日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録1章12~14節
説 教 「祈って待つ群れ」 三宅恵子長老
主日礼拝
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師
聖 書
(旧約) 詩編110編1~7節 (聖餐式を執行します)
(新約) マルコによる福音書12章35~37節
説 教 「王を超える王」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録1章12~14節
説 教 「祈って待つ群れ」 三宅恵子長老
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師
聖 書
(旧約) 詩編110編1~7節 (聖餐式を執行します)
(新約) マルコによる福音書12章35~37節
説 教 「王を超える王」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書12章18~27節 2025年5月18日(日)伝道礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日のマルコによる福音書12章18節以下には、「サドカイ派の人々」が登場してきました。福音書によく出て来るファリサイ派と並ぶ、ユダヤ教の一派です。サドカイ派のメンバーは主に、上級祭司、貴族、富裕層の人々です。そのようなこともあり、彼らは社会的な変革を望まない、保守的な人々でした。最高法院においては与党の立場にあり、政治的な指導権を握っていました。
彼らは宗教的にも保守的な一派でした。彼らは聖書のうち、律法の書(つまりモーセ五書、創世記から申命記まで)しか認めません。律法の書に明記されていること以外は、いっさい信じません。ですから彼らは復活を信じない。来世を信じません。「死んだら終わり」ということです。宗教的に保守的な人々が来世を信じないというのは、私たちの感覚からすると変ですが、ユダヤ教においてはそうなのです。確かにモーセ五書だけを見るならば、復活についても、来世についても、文字通りの意味においてそのような表現は出て来ません。同様の理由から、彼らは霊の存在も信じない。メシアを待望することもありません。
しかし、恐らく彼らがそれらを信じなかったのは、モーセの律法に文字通りに書かれていないから、という理由だけではないでしょう。ある意味では信じる必要もなかったのです。この世において恵まれていますから、この世のことだけで十分なのです。目に見えるものだけで十分なのです。現在のことだけでよいのです。終末の希望は必要ないのです。それでも神殿の儀式においては、自分の位置づけを持っています。宗教的なコミュニティにおいては、指導的な立場にあります。この世のことだけ考えていても、十分に宗教的でいられるのです。
ということで、今日の聖書箇所にはそのようなサドカイ派の人々が、「復活はないと言っているサドカイ派の人々」(18節)として登場してきます。これに対して、福音書によく出てくるファリサイ派の人たちは、復活も来世も霊の存在も信じています。ですからサドカイ派とファリサイ派は宗教的には対立関係にあります。そのようなファリサイ派に対して、サドカイ派の人たちが復活や来世があることを否定するために用いていた論拠が、今日の聖書個所に出てきた話なのです。そのような話を、彼らは主イエスのもとに持ってきて論争をしかけたのです。
サドカイ派の人たちは、旧約聖書の申命記を引用してこう語り出します。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」(19節)。ここに出てきますのは、私たちには馴染みの薄い「レビラート婚」という制度です。子孫を絶やさぬための制度でありまして、今日でも世界の少数民族などにおいて見られると言われます。まさにこの律法の言葉こそ、復活がないことの決定的な証拠になると彼らは考えていたのです。
続けて彼らはこう問いかけました。「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」(20~23節)。
これはレビラート婚の制度に馴染みがなくても、例えば配偶者と死別した後に再婚した人のことを考えれば分かると思います。復活があり来世があると困ったことになる、ということです。先にも申しましたように、このような議論は通常ファリサイ派との間でなされていたものです。そして、復活を信じるファリサイ派には一応答えがありまして、この場合、妻は長男のものとなることになっていたそうです。しかし、主イエスはそのようには答えませんでした。
主は言われました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(24~25節)。「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とは、この世におけるあり方とは全く異なるということです。救いが完全に実現している復活の世界を、今のこの世の延長のように考えてはならない、単にこの世の生活から類推して考えてはならない、ということです。
しかし、主イエスは単に答えを与えたのではありません。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」と言われるのです。これは実に強烈な言葉です。明らかに主イエスは、時の宗教家たちの無意味で思弁的な議論にうんざりしているのです。
それはただ単に、復活を否定するためにこんな論争を持ちかけたサドカイ派の人々に対してだけではありません。復活を信じていると言っているファリサイ派の人々に対してもそうなのです。いや、むしろ主イエスはファリサイ派の人たちにこそ、語りたかったのかもしれません。なぜなら先に触れました「妻は長男のものとなる」というような答えこそ、まさに来るべき救いの世界を今の世の延長線でしか考えていないことを示しているからです。
神がその独り子さえもこの世に送り、人の思いを遙かに超えた圧倒的な御力をもって、罪からも死からも解放して完全な救いを与えようされている。それなのにこちら側では、「七人の兄弟と結婚した女は、誰の妻になるんでしょうなぁ」などということを言っているわけです。しかも祭司たちが、律法学者たちが、そんな次元のことを議論しているのです。救いのために遣わされた主イエスとしては、もう悲しくて、情けなくて、うんざりしていたに違いありません。
しかし、彼らの姿は他ならぬ私たちの姿でもあるのでしょう。私たちがたとえどのような者であっても完全に救うことのできる神の力を、今ここにいる私たちは本当に信じているのでしょうか。「あなたがたは聖書も神の力も知らない」とは、私たちに対する言葉でもあるのではないでしょうか。
それゆえに、主イエスは聖書を引用してこのような話をしてくださったのです。「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」(26~27節)。
「『柴』の箇所」というのは、出エジプト記3章に出ているモーセが羊の群れを飼っていた時に、ホレブの山で燃える柴を見たという話です。柴は燃えているのに燃え尽きない。不思議に思って近づいてみると、神がモーセに声をかけられた。その時に神様が自らを表現した言葉がこれです。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6)。
柴の炎は明らかに神の現臨を示しています。神がそこにおられる。しかも、炎は消えないのです。燃え続けている。いわば「燃え続ける神」がそこにおられるのです。神は過去の神ではなく、永遠に神であり続けるということです。神であり続けるということは、抽象的なことではありません。人との関わりにおいて、神であり続けるということです。《あなたの神であり続ける》ということです。モーセはそのような神に出会ったのです。
神は言われました。わたしはアブラハムの神である、と。アブラハムはもう数百年前に死んでいるのです。しかし、神は「わたしはアブラハムの神である」と言われるのです。そして、イサクの神であり、ヤコブの神であるとも言われる。その神がモーセに現れて、わたしは必ずあなたと共にいる、と言われたのです。わたしはあなたの神でもある、ということです。あなたの神であり続ける。そして、あなたが導き出すイスラエルの神となり、イスラエルの神であり続ける。それが、この「『柴』の箇所」で語られていることです。
燃え続ける神、関わり続ける神、あなたの神であり続ける神。神がそのような神として御自身を示されたことこそ、来世を信じる根拠なのです。復活を信じ、完全な救いの世界を信じる根拠なのです。神がアブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神であり、わたしの神であり、あなたの神であるならば、アブラハムもヤコブもわたしもあなたも、死んで終わりではないのです。人は神によって、死んでも生きるのです。神は死んだ者の神ではありません。死の中に私たちを放置しておく神ではありません。死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです。
そのように、モーセは燃え尽きない柴に出会いました。燃え尽きない炎の中から、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」との声を聞きました。そして、私たちもまた、同じように燃え尽きない柴に出会っているのです。すなわち、イエス・キリストこそ、私たちに対して神が御自身を現された「燃え尽きない柴」に他ならないのです。
今日お読みしました箇所は、主イエスが十字架にかけられる数日前のことです。物語は、イエス・キリストへの死へと向かっているのです。炎は燃え尽きてしまうかのように見えます。しかし、柴の炎は燃え尽きませんでした。キリストは復活して、永遠に燃え尽きることのない神の炎を見せてくださったのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」ということを見せてくださったのです。
この神との関わりにおいてこそ、人は本当の意味で死を越えた希望に生きることができるのです。神を礼拝し、神に祈り、神との交わりの中に生きていく。キリストを復活させた神の力に、そのように触れながら生きてこそ、人は復活の希望、来世の希望、完全な救いにあずかる希望を持って生きることができるのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」この主イエスの御言葉を、心に刻み付けたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今朝も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは言われました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」神様は永遠に生きておられます。その神様が私たちの神様であり続けてくださいます。それゆえに私たち死すべき人間も、死を超えて永遠に生きる望みを与えられています。神様、私たち一人一人に、聖書を通して、神の御力によって、そのことを揺るぎなく信じさせてください。まだ5月の中旬ですのに、ここしばらくは気温30度に迫る日が続きます。体調を維持するのが困難です。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。神様、今世界は本当に不安定な状況に置かれています。共に歩もうとしない自国中心主義の政治が、不安を増大させています。どうか、為政者たちの思いを糾し、あなたの御心がこの地にも実現しますよう、世界を導いていてください。この拙き切なる祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録1章6~11節
説 教 「主イエスの昇天」 宇佐美志穂子
午前10時30分 司式 三宅恵子長老
聖 書(旧約) 申命記6章1~15節
(新約) マルコによる福音書12章28~34節
説 教 「愛に生きる道を歩もう」 藤田浩喜牧師
創世記14章1~16節 2025年5月11日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日の聖書である創世記14章は、創世記の中で最も謎に満ちた章です。旧約聖書の中で、最も解釈が難しい箇所の一つであるとも言われます。ここでのアブラムは、かなりの数の部下を従えて、戦場に赴くことのできる軍事指揮官として登場します。そういうアブラムというのは、ここだけです。
また1~11節の問に9人の王の名前が出てきますが、この9人の王が一体誰であったのか全くわかりません。王の名前も地名も、ほとんど捉えどころがありません。この物語の背後には一体何かあったのか、それもわからない。何らかの歴史的事実に基づいているのかどうかもわからない。しかしそれならば、どうしてこんなことをたくさん書く必要があったのか、それも疑問です。この難解な章を解きほぐしながら、宝探しをするようなつもりで読んでみたいと思います。
他のところでは、いつも最初からアブラムが関心の中心ですが、この14章では、最初アブラムとは関係のない王たちの戦いの物語で始まります。これは、聖書に出てくる最初の戦争です。そして残念ながら最後ではありません。この後、聖書には血なまぐさい戦争がたくさん出てくる。そしてその戦争の歴史は聖書の中にとどまらず、今日にいたるまで延々と続いています。
アブラムが戦争に参加したということは、私たちの気持ちを重くさせます。「アブラムよ、お前もか!」と言いたくなります。ただ少しだけ彼を擁護して言えば、アブラムはただただ甥のロトを救出するために、戦争に参加したのでした。アブラムは、甥のロトが捕虜になったというところから登場いたします。
「ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。逃げ延びた一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て、そのことを知らせた。アブラムは当時、アモリ人マムレの樫の木の傍らに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと同盟を結んでいた。アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者318人を召集し、ダンまで追跡した」(14:12~14)。
アブラムは、いつの間にかものすごい力と兵を備えた人間になっています。ア
ブラムは不思議にもこの戦争に勝利し、一夜のうちに同盟軍の英雄になってしまいます(14:15~16)。今や彼には、何でも思いのままであったことと思います。一国の王、権力者になるチャンスでもありました。ここで、彼が権力を手にしていれば、彼の戦いも「甥ロトの救出」を名目にした打算的な戦いであったことになっていたでしょう。
戦いに勝って凱旋したときに、ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」(14:21)と言いましたが、アブラムは「あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません」(14:23)と答えました。このとき、アブラムの心は神に対して開かれており、神が勝利をもたらしてくださったという思いであったのでしょう。ただし「若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々……の分は別です。彼らには分け前を取らせてください」(14:24)と言って、盟友に配慮を見せているのはおもしろいと思います。
さて私たちは、この物語から「正義のための戦争」は正しい、という結論を引き出しそうになりますが、そのことは今日の世界においては、とても危険です。人が戦争をするときには、いつも「正義のために」ということが語られ、人道的動機や宗教的動機が表に担ぎ出されます。しかしその陰には、ほとんどいつも何か別の打算的な目的があって、それをカモフラージュし、その戦争を正当化するために、人道的・宗教的動機がもち出されるからです。
木村公一という牧師が「パクス・アメリカーナとキリストの平和」という講演をなさり、それがブックレット『キリストの平和』に収められています。その中で、木村先生は、マクソーリーという人(米国のカトリックの倫理学者で平和活動家)の「アウグスティヌスとトマス・アキナスの戦争と平和に関する学説」を紹介しておられます。そこでは、「いかなる条件のもとで行われるとすれば、その戦争は正しいのか」という議論がなされているとのことです。誤解のないように言えば、「聖戦」(Holy War)ではなく、「正戦」(Just War)です。マクソーリーによれば、アウグスティヌスは「正戦」に五つの条件をあげているそうです。
第一番目は、宣戦布告という原則です。宣戦布告をしないで開始した戦争、たとえば遊撃戦とか、奇襲とかはよくない。公権による宣戦布告が必要だということです。
第二番目は、戦争は最後の手段であるという原則です。まださまざまな平和的手段が取れるならば、その努力を先にすべきであって戦争に訴えるべきではない。
第三番目には、宣戦布告する側に求められる正しい意図の原則です。戦争突入は正義の回復のためであって、領土の拡張や経済権益の拡大のためであってはならない。
第四番目は、無辜の民衆の殺傷禁止の原則です。民間人を巻き込んではならないし、攻撃してもいけない。つまり、軍と民を明確に区別して、軍だけを戦闘の対象とする、ということです。
第五番目は、釣り合いの原則です。これは、戦争によって発生する被害と、戦争によって回復される善とを天秤にかけて、後者のほうが大きければ、その戦争は「正戦」と言えるということです。
いかがでしょうか。昔は、その条件を満たす戦争があり得たかもしれません。しかし今日はたして、「正戦」は可能なのでしょうか。木村先生は、現代の戦争は、そのどの条件も満たし得ないと言われています。
第一の宣戦布告に関して言えば、「真珠湾攻撃は宣戦布告のない戦争だ」と、しばしば引用されます。アメリカのベトナム戦争も宣戦布告はありませんでした。今日では、「ボタンを押したら24分間で大陸間弾道弾が届いてしまう」というのですから、国会を召集して「宣戦布告を承認してください」と決議をとる暇(いとま)はありません。核大陸間弾道弾や巡航ミサイルは、この宣戦布告の原則を無効にしてしまったのです。
二番目の「最後の手段の原則」と三番目の「正しい意図の原則」は、非常に主観的です。戦争を仕掛ける側にとっては、それはいつも最後の手段であると思っているわけですし、そこにはいつも正しい意図があると思っているわけですから、もともと非常にあやしいものです。
四番目の非戦闘員への攻撃禁止については、今日、民間人を巻き込まないということは、もはやあり得ません。戦争はいつも弱い側の国土が戦場になりますが、その国の民間人を必然的に巻き込んでしまいます。広島と長崎へ投下された原子爆弾も、国際法を無視した一般市民に対する大量殺戮でした。
五番目の「釣り合いの原則」はどうでしょうか。もともと被害を数値化するなどというのはできないことですが、今日の戦争では、起きた後のことを考えると、どんなに回復されるものがよかったとしても、もたらされる被害は計り知れないほど大きいものです。
私たちには、もはやどのような戦争ならあり得るか、と言っている余裕はありません。もはやいかなる戦争もできない時代に突入しているのだ、という現実を認識しなければならないと思います。
さて戦争についての記述の後で、創世記の14章では、凱旋したアブラムの前に謎の人物が現れます。「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」です。サレムとはエルサレムのことであろう、と言われます。メルキゼデクは王であり、かつ祭司でもあったと言います。彼は謎のうちに現れ、謎のうちに去って行きます。「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。『天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。』」(14:18~20)
このメルキゼデクが誰であるかは、よくわからないのですが、詩編110編において言及されて、さらにヘブライ人への手紙でも引用されています。ヘブライ人への手紙の著者は、このメルキゼデクについて、こう記しています。
「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。……メルキゼデクという名の意味は、まず、『義の王』、次に『サレムの王』、つまり『平和の王』です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」 (ヘブライ7:1~3)。
ヘブライ人への手紙の著者は、メルキゼデクがアブラハムよりも上に立ってい
ることを強調し(ヘブライ7:4参照)、彼は大祭司として、イエス・キリストを指し示しているというのです(ヘブライ4:14~8:6)。
メルキゼデクは、アブラムを祝福するために現れました。彼は、王であり、同時に祭司でありました。祭司と王というのは、神と人間の間に立つ重要な職務であると考えられていました。さらに言いますと、もうひとつ神と人間の間に立つ職務は預言者でありました。預言者というのは、神様の言葉を人間に告げる人です。ベクトルで言うと、神から人間への方向の役割を担っている。それに対して、祭司というのは、民に代わって、民を代表して、神に向かって罪の贖いと執り成しを祈る人です。人間から神への方向のベクトルです。王というのは、神に代わって、神のみ心に従って、民を治める職務です。
イエス・キリストというお方は、まさにこの神と人間の間に立つ三つの職務(預言者、祭司、王)を兼ね備えた存在として、この世界に来られました。預言者や祭司や王がその職務に就くときには、油注ぎがなされましたが(出エジプト28:41、サムエル下2:4、列王上19:16等)、まさにキリストという言葉は、「油注がれた者」という意味なのです(ヘブライ語ではメシア)。
新約聖書は、イエス・キリストは神の言葉が肉体となった方(受肉、ヨハネ1:14)と告げています。神の言葉そのものであると言ってもよいでしょう。その意味で、「預言者の中の預言者」です。
また祭司は、そのつど、そのつど、犠牲の捧げものをして罪の赦しを祈ってきましたが、イエス・キリストはご自身がどんな犠牲よりも尊い捧げものです。「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている」(ヘブライ7:26)。ご自身を、私たちの罪のために捧げて、執り成しをなされた「祭司の中の祭司」、大祭司でありました。
同時に、イエス・キリストは、仕えられることによってではなく仕えることによってこの世界を支配された王、「王の中の王」、ヘンデルの「メサイア」のハレルヤ・コーラスにありますように「キング・オブ・キングズ」です。そのような形で、この世界を真実に支配される王です。
メルキゼデクは、そういう祭司の中の祭司、王の中の王をほうふっとさせる存在です。それははるかにイエス・キリストを指し示しています。だからこそ、アブラムの上に立って、アブラムを祝福する地位にあったと考えるのです。
私は牧師という仕事も、預言者と祭司という両方の側面をもっていると思います。大祭司キリストに仕える者として小さな執り成しをするのです。それと同時に、神様の言葉を取り次ぐ小さな預言者でもあります。王というのは直接的にはあてはまらないと思いますが、イエス・キリストが仕えられる王ではなく、人に仕える王であったということからすれば、牧師もそれにならって人に仕える者とならなければならないと思います。
先週牧師のいない伝道所の委員さんたちと、伝道所の将来について話す機会がありました。無牧師の教会が年々増えています。委員さんの一人は、日本キリスト教会はもっと牧師を生み出す努力をしてほしいと、切実な思いを込めて語っておられました。本当にその通りだと思いました。イエス・キリストに仕える小さな預言者、小さな祭司である牧師がもっと生み出されるように、私たちも祈りを篤くしてまいりたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。今日は聖書の御言葉を通して、イエス・キリストが真の預言者・祭司・王であることを示されました。主イエスは神様と私たちの間に立って、御言葉を伝え、私たちのために執り成しをしてくださいます。また、神の御心を行うためにこの世に来られた真の王であられます。主は仕えられるためではなく仕えるために、王となってくださいました。私たちは仲保者であるこのお方によって救われ、永遠の命を与えられています。どうぞどのような時にもイエス・キリストに従い依り頼むことができますよう、私たちを導いていてください。今も世界では戦争が絶えません。為政者は人々のためではなく、人々を犠牲にして自分の欲望を満たそうとしています。どうか、為政者の誤った思いをただし、あなたの御心を天におけるように地にも為さしめてください。この拙き切なる願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録1章3~5節
説 教 「エルサレムを離れず」 山﨑和子長老
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) 出エジプト記3章7~14節
(新約) マルコによる福音書12章18~27節
説 教 「思い違いをすることなく」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書12章13~17節 2025年5月4日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝与えられております御言葉は、マルコによる福音書によれば、受難週の火曜日の出来事です。マルコによる福音書においては11章27節から13章の終わりまで、主イエスが神殿においてなされたたくさんの教えや問答が記されています。実にたくさんの分量が割かれているのですが、ここにある教えや問答がすべてこの火曜日だけでなされたと考える必要はないと思います。色々な時になされた教えが、ここにまとめられたと考えることができるでしょう。
さて、今朝与えられている御言葉において、主イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人が数人、主イエスのもとに遣わされました。彼らは遣わされて来たのですが、遣わしたのは誰かと言えば、11章の終わりの所で、主イエスに権威についての問答を仕掛けた祭司長、律法学者、長老たちであっただろうと思います。彼らは、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の指導者たちであり、当時のユダヤ社会の指導者たちです。彼らに遣わされて、主イエスの言葉じりをとらえて陥れるためにやって来たのです。
ここでファリサイ派やヘロデ派の人が遣わされているのですが、それは主イエスに向けられた問い、主イエスを陥れるためになされた問いの内容と関わっています。元々、ファリサイ派の人とヘロデ派の人とは政治的立場が全く違うのです。ファリサイ派の人というのは、ユダヤ教原理主義と申しますか、神の民であるユダヤ人として、自分たちは律法を守って神様の救いに与るために全精力をそこに注いでいる人たちです。彼らからすれば、汚れた異邦人であるローマに支配されているのはまことに面白くないわけです。一方、ヘロデ派の人というのは、当時のガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスを支持する人たちです。ヘロデ・アンティパスは、ローマ帝国のもとで領主であることを許されている存在ですから、当然、ローマ帝国による支配という現実を支持しているわけです。このようにローマに対しての姿勢ということから見れば、この二つのグループは全く正反対の立場だったわけです。
その二つのグループの人が主イエスの所にやって来て、主イエスに問うのです。14節「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」この税金というのは、多分、人頭税であったと思われます。これは主イエスを陥れるための罠です。どういうことかと申しますと、「税金を納めなくてよい」と主イエスが答えれば、それはローマに反逆する者ということになります。ヘロデ派の人が黙っていません。ローマに訴えて、主イエスを捕らえることができます。逆に、「納めなければならない」と答えれば、人々は主イエスが神様に遣わされた方で、その不思議な力で自分たちをローマから解放してくれると期待していましたから、人々は失望し主イエスから離れるでしょう。更に、ファリサイ派の人々は「ユダヤには神様以外に王はいない」と叫んで、主イエスを糾弾することさえできるわけです。このように、どう答えようとも主イエスを追い詰めることができる、そういう罠がこの問いには仕掛けられていたわけです。
これに対して、主イエスは彼らの策略を見抜かれます。そして、「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」と告げられました。デナリオン銀貨というのは、当時ローマ帝国が発行していた貨幣です。労働者の一日の賃金が1デナリオンでした。ですから、現代の日本で言えば五千円札とか一万円札に相当すると考えてよいでしょう。この銀貨には、当時のローマ皇帝であるティベリウスの肖像と銘が刻まれていました。お金というものは誰でもが造ることができるというものではありません。その国を支配する者だけが発行することができるのです。そして、お金というものは皆が使うものです。だから、ローマ帝国はそれに必ず皇帝の肖像と銘を刻むことにしていました。それは、このお金を造ったのが○○というローマ皇帝であると示すことによって、このお金を使う者は○○皇帝の支配のもとにあるのだということを示すためでした。ですから、ローマは皇帝が替わる度に、必ずその新しい皇帝の肖像と銘が刻まれた貨幣を造ったのです。
エルサレム神殿においてはこのデナリオン銀貨は使うことができず、昔のユダヤのお金に両替しなければならなかったわけですが、ここには「神殿の中にローマの支配は及ばせない」という思いがあったのだと思います。更には、十戒の第二の戒め「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」に反するからということもあったのでしょう。そのようにローマのお金を使えないエルサレム神殿の中で、このようなやり取りが為されたというのも皮肉な気がします。エルサレム神殿の中では使うことのできないローマの銀貨を、彼らは持っていたのです。神殿を一歩出ればローマのお金しか使えないのですから、財布の中にはローマのお金が入っている。皆そうなのです。エルサレム神殿に巡礼に来た人も、ヘロデ派の人もファリサイ派の人も、財布の中にはローマのお金しか入っていないのです。しかし、エルサレム神殿に納めるものはローマのお金ではいけない、そう言って両替しているわけです。何か変です。
神殿の内と外で全く違うように生きているわけです。神殿の外ではローマのお金を使い、ローマの支配の中に生きる。しかし、神殿の中ではローマのお金は使えない。神殿の中では、王はローマ皇帝ではなくて主なる神様ただ一人ということになっている。使い分けているわけです。
主イエスは、彼らが持って来たデナリオン銀貨を見せて、「これは、だれの肖像と銘か」と問われました。彼らが「皇帝のものです」と答えると、主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました。この答えには、ファリサイ派の人もヘロデ派の人も言いがかりを付けようがなく、驚き、黙るしかありませんでした。主イエスは「皇帝のものは皇帝に」と答えることによって、税金は納めるべきだと言われたわけです。これでヘロデ派は黙るしかありません。しかし同時に、「神のものは神に返しなさい」と言うことによって、ただローマの支配だけを認めるのではなくて、ちゃんと神様の御支配を認めているわけです。これでファリサイ派の人も黙るしかありませんでした。
主イエスはここで、ヘロデ派の人からもファリサイ派の人からも責められることのない見事な答えをされたわけです。しかしここで主イエスは、神殿を支配している人々が神殿の外はローマ皇帝の支配、神殿の中は神様の支配というような使い分けをしているのをよしとして、このように言われたのではないのです。聞いた方は、そのように受け取ったかもしれません。しかし、主イエスの意図はそうではありませんでした。確かに、この「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの言葉が、この世の領域・世俗の領域と、教会の領域・信仰の領域とを分けなければならない、そのような考え方の根拠となったという歴史はあります。そして、このような考え方をしなければいけない時もあるのです。例えば、政教分離というあり方は、近代民主主義国家においてはとても大切なもので、これを失えば近代民主主義国家は成り立たないと言ってもよいほどに重要なものです。この政教分離というあり方は、人類が本当に多くの血を流してやっとたどり着いた知恵であり、私は何としてもこれは守らなければならないと考えています。
しかし、主イエスがここで言われたことは、「聖と俗とを分けなさい」ということではないのです。「皇帝のものは皇帝に」というのは確かに、この世の秩序というものを認めるということです。主イエスは、デナリオン銀貨を使うな、税金を納めるな、ローマと戦え、そんなことは言われないのです。いつの時代でも、どこの国でも、理想的な政治、神様の御心が完全に反映されるような政治が行われるなどということはないのです。政治というのは、色々な立場の人がいて、それを認めながら、より良い妥協点を見つけるしかないのです。色々と欠けがあっても、それを認めていくしかない。消費税に反対だからといって、それを納めなくてよいということにはならないのです。私たちはこの世の秩序を認め、良き市民としての歩みをしなければならないのです。
問題は、「神のものは神に」です。この「神のもの」とは何なのでしょうか。デナリオン銀貨には、それを造った皇帝の肖像と銘がありました。では、神様によって造られたもの、それを造られた神様の肖像と銘が入ったものとは何なのでしょうか。それは、神様の似姿に造られた私たち自身です。つまり、私たちの命、私たちの富、私たちの時間、私たちの能力、それらはすべて神様のものなのです。主イエスは「神のものは神に返しなさい」と言われました。私たちは、自分の持てるすべてを神様にお献げして生きるのです。ここまでは皇帝に、ここからは神に、そして残りは自分に。そういうことではないのです。
こう言ってもよいでしょう。私たちは、日曜日の朝だけキリスト者であるわけではないのです。教会にいる時だけ、礼拝している時だけクリスチャン。そんなわけがありません。私たちはいつでもどこでも、何をしていてもキリスト者なのです。この世の秩序のなかで、会社員として、主婦として、夫として、妻として生きている時も、キリスト者なのです。月曜から土曜までは皇帝の支配のもとで、日曜日は神様の支配のもとで。そんな使い分けはできないのです。どうしてか。それは、私たちはあの主イエスの十字架によって、完全に神様のものとされてしまったからです。私たちには最早、父・子・聖霊なる三位一体の神様以外に主人はいないのです。
ですから、この世の秩序の中に生きている時も、私たちの主人、私たちの王は、ただ主なる神様しかいないのです。私たちは二人の王に兼ね仕えることはできません。ですから、もし私たちが、明らかに神様の御心に反することをこの世の主人から求められることがあれば、私たちは断固「No!!」と言わなければならないでしょう。皇帝もまた、神様によってその地位を与えられている者にすぎないからです。しかし、皇帝に仕える時、つまりこの世の秩序の中で生きる時、私たちは神様のものとされている者として、ためらうことなく、健やかに生きるのです。この世界のすべては、主なる神様のものだからです。私たちはキリスト者として仕事をなし、キリスト者として食事を作り、キリスト者として子育てをするのです。私たちの為す日常の営みのすべてが、主人である神様にお仕えする業なのです。牧師の仕事は聖なる業、信徒の日々の生活は俗なる業。そんなことは全くありません。どんな小さな業も、私たちは神様に仕える業として、神様の栄光のためになすのです。それが、あの主イエスの十字架という一点において全てを新しくされてしまった、キリスト者という存在なのです。神様の似姿を刻まれた一人一人として、心を高く上げつつ歩んでいきましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。今日も聖書を通して御言葉を与えられました。私たちキリスト者は神様の肖像と命が刻まれた神様の似姿です。あなた以外に私たちが仕えるべき方はおられません。どうか、真にお仕えするあなたにいつも心を向けつつ、日々の歩みを為すものとしてください。群れの中には病床にある者、齢を重ねて困難を覚える者、人生の試練の中にある者もおります。どうか兄弟姉妹一人一人
を励まし力づけてください。折に適った助けと導きを与えていてください。この拙き切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ヨハネによる福音書20章24~29節
説 教 「見ないのに信じる人は幸いである」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老
聖 書(旧約) 創世記14章1~12節
(新約) ヘブライ人への手紙6章20節~7章4節
説 教 「御心が行われますように」 藤田浩喜牧師
ヨハネによる福音書11章17~27節 2025年4月27日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
私は3つの教会で38年間牧師をしてきましたが、仕えてきた教会の交わりの中で、多くの方々が天に召されてまいりました。私は牧師として、お一人おひとりの方々の死に直面して、本当に死の持っている如何ともしがたい凶暴な力に圧倒されてきました。死というものが私たち人間の肉体にとっていかに決定的な力を持っているか、そして死を前にして、私たちの肉体がいかにもろいものであるかということを思い知らされてきたのです。
何度にもわたる大きな手術を受けても効果なく、死に屈していかなければならなかった方もありました。思いもかけず突然、死が襲いかかってきた方もありました。長い病の中で確実にその命がむしばまれ、死に至った方もありました。死に至るまでの道のりには、それぞれ違ったものがありましたが、しかし、死は確実に私たちの命を飲み込んでいくということだけは、いやというほど思い知らされたものでした。
こうした死の凶暴な力に直面するごとに、私はいつも大きな問いの前に立たされてきました。それは、「あなたは復活を信じていますか」という問いでした。そしてそのたびごとに私は、「率直に言ってよくわからない」、「主イエスにあって復活するというのが一体どういうことなのか、私にはまだよくわからない」という、自分自身の信仰の不確かさを思い知らされてきたのです。
しかし同時に、不思議なことですけれども、死がすべてのものを支配しているように見えながらも、死がなお支配しきれないものがそこにある、ということも見させられてきたのです。なぜなら、死が命を飲み込もうとするまさにその瞬間に、かえって希望と喜びとが、死につつある人の中に満ちてくることを何度も見てきたからです。命が敗北しようとするまさにその時に、主イエスの命がそこで輝いていると感じられることが何度もあったからです。このことは私にとっては不思議としか言いようのないことでした。
今申しましたように、私は牧師として多くの方々の死に直面してきました。しかしそんな時でも、いつも心はどこか冷ややかでした。人の死に立ち会いながらも、私の心の中のどこかで「死はいっさいの終わりだ」という声のささやくのを聞いていたのです。もちろん牧師としてそんなことを他の人に言うわけにまいりませんから、黙っていましたけれど、しかし心のどこかにそのようなしらけた思いがあったのは事実なのです。
「もうすべては終わったんです。いくら悲しんでも、もうその人は戻らないのです。死んだという事実を冷静に受けとめて対処する方が大切です」ということを思い、時には口から出したいような思いが何度もありました。恐ろしいニヒリズムです。死に対する深い絶望感のなせる業だったのでしょう。
しかし今、私は死の中にこれまでとは少し違ったものを感じることができるようになりました。もちろん死が凶暴な力を失ったからということではありません。あるいは私が人の死に慣れてきたということでもありません。死そのものは相変わらずそのたびごとに凶暴で、正視できないほど恐ろしいものです。そのことは少しも変わることはないのですけれど、いま私は死に直面しても、何かゆとりといいますか、余裕というものを持つことができるようになっているのです。
ゆとりとか余裕とかと言いますと、死と闘い、苦しんでいる人々に対しては何とも不謹慎な態度です。また、愛する者の死を悲しんでいる人々に対しては、心ないことだと批判されるかもわかりません。あるいは、他人事として冷ややかに傍観しているから、ゆとりや余裕など持ちうるのだと言われるかもしれません。
けれども、私はそういう意味でゆとりとか余裕とかを言っているのではありません。死は相変わらず耐えがたいものですが、いまの私は、そうした苦しみうめく人と共に主イエスがいたもう、ということを見ることができるようになったのです。それは私か勝手に感じているとか、あるいは私だけがそのように思いこんでいるということではないのです。そうではなくて、死に直面している人がその苦しみの中で主イエスを見、主イエスにすべてをゆだね、死に向かいつつも、なおあるゆとりと余裕とを持っておられるその姿を、私が見ることができるようになったということなのです。
兄弟ラザロの死を悲しんだマルタは、「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:21)と主イエスに不満をもらしました。
マルタはここで、「もしあなたがいてくださいましたなら」と言っています。「もし……ならば」、私たちもこうした言葉をくりかえし口にします。もしあのとき病院に行っておれば、こんなことにはならなかったであろうにとか、もっと早くから健康管理をしていたならば、こんなに早く死ななくてもすんだだろうにとか、私たちはうしろへうしろへと目を向けていこうとします。
マルタもまた過去へと目を向けて、主イエスに不満を言いました。「もしあなたがいてさえくださいましたならば……」
その時主イエスは答えられました。「あなたの兄弟はよみがえるであろう」(ヨハネ11:23)と。
ところがマルタはこれを聞いて、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」(ヨハネ11:24)と答えました。こんどはマルタは、終わりの日という未来に向かって目を向けたのです。このマルタの答えは一見信仰深いものに思えます。
さきほど、私は死を前にして「あなたはよみがえりを信じていますか」と何度も問われる経験をしてきたと言いましたが、その時、マルタのように「終わりのの日の復活の時に復活することは存じています」と、確信を持って答えることができたなら、どれほど気が楽だったかと思います。しかし、私にはそこまでの確信はなかったのです。
マルタははっきりと、終わりの日によみがえることは知っていると申しました。
しかし、主イエスはこのマルタに向かって、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と答えられています。なんだか、すれ違いの問答に終わっている感じがします。そうです。確かに、マルタは一生懸命主イエスに向かって答えています。
しかし、彼女は主イエスご自身を見ていないのです。マルタは「二つの時」に向かって目を向けていました。一つは「もしあの時にあなたがいてくださいましたならば」と過去に向けてです。そしてその次には、「終りの日の復活の時に復活することは存じています」と、目をはるか先の未来へと向けていたのです。
しかし、主イエスが求めておられるのは、過去とか未来に目を向けるのではなく、いま、マルタの前に立つ主イエスを見つめるということなのです。いま、マルタの前に立っておられる主イエス、彼女の悲しみと嘆きとに共にいたもうその主に向かって目を向けること、それが新しい命のはじまりであることを主イエスは語っておられるのです。
よみがえりの命は、はるか未来に起こることではなく、この主イエスと出会っているところからすでに始まっているのです。私たちの肉体がまさに朽ち果てようとしている時でも、死の苦しみに耐えられずにうめいている時でも、いやもう冷たい躯(むくろ)と化しつつあるその瞬間にあっても、主イエスに向かって目を向け、主イエスにすべてをゆだねることによって、主イエスの命が、すでに私たちのうちにおいて始まっているのです。「私を信じる者は、死んでも生きる」ということは、そういうことなのです。
前任の教会でのことです。私たちはSさんというご婦人を天にお送りしました。Sさんは若き日に信仰を与えられ、家庭においても、また教会においても誠実そのものの人柄でした。長らく教会の執事としてもご奉仕くださり、日曜日にはだれよりも先に教会に来て、ご奉仕されていました。
70歳を超えてから脳梗塞を起こされたことがあり、お嬢さんが看護師長をされている大阪府豊中市の病院で手術を受けられました。手術の直前にお訪ねしました時は、手術前の緊張からでしょうか、手術や病状への不安を訴えておられました。しかし、すぐに「クリスチャンのくせに、こんなことではイエス様に笑われますね」と、少し恥ずかしそうに笑っておられました。私は「そんなことありませんよ。みんな死ぬのがこわいのですから」と、慰めにもならないことを言うだけでした。
その後小康状態となり、退院して同じ豊中市内の高齢介護施設に入所されていました。しかし一年ぐらい後に体調を崩され、病状がさらに悪化しました。お会いするたびに肉体は日ましに衰えているのは明らかでした。しかし、信仰はかえって強められておられることを感じました。
亡くなる少し前にお訪ねしましたが、もう声を出す元気もなかったのでしょうか、ノートにボールペンで「もうすぐ神様のところに行けそうです」と書かれ、次に私の手のひらに指で「ありがとう、皆さんによろしく」と書き残されたのでした。手のひらに書かれた「見えない文字」を見ながら、私は主イエスの「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」という言葉を心の中でくりかえし味わっていたのでした。
先週、私たちはイエス・キリストの復活を祝うイースター礼拝を守りました。私たちの毎日の生活にはいろいろな苦しみや悩みがあります。そして私たちの肉体は確実に死へと向かって進んでいくのです。しかし私たちの肉体が、そして私たちの人生がどのようなものであったとしても、私たちはそのまっただ中で「私を信じるならばたとい死んでも生きる」と語りかけ、私たちと共に歩まれる方のあることを知らされるのです。多くの人々の死に直面して、その死の悲しみと苦しみの中にありながら、それぞれの方が主イエスに向かって、「主を信じます」と告白してこられたのを見ることが許されてきました。
イースター礼拝を守った私たちも、「主よ、信じます」という告白を共にしたいと願います。そしてその告白が私たちの口からなされる時、私たちの現実がどのようなものであったとしても、いまここで、キリストにある新しい命に生かされていることを、私たちは確信してよいのです。主イエスを信じる者は、死んでも生きかえるからです。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。神さま、私たちの目をいつも主イエスに注がせてください。私たちがイエス・キリストの復活の命に生きることができますよう、一人一人を支えていてください。今日礼拝後に行われる墓前礼拝の上に、あなたの導きと祝福をお与えください。このひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ヨハネによる福音書20章19~23節
説 教 「聖霊を受けよ」 𠮷田三枝子
午前10時30分 日曜学校日 司式 藤田浩喜牧師
聖 書
(旧約) 列王記下21章1~9節 (聖餐式を執行します)
(新約) マルコによる福音書12章13~17節
説 教 「神に仕えることを学ぶ」 藤田浩喜牧師
ルカによる福音書24章13~35節 2025年4月20日(日)イースター礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日お読みしました聖書個所には「二人の弟子」が出てきました。そうです、ここで彼らは確かに「弟子」と呼ばれています。イエス・キリストの弟子たちです。しかし、今日の箇所は、彼らがエルサレムから離れていく姿から始まります。他の弟子たちが集まっているエルサレムから離れていくのです。主イエスは死んでしまったからです。だからもはやキリストの弟子であり続ける理由もないし、キリストの弟子としてエルサレムに留まる理由もないのです。エルサレムをあとにした二人の弟子たちにとって、エマオへと向かう旅路は、いわばキリストの弟子であることから離れていく旅に他なりませんでした。そのように、キリストの弟子ではなくなりつつある二人の姿をもって、この話は始まるのです。
しかし、今日お読みしました箇所の終わりに至りますと、なんと彼らは再びエルサレムにいるではありませんか。彼らはキリストの弟子として他の弟子たちと共にいるのです。いったい何が彼らをエルサレムに帰らせたのか。それが何であるかを伝えているのが今日の物語です。言い換えるならば、この物語は、何が人をキリスト者であり続けさせるのか、キリスト者であること、あり続けることは、いったい何を意味するのかを私たちに伝えている物語なのです。
はじめに13節以下を御覧ください。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」(13~14節)。
「この一切の出来事」とは、ナザレのイエスという方が十字架にかけられ殺されたこと、葬られたこと、そして、その遺体が無くなってしまったことなどの諸々の出来事です。その出来事について語り合っている彼らに、一人の人が近づいてきました。そして、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(17節)と尋ねたのです。
「二人は暗い顔をして立ち止まった」(17節)と書かれています。そして、その人がさらに尋ねるので、彼らは答えました。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです」(19~20節)。
彼らの思い出の中には、「行いにも言葉にも力ある預言者」としての主イエスがいました。預言者というのは神の言葉を語る人です。預言者は死んでもその言葉は残ります。いや、言葉だけではありません。「行いにも力ある預言者」と言われています。預言者の行為も残ります。言い換えるなら、預言者の生き様が残るのです。そのように、確かに主イエスという御方の言葉と行為は、主イエスが死んでしまった後でも、彼らの心の内にしっかりと生きていたに違いないのです。
しかし、彼らは暗い顔をしていたのです。それは単に死別の悲しみのゆえではありませんでした。その次にこう書かれています。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)。「望みをかけていました」という言葉は、望みが「過去」になってしまった、ということを意味します。暗い顔をしていたのは、希望がもはや過去のものとなってしまったからです。
つまり、主イエスの言葉と行いが記憶の中に残っていようと、その生き様による感化が残っていようと、それは希望に結びつきはしなかったということなのです。彼らがどんなに《過去の人》である主イエスについて語り、論じ合っても、そこには救いもなく希望もなかったのです。それゆえに彼らは、キリストの弟子であり続けることもできなかったのです。彼らはエルサレムを離れ、エマオへと向かう道を暗い顔をしながら歩いていたのです。
さて、ここに見る二人の姿は、一つの大きな事実を示しています。どんなに主イエスの言葉や行為が大きな力を持っていたとしても、そのことによっては、主イエスの弟子たちは後の時代まで存在し続けることはなかった、ということです。それだけでは十字架の後の教会、十字架の後のキリスト者は存在し得なかったのだ、ということです。単に主イエスの言葉や行い、人格的感化が「生きている」というだけでは、キリストの弟子であることはできないのです。
そこで、15節の御言葉が大きな意味を持つのです。「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」― 復活されたキリストが彼らと共に歩まれたというのです。しかし、彼らはそれが主イエスであることに気づきませんでした。なぜでしょうか。ただ聖書は「二人の目は遮られて」と説明しています。これは31節に関係します。そこで「二人の目が開け、イエスだと分かった」と書かれているのです。共に歩まれる復活のキリストは、目が開かれて初めて認識されるのだ、ということです。
そのように、二人は復活のキリストに気づいていないのですが、そこにはキリストがなされた一連の働きかけが記されています。彼らが知る前に、すでにキリストの働きかけは始まっているのです。
キリストは近づいて来られました。一緒に歩き始められました。彼らに問いかけられました。そして、大切なことが25節以下に書かれています。「『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(25~27節)。キリストが聖書の言葉を解き明かされたのです。
そして、二人は主イエスと共に家に入ります。彼らは一緒の食事の席に着きます。ところが興味深いことに、キリストは客としてではなく、家の主人であるかのように振る舞うのです。キリストがパンを割き、賛美の祈りを唱え、パンを割いて渡されたのです。
その一連のキリストの働きかけを経て、彼らの目が開かれました。「すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)と書かれています。これは大変奇妙なことです。「目が開けて見えるようになった」というのなら話は分かります。しかし、ここでは逆なのです。見えなくなったというのです。
そうしますと、結局、キリストが目に見えるか見えないかは、本質的には重要ではないということなのでしょう。重要なのは「目が開けた」ことなのです。今まで共に主イエスが歩んでくださったし、これからも共に歩んでくださることが分かるということだからです。それが信じられるということこそ、大切なことなのです。
そして、それが信じられた時、彼らは振り返ってこう言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。失望していた彼らの内に、命の火が灯りました。まさに死んでいたような彼らの心の内に、命の火が灯りました。そして、その炎が大きく燃え上がり始めたのです。
彼らがかつて抱いていた望みはどうなったのでしょうか。相変わらずイスラエルは解放されてはいません。相変わらずローマ帝国の支配のもとにあります。見えるところは何一つ変わってはいません。しかし、彼らはもはや希望を失って暗い顔をして歩いている者ではありません。もはや失意の中に死んでいるような者ではありません。復活のキリストが伴ってくださったこと、これからも伴ってくださることを知ったからです。キリストによって命の炎を内にいただいた人だからです。そして、彼らはエルサレムに引き返します。弟子たちの仲間のもとに戻っていくのです。そこでキリストの弟子として、新たに生き始めるのです。生きておられるキリストの弟子として生き始めるのです。
このように、キリスト者であり、キリスト者であり続けるということは、いったい何を意味するのかという問いに、今日の聖書箇所は明確に答えています。キリスト者とは、単に二千年前の主イエスの言葉を実践して生きる人ではありません。単に主イエスの行為を模範にして生きる人ではありません。そうではなくて、キリスト者とは復活のキリストと共に生きる人を言うのです。主イエスは単に「過去の人」として思い起こされたり、敬われたりすることを望んではおられません。私たちの現実の中に共に生きることを望んでおられるのです。
ここに書かれていることは、単にあのクレオパたちの特殊な経験ではありません。教会において私たちに、今も与えられている賜物なのです。ここには今日(こんにち)もなお教会の内において起こっている事、起こり得る事が記されているのです。聖書が解き明かされ十字架と復活の意味が明らかにされることも、聖餐において復活のキリストのご臨在が示されることも、またそこに伴って湧き上がる喜びも賛美も、悲しみと失望によって沈んだ心に命の炎が燃えあがることも、その一切は復活のキリストの働きであり、キリストの賜物なのです。そのように、復活のキリストの働きかけを受けながら、キリストと共に生きる人、それをキリスト者と言うのです。
そこで見落としてはならないことが一つあります。28節以下に次のように書かれています。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」(28~29節)。
彼らの内に起こった全ての良きことは、主イエスの一方的な恵みの御業でした。しかし、そのような主の恵みの御業に目が開かれるに至るには、彼ら自身の側からも行ったことがあるのです。それは復活のキリストを《引き止める》ということでした。つまり彼ら自身が主と共にいることを《求めた》ということです。そして、主イエスがパンを裂かれる食卓に身を置いたということです。
彼らはキリストと知らずに求めました。ありがたいことに、私たちにはすでにキリストの復活が伝えられていますから、私たちは知った上で求めることができます。キリストが御臨在くださることを知った上で、聖餐にあずかることができます。そのように、キリストと共にあることを求めて、私たちは今ここに集まっているのです。
その求めは、祈りの言葉として讃美歌218番「日暮れてやみはせまり」に繰り返されている言葉です。「主よ、ともに宿りませ」。あの復活の日の夕方、あの弟子たちが主に願い求めたように、私たちも主に向かって共に祈り続けたいと思います。「主よ、ともに宿りませ」と。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を心から讃美いたします。今日、御子イエス・キリストの復活を祝うイースター礼拝を、敬愛する兄弟姉妹と共に守れましたことを感謝いたします。イエス・キリストは死に打ち勝ち、復活され、私たちと共に歩んでくださっています。今も生きて共に歩まれる主イエスの弟子として生きるのが、私たちキリスト者であることを示されました。あなたは今も、聖書の御言葉の解き明かしを通し、聖餐式の恵みを通して、私たちの心に信仰の炎を燃え立たせてくださいます。その大きな恵みを深く覚えつつイースターの出来事を祝わせてください。この礼拝において一人の姉妹が主イエスを救い主と告白し、洗礼を受けられます。どうか、私たちの群れに加わり、キリスト者として歩み始める姉妹の上に、主の祝福と励ましを与えていてください。
群れの中には病を得ている者、高齢のために様々な困難を抱えている者、人生の試練に立たされている者がおります。どうか、一人一人の上に復活のキリストの恵みを豊かに注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。