心の痛みを知る者

マルコによる福音書14章10~21節 2025年8月24日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 マルコによる福音書を読み進めてきましたが、遂に主イエスが十字架にお架かりになる日の出来事について記されているところに入ります。今朝与えられております御言葉14章12節に、「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」とありますが、ここから15章の終わりまで、主イエスが十字架に架けられて死んで墓に葬られるまでですが、これはすべて一日の内に起きたことです。聖書の一日は、日没に始まり次の日の日没までですから、マルコによる福音書では6ページほどを用いて、この一日の出来事が記されているわけです。

 主イエスが十字架にお架かりになったその日は、「最後の晩餐」という主イエスと弟子たちが最後の食事をしたところから始まります。この食事は「過越の食事」と呼ばれる、宗教的な意味が大変深い食事でした。「過越の小羊を屠る日」とありますように、この食事では小羊を食べることになっていました。この食事については、出エジプト記の12章43節以下に記されております。

 出エジプトの時、神様はイスラエルの民をエジプトから救い出そうとされますが、エジプト王ファラオはそれを許しません。モーセとファラオの交渉がなされますが、ファラオは大事な労働力であるイスラエルの民が出て行くことを許しませんでした。そこで、神様は十の災いをエジプトに与えます。それでもファラオが許さなかったので、遂に神様は過越の出来事をもって、イスラエルの民をエジプトから去らせるようにされたのです。この過越の出来事とは、家畜を含めすべてのエジプトの家の初子(ういご)を神様が撃って死なせるという、まことに凄惨な出来事でした。こんなひどい目に遭うなら、イスラエルの民はとっとと出て行けということになって、やっとエジプトを出ることができたのです。そして、イスラエルの民は出エジプトの40年の旅を終え、ヨルダン川を渡り、約束の地に入ってそこに定着し、やがて国を建てるということになったわけです。

 つまり、イスラエルにとってこの過越の出来事は、民族の出発、民族の起源となる大変重要な出来事であり、それを覚えるための祭、それが過越祭でありました。この過越の出来事の時、神様はイスラエルの民に、小羊を屠ってその血を家の入り口の鴨居と柱に塗るように命じられました。羊の血が塗ってある家は、神様の裁きが「過ぎ越し」ていったのです。だから、過越祭なのです。過越の食事において小羊が屠られるのは、家の入り口の鴨居と柱に羊の血を塗ったことによって裁きが過ぎ越したことを覚えてのことでした。

 この祭りのために、大勢のユダヤ人たちがエルサレムに集まってきておりました。そうしますと、過越の食事をする場所を確保するということが大問題だったのです。多くの場合エルサレムに来た人たちは、友人や親戚を頼り、その家の一部屋を借りて、この食事をしたのです。弟子たちがまず心配したのも、この場所のことでした。弟子たちが主イエスに、12節「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と尋ねたのは、そういう意味です。

 それに対して、主イエスは言われました。13~15節「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」とお答えになりました。不思議な答え方です。「○○通りの誰々さんの家で過越の食事ができるように話をしてある。」そういう言い方ではありませんでした。多分、このように言われた弟子たちは、これから何が起きるのか分からなかったと思います。「とりあえずエルサレムに行きなさい。行ったら水がめを運んでいる男に出会う」と言われたのです。エルサレムのどの通りなのか、細かい指示は全く無く、ただ「水がめを運ぶ男と出会うから、その人について行って、その人が家に入ったら、その家の主人にこう言いなさい」と言われたのです。過越の祭りの時なのですから、エルサレムは人でごった返していたでしょう。こんな指示だけで本当に大丈夫なのだろうかと、私などは考えてしまいます。当時は、水がめを運ぶのは女性の仕事でしたので、男の人が運んでいれば確かに目立つし、目印にはなったでしょう。でも、これだけで本当に上手くいくのかなと、私などは心配になってしまいます。せめて、エルサレムの何々門の前とか、何々通りくらいの指示がなければ、偶然に会うことができるなどということは無いだろう。そんなふうにも思います。

 しかし、弟子たちはこの時、主イエスに言われたとおりにエルサレムに行き、無事、水がめを運ぶ男を見つけ、その人の後についていって家の主人に会い、主イエスの言われたとおりの言葉を告げると、二階の広間が用意されており、彼らは過越の食事の用意をそこに整えたのです。

 弟子たちは主イエスに言われた時、これから何がどうなるのか、見当もつかなかったと思います。しかし、主イエスは知っておられた。そして、主イエスの言われた通りになったということです。そして、無事に過越の食事の用意を整えることができたのです。ここで大切なことは、主イエスの言葉に従うということです。私たちには分からなくても、主イエスはすべてを御存知であり、すべて御存知の上で命じておられるのです。だから安心して従えばよいのです。

 しかし、なかなかそうはいかない。自分にも見通しがあり、計画があり、目論見もある。主イエスの言う通りといっても、何の見通しもないのでは、とても従うことなどできない。そのような思いが私たちの中にないでしょうか。しかし、信じなければ、主イエスの言葉を信頼して歩み出さなければ、何も起きないのです。信仰の証しは生まれないのです。

 聖書は、そのように信じることができなかった弟子のことも、ここで記しています。それがイスカリオテのユダです。ユダは、祭司長たちの所に行って、主イエスを引き渡すことを約束しました。どうして彼がそんなことをしたのか、理由は記されておりません。ヨハネによる福音書は、「サタンが彼の中に入った」(13章27節)と記し、ルカによる福音書も「サタンが入った」(22章3節)と記しています。マタイによる福音書は、ユダが「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と祭司長たちに語った(26章15節)と記して、お金のためであったことを暗に示しています。しかし、どうしてユダが主イエスを裏切ったのか、マルコによる福音書は記していません。

 はっきりしていることは、ユダは主イエスに従うことをやめたということです。ユダの中に具体的にどのような思いがあったのかは分かりません。いずれにせよはっきりしているのは、ユダは主イエスに従うことをやめたということです。主イエスに従うことをやめるということは、自分が主人になることです。主イエスの言葉や思いに従うのではなく、自分の思い、自分の考え、自分の見通し、自分の正義、自分の欲に従ったということです。

 マルコによる福音書はユダのことを、10節「十二人の一人イスカリオテのユダ」と言い、主イエスは自分を裏切る者を、20節「十二人のうちの一人で」と言っています。イスカリオテのユダは、主イエスが選んだ十二弟子の一人だったのです。ユダも主イエスの召しを受け、すべてを捨てて主イエスに従ってきたのです。それなのに、この時、主イエスに従うのをやめたのです。

 「ユダは特別に悪い人間であった。極悪人であった。とんでもない人間であった。」そのように聖書が記していたなら、私たちは「自分とユダとは関係ない、自分はこんなに悪い人間ではない。大丈夫。」そう思えるでしょう。しかし、聖書はそのようには言っていないのです。18~19節「一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。」主イエスがこの食事の席で、自分を殺そうとしている者がいると告げると、弟子たちは「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めたのです。つまり、「私ではないですよね。イエス様、お前ではないと言ってください」と、弟子たちは皆主イエスに言ったというのです。これは、「自分ではない」と言い切る弟子はいなかったことを示しているのでしょう。ユダは裏切った。主イエスに従うことをやめた。しかしその可能性は、ここにいた弟子たち全員にあったということなのです。主イエスに従うことをやめて、自分の思い、自分の計画で歩み出す。正しいのは主イエスではなく自分だ。そのように考え、行動する。その可能性は、主イエスの弟子全員にある。そして私たちも例外ではないのです。

 この時、ユダが主イエスを裏切るなどということは、他の弟子たちは誰も知りませんでした。だから、「まさか私のことでは」と口にしたのでしょう。しかし、主イエスは御存知でした。そして、このユダの裏切りによって、御自分が十字架に架けられて死ぬことも御存知でした。ですから、21節「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」と言われたのでしょう。

 だったら、どうしてそれを回避されなかったのでしょうか。ここで「わたしを裏切ろうとしているのはユダだ」と主イエスが言えば、他の弟子たちがユダを取り押さえたでしょう。しかし、主イエスはそうはされませんでした。それは、ユダの裏切りによって十字架に架けられて死ぬのが、神様の御心であることを知っておられたからです。主イエスは神様に従い通されたのです。主イエスはすべてを知った上で、十字架への道を歩まれたのです。

 さて、主イエスはここで、ユダに対してこう言われました。21節「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」この言葉は主イエスらしくない、ユダに対してあまりにも冷たいではないか、そう思われる方もいるかもしれません。しかし、主イエスはここで、ユダを突き放すようにしてこの言葉を語られたのではないのです。「その者は不幸だ」の「不幸だ」という言葉は、「ああ」という感嘆の言葉なのです。つまり、主イエスはユダに対して、「ああ、何ということか」と嘆いておられるのです。主イエスは心を痛めておられるのです。

 主イエスに召され、主イエスに従う者になった。命の祝福を受け、神様の御用に仕える者となった。何という幸いでしょう。しかし、ユダは自らその神様の祝福を捨ててしまった。何ということか。これがどんなに不幸なことかは、主イエスにしか分かりませんでした。ユダは主イエスを裏切った後、首を吊って死んでしまいます。主イエスはそれを、御存知だったのではないでしょうか。

 私たちは確かに、誰でもユダになってしまう可能性があります。そして、そうなってしまうことを誰よりも悲しみ、嘆かれるのは主イエスなのです。主イエスの召し、御心というものは、時として私たちにはよく分からないことがあります。主イエスについていけないと思うかもしれない。私たちはユダになる可能性があるし、あるいはすでにユダであるのかもしれません。しかし、私たちが何度でも悔い改めて、再び主イエスに従う者となるように、主イエスはいつも私たちを導こうとしてくださっているのです。私たちは、この主イエスの憐れみを信じてよいのです。そしてユダになるということが、どんなに不幸なことかを弁えなければなりません。それは、光を失い、希望を失い、生きる力を失い、そして滅びの道へと歩んでいくことになることなのです。聖なる畏れをもって、このことを受け止めなくてはなりません。そして、私たちを光へと導いてくださる主イエスにゆだねて、信仰者の歩みを続けてまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。神様、主イエスに「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしていると」言われた時、だれ一人「わたしは裏切りません」と断言することができませんでした。そこには主イエスの御心に従うのではなく、自分の思いや計画に従おうとする、わたしたちの罪があらわにされています。ユダを見舞った弱さは、わたしたちの弱さでもあります。どうか、そのことをわたしたちがわきまえ知ることができますよう、導いていてください。季節の変化を朝夕は感じるものの、まだ日中は猛暑の日が続きます。どうか、兄弟姉妹一人一人の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、わたしたちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

人の哀しみと神のご計画

創世記16章1~6節 2025年8月17日(日)伝道礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜 

 アブラムは、神様から「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」(15:5)という約束を与えられていました。しかしいつまで待っても、子どもが与えられる気配はありません。アブラムもサライも、もう子どもが与えられる年齢ではありませんでした。そこで彼らはある行動に移ります。サライには、ハガルという女奴隷がいました。サライはアブラムに言いました。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(16:2)。

 このハガルは「エジプト人奴隷」(16:3)でありました。アブラムとサライは、かつて飢饉を逃れてエジプトに一時滞在したことがありました(12:10~20)。エジプトを出るときには、たくさんの財産を持って出た、ということでしたので、この女奴隷ハガルもその中に入っていたのかもしれません。

 今回の16章の物語は、あのエジプト事件と通じるものがあり、しかも対比的な内容です。エジプト行きのときには、アブラムは「妻が美しすぎるので、自分が殺されるかもしれない」と不安になり、妻サライに「どうかわたしの妹だ、と言ってくれ」と頼みました。アブラムの予測は的中いたします。案の定、彼女は人目を引くのですが、予想外のことまで起きてきます。ファラオの妻にされそうになったのでした。しかしそれを神様は見過ごしにされません。神様が介入し、疫病を起こさせ、二人はエジプトから出ていくことになりました。

 さて、あのときはアブラムがサライに頼んだのですが、今回は、サライのほうからの頼みです。彼女はどうしても子どもが欲しかったのでしょう。

 サライの提案は、当時彼らが住んでいた世界ではしばしば行われていたことのようです。妻が子どもを産めない場合、妻はその夫に対して奴隷女を身代わりとして提供する。生まれてきた子どもは、女主人によって出生したものとみなされる。その子どもは女主人の所有とされる。そういう法律があったようです。古くハムラビ法典の中にあるそうです。今日の「代理母(だいりぼ)」に近いものかもしれません。これは、子どものいない主人夫婦に対しては、深い理解を示したものであると言えますが、代わりを務める女性にしてみれば、子どもを産むための代用品、目的を遂げるための手段とみなされるわけですから、いかにも非人間的な扱いです。もともと奴隷ですからそれも当然、となるのかもしれませんが。

「アブラムは、サライの願いを聞き入れた。アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった」(16:2~4)。75歳と65歳の夫婦が十年間待ち続けたのです。それでも子どもが与えられなかったわけですから、彼らの行動も無理もないように思えます。そこにはある種の悲哀が漂っています。                            

 エジプト事件のときには、アブラムがサライとファラオを巻き込んで自分を救おうとしましたが、今回はサライがアブラムとハガルを巻き込んで、自分の地位を高めようとします。かつてはアブラムがファラオをだましてサライを自分の力で動かそうとしましたが、今回はサライがアブラムを説得して、ハガルを自分の力で動かそうとします。かつてはアブラムが保身のためにサライをモノとして扱いましたが、今回はサライが自分の願いのために、ハガルをモノとして扱います。サライは、父権制社会においては女という弱い立場にありましたが、ここではさらに弱い立場の者(奴隷)を利用するのです。夫も夫であれば、妻も妻という感じがします。

 アブラムは、サライの計画を止めようとはしません。彼は、「サライの願いを聞き入れた」(16:2)とあります。もしかしたら、アブラムもそれを、つまり若い女奴隷と床を共にして子どもを得ることを、望んでいたのかもしれません。自分のほうからは言えないことを、サライのほうから言ってくれたので、喜んで床を共にした、ということもあり得るでしょう。

 これは、創世記3章の「禁断の木の実を食べる」話にも通じます。あのとき、アダムは、妻に差し出されて、その実を食べました(3:6)。この服従(妻の言いなりになること)は、あたかも今回のやっかいな問題の前兆のようです。

 このところの「(サライはハガルを)夫の側女とした」という文章は、原文では「妻として夫に与えた」という表現です。この日からハガルはサライの女奴隷であるだけではなく、アブラムの第二夫人になるのです。「あなた、これを食べなさい」と差し出されたものを食べる。ハガルが「禁断の木の実」になるのです。あのときと同じです。夫のほうは、妻から差し出されたものを、疑うことも、反対することもなく、食べる(受け入れる)のです。ここでは、アブラムは全く従属的な人間です。

 ここから物語は、三人の複雑な関係へと展開していきます。それまで全く受動的であったハガルが、一人の人間として自分の意志をもち始めます。いやこれまでも、もっていたのでしょうが、それが表面に出てくるのです。

 サライの計画通り、ハガルは妊娠いたしました。ところが、サライの想定外のことが同時に起こってしまいました。ハガルは、自分が妊娠したのを知ると、女主人を「軽んじ」始めたのです(16:4)。原文では「彼女の目に、取るに足りないものとなった」という表現です。それは立場の逆転を予期させることでした。ヘブライ人であるサライは、既婚であり、裕福であり、自由ですが、老齢で不妊の女です。他方、エジプト人であるハガルは、独身であり、貧乏であり、奴隷ですが、若くて妊娠可能です。

 ハガルはそれまで奴隷という立場でしか、ものを見ることができませんでしたが、新しいものの見方が彼女の中に入ってきました。高められていた女主人が低くなり、地位の低い奴隷が高められるのです。サライは期せずして、この状況を準備してしまったことになります。ハガルをアブラムに第二夫人として与えることによって、ハガルの地位を押し上げ、それに応じて、自分自身を低めることになってしまった。二人の緊張関係が高まっていきます。

 この二人の女性の人間関係の変化については、当然アブラムの態度も影響しているのでしょう。ハガルが妊娠したのを知ると、アブラムはハガルをこれまで以上に重んじたり、かわいがったりしたのではないでしょうか。サライにしてみればおもしろくありません。しかし今もなお、サライはアブラムの第一夫人であり、ハガルの女主人です。

 サライは、再び夫に詰めよります。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました」(16:5)。さらに神様をもち出して、「主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」(16:5)。

 彼女の論理は、どうも破綻しているように思えるのですが、もう何を言っても耳に入らない感じです。「女奴隷を与えた」ときに、その帰結は彼女も負うべきものでしょう。しかし彼女は、その責任を夫に転嫁しようといたします。彼女にしてみれば、「あなたがもっとハガルをきちんと教育すべきだった。なんで私をもっと尊敬するようにさせなかったの!」ということでしょう。その「恐妻家」に対して、アブラムのほうもたじたじです。なすすべがない。彼自身にもきっと負い目があったのでしょう。その日以降、アブラムはハガルと「べったり」になり、サライを遠ざけていたのかもしれません。それにしても妻公認のもとに、若い女を夫に与えたら一体どうなるか、サライは予期できなかったのでしょうか。

 アブラムの答えも全くふがいないものです。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい」(16:6)。もう少し、ハガルの立場に立ってやれなかったものかと思います。アブラムはアブラムで、こういう三角関係になってしまった責任を自分で負うことはせずに、その責任を放棄して逃げるだけです。

 これも、あのエデンの園で禁断の木の実を食べてしまったときとよく似ています。あのときアダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)と、女と神様に責任を転嫁しました。主体性が全くない。そして女のほうも、「蛇がだましたので、食べてしまいました」(3:13)という答えをしたのでした。

 この日から、女主人の女奴隷に対する虐待が始まりました。アブラムが責任を負わない結果を、ハガルが負わされることになります。一番弱い立場のものがそれを負わされるのです。サライは直接、彼女を虐待したかもしれませんが、アブラムのしたことも(広義の)「ネグレクト(無視)」という虐待にあたるのではないかと思います。

 そしてハガルは、耐えられなくなって、サライのもとから逃げ出すのです。このハガルは、聖書の中で、抑圧者のもとから逃げ出した最初の人間となりました。彼女はエジプト人なので立場は逆ですが、奇しくも出エジプトの先駆者となったと言うこともできるでしょう。

 さて、この物語を私たちはどう読めばいいのでしょうか。三人三様に非があることは事実です。しかしその中で、ハガルの「女主人を軽んじる」という非は最も小さなものでしょう。彼女がそういうところへ陥れられたのですから。むしろ彼女は身ごもって、これまでの自分とは違う自分の価値を見いだしたのかもしれません。ただそれが未熟なままで生の形で現れたので、上に立つ人間のハラスメントに遭うことになったのです(パワハラ)。しかもアブラムとの性行為を強いられたことはセクハラにもあたるでしょう。

 サライの行為は一番問題があるかもしれませんが、彼女もまた「子どもをもたなければ女として認められない」という、抑圧社会における被害者でもあるように思います。サライの悲哀を感じるのです。

 しかしある状況においては被害者であっても、立場が逆転するととたんに虐待者になるのです。それは今日に至るまで、いろいろな形で起こっているのではないでしょうか。

 例えば、今日におけるユダヤ人をめぐる問題もそうでしょう。ユダヤ人はこの2000年間、特にキリスト教世界において大きな差別を受けてきました。その最大の悲劇が、第二次世界大戦中のアウシュビッツを代表とするユダヤ人の大量虐殺であると思います。その責任はキリスト教世界にあります。

 その次の時代に何か起こったか。1948年中東の真っただ中にイスラエル国が建国されました。世界中の同情がユダヤ人に集まっていたときですから、国連もそれをさっと認めました。もともとそこにはパレスチナ人が住んでいたのですが、「国なき民に国を、民なき国に民を」というキャッチフレーズがまことしやかに語られました。

 しかし、その後の70年間に起こって来たことは、パレスチナ人の排除と迫害であります。ドイツを初めヨーロッパ各地であれほど痛めつけられたユダヤ人が、イスラエルにおいては加害者となってしまうのです。イスラエルの背後にある国々は、あのときアブラムがサライに言ったのと同じように、「その土地はあなたのものだ。好きなようにするがいい」と、イスラエルのパレスチナ虐待を容認しています。その結果が、今日のイスラエルによるパレスチナのジェノサイド(虐殺)にまで及んでいるのです。その中心にいるのは、そもそもの責任者であるキリスト教世界の国々です。ドイツも過去の負い目から口出しできません。私たちはクリスチャンとして、そういう重い責任から出発しなければならないと思います。そうでなければ、問題は解決しないでしょう。

 しかし神は、それぞれの悲哀を知っておられる。そして悲哀がそのままでは終わらないという約束をしておられます。イエス・キリストは言われました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)。

 このときのサライの悲しみもやがて、別の形、もっと大きな形で慰めを受けることになります。またこのとき一番大きな苦しみを受けたハガルの悲しみも、神様は忘れてはおられません。ハガルがサライのもとから逃げていく中で、神様は御使いを通して、彼女に励ましと慰めの言葉をかけられることになるのです。この物語は、この後も続いていくのです。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができましたことを、感謝いたします。創世記のアブラムの物語を通して、人間の愚かさとそれゆえに負うべき哀しみを知らされました。こうした愚かさと哀しみは、わたしたち一人一人のものでもあります。どうか、あなたに目を上げて、この愚かさと哀しみから決別することができますよう、わたしたちを導いていてください。そしてあなたが必ず与えてくださるまことの慰めを、待ち望むことができるようにしてください。まだまだ暑さ厳しい日々が続きます。どうか兄弟姉妹の心身の健康を支え、猛暑の日々を無事に過ごすことができますよう、導いていてください。この拙きひと言の切なる願いを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

一粒の麦、もし死なば、多くの実を結ぶべし 

                                                  

ヨハネによる福音書12章20節~26節 2025年8月10日(日)主日礼拝説教

                              長老 髙谷史朗

 先ほど司式者に読んでいただいた、ヨハネによる福音書12章の20節、21節に、「祭りのとき、エルサレムに上ってきた人々の中に、何人かのギリシャ人がきており、イエスの弟子フィリポに「イエスにお目にかかりたいのです、と頼んだ。」とあります。これに対して、主イエスは23節で、「人の子が栄光を受けるときがきた。」と述べられました。これは、主イエスが極めて重大な決意表明をされたものである、と言えましょう。

なぜかと申しますと・・・・

 主イエスはヨハネの福音書において、これまで周りの人々や弟子たちに「わたしの時はまだきていない」と幾度となく述べられていたからです。具体的には、2章4節;カナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われた時や、7章6節と8節;仮庵の祭りでエルサレムに向かおうとされた時、「わたしの時はまだ来ていない」と述べられています。また、ヨハネ福音書の記者自身も、7章30節と8章20節;主イエスが捕らえられそうになった時、「それはイエスの時がまだ来ていなかったからである。」と記しています。

 では、なぜ、主イエスは今、正に、「人の子が栄光を受けるときがきた。」と述べられたのでしょうか?

これは、20節からの「ギリシャ人の何人か」が主イエスに面会を申し込んだということが重要な意味を持つと考えられます。ユダヤ人から見ると当時のギリシャ人とは異邦人の代表であり、従って外国人全体をさしていると考えられるからです。外国人の代表であるギリシャ人が主イエスの教えを学ぶために、はるばるやってきたということは、いよいよユダヤ人の枠を超えて、主イエスの教えが、世界宣教に向かってスタートする「新しい時」の始まりを告げる決意表明であったと言えるのではないでしょうか?

「人の子が栄光を受けるときがきた。」という言葉を耳にしたユダヤ人たちは、ついに積年の恨みであるローマを打ち破り、主イエスが新しいイスラエル王国を建設する栄光の時を一瞬夢見たかもしれません。しかし、続いて、「はっきりと言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままであるが、死ねば多くの実を結ぶ」という、主イエス自らの十字架を暗示する言葉を聴いたときに、彼らはどのような驚きと落胆をもってその言葉を受け止めたことでしょうか?なぜなら、それは、主イエスがご自身の死の意味を一粒の麦にたとえ、自らの命を捧げることによってやがて多くの人たちに救いと命をもたらすという約束を意味しているからです。

「一粒の麦」とは、あくまで主イエスご自身のことなのですが、本日、私たちはこれを単なる抽象的な理想像として捉えるのではなく、この言葉によって、私たちが「自分としてどう生きていくか」ということを問われているものとして受け止めながら、話を進めて参りたいと思います。

 まず、はじめに、「一粒の麦」の言葉に応答する形で、一人の日本人の物語をご紹介したいと思います。

 皆様、三浦綾子さんの書かれた塩狩峠という小説をお読みになったことがありますでしょうか?実は、この小説の冒頭に、この一粒の麦の言葉が象徴的に使われているのですが、内容は、当時、旭川六条教会の会員であった長野政雄氏(小説では、主人公永野信夫となっています)にまつわる実話を元にして描かれた長編小説です。

そのクライマックスの場面で、寒い冬のある日、長野政雄さんは、塩狩峠を運行する列車の事故に遭遇して、車中の人々を守るために自らの命を投げうって列車の下敷きになり、そのおかげで列車が止まり多くの人々の命が救われたという事件が描かれております。

もう少し、端的に事故の状況と彼の人となりをご理解いただくために、塩狩峠の事故現場付近に設置された記念碑に刻まれている文章を原文のままお読みしたいと思います。お聴きください。

「明治42年2月28日、夜、塩狩峠に於いて、最後尾の客車、突如連結が分離、逆降暴走す。乗客全員、転覆を恐れ、色を失い騒然となる。時に、乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐中より、クリスチャンたる氏の常持せし遺書発見せらる。『「苦楽生死均しく感謝、余は感謝してすべてを神に捧ぐ』 はその1節なり。30歳なりき。」とあります。この彼の死は、決して無駄な死ではありませんでした。彼の行動を通して、多くの命が守られ、多くの人々が彼の信仰に心を打たれました。そして、その証(あかし)は、今日に至るまで多くの人の心を動かし、語り継がれています。皆様、この長野さんがとった行動は、正しく「地に落ちて死んだ一粒の麦」そのものと言えるのではないでしょうか?

 では、私たちにとっての、「一粒の麦」とは何でしょうか?

私たちは日々の生活の中で、これほど大きな自己犠牲を求められることはないかもしれません。が、主イエスは続けてこう語られました。

25節;「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。さて、ここで自分の命を「憎む」とは、いったいどういう意味と解釈すべきでしょうか?

 おそらく、「憎む」という言葉は、「愛する」と対立する言葉としてとして使われているものと理解できますが、この「憎む」という言葉の意味するところが、自分自身よく理解できませんでした。

何とかその意味するところを知りたいと思い、文語訳聖書や口語体のいろいろな聖書を紐解いてみても、全て「憎む」とありました。また、英文の聖書をみても「hate」(憎む)となっており、疑問は解決できませんでした。が、一つの英文の聖書のみ、「give up」となっているのを発見しました。「give up」とは通常我々がほぼ日本語として使う言葉で、「あきらめる」とか、「降参する」「放棄する」などの意味で使いますが、ダメもとで、何十年か振りに、学生時代に使った、研究社の大英和辞典を紐解いてみたところ、なんと、「give up」の1番の意味として、「引き渡す」、「捧げる」とあったのです。 なので、ここでは、「自分の命を憎む人」は、「自分の命を捧げる人」と解釈したいと思います。

 では、私たちにとって「自分の命を捧げる」とは、どういうことと考えるべきでしょうか?

 次のことがヒントになると思われます。

皆様よくご存じの、聖路加国際病院の理事長であった、日野原重明さんが「いのちのバトン-97歳のぼくから君たちへ」という子供向けの講演の中で、「命とは何か」を問い、その答えとして、彼は、「命とは、人間が持っている時間のこと」と定義しました。すなわち「いのちは時間であり、いかに時間を使うかで、人生の質が決まる」、また、寿命とは長さではなく重さである、とも述べられています。

 時間とは、人間はもちろん、森羅万象すべてに均しく与えられている賜物と言えますが、彼は、「命」を単なる物理的な存在ではなく、その人がその人らしく使える「時間」として捉えることをすすめています。つまり、その人にとっての人生すべての時間が命であり、その時間をどのように使うのか、が重要であるというメッセージなのです。つまり、日野原氏の「命=時間」という考え方は、単に生きることをいうのではなく、人生を豊かに意味深く生きていこうということを示唆していると言えるのではないでしょうか?

 本題に戻りたいと思います。

では、主イエスから私たちに与えられた、「命を憎む」或いは「命を捧げる」とはどういうことと考えられるでしょうか?言い換えれば、私たちは日常生活の中でどうすれば「一粒の麦」として、生きることができるのでしょうか?ご一緒に考えてみたいと思います。

もちろん、塩狩峠の長野さんのように、実際に命を差し出すことを強いられる機会はそうそうありませんし、むしろ、決してそういう機会には遭遇しないようにと願いたいものです。

しかし、実際のところ、主イエスが私たちに求めておられる「命を憎む、あるいは捧げる」はもっと身近で、もっと具体的で、私たちの日常の中にあるものと考えてもいいのではないでしょうか?

日野原さんの言葉を参考にしつつ、たとえば、

・誰かのために、自分のもてる時間、エネルギーを惜しまず、差し出すこと。言い換えれば、日々の中で、自分の都合や欲を脇に置いて、自分の時間を使い、誰かのために尽くすことは「自分の命を」憎むことになるのではないでしょうか?

・また、誰かのために祈ること。それは大事な自分の時間を使っているのですから、自分の命を捧げていることにならないでしょうか?さらに発展して、

・人との対話の中で、自分の意見を押し付けるのではなく、相手の思いに耳を傾けること  

・人から認められなくても、見えないところで誠実に働き続けること、など、など。

 これらは全て、自分の命を「捧げる」という小さな行いの積み重ねと言えないでしょうか?それはまさしく、「一粒の麦」がハラハラと静かに土に落ちていく瞬間なのです。そして、神様は、私たちの一つ一つの小さな行いを見ておられ、それを通して、実を結ばせてくださるのではないでしょうか?

26節では、「私に仕えようとする者は、わたしに従え。父はその人を大切にしてくださる。」とあります。

 私たちが、父なる神様の恵みを得て、命を「捧げる」という新しい歩みに生きるときには、主イエスが共におられ、自分が主イエスと共にあることを知ることができるのではないでしょうか?そして、これらの行いを通じて、自分が主イエスとともにあるということを実感できることこそ、私たちの何にも代え難い喜びと言えるのではないでしょうか?

 最後に、ヨハネによる福音書15章12~13節の御言葉をお読みして終わりたいと思います。

「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

                                              以上

お祈りいたします。

恵み深き天の父なる神様、

今日も兄弟姉妹と共に礼拝をまもり、ヨハネの福音書12章の「一粒の麦」について学ぶことができましたことを、感謝いたします。神様、「一粒の麦」である、主イエスの十字架と復活により、私たちに命を与え、永遠の命の実を結んでくださいましたことをこころから感謝いたします。

どうか私たちも、自己の殻に閉じこもるのではなく、隣人のために生き、仕える者となれますように。
痛みや損失を恐れることなく、愛と勇気をもって歩んでいけますよう導いてください。そして、私たちの小さな献げが、あなたの御手によっていつの日か豊かな実を結ぶことを信じさせてください。

これらの感謝と願いを貴き主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。       アーメン。    

主の御心を慰める美しさ

マルコによる福音書14章1~9節  2025年8月3日(日) 主日礼拝説教  

                           牧師 藤田浩喜

 聖書は私たちに、全く新しい生き方、美しいあり方を教えます。それは「献げる」という生き方、「献げる」というあり方です。私たちは、どうすれば手に入るか、自分のものにすることができるか、そのことにばかりに関心があり、興味を持ちます。それはお金であったり、富であったり、社会的な地位や名誉であったりします。しかし、それらを手に入れてどんなに自分のものにしても、美しくないのです。一方、自分の持っているものをどう用い、どう使うか、そのあり方によって私たちは美しくなれる。そして、それは「献げる」というあり方なのだと、聖書は教えてくれるのです。教会に来ても、どうすればお金持ちになれるかは教えてくれません。しかし、自分の持っているものをどのように用いれば美しくなれるか、そのことは教えてくれます。それが「献げる」というあり方です。

 私たちがこの「献げる」という生き方をする根拠、また最も徹底した献げ方が示されているのが、主イエスの十字架です。十字架は、二千年前の犯罪人に対する刑罰ですから、それ自体が美しいはずはありません。目をそむけたくなるように悲惨で、残酷なものです。しかし、主イエスの十字架は違います。主イエスは、天と地を造られたただ一人の神様の御子でした。全く罪無きお方であり、父なる神様と共に天におられました。しかし、この世界に来られ、人間と同じ姿となり、罪の中に生きる私たちのために、私たちに代わって、神様の裁きをお受けになりました。それが主イエスの十字架です。主イエスは、御自分の命を十字架の上で献げられたのです。この主イエスの身代わりの死によって、私たちは一切の罪の裁きを免れ、神様に向かって「父よ」と呼ぶことができるようになり、新しい命に生きる者とされました。主イエスは私たちのために、私たちに代わって、御自身の命を献げられたのです。だから、主イエスの十字架は美しいのです。

 

 さて、今朝与えられております御言葉、マルコによる福音書14章は「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった」と始まります。この祭りはイスラエルの人々にとって、民族のアイデンティティーを確認する大切な祭りであり、民族意識が最高潮に達する時でもありました。世界中からユダヤ人たちが帰ってきて、この祭りに参加しました。

 この時、祭司長たちや律法学者たちは、主イエスを殺そうと考えたのです。どうして、当時のユダヤ教の指導者たちは、主イエスを殺そうとしたのでしょうか。更に2節には「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていたとあります。どうして祭りの間はやめておこうと考えたのでしょうか。

 それは、主イエスがこれまで様々な奇跡を行い、教えを語ったので、民衆の中では、主イエスこそ旧約の預言者たちが語っていた救い主、メシアではないかという期待が高まっていたからでした。主イエスがメシア=キリストであるとするならば、自分たちが築いてきた当時のユダヤ教における指導的な立場、秩序、それが根底から崩される。そのことを恐れたからです。だから殺そうとしたのです。しかし、民衆の支持がありましたから、民族意識が最高潮に達するこの祭りの時に、そのようなことをすれば暴動になりかねない。だから、祭りの間はやめよう。そう考えたのです。

 ここには、自分が手に入れたものを何としても手放したくない人間の姿があります。自分に損害を与える者ならば、殺してでも排除してしまおうとする人間の姿です。これが結局のところ、損か得かで動いてしまう人間の姿なのでしょう。これを美しいと思う人はいないでしょう。しかし、これが損得だけで生きてしまう私たちの姿なのです。

 聖書は、この祭司長たちや律法学者たちに対比するように、3節からの出来事を記しています。場所はベタニア。エルサレムから3kmほど東に行った、小さな村です。主イエスはこの村の重い皮膚病の人シモンの家におられました。多分、この重い皮膚病にかかっていたシモンを、主イエスが以前、癒やされたのだろうと思います。それ以来、シモンとその家族は、主イエスに感謝し、主イエスを愛し、交わりを持っていたのだと思います。

 その家で、主イエスが食事をしていた時です。この時主イエスは、一人で食事をしていたのではありません。シモンの家の人や主イエスの弟子たちも一緒だったと思います。そこに一人の女性が入ってきました。そして突然、驚くべき行動に出たのです。彼女は自分の持っていたナルドの香油の入った小さな石膏の壺を壊して、その香油を主イエスの頭に注いだのです。部屋は、むせ返るほど香油の香りで一杯になったことでしょう。この香油は大変高価なもので、三百デナリオン以上に売ることができるものでした。三百デナリオンというのは、労働者の一日の賃金が一デナリオンでしたから、一年分の収入に当たる金額です。この行動は、「非常識な」と非難されても仕方の無い、突飛なものでした。実際、その場にいた人たちの何人かは「憤慨した」と、聖書は記しています。

 しかし、どうしてこの女性は、こんな突飛な行動をしたのでしょうか。理由は記されていません。はっきりしていることは、主イエスが8節で「この人はできるかぎりのことをした」と言われているように、この女性は有り余る中からこのナルドの香油を主イエスの頭に注いだのではなくて、この高価な香油はこの女性にとって全財産と言ってもよいようなものであったということです。確かに、この女性がどうしてこんなことをしたのか、聖書は何も記していません。ただ言えることは、この女性には、自分の全財産と言ってもよいこのナルドの香油を、主イエスの頭に注がないではいられない何かがあったということ、そしてそれは感謝の思いであり、喜びの思いであり、愛だったのだろうということです。

 この女性の行動に対して、その場にいた人の何人かが憤慨して、こう言いました。4~5節「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」彼女のことを厳しくとがめたのです。この人たちの言っていることは正論です。「もったいないことを。もっと有効に使うことができるのに」ということです。

 三百デナリオン以上で売って、貧しい人に施す。これはよいことであるに違いありません。皆さんもそう思われるのではないでしょうか。しかし、もしこの香油が一デナリオンの価値しか無いものだったらどうでしょうか。人々はこれほど憤慨したでしょうか。この女性のしたことをとがめている人々は、明らかに、三百デナリオンという金額に心が向いています。しかし、この女性はどうでしょう。彼女は、もしこの香油が一デナリオンの価値しかなくても、それが自分の持っているすべてであるとしたなら、同じことをしただろうと思うのです。彼女は計算していないのです。愛は計算しないものだからです。彼女は主イエスに、自分の持つ一番良いものを献げたかったのです。

 主イエスは、この女性をかばうようにして言われました。6~7節です。「するがままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」主イエスは明日、十字架の上で死ぬのです。主イエスはそのことを見つめておられます。貧しい人はいつもあなたがたと一緒にいる。これから、いくらでも貧しい人のために施すことはできるし、そうしたらよい。でも、わたしはもう明日、十字架に架けられるのだ。そう言われたのです。もし、私たちの愛する人が明日死んでしまうと知ったならば、できる限りのことをその人のためにしよう、したい、そう思うのではないでしょうか。

 そして、続けてこうも言われました。8節「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」主イエスは明日金曜日に十字架にお架かりになり、午後の3時に息を引き取られることになります。金曜日の日没、午後の6時頃でしょうか、そこから安息日が始まりますので、主イエスは十字架から下ろされると、取るものも取りあえず、墓に葬られたのです。当時の葬り方は、遺体を焼くことなく、そのまま横穴に入れます。遺体は腐敗し、臭いが出ます。ですから、遺体を葬るときには、遺体には香料を塗ることになっていたのです。しかし、主イエスの葬りの時、そのような時間はありませんでした。その意味で、このナルドの香油が、主イエスの葬り、埋葬の準備となったのです。

 更にこう言うこともできるでしょう。主イエスは救い主・キリストとして十字架にお架かりになるのです。すべての人の罪を担われる。全く罪無きお方として、十字架に架けられる。主イエスの十字架はその意味で、キリストの即位式であると言われます。このキリストとは、「油注がれた者」という意味のメシアというヘブル語を、全く同じ意味のギリシャ語に置き換えた言い方です。旧約において、油注がれて即位したのは、王様、祭司、そして預言者でした。主イエスは、まことの王、まことの祭司、まことの預言者として十字架にお架かりになりました。その主イエスが、まことの王、祭司、預言者として油を注がれるという事が、このナルドの香油をかけられるという出来事によって成し遂げられたのです。

 もちろん、この女性はそんなことは考えてもいなかったでしょう。しかし、主イエスは、この女性のできるかぎりの献げ物を、そのようなものとして喜んでお受け取りくださったということなのです。主イエスは、この女性のしたことを、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」と言われました。この「良いこと」とは、「美しいこと」とも訳せる言葉です。主イエスは、この女性のできるかぎりの献げ物をする行為を、美しいことと言ってくださった。そして、御自身の埋葬の準備、キリストの油注ぎとして受け取ってくださいました。主イエスはそのように、私たちができるかぎりの献げ物を献げることを、美しいこととして受け取ってくださり、私たちの思いを超えた意味を与えてくださるのです。

 この女性のした行為は美しい業として、二千年経っても、この地球の裏側まで伝えられました。この女性はそんなふうになるとは、考えたこともなかったでしょう。私たちは何も、自分のしたことがそのように世界中の人に覚えられることを求めているわけではありません。しかし、この女性のしたことは、誰よりも主イエス御自身、神様御自身が受け容れ、覚えてくださったことでありましょう。そこに、この女性の喜びがあったのだと思います。

 私たちは今朝、献げる者として生きるようにと御言葉を受けました。損得を超えて私たちに命を与えてくださった神様に、私たちのために御自身の命を献げてくださった主イエスに、私たちは、自分の持っている力や時間や富を、お献げして歩んでいきたいと思います。私たちの献げる物がどんなに小さなものであっても、それができるかぎりの献げ物であるならば、神様は喜んで受け取ってくださり、美しいと言ってくださり、覚えてくださるのです。そこに、私たちの本当の喜びがあるのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。神様、あなたは御子イエス・キリストを通して、他者のために「捧げる」という行為を示してくださいました。その主イエスに呼応して

一人の女性が自分の財産のすべてであるかぐわしい香油を、惜しみなく主イエスに注ぎました。愛することから始まった「捧げる」行為は、人間の計算や損得を超えていきます。どうか私たちも、主イエスの十字架を仰ぎつつ、主の御後に続く者として生きることができますよう、励まし導いていてください。猛暑の日々が続きます。どうか教会につながる兄弟姉妹の体調をお守りくださり、この厳しい季節を無事に過ごすことができますよう、支えていてください。この拙き切なるお祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

目を覚ましていなさい

マルコによる福音書13章28~37節 2025年7月27日(日)主日礼拝説教

                              牧師 藤田浩喜

 主イエスは、御自身が十字架にお架かりになる直前に、世の終わり、終末について預言なさいました。マルコによる福音書13章全体がその預言を記していたのですが、その最後の所が今朝与えられている御言葉です。

 少し前に、世の終わりである大きな終末と、私たちの人生の終わりである小さな終末があるということをお話ししました。世の終わりである終末についてはあまりピンと来ない人でも、自分の人生に終わりがあるということは分かります。

この二つの終末、大きな終末と小さな終末には重なるところがあります。それは、この世界にしても、自分の人生にしても、それが閉じられることによって完全に終わってしまうのではないということです。大きな終末は、ここで主イエスが「人の子が戸口に近づいている」と言われたように、「人の子」つまり主イエス御自身が再び来られる。そのことによって、この目に見える世界は終わり、新しい世界、新天新地が来るわけです。それと同じように、小さな終末、私たちの人生は死をもって終わるのですけれど、それですべてが終わるのではないのです。死の向こうに、復活の命によみがえって主イエスと再びお会いするということがあるのです。このことを悟れと、私たちは言われているのです。

 

 では、悟ってどうするのでしょうか。それは、終わりが来ることを知っている者として生きよ、いつ終わりが来てもよいように備えて生きよ、ということです。この「終わりがいつ来てもよいように生きる」、それが「目を覚ましている」ということなのです。

 主イエスは32節で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」と言われました。大きな終末がいつ来るのかは、主イエスも天使たちも知らないのです。天地を造られた父なる神様しか知りません。いつの時代にも、「○年○月に世の終わりが来る」と言って不安をあおる人々がいます。しかし主イエスは、「わたしも天使たちも知らない」と言われたのです。それゆえ、いつ終わりが来るかを知っていると言う人は、自分は主イエスよりも知恵があると言っているのと同じです。これはあり得ないことでしょう

 主イエスはここで、終末がいつ来るのかは分からないと言われたのですが、分からないから備えていなければならないということなのです。主イエスがこのことを告げられて2000年経つけれど、まだ「終わりの日」は来ていないではないか。だったら、自分の目の黒いうちには来ないだろう。そう思う人も多いかもしれません。しかし、たとえそうであっても、私たち一人一人にやがて来る小さな終末から逃れられる人は誰もいないのです。そして、それはいつやって来るか分からない。私は怖がらせているのではありません。主イエスも私たちを恐れさせようとされたのではないのです。そうではなくて、終わりが来ることを知らない者のように、ただ面白おかしく生きればよいということではダメだ。そしてまた、終わりが来るのだから何をやっても無駄だと、すべてを諦めて生きるのでもない。主イエスが再び来ることによって来る終わり、新しい世界の創造、そして自分の人生の終わり、主イエスの御前に立つその日が来ることを知っている者は、第三の道を歩むのだ。それが「目を覚まして生きる」ということなのです。

 「目を覚ましていなさい」ということを、33節、35節、37節で、主イエスは繰り返しお語りになりましたけれど、その前に31節で、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と告げられました。天地は滅びる。それがいつ来るのかは分からない。でも心配することはない。なぜなら、主イエスがお語りになった言葉、救いの約束、それは決して滅びないからです。それはこの世界が終わる時、主イエスが再び来られて世界を新しくされるという約束です。この地上での生涯を閉じた者が、その時主イエスの御前に復活させられるという約束です。その約束は確かなことだから、「目を覚まして生きよ」と言われたのです。

この「目を覚まして生きる」というあり方を、主イエスは34節で、「家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」と言われました。このたとえにおいて、「僕たち」とは私たちのことです。「家を後に旅に出る人」とは主イエスのことでしょう。

 主イエスはこのことを教えた数日後に、十字架にお架かりになるのです。もちろん主イエスは、十字架にお架かりになって終わったのではありません。三日目に復活され、40日にわたってその復活の姿を弟子たちに現されました。そして、天に昇って行かれました。今は天の父なる神様の右におられ、この世界を支配しておられます。しかし、私たちはこの目で主イエスを見ることはできません。その意味で十字架にお架かりになられる主イエスは、僕たちを残して旅に出るようなものなのです。そして主イエスは、この地上に残される弟子たちに仕事を与え、再び御自身が来られる時まで「目を覚ましているように」と言われたのです。

 主イエスは旅に出たのですから、必ず戻って来られるのです。それが主イエスの再臨です。もう戻って来られないのであれば、僕たちは待つ必要はありません。目を覚ましている必要は無いのです。しかし、主イエスは来られるのです。だから、私たちは目を覚まして待っていなければならないのです。

 この「目を覚ましているように」と告げられた門番の仕事、目を覚ましてし続けなければならない仕事、責任とは何でしょうか。ここには具体的には記してありませんが、幾つも考えることができるでしょう。三つのことを考えてみます。

 第一に思わされますことは、この「目を覚ましていなさい。」と主イエスが言われたもう一つのとても有名な場面、それは14章32節からのゲツセマネの祈りの場面です。この時、主イエスは御自身の十字架の死を目前にして本当に必死に祈られたのですが、その時ペトロたちは眠りこけてしまったのです。しかも、何度主イエスに起こされても眠ってしまう。実に三回も眠りこけてしまったのです。その弟子たちに主イエスが言われたのが、「目を覚まして祈っていなさい」という言葉でした。

 この出来事はペトロとヨハネとヤコブしか知らない出来事ですから、彼らが黙っていればこのように聖書に記されることはなかったでしょう。しかし、この様に聖書に記されているということは、彼らが自分でこの出来事を話したということです。私は、彼らが何度もこの話をしたのではないかと思います。「私たちは、イエス様が十字架にお架かりなる前の日に必死で祈っておられたのに、眠りこけてしまった。イエス様は『目を覚まして祈っていなさい』と言われた。だから、もう眠りこけることなく、私たちは祈りつつ歩んでいくのです。」そのように話したのではないでしょうか。

 このことを考えますと、「目を覚まして生きる」ということは、祈る者として生きる、祈りを忘れずに生きる、ということになるのではないかと思います。終わりが来る。しかしそれは、主イエスが再び来られるというあり方で来るのです。ですから、いつ主イエスが来られてもよいように、主イエスの御前に生きる。それは祈る者として生きる、祈りつつ生きるということでありましょう。

 第二に、ここで主イエスは、弟子たちつまり私たちを門番にたとえられているのです。門番とは、主人の家を守るために立っている者でしょう。もちろん、一人の門番がずっと寝ないで起きているというわけにはいきません。現代で言えば、三交代制ということだったのかもしれません。この主人の家とは、主イエスの家ですから教会のことでありましょう。ですからこれは、教会を守る、主イエスの教え、主イエスの救い、それを盗まれないように、つまり間違ったものに変えられないように守るというようにも読めるでしょう。そして、そのように使徒以来の信仰を守っていくという責任・使命というものは、一人の門番だけに課せられている責任ではありません。僕全員、つまり教会全体に課せられている使命であり、責任なのです。

 第三に、主イエスは一番大切な教えとして、神様を愛することと隣人を愛することを教えてくださいました。ですから、この「目を覚まして生きる」ということは、愛に生きることなのだとも言えるでしょう。神様に愛され、神様を愛する。隣人を愛し、隣人に仕える。この愛に生きることこそ、目を覚まして生きる者の姿なのだと言ってもよいと思います。山に籠もって大変な修行をすることなど、主イエスは私たちにお求めになったりはしません。そうではなくて、日常の、目の前にいる一人一人に心を遣い、時間を使い、体を使うことです。愛に生きるということは、仕える者として生きるということです。自分の目の前にいる人を愛し、これに仕えるということです。

 祈って、教会を守り、愛に生きる。それが終わりの来ることを知った者としての、私たちの責任・使命であり、「目を覚まして生きる」ということなのです。

 私たちは、毎週ここに集まって主の日の礼拝を守っています。この礼拝を守る中に、祈って、教会を守り、愛に生きる私たちの具体的な姿があります。祈りつつ生きる、教会を守る、愛に生きるということの扇の要の位置にあるのが、この主の日の礼拝なのです。主の日の礼拝を守ることによって、私たちは「祈って、教会を守り、愛に生きる者」として整えられ、押し出されていくのです。

 言い換えますと、私たちは主の日のたびごとにここに集まって、終わりの日への備えをしている、いつ終わってもよいための備えをしているということなのです。この礼拝において、私たちは主イエスの御言葉、主イエスが与えてくださった救いの約束が確かなものであることを心に刻み、その御言葉を信頼して、新しい一週へと歩み出していくのです。この礼拝において、私たちは祈る者としての姿勢を正され、主イエスの教えを聞き、愛に生きる者としての志を新たにされるのです。今朝、「目を覚ましていなさい」と主イエスは私たち一人一人に告げられました。この主イエスの御言葉が私たち一人一人の心に宿り、私たちの一足一足の歩みを導いてくださることを、心から祈り願っていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。主イエスは「目を覚ましていなさい」と私たちに語られます。それは再臨の主が、いつこの世界に戻られてもよいようにということです。その日は大いなる喜びの日です。どうか、その日を待ち望みつつ、祈り続け、教会を守り、愛に生きることができますよう、私たちひとりひとりを強めていてください。

猛暑の日々が続いています。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。熱中症などの危険からお守りください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。

わたしの言葉は滅びない

マルコによる福音書13章28~31節 2025年7月20日(日)伝道礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

                      

今朝朗読されたマルコによる福音書第13章28節に、「いちじくの木から教えを学びなさい」という主イエス・キリストの御言葉が記されています。いちじくの木は、主イエスがおられた地域ではごくありふれた、どこにでもある木でした。主イエスもここで、いちじくの木の様子が季節によって変わっていくことを示しておられます。それによって教えようとしておられるのは、移り変わっていく木の姿から、今がどのような時なのかを知れ、ということです。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近いことが分かる」ということです。

ここに、聖書における物事の見方、捉え方の一つの特徴が表れています。それは、物事を時の流れの中で捉え、今がどのような時で、これからどうなっていくのかを考える、ということです。それを歴史的感覚と言うこともできます。歴史の年表を思い浮かべて下さい。年表は直線的です。そういう直線的な歴史の流れの中を生きているという感覚です。そこでは、過去を振り返り、過去の影響の下にある現在を見つめ、今どうすることによってこれからどうなっていくという展望を持って、将来に向かって進んで行かなければならないのです。

主イエスがいちじくの木から学べと言っておられるのは、そういう歴史的感覚です。しかもそれは、私たちがよく耳にしているような、これからの世界経済はどうなっていくかとか、少子高齢化が社会にどのような影響を及ぼしていくか、気候変動によって地球はどうなっていくかなどといった、深刻な問題ではありますが、しかし目先の歴史を見つめる感覚ではありません。主イエスはもっと根本的な、この世の終わりをも視野に入れた歴史的感覚を持つようにと言っておられるのです。29節に「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」とあります。いちじくの葉から夏の接近を知るように、「これらのこと(すなわち、13章のこれまでのところで述べられた出来事)」を見たら「人の子が戸口に近づいている」ことを悟れ。それは、主イエスがもう一度この世に来られ、それによってこの世が終わる時が近づいているということです。主イエスの再臨によるこの世の終わりを視野に入れて生きよ、と主イエスは言っておられるのです。

しかしそれは、あと何年で主イエスがもう一度来てこの世が終わるのか、ということをいつも考えながら生きるということではありません。「人の子が戸口に近づいている」という言葉をそのような感覚で捉えるなら、初代の教会の時代からもう二千年が経とうとしているのに、まだ人の子は来ていない、主イエスのこの御言葉は間違っていたのではないか、ということになるでしょう。しかしこの御言葉は、世の終わりまであと何年か、ということを考えさせようとしているのではないのです。教会の歴史の中には時折そういう間違いに陥った人々が現れました。何年何月何日にこの世が終わる、などと言い出す人が現れたのです。そのような思いに捕えられてしまった人は、本来神様から自分に与えられているはずの日常の生活に手がつかなくなってしまいます。そして「もうじきこの世が終わるなら、今さら何をしても仕方がない、せいぜいやりたいことを好きなだけして楽しもう」という享楽的な生き方になるのです。しかし「人の子が戸口に近づいている」ことを意識しつつ生きる生き方とは、そのようなものではないのです。

それでは、どのように生きることが世の終りを意識して生きることなのでしょうか。宗教改革者ルターの言葉とされていますが、「たとえ明日この世が終わるとしても、私は今日リンゴの木の苗を植える」という言葉があります。この言葉に現されている生き方こそ「人の子が戸口に近づいている」こと、つまりこの世の終わりが始まっていることを、正しく意識して生きる信仰者の生き方なのです。

このルターの言葉には、この世の終わりを視野に入れた歴史的感覚が語られています。歴史的感覚を持つとは、過去を振り返ることによって今の時代の意味を捉え、将来への展望を持って、今自分がなすべきことを見定め、実行していくことです。つまり「私は今日リンゴの木の苗を植える」ということに示されているように、今をしっかりと生きることです。つまりこの言葉に言い表されているように、この世の終わり、終末を見つめつつ、それでも刹那的な生き方に陥らない歴史的感覚を持ちつつ、将来への展望を持って、今を生きることが大切なのです。

それは、この世の終わり、終末を見つめる時だけのことではありません。私たちの人生の終わりである死を見つめる時にも、同じことが起こります。死は、私たちの人生の終末であり、この世において自分が持っている全てのものを失う時です。この世における自分の営みが無に帰することです。そういう死が自分にも必ず訪れますし、人生は その死に向かって確実に近づいているのです。死は私たちに「終わり」があることを意識させます。私たちの人生が、閉じられた円の上を繰り返し回る円環的なものはなくて、始めがあり終わりがある直線なのだということを、死が教えているのです。つまり死は、私たちの人生に終わりがあることを見つめさせることを通して、この世の終わり、終末を私たちに見つめさせるのです。この世の終わりが、私たちの人生において先取りされるのが死であると言うことができます。その死を正面から見つめる時、私たちはやはり空しさに捕えられ、刹那的になってしまう。そうならないためには、明白な事実である死をできるだけ見ないように、それには触れないように蓋をして、ごまかして生きている、それが私たちの現実なのではないでしょうか。その点からいえば、「たとえ明日この世が終わるとしても、私は今日リンゴの木の苗を植える」と言ったあのルターの言葉は驚くべきものです。それは言い換えれば、明日死ぬことが確実に分かっているとしても、私は今日も自分のいつもの仕事をする」ということです。このように、終わりを、死を、正面から見つめつつ、それによって動じることなく、刹那的にならずに、今をしっかりと生きていくという生き方は、一体どこから生まれるのでしょうか。

その秘密は、本日の箇所の31節にあると言うことができるでしょう。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。ここには、天地が滅びること、つまりこの世が終わり、人間の営みが全て無に帰することが明確に見つめられています。しかしそれと同時に、その終わり、喪失、崩壊においても決して滅びることのないものがあることが見つめられているのです。その「滅びないもの」とは「わたしの言葉」です。主イエス・キリストの御言葉、神様の御言葉です。天地が滅びても、神の言葉だけは決して滅びない、その滅びないものを見つめる時に、そこには展望が与えられ、刹那的にならない生き方が与えられていく。主イエスはそのことを私たちに見つめさせようとしているのです。

天地は滅びても神の言葉は決して滅びない。旧約聖書イザヤ書40章6節以下にも同様のことが語られています(旧約1124頁)。主の風が吹きつけると、草は枯れ、花はしぼむ、しかし私たちの神の言葉はとこしえに立つ。その草や花とは、「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」とありますから、この世を生きている私たちのことです。私たちは、主の風、熱風によって、草や花のように枯れ、しぼんでいくのです。そのことが私たち一人一人の人生において起こるのが死であり、この世界全体に最終的に起こるのがこの世の終わりなのです。しかしその終わりの時の崩壊、滅亡を越えて、神の言葉はとこしえに立ち、決して滅びない。ルターは、その決して滅びることのない神の言葉を見つめていたのです。それゆえに、全てのものが滅びていくこの世の終わりを見つめつつ、また自らの人生の終わりである死をも見つめつつ、なお展望をもって、刹那的になることなく、「明日この世が終わるとしても、私は今日リンゴの木の苗を植える」と言うことができたのです。

この神の言葉が、天地が滅びてもなお滅びることがないというのは本当でしょうか。天地が滅びて人間が皆死んでしまえば、どのような言葉も人間と共に滅びてしまうのではないかと、私たちは思います。しかしそうではないのです。そのことを告げているのが、主イエス・キリストの復活です。神の子主イエスは、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さっただけではありません。その主イエスを、父なる神様が復活させて下さったのです。つまり主なる神様が死の力を打ち破って、主イエスに、新しい命、永遠の命を与えて下さったのです。

それは、私たちにも同じ復活の命、永遠の命を与えて下さるためです。主イエスを復活させて下さったことによって神様は、私たちをも死の支配から解放し、永遠の命を与えて下さるということを約束して下さっているのです。神の言葉は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した神様のこの救いの約束を告げ知らせています。言い換えれば、独り子イエス・キリストによって示された神様の愛が、死の力をも打ち破るものであり、私たちの人生の終わりである死を越えてなお、私たちを新しく生かすものであることを、神の言葉は告げているのです。それゆえに、この神の言葉、そこに示された神の愛は、私たちの死と共に滅びてしまうようなものでありません。この世の終わりに天地が滅びても、それと共に滅びてしまうことはないのです。

この世の終わりに天地が滅びる、そのことは既に始まっており、そこに向けての苦しみを既に私たちは味わっています。しかしそれらの大きな苦しみを経て、最終的に実現するのは、26節に語られていたこと、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」ということなのです。つまり人の子主イエスが、救い主としての力と栄光をもってもう一度来て下さり、そのご支配が誰の目にも明らかな仕方で確立するのです。それによって私たちの救いが完成し、復活と永遠の命が与えられるのです。私たちキリスト者は、そのことを待ち望みつつ、忍耐と希望に生きるのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を讃美し御栄を褒め称えます。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。神様、御子イエス・キリストは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました。この御言葉はイエス・キリスト御自身であり、主が十字架と復活によってもたらしてくださった永遠の命です。この世界の終わり、自分の命の終わりを必ず経験する私たちですが、この滅びない御言葉に支えられて、今という時を建設的に、自分の使命を覚えて生きることができるようにしてください。暑さが大変厳しい日がしばらく続きます。どうか教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

希望をもって待つ者たち

創世記15章7~21節 2025年7月13日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

神様は、アブラムを満天の星空のもとに立たせて、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と言い、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。そして最後に、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と結ばれていました。15章5~6節の有名な御言葉です。

 「義」というのは、説明しにくい概念のひとつですが、ひと言で言えば、「ただしさ」ということです。もっとも聖書で言う「ただしさ」とは、必ずしも「間違いを犯さない」というようなことではありません。それは、神様と人間の間に「きちんとした関係が成り立っている」ということ。関係概念なのです。

 やがて新約聖書において、この創世記15章前半はとても大きな意味をもつようになります。特にパウロは、ここに信仰の根源のようなものを見いだしたのでした。つまりアブラムはなんらかの行いによって義と認められたのではない。言い換えれば、犠牲の捧げものであるとか、割礼であるとか、あるいは善行をするとか、そういう行為によってではなく、ただ「神様の約束を信じた」という信仰によって義と認められ、それによって神様と「きちんとした関係をもつことができるようになった」ということです(ローマ4:3、9~11参照)。それが私たちの信仰の模範であるというのです。パウロは、これをイエス・キリストヘの信仰、つまりイエス・キリストを信じることによって義とされる、というふうに展開していきました。

 これは「行いはどうでもよい」ということではありません。私たちは、そこで神様ときちんとした関係にあるならば、それにふさわしいよい行いをするように、よく生きるようにと、促されていくのです。

さて、そこから15章の後半へと移っていきます。この後半は、前半とは随分異質な感じがします。犠牲の動物などの血なまぐさい記述があります。実は、この15章後半は、前半よりもかなり前の時代に書かれたものであると言われています。6節と7節の問には断絶があり、ここでがらりと調子が変わります。6節までは神学的、あるいは思想的な感じがするのに対して、7節以下は素朴で生々しい物語です。9~12節をご覧ください。

 「主は言われた。『三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしもとに持って来なさい。』アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」。そして17節にはこうあります。

「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」(15:17)

 先ほど申し上げたように、血なまぐさい記述ですが、これは非常に古い時代からの契約の習慣がベースになっていると言われます。大昔、誰かと誰かが契約を結ぶときには、次のようにいたしました。契約をする当事者が立ち会いの上で、いけにえの鳥や動物を真っ二つに切り裂き、その死体を向かい合わせに置きます。そしてその二つに裂かれた動物の間を両方の当事者が通るのです。それは、もしもどちらかがこの契約に違反することがあれば、この裂かれた動物のようになっても文句は言わない、ということを意味したそうです(エレミヤ34:18参照)。自分に呪いをかけるようなものです。だから必ずこの契約を守る、という誓いを込めた儀式でした。

 しかし神様と人間の契約は、初めから不釣り合いな中で結ばれる契約です。もしも、これを厳格に適用しようとすれば、人間は滅びるしかありません。それでも神は、人間と真実な関係(=義なる関係)をもち続けようとされる。どうすればよいのか。特別な形で契約を結ばれるのです。それは、対等な関係の契約ではなく、神が人間に向かって誓いを立てるという契約です。

 神様は、アブラムに動物を持って来させ、それを置かせました。夜になってから、「突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた」(15:17)とあります。神様の側の何かが通り過ぎたのです。アブラムのほうは、その裂かれた動物の間を通っていません。これは、一方的な神の契約であると言ってもよいでしょう。これは、神がアブラムを裏切らないという誓いのしるしでありました。もしも「それでは私も」というふうに、アブラムも同じように誓いを立てた上で成立した契約であれば、アブラムは、いつの日か引き裂かれることになったかもしれません。

 これはノアのときの契約を引き継ぐものであると思います。あのノアのときも、神様が一方的にノアと契約を結ばれました(9:9)。神と人間が条件付きで契約を結べば、人間の不誠実によってそれが破綻してしまうということを、神はご存知なのです。どんなにしても神は人間と真実な関係をもち続けようとされる。そのために一方的に、ご自分の側で犠牲を払うのです。いわばご自分に呪いをかけられるのです。ノアの神、アブラハムの神とは、そういう神です。人間のほうがどんなに神を裏切ろうとも、神は「私は裏切らない」と言われる。

 ですから、私たちが、その神様とただしい関係をもち続けるために求められているのは、神がそういう神であることを知って、その神を信頼し切るということです。「ただ信仰によってのみ義とされる」という言葉は、そういうことを意味しています(ローマ3:21~28参照)。そしてそれはイエス・キリストを信じる信仰へとつながっていきます。つまり神のその意志、誠実であろうとする意志、どんなにしてでも人間との真実な関係をもち続けるという意志が、イエス・キリストをこの地上へと遣わすことになります。

 さらに、このとき、二つに裂かれた動物、そしてその間を、煙を吐く炉と松明が通り過ぎるという出来事は、イエス・キリストの受難、十字架をも指し示しているのではないでしょうか。イエス・キリストこそは、神と人間が真実な関係をもち続けるために遣わされたお方であり、イエス・キリストこそは、神ご自身が供えられた犠牲の捧げものであったからです。イエス・キリストが神の小羊であるとは、そのことを指し示しています(ヨハネ1:29参照)。

11節を見ますと、「はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った」とあります。いかがでしょうか。私は、これは私たちの信仰生活を暗示しているように思います。信仰をもつということは、そのじゃまをするものを追い払うような一面があるのではないでしょうか。神様と私たちとの間に割って入り、その関係を妨げるものがあるのです。信仰生活はある意味では戦いなのです。

 私たちは、私たちを神から引き離そうとする力、誘惑に取り囲まれています。信仰をもたない人からすれば、「あいつはなんであんな馬鹿げたものを信じているのだろう」と笑われそうです。アブラムは、それをひたすら追い払ったのです。私たちの信仰生活もそのようなものでしょう。

 信仰とは、神との約束に固着し続けることです。つらい試練の中で神を信じられなくなることがあります。さまざまな誘惑の中で神など忘れてしまうこともあります。あるいはそんな神様の一方的な約束などはあるはずがない、そんなことが許されるはずがない、という思いもつきまといます。そういう神様から引き離そうとする力と絶えず戦っていなければ、私たちはすぐに離れてしまいます。だから私たちは、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。

さて最後になりましたが、13~16節の言葉に注目してみましよう。ここにも大切なことが記されています。アブラムの深い眠りの中で、神様が語られた言葉です。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである」(15:13~16)。

 不思議な言葉です。後に、「どうして自分たちは、神様の約束にもかかわらず、つらい経験をするのだろう。エジプトで奴隷になってしまったのだろう」という問いがあって、それに答えるかのようにして、後の時代の人によって挿入されたとも言われます。

 私は、ここにも信仰生活の不安、疑い、戦いというものがよく表されていると思います。どうして神様は約束を果たされないのか。約束の遅延です。信仰生活というのは、別の言葉で言えば、待つことだと思います。深い闇に包まれることもあります。ちょうどこのときアブラムが経験したように、大いなる暗黒が私たちに臨むこともあります。

このときのアブラムにとっては、息子が与えられるという小さな約束ですらも、さらにさらに待たされることになりました。イシュマエルが与えられても、「その子ではない」と、さらに引き伸ばされました。この記述からしますと、神が約束されたことが本当に成就するのは、まだまだこれから四百年以上も先であるというのです。気の遠くなるような話です。しかもその間には奴隷となって、他の民族に仕えなければならないという屈辱的なことまで含まれています。もしも信仰と希望がなかったならば、神様の約束は果たされなかったということになっていたでありましょう。

 アブラムも、子どもが与えられないというつらい状況の中で、ただ神から待つことを強いられました。これから先も、すぐにその約束がかなえられるわけではありません。しかし、信仰とは神の約束を信じて待つことです。どんなに苦しい状況にあっても、その状況を神が知っていてくださり、それをいつの日か喜びに変えてくださると、信じて待つことです。どんなに不可能に思えることであっても、もしもそれが必要なことであれば、必ず神がかなえてくださると、希望をもって耐えることです。そして「待つ」ことは決して受動的ではありません。待つということは祈るということです。祈るということは戦うということです。信仰の戦いによって、私たちは内側から強められていくのです。どんな厳しい道を通らなくてはならないとしても、希望をもって待ち続ける私たちでありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができ、感謝いたします。

父なる神様、あなたは一方的な恵みによって私たちと契約を結び、私たちをイエス・キリストの十字架と復活による救いへと導き入れてくださいました。あなたの契約は何があろうとも必ず果たされます。約束は破られることはありません。どうか、約束の実現を忍耐強く、祈りをもって、待ち望むことができますよう、私たちを励ましていてください。今週は猛暑に加えて、台風の接近が予想されています。どうか、兄弟姉妹の心身の健康を支え、様々な危険からお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

見るべきものを見る

マルコによる福音書13章14~27節 2025年7月6日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 マルコによる福音書を読み進めています。14章からは主イエスの受難の歩みが具体的に始まりますので、この13章は主イエスがまとまった形で語られた最後の教えと言ってよいでしょう。その意味では、主イエスの遺言のような性格もあると言えます。またこの13章は、マルコによる福音書の小黙示録と呼ばれ、主イエスが終末について預言されたことが記されている所です。しかし、よく読んでみますと、終末そのものというよりも、終末が来る前に起きる大変な出来事について記されていることがほとんどです。

 13章の初めから順に見て参りますと、6節に「わたしの名を名乗る者が大勢現れ」とあります。つまり、「私がイエス・キリストだ」「再臨のイエス・キリストだ」「イエス・キリストの生まれ変わりだ」。そんなことを言う者が現れるというのです。それも一人や二人ではない。大勢です。7節には「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞く」、8節には「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」、つまり民族紛争や世界大戦のようなものがあるというのです。また、「方々に地震があり、飢饉が起こる」というのです。更に9節や13節では迫害も予告されています。このように、主イエスは、偽キリストが現れ、戦争、地震、飢饉、迫害が起きるというのです。どれもこれも、その場に居合わせれば「もう世界の終わりだ」と言いたくなるひどいことです。しかし、主イエスは、7節で「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と告げられました。確かに、主イエスがこのことを語られた時からずっと、いつでも戦争も地震も飢饉も迫害もありました。偽キリスト、今で言うカルト宗教でしょうが、これもいつの時代にもありましたし、今もあります。しかし、まだ世の終わりではありません。もっと正確に言うならば、もう終わりの時は始まっているけれど、完全には終わっていないということでしょう。なぜなら、私たちの救い、この世界の救いはまだ完成していないし、この世界はまだ完全に新しくはなっていないからです。

 主イエスがこのような終末についての預言をなさいましたので、終末と言えば何かとんでもなく恐ろしいことが起きる、私たちはそのようなイメージを持っているかもしれません。しかし、それらの恐ろしいことは、終末そのものではないのです。終末の前に起きることなのです。そして、それらの恐ろしいことは今までも起き続けてきましたし、今も起きています。ですから、これらの主イエスの言葉から、私たちは「自分たちはもう終わりの時に生きているのだ」ということを知らなければならないということなのでしょう。この「終わりの時」に生きている私たちのなすべきこと。それは決まっています。父・子・聖霊なる神様を信じ、これを愛し、これに従って生きるということです。目に見える様々な誘惑を退けて、すでに救われた者として生きるということです。そして、終わりの日に生きる私たちの姿は、この主日礼拝に集うというあり方において、最も明らかに示されるのでありましょう。いつ終わりの時が来てもよいように、主の御前に立たされる日に備えている者の姿が、この礼拝に集う私たちの姿なのです。

 さて、今朝与えられております御言葉において、終わりの日が来る時の徴について、もう一つ加えております。14節「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら―読者は悟れ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」とあります。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」というのです。これは何を意味しているのでしょうか。戦争や地震や飢饉といったものとは少し違うようです。

 多くの学者たちは、この主イエスの言葉の背後には、当時のユダヤ人ならば誰もが知っている、すでに起きた具体的な出来事が下敷きとしてあると言います。その出来事というのは、主イエスがこのことをお語りになった時から約200年程前、紀元前167年に起こりました。当時ユダヤを支配しておりましたセレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネスという王が、エルサレムの神殿にギリシャの神であるゼウスの像を建てたということがあったのです。まさに、神以外立ってはならない所に、憎むべき破壊者が立った。ユダヤ人たちは怒り、マカベアという人を指導者に立ててこれに対抗し、シリアを打ち破るということがありました。そのことを下敷きにしているというのです。そうなのかもしれません。

あるいは、主イエスがこのことを語られてから40年後、紀元後70年にユダヤはローマによって滅ぼされるわけですが、その時エルサレム神殿は破壊されてしまいます。そのことを指していると言う人もいます。主イエスはこの預言の中で、「そのような時は逃げよ」と言われたのですが、実際、生まれたばかりのキリスト教会はこの時、エルサレムから逃げたのです。多くのユダヤ人たちがエルサレムに立てこもる中、キリスト者たちは逃げたのです。

 あるいはまた、王様や独裁者が自らを神として、キリスト者に自らを拝むことを強制する。そういうことが何度も起きました。そのようなことは歴史の中で何度もありました。しかし、主イエスがここで告げられたことは、そういうことだけではないのだと思います。権力者やこの世の王が、本来あがめられるべき神様に取って代わる。そういうことだけではなくて、本来あがめられるべき神様がないがしろにされ、神様以外のものが第一とされ、あがめられる。十戒の第一戒、「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない」が公然と破られる。どんなに大切なものであっても、美しいものであっても、それを神様としてはならないのです。それを神様のようにあがめてしまえば、それは憎むべき破壊者になってしまうのです。それが国家であれ、富であれ、芸術であれ、人間の理性であれ、科学技術であれ、尊敬すべき偉大な人であれ、同じことです。神様以外のものが第一となれば、神様以外のものが神となれば、そこで起きることは、今まで経験したこともないような苦難なのだと、主イエスは告げられたのです。

 そして、その典型として、22節「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」とあるように、偽メシアや偽預言者の出現が挙げられているのです。カルトと呼ばれる反社会的な宗教は山程あります。インターネットで「カルト」で検索すれば、山のように出てきます。仏教系のもの、神道系のもの、キリスト教系のもの、何でもあります。しかし、主イエスがここで言おうとされたのは、そのようなカルト宗教のことだけではないのです。

 神様以外のものが神様のようにあがめられる時、人間は最も厳しい苦難を味わうことになるということなのです。「私について来れば幸せにしてあげる」。そんな言葉に惑わされてはならないと言われたのです。その人が奇跡を見せようとも、惑わされてはならないのです。あなたがたの本当の幸いは、その人や、その思想や、その組織が約束する、目に見える何かを手に入れるというような所には無いからです。それは私たちを幸いにするどころか、最も厳しい苦難を味わせることになるというのです。なぜなら、それによって私たちは神様に造られた本来の自分を完全に見失ってしまうからです。神様との関係を絶ってしまうことになるからです。これこそ、私たちにとって最も辛いこと、まことの命を失うことなのです。この地上において何を手に入れようと、それらはすべて失われていくのです。消えていくのです。私たちが受け継ぐべき良きものは、ただ主イエスのみ。この方だけが私たちの一切の罪を赦し、私たちを神の子とし、永遠の命を与えてくださるのです。ここにだけ、私たちのまことの希望、私たちが生涯を捧げて生きるまことの命があるのです。

 主イエスはここで、終末の前にどのようなことが起きるのかということをお語りになることによって、終わりの時がもう始まっているのだ、私たちが生きているこの時代に起きていることは一体何なのか、そのことを示そうとされたのです。主イエスはこの預言によって、終わりの時に生きていることをしっかり受け止めて、決して惑わされないように気をつけなさいと、告げられているのです。

 では、本当に終わりの日が来た時、何があるのか。聖書はいろいろなイメージで終わりの日に起きることを告げていますが、はっきりしていることは、主イエスが再び来られるということです。これを教会では、主イエスの再臨、再び臨むと書いて、再臨と言います。26~27節です。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と言われていることです。

 最初に主イエスが来られた時、それは二千年前のクリスマスの時ですが、その時にはこの赤ちゃんが救い主だとは分かりませんでした。そのことを知らされたのは、ヨセフとマリア、そして何人かの羊飼いと東方の博士たちだけでした。しかし、再臨される時の主イエスはそうではありません。誰が見ても分かる、そういうあり方で来られるのです。そして、世界中から「選ばれた人たち」を呼び集めるのです。そして、新しい世界、永遠の命に与る神の国の完成、私たちの救いの完成がなされるのです。私たちは、その日を待ち望みつつ、一日一日のなすべき業に励んでいくのです。

 終末ということについて聞いても、あまりピンとこないと言う人もいるだろうと思います。私もそうでした。若い時は全くピンときませんでした。しかし終末というものには、主イエスの再臨と共にやって来る終わりの日、これが本来の終末ですが、これを大きな終末と呼ぶこともできるでしょう。このほかに、私たちには各々、確実にやって来る「死」という終わりの日があるのです。これを小さな終末と呼んでよいと思います。大きな終末も小さな終末も、これから逃れられる人は一人もいません。誰にでも例外なくやって来ます。そして、大きな終末を知り、それに備えて生きる者は、この小さな終末に対しても備えをしている。そう言ってよいのです。

 私たちは今から聖餐に与ります。この聖餐は、主イエスが再び来られる時、主イエスと共に食卓に着く食事を指し示し、その恵みを先取りするものです。この食事に与る者は、自らが「主によって選ばれた者」であることを心に刻みます。そして、自らに与えられている主イエスの救いの約束、永遠の命の約束が確かなものであることを受け取るのです。私たちの地上の命には終わりがあります。しかし、それですべてが終わるのではありません。信じる者たちは主イエス・キリストのもとで、永遠の命に生き続けることができるのです。

 あの十字架に架かり、三日目によみがえられた主イエス。天に昇り、すべてを支配し、私たちに聖霊を注ぎ、信仰を与えてくださった主イエス。やがて天より再び降り、選ばれし者たちを御自分のもとに集められる主イエス。このお方以外のいかなる者が与えると言い寄ってくる幸いにも惑わされることなく、主イエスが備えてくださっている御国を目指して、この一週もまた、それぞれ遣わされている所において、神の子、神の僕として、なすべき務めに励んで参りましょう。

お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心より讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。神様、あなたは主イエスを通して、私たちがすでに終末へと向かう時に生きていることを教えてくださいました。この世界も私たちの人生も終わりへと向かう途上にあります。そのことをわきまえ、様々な誘惑に惑わされることなく、主イエスを見上げて歩む私たちであらしてください。猛暑の日々が続いています。今年の夏も厳しそうです。どうか、兄弟姉妹の健康を支え、熱中症などの危険からお守りください。私たちの世界は今、大変不安定な状態にあります。いつ終わるとも分からない戦争に苦しむ人たちが多くいます。どうか、このような不条理な戦争を一日も早く終わらせてください。人々が平和な日常生活を取り戻すことができますよう、導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

主に目を注いで生きる

使徒言行録4章23~31節 2025年6月29日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜 

 使徒言行録にはしばしば、「イエス・キリストの名によって」という表現が出てきます。例えば、ペンテコステの日にペトロが語ったメッセージの中にこういう言葉が出てきます。「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(2:38)。また、足の悪い人を癒やした場面でもペトロはこう言っています。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3:6)。

 そして、今日読んでいただいた聖書の中に登場する弟子たちも、神に向かって次のように祈っています。「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(4:30)。

 古代のユダヤ人の理解によれば、「名前」は「人格」そのものであり、「名前を呼ぶこと」は「その人を呼び出すこと/その人の力を呼び出すこと」であると考えられていたと言います。そうであるとすれば、「主イエスの名を呼ぶ」ことは、まさに「主イエスその人/主イエスの力そのものを呼び出す」ことであり、その時その場に主イエスに来ていただき、主イエスに働いていただくことに他ならなかったということになります。

 今日は読んでいただきませんでしたが、使徒言行録4章1節以下では、祭司や長老、サドカイ派などユダヤ教の指導者たちが、ペンテコステの後盛んに伝道した主イエスの弟子たちの行動にいらだちを覚え、ペトロとヨハネを捕らえて牢獄に入れるという事件が起こったことを伝えています。翌日、二人は大祭司をはじめとするユダヤ教の権威ある人々の前に引き出され、取り調べを受けました。

 つい2カ月ほど前、主イエスが捕らえられて裁判を受けていた時には、身を隠していた弟子たち、主イエスを裏切った弟子たちが、今度は主イエスと同じ立場に立たされることになったのです。使徒言行録はこの場面を総括して、彼らは「無学な普通の人」であったが、「大胆な態度」で語り、主イエスを証ししたので、人々は皆驚いたと記しています(4:13)。

 最初に取り調べにあたった人々はこう問いました。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」(4:7)。「ああいうこと」というのは、3章でペトロが足の悪い人を癒やした奇跡のことを指しています。

 ペトロは答えました。「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(4:10)。ここでもまた「イエス・キリストの名」が出てきます。

 「私たちが彼を治したわけではない。イエス・キリストの名が、すなわち、イエス・キリストご自身がそれをなさったのだ。」「あなたがたはイエス・キリストを十字架で殺したが、神はあの方をよみがえらせ、イエス・キリストは今もなお生きて働いておられるのだ。」ペトロは、およそこういった意味のことを人々の前で証ししたといえるでしょう。

 結局、この取り調べにあたった人々が出した結論は、次のようなものでした。  「このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう」(4:17)。そして、二人に向かって「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」(4:18)と命令し、脅(おど)しつけたというのです。

 今日お読みいただいた使徒言行録の場面はその続きです。釈放された二人が仲間たちのもとに戻ってきた場面です。ペトロとヨハネは自分たちが経験したことを、そこにいた弟子たちに語りました。もちろん大祭司たちが彼らに課した命令や脅しも語ったはずです。

しかし、彼らはそうしたことを全く顧みることなく、次のように祈ったと記されています。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(4:29~30)。

 弟子たちの祈りは挑戦的です。大祭司たちが「使ってはならない」と命じたばかりの「イエス・キリストの名」によって彼らは祈るのです。彼らが祈り求めたことは、「私たちを守ってください」とか「どうしたらいいでしょうか」ということではありませんでした。「もっと大胆に」語り、癒やし、働きつづけていくことができるようにと、彼らは祈り求めたのです。

 使徒言行録の中では、この「大胆に」という言葉もまた繰り返し使われる言葉の一つです。言うならば、使徒言行録とは、弟子たちが「イエス・キリストの名」に立って「大胆に」語り、「大胆に」行動し、「大胆に」福音を宣べ伝えたことを記録した文書なのです。

 しかし、弟子たちが最初からそうした「大胆さ」を持っていたわけではありません。また、いつでも彼らが「大胆」であり得たというわけでもありません。使徒言行録の中で「大胆であれ」という呼びかけが繰り返されるということは、逆にいえば、「大胆でありえない」弟子たちの現実や状況があったことを前提としているのです。事実、イエス・キリストを証しすること、宣教することは、弟子たちにとって恐ろしいことであり、さまざまな犠牲をともなう行為であったことを、使徒言行録はいろいろな箇所で証言しています。

 すでに見たようにペトロやヨハネが経験した逮捕や取り調べ、命令や脅しは、ほかの弟子たち、ことにパウロもまた経験したことでした。牢獄や鞭打ちといった公式の刑罰。また、私的なリンチのような形で行われる暴力や迫害。見知らぬ町、見知らぬ人々が、彼らに向ける嘲笑や無視。こうした境遇の中で、弟子たちは町から町へ、村から村へと渡り歩き、あるいは逃げまわりながら、「イエス・キリストの名」によって「大胆に」語り、また行動したのです。

 宣教という働きはいつの時代にも、危険や恥、失望、空しさ、徒労感といったものと背中合わせの営みです。長年にわたってささげられ積み重ねられた多くの祈り、努力、知恵、配慮、そしてお金……。そうしたものが目に見えるかたちでめざましい宣教の実を結ぶとは限りません。一般社会の基準に立ち、効率や成果を基準として考えたら、宣教の業はまるでお話にもならないものかもしれません。

 しかしながら、本当のことを言うと、私たちの宣教の業が決して空しいもの、無意味なものではないということもまた事実なのです。パウロは第二コリント書の中にこういう言葉を残しています。「わたしたちは人を欺いているようで、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」(6:8~10 新約331頁)。

 皆さんの中にもそうお感じになる方があるかと思いますが、この言葉は、私自身、牧師として、また一人のキリスト者として、年月を重ねるごとに「本当にそうなんだ」という思いが深まってくる言葉の一つです。事実、私たちの教会も「人に知られていないようでいて、よく知られ」ているのです。おそらく私たち自身が想像するよりもずっと広くまた多くの人々に「知られている」ように思います。

 例えば、そのしるしとして、教会にはしばしば思いがけない訪問者があり、また電話で相談を持ち込んでくる人がいます。そういう人々の中には、本当に人生のぎりぎりのところに追い込まれてこの教会にやって来るという人が何人もいます。その中には、ただ一度この教会に足を踏み入れるだけの人もいますし、何年にもわたって関わりつづけている人もいます。そして、それにもかかわらず主日礼拝や祈祷会などには全くやって来ない人もいます。

 しかし、今ここに集っている皆さんが一度も会ったことのない人でありながら、人生の重要な瞬間にこの教会にかかわりを持った人が何人もいたということは疑いようのない事実なのです。そして、そういったことは決して昨日今日に始まったことではなく、この教会がここに建てられてからずっと、何度となく繰り返されてきたことだったに違いないのです。

 もちろん、そうした人々は教会の歴史の中には記録されていません。しかし、繰り返しますが、そういう人々がいたということは事実であり、この教会がそういう人々に知られていたということは消すことのできない事実です。

 そうした人々は、なぜ私たちの教会にやって来たのでしょう。教会の建物や名前に引かれてやって来たのでしょうか。プロテスタントだから、あるいは日本キリスト教会に属している教会だから、やって来たのでしょうか。

 おそらくそうではありません。もちろん牧師の名前を見てやって来たわけでもないでしょう。では、なぜそうした人々はこの教会にやって来たのでしょう。

 そうした人たちがやって来る理由はただ一つ、ここが「イエス・キリストの名」を掲げているからであると私は思います。「キリストなら何とかしてくれる。」

それが、彼ら彼女らをこの教会へ導いた理由なのです。使徒言行録の時代以来、延々と宣べ伝えられてきた「イエス・キリストの名」。この名前のゆえに私たちの教会もまた知られていないようでよく知られているのであり、この名前こそが人生のギリギリのところで立ち尽くす人を私たちの教会へと導いたのです。

 俗な言い方をすれば、私たちはこの「イエス・キリストの名」という「金看板」を背負っている存在です。人々はこの「金看板」に信頼して、教会に駆け込んでくるのです。教会にはこの「金看板」を背負う誇りと責任があります。またそれゆえにこそ、私たちが引き受けなければならない痛みや労苦や負担もあるのです。

 宣教のわざ、教会形成の営みは、いつも順風満帆というわけにはいきません。けれども、キリストによって救われ、キリストによって一つに結ばれた群れとして、私たちもまた使徒言行録の弟子たちと同じように、「イエス・キリストの名」によって「大胆に」祈り求め、また「大胆に」行動するものでありたいと思うのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にこの礼拝に与ることができましたことを、心から感謝いたします。神様、キリスト教会は「イエス・キリストの名」という金看板を背負って、この世に立っています。それはイエス・キリストから力を与えられ、主イエスの宣教の業をキリスト教会が担っていくということです。それは労苦を避けられない務めですが、喜びと祝福に満たられた務めです。どうか、私たちが大胆に宣教の業を担っていくことができるように、聖霊の励ましを与えていてください。今年は梅雨が早く空け、猛暑の季節が既に始まっています。どうか教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

輝く日を仰ぎつつ

マルコによる福音書13章1~13節 2025年6月22日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

 「人に惑わされないように気をつけなさい」。今日お読みいただいた13章5節で、主イエスはそう言われました。これは弟子たちの問いに対する答えでした。弟子たちはこう尋ねたのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(4節)。弟子たちが問うているのは「いつ起こるのか」という「時」です。あるいは正確な「時」が分からないとしても、近づいているという「前兆」は知りたい。だから「どんな徴があるのですか」と聞いているのです。それに対して主イエスは言われたのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。

 「いつ起こるのか」という「時」を知りたい。あるいはせめて「前兆」を知りたい。これは要するに「未来を知りたい」ということでしょう。正確にではなくても、ある程度予測ができていたい、見通しが立てられるようになっていたいということです。

 弟子たちがそのように尋ねたのは、主イエスが未来に起こる恐るべきことを語られたからでした。それは何か。エルサレムの神殿の崩壊です。弟子たちがエルサレムの神殿を見て感嘆の声を上げた時、主イエスはこう言われたのです。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)。重なって残る石が全くないほどに、徹底的に破壊されると主は言われたのです。

 普通に見れば、永遠に残ると思えるような建造物です。しかし、崩れるはずがないと思えるものが、実際には崩壊することがある。それがこの世の現実です。主イエスが言われるならば、それは起こり得ることだと弟子たちも思ったに違いない。実際、彼らがその時に目にしていた神殿は、紀元70年にローマ軍によって徹底的に破壊されることとなりました。

 この世に確かなものは何一つありません。私たちは新型コロナのパンデミックによって、改めてそのことを知らされたとも言えます。この世に確かなものはない。それゆえに、この世の生活には不安が伴います。だから未来をある程度予測できるようになりたいと思います。少しでも先の見通しを立てたいとも思います。

 しかし、本当は未来を知ることよりも、先の見通しが立てられるようになることよりも、もっと大事なことがあるのです。だから未来を問う弟子たちの問いに、主イエスは直接答えられなかったのです。主は言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい」。

 本当に大事なことは、いつ何が起こるかということではないのです。そうではなくて、いつ何が起こったとしても、そこで私たちがどう生きているかということなのです。私たち自身のあり方なのです。私たちがそこで何を考え、どちらの方向を向いて生きているかということなのです。不安だから未来を知りたくなる。しかし、いつ何が起こるかを問題にしている限り不安はなくなりません。問題にしなくてはならないのは、未来ではなく、私たち自身のあり方なのです。

 そこで今日は、特に私たち自身に関わる三つの言葉を心に留めたいと思います。主は言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)。「慌ててはいけない」(7節)。そして、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)。

 主は言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい」。どうしてか。主はこう続けます。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」(6節)。

 崩れるはずがないと思えるものが崩壊していく時、あるいはそのようなことが起こるのではないかと人々が不安に駆られる時、そこに様々な形において偽のメシアが現れてまいります。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる」と主が言われたようにです。「ここに救いがある」と言って手招きするのです。

 あるいは主が言われるように、「わたしがそれだ」と言って惑わす者が現れる。「わたしがそれだ」というのは、ユダヤ的な表現で「わたしが神だ」という意味です。そのように、偽物の神様が近寄ってくるのです。そして、神を信じていたはずの人をさえ、神から引き離してしまうのです。実際、恐れに駆られると、人間は何にでも考えなしに、すがりつきたくなるものでしょう。

 だから主は言われるのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。人に惑わされないためには、神ならぬ誰かに惑わされないためには、自らがしっかりと神に向いて生きていることが大事なのです。そのような生活が形作られていることが大事なのです。

 いざというときには、普段どう生きているかが、どうしても出てまいります。今、もし幸いなことに平穏無事であり安定の中にいるならば、大切なことは、いざという時にではなくて、今この時、神を信じ神に心を向け、神を礼拝して生きる生活をしっかりと築いておくことです。そうすれば未来に何が起ころうとも、神に向く生活が変わらずそこに存在するはずだからです。

 そして、さらに主は言われました。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(7節)。さらに主イエスはこうも言っておられます。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」(8節)。戦争だけではありません。地震や飢饉についても語っておられます。そのような具体的な災いがこの世界には起こり得ますし、私たちの人生にも及ぶことがあり得ます。他の人に起こったことは、我が身にも起こり得ることを私たちは知っています。そして、それは恐ろしいことです。しかし、主は「慌ててはいけない」と言われるのです。これは「恐れるな」という言葉でもあります。

 主は「恐れるな」と言われる。どうしてか。主イエスは言われるのです。「まだ世の終わりではない」。原文では「世の終わり」とは書いてありません。ただ「まだ終わりではない」と書かれているのです。もちろん「世の終わり」のことが言われているのでしょうが、大事なことは「まだ終わりではない」ということなのです。

 どんなに恐るべきことが起こったとしても、大事なことは「まだ終わりではない」という認識です。「ああ、もう終わりだ」と思えるようなことも、人生にはあるのでしょう。しかし、主は言われるのです。「まだ終わりではない」と。世の終わりでない限り、すべてはまだ途中経過なのです。その先があるのです。途中経過を見て、恐れたり慌てたりしてはならないのです。

 その途中経過を、主イエスは「産みの苦しみ」と表現しました。私たちはよく知っているはずです。産みの苦しみは最終的な苦しみではないということを。それは大きな喜びへと向かう途中の苦しみなのです。

 さらに言うならば、主イエスはそれを「産みの苦しみの《始まり》である」と表現しました。「始まり」ならば、次第に苦しみは増大していくということです。苦しみが増大していくならば、普通は「悪い方向に向かっている」と考えるのでしょう。しかし、産みの苦しみについては、そうは思いません。苦しみが大きくなればなるほど、新しい命の誕生が近づいていることを知っているからです。

 目に映る現実がどうであれ、私たちには最終的な救いが約束されているのです。産みの苦しみであるとはそういうことです。主は言われるのです。まだ終わりではない。それは産みの苦しみだ。だから、慌てるな。恐れるな、と。

 そして、さらに主は言われました。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)。「気をつける」という言葉は前にも出てきましたが、もともとの意味は「見る」という言葉なのです。目を向けることです。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」とは、「あなたがたは自分自身に目を向けなさい」ということでもあるのです。

 ここにおいて語られているのは迫害についてです。主はこう続けます。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」(9節)。だれかが打ち叩くなら、打ち叩く者に目が向くものです。苦しみが特定の人間から来る時には、どうしてもその人の方に目が行きます。しかし、主は言われるのです。「あなたがたは自分自身に目を向けなさい」と。

 人に目を向けるならば、その人の敵意や悪意、その人の酷い仕打ちしか見えません。しかし、自分自身に目を向けるならば、そこで自分が何をなすべきかが見えて来きます。何のためにそこに立たされているのか。それはキリストを証しするためです。「証をすることになる」と主は言われるのです。そして言われます。「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(10節)。神は独り子をお与えになるほどにこの世を愛してくださいました。神は私たちを愛し、十字架のゆえに私たちの罪を赦し、神と共に生きる者としてくださいました。私たちは最終的に完全な救いにあずかることを知らされています。産みの苦しみの向こうには、命に満ちた大きな喜びが備えられているのです。そのことを知らされている私たちは、どんな状況にあっても、希望に満たされて、福音を告げ知らせることを託されているのです。

 さらに言うならば、福音を告げ知らせる主体は、私たち自身ではなく、聖霊です。神が私たちを用いてくださるということです。主は言われました。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(11節)。神が語られるのです。人間を通して神が働かれるのです。私たちが自分自身に目を向けるなら、立たされている場所において、神が私たちを用いようとしていることが見えてきます。神がこの世界において御自身の愛を現すために用いようとしている《わたし》そして《私たち》が見えてくるのです。

 本当に大事なことは、いつ何が起こるかということではありません。いつ何が起こったとしても、そこで私たちがどう生きているかということです。私たちがそこで何を考え、どちらの方向を向いて生きているかということなのです。危機と不安が大きくなっていくような時代状況の中で、私たちはこの主イエスの御言葉を心に刻み付けたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日もあなたは、主イエスを通して御言葉を与えてくださいました。マルコ13章はローマ帝国によるキリスト教迫害が忍び寄る中で、弟子たちが聞いた御言葉です。しかしこの御言葉は、今の時代を生きる私たちにも向けられています。私たちの時代も危機と不安の時代です。大きな戦争への不安、地震などの自然災害、病気のパンデミックへの恐れの中に、私たちも生きています。どうか、いかなる時にもあなたに心を向けさせてください。どんな時にも主の恵みに支えられた自分を見つめつつ、あなたの福音を宣べ伝える私たちであらしてください。このひと言のお祈りを、主の御名によってお捧げいたします。アーメン。