今日も自分のいつもの仕事をする」ということです。このように、終わりを、死を、正面から見つめつつ、それによって動じることなく、刹那的にならずに、今をしっかりと生きていくという生き方は、一体どこから生まれるのでしょうか。

その秘密は、本日の箇所の31節にあると言うことができるでしょう。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。ここには、天地が滅びること、つまりこの世が終わり、人間の営みが全て無に帰することが明確に見つめられています。しかしそれと同時に、その終わり、喪失、崩壊においても決して滅びることのないものがあることが見つめられているのです。その「滅びないもの」とは「わたしの言葉」です。主イエス・キリストの御言葉、神様の御言葉です。天地が滅びても、神の言葉だけは決して滅びない、その滅びないものを見つめる時に、そこには展望が与えられ、刹那的にならない生き方が与えられていく。主イエスはそのことを私たちに見つめさせようとしているのです。

天地は滅びても神の言葉は決して滅びない。旧約聖書イザヤ書40章6節以下にも同様のことが語られています(旧約1124頁)。主の風が吹きつけると、草は枯れ、花はしぼむ、しかし私たちの神の言葉はとこしえに立つ。その草や花とは、「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」とありますから、この世を生きている私たちのことです。私たちは、主の風、熱風によって、草や花のように枯れ、しぼんでいくのです。そのことが私たち一人一人の人生において起こるのが死であり、この世界全体に最終的に起こるのがこの世の終わりなのです。しかしその終わりの時の崩壊、滅亡を越えて、神の言葉はとこしえに立ち、決して滅びない。ルターは、その決して滅びることのない神の言葉を見つめていたのです。それゆえに、全てのものが滅びていくこの世の終わりを見つめつつ、また自らの人生の終わりである死をも見つめつつ、なお展望をもって、刹那的になることなく、「明日この世が終わるとしても、私は今日リンゴの木の苗を植える」と言うことができたのです。

この神の言葉が、天地が滅びてもなお滅びることがないというのは本当でしょうか。天地が滅びて人間が皆死んでしまえば、どのような言葉も人間と共に滅びてしまうのではないかと、私たちは思います。しかしそうではないのです。そのことを告げているのが、主イエス・キリストの復活です。神の子主イエスは、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さっただけではありません。その主イエスを、父なる神様が復活させて下さったのです。つまり主なる神様が死の力を打ち破って、主イエスに、新しい命、永遠の命を与えて下さったのです。

それは、私たちにも同じ復活の命、永遠の命を与えて下さるためです。主イエスを復活させて下さったことによって神様は、私たちをも死の支配から解放し、永遠の命を与えて下さるということを約束して下さっているのです。神の言葉は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した神様のこの救いの約束を告げ知らせています。言い換えれば、独り子イエス・キリストによって示された神様の愛が、死の力をも打ち破るものであり、私たちの人生の終わりである死を越えてなお、私たちを新しく生かすものであることを、神の言葉は告げているのです。それゆえに、この神の言葉、そこに示された神の愛は、私たちの死と共に滅びてしまうようなものでありません。この世の終わりに天地が滅びても、それと共に滅びてしまうことはないのです。

この世の終わりに天地が滅びる、そのことは既に始まっており、そこに向けての苦しみを既に私たちは味わっています。しかしそれらの大きな苦しみを経て、最終的に実現するのは、26節に語られていたこと、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」ということなのです。つまり人の子主イエスが、救い主としての力と栄光をもってもう一度来て下さり、そのご支配が誰の目にも明らかな仕方で確立するのです。それによって私たちの救いが完成し、復活と永遠の命が与えられるのです。私たちキリスト者は、そのことを待ち望みつつ、忍耐と希望に生きるのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を讃美し御栄を褒め称えます。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。神様、御子イエス・キリストは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました。この御言葉はイエス・キリスト御自身であり、主が十字架と復活によってもたらしてくださった永遠の命です。この世界の終わり、自分の命の終わりを必ず経験する私たちですが、この滅びない御言葉に支えられて、今という時を建設的に、自分の使命を覚えて生きることができるようにしてください。暑さが大変厳しい日がしばらく続きます。どうか教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

希望をもって待つ者たち

創世記15章7~21節 2025年7月13日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

神様は、アブラムを満天の星空のもとに立たせて、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と言い、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。そして最後に、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と結ばれていました。15章5~6節の有名な御言葉です。

 「義」というのは、説明しにくい概念のひとつですが、ひと言で言えば、「ただしさ」ということです。もっとも聖書で言う「ただしさ」とは、必ずしも「間違いを犯さない」というようなことではありません。それは、神様と人間の間に「きちんとした関係が成り立っている」ということ。関係概念なのです。

 やがて新約聖書において、この創世記15章前半はとても大きな意味をもつようになります。特にパウロは、ここに信仰の根源のようなものを見いだしたのでした。つまりアブラムはなんらかの行いによって義と認められたのではない。言い換えれば、犠牲の捧げものであるとか、割礼であるとか、あるいは善行をするとか、そういう行為によってではなく、ただ「神様の約束を信じた」という信仰によって義と認められ、それによって神様と「きちんとした関係をもつことができるようになった」ということです(ローマ4:3、9~11参照)。それが私たちの信仰の模範であるというのです。パウロは、これをイエス・キリストヘの信仰、つまりイエス・キリストを信じることによって義とされる、というふうに展開していきました。

 これは「行いはどうでもよい」ということではありません。私たちは、そこで神様ときちんとした関係にあるならば、それにふさわしいよい行いをするように、よく生きるようにと、促されていくのです。

さて、そこから15章の後半へと移っていきます。この後半は、前半とは随分異質な感じがします。犠牲の動物などの血なまぐさい記述があります。実は、この15章後半は、前半よりもかなり前の時代に書かれたものであると言われています。6節と7節の問には断絶があり、ここでがらりと調子が変わります。6節までは神学的、あるいは思想的な感じがするのに対して、7節以下は素朴で生々しい物語です。9~12節をご覧ください。

 「主は言われた。『三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしもとに持って来なさい。』アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」。そして17節にはこうあります。

「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」(15:17)

 先ほど申し上げたように、血なまぐさい記述ですが、これは非常に古い時代からの契約の習慣がベースになっていると言われます。大昔、誰かと誰かが契約を結ぶときには、次のようにいたしました。契約をする当事者が立ち会いの上で、いけにえの鳥や動物を真っ二つに切り裂き、その死体を向かい合わせに置きます。そしてその二つに裂かれた動物の間を両方の当事者が通るのです。それは、もしもどちらかがこの契約に違反することがあれば、この裂かれた動物のようになっても文句は言わない、ということを意味したそうです(エレミヤ34:18参照)。自分に呪いをかけるようなものです。だから必ずこの契約を守る、という誓いを込めた儀式でした。

 しかし神様と人間の契約は、初めから不釣り合いな中で結ばれる契約です。もしも、これを厳格に適用しようとすれば、人間は滅びるしかありません。それでも神は、人間と真実な関係(=義なる関係)をもち続けようとされる。どうすればよいのか。特別な形で契約を結ばれるのです。それは、対等な関係の契約ではなく、神が人間に向かって誓いを立てるという契約です。

 神様は、アブラムに動物を持って来させ、それを置かせました。夜になってから、「突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた」(15:17)とあります。神様の側の何かが通り過ぎたのです。アブラムのほうは、その裂かれた動物の間を通っていません。これは、一方的な神の契約であると言ってもよいでしょう。これは、神がアブラムを裏切らないという誓いのしるしでありました。もしも「それでは私も」というふうに、アブラムも同じように誓いを立てた上で成立した契約であれば、アブラムは、いつの日か引き裂かれることになったかもしれません。

 これはノアのときの契約を引き継ぐものであると思います。あのノアのときも、神様が一方的にノアと契約を結ばれました(9:9)。神と人間が条件付きで契約を結べば、人間の不誠実によってそれが破綻してしまうということを、神はご存知なのです。どんなにしても神は人間と真実な関係をもち続けようとされる。そのために一方的に、ご自分の側で犠牲を払うのです。いわばご自分に呪いをかけられるのです。ノアの神、アブラハムの神とは、そういう神です。人間のほうがどんなに神を裏切ろうとも、神は「私は裏切らない」と言われる。

 ですから、私たちが、その神様とただしい関係をもち続けるために求められているのは、神がそういう神であることを知って、その神を信頼し切るということです。「ただ信仰によってのみ義とされる」という言葉は、そういうことを意味しています(ローマ3:21~28参照)。そしてそれはイエス・キリストを信じる信仰へとつながっていきます。つまり神のその意志、誠実であろうとする意志、どんなにしてでも人間との真実な関係をもち続けるという意志が、イエス・キリストをこの地上へと遣わすことになります。

 さらに、このとき、二つに裂かれた動物、そしてその間を、煙を吐く炉と松明が通り過ぎるという出来事は、イエス・キリストの受難、十字架をも指し示しているのではないでしょうか。イエス・キリストこそは、神と人間が真実な関係をもち続けるために遣わされたお方であり、イエス・キリストこそは、神ご自身が供えられた犠牲の捧げものであったからです。イエス・キリストが神の小羊であるとは、そのことを指し示しています(ヨハネ1:29参照)。

11節を見ますと、「はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った」とあります。いかがでしょうか。私は、これは私たちの信仰生活を暗示しているように思います。信仰をもつということは、そのじゃまをするものを追い払うような一面があるのではないでしょうか。神様と私たちとの間に割って入り、その関係を妨げるものがあるのです。信仰生活はある意味では戦いなのです。

 私たちは、私たちを神から引き離そうとする力、誘惑に取り囲まれています。信仰をもたない人からすれば、「あいつはなんであんな馬鹿げたものを信じているのだろう」と笑われそうです。アブラムは、それをひたすら追い払ったのです。私たちの信仰生活もそのようなものでしょう。

 信仰とは、神との約束に固着し続けることです。つらい試練の中で神を信じられなくなることがあります。さまざまな誘惑の中で神など忘れてしまうこともあります。あるいはそんな神様の一方的な約束などはあるはずがない、そんなことが許されるはずがない、という思いもつきまといます。そういう神様から引き離そうとする力と絶えず戦っていなければ、私たちはすぐに離れてしまいます。だから私たちは、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。

さて最後になりましたが、13~16節の言葉に注目してみましよう。ここにも大切なことが記されています。アブラムの深い眠りの中で、神様が語られた言葉です。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである」(15:13~16)。

 不思議な言葉です。後に、「どうして自分たちは、神様の約束にもかかわらず、つらい経験をするのだろう。エジプトで奴隷になってしまったのだろう」という問いがあって、それに答えるかのようにして、後の時代の人によって挿入されたとも言われます。

 私は、ここにも信仰生活の不安、疑い、戦いというものがよく表されていると思います。どうして神様は約束を果たされないのか。約束の遅延です。信仰生活というのは、別の言葉で言えば、待つことだと思います。深い闇に包まれることもあります。ちょうどこのときアブラムが経験したように、大いなる暗黒が私たちに臨むこともあります。

このときのアブラムにとっては、息子が与えられるという小さな約束ですらも、さらにさらに待たされることになりました。イシュマエルが与えられても、「その子ではない」と、さらに引き伸ばされました。この記述からしますと、神が約束されたことが本当に成就するのは、まだまだこれから四百年以上も先であるというのです。気の遠くなるような話です。しかもその間には奴隷となって、他の民族に仕えなければならないという屈辱的なことまで含まれています。もしも信仰と希望がなかったならば、神様の約束は果たされなかったということになっていたでありましょう。

 アブラムも、子どもが与えられないというつらい状況の中で、ただ神から待つことを強いられました。これから先も、すぐにその約束がかなえられるわけではありません。しかし、信仰とは神の約束を信じて待つことです。どんなに苦しい状況にあっても、その状況を神が知っていてくださり、それをいつの日か喜びに変えてくださると、信じて待つことです。どんなに不可能に思えることであっても、もしもそれが必要なことであれば、必ず神がかなえてくださると、希望をもって耐えることです。そして「待つ」ことは決して受動的ではありません。待つということは祈るということです。祈るということは戦うということです。信仰の戦いによって、私たちは内側から強められていくのです。どんな厳しい道を通らなくてはならないとしても、希望をもって待ち続ける私たちでありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができ、感謝いたします。

父なる神様、あなたは一方的な恵みによって私たちと契約を結び、私たちをイエス・キリストの十字架と復活による救いへと導き入れてくださいました。あなたの契約は何があろうとも必ず果たされます。約束は破られることはありません。どうか、約束の実現を忍耐強く、祈りをもって、待ち望むことができますよう、私たちを励ましていてください。今週は猛暑に加えて、台風の接近が予想されています。どうか、兄弟姉妹の心身の健康を支え、様々な危険からお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

見るべきものを見る

マルコによる福音書13章14~27節 2025年7月6日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 マルコによる福音書を読み進めています。14章からは主イエスの受難の歩みが具体的に始まりますので、この13章は主イエスがまとまった形で語られた最後の教えと言ってよいでしょう。その意味では、主イエスの遺言のような性格もあると言えます。またこの13章は、マルコによる福音書の小黙示録と呼ばれ、主イエスが終末について預言されたことが記されている所です。しかし、よく読んでみますと、終末そのものというよりも、終末が来る前に起きる大変な出来事について記されていることがほとんどです。

 13章の初めから順に見て参りますと、6節に「わたしの名を名乗る者が大勢現れ」とあります。つまり、「私がイエス・キリストだ」「再臨のイエス・キリストだ」「イエス・キリストの生まれ変わりだ」。そんなことを言う者が現れるというのです。それも一人や二人ではない。大勢です。7節には「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞く」、8節には「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」、つまり民族紛争や世界大戦のようなものがあるというのです。また、「方々に地震があり、飢饉が起こる」というのです。更に9節や13節では迫害も予告されています。このように、主イエスは、偽キリストが現れ、戦争、地震、飢饉、迫害が起きるというのです。どれもこれも、その場に居合わせれば「もう世界の終わりだ」と言いたくなるひどいことです。しかし、主イエスは、7節で「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と告げられました。確かに、主イエスがこのことを語られた時からずっと、いつでも戦争も地震も飢饉も迫害もありました。偽キリスト、今で言うカルト宗教でしょうが、これもいつの時代にもありましたし、今もあります。しかし、まだ世の終わりではありません。もっと正確に言うならば、もう終わりの時は始まっているけれど、完全には終わっていないということでしょう。なぜなら、私たちの救い、この世界の救いはまだ完成していないし、この世界はまだ完全に新しくはなっていないからです。

 主イエスがこのような終末についての預言をなさいましたので、終末と言えば何かとんでもなく恐ろしいことが起きる、私たちはそのようなイメージを持っているかもしれません。しかし、それらの恐ろしいことは、終末そのものではないのです。終末の前に起きることなのです。そして、それらの恐ろしいことは今までも起き続けてきましたし、今も起きています。ですから、これらの主イエスの言葉から、私たちは「自分たちはもう終わりの時に生きているのだ」ということを知らなければならないということなのでしょう。この「終わりの時」に生きている私たちのなすべきこと。それは決まっています。父・子・聖霊なる神様を信じ、これを愛し、これに従って生きるということです。目に見える様々な誘惑を退けて、すでに救われた者として生きるということです。そして、終わりの日に生きる私たちの姿は、この主日礼拝に集うというあり方において、最も明らかに示されるのでありましょう。いつ終わりの時が来てもよいように、主の御前に立たされる日に備えている者の姿が、この礼拝に集う私たちの姿なのです。

 さて、今朝与えられております御言葉において、終わりの日が来る時の徴について、もう一つ加えております。14節「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら―読者は悟れ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」とあります。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」というのです。これは何を意味しているのでしょうか。戦争や地震や飢饉といったものとは少し違うようです。

 多くの学者たちは、この主イエスの言葉の背後には、当時のユダヤ人ならば誰もが知っている、すでに起きた具体的な出来事が下敷きとしてあると言います。その出来事というのは、主イエスがこのことをお語りになった時から約200年程前、紀元前167年に起こりました。当時ユダヤを支配しておりましたセレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネスという王が、エルサレムの神殿にギリシャの神であるゼウスの像を建てたということがあったのです。まさに、神以外立ってはならない所に、憎むべき破壊者が立った。ユダヤ人たちは怒り、マカベアという人を指導者に立ててこれに対抗し、シリアを打ち破るということがありました。そのことを下敷きにしているというのです。そうなのかもしれません。

あるいは、主イエスがこのことを語られてから40年後、紀元後70年にユダヤはローマによって滅ぼされるわけですが、その時エルサレム神殿は破壊されてしまいます。そのことを指していると言う人もいます。主イエスはこの預言の中で、「そのような時は逃げよ」と言われたのですが、実際、生まれたばかりのキリスト教会はこの時、エルサレムから逃げたのです。多くのユダヤ人たちがエルサレムに立てこもる中、キリスト者たちは逃げたのです。

 あるいはまた、王様や独裁者が自らを神として、キリスト者に自らを拝むことを強制する。そういうことが何度も起きました。そのようなことは歴史の中で何度もありました。しかし、主イエスがここで告げられたことは、そういうことだけではないのだと思います。権力者やこの世の王が、本来あがめられるべき神様に取って代わる。そういうことだけではなくて、本来あがめられるべき神様がないがしろにされ、神様以外のものが第一とされ、あがめられる。十戒の第一戒、「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない」が公然と破られる。どんなに大切なものであっても、美しいものであっても、それを神様としてはならないのです。それを神様のようにあがめてしまえば、それは憎むべき破壊者になってしまうのです。それが国家であれ、富であれ、芸術であれ、人間の理性であれ、科学技術であれ、尊敬すべき偉大な人であれ、同じことです。神様以外のものが第一となれば、神様以外のものが神となれば、そこで起きることは、今まで経験したこともないような苦難なのだと、主イエスは告げられたのです。

 そして、その典型として、22節「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」とあるように、偽メシアや偽預言者の出現が挙げられているのです。カルトと呼ばれる反社会的な宗教は山程あります。インターネットで「カルト」で検索すれば、山のように出てきます。仏教系のもの、神道系のもの、キリスト教系のもの、何でもあります。しかし、主イエスがここで言おうとされたのは、そのようなカルト宗教のことだけではないのです。

 神様以外のものが神様のようにあがめられる時、人間は最も厳しい苦難を味わうことになるということなのです。「私について来れば幸せにしてあげる」。そんな言葉に惑わされてはならないと言われたのです。その人が奇跡を見せようとも、惑わされてはならないのです。あなたがたの本当の幸いは、その人や、その思想や、その組織が約束する、目に見える何かを手に入れるというような所には無いからです。それは私たちを幸いにするどころか、最も厳しい苦難を味わせることになるというのです。なぜなら、それによって私たちは神様に造られた本来の自分を完全に見失ってしまうからです。神様との関係を絶ってしまうことになるからです。これこそ、私たちにとって最も辛いこと、まことの命を失うことなのです。この地上において何を手に入れようと、それらはすべて失われていくのです。消えていくのです。私たちが受け継ぐべき良きものは、ただ主イエスのみ。この方だけが私たちの一切の罪を赦し、私たちを神の子とし、永遠の命を与えてくださるのです。ここにだけ、私たちのまことの希望、私たちが生涯を捧げて生きるまことの命があるのです。

 主イエスはここで、終末の前にどのようなことが起きるのかということをお語りになることによって、終わりの時がもう始まっているのだ、私たちが生きているこの時代に起きていることは一体何なのか、そのことを示そうとされたのです。主イエスはこの預言によって、終わりの時に生きていることをしっかり受け止めて、決して惑わされないように気をつけなさいと、告げられているのです。

 では、本当に終わりの日が来た時、何があるのか。聖書はいろいろなイメージで終わりの日に起きることを告げていますが、はっきりしていることは、主イエスが再び来られるということです。これを教会では、主イエスの再臨、再び臨むと書いて、再臨と言います。26~27節です。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と言われていることです。

 最初に主イエスが来られた時、それは二千年前のクリスマスの時ですが、その時にはこの赤ちゃんが救い主だとは分かりませんでした。そのことを知らされたのは、ヨセフとマリア、そして何人かの羊飼いと東方の博士たちだけでした。しかし、再臨される時の主イエスはそうではありません。誰が見ても分かる、そういうあり方で来られるのです。そして、世界中から「選ばれた人たち」を呼び集めるのです。そして、新しい世界、永遠の命に与る神の国の完成、私たちの救いの完成がなされるのです。私たちは、その日を待ち望みつつ、一日一日のなすべき業に励んでいくのです。

 終末ということについて聞いても、あまりピンとこないと言う人もいるだろうと思います。私もそうでした。若い時は全くピンときませんでした。しかし終末というものには、主イエスの再臨と共にやって来る終わりの日、これが本来の終末ですが、これを大きな終末と呼ぶこともできるでしょう。このほかに、私たちには各々、確実にやって来る「死」という終わりの日があるのです。これを小さな終末と呼んでよいと思います。大きな終末も小さな終末も、これから逃れられる人は一人もいません。誰にでも例外なくやって来ます。そして、大きな終末を知り、それに備えて生きる者は、この小さな終末に対しても備えをしている。そう言ってよいのです。

 私たちは今から聖餐に与ります。この聖餐は、主イエスが再び来られる時、主イエスと共に食卓に着く食事を指し示し、その恵みを先取りするものです。この食事に与る者は、自らが「主によって選ばれた者」であることを心に刻みます。そして、自らに与えられている主イエスの救いの約束、永遠の命の約束が確かなものであることを受け取るのです。私たちの地上の命には終わりがあります。しかし、それですべてが終わるのではありません。信じる者たちは主イエス・キリストのもとで、永遠の命に生き続けることができるのです。

 あの十字架に架かり、三日目によみがえられた主イエス。天に昇り、すべてを支配し、私たちに聖霊を注ぎ、信仰を与えてくださった主イエス。やがて天より再び降り、選ばれし者たちを御自分のもとに集められる主イエス。このお方以外のいかなる者が与えると言い寄ってくる幸いにも惑わされることなく、主イエスが備えてくださっている御国を目指して、この一週もまた、それぞれ遣わされている所において、神の子、神の僕として、なすべき務めに励んで参りましょう。

お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心より讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。神様、あなたは主イエスを通して、私たちがすでに終末へと向かう時に生きていることを教えてくださいました。この世界も私たちの人生も終わりへと向かう途上にあります。そのことをわきまえ、様々な誘惑に惑わされることなく、主イエスを見上げて歩む私たちであらしてください。猛暑の日々が続いています。今年の夏も厳しそうです。どうか、兄弟姉妹の健康を支え、熱中症などの危険からお守りください。私たちの世界は今、大変不安定な状態にあります。いつ終わるとも分からない戦争に苦しむ人たちが多くいます。どうか、このような不条理な戦争を一日も早く終わらせてください。人々が平和な日常生活を取り戻すことができますよう、導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

主に目を注いで生きる

使徒言行録4章23~31節 2025年6月29日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜 

 使徒言行録にはしばしば、「イエス・キリストの名によって」という表現が出てきます。例えば、ペンテコステの日にペトロが語ったメッセージの中にこういう言葉が出てきます。「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(2:38)。また、足の悪い人を癒やした場面でもペトロはこう言っています。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3:6)。

 そして、今日読んでいただいた聖書の中に登場する弟子たちも、神に向かって次のように祈っています。「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(4:30)。

 古代のユダヤ人の理解によれば、「名前」は「人格」そのものであり、「名前を呼ぶこと」は「その人を呼び出すこと/その人の力を呼び出すこと」であると考えられていたと言います。そうであるとすれば、「主イエスの名を呼ぶ」ことは、まさに「主イエスその人/主イエスの力そのものを呼び出す」ことであり、その時その場に主イエスに来ていただき、主イエスに働いていただくことに他ならなかったということになります。

 今日は読んでいただきませんでしたが、使徒言行録4章1節以下では、祭司や長老、サドカイ派などユダヤ教の指導者たちが、ペンテコステの後盛んに伝道した主イエスの弟子たちの行動にいらだちを覚え、ペトロとヨハネを捕らえて牢獄に入れるという事件が起こったことを伝えています。翌日、二人は大祭司をはじめとするユダヤ教の権威ある人々の前に引き出され、取り調べを受けました。

 つい2カ月ほど前、主イエスが捕らえられて裁判を受けていた時には、身を隠していた弟子たち、主イエスを裏切った弟子たちが、今度は主イエスと同じ立場に立たされることになったのです。使徒言行録はこの場面を総括して、彼らは「無学な普通の人」であったが、「大胆な態度」で語り、主イエスを証ししたので、人々は皆驚いたと記しています(4:13)。

 最初に取り調べにあたった人々はこう問いました。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」(4:7)。「ああいうこと」というのは、3章でペトロが足の悪い人を癒やした奇跡のことを指しています。

 ペトロは答えました。「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(4:10)。ここでもまた「イエス・キリストの名」が出てきます。

 「私たちが彼を治したわけではない。イエス・キリストの名が、すなわち、イエス・キリストご自身がそれをなさったのだ。」「あなたがたはイエス・キリストを十字架で殺したが、神はあの方をよみがえらせ、イエス・キリストは今もなお生きて働いておられるのだ。」ペトロは、およそこういった意味のことを人々の前で証ししたといえるでしょう。

 結局、この取り調べにあたった人々が出した結論は、次のようなものでした。  「このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう」(4:17)。そして、二人に向かって「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」(4:18)と命令し、脅(おど)しつけたというのです。

 今日お読みいただいた使徒言行録の場面はその続きです。釈放された二人が仲間たちのもとに戻ってきた場面です。ペトロとヨハネは自分たちが経験したことを、そこにいた弟子たちに語りました。もちろん大祭司たちが彼らに課した命令や脅しも語ったはずです。

しかし、彼らはそうしたことを全く顧みることなく、次のように祈ったと記されています。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(4:29~30)。

 弟子たちの祈りは挑戦的です。大祭司たちが「使ってはならない」と命じたばかりの「イエス・キリストの名」によって彼らは祈るのです。彼らが祈り求めたことは、「私たちを守ってください」とか「どうしたらいいでしょうか」ということではありませんでした。「もっと大胆に」語り、癒やし、働きつづけていくことができるようにと、彼らは祈り求めたのです。

 使徒言行録の中では、この「大胆に」という言葉もまた繰り返し使われる言葉の一つです。言うならば、使徒言行録とは、弟子たちが「イエス・キリストの名」に立って「大胆に」語り、「大胆に」行動し、「大胆に」福音を宣べ伝えたことを記録した文書なのです。

 しかし、弟子たちが最初からそうした「大胆さ」を持っていたわけではありません。また、いつでも彼らが「大胆」であり得たというわけでもありません。使徒言行録の中で「大胆であれ」という呼びかけが繰り返されるということは、逆にいえば、「大胆でありえない」弟子たちの現実や状況があったことを前提としているのです。事実、イエス・キリストを証しすること、宣教することは、弟子たちにとって恐ろしいことであり、さまざまな犠牲をともなう行為であったことを、使徒言行録はいろいろな箇所で証言しています。

 すでに見たようにペトロやヨハネが経験した逮捕や取り調べ、命令や脅しは、ほかの弟子たち、ことにパウロもまた経験したことでした。牢獄や鞭打ちといった公式の刑罰。また、私的なリンチのような形で行われる暴力や迫害。見知らぬ町、見知らぬ人々が、彼らに向ける嘲笑や無視。こうした境遇の中で、弟子たちは町から町へ、村から村へと渡り歩き、あるいは逃げまわりながら、「イエス・キリストの名」によって「大胆に」語り、また行動したのです。

 宣教という働きはいつの時代にも、危険や恥、失望、空しさ、徒労感といったものと背中合わせの営みです。長年にわたってささげられ積み重ねられた多くの祈り、努力、知恵、配慮、そしてお金……。そうしたものが目に見えるかたちでめざましい宣教の実を結ぶとは限りません。一般社会の基準に立ち、効率や成果を基準として考えたら、宣教の業はまるでお話にもならないものかもしれません。

 しかしながら、本当のことを言うと、私たちの宣教の業が決して空しいもの、無意味なものではないということもまた事実なのです。パウロは第二コリント書の中にこういう言葉を残しています。「わたしたちは人を欺いているようで、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」(6:8~10 新約331頁)。

 皆さんの中にもそうお感じになる方があるかと思いますが、この言葉は、私自身、牧師として、また一人のキリスト者として、年月を重ねるごとに「本当にそうなんだ」という思いが深まってくる言葉の一つです。事実、私たちの教会も「人に知られていないようでいて、よく知られ」ているのです。おそらく私たち自身が想像するよりもずっと広くまた多くの人々に「知られている」ように思います。

 例えば、そのしるしとして、教会にはしばしば思いがけない訪問者があり、また電話で相談を持ち込んでくる人がいます。そういう人々の中には、本当に人生のぎりぎりのところに追い込まれてこの教会にやって来るという人が何人もいます。その中には、ただ一度この教会に足を踏み入れるだけの人もいますし、何年にもわたって関わりつづけている人もいます。そして、それにもかかわらず主日礼拝や祈祷会などには全くやって来ない人もいます。

 しかし、今ここに集っている皆さんが一度も会ったことのない人でありながら、人生の重要な瞬間にこの教会にかかわりを持った人が何人もいたということは疑いようのない事実なのです。そして、そういったことは決して昨日今日に始まったことではなく、この教会がここに建てられてからずっと、何度となく繰り返されてきたことだったに違いないのです。

 もちろん、そうした人々は教会の歴史の中には記録されていません。しかし、繰り返しますが、そういう人々がいたということは事実であり、この教会がそういう人々に知られていたということは消すことのできない事実です。

 そうした人々は、なぜ私たちの教会にやって来たのでしょう。教会の建物や名前に引かれてやって来たのでしょうか。プロテスタントだから、あるいは日本キリスト教会に属している教会だから、やって来たのでしょうか。

 おそらくそうではありません。もちろん牧師の名前を見てやって来たわけでもないでしょう。では、なぜそうした人々はこの教会にやって来たのでしょう。

 そうした人たちがやって来る理由はただ一つ、ここが「イエス・キリストの名」を掲げているからであると私は思います。「キリストなら何とかしてくれる。」

それが、彼ら彼女らをこの教会へ導いた理由なのです。使徒言行録の時代以来、延々と宣べ伝えられてきた「イエス・キリストの名」。この名前のゆえに私たちの教会もまた知られていないようでよく知られているのであり、この名前こそが人生のギリギリのところで立ち尽くす人を私たちの教会へと導いたのです。

 俗な言い方をすれば、私たちはこの「イエス・キリストの名」という「金看板」を背負っている存在です。人々はこの「金看板」に信頼して、教会に駆け込んでくるのです。教会にはこの「金看板」を背負う誇りと責任があります。またそれゆえにこそ、私たちが引き受けなければならない痛みや労苦や負担もあるのです。

 宣教のわざ、教会形成の営みは、いつも順風満帆というわけにはいきません。けれども、キリストによって救われ、キリストによって一つに結ばれた群れとして、私たちもまた使徒言行録の弟子たちと同じように、「イエス・キリストの名」によって「大胆に」祈り求め、また「大胆に」行動するものでありたいと思うのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にこの礼拝に与ることができましたことを、心から感謝いたします。神様、キリスト教会は「イエス・キリストの名」という金看板を背負って、この世に立っています。それはイエス・キリストから力を与えられ、主イエスの宣教の業をキリスト教会が担っていくということです。それは労苦を避けられない務めですが、喜びと祝福に満たられた務めです。どうか、私たちが大胆に宣教の業を担っていくことができるように、聖霊の励ましを与えていてください。今年は梅雨が早く空け、猛暑の季節が既に始まっています。どうか教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

輝く日を仰ぎつつ

マルコによる福音書13章1~13節 2025年6月22日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

 「人に惑わされないように気をつけなさい」。今日お読みいただいた13章5節で、主イエスはそう言われました。これは弟子たちの問いに対する答えでした。弟子たちはこう尋ねたのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(4節)。弟子たちが問うているのは「いつ起こるのか」という「時」です。あるいは正確な「時」が分からないとしても、近づいているという「前兆」は知りたい。だから「どんな徴があるのですか」と聞いているのです。それに対して主イエスは言われたのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。

 「いつ起こるのか」という「時」を知りたい。あるいはせめて「前兆」を知りたい。これは要するに「未来を知りたい」ということでしょう。正確にではなくても、ある程度予測ができていたい、見通しが立てられるようになっていたいということです。

 弟子たちがそのように尋ねたのは、主イエスが未来に起こる恐るべきことを語られたからでした。それは何か。エルサレムの神殿の崩壊です。弟子たちがエルサレムの神殿を見て感嘆の声を上げた時、主イエスはこう言われたのです。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)。重なって残る石が全くないほどに、徹底的に破壊されると主は言われたのです。

 普通に見れば、永遠に残ると思えるような建造物です。しかし、崩れるはずがないと思えるものが、実際には崩壊することがある。それがこの世の現実です。主イエスが言われるならば、それは起こり得ることだと弟子たちも思ったに違いない。実際、彼らがその時に目にしていた神殿は、紀元70年にローマ軍によって徹底的に破壊されることとなりました。

 この世に確かなものは何一つありません。私たちは新型コロナのパンデミックによって、改めてそのことを知らされたとも言えます。この世に確かなものはない。それゆえに、この世の生活には不安が伴います。だから未来をある程度予測できるようになりたいと思います。少しでも先の見通しを立てたいとも思います。

 しかし、本当は未来を知ることよりも、先の見通しが立てられるようになることよりも、もっと大事なことがあるのです。だから未来を問う弟子たちの問いに、主イエスは直接答えられなかったのです。主は言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい」。

 本当に大事なことは、いつ何が起こるかということではないのです。そうではなくて、いつ何が起こったとしても、そこで私たちがどう生きているかということなのです。私たち自身のあり方なのです。私たちがそこで何を考え、どちらの方向を向いて生きているかということなのです。不安だから未来を知りたくなる。しかし、いつ何が起こるかを問題にしている限り不安はなくなりません。問題にしなくてはならないのは、未来ではなく、私たち自身のあり方なのです。

 そこで今日は、特に私たち自身に関わる三つの言葉を心に留めたいと思います。主は言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)。「慌ててはいけない」(7節)。そして、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)。

 主は言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい」。どうしてか。主はこう続けます。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」(6節)。

 崩れるはずがないと思えるものが崩壊していく時、あるいはそのようなことが起こるのではないかと人々が不安に駆られる時、そこに様々な形において偽のメシアが現れてまいります。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる」と主が言われたようにです。「ここに救いがある」と言って手招きするのです。

 あるいは主が言われるように、「わたしがそれだ」と言って惑わす者が現れる。「わたしがそれだ」というのは、ユダヤ的な表現で「わたしが神だ」という意味です。そのように、偽物の神様が近寄ってくるのです。そして、神を信じていたはずの人をさえ、神から引き離してしまうのです。実際、恐れに駆られると、人間は何にでも考えなしに、すがりつきたくなるものでしょう。

 だから主は言われるのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。人に惑わされないためには、神ならぬ誰かに惑わされないためには、自らがしっかりと神に向いて生きていることが大事なのです。そのような生活が形作られていることが大事なのです。

 いざというときには、普段どう生きているかが、どうしても出てまいります。今、もし幸いなことに平穏無事であり安定の中にいるならば、大切なことは、いざという時にではなくて、今この時、神を信じ神に心を向け、神を礼拝して生きる生活をしっかりと築いておくことです。そうすれば未来に何が起ころうとも、神に向く生活が変わらずそこに存在するはずだからです。

 そして、さらに主は言われました。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(7節)。さらに主イエスはこうも言っておられます。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」(8節)。戦争だけではありません。地震や飢饉についても語っておられます。そのような具体的な災いがこの世界には起こり得ますし、私たちの人生にも及ぶことがあり得ます。他の人に起こったことは、我が身にも起こり得ることを私たちは知っています。そして、それは恐ろしいことです。しかし、主は「慌ててはいけない」と言われるのです。これは「恐れるな」という言葉でもあります。

 主は「恐れるな」と言われる。どうしてか。主イエスは言われるのです。「まだ世の終わりではない」。原文では「世の終わり」とは書いてありません。ただ「まだ終わりではない」と書かれているのです。もちろん「世の終わり」のことが言われているのでしょうが、大事なことは「まだ終わりではない」ということなのです。

 どんなに恐るべきことが起こったとしても、大事なことは「まだ終わりではない」という認識です。「ああ、もう終わりだ」と思えるようなことも、人生にはあるのでしょう。しかし、主は言われるのです。「まだ終わりではない」と。世の終わりでない限り、すべてはまだ途中経過なのです。その先があるのです。途中経過を見て、恐れたり慌てたりしてはならないのです。

 その途中経過を、主イエスは「産みの苦しみ」と表現しました。私たちはよく知っているはずです。産みの苦しみは最終的な苦しみではないということを。それは大きな喜びへと向かう途中の苦しみなのです。

 さらに言うならば、主イエスはそれを「産みの苦しみの《始まり》である」と表現しました。「始まり」ならば、次第に苦しみは増大していくということです。苦しみが増大していくならば、普通は「悪い方向に向かっている」と考えるのでしょう。しかし、産みの苦しみについては、そうは思いません。苦しみが大きくなればなるほど、新しい命の誕生が近づいていることを知っているからです。

 目に映る現実がどうであれ、私たちには最終的な救いが約束されているのです。産みの苦しみであるとはそういうことです。主は言われるのです。まだ終わりではない。それは産みの苦しみだ。だから、慌てるな。恐れるな、と。

 そして、さらに主は言われました。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)。「気をつける」という言葉は前にも出てきましたが、もともとの意味は「見る」という言葉なのです。目を向けることです。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」とは、「あなたがたは自分自身に目を向けなさい」ということでもあるのです。

 ここにおいて語られているのは迫害についてです。主はこう続けます。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」(9節)。だれかが打ち叩くなら、打ち叩く者に目が向くものです。苦しみが特定の人間から来る時には、どうしてもその人の方に目が行きます。しかし、主は言われるのです。「あなたがたは自分自身に目を向けなさい」と。

 人に目を向けるならば、その人の敵意や悪意、その人の酷い仕打ちしか見えません。しかし、自分自身に目を向けるならば、そこで自分が何をなすべきかが見えて来きます。何のためにそこに立たされているのか。それはキリストを証しするためです。「証をすることになる」と主は言われるのです。そして言われます。「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(10節)。神は独り子をお与えになるほどにこの世を愛してくださいました。神は私たちを愛し、十字架のゆえに私たちの罪を赦し、神と共に生きる者としてくださいました。私たちは最終的に完全な救いにあずかることを知らされています。産みの苦しみの向こうには、命に満ちた大きな喜びが備えられているのです。そのことを知らされている私たちは、どんな状況にあっても、希望に満たされて、福音を告げ知らせることを託されているのです。

 さらに言うならば、福音を告げ知らせる主体は、私たち自身ではなく、聖霊です。神が私たちを用いてくださるということです。主は言われました。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(11節)。神が語られるのです。人間を通して神が働かれるのです。私たちが自分自身に目を向けるなら、立たされている場所において、神が私たちを用いようとしていることが見えてきます。神がこの世界において御自身の愛を現すために用いようとしている《わたし》そして《私たち》が見えてくるのです。

 本当に大事なことは、いつ何が起こるかということではありません。いつ何が起こったとしても、そこで私たちがどう生きているかということです。私たちがそこで何を考え、どちらの方向を向いて生きているかということなのです。危機と不安が大きくなっていくような時代状況の中で、私たちはこの主イエスの御言葉を心に刻み付けたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日もあなたは、主イエスを通して御言葉を与えてくださいました。マルコ13章はローマ帝国によるキリスト教迫害が忍び寄る中で、弟子たちが聞いた御言葉です。しかしこの御言葉は、今の時代を生きる私たちにも向けられています。私たちの時代も危機と不安の時代です。大きな戦争への不安、地震などの自然災害、病気のパンデミックへの恐れの中に、私たちも生きています。どうか、いかなる時にもあなたに心を向けさせてください。どんな時にも主の恵みに支えられた自分を見つめつつ、あなたの福音を宣べ伝える私たちであらしてください。このひと言のお祈りを、主の御名によってお捧げいたします。アーメン。

見せかけの祈りを捨て

マルコによる福音書12章38~44節 2025年6月15日(日)伝道礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今朝は前回の箇所を振り返ることから始めましょう。主イエスは12章35~37節で次のように言われました。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」。

 メシア(救い主)がダビデの子孫として生まれることは、旧約聖書に預言されていたことでした。ですから、主イエスの時代においても、人々はダビデの子孫から生まれるメシアをひたすら待ち望んでいたのです。

 しかし、「ダビデの子」という言葉は、単にメシアがダビデの子孫として生まれること以上を意味していました。メシアが到来することは、失われたダビデの王座が回復されることを意味したのです。すなわち、メシアの統治する偉大なる王国の再建を意味したのです。人々は、イスラエルをローマ人の支配から解放し、独立した強大な王国を打ち建ててくれる、偉大なる王の到来を待ち望んでいたのです。そして民衆は、このナザレのイエスこそ、まさしくそのような王となるべき御方だと信じていたのです。

 しかし主イエスは、メシアがそのような意味における「ダビデの子」であることを否定されたのです。単なる政治的解放者でありダビデの王座を回復する者ではありません。それ以上の者なのだというのが、ここで主イエスの言っておられる事です。

 ここで主イエスが引用しているのは詩編110編です。最初の「主」は旧約聖書における主なる神ヤハウェを指しており、二番目の「主」はメシアを指しています。つまり、メシアはダビデの子であるだけでなく、それ以上に、ダビデの主でもあるのです。この御方は、この世の王以上の御方なのです。詩編110編に歌われているように、神の右の座に就くべき御方、永遠の王として天の王座に就くべき御方なのです。ダビデの主でもあるその御方は、永遠に生きておられる私たちの神でもあるのです。

 

 そして、これに続く今日の二つの物語は、私たちに一つのことをはっきりと示しています。その御方は神の眼差しをもって、私たちに目を向けておられるということです。表面的なことではなく、私たち人間の最も深いところにまで目を向けておられるということです。

 まず、38節以下を御覧ください。主は言われます。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(38~40節)。

 そのように語られている律法学者ですが、そもそも彼らは何を思って律法学者となることを志したのでしょうか。律法学者になることは決して容易なことではありません。長い年月をかけて律法を学び訓練を受けます。そして、正式に任命されて律法学者となるのです。何を思ってその長い準備の期間を過ごしてきたのでしょう。もしその人が敬虔なユダヤ人であるなら、何よりも神に仕える大きな喜びをいだきつつ、律法を学び訓練を受けて備えてきたに違いありません。

 パウロもキリスト者になる以前は、ガマリエルという有名な先生のもとでそのように神の律法を学んでいた人でした。使徒言行録において、そのパウロがかつての自分を振り返って次のように語っています。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」(使徒22:3)。パウロだけが特別だったのではないでしょう。誰でも当初は、神に仕える純粋な熱意をもって律法を学んでいたと思うのです。

 しかし、そのようにして律法学者となった人たちが、主イエスの目にはこのように映っていたのです。こうなってしまったということでしょう。純粋な志をもって歩み始めた彼らが、いつの間にか、長い衣をまとって歩き回ることを好むようになりました。長い衣は権威の象徴でした。人々が彼らの権威を認めるということは、彼らにとって非常に大事なことでした。また、広場で挨拶されることを求めるようになりました。人々から敬われることが彼らの関心事となりました。会堂では上席、宴会では上座に座ることを望むようになりました。他の人より上に位置すると見なされることを望むようになりました。人々から敬虔な人として尊敬されることは極めて大事なことでした。祈りさえも敬虔さをアピールするための手段となりました。

 いったい何が起こったのでしょうか。何が変わってしまったのでしょうか。問題は明らかです。関心が神から人へと移って行ったということです。神がどう御覧になるかということよりも、人がどう見るか、どう評価するか、どういう扱いをするかということの方が、はるかに重要になっていったということです。主イエスの眼差しは確かにそこに向けられていました。そして、主イエスはよくご存知だったのです。いや、彼らも本当は知っているはずでした。そして、ここにいる私たちも知っているのでしょう。本当に意味を持つのは人がどう見るかではないし、どう評価するかでもないということを。主は言われます。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と。

 そのように主イエスは、神の眼差しをもって人に目を向けておられます。そんな話がさらに続きます。

 「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである』」(41~44節)。

 レプトン銅貨二枚というと、今日の金銭感覚で言えば数十円といったところです。しかし、主イエスはそれが「乏しい中からの献げ物である」ことを確かに見ておられました。「皆は有り余る中から」、そして「この人は、乏しい中から」。主イエスの言葉の中には明らかな対比があります。

 「乏しい」というのは、「足りない」ということです。「必要な分さえ欠けている」ということです。むしろ自分が必要としている。お金について言えば、これはとても分かり易いと思います。ある人は自分の経済的な状態を、この貧しいやもめに重ねて見るでしょうし、ある人は自分の状態をここに出て来る「大勢の金持ち」に重ねて見ることができるかもしれません。実際には多くの人は「その中間ぐらい」と言うかもしれません。

 しかし、考えてみますなら「乏しい中から」という言葉が関係するのは、必ずしもお金の話だけではないはずです。経済的に豊かな人が「乏しい」という言葉と全く無縁かと言えば、決してそうではない。「お金はあるけれど、時間がない」という人だっているでしょう。お金も時間もあるけれど、年老いて体力が乏しいという人だっているでしょう。あるいは能力に乏しい、愛に乏しいと感じている人だっているのでしょう。

 そのような乏しさの中で、私たちはしばしば考えるのです。豊かだったら献げられるのに、と。時間がもっとあったら神様に奉仕できるのに。体力があったら、若さがあったら、もっと仕えることができるのに。もっとあの人のように有能だったら、あの人のように愛に溢れた人だったら、神様のお役に立てるのに、と。

 しかし、あのやもめは「乏しい中から」献げたのです。乏しい中からの献げ物だからレプトン銅貨二つなのです。そんな献げ物が、実際的に何の役に立つかと言われても仕方ない。そのような献げ物なのでしょう。しかし、それが役に立つかどうか、意味があるかどうかなど考えないで、あのやもめは「乏しい中から」献げたのです。

 僅かばかりのものです。忙しい人はレプトン二つ分の時間しか献げられないかもしれない。病気の人は、レプトン二つ分のことしかできないかもしれない。でも、主イエスはちゃんと見ておられるのです。「この人は乏しい中から献げたのだ」と。

 先ほど、律法学者たちについて、「問題は明らかです。関心が神から人へと移って行ったということです」と申しました。しかし、そこで言う「人」とは「他人」だけではないのです。そこには「自分」という人間も入るのです。そして、しばしば「自分」という人間の評価が何よりも重要になってしまう。そのようなことも起こります。

 このやもめは他人の目など気にしていなかった。それだけでなく、自分の目も気にしていなかったのです。もっともっと大事なことがあるから。もっともっと大事な方がおられるから。その方を思って、その方のために、「乏しい中から」精一杯献げたのです。そんな彼女にちゃんと目を向けている方がおられました。彼女にとってもっとも大切な、神様の眼差しをもって見ていてくださる方が!主は弟子たちを呼び寄せて言われたのです。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」。

 そして、もう一つ。主イエスはこうも言われました。「この人は、・・・生活費を全部入れたからである。」と。生活費を全部入れたのは、明らかにそれでも大丈夫だと思っているからでしょう。自分が自分の生活を支えているのではない。神様が生かしてくださっている。その信頼があってこその献げ物だったはずです。

 ここに書かれているように持っている生活費を全部献げるというようなことは、恐らくは彼女にとって特別なことなのでしょう。彼女が毎日同じことを繰り返しているとは思えません。生きていけなくなる献げものを、神はお求めにはなりません。その日は彼女にとって特別な日だったのかもしれません。

 しかし、その特別な献げ物に見る「神への信頼」は、一朝一夕で形作られるものではないでしょう。貧しい生活の中にあって、この日だけでなく、これまで毎日毎日、神に信頼して生きてきたということです。ならば、彼女の献げたレプトン二つは、「信頼に生きる日々の生活」をお献げしたものであるとも言えるでしょう。そのように、彼女がこれまでの生活において培ってきた「信頼」という献げ物。主イエスは確かにしっかりと見ておられました。

 そして、彼女のすべてを献げた「信頼」という献げ物に主イエスが目を留められたのは、他ならぬ主イエス御自身が同じように「信頼」を献げようとしておられたからです。どのような形で。十字架の上で死ぬという仕方で。この世の目から見たら、それは犬死としか思われないようなことでした。しかし、主イエスは自分の全てを献げて、その命を神に信頼してゆだねたのです。そして、神はその御方を復活させ、御自分の右の座に着かせられました。これがダビデの主でもあり、私たちの主でもある御方です。主は生きておられます。その主が、この聖書箇所に見るように、今ここに生きている私たちにも目を留めていてくださいます。

その主の眼差しに守られて、私たちは生きていくことができるのです。そのことをいつも覚えていたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは地上の政治的な解放をもたらすメシアではなく、父なる神の座に座る神の御子であることを自ら示されました。その主イエスが今も、私たちに慈しみのまなざしを向け、わたしたちのために父なる神に執り成してくださっています。人の目や自分の目を気にしている私たちですが、今も注がれている主の慈しみのまなざしの中で、自分らしく生きていく者とならしてください。今年もいよいよ梅雨の季節を迎えます。どうぞ兄弟姉妹一人一人の体調をお守りください。世界は今、きな臭い一触即発の状況が各地で見られます。どうか為政者たちの思いをただし、戦いではなく和解と平和を選び取るように、この世界を導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

交わりの回復

使徒言行録2章1~8節 2025年6月8日(日)ペンテコステ合同主日礼拝

                             牧師 藤田浩喜

 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。ペンテコステという言葉を皆さんは聞いたことがあると思います。この日はどんな日だったでしょう? この日、イエス様のお弟子さんたちは、エルサレムにあったある家の2階に集まっていました。そのお弟子さんたちに聖霊が与えられました。彼らの上に聖霊が降りました。その日がペンテコステだったのです。

 イエス様は天に昇られ父なる神様のもとへ行かれました。イエス様は天に昇られる前、お弟子さんたちにおっしゃったことがありました。一つのことは「エルサレムから離れないで、父なる神様が約束されたものを待ちなさい」ということでした。約束されたものは聖霊でした。そしてイエス様は、こうもおっしゃいました。「あなたがたの上に聖霊が降ります。するとあなたたちに力が与えられます。そしてあなたがたは、エルサレムだけではなく、ユダヤとサマリア、世界の果てまでわたしのことを伝えるようになるでしょう。」イエス様はこのような約束をされました。そして、イスラエルのある家の2階に集まっていた弟子たちに、イエス様が約束されたように聖霊が降ったのです。

 聖霊は「風」によくたとえられます。風は「風が吹いているな」と分かりますが、風そのものは見えませんよね。聖霊も本来は目に見えないものです。ところがどうでしょう。弟子たちに聖霊が降った時こんなことが起こったのです。「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」。台風のような強い風が吹くと、恐いぐらい大きな音がしたり、家中が揺れたりしますね。ちょうどそれと同じようなことがこの時起こったのです。

 それだけではありません。「そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」その家の2階にはイエス様のお弟子さんたちがいました。その数は120人ほどだったと言われています。そのお弟子さんたち一人一人の頭の上に、赤い舌のようなものがとどまりました。聖霊は本来目では見えないものですが、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、鳩の形のような聖霊がイエス様に降ったと、聖書に書かれています。今日礼拝に来られた皆さんに鳩サブレをプレゼントするのですが、それはそんな理由があるからです。ところがペンテコステの時には、一人一人のお弟子さんの頭の上に、赤い舌のような聖霊が降ったのでした。

 そしてそれだけではありません。次の瞬間びっくりするようなことが起こったのです。「すると、一同は聖霊に満たされ、‘霊’が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」「舌」というのは、話をするときに必要なものです。お弟子さんたちは舌のような聖霊が降るとどうなったのか? 一人一人が色んな言葉で話し出したのです。たとえて言うと、あるお弟子さんは英語で、あるお弟子さんは中国語で、あるお弟子さんはドイツ語で、あるお弟子さんはスワヒリ語でというように、違った言葉で話し出したのです。

 集まっていたお弟子さんたちは、みんなイスラエルのガリラヤ生まれ、ガリラヤ育ちの人たちばかりでした。彼らはガリラヤ地方で使われていたアラム語以外に話すことはできませんでした。外国の言葉を勉強したことはありませんでした。皆さんは小学生になると、日本語の他に英語を勉強しますよね。たけるくんやはるかさんは、お母さんから中国語を教えてもらって少し知っているかもしれません。大学生になるとドイツ語やフランス語、スペイン語を勉強する人もいるかも知れません。ところがイエス様のお弟子さんたちは、故郷の言葉アラム語しか話せませんでした。そうであったのに、一人一人がそれぞれ習ったことのない外国の言葉で話し始めたのです。

 そのことは、「七週の祭り」というユダヤのお祭りのためにエルサレムに来ていた大勢の人々を驚かせました。イエス様の時代、「過越しの祭り」、「七週の祭り」、「仮庵の祭り」の時には、多くの国々から神様を信じる信仰者が、エルサレムの町に集まってきました。ヤハウェの神様を信じる人は、当時の世界の色んな国々に散らばって暮らしていました。そんな信仰者たちがお祭りの時にはエルサレムに集まって、神様を礼拝していたのです。

そのユダヤの人たちはユダヤの言葉であるアラム語だけではなく、当然ですが自分の暮らしている国の言葉も話すことができました。そのような外国からやって来たユダヤの人々が、自分の国の言葉を聞きました。ガリラヤ生まれ、ガリラヤ育ちのお弟子さんたちが、自分の住んでいる国の言葉を話している。しかも「神様がどんな大きな御業をなさったか」を一生懸命語っている。その様子を見聞きして、びっくりするしかなかったのです。その人たちが聞いたのは、その人たちが生活する時に使っていた言葉でした。聞いていて一番よく分かる自分の国の言葉でした。そんな毎日使っている言葉で、神様がイエス・キリストによってなしてくださった大いなる御業について聞いたのです。ですから弟子たちの話す言葉が、まっすぐに心の中に入ってきたのではないでしょうか。

 ペンテコステの日に、聖霊が弟子たちの上に降りました。聖霊を与えられてお弟子さんたちは、神様の大きな御業、イエス様が十字架と復活によって成し遂げてくださった大きな恵みを、聞く人の心に届くようにそれぞれの国の言葉で語ることができました。この日起こったことは、本当にびっくりするようなことです。

しかし、お弟子さんたちに与えられたのと同じ聖霊が、皆さんにも与えられています。皆さんはこう思っているかもしれません。「お友だちや周りの人たちにイエス様のことを教えてあげたいけど難しいな」。「どうしたら、イエス様のことを分かってもらえるだろう」。そんなふうに悩んでいる人もいるかも知れません。でも、心配することはありません。聖霊なる神様が、皆さんに力を与えてくださいます。伝えたいと思っている人の心に、まっすぐに届く言葉を与えてくださいます。すぐにはできなくても、いつか必ずイエス様が伝わるように導いてくださいます。私たちは、聖霊の働きを信じて進んでいきたいと思います。

ここからは大人の人たちに向かってもう少し語りたいのですが、今日お読みした旧約聖書の箇所は有名なバベルの塔の物語でした。人間たちはその時、同じ一つの言葉を使って生活していました。そして、人々は驕り高ぶり、高慢になって、神様のところにまで届く高い塔を築きはじめます。人間の力を誇るために建てていたのがバベルの塔でありました。それは科学や技術が進歩し、神様の領域にまで踏み込もうとしている、現代の人間の姿でもあります。

神様はそんな人間の姿を天からご覧になり、その高ぶった企てを阻止されます。

そしてそのためになさったのが、彼らの語っていた言葉を乱される、通じなくされるということでした。言葉が通じなくなった人間は意思疎通ができなくなり、バベルの塔を建てることができなくなったのです。これは人間が思い上がり神のようになろうとするならば、自ら破滅を招くことが示されているのでしょう。

 このバベルの塔の物語に対して、言葉が通じ合い、交わりが回復された出来事が、このペンテコステ・聖霊降臨だったというのです。人と人との交わりが回復する。本当の意味で人々が協力して良き世界を創っていく。そのために神さまは人間に聖霊を与えてくださったのです。神さまは人と人とが理解し合い、協力して良き世界を創っていくために、一つの同じ言語をお与えになったのではありませんでした。同じ日本語を使っていても、私たちの社会を見れば分かるように、互いに理解し合えるとは限りません。同じ言語を使っていても、社会は分断されてしまうのです。そのような人間世界の交わりを回復するために、神様は聖霊を下されました。なぜならば聖霊を受け取り、神様との交わりをまず回復することによって、人間同士の交わりが回復されるからです。聖霊を注がれ、高ぶりを砕かれ、神様の御前に謙遜に生きることによって、人と人との関係が回復されるからです。神さまとの垂直の関係が正しくされて初めて、人と人の水平の関係が回復されるからです。

 そして、先ほど申しましたように聖霊は一人一人の上にとどまり、各人はそれぞれ違った国の言葉で、神様の偉大な御業、イエス・キリストによって成し遂げられた御業を証しし始めました。福音の宣教はその初代教会の始まりの時から、

画一的ではなく多様であったのです。聞く人の状況や聞く人の願いに応えることができるような多様性と柔軟性を備えていたのです。現代は多様性・ダイバーシィを重んじる時代です。私たちキリスト教会はその誕生の初めから、多様性と柔軟性を湛えていたことが分かります。聖霊は同じ唯一の“霊”の働きですが、“霊”は望むままに、一人一人に分け与えられます。そして多様な働きをすることによって、人々を神様のもとに導く、救いの業を成し遂げていくのです。聖霊の風は、初代教会だけでなく今の私たちにも吹き続けています。その聖霊の働きに押し出されて、福音の宣教へと歩み出してまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたのお名前を褒め称えます。

今日は子どもも大人も一緒にペンテコステ礼拝を守ることができて、ありがとうございます。神様あなたは今も私たちに聖霊を与えてくださっています。そしてイエス様によって成し遂げられた大きな恵みの業を、周りの人々に知らせるように励ましてくださいます。一人一人は小さな力しか持っていませんが、どうか聖霊によって私たち勇気づけてください。そして、私たちが聖霊に助けられて良き世界を一緒に創っていくことができるように強めていてください。今日から始まる一週間、一人一人の歩みを支えていてください。このひと言の小さなお祈りを、イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主イエス・キリストの父なる神様、今日はペンテコステ・聖霊降臨日です。主イエスが約束してくださったように、あなたは初めの教会の群れに聖霊を与えてくださいました。そして聖霊は今でも教会に、私たち一人一人に注がれています。どうか、子どもと大人が一緒に守る今日の合同礼拝の上にも、聖霊を豊かに与えてください。そして、聖書を通してあなたの御心がはっきり分かるように、私たちを導いていてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。

王を超える王

マルコによる福音書12章35~37節 2025年6月1日(日)主日礼拝説教                     

                           牧師 藤田浩喜

 今朝与えられております御言葉は、主イエスが十字架にお架かりになる直前に、エルサレム神殿においてメシアについて語られたことが記されています。この神殿における問答は、11章27節から続いている一連の流れの中でなされました。祭司長、律法学者、長老たち、そしてファリサイ派の人とヘロデ派の人、更にサドカイ派の人との問答がなされました。それらは主イエスを陥れるためのものであり、主イエスがメシアではないということを示そうとしたものでした。けれど、主イエスはそれらのすべての問いを、見事な答えで退けられました。今朝与えられております御言葉の直前の所に、34節「もはや、あえて質問する者はなかった」と記されている通りです。しかしそれは、祭司長、律法学者、長老たちというユダヤ社会の指導者たちが、主イエスに降参したということではありません。主イエスを大した者だと認め、主イエスに従う者となったということではありません。言葉や知恵ではかなわない。だったら後に残るのは何か。実力行使のみです。もう主イエスに質問する者はいなかったというのは、その分主イエスの十字架が近づいたということでもあるのです。

 主イエスはここで、御自分の方から問いを出されました。誰に出されたのか。私は、主イエスがここで出された問いは、ファリサイ派の人や律法学者、そして祭司長といった、今まで自分に質問してきた人たちに対して、逆に問われた。そう考えてよいと思います。なぜなら、ここでなされた主イエスの問いは、かなり聖書に精通している人に向かってなされたものであったと考えられるからです。聖書に詳しくない人が聞けば、この主イエスの問いは何を言っているのか分からない、何を問うているのか分からない、そのような問いだからです。

 主イエスがなされた問いとは、こういうものでした。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」(35~37節)。この問いを一回聞いて、主イエスがここで何を問うているのか、きちんと分かる人がいるでしょうか。主は何を言おうとされているのか。何が言いたいのかよく分からない。そのように思われた方も多いと思います。けれども、ここはとても大切な所ですので、ていねいに見ていきましょう。

 まず、「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」です。メシアというのはキリストのことです。旧約におけるメシアは「油注がれた者」という意味で、それをギリシャ語に翻訳するとクリストス(キリスト)となるのです。ですから、メシアもキリストも全く同じなのです。「油注がれた者」というのは、旧約において祭司、王、預言者が神様に選ばれて立てられる時、「油注ぎ」という頭に香油を注ぐ儀式を行ったことに由来します。神様に選ばれ、立てられたことを、目に見える形で示したのが「油注ぎ」です。そして次第に、メシアと言えば、神様に遣わされる救い主を意味するようになっていきました。

 主イエスの時代、「メシアはダビデの子」として生まれるということは、ユダヤの常識でした。それは、旧約において預言されていたからですが、新約聖書もこの預言の成就として主イエスの誕生を記しているのです。「ダビデの子」とはダビデの子孫という意味ですが、マタイやルカにある主イエスの系図はそのことを示しています。また主イエスがエリコを出て行こうとされた時、目の見えないバルティマイという物乞いが、主イエスに向かって「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコによる福音書10章47節)と叫びました。この時バルティマイは救い主という意味で主イエスを「ダビデの子」と呼んだのですが、主イエスはそれを否定していません。ところがそれなのに、ここではそれを否定するように言われています。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と言われます。これはどういうことでしょうか。

 問題は「ダビデの子」という言葉が、何を意味するのかということでした。「ダビデの子」、それは文字通りには「ダビデの子孫」ということです。しかし、それだけではないのです。律法学者たちがメシアを「ダビデの子」と言う場合、それは「ダビデのようなメシア」、「ダビデの再来としてのメシア」という意味も持っていたのです。それは、律法学者たちだけに限らず、当時のユダヤの人々のメシアに対する理解でした。つまり、メシアはダビデ王のように、武力をもって周りの国々を平定し、ユダヤに繁栄をもたらす御方。当然、ローマ帝国の支配からもユダヤを自由にしてくださる。それが、律法学者たちの、また当時のユダヤの人々のメシア理解だったのです。主イエスはそれに対して、「違う」と言われたのです。このことについて使徒パウロは、ローマの信徒への手紙1章3~4節で「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と言いました。「主イエスは肉によればダビデの子孫。霊によれば神の子」ということです。主イエスは、ダビデの子孫であることを否定しようとされたのではないのです。そうではなくて、「ダビデの子」にダビデがもたらしたのと同じような救いや繁栄しか期待しない律法学者たちに向かって、神様がメシアによって与えられる救いとはそんなものではない、ということを語ろうとされたのです。

 次に36節の「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と』」ですが、これは詩編110編1節の引用です。

 まずここでややこしいのは、「主は、わたしの主にお告げになった」という所です。最初の「主は」の「主」と、次の「わたしの主」の「主」は、ギリシャ語では同じ言葉が使われていますが、元々のヘブライ語の詩編においては全く違う言葉が使われているのです。最初の「主」は、天地を造られた唯一人の神様を示す言葉であるヤーウェという固有名詞が使われています。次の「わたしの主」の「主」は、主人を表すアドナイという普通名詞が使われているのです。そして、内容から見て、「わたしの主」というのは、救い主・メシアを指していると考えられるのです。さらにこの詩編はダビデが作ったのだから、ダビデ自身がメシアを「わたしの主」と呼んでいることになる。だったら、どうしてメシアはダビデの子なのか。自分の子に向かって、「主」と呼ぶ者がいるか。いない。だから、メシアは単なるダビデの子ではなく、あのダビデさえも「主」と呼ぶような大いなる者なのだ。つまり神の子なのだ。そう主イエスは言おうとされたのです。

 この詩編は、ダビデ自身が聖霊を受けて、父なる神様が御子であるメシアに語ったことを記したものだと考えられます。その詩編110編において、メシアがどういう方だと告げられているかと言いますと、神様が「わたしの右の座に着きなさい」と言われた方だということなのです。これは、主イエスが十字架、復活に続いて、天に昇られ、父なる神様の右に座られるということを、御自身の口を通して、詩編110編を引用して告げられたということなのです。神様の右に座するキリスト。これは、私たちが使徒信条において、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神様の右に座しておられます」と、告白していることです。主イエスは十字架に架かって死なれ、三日目に復活し、天に昇り、全能の父なる神様の右に座しておられる。それが私たちの主イエスに対する信仰です。主イエスはそのことを御自身の口で、十字架にお架かりになる前に、告げられたということなのです。

 「父なる神様の右に座す」というのは、父なる神様と同じ権能を持って、父なる神様と同じようにすべてを支配しておられるということです。この「右」というのは、方向や位置を示しているのではありません。そうではなくて、この「右」というのは、神様との関係を示しているのです。「神様と同じ力と権威を持つ方として」という意味なのです。そしてこのことは、父・子・聖霊なる三位一体の神様のあり方を示しているのです。

 この主イエスの御支配は、「わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と言われているように、やがてすべての悪と罪が主イエスによって打ち破られ、完全な神様の御支配が現れるようになる。その終わりの時、終末のことまで預言されています。この主イエスの御支配は、この世の王であったダビデのような地上の支配ではありません。十字架と復活による、罪と死に対する勝利であり、すべての民の上に臨む御支配なのです。まことのメシアである主イエスは、ダビデのような王などはるかに超えた、あのダビデさえも「わたしの主」と呼ばざるを得ない、神の御子であられるということなのです。

 私たちは、主の日毎にここに集い、主イエスの御名をほめたたえています。主イエスの前にひざまずき、主イエスを我が主、我が神と拝んでいます。それは、やがて来る神の国の完成、すべての者が主イエスの前にひざまずき、主イエスを拝み、主をほめたたえることになる。そのことの先取りなのです。そして、それは聖霊なる神様の導きよって、私たちに明らかに示されたことなのです。

 聖書に登場する律法学者たちは、よく聖書を学んでいましたし、よく知っていました。旧約聖書のすべてを暗記し、諳(そら)んじていました。その解釈についても、膨大な注釈を学び尽くしておりました。しかし、彼らは分かりませんでした。主イエスが誰であるかということについては、全く何も分からなかったのです。彼らは、詩編110編が告げている本当の意味を知ることはできなかったのです。それは、聖霊によらなければ分かることができないことだからです。

 しかし、私たちはそれを知っている。いや、知らされている。何と幸いなことでしょう。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙 一1章27~29節においてこう言っています。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」。律法学者は、自分たちは聖書を知っていると誇りました。確かに、聖書を諳(そら)んじるほどに知っていました。しかし、聖書が告げる最も大切なところを知ることはできませんでした。私たちは、知恵なく無学で、力も高い身分もない。しかし神様は、そのような無きに等しい私たちを選び、主イエスが誰であるかを教え、主イエスの救いに与らせ、神の子としてくださったのです。本当にありがたいことだと思います。この恵みに感謝し、父と子と聖霊なる神様をほめたたえつつ、新しい御国に向かっての一週間の歩みを、ご一緒になして参りたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。主イエスはご自身がダビデにまさる王であることを証しされました。この王は自らを十字架に捧げ、仕える者となることによって、神様の右に坐する王となられました。そして終わりの日に至るまで、わたしたちとこの世界を神様にとりなし続けてくださっています。どうか私たちに聖霊を注いで、王を超えた王である方の御支配の中に生きる者としてください。季節は過ごしにくい梅雨に向かっており、不順な日々が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。私たちの世界はあなたの御心に背き、人間の自己中心と欲望の渦巻く状況の中にあります。どうか、人間の罪の思いを砕き、あなたの御心をこの地上にも実現させてください。この拙き切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

思い違いをすることなく

マルコによる福音書12章18~27節 2025年5月18日(日)伝道礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今日のマルコによる福音書12章18節以下には、「サドカイ派の人々」が登場してきました。福音書によく出て来るファリサイ派と並ぶ、ユダヤ教の一派です。サドカイ派のメンバーは主に、上級祭司、貴族、富裕層の人々です。そのようなこともあり、彼らは社会的な変革を望まない、保守的な人々でした。最高法院においては与党の立場にあり、政治的な指導権を握っていました。

 彼らは宗教的にも保守的な一派でした。彼らは聖書のうち、律法の書(つまりモーセ五書、創世記から申命記まで)しか認めません。律法の書に明記されていること以外は、いっさい信じません。ですから彼らは復活を信じない。来世を信じません。「死んだら終わり」ということです。宗教的に保守的な人々が来世を信じないというのは、私たちの感覚からすると変ですが、ユダヤ教においてはそうなのです。確かにモーセ五書だけを見るならば、復活についても、来世についても、文字通りの意味においてそのような表現は出て来ません。同様の理由から、彼らは霊の存在も信じない。メシアを待望することもありません。

 しかし、恐らく彼らがそれらを信じなかったのは、モーセの律法に文字通りに書かれていないから、という理由だけではないでしょう。ある意味では信じる必要もなかったのです。この世において恵まれていますから、この世のことだけで十分なのです。目に見えるものだけで十分なのです。現在のことだけでよいのです。終末の希望は必要ないのです。それでも神殿の儀式においては、自分の位置づけを持っています。宗教的なコミュニティにおいては、指導的な立場にあります。この世のことだけ考えていても、十分に宗教的でいられるのです。

 ということで、今日の聖書箇所にはそのようなサドカイ派の人々が、「復活はないと言っているサドカイ派の人々」(18節)として登場してきます。これに対して、福音書によく出てくるファリサイ派の人たちは、復活も来世も霊の存在も信じています。ですからサドカイ派とファリサイ派は宗教的には対立関係にあります。そのようなファリサイ派に対して、サドカイ派の人たちが復活や来世があることを否定するために用いていた論拠が、今日の聖書個所に出てきた話なのです。そのような話を、彼らは主イエスのもとに持ってきて論争をしかけたのです。

 サドカイ派の人たちは、旧約聖書の申命記を引用してこう語り出します。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」(19節)。ここに出てきますのは、私たちには馴染みの薄い「レビラート婚」という制度です。子孫を絶やさぬための制度でありまして、今日でも世界の少数民族などにおいて見られると言われます。まさにこの律法の言葉こそ、復活がないことの決定的な証拠になると彼らは考えていたのです。

 続けて彼らはこう問いかけました。「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」(20~23節)。

 これはレビラート婚の制度に馴染みがなくても、例えば配偶者と死別した後に再婚した人のことを考えれば分かると思います。復活があり来世があると困ったことになる、ということです。先にも申しましたように、このような議論は通常ファリサイ派との間でなされていたものです。そして、復活を信じるファリサイ派には一応答えがありまして、この場合、妻は長男のものとなることになっていたそうです。しかし、主イエスはそのようには答えませんでした。

 主は言われました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(24~25節)。「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とは、この世におけるあり方とは全く異なるということです。救いが完全に実現している復活の世界を、今のこの世の延長のように考えてはならない、単にこの世の生活から類推して考えてはならない、ということです。

 しかし、主イエスは単に答えを与えたのではありません。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」と言われるのです。これは実に強烈な言葉です。明らかに主イエスは、時の宗教家たちの無意味で思弁的な議論にうんざりしているのです。

 それはただ単に、復活を否定するためにこんな論争を持ちかけたサドカイ派の人々に対してだけではありません。復活を信じていると言っているファリサイ派の人々に対してもそうなのです。いや、むしろ主イエスはファリサイ派の人たちにこそ、語りたかったのかもしれません。なぜなら先に触れました「妻は長男のものとなる」というような答えこそ、まさに来るべき救いの世界を今の世の延長線でしか考えていないことを示しているからです。

 神がその独り子さえもこの世に送り、人の思いを遙かに超えた圧倒的な御力をもって、罪からも死からも解放して完全な救いを与えようされている。それなのにこちら側では、「七人の兄弟と結婚した女は、誰の妻になるんでしょうなぁ」などということを言っているわけです。しかも祭司たちが、律法学者たちが、そんな次元のことを議論しているのです。救いのために遣わされた主イエスとしては、もう悲しくて、情けなくて、うんざりしていたに違いありません。

 しかし、彼らの姿は他ならぬ私たちの姿でもあるのでしょう。私たちがたとえどのような者であっても完全に救うことのできる神の力を、今ここにいる私たちは本当に信じているのでしょうか。「あなたがたは聖書も神の力も知らない」とは、私たちに対する言葉でもあるのではないでしょうか。

 それゆえに、主イエスは聖書を引用してこのような話をしてくださったのです。「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」(26~27節)。

 「『柴』の箇所」というのは、出エジプト記3章に出ているモーセが羊の群れを飼っていた時に、ホレブの山で燃える柴を見たという話です。柴は燃えているのに燃え尽きない。不思議に思って近づいてみると、神がモーセに声をかけられた。その時に神様が自らを表現した言葉がこれです。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6)。

 柴の炎は明らかに神の現臨を示しています。神がそこにおられる。しかも、炎は消えないのです。燃え続けている。いわば「燃え続ける神」がそこにおられるのです。神は過去の神ではなく、永遠に神であり続けるということです。神であり続けるということは、抽象的なことではありません。人との関わりにおいて、神であり続けるということです。《あなたの神であり続ける》ということです。モーセはそのような神に出会ったのです。

 神は言われました。わたしはアブラハムの神である、と。アブラハムはもう数百年前に死んでいるのです。しかし、神は「わたしはアブラハムの神である」と言われるのです。そして、イサクの神であり、ヤコブの神であるとも言われる。その神がモーセに現れて、わたしは必ずあなたと共にいる、と言われたのです。わたしはあなたの神でもある、ということです。あなたの神であり続ける。そして、あなたが導き出すイスラエルの神となり、イスラエルの神であり続ける。それが、この「『柴』の箇所」で語られていることです。

 燃え続ける神、関わり続ける神、あなたの神であり続ける神。神がそのような神として御自身を示されたことこそ、来世を信じる根拠なのです。復活を信じ、完全な救いの世界を信じる根拠なのです。神がアブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神であり、わたしの神であり、あなたの神であるならば、アブラハムもヤコブもわたしもあなたも、死んで終わりではないのです。人は神によって、死んでも生きるのです。神は死んだ者の神ではありません。死の中に私たちを放置しておく神ではありません。死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです。

 そのように、モーセは燃え尽きない柴に出会いました。燃え尽きない炎の中から、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」との声を聞きました。そして、私たちもまた、同じように燃え尽きない柴に出会っているのです。すなわち、イエス・キリストこそ、私たちに対して神が御自身を現された「燃え尽きない柴」に他ならないのです。

 今日お読みしました箇所は、主イエスが十字架にかけられる数日前のことです。物語は、イエス・キリストへの死へと向かっているのです。炎は燃え尽きてしまうかのように見えます。しかし、柴の炎は燃え尽きませんでした。キリストは復活して、永遠に燃え尽きることのない神の炎を見せてくださったのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」ということを見せてくださったのです。

 この神との関わりにおいてこそ、人は本当の意味で死を越えた希望に生きることができるのです。神を礼拝し、神に祈り、神との交わりの中に生きていく。キリストを復活させた神の力に、そのように触れながら生きてこそ、人は復活の希望、来世の希望、完全な救いにあずかる希望を持って生きることができるのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」この主イエスの御言葉を、心に刻み付けたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今朝も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは言われました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」神様は永遠に生きておられます。その神様が私たちの神様であり続けてくださいます。それゆえに私たち死すべき人間も、死を超えて永遠に生きる望みを与えられています。神様、私たち一人一人に、聖書を通して、神の御力によって、そのことを揺るぎなく信じさせてください。まだ5月の中旬ですのに、ここしばらくは気温30度に迫る日が続きます。体調を維持するのが困難です。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。神様、今世界は本当に不安定な状況に置かれています。共に歩もうとしない自国中心主義の政治が、不安を増大させています。どうか、為政者たちの思いを糾し、あなたの御心がこの地にも実現しますよう、世界を導いていてください。この拙き切なる祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン