次週の礼拝   2月16日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    エレミヤ書1章4-10節

説  教   「エレミヤの召命」 山﨑和子長老

主日礼拝    

午前10時30分   伝道礼拝  司式 三宅恵子長老

聖     書

  (旧約) エレミヤ書17章5-14節   

  (新約) マルコによる福音書10章35-45節

説  教 「仕えるために来られた主」  藤田浩喜牧師

共におられる平和の神

2025年2月2日(日) 主日礼拝説教

教師 山田矩子

一年ぶりの説教ご奉仕を感謝いたします。今朝は、天候を心配しましたが、つくばひたち野伝道所の礼拝と総会のため、藤田先生がご奉仕くださって感謝しております。

昨年は、中島美穂子姉妹の突然の昇天に際し、南柏教会の皆様とお送りできましたこと、感謝しております。また、年末には、つくばひたち野伝道所の姉妹が天に召され、藤田先生には、重ねてお世話になりました。

今朝は、これまで読み進めてきました「フィリピの信徒への手紙」の続き、4章8〜9節の御言葉に聞いていきたいと思います。この前の所6節で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とのパウロの希望の言葉を聞きました。

パウロは、主イエス・キリストによって罪を赦され、救いの恵みに招かれた人々に、神様から賜った平安な生活を真実に送り続けるために、日々の中にある真実なこと、偽りでないものに、心と目を向けて生きていくように勧めています。

ここには8つの徳が勧められていますが、ギリシア時代には徳ということが大切にされていたといわれます。これは、すべての人が生きる上で大切なことですから、神に作られた一人一人の誰もが、心の中心に置きたい事柄です。特に、ギリシア世界の徳は、善を行うことで、人間の幸福を目指すといわれていました。「ガラテヤの信徒への手紙」には5章22節で「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」と徳をあげています。そしてコリントの信徒への手紙二の6章6節では「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力」などがあげられています。そして、「フィリピの信徒への手紙」4章8節では「すべて真実なこと、すべて気高いこと」というように、一つ一つの徳の前に、「すべて」という言葉が加えられています。それは、ある限定されたことだけではなく、良いものはすべて心に留めなさいという勧めです。

では、パウロは、この8つの徳から、どのようなことをフィリピの人々に伝えたいのでしょうか。ここに述べられていることは、人が生きていくうえで最も基本的なことであり、人と人が信頼して成長していくために、なくてはならないことなのです。

私たちは、真実をもって愛され、接せられて、人格が形作られていきます。喜んだり、悲しんだり、我慢したり、感謝したり、そしてしてはいけないことも学んでいきます。また、人から与えられるだけでなく、果たさなければならないことや担っていかなければならないことにも気付くようになります。ですからパウロは、日々の人とのかかわりの中で気付かされた事、教えられたことを心に留めなさいと言っています。

この「心に留める」という言葉には、物事をよく考えるという意味がありますが、しかし、考えて、それでおしまいというのではなく、助けを必要とされた時にはすぐに力を差し出すことが出来るという意味が込められているといわれています。人は真実に接してもらって生きてきた時、また他者に対しても、自分がしてもらったと同じように真実をもって接することができるといわれています。

続いてパウロは、「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」と勧めます。それはコリントの信徒への手紙一の15章3節、パウロが受けた「キリストの十字架の死と復活」です。キリスト者を迫害しているパウロに主が出会って下さり、罪の赦しを知らされた時、パウロは自分の力で生きているのではなく、神の命を与えられていることを知らされたのです。続く、「聞いたこと、見たこと」は、フィリピ1章30節の「あなたがたが、私の戦いを「かつで見」「今また」それについて聞いています」とあることです。それは、霊にとりつかれている女性を解放したことで牢に入れられ、その中で神に祈り、讃美し続けたことです。そして「今また」といわれていることは、キリストの福音を伝えたために、ローマの牢にとらえられていることです。しかし、ここでもキリストの福音が証されて、福音が前進している喜びの出来事がおこっているのです。

このように、パウロのどのような困難の時でも、神は共にいて下さって、神ご自身が戦って下さること、そして福音を前進させて下さることを信じることができたのです。

それは、パウロが困難から救われるだけでなく、まわりの人々が、まことの神の救いの中に入れられる願いです。パウロにとっての喜びは、一人でも多くの人が罪から救われて、本当の人としての命を全うすることでした。

ですから、フィリピにいる、今、迫害のただ中にあるあなた方も、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている」と福音のために戦ってほしいと、パウロは祈っています。このように、パウロの願いは、信仰者として、人間のまことの幸せを祈り、神の御心が何であるかを尋ねつつ、小さな一つ一つを勇気をもって、実際の行動へ向かっていくのです。そして、福音のために戦う時には、どのような時でも神が共にいて、その戦いは、平和をつくり出す神ご自身がなして下さるのです。平和の神ご自身が、私たち一人一人の一番近くにいて下さり、私たちは、新しい一歩を歩みだすことができます。

次週の礼拝  2月9日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    イザヤ書53章1-12節

説  教   「身代わりの苦しみ」 藤田浩喜牧師

主日礼拝    

午前10時30分    司式 山﨑和子長老

聖     書

 (旧約) 創世記12章10-20節   

 (新約) ローマの信徒への手紙5章6-11節

説  教 「わたしはあなたを祝福する」  藤田浩喜牧師

水を運ぶという人生

ヨハネによる福音書2章1~11節 2025年1月26日(日) 主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 日本でもそうかもしれませんが、婚礼というのは、家と家とのお祝い事でもありました。この時代のユダヤにおいてもそうであり、家と家との祝い事として婚礼が行われたのです。その婚礼には小さな村ですと、村中の人が集まってきました。調べてみますと、婚礼の宴というのは、当時、この地方では数日にわたって行われたとも書いてありました。ある場合には、おそらく家が傾くほどの出費を覚悟しなければならなかったと思います。

 その婚宴の席で、ぶどう酒がなくなってしまいました。花婿の家にとっては一大事です。面目が失われるような出来事と言ってもよいでしょう。おそらく台所の近くにいたマリアは、そのことを知らされて、主イエスのもとに伝えたというのです。こう言われています。

 「母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」(3節)

 これは単にぶどう酒がなくなったという事実を報告したという話では、おそらくないでしょう。イエス・キリストに対する願い、嘆願、あるいは祈りと言ってもいいかも知れません。そういうものが、この言葉には含まれていたと思います。ぶどう酒がなくなる。せっかくの楽しいお祝いの席でぶどう酒が切れてしまう。

 それはある意味で、私たちの人生に似ていると思います。若さとか力とかあるいは意欲とか、ある場合には美しさとか、そういうものを自分の中に持って、その勢いで、自分の持っているものによって道を突破していく。そういう時が人生にはあると思います。しかし、次第にその気力も体力もあるいは美しさも尽きてくる。弱ってくる。突破できなくなる。今までは気力でもって突破できたいろいろな問題が、分厚い壁になってくる。そしてそこに体をぶつけていったら、こちらが傷ついてしまう。みんなそういう地点に立つわけです。行き止まりの場所があるのです。これはまさに、現在の私たちキリスト教会の姿でもあります。どんどん進む高齢化と教勢減少の中で、かつてのような勢いを失い、これ以上は前に進めない閉そく感を覚えているのではないでしょうか。

 ぶどう酒はなくなりました。先ほども言いましたように、これはマリアの祈りです。そして花婿、花嫁の両家の困っている状況が、このマリアの背後にはあります。喜びや賑わいのこのお祝いの席でぶどう酒がなくなってしまうと、いっぺんに空気が冷えてしまう。これは切実な祈りです。

 しかし主イエスの答えはこうでした。「『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』」。(4節)

 ずっと長い間、私もこの言葉につまずきました。なんてつれない言葉だろうと思ったのです。しかしこれは、母と子の肉親の情によってキリストが応えられるということではない、ということを言われたのだと思います。「情に流される」という言葉がありますが、主イエスはそういう形ではマリアの願いにお応えにならない。そういう意味が込められているのではないかと思います。

 そしてこう言われました。「わたしの時はまだ来ていません。」イエス・キリストの時があるのです。イエス・キリストが応えられる時があるのです。マリアが願う時ではなく、あるいは私たちが願う時ではなく、イエス・キリストの時があるのです。だからマリアは拒絶されたとは思いませんでした。マリアは備えました。聖書にはこう書いてあります。

「しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」(5節)

 これは、マリアがイエス・キリストの時を信じて待つ姿勢です。彼女の思うとおりには応えられないけれども、イエス・キリストの時を信じて待つ姿勢です。その時を信じるからこそ、彼女は備えて待つのです。

 ここで私たちは、祈りということについて考えさせられます。祈る人というのは、待っている人のことなのです。祈った人は前に向かうのです。前方を見るのです。そして、備える。信仰というのは、もちろん神さまを信じることです。しかし、神を信じるということは、神さまがどこかにおられるということを信じることではありません。信じる者は神に向かって祈るのです。自分自身を神に向けて投げかけるのです。いろいろな問題をかかえた自分、重荷を負った自分、あるいは行き詰っている自分を、神に投げかけながら生きる。それが神を信じる者の生き方です。

 キリストは救い主として私たちを受け止め、そして応えてくださる。「わたしの時はまだ来ていません」。ここに書かれていることは、「救い主の時がある」ということです。私たちの願う時ではないけれど、イエス・キリストが準備してくださる時がある。私の願う時というのは、たいてい〈今、すぐ〉です。すぐ応えてくださらないといけないと私たちは考える。しかし、イエス・キリストの時、救い主の時がある。これはなんと深い慰めでしょうか。私の思うよりもはるかに良い時、私にとって最もふさわしい時、その時を救い主は備えてくださり、その時に応えてくださるのです。

 私たちの生きている現実の前にも壁があります。壁はこちらから破ることはできません。先ほど言いました。こちらから何とかして破ろうとしたら、こちらが傷ついてしまう。向こうから破っていただくのです。向こう側から、救い主の方から破っていただいて前に進む。イエス・キリストは言われました。「求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる」。求めるというのは、ただ欲しいと思うだけではありません。祈ることです。そして私たちは神の門をたたきます。門を向こう側から開いていただけるのです。向こう側から、私たちには開けないと思った扉を、一つひとつ開いていただきながら、私たちは前に向かって歩いていきます。それが信仰によって生きるということです。私たちの教会の歩みも、そのようにして道が開かれ、導かれていくのです。祈りつつ、扉を開かれ、前に進ませていただくことができるのです。

 「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレス入りのものである。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」(6~7節)

 大きな石の水がめです。清めに用いるのです。ユダヤ人たちは、外に出たら汚れる。だから手を洗います。外で汚れてきた汚れを落とすという意味があったのです。だから多量の水が清めのためにあったのです。水を汲むためには、村の真ん中にある井戸まで召し使いたちは歩いていかなければなりません。

 村というのは、たいていは井戸があって、その周りに小さな村ができるのです。ですから、水を汲みなさいと言われたら、井戸まで何回も往復しないといけません。僕たちはそうやって、何度も井戸のところまで往復いたしました。彼らは黙って水を運びました。なぜ水を運ばなければならないのか、おそらく彼らにはわからなかったのです。何でこんなことをしているのだろうと思ったと思います。しかし、わかりませんでしたけれども、彼らは黙って運びました。そしてその水がめに運んだ水を、宴会の世話役のところに持っていきなさいと言われたので、彼らはそれを世話役のところに持っていきました。

こう書いてあります。

 「イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました』。」(8~10節)

 良いぶどう酒がどこから来たのか、世話役にはわかりませんでした。しかし、水を汲んだ召し使いたちは知っていたと書かれています。召し使いたちは自分たちがどうして水を運ばなければならないのか、その時には訳がわかりませんでした。何でこんな重たい物を運ぶのか。もしイエス・キリストにぶどう酒を運ぶように言われたのであれば、彼らは喜んで運んだと思います。しかし、なぜ水を運ばなければならないかわかりませんでした。ただ、自分たちにはわからないけれども、主イエスはその訳を知っていてくださる。それを彼らは信じたのです。この重い荷物の意味を知っていてくださる方がいる。それを信じた。信じたから、彼らは黙って、黙々と運んだのです。

 今の自分にはわからないのです。けれども、この意味を知っていてくださる方がいる。信じるということはそういうことです。何もかも訳がわかって、私たちは生きているのではありません。訳がわからないことはいっぱいある。ことに、思いがけない荷を自分が負わなければならないとき、ドサッと何かが自分の肩にかぶさってきたとき、私たちはだれもが「なぜ」と思います。そして、「なぜ自分が」と思います。しかし、その時にも私たちは信じるのです。今、その意味は自分にはわからないけれども、その意味を知っていてくださる方がいる。そのことを信じるのです。信じるから、私たちは水を運ぶのです。黙って、耐えて、水を運ぶのです。

 この水は最上のぶどう酒になっていました。私たちの運んでいる重たい水。それはどこかで、ぶどう酒に変えていただく水なのです。悩みながら、そして苦しみながら運ぶその水が、そっくりぶどう酒に変えられるのです。変えていただけるのです。そういう水を私たちは、今運んでいるのだということを忘れてはなりません。

世話役は言いました。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」初めは良い、しかしだんだん味が薄くなる。それは多くの人の考えている人生観です。みんなそう思って生きています。しかし、救い主イエス・キリストにある人生というのは、そうではありません。最後に一番良いぶどう酒に変えていただける。それは私たちに与えられている約束です。すべての労苦がひっくり返って、最上のぶどう酒になる。その時を、私たち一人ひとりのために備えていてくださる方がいる。その方に向けて、その時に向けて、私たちは歩いているのです。

私たちの教会の将来を考える時、人間的に見れば、明るい材料は見当たりません。だんだん衰えていく、力を失っていくようにしか見えません。しかし私たちは、あまりにもこの「人間的に見れば」ということに、囚われすぎてはいないでしょうか。伝道は神の御業です、教会の将来は神の御手の中にあります。主イエス・キリストが、私たちの教会を導いておられます。イエス・キリストのために傾けられた労苦が、無駄になることは決してありません。そして主は、最上のぶどう酒を準備していてくださる。最上のぶどう酒に変えていただけるこの道を、みんなそれぞれに歩ませていただいているのです。約束に満ちた道を、みんな歩ませていただいているのです。私たちはそのことを心から喜び確信しながら、今日の定期総会を始めていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を心から讃美いたします。御言葉を通して私たちは、主イエス・キリストがご存じであるということを教えられました。水がめを満たすためにただ水を運んでいるとしか思えないような時も、わたしたちの人生はあなたのご計画の中で、あなたの貴いご用のために用いられています。どうか、そのようなあなたへの深い信頼の中で、信仰者として生きるわたしたちであらしてください。今日礼拝後もたれます今年の定期総会の上に、あなたのよき導きと祝福を与えていてください。群れの中で病床にある者、様々な困難にある者を、あなたたが支え顧みていてください。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  2月2日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    イザヤ書6章1-8節

説  教   イザヤの召命 三宅光

主日礼拝    

午前10時30分 司式 髙谷史朗長老 (聖餐式を執行します)

聖     書

 (旧約) イザヤ書58章6-12節   

 (新約) フィリピの信徒への手紙4章8-9節

説  教  「共におられる平和の神」  山田矩子教師

キリストのまなざしの中で

マルコによる福音書10章17~31節 2025年1月19日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜  

 主イエスは弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23節)。どうして主イエスはこんなことを言われたのでしょう。それは今日朗読してくださった話の流れから察することができます。その直前に、主イエスは財産のある人と話をしていたからです。

 その人は神の救いを求めて主イエスのもとに来た人でした。走り寄って、ひざまずいてこう尋ねたというのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)。彼が切に求めていたのは、死をもって失われないもの、世の終わりにおいても失われない、最終的な神の救いでした。

 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。彼はこれまで自分にできることをしてきたのです。伝えられてきた神の掟も一生懸命に守ってきました。主イエスが「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(19節)と言われた時、彼は即座に答えました。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」しかし、それで十分だとは思えなかったのです。まだ足りない。だから尋ねたのです。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と。

 主イエスは彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。この主イエスの言葉は、救いを求める彼を打ちのめしました。彼は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。「たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と聖書は説明しています。そこで主イエスは弟子たちを見回して言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。

 ところで、厳密に言いますと、この23節の「財産」と22節の「財産」では、元の言葉が異なります。23節で「財産」と訳されているのは、もともとは「使う」という言葉に由来する単語です。「使えるもの」のことです。確かに「財産」とはそういうものでしょう。彼は財産を持っていた。それは必要に応じて使うことができるものを持っていたということです。欲しいものを得るために、彼は財産を使うことができるのです。

 しかし、欲しいものが「永遠の命」だったらどうでしょう。神の救いだったらどうでしょう。それを得るために人は何を使うのか。使えるものは何なのか。通常考えられるのは「善い行い」でしょう。彼もそうでした。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。そう「何かをすること」が必要だと考えた。子供の時から律法を守ってきた積み重ねは、彼にとって永遠の命を得るために「使えるもの」だったのです。

 その意味では彼の「財産」はお金だけではありませんでした。幼い頃からの律法遵守、積み上げてきた善い行い、これらもまた彼の財産だったのです。その財産をもって、永遠の命を得、神の国に入ろうとしていたのです。そして、彼がそうしたがっているので、主イエスはそれを一緒に押し進めようとされたのです。「使えるもの」をもって永遠の命を得たいなら、「使えるもの」すべてをそのために使うべきだ、と。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とはそういうことです。しかし、そこで彼は悲しみながら立ち去ることとなりました。

 それを見て主は言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」何が問題だったのでしょう。金持ちだったことでしょうか。いわゆる財産を手放せなかったことでしょうか。いいえ、そもそもの問題は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねてきたことなのです。自分が神に差し出すことができるものをもって、救いを得ることができると考えていたことなのです。そうです、人間にはそれができると考えていたことです。

 主イエスは今日の27節で、「人にはできないが、神にはできる」とおっしゃいました。「人間にはできる」と思っているうちは、この言葉は大した意味を持ちません。人間にできるなら人間が自分の力でしたらよいのです。「神にはできる。神は何でもできるからだ」。この言葉が本当に意味を持ってくるのは、「人間にはできない」ということが見えてきた時です。主イエスがこう言われたのは、弟子たちが互いにこう言い合っていたからでした。「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)。正確には「それでは、だれが救われることが《できる》だろうか」と言っているのです。もちろん、その意味するところは「だれも救われることが《できない》ではないか」ということです。

 「使えるもの」があるならば「できる」と思っているとき、人はそれを使おうと思いますし、使えると思うのです。そのように人間にできると思っているかぎり、「神にはできる」ということに真剣に目を向けることはありません。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。――それは単にお金があるかないかの話ではありません。「人間にはできる」と思っているかどうかということなのです。

 「神にはできる」という主イエスの言葉が本当の意味で自分の信仰告白となるのは、救いを得るために「使えるもの」が自分にはない、神に差し出せるものなど何一つない、本当に貧しいものだと自覚した時だけです。ですから主イエスは別の福音書においてこう語っておられるのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)。なぜなら「人間にできることではないが、神にはできる」からです。

 そして、「神にはできる」と書かれているとおり、神にしかできないことを神はしてくださったのです。「神にはできる。神は何でもできる」と主は言われましたが、その神の全能を神がどのように使われたか、私たちは福音によって知らされているのです。何でもできる神はその独り子を私たちに与えてくださいました。神は御子を十字架にかけてくださいました。この贖いの犠牲のゆえに、私たちの罪を赦してくださいました。神は私たちを清めて神との交わりに入れてくださいました。神は罪人を救い、永遠の命を与えることがおできになります。「神にはできる。神は何でもできる」。そう語られた主イエスは、実際にその神の御業によって遣わされた方として語っておられるのです。

 しかし、そのことがまだ弟子たちには分かっていません。「神にはできる」と主イエスが言っておられるのに、弟子たちは人間がしたことについて語り始めます。ペトロは言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)。「このとおり」というのは文字通りの意味は「ごらんください」です。自分を見てください、というのです。

 彼らが考えているのは財産を処分して施すことをしなかった金持ちと自分たちとの比較です。主イエスが単純にお金を手放したか否かを問題にしていると思っている。だから、お金を手放したこと自体が、今度はペトロにとって「使えるもの」になっているのです。その「使えるもの」をもって神と取り引きしようとしている。マタイによる福音書では、ペトロの言葉はこう伝えられています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。

 主イエスはペトロの言葉を単純に否定することはしませんでした。弟子たちに対しては、さらに語るべきことがあったからです。主は言われました。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(30節)。

 主イエスは「わたしのためまた福音のため」と言われました。大事なことはここで「永遠の命を得るために」とも「神の国に入るために」とも、「来るべき世において報いを得るために」とも主は言われなかったということです。「わたしのためにまた福音のために」は、「わたしの故にまた福音の故に」という意味の言葉です。主イエスの故にとは、どういうことでしょう。福音の故にとはどういうことでしょう。

 先にも申しましたように、イエス・キリストという存在そのものが「神にはできる」の現れでした。私たちを救うことができる神の、一方的な恵みの現れだったのです。それゆえにイエス・キリストの到来は「福音」なのです。良き知らせです。その主イエスのためまた福音のために何かを捨てるとするならば、それは恵みに対する応答以外の何ものでもありません。主はそのことを言っておられるのです。

 実際に弟子たちはやがて迫害の時代を生きることになるのです。ここに語られていることがやがて実際に起こることを主は知っておられるのです。実際に兄弟や親子の縁を切られることもあるかもしれない。畑や財産を失うこともあるかもしれない。しかし、それは救いを得るために払わなくてはならない犠牲ではないのです。救いを得るために何かを捨てるわけではないのです。それらはすべて恵みに対する応答としてなされることなのです。

 それゆえに、主は言われたのです。「この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。この世においても報われ、後の世においても報われる。逆説的ですが、報いを求めてではなく「イエスの故にまた福音の故に」恵みに応えて行ったことが、結局は報いを受けるのです。

 そのように、今日の私たちにおいても、何かを行うにせよ、何かを献げるにせよ、何かを手放すにせよ、大事なことは、《ただ神の恵みへの応答として行う》ということなのです。ならば本当に必要なのは、恵みを知るということなのでしょう。恵みを知ることがなければ、わずかな献げ物でさえ惜しむ心や報いを求める心をもってしか献げられなくなります。あるいはペトロのように「ごらんください」になるのです。そうではなく、私たちは神の恵みを知る者となりたい。そして、ただひたすら神の恵みに応えて生きる者となりたい。惜しみなく私たち自身を献げ、必要ならば持てるものを手放せる自由さを持ちたいものです。そう、最終的に「神にはできる」は、そこにまで及ぶことを信じたいと思うのです。「人間にできなくても神にはできる」と。お祈りをいたしましょう。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美し、御栄を褒め称えます。今日も愛する兄弟姉妹と対面でオンラインで、礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。今日も共に御言葉に聞きました。どうぞ、あなたが御子を通して与えてくださった恵みを、何よりも私たちが感謝して受け取ることができますよう、導いていてください。昨日は敬愛する栗原章雄さんの送る会を行うことができて感謝いたします。ご遺族の上にあなたの慰めと平安をお与えください。この拙きひと言のお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   1月26日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    マタイによる福音書7章7-12節

説  教   「人にしてもらいたいことは、人にしなさい」 藤田百合子

主日礼拝    

午前10時30分    司式 山根和子長老

聖     書

  (旧約) 詩編124編1-8節  

  (新約) ヨハネによる福音書2章1-12節

説  教  「水を運ぶという人生」  藤田浩喜牧師

柔らかな心に生きる

マルコによる福音書10章13~16節 2025年1月12日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 主イエスとその一行は、エルサレムを目指して旅を続けられていましたが、その途中ペレヤ地方に入って行かれました。そこでも主イエスは、集まって来る人々に神の国の福音を宣べ伝えられました。また助けを求める多くの人たちのために、力ある業をなさっておられました。

 その時のことです。主「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た」のです。「人々」とあるのは、子どもたちの親かあるいは親戚であったでしょう。「子供たち」というのは、幅広い年齢を指す言葉ですが、ルカによる福音書の並行個所には「乳飲み子までも」とあるので、乳児か幼児ぐらいの子どもたちであったのでしょう。

 いつの時代も親は、子どもたちの将来に「幸(さち)多かれ」と祈ります。そして子どもたちの将来を少しでも不安のない確かなものとするために、寺社仏閣に詣でたり、徳の高い宗教者から祝福を受けたりすることを願います。それは主イエスの時代も同じであり、親たちは偉大なお方である主イエスが来られたと聞いて、自分の子どもたちを主のもとに連れてきたのです。

 ところが、主イエスの「弟子たちはこの人々を叱った」とあります。手をおいてもらおうと子どもたちを連れてきた親たちを、厳しく叱責したのです。それはなぜであったでしょう。主イエスはこの地においても、多忙を極めておられました。集まって来る群衆に神の国の福音を宣べ伝え、主に助けを求める大勢の人々に癒しの業をなさっておられました。弟子たちはそのような主イエスを、子どものことで煩わせてはいけないと思って、叱責したのかも知れません。

 あるいは弟子たちは、自己本位な御利益だけを求める親たちの姿を許しがたいと思ったのかも知れません。子どもたちを連れてきた親たちは、神の国の福音を聞こうとやって来たのではありませんでした。主イエスに救いを求めて、ここに来たわけではありませんでした。自分の子どもに少しでも主イエスの御利益があるように、それだけを求めてやって来ました。弟子たちはそのような親たちが、主イエスを真剣に求める人たちへの伝道には邪魔になるだけだと考えて、彼らを押し止めようとしたのではないでしょうか。弟子たちなりの配慮と真剣さからそうしたのではないかと思うのです。

 ところが、主イエスはどうなさったでしょう。14節にはこのようにあります。「しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』」主イエスは、親たちではなく、弟子たちに対して「憤られた」と言うのです。この「憤られた」という言葉は、マタイやルカの並行個所には見られず、マルコだけに使われている言葉です。弟子たちなりの配慮や真剣さを考えると、主イエスが急に「憤られた」というのは、奇異な感じすらします。しかし、「憤られた」ということの中に、主イエスの断じて譲ることのできない御心が、強く表わされているように思うのです。

 主イエスは、「神の国はこのような者たちのものである」と言われています。これは、神の国にはだれが招かれているかという問いに、置き換えることができます。「神の国には、子どもたちのような者たちが招かれている」と言うのです。

 子どもたちは、いつの時代にも親にとっては欠けがいのない存在です。しかし社会の中では、本当には大切にされていません。大人中心の社会の中では、たえず周辺に置かれ、軽んじられているのではないでしょうか。 ゲーム機やケイタイ、サブスクの購買者として、あるいは子育てや教育に関わる様々なサービスの対象としては、大事にされているかも知れません。大事なお客さんです。しかし、大人社会の勝手な都合や利害によって、利用され搾取される存在であるのです。

 今日の弟子たちにとっても、子どもたちは神の国、神の救いからいちばん遠い存在であったに違いありません。弟子たちはメシアである主イエスに仕える自分たちが、神の国にいちばん近いと考えていました。その彼らの外には、主イエスに救いを求めて集まって来た群衆がいる。その外には自分の救いには無関心で子どもの御利益のためだけに集まって来ている親たちがいる。そして何も分からず、ただ連れてこられた子どもたちは、神の国から最も遠いところにいるというのが、弟子たちの認識だったのではないでしょうか。

 しかし主イエスは、最も遠くにあると思われていた者、周辺に追いやられていた者、子どもたちのような者たちが、神の国には招かれていると言われています。神は誰よりも先に、それらの者を御国へと招かれます。それはクリスマスのメッセージでした。神が真っ先に招いておられる者たちを、人間が自分の思慮や判断で妨げてはならない。神の御心を妨げてはならない。主イエスは、彼らのしようとしたことが、神の御心を妨げることであったがゆえに、「憤られた」のです。

かつてフィリポ・カイザリアで、受難予告をされた主イエスを、弟子のペトロがいさめようとしたことがありました。そのとき主イエスは、「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロを厳しく叱責されました。それと同じような憤りを、ここにも見る思いがするのです。また主イエスは、徴税人や罪人と食事を共にしていたとき、それを批判するファリサイ派の人たちに対して、こう言われました。「『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マタイ9章12~13節)。救いから最も遠いと見なされていた者、周辺に押しやられている者が真っ先に招かれている。それゆえに主イエスは、「妨げてはならない!」と厳しく言われたのです。

 しかし、どうして主イエスは、そのように断言されたのでしょう。なぜ、救いから最も遠いと見なされていた者、周辺に押しやられている者が、真っ先に神の国に招かれているのでしょう。主イエスは、私たちの疑問に答えるかのように、次のように言われるのです。15節「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」主イエスは、神の国に入ることのできる要件は「子供のようになること」だ、と教えておられるのです。

 そこではもちろん、子ども、特に幼な子のもつ純真さとか汚れのなさとかが言われているのではありません。子どもと関わった経験のある人なら、だれでも知っているように、子どもはいつも純真であるわけではなく、汚れがないわけでもありません。そうではなく、ここでは親や世話をしてくれる大人にすべてを委ねきっている子どもたちのあり方に、光が当てられています。幼い子どもは、本能的と言ってもよいほど、親に頼り切っていいます。そして頼り切っているがゆえに、安心しきって、今日という日を力いっぱい生きています。そのような子どもたちの有り様が、私たちのお手本なのです。この子どもたちのように、父なる神にすべてを委ねきっていることが、神の国に入ることの要件なのです。

 幼稚園の子どもたちなどを見ていると感じますが、小さい子どもにとっては、親ほど大切な存在はありません。幼稚園では、先生たちがお母さん代わりです。お母さんやお父さんが大好きで、お母さん、お父さんに頼りきっているのです。子どもたちは、そんな大好きなお母さん、お父さんには、いつも注目していてほしい、見ていてほしいと考えます。そのため親にとって望ましいことをして褒められると、その褒められた行動を何度でも繰り返して、いつの間にか身に付けてしまうのです。他方、親にとって望ましくないことをして叱られても、親が叱るという仕方で注目してくれることが分かると、それを何度でも繰り返すのです。親は子どもが望ましい行動をとったときには、積極的に注目を与えてやるべきなのに、案外褒めることもせずにやり過ごしています。一方、子どもが望ましくない行動をとったときには、その行動を無視するべきなのに、叱る、怒るということを繰り返して、かえって子どもに注目を与えすぎてしまいます。その結果、子どもは望ましくない行動をすることで、親から注目してもらえることが分かっているで、望ましくない行動を繰り返してしまうのです。たとえ叱られたり、怒られたりしても、それでもいいから、大好きな親に注目してもらいたいと願うのが、小さな子どもなのです。親からまったく顧みなれないこと以上に、辛いことはありません。そのようなことから考えても、小さな子どもがいかに親に頼りきっているかが、痛いほどに分かるのです。

 考えてみると、世の人々から救いに遠いと思われていた人々、すなわち徴税人、遊女、罪人といった人たちは、この幼な子のような切実さで、父なる神さまに依り頼んでいたのではないでしょうか。彼らはこの次の箇所に出てくる富める青年のように、自分の正しさや功績に頼ることはできませんでした。この人たちは、主イエスの語る福音を聞き、主が罪にあえぐ自分たちのところに医者として来られたということを、驚きと喜びをもって聞き取ったに違いありません。そんな彼らにとって、父なる神さまに依り頼むことが、彼らを支えてくれるすべてでした。彼らは神さまに依り頼む以外に、自分たちが生きていく道はないことを知っていいました。それはまさに「幼な子」のもつ切実さでした。けれども、そのような切実さの故に、彼らは神の国に入る資格を得ていたのです。

 今日の個所で主イエスの弟子たちは、人々が子どもたちを主のもとに連れてくるのを叱った、妨げようとしました。それは弟子たちが、利己的な御利益を求める親たちを福音宣教の妨げになると考えたからです。人は自分の功績や敬虔さを積み重ねていくことによって、つまり自分の立派さによって、神の御国へと近づいて行かなくてはならないと、考えていたからだと思うのです。

 しかし、彼らは最後まで主イエスに従って行くことができたかというと、そうではありませんでした。主イエスのいちばん近くにあることを自負していた弟子が、主イエスがユダヤの官憲に逮捕され、十字架に付けられることが分かると、主イエスを見捨てて逃げ去りました。「命を捨てることになっても、あなたに従っていきます」と豪語したペトロさえ、3度も主イエスを知らないと否定しました。弟子たちは主イエスを裏切りました。彼らは主イエスに近い者であるどころか、弟子と呼ばれる資格すら失ってしまったのです。

 しかし、十字架の死から復活された主イエスは、もう一度彼らを、ご自分のもとに招かれました。復活された主イエスは、彼らの罪を赦し、再び弟子として立たせ、神の国の福音を宣べ伝えさせるために、彼らを派遣したのです。弟子たちそのような挫折と再生の経験をして、主イエスが今日の個所でおっしゃっていることの本当の意味が、分かったのではないでしょうか。

主は、「子どもたちをわたしのところに来させなさい、妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃいました。それは、私たち人間のだれもが、幼な子のような者でしかあり得ないからなのです。自らの力や立派さで、神の国に至ることはできません。何もできない無力さの中で、主イエスに依り頼み、招いていただくことによってしか、神の国にはいることはできないからです。主の憐れみと赦しの中でのみ、神の御国に入ることができるからです。主イエスは今日の個所で、まさに私たちのような者を招こうとされて、「妨げてはならない」と憤ってくださったのです。今日の聖書で、招かれ、抱き上げられ、手をおいて祝福していただいた幼な子は、実は私たち自身の姿なのです。

主イエスのそのような恵みと憐れみを覚えて、そして私たちを御国に招くためにご自身を十字架に捧げられた主の深い愛を覚えて、今日から始まる新しい一週間を歩んでいきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心より讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に、対面とオンラインで礼拝を守ることができ、感謝いたします。今日は主のもとに子どもたちが来るのを妨げた弟子たちに、主イエスが憤られたという箇所を学びました。主が憤られたということの中に、子どものように神の国を受け入れる者を、何としてでも招こうとされる主イエスの強い思いを知らされました。どうか、私たちも子どものように、神さまにすべてをゆだねて依り頼む者となることができますよう、私たちを導いていてください。群れの中には病床にある者、高齢ゆえに様々な労苦を抱えている者、人生の試練に立たされている者がおります。どうか、あなたが共にいまして、その御手をもって一人ひとりを支えていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  1月19日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    マタイによる福音書6章25-34節

説  教   「思い悩むな」  高橋加代子

主日礼拝    

午前10時30分   司式 三宅恵子長老

聖     書

  (旧約) 創世記18章9-15節  

  (新約) マルコによる福音書10章17-22節

説  教 「キリストのまなざしの中で」  藤田浩喜牧師

神の確かな導きを信じて

マタイによる福音書2章13~23節 2025年1月5日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 クリスマスの恵みの時を過ごし、今2025年最初の礼拝を守っています。ここにおられるお一人おひとりが、新たな思いをもって、このときを迎えておられることでしょう。そうした中で、わたしたちは今日、御子イエス・キリストの誕生後の出来事についてご一緒に学びたいと思います。

 クリスマス礼拝においては、マタイによる福音書2章1~12節から御子イエス・キリストの誕生に際して、本来そのことを喜ぶべきユダヤの人々、エルサレムの人々には何の喜びもなく、ただ、異邦の世界の占星術の学者のみが、御子に礼拝をささげ、大きな喜びを示した、ということを知りました。それによって、イエス・キリストが、ユダヤの国という限られた所においてだけでなく、全世界において崇められるべき真の救い主であり、王である、ということが明らかに示されました。

 このように、マタイによる福音書は、ルカによる福音書のように、喜びという色彩で御子キリストの誕生の物語を記すことはしていません。唯一、学者たちの喜びが記されているだけです。これは、何を意味しているのでしょうか。ベツレヘムへの旅、家畜小屋での誕生、ゆりかご代わりの飼葉おけ、あとで学ぶエジプトへの避難、ガリラヤのナザレでの滞在、その一つひとつが赤子の誕生と幼子の成長にとって、大変な困難と危険を伴うものであったことは、誰の目にも明らかなことです。

 神の御子であり、世界の人々を救う働きをなさるお方が、なぜに、これほどの苦悩を誕生のときから味わわねばならなかったのか。ほとんどの人々が、そのような問いを抱くのではないでしょうか。最初のクリスマスの出来事には、喜びや明るさももちろんありますけれども、特にマタイ福音書においては悲しみや暗さの方がより前面に出ているということが、わたしたちがもつ偽わらざる印象です。

 この暗さの中に、わたしたちは、少なくとも二つのことを見ることができるように思います。その一つは、わたしたち人間の主イエスに対する拒絶ということです。自分自身をすべてのものの主(あるじ)としたがる人間にとって、真の主としてご自身を表されるイエス・キリストに対する激しい拒否が、もう既に幼子イエスに対して投げつけられているということです。エルサレムの人々や律法学者・祭司長たちのイエスに対する無関心も、ユダヤの王として君臨していたヘロデ王の恐怖と殺意も、それはわたしたち自身が、生まれながらに持っている神の御業への拒絶を表しているものである、ということなのです。したがってわたしたちは、彼らの主イエスに対する冷淡で、憎悪に満ちた反応は、わたしたち自身も持っているのだ、ということを知らなければならないでありましょう。

 もう一つのことは、イエス・キリストの誕生と成長の初期における苦しみの中に、既に主イエスの十字架の苦難の予兆が表れている、ということです。幼子イエスが受けた苦しみは、やがて成長して十字架の上で受ける苦しみと死の予兆です。御子キリストが、人類の罪を担って、十字架の上で贖いの業を成しとげられるということが、既に御子の誕生とその後の成長における苦しみという形で示されているのです。マタイはそのことを明らかにしようとしています。

 神は、あえてそのような中に、御子キリストを生まれさせ給いました。ここに、罪人すべてに向けられた神の救いのご意志を読みとることができます。主イエスの飼い葉おけの上に既に十字架の影が射している、といわれるのは、そういう意味においてなのです。したがってクリスマスを祝うということは、わたしたちがキリストと共に苦難を担うとの決意が伴ってこそ意義がある、ということになるのです。このように、御子の苦悩には、単に当時そういう状況であったということではなくて、むしろ、神のご意図が隠されていることを、読みとることが求められているのです。

 ところで、御子キリストを拒絶したのは、当時のユダヤ人であり、また、その中に、わたしたち自身の主イエスに対する姿勢が示唆されていることを見たのですが、それを典型的に表したのがヘロデ王でした。このヘロデ王は、日曜学校の生徒たちが聖誕劇をやるときなどには、やり手がいなくて困ることがあるほどに、悪役のイメージが強い人物です。確かにそのとおりの人物であったのでしょうが、この人物の中に表されている罪を、わたしたちは自分の中にもあるものとして重ねて考察するということは、大切なことがらであるように思います。

 ヘロデは一体何をしたのでしょうか。よくご承知のとおり、学者たちがユダヤ人の王として生まれたイエスを確かめたあと、ヘロデのもとに立寄るように命じたのに、それを裏切ったことを知って(12節)、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(16節)のです。幼児虐殺という残忍行為の首謀者がヘロデでした。それだけでなく彼は、身内の者や我が子をも、自分の地位を狙うものとして殺した悪名高い人物であります。

 パスカル『パンセ』(随想録)に次の文章があります。「ヘロデが殺させた2歳以下の子どもたちの中に、ヘロデ自身の子どももいたことをローマ皇帝アウグストが知ったとき、こう言った、『ヘロデの息子になるよりは、ヘロデの豚になる方が安全だ』と」。それほどに言われる残虐なヘロデの手から、幼子イエスはどのようにして逃れることができたのでしょうか。それは、主の天使がヨセフに現れて、エジプトに逃れるように告げることによってでした。ヨセフに守られて、御子イエスは魔の手から逃れることができたのです。

 また、ヘロデの死後、その息子アルケラオがユダヤを治めるようになったときにも、ガリラヤのナザレに逃れて成長することができました。こうして御子は守られたのですが、その背後においてヘロデの手による幼児虐殺という大いなる犠牲が払われたのでした。そのようなことを伴いながらではあっても、主イエスの幼い命が守られたことはなぜだったのでしょうか。

 それらはすべて、やがて避けることのできない神の決定としての十字架の死のために備えるものであった、ということによるのではないでしょうか。十字架による贖い、救いの完成という大事業をなすまで、主イエスは神の御手によって守られたということでありましょう。仕えさせるためでなく、仕えるための生涯を主が全うするために、時が必要でありました。そして、その時が満ちたとき、神はご自身の御子の命さえ奪いとられることをお許しになったのです。わたしたちにおいても同じであります。それぞれに時がある、ということを深く思わせられます。自分に与えられた務めと命(めい)とに誠実に立ち向かっていくときも、立ち上がるときも走り出すときも、また辞するときも死ぬときも、神ご自身の定めのままにそのことが示され、また、行われるということを、わたしたちは確信してよいのであります。

 そのような神への固い信頼と全面的な明け渡しというものを、わたしたちは、ヨセフの行動の中に見ることができます。ヨセフの神の御言葉への忠実さは、既に1章18節以下のところに示されていました。天使の言葉である「妻マリアを迎え入れなさい」、「その子をイエスと名付けなさい」に対して、ヨセフは「妻を迎え入れ」(24)、「その子をイエスと名付けた」(25)というように素直に従いました。そのようなヨセフの姿勢は、今日の箇所においては、三度にわたって記されています。第一に13節と14節において幼子を連れてエジプトに逃げ、そこにとどまったこと、第二に20節と21節において幼子を連れてイスラエルの地に帰ったこと、そして第三に22節と23節においてガリラヤのナザレヘ行くようにとのお告げに従ったことです。14節において「夜のうちに」エジプトへ行った行為などは、特にヨセフの神の御言葉への全き従順と敏速な応答とを示しているといってよいでしょう。躊躇なく神に従う一人の忠実な僕がそこにいるのです。

 ほかに何の頼るべきものを持たないものであったとしても、これほどに自分と愛する家族とを神の御言葉に委ねて生き続けたヨセフの姿に、わたしたちは心ひかれるものを感じないわけにはいきません。信仰はある種の愚かさを伴うものであるのかも知れません。先が見えない中で、今示される御言葉に愚直なまでに従うということが、信仰の領域にはあるのです。

 それほど単純に信じてもよいのかとか、それほど献身的に仕える必要があるのかとか、そんなに素直に神の約束や希望を受け入れてもよいのかというように、他の人から見れば、愚かとしか思えないほどの信仰に生きることは、実際にあり得ることではないでしょうか。ヨセフがどれほど深く、主イエスを通してなそうとしておられる神の御業やご計画を知っていたのだろうか、という疑問はあるでしょう。しかし、つねに神の言葉を尋ね、それを待ち、それに依存して生きた生き方は、わたしたち一人ひとりに信仰の旅路のあり方を教え示してくれるものでありましょう。

 そして、さらに、ヨセフを超えて、このヨセフを導かれた神のみ腕の確かさを彼の上に見ることが求められています。ヨセフの従順を生み出しだのは神の確かさであったのです。「わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか」(イザヤ50:2)。そんなことはないと神は言われます。その確かなみ手、み腕が、この全世界と歴史とを導き、また、わたしたち一人ひとりの上にも伸ばされているのです。

 さて、御子のすべての出来事に神の隠されたご意図がある、ということを先ほど述べました。そのことをマタイ福音書は、旧約聖書における預言や約束が成就した、という形で示すのであります。そのことはすでに1章22節で示されましたが、今日の箇所では次のように言われます。15節の「主が預言者をとおして言われたこと」とはホセア書11章1節のことです。また17~18節のエレミヤの預言は、エレミヤ書31章15節に出てきます。さらに23節の「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言は、イザヤ書11章1節や士師記13章5節などがそのことを語っている、と考えられています。

 今詳細に旧約と新約を照らし合せて検討することはできませんけれども、マタイが御子に起こる一つひとつの出来事の背後に、神の確かなご意志とご計画があることを示すことによって、御子イエスが「インマヌエル」と呼ばれるにふさわしい実体を備えたお方であることを証ししようとしているのです。主イエスに起こることは、神のみ腕の中で起こるのだ、という信仰の告白がここにあります。  

そして、そのことを明らかにすることによって、この福音書は、わたしたち自身が主イエス・キリストと共にあるならば、このわたしたちにおいても、神は共にいてくださり、神の御腕の中でわたしたちのすべてのことが起こるのだということを教えようとしているのです。イエス・キリストが共にいてくださるから、大丈夫だと告げられているのです。どのように激しい苦悩でも、悲痛なことであっても、神が主イエスにおいてわたしたちと共にいてくださるならば、神がご存じであり、計画しておられること以外のことは起こらない、と確信してよいのです。インマヌエルと呼ばれる主イエス・キリストによって、そのような神との確かな結びつきが始まったことをわたしたちは確信できるのです。

 新しい年を、都エルサレムから主イエスを閉め出したユダヤ人のようにではなくて、自分の心の王座に、主イエス・キリストを唯一の主としてお迎えしましょう。そして、わたしたちの国と世界の平和と和解、私たちの社会における共に生きる関係の確立のために、それぞれの賜物に応じて用いられるものでありたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日2025年最初の礼拝を愛する兄弟姉妹と共に守ることができ、心から感謝いたします。御子イエス・キリスト誕生後の出来事を共に学びました。幼子が人間の憎悪をまとった支配者のゆえに翻弄されつつも、神さまに守られ導かれたことを共に聞きました。そこに父ヨセフのあなたにすべてをゆだねる信仰があったことを知らされました。わたしたちもヨセフの信仰に倣い、あなたの御心にゆだねていく1年を送らせてください。世界は今多くの危うさと不安の中にあります。どうか今戦争のさ中にある人々、激しい災害のために苦境に置かれている人々に、あなたの守りと平安をお与えください。群れの中には病床にある兄弟姉妹、高齢ゆえの労苦を負っている兄弟姉妹がおります。どうか、一人ひとりをあなたが支え導いていてください。あなたの平安で満たしていてください。このひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。