次週の礼拝   12月14日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ルカによる福音書2章8~20節

説  教   「羊飼いに現れた天使」   藤田浩喜牧師

 

主日礼拝  

午前10時30分 アドヴェントⅢ 司式 山根和子長老

聖     書

 (旧約) イザヤ書7章13~14節

 (新約) マタイによる福音書1章18~25節

説  教   「神は我々と共におられる」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝  12月7日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ルカによる福音書2章1~7節

説  教   「主イエスの誕生」  三宅恵子長老

 

主日礼拝   

午前10時30分 アドヴェントⅡ 司式 藤田浩喜牧師

聖     書

 (旧約) サムエル記下11章1~5節   (聖餐式を執行します)

 (新約) マタイによる福音書1章1~17節

説  教   「罪から祝福へと導く神」  藤田浩喜牧師

ひとりのみどりごの誕生

イザヤ書9章1~6節 2025年11月30日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今年もアドベント・待降節を迎えました。今日はイザヤ書によって、救い主誕生の預言の言葉を聞こうとしています。それがイザヤ書9章1~6節です。

 この預言がイザヤによって語られた時代背景について、まず考えておきましょう。先立つイザヤ書7章の時代、南王国ユダは、大国アッシリアの脅威とともに、北イスラエルとシリアの連合軍から同盟軍に加わるようにとの圧力を受けるという、もう一つの脅威の下にありました。そのような中で恐れ、ろうばいするアハズ王に「静かにしていなさい。恐れることはない」と言って励ました預言者イザヤが、神から示されて語ったのが、7章の〈インマヌエル預言〉でした。

 それから十年位経過した時代が、今日のイザヤ書9章の時代です。このときすでに、恐れていた大国アッシリアが北イスラエルに侵攻してきて、その領土の一部がアッシリアの占領下におかれていました。その状況を8章22節以下の箇所から読み取ることができます。8章22~23節に「苦難、闇、暗黒、苦悩、追放」といった言葉が並べられています。また9章1節に「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」と言われています。これらの表現から、イスラエルの国全体が政治的・軍事的な圧迫の下で、精神的にも苦しい状況に追い込まれ、希望を失った暗闇の中におかれていることを想像することができます。

 神によって選ばれた民であり、神から与えられた土地に住んでいる自分たちであるということに人々は疑いを抱き始め、「わたしこそあなたがたの神である」と言われる主なる神への信頼が、大きく揺らぎ始めていました。国壊滅の危機の中でイスラエルがイスラエルとして、すなわち神の民として存在し続けることに対する危機が、民の間に生じているということです。それを一個人になぞらえて言えば、自分とは一体何ものなのかが分からなくなってきた状況、自分が崩れていく状況・アイデンティティー・クライシスに陥っている、ということになるでしょう。北イスラエルと南ユダの民は、光を失った闇の中で、どうあったらよいかが分からなくなっているのです。

 そのような民に対して預言者イザヤは、希望の光を指し示します。それが「ひとりのみどりごの誕生、ひとりの男の子の誕生」の預言です(5節)。ここでは、その子がすでに「生まれた」とか「与えられた」というように、過去形で語られています。これは現実においてすでに起こったことではなくて、これから先、このことが確実に起こる、間違いなくこの通りのことが起こるということを言い表そうとしている表現なのです。実際は将来のことを語りながら、すでに起こったことのように過去形で語る、この文法を預言者的過去ということがあります。預言者の言葉には、よく見られるものなのです。

 預言者イザヤは、新しい王、新しい統治者がこの国に起こり、この方が、全イスラエルを守り、闇から光へ、死から命へと変えてくださると、確信をもって預言しているのです。それゆえ、1節で「死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と語ることができ、2~3節においても、「喜び」、「楽しみ」が語られ、苦悩や苦痛や戦いなどからの解放が力強く宣告されることになります。

 3節にある「ミディアンの日のように」というのは、土師記6章33節以下に記されている記事であり、神が士師ギデオンを用いて、イスラエルの民を襲うミディアン人を制してくださったことを指しています。その日のように、神は全イスラエルの民を、外国の圧迫から解放してくださると、確信をもって語られているのです。何よりもそのことは、ひとりのみどりごの誕生によって、その方が王に即位することによって現実のこととなる、と預言されています。

 そのみどりごにやがて与えられる名、それはまた、その働きの内容も意味しているのですが、それが5節の後半に4つあげられています。この5節の句は、ヘンデルの「メサイヤ」の中でくり返し歌われているものとして知られています。思い起こされる方もおられるでしょう。四つの名とは、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」です。最初の「驚くべき指導者」についてあとで考えることにして、先にその他の三つについてごく簡単に考えてみましょう。

 「力ある神」とは、神のような力をもって、民を導き、民に勝利を与え、そして救いをもたらすことができる者という意味です。「永遠の父」とは、真の父親のように、愛と厳しさとをもって、その子らを守り、民を守り、決して見放さない者ということを意味しています。「平和の君」とは、国の内外において争いや戦いをなくし、繁栄と平和な状況を造り出す者のことです。このような働きをする方が、「わたしたちのために生まれ」、「わたしたちのために神によって与えられる」、その方こそが闇を光に変える救い主である、と歌われています。

 さらに、この方につけられるもう一つの名が、最初に出てくる「驚くべき指導者」という名です。これは、口語訳聖書では「霊妙なる議士」となっていて、分かりにくいものでした。それが新共同訳では、「驚くべき指導者」と訳し変えられました。他の日本語訳としては、「驚くべき助言者」、(フランシスコ会訳)とか、「不思議な助言者」というものもあります。この「指導者」とか「助言者」と訳されている語の本来表すものは、軍事的には参謀の役を担う者であり、政治的には王や君主に助言を与える議官を意味し、そして一般的には、助言したり、弁護したりする人、あるいは私たちが普通に用いる「カウンセラー」の役を果たす人のことを言います。多くの英語の聖書では、〈ワンダフル・カウンセラー〉と訳されています。救い主としてお生まれになる方は、統治者であり、王であられると共に、自らカウンセラーとしての役を果たされるお方であるということが、ここで言い表されているのです。

 ユダの国に救い主として生まれ、全イスラエルに希望の光を照らしてくださる方は、王でありつつ、助言者でもあってくださるお方です。彼は支配し、統治しつつ、民族の危機に介入し、民たちに、一人ひとりに、自己の存在の意味と目的とを再発見させて、生きることの手助けをしてくださるお方です。そのような方がこの国で生まれる、とイザヤはその誕生を預言するのです。

 長い歴史の経過の中で神を信じる人々は、このようなみどりごの現れは、神の御子イエス・キリストにおいて現実のこととなった、と受けとめました。先になされたインマヌエル預言を、神がわたしたちと共にいてくださるということが、御子イエス・キリストにおいて成就したと受けとめたイスラエルの人々は、9章5節の「ひとりのみどりごの誕生」も、神の御子の誕生を意味するものであったと信じて疑わないのです。究極的には、この二つの誕生預言は、神の御子イエス・キリストの誕生へと流れ込むものでした。男の子につけられるであろうと言われた四つの名「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」、これらのすべては、主イエス・キリストの人格とその業との中に含まれていることを、私たちも深い畏れと大きな感謝とをもって覚えることができるのではないでしょうか。

 ひるがえって、私たちは、このみどりごは、今、ここで生きる私たち一人ひとりにとっても「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」であってくださることを確信してよいです。「わたしたちのために生まれた」、「わたしたちに与えられた」と言われる「わたしたち」の中に、ここにいる私たちが、その一人ひとりが含まれているのです。主イエス・キリストは、私たちにとってもワンダフル・カウンセラーであってくださいます。

 イザヤ書8章の終わりから9章にかけて描かれているイスラエルの暗い時代状況は、今日においても形を変えて存在しています。希望の光がうすれ、暗闇と死の陰が、私たちの時代をおおっています。一人ひとりの個人的な生活の領域においても、日本の社会においても、さらには世界規模においてはいっそう、暗雲がたれこめているという状況は深刻です。私たちは出口を見出せない闇の中におかれています。具体的にその事柄をあげる必要がないほどに、私たちにはそれぞれに固有の、そして共通の不安や恐れや心痛める事柄があるのです。それは人間としての、あるいは人類としての存在の危機、生存の危機ともなり得るものです。

 どこに、私たちの恐れと問いとを投げかけたらよいのでしょうか。どなたに、私たちの生きることの苦しさと悩みとを訴え、相談したらよいのでしょうか。その問いの重みでこうべを垂れてしまいがちな私たちに対して、預言者イザヤは静かに、そして力強く「こうべをあげよ」と語りかけるのです。そして彼は告げます。「あなたがたには、驚くべき指導者がいるではないか。ワンダフル・カウンセラーが、あなたがたには与えられているではないか」と。そしてその声に促されてこうべを上げるとき、私たちそれぞれの前に、イエス・キリストが立っていてくださるのを見出すことができるのです。この方が、私たちのために驚くべき指導者、真の意味でのカウンセラーとしての働きをしてくださるのです。

 カウンセラーとしての必要な条件は、相手をよく知っていることと、語るべき適切な言葉を持っていることです。主イエスは私たちと全く同じ人の姿をとって、人間として生きられ、死んで行かれました。その主は、「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ2:18)と言われるように、私たちの苦しみと痛みと望みなき状態をご存じであられます。

 また、主イエス・キリストは、神の言葉としてこの世に来られたお方だからこそ、一人ひとりに語るべきふさわしい言葉をお持ちなのです。この方に問うことによって私たちは、自分自身の抱える苦悩や疑いに関する回答を与えられるだけではありません。人間として存在することの意義、人類の向かうべき方向も示されるのです。聖書の御言葉の中に私たちはこの主を見出すことができ、祈りの中で私たちはこの主に出会うことができるのです。そしてそのようにして出会い、そこで示された命と救いの言葉を、私たちは他の人々に運んでいくのです。

 ある人がこう問いかけました、「私たちのまわりはあまりにも暗すぎます。なぜ一日中クリスマスではないのですか。なぜ一年中クリスマスではないのですか」。しかしその暗さの中でこそ、人は光であり、助言者である主イエス・キリストを見出すことができるものとされているのです。

 「深い暗い井戸は、昼間でも空の星を映すことができる」。暗闇がおおうこの時代だからこそ、私たちは光を必要としています、そして、私たちは今その光を見出すことのできる状況の中におかれているのです。つまり、闇の中でなおイエス・キリストにおいて希望の光を見出し、自分自身の生を生きぬくことができるものとされるのです。すべての人の心の中に、御子が迎え入れられるときこそ、その人にとって御子が誕生したときです。そしてすべての人が、その喜びへと招かれているのです。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今年も主の御降誕を待ち望むアドベントの時を迎えることができました。

闇がひたひたと迫るような時代です。不安や恐れが私たちの中にはあります。しかしこの世界に来てくださった御子イエス・キリストは、私たちの苦しみ、悲しみ、恐れをご存じでいてくださいます。また、神の御子として私たちに必要な神の御言葉を与えてくださいます。そのような驚くべき助言者・ワンダフル・カウンセラーがいますことを、深く信じさせてください。明日から12月に入り、寒さも厳しくなっていきます。どうぞ、教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  11月30日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ルカによる福音書1章26~38節

説  教   「マリアへの受胎告知」  藤田浩喜牧師

 

主日礼拝   

午前10時30分  アドヴェントⅠ  司式 山﨑和子長老

聖     書

 (旧約) イザヤ書9章1~6節

 (新約) ヘブライ人への手紙2章16~18節

説  教   「ひとりのみどりごの誕生」  藤田浩喜牧師

信仰と疑い

創世記17章15~25節 2025年11月23日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

「神はアブラハムに言われた。『あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。』」(17:15~16)

 17章前半の部分で、アブラムは「アブラハムと改名せよ」と命じられましたが、同じように、サライも「サラに改名せよ」と命じられます。しかしアブラハムの場合と違って、ここでは改名の意味は語られません。「サライ」と「サラ」は、両方とも意味としては変わらず(王女の意)、「サラ」というのは「サライ」の新しい形だということです。アブラハムが「諸民族の父」となるように、サラも「諸国民の母」となると言われます。実際、そのように敬われてきました。

 アブラハムは、この言葉を素直に聞くことはできませんでした。アブラハムとサラ夫婦が、最初にその約束の言葉を聞いてから、すでに25年の歳月が流れていました。しかし結局、サラから子どもは生まれず、二人は一計を案じ、女奴隷ハガルによってイシュマエルをもうけたのです。神様の約束は半分だけかなえられたようでありました。あるいは神様の約束を半分だけ聞いて、あとの半分を人間的知恵で補ったと言えるかもしれません。イシュマエルはすでに13歳になっていました。アブラハムもすでに、サラによって子どもを得ることは諦めています。神様の約束は、このイシュマエルによって実現するのだということで納得していました。サラも満足はしていなかったでしょうが、納得はしていました。

 アブラハムは、この神様の言葉をどのように聞いたでしょうか。「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』アブラハムは神に言った。                                    『どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように』」(17:17~18)。

 複雑な態度、そして複雑な言葉です。「神様、私たちはもう99歳と89歳です。新しいことは何も期待していません。神様があんな約束をくださったものだから、妻もいっときは期待していました。しかし実際に、ハガルによってイシュマエルが生まれた後、わが家はとても複雑な関係になってしまいました。日々、緊張の連続でした。イシュマエルで十分です。これが私たちの出した答えです。もう私たちをかきまわすようなことはやめてください」。

 15章のときは、神様に向かって、「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません」と言って、食ってかかっていました。あのときも不信仰の応答でしたが、まだ神様と対話を持とうとしていました。しかしここではそれも言わずに、じっと黙って神様の前にひれ伏しています。ひれ伏しながら、笑っています。うれしくてそれを抑えるようにして、ほくそ笑んでいたのではありません。神様の言葉を鼻で笑い、神様の言葉を信じて待ち続けた馬鹿な自分をあざ笑っているのです。そして落ち着き払って言いました。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように」(17:18)。これが99歳の、人生経験豊かな、しかも信仰深い男の出した答えでした。

 しかし、神様ははっきりと言われるのです。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」(17:19)。

この「いや」と訳された言葉は、とても強い言葉です。「ノー」。この言葉によって、神様はアブラハムをもう一度信仰へと呼び戻されるのです。アブラハムは、神様を信じて歩んできましたが、一番の願いは叶えられませんでした。いくら待っても叶えられないので、自分でそれなりの道をつけて、それを神の祝福であると信じてきました。それがイシュマエルです。しかしそういうふうに神様を信じ、礼拝しながら、もはや神が全能であることを信じられなくなってしまっています。

 これは私たちの信仰生活に似ていないでしょうか。私たちも神様を信じ、イエス・キリストを自分の救い主と信じて歩み始めました。しかし何も起こらない。大した変化もない。一応信じてはいるけれども、それほど感動があるわけでもない。そういう毎日が10年、20年と続く中で、大体どうすれば、どうなるということがわかってしまう。そして神様の大型の恵みを信じ切れず、それを自分で信じることができる小型サイズの恵みに変えてしまうのです。ポケットに入る程度の恵みです。

 「信仰」というのはいつも、「疑い」と裏表です。疑うことがあるから、信じるということがあるのです。信仰をもっていると言っても、信じることと疑うことを行ったり来たりしています。その信仰も、何年もするうちに色あせてきます。そうした中、神様はそのような私たちに対して、「いや、私の備えている恵みはもっと大きい。あなたはそれを信じることができないのか」と言って、信仰の新たな地平へと呼び戻されるのです。この神様の小さな「いや」は、私たちのどんな大きな声よりも大きな意味をもっています。

 さて今日の箇所で、もうひとつ見逃すことができないことがあります。それはイシュマエルの存在です。イシュマエルは、もとはと言えば、アブラハムとサラの不信仰の結果、生まれたような子どもです。不信仰も罪であるとすれば、イシュマエルの存在自身がアブラハムとサラの罪の結果であると言えるかもしれません。実際に、サラに実子(イサク)が生まれると、イシュマエルは二人にとって、とりわけサラにとって邪魔な存在になっていきます。その子がそこにいること自体が、彼らに自分たちの罪を思い起こさせたでありましょうし、イサクの跡継ぎとしての地位を脅かすものに思えました。

 しかし神様は、このイシュマエルの存在も忘れることはありません。それがたとえアブラハムとサラの罪の結果であったとしても、です。「イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は12人の首長の父となろう」(17:20)。

 選びの器は、サラの息子イサクによって備えられていくのですが、イシュマエルもしっかりと神様の御旨のうちに数えられ、恵みを与えられるのです。

 私は、この世に生まれてくる生というのは、みんなそうであると思います。傍目(はため)には、祝福されていないかに見える子どももあるかもしれません。なぜこの子が生まれてきたのか。イシュマエルの存在は、サラにとってはイサクが跡継ぎになるための障害になる。しかしハガルにとっては、かけがえのない息子であります。イシュマエルという名前の意味は、「神は聞かれた」でした。それは何よりも「ハガルの悩みを聞かれた」ということでした(16:11)。

 17章の中には、表に登場しないもうひとりのお母さんが存在しています。陰に置かれたようなお母さんです。しかしその母親の息子への思いは、とても大きなものでありました。私たちの世界には、ハガルのようなお母さんがたくさんいます。イシュマエルの場合には、父アブラハムに認知されていましたから、アブラハムの家族に加えられていました。しかし父親に認められないまま、母親がその子を産む決心をして、生まれてくる子どももいます。もしかすると、実の母親からも愛されていない場合もあるかもしれません。しかしその命にも神様の愛が宿り、神様の御旨のうちに生まれてくるのです。

 イザヤ書49章14~16節に、こういう御言葉があります。

「シオンは言う。

主はわたしを見捨てられた

わたしの主はわたしを忘れられた、と。

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。

母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。

たとえ、女たちが忘れようとも

わたしがあなたを忘れることは決してない。

見よ、わたしはあなたを

   わたしの手のひらに刻みつける。」

 この箇所は、聖書の中で、珍しく神様が母にたとえられている箇所です。もしもこの世の母親が自分の子どもを忘れることがあったとしても、「わたしがあなたを忘れることは決してない」と言って、地上の母を超えた真(しん)の母のような存在であることを告げています。もちろんイシュマエルの存在は、常に母ハガルの祈りのうちにありました。

 イシュマエルが生まれること自体が、たとえアブラハムとサラの不信仰のゆえであったとしても、その子が生まれてきたということは、そこに神様の意志があったということです。そしてその子を祝福することによって、アブラハムとサラの不始末の罪をも贖ってくださるのです。

 この世に生まれてくる生には、必ず神様の祝福があり、意味がある。そこに命がある限り、必ず神様の意志があるのです。

 「この世に存在するものは、必ず何かの役に立っている。何かの意味がある」。 こうした価値観は元をただせば、恐らく聖書から来ているのでしょう。私が思い起こしたのは、今日、読んでいただいたテモテの手紙 一 4章4~5節の言葉でした。「というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。」

 聖書は、そう語ります。たとえ、それが何かの間違いで出発したことであったとしても、あるいは不信仰であったとしても、それがそこに存在するということは、神様の意志が働いたからです。そして神様の計画の中で、その罪が贖われて、きよめられて、神様に用いられていくようになるのではないでしょうか。

 大きなところで言えば、旧約聖書のイスラエルの歴史そのものがそういう面をもっていると思います。イスラエルの民が、最初に「自分たちも王が欲しい」と、預言者サムエルに訴えたのは、「他の国と同じように、王様がいれば、この国も強くなれる」というわがままな思いからでありました(サムエル上8章)。王がいなくて、神様が、そのつどふさわしい指導者(士師)を立てられつつ、直接支配されることこそがイスラエルの特徴でした。それなのに、民の声に押し切られて、サウル王が立てられていきます。これは、「目に見えない神様だと頼りないから、目に見える王が欲しい」という不信仰です。

 しかし、そのようにして始まったイスラエルの歴史がいつのまにか、神様の歴史になっていくのを見る思いがします。その次の王としてダビデが立てられ、イスラエルの民の希望の星となります。そしてその歴史のずっと先に、イエス・キリストが立っておられるのです。イエス・キリストこそは、まさに「目に見えない神様だと頼りないから、目に見える王が欲しい」という人間の願いの実現として、この世界に来られたと言えるのではないでしょうか。神様がその不信仰の罪を贖い、それを神の歴史としてくださるのです。

 私たちのこの世界、それぞれの人生にも、そうした神様の不思議な御計画、摂理があることを信じて、歩んでいきましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。アブラハムとサラの歩みを通して、あなたの御心を示されました。私たちの信仰生活においても、信仰と疑いが繰り返されています。そうした中で私たちは、あなたの恵みをポケットサイズの小さな恵みにしてしまいます。しかし、あなたは私たちの人生に介入され、「ノー」と言われ、私たちの信仰をあなたの大きな御計画のもとに引き戻してくださいます。どうか、あなたの御心を聴き取ることができますよう、私たちの信仰の耳を強めていてください。11月の下旬を迎え、本格的な冬の到来を感じさせます。教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。特に病床にある兄弟姉妹、高齢のために様々な困難を覚えている兄弟姉妹をお支えください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

嵐をしずめる

マタイによる福音書8章23~27節 2025年11月16日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今朝読んでいただいた御言葉は、こう始まっています。23節です。「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。」何気ない言葉ですが、丁寧に読んでみますと、改めて気づかされることがあります。それは、イエス様と弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に行こうとしていたわけですが、その舟にまず乗られたのはイエス様であって、そこに弟子たちも従って乗り込んだということです。弟子たちが乗った舟に、イエス様が乗り込んだというのではないのです。どっちでも同じではないかと思われるかもしれません。しかし、このことはとても重要なことです。

 前の段落の18節を見ますと、「弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」とあります。つまり、弟子たちは、自分たちで向こう岸に行こうと言い出したのではありません。自分たちが乗った舟にイエス様が乗ってこられたのでもありません。弟子たちはイエス様に命じられたのです。さらに22節を見ますと「わたしに従いなさい」とあります。弟子たちはイエス様に従っただけです。変な言い方かもしれませんが、この時弟子たちに落ち度はなかった。夜のガリラヤ湖に舟を出して向こう岸に渡ろうとしたのは、100%イエス様の責任、イエス様のご命令で行われたことだったのです。

 ところが、24節前半「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった」とあります。湖に舟を出すと、激しい嵐が起きたのです。舟は波に飲み込まれそうになったのです。

 ガリラヤ湖というのは、海抜約-200mほどの所にある湖です。海抜-200mのガリラヤ湖は、世界で2番目に低い所にある湖です。この低い所にある湖という地形のために、周りの山々から突風が吹いてくるということが起きます。現在でも起きています。この時も、そのような突然の嵐が、イエス様一行が舟を出したその夜に起きたのです。イエス様一行が乗っていた舟は多分、漁師たちが漁で使っている舟だったと思われます。それはとても小さな小舟です。湖が荒れれば、まさに木の葉のように揺られ、水も入ってくる。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは元漁師でしたが、このような状況になれば、どうしようもありませんでした。彼らは、このような突然の嵐の怖さをよく知っていました。恐らく漁師仲間の何人かは、このような嵐に巻き込まれて命を落とすということもあったのでしょう。彼らは必死でした。必死に舟を操り、入ってくる水をかき出していたことでしょう。彼らは命の危機を感じていました。「このまま嵐が静まらなければ、自分たちはもうお終いだ!」。そう思ったことでしょう。

 ところが、その時イエス様はどうしておられたでしょうか。聖書は、「イエスは眠っておられた」と記します。舟は波に揉まれて、めちゃくちゃに揺れています。波をかぶって、水も入ってくる。よくまあ、そんな状況の中で眠っていられるものだと思います。でもこの時イエス様は眠っておられたのです。

 この眠っておられるイエス様を見て、弟子たちはどう思ったでしょう。皆さんならどうですか? 一つは、イエス様への不満、怒りのような気持だったと思います。「こんな時によく眠っていられるものだ。」「あなたが舟を出せと言ったからついてきた。どうしてくれる。」そんな思いを持ったのではないでしょうか。そして、もう一つ。「主よ、助けてください」という叫びのような願いです。

 私たちは、ここではっきり知らなければなりません。イエス様に従っても、いやイエス様に従うがゆえに、嵐に遭う、絶体絶命の危機に陥ることがあります。イエス様に従っていくならば、必ず平穏無事な幸せな日々を過ごすことができるということではないのです。クリスチャンになれば、事故にも遭わず、病気にもならない、人間関係のトラブルにも巻き込まれない。そんな保証などないのです。

 けれども、イエス様はどうして、嵐に遭うような夜に舟を出させたのでしょうか。イエス様も弟子たちと同じように、嵐が来るとは思わなかったということなのでしょうか。そうではないと思います。イエス様はすべてを知っておられたと思います。しかし、あえて舟を出したということなのだと思います。なぜか。それは、弟子に対する一つの訓練だったのではないでしょうか。

 弟子たちはこの時、自分の経験、自分の能力、自分の力ではどうにもならない、自分では自分を救えない、そういう状況に追い込まれました。そこで彼らは、「主よ、助けてください」とイエス様に助けを求めました。これは弟子たちの叫び、弟子たちの祈りでした。そして、イエス様はこれに応えて、嵐を静められました。どんな危機的状況であっても、イエス様に助けを求めるならば大丈夫。弟子たちはそのことを、強烈に思い知ったのではないでしょうか。その経験をイエス様は、弟子たちにさせたということなのではないかと思うのです。

 舟が転覆しそうになった時、弟子たちに起こされたイエス様は、こう言われました。26節「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」しかし、この状況の中では怖がるのは当たり前です。こんな時に眠っておられるイエス様の方が変なのです。そう、イエス様が変なのです。どうして変なのか。それはイエス様がただの人間ではないからです。神の独り子、まことの神であられるからです。イエス様は風と湖とをお叱りになった。すると、すっかり嵐は静まり、凪になった。こんなことがおできになるお方だから、イエス様はこの天と地を造られた神様の独り子であられるから、この状況の中でも怖がることはなかったのです。でも、弟子たちは怖がった。ただの人間だからです。当たり前のことなのです。

 ここでイエス様は、弟子たちに「信仰の薄い者たちよ」と言われました。これは直訳すれば、「小さな信仰」です。信仰が無いのではありません。小さいのです。ここでイエス様は、小さな信仰しか持っていない弟子たちを叱ったのでしょうか。そうではないと思います。ただ事実を告げられただけなのです。

 弟子たちの信仰は小さい。それは事実です。私たちの信仰も小さいのです。イエス様のように神様と一つとなって、神様に対しての絶対的な信仰の中で生きている者などどこにもいません。だから、弟子たちと同じように「主よ、助けてください」と叫ぶようにして、イエス様に祈るしかないのです。そして、イエス様はその叫びに応えて、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言いながら嵐を静めてくださるのです。私たちにできることは、何とかこの嵐の中でも舟が沈まないように、一生懸命舟を操り、水をかき出すことです。そしてどうにもならないなら、「主よ、助けてください」とイエス様に助けを求めて叫ぶことなのです。イエス様は必ずその叫びに応えてくださるのです。

 私はこう思っています。自分としては精一杯やっているのだけれど、どうにもならないことはよくあります。そして、こうなったらどうしよう、こんなふうになったら困るな、そんな不安や怖れにとらわれてしまいます。その時どうするのか。この時の弟子たちと同じように、「主よ、助けてください」とイエス様に助けを求めたらよいのです。イエス様は必ずその叫びに応えてくださいます。 

 皆さんは、自分の信仰が弱いと思うこと、イエス様に「不信仰な者よ」と言われていると思うことはありませんか。もし、そのようにイエス様が言われていると思ったなら、大いに安心したらよいのです。イエス様は、私たちに「信仰の薄い者よ」と言って、お終いという方ではないからです。イエス様がそのように言われたなら、必ず、私が怖れている嵐を静めてくださいます。そのことを信じてよいのです。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者よ」と言われたなら、心から喜んだらよいのです。このイエス様の言葉を聞く人は、すでにイエス様の守りの中に生かされています。イエス様が同じ舟に乗っていてくださっているからです。

 さて、教会の歴史において、イエス様が乗ってくださっているこの舟は、キリスト教会のシンボル=象徴と考えられてきました。キリスト教会は時代の荒波の中、何度も沈みかけたことがありました。しかし、そうはなりませんでした。教会が知恵を持ち、力を持っていたからではありません。イエス様が共にいてくださり、嵐を静めてくださったからです。

 この舟はどこへ向かっていたでしょうか。聖書は「向こう岸へ向かって」いたとしか記していません。しかし次の28節を見ますと、この舟が向かっていたのは「ガダラ人の地方」であった。イエス様はこの地の墓場に住む、悪霊に取りつかれた二人の人から悪霊を追い出されたことが記されています。つまり、イエス様一行が向かった先は、ガダラ人という異邦人の地であり、そこに住む悪霊に取りつかれた人を救うためであったということなのです。

このことを教会に当てはめるならば、異邦人伝道へと向かう中で嵐に遭う、伝道の困難さを示しているとも言えるでしょう。伝道というのは、キリスト教会が復活のイエス様に命じられて、二千年の間、すべてのキリスト教会が行ってきたことです。この伝道という業は、すんなり楽々となされたことはありません。よく、現代の日本は伝道が困難だと言われます。しかし、何時の時代の、どこの国の伝道が困難ではなかったというのでしょうか。いつでも、どこでも、伝道は困難でした。その困難のただ中で、教会は、伝道者は、何度も「主よ、助けてください」と叫んだ、祈った。そして、その祈りは聞かれ、今の教会があるのです。困難はあります。自分の力ではどうにもならないような危機にも見舞われます。しかし、それでも大丈夫なのです。私たちがイエス様と同じ舟に乗ったからです。イエス様に従って、イエス様が乗っている舟に乗り込んだのなら、イエス様が必ず何とかしてくださるのです。

 もし今、本当に辛い、大変な状況の中にある人がおられるなら、「主よ、助けてください」と祈りましょう。本当に困った時、「助けてください」と叫ぶことは大切です。人間同士でも大切ですが、神様に「助けてください」と祈ることはもっと大切です。神様は必ず働いてくださって、私たちの思ってもいない道を開いてくださいます。だから安心して、人生という航海へと乗り出していきましょう。主はいつもあなたと共におられます。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を褒め称えます。

今日は南柏教会に集う子どもと大人が一緒に礼拝を守ることができました。そのことを心から感謝いたします。教会はイエス様が乗っておられる舟で。そこには子どもも大人も乗っています。教会という舟は小さい舟で、嵐に見舞われ、ひどく揺さぶられることもあります。転覆するのではないかと怖くなることもあるかもしれません。しかし、舟のあるじであるイエス様は風と湖を𠮟りつけ、嵐を静めてくださいます。イエス様がおられる舟に乗っている限り、私たちは守られ、無事に目的地に到着することができます。どうかイエス様が共におられることを信じて、人生という航海を続けさせてください。今週から寒さが強まりそうです。

どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、イエス様の御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  11月23日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ルカによる福音書1章5~25節

説  教   「洗礼者ヨハネの誕生の予告」 山﨑和子長老

 

主日礼拝   

午前10時30分        司式 三宅恵子長老

聖     書

 (旧約) 創世記17章15~25節

 (新約) テモテの手紙一 4章4~5節

説  教   「信仰と疑い」   藤田浩喜牧師

ペトロの流した涙

マルコによる福音書14章66~72節 2025年11月9日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

先ほどお読みした詩編41編10節に、こういう言葉が出てきます。

  「わたしの信頼していた仲間

   わたしのパンを食べる者が

    威張ってわたしを足げにします。」

 この詩編の作者、この中で嘆いている人物は、どうやら重い病気にかかっている人のようです。そして、どういうわけか分かりませんが、周囲の人々は、この人の弱り切った姿を見て、あざけったり、「いいざまだ」と言わんばかりのひどい態度を示したというのです。あげくの果てには、彼が元気な時、健康だった時には、いろいろ面倒を見てやった人たちまでが、病の床にあるこの人を見捨ててしまったと、この詩人は憤っているのです。

 10節に出てくる「わたしのパンを食べる者」というのは、この人が養っていた人、親しく世話をしてやっていた人という意味でしょう。家族か親族の一員ででもあったのでしょうか。自分の食べ物、自分のパンを分けてやっていた、そういう親密な人間までが、私を見限ったというのです。

 英語に「コンパニオン」という言葉があります。日本語に訳すと、「同伴者」とか「仲間」という意味になりますが、この言葉はもともと「クム」と「パーヌス」の組み合わせから作られた言葉で、その意味は「パンを共にする」ということです。つまり、「一緒にパンを食べる/食事をする」ような関係の人々こそ、「コンパニオン」、「同伴者」であり「仲間」なのだということです。

 この詩編41編の作者は、まさにそうした「コンパニオン」であった人々が、今や私を見捨て、私を裏切って去って行ってしまったと嘆いているのです。

 しかし、「コンパニオン」の裏切りを経験したのは、決してこの詩人だけではありません。主イエス・キリストも、ちょうどそれと同じ経験を味わったという事実を、私たちはよく知っています。                  

 あの木曜日の夜。最後の晩餐の後で、イエス・キリストは弟子たちと共にゲッセマネにおいでになり、そこで祭司長や律法学者、そして長老たちの遣わした群集によって逮捕されました。その人々を先導してきたイスカリオテのユダは、イエス様に接吻することによって、「誰がイエスか」を人々に知らせたと、マルコによる福音書14章43節以下に記されています。

  「わたしの信頼していた仲間

   わたしのパンを食べる者が

    威張ってわたしを足げにします。」

 詩編41編10節の言葉は、まさしくこの場面にぴたりと当てはまるのです。

 群衆に捕らえられた主イエスは、大祭司のもとに連れていかれ、そこで裁判にかけられました。

 その裁きの場には、「祭司長たちと最高法員の全員」(14:55)がいたと記されています。そうであるとすれば、主イエスは少なくとも100人近い敵対者たちに囲まれながら、憎しみと怒りのうず巻く状況の中で、たったひとり立ち尽くしておられたことになります。そこでは偽りの証言が飛び交い、あげくの果てには、主イエスに対する暴力、からかい、はずかしめが行われたということが、聖書に記されています。

 一方、大祭司の屋敷の中でそうした出来事が進んでいたころ、その建物の外でもひとつの事件が進行していました。

 ゲッセマネでは他の弟子たちと一緒にあたふたと逃げ出したペトロが、遠くから逮捕された主イエスの後について行き、ひそかに大祭司の屋敷の中庭にまで入り込んでいたのです。

 時間はすでに夜中を回っており、そろそろ夜明けに近づく時刻であったと思われます。中庭では火が焚かれ、ペトロはその屋敷にいた人々と一緒に火にあたっていました。春とはいえまだ寒い時期の夜のことです。屋敷の中で行われている出来事に関心を寄せながら、その家の人々は眠らずに、その裁判の終わるのを待ち続けていたのでしょう。

 その時、火に照らされたペトロの顔をじっと見つめていた、その屋敷の女中が言いました。

 「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」(14:67)

 この女は、さらにもう一度、「この人は、あの人たちの仲間です」と繰り返しました。

 すると、それを聞いたほかの人々も、「たしかに、お前はあの連中の仲間だ」と言い出したというのです。

 人々の言葉に恐れをなしたペトロは、人々に向かって、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言って逃げ出そうとしたと聖書は記しています。そして最後に、とうとうペトロは、「そんな人は知らない」と誓い始めたというのです。

  「そんな人は知らない。」(14:71)

 ここでもまた、あの詩編41編の作者の嘆きがぴたりと当てはまります。

  「わたしの信頼していた仲間

  わたしのパンを食べる者が

    威張ってわたしを足げにします。」

 ペトロが主イエスの手渡してくださったパンを食べたのは、わずか数時間前のことでした。数時間前まで、ペトロは「共にパンを食べる仲間」、「共に生きる仲間」、「コンパニオン」でした。そして、数時間後にペトロの口から出た言葉は「そんな人は知らない」だったのです。

 ペトロの姿の中に、私たちは人間の弱さ、罪深さを見ます。

 自分の一生において、誰よりも大切なはずの人を「知らない」と言えるほど、誓ってそう言えるほど、私たちは弱い者、罪深い者なのです。

 この時、ペトロと主イエスの距離は、屋敷の壁を隔てて、わずか数メートル、数十メートルにすぎなかったはずです。そんなに近くにいる主イエスを、ペトロは「知らない」と言ったのです。

古代中国、宋の時代のことわざに、「食人之食者死人事(人の食を食せし者は人の事に死す)」という言葉があるそうです。それは「食べ物を分け与えられた者は、それを分けてくれた人のために命をささげるべきである」という意味だといいます。「コンパニオン」という概念とは少し違うかもしれませんが、「パン」、「食べるもの」によって結ばれる人と人との交わりのきずな、「仲間」になるということの本質的な一面を、このことわざもまた教えているのではないでしょうか。

 最後の晩餐において、パンを裂いて弟子たちに与え、杯を共に分かち合った主イエスの思いの中に、このような中国のことわざの示すような意図が含まれていたのかどうか、私には分かりません。

 しかし、私たちキリスト者が聖餐にあずかるということ、主イエスの分かち与えてくださるパンを食べ、杯を飲むという出来事の中には、それ相応の粛然とした面があるということも、私たちは覚えておくべきだろうと思います。

 聖餐のサクラメントの中には、豊かな象徴が含まれており、いろいろな理解や受けとめ方をすることが可能です。例えば、それは主と共にする喜びの食事であるとも言えますし、私たちが互いに主によって結ばれた仲間であることを確認する食事であるとも言えます。またそれに参加することを通して私たちの信仰を告白する行為であるとも言えますし、この世に主を証ししていく新たな力を与えられる出来事であるとも言えます。

 しかし、主の受難を覚えるレントの時期に、ことに受難週に行われる聖餐について言うならば、その焦点となるものは、喜びや交わりということではなく、そうした喜びや交わりとは正反対のものにあると言わなければなりません。

 すなわち、聖餐にあずかる私たちが、このパンと杯にあずかることを通して見

つめなければならないのは、私たち人間の罪の深さであり、私たちの利己的な身勝手さです。私たちにパンを分けてくださる方、杯を分かち合ってくださる方に向かって「そんな人は知らない」と言い切る人間の弱さに対して、私たちは目を背けることなく、正面から向き合わなければなりません。

 主イエスは、先ほどご紹介した古代中国のことわざにあるような脅迫的なものの言い方はなさいませんでした。また主イエスは、詩編の詩人が嘆いたようなかたちで、ご自分を裏切った仲間たちを告発するということもなさいませんでした。

 かえって主イエスは、ペトロや私たちの人間的な弱さを先んじて思いやり、裏切りの後のことに至るまで、深い配慮をお示しになりました。

 2000年前のあの木曜日の夜以来、世界中のキリスト者は、聖餐式の度にパンを裂き、杯を受けることによって、あの晩の出来事を記念してきました。

 このあと、私たちが裂くパン、私たちが手にする杯は、そのような2000年間にわたる、主イエスの受難を告げるしるしであると共に、私たち弟子である者たちの罪を記念するしるしでもあります。そしてまたそれは、そのような私たちの弱さをよくよく知りつつ、それでもなお私たちを愛し、私たちを守り、私たちを見捨てないと約束していてくださる、私たちの主イエス・キリストを記念するしるしなのです。

 このあと、私たちが裂くパン、私たちが手にする杯は、小さなものにすぎません。しかし、このパンと杯にあずかることを通して、私たちは、私たちが「あの人の仲間」であることをはっきりと確認するのです。このパンと杯を、今再び主イエス・キリストの手から受け、主イエス・キリストの「仲間」であることを想い起こし、主イエス・キリストに従う決意を新たにしたいと思います。このことを覚えて、聖餐の恵みに共にあずかりたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心からあがめます今日も敬愛する兄弟姉妹と礼拝に与ることができましたことを、感謝いたします。ペトロが主イエスを三度否んだ箇所を学びました。そのペトロの出来事の数十メートルも離れていないところで、主イエスは最高会議の人々にあざけられ死刑の宣告を受けられていました。二つの出来事が同時進行で起こっていたことを知る時、私たちは自分の弱さや罪深さを痛感せざるを得ません。しかし主イエスは私たちの弱さや罪を超えて私たちを赦し、主イエスの仲間として生きる者としてくださっています。どうか、聖餐式に与るたびごとに、そのくすしき恵みを

私たちに覚えさせてください。季節は足早に進み、冬の始まりを感じるような

日々を過ごしています。インフルエンザの流行も心配されます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。今病床にある者たち、高齢のため困難を覚えている者たち、人生の試練の中にある者たちをお支えください。この拙き感謝とお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

次週の礼拝   11月9日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    マタイによる福音書8章5~13節

説  教   「百人隊長のしもべのいやし」  藤田浩喜牧師 

主日礼拝   

午前10時30分      司式 藤田浩喜牧師

聖     書

 (旧約) エレミヤ書5章20~25節   (聖餐式を執行します)

 (新約) マルコによる福音書14章66~72節

説  教   「ペトロの流した涙」   藤田浩喜牧師