使徒言行録4章23~31節 2025年6月29日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
使徒言行録にはしばしば、「イエス・キリストの名によって」という表現が出てきます。例えば、ペンテコステの日にペトロが語ったメッセージの中にこういう言葉が出てきます。「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(2:38)。また、足の悪い人を癒やした場面でもペトロはこう言っています。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3:6)。
そして、今日読んでいただいた聖書の中に登場する弟子たちも、神に向かって次のように祈っています。「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(4:30)。
古代のユダヤ人の理解によれば、「名前」は「人格」そのものであり、「名前を呼ぶこと」は「その人を呼び出すこと/その人の力を呼び出すこと」であると考えられていたと言います。そうであるとすれば、「主イエスの名を呼ぶ」ことは、まさに「主イエスその人/主イエスの力そのものを呼び出す」ことであり、その時その場に主イエスに来ていただき、主イエスに働いていただくことに他ならなかったということになります。
今日は読んでいただきませんでしたが、使徒言行録4章1節以下では、祭司や長老、サドカイ派などユダヤ教の指導者たちが、ペンテコステの後盛んに伝道した主イエスの弟子たちの行動にいらだちを覚え、ペトロとヨハネを捕らえて牢獄に入れるという事件が起こったことを伝えています。翌日、二人は大祭司をはじめとするユダヤ教の権威ある人々の前に引き出され、取り調べを受けました。
つい2カ月ほど前、主イエスが捕らえられて裁判を受けていた時には、身を隠していた弟子たち、主イエスを裏切った弟子たちが、今度は主イエスと同じ立場に立たされることになったのです。使徒言行録はこの場面を総括して、彼らは「無学な普通の人」であったが、「大胆な態度」で語り、主イエスを証ししたので、人々は皆驚いたと記しています(4:13)。
最初に取り調べにあたった人々はこう問いました。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」(4:7)。「ああいうこと」というのは、3章でペトロが足の悪い人を癒やした奇跡のことを指しています。
ペトロは答えました。「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(4:10)。ここでもまた「イエス・キリストの名」が出てきます。
「私たちが彼を治したわけではない。イエス・キリストの名が、すなわち、イエス・キリストご自身がそれをなさったのだ。」「あなたがたはイエス・キリストを十字架で殺したが、神はあの方をよみがえらせ、イエス・キリストは今もなお生きて働いておられるのだ。」ペトロは、およそこういった意味のことを人々の前で証ししたといえるでしょう。
結局、この取り調べにあたった人々が出した結論は、次のようなものでした。 「このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう」(4:17)。そして、二人に向かって「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」(4:18)と命令し、脅(おど)しつけたというのです。
今日お読みいただいた使徒言行録の場面はその続きです。釈放された二人が仲間たちのもとに戻ってきた場面です。ペトロとヨハネは自分たちが経験したことを、そこにいた弟子たちに語りました。もちろん大祭司たちが彼らに課した命令や脅しも語ったはずです。
しかし、彼らはそうしたことを全く顧みることなく、次のように祈ったと記されています。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(4:29~30)。
弟子たちの祈りは挑戦的です。大祭司たちが「使ってはならない」と命じたばかりの「イエス・キリストの名」によって彼らは祈るのです。彼らが祈り求めたことは、「私たちを守ってください」とか「どうしたらいいでしょうか」ということではありませんでした。「もっと大胆に」語り、癒やし、働きつづけていくことができるようにと、彼らは祈り求めたのです。
使徒言行録の中では、この「大胆に」という言葉もまた繰り返し使われる言葉の一つです。言うならば、使徒言行録とは、弟子たちが「イエス・キリストの名」に立って「大胆に」語り、「大胆に」行動し、「大胆に」福音を宣べ伝えたことを記録した文書なのです。
しかし、弟子たちが最初からそうした「大胆さ」を持っていたわけではありません。また、いつでも彼らが「大胆」であり得たというわけでもありません。使徒言行録の中で「大胆であれ」という呼びかけが繰り返されるということは、逆にいえば、「大胆でありえない」弟子たちの現実や状況があったことを前提としているのです。事実、イエス・キリストを証しすること、宣教することは、弟子たちにとって恐ろしいことであり、さまざまな犠牲をともなう行為であったことを、使徒言行録はいろいろな箇所で証言しています。
すでに見たようにペトロやヨハネが経験した逮捕や取り調べ、命令や脅しは、ほかの弟子たち、ことにパウロもまた経験したことでした。牢獄や鞭打ちといった公式の刑罰。また、私的なリンチのような形で行われる暴力や迫害。見知らぬ町、見知らぬ人々が、彼らに向ける嘲笑や無視。こうした境遇の中で、弟子たちは町から町へ、村から村へと渡り歩き、あるいは逃げまわりながら、「イエス・キリストの名」によって「大胆に」語り、また行動したのです。
宣教という働きはいつの時代にも、危険や恥、失望、空しさ、徒労感といったものと背中合わせの営みです。長年にわたってささげられ積み重ねられた多くの祈り、努力、知恵、配慮、そしてお金……。そうしたものが目に見えるかたちでめざましい宣教の実を結ぶとは限りません。一般社会の基準に立ち、効率や成果を基準として考えたら、宣教の業はまるでお話にもならないものかもしれません。
しかしながら、本当のことを言うと、私たちの宣教の業が決して空しいもの、無意味なものではないということもまた事実なのです。パウロは第二コリント書の中にこういう言葉を残しています。「わたしたちは人を欺いているようで、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」(6:8~10 新約331頁)。
皆さんの中にもそうお感じになる方があるかと思いますが、この言葉は、私自身、牧師として、また一人のキリスト者として、年月を重ねるごとに「本当にそうなんだ」という思いが深まってくる言葉の一つです。事実、私たちの教会も「人に知られていないようでいて、よく知られ」ているのです。おそらく私たち自身が想像するよりもずっと広くまた多くの人々に「知られている」ように思います。
例えば、そのしるしとして、教会にはしばしば思いがけない訪問者があり、また電話で相談を持ち込んでくる人がいます。そういう人々の中には、本当に人生のぎりぎりのところに追い込まれてこの教会にやって来るという人が何人もいます。その中には、ただ一度この教会に足を踏み入れるだけの人もいますし、何年にもわたって関わりつづけている人もいます。そして、それにもかかわらず主日礼拝や祈祷会などには全くやって来ない人もいます。
しかし、今ここに集っている皆さんが一度も会ったことのない人でありながら、人生の重要な瞬間にこの教会にかかわりを持った人が何人もいたということは疑いようのない事実なのです。そして、そういったことは決して昨日今日に始まったことではなく、この教会がここに建てられてからずっと、何度となく繰り返されてきたことだったに違いないのです。
もちろん、そうした人々は教会の歴史の中には記録されていません。しかし、繰り返しますが、そういう人々がいたということは事実であり、この教会がそういう人々に知られていたということは消すことのできない事実です。
そうした人々は、なぜ私たちの教会にやって来たのでしょう。教会の建物や名前に引かれてやって来たのでしょうか。プロテスタントだから、あるいは日本キリスト教会に属している教会だから、やって来たのでしょうか。
おそらくそうではありません。もちろん牧師の名前を見てやって来たわけでもないでしょう。では、なぜそうした人々はこの教会にやって来たのでしょう。
そうした人たちがやって来る理由はただ一つ、ここが「イエス・キリストの名」を掲げているからであると私は思います。「キリストなら何とかしてくれる。」
それが、彼ら彼女らをこの教会へ導いた理由なのです。使徒言行録の時代以来、延々と宣べ伝えられてきた「イエス・キリストの名」。この名前のゆえに私たちの教会もまた知られていないようでよく知られているのであり、この名前こそが人生のギリギリのところで立ち尽くす人を私たちの教会へと導いたのです。
俗な言い方をすれば、私たちはこの「イエス・キリストの名」という「金看板」を背負っている存在です。人々はこの「金看板」に信頼して、教会に駆け込んでくるのです。教会にはこの「金看板」を背負う誇りと責任があります。またそれゆえにこそ、私たちが引き受けなければならない痛みや労苦や負担もあるのです。
宣教のわざ、教会形成の営みは、いつも順風満帆というわけにはいきません。けれども、キリストによって救われ、キリストによって一つに結ばれた群れとして、私たちもまた使徒言行録の弟子たちと同じように、「イエス・キリストの名」によって「大胆に」祈り求め、また「大胆に」行動するものでありたいと思うのです。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にこの礼拝に与ることができましたことを、心から感謝いたします。神様、キリスト教会は「イエス・キリストの名」という金看板を背負って、この世に立っています。それはイエス・キリストから力を与えられ、主イエスの宣教の業をキリスト教会が担っていくということです。それは労苦を避けられない務めですが、喜びと祝福に満たられた務めです。どうか、私たちが大胆に宣教の業を担っていくことができるように、聖霊の励ましを与えていてください。今年は梅雨が早く空け、猛暑の季節が既に始まっています。どうか教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。