執り成す人として生きる

創世記18章16~33節 2026年2月15日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今日の聖書は、アブラハムに神の使いが現れたということが書かれている箇所です。そしてこの神の使いは、アブラハムにこういうふうに言いました。17~18節です。「主は言われた。『わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る』」。

 ここで、アブラハムという人物、一人の人間に神の祝福があらためて約束されます。アブラハムとその子孫が祝福を受けるという約束です。アブラハムとその子孫は大いなる国民となって、強い国民となって、人々の中に住むと言われています。しかしそれは、アブラハムとその子孫たちだけが祝福されるという意味ではありません。こう言われていました。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」と。世界のすべての国民は、このアブラハムとその子孫の存在によって祝福に入れられるというのです。

 祝福に入るというのは、祝福の輪の中に引き入れられるということです。アブラハムとその子孫が神の祝福の中で生きることによって、周りの人々も、その祝福の中に引き入れられると言われているのです。ですから、アブラハムの祝福というのは、彼とその子孫だけが祝福されるということではありません。神の祝福の世界に生きる、そのことによって他の人々が祝福に入れられるというのです。

 信仰というのは、言うまでもなく神を知ることです。神が存在しておられることを知ること。しかし、神様がどこかにおられることを知ることだけが信仰ではありません。自分の存在が、この自分の命が祝福されているということを知ること、それが信仰です。この命が、この自分の命が神に喜ばれている、それを知ることが私たちの信仰です。そしてそのことを本当に知る人は、その喜びを他に伝えようとするのです。つまり、自分のこの命が祝福されているというその喜びを、他の人に伝えないではいられないのです。

 こんなたとえが許されるかもしれません。打ち沈んでいる人々の中に一人の喜んでいる人間がいる。そのことによって、この集団全体が支えられるということがありうるのです。あるいは、みんなが希望を失っている中に、少数の希望を失わない人間がいることによって、その全体が支えられるということが起こりうるのです。それが、信仰者がこの世に生かされていることの意味だということを知りたいと思うのです。

 沈みかけている船から、みんなが逃げ出そうとしている時に、その船の中に踏みとどまっている人間がいることによって全体が支えられる。イエス・キリストは弟子たちに、あなたがたは地の塩であると言われました。少数の、少量の塩が物の腐敗を防ぎます。少量の塩が料理全体の味を引き立てます。少数の信仰者がこの世に遣わされていることの意味は、そこにあると思います。周りを支えるものとしてそこに遣わされているのです。

 私たちはこの世の人々のことを嘆いたり、あるいは批判をしたりするためではない、そこで祈るものとしてこの世に遣わされているということを忘れてはなりません。私たちは自分の置かれている場所で、祈って支えるのです。それが信仰者のこの世における在り方です。アブラハムもそういう人間でした。

 ここに、ソドムとゴモラの街のことが出てきます。ソドムとゴモラの街には罪が満ちて、人々の訴えが神のもとに届いていると書かれています。20~21節。「主は言われた。『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡(ぎょうせき)が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう』」。

 ソドムとゴモラの街から訴えが神のもとに届いたと言われています。この「訴え」という言葉は、ある註解書では「悲鳴」という言葉で言い換えていました。「悲鳴」、悲鳴が神のもとに届いた。

神の使いはソドムに向かいました。22~23節にこう書いてあります。「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った」。

 神の使いはソドムに向かいました。これはもちろん、神の裁きを行うためです。

しかし、アブラハムはなお主の御前にいたと記されています。アブラハムは今まさに神がなそうとしておられることに、納得ができなかったからです。だから彼はなお主の御前にいた、と書かれています。

 祈るということはそういうことでしょう。神の御心だからといって、何でも受け入れて引き下がるのは信仰ではありません。それは単なるあきらめです。信仰者というのは、祈る人間のことを指しています。踏みとどまって祈る。そして祈って神様の御心を知るのです。祈らないで、ああ神様の御心だから仕方がない、というのは全然神様の御心をわかっていないのです。祈って初めて私たちは神様の御心を自分に受けとめることができるのです。

 アブラハムは神に、進み出て言います。「『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか』」(23~25節)。「主は言われた。『もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう』」。(26節)。

 アブラハムは祈るのです。まさに神が、神の使いがソドムに向かっている時に、神の前に踏みとどまって祈ります。一体神様あなたは、正しいものも悪いものも一緒に滅ぼされるのですか。五十人の正しい人があの街にいたならば、その五十人の人もソドムの罪と一緒に滅ぼされるのですか、と彼は神に問うのです。すると神は、いや五十人の正しい人がいたならば、わたしは滅ぼさないだろうと言われます。さらにアブラハムは五十人に五人欠けたらどうでしょうか、と聞きます。いや四十五人でもわたしは滅ぼさない。いや、四十人だったらどうでしょうか。いや三十人だったらどうでしょうか。いや三十人いたら、正しい人が三十人いたらわたしは滅ぼさないと神は言われます。二十人ではどうですか。そして最後に十人ではどうですか、とアブラハムは神に問います。十人の正しい人がいたらその十人のために滅ぼさないと、神は約束されます。

 ここでアブラハムは、ただ祈っているのではありません。勇気を振り絞って、彼は迫っているのです。23節に「アブラハムは進み出て言った」と、神の前に進み出て言ったと言われています。それから27節では、「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます」というふうに彼は神に祈っています。塵あくたに過ぎない自分ですが。そうやって数を減らしながら彼は勇気を絞って神様に祈り続けています。身を削るようにして彼は祈っています。神と向き合うということは、楽なことではありません。

 私たちは、祈るということについてよく知っています。そんなに楽ではない。つまり、それが誰かとおしゃべりするようなことであるならば、もっと簡単に私たちには祈ることができるでしょう。しかし、そうではない。ちょうど波が岩にぶつかるように、ぶつかって砕けるように、人は神に向き合いながら変えられていくのです。自分が打たれる経験をする。神に祈りながら自分が砕かれる経験をする。そうやって自分が変えられながら、神様の御心がわかってくるのです。アブラハムは祈りながら、神の御心がわかってきました。それは、この世の人々を惜しむ神様の御心です。この世の人々を愛おしむ神の御心、それが祈りの中で、祈りながら彼にはわかってきたのです。

 27節「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます」、とアブラハムは言います。彼は塵あくたに過ぎない自分だということを自覚しています。神の御前に立つとそのことはよくわかります。自分は神様に何かを頼む、祈る資格なんかはある人間だとは思わない。しかし彼は祈るのです。なぜならば、赦されていることを知っているからです。自分は赦されている人間だということを知っているから、祝福されている人間だということを知っているから、彼は敢えて祈るのです。つまらない人間が、受け入れられていることを知っているから、だから彼は祈るのです。この塵あくたに過ぎない者の祈りを聞くために、神は私たちを救い出してくださっているのです。この私たちの祈りを聞くことを神様は望んでいてくださる。そのために私たちは救い出されているのです。

 五十人いたら、という祈りから、もし十人しかいなかったらという祈りに変わります。それでもこの街全体を救っていただけますか。そして彼は十人のために滅ぼさないという神の答えを引き出します。そして、それ以上は聞きませんでした。一人ならどうですかということを聞くこともできたでしょう。しかしアブラハムは、それ以上は聞きませんでした。なぜなら彼は理解したのです。一人の正しい人がいたら、神はこの街を滅ぼされないのだということを。一人の正しい人のゆえに街全体は滅ぼされないのだ、ということを彼は理解しました。だから彼は、これ以上は祈らなかったのです。

 私たちは救い主イエス・キリストの十字架上の祈りを思い出します。ルカによる福音書23章34節の祈りです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。十字架の周りには、このキリストを十字架につけた人間たちが騒いでいます。罵っています。自分たちの傲慢と思い上がりによって、罪なきものを十字架に抹殺しようとしている人間たちが、十字架の周りにひしめいています。そしてもしこの群衆を滅ぼしてしまえば、この傲慢な思い上がった人間を滅ぼしてしまえば、それで問題は解決するのです。つまり、罪人は滅ぼしてしまえば、これで問題は解決するのです。

 しかし神は、そのように問題を解決しようとはなさいませんでした。ここにイエス・キリストの一つの祈りがあるのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか知らないのです」。人々の罪ゆえの呪いを神から一身に受けながら、イエス・キリストは十字架の上でそのように祈られました。

 この祈りによって私たちは救われています。この祈りによってこの世は守られています。私たちのうちの誰か、どこかに正しい人がいるのではないのです。義人はいない。一人もいない。誰もいません。しかしこの世界には正しい一人がいるのです。十字架のイエス・キリスト。だからこの世界は捨てられません。この世界は滅ぼされません。この世界は呪われません。だから私たちも呪われてはいない、呪われない、そのことを私たちは知っています。

 このキリストの祈りを知っている私たち、私たちもこの世の只中で祈るのです。この世のために私たちも祈る、自分の周りにいる人々のために私たちも執り成しの祈りをするのです。なぜならそれが神の国の業だからです。そうやって私たちは神の国の業に、この罪人が参与していくのです。

 多くの人々はこの世にあって、この世を嘆き、この世を恨み、この世の人々を批判する。しかし、私たちはこの世の只中にあって、あのイエス・キリストがしてくださったように、いや、今もこの世がイエス・キリストの祈りによって支えられていることを知っているから、私たちも遣わされた場所で祈る人間になるのです。執り成しの祈りをする人間になるのです。

 それが、神の民としてこの世に遣わされている私たちの存在の意味だということを忘れてはなりません。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。アブラハムの祈りを通して、私たちがひとりのお方イエス・キリストの祈りゆえに救われていることを知りました。どうか、主に倣って私たちも、世のために執り成しの祈りを捧げ続けていくことができるようにしてください。群れの中には、病気の兄弟姉妹、高齢のため困難を抱えている兄弟姉妹がおります。どうか、神さまが兄弟姉妹と共にあって、一人一人に励ましと平安を与えていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

試練に出会うときは

ヤコブの手紙1章1~8節(Ⅰ)2026年2月8日(日) 主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今日からヤコブの手紙をご一緒に読んでいきたいと思います。ヤコブの手紙は、ヤコブという個人が送った手紙と考えられています。このヤコブとはだれか、12弟子の一人であるゼベダイの子ヤコブなのか、ゼベダイの子とは違う方のヤコブではないか。また、主の兄弟である弟ヤコブではないかとも言われています。学者の間でも結論は出ていませんが、主の兄弟ヤコブを尊敬し、彼の名前を借りて書かれた手紙ということにしておきたいと思います。手紙の受取人はだれか、今日の1章1節は、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」と言っています。この手紙の書かれた紀元1世紀末に、旧約聖書のイスラエルの十二部族はもはや存在していません。しかし主イエスに呼び集められたキリスト教会が、新しいイスラエル、新しい12部族として立てられていました。ヤコブはおそらく当時地中海世界で誕生していた各地のキリスト教会に向けて、この手紙を書いたのでしょう。その意味では新しいイスラエルに属する現代の私たちにも、この手紙は向けられているのです。

 ヤコブの手紙は宗教改革者マルティン・ルターから「わらの書簡」と呼ばれました。主イエスの名が2回しか出てきませんし、主の十字架と復活のことがどこにも触れられていないからです。大切な教理を欠いている、内実が無いということで「わらの書簡」と呼ばれたのでしょう。しかし、多くの注解者が言うように、この手紙はそうした教理や信仰上の教えを前提とした上で、キリスト者の具体的な生活やその行いについて、鋭く教えを述べているのではないでしょうか。主イエスを信じる信仰によって救われたキリスト者が、その救いにふさわしくどのように聖化の生活を送ったらよいのか。そのことを旧約の箴言のように、格言風に説いているのがヤコブの手紙と言えるように思います。「箴言」は漢字文化の中で命名されたものですが、ツボを突く言葉という意味を持っています。新約の箴言であるヤコブの手紙も、私たち信仰者の日頃の生活や行いを、ツボを突くような鋭さで問い直してくれるのです。

 それでは本文を見ていきましょう。1章2節にはこう書かれています。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」この御言葉には驚かされます。試練とは、私たちの生活を一変させてしまうような困った出来事、つらい出来事、悲しい出来事です。私たちは試練に遭うと動揺し、立ちすくんでしまいます。それなのに、試練に遭ったらこの上ない喜びと思いなさいとは、どういうことでしょうか。これは一般社会の人たちが、受け入れられることではありません。神さまを信じ、救い主イエス・キリストを信じるキリスト者が、その信仰のゆえに受け入れるべきことだと思います。

 「試練」という言葉は、元の言葉で「ペイラスモス」と言います。これは「試練」と同時に「誘惑」という意味でもあります。ある人は「試練は神が信仰者を鍛錬し、成長させ、新しい命を約束された者にふさわしくしていく、神の創造的業である」と言います。他方「誘惑は、悪意を持った者(サタン)が信仰者を神から引き離そうとし、罪へと近づけ、滅びへと誘うものである」と言います。私たち人間は、生きている間に、困難な出来事、つらい出来事、悲しい出来事に遭遇します。それらを避けることはできません。しかし、それらの出来事を、悪意を持った他者の仕業と考えたり、運が悪かったとしか考えないならば、それは私たちを罪と滅びに近づけます。私たちを神さまから引き離してしまします。反対に、たとえ困難な出来事、つらい出来事、悲しい出来事に出会っても、そこに神さまの隠れた御心を尋ね求めていく時、それは試練として私たちを鍛え、成長させ、新しい命を約束された者にふさわしい者としてくださるのです。

 もちろんそれは、容易なことではありませんし、長い時間を必要とすることです。隠された御心は簡単には分かりません。私たちは、荒れ野で主イエスが40日間サタンの試みを受けた時、聖書の御言葉によってその試みを退けたことを思い起こします。また、ゲッセマネの園で十字架の死という苦い杯を前にした時、主イエスが血の滴るような汗を流して、祈られたことを思い起こします。神の子イエス・キリストでさえ、聖書の御言葉と切なる祈りによって、試練に耐えられたのですから、私たちの場合はなおさらです。御言葉に養われ、祈りによって力づけられることによって、初めて試練を受け留めていくことができるのです。

 さて、試練に出会うと、どうしてそれが喜びにつながるのでしょう。ヤコブの手紙はそれについてこう言うのです。3~4節です。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。ヤコブの手紙は、試練があなたがたの中に忍耐を生み出し、あなたがたを完全で申し分のない人にするというのです。使徒パウロはローマの信徒への手紙5章4節で、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と言っています。パウロが「練達」と言っていることを、ヤコブの手紙は「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になる」と、言い表しているのでしょう。ただここで言われているのは、神さまのような完全さを身に着けるということではありません。「完全な」という言葉は、「ある部分で充実し、完全である」という意味です。これは神に供えられる際にふさわしい犠牲の動物や、神に奉仕する上で適格な祭司に使われる言葉です。また「欠けたところのない」というのも、定められた目標や目的に向かって完全であるという意味です。学者が学問の入門段階を通過し、熟達した境地に達した状態や、ある人が肉体的に未成熟な年代を過ぎて、完全に成長している状態を、この言葉は表しています。つまりキリスト者が、神の前に信仰者として期待されている状態に達している、信仰者として成熟した段階に達していることが、この言葉によって表現されているのです。完全無欠の人になるということでは、決してないのです。いずれにしても、試練は忍耐を生み出し、その忍耐が私たち信仰者を成熟した状態へと至らせてくれる。だからこそ、「試練と出会うことは喜びである」と言われているのです。

 ある注解者は、キリスト者はスポーツマンのようなものだと言っています。コーチが練習量を多くすれば多くするほど、その課程は強化され、スポーツマンは喜びを覚える。というのも、勝利を得る厳しい道に、自分が次第にふさわしい者となっていくのが分かるから、と言うのです。自分の力の成長が、多くの練習を重ねることによって実感できる。それが自信になっていくということでしょう。

 それと同様のことが信仰者にも言えます。人生を見舞う色々な試練は、信仰者に忍耐を求めます。忍耐はスポーツマンに課せられた厳しい練習のように、決して楽なものではなく、つらく苦しいものです。しかし、その忍耐を、聖書の御言葉に養われ、祈りから得る力によって担い続けていくとき、私たちの忍耐力は、大きくなっていきます。忍耐する実力が着いてきます。それによって、この後どんな試練が襲ってきても、それを恐れないで、正面から受け留めることができる。信仰の実力ともいうべきものが備わっていくのです。船は嵐の時、襲い来る大波に船の舳先(へさき)を向けてまっすぐに進んで行く時、大波の中を突き進んで行くことができます。反対に大波を避けようとして舵を切ってしまうと、大波は船の脇腹に襲い掛かり、船を転覆させてしまいます。それと同様、人生の大波を前にしても、それから逃げない姿勢が、忍耐によって培われていくのです。

 また、この忍耐する信仰の実力は、他の信仰の兄弟姉妹の助けにもなります。成熟した大人は、社会の中で他者と関わりながら、他者と共に生きていきます。それと同様に、信仰に生きるということの中には、必ず他者が含まれるのです。自分のことだけでなくて、試練の中にある他者のために思いを寄せる。その人のために祈り、共に重荷を負い合う者とされていきます。他者を視野に入れることのできない信仰はあり得ません。私たちが経験する忍耐は、そういう信仰者を造り上げていくのです。

 避けることのできない試練を、臆することなく、人のせいにするのでもなく、自分に与えられたものとして、引き受けていく。同じ主を信じる兄弟姉妹が試練に見舞われた時、先に試練を受けた者として深く共感し、兄弟姉妹のために祈る、進んでその重荷の一端を担っていこうとする。そのような成熟した信仰者を、ヤコブの手紙は「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」と呼んでいるのです。

 書物からの受け売りですが、ある訪問者が、銀細工人がるつぼで銀を精錬するのを見ていたそうです。銀細工人はるつぼの下に火をつけ、火がだんだん強くなっていきます。その間ずっと、銀細工人はそのるつぼの中を入念にのぞき込んでいるのでした。不思議に思って訪問者は尋ねました。「なぜ、そんなにじっと見ているのですか。何を探しているのですか。」「私は私の顔を探しているのです。」これが答えでした。「銀の中に私自身の顔が映るようになると、私は仕事をやめます。それが完成のしるしだからです。」銀細工人は、不純な物を取り除いて銀を完全なものにするために、銀を火にかけました。そして、るつぼの中をのぞきこみ、自分の顔がはっきり映るようになった時、そこに完成のしるしを見たのです。試練というのは、私たちの上に神の怒りを下す、刑罰のようなものではありません。試練は私たちに、神さまの愛を注いでくれます。神さまは苦悩や試練や悲しみを通して、私たちの中に神さまの御姿を探し求めておられます。それは神の子のしるしであり、そこに神さまは完成のしるしをご覧になるのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」この聖句に込められた神さまの深い御心を、私たちは聞き逃さないようにしたいと思います。お祈りをいたします。 

【祈り】 主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。私たちは人生において、さまざまな出来事に見舞われます。その出来事に私たちはたじろぎ、動揺してしまいます。しかし、そうした出来事を、私たちに与えられた試練として受け留めさせてください。その試練の意味は、容易に知ることができません。しかし、主イエスがそうであったように、御言葉によって、あなたに祈ることによって、この試練を受け留めさせてください。

昨日からこの冬一番の寒さが続いています。教会につながる兄弟姉妹の心身の健康を支え、一人一人に平安を与えていてください。今日から始まります新しい一週間、それぞれの場であなたを見上げつつ過ごさせてください。今日はまた、国政選挙が行われています。どうか私たちの国を顧みてくださり、私たちの国があなたの御心に適った歩みをすることができるよう、導いていてください。この拙き感謝と願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アアメン。

悲しみの道

マルコによる福音書15章16~21節 2026年1月18日(日)主日礼拝説教

牧師 藤田浩喜

 主イエスは、ピラトによって十字架に架けられることとされ、鞭で打たれて兵士たちに引き渡されました。この鞭打ちは、それだけで息絶えてしまう者がいるほど激しいものでした。革の鞭に鉄や石の鋲(びょう)が付いているもので打たれるのです。背中からもお腹からも血が流れたことでしょう。主イエスは、もう立っていることができないほどに痛めつけられました。

 その弱り果てた主イエスを、さらにローマの兵士たちがなぶりものにしたのです。まず主イエスに紫の服を着せます。これは多分、ローマの兵士たちが着ていた赤紫の短いコートのようなものだったと思います。それを、王様や皇帝が着る紫のローブに見立てたのです。そして、王冠の代わりに茨の冠を編んでかぶらせました。茨には5cmほどの硬いトゲがあり、そのトゲが主イエスの頭や額に突き刺さり、血が流れたことでしょう。

 死刑になることが決まっているのだから、どんなに痛めつけても同じこと。兵士たちは、日頃の憂さ晴らしのつもりだったのでしょうか。人間の奥底には、日頃は表に出ることはあまりありませんが、人を痛めつけ苦しめることに喜びを覚えるという闇があるのでしょう。その人が一番嫌なこと、苦しいことを見つけて、そこを突いてくる。しかし、主イエスはこの時も黙っておられました。主イエスは嵐を静めることもできたし、病の人々を癒やすこともおできになりました。その力を、主イエスはこの時、御自分のためにお使いにはならなかったのです。

 兵士たちは、主イエスの前にひざまずき、主イエスを拝む仕草をして、「ユダヤ人の王、万歳」と言ってはやし立てたのです。鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、体中傷だらけになったその体に、安っぽい赤紫の服を着せられ、偽りの礼拝を受け、「ユダヤ人の王」と言ってはやし立てられる。主イエスはまた、王様の持つ笏(しゃく)を模した葦の棒を持たされました。そして、その棒で頭を叩かれ、唾を吐きかけられ、「ユダヤ人の王」とはやし立てられました。神様が最も嫌われる、偽りの礼拝。神様を侮る行為。「もう赦せない。勘弁できない。」そう言って立ち上がってもよさそうなものです。しかし、そこまでされても、主イエスは神の子としての力をお使いにならず、ただ兵士たちがするままにされました。

 こんな神様がいるでしょうか。鞭打たれ、足元もおぼつかないほどに弱り果て、兵士たちに侮辱され、それでも何もしない。ただただ痛めつけられている神です。主イエスは、十字架を背負わされ、ゴルゴタという所まで歩かされます。主イエスの周りには、主イエスをはやし立てる群衆がいたことでしょう。主イエスは黙って、十字架を背負って歩まれました。

 主イエスが歩まれた道は、「悲しみの道」と呼ばれます。これはラテン語で「ヴィア・ドロローサ」と言い、主イエスが裁かれたピラトの官邸から、十字架に架けられ、死んで葬られた墓までの道、エルサレムにある1kmほどの小道につけられた名前です。今も毎週金曜日には、カトリック教会のフランシスコ会の主催で、十字架を担いだ修道僧の後を付いて多くの人々がその道を歩みます。その道には14のステーション、とどまる所があって、主イエスがここで鞭打たれた、から始まり、ここで十字架の重さに膝を折られた、ここで十字架に架けられた、と続くわけです。その14のステーションで、主イエスの御姿を思い起こし、祈るのです。主イエスのこの十字架への歩みを思い起こして祈る。主イエスの十字架へと歩む姿を心に刻むようにして祈る。

 これは、エルサレムのヴィア・ドロローサにおいてだけ行われているものではないのです。これは「十字架の道行き」と言って、四旬節、レントの期間には必ず、金曜日にカトリック教会で行われるものなのです。そのために、カトリック教会の礼拝堂には必ず、壁に14のステーションを示す絵なり、レリーフなりが飾ってあるのです。広い敷地を持つ修道院では、山や庭にこの14のステーションが作られている所もあります。私たちには、「十字架の道行き」を行うという伝統はありません。しかし、イースターの前、受難節・レントの期間に、主イエスの苦しみを心に刻むということは同じです。やり方は違いますが、主イエスの苦しみを心に刻むということにおいては、変わることはありません。

 しかし、どうして代々のキリスト者たちは、この主イエスの苦しみ、御受難を心に刻んできたのでしょうか。理由は、二つあると思います。

 第一に、この主イエスの苦しみは私のためである、ということを心に刻むためです。主イエスは、これほどの苦しみを私のために、私に代わって受けてくださったということ。ここに、主イエスの私たちへの愛がはっきりと示されているからです。こんなにしてまで、私を救おうとしてくださった主イエス。その主イエスの苦しみの姿を心に刻み、主イエスの愛を思うのです。愛は、愛するその人のために苦しむことをも引き受けることです。主イエスの苦しみは、その私たちへの愛の極みなのです。主イエスはこの時、この苦しみから逃れようとすればできたのです。でも、そうはされなかった。自分を助ければ、私たちを救うことができないからです。私たちの身代わりにならないからです。

 第二に、私たちが主イエスの苦しみの姿を心に刻むのは、私の苦しみが主イエスの苦しみにつながっていることを心に刻むためです。私たちはいろいろな苦しみを経験します。人に馬鹿にされたり、軽んじられたりすれば、夜も眠れないほどに腹を立てます。愛する者との関係が破れて、生きる意欲を失ってしまいそうになることもある。生活の苦しみもある。そのすべての苦しみが、この主イエスの苦しみとつながっている。主イエスは、苦しみの中にある人と共にいてくださるのです。苦しむ私と共に苦しんでくださっている。インマヌエルの神、我らと共にいてくださる神は、苦しみのただ中で、私と共にいてくださるのです。主イエスは、苦しみの中にいる者を決して一人にはしないのです。ヴィア・ドロローサ、悲しみの道を歩まれた主イエスは、私たちの悲しみを知っておられる、その悲しみの中で私たちと共に歩んでくださるのです。

 私たちは苦しみの中で、ひとりぼっちのような気がするものです。誰も私の苦しみなんて分かってくれない。確かに、人は人の苦しみを分かることはできないでしょう。しかし、神様は違う、主イエスは違うのです。主イエスは知っている。知っているだけではなくて、私と共にいて、私と共に歩み、私を背負い、支えてくださる。私たちは苦しみ悲しみに出会いたくない。しかし、その苦しみ悲しみの中で、私たちは神と出会う、主イエスと出会うのです。

 主イエスは刑場であるゴルゴタという所に着くまでに、もう十字架を背負うことができないほどに弱られました。十字架といっても、主イエスがここで担がされたのは十字架の横木ではなかったかと考えられています。この時、キレネ人のシモンという人が、たまたま通りかかります。そして、ローマの兵士はこの人に主イエスの十字架を背負わせたのです。彼にしてみれば、何のことやら分からず、何と運が悪いのかと思ったことでしょう。しかし、このことがこの人の人生を変えてしまいました。

 21節に、この人は「アレキサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人」であったと記されています。どうして、この人の名が記されているのか。また、どうしてこの人の二人の息子の名前までもが記されているのか。このマルコによる福音書が記されたのは、主イエスが十字架にお架かりになってから30年ほど後のことです。ここで、名前が記されているということは、この福音書が記された時に、この二人の息子はキリストの教会ですでに名前を知られている人であったということを意味していると考えられます。つまり、主イエスの十字架を無理矢理担がされた人の息子はキリスト者になった。そして多分、シモンもキリスト者になったということなのだと思います。

 どうして、何があって、そういうことになったのかは分かりません。しかし、長い教会の歴史の中で、このキレネ人シモンという人の有り様が私と同じだと、受け止める多くの人を生んできたのも事実なのです。何も分からずに、主イエスの愛の業に用いられることになってしまう。そうして、その業に仕えている中で信仰を与えられる。そういうことがあるのでしょう。私もそういう人に何人も出会ってきました。例えば、何も知らずに教会の幼稚園で働くようになり、そこで主イエスに出会って信仰を与えられた人などは、その典型的な例でしょう。キリスト教音楽との出会いの中で与えられた人もいるでしょう。神様は信仰のある人だけをその愛の業に用いるのではありません。自由に選んで用いられる、その営みの中で信仰が与えられるということは、決して少なくないのです。

 そしてまた、このキレネ人シモンの姿は、キリスト教会の姿を指し示すものとして受け止められてきました。つまり、主イエスの十字架を背負って歩む教会ということです。主イエスの十字架を背負う。もちろん、罪の赦しを与える主イエスの十字架は、主イエスだけのものです。しかし、主イエスの救いを宣べ伝えるための労苦は、キリスト教会に与えられた務めです。それはこの主イエスの十字架を背負うということなのです。この主イエスの救いを宣べ伝える労苦というものは、主イエスの愛に仕えるということですから、具体的なあの人のために、この人のために喜んで労苦するということになるでしょう。私たちは、自分の労苦だけで精一杯と思っているかもしれません。しかし、私たちはそこから一歩踏み出していく者として召されているのです。

 そうは言われても、私はもう年をとりました、人のためにもう何もできそうもありません。そう思う方もおられるかもしれません。もちろん、若くて元気な人は、それに見合ったことをすればよいのですが、年老いた者は何もできない。そんなことはないのです。なぜなら、私たちは「祈れる」からです。どんなに年老いても、体が動かなくなっても、私たちはその人のために、その人に代わって祈ることができるのです。それは、紛れもなく主イエスの十字架を担う行為なのです。世の人は主イエスを知りません。ですから祈ることも知りません。そのような世の人々のために、その人に代わって祈るのです。

 今朝、柏市の中で主の日の礼拝に集っている人は、一体何人いるでしょうか。2000人はいないでしょう。50万近い人の中で、ほんのわずかな者だけが神様の御前に集って礼拝している。それは、この柏市に住むすべての人のために、その人たちに代わって私たちが礼拝しているということなのです。その意味では、このように主の日に礼拝をささげるということ自体が、実に主イエスの十字架を背負ってなされる営みなのです。しかしそれは、誰にも感謝されることはないでしょう。でも、それでよいのです。なぜなら、主イエスはお喜びになられるからです。そこに、私たちの喜びもあるからです。私たちはただ主イエスに喜ばれること、それを何よりも喜びとするものとされた者だからです。ただ主イエスに喜ばれる歩みを、神様の御前になしていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。神さま、御子イエス・キリストは、ヴィア・ドロローサ、悲しみの道を歩まれました。ローマの兵士たちによる辱めと侮辱を受けられた主イエスは、ひと言の反論も報復の行為もすることなく、ゴルゴタをめざして十字架を背負って歩かれました。それはただひとえに私たちの身代わりとなって、罪の裁きである十字架の死を受けられるためでした。私たちを愛するがゆえに、主イエスは苦難と十字架の道を歩まれたのです。どうか、私たち信じる者たちも愛するということの深い意味を知ることができるよう、導いていてください。そして私たちの身代わりとなって十字架を負ってくださった主イエスに、心からの感謝と讃美を捧げさせてください。今週の後半は冬の厳しい寒さがやって来るようです。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

唯一の真実の王

マルコによる福音書15章1~15節 2026年1月11日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今朝与えられている御言葉には、総督ピラトによって主イエスが十字架に架けられることが決められた場面が記されています。ここには、主イエスの周りを取り囲むように、四つのグループの人々が出てきます。第一は、総督ピラトです。彼は、ローマから遣わされているユダヤの総督でした。彼が主イエスを十字架につけることを決めたのです。第二は、祭司長・長老・律法学者といった、最高法院を構成していたユダヤの指導者たちです。彼らが主イエスを死刑にすべきだと決めて、総督ピラトの元に主イエスを連れて来たのです。第三に、群衆です。「十字架につけろ」と叫んで、ピラトに主イエスを十字架につける決断を迫ったのでした。第四に、バラバです。彼は暴動を起こして人殺しをし、投獄されていた人です。彼は主イエスが十字架に架けられることになって、本来自分が十字架に架けられることになっていたのに、釈放されることになりました。まことにラッキーな人でした。

 主イエスの十字架への歩みを読み進める中で思わされることは、主イエスの十字架は、誰か一人の責任、誰か一人の罪によってもたらされたものではないということです。今日の所で言うならば、祭司長・長老・律法学者たちの訴えがなければ、主イエスは十字架に架けられることはなかったでしょう。しかし、彼らだけで主イエスを十字架に架けることができたかというと、そうではない。だから総督ピラトの所に連れて来たのでしょう。当時のユダヤの指導者たちには、死刑を執行することはできなかったからです。だったら総督ピラトが悪いのか。確かに、使徒信条やニカイア信条には「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」とあります。彼ほど、世界中で自分の名前が唱えられている人はいないでしょう。しかも良い意味ではないのです。主イエスを十字架に架けた人として唱えられ、覚えられているのです。

 しかし、今日の所を読んでみますと、ピラトは主イエスを何とか十字架に架けないで済むように動いている。しかし、それを阻止したのは、群衆の「十字架につけろ」という叫びでした。もちろん、祭司長たちが主イエスを亡き者にしようとしなければ、主イエスを捕らえることがなければ、こうはならなかった。また、ピラトが「イエスを十字架には架けない」と宣言すれば、こうはならなかった。私はこの場面を思いながら、祭司長・長老・律法学者たちと総督ピラトそして群衆が、それぞれ役割を果たしながら、それぞれの人々の中に渦巻く罪が一つになって、牙をむいて主イエスに襲いかかっている、そんなイメージを持ちました。あの人がこう言ったから、この人がこうしたから、そんな個人の力や業によるのではなくて、人間の奥底にある罪が連動して一つになり、黒い怪物のようになって主イエスに襲いかかっている、そんなイメージです。その罪には、積極的なものもあれば、消極的なものもあります。

 ここで消極的なのはポンテオ・ピラトです。彼は、何とか主イエスを助けようとしたのです。しかし結局、彼はそうしなかった。彼は知っていたのです。主イエスが十字架に架けられねばならないような悪いことは何もしていないということを。主イエスが祭司長たちに連れて来られたのは、「ねたみ」のためであることも知っていたのです。しかし、彼は主イエスを無罪にしなかった。主イエスを無罪放免にすれば、群衆が騒ぎ出し、暴動になりかねない。そんなことになれば、総督としての自分の立場が悪くなる。総督としての能力をローマ皇帝から疑われかねない。ピラトはローマ帝国という巨大国家の権力を代表していました。しかし彼はその力を、自分を守るために用いたのです。そして、主イエスを十字架につけることにしたのです。

 まず、総督ピラトは主イエスにこう問いました。2節「お前がユダヤ人の王なのか。」多分祭司長たちが、そのような者として主イエスを訴えたからでしょう。

 この時の主イエスの答えは、少々分かりにくい、謎に満ちたものでした。「それは、あなたが言っていることです」と主イエスは答えました。原文を直訳すると、「あなたが言った」です。これでは、ピラトの問いに対して肯定しているのか否定しているのか、よく分かりません。口語訳では意訳して「その通りである。」と訳しておりました。そのように理解する仕方もあります。しかし、これは意訳し過ぎではないかと思います。ここで主イエスは、ピラトに対して肯定も否定もしていない。そもそも、ピラトの言う「ユダヤ人の王」とは政治的な王であって、それしか彼は知りませんし、関心がないのです。その政治的な意味では、主イエスはユダヤ人の王ではありません。しかし神の子という意味なら、まことに主イエスはユダヤ人の王なのです。ですから答えようがない。そういう意味で、ユダヤ人の王というのはあなたが言っていることだ、ということでもあったでしょう。

 さらに言えば、あなたはそう言っているが、わたしがユダヤ人の王であるかどうか、本当はどう思っているのだ。そのようにも読めるでしょう。しかし、ピラトにはそのような主イエスの思いは全く通じなかったでしょう。ですから、何も答えない主イエスを、ピラトはただ不思議に思うだけだったのです。

 次に、祭司長・長老・律法学者たちです。彼らは、十字架に架けるために、主イエスを総督ピラトの元に連れて来ました。ローマの支配の下にあった彼らには、主イエスを殺すことができなかったからです。そして、こうも考えられます。ユダヤ教における処刑の仕方は、石打ちです。これも残酷なものですが、申命記21章23節に「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」という言葉があります。彼らは、何としても主イエスを十字架に架け、主イエスを神に呪われた者として殺す、そういう意図があったのではないかと思うのです。そうすれば、もう誰も主イエスにはついて行かないだろう。そう願ったのでしょう。そして、そのためには罪状さえも変えて、ピラトの元に送ったのです。目的のためには手段を選ばない。彼らが大切にしていた十戒の第九戒に「偽証してはならない」とありますが、これを平気で破るのです。

 しかし、主イエスは反論もせず、何も答えず、黙ったままでした。主イエスはこの時、御自身がマタイによる福音書10章28節で言われた「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」との御言葉を思っておられたのではないかと思います。主イエスは何も恐れていないのです。

 そして、群衆です。彼らは数日前、主イエスがエルサレムに入られる時、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫んで、主イエスを迎えたのです。神殿において主イエスが話されるのも喜んで聞いていたのです。しかしこの時、彼らは祭司長たちに扇動されてしまいます。総督ピラトが、「釈放して欲しいのはイエスか、人殺しのバラバか」と問うた時、「バラバを釈放せよ」と叫び、「イエスをどうして欲しいのか」と問うた時、「十字架につけろ。」と叫んだのです。私はこの時の群衆の叫びは、声を揃えて何度も何度も叫んだのではないかと思います。12~14節「そこで、ピラトは改めて、『それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか』と言った。群衆はまた叫んだ。『十字架につけろ。』ピラトは言った。『いったいどんな悪事を働いたというのか。』群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び立てた。」それは、もう誰も止められないような熱に浮かされた叫びだったのでしょう。

 群衆は扇動されただけだ。そうかもしれません。一人一人はそれほど自覚のないままに、祭司長たちに扇動されて叫んでいただけなのかもしれません。しかし私には、人間の罪が一つに合わされ、強大な力となり、ローマの総督ピラトでさえも言うことを聞かねばならないほどのものとなった。私はこの時一人一人の罪が合体し、黒い怪物のようなものになって、主イエスに襲いかかっているように思えてならないのです。先の大戦へと突入していった際の日本国民の熱狂とも重なります。先の大戦が始まるとき、日本国民は熱狂し、提灯行列をして喜んだのです。やがて自分の夫や子どもたちが戦地に行くというのにです。この時「十字架につけろ」と叫んだ群衆は、皆で一つの言葉を叫び、高揚した一体感に満ちていたのではないでしょうか。彼らもまた、主イエスを十字架につけるために、決定的な役割を果たしたのです。

 今、総督ピラト、祭司長たち、群衆といった人たちが、それぞれ主イエスを十字架に架けるために役割を果たしていったことを見ました。どれが欠けても、主イエスは十字架に架けられることはなかったのです。そして、今朝私たちが確認したいことは、この人々は、今朝ここに集っている私たちが主イエスと出会う前の姿、私たちの心の奥底に今もうごめいている罪の姿だということなのです。誰も、私はピラトではない、祭司長たちではない、この時の群衆ではないとは言えないでしょう。自分を守るためならば、平気で嘘もつくし、誰かのせいにもする。無意識にそうしている。しかし、そのような一人一人の罪が一つに合わさって、巨大な罪の台風のようなものが渦を巻いてすべてを巻き込んでいくその中で、主イエスは誰も恐れず、何も恐れず、沈黙しておられた。それはこの一切の罪を担い、これに勝利するためだったのです。

 そして、最後にバラバ。彼は人殺しでした。彼こそ暴動を起こした人であり、十字架に架けられるはずの人でした。ところが、主イエスが十字架に架けられることになって、彼は助かってしまうのです。彼は、何もしていません。自分が裁かれ十字架に架けられることから救われるために、彼は何もしていない。ただ、主イエスが十字架に架けられることになっただけです。このバラバこそ、主イエスの十字架によって救われることになった私たちの姿なのです。私たちはバラバなのです。まことに不思議です。

 人間の罪は一つの塊(かたまり)となり、神様に敵対し、主イエスに敵対し、遂に主イエスを十字架に架けて殺すことになった。しかし、そのことによって、人殺しのバラバが救われるのです。これが神様の御業というものです。人間の最も罪深い業をも用いて、その救いの御業を貫徹されるのです。私たちは、このまことに不思議な神様の御業の中で選ばれ、主イエスと出会い、主イエスを信じて従う者とされました。こうして、主イエスの前にひざまずく者とされました。罪を赦され、神の子とされ、新しい命に生きる者とされました。まことに不思議なことであり、まことにありがたいことではないでしょうか。

 今、主イエスを「十字架につけろ」と叫ぶ罪から解き放たれ、主イエスを「我が主、わが神」と礼拝し、ほめたたえる者とされたことを、心から感謝したいと思います。そして、そのような御業をなさった神の御名を共々にほめたたえて、新しい一週間を歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を心から褒め称えます。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、感謝いたします。総督ピラトのもとでなされた裁判の場面を学びました。主イエスは無実であられましたが、ピラトによって死刑に判決を受けました。それはピラトだけがなしたものではなく、ユダヤの指導者たち、群衆たちの罪が一つの塊となって、主イエスに襲い襲いかかった結果でした。しかしあなたは、そのような人間の罪と悪が合わさり極まった主イエスの十字架によって、私たちの罪を贖い、赦してくださいました。私たちはあなたの御業に驚くことしかできません。どうぞ、十字架の死を免れたバラバの中に私たち自身の姿を見出し、あなたの御業を心から褒め称える者としてください。冬の寒さが厳しさを増しています。どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康を支えていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

心を新たに

ローマの信徒への手紙12章1~8節 2026年1月4日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 新年最初の主日を迎えました。この日、共に礼拝をお捧げできますことを嬉しく思います。教会の暦においては、一年はアドベントから始まります。ですから、私たちはすでに昨年の11月30日から新しい年のサイクルをスタートしているとも言えます。しかし、この国に住んでいますとやはり生活感覚としての年の初めは、どうしてもお正月になりますでしょう。

 アドベントにせよお正月にせよ、いずれにしても年の初めの区切りがあるということはありがたいことです。それは一年を振り返り、新しい生活へと歩み出す機会となるからです。そうでなければ何の反省も進歩もなく、旧態依然とした生活を漫然と続けてしまうかもしれませんから。

 今日の新約聖書の箇所として読まれましたのは、ローマの信徒への手紙12章でした。この手紙においてはここから新しい区分に入ります。この区分においてはキリスト者の生活について語られています。キリストによって与えられる「新しい生活」について語られていると言ってもよいでしょう。しかし、直接的に「新しい生活」という言葉は出てきません。書かれていたのは「心を新たにして」という言葉でした。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(2節)。

 「心を新たにして」。原文では「心の一新」という意味合いの言葉です。心を置き去りにして、生活だけを変えることはできません。まず必要なのは心の一新です。心を新たにすることなくして生活が新たになることはありません。

 しかし、「心の一新」と言いましても、いろいろな一新の仕方があるように思います。実際、新年には何らかの決心をし、心新たに何かに取り組もうとする人は少なくないのでしょう。では、聖書が語る「心の一新」とはどのような意味合いなのでしょうか。

 「心を新たにして」の前にパウロが言っていたのは、こういうことでした。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」。そのように語られているのは、一方において「この世に倣う」という生き方があるからです。また、それを生み出す心の方向性があるからです。そして、それは教会の中にも入ってきており、私たちが知らず知らずのうちに、そのような心をもって、そのような生活をしているということがあり得るからです。

 それは教会がこの世に存在し、信仰者の人生もまたこの世において営まれている限り、避け得ないことなのでしょう。だからこそ、「心の一新」が必要なのです。心の方向転換が必要なのです。そして、この世に倣わない生き方への転換が必要なのです。

 しかし、「この世に倣わない」とは何を意味するのでしょうか。これもまた人によって思い描くことは様々なのでしょう。

 あるキリスト者は「この世に倣わない」ということで真っ先に「禁酒禁煙」を考えるかもしれません。別な人は「この世に倣わない」ということで、弱い立場にある人に対する優しさや思いやりを持つということを考えるかもしれません。また他の人は「この世に倣わない」ということで、右傾化する社会の動きに対して抵抗することを考えるかもしれません。教会やキリスト者に対して二人の人が「これではこの世と同じではないか」と言ったとしても、その二人が必ずしも同じことを考えているとは限りません。

 では、パウロ自身はどのような意味において、「この世に倣ってはなりません」と言っているのでしょうか。「この世に倣ってはなりません」とは否定的・消極的な表現です。彼はすぐにこれを、肯定的・積極的な表現で言い換えます。《こうしてはならない》というだけでなく、むしろ積極的に《こうあって欲しい》という思いがあるのです。彼は言います。「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。この世に倣わないとは、こういうことです。

 そこには、「何が神の御心であるか」と書かれています。当然のことながら、この世は「何が神の御心であるか」ということで動いているわけではありません。この世を動かしているのは、「何がわたしの望んでいることか」「何が私たちの望んでいることか」という人間の欲求と願望です。同様に、この世は「何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」ということで、動いているわけではありません。この世を動かしているのは、「何がわたしたちにとって善いことで、わたしたちに喜びと満足を与えるのか」という人間の判断です。国家としてならば、「何が国益となるのか」という判断になるのでしょう。

 そのようなこの世の姿といつのまにか同じ姿になってしまっていることは、私たちにも確かにあります。この世と同じように、いつでも関心は「わたし」あるいは「わたしたち」のことでしかないことが起こります。そう、必ずしも「わたし」ではない。「わたしたち」を強調すれば、エゴイスティックに見えないこともあります。しかし、関心はあくまでも人間の側のことなのでしょう。自分たちの望みが実現し、自分たちが喜び、自分たちが満足を得ることであり、望みが実現しなければ失望し、満足を得られなければ不平を言い、互いに相争うことにもなるのです。

 そのように、知らず知らずのうちにこの世に倣い、この世と同じ姿になっていることが、私たちにも確かにあるのです。だからこそ、「心の一新」について語られているのです。それが必要なのです。「わたし」「わたしたち」と、こちら側のことにばかり向いているこの心が、ぐいっと方向転換をして、神に向けられることが必要なのです。「何が神の御心であるのか」「何が善いことで、神に喜ばれることなのか」に、心が向けられることが必要なのです。それこそが、「心を新たにする」ことなのです。

 心を新たにするところから、新しい祈りが生まれてきます。ただ自分たちの望みの実現を求める祈りではなく、自分たちの満足を求める祈りでもなく、「御心を教えてください」という祈りが生まれてくるのです。「何が善いことで、何があなたに喜ばれることなのかを教えてください」という祈りが、私たちの内に生まれてくるのです。

 そして、御心に従って生きようと思うなら、自分が変えられなくてはならないこともまた分かるのです。だからパウロは、「自分を変えていただきなさい」と言うのです。これは「変えられ続けなさい」という表現です。「むしろ、心を新たにして、自分を変えていただき、変えられ続けていきなさい!」。そこにこそ、本当の意味での新しい生活があるのです。

 しかし、今日は与えられた聖書箇所から、なお一つのことを心に留めたいと思います。パウロは続けてこう言っています。「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません」(3節)。

 このあと、信仰生活に関する具体的な勧めが15章まで続くことになるのですが、その最初に語られていることがこれです。心を新たにして自分を変えていただき、神の御心をわきまえて生きようとする人が、最初に聞かなくてはならない言葉がこれなのです。「自分を過大に評価してはなりません」。むしろ「慎み深く評価すべきです」と言うのです。

 この言葉で何を言わんとしているのか。続く4節以下から明らかです。要するに、自分が体の一部に過ぎないことをわきまえなさい、ということです。5節に「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と書かれているとおりです。私たちは神の御心を行う大きな体の一部なのです。部分ならば部分としての働きで十分なのです。全てをなし得なくてもよいのです。自分を体の全てであるかのように、評価してはならないのです。

 そうであるなら、他の人ができることを自分ができないとしても、それでよいのです。部分なのですから。他の人を羨む必要も、自らを卑下する必要もないのです。自分になし得ることを他の人が同じようにできないとしても、批判する必要はないのです。自分は自分の与えられた務めに専念し、他の人は他の人のなし得るところを行ったらよいのです。

 6節で聖書は、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから…」と言います。この世に倣って生きようとするならば、自分の願望の実現のために自分を用いて生きようとするならば、この能力が足りない、あのこともできない、とつぶやきながら、他人を羨み、自分を卑下して生きることにもなるのでしょう。しかし、心を一新して神の御心のために生きようとするならば、そのために必要な全てはすでに賜物として与えられているのです。神の御心を求め、自分を献げて生きるならば、与えられている賜物が何であるかも見えてくる。また、自分が体のどの部分なのか、専念すべきことは何であるのかも見えてくるのです。

 新しい年を迎えました。このような区切りが与えられていることは幸いなことです。これまでこの世に倣い、この世と同じものを追い求め、この世によってこの世と同じ姿にされていたならば、この年の区切りは私たちの信仰生活を振り返り、心を一新する機会です。心を置き去りにして、生活だけを変えることはできません。心を新たにして自分を変えていただきましょう。変えられ続けることを求めましょう。そして、キリストによって一つの体とされている私たちとして、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかに思いを向けて、共に仕えてまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。2026年の最初の礼拝を敬愛する兄弟姉妹と共に守ることができましたことを、感謝いたします。パウロの手紙を通して、心を新たにすることを教えられました。私たちの歩みはともするとこの世に倣い、私たちの願いや私たちの目的を追い求めてしまいます。あなたは心を新たにし、あなたが願っておられること、あなたが喜ばれることを求めるよう、私たちを促しておられます。どうか、この世に倣うのではなく、あなたに心を向けて、あなたの御心を尋ね求めることができますよう、私たちを励ましてください。日々冬の寒さが厳しくなっています。どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。

このひと言の切なるお祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

神の確かな御手に守られて

マタイによる福音書2章13~23節 2025年12月28日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 占星術の学者たちが、星に導かれて、ベツレヘムに生まれた幼子イエスにお会いした御言葉を、先週聞きました。ところが、学者たちはその夜、夢で「ヘロデのところに帰るな」というお告げを聞きました。それで、彼らはヘロデのところに寄らないで、別の道を通って帰って行ったのです。

夢によるお告げは、ヨセフにも与えられました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」(13節)。

 ヨセフは飛び起きました。そして、傍らで寝ているマリアを揺り起こし、急いで出発の用意をさせます。こうして、ヨセフとマリアは幼子イエスを抱き、夜明けを待たずして、エジプトへと旅立っていったのです。

 一方、ヘロデは、今か今かと学者たちの帰ってくるのを待っていたに違いありません。ところが、学者たちが帰ってこないということを知ると、彼は怒りに狂い、ベツレヘムとその周辺に住む二歳以下の男の子を皆殺しにするという、大変恐ろしい事件を引き起こしたのでした。この時、ベツレヘムという町の規模から推測して20~30人の子どもたちが犠牲になったのではないかと言われています。

 まったく惨(むご)い話です。しかし、これはヘロデの犯した残虐行為ですけれども、幼子イエスの身代わりとしてこれらの子どもたちが犠牲となったのです。そのことを考えますと、神様はどうしてこのようなことをお許しになっておられるのかと思わざるをえないのです。

 さらにまた、幼子イエスが逃げたということについても、釈然としないものがあるのではないでしょうか。もし、これがヘロデの悪魔的な仕業であるとするならば、救い主としてお生まれになった主イエスは、これに勝利をなさらなければならないはずです。もっとも主イエスはまだ小さな幼子でありましたから、ご自身で何かをなさることはできなかったでしょう。しかし、神様は主イエスを逃がすというだけではなく、ヘロデがもっと神を恐れるような仕方で、主イエスに栄光を与えつつ、ヘロデの手から救うことができなかったのでしょうか。ただエジプトに逃げるというだけでは、救い主の名が廃(すた)ると申しますか、あまりにも安易すぎるように思えるのです。 

 今日はこの二つのことについて、神様の御旨を尋ねたいと思うのです。最初は、主イエスの身代わりになって犠牲になってしまった子どもたちのことです。罪のない子どもたちでありました。なぜ神様は幼子イエスだけではなく、彼らを救われなかったのでしょうか。なぜ、ヘロデの手に渡されたのでしょうか。

 この問題は、今を生きる私たちにも起こりうる問題です。真面目に生きていても、信仰をもって生きていても、災いに遭うことがあります。災いというのは、良い人と悪い人を区別しないのです。

 三浦綾子さんの『泥流地帯』という小説があります。大正15年の北海道十勝岳の大噴火で、泥流が小さな部落を襲い、一切のものを流してしまうのです。主人公の耕作は命からがら泥流から救われましたが、家族や大切な人たちを失ってしまいます。茫然自失としている耕作は、やはり泥流から逃れた人たちが「心がけがよかったから助かった」と喜び合っているのを聞いて、激しい憤りを覚えるのです。「お姉ちゃんは心がけが悪かったというのか!」そして、助かった深城というあくどい男の顔を思い出して、「深城の奴は心がけが良かったというのか!」と非常な理不尽を感じるのです。

 過去の衝撃的な事件としては、アメリカの貿易センタービルにハイジャックされた旅客機が突っ込んだというテロ事件がありました。この事件で一般市民3, 000人が犠牲になりました。その内、身許が確認されたのは1,000人程度だそうです。本当に悲惨な事件でした。こういうことを経験した人が「神はどこにおられるのか!」と嘆き、また人生を呪っていたとして、私たちはそれでも「神様はおられる。ここにおられる」と胸を張って言えるでしょうか。

 私は、マタイという福音記者は、そのことについてここで明確に語っているのだと思います。ちょっと細かい話になって恐縮なのですが、ぜひ気をつけて聖書を読んでいただきたい部分があるのです。それは、マタイ福音書が1~2章の中で、よく旧約聖書の預言を引用して、「それは主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と書いているところです。

 今日、お読みしたところにも、15節に、「『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と書かれています。23節にも、やはり「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」と書かれています。このような書き方をすることによって、神様が約束の御言葉を実現してくださったということが強調されているのです。

 では、ヘロデの幼児虐殺についてはどうでしょうか。17節、「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とあります。ここだけは、他のところにように「預言が実現するためだった」とは書いてありません。「預言が実現した」と書いているのです。神様が約束を実現されたというよりも、神様が仰っておられた通りになってしまったという書き方です。要するにマタイは、これは神様がなさったというよりも、人間の罪深さを知る神様が警告されていたことが、罪深いに人間の手によってその通りに行われてしまったということなのです。神様の御心ではなく、人間の罪が生み出したものなのです。

 私たちは災いに遭うと、「どうして神様は・・・」と神様を責めようとします。しかし、それは間違いではないでしょうか。神の国を求めないこの世が、そのように神なき、望みなき世界を造り出してしまっているのだと思うのです。その世界に生きている限り、私たちは神なき望みなき体験を避けることができないのです。しかし、聖書はそのような神なき望みなき世界に、一人のみどり子が与えられたということを語っています。そしてその御子を愛する者は、たとえ神なき望みなき世界にあっても、神を信じ、望みをもって生きることができるのだということを語っているのです。

 マタイは預言者エレミヤの預言を引用しています。しかし、実はその後半部分をここに書いていません。エレミヤの預言は次のように書かれているのです。エレミヤ書31章15~17節はこうでした。旧約1235頁です。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。」

 ここまでが、マタイが引用をしているところです。しかし、その後にはこう書いてあります。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。 あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」このように、慰めと救いが約束されているのです。この時殺された子供らは、間違いなく天国に入るのです。

 では、マタイはなぜそれを書かなかったのでしょうか。マタイは敢えて書かなかったのだと思います。それは、この慰めと救いを信じなかったからではありません。そうではなく、神なき望みなき世界に与えられる神の慰めと救いこそ、マタイが書こうとした主イエスの生涯そのものだったからなのです。

 ヘロデの幼児虐殺の事件は、まさにこの世の暗闇を表す事件でしょう。しかし、この暗闇に決して呑み込まれなかった一人の幼子がいたのです。その幼子が、やがてこの世の暗闇に大きな光を放つお方になられます。「だから、そのような暗闇の中に生きている人よ、泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる」。そう告げられています。このエレミヤの後半部分の預言の実現こそ、主イエスの御生涯なのだと確信して、マタイはこの福音書を書いているのです。 

 さて、もう一つ考えたいのは、なぜ幼子イエスは逃げるだけであったのかということです。主イエスが世の光であるならば、神の光でヘロデのもたらす暗闇をうち破ってもよかったのではないか。これは多くの人が思うことでしょう。

 しかし、聖書には「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」という御言葉があります。人間から見ると、神様は愚かで弱々しく見えるときがあるというのです。しかし、そのような時であっても、神様は人間の知恵や力をはるかに上回る知恵と力をもって、御業をなさっているのだということです。

 主イエスは、神様に等しいお方でありますが、それと同時に私たちと同じ者になってくださいました。それは、主イエスが私たちと同じように弱さや、貧しさを持たれたということです。実はそのことの中にも、主イエスの大きな救いがあるのです。

 たとえば、この福音書を書いたマタイ自身の救いについて考えてみるとよく分かります。マタイは、主イエスの奇跡を見て信じたのではありません。病を癒していただいたから信じたのでもありません。マタイは人々からローマ帝国への税金を集める徴税人でした。マタイは、ローマの手先、売国奴とみなされ、売春婦などの罪人と同じように軽蔑されている人々の一人だったのです。売春婦もそうですが、誰も好きこのんでそういう仕事につくわけではなく、そこに至る背景には幸せの薄い人生があったのだろうと思います。ところが主イエスは、そのようなマタイが仲間を集めて用意した宴会に、弟子たちと一緒に喜んで出席し、一緒に飲み食いしてくれたのです。ファリサイ派の人たちは、そういう主イエスを見て非難しました。しかし、主イエスはお構いなしに、マタイや他の罪人、徴税人たちと同じ者になられたのでした。こうして、マタイは主イエスの弟子となり、この福音書の書き残すという神様の仕事をする者になったのでした。

 そういうことを考えますと、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」という聖書の御言葉は、決して私たちが忘れてはいけないことだと思うのです。主イエスが力弱く思えるとき、主イエスが愚かに思えるとき、そういう時にも、私たちに対する主イエスの深い御心があって、私たちが考える以上の知恵と力が隠されているのです。

 主イエスが父母に抱かれてエジプトに逃げたということも、そう考える必要があります。私なりの解釈ですが、神様は主イエスに愛される喜びだけではなく、主イエスを愛し、主イエスに仕える喜びを人間に与えてくださったということを、ここで感じるのです。幼子イエスがそうであったように、ご自身を力ない人間の手にゆだねることによって、主イエスを愛する機会を与えてくださったのです。

 私などは、なぜ神様は自分のように罪深く、貧しく力のない人間を牧師にされたのだろうかと、不思議に思うことがあります。しかし、このような者でも用いられて、思いも寄らないような神様のご用をさせていただくことがあるのです。そのような時、私は少しも自分の力でしたという気がしません。ただただ神様が憐れんで助けてくださったと感謝するばかりなのです。しかしそれと同時に、このような自分でも主イエスにお仕えできたという大きな喜びを感じます。そのような喜びを与えてくださるのも、主イエスの深い愛なのではないでしょうか。私たちそれぞれに示された、主イエスの様々な愛をかみしめつつ、新しい年へと向かっていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を心から讃美いたします。今日一年の最後の主日礼拝を、愛する兄弟姉妹と共に守ることができ、感謝いたします。神様、あなたは救い主イエス・キリストを与えてくださいました。そして主イエスを通して、一人一人に様々な愛を示してくださいます。主に愛される喜びはもちろんですが、小さな私たちを用いて主を愛する喜びをも与えてくださいます。どうぞ、そのような喜びをかみしめつつ、新しい一年への歩みを進めさせてください。冬の寒さが本格的になってきました。どうか、教会に連なる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

クリスマスの星に導かれて

マタイによる福音書2章1~12節 2025年12月21日(日)クリスマス礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 春夏秋冬、四季折々にはそれにふさわしい色彩というものがあります。春であれば若草色、夏であれば海や空の青、秋であれば紅葉の彩り、そして冬は鉛色の雲の色といったところでしょうか。

 それと同じようにクリスマスにも、色があります。クリスマスの色って、どんな色でしょうか。緑と赤ではないだろうかと思う人があると思います。たしかに、クリスマスには、柊(ひいらぎ)でクランツを作ったり、赤い蠟燭を灯したりします。クリスマスーツリーは樅(もみ)の樹のような常緑樹に、赤い飾りものを吊るして作るのです。ですから、クリスマスには緑と赤が溢れるのです。

 なぜ、緑と赤を用いるのでしょうか。緑色はとこしえの命を象徴し、赤はキリストの十字架の血や光を象徴すると見られるからです。クリスマスに緑を見たら、永遠の命を、赤を見たら、キリストの血やそれを通して与えられる光を想いおこすとよいでしょう。

 しかし、教会の暦に定められているクリスマスの色は、実は緑でも赤でもなく、白なのです。ですからカトリック教会などではクリスマスになりますと、司祭の方は白のガウンを着て、礼拝の司式をされるのです。白は純真な喜びを表すと考えられてきたからです。それだから「ホワイト・クリスマス」なのですね。

 クリスマスには、プレゼントがつきものです。クリスマス・イブの夜が明けて、朝、枕元においてあるプレゼントに歓声をあげた思い出をもっている人があるでしょう。私も、子どもたちが小さいときに、クリスマスが来るよほど前から、妻と何を子どもたちに贈ろうかと相談し、それらを密かに買い揃えては、クリスマス・イブの夜、子どもたちの枕元に置いておいたものでした。朝になって、それらを見つけた子どもたちが歓声をあげて喜んだことを、昨日のことのように思い起こします。みなさんの中にも、クリスマスが来るというので、自分の親しい人に何をプレゼントしようかと、あれこれ考えている人も大勢いると思います。

 しかし、クリスマスの日に起こったことを考えてみますときに、一番大事な点は、人にプレゼントをあげたり、人からプレゼントを貰うというところにあるのではないということに、思い至らないわけにはいきません。どうしてかというと、クリスマスは何よりも、神様が掛け替えのないプレゼントを私たちにくださる日に他ならないからです。ですから一番大事なことは、神様が私たちにくださったプレゼントを、しっかりといただくというところにある、と言わなければならないのです。

 先ほどクリスマスの色のことをお話ししましたが、クリスマスにはそれを彩る素敵な音楽や心をうつ美しい絵や見事な飾り付けがあります。音楽であればヨハン・セバティアン・バッハの「クリスマス・オラトリオ」やヘンデルの「メサイア」、絵画であればフラ・アンジェリコの「受胎告知」やジョルジュ・ド・ラ・トウールの「羊飼いの礼拝」など、あまたの美しい音楽や絵画・彫刻をあげることができます。ドイツのローテンベルクで売られているケーテ・ヴォルハルトのクリスマスのオーナメントなど、思わず声をあげたくなるほどに良くできています。それはもう途轍もなく素晴らしいものがたくさんあるのです。それは人間の文化の中でも、最良のものと言って良いものばかりです。ですが、それがどんなに素晴らしいものであれ、それらはみな、神様がくださる贈り物を包む包装紙にすぎないのです。と言いますのは、それらは結局、私たちに起こったクリスマスの出来事そのものを指し示すものでしかないからです。

 それでは、その神様のプレゼントとは何でしょうか。皆さんが心に思っている、それです。イエス・キリストです。飼い葉桶の中に横たわっている幼子です。

 でも、イエス・キリストって、私たちにとってどういう意味をもつ存在なのでしょうか。先ほど読んだマタイによる福音書の2章11節に東から来た博士たちが幼子イエスの前に膝まずいてこれを拝み、黄金、乳香、没薬の贈り物を捧げたと書いてありました。イギリスにウイリアム・バークレーという著名な聖書学者がいますが、この人の書いた『マタイ福音書』という本に、博士たちの献げた献げものは、その一つ一つが、主イエスの人柄とその働きにふさわしい、ということが書いてあります。実際、その通りで、この献げものの中に、主イエスという方が、私たちにとってどのような方なのかということが、みごとに表現されているように私にも思えます。ちょうど、水面に映る月を見て、月の輝きを知るということがあるのと同じで、博士たちの献げものは神さまが私たちにくださる贈り物がどのようなものであるかを映し出すものと、私には思えるのです。

  博士たちの献げものは何だったでしょうか。

 第一に、黄金です。黄金によって映し出されているものは何でしょうか。それは主イエスという方が、真の王さまだということです。なぜなら、イエス・キリストの時代、王さまに最もふさわしいものは黄金であると、考えられていたからです。聖書では、王さまとは、自分の利益や自分の力のことを最優先に考えて、国民から取り上げることをする人であってはなりませんでした。王さまとは、神さまが与えてくださる幸いが人々のものになるように人々を導き、治める人にほかなりませんでした。博士たちは、主イエスの中に、自分たちを導いてくださり、神さまが与えてくださるほんとうの幸いに至らせてくださる方、蠅の王でも、人間の王でもなく、真の王を見たのです。

 人は、いつも自分を幸いなところに至らせてくれる人を求めます。この人のもとにいればと思い、あの人ならきっとと思って、右往左往するものです。でもどれほど、そのような想いは裏切られてきたことでしょうか。しかし、この飼い葉桶の中に横たわる方は、その方に心を寄せ、信頼する人を、神さまが与える幸いへと導かれる王なのです。

 博士たちは、次に乳香を捧げました。乳香というのは、樹液からとるクリーム状の香ばしい油のことです。これが映し出すものはなんでしょうか。それはイエス・キリストこそ、私たちを取りなしてくださる方だということです。乳香は、祭司が人の罪の許しを求めて、取りなしをするときに用いたものだからです。

 人にはしばしば誤りを犯すことがあります。しょっちゅう愚かなことをしでかします。大抵は、ごめんなさいといって済むこと、「ばかだな、私は」といって頭をコツンとたたいて済むことです。しかし、どう悔やんでも取り返しがつかないことを言ったりしてしまうこともあります。そればかりか、自分の存在そのものがもつ、どうしようもない罪性(罪の性質)に打ちのめされるということも、あります。よかれと思ってしたことが、一つ一つマイナスにしかならなかったことに気づかされるとき、茫然自失するばかりです。

 しかし、その私の過ちや愚かさや罪を完全に背負い、取りなしてくださる方がある。主イエスよ、あなたこそその方であると、博士たちは乳香を捧げることで表現しているのです。

 博士たちの第三の献げものは没薬です。没薬とは、死んだ人の葬りのために使ったものです。その没薬を博士たちは幼子イエスに捧げた。そうだとするとこれは、赤ちゃんのお誕生のお祝いに、お線香をもっていくようなものです。あまりに場違いな贈り物です。しかし、博士たちが最後に捧げたものは、まぎれもなくこの没薬でした。それが意味しているのは、主イエスは死んでくださるためにおいでになった方だということです。

 私たちの本当の王でいてくださるために、この方は私に代わって死んでくださる。私の本当の取りなし手でいてくださるために、この方は私たちの罪を背負って十字架の上で死んでくださる。博士たちは主イエスの中にそれを見たのです。 博士たちの献げものは、私たちに与えられる神様の贈り物が何であるかを映し出しています。私たちの真実な王さま、私たちを本当に取りなし、罪から解き放って、本当の命にいたらせてくださる方、そのためには死をさえ惜しまれない方だということです。

 神さまがくださるこの値高いプレゼントをしっかりこの身にいただくなら、その人は自分が最善の導きの前にあり、生きることに対する赦しと大いなる肯定の中にあることを、心に深く噛みしめて生きることができるでしょう。自分とこの世界とを神の深い愛が包んでいることを知って、歩むことができるでしょう。

 私はこの神さまの価高い贈り物を、心からいただきたいと思っています。そしてできることなら、神さまがこれほどのプレゼントをくださったのですから、私自身もまた、自分自身を人々に対する贈り物と考えて、人々に最善をなしていきたいと願っているのです。

 今日、私たちはクリスマスをお祝いしています。神様が与えてくださるプレゼントが、私たちに一人一人に差し出されています。その大きな恵みを、ご一緒に喜びたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心より讃美いたします。今日のクリスマス主日礼拝を愛する兄弟姉妹と共に守ることができますことを感謝いたします。クリスマスは御子イエス・キリストの誕生を感謝し、喜びの礼拝を捧げる日です。神様は私たちに神の独り子という至高のプレゼントを与えてくださいました。御子イエス・キリストは、私たちを真の幸いに至らせるために、また私たちの罪を贖いあなたとの和解を実現くださるために、ご自身の命を捧げられました。馬屋の飼い葉桶には、その誕生の時から十字架の影が射していたと言われる通りです。どうか、そのような貴いプレゼントを私たちがしっかり受け取ることができるようにしてください。この礼拝において、一組のご夫婦の入会式と聖餐式を行います。また、礼拝後にはクリスマス祝会も行われます。どうか、その一つ一つの上に、あなたの豊かな祝福を注いでいてください。思いを持ちながらも色んな事情のためにこの礼拝に集うことのできなかった兄弟姉妹の上にも、私たちと同じ祝福を与えていてください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

神は我々と共におられる

マタイによる福音書1章18~23節 2025年12月14日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 本当のクリスマスを祝おうと思うなら、二つのことを退けなくてはならない。エミール・ブルンナーという神学者がそのように言いました。その二つとは何でしょうか。第一は現代社会の不安によってクリスマスの喜びを失ってしまうことだと彼は言います。確かに、不安に満ちた社会に私たちは生きています。不安要素を数えれば切りがない。個人的にも、お互い多かれ少なかれ問題を積み残しにしたまま年を越していくのでしょう。しかし、それでもなお私たちはクリスマスの喜びを奪われてはならないのです。「それは悪魔の望むところである」と彼は言います。すべての悪は喜びの喪失から生まれる、と。私たちは喜びを失うことによって、悪魔を喜ばせてはならないのです。

 しかし、退けなくてはならない第二のことがあります。それは、人為的なクリスマスの喜びに溺れないことだと彼は言うのです。人為的なクリスマスの喜びとは、現実逃避の喜びです。「今がどんな悪い時代であるか、そんなことなど忘れてしまおう。少なくとも今日はクリスマスなのだから」。――そのような喜びのことです。そのような麻薬中毒のような喜びを、悪魔は奪おうとはしません。悪魔には都合のよいものだからです。

 私たちはここに、ただクリスマス気分に一時(いっとき)酔いしれるために集まっているのではありません。そのようなものは、この場所を出て寒い風に当たれば吹き飛んでしまいます。私たちは、どんな寒い風が吹こうが、嵐の中に置かれようが、絶対に奪われない喜び、悪魔に奪われることのない本当の喜びに生き、また生き続けるためにここにいるのです。

 そのような今日私たちに与えられているのは、マタイによる福音書の御言葉です。こう書かれていました。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。聖霊による懐胎。いわゆる「処女降誕」の話です。しかし、強調されているのは、その受胎の不思議さではありません。この物語の中で、アンバランスとも言えるほど強調されているのは、名前とその意味です。「イエス」という名。そして、「インマヌエル」という呼び名とその意味。マタイは名前の意味にかなりこだわっているようです。

 そこでまず、私たちはその名前に注目することにしましょう。21節以下を御覧ください。「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(21~23節)。

 「イエス」という名前。それはユダヤ社会においてはごくありふれた名前でした。その名は旧約聖書に現れる「ヨシュア」という名前に相当します。「ヨシュア」とは、「主は救い」という意味です。その名の通り、こうして生まれた方は救い主なのです。何から救ってくださるのでしょう。聖書は言います。「この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)と。

 「罪から救う」。――当たり前のように書かれていますが、私たちの日常において、「罪から救う」という表現はほとんど耳にすることはありません。「貧困から救う」とか「病気から救う」なら分かります。しかし、「罪から救う」という表現は一般的に用いられている表現ではないので、ある程度の説明を要します。

 例えば、こんなことを考えてみてください。皆さんが教会の帰りに南柏駅東口近くで小さな男の子が泣いているのを見かけたとします。迷子のようです。お母さんが買い物をしている間に、ちょろちょろと歩き回ってはぐれてしまったようです。さて、皆さんはその男の子を助けたいと思います。お昼時です。随分お腹も減っているようです。そこで南柏教会のAさんは、その男の子をマクドナルドまで連れていってハンバーガーを買ってあげました。そして、そのハンバーガーを渡すと、東口まで連れていって「バイバイ」と言って、駅の中に入っていきました。

 次にBさんが通りかかりました。男の子はハンバーガーを持ったまま泣いています。優しいBさんは思いました。「ひとりでずっとここにいたんだな。寂しかったに違いない。」そこでBさんは、その子と遊んであげました。確かにその子は泣きやみました。もう泣いてはいません。そこでBさんは少し遊んであげると「ああ、泣きやんだね。じゃあね」と言って、駅に入って行ってしまいました。

 そこに、Cさんが通りかかりました。Cさんはすでに泣きやんでいたその子と一緒に、お母さんを捜して歩きました。そして、ついにお母さんのもとにその子を連れていくことができました。男の子はお母さんに抱っこされて、本当の笑顔が戻りました。

 さて、その男の子を本当に助けることができたのは誰でしょうか。――最後のCさんでしょう。迷子は親に抱かれて初めて救われます。人間も同じです。必要を満たされることも大事です。寂しさを癒されることも大事です。しかし、人は神のふところに抱かれてこそ、本当の意味で救われるのです。それを聖書は「罪から救う」と表現しているのです。

 「罪」とは、神に背いて、自分勝手に歩んで、神から離れてしまった状態です。羊飼いの声に聞き従わずに、群れから離れて迷子になった小羊のような状態です。迷子のような状態なのですから、不安で寂しくて苦しいのも無理はありません。そのように、神から離れたこの世界が不安に満ちているのも無理ないことなのです。

 しかし、そんな迷子のような私たちを神様は憐れんでくださいました。そんな私たちを本当の親である神のもとに立ち帰らせるために、主イエスを救い主として送ってくださったのです。主イエスは神を示してくださっただけではありません。神を離れ、神に背いて自分勝手に生きてきた私たちが赦されるために、そして、神に赦された者として、神との交わりに生き、神の子どもとして生きることができるように、主イエスは十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったのです。主イエスは罪から救うために来られたのです。

 ですから、その幼子はまた「インマヌエルと呼ばれる」と語られているのです。その名は「神は我々と共におられる」という意味です。主イエスが来られたのは、まさに私たちが「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と、腹の底から喜んで言えるようになるためなのです。

 どんなことがあろうと、辛い現実があろうと、涙にくれるようなことがあろうとも、神に愛されている子どもとして「神が共におられる」と言うことができるなら、すでにその人は救われているのです。ちょうどさっきの迷子の男の子が母親に抱きかかえられたように。その救いの喜びこそ、神が与えてくださったクリスマスの喜びなのです。何によっても奪われないクリスマスの喜びなのです。

 しかし、私たちはここでもう一つの事実に目を向けなくてはなりません。そのような罪からの救い主、「インマヌエル」と呼ばれる御方が誕生するためには、そのために苦しみを引き受けた人々がいたのだ、ということです。そして、神の御計画を信じて、身を献げた人がいたということです。ご存じ、母マリアと父ヨセフです。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。これは何よりもまずマリアにとって恐るべきことでした。いったいどこの誰が、「聖霊によって身ごもった」などどいう話を信じるでしょう。この出産がユダヤ人社会において全く受け入れられないであろうことは、火を見るより明らかでした。

 一方、このことがヨセフにも深い苦悩をもたらしたことは言うまでもありません。当初、ヨセフも「聖霊によって身ごもった」ということを信じてはいませんでした。「ひそかに縁を切ろうと決心した」と書かれていることから分かります。それは、悩み抜いた末の決心だったのでしょう。そのヨセフが夢を見ました。主の天使が夢に現れて言ったのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)。ヨセフは信じました。そして、マリアを迎え入れることにしました。

 しかし、ヨセフの苦悩が終わったわけではありません。いや、むしろ始まりだったのです。ヨセフは信じたかもしれない。けれども他の人は信じないでしょう。マリアを迎え入れるということは、マリアと一緒に苦しみを担っていくことを意味したのです。そのように、マリアもヨセフもいわば苦しみを引き受けたのです。神の為しておられることがあることを信じて、神の御計画が進んでいることを信じて、その神が「恐れるな」と言われる御言葉を信じて、苦しみを引き受けたのです。

 私たちの喜びであるクリスマスの物語には、そのような、苦悩に満ちたヨセフやマリアが出てくるのです。イエス・キリストは、罪からの救い主として来てくださいました。しかしこの物語に見るように、誰かが救いに与り、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と喜びをもって語れるようになるためには、誰かが身を献げて、苦しみを引き受けるということが必要なのです。ヨセフやマリアのような人たちが必要なのです。実際、私たちが今こうしてクリスマスを喜び祝っているのは、ここに至るまでに多くの人々が身を献げ、労苦を引き受けてきたからこそ実現していることなのです。

 私たちは、クリスマスを喜び祝うためにここに集まっています。誰によっても、この世のいかなることによっても、このクリスマスの喜びを奪われてはなりません。しかし、それは単に私たち自身のためではないのです。私たちは、この喜びを抱きかかえるようにして、ここから出て行くのです。それは、今度は私たちが、誰かの喜びのために、誰かの救いのために、誰かが「インマヌエル」(神は我々と共におられる)と言えるようになるために、神の御計画を信じて、身を献げて、自分の負うべき十字架を背負って生きていくためなのです。

お祈りをいたしましょう。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。アドベント第三の主日に、敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることとができましたことを、心から感謝いたします。神様、あなたは私たちを罪から救うために御子イエス・キリストをこの世界に遣わしてくださいました。それは主の到来によって、私たちがインマヌエル・神は我々と共にいますということを、心から信じるようになるためでした。神様が共にいてくださるとの確信を持てること以上に、心強いことはありません。そして、この大きな恵みの福音をこの世の友たちに伝えるために、私たちも自分自身をお捧げできますよう、励ましていてください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン。

罪から祝福へと導く神

マタイによる福音書1章1~17節 2025年12月7日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

                                       

 私たちが何かものを書いたり、話を準備したりするときに、初めに何をもって来るか、何から始めるかということで苦労することがあります。小説を書く人も、冒頭の言葉や文章を選ぶのに相当苦労し、工夫し、読む人に強い印象を与えようと言葉を吟味する、ということを聞きます。聖書の中の4つの福音書も、それぞれに異なる書き出しを持っており、工夫がこらされているように感じさせられます。その中で、新約聖書の第一の文書であるマタイによる福音書は、いきなり系図を最初に持ってきています。ここには数十名の人物の名前が連ねられています。初めて聖書を読もうとする多くの人が、マタイのこの冒頭の部分から嫌になってしまうとは、よく聞くことです。それほどに、この系図に対して「これは何だ」という印象を持ち、無味乾燥な思いがする、ということは実際にあり得ることでしょう。マタイはどのような意図をもってこの系図を冒頭に置いたのでしょう。

 

 まず1節を見てみましょう。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。イエス・キリストの系図が、アブラハムから始められていることに注目させられます。アブラハムの子、ダビデの子についても詳しく考える必要がありますが、今はそれぞれ重要な一点だけを確認しておきましょう。まずアブラハムに関しては、創世記12章に記されているとおり、神によって選び出されて、神の民ユダヤ民族の歩みを始めた最初の人物です。アブラハムが選ばれることによって、すべての民族の選びがやがて実現するということが約束されました。またダビデに関しては、その末に真の王であり救い主である方が現れると、神が約束してくださったことが大切です。このいずれもがイエス・キリストによって成就したとの信仰に立って、この系図が記されています。

つまり信仰的に見て、アブラハムにおける神の約束、ダビデにおける神の約束は、イエス・キリストにおいて実現した。そういう意味でイエス・キリストは、アブラハムの子であり、ダビデの子であると言われるのです。そう考えて、マタイは「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト」と記しているのでしょう。

 次に私たちは、この系図が、14代ずつ、三期に区分されていることに注目したいのです。第一期はアブラハムからダビデに至るまで(2~6節前半)、第二期は、ソロモンからバビロン捕囚のエコンヤまで(6節後半~11節)、そして第三期は、バビロンに移されてからのシャルティエルからイエス・キリストまでです(12~16節)。私たちがこの系図を見てすぐに気がつくことは、17節からも示されることですが、アブラハムからイエス・キリストまでが、14代ずつ三期にうまい具合に区分されている、ということです。

しかし、詳しく調べてみると、色々な問題や疑問があることが分かってきます。  

 旧約に記されている系図、例えば歴代誌上3章5節などと比較してみるとき、ソロモンから始まる第二期の途中で、ヨラム(8節)からウジヤまでの間に、三人の王(アハズ、ヨアシュ、アマツヤ)が省略されていることが分かります。そうすることによってこの時期が14代という数に合わせられているのです。

 また第三期は、シャルティエル(12節)から始まるのですが、イエス・キリストまでは十三代しかないにもかかわらず、「バビロンへ移されてからキリストまでは14代である」と記されています。とにかく一代足りないのです。

 いずれにしても、マタイが14という数字にこだわっている、ということは否定しようがありません。一体、これはどういうことなのでしょうか。このことについては、多くの説明や解釈がなされています。二、三紹介しますと、単純な説明としては、第一期のアブラハムからダビデまでが14だったので、そのあとの第二期、第三期もそれに合わせようとした、ということです。また14という数字は、7の二倍である。そして7というのは完全を意味する象徴的な数字である。したがって、この7の二倍の14という数字で歴史を区切ろうとした、という説もあります。まだ他にもあるのです。いずれが正しいかは決定できないことですが、とにかくその数によって、アブラハムからキリストまでを三期に分け、それぞれの時期を特徴づけようとしているマタイの意図を見ることができます。すなわち、第一期は、アブラハムの選びからダビデ王までで、イスラエル民族が高められていく過程を歩んだ時代でした。第二期は、そのように繁栄をみたイスラエルが、衰退して、バビロンの国に捕らわれの身となる下降の時期です。そして第三期は、暗い時代が続きながら、ついに、待望のキリストを迎えることができて、神の約束がかなえられた時期となります。

 先週読んだイザヤ書9章1節に次のように記されています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。様々な歴史の変遷をたどりながら、神はイスラエルを導き、決してアブラハムに与えられたその約束を忘れ給うことなく、ついに御子キリストにおいて、すべての国民への祝福がもたらされた。そのような信仰による理解と告白とが、ここにあります。マタイは、神の真実をこの系図を通して言い表しているのです。

 そして、そのことによって、私たち一人ひとりの上に慰めと希望を与えようとしています。私たちの歩みも、信仰を与えられてからも、浮き沈みの激しいものです。喜びの絶頂にあるときもあれば、暗い絶望の谷間に陥るときもあります。そのように私たちの側にある大きな波にもかかわらず、神は昨日も今日も、いつまでも変わり給うことのない真実をもって、私たちを捕らえ導いてくださる。そのような神を、この系図の中に見ることができるのです。その神への信仰の告白が、この時代区分の中に表されています。

 さて、この系図の特徴としてどうしても見落としてならないのは、四人の女性たちが登場することです。タマル(3節)、ラハブ(5節)、ルツ(5節)、ウリヤの妻(6節)です。このことは系図としては特異なものである、と言ってよいでしょう。なぜならふつうイスラエルの国における家系図は、男性の側の系統がたどられます。そして例外的に女性の名が出てくることがあっても、その場合は、すぐれた女性であり、賞賛の的としてとりあげられる人物たちです。しかしここにあげられている女性たちはどうでしょうか。あえて名前をあげるほどの人物だったのでしょうか。途中で、何名もの人物を省略してまで14という数字に合わせようとしたマタイが、なぜこれらの女性たちの名を系図の中に入れたのでしょうか。そのことを考えるにあたって、この四人の女性がどういう人物であったかを知る必要があります。簡単に見ておきましょう。「タマル」(3節)は、自分の夫の死後、夫の父であるユダによってペレツとゼラを生んだ女性でした(創世38:12以下)。「ラハブ」(5節)はエリコの町でよく知られた遊女でした(ヨシユア2:1以下)。「ルツ」(5節)は、イスラエルの集会に加わってはならないと規定されていた異邦のモアブ人でした(ルツ記)。そして「ウリヤの妻」(6節)とは、バトシェバのことで、夫ウリヤの留守中に、ダビデ王との姦淫の罪を犯した女性であり(サムエル下11:1以下)、のちにダビデの妻となった女性であることは、よく知られています。

 このように、いずれの女性の場合でも、その女性からの子どもが生まれるということに関しては、罪がからまっています。彼女たちがイスラエル人の忌み嫌う他民族の女性ということだけではなく、彼女たちをめぐって、異常な事態が伴うといった女性ばかりなのです。言うなれば、系図の中にあえて出す必要はない者たち、いや逆に、隠しておくことの方が系図の純粋性を保つことができるといった女性ばかりなのです。

 マタイはこれらの女性の名前を、敢えて系図の中に書き入れたとしか考えられません。いったいその意図は何であったのでしょうか。使徒信条に、主イエスの偉大な弟子たちの名は一人も上げられず、ポンテオ・ピラトの名があげられていることに深い意味があるように、アブラハムの妻サラやイサクの妻リベカをあげずに、この4人の女性の名を敢えてあげていることには、それなりの意図があったはずです。そのことを最後に考えてみたいのです。

 ある人は、これらの四人の女性は罪の女であった、ということから考えます。しかし必ずしもそうではないでしょう。罪はむしろそれぞれの男性の側にあるというべきでしょう。また、ルツは、敬虔な女性として賞賛さえされています。罪ということだけで、四人をまとめることには無理があります。そうなると、この四人の女性の共通性は、非ユダヤ人、すなわち、異邦人ということにある、と見ることができるのではないでしょうか。イエス・キリストの系図の中に、異邦の血が混じっているのです。しかし、それにもかかわらず、神の約束は貫かれました。神の救いの計画は、異邦人をも包み込みながら進められてきた、この事実がこの系図をとおして明らかにされようとしている事柄です。ここに、マタイによる福音書が持っている異邦人世界、全世界への福音宣教という関心事が、すでに冒頭から示されているのです。このあと、御子キリストの誕生を最初に礼拝したのも、異邦人の国の占星術の学者たちでありました。またマタイ福音書の最後には、復活の主の言葉として「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と語られ、この異邦の世界への福音宣教の課題がいっそう鮮明にされています。

 神は、このように、歴史の中の汚点とも思えることを、逆に用いて、宣教の前進のために役立ててくださった。そう確信したゆえに、マタイはこの四人の問題ある女性を系図の中に書き入れたのです。

 また、このように四人の女性の名を系図に入れたのは、マタイ福音書がまとめられている時期に、イエスの母となったマリアへの誹謗、非難が強く出てきていたのではないかと推測する学者もいます。あれは姦淫の女、罪の女だったのではないかという非難です。しかし、たとえマリアが非難されなければならないものを持っていたとしても、すでにイエス・キリストの誕生にいたる系図の中に、同じような女性は何人もいる。それにもかかわらず、神はそれを用い給うたではないか。マタイはそのことを主張しようとしているのでありましょう。

 私たちの歩みの中にも、消し去ってしまいたい罪や塗りつぶしたい汚れや神への背反というものが、べっとりとこびりついているかも知れません。私たちの生活がある場所には、必ず罪が伴い、罪との苦しい戦いがあります。そしてそれに敗れることもあります。

 しかし、アブラハムからキリストに至るまでの歴史の中で、忌むべきこと、汚らわしいことが数多く起こりながら、なお約束に忠実であり給うた神は、私たちをいったんご自身との交わりに入れてくださった限りは、その初めの愛を貫いてくださるのです。私たちの罪の大きさにまさる赦しの愛によって、私たちを神の家族の系図の中に留めてくださいます。系図の中に現れる罪と異邦の女性たちの苦しみと涙とを顧み給う王なる神は、私たちの罪を悔いる思い、汚れを悲しむ涙をも顧みてくださるのです。 

 今年も私たちがクリスマスを迎えることができるのは、そのような神の憐れみの確かさによるのです。私たちはこの恩寵の確かさに支えられて、神の家族の一員としての歩みを、確信を持ってなしていかなければなりません。私たちがつまずくことがあっても、決してつまずき給うことのない神が、私たちのそれぞれの歩みを、祝福へと向けて導いてくださっているのです。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にアドベント第二の礼拝を守らせてくださったことを、心から感謝いたします。マタイによる福音書の冒頭にある系図からあなたの御心を示されました。あなたはあなたの民であるイスラエルを、その歴史を貫いて導いてくださいました。神の民の罪や汚れ、背反にもかかわらず、あなたの真実と愛は変わることはありませんでした。どうか、その神の民の一員として私たちもその系図の中に留められていることを、深く信じさせてください。冬の寒さが厳しくなってきました。どうか、兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。そして、主の御降誕と再臨を喜びをもって待ち望む日々を過ごさせてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

ひとりのみどりごの誕生

イザヤ書9章1~6節 2025年11月30日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今年もアドベント・待降節を迎えました。今日はイザヤ書によって、救い主誕生の預言の言葉を聞こうとしています。それがイザヤ書9章1~6節です。

 この預言がイザヤによって語られた時代背景について、まず考えておきましょう。先立つイザヤ書7章の時代、南王国ユダは、大国アッシリアの脅威とともに、北イスラエルとシリアの連合軍から同盟軍に加わるようにとの圧力を受けるという、もう一つの脅威の下にありました。そのような中で恐れ、ろうばいするアハズ王に「静かにしていなさい。恐れることはない」と言って励ました預言者イザヤが、神から示されて語ったのが、7章の〈インマヌエル預言〉でした。

 それから十年位経過した時代が、今日のイザヤ書9章の時代です。このときすでに、恐れていた大国アッシリアが北イスラエルに侵攻してきて、その領土の一部がアッシリアの占領下におかれていました。その状況を8章22節以下の箇所から読み取ることができます。8章22~23節に「苦難、闇、暗黒、苦悩、追放」といった言葉が並べられています。また9章1節に「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」と言われています。これらの表現から、イスラエルの国全体が政治的・軍事的な圧迫の下で、精神的にも苦しい状況に追い込まれ、希望を失った暗闇の中におかれていることを想像することができます。

 神によって選ばれた民であり、神から与えられた土地に住んでいる自分たちであるということに人々は疑いを抱き始め、「わたしこそあなたがたの神である」と言われる主なる神への信頼が、大きく揺らぎ始めていました。国壊滅の危機の中でイスラエルがイスラエルとして、すなわち神の民として存在し続けることに対する危機が、民の間に生じているということです。それを一個人になぞらえて言えば、自分とは一体何ものなのかが分からなくなってきた状況、自分が崩れていく状況・アイデンティティー・クライシスに陥っている、ということになるでしょう。北イスラエルと南ユダの民は、光を失った闇の中で、どうあったらよいかが分からなくなっているのです。

 そのような民に対して預言者イザヤは、希望の光を指し示します。それが「ひとりのみどりごの誕生、ひとりの男の子の誕生」の預言です(5節)。ここでは、その子がすでに「生まれた」とか「与えられた」というように、過去形で語られています。これは現実においてすでに起こったことではなくて、これから先、このことが確実に起こる、間違いなくこの通りのことが起こるということを言い表そうとしている表現なのです。実際は将来のことを語りながら、すでに起こったことのように過去形で語る、この文法を預言者的過去ということがあります。預言者の言葉には、よく見られるものなのです。

 預言者イザヤは、新しい王、新しい統治者がこの国に起こり、この方が、全イスラエルを守り、闇から光へ、死から命へと変えてくださると、確信をもって預言しているのです。それゆえ、1節で「死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と語ることができ、2~3節においても、「喜び」、「楽しみ」が語られ、苦悩や苦痛や戦いなどからの解放が力強く宣告されることになります。

 3節にある「ミディアンの日のように」というのは、土師記6章33節以下に記されている記事であり、神が士師ギデオンを用いて、イスラエルの民を襲うミディアン人を制してくださったことを指しています。その日のように、神は全イスラエルの民を、外国の圧迫から解放してくださると、確信をもって語られているのです。何よりもそのことは、ひとりのみどりごの誕生によって、その方が王に即位することによって現実のこととなる、と預言されています。

 そのみどりごにやがて与えられる名、それはまた、その働きの内容も意味しているのですが、それが5節の後半に4つあげられています。この5節の句は、ヘンデルの「メサイヤ」の中でくり返し歌われているものとして知られています。思い起こされる方もおられるでしょう。四つの名とは、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」です。最初の「驚くべき指導者」についてあとで考えることにして、先にその他の三つについてごく簡単に考えてみましょう。

 「力ある神」とは、神のような力をもって、民を導き、民に勝利を与え、そして救いをもたらすことができる者という意味です。「永遠の父」とは、真の父親のように、愛と厳しさとをもって、その子らを守り、民を守り、決して見放さない者ということを意味しています。「平和の君」とは、国の内外において争いや戦いをなくし、繁栄と平和な状況を造り出す者のことです。このような働きをする方が、「わたしたちのために生まれ」、「わたしたちのために神によって与えられる」、その方こそが闇を光に変える救い主である、と歌われています。

 さらに、この方につけられるもう一つの名が、最初に出てくる「驚くべき指導者」という名です。これは、口語訳聖書では「霊妙なる議士」となっていて、分かりにくいものでした。それが新共同訳では、「驚くべき指導者」と訳し変えられました。他の日本語訳としては、「驚くべき助言者」、(フランシスコ会訳)とか、「不思議な助言者」というものもあります。この「指導者」とか「助言者」と訳されている語の本来表すものは、軍事的には参謀の役を担う者であり、政治的には王や君主に助言を与える議官を意味し、そして一般的には、助言したり、弁護したりする人、あるいは私たちが普通に用いる「カウンセラー」の役を果たす人のことを言います。多くの英語の聖書では、〈ワンダフル・カウンセラー〉と訳されています。救い主としてお生まれになる方は、統治者であり、王であられると共に、自らカウンセラーとしての役を果たされるお方であるということが、ここで言い表されているのです。

 ユダの国に救い主として生まれ、全イスラエルに希望の光を照らしてくださる方は、王でありつつ、助言者でもあってくださるお方です。彼は支配し、統治しつつ、民族の危機に介入し、民たちに、一人ひとりに、自己の存在の意味と目的とを再発見させて、生きることの手助けをしてくださるお方です。そのような方がこの国で生まれる、とイザヤはその誕生を預言するのです。

 長い歴史の経過の中で神を信じる人々は、このようなみどりごの現れは、神の御子イエス・キリストにおいて現実のこととなった、と受けとめました。先になされたインマヌエル預言を、神がわたしたちと共にいてくださるということが、御子イエス・キリストにおいて成就したと受けとめたイスラエルの人々は、9章5節の「ひとりのみどりごの誕生」も、神の御子の誕生を意味するものであったと信じて疑わないのです。究極的には、この二つの誕生預言は、神の御子イエス・キリストの誕生へと流れ込むものでした。男の子につけられるであろうと言われた四つの名「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」、これらのすべては、主イエス・キリストの人格とその業との中に含まれていることを、私たちも深い畏れと大きな感謝とをもって覚えることができるのではないでしょうか。

 ひるがえって、私たちは、このみどりごは、今、ここで生きる私たち一人ひとりにとっても「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」であってくださることを確信してよいです。「わたしたちのために生まれた」、「わたしたちに与えられた」と言われる「わたしたち」の中に、ここにいる私たちが、その一人ひとりが含まれているのです。主イエス・キリストは、私たちにとってもワンダフル・カウンセラーであってくださいます。

 イザヤ書8章の終わりから9章にかけて描かれているイスラエルの暗い時代状況は、今日においても形を変えて存在しています。希望の光がうすれ、暗闇と死の陰が、私たちの時代をおおっています。一人ひとりの個人的な生活の領域においても、日本の社会においても、さらには世界規模においてはいっそう、暗雲がたれこめているという状況は深刻です。私たちは出口を見出せない闇の中におかれています。具体的にその事柄をあげる必要がないほどに、私たちにはそれぞれに固有の、そして共通の不安や恐れや心痛める事柄があるのです。それは人間としての、あるいは人類としての存在の危機、生存の危機ともなり得るものです。

 どこに、私たちの恐れと問いとを投げかけたらよいのでしょうか。どなたに、私たちの生きることの苦しさと悩みとを訴え、相談したらよいのでしょうか。その問いの重みでこうべを垂れてしまいがちな私たちに対して、預言者イザヤは静かに、そして力強く「こうべをあげよ」と語りかけるのです。そして彼は告げます。「あなたがたには、驚くべき指導者がいるではないか。ワンダフル・カウンセラーが、あなたがたには与えられているではないか」と。そしてその声に促されてこうべを上げるとき、私たちそれぞれの前に、イエス・キリストが立っていてくださるのを見出すことができるのです。この方が、私たちのために驚くべき指導者、真の意味でのカウンセラーとしての働きをしてくださるのです。

 カウンセラーとしての必要な条件は、相手をよく知っていることと、語るべき適切な言葉を持っていることです。主イエスは私たちと全く同じ人の姿をとって、人間として生きられ、死んで行かれました。その主は、「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ2:18)と言われるように、私たちの苦しみと痛みと望みなき状態をご存じであられます。

 また、主イエス・キリストは、神の言葉としてこの世に来られたお方だからこそ、一人ひとりに語るべきふさわしい言葉をお持ちなのです。この方に問うことによって私たちは、自分自身の抱える苦悩や疑いに関する回答を与えられるだけではありません。人間として存在することの意義、人類の向かうべき方向も示されるのです。聖書の御言葉の中に私たちはこの主を見出すことができ、祈りの中で私たちはこの主に出会うことができるのです。そしてそのようにして出会い、そこで示された命と救いの言葉を、私たちは他の人々に運んでいくのです。

 ある人がこう問いかけました、「私たちのまわりはあまりにも暗すぎます。なぜ一日中クリスマスではないのですか。なぜ一年中クリスマスではないのですか」。しかしその暗さの中でこそ、人は光であり、助言者である主イエス・キリストを見出すことができるものとされているのです。

 「深い暗い井戸は、昼間でも空の星を映すことができる」。暗闇がおおうこの時代だからこそ、私たちは光を必要としています、そして、私たちは今その光を見出すことのできる状況の中におかれているのです。つまり、闇の中でなおイエス・キリストにおいて希望の光を見出し、自分自身の生を生きぬくことができるものとされるのです。すべての人の心の中に、御子が迎え入れられるときこそ、その人にとって御子が誕生したときです。そしてすべての人が、その喜びへと招かれているのです。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今年も主の御降誕を待ち望むアドベントの時を迎えることができました。

闇がひたひたと迫るような時代です。不安や恐れが私たちの中にはあります。しかしこの世界に来てくださった御子イエス・キリストは、私たちの苦しみ、悲しみ、恐れをご存じでいてくださいます。また、神の御子として私たちに必要な神の御言葉を与えてくださいます。そのような驚くべき助言者・ワンダフル・カウンセラーがいますことを、深く信じさせてください。明日から12月に入り、寒さも厳しくなっていきます。どうぞ、教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。