少しも疑わずに

マルコによる福音書11章20~26節 2025年3月23日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今朝私たちは、父・子・聖霊なる神様を拝むためにここに集まってまいりました。その私たちに、神様は聖書を通して一つの出来事と二つの祈りについての教えを告げられます。一つの出来事とは、実がなっていないいちじくの木が枯れてしまったという出来事です。そして、二つの祈りについての教えとは、祈り求めるものはすべて既に得られたと信じて祈れということと、赦しの心をもって祈れということです。この一つの出来事と二つの教えは、一つにつながっています。バラバラなことではないのです。

 主イエスはエルサレム入城をされた次の日、月曜日ですが、再びエルサレムに向かわれました。その道すがら、葉の茂ったいちじくの木を見て、実が付いていないかと近寄られたのですが、実は付いておりませんでした。すると、主イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」(14節)と言われました。そして、さらに次の日、火曜日ですが、主イエスたちが再びエルサレムに入ろうとすると、その途中で、昨日のいちじくの木が枯れているのを見たというのです。この出来事は何を意味しているのでしょうか。

 ここで起きたことを深く考えることなく読みますと、主イエスは空腹になった。そこでいちじくの木があったので、その実を食べたいと思って木に近寄った。けれど、実が付いていないので腹を立てて、いちじくの木を呪った。すると次の日、そのいちじくの木は枯れていたということになります。この時、いちじくは実をつける季節ではなかったのですから、実が付いていないのは当たり前なのです。それなのに、主イエスは実が付いていないと言って腹を立てて、その木を枯らせてしまわれた。主イエスは何とわがままな方か、ということになりかねません。そんなふうに受け止めますと、この出来事を完全に読み間違うことになると思います。主イエスの十字架は、もうすぐそこまで来ているのです。三日後の金曜日には、十字架にお架かりになって死なれるのです。三日後に自分は死ぬということを受け止め、それを見据えながら時を過ごされている主イエスです。主イエスは大変緊迫した時を過ごしていたはずです。そういう中での出来事なのです。主イエスは弟子たちに、残り少なくなったこの地上での日々の中で、どうしても伝えておかなければならないことがあった。主イエスには、この出来事を通してどうしても弟子たちに教えたいことがあったのです。

 では、この出来事によって主イエスが弟子たちに何としても伝えようとされたこととは一体何だったのでしょうか。それは、「求められた時に実を付けていなければ滅びる」ということです。神様の裁きがあるということです。いちじくというのは、ぶどうと並んで、ユダヤにおいては最も一般的な果物でした。そして、旧約において、いちじくはぶどうと同じように、神の民イスラエルを指すたとえによく用いられておりました。そして、神様の御心に適わない歩みをしているイスラエルの民は、酸っぱいぶどうの実を付けるぶどうの木、あるいは実を付けていないいちじくの木にたとえられてきたのです。主イエスが求めた時に実を付けていないいちじく、すなわち神様の御心に適った歩みをしていない者は、神様の裁きを受け、滅んでしまう。そのことを、この出来事をもってお示しになったということなのです。

 では、その実とは何なのでしょう。主イエスが私たちに求めておられる実とは何なのでしょう。それは信仰です。神様の愛、神様の憐れみを信頼することです。この主イエスが求められる実は、私たちがよい人になって、よい行いを積み上げるというようなことではないのです。そうではなくて、ただ信仰なのです。神様が事を起こし、道を拓いてくださるということを信頼することです。ですから主イエスは、ペトロが「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」と告げますと、すぐに「神を信じなさい」と言われたのです。つまり、「神を信じなさい。そうすれば、この枯れたいちじくのようにはならない。葉が青々と茂ったいちじくでさえ、一晩で枯れさせてしまう神様の力、神様の御業を信頼しなさい。」そう言われたのです。

 ここで主イエスが言われた「神を信じなさい」という言葉は、直訳しますと、「神様の信仰を持て」となります。直訳してもよく分からない言葉になってしまいますので、「神を信じなさい」と訳されているのですが、言われているのは「神様の信仰」なのです。「神様の信仰」という言い方が変ならば、「神様の真実」と言ってもよいでしょう。神様が私たちを造り、導いて、救ってくださろうとしているその御心。そして、実際にそのことをなしてくださる神様の御業。その神様の真実を信頼せよということなのです。ここで、主イエスははっきりと御自身の十字架を見ておられるわけです。神様は、主イエスを十字架に架けることによって、私たちの一切の罪を赦し、神との交わり、永遠の命へと招いてくださるのです。その神様の救いの御心、救いの御業に目を向けよということなのです。

 そして、その神様の真実を信頼するということは、祈りに表れてくるのです。そのような神様の真実を信頼する中で生まれてくる祈りとは、第一に「既に得られたと信じて祈る」というものだと言われるのです。23~24節で主イエスは言われました。「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」山に向かって「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、山に足が生えてきて、海まで歩いて行って飛び込むなどということはありません。山というのは動かないものの代表です。「動かざること山の如し」と言われるように、山は動かないのです。しかし神様は、このどうしても動かないと思える山さえも動かしてくださるということなのです。そのことを信じて祈るということです。これが私たちに求められている信仰であり、祈りなのです。

 私たちは、人生を歩んでいく中で八方塞がりのように思い、どうしたらよいのか分からずに思い悩んでしまう時があります。私はいつも言っていることですが、八方が塞がれても、いつも一方は開いている。それは天です。八方が塞がっても、天は開いている。その天に向かって、神様に向かって祈るのです。神様がこの八方塞がりの状況を、思いもしないあり方で打開してくださる。そのことを信じて祈るのです。

 神様は、私たちの見通しや計画の外におられます。出エジプトの出来事を思い起こしましょう。当時、世界最強・最大の国だったエジプトにおいて、イスラエルは奴隷でした。神様はそのエジプトから奴隷であったイスラエルの民を脱出させたのです。エジプトを脱出したイスラエルの民の前には海があり、エジプト軍が追ってきました。絶体絶命のこの時、神様は海の中に道を拓いてイスラエルを助けてくださったのです。そして40年の荒野の旅がありました。食べ物がないのです。神様は天からのマナをもってイスラエルを養い続けられたのです。水がなくなれば、岩から水を湧き出させてくださいました。どれ一つとっても、こんなことがあるはずがない、こんなこと起こりっこない、そういう出来事をもって神様はイスラエルを助け、救い、導いてくださったのです。

そして、その神様の御心と御業は、主イエスの十字架と復活において完全に成し遂げられたのです。救われるはずのない罪人である私たちのために、神の独り子が十字架にお架かりになって、私たちの裁きの身代わりとなってくださった。こんなことを誰が考え付いたでしょう。誰も思っていなかったことです。そして、このことによって私たちは、天と地を造られた神様に向かって、「父よ」と呼び奉ることを許されたのです。神様は、私たちのために愛する独り子さえ惜しまないお方なのですから、私たちの救いのためには何でもしてくださるのです。私たちはそれを信じてよいのです。いや、主イエスはそのことを信じなさいと、私たちを招いてくださっているのです。

 主イエスは、「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」と言われました。それは、私たちが信じて祈れば、その祈りの力によって事を起こすことができるという意味ではありません。そうではなくて、神様と私たちが、愛によって結ばれている。それゆえに、神様の救いの御心と私たちの心が一つにされ、私たちは神様の救いの御業が現れることを、第一に願う者とされる。そこでは、神様の御心と私たちの心が一つにされる。そうであるならば、祈り求めるものは既に神様の御手の中で与えると決めておられるものなのですから、必ずそうなるのです。つまり、既に得たりと信じて祈ることができるということなのです。神様の愛を私たちが心で受け止め、神様の心と一つとされるように、主イエスは私たちを招いてくださっているのです。それが、得たりと信じて祈るようにと、私たちを招いてくださっているという意味なのです。

 さて、主イエスは続けて、祈りについてもう一つのことを教えてくださいました。25節「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」ここで主イエスが教えてくださったのは、私たちが祈る時、赦しの心をもって祈るということです。神様の愛が、私だけに向けられているのではなく、この人あの人にも同じように向けられていることを心で受け止めること。赦しの祈りはそこから派生してくるのです。

 私たちの人生において最も大きな問題は、この赦しでしょう。私たちが辛く苦しい思いをするのは、愛の交わりが破れるからです。もちろん、病気や経済的問題が、小さな問題であるとは言いません。しかし、私たちが愛の交わりの中に身を置くことができるならば、それらは私たちから生きる力と希望とを奪うような、決定的な問題とはならないでしょう。けれども、愛が破れるならば、私たちは生きる力を、気力を失ってしまいます。この愛の交わりの破れこそ、私たちの人生の中で山のように動かずに、私たちを苦しめる原因なのではないでしょうか。主イエスは、「その山が動くのだ。神様が事を起こしてくださるのだ。」そう励まし、促してくださっているのです。

 私たちが祈る時、「父なる神様」と神様に呼びかけて祈ります。この呼びかけが成立するのは、私たちのために主イエスが十字架に架かってくださったからです。この「父なる神様」の一言が私たちの唇から出る時、私たちはすでに主イエスの十字架の救いの中に、罪の赦しの中に身を置いているのです。この主イエスによる罪の赦しの恵みに与ることなく祈ることは、私たちにはできません。けれども、この主イエスの十字架による赦しに与る者は、赦す者として生きるのです。

 この赦しこそ、私たちがそして世界が、いつの時代でも最も必要としているものなのです。赦せない、恨みと憎しみが支配する中で、私たちは決して幸いになることはできません。私たちの祈りは、自分の幸いを願うところから一歩出て、あの人この人との和解へと導くものなのです。それは、主イエスが平和の主だからであり、赦しを与えるために来られた方だからであり、その方によって私たちが救われたからです。この祈りは、主の祈りの中で、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え」という祈りとして与えられているのです。

 私たちが「父よ」と祈る時、主イエス御自身が私たちと一つになって、神様の前に立ってくださるのです。ここに私たちの祈りがあるのです。この祈りを与えられ、この祈りへと招かれていることを、心より感謝したいと思います。お祈りをいたしましょう。 

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と対面とオンラインで礼拝を守ることができましたことを心から感謝いたします。神さま、御子イエスは十字架を目前にして、一つの出来事を示され、二つの祈りを教えてくださいました。いちじくが枯れた出来事は、わたしたちにあなたの真実に全存在をもって依り頼むことを教えてくれます。

人間の罪の赦しのために御子をさえ惜しまずに与えられた、神さまの愛と真実に依り頼む時に、わたしたちは「既に得たり」という祈りと「赦す祈り」を捧げることができます。どうか、いつもそのことを覚え、心に刻ませてください。群れの中で病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、今試練の中にある兄弟姉妹を顧み、あなたの支えと励ましを与えてください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

祈りの家として生きる

マルコによる福音書11章12~19節 2025年3月16日(日)伝道礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 レント(受難節)第二の主の日を迎えています。今朝与えられております御言葉は、マルコによる福音書によれば、受難週の二日目、月曜日の出来事です。主イエスと弟子たちはエルサレムに入ると、エルサレム神殿に行きました。

 主イエスが神殿の境内に入ると、そこでは両替人や鳩を売る者たちが商売をしていました。多分、そこは異邦人の庭と呼ばれる、異邦人もここまでは入れる広場だったのではないかと思います。私たちは、神殿の境内と言えば、静かな聖なる畏れに満ちた所というイメージを持つと思いますけれど、主イエスが足を踏み入れたエルサレム神殿の境内は、とてもそのような場所ではなかったようです。多くの人でごった返し、鳩が売られ、両替がなされている。しかもこの時は過越の祭りの直前ですから、祭りに来る人たちで、いつもより多くの人が集まっていたと思います。ここで鳩を売っているというのも、10羽や20羽売っているというのではありません。何百、何千という鳩が売られていたと思います。全部生きている鳩です。この鳩の鳴き声だけでも、相当騒がしかったことでしょう。

 

ここで、どうして神殿の境内で両替したり鳩が売られたりしていたのか、そのことを説明しますと、こういうことだったのです。まず、両替ですが、巡礼者たちには神殿税とも呼ばれる、毎年すべてのユダヤ人が神殿に納めなければならないものがありました。ユダヤ人たちは巡礼でエルサレム神殿に来た時、必ずこれを納めるのです。問題は、納めるお金、貨幣です。当時使われておりました貨幣は、当然ローマ帝国の貨幣です。その金貨や銀貨にはローマ皇帝の顔がレリーフとなっていました。このローマの貨幣は、エルサレム神殿では使えないのです。エルサレム神殿で使われる貨幣は、ユダヤの国が独立していた時の、自分たちで貨幣を造ることが出来た時代の、昔のユダヤの貨幣でなくてはなりませんでした。でも、そんなものはもう流通していないのですから、巡礼に来た人たちが持っているはずもありません。ですから、この両替人の所に行って、エルサレム神殿用の昔のお金に替えてもらう必要があったということなのです。

 また、鳩を売る者ということですが、人々はエルサレム神殿に礼拝しに来るわけです。私たちは、この身体を教会に運んでくれば礼拝ができると思っています。しかし、当時のエルサレム神殿における礼拝は、そうではなかったのです。犠牲をささげる。それが、エルサレム神殿における礼拝のささげ方だったのです。羊とか牛をささげるということもありましたが、貧しい人々はそれができません。そのような場合は、鳩でもよいとされておりました。ですから、巡礼者の圧倒的多数の人々は、犠牲としてささげる鳩をここで買って中に入っていく。そういうことになっていたのです。人々は遠くから、人によっては何週間もかけてエルサレム神殿に来るわけです。とても犠牲としてささげる動物と一緒に旅することはできなかったでしょう。しかも、神様にささげる生き物は健康で傷の無いものでなければなりませんでした。生き物を傷付けないように連れて来るのは大変です。しかしここで買えば、これは傷の無い、神様に犠牲としてささげるのに適している証明書付きのようなものです。神殿が保証しているわけです。当然、神殿の外で買うより割高になります。

 巡礼に来る人たちの多くが、この両替人や鳩を売る者たちの世話になったわけです。そして、この両替人や鳩を売る者たちからは、神殿に対するお礼といった名目で、莫大なお金が祭司たちに入る仕組みになっていたわけです。言うなれば、神殿ビジネスと言ってもよいようなことが、公然と行われていたのです。

 皆さんはこのような話を聞いてどう思われるでしょうか。両替人や鳩を売る人々は巡礼者のためのサービスとしてやっているわけで、特に問題は無いのではと思われるでしょうか。それとも、神殿の中で商売をするというのはやっぱり変だと思われるでしょうか。

 主イエスはこの時、大変なことをなされました。15~16節「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」と記されています。主イエスは随分乱暴なことをされました。両替人や鳩を売る人々にしてみれば、いきなり商売道具を滅茶苦茶にされたわけです。営業妨害も甚だしい。今なら当然警察を呼ぶというような事態でしょう。

どうして主イエスはこんなことをされたのでしょうか。子どもにも、病人にも、貧しい人にも憐れみ深く、優しいイエス様の姿とイメージが重ならないと思われる方もおられるでしょう。この出来事は、宮清めと呼ばれてきました。この出来事は、主イエスがエルサレム神殿を清められた、神殿に相応しく清められたのだと理解されてきたのです。では、主イエスは何から清めようとされたのでしょうか。この宮清めの出来事の意味は何だったのでしょうか。

 私は、二つの意味があったと思います。一つは、この商売が異邦人の庭と呼ばれる所でなされていたということです。異邦人は神殿の一番外の所までしか入れませんでした。しかもそこでは今見てきたような商売がなされておりまして、とても神様を礼拝し、祈りをささげることができる状態ではなかった。主イエスは、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と言われたのです。これはイザヤ書56章7節の引用です。このイザヤ書56章は、異邦人も宦官も、つまり当時救われないと考えられていた人々ですが、これらの人々も主に仕え、主を愛し、主の僕となって契約を守るならば、その者たちのささげる犠牲を神様は受け入れる、つまり神様の救いに与る、そう預言されているところです。神様が「わたしの家」と呼ばれるのは神殿のことです。ところが、その神殿において何がなされているか。異邦人は、神殿の境内に入れると言っても一番外の所まで。しかもそこは、多くの巡礼者でごった返し、とても礼拝し祈りをささげることができるような状態ではない。これが神様の御心に適うと思うか。主イエスはそうお語りになったのでしょう。

 当時、人々は異邦人は救われないと考えていましたので、神殿の境内に入れるだけでもありがたく思え、そんな感じだったのではないでしょうか。ですから、そこで商売がなされても、それは巡礼者へのサービスなのだからよいことだと考えていたと思います。ここには、異邦人もまた神様に造られたものとして神様の愛の御手の中にあるという思いが欠落していました。主イエスはそれを、「違う」と言われたのです。神殿はユダヤ人も異邦人も含めて、「すべての国の人の祈りの家」でなければならないからです。

 さて、もう一つの点です。それは、この宮清めの出来事が、どのような構造の中で記されているかということから考えなければなりません。マルコによる福音書は、この15~19節の宮清めの記事を、実のないいちじくが枯れる、枯らされるという二つの記事の間に挟み込むようにして記しております。このようなサンドイッチのような構造は、外側のパンと内側の具が同じ事を告げている、同じメッセージを持っていることを示すために用いられる書き方なのです。

 この枯れたいちじくの木の出来事は、主イエスが求める時に実を付けていなければ滅びる、そのことを出来事として示されたわけです。ということは、この宮清めの出来事もまた、実を結ばない礼拝、何もない罪人として神様の憐れみだけを求めて、ただそれを信頼してささげるのではない礼拝、まことに神様を信頼して互いに赦し合う祈りをしていない神殿は、枯れたいちじくと同じように滅びる。根元から枯れる。そのことを、主イエスはこの荒々しい行動をもってお示しになったということなのです。旧約以来、預言者たちは人々の印象に残る行動、行為を行い、それと共に預言して、その預言を人々の心に刻ませるという伝統がありました。これを行動預言とか象徴預言と言ったりします。代表的なのは、エレミヤ書19章にあります、エレミヤが陶器の壺を人々の見ている前で砕き、エルサレムもこのようになると預言した所です。

 主イエスはこの宮清めという、一見突飛な荒々しい行動をもって、人々の心に残る行動をなさり、エルサレム神殿に下される神様の裁きを預言されたということではないかと思うのです。そして実際、エルサレム神殿はこの主イエスの預言の後40年ほどして、紀元後70年にローマ軍によって瓦礫の山と化すのです。

 ところで、主イエスはこの時、「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と言われました。しかし、問題はこの時主イエスが、どこに御自分の身を置いておられたのかということなのです。主イエスは、御自分をこのエルサレム神殿の滅び、神様の裁きと無関係な所に身を置いて、このことを告げられたのでしょうか。私は、そうではないと思います。

先ほどこの主イエスの行動が、旧約の預言者の行動預言の伝統にあると申しました。旧約の預言者たちは、エルサレムの滅びを告げる時、自分の身を安全な所に置いて、「エルサレムは滅びる。けれども自分は大丈夫。だが、お前たちは滅びる。」そのような思いの中で、神様の裁きを語るというようなことは決してないのです。そうではなくて、神様に遣わされた預言者たちは、神様の裁きを受ける神の民と同じ所に身を置いて、神の民と苦しみ、嘆きを共にして、悔い改めを求めたのです。愛する同胞の上に下される神様の裁きを、痛みと嘆きをもって告げたのです。自らもエルサレムにとどまり、その同じ苦しみを我が身に負い、神様の裁きの預言を語ったのです。

 主イエスもこの時、そうだった。主イエスは、このエルサレム神殿を強盗の巣にしてしまった人々の上に下される神の裁きを自らお引き受けになる、十字架につく、そのことをしっかり見据えて、この裁きの預言をお語りになったのです。主イエスは、この週の内に十字架にお架かりになるのです。主イエスは、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべき神殿を強盗の巣にしてしまった、その人々の罪をも一身にお引き受けになり、十字架にお架かりになるのです。それは、まことの神殿、ユダヤ人も異邦人もなく、神様を愛しその契約の中に生きようとするすべての人が、父なる神様との親しい交わりの中に生きることができる神殿を造られるためでありました。すべての民が神の子とされ、神様に向かって祈りをささげることができるようにされるためでありました。そして事実、主イエスは十字架に架かり、三日目に復活され、天に昇られ、そこから聖霊を注いで、まことの神殿としての教会、神様との親しい交わりが与えられる所としての教会、すべての国の人々の祈りの家である教会を建ててくださったのです。私たちはその恵みに与り、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきこの教会に集い、このように主の日の礼拝を守ることが許されているのです。主イエスの十字架の故に、許されているのです。

 私たちは、この教会を強盗の巣にしてはなりません。すべての人に与えられている救いの恵みを自分たちだけのものにするならば、他の人の救いの恵みを奪い取る強盗になってしまいます。私たちが強盗にならないためには、神様の救いの恵みが一人でも多くの人に伝えられ、これに与る者が増し加えられるように、祈りと奉仕をささげ、この主イエスの十字架の御業にお仕えするのです。それが、まことの祈りの家に集う私たちに求められている、まことの礼拝なのです。そのことを心に刻んで、新しい一週間を過ごしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、レントの第2主日を守ることができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と言われました。私たちの教会が、そのような開かれた祈りの家となるために、主イエスは十字架に御自身を捧げられました。そのことを深く心に刻みつつ、レントの日々を過ごさせてください。まだ寒暖差のある日々が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。今、私たちの世界はとても不安定な状態の中にあります。どうかこの世界が敵意と争いの方向ではなく、和解と平和の方向に導かれていきますよう、あなたの御手を伸べていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

最初の信仰に立ち帰る

創世記13章1~18節 2025年3月9日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 アブラムは飢饉から逃れるために、エジプトに一時滞在するのですが、そのとき、アブラムは自分の命を守るために、妻サライに妹だと嘘をつかせて、エジプトの王に嫁がせてしまうような、弱い、ふがいない人間でした。危機一髪のところで、神様がここに介入して、サライを嫁がせることをストップします。エジプトに疫病が広がって、その原因がアブラムとサライにあることに気づいたエジプトの王ファラオは、この二人をエジプトから去らせます。

 ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。

「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、 

言わなかったのか。なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。(12:18~20)                        

 彼らはファラオからもらったものを全部持って出ました(12:16参照)。ファラオのほうも、彼らに与えたものを取り上げませんでした。そのことが今日の13章の前提になっています。

 アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。(13:1~2)

彼らがエジプトに行ったときは、食べるものさえなかったのですが、今や家畜も金銀もある大金持ちになっていました。やがて、この財産が一族の争いの種となっていきます。恐らく、アブラムはエジプトを出るときには、そのことに気付いていなかったのではないかと思います。

  

 しかし、その問題に直面する前にアブラムの取った行動は、12章後半のアブラムの行動と違って、非常に信仰的です。彼はネゲブまで戻った後、さらにベテルとアイのほうに向かいました。ここはアブラムが最初に祭壇を築いた所でした。この旅は、彼が大きな回り道をして、また元の所へ帰って行く旅でありました。彼は、この旅の途上、自分の犯した過ちを恥ずかしく思い、悔い改めへと導かれたのではないでしょうか。しかもアブラムは、愛と恵みの中で悔い改めをしました。罰の中ではありません。普通に考えれば、私たちが悪いことをしたときには、それ相応の罰を受けて後悔し、「もう二度とこんなことはいたしません」と悔い改めをする、ということになろうかと思います。

 ところが、聖書ではそうでない場合のほうが多いのです。私たちは、神様の愛と恵みの中で、自分がそれにふさわしくない人間であるということがわかり、自分の罪もわかるのです。

 ルカによる福音書5章にこういう話があります。シモン・ペトロとその仲間たちが一晩中漁をしたけれども何もとれなかった。そこヘイエス・キリストがやってきて、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。本当は信じていないのです。ところが網を降ろすと、どうでしょう。ものすごい大漁になり、舟が沈みそうになりました。そのとき、ペトロはこう言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」(ルカ5:8)

 ペトロは、舟が沈みそうになるほどの大漁を経験して、罪の告白をしました。なぜそう導かれたのか、よくわかりません。ただ私たちが罪の告白に導かれるときというのは、こういう場合が多いのではないでしょうか。「お前は悪い奴だ」と言われるときには、かえって反発しますが、圧倒的な主の恵みと愛に触れるとき、それにふさわしくない自分に気付き、自分の罪を知るのです。

 アブラムはベテルとアイの間の最初に祭壇を築いた所まで戻ってきました。アブラムが実際に道を踏み外したのはネゲブでしたが、このとき、すでにアブラムの心は神様のほうを向いていませんでした。問題はネゲブ以前に、すでに始まっていたのです。ですから、彼は最初に祭壇を築いた所からやり直しました。「初心に帰る」ということです。

 ちょうど私たちが、洗礼を受けたときのことを思い起こして、自分の信仰を最初からやり直そうと思うのに似ているかもしれません。私たちが日曜日ごとに礼拝をするというのも、それに通じるでしょう。一週間、神様のことを忘れて生活し、行動してきたかもしれませんが、ここで礼拝するために呼び集められました。主の名を呼ぶことで一週間を始められることの恵みを味わい、アブラムが初心に立ち返ったような思いで、私たちも礼拝したいと思います。

さて、ここで一つの事件が起こります。それは土地所有をめぐる争いでした。

 その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。(13:6~7)       

 財産が多すぎたことで争いが起きる。財産がなければ起こらなかった問題です。財産をめぐって兄弟が絶交状態になってしまう、本家と分家が分裂する、というような話は、しばしば聞くことです。財産というのは、人間をさらにさらに貪欲にしていく恐ろしい面をもっていると思います。

 しかし、このときアブラムは、そういう貪欲からは自由であり、非常に適切な、寛大な判断をしています。

 アブラムはロトに言った。

 「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」(13:8~9)

 12章後半において、計算高く、自分の利益を図ろうとした姿とは大違いです。ここでは神様への深い信頼から、アブラムは心安らかに、ロトに向かって、「先に好きなほうを選びなさい」と言うのです。

 このとき、すべてのことを決定する権利をもっていたのは、年長者であり、伯父であるアブラムです。もしもアブラムがロトに向かって、「私は右へ行くから、あなたは左へ行きなさい」と言っていたとしても、ロトはそれに従ったであろうと思います。しかしアブラムは、自分がもっている決定権を、「ロトに先に選ばせてやる」というふうに用いたのです。これは彼にとって大きな決断であったと思います。条件が全く同じであれば、先に選ばせて「残りものに福がある」というようなこともあり得ます。しかし、条件は全く違うように見える。ロトが選ぶことになる「ヨルダン川流域の低地一帯」のほうがはるかによく見えるのです。

 ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。(13:10)           

 ロトは、やはりこちらを選びます。アブラムは、後になって、そのことでロトのことを悪く言ったりはしません。日本では、相手に対して一歩下がるのが礼儀とされていますので、本当は先に選びたいと思っても、一応「お先にどうぞ」と言います。相手がそれを真に受けて、「そうですか」と言って、先にとってしまうと、「なんという礼儀知らず」ということになってしまいます。

 しかしここでのアブラムは、そういうことではありません。ロトに先に選ばせるという決断をしているのです。だから、ロトの行動がどうか、ということよりも、アブラムの決断を立派と言うべきでありましょう。そしてこのときのアブラムは、「いかなるときも、主は自分を見捨てないで、自分と共にいてくださる」という信仰をもっていました。ですから、ロトに先に選ばせてやりながら、「神様はきっと自分にふさわしいほうを与えてくださる」と信じたのだと思います。「あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(12:2)と言われた神を信頼して、こう決断したのでした。恐らくアブラムには、「悪く見えるほうが残るであろう」という覚悟ができていたのだと思います。

 私の恩師がかつてこう言われたことがあります。「人生の重要な岐路において、どちらに進むべきか迷うことがある。どうしても決断がつかないとき、困難に見えるほうが主の示される道であることが多い」。

 この言葉を、そのまま物差しのようにして考えることはできないでしょう。あまりにも非現実的なことをやろうとして、深く考えないで、「困難なほうを選ぶ」などというのは間違っていると思います。ただそういうレベルではなく、もっと深いレベルで、私たちが本当に決断に迷うことがある。人生の大事な転機です。教会の歩みにおいてもそういうときがあるでしょう。そこで、どうして迷っているのかということをよく考えてみれば、自分には進みたいほうと、進みたくないほうがあって、しかも進みたくないほうが恐らく主の示される道だと感じているからではないでしょうか。

 イエス・キリストが十字架におかかりになるとき、ゲッセマネの園において、徹夜で祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)。しかし最後には、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と決断して、十字架への道を歩んでいかれました。

 このときのアブラムの決断とイエス・キリストの決断とを比べることはできませんが、アブラムの人生にとって、非常に大きなときであったことと思います。そして彼は自分の人生を導いてくれる主を信頼して、決断をしました。それは信仰と愛に満ちた決断であったと思います。彼は、このとき、財産や土地に対する貪欲というものから解放されています。これは恵みのしるしです。

 アブラムが立ち返って礼拝することができたことを第一の恵みのしるしであったとすれば、ここで彼が財産から自由になったということは第二の恵みのしるしだと思います。第一の賜物が信仰であるとすれば、第二の賜物は愛であると言えるでしょう。

 彼は土地や財産をめぐる争いを、力によって解決するのではなく、愛によって解決しました。今日、これと同じような争いは、あちこちで起きています。親族間の争い、国家間の争い。国家間の争いとなれば戦争になります。そして強いほう、力をもったほうが勝ちます。しかし実は、それで問題が解決したことにはならない。負けたほうはずっと根にもち、チャンスをねらってひっくり返そうとするでしょう。この物語は、力をもった側がどういう態度をとるときに問題が解決に向かうか、ということを示唆しているのではないでしょうか。

 エジプトの事件のときも、主が介入してこられましたが(12:17)、ここでも主なる神が登場します。あのときは、呪いをもたらすという形でありましたが、今回は祝福であります。

 「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(13:14~16)

ものすごい祝福です。スケールが違います。

 私はここで起こったことを見ながら、イエス・キリストの二つの言葉を思い起こしています。どちらもマタイによる福音書の山上の説教の中の言葉です。ひとつは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(必要なもの)はみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。アブラムは自分が生き延びることばかり考えて行動したときには、大きな失敗を犯しました。最初の信仰に立ち返って決断したときには、必要なもの、いやそれ以上のものを神様がちゃんと備えてくださいました。

 もうひとつは、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)という言葉です。このときのアブラムは、武力、暴力で争いを解決しようとせず、愛をもって解決した。神様は、そのような人々を祝福し、神の子として地を受け継がせられるのです。

 私たちも最初の信仰に立ち返って、主が共におられることを感謝しつつ、歩んでいきましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を共にすることができましたことを、感謝いたします。神さま、私たちは信仰生活の中で、あなたの御心から逸れてしまうことが度々あります。あなたに背いてしまします。しかし、あなたは私たちに働きかけられ、赦しを与え、信仰者として再び歩み始めるよう促してくださいます。どうか、あなたの大いなる愛と慈しみを心に刻みつつ、信仰者としての道を歩ませてください。春の気配を感じつつも、寒暖差の激しいこの頃です。どうぞ、兄弟姉妹一人一人の健康をお支えくださり、必要な助けをお与えください。今この世界にあって、戦争のさ中にある人々、様々な災害の中で労苦している人々の上に、あなたの御手を伸べていてください。この拙き感謝と切なる願いを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。                          

主イエスが王であられる

マルコによる福音書11章1~11節 2025年3月2日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

今日の箇所は主イエスがエルサレムに入城される箇所です。前半の1~6節では、2人の弟子たちが、主イエスの乗られる子ろばを調達に行った時のことが記されています。後半の7節以下では、主イエスがいよいよ子ろばに乗ってエルサレムに入城された場面が生き生きと報告されています。

前半の1~6節は、日曜学校の子どもたちもよく知っているお話です。主イエスの命を受けて二人の弟子たちが、子ろばを借りに行くのです。子ろばの持ち主と主イエスが知り合いで、子ろばを借りる約束ができていたわけではないようです。村に入ってつないであった子ろばをほどいていた弟子たちに、その場にいた人々が「その子ろばをほどいてどうするのか」とたずねます。泥棒に間違えられたとしても不思議ではありません。しかし、主イエスから言われていたように「主がお入り用なのです。すぐそこにお返しになります」と言うと、子ろばを連れて行くのを許してくれたのでした。
これは大変不思議なことです。しかしここには事前の約束ができていたというのではなく、御子イエス・キリストの御力が表れ出ているのです。主イエスはその場にいませんでしたが、弟子たちに預けた御言葉によって、ご自身がなそうとされる計画を実現することができたのです。弟子たちは主の御業を自分の知恵や力で実現していくのではありません。主が預けてくださった御言葉が御業を推し進め、御心を成就していくのです。

でも、どうして主イエスはエルサレムに入られる時に、子ろばに乗られたのでしょうか。この子ろばは「まだだれも乗ったことのない子ろば」であったと言われています。それによって、この子ろばが聖なる目的のために用いられることが示されているのです。経験も実績もない子ろばでした。一人前と言うにはほど遠く、未熟としか言えない子ろばでした。しかし経験も実績もない時だからこそ、神さまが用いてくださるということがあるのです。そんな時だからこそ、神さまにお捧げできる奉仕があるのです。
しかし、この子ろばにはそれ以上に重要な仕事がありました。それは自分がお乗せする主イエスが、どのような御方であるのかを分かるように示すというお仕事でした。主イエスに付き従った人々も、エルサレムで主イエスをお迎えした人々も、主イエスを王としてお迎えしました。ダビデの血統に連なる新しい王さまとして、主イエスに歓呼の声を上げています。「我らの父ダビデの来たるべき国」というのも、ダビデの子孫から生まれる救い主のもたらす王国であり、それが今まさに主イエスの登場によって実現されようとしているということです。新しい王をお迎えして、人々は歓呼の叫びをあげているのです。
しかし、主イエスは軍馬に跨がって凱旋するような、軍事力によって支配する王さまではありません。主イエスは馬ではなく、荷物の運搬や農作業に用いられるおとなしく忍耐強いろばに乗って、エルサレムに入城されます。そのことによって、主イエスという王さまが力によって支配する王ではなく、柔和で謙遜な王さまであることが、はっきりと示されているのです。ですから主イエスをお乗せするのは、ろばの子でなければならなかったのです。
ろばの子に跨がる王さまは、どのような王さまなのでしょうか。今日の箇所の出来事を預言した旧約聖書ゼカリヤ書9章9節には、次のように記されています(旧約1489頁)。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って。雌ろばの子であるろばに乗って。」ここで預言されている王は、「高ぶることがない」と言われています。この言葉の元来の意味は「身をかがめた姿勢」ということです。また「押しつぶされ、虐げられて苦しんでいる様子、経済的に圧迫されている状態」を示します。そしてこの言葉には、「自らを低くする」という意味があるのです。ここから分かりますように、私たちが「王さま」と聞いて連想するのとは、まったく違った王さまの姿なのです。
その王さまの姿は、今日のすぐ前の箇所で述べられていました。私たちの記憶に新しい、弟子のヤコブとヨハネが、主イエスに次ぐナンバー2,ナンバー3の地位を与えてほしいと願った箇所です。主イエスが弟子たちに語った10章42~45節の御言葉です。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」そうです。イエス・キリストは、ご自分が仕える王であり、人間の罪を贖うために自分の命を献げる王であることを、宣言されているのです。
先週2月25日(火)の家庭礼拝暦は、列王記21章1~16節の「ナボトのぶどう畑」の箇所でした。多くの方がその箇所を読まれたと思います。こんな内容でした。北イスラエルの王アハブはサマリヤに宮殿がありました。その宮殿の隣りにナボトという人のぶどう園があり、アハブ王はそこを買って自分の菜園にしたいと思ったのです。アハブは別の土地と交換するからとか、相当の銀で代金を支払うからと話を持ちかけますが、先祖から受け継いだ土地ですからとナボトは断ります。アハブ王はすっかり気落ちしてしまいます。ところが、しょげた夫の姿を見た王妃イゼベルは、夫の代わりに恐ろしい方法を使って、ナボトからぶどう園を取り上げるのです。彼女はアハブ王の名を使って、ナボトの住む町の有力者に手紙を書いて指示を出します。それはその町で断食の祈りを行い、その人々の最前列にナボトを座らせる。そしてナボトの前に二人のならず者を座らせ、ナボトが神と王を呪った、呪いの言葉を口にしたと証言させたのでした。その悪巧みによってナボトは石打ちの刑に処せられます。そして所有者のいなくなった土地を、アハブ王は自分のものとしてしまったのです。王の権力を悪用して、民が大切に守ってきた土地を取り上げる。自分の欲望を満たすためなら、命を奪うことも平気で行う。この箇所を読んだ後、妻と二人で憤慨しました。いつの時代も王というのはこういうことをする。強大な権力を手にした者は、いつもこのような悪辣な方法で自分の欲望を満たそうとする。あの偉大な王と呼ばれたダビデ王ですら、バトシェバを我が物とするために、夫ウリヤを激戦地に行かせて殺してしてしまいました。王の地位と権力を手にすることが、どんなに大きな誘惑であるかをあらためて認識させられるのです。
そう言えば2月20日、ホワイトハウスが公式アカウントに、王冠を被ったトランプ大統領のイラストを載せ、そこには「国王万歳」というメッセージが添えられていたという報道がありました。それに対してマドンナという女性アーティストが、次のようなコメントをX(エックス)に投稿したことが話題になりました。「この国(アメリカ)は王の支配下を逃れた欧州の人々により、人民が統治する新世界を築くために建設された。われわれは今、自身を『われらの王』と称する大統領を頂いている。冗談であったとしても、笑えない。」民を支配し、権力を振るい、自分に反対する者の存在を許さない王たちは、私たちの時代にも確かに存在しているのです。

さて、二人の弟子は子ろばを連れて来ると、その上に自分の服をかけ、主イエスはそれにお乗りになりました。多くの人たちも自分の服を道に敷き、他の人たちは葉の付いた枝を切って道に敷きました。その上を子ろばに跨がった主イエスは進まれ、エルサレムへと入城されました。そして、主の前を行く者も後に従う者も、次のように叫んだのです。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来る国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
「ホサナ」というのは当時の人が使っていたアラム語で、「どうぞ、救ってください」という意味です。人々は主イエスが待ち望んだメシアであり、ダビデの王国を再建する王であると信じて、彼をほめ称えるのです。しかし、この歓喜に湧き立つ群衆も、主イエスがどのような王さまであるかを、正しくは理解していませんでした。彼らが期待していたのは、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる政治的・軍事的な力を持つ王でした。だから主イエスが逮捕されその期待が裏切られると、彼らは手のひらを返したように「イエスを十字架に付けよ」と狂い叫ぶ群衆に変わってしまうのです。

イエス・キリストは確かにダビデの家系に連なる王であり、神が遣わされた救い主でありましたが、地上の王たちとはおおよそ正反対の王さまなのです。力によってではなく、先週申しましたように、愛と憐れみによって私たちを救ってくださる御方なのです。私たちはこの御方に、地上の王に期待するようなことを求めても、何も得ることはできません。主イエスは人々の間違った期待を感じて、ひと言も語らず沈黙を守っておられたのではないでしょうか。主イエスはご自身を十字架に捧げられることで、私たちを罪と死の縄目から救い出してくださいました。仕えられるためではなく仕えるために、奪い取るためではなく与えるために、私たちのもとに来てくださいました。
そのような王さまとして、主エスをお迎えする必要があるのです。そして主イエスを信じる私たちは、仕える生き方、自らを献げる生き方を目指さなくては、主イエスの民となることはできません。この世の目指す王の姿ではなく、主イエスが先だって歩まれた僕としての生き方に倣うとき、主は私たちといつも共に歩んでくださいます。この世の人間の王とは異なり、民のことを第一に考えて、神の民である私たちを支え導いてくださるのです。
私たちが仕えるのは、この世のどんな王でもなく、King of kings、王の中の王と呼ばれるイエス・キリストだけです。この王は天地のすべてを神の愛と憐みをもって治めておられます。力を背景とした地上の王に期待をかけても、それは失望に終わってしまいます。私たちには、王のイメージを180度転換させたイエス・キリストという真の王さまがおられます。この御方に望みを置くならば、私たちの望みは決して失望に終わることはありません。私たちは唯一の主であり王であるこの御方の前にひざまずき、自らを捧げてまいりましょう。そして「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」と、ご一緒に讃美の声を挙げたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなた貴き御名を讃美いたします。今日もあなたをあがめる兄弟姉妹と、対面でオンラインで礼拝を捧げることができますことを感謝いたします。神さま、あなたは御子イエスを仕える王として
この世界に遣わしてくださいました。人々は主の十字架と復活を経験して初めて
そのことを知りました。神さま、私たちも地位や力を求め、それに惑わされてしまう者ですが、真の王である主イエスに倣い、仕える者、僕としての道を歩むことができますよう、導いていてください。そして主イエスを私たちの王としてふさわしくお迎えすることができるようにしてください。 今しばらく寒暖差の激しい日々が続きます。どうか教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

安心して立てる

マルコによる福音書10章46~52節 2025年2月23日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 主イエスがエルサレムへと向かう旅の途中のことです。主イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒にエリコの町を出て行こうとしていた時、道端に座っていた盲人の物乞いが突然叫び出しました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。多くの人々が彼を叱りつけ黙らせようとしました。しかし、その男は黙りません。ますます大声で叫び続けます。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。

 なぜ人々は彼を「黙らせようとした」のでしょう。単に「うるさかったから」ではありません。大勢の群衆がざわめきながら移動している最中です。一人の叫び声などたかが知れています。黙らせようとしたのは、恐らく、その男が無礼であると映ったからです。もしローマの皇帝が行進をしている時に、誰かが「憐れんでください」と叫び出して直訴したら、無礼者として制止されるでしょう。この場面はそれに近いと言えます。イエスの一行に人々が見ていたのは、まさにエルサレムへと向かう王の行進なのです。それがはっきりと分かりますのはエルサレムに入城する時です。次のように書かれています。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って道に敷いた」(11:8)。そこをイエスの一行が歩いて行く。まさに王の入城のような光景です。

 そのように、人々にとって主イエスはまさに王様だったのです。いや、正確に言うならば、王となるべき御方、間もなく即位すべき御方だったのです。主イエスに従う群衆の数は、エリコを出る時点で相当な数に上っていたものと思われます。過ぎ越しの祭りのためにエルサレムへと同行していた巡礼者の群れではありません。皆、主イエスが王になると信じて、ゾロゾロとついて行ったのです。ユダヤはローマの支配下にありました。しかし、主イエスは必ず我々をローマの支配から解放してくださるに違いない。そして、かつてダビデが王であった時のように、偉大なるイスラエルの王国を再建してくださるに違いない。そう信じて、ついて行ったのです。

 もちろんそのことを一番期待していたのは、主イエスが選ばれた十二人の弟子たちでした。自分たちは特別だと思っていますから。当然、主イエスが打ち建てる王国においては、特別なポジションが用意されていると信じています。ですから、先週共に学びました箇所では、ヤコブとヨハネという二人の弟子が、こんなことをお願いしたことが書かれていたのです。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)。「栄光をお受けになる」とは、「王になる」という意味です。その時には私たちをナンバー2、ナンバー3にしてくださいとお願いしているのです。そのように抜け駆けする者も現れてくる。当然、他の弟子たちは腹を立てました。皆、同じことを考えているのですから。

 ところで、いったいどうして弟子たちは、また大勢の群衆は、主イエスが王となることなど期待できたのでしょうか。どうしてそんなことが実現すると思ったのでしょうか。常識的には考えられないことでしょう。ローマの支配は絶対的なものでしたから。にもかかわらず、人々が新しい王国の到来を期待したのは、明らかに彼らが主イエスの力を見たからです。病気の人が癒される。悪霊に憑かれた人が解放される。五千人以上の人々が満腹させられる。人々は主イエスのなさる一つ一つの奇跡に、計り知れない《神の力》の現れを見たのです。

 力に期待して、力ある者の後に着いて行く集団。力に救いを求め、力による偉大な事業の実現を求める集団。ここに見るのはそのような集団です。そして、そのような集団にとって、助けを求めて叫んでいる一人の弱い人などは、邪魔者以外の何ものでもありません。それは偉大な事業の実現にとって妨げでしかないのです。「この御方をなんと心得る!王となるべき御方であるぞ。ダビデの王国を再興する御方であるぞ。物乞いなどに関わり合っている暇などあるか!」叱りつけた人々の思いは、大方そのようなものであったに違いありません。

 しかし、あの男は黙らなかったのです。制止されても叫び続けたのです。ナザレのイエスは絶対に憐れんでくださる。声さえ届けば、絶対に憐れんでくださる。彼はそう確信していたのです。もちろん、この男も主イエスが王となるべき御方であると信じています。「ダビデの子イエスよ」と彼は叫びました。ダビデの子孫として来られたまことの王であると信じているのです。しかし、それでもなお、その王は一人の盲人の物乞いを憐れんでくださる王だと信じているのです。

 なぜでしょうか。彼は主イエスのことを伝え聞いて知っていたからです。知っていなかったら、「ナザレのイエスだ」と聞いても叫び出すことはなかったでしょう。彼は既に聞いて知っていた。問題はそこで彼が何を聞いていたかです。単に神の力の現れを聞いたのではなかった。そうではなくて彼が聞いていたのは「憐れみ」だったのです。主イエスの御業を通して現わされた、《神の憐れみ》を聞いていたのです。だから「憐れみ」を求めて叫んだのです。

 先に申しましたように、目の見える人々は主イエスの奇跡に《神の力》を見たのです。だから力ある王としてのイエスに期待をかけた。しかし、目の見える人が、必ずしも事の本質を見ているとは限りません。むしろ聞くだけだったこの男にこそ、大事なものが見えたのです。《神の力》ではなく、《神の憐れみ》です。一人の小さな者も見過ごしにされない神の憐れみです。

 聞くだけだったこの男には分かったのです。神の憐れみの王国が到来したのだ、ということを。その事実を彼は見えないその目で既に見ていたのです。苦しみのどん底で這いつくばっている一人の人間にも、目を留めて憐れんでくださる神の憐れみが到来した!神の憐れみを体現してくださるメシアがついに来られた!彼はその事実を心の目で既に見ていたのです。

 だから彼は叫んだのです。力の限りに叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを《憐れんでください》」と。――そして、この人は間違っていませんでした。主イエスは立ち止まって言われたのです。「あの男を呼んできなさい」。

 彼は躍り上がって主イエスのもとに来ました。主イエスはその人に言われます。「何をしてほしいのか」。この男はすぐさま答えました。「先生、目が見えるようになりたいのです」。この人は目が見えないゆえに苦しんできました。物乞いをしなくてはならなかったのも、そのゆえでしょう。だから、目が見えるようになりたかった。確かにそうでしょう。

 しかし、目が見えるようになることで、彼が本当に見たかったのは何なのでしょうか。それは神の憐れみではなかったかと思うのです。神の憐れみの現れである主イエスの姿を見たかったに違いない。今まで耳にしてきた御方を憐れみの到来を、何よりもその自分の目で見たかったのだろうと思うのです。

 彼の願いはかなえられました。主イエスは言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。そして、「盲人は、すぐ見えるようになった」と書かれています。しかし、目が見えるようになった彼は、そのまま立ち去りませんでした。「盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と書かれているのです。彼は開かれた目をもって主イエスの姿を追ったのです。彼の目は主イエスを追いながら、なお道を進まれる主イエスについて行ったのです。

 さて、聖書に書かれているのはここまでです。しかし、バルティマイにとって話がそれで終わりにはならなかったことは、容易に想像できます。見える目をもって主イエスの姿を追って行った先には、何が待っていたのでしょうか。この直後に書かれているのは、主イエスがエルサレムに入城されたという出来事です。そして、そのエルサレムにおいて、主は十字架にかけられて殺されることになるのです。つまりこの盲人は、目が見えるようになったために、そして主イエスに付いていったがゆえに、その目で主イエスが十字架にかけられ殺される姿を見なくてはならなかったのです。

 「見えるようになんて、ならなければよかった!わたしは見たくなかった!」彼は心底そう思ったに違いありません。しかし、もしそれで終わりなら、彼が経験したことは神の憐れみなどではあり得ないし、彼の目が開かれたというこの物語も語り伝えられることはなかったでしょう。

 なぜこの物語が伝えられたのか。なぜ聖書に書かれているのか。そのことを考えて改めて読みますときに、この盲人の物乞いの名前があえて書き記されている事に気づかされます。もともと物乞いの名前を皆が知っていたはずがありません。にもかかわらず、福音書に名前があるということは、この福音書が書かれた頃、バルティマイがキリスト者として教会において良く知られていた人物だったということです。他に名前が記されている、あの十二人たちのようにです。彼はイエスに従った。そして、ティマイの子、バルティマイの名は、教会の歴史の中に書き残されることとなりました。

 言い換えるならば、十字架につけられた主イエスを目にした悲しみは、それで終わらなかったということです。やがて彼は知ることになったのです。このキリストの十字架こそ、罪の贖いの犠牲であり、罪の赦しと救いに他ならないということを。その意味において、彼はその開かれた目で、神の憐れみを見た人だと言えるでしょう。私たちの罪を赦すため、罪のあがないの犠牲として御子をさえ死に引き渡される、神の計り知れない憐れみを彼は見たのです。彼はその開かれた目をもって、神の憐れみの王国が確かにイエス・キリストにおいて到来したことを見たのです。

 「あなたの信仰があなたを救った」。主が彼の目を癒された時、主はそう言われました。そして、確かに彼は、ただ目を癒された人ではなく、救われた人として、どんな小さな一人に対しても向けられている計り知れない神の憐れみを、今もなお私たちに指し示しているのです。そして、彼と共に信じるようにと、主は私たちを招いていてくださっています。私たちもまた、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を聞くことができるようにと。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に、対面でオンラインで礼拝を守れますことを心から感謝いたします。神さま、あなたは御子イエス・キリストを通して、私たちへの深い憐れみをお示しくださいました。その憐みは御子を十字架にかけ給うことによって、私たちを罪と死から贖い出すほどに深い憐れみでした。私たちは今もあなたの憐みの中で、安心して生きていくことができます。そのことに深く感謝して歩む者とならして下さい。今しばらく冬の寒さが続きます。どうか大雪のために困難の中にある人たちを、守り支えていてください。教会に連なる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

仕えるために来られた主

マルコによる福音書10章35~45節 2025年2月16日(日)伝道礼拝説教

牧師 藤田 浩喜

 わたしたちには色々な願いがあります。それは健康を与えられたいとか、人間関係を修復したいといった人間としてごく自然な願いもあれば、ちょっと人には言えないようなひそかな願いもあります。自分では意識していないけれど、無意識に願っていることもあります。

 ヤコブとヨハネは、山上で主イエスのお姿が変貌された特別な場面にも連れて行かれた三人のうちの二人です。つまり、弟子の中でも特に主イエスに近い関係にあった二人でした。その彼らには切なる願いがありました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」つまりこれは、主イエスがこの世界の支配者となられたとき、自分たちをNo2とNo3にしてほしいということでした。

 今日、この記事を読むわたしたちは、その後の十字架と復活の出来事、そのときの弟子たちの行動を知っていますから、この場面で彼らがとんでもないことを願っていることがわかります。そもそも主イエスはこの世の支配者になられるために、この世界に来られたわけではないことをわたしたちは知っています。わたしたちはヤコブとヨハネがこの時、見当違いの愚かしいとも思えることを願っていると感じます。そしてまた彼らが主イエスに従って歩んでいながら、とても世俗的な願いをもっているとも感じます。No2とNo3になりたい、それは出世志向や権力志向のように思えます。序列をつけて人間関係を見ていくということは極めて世俗的なものの考え方に感じます。

 しかし一方で、この時の彼らにとって、この願いがごく自然で当り前のことだと感じられたとしても、それは不思議ではありません。今日の聖書箇所の直前で、主イエスは弟子たちに三度目の受難予告をなさっています。その予告では、過去二回の受難予告より、さらに詳細な予告がなされているのです。つまり受難というものが現実味を帯びて迫ってきている状況であることがわかります。その予告された受難の場所はエルサレムです。そして一行はまさに、そのエルサレムへと上って行く途上だったのです。

弟子たちは三度の受難予告をされても、その内容についてははっきりとは分かっていなかったでしょう。しかし、そこにたいへんな危険があることは覚悟をしていたのです。それでも彼らは主イエスに従って来たのです。具体的にはどういうことが起こるのか分からなくても、主イエスを見捨てることなくついてきたのです。彼らはどういうことなのかはっきりとは分からないまま、復活という言葉に賭けたのだと思います。そのとき主イエスは栄光をお受けになる、主イエスのご支配が実現するのだと考えていたのです。そのために自分たちも命をかけて共に戦う、それだけの覚悟をもって彼らは主イエスに従って来ました。だから、自分たちにはそれなりの報いがあるはずだと彼らは考えたのです。

 だからといって私たちは、彼らが報いを求めることを世俗的だと非難できる立場にはありません。私たち自身もまた信仰生活において、全く見返りを求めていないとは言えないからです。私自身、平安を求めて主イエスを信じました。主イエスを信じたら、不安のない生活ができるかと思ったのです。色々なことが楽になると思ったのです。みなさんひとりひとり、信仰に入られた経緯や思いは異なるでしょう。以前いた教会で知り合った方は「居場所が欲しかった」とおっしゃっていました。私自身は「居場所」という言葉に、多少の違和感を覚えました。信仰的というより、何か教会をこの世的な楽しいコミュニティのように捉えておられるのではないかと感じたからです。でも、どのような動機であれ、そのことを通じて神様は私たちを捉えてくださり、導いてくださいます。一方でご家族や友人に誘われて自然に信仰生活に入られた方も、教会にはたくさんおられます。しかし動機や経緯はどうであれ、私たちは皆、多かれ少なかれ、何らかの自分にとってのプラスになることがあるから、信仰生活を続けているのではないでしょうか。私たちの心は堅い石ころのようなものではありません。意識するしないにかかわらず、何らかの願いを抱いて私たちは信仰生活を送っています。そのわたしたちの願いの中には、ひょっとしたら神様からご覧になって、見当違いのものもあるのかもしれません。

そんなわたしたちに、主イエスはヤコブとヨハネにおっしゃったように「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」とおっしゃるでしょう。でも、主イエスはそうおっしゃりながら、「黙れ、お前たちは何も分かっていない、引き下がれ」とはおっしゃらないのです。わたしたちの信仰生活におけるちょっとズレたような願いも、端から見て信仰的にどうなのだろうと思えるような願いも、主イエスは聞いてくださるのです。そして受け取ってくださるのです。

 ヤコブとヨハネの問題に戻れば、彼らがNo2,No3になりたいと願ったのは単に個人的に立身出世したいということではなく、彼らにとって、イスラエルの救いというのが切実な問題だったという背景もあります。彼らはイスラエルの救いのために、自分を犠牲にしてでも働こうという覚悟はあったのです。彼らはまじめでした。むしろまじめすぎたのです。自分たちのまじめさ、熱心さのゆえに、主イエスがお受けになる栄光に自分たちもあずかれると考えていました。そんな彼らのまじめさを十分に主イエスはご存知でした。そして問われました。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマをうけることができるか」。ヤコブとヨハネはその問いに、真剣に誠実に答えたのです。「できます」と。本当に彼らはできるつもりだったのです。しかし私たちは、そう答えた彼らが実際にはできなかったことを知っています。

そもそも、これから主イエスが飲まれる杯と受けられるバプテスマは、すべての人間の罪を贖うために神の罰を受けられるということでした。神の怒りの重荷は、神でなければ担うことができません。人間には到底担いきることはできません。十字架の出来事は、神の怒り、裁きでした。それと同時に私たちを義として新しい命を与えてくださることでした。それは神でなければできないことでした。

 ヤコブとヨハネだけではなく、すべての人間には耐えることのできない杯を受け、バプテスマをお受けになられ、すべての人間に義と命をあたえてくださったのが、神の御子イエス・キリストでした。そのことを当時のヤコブとヨハネが知ることは、到底できませんでした。主イエスが飲まれる杯と受けられるバプテスマは、ただお一人神の御子だけが担うことのできるものである。それがまったくわからなかったからこそ、彼らは「できます」と答えたのです。

 

 さて、その主イエスへのヤコブとヨハネの直訴を知って、他の弟子たちは腹を立て始めたと言われています。抜け駆けという行為にも、ヤコブとヨハネが自分たちはNo2とNo3にふさわしいと考えていたということにも、他の弟子たちは腹を立てたでしょう。あいつらは自分のことを下に見ていたのか、と思ったことでしょう。しかし抜け駆けが腹立たしかったのは、自分たちも上に行きたいと願っていたからです。自分たちを下に見られて腹を立てたのは、自分たちもまた人間を上と下に分けて見ていたということです。

 そんな弟子たちに、主イエスはおっしゃいます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」これは人に仕える人が偉いのだ、みんなに奉仕する僕のような人が一番上なのだということではありません。そうであれば、逆の競争がおきます。自分こそ、だれよりも仕えている、だから偉いのだ。自分は誰よりも人のために頑張っているから、一番上だということになります。そうではなく、上だ、下だという価値観を棄てなさいということです。上だ、下だ、誰が偉い誰が偉くないという価値観は、私たちが自分たちの熱心さ、まじめさで何かを手に入れることができると考えている時、かならず起こってくるものなのです。

 ヤコブとヨハネは、まじめに主イエスについて行こうと考えていました。イスラエルを熱心に救いたいと考えていました。ですからそのことへの報いがあると考えていました。自分たちのまじめさや熱心さによって何かを手に入れようとするとき、そこには人と比べるということが自然に起こってくるのです。あの人より自分は頑張っている、なのにあの人はどうして不真面目なのだという思いがどうしても起こってきます。私たちも、まじめに頑張って何かを手に入れようとするとき、そこに他の人と比べるという思いが入り込んできます。No2、No3にという思いが入り込んでくるのです。逆に自分はまじめにやっているのに人より劣ってしまうと、劣等感を抱いてしまう。がんばってやろうとしてもできない自分に、自信が持てなくなるのです。人と自分を比べる価値観は人間を不幸にします。そして無駄に心身を消耗させてしまうのです。

モーセの十戒の中に「むさぼってはならない」という戒めがあります。むさぼりというのは、自分の欲求をコントロールできない心です。本来与えられた自分の賜物や恵みを越えてほしがる心です。他人のものをうらやみ、他人のものを欲する心です。人より上に、人より偉く、という上昇志向には、自分に本来与えられた恵みで満足しないむさぼりの心があります。そこには罪があります。しかし、そのように罪深く生きるために、神は私たちをお造りになったのではありません。むさぼりから解き放たれてもっと自由に豊かに生きるために、私たちはこの世界にあるのです。そのために、主イエスはお越しになりました。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と主イエスはおっしゃいました。人より上に人より偉く、そんな思いから私たちを解き放つために主イエスは来られました。「多くの人の身代金」とは「すべての人の身代金」ということです。その身代金が、十字架と復活の出来事によって、キリストの命によって支払われました。それは私たちがまじめだから熱心だから、支払われたのではありません。ただ神の愛と憐れみによって支払われたのです。私たちはその恵みを受けたのです。恵みの上に恵みを受けたのです。

 すでに罪の負債は返済されました。ですから私たちは神の前にあって、もうむさぼる必要はないのです。上に上にと努力する必要はないのです。一人一人に与えられた特別な賜物と役割があります。そこで仕えるのです。一人一人が与えられた隣人のために仕えるのです。それが私たちの杯でありバプテスマです。

 私たちは頑張って人に仕えるのではありません。自分の熱心に頼って人のために奉仕するのではありません。ましてや、自分の欲望を無理に抑え込む必要はありません。すでに身代金は支払われました。私たちは自由な心で喜びをもって神に願い、それぞれにあたえられた所で仕えるのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。御子イエス・キリストは、私たちを罪と死から救うために、十字架の杯を受け、復活してくださいました。主イエスが仕えてくださったことによって、わたしたちは朽ちることのない命に生かされています。どうか、その恵みをいただいているわたしたちが、自由と喜びをもって仕える者となることができますよう、一人一人を導いていてください。互いに仕え合うことだけが教会の歩みを貫くものとなりますよう、わたしたちをお支えください。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

わたしはあなたを祝福する

創世記12章10~20節 2025年2月9日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 創世記12章後半の物語は、アブラム(アブラハム)の失態を描いた物語です。アブラムは、神の召しに従って旅を続けていましたが、旅の途中、ネゲブという地方に来たときに、ひどい飢饉がありました。それでアブラムの一行は、エジプトに避難することにします。

 ところが、エジプトへ行くにあたって、アブラムには一つの心配事がありました。それは、彼の妻サライが美しすぎるということでした。自分の妻が美しいということは、恐らく、これまでアブラムの誇りであったと思いますが、その美しさがかえって災いのもととなろうとしていました。

 そこで、アブラムは一計を案じます。11~12節です。

 「エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。『あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、「この女はあの男の妻だ」と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。』」

 このアブラムの姿は、なんとも情けない感じがします。殺されるのが恐ろしいので、妻に向かって、「うそをついて、自分の命を守ってくれ」というのです。そしていかにも「こんなうそをつかなければならないのも、お前が美しすぎるからだ」と言って、自分の弱さを認めずに、妻のせいにしているようにも聞こえます。これを聞いた妻サライは、どんな気持ちだったでしょうか。「なんとふがいない夫だろう!」と思ったかもしれません。

 これが、私たちの信仰の父アブラムの姿です。ただ信仰によって出発したアブラムが、早くも信仰につまずき、挫折しています。

  

 今日の12章10節は、次のように始まっていました。「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。」

 アブラムは、飢饉を避けるため豊かなエジプトに逃れますが、どうもエジプト行きを決めたこと自体、神を信頼し、祈った結果、示された道ではないようです。飢饉という困難に直面して、おろおろしているアブラムの姿が目に浮かびます。

 アブラムの旅はそもそも、神の召しによって出発したものでした。もし今回も、アブラムの中に、神さまが「エジプトへ行け」と示されたのだという確信があったならば、彼はもっと自信をもって、エジプトへ行ったのではないでしょうか。一番神に信頼すべき大事なとき、最も苦しいときに、アブラムは神に祈るよりも、この世の知恵で行動しようとしたのです。何か、私たち自身の姿を見ているような感じがします。

 どんな信仰者であろうとも、困難に遭ったときに、試練に勝てないで屈服してしまうことがあるということを思い知らされます。

 私たちも普段は、「イエス・キリストこそ救い主」と告白して礼拝していても、何か問題が起きたときにはどうでしょう。自分を見失ってしまい、神を信頼するよりも、自分の知恵、あるいはこの世的な処世術の方により頼んで行動するということがあるのではないでしょうか。

 詩編30編に、こういう御言葉があります。(p860)7~8節です。

 「平穏なときには、申しました

 『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。

 主よ、あなたの御旨によって

 砦の山に立たせてくださったからです。

 しかし、御顔を隠されると

 わたしたちはたちまち恐怖に陥りました」

 まさに、私たち自身の信仰の姿を言い当てているように思います。

 ただアブラムは、ここで旅をやめて故郷に引き返したのではありませんでした。もともとアブラムが出発したハランという町は、キャラバン(隊商)の町として栄えていました。豊かでした。ですから、困難に陥った場合、引き返したいと思っても不思議はありません。しかし、彼は後戻りするという道は取らないで、何とか旅を続ける方法を考えたのです。

 宗教改革者カルヴァンは、「ここでアブラハムに、引き返すという最も安易な方法を取ることを拒ませたのは、信仰である。信仰をもっていたからこそ、とにかく旅を続けたのだ」というようなことを言っています。アブラムはハランへ引き返すという、いわば最悪の選択をせずに、ひとつの妥協策を講じたのでした。それがエジプト行きであったわけです。そしてエジプトで生き延びるために、妻サライに「妹だ」とうそをつかせることになるのです。

 しかしこのことも、決して欲のためではありませんでした。困窮の結果、どうすれば生き延びられるかを考え、思いついたことです。彼は結果として、エジプト王ファラオからいろいろな贈り物をもらうことになりますが、これをもらうためにサライを利用したのではありません。アブラムとサライはついにエジプトへ入ります。そして、アブラムの予感は見事に的中します。14~16節です。

 「アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ロバ、らくだなどを与えられた」。

 アブラムの作戦は、見事に功を奏します。サライはエジプトの女の中で最高の地位に達し、アブラムはあっという間に大資産家になります。アブラムは、この世的に言えば、最高のものを手にしたと言えるでしょう。

 しかし、この話はこれで終わるわけではありません。「アブラムは、ここで旅をやめ、エジプトの住人になった。妻を王に渡したためにひいきをされ、大金持ちとなり、生涯幸せに暮らした」という話ではないのです。話の後半は、「ところが主は」と始まります。ついに神さまが、直接介入されることになります。アブラムのエジプトでのエピソードは、神さま抜きで始まり、神さま抜きでうまくいきかけていました。しかし、このことを神さまは見過ごしにされません。主なる神さまご自身が、「待った」をかけられるのです。17節。

 「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」。

 ただ不思議なことに、アブラムの不信仰の行為によって神が打たれたのは、アブラムではなく、ファラオと宮廷の人々でした。これは理解に苦しむことです。一体どうなっているのか。まったく説明がありません。私たちに言えることは、神は私たちの想像の範囲を超え、私たちの倫理的基準を超えて行動されるということです。

 この物語は、神とアブラムを軸にして述べられていますから、ファラオはあくまでも二次的人物です。ファラオに罪を見いだそうとする人は、こう言うかもしれません。「ファラオの欲望には限りがなかった。たくさんの女性を囲っておきながら、それで満足せず、異国の美しい女性サライを見ると、それさえも自分のものにしようとした。」

 しかし、それは関係なさそうです。むしろ、病気の原因がアブラムにあるとわかったときに、ファラオは非常に適切な対応をしました。「逆上して、アブラムを捕らえ、殺してしまった」というのではありません。与えたものを取り上げることもせず、彼を去らせています。事情を知らずにアブラムに関わったファラオを、神さまも正しく導かれるのです。このことからすれば、むしろ、このファラオは神を畏れる、敬虔な異邦人であった、とも言えるでしょう。

 神さまは、アブラムに対して、12章3節のところで、こう言われていました。

 「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。

  地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

 「地上の氏族はすべて」です。たとえ神から疎外されているように見える他の民も祝福される。最初に祝福された人間を通して、順々に神さまの祝福が広がっていくのです。アブラムを通して、呪いではなく祝福が広がらなくてはならないのです。そして祝福は、ひとり占めするためではなく、他の人に手渡していくためにあるのです。それは生き物のようなもので、自分の籠に入れてしまうと、いつの間にか生気を失って、死んでしまう。他の人にどんどん手渡すことによって祝福は生き続けるのです。祝福された人、祝福された家庭というものには、そういうところがあるのではないでしょうか。泉から水が湧き出るように、それに接する人たちにとめどなく祝福を与えていきます。クリスチァンである喜びも、そのように周りの人に伝えていきたいものです。

 アブラムと神との関係で、もう一つ不可解なことは、アブラムの卑怯さにもかかわらず、神はアブラムを祝福するという約束を守り続けられるということです。

 「わたしはあなたを大いなる国民にし

  あなたを祝福し、あなたの名を高める

  祝福の源となるように。」

 この約束は無条件でした。神はアブラムに向かって、「もしあなたが私に従うならば」とか「あなたが正しい人であるならば」とかいう条件はつけていない。ただ一方的に、「私はあなたを祝福する」と言われる。神さまはそのように宣言されるのです。アブラムの方は、神さまに顔向けできないようなことをしでかしました。それにもかかわらず、神さまの方は少しも約束をたがえず、守り続ける。それがアブラムの神なのです。

 パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、こういうふうに言っています。(p279)「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:7~8)。

 正しい人でもなく、善い人でもなく、罪人である私たちのために、キリストは十字架にかかって死なれた。条件なし。それが神の愛です。これは私たちの理解を超えたことであり、説明がつかない。説明するとすれば、ただ神はそのようにして約束を守り、そのようにして愛を示される、ということだけです。

 だからこそ私たちも、それで高慢になってはなりません。この神の愛に応えて、人に祝福を与える人間として生きていきたいと思います。

お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と対面でオンラインで共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。あなたは信じる者に祝福を与え、いかなることがあろうともその祝福を全うしてくださいます。あなたの約束は取り消されません。私たちはそのようなあなたの愛に応えて、あなたに真実に従っていくことができますよう、どうか導いていてください。一年で最も寒さが厳しい季節を迎えています。大雪のために困難を強いられている人々を、あなたが支えていてください。群れの中で病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹をあなたが顧みてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

共におられる平和の神

2025年2月2日(日) 主日礼拝説教

教師 山田矩子

一年ぶりの説教ご奉仕を感謝いたします。今朝は、天候を心配しましたが、つくばひたち野伝道所の礼拝と総会のため、藤田先生がご奉仕くださって感謝しております。

昨年は、中島美穂子姉妹の突然の昇天に際し、南柏教会の皆様とお送りできましたこと、感謝しております。また、年末には、つくばひたち野伝道所の姉妹が天に召され、藤田先生には、重ねてお世話になりました。

今朝は、これまで読み進めてきました「フィリピの信徒への手紙」の続き、4章8〜9節の御言葉に聞いていきたいと思います。この前の所6節で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とのパウロの希望の言葉を聞きました。

パウロは、主イエス・キリストによって罪を赦され、救いの恵みに招かれた人々に、神様から賜った平安な生活を真実に送り続けるために、日々の中にある真実なこと、偽りでないものに、心と目を向けて生きていくように勧めています。

ここには8つの徳が勧められていますが、ギリシア時代には徳ということが大切にされていたといわれます。これは、すべての人が生きる上で大切なことですから、神に作られた一人一人の誰もが、心の中心に置きたい事柄です。特に、ギリシア世界の徳は、善を行うことで、人間の幸福を目指すといわれていました。「ガラテヤの信徒への手紙」には5章22節で「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」と徳をあげています。そしてコリントの信徒への手紙二の6章6節では「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力」などがあげられています。そして、「フィリピの信徒への手紙」4章8節では「すべて真実なこと、すべて気高いこと」というように、一つ一つの徳の前に、「すべて」という言葉が加えられています。それは、ある限定されたことだけではなく、良いものはすべて心に留めなさいという勧めです。

では、パウロは、この8つの徳から、どのようなことをフィリピの人々に伝えたいのでしょうか。ここに述べられていることは、人が生きていくうえで最も基本的なことであり、人と人が信頼して成長していくために、なくてはならないことなのです。

私たちは、真実をもって愛され、接せられて、人格が形作られていきます。喜んだり、悲しんだり、我慢したり、感謝したり、そしてしてはいけないことも学んでいきます。また、人から与えられるだけでなく、果たさなければならないことや担っていかなければならないことにも気付くようになります。ですからパウロは、日々の人とのかかわりの中で気付かされた事、教えられたことを心に留めなさいと言っています。

この「心に留める」という言葉には、物事をよく考えるという意味がありますが、しかし、考えて、それでおしまいというのではなく、助けを必要とされた時にはすぐに力を差し出すことが出来るという意味が込められているといわれています。人は真実に接してもらって生きてきた時、また他者に対しても、自分がしてもらったと同じように真実をもって接することができるといわれています。

続いてパウロは、「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」と勧めます。それはコリントの信徒への手紙一の15章3節、パウロが受けた「キリストの十字架の死と復活」です。キリスト者を迫害しているパウロに主が出会って下さり、罪の赦しを知らされた時、パウロは自分の力で生きているのではなく、神の命を与えられていることを知らされたのです。続く、「聞いたこと、見たこと」は、フィリピ1章30節の「あなたがたが、私の戦いを「かつで見」「今また」それについて聞いています」とあることです。それは、霊にとりつかれている女性を解放したことで牢に入れられ、その中で神に祈り、讃美し続けたことです。そして「今また」といわれていることは、キリストの福音を伝えたために、ローマの牢にとらえられていることです。しかし、ここでもキリストの福音が証されて、福音が前進している喜びの出来事がおこっているのです。

このように、パウロのどのような困難の時でも、神は共にいて下さって、神ご自身が戦って下さること、そして福音を前進させて下さることを信じることができたのです。

それは、パウロが困難から救われるだけでなく、まわりの人々が、まことの神の救いの中に入れられる願いです。パウロにとっての喜びは、一人でも多くの人が罪から救われて、本当の人としての命を全うすることでした。

ですから、フィリピにいる、今、迫害のただ中にあるあなた方も、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている」と福音のために戦ってほしいと、パウロは祈っています。このように、パウロの願いは、信仰者として、人間のまことの幸せを祈り、神の御心が何であるかを尋ねつつ、小さな一つ一つを勇気をもって、実際の行動へ向かっていくのです。そして、福音のために戦う時には、どのような時でも神が共にいて、その戦いは、平和をつくり出す神ご自身がなして下さるのです。平和の神ご自身が、私たち一人一人の一番近くにいて下さり、私たちは、新しい一歩を歩みだすことができます。

水を運ぶという人生

ヨハネによる福音書2章1~11節 2025年1月26日(日) 主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 日本でもそうかもしれませんが、婚礼というのは、家と家とのお祝い事でもありました。この時代のユダヤにおいてもそうであり、家と家との祝い事として婚礼が行われたのです。その婚礼には小さな村ですと、村中の人が集まってきました。調べてみますと、婚礼の宴というのは、当時、この地方では数日にわたって行われたとも書いてありました。ある場合には、おそらく家が傾くほどの出費を覚悟しなければならなかったと思います。

 その婚宴の席で、ぶどう酒がなくなってしまいました。花婿の家にとっては一大事です。面目が失われるような出来事と言ってもよいでしょう。おそらく台所の近くにいたマリアは、そのことを知らされて、主イエスのもとに伝えたというのです。こう言われています。

 「母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」(3節)

 これは単にぶどう酒がなくなったという事実を報告したという話では、おそらくないでしょう。イエス・キリストに対する願い、嘆願、あるいは祈りと言ってもいいかも知れません。そういうものが、この言葉には含まれていたと思います。ぶどう酒がなくなる。せっかくの楽しいお祝いの席でぶどう酒が切れてしまう。

 それはある意味で、私たちの人生に似ていると思います。若さとか力とかあるいは意欲とか、ある場合には美しさとか、そういうものを自分の中に持って、その勢いで、自分の持っているものによって道を突破していく。そういう時が人生にはあると思います。しかし、次第にその気力も体力もあるいは美しさも尽きてくる。弱ってくる。突破できなくなる。今までは気力でもって突破できたいろいろな問題が、分厚い壁になってくる。そしてそこに体をぶつけていったら、こちらが傷ついてしまう。みんなそういう地点に立つわけです。行き止まりの場所があるのです。これはまさに、現在の私たちキリスト教会の姿でもあります。どんどん進む高齢化と教勢減少の中で、かつてのような勢いを失い、これ以上は前に進めない閉そく感を覚えているのではないでしょうか。

 ぶどう酒はなくなりました。先ほども言いましたように、これはマリアの祈りです。そして花婿、花嫁の両家の困っている状況が、このマリアの背後にはあります。喜びや賑わいのこのお祝いの席でぶどう酒がなくなってしまうと、いっぺんに空気が冷えてしまう。これは切実な祈りです。

 しかし主イエスの答えはこうでした。「『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』」。(4節)

 ずっと長い間、私もこの言葉につまずきました。なんてつれない言葉だろうと思ったのです。しかしこれは、母と子の肉親の情によってキリストが応えられるということではない、ということを言われたのだと思います。「情に流される」という言葉がありますが、主イエスはそういう形ではマリアの願いにお応えにならない。そういう意味が込められているのではないかと思います。

 そしてこう言われました。「わたしの時はまだ来ていません。」イエス・キリストの時があるのです。イエス・キリストが応えられる時があるのです。マリアが願う時ではなく、あるいは私たちが願う時ではなく、イエス・キリストの時があるのです。だからマリアは拒絶されたとは思いませんでした。マリアは備えました。聖書にはこう書いてあります。

「しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」(5節)

 これは、マリアがイエス・キリストの時を信じて待つ姿勢です。彼女の思うとおりには応えられないけれども、イエス・キリストの時を信じて待つ姿勢です。その時を信じるからこそ、彼女は備えて待つのです。

 ここで私たちは、祈りということについて考えさせられます。祈る人というのは、待っている人のことなのです。祈った人は前に向かうのです。前方を見るのです。そして、備える。信仰というのは、もちろん神さまを信じることです。しかし、神を信じるということは、神さまがどこかにおられるということを信じることではありません。信じる者は神に向かって祈るのです。自分自身を神に向けて投げかけるのです。いろいろな問題をかかえた自分、重荷を負った自分、あるいは行き詰っている自分を、神に投げかけながら生きる。それが神を信じる者の生き方です。

 キリストは救い主として私たちを受け止め、そして応えてくださる。「わたしの時はまだ来ていません」。ここに書かれていることは、「救い主の時がある」ということです。私たちの願う時ではないけれど、イエス・キリストが準備してくださる時がある。私の願う時というのは、たいてい〈今、すぐ〉です。すぐ応えてくださらないといけないと私たちは考える。しかし、イエス・キリストの時、救い主の時がある。これはなんと深い慰めでしょうか。私の思うよりもはるかに良い時、私にとって最もふさわしい時、その時を救い主は備えてくださり、その時に応えてくださるのです。

 私たちの生きている現実の前にも壁があります。壁はこちらから破ることはできません。先ほど言いました。こちらから何とかして破ろうとしたら、こちらが傷ついてしまう。向こうから破っていただくのです。向こう側から、救い主の方から破っていただいて前に進む。イエス・キリストは言われました。「求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる」。求めるというのは、ただ欲しいと思うだけではありません。祈ることです。そして私たちは神の門をたたきます。門を向こう側から開いていただけるのです。向こう側から、私たちには開けないと思った扉を、一つひとつ開いていただきながら、私たちは前に向かって歩いていきます。それが信仰によって生きるということです。私たちの教会の歩みも、そのようにして道が開かれ、導かれていくのです。祈りつつ、扉を開かれ、前に進ませていただくことができるのです。

 「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレス入りのものである。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」(6~7節)

 大きな石の水がめです。清めに用いるのです。ユダヤ人たちは、外に出たら汚れる。だから手を洗います。外で汚れてきた汚れを落とすという意味があったのです。だから多量の水が清めのためにあったのです。水を汲むためには、村の真ん中にある井戸まで召し使いたちは歩いていかなければなりません。

 村というのは、たいていは井戸があって、その周りに小さな村ができるのです。ですから、水を汲みなさいと言われたら、井戸まで何回も往復しないといけません。僕たちはそうやって、何度も井戸のところまで往復いたしました。彼らは黙って水を運びました。なぜ水を運ばなければならないのか、おそらく彼らにはわからなかったのです。何でこんなことをしているのだろうと思ったと思います。しかし、わかりませんでしたけれども、彼らは黙って運びました。そしてその水がめに運んだ水を、宴会の世話役のところに持っていきなさいと言われたので、彼らはそれを世話役のところに持っていきました。

こう書いてあります。

 「イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました』。」(8~10節)

 良いぶどう酒がどこから来たのか、世話役にはわかりませんでした。しかし、水を汲んだ召し使いたちは知っていたと書かれています。召し使いたちは自分たちがどうして水を運ばなければならないのか、その時には訳がわかりませんでした。何でこんな重たい物を運ぶのか。もしイエス・キリストにぶどう酒を運ぶように言われたのであれば、彼らは喜んで運んだと思います。しかし、なぜ水を運ばなければならないかわかりませんでした。ただ、自分たちにはわからないけれども、主イエスはその訳を知っていてくださる。それを彼らは信じたのです。この重い荷物の意味を知っていてくださる方がいる。それを信じた。信じたから、彼らは黙って、黙々と運んだのです。

 今の自分にはわからないのです。けれども、この意味を知っていてくださる方がいる。信じるということはそういうことです。何もかも訳がわかって、私たちは生きているのではありません。訳がわからないことはいっぱいある。ことに、思いがけない荷を自分が負わなければならないとき、ドサッと何かが自分の肩にかぶさってきたとき、私たちはだれもが「なぜ」と思います。そして、「なぜ自分が」と思います。しかし、その時にも私たちは信じるのです。今、その意味は自分にはわからないけれども、その意味を知っていてくださる方がいる。そのことを信じるのです。信じるから、私たちは水を運ぶのです。黙って、耐えて、水を運ぶのです。

 この水は最上のぶどう酒になっていました。私たちの運んでいる重たい水。それはどこかで、ぶどう酒に変えていただく水なのです。悩みながら、そして苦しみながら運ぶその水が、そっくりぶどう酒に変えられるのです。変えていただけるのです。そういう水を私たちは、今運んでいるのだということを忘れてはなりません。

世話役は言いました。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」初めは良い、しかしだんだん味が薄くなる。それは多くの人の考えている人生観です。みんなそう思って生きています。しかし、救い主イエス・キリストにある人生というのは、そうではありません。最後に一番良いぶどう酒に変えていただける。それは私たちに与えられている約束です。すべての労苦がひっくり返って、最上のぶどう酒になる。その時を、私たち一人ひとりのために備えていてくださる方がいる。その方に向けて、その時に向けて、私たちは歩いているのです。

私たちの教会の将来を考える時、人間的に見れば、明るい材料は見当たりません。だんだん衰えていく、力を失っていくようにしか見えません。しかし私たちは、あまりにもこの「人間的に見れば」ということに、囚われすぎてはいないでしょうか。伝道は神の御業です、教会の将来は神の御手の中にあります。主イエス・キリストが、私たちの教会を導いておられます。イエス・キリストのために傾けられた労苦が、無駄になることは決してありません。そして主は、最上のぶどう酒を準備していてくださる。最上のぶどう酒に変えていただけるこの道を、みんなそれぞれに歩ませていただいているのです。約束に満ちた道を、みんな歩ませていただいているのです。私たちはそのことを心から喜び確信しながら、今日の定期総会を始めていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を心から讃美いたします。御言葉を通して私たちは、主イエス・キリストがご存じであるということを教えられました。水がめを満たすためにただ水を運んでいるとしか思えないような時も、わたしたちの人生はあなたのご計画の中で、あなたの貴いご用のために用いられています。どうか、そのようなあなたへの深い信頼の中で、信仰者として生きるわたしたちであらしてください。今日礼拝後もたれます今年の定期総会の上に、あなたのよき導きと祝福を与えていてください。群れの中で病床にある者、様々な困難にある者を、あなたたが支え顧みていてください。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

キリストのまなざしの中で

マルコによる福音書10章17~31節 2025年1月19日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜  

 主イエスは弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23節)。どうして主イエスはこんなことを言われたのでしょう。それは今日朗読してくださった話の流れから察することができます。その直前に、主イエスは財産のある人と話をしていたからです。

 その人は神の救いを求めて主イエスのもとに来た人でした。走り寄って、ひざまずいてこう尋ねたというのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)。彼が切に求めていたのは、死をもって失われないもの、世の終わりにおいても失われない、最終的な神の救いでした。

 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。彼はこれまで自分にできることをしてきたのです。伝えられてきた神の掟も一生懸命に守ってきました。主イエスが「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(19節)と言われた時、彼は即座に答えました。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」しかし、それで十分だとは思えなかったのです。まだ足りない。だから尋ねたのです。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と。

 主イエスは彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。この主イエスの言葉は、救いを求める彼を打ちのめしました。彼は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。「たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と聖書は説明しています。そこで主イエスは弟子たちを見回して言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。

 ところで、厳密に言いますと、この23節の「財産」と22節の「財産」では、元の言葉が異なります。23節で「財産」と訳されているのは、もともとは「使う」という言葉に由来する単語です。「使えるもの」のことです。確かに「財産」とはそういうものでしょう。彼は財産を持っていた。それは必要に応じて使うことができるものを持っていたということです。欲しいものを得るために、彼は財産を使うことができるのです。

 しかし、欲しいものが「永遠の命」だったらどうでしょう。神の救いだったらどうでしょう。それを得るために人は何を使うのか。使えるものは何なのか。通常考えられるのは「善い行い」でしょう。彼もそうでした。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。そう「何かをすること」が必要だと考えた。子供の時から律法を守ってきた積み重ねは、彼にとって永遠の命を得るために「使えるもの」だったのです。

 その意味では彼の「財産」はお金だけではありませんでした。幼い頃からの律法遵守、積み上げてきた善い行い、これらもまた彼の財産だったのです。その財産をもって、永遠の命を得、神の国に入ろうとしていたのです。そして、彼がそうしたがっているので、主イエスはそれを一緒に押し進めようとされたのです。「使えるもの」をもって永遠の命を得たいなら、「使えるもの」すべてをそのために使うべきだ、と。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とはそういうことです。しかし、そこで彼は悲しみながら立ち去ることとなりました。

 それを見て主は言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」何が問題だったのでしょう。金持ちだったことでしょうか。いわゆる財産を手放せなかったことでしょうか。いいえ、そもそもの問題は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねてきたことなのです。自分が神に差し出すことができるものをもって、救いを得ることができると考えていたことなのです。そうです、人間にはそれができると考えていたことです。

 主イエスは今日の27節で、「人にはできないが、神にはできる」とおっしゃいました。「人間にはできる」と思っているうちは、この言葉は大した意味を持ちません。人間にできるなら人間が自分の力でしたらよいのです。「神にはできる。神は何でもできるからだ」。この言葉が本当に意味を持ってくるのは、「人間にはできない」ということが見えてきた時です。主イエスがこう言われたのは、弟子たちが互いにこう言い合っていたからでした。「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)。正確には「それでは、だれが救われることが《できる》だろうか」と言っているのです。もちろん、その意味するところは「だれも救われることが《できない》ではないか」ということです。

 「使えるもの」があるならば「できる」と思っているとき、人はそれを使おうと思いますし、使えると思うのです。そのように人間にできると思っているかぎり、「神にはできる」ということに真剣に目を向けることはありません。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。――それは単にお金があるかないかの話ではありません。「人間にはできる」と思っているかどうかということなのです。

 「神にはできる」という主イエスの言葉が本当の意味で自分の信仰告白となるのは、救いを得るために「使えるもの」が自分にはない、神に差し出せるものなど何一つない、本当に貧しいものだと自覚した時だけです。ですから主イエスは別の福音書においてこう語っておられるのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)。なぜなら「人間にできることではないが、神にはできる」からです。

 そして、「神にはできる」と書かれているとおり、神にしかできないことを神はしてくださったのです。「神にはできる。神は何でもできる」と主は言われましたが、その神の全能を神がどのように使われたか、私たちは福音によって知らされているのです。何でもできる神はその独り子を私たちに与えてくださいました。神は御子を十字架にかけてくださいました。この贖いの犠牲のゆえに、私たちの罪を赦してくださいました。神は私たちを清めて神との交わりに入れてくださいました。神は罪人を救い、永遠の命を与えることがおできになります。「神にはできる。神は何でもできる」。そう語られた主イエスは、実際にその神の御業によって遣わされた方として語っておられるのです。

 しかし、そのことがまだ弟子たちには分かっていません。「神にはできる」と主イエスが言っておられるのに、弟子たちは人間がしたことについて語り始めます。ペトロは言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)。「このとおり」というのは文字通りの意味は「ごらんください」です。自分を見てください、というのです。

 彼らが考えているのは財産を処分して施すことをしなかった金持ちと自分たちとの比較です。主イエスが単純にお金を手放したか否かを問題にしていると思っている。だから、お金を手放したこと自体が、今度はペトロにとって「使えるもの」になっているのです。その「使えるもの」をもって神と取り引きしようとしている。マタイによる福音書では、ペトロの言葉はこう伝えられています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。

 主イエスはペトロの言葉を単純に否定することはしませんでした。弟子たちに対しては、さらに語るべきことがあったからです。主は言われました。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(30節)。

 主イエスは「わたしのためまた福音のため」と言われました。大事なことはここで「永遠の命を得るために」とも「神の国に入るために」とも、「来るべき世において報いを得るために」とも主は言われなかったということです。「わたしのためにまた福音のために」は、「わたしの故にまた福音の故に」という意味の言葉です。主イエスの故にとは、どういうことでしょう。福音の故にとはどういうことでしょう。

 先にも申しましたように、イエス・キリストという存在そのものが「神にはできる」の現れでした。私たちを救うことができる神の、一方的な恵みの現れだったのです。それゆえにイエス・キリストの到来は「福音」なのです。良き知らせです。その主イエスのためまた福音のために何かを捨てるとするならば、それは恵みに対する応答以外の何ものでもありません。主はそのことを言っておられるのです。

 実際に弟子たちはやがて迫害の時代を生きることになるのです。ここに語られていることがやがて実際に起こることを主は知っておられるのです。実際に兄弟や親子の縁を切られることもあるかもしれない。畑や財産を失うこともあるかもしれない。しかし、それは救いを得るために払わなくてはならない犠牲ではないのです。救いを得るために何かを捨てるわけではないのです。それらはすべて恵みに対する応答としてなされることなのです。

 それゆえに、主は言われたのです。「この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。この世においても報われ、後の世においても報われる。逆説的ですが、報いを求めてではなく「イエスの故にまた福音の故に」恵みに応えて行ったことが、結局は報いを受けるのです。

 そのように、今日の私たちにおいても、何かを行うにせよ、何かを献げるにせよ、何かを手放すにせよ、大事なことは、《ただ神の恵みへの応答として行う》ということなのです。ならば本当に必要なのは、恵みを知るということなのでしょう。恵みを知ることがなければ、わずかな献げ物でさえ惜しむ心や報いを求める心をもってしか献げられなくなります。あるいはペトロのように「ごらんください」になるのです。そうではなく、私たちは神の恵みを知る者となりたい。そして、ただひたすら神の恵みに応えて生きる者となりたい。惜しみなく私たち自身を献げ、必要ならば持てるものを手放せる自由さを持ちたいものです。そう、最終的に「神にはできる」は、そこにまで及ぶことを信じたいと思うのです。「人間にできなくても神にはできる」と。お祈りをいたしましょう。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美し、御栄を褒め称えます。今日も愛する兄弟姉妹と対面でオンラインで、礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。今日も共に御言葉に聞きました。どうぞ、あなたが御子を通して与えてくださった恵みを、何よりも私たちが感謝して受け取ることができますよう、導いていてください。昨日は敬愛する栗原章雄さんの送る会を行うことができて感謝いたします。ご遺族の上にあなたの慰めと平安をお与えください。この拙きひと言のお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。