心を新たに

ローマの信徒への手紙12章1~8節 2026年1月4日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 新年最初の主日を迎えました。この日、共に礼拝をお捧げできますことを嬉しく思います。教会の暦においては、一年はアドベントから始まります。ですから、私たちはすでに昨年の11月30日から新しい年のサイクルをスタートしているとも言えます。しかし、この国に住んでいますとやはり生活感覚としての年の初めは、どうしてもお正月になりますでしょう。

 アドベントにせよお正月にせよ、いずれにしても年の初めの区切りがあるということはありがたいことです。それは一年を振り返り、新しい生活へと歩み出す機会となるからです。そうでなければ何の反省も進歩もなく、旧態依然とした生活を漫然と続けてしまうかもしれませんから。

 今日の新約聖書の箇所として読まれましたのは、ローマの信徒への手紙12章でした。この手紙においてはここから新しい区分に入ります。この区分においてはキリスト者の生活について語られています。キリストによって与えられる「新しい生活」について語られていると言ってもよいでしょう。しかし、直接的に「新しい生活」という言葉は出てきません。書かれていたのは「心を新たにして」という言葉でした。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(2節)。

 「心を新たにして」。原文では「心の一新」という意味合いの言葉です。心を置き去りにして、生活だけを変えることはできません。まず必要なのは心の一新です。心を新たにすることなくして生活が新たになることはありません。

 しかし、「心の一新」と言いましても、いろいろな一新の仕方があるように思います。実際、新年には何らかの決心をし、心新たに何かに取り組もうとする人は少なくないのでしょう。では、聖書が語る「心の一新」とはどのような意味合いなのでしょうか。

 「心を新たにして」の前にパウロが言っていたのは、こういうことでした。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」。そのように語られているのは、一方において「この世に倣う」という生き方があるからです。また、それを生み出す心の方向性があるからです。そして、それは教会の中にも入ってきており、私たちが知らず知らずのうちに、そのような心をもって、そのような生活をしているということがあり得るからです。

 それは教会がこの世に存在し、信仰者の人生もまたこの世において営まれている限り、避け得ないことなのでしょう。だからこそ、「心の一新」が必要なのです。心の方向転換が必要なのです。そして、この世に倣わない生き方への転換が必要なのです。

 しかし、「この世に倣わない」とは何を意味するのでしょうか。これもまた人によって思い描くことは様々なのでしょう。

 あるキリスト者は「この世に倣わない」ということで真っ先に「禁酒禁煙」を考えるかもしれません。別な人は「この世に倣わない」ということで、弱い立場にある人に対する優しさや思いやりを持つということを考えるかもしれません。また他の人は「この世に倣わない」ということで、右傾化する社会の動きに対して抵抗することを考えるかもしれません。教会やキリスト者に対して二人の人が「これではこの世と同じではないか」と言ったとしても、その二人が必ずしも同じことを考えているとは限りません。

 では、パウロ自身はどのような意味において、「この世に倣ってはなりません」と言っているのでしょうか。「この世に倣ってはなりません」とは否定的・消極的な表現です。彼はすぐにこれを、肯定的・積極的な表現で言い換えます。《こうしてはならない》というだけでなく、むしろ積極的に《こうあって欲しい》という思いがあるのです。彼は言います。「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。この世に倣わないとは、こういうことです。

 そこには、「何が神の御心であるか」と書かれています。当然のことながら、この世は「何が神の御心であるか」ということで動いているわけではありません。この世を動かしているのは、「何がわたしの望んでいることか」「何が私たちの望んでいることか」という人間の欲求と願望です。同様に、この世は「何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」ということで、動いているわけではありません。この世を動かしているのは、「何がわたしたちにとって善いことで、わたしたちに喜びと満足を与えるのか」という人間の判断です。国家としてならば、「何が国益となるのか」という判断になるのでしょう。

 そのようなこの世の姿といつのまにか同じ姿になってしまっていることは、私たちにも確かにあります。この世と同じように、いつでも関心は「わたし」あるいは「わたしたち」のことでしかないことが起こります。そう、必ずしも「わたし」ではない。「わたしたち」を強調すれば、エゴイスティックに見えないこともあります。しかし、関心はあくまでも人間の側のことなのでしょう。自分たちの望みが実現し、自分たちが喜び、自分たちが満足を得ることであり、望みが実現しなければ失望し、満足を得られなければ不平を言い、互いに相争うことにもなるのです。

 そのように、知らず知らずのうちにこの世に倣い、この世と同じ姿になっていることが、私たちにも確かにあるのです。だからこそ、「心の一新」について語られているのです。それが必要なのです。「わたし」「わたしたち」と、こちら側のことにばかり向いているこの心が、ぐいっと方向転換をして、神に向けられることが必要なのです。「何が神の御心であるのか」「何が善いことで、神に喜ばれることなのか」に、心が向けられることが必要なのです。それこそが、「心を新たにする」ことなのです。

 心を新たにするところから、新しい祈りが生まれてきます。ただ自分たちの望みの実現を求める祈りではなく、自分たちの満足を求める祈りでもなく、「御心を教えてください」という祈りが生まれてくるのです。「何が善いことで、何があなたに喜ばれることなのかを教えてください」という祈りが、私たちの内に生まれてくるのです。

 そして、御心に従って生きようと思うなら、自分が変えられなくてはならないこともまた分かるのです。だからパウロは、「自分を変えていただきなさい」と言うのです。これは「変えられ続けなさい」という表現です。「むしろ、心を新たにして、自分を変えていただき、変えられ続けていきなさい!」。そこにこそ、本当の意味での新しい生活があるのです。

 しかし、今日は与えられた聖書箇所から、なお一つのことを心に留めたいと思います。パウロは続けてこう言っています。「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません」(3節)。

 このあと、信仰生活に関する具体的な勧めが15章まで続くことになるのですが、その最初に語られていることがこれです。心を新たにして自分を変えていただき、神の御心をわきまえて生きようとする人が、最初に聞かなくてはならない言葉がこれなのです。「自分を過大に評価してはなりません」。むしろ「慎み深く評価すべきです」と言うのです。

 この言葉で何を言わんとしているのか。続く4節以下から明らかです。要するに、自分が体の一部に過ぎないことをわきまえなさい、ということです。5節に「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と書かれているとおりです。私たちは神の御心を行う大きな体の一部なのです。部分ならば部分としての働きで十分なのです。全てをなし得なくてもよいのです。自分を体の全てであるかのように、評価してはならないのです。

 そうであるなら、他の人ができることを自分ができないとしても、それでよいのです。部分なのですから。他の人を羨む必要も、自らを卑下する必要もないのです。自分になし得ることを他の人が同じようにできないとしても、批判する必要はないのです。自分は自分の与えられた務めに専念し、他の人は他の人のなし得るところを行ったらよいのです。

 6節で聖書は、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから…」と言います。この世に倣って生きようとするならば、自分の願望の実現のために自分を用いて生きようとするならば、この能力が足りない、あのこともできない、とつぶやきながら、他人を羨み、自分を卑下して生きることにもなるのでしょう。しかし、心を一新して神の御心のために生きようとするならば、そのために必要な全てはすでに賜物として与えられているのです。神の御心を求め、自分を献げて生きるならば、与えられている賜物が何であるかも見えてくる。また、自分が体のどの部分なのか、専念すべきことは何であるのかも見えてくるのです。

 新しい年を迎えました。このような区切りが与えられていることは幸いなことです。これまでこの世に倣い、この世と同じものを追い求め、この世によってこの世と同じ姿にされていたならば、この年の区切りは私たちの信仰生活を振り返り、心を一新する機会です。心を置き去りにして、生活だけを変えることはできません。心を新たにして自分を変えていただきましょう。変えられ続けることを求めましょう。そして、キリストによって一つの体とされている私たちとして、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかに思いを向けて、共に仕えてまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。2026年の最初の礼拝を敬愛する兄弟姉妹と共に守ることができましたことを、感謝いたします。パウロの手紙を通して、心を新たにすることを教えられました。私たちの歩みはともするとこの世に倣い、私たちの願いや私たちの目的を追い求めてしまいます。あなたは心を新たにし、あなたが願っておられること、あなたが喜ばれることを求めるよう、私たちを促しておられます。どうか、この世に倣うのではなく、あなたに心を向けて、あなたの御心を尋ね求めることができますよう、私たちを励ましてください。日々冬の寒さが厳しくなっています。どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。

このひと言の切なるお祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

神の確かな御手に守られて

マタイによる福音書2章13~23節 2025年12月28日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 占星術の学者たちが、星に導かれて、ベツレヘムに生まれた幼子イエスにお会いした御言葉を、先週聞きました。ところが、学者たちはその夜、夢で「ヘロデのところに帰るな」というお告げを聞きました。それで、彼らはヘロデのところに寄らないで、別の道を通って帰って行ったのです。

夢によるお告げは、ヨセフにも与えられました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」(13節)。

 ヨセフは飛び起きました。そして、傍らで寝ているマリアを揺り起こし、急いで出発の用意をさせます。こうして、ヨセフとマリアは幼子イエスを抱き、夜明けを待たずして、エジプトへと旅立っていったのです。

 一方、ヘロデは、今か今かと学者たちの帰ってくるのを待っていたに違いありません。ところが、学者たちが帰ってこないということを知ると、彼は怒りに狂い、ベツレヘムとその周辺に住む二歳以下の男の子を皆殺しにするという、大変恐ろしい事件を引き起こしたのでした。この時、ベツレヘムという町の規模から推測して20~30人の子どもたちが犠牲になったのではないかと言われています。

 まったく惨(むご)い話です。しかし、これはヘロデの犯した残虐行為ですけれども、幼子イエスの身代わりとしてこれらの子どもたちが犠牲となったのです。そのことを考えますと、神様はどうしてこのようなことをお許しになっておられるのかと思わざるをえないのです。

 さらにまた、幼子イエスが逃げたということについても、釈然としないものがあるのではないでしょうか。もし、これがヘロデの悪魔的な仕業であるとするならば、救い主としてお生まれになった主イエスは、これに勝利をなさらなければならないはずです。もっとも主イエスはまだ小さな幼子でありましたから、ご自身で何かをなさることはできなかったでしょう。しかし、神様は主イエスを逃がすというだけではなく、ヘロデがもっと神を恐れるような仕方で、主イエスに栄光を与えつつ、ヘロデの手から救うことができなかったのでしょうか。ただエジプトに逃げるというだけでは、救い主の名が廃(すた)ると申しますか、あまりにも安易すぎるように思えるのです。 

 今日はこの二つのことについて、神様の御旨を尋ねたいと思うのです。最初は、主イエスの身代わりになって犠牲になってしまった子どもたちのことです。罪のない子どもたちでありました。なぜ神様は幼子イエスだけではなく、彼らを救われなかったのでしょうか。なぜ、ヘロデの手に渡されたのでしょうか。

 この問題は、今を生きる私たちにも起こりうる問題です。真面目に生きていても、信仰をもって生きていても、災いに遭うことがあります。災いというのは、良い人と悪い人を区別しないのです。

 三浦綾子さんの『泥流地帯』という小説があります。大正15年の北海道十勝岳の大噴火で、泥流が小さな部落を襲い、一切のものを流してしまうのです。主人公の耕作は命からがら泥流から救われましたが、家族や大切な人たちを失ってしまいます。茫然自失としている耕作は、やはり泥流から逃れた人たちが「心がけがよかったから助かった」と喜び合っているのを聞いて、激しい憤りを覚えるのです。「お姉ちゃんは心がけが悪かったというのか!」そして、助かった深城というあくどい男の顔を思い出して、「深城の奴は心がけが良かったというのか!」と非常な理不尽を感じるのです。

 過去の衝撃的な事件としては、アメリカの貿易センタービルにハイジャックされた旅客機が突っ込んだというテロ事件がありました。この事件で一般市民3, 000人が犠牲になりました。その内、身許が確認されたのは1,000人程度だそうです。本当に悲惨な事件でした。こういうことを経験した人が「神はどこにおられるのか!」と嘆き、また人生を呪っていたとして、私たちはそれでも「神様はおられる。ここにおられる」と胸を張って言えるでしょうか。

 私は、マタイという福音記者は、そのことについてここで明確に語っているのだと思います。ちょっと細かい話になって恐縮なのですが、ぜひ気をつけて聖書を読んでいただきたい部分があるのです。それは、マタイ福音書が1~2章の中で、よく旧約聖書の預言を引用して、「それは主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と書いているところです。

 今日、お読みしたところにも、15節に、「『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と書かれています。23節にも、やはり「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」と書かれています。このような書き方をすることによって、神様が約束の御言葉を実現してくださったということが強調されているのです。

 では、ヘロデの幼児虐殺についてはどうでしょうか。17節、「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とあります。ここだけは、他のところにように「預言が実現するためだった」とは書いてありません。「預言が実現した」と書いているのです。神様が約束を実現されたというよりも、神様が仰っておられた通りになってしまったという書き方です。要するにマタイは、これは神様がなさったというよりも、人間の罪深さを知る神様が警告されていたことが、罪深いに人間の手によってその通りに行われてしまったということなのです。神様の御心ではなく、人間の罪が生み出したものなのです。

 私たちは災いに遭うと、「どうして神様は・・・」と神様を責めようとします。しかし、それは間違いではないでしょうか。神の国を求めないこの世が、そのように神なき、望みなき世界を造り出してしまっているのだと思うのです。その世界に生きている限り、私たちは神なき望みなき体験を避けることができないのです。しかし、聖書はそのような神なき望みなき世界に、一人のみどり子が与えられたということを語っています。そしてその御子を愛する者は、たとえ神なき望みなき世界にあっても、神を信じ、望みをもって生きることができるのだということを語っているのです。

 マタイは預言者エレミヤの預言を引用しています。しかし、実はその後半部分をここに書いていません。エレミヤの預言は次のように書かれているのです。エレミヤ書31章15~17節はこうでした。旧約1235頁です。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。」

 ここまでが、マタイが引用をしているところです。しかし、その後にはこう書いてあります。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。 あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」このように、慰めと救いが約束されているのです。この時殺された子供らは、間違いなく天国に入るのです。

 では、マタイはなぜそれを書かなかったのでしょうか。マタイは敢えて書かなかったのだと思います。それは、この慰めと救いを信じなかったからではありません。そうではなく、神なき望みなき世界に与えられる神の慰めと救いこそ、マタイが書こうとした主イエスの生涯そのものだったからなのです。

 ヘロデの幼児虐殺の事件は、まさにこの世の暗闇を表す事件でしょう。しかし、この暗闇に決して呑み込まれなかった一人の幼子がいたのです。その幼子が、やがてこの世の暗闇に大きな光を放つお方になられます。「だから、そのような暗闇の中に生きている人よ、泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる」。そう告げられています。このエレミヤの後半部分の預言の実現こそ、主イエスの御生涯なのだと確信して、マタイはこの福音書を書いているのです。 

 さて、もう一つ考えたいのは、なぜ幼子イエスは逃げるだけであったのかということです。主イエスが世の光であるならば、神の光でヘロデのもたらす暗闇をうち破ってもよかったのではないか。これは多くの人が思うことでしょう。

 しかし、聖書には「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」という御言葉があります。人間から見ると、神様は愚かで弱々しく見えるときがあるというのです。しかし、そのような時であっても、神様は人間の知恵や力をはるかに上回る知恵と力をもって、御業をなさっているのだということです。

 主イエスは、神様に等しいお方でありますが、それと同時に私たちと同じ者になってくださいました。それは、主イエスが私たちと同じように弱さや、貧しさを持たれたということです。実はそのことの中にも、主イエスの大きな救いがあるのです。

 たとえば、この福音書を書いたマタイ自身の救いについて考えてみるとよく分かります。マタイは、主イエスの奇跡を見て信じたのではありません。病を癒していただいたから信じたのでもありません。マタイは人々からローマ帝国への税金を集める徴税人でした。マタイは、ローマの手先、売国奴とみなされ、売春婦などの罪人と同じように軽蔑されている人々の一人だったのです。売春婦もそうですが、誰も好きこのんでそういう仕事につくわけではなく、そこに至る背景には幸せの薄い人生があったのだろうと思います。ところが主イエスは、そのようなマタイが仲間を集めて用意した宴会に、弟子たちと一緒に喜んで出席し、一緒に飲み食いしてくれたのです。ファリサイ派の人たちは、そういう主イエスを見て非難しました。しかし、主イエスはお構いなしに、マタイや他の罪人、徴税人たちと同じ者になられたのでした。こうして、マタイは主イエスの弟子となり、この福音書の書き残すという神様の仕事をする者になったのでした。

 そういうことを考えますと、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」という聖書の御言葉は、決して私たちが忘れてはいけないことだと思うのです。主イエスが力弱く思えるとき、主イエスが愚かに思えるとき、そういう時にも、私たちに対する主イエスの深い御心があって、私たちが考える以上の知恵と力が隠されているのです。

 主イエスが父母に抱かれてエジプトに逃げたということも、そう考える必要があります。私なりの解釈ですが、神様は主イエスに愛される喜びだけではなく、主イエスを愛し、主イエスに仕える喜びを人間に与えてくださったということを、ここで感じるのです。幼子イエスがそうであったように、ご自身を力ない人間の手にゆだねることによって、主イエスを愛する機会を与えてくださったのです。

 私などは、なぜ神様は自分のように罪深く、貧しく力のない人間を牧師にされたのだろうかと、不思議に思うことがあります。しかし、このような者でも用いられて、思いも寄らないような神様のご用をさせていただくことがあるのです。そのような時、私は少しも自分の力でしたという気がしません。ただただ神様が憐れんで助けてくださったと感謝するばかりなのです。しかしそれと同時に、このような自分でも主イエスにお仕えできたという大きな喜びを感じます。そのような喜びを与えてくださるのも、主イエスの深い愛なのではないでしょうか。私たちそれぞれに示された、主イエスの様々な愛をかみしめつつ、新しい年へと向かっていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を心から讃美いたします。今日一年の最後の主日礼拝を、愛する兄弟姉妹と共に守ることができ、感謝いたします。神様、あなたは救い主イエス・キリストを与えてくださいました。そして主イエスを通して、一人一人に様々な愛を示してくださいます。主に愛される喜びはもちろんですが、小さな私たちを用いて主を愛する喜びをも与えてくださいます。どうぞ、そのような喜びをかみしめつつ、新しい一年への歩みを進めさせてください。冬の寒さが本格的になってきました。どうか、教会に連なる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

クリスマスの星に導かれて

マタイによる福音書2章1~12節 2025年12月21日(日)クリスマス礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 春夏秋冬、四季折々にはそれにふさわしい色彩というものがあります。春であれば若草色、夏であれば海や空の青、秋であれば紅葉の彩り、そして冬は鉛色の雲の色といったところでしょうか。

 それと同じようにクリスマスにも、色があります。クリスマスの色って、どんな色でしょうか。緑と赤ではないだろうかと思う人があると思います。たしかに、クリスマスには、柊(ひいらぎ)でクランツを作ったり、赤い蠟燭を灯したりします。クリスマスーツリーは樅(もみ)の樹のような常緑樹に、赤い飾りものを吊るして作るのです。ですから、クリスマスには緑と赤が溢れるのです。

 なぜ、緑と赤を用いるのでしょうか。緑色はとこしえの命を象徴し、赤はキリストの十字架の血や光を象徴すると見られるからです。クリスマスに緑を見たら、永遠の命を、赤を見たら、キリストの血やそれを通して与えられる光を想いおこすとよいでしょう。

 しかし、教会の暦に定められているクリスマスの色は、実は緑でも赤でもなく、白なのです。ですからカトリック教会などではクリスマスになりますと、司祭の方は白のガウンを着て、礼拝の司式をされるのです。白は純真な喜びを表すと考えられてきたからです。それだから「ホワイト・クリスマス」なのですね。

 クリスマスには、プレゼントがつきものです。クリスマス・イブの夜が明けて、朝、枕元においてあるプレゼントに歓声をあげた思い出をもっている人があるでしょう。私も、子どもたちが小さいときに、クリスマスが来るよほど前から、妻と何を子どもたちに贈ろうかと相談し、それらを密かに買い揃えては、クリスマス・イブの夜、子どもたちの枕元に置いておいたものでした。朝になって、それらを見つけた子どもたちが歓声をあげて喜んだことを、昨日のことのように思い起こします。みなさんの中にも、クリスマスが来るというので、自分の親しい人に何をプレゼントしようかと、あれこれ考えている人も大勢いると思います。

 しかし、クリスマスの日に起こったことを考えてみますときに、一番大事な点は、人にプレゼントをあげたり、人からプレゼントを貰うというところにあるのではないということに、思い至らないわけにはいきません。どうしてかというと、クリスマスは何よりも、神様が掛け替えのないプレゼントを私たちにくださる日に他ならないからです。ですから一番大事なことは、神様が私たちにくださったプレゼントを、しっかりといただくというところにある、と言わなければならないのです。

 先ほどクリスマスの色のことをお話ししましたが、クリスマスにはそれを彩る素敵な音楽や心をうつ美しい絵や見事な飾り付けがあります。音楽であればヨハン・セバティアン・バッハの「クリスマス・オラトリオ」やヘンデルの「メサイア」、絵画であればフラ・アンジェリコの「受胎告知」やジョルジュ・ド・ラ・トウールの「羊飼いの礼拝」など、あまたの美しい音楽や絵画・彫刻をあげることができます。ドイツのローテンベルクで売られているケーテ・ヴォルハルトのクリスマスのオーナメントなど、思わず声をあげたくなるほどに良くできています。それはもう途轍もなく素晴らしいものがたくさんあるのです。それは人間の文化の中でも、最良のものと言って良いものばかりです。ですが、それがどんなに素晴らしいものであれ、それらはみな、神様がくださる贈り物を包む包装紙にすぎないのです。と言いますのは、それらは結局、私たちに起こったクリスマスの出来事そのものを指し示すものでしかないからです。

 それでは、その神様のプレゼントとは何でしょうか。皆さんが心に思っている、それです。イエス・キリストです。飼い葉桶の中に横たわっている幼子です。

 でも、イエス・キリストって、私たちにとってどういう意味をもつ存在なのでしょうか。先ほど読んだマタイによる福音書の2章11節に東から来た博士たちが幼子イエスの前に膝まずいてこれを拝み、黄金、乳香、没薬の贈り物を捧げたと書いてありました。イギリスにウイリアム・バークレーという著名な聖書学者がいますが、この人の書いた『マタイ福音書』という本に、博士たちの献げた献げものは、その一つ一つが、主イエスの人柄とその働きにふさわしい、ということが書いてあります。実際、その通りで、この献げものの中に、主イエスという方が、私たちにとってどのような方なのかということが、みごとに表現されているように私にも思えます。ちょうど、水面に映る月を見て、月の輝きを知るということがあるのと同じで、博士たちの献げものは神さまが私たちにくださる贈り物がどのようなものであるかを映し出すものと、私には思えるのです。

  博士たちの献げものは何だったでしょうか。

 第一に、黄金です。黄金によって映し出されているものは何でしょうか。それは主イエスという方が、真の王さまだということです。なぜなら、イエス・キリストの時代、王さまに最もふさわしいものは黄金であると、考えられていたからです。聖書では、王さまとは、自分の利益や自分の力のことを最優先に考えて、国民から取り上げることをする人であってはなりませんでした。王さまとは、神さまが与えてくださる幸いが人々のものになるように人々を導き、治める人にほかなりませんでした。博士たちは、主イエスの中に、自分たちを導いてくださり、神さまが与えてくださるほんとうの幸いに至らせてくださる方、蠅の王でも、人間の王でもなく、真の王を見たのです。

 人は、いつも自分を幸いなところに至らせてくれる人を求めます。この人のもとにいればと思い、あの人ならきっとと思って、右往左往するものです。でもどれほど、そのような想いは裏切られてきたことでしょうか。しかし、この飼い葉桶の中に横たわる方は、その方に心を寄せ、信頼する人を、神さまが与える幸いへと導かれる王なのです。

 博士たちは、次に乳香を捧げました。乳香というのは、樹液からとるクリーム状の香ばしい油のことです。これが映し出すものはなんでしょうか。それはイエス・キリストこそ、私たちを取りなしてくださる方だということです。乳香は、祭司が人の罪の許しを求めて、取りなしをするときに用いたものだからです。

 人にはしばしば誤りを犯すことがあります。しょっちゅう愚かなことをしでかします。大抵は、ごめんなさいといって済むこと、「ばかだな、私は」といって頭をコツンとたたいて済むことです。しかし、どう悔やんでも取り返しがつかないことを言ったりしてしまうこともあります。そればかりか、自分の存在そのものがもつ、どうしようもない罪性(罪の性質)に打ちのめされるということも、あります。よかれと思ってしたことが、一つ一つマイナスにしかならなかったことに気づかされるとき、茫然自失するばかりです。

 しかし、その私の過ちや愚かさや罪を完全に背負い、取りなしてくださる方がある。主イエスよ、あなたこそその方であると、博士たちは乳香を捧げることで表現しているのです。

 博士たちの第三の献げものは没薬です。没薬とは、死んだ人の葬りのために使ったものです。その没薬を博士たちは幼子イエスに捧げた。そうだとするとこれは、赤ちゃんのお誕生のお祝いに、お線香をもっていくようなものです。あまりに場違いな贈り物です。しかし、博士たちが最後に捧げたものは、まぎれもなくこの没薬でした。それが意味しているのは、主イエスは死んでくださるためにおいでになった方だということです。

 私たちの本当の王でいてくださるために、この方は私に代わって死んでくださる。私の本当の取りなし手でいてくださるために、この方は私たちの罪を背負って十字架の上で死んでくださる。博士たちは主イエスの中にそれを見たのです。 博士たちの献げものは、私たちに与えられる神様の贈り物が何であるかを映し出しています。私たちの真実な王さま、私たちを本当に取りなし、罪から解き放って、本当の命にいたらせてくださる方、そのためには死をさえ惜しまれない方だということです。

 神さまがくださるこの値高いプレゼントをしっかりこの身にいただくなら、その人は自分が最善の導きの前にあり、生きることに対する赦しと大いなる肯定の中にあることを、心に深く噛みしめて生きることができるでしょう。自分とこの世界とを神の深い愛が包んでいることを知って、歩むことができるでしょう。

 私はこの神さまの価高い贈り物を、心からいただきたいと思っています。そしてできることなら、神さまがこれほどのプレゼントをくださったのですから、私自身もまた、自分自身を人々に対する贈り物と考えて、人々に最善をなしていきたいと願っているのです。

 今日、私たちはクリスマスをお祝いしています。神様が与えてくださるプレゼントが、私たちに一人一人に差し出されています。その大きな恵みを、ご一緒に喜びたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心より讃美いたします。今日のクリスマス主日礼拝を愛する兄弟姉妹と共に守ることができますことを感謝いたします。クリスマスは御子イエス・キリストの誕生を感謝し、喜びの礼拝を捧げる日です。神様は私たちに神の独り子という至高のプレゼントを与えてくださいました。御子イエス・キリストは、私たちを真の幸いに至らせるために、また私たちの罪を贖いあなたとの和解を実現くださるために、ご自身の命を捧げられました。馬屋の飼い葉桶には、その誕生の時から十字架の影が射していたと言われる通りです。どうか、そのような貴いプレゼントを私たちがしっかり受け取ることができるようにしてください。この礼拝において、一組のご夫婦の入会式と聖餐式を行います。また、礼拝後にはクリスマス祝会も行われます。どうか、その一つ一つの上に、あなたの豊かな祝福を注いでいてください。思いを持ちながらも色んな事情のためにこの礼拝に集うことのできなかった兄弟姉妹の上にも、私たちと同じ祝福を与えていてください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

神は我々と共におられる

マタイによる福音書1章18~23節 2025年12月14日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 本当のクリスマスを祝おうと思うなら、二つのことを退けなくてはならない。エミール・ブルンナーという神学者がそのように言いました。その二つとは何でしょうか。第一は現代社会の不安によってクリスマスの喜びを失ってしまうことだと彼は言います。確かに、不安に満ちた社会に私たちは生きています。不安要素を数えれば切りがない。個人的にも、お互い多かれ少なかれ問題を積み残しにしたまま年を越していくのでしょう。しかし、それでもなお私たちはクリスマスの喜びを奪われてはならないのです。「それは悪魔の望むところである」と彼は言います。すべての悪は喜びの喪失から生まれる、と。私たちは喜びを失うことによって、悪魔を喜ばせてはならないのです。

 しかし、退けなくてはならない第二のことがあります。それは、人為的なクリスマスの喜びに溺れないことだと彼は言うのです。人為的なクリスマスの喜びとは、現実逃避の喜びです。「今がどんな悪い時代であるか、そんなことなど忘れてしまおう。少なくとも今日はクリスマスなのだから」。――そのような喜びのことです。そのような麻薬中毒のような喜びを、悪魔は奪おうとはしません。悪魔には都合のよいものだからです。

 私たちはここに、ただクリスマス気分に一時(いっとき)酔いしれるために集まっているのではありません。そのようなものは、この場所を出て寒い風に当たれば吹き飛んでしまいます。私たちは、どんな寒い風が吹こうが、嵐の中に置かれようが、絶対に奪われない喜び、悪魔に奪われることのない本当の喜びに生き、また生き続けるためにここにいるのです。

 そのような今日私たちに与えられているのは、マタイによる福音書の御言葉です。こう書かれていました。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。聖霊による懐胎。いわゆる「処女降誕」の話です。しかし、強調されているのは、その受胎の不思議さではありません。この物語の中で、アンバランスとも言えるほど強調されているのは、名前とその意味です。「イエス」という名。そして、「インマヌエル」という呼び名とその意味。マタイは名前の意味にかなりこだわっているようです。

 そこでまず、私たちはその名前に注目することにしましょう。21節以下を御覧ください。「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(21~23節)。

 「イエス」という名前。それはユダヤ社会においてはごくありふれた名前でした。その名は旧約聖書に現れる「ヨシュア」という名前に相当します。「ヨシュア」とは、「主は救い」という意味です。その名の通り、こうして生まれた方は救い主なのです。何から救ってくださるのでしょう。聖書は言います。「この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)と。

 「罪から救う」。――当たり前のように書かれていますが、私たちの日常において、「罪から救う」という表現はほとんど耳にすることはありません。「貧困から救う」とか「病気から救う」なら分かります。しかし、「罪から救う」という表現は一般的に用いられている表現ではないので、ある程度の説明を要します。

 例えば、こんなことを考えてみてください。皆さんが教会の帰りに南柏駅東口近くで小さな男の子が泣いているのを見かけたとします。迷子のようです。お母さんが買い物をしている間に、ちょろちょろと歩き回ってはぐれてしまったようです。さて、皆さんはその男の子を助けたいと思います。お昼時です。随分お腹も減っているようです。そこで南柏教会のAさんは、その男の子をマクドナルドまで連れていってハンバーガーを買ってあげました。そして、そのハンバーガーを渡すと、東口まで連れていって「バイバイ」と言って、駅の中に入っていきました。

 次にBさんが通りかかりました。男の子はハンバーガーを持ったまま泣いています。優しいBさんは思いました。「ひとりでずっとここにいたんだな。寂しかったに違いない。」そこでBさんは、その子と遊んであげました。確かにその子は泣きやみました。もう泣いてはいません。そこでBさんは少し遊んであげると「ああ、泣きやんだね。じゃあね」と言って、駅に入って行ってしまいました。

 そこに、Cさんが通りかかりました。Cさんはすでに泣きやんでいたその子と一緒に、お母さんを捜して歩きました。そして、ついにお母さんのもとにその子を連れていくことができました。男の子はお母さんに抱っこされて、本当の笑顔が戻りました。

 さて、その男の子を本当に助けることができたのは誰でしょうか。――最後のCさんでしょう。迷子は親に抱かれて初めて救われます。人間も同じです。必要を満たされることも大事です。寂しさを癒されることも大事です。しかし、人は神のふところに抱かれてこそ、本当の意味で救われるのです。それを聖書は「罪から救う」と表現しているのです。

 「罪」とは、神に背いて、自分勝手に歩んで、神から離れてしまった状態です。羊飼いの声に聞き従わずに、群れから離れて迷子になった小羊のような状態です。迷子のような状態なのですから、不安で寂しくて苦しいのも無理はありません。そのように、神から離れたこの世界が不安に満ちているのも無理ないことなのです。

 しかし、そんな迷子のような私たちを神様は憐れんでくださいました。そんな私たちを本当の親である神のもとに立ち帰らせるために、主イエスを救い主として送ってくださったのです。主イエスは神を示してくださっただけではありません。神を離れ、神に背いて自分勝手に生きてきた私たちが赦されるために、そして、神に赦された者として、神との交わりに生き、神の子どもとして生きることができるように、主イエスは十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったのです。主イエスは罪から救うために来られたのです。

 ですから、その幼子はまた「インマヌエルと呼ばれる」と語られているのです。その名は「神は我々と共におられる」という意味です。主イエスが来られたのは、まさに私たちが「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と、腹の底から喜んで言えるようになるためなのです。

 どんなことがあろうと、辛い現実があろうと、涙にくれるようなことがあろうとも、神に愛されている子どもとして「神が共におられる」と言うことができるなら、すでにその人は救われているのです。ちょうどさっきの迷子の男の子が母親に抱きかかえられたように。その救いの喜びこそ、神が与えてくださったクリスマスの喜びなのです。何によっても奪われないクリスマスの喜びなのです。

 しかし、私たちはここでもう一つの事実に目を向けなくてはなりません。そのような罪からの救い主、「インマヌエル」と呼ばれる御方が誕生するためには、そのために苦しみを引き受けた人々がいたのだ、ということです。そして、神の御計画を信じて、身を献げた人がいたということです。ご存じ、母マリアと父ヨセフです。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。これは何よりもまずマリアにとって恐るべきことでした。いったいどこの誰が、「聖霊によって身ごもった」などどいう話を信じるでしょう。この出産がユダヤ人社会において全く受け入れられないであろうことは、火を見るより明らかでした。

 一方、このことがヨセフにも深い苦悩をもたらしたことは言うまでもありません。当初、ヨセフも「聖霊によって身ごもった」ということを信じてはいませんでした。「ひそかに縁を切ろうと決心した」と書かれていることから分かります。それは、悩み抜いた末の決心だったのでしょう。そのヨセフが夢を見ました。主の天使が夢に現れて言ったのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)。ヨセフは信じました。そして、マリアを迎え入れることにしました。

 しかし、ヨセフの苦悩が終わったわけではありません。いや、むしろ始まりだったのです。ヨセフは信じたかもしれない。けれども他の人は信じないでしょう。マリアを迎え入れるということは、マリアと一緒に苦しみを担っていくことを意味したのです。そのように、マリアもヨセフもいわば苦しみを引き受けたのです。神の為しておられることがあることを信じて、神の御計画が進んでいることを信じて、その神が「恐れるな」と言われる御言葉を信じて、苦しみを引き受けたのです。

 私たちの喜びであるクリスマスの物語には、そのような、苦悩に満ちたヨセフやマリアが出てくるのです。イエス・キリストは、罪からの救い主として来てくださいました。しかしこの物語に見るように、誰かが救いに与り、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と喜びをもって語れるようになるためには、誰かが身を献げて、苦しみを引き受けるということが必要なのです。ヨセフやマリアのような人たちが必要なのです。実際、私たちが今こうしてクリスマスを喜び祝っているのは、ここに至るまでに多くの人々が身を献げ、労苦を引き受けてきたからこそ実現していることなのです。

 私たちは、クリスマスを喜び祝うためにここに集まっています。誰によっても、この世のいかなることによっても、このクリスマスの喜びを奪われてはなりません。しかし、それは単に私たち自身のためではないのです。私たちは、この喜びを抱きかかえるようにして、ここから出て行くのです。それは、今度は私たちが、誰かの喜びのために、誰かの救いのために、誰かが「インマヌエル」(神は我々と共におられる)と言えるようになるために、神の御計画を信じて、身を献げて、自分の負うべき十字架を背負って生きていくためなのです。

お祈りをいたしましょう。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。アドベント第三の主日に、敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることとができましたことを、心から感謝いたします。神様、あなたは私たちを罪から救うために御子イエス・キリストをこの世界に遣わしてくださいました。それは主の到来によって、私たちがインマヌエル・神は我々と共にいますということを、心から信じるようになるためでした。神様が共にいてくださるとの確信を持てること以上に、心強いことはありません。そして、この大きな恵みの福音をこの世の友たちに伝えるために、私たちも自分自身をお捧げできますよう、励ましていてください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン。

罪から祝福へと導く神

マタイによる福音書1章1~17節 2025年12月7日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

                                       

 私たちが何かものを書いたり、話を準備したりするときに、初めに何をもって来るか、何から始めるかということで苦労することがあります。小説を書く人も、冒頭の言葉や文章を選ぶのに相当苦労し、工夫し、読む人に強い印象を与えようと言葉を吟味する、ということを聞きます。聖書の中の4つの福音書も、それぞれに異なる書き出しを持っており、工夫がこらされているように感じさせられます。その中で、新約聖書の第一の文書であるマタイによる福音書は、いきなり系図を最初に持ってきています。ここには数十名の人物の名前が連ねられています。初めて聖書を読もうとする多くの人が、マタイのこの冒頭の部分から嫌になってしまうとは、よく聞くことです。それほどに、この系図に対して「これは何だ」という印象を持ち、無味乾燥な思いがする、ということは実際にあり得ることでしょう。マタイはどのような意図をもってこの系図を冒頭に置いたのでしょう。

 

 まず1節を見てみましょう。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。イエス・キリストの系図が、アブラハムから始められていることに注目させられます。アブラハムの子、ダビデの子についても詳しく考える必要がありますが、今はそれぞれ重要な一点だけを確認しておきましょう。まずアブラハムに関しては、創世記12章に記されているとおり、神によって選び出されて、神の民ユダヤ民族の歩みを始めた最初の人物です。アブラハムが選ばれることによって、すべての民族の選びがやがて実現するということが約束されました。またダビデに関しては、その末に真の王であり救い主である方が現れると、神が約束してくださったことが大切です。このいずれもがイエス・キリストによって成就したとの信仰に立って、この系図が記されています。

つまり信仰的に見て、アブラハムにおける神の約束、ダビデにおける神の約束は、イエス・キリストにおいて実現した。そういう意味でイエス・キリストは、アブラハムの子であり、ダビデの子であると言われるのです。そう考えて、マタイは「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト」と記しているのでしょう。

 次に私たちは、この系図が、14代ずつ、三期に区分されていることに注目したいのです。第一期はアブラハムからダビデに至るまで(2~6節前半)、第二期は、ソロモンからバビロン捕囚のエコンヤまで(6節後半~11節)、そして第三期は、バビロンに移されてからのシャルティエルからイエス・キリストまでです(12~16節)。私たちがこの系図を見てすぐに気がつくことは、17節からも示されることですが、アブラハムからイエス・キリストまでが、14代ずつ三期にうまい具合に区分されている、ということです。

しかし、詳しく調べてみると、色々な問題や疑問があることが分かってきます。  

 旧約に記されている系図、例えば歴代誌上3章5節などと比較してみるとき、ソロモンから始まる第二期の途中で、ヨラム(8節)からウジヤまでの間に、三人の王(アハズ、ヨアシュ、アマツヤ)が省略されていることが分かります。そうすることによってこの時期が14代という数に合わせられているのです。

 また第三期は、シャルティエル(12節)から始まるのですが、イエス・キリストまでは十三代しかないにもかかわらず、「バビロンへ移されてからキリストまでは14代である」と記されています。とにかく一代足りないのです。

 いずれにしても、マタイが14という数字にこだわっている、ということは否定しようがありません。一体、これはどういうことなのでしょうか。このことについては、多くの説明や解釈がなされています。二、三紹介しますと、単純な説明としては、第一期のアブラハムからダビデまでが14だったので、そのあとの第二期、第三期もそれに合わせようとした、ということです。また14という数字は、7の二倍である。そして7というのは完全を意味する象徴的な数字である。したがって、この7の二倍の14という数字で歴史を区切ろうとした、という説もあります。まだ他にもあるのです。いずれが正しいかは決定できないことですが、とにかくその数によって、アブラハムからキリストまでを三期に分け、それぞれの時期を特徴づけようとしているマタイの意図を見ることができます。すなわち、第一期は、アブラハムの選びからダビデ王までで、イスラエル民族が高められていく過程を歩んだ時代でした。第二期は、そのように繁栄をみたイスラエルが、衰退して、バビロンの国に捕らわれの身となる下降の時期です。そして第三期は、暗い時代が続きながら、ついに、待望のキリストを迎えることができて、神の約束がかなえられた時期となります。

 先週読んだイザヤ書9章1節に次のように記されています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。様々な歴史の変遷をたどりながら、神はイスラエルを導き、決してアブラハムに与えられたその約束を忘れ給うことなく、ついに御子キリストにおいて、すべての国民への祝福がもたらされた。そのような信仰による理解と告白とが、ここにあります。マタイは、神の真実をこの系図を通して言い表しているのです。

 そして、そのことによって、私たち一人ひとりの上に慰めと希望を与えようとしています。私たちの歩みも、信仰を与えられてからも、浮き沈みの激しいものです。喜びの絶頂にあるときもあれば、暗い絶望の谷間に陥るときもあります。そのように私たちの側にある大きな波にもかかわらず、神は昨日も今日も、いつまでも変わり給うことのない真実をもって、私たちを捕らえ導いてくださる。そのような神を、この系図の中に見ることができるのです。その神への信仰の告白が、この時代区分の中に表されています。

 さて、この系図の特徴としてどうしても見落としてならないのは、四人の女性たちが登場することです。タマル(3節)、ラハブ(5節)、ルツ(5節)、ウリヤの妻(6節)です。このことは系図としては特異なものである、と言ってよいでしょう。なぜならふつうイスラエルの国における家系図は、男性の側の系統がたどられます。そして例外的に女性の名が出てくることがあっても、その場合は、すぐれた女性であり、賞賛の的としてとりあげられる人物たちです。しかしここにあげられている女性たちはどうでしょうか。あえて名前をあげるほどの人物だったのでしょうか。途中で、何名もの人物を省略してまで14という数字に合わせようとしたマタイが、なぜこれらの女性たちの名を系図の中に入れたのでしょうか。そのことを考えるにあたって、この四人の女性がどういう人物であったかを知る必要があります。簡単に見ておきましょう。「タマル」(3節)は、自分の夫の死後、夫の父であるユダによってペレツとゼラを生んだ女性でした(創世38:12以下)。「ラハブ」(5節)はエリコの町でよく知られた遊女でした(ヨシユア2:1以下)。「ルツ」(5節)は、イスラエルの集会に加わってはならないと規定されていた異邦のモアブ人でした(ルツ記)。そして「ウリヤの妻」(6節)とは、バトシェバのことで、夫ウリヤの留守中に、ダビデ王との姦淫の罪を犯した女性であり(サムエル下11:1以下)、のちにダビデの妻となった女性であることは、よく知られています。

 このように、いずれの女性の場合でも、その女性からの子どもが生まれるということに関しては、罪がからまっています。彼女たちがイスラエル人の忌み嫌う他民族の女性ということだけではなく、彼女たちをめぐって、異常な事態が伴うといった女性ばかりなのです。言うなれば、系図の中にあえて出す必要はない者たち、いや逆に、隠しておくことの方が系図の純粋性を保つことができるといった女性ばかりなのです。

 マタイはこれらの女性の名前を、敢えて系図の中に書き入れたとしか考えられません。いったいその意図は何であったのでしょうか。使徒信条に、主イエスの偉大な弟子たちの名は一人も上げられず、ポンテオ・ピラトの名があげられていることに深い意味があるように、アブラハムの妻サラやイサクの妻リベカをあげずに、この4人の女性の名を敢えてあげていることには、それなりの意図があったはずです。そのことを最後に考えてみたいのです。

 ある人は、これらの四人の女性は罪の女であった、ということから考えます。しかし必ずしもそうではないでしょう。罪はむしろそれぞれの男性の側にあるというべきでしょう。また、ルツは、敬虔な女性として賞賛さえされています。罪ということだけで、四人をまとめることには無理があります。そうなると、この四人の女性の共通性は、非ユダヤ人、すなわち、異邦人ということにある、と見ることができるのではないでしょうか。イエス・キリストの系図の中に、異邦の血が混じっているのです。しかし、それにもかかわらず、神の約束は貫かれました。神の救いの計画は、異邦人をも包み込みながら進められてきた、この事実がこの系図をとおして明らかにされようとしている事柄です。ここに、マタイによる福音書が持っている異邦人世界、全世界への福音宣教という関心事が、すでに冒頭から示されているのです。このあと、御子キリストの誕生を最初に礼拝したのも、異邦人の国の占星術の学者たちでありました。またマタイ福音書の最後には、復活の主の言葉として「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と語られ、この異邦の世界への福音宣教の課題がいっそう鮮明にされています。

 神は、このように、歴史の中の汚点とも思えることを、逆に用いて、宣教の前進のために役立ててくださった。そう確信したゆえに、マタイはこの四人の問題ある女性を系図の中に書き入れたのです。

 また、このように四人の女性の名を系図に入れたのは、マタイ福音書がまとめられている時期に、イエスの母となったマリアへの誹謗、非難が強く出てきていたのではないかと推測する学者もいます。あれは姦淫の女、罪の女だったのではないかという非難です。しかし、たとえマリアが非難されなければならないものを持っていたとしても、すでにイエス・キリストの誕生にいたる系図の中に、同じような女性は何人もいる。それにもかかわらず、神はそれを用い給うたではないか。マタイはそのことを主張しようとしているのでありましょう。

 私たちの歩みの中にも、消し去ってしまいたい罪や塗りつぶしたい汚れや神への背反というものが、べっとりとこびりついているかも知れません。私たちの生活がある場所には、必ず罪が伴い、罪との苦しい戦いがあります。そしてそれに敗れることもあります。

 しかし、アブラハムからキリストに至るまでの歴史の中で、忌むべきこと、汚らわしいことが数多く起こりながら、なお約束に忠実であり給うた神は、私たちをいったんご自身との交わりに入れてくださった限りは、その初めの愛を貫いてくださるのです。私たちの罪の大きさにまさる赦しの愛によって、私たちを神の家族の系図の中に留めてくださいます。系図の中に現れる罪と異邦の女性たちの苦しみと涙とを顧み給う王なる神は、私たちの罪を悔いる思い、汚れを悲しむ涙をも顧みてくださるのです。 

 今年も私たちがクリスマスを迎えることができるのは、そのような神の憐れみの確かさによるのです。私たちはこの恩寵の確かさに支えられて、神の家族の一員としての歩みを、確信を持ってなしていかなければなりません。私たちがつまずくことがあっても、決してつまずき給うことのない神が、私たちのそれぞれの歩みを、祝福へと向けて導いてくださっているのです。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にアドベント第二の礼拝を守らせてくださったことを、心から感謝いたします。マタイによる福音書の冒頭にある系図からあなたの御心を示されました。あなたはあなたの民であるイスラエルを、その歴史を貫いて導いてくださいました。神の民の罪や汚れ、背反にもかかわらず、あなたの真実と愛は変わることはありませんでした。どうか、その神の民の一員として私たちもその系図の中に留められていることを、深く信じさせてください。冬の寒さが厳しくなってきました。どうか、兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。そして、主の御降誕と再臨を喜びをもって待ち望む日々を過ごさせてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

ひとりのみどりごの誕生

イザヤ書9章1~6節 2025年11月30日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今年もアドベント・待降節を迎えました。今日はイザヤ書によって、救い主誕生の預言の言葉を聞こうとしています。それがイザヤ書9章1~6節です。

 この預言がイザヤによって語られた時代背景について、まず考えておきましょう。先立つイザヤ書7章の時代、南王国ユダは、大国アッシリアの脅威とともに、北イスラエルとシリアの連合軍から同盟軍に加わるようにとの圧力を受けるという、もう一つの脅威の下にありました。そのような中で恐れ、ろうばいするアハズ王に「静かにしていなさい。恐れることはない」と言って励ました預言者イザヤが、神から示されて語ったのが、7章の〈インマヌエル預言〉でした。

 それから十年位経過した時代が、今日のイザヤ書9章の時代です。このときすでに、恐れていた大国アッシリアが北イスラエルに侵攻してきて、その領土の一部がアッシリアの占領下におかれていました。その状況を8章22節以下の箇所から読み取ることができます。8章22~23節に「苦難、闇、暗黒、苦悩、追放」といった言葉が並べられています。また9章1節に「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」と言われています。これらの表現から、イスラエルの国全体が政治的・軍事的な圧迫の下で、精神的にも苦しい状況に追い込まれ、希望を失った暗闇の中におかれていることを想像することができます。

 神によって選ばれた民であり、神から与えられた土地に住んでいる自分たちであるということに人々は疑いを抱き始め、「わたしこそあなたがたの神である」と言われる主なる神への信頼が、大きく揺らぎ始めていました。国壊滅の危機の中でイスラエルがイスラエルとして、すなわち神の民として存在し続けることに対する危機が、民の間に生じているということです。それを一個人になぞらえて言えば、自分とは一体何ものなのかが分からなくなってきた状況、自分が崩れていく状況・アイデンティティー・クライシスに陥っている、ということになるでしょう。北イスラエルと南ユダの民は、光を失った闇の中で、どうあったらよいかが分からなくなっているのです。

 そのような民に対して預言者イザヤは、希望の光を指し示します。それが「ひとりのみどりごの誕生、ひとりの男の子の誕生」の預言です(5節)。ここでは、その子がすでに「生まれた」とか「与えられた」というように、過去形で語られています。これは現実においてすでに起こったことではなくて、これから先、このことが確実に起こる、間違いなくこの通りのことが起こるということを言い表そうとしている表現なのです。実際は将来のことを語りながら、すでに起こったことのように過去形で語る、この文法を預言者的過去ということがあります。預言者の言葉には、よく見られるものなのです。

 預言者イザヤは、新しい王、新しい統治者がこの国に起こり、この方が、全イスラエルを守り、闇から光へ、死から命へと変えてくださると、確信をもって預言しているのです。それゆえ、1節で「死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と語ることができ、2~3節においても、「喜び」、「楽しみ」が語られ、苦悩や苦痛や戦いなどからの解放が力強く宣告されることになります。

 3節にある「ミディアンの日のように」というのは、土師記6章33節以下に記されている記事であり、神が士師ギデオンを用いて、イスラエルの民を襲うミディアン人を制してくださったことを指しています。その日のように、神は全イスラエルの民を、外国の圧迫から解放してくださると、確信をもって語られているのです。何よりもそのことは、ひとりのみどりごの誕生によって、その方が王に即位することによって現実のこととなる、と預言されています。

 そのみどりごにやがて与えられる名、それはまた、その働きの内容も意味しているのですが、それが5節の後半に4つあげられています。この5節の句は、ヘンデルの「メサイヤ」の中でくり返し歌われているものとして知られています。思い起こされる方もおられるでしょう。四つの名とは、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」です。最初の「驚くべき指導者」についてあとで考えることにして、先にその他の三つについてごく簡単に考えてみましょう。

 「力ある神」とは、神のような力をもって、民を導き、民に勝利を与え、そして救いをもたらすことができる者という意味です。「永遠の父」とは、真の父親のように、愛と厳しさとをもって、その子らを守り、民を守り、決して見放さない者ということを意味しています。「平和の君」とは、国の内外において争いや戦いをなくし、繁栄と平和な状況を造り出す者のことです。このような働きをする方が、「わたしたちのために生まれ」、「わたしたちのために神によって与えられる」、その方こそが闇を光に変える救い主である、と歌われています。

 さらに、この方につけられるもう一つの名が、最初に出てくる「驚くべき指導者」という名です。これは、口語訳聖書では「霊妙なる議士」となっていて、分かりにくいものでした。それが新共同訳では、「驚くべき指導者」と訳し変えられました。他の日本語訳としては、「驚くべき助言者」、(フランシスコ会訳)とか、「不思議な助言者」というものもあります。この「指導者」とか「助言者」と訳されている語の本来表すものは、軍事的には参謀の役を担う者であり、政治的には王や君主に助言を与える議官を意味し、そして一般的には、助言したり、弁護したりする人、あるいは私たちが普通に用いる「カウンセラー」の役を果たす人のことを言います。多くの英語の聖書では、〈ワンダフル・カウンセラー〉と訳されています。救い主としてお生まれになる方は、統治者であり、王であられると共に、自らカウンセラーとしての役を果たされるお方であるということが、ここで言い表されているのです。

 ユダの国に救い主として生まれ、全イスラエルに希望の光を照らしてくださる方は、王でありつつ、助言者でもあってくださるお方です。彼は支配し、統治しつつ、民族の危機に介入し、民たちに、一人ひとりに、自己の存在の意味と目的とを再発見させて、生きることの手助けをしてくださるお方です。そのような方がこの国で生まれる、とイザヤはその誕生を預言するのです。

 長い歴史の経過の中で神を信じる人々は、このようなみどりごの現れは、神の御子イエス・キリストにおいて現実のこととなった、と受けとめました。先になされたインマヌエル預言を、神がわたしたちと共にいてくださるということが、御子イエス・キリストにおいて成就したと受けとめたイスラエルの人々は、9章5節の「ひとりのみどりごの誕生」も、神の御子の誕生を意味するものであったと信じて疑わないのです。究極的には、この二つの誕生預言は、神の御子イエス・キリストの誕生へと流れ込むものでした。男の子につけられるであろうと言われた四つの名「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」、これらのすべては、主イエス・キリストの人格とその業との中に含まれていることを、私たちも深い畏れと大きな感謝とをもって覚えることができるのではないでしょうか。

 ひるがえって、私たちは、このみどりごは、今、ここで生きる私たち一人ひとりにとっても「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」であってくださることを確信してよいです。「わたしたちのために生まれた」、「わたしたちに与えられた」と言われる「わたしたち」の中に、ここにいる私たちが、その一人ひとりが含まれているのです。主イエス・キリストは、私たちにとってもワンダフル・カウンセラーであってくださいます。

 イザヤ書8章の終わりから9章にかけて描かれているイスラエルの暗い時代状況は、今日においても形を変えて存在しています。希望の光がうすれ、暗闇と死の陰が、私たちの時代をおおっています。一人ひとりの個人的な生活の領域においても、日本の社会においても、さらには世界規模においてはいっそう、暗雲がたれこめているという状況は深刻です。私たちは出口を見出せない闇の中におかれています。具体的にその事柄をあげる必要がないほどに、私たちにはそれぞれに固有の、そして共通の不安や恐れや心痛める事柄があるのです。それは人間としての、あるいは人類としての存在の危機、生存の危機ともなり得るものです。

 どこに、私たちの恐れと問いとを投げかけたらよいのでしょうか。どなたに、私たちの生きることの苦しさと悩みとを訴え、相談したらよいのでしょうか。その問いの重みでこうべを垂れてしまいがちな私たちに対して、預言者イザヤは静かに、そして力強く「こうべをあげよ」と語りかけるのです。そして彼は告げます。「あなたがたには、驚くべき指導者がいるではないか。ワンダフル・カウンセラーが、あなたがたには与えられているではないか」と。そしてその声に促されてこうべを上げるとき、私たちそれぞれの前に、イエス・キリストが立っていてくださるのを見出すことができるのです。この方が、私たちのために驚くべき指導者、真の意味でのカウンセラーとしての働きをしてくださるのです。

 カウンセラーとしての必要な条件は、相手をよく知っていることと、語るべき適切な言葉を持っていることです。主イエスは私たちと全く同じ人の姿をとって、人間として生きられ、死んで行かれました。その主は、「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ2:18)と言われるように、私たちの苦しみと痛みと望みなき状態をご存じであられます。

 また、主イエス・キリストは、神の言葉としてこの世に来られたお方だからこそ、一人ひとりに語るべきふさわしい言葉をお持ちなのです。この方に問うことによって私たちは、自分自身の抱える苦悩や疑いに関する回答を与えられるだけではありません。人間として存在することの意義、人類の向かうべき方向も示されるのです。聖書の御言葉の中に私たちはこの主を見出すことができ、祈りの中で私たちはこの主に出会うことができるのです。そしてそのようにして出会い、そこで示された命と救いの言葉を、私たちは他の人々に運んでいくのです。

 ある人がこう問いかけました、「私たちのまわりはあまりにも暗すぎます。なぜ一日中クリスマスではないのですか。なぜ一年中クリスマスではないのですか」。しかしその暗さの中でこそ、人は光であり、助言者である主イエス・キリストを見出すことができるものとされているのです。

 「深い暗い井戸は、昼間でも空の星を映すことができる」。暗闇がおおうこの時代だからこそ、私たちは光を必要としています、そして、私たちは今その光を見出すことのできる状況の中におかれているのです。つまり、闇の中でなおイエス・キリストにおいて希望の光を見出し、自分自身の生を生きぬくことができるものとされるのです。すべての人の心の中に、御子が迎え入れられるときこそ、その人にとって御子が誕生したときです。そしてすべての人が、その喜びへと招かれているのです。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今年も主の御降誕を待ち望むアドベントの時を迎えることができました。

闇がひたひたと迫るような時代です。不安や恐れが私たちの中にはあります。しかしこの世界に来てくださった御子イエス・キリストは、私たちの苦しみ、悲しみ、恐れをご存じでいてくださいます。また、神の御子として私たちに必要な神の御言葉を与えてくださいます。そのような驚くべき助言者・ワンダフル・カウンセラーがいますことを、深く信じさせてください。明日から12月に入り、寒さも厳しくなっていきます。どうぞ、教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

信仰と疑い

創世記17章15~25節 2025年11月23日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

「神はアブラハムに言われた。『あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。』」(17:15~16)

 17章前半の部分で、アブラムは「アブラハムと改名せよ」と命じられましたが、同じように、サライも「サラに改名せよ」と命じられます。しかしアブラハムの場合と違って、ここでは改名の意味は語られません。「サライ」と「サラ」は、両方とも意味としては変わらず(王女の意)、「サラ」というのは「サライ」の新しい形だということです。アブラハムが「諸民族の父」となるように、サラも「諸国民の母」となると言われます。実際、そのように敬われてきました。

 アブラハムは、この言葉を素直に聞くことはできませんでした。アブラハムとサラ夫婦が、最初にその約束の言葉を聞いてから、すでに25年の歳月が流れていました。しかし結局、サラから子どもは生まれず、二人は一計を案じ、女奴隷ハガルによってイシュマエルをもうけたのです。神様の約束は半分だけかなえられたようでありました。あるいは神様の約束を半分だけ聞いて、あとの半分を人間的知恵で補ったと言えるかもしれません。イシュマエルはすでに13歳になっていました。アブラハムもすでに、サラによって子どもを得ることは諦めています。神様の約束は、このイシュマエルによって実現するのだということで納得していました。サラも満足はしていなかったでしょうが、納得はしていました。

 アブラハムは、この神様の言葉をどのように聞いたでしょうか。「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』アブラハムは神に言った。                                    『どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように』」(17:17~18)。

 複雑な態度、そして複雑な言葉です。「神様、私たちはもう99歳と89歳です。新しいことは何も期待していません。神様があんな約束をくださったものだから、妻もいっときは期待していました。しかし実際に、ハガルによってイシュマエルが生まれた後、わが家はとても複雑な関係になってしまいました。日々、緊張の連続でした。イシュマエルで十分です。これが私たちの出した答えです。もう私たちをかきまわすようなことはやめてください」。

 15章のときは、神様に向かって、「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません」と言って、食ってかかっていました。あのときも不信仰の応答でしたが、まだ神様と対話を持とうとしていました。しかしここではそれも言わずに、じっと黙って神様の前にひれ伏しています。ひれ伏しながら、笑っています。うれしくてそれを抑えるようにして、ほくそ笑んでいたのではありません。神様の言葉を鼻で笑い、神様の言葉を信じて待ち続けた馬鹿な自分をあざ笑っているのです。そして落ち着き払って言いました。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように」(17:18)。これが99歳の、人生経験豊かな、しかも信仰深い男の出した答えでした。

 しかし、神様ははっきりと言われるのです。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」(17:19)。

この「いや」と訳された言葉は、とても強い言葉です。「ノー」。この言葉によって、神様はアブラハムをもう一度信仰へと呼び戻されるのです。アブラハムは、神様を信じて歩んできましたが、一番の願いは叶えられませんでした。いくら待っても叶えられないので、自分でそれなりの道をつけて、それを神の祝福であると信じてきました。それがイシュマエルです。しかしそういうふうに神様を信じ、礼拝しながら、もはや神が全能であることを信じられなくなってしまっています。

 これは私たちの信仰生活に似ていないでしょうか。私たちも神様を信じ、イエス・キリストを自分の救い主と信じて歩み始めました。しかし何も起こらない。大した変化もない。一応信じてはいるけれども、それほど感動があるわけでもない。そういう毎日が10年、20年と続く中で、大体どうすれば、どうなるということがわかってしまう。そして神様の大型の恵みを信じ切れず、それを自分で信じることができる小型サイズの恵みに変えてしまうのです。ポケットに入る程度の恵みです。

 「信仰」というのはいつも、「疑い」と裏表です。疑うことがあるから、信じるということがあるのです。信仰をもっていると言っても、信じることと疑うことを行ったり来たりしています。その信仰も、何年もするうちに色あせてきます。そうした中、神様はそのような私たちに対して、「いや、私の備えている恵みはもっと大きい。あなたはそれを信じることができないのか」と言って、信仰の新たな地平へと呼び戻されるのです。この神様の小さな「いや」は、私たちのどんな大きな声よりも大きな意味をもっています。

 さて今日の箇所で、もうひとつ見逃すことができないことがあります。それはイシュマエルの存在です。イシュマエルは、もとはと言えば、アブラハムとサラの不信仰の結果、生まれたような子どもです。不信仰も罪であるとすれば、イシュマエルの存在自身がアブラハムとサラの罪の結果であると言えるかもしれません。実際に、サラに実子(イサク)が生まれると、イシュマエルは二人にとって、とりわけサラにとって邪魔な存在になっていきます。その子がそこにいること自体が、彼らに自分たちの罪を思い起こさせたでありましょうし、イサクの跡継ぎとしての地位を脅かすものに思えました。

 しかし神様は、このイシュマエルの存在も忘れることはありません。それがたとえアブラハムとサラの罪の結果であったとしても、です。「イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は12人の首長の父となろう」(17:20)。

 選びの器は、サラの息子イサクによって備えられていくのですが、イシュマエルもしっかりと神様の御旨のうちに数えられ、恵みを与えられるのです。

 私は、この世に生まれてくる生というのは、みんなそうであると思います。傍目(はため)には、祝福されていないかに見える子どももあるかもしれません。なぜこの子が生まれてきたのか。イシュマエルの存在は、サラにとってはイサクが跡継ぎになるための障害になる。しかしハガルにとっては、かけがえのない息子であります。イシュマエルという名前の意味は、「神は聞かれた」でした。それは何よりも「ハガルの悩みを聞かれた」ということでした(16:11)。

 17章の中には、表に登場しないもうひとりのお母さんが存在しています。陰に置かれたようなお母さんです。しかしその母親の息子への思いは、とても大きなものでありました。私たちの世界には、ハガルのようなお母さんがたくさんいます。イシュマエルの場合には、父アブラハムに認知されていましたから、アブラハムの家族に加えられていました。しかし父親に認められないまま、母親がその子を産む決心をして、生まれてくる子どももいます。もしかすると、実の母親からも愛されていない場合もあるかもしれません。しかしその命にも神様の愛が宿り、神様の御旨のうちに生まれてくるのです。

 イザヤ書49章14~16節に、こういう御言葉があります。

「シオンは言う。

主はわたしを見捨てられた

わたしの主はわたしを忘れられた、と。

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。

母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。

たとえ、女たちが忘れようとも

わたしがあなたを忘れることは決してない。

見よ、わたしはあなたを

   わたしの手のひらに刻みつける。」

 この箇所は、聖書の中で、珍しく神様が母にたとえられている箇所です。もしもこの世の母親が自分の子どもを忘れることがあったとしても、「わたしがあなたを忘れることは決してない」と言って、地上の母を超えた真(しん)の母のような存在であることを告げています。もちろんイシュマエルの存在は、常に母ハガルの祈りのうちにありました。

 イシュマエルが生まれること自体が、たとえアブラハムとサラの不信仰のゆえであったとしても、その子が生まれてきたということは、そこに神様の意志があったということです。そしてその子を祝福することによって、アブラハムとサラの不始末の罪をも贖ってくださるのです。

 この世に生まれてくる生には、必ず神様の祝福があり、意味がある。そこに命がある限り、必ず神様の意志があるのです。

 「この世に存在するものは、必ず何かの役に立っている。何かの意味がある」。 こうした価値観は元をただせば、恐らく聖書から来ているのでしょう。私が思い起こしたのは、今日、読んでいただいたテモテの手紙 一 4章4~5節の言葉でした。「というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。」

 聖書は、そう語ります。たとえ、それが何かの間違いで出発したことであったとしても、あるいは不信仰であったとしても、それがそこに存在するということは、神様の意志が働いたからです。そして神様の計画の中で、その罪が贖われて、きよめられて、神様に用いられていくようになるのではないでしょうか。

 大きなところで言えば、旧約聖書のイスラエルの歴史そのものがそういう面をもっていると思います。イスラエルの民が、最初に「自分たちも王が欲しい」と、預言者サムエルに訴えたのは、「他の国と同じように、王様がいれば、この国も強くなれる」というわがままな思いからでありました(サムエル上8章)。王がいなくて、神様が、そのつどふさわしい指導者(士師)を立てられつつ、直接支配されることこそがイスラエルの特徴でした。それなのに、民の声に押し切られて、サウル王が立てられていきます。これは、「目に見えない神様だと頼りないから、目に見える王が欲しい」という不信仰です。

 しかし、そのようにして始まったイスラエルの歴史がいつのまにか、神様の歴史になっていくのを見る思いがします。その次の王としてダビデが立てられ、イスラエルの民の希望の星となります。そしてその歴史のずっと先に、イエス・キリストが立っておられるのです。イエス・キリストこそは、まさに「目に見えない神様だと頼りないから、目に見える王が欲しい」という人間の願いの実現として、この世界に来られたと言えるのではないでしょうか。神様がその不信仰の罪を贖い、それを神の歴史としてくださるのです。

 私たちのこの世界、それぞれの人生にも、そうした神様の不思議な御計画、摂理があることを信じて、歩んでいきましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。アブラハムとサラの歩みを通して、あなたの御心を示されました。私たちの信仰生活においても、信仰と疑いが繰り返されています。そうした中で私たちは、あなたの恵みをポケットサイズの小さな恵みにしてしまいます。しかし、あなたは私たちの人生に介入され、「ノー」と言われ、私たちの信仰をあなたの大きな御計画のもとに引き戻してくださいます。どうか、あなたの御心を聴き取ることができますよう、私たちの信仰の耳を強めていてください。11月の下旬を迎え、本格的な冬の到来を感じさせます。教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。特に病床にある兄弟姉妹、高齢のために様々な困難を覚えている兄弟姉妹をお支えください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

嵐をしずめる

マタイによる福音書8章23~27節 2025年11月16日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今朝読んでいただいた御言葉は、こう始まっています。23節です。「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。」何気ない言葉ですが、丁寧に読んでみますと、改めて気づかされることがあります。それは、イエス様と弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に行こうとしていたわけですが、その舟にまず乗られたのはイエス様であって、そこに弟子たちも従って乗り込んだということです。弟子たちが乗った舟に、イエス様が乗り込んだというのではないのです。どっちでも同じではないかと思われるかもしれません。しかし、このことはとても重要なことです。

 前の段落の18節を見ますと、「弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」とあります。つまり、弟子たちは、自分たちで向こう岸に行こうと言い出したのではありません。自分たちが乗った舟にイエス様が乗ってこられたのでもありません。弟子たちはイエス様に命じられたのです。さらに22節を見ますと「わたしに従いなさい」とあります。弟子たちはイエス様に従っただけです。変な言い方かもしれませんが、この時弟子たちに落ち度はなかった。夜のガリラヤ湖に舟を出して向こう岸に渡ろうとしたのは、100%イエス様の責任、イエス様のご命令で行われたことだったのです。

 ところが、24節前半「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった」とあります。湖に舟を出すと、激しい嵐が起きたのです。舟は波に飲み込まれそうになったのです。

 ガリラヤ湖というのは、海抜約-200mほどの所にある湖です。海抜-200mのガリラヤ湖は、世界で2番目に低い所にある湖です。この低い所にある湖という地形のために、周りの山々から突風が吹いてくるということが起きます。現在でも起きています。この時も、そのような突然の嵐が、イエス様一行が舟を出したその夜に起きたのです。イエス様一行が乗っていた舟は多分、漁師たちが漁で使っている舟だったと思われます。それはとても小さな小舟です。湖が荒れれば、まさに木の葉のように揺られ、水も入ってくる。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは元漁師でしたが、このような状況になれば、どうしようもありませんでした。彼らは、このような突然の嵐の怖さをよく知っていました。恐らく漁師仲間の何人かは、このような嵐に巻き込まれて命を落とすということもあったのでしょう。彼らは必死でした。必死に舟を操り、入ってくる水をかき出していたことでしょう。彼らは命の危機を感じていました。「このまま嵐が静まらなければ、自分たちはもうお終いだ!」。そう思ったことでしょう。

 ところが、その時イエス様はどうしておられたでしょうか。聖書は、「イエスは眠っておられた」と記します。舟は波に揉まれて、めちゃくちゃに揺れています。波をかぶって、水も入ってくる。よくまあ、そんな状況の中で眠っていられるものだと思います。でもこの時イエス様は眠っておられたのです。

 この眠っておられるイエス様を見て、弟子たちはどう思ったでしょう。皆さんならどうですか? 一つは、イエス様への不満、怒りのような気持だったと思います。「こんな時によく眠っていられるものだ。」「あなたが舟を出せと言ったからついてきた。どうしてくれる。」そんな思いを持ったのではないでしょうか。そして、もう一つ。「主よ、助けてください」という叫びのような願いです。

 私たちは、ここではっきり知らなければなりません。イエス様に従っても、いやイエス様に従うがゆえに、嵐に遭う、絶体絶命の危機に陥ることがあります。イエス様に従っていくならば、必ず平穏無事な幸せな日々を過ごすことができるということではないのです。クリスチャンになれば、事故にも遭わず、病気にもならない、人間関係のトラブルにも巻き込まれない。そんな保証などないのです。

 けれども、イエス様はどうして、嵐に遭うような夜に舟を出させたのでしょうか。イエス様も弟子たちと同じように、嵐が来るとは思わなかったということなのでしょうか。そうではないと思います。イエス様はすべてを知っておられたと思います。しかし、あえて舟を出したということなのだと思います。なぜか。それは、弟子に対する一つの訓練だったのではないでしょうか。

 弟子たちはこの時、自分の経験、自分の能力、自分の力ではどうにもならない、自分では自分を救えない、そういう状況に追い込まれました。そこで彼らは、「主よ、助けてください」とイエス様に助けを求めました。これは弟子たちの叫び、弟子たちの祈りでした。そして、イエス様はこれに応えて、嵐を静められました。どんな危機的状況であっても、イエス様に助けを求めるならば大丈夫。弟子たちはそのことを、強烈に思い知ったのではないでしょうか。その経験をイエス様は、弟子たちにさせたということなのではないかと思うのです。

 舟が転覆しそうになった時、弟子たちに起こされたイエス様は、こう言われました。26節「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」しかし、この状況の中では怖がるのは当たり前です。こんな時に眠っておられるイエス様の方が変なのです。そう、イエス様が変なのです。どうして変なのか。それはイエス様がただの人間ではないからです。神の独り子、まことの神であられるからです。イエス様は風と湖とをお叱りになった。すると、すっかり嵐は静まり、凪になった。こんなことがおできになるお方だから、イエス様はこの天と地を造られた神様の独り子であられるから、この状況の中でも怖がることはなかったのです。でも、弟子たちは怖がった。ただの人間だからです。当たり前のことなのです。

 ここでイエス様は、弟子たちに「信仰の薄い者たちよ」と言われました。これは直訳すれば、「小さな信仰」です。信仰が無いのではありません。小さいのです。ここでイエス様は、小さな信仰しか持っていない弟子たちを叱ったのでしょうか。そうではないと思います。ただ事実を告げられただけなのです。

 弟子たちの信仰は小さい。それは事実です。私たちの信仰も小さいのです。イエス様のように神様と一つとなって、神様に対しての絶対的な信仰の中で生きている者などどこにもいません。だから、弟子たちと同じように「主よ、助けてください」と叫ぶようにして、イエス様に祈るしかないのです。そして、イエス様はその叫びに応えて、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言いながら嵐を静めてくださるのです。私たちにできることは、何とかこの嵐の中でも舟が沈まないように、一生懸命舟を操り、水をかき出すことです。そしてどうにもならないなら、「主よ、助けてください」とイエス様に助けを求めて叫ぶことなのです。イエス様は必ずその叫びに応えてくださるのです。

 私はこう思っています。自分としては精一杯やっているのだけれど、どうにもならないことはよくあります。そして、こうなったらどうしよう、こんなふうになったら困るな、そんな不安や怖れにとらわれてしまいます。その時どうするのか。この時の弟子たちと同じように、「主よ、助けてください」とイエス様に助けを求めたらよいのです。イエス様は必ずその叫びに応えてくださいます。 

 皆さんは、自分の信仰が弱いと思うこと、イエス様に「不信仰な者よ」と言われていると思うことはありませんか。もし、そのようにイエス様が言われていると思ったなら、大いに安心したらよいのです。イエス様は、私たちに「信仰の薄い者よ」と言って、お終いという方ではないからです。イエス様がそのように言われたなら、必ず、私が怖れている嵐を静めてくださいます。そのことを信じてよいのです。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者よ」と言われたなら、心から喜んだらよいのです。このイエス様の言葉を聞く人は、すでにイエス様の守りの中に生かされています。イエス様が同じ舟に乗っていてくださっているからです。

 さて、教会の歴史において、イエス様が乗ってくださっているこの舟は、キリスト教会のシンボル=象徴と考えられてきました。キリスト教会は時代の荒波の中、何度も沈みかけたことがありました。しかし、そうはなりませんでした。教会が知恵を持ち、力を持っていたからではありません。イエス様が共にいてくださり、嵐を静めてくださったからです。

 この舟はどこへ向かっていたでしょうか。聖書は「向こう岸へ向かって」いたとしか記していません。しかし次の28節を見ますと、この舟が向かっていたのは「ガダラ人の地方」であった。イエス様はこの地の墓場に住む、悪霊に取りつかれた二人の人から悪霊を追い出されたことが記されています。つまり、イエス様一行が向かった先は、ガダラ人という異邦人の地であり、そこに住む悪霊に取りつかれた人を救うためであったということなのです。

このことを教会に当てはめるならば、異邦人伝道へと向かう中で嵐に遭う、伝道の困難さを示しているとも言えるでしょう。伝道というのは、キリスト教会が復活のイエス様に命じられて、二千年の間、すべてのキリスト教会が行ってきたことです。この伝道という業は、すんなり楽々となされたことはありません。よく、現代の日本は伝道が困難だと言われます。しかし、何時の時代の、どこの国の伝道が困難ではなかったというのでしょうか。いつでも、どこでも、伝道は困難でした。その困難のただ中で、教会は、伝道者は、何度も「主よ、助けてください」と叫んだ、祈った。そして、その祈りは聞かれ、今の教会があるのです。困難はあります。自分の力ではどうにもならないような危機にも見舞われます。しかし、それでも大丈夫なのです。私たちがイエス様と同じ舟に乗ったからです。イエス様に従って、イエス様が乗っている舟に乗り込んだのなら、イエス様が必ず何とかしてくださるのです。

 もし今、本当に辛い、大変な状況の中にある人がおられるなら、「主よ、助けてください」と祈りましょう。本当に困った時、「助けてください」と叫ぶことは大切です。人間同士でも大切ですが、神様に「助けてください」と祈ることはもっと大切です。神様は必ず働いてくださって、私たちの思ってもいない道を開いてくださいます。だから安心して、人生という航海へと乗り出していきましょう。主はいつもあなたと共におられます。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を褒め称えます。

今日は南柏教会に集う子どもと大人が一緒に礼拝を守ることができました。そのことを心から感謝いたします。教会はイエス様が乗っておられる舟で。そこには子どもも大人も乗っています。教会という舟は小さい舟で、嵐に見舞われ、ひどく揺さぶられることもあります。転覆するのではないかと怖くなることもあるかもしれません。しかし、舟のあるじであるイエス様は風と湖を𠮟りつけ、嵐を静めてくださいます。イエス様がおられる舟に乗っている限り、私たちは守られ、無事に目的地に到着することができます。どうかイエス様が共におられることを信じて、人生という航海を続けさせてください。今週から寒さが強まりそうです。

どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、イエス様の御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

ペトロの流した涙

マルコによる福音書14章66~72節 2025年11月9日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

先ほどお読みした詩編41編10節に、こういう言葉が出てきます。

  「わたしの信頼していた仲間

   わたしのパンを食べる者が

    威張ってわたしを足げにします。」

 この詩編の作者、この中で嘆いている人物は、どうやら重い病気にかかっている人のようです。そして、どういうわけか分かりませんが、周囲の人々は、この人の弱り切った姿を見て、あざけったり、「いいざまだ」と言わんばかりのひどい態度を示したというのです。あげくの果てには、彼が元気な時、健康だった時には、いろいろ面倒を見てやった人たちまでが、病の床にあるこの人を見捨ててしまったと、この詩人は憤っているのです。

 10節に出てくる「わたしのパンを食べる者」というのは、この人が養っていた人、親しく世話をしてやっていた人という意味でしょう。家族か親族の一員ででもあったのでしょうか。自分の食べ物、自分のパンを分けてやっていた、そういう親密な人間までが、私を見限ったというのです。

 英語に「コンパニオン」という言葉があります。日本語に訳すと、「同伴者」とか「仲間」という意味になりますが、この言葉はもともと「クム」と「パーヌス」の組み合わせから作られた言葉で、その意味は「パンを共にする」ということです。つまり、「一緒にパンを食べる/食事をする」ような関係の人々こそ、「コンパニオン」、「同伴者」であり「仲間」なのだということです。

 この詩編41編の作者は、まさにそうした「コンパニオン」であった人々が、今や私を見捨て、私を裏切って去って行ってしまったと嘆いているのです。

 しかし、「コンパニオン」の裏切りを経験したのは、決してこの詩人だけではありません。主イエス・キリストも、ちょうどそれと同じ経験を味わったという事実を、私たちはよく知っています。                  

 あの木曜日の夜。最後の晩餐の後で、イエス・キリストは弟子たちと共にゲッセマネにおいでになり、そこで祭司長や律法学者、そして長老たちの遣わした群集によって逮捕されました。その人々を先導してきたイスカリオテのユダは、イエス様に接吻することによって、「誰がイエスか」を人々に知らせたと、マルコによる福音書14章43節以下に記されています。

  「わたしの信頼していた仲間

   わたしのパンを食べる者が

    威張ってわたしを足げにします。」

 詩編41編10節の言葉は、まさしくこの場面にぴたりと当てはまるのです。

 群衆に捕らえられた主イエスは、大祭司のもとに連れていかれ、そこで裁判にかけられました。

 その裁きの場には、「祭司長たちと最高法員の全員」(14:55)がいたと記されています。そうであるとすれば、主イエスは少なくとも100人近い敵対者たちに囲まれながら、憎しみと怒りのうず巻く状況の中で、たったひとり立ち尽くしておられたことになります。そこでは偽りの証言が飛び交い、あげくの果てには、主イエスに対する暴力、からかい、はずかしめが行われたということが、聖書に記されています。

 一方、大祭司の屋敷の中でそうした出来事が進んでいたころ、その建物の外でもひとつの事件が進行していました。

 ゲッセマネでは他の弟子たちと一緒にあたふたと逃げ出したペトロが、遠くから逮捕された主イエスの後について行き、ひそかに大祭司の屋敷の中庭にまで入り込んでいたのです。

 時間はすでに夜中を回っており、そろそろ夜明けに近づく時刻であったと思われます。中庭では火が焚かれ、ペトロはその屋敷にいた人々と一緒に火にあたっていました。春とはいえまだ寒い時期の夜のことです。屋敷の中で行われている出来事に関心を寄せながら、その家の人々は眠らずに、その裁判の終わるのを待ち続けていたのでしょう。

 その時、火に照らされたペトロの顔をじっと見つめていた、その屋敷の女中が言いました。

 「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」(14:67)

 この女は、さらにもう一度、「この人は、あの人たちの仲間です」と繰り返しました。

 すると、それを聞いたほかの人々も、「たしかに、お前はあの連中の仲間だ」と言い出したというのです。

 人々の言葉に恐れをなしたペトロは、人々に向かって、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言って逃げ出そうとしたと聖書は記しています。そして最後に、とうとうペトロは、「そんな人は知らない」と誓い始めたというのです。

  「そんな人は知らない。」(14:71)

 ここでもまた、あの詩編41編の作者の嘆きがぴたりと当てはまります。

  「わたしの信頼していた仲間

  わたしのパンを食べる者が

    威張ってわたしを足げにします。」

 ペトロが主イエスの手渡してくださったパンを食べたのは、わずか数時間前のことでした。数時間前まで、ペトロは「共にパンを食べる仲間」、「共に生きる仲間」、「コンパニオン」でした。そして、数時間後にペトロの口から出た言葉は「そんな人は知らない」だったのです。

 ペトロの姿の中に、私たちは人間の弱さ、罪深さを見ます。

 自分の一生において、誰よりも大切なはずの人を「知らない」と言えるほど、誓ってそう言えるほど、私たちは弱い者、罪深い者なのです。

 この時、ペトロと主イエスの距離は、屋敷の壁を隔てて、わずか数メートル、数十メートルにすぎなかったはずです。そんなに近くにいる主イエスを、ペトロは「知らない」と言ったのです。

古代中国、宋の時代のことわざに、「食人之食者死人事(人の食を食せし者は人の事に死す)」という言葉があるそうです。それは「食べ物を分け与えられた者は、それを分けてくれた人のために命をささげるべきである」という意味だといいます。「コンパニオン」という概念とは少し違うかもしれませんが、「パン」、「食べるもの」によって結ばれる人と人との交わりのきずな、「仲間」になるということの本質的な一面を、このことわざもまた教えているのではないでしょうか。

 最後の晩餐において、パンを裂いて弟子たちに与え、杯を共に分かち合った主イエスの思いの中に、このような中国のことわざの示すような意図が含まれていたのかどうか、私には分かりません。

 しかし、私たちキリスト者が聖餐にあずかるということ、主イエスの分かち与えてくださるパンを食べ、杯を飲むという出来事の中には、それ相応の粛然とした面があるということも、私たちは覚えておくべきだろうと思います。

 聖餐のサクラメントの中には、豊かな象徴が含まれており、いろいろな理解や受けとめ方をすることが可能です。例えば、それは主と共にする喜びの食事であるとも言えますし、私たちが互いに主によって結ばれた仲間であることを確認する食事であるとも言えます。またそれに参加することを通して私たちの信仰を告白する行為であるとも言えますし、この世に主を証ししていく新たな力を与えられる出来事であるとも言えます。

 しかし、主の受難を覚えるレントの時期に、ことに受難週に行われる聖餐について言うならば、その焦点となるものは、喜びや交わりということではなく、そうした喜びや交わりとは正反対のものにあると言わなければなりません。

 すなわち、聖餐にあずかる私たちが、このパンと杯にあずかることを通して見

つめなければならないのは、私たち人間の罪の深さであり、私たちの利己的な身勝手さです。私たちにパンを分けてくださる方、杯を分かち合ってくださる方に向かって「そんな人は知らない」と言い切る人間の弱さに対して、私たちは目を背けることなく、正面から向き合わなければなりません。

 主イエスは、先ほどご紹介した古代中国のことわざにあるような脅迫的なものの言い方はなさいませんでした。また主イエスは、詩編の詩人が嘆いたようなかたちで、ご自分を裏切った仲間たちを告発するということもなさいませんでした。

 かえって主イエスは、ペトロや私たちの人間的な弱さを先んじて思いやり、裏切りの後のことに至るまで、深い配慮をお示しになりました。

 2000年前のあの木曜日の夜以来、世界中のキリスト者は、聖餐式の度にパンを裂き、杯を受けることによって、あの晩の出来事を記念してきました。

 このあと、私たちが裂くパン、私たちが手にする杯は、そのような2000年間にわたる、主イエスの受難を告げるしるしであると共に、私たち弟子である者たちの罪を記念するしるしでもあります。そしてまたそれは、そのような私たちの弱さをよくよく知りつつ、それでもなお私たちを愛し、私たちを守り、私たちを見捨てないと約束していてくださる、私たちの主イエス・キリストを記念するしるしなのです。

 このあと、私たちが裂くパン、私たちが手にする杯は、小さなものにすぎません。しかし、このパンと杯にあずかることを通して、私たちは、私たちが「あの人の仲間」であることをはっきりと確認するのです。このパンと杯を、今再び主イエス・キリストの手から受け、主イエス・キリストの「仲間」であることを想い起こし、主イエス・キリストに従う決意を新たにしたいと思います。このことを覚えて、聖餐の恵みに共にあずかりたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心からあがめます今日も敬愛する兄弟姉妹と礼拝に与ることができましたことを、感謝いたします。ペトロが主イエスを三度否んだ箇所を学びました。そのペトロの出来事の数十メートルも離れていないところで、主イエスは最高会議の人々にあざけられ死刑の宣告を受けられていました。二つの出来事が同時進行で起こっていたことを知る時、私たちは自分の弱さや罪深さを痛感せざるを得ません。しかし主イエスは私たちの弱さや罪を超えて私たちを赦し、主イエスの仲間として生きる者としてくださっています。どうか、聖餐式に与るたびごとに、そのくすしき恵みを

私たちに覚えさせてください。季節は足早に進み、冬の始まりを感じるような

日々を過ごしています。インフルエンザの流行も心配されます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。今病床にある者たち、高齢のため困難を覚えている者たち、人生の試練の中にある者たちをお支えください。この拙き感謝とお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

契約を守り抜かれる神

創世記17章1~14節 2025年10月26日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 アブラムが、75歳で神様から召し出されて故郷を離れて出発してから、随分日が経ちました。出発の10年後に、アブラムは妻サライの女奴隷ハガルによって、イシュマエルという息子を得ました。それからさらに14年が過ぎ、イシュマエルは13歳くらいになっていたことでしょう。そこへ、神様は再び語りかけられます。アブラムは99歳になっていました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」(17:1)。                                  

 この言葉はアブラムに語られた言葉ですが、同時に聖書全体に響いています。聖書に記されているすべてのことは、もとを正せば、この言葉に由来していると言えるかもしれません。その神様は全能であるだけではなく、全知の神でもあります。全知全能の神。すべてのことを知り、なんでもできるお方。そのお方が、「あなたはわたしに従って歩みなさい。そして全き者となりなさい」と呼びかけられるのです。私たちは、この神様に従って歩むことが求められている。そこにこそ、人間の本来的な姿があり幸せの秘訣があるからです。

 「全き者となりなさい」という言葉は、私たちを戸惑わせるかもしれません。神様は全きお方ですが、私たち人間にも同じような完全さを求められるのでしょうか。「全き者」というのは、元来は、傷のないものを意味した言葉だそうです。「神様の約束に信頼し、穢(けが)れのない人生を送れ」、ということでしょう。しかし私たちは、誰だってそう願っているものです。そうしたいと思っても、それができないので悩み、苦しむのです。ただし神様もそのことをご存じです。だからこそ、それを全うできる道をつけてくださるのです。「わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう」(17:2)。

 「あなたを増やす」というのは、子孫を増やすということでしょう。さらに「これがあなたと結ぶわたしの契約である」(17:4)と、言葉を続けられるのですが、その契約には、具体的に二つのことが語られていました。

 ひとつは、アブラムが多くの国民の父となること。アブラムの子孫から王となる者が出ること。そしてこの契約がアブラム一代だけではなく、アブラムの子孫にも続くということでした(17:4~6)。

 もうひとつは、「カナンのすべての土地を、アブラムとその子孫に永久の所有地として与える」ということでした(17:7~8)。子孫繁栄の約束と土地所有の約束です。この箇所が現代のイスラエルとパレスチナの間に暗い影を落としていることは、申し上げなければなりません。

  

 続いて、その契約にちなんで、名前を改めなさい、と言われました。「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい」(17:5)。ここに初めてアブラハムという名前が登場しました。ちなみに「アブラム」とは「高い父」、あるいは「父は高くにいます」という意味であり、「アブラハム」とは、「多くの国民の父」という意味です。

 新しい名が与えられるということは、その存在が新しくされることです。だいぶ昔のこと、イースターに洗礼を受けられた方から「先生、洗礼名はいただけないのでしょうか」と聞かれました。私は考えたこともなかったので、とっさに「プロテスタントでは、普通、洗礼名は付けません。私ももっていないのですが……」と答えましたが、その後調べてみたところ、洗礼名の歴史的経緯が少しわかってきました。洗礼名は、元来、聖人等の名前が付けられていて、それはその名前の聖人による守護を願うということと結び付いていたようです。聖人崇敬を拒むプロテスタントは洗礼名を付けることもしなかった、ということかと思います。

 聖書の中には、他に、神様からイスラエルという名前をもらったヤコブ(32:29)、イエス・キリストからペトロという名前をもらったシモン(マタイ16:18)、あるいはクリスチャンになったときに、サウロから改名したパウロ(使徒13:9)などの例があります。新しい名前が与えられるというのは、その人の信仰生活において、それなりに意味のあることであるかもしれません。

 さて、この子孫繁栄の約束と土地所有の約束の間に、こう語られています。

「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」(17:7)。

 なぜ神様がアブラハムと、そしてその子孫と契約を立てられるのか。それは、本当の意味で、「あなたとあなたの子孫の神となる」ためだということなのです。その契約を受け入れたしるしとして、「割礼を受けなさい」と言われました。

 ノアの契約のしるしは大空にかかる虹でしたが(9:13)、ここでは、アブラハムの体にそのしるしが刻まれます。割礼というのは、男性器の包皮を切り取るという儀式です。割礼は神とアブラハムとの間の、そしてイスラエル共同体との契約の調印のようなものです。これは、神のものである、神の所有であるというしるしです。そこには恐らく罪の穢(けが)れを切断して、清めるという意味が込められているのだと思います。

 もちろん割礼は過去の慣習ではなく、今日に至るまで、ユダヤ教の人々の間でずっと守られてきています。イスラエルというのは、「割礼を身に受けることによって形成される共同体である」ということもできるでしょう。割礼を受けているかどうかが、神の民であるかどうかのしるしとされたのです。

 ユダヤ教では、割礼を受けることで、神の民の一員とされました。だから男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、奴隷も割礼を受けるように促されたのです。「それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる」(17:13)と言われました。

 しかし聖書を読んでいきますと、ただ割礼を受けただけでは意味がない。内実がそれに伴われなければ意味がないということが、語られるようになっていきます。「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない」(申命記10:16)。新約聖書でも、使徒パウロが、「割礼を受けていても、神様の意志(律法)に従って歩んでいなければ意味がない」と言っております。「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」(ローマ2:25)。

 さて、これは私たちクリスチャンの信仰に、どう関係しているのでしょうか。ひとつ大事なことは、割礼は私たちキリスト教の洗礼の予型となっているということです。私たちの洗礼を、ある形で予め映し出しているのです。割礼と洗礼には、共通する部分と違う部分の両方があります。

 大前提として、割礼は男性だけの儀式であるということを指摘しておく必要がります。女性はその意味で、契約の受け取り手としては排除されています。

 さて、割礼が男性に対してだけの契約のしるしであるのに対して、洗礼というのは男にも女にも等しい恵みです。それは決定的な大きな違いであると思います。

 違いについて、もうひとつ言えば、洗礼というのは、それに先立ってその前提となる出来事がありました。それは、イエス・キリストの十字架と復活です。洗礼は、そのことに立ち返り、そのことを思い起こすものです(ローマ6:4~11)

 コロサイの信徒への手紙の中に、次のような文章があります。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです(コロサイ2:11~13)。味わい深い言葉であります。これが新しい契約の中身です。古い契約に対して新しい契約、旧約に対する新約というのは、こういうことから来ています。

 割礼というのは、はっきりとわかる形で体に刻まれるだけに、形骸化しやすいという面があるかもしれません。割礼を受けているから、もう大丈夫。事実、そういうことがイスラエルの歴史の中で起こって来たので、預言者たちはそれを叱責したのでした。パウロもそういう形だけの割礼を問題にいたしました。

 しかしこのことは同時に、私たちの信仰儀式(聖礼典)である洗礼や聖餐も、同じように形骸化する可能性があることを、皮肉にも指し示しているのではないでしょうか。「洗礼を受けたから、もう大丈夫」。「聖餐を受けているから救われている」。それを形骸化させないためにも、いつもイエス・キリストの十字架と復活という、信仰の原点に立ち返って行かなければならないと思います。

 最初に引用した言葉ですが、神は、アブラムにこう言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」(17:1)。私たちは全き者にはなれないと思ってしまう。しかしそのことを、神ご自身が全うさせてくださるのです。全き者になれない私たちが全き者として歩むために、神はイエス・キリストを遣わしてくださいました。そして、全き者になれない私たちが全き者として歩むために、その御子を十字架にかけることによって、私たちの罪を贖ってくださったのです。

 神様がこの契約を全うしようとすれば、その道しかなかったとも言えます。この言葉(17:1)を発せられたときから、キリストへの道がはるか彼方に見えていたと言ってもよいのではないでしょうか。それが、全能の神が、すべての選択肢の中で選び取られた道でありました。私たちが生きるために。私たちを全き者としていただくために。

 私は、割礼と洗礼、イスラエルの信仰共同体とキリスト教会を並べてみて、改めて心に留めたことがありました。それは、割礼が明らかにそうであるように、洗礼もまた、共同体の業だということです。イスラエルというものが割礼を身に受けることによって形成される共同体であるのと同じように、教会は、洗礼を身に受けることによって形成される共同体です。洗礼は、一見、個人の信仰の決心のしるしであるように思われがちです。しかし、私はそうではないと思います。洗礼を受けるということは、信仰共同体の一員になるということなのです。神様とその人が一対一で向き合ってクリスチャンとなり、そういう人が集まって教会を形成するのではありません。共同体の中に加えられるという形で、私たちは召されるのです。私たちの教会も、そのようにして形成された信仰共同体です。

 教会はキリストの体です。その教会において、神様の業がなされていく。キリストは教会のかしらであって、教会はキリストの体です。イエス・キリストは、今何を望んでおられるのか。今、この地上で何をしようとしておられるのか。それを祈りつつ模索し、実現していくのが教会です。主イエスの御後に従い、地の塩として働くこと、世の光として世を照らすこと。それが、私たちがこの共同体に加えられた意味なのだと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。神様、あなたは私たち信じる者たちをあなたの民とするために、契約を結んでくださいました。旧約の割礼、新約の洗礼はその契約のしるしです。そしてイエス・キリストは、私たちが神の民として、全き者として生きていくことができるように、ご自身を十字架に付けてくださいました。どうか私たちを、このイエス・キリストの十字架と復活を仰ぎ見つつ生きる者として導いていてください。季節は急激に進み、冬の始まりを思わせる日が続いています。どうか、教会につながる兄弟姉妹の健康をお守りください。群れの中には、高齢に伴う困難を抱えている者、人生の試練の中にある者、大切な存在を失って悲しみの中にある者がおります。どうか、ひとりひとりと共にあって、あなたの慰めと平安を与えていてください。この拙き感謝と願いを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。