マルコによる福音書11章27~33節 2025年3月30日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日は、主イエスの最後の一週間の火曜日にあった、神殿での出来事です。
主イエスが神殿の境内をゆっくりと歩いておられると、待ちかまえていたかのように祭司長、律法学者、長老たちが、どやどやと近づいてきて、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と、頭ごなしに問い詰めてきました。
論争の仕掛け人である「祭司長、律法学者、長老たち」というのは、すでに11章18節で登場しています。主イエスが神殿の商人たちを追い出して「わたしの家は…祈りの家と呼ばれるべきである」と宣言なさった、その直後のところです。「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」(18節)とあります。主イエスに対して殺意を持ったというのです。
そして、彼らは主イエスをこの世から葬り去るためにはどうしたらいいか、策を練ったのではないでしょうか。今のままであれば、民衆が主イエスをメシアだ、エリヤの再来だと、熱烈に支持している状態ですから、やたらに主イエスを捕らえるというわけにはいきません。まずは民衆の面前で難しい神学論争を仕掛け、窮地に追い込み、化けの皮をはがしてやろう。そうすれば、民衆も目を覚まし、あの男がメシアであるなどという幻想から醒める違いない。そうなればこっちのもので、あの男を「人々を惑わす異端者」として始末すればいい。そんな筋書きが、彼らの中にできあがったのだろうと思います。そのため、この後も主イエスに対して、いくつもの論争が仕掛けられていくのです。
ところが、実際には主イエスの化けの皮をはがすどころか、自分たちの化けの皮がはがれてしまうのです。もっと丁寧な言い方をしますと、彼らは、論争によって主イエスが偽物のメシアであることを暴こうとし、メシアをかたった罪で殺そうとしていました。ところが、主イエスと問答をしてみると、主イエスのお答えによって、逆に彼らこそが偽物であることがはっきりしてしまったのです。
今日は最初の論争である「権威についての問答」です。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
彼らが問題にしている「このようなこと」とは、主イエスがロバの子に乗って歓呼の声を浴びながらエルサレムに入城したことや、神殿から商売人を追い出したことなど、一連の主イエスの行動のことでありましょう。また、神殿の中で主イエスが「教えて」おられたことも含んでいたと思います。要するに、それは彼らの縄張りを荒らすことだったのです。
というのも、彼らは当時のユダヤ教の正当な手続きによって、祭司長、律法学者、長老の職に任じられていました。だからこそ、人々は彼らを神様の僕と認め、教師、牧者、神殿の管理者として尊敬していたのです。それに応じるように、彼らもまた我々こそ神の僕であるという自負をもって、人々を教え、導き、また神殿の務めを果たしていたわけです。
ところが、そこにどこの馬の骨とも分からないイエスという男がやってきて、誰に任じられたわけでもないのに人々を教えている、神殿で勝手なことをしている。しかも、人々にチヤホヤされている。それが、彼らには気に入らないのです。邪魔なのです。とっても不愉快なのです。だから、「こんなことをするお前は、いったい何様のつもりだ。どんな権威が、どんな資格が、お前にあるのか」と、彼らは主イエスに詰め寄った、というわけです。
彼らの気持ちは分からないではありません。私が今、こうして聖書を解き明かし、説教をしているのは、私が正規の手続きを経て、牧師に任じられたという自負があるからです。また、みなさんが私のような者のお話を、御言葉の説教として真剣にお聞き下さるのも、同じ事であろうと思うのです。
ところが、たとえばそこに外から誰かがやってきて、神学校も行かず、教師試験も受けず、按手も受けていないのに、勝手に教えたり、教会の運営を始めたりしたらどうでしょうか。やはり私も、「あなたはどんな権威をもって、そんなことをするのか。誰が、あなたにそんなことをしてもよいという権威を与えたのか」と、問うに違いないと思うのです。
権威というのは宗教的な権威だけではなく、政治的な権威もありますし、家庭であれば父親の権威、学校であれば先生の権威、職場であれば役職の権威と、色々な権威があります。その権威を問うということは、その権威が正当なものであるかどうか、つまり「あなたにその資格があるか」ということを問うことなのです。あなたには牧師の資格があるのか。父親の資格があるのか。先生と呼ばれる資格があるのか。部長とか社長の資格があるのか。そのような振る舞いをする資格があるのか、と問うことなのです。
相田みつをさんという方を、ご存じでしょうか。20年以上前に亡くなられた方ですが、素人にはうまいのか下手なのかよくわからない独特の書で詩を書かれて、今も根強い人気をもっておられる方です。仏教に造詣が深く、人の心に訴えてくる素晴らしい詩を書く方です。
相田さんは書道家であり、詩人でもあるのですが、無名の頃はそれでは食べていけませんから、習字の先生をして生計を立てていました。ところが、道元の禅問答を学んで行くうちに、自分を深く見つめ直す機会を得るのです。「自分のやっていることは何だ」、「習字の先生をして親子四人の生計を立てている、この生ぬるい生き方は何だ」、「今のような安易な生き方をして、安易な書を書く書道家でいいのか」と、自分を問いつめるのです。
そして、ついにある決心をします。お金や名声などはいらない、書家とか、詩人と呼ばれなくてもいい、ただ本当に自分の心が納得のいく生き方をし、自分の納得のいく仕事をし、自分の心の自由だけは守ろうと、ただ食うためだけにやっていた習字の先生をぱったりと辞めてしまったのです。
その途端に「親子四人がどうやって食べていけるか」という現実問題が、相田さんに重くのしかかってきます。そこで思いついたのが、心ゆくままに書いた自分の書や詩を生かして、商店の包装紙のデザインをしようということなのです。相田さんは、自分でお店を一軒一軒回って「お宅の包み紙のデザインをさせてくれませんか」と仕事を探しました。ところが、当時はデザインなんて洒落た言葉もなく、そんなものにお金を払う時代でもありません。ことごとく門前払いをされてしまったのでした。
ところがあきらめずに回っていますと、ようやく話を聞いてくれるお菓子屋さんがありました。ちょっとおもしろいところなので、文章をそのまま引用して紹介させていただきます。
(以下は『いちずに一本道、いちずに一ツ事』よりの引用です。)
某市にある一軒のお菓子屋さんに飛び込んだ時の話です。「わたしはこれこれこういうもんですが、お宅の包み紙のデザインをやらせてくれませんか」と言って、肩書きも何もついていない名刺を差し出しました。店のご主人曰く、「あなたはどんな経歴の持ち主ですか?」「経歴や肩書きは何もありません。立派な肩書きがあればここまで注文を取りに来ません。ないから来たんです。」わたしは正直に答えました。「あなたはどこか他のお店の仕事をやっていますか?」「いいえ、やっておりません。お宅が初めてです。」「どうしてうちに来ました?」「はい、お宅がこの街で一番いいお店のように思えましたから。」「何か今までにやった仕事の見本はありますか?」「いいえ、ありません。こちらがはじめてです。」「ほう、初めてですか。うちで今使っている包み紙はこれですが」と言って、ご主人は、その時使用していた包装紙を広げて、「これよりもいいものができる自信がありますか?」と、私に聞きました。「そんな自信はありません。あるのはうぬぼれだけです。そのうぬぼれも、やってみなければわかりません。」私は絶対にいいものを作りますとは言いませんでした。それは嘘になるからです。「うん、確かにそうだ。おもしろい、ひとつ頼んでみるかね。」
(引用終わり)
こうやって相田さんは初めての仕事を取ったというのです。相田さんの「そんな自信はありません。あるのはうぬぼれだけです」という返事、これは本当に素晴らしい返事だと思います。店のご主人に対するだけの返事ではなく、すべての人に対する返事であり、自分の人生に対する答えだと言っても大袈裟ではないと、私は思いました。
「そんな自信はありません。あるのはうぬぼれだけです」という相田さんの言葉は、他人が自分の仕事を認めてくれるかどうか、それは判らないけれども、私は自分が納得できるような仕事をする、そういう約束ならできるということなのです。本当に自由な心をもった、いや、そういう心で生きていこうと決心をして、それを実行に移した相田さんだからこそ、言える言葉だと思います。
このような心の自由さということが、実は権威ということと関係してまいります。聖書における「権威」とは、「主権」のことなのです。「主権」というのは、他のものに支配されない、自由で、独立した力です。他人に束縛や支配されないで、自由に振る舞うことができる力です。こういう力をもっているのは、本来は神様だけです。ですからこの言葉も、本当は神様だけに用いられる言葉であったとも言われています。
それなら、この地上における様々な権威というのは何かといいますと、本当の権威、主権をもっておられる神様が、御心のままに一人一人にゆだねられた権威であると言うことができましょう。ローマの信徒への手紙13章1節にも、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」と書かれています。この地上にある権威というのは、天においても地においても唯一の主権者、独立した自由な力をもった神様にもとに位置づけられた権威だけなのです。その権威のもとにあるからこそ、人は捉われなく自由なのです。
先ほど、みなさんが権威を問われたらどう答えられますか、とお尋ねしました。あなたには本当に父親なり、母親の資格があるのか、本当に先生と呼ばれる資格があるのか、本当に上司と呼ばれる資格があるのか、そのように問われて「はい」と答えることができますかとお尋ねしました。私は、本当に牧師の資格があるのかと問われたら、相田さんの言葉を借りて、「自信はないが、うぬぼれはあります」と答えるしかないと思うのです。
皆さんも同じだと思います。紙切れ一枚に「あなたは牧師です」とか、「あなたは教師です」とか、「あなたは父親です」と書いてあっても、何の意味もありません。人が、あなたは良い先生だ、良い父親だ、良い母親だと言ってくれるか、どうかでもありません。自分にはその権威が神様に与えられているのだ、それに対して自分は誠実に生きているのだ、そのように自分で自分のことが信じられることが、その人を本当に牧師なり、教師なり、父親なり、母親にするのではないでしょうか。相田さんがうぬぼれと言ったのも、自分が書家であり、詩人であるということは他人が決めることではなく、天が自分に与えてくれたことなのだという意味だと思うのです。それが心の自由さ、つまり他人に左右されない資格、力、つまり権威というものになってくると思うのです。
しかし、祭司長、律法学者、長老たちが主イエスに求めた権威は、そういう権威ではありません。あなたが教師である、あなたが祭司である、あなたがメシアであるということを証明する紙切れがあるかどうか、ということなのです。だれがそんなものをあなたに与えたのか、ということなのです。
ですから、主イエスはこう答えました。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
祭司長たちは、「わかりません」と答えます。本当は判らないのではなく、「あれもヨハネが勝手にやったことだ」と思っているのです。けれども、彼らにそのようには言えませんでした。それは、どうしてか。
「『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言うだろう。しかし、「人からのものだ」と言えば……。』彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、『分からない』と答えた。」(31~33節)
彼らが自分の考えていることを正直に言えなかったのは、「群衆が怖かった」からであるというのです。もし、彼らが神様の権威に生きていたならば、人を恐れる必要はありません。神様から授かった自由をもって、誰に対しても自分が信じていることを言えばいいのです。それができないというのは、彼らが神様ではなく、人の評価とか評判とか、人間に寄り頼んだ権威に生きていた証拠なのです。
こうして彼らは、主イエスの化けの皮をはがそうとして、逆に自分たちの化けの皮をはがされてしまった。主イエスの権威を問うて、自分たちの権威が問われてしまった。権威を問われるとは、生き方を問われることです。あなたは何に基にして生きているのか。何を気にして生きているか。あなたのしていることは正しいのか。そういうことが問われることなのです。そしてこの問いは、私たち一人一人にも問われていることを覚えたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日もあなたの御前に礼拝を捧げることができ、心から感謝いたします。神さま、わたしたちはあなたの権威のもとにある時に、まことの自由を得ることができます。人の評価に左右されることなく、あなたのみを見上げて歩んでゆくことができますよう、わたしたちを強めていてください。まだまだ気候の不順な時が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。また春の季節、新しい歩みを始める人たちをあなたが祝し、導いていてください。
このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。