マルコによる福音書14章10~21節 2025年8月24日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
マルコによる福音書を読み進めてきましたが、遂に主イエスが十字架にお架かりになる日の出来事について記されているところに入ります。今朝与えられております御言葉14章12節に、「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」とありますが、ここから15章の終わりまで、主イエスが十字架に架けられて死んで墓に葬られるまでですが、これはすべて一日の内に起きたことです。聖書の一日は、日没に始まり次の日の日没までですから、マルコによる福音書では6ページほどを用いて、この一日の出来事が記されているわけです。
主イエスが十字架にお架かりになったその日は、「最後の晩餐」という主イエスと弟子たちが最後の食事をしたところから始まります。この食事は「過越の食事」と呼ばれる、宗教的な意味が大変深い食事でした。「過越の小羊を屠る日」とありますように、この食事では小羊を食べることになっていました。この食事については、出エジプト記の12章43節以下に記されております。
出エジプトの時、神様はイスラエルの民をエジプトから救い出そうとされますが、エジプト王ファラオはそれを許しません。モーセとファラオの交渉がなされますが、ファラオは大事な労働力であるイスラエルの民が出て行くことを許しませんでした。そこで、神様は十の災いをエジプトに与えます。それでもファラオが許さなかったので、遂に神様は過越の出来事をもって、イスラエルの民をエジプトから去らせるようにされたのです。この過越の出来事とは、家畜を含めすべてのエジプトの家の初子(ういご)を神様が撃って死なせるという、まことに凄惨な出来事でした。こんなひどい目に遭うなら、イスラエルの民はとっとと出て行けということになって、やっとエジプトを出ることができたのです。そして、イスラエルの民は出エジプトの40年の旅を終え、ヨルダン川を渡り、約束の地に入ってそこに定着し、やがて国を建てるということになったわけです。
つまり、イスラエルにとってこの過越の出来事は、民族の出発、民族の起源となる大変重要な出来事であり、それを覚えるための祭、それが過越祭でありました。この過越の出来事の時、神様はイスラエルの民に、小羊を屠ってその血を家の入り口の鴨居と柱に塗るように命じられました。羊の血が塗ってある家は、神様の裁きが「過ぎ越し」ていったのです。だから、過越祭なのです。過越の食事において小羊が屠られるのは、家の入り口の鴨居と柱に羊の血を塗ったことによって裁きが過ぎ越したことを覚えてのことでした。
この祭りのために、大勢のユダヤ人たちがエルサレムに集まってきておりました。そうしますと、過越の食事をする場所を確保するということが大問題だったのです。多くの場合エルサレムに来た人たちは、友人や親戚を頼り、その家の一部屋を借りて、この食事をしたのです。弟子たちがまず心配したのも、この場所のことでした。弟子たちが主イエスに、12節「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と尋ねたのは、そういう意味です。
それに対して、主イエスは言われました。13~15節「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」とお答えになりました。不思議な答え方です。「○○通りの誰々さんの家で過越の食事ができるように話をしてある。」そういう言い方ではありませんでした。多分、このように言われた弟子たちは、これから何が起きるのか分からなかったと思います。「とりあえずエルサレムに行きなさい。行ったら水がめを運んでいる男に出会う」と言われたのです。エルサレムのどの通りなのか、細かい指示は全く無く、ただ「水がめを運ぶ男と出会うから、その人について行って、その人が家に入ったら、その家の主人にこう言いなさい」と言われたのです。過越の祭りの時なのですから、エルサレムは人でごった返していたでしょう。こんな指示だけで本当に大丈夫なのだろうかと、私などは考えてしまいます。当時は、水がめを運ぶのは女性の仕事でしたので、男の人が運んでいれば確かに目立つし、目印にはなったでしょう。でも、これだけで本当に上手くいくのかなと、私などは心配になってしまいます。せめて、エルサレムの何々門の前とか、何々通りくらいの指示がなければ、偶然に会うことができるなどということは無いだろう。そんなふうにも思います。
しかし、弟子たちはこの時、主イエスに言われたとおりにエルサレムに行き、無事、水がめを運ぶ男を見つけ、その人の後についていって家の主人に会い、主イエスの言われたとおりの言葉を告げると、二階の広間が用意されており、彼らは過越の食事の用意をそこに整えたのです。
弟子たちは主イエスに言われた時、これから何がどうなるのか、見当もつかなかったと思います。しかし、主イエスは知っておられた。そして、主イエスの言われた通りになったということです。そして、無事に過越の食事の用意を整えることができたのです。ここで大切なことは、主イエスの言葉に従うということです。私たちには分からなくても、主イエスはすべてを御存知であり、すべて御存知の上で命じておられるのです。だから安心して従えばよいのです。
しかし、なかなかそうはいかない。自分にも見通しがあり、計画があり、目論見もある。主イエスの言う通りといっても、何の見通しもないのでは、とても従うことなどできない。そのような思いが私たちの中にないでしょうか。しかし、信じなければ、主イエスの言葉を信頼して歩み出さなければ、何も起きないのです。信仰の証しは生まれないのです。
聖書は、そのように信じることができなかった弟子のことも、ここで記しています。それがイスカリオテのユダです。ユダは、祭司長たちの所に行って、主イエスを引き渡すことを約束しました。どうして彼がそんなことをしたのか、理由は記されておりません。ヨハネによる福音書は、「サタンが彼の中に入った」(13章27節)と記し、ルカによる福音書も「サタンが入った」(22章3節)と記しています。マタイによる福音書は、ユダが「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と祭司長たちに語った(26章15節)と記して、お金のためであったことを暗に示しています。しかし、どうしてユダが主イエスを裏切ったのか、マルコによる福音書は記していません。
はっきりしていることは、ユダは主イエスに従うことをやめたということです。ユダの中に具体的にどのような思いがあったのかは分かりません。いずれにせよはっきりしているのは、ユダは主イエスに従うことをやめたということです。主イエスに従うことをやめるということは、自分が主人になることです。主イエスの言葉や思いに従うのではなく、自分の思い、自分の考え、自分の見通し、自分の正義、自分の欲に従ったということです。
マルコによる福音書はユダのことを、10節「十二人の一人イスカリオテのユダ」と言い、主イエスは自分を裏切る者を、20節「十二人のうちの一人で」と言っています。イスカリオテのユダは、主イエスが選んだ十二弟子の一人だったのです。ユダも主イエスの召しを受け、すべてを捨てて主イエスに従ってきたのです。それなのに、この時、主イエスに従うのをやめたのです。
「ユダは特別に悪い人間であった。極悪人であった。とんでもない人間であった。」そのように聖書が記していたなら、私たちは「自分とユダとは関係ない、自分はこんなに悪い人間ではない。大丈夫。」そう思えるでしょう。しかし、聖書はそのようには言っていないのです。18~19節「一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。」主イエスがこの食事の席で、自分を殺そうとしている者がいると告げると、弟子たちは「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めたのです。つまり、「私ではないですよね。イエス様、お前ではないと言ってください」と、弟子たちは皆主イエスに言ったというのです。これは、「自分ではない」と言い切る弟子はいなかったことを示しているのでしょう。ユダは裏切った。主イエスに従うことをやめた。しかしその可能性は、ここにいた弟子たち全員にあったということなのです。主イエスに従うことをやめて、自分の思い、自分の計画で歩み出す。正しいのは主イエスではなく自分だ。そのように考え、行動する。その可能性は、主イエスの弟子全員にある。そして私たちも例外ではないのです。
この時、ユダが主イエスを裏切るなどということは、他の弟子たちは誰も知りませんでした。だから、「まさか私のことでは」と口にしたのでしょう。しかし、主イエスは御存知でした。そして、このユダの裏切りによって、御自分が十字架に架けられて死ぬことも御存知でした。ですから、21節「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」と言われたのでしょう。
だったら、どうしてそれを回避されなかったのでしょうか。ここで「わたしを裏切ろうとしているのはユダだ」と主イエスが言えば、他の弟子たちがユダを取り押さえたでしょう。しかし、主イエスはそうはされませんでした。それは、ユダの裏切りによって十字架に架けられて死ぬのが、神様の御心であることを知っておられたからです。主イエスは神様に従い通されたのです。主イエスはすべてを知った上で、十字架への道を歩まれたのです。
さて、主イエスはここで、ユダに対してこう言われました。21節「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」この言葉は主イエスらしくない、ユダに対してあまりにも冷たいではないか、そう思われる方もいるかもしれません。しかし、主イエスはここで、ユダを突き放すようにしてこの言葉を語られたのではないのです。「その者は不幸だ」の「不幸だ」という言葉は、「ああ」という感嘆の言葉なのです。つまり、主イエスはユダに対して、「ああ、何ということか」と嘆いておられるのです。主イエスは心を痛めておられるのです。
主イエスに召され、主イエスに従う者になった。命の祝福を受け、神様の御用に仕える者となった。何という幸いでしょう。しかし、ユダは自らその神様の祝福を捨ててしまった。何ということか。これがどんなに不幸なことかは、主イエスにしか分かりませんでした。ユダは主イエスを裏切った後、首を吊って死んでしまいます。主イエスはそれを、御存知だったのではないでしょうか。
私たちは確かに、誰でもユダになってしまう可能性があります。そして、そうなってしまうことを誰よりも悲しみ、嘆かれるのは主イエスなのです。主イエスの召し、御心というものは、時として私たちにはよく分からないことがあります。主イエスについていけないと思うかもしれない。私たちはユダになる可能性があるし、あるいはすでにユダであるのかもしれません。しかし、私たちが何度でも悔い改めて、再び主イエスに従う者となるように、主イエスはいつも私たちを導こうとしてくださっているのです。私たちは、この主イエスの憐れみを信じてよいのです。そしてユダになるということが、どんなに不幸なことかを弁えなければなりません。それは、光を失い、希望を失い、生きる力を失い、そして滅びの道へと歩んでいくことになることなのです。聖なる畏れをもって、このことを受け止めなくてはなりません。そして、私たちを光へと導いてくださる主イエスにゆだねて、信仰者の歩みを続けてまいりましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。神様、主イエスに「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしていると」言われた時、だれ一人「わたしは裏切りません」と断言することができませんでした。そこには主イエスの御心に従うのではなく、自分の思いや計画に従おうとする、わたしたちの罪があらわにされています。ユダを見舞った弱さは、わたしたちの弱さでもあります。どうか、そのことをわたしたちがわきまえ知ることができますよう、導いていてください。季節の変化を朝夕は感じるものの、まだ日中は猛暑の日が続きます。どうか、兄弟姉妹一人一人の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、わたしたちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。