日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ヨハネによる福音書12章12-16節
説 教 「エルサレム入城」 髙谷史朗長老
主日礼拝
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)
聖 書
(旧約) 詩編18編22-29節
(新約) マルコによる福音書11章1-11節
説 教 「主イエスが王であられる」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ヨハネによる福音書12章12-16節
説 教 「エルサレム入城」 髙谷史朗長老
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)
聖 書
(旧約) 詩編18編22-29節
(新約) マルコによる福音書11章1-11節
説 教 「主イエスが王であられる」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書10章35~45節 2025年2月16日(日)伝道礼拝説教
牧師 藤田 浩喜
わたしたちには色々な願いがあります。それは健康を与えられたいとか、人間関係を修復したいといった人間としてごく自然な願いもあれば、ちょっと人には言えないようなひそかな願いもあります。自分では意識していないけれど、無意識に願っていることもあります。
ヤコブとヨハネは、山上で主イエスのお姿が変貌された特別な場面にも連れて行かれた三人のうちの二人です。つまり、弟子の中でも特に主イエスに近い関係にあった二人でした。その彼らには切なる願いがありました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」つまりこれは、主イエスがこの世界の支配者となられたとき、自分たちをNo2とNo3にしてほしいということでした。
今日、この記事を読むわたしたちは、その後の十字架と復活の出来事、そのときの弟子たちの行動を知っていますから、この場面で彼らがとんでもないことを願っていることがわかります。そもそも主イエスはこの世の支配者になられるために、この世界に来られたわけではないことをわたしたちは知っています。わたしたちはヤコブとヨハネがこの時、見当違いの愚かしいとも思えることを願っていると感じます。そしてまた彼らが主イエスに従って歩んでいながら、とても世俗的な願いをもっているとも感じます。No2とNo3になりたい、それは出世志向や権力志向のように思えます。序列をつけて人間関係を見ていくということは極めて世俗的なものの考え方に感じます。
しかし一方で、この時の彼らにとって、この願いがごく自然で当り前のことだと感じられたとしても、それは不思議ではありません。今日の聖書箇所の直前で、主イエスは弟子たちに三度目の受難予告をなさっています。その予告では、過去二回の受難予告より、さらに詳細な予告がなされているのです。つまり受難というものが現実味を帯びて迫ってきている状況であることがわかります。その予告された受難の場所はエルサレムです。そして一行はまさに、そのエルサレムへと上って行く途上だったのです。
弟子たちは三度の受難予告をされても、その内容についてははっきりとは分かっていなかったでしょう。しかし、そこにたいへんな危険があることは覚悟をしていたのです。それでも彼らは主イエスに従って来たのです。具体的にはどういうことが起こるのか分からなくても、主イエスを見捨てることなくついてきたのです。彼らはどういうことなのかはっきりとは分からないまま、復活という言葉に賭けたのだと思います。そのとき主イエスは栄光をお受けになる、主イエスのご支配が実現するのだと考えていたのです。そのために自分たちも命をかけて共に戦う、それだけの覚悟をもって彼らは主イエスに従って来ました。だから、自分たちにはそれなりの報いがあるはずだと彼らは考えたのです。
だからといって私たちは、彼らが報いを求めることを世俗的だと非難できる立場にはありません。私たち自身もまた信仰生活において、全く見返りを求めていないとは言えないからです。私自身、平安を求めて主イエスを信じました。主イエスを信じたら、不安のない生活ができるかと思ったのです。色々なことが楽になると思ったのです。みなさんひとりひとり、信仰に入られた経緯や思いは異なるでしょう。以前いた教会で知り合った方は「居場所が欲しかった」とおっしゃっていました。私自身は「居場所」という言葉に、多少の違和感を覚えました。信仰的というより、何か教会をこの世的な楽しいコミュニティのように捉えておられるのではないかと感じたからです。でも、どのような動機であれ、そのことを通じて神様は私たちを捉えてくださり、導いてくださいます。一方でご家族や友人に誘われて自然に信仰生活に入られた方も、教会にはたくさんおられます。しかし動機や経緯はどうであれ、私たちは皆、多かれ少なかれ、何らかの自分にとってのプラスになることがあるから、信仰生活を続けているのではないでしょうか。私たちの心は堅い石ころのようなものではありません。意識するしないにかかわらず、何らかの願いを抱いて私たちは信仰生活を送っています。そのわたしたちの願いの中には、ひょっとしたら神様からご覧になって、見当違いのものもあるのかもしれません。
そんなわたしたちに、主イエスはヤコブとヨハネにおっしゃったように「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」とおっしゃるでしょう。でも、主イエスはそうおっしゃりながら、「黙れ、お前たちは何も分かっていない、引き下がれ」とはおっしゃらないのです。わたしたちの信仰生活におけるちょっとズレたような願いも、端から見て信仰的にどうなのだろうと思えるような願いも、主イエスは聞いてくださるのです。そして受け取ってくださるのです。
ヤコブとヨハネの問題に戻れば、彼らがNo2,No3になりたいと願ったのは単に個人的に立身出世したいということではなく、彼らにとって、イスラエルの救いというのが切実な問題だったという背景もあります。彼らはイスラエルの救いのために、自分を犠牲にしてでも働こうという覚悟はあったのです。彼らはまじめでした。むしろまじめすぎたのです。自分たちのまじめさ、熱心さのゆえに、主イエスがお受けになる栄光に自分たちもあずかれると考えていました。そんな彼らのまじめさを十分に主イエスはご存知でした。そして問われました。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマをうけることができるか」。ヤコブとヨハネはその問いに、真剣に誠実に答えたのです。「できます」と。本当に彼らはできるつもりだったのです。しかし私たちは、そう答えた彼らが実際にはできなかったことを知っています。
そもそも、これから主イエスが飲まれる杯と受けられるバプテスマは、すべての人間の罪を贖うために神の罰を受けられるということでした。神の怒りの重荷は、神でなければ担うことができません。人間には到底担いきることはできません。十字架の出来事は、神の怒り、裁きでした。それと同時に私たちを義として新しい命を与えてくださることでした。それは神でなければできないことでした。
ヤコブとヨハネだけではなく、すべての人間には耐えることのできない杯を受け、バプテスマをお受けになられ、すべての人間に義と命をあたえてくださったのが、神の御子イエス・キリストでした。そのことを当時のヤコブとヨハネが知ることは、到底できませんでした。主イエスが飲まれる杯と受けられるバプテスマは、ただお一人神の御子だけが担うことのできるものである。それがまったくわからなかったからこそ、彼らは「できます」と答えたのです。
さて、その主イエスへのヤコブとヨハネの直訴を知って、他の弟子たちは腹を立て始めたと言われています。抜け駆けという行為にも、ヤコブとヨハネが自分たちはNo2とNo3にふさわしいと考えていたということにも、他の弟子たちは腹を立てたでしょう。あいつらは自分のことを下に見ていたのか、と思ったことでしょう。しかし抜け駆けが腹立たしかったのは、自分たちも上に行きたいと願っていたからです。自分たちを下に見られて腹を立てたのは、自分たちもまた人間を上と下に分けて見ていたということです。
そんな弟子たちに、主イエスはおっしゃいます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」これは人に仕える人が偉いのだ、みんなに奉仕する僕のような人が一番上なのだということではありません。そうであれば、逆の競争がおきます。自分こそ、だれよりも仕えている、だから偉いのだ。自分は誰よりも人のために頑張っているから、一番上だということになります。そうではなく、上だ、下だという価値観を棄てなさいということです。上だ、下だ、誰が偉い誰が偉くないという価値観は、私たちが自分たちの熱心さ、まじめさで何かを手に入れることができると考えている時、かならず起こってくるものなのです。
ヤコブとヨハネは、まじめに主イエスについて行こうと考えていました。イスラエルを熱心に救いたいと考えていました。ですからそのことへの報いがあると考えていました。自分たちのまじめさや熱心さによって何かを手に入れようとするとき、そこには人と比べるということが自然に起こってくるのです。あの人より自分は頑張っている、なのにあの人はどうして不真面目なのだという思いがどうしても起こってきます。私たちも、まじめに頑張って何かを手に入れようとするとき、そこに他の人と比べるという思いが入り込んできます。No2、No3にという思いが入り込んでくるのです。逆に自分はまじめにやっているのに人より劣ってしまうと、劣等感を抱いてしまう。がんばってやろうとしてもできない自分に、自信が持てなくなるのです。人と自分を比べる価値観は人間を不幸にします。そして無駄に心身を消耗させてしまうのです。
モーセの十戒の中に「むさぼってはならない」という戒めがあります。むさぼりというのは、自分の欲求をコントロールできない心です。本来与えられた自分の賜物や恵みを越えてほしがる心です。他人のものをうらやみ、他人のものを欲する心です。人より上に、人より偉く、という上昇志向には、自分に本来与えられた恵みで満足しないむさぼりの心があります。そこには罪があります。しかし、そのように罪深く生きるために、神は私たちをお造りになったのではありません。むさぼりから解き放たれてもっと自由に豊かに生きるために、私たちはこの世界にあるのです。そのために、主イエスはお越しになりました。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と主イエスはおっしゃいました。人より上に人より偉く、そんな思いから私たちを解き放つために主イエスは来られました。「多くの人の身代金」とは「すべての人の身代金」ということです。その身代金が、十字架と復活の出来事によって、キリストの命によって支払われました。それは私たちがまじめだから熱心だから、支払われたのではありません。ただ神の愛と憐れみによって支払われたのです。私たちはその恵みを受けたのです。恵みの上に恵みを受けたのです。
すでに罪の負債は返済されました。ですから私たちは神の前にあって、もうむさぼる必要はないのです。上に上にと努力する必要はないのです。一人一人に与えられた特別な賜物と役割があります。そこで仕えるのです。一人一人が与えられた隣人のために仕えるのです。それが私たちの杯でありバプテスマです。
私たちは頑張って人に仕えるのではありません。自分の熱心に頼って人のために奉仕するのではありません。ましてや、自分の欲望を無理に抑え込む必要はありません。すでに身代金は支払われました。私たちは自由な心で喜びをもって神に願い、それぞれにあたえられた所で仕えるのです。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。御子イエス・キリストは、私たちを罪と死から救うために、十字架の杯を受け、復活してくださいました。主イエスが仕えてくださったことによって、わたしたちは朽ちることのない命に生かされています。どうか、その恵みをいただいているわたしたちが、自由と喜びをもって仕える者となることができますよう、一人一人を導いていてください。互いに仕え合うことだけが教会の歩みを貫くものとなりますよう、わたしたちをお支えください。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 エゼキエル書2章1節-3章3節
説 教 「エゼキエルの召命」 高橋加代子
午前10時30分 司式 山根和子長老
聖 書
(旧約) エレミヤ書29章10-14節
(新約) マルコによる福音書10章46-52節
説 教 「安心して立てる」 藤田浩喜牧師
創世記12章10~20節 2025年2月9日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
創世記12章後半の物語は、アブラム(アブラハム)の失態を描いた物語です。アブラムは、神の召しに従って旅を続けていましたが、旅の途中、ネゲブという地方に来たときに、ひどい飢饉がありました。それでアブラムの一行は、エジプトに避難することにします。
ところが、エジプトへ行くにあたって、アブラムには一つの心配事がありました。それは、彼の妻サライが美しすぎるということでした。自分の妻が美しいということは、恐らく、これまでアブラムの誇りであったと思いますが、その美しさがかえって災いのもととなろうとしていました。
そこで、アブラムは一計を案じます。11~12節です。
「エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。『あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、「この女はあの男の妻だ」と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。』」
このアブラムの姿は、なんとも情けない感じがします。殺されるのが恐ろしいので、妻に向かって、「うそをついて、自分の命を守ってくれ」というのです。そしていかにも「こんなうそをつかなければならないのも、お前が美しすぎるからだ」と言って、自分の弱さを認めずに、妻のせいにしているようにも聞こえます。これを聞いた妻サライは、どんな気持ちだったでしょうか。「なんとふがいない夫だろう!」と思ったかもしれません。
これが、私たちの信仰の父アブラムの姿です。ただ信仰によって出発したアブラムが、早くも信仰につまずき、挫折しています。
今日の12章10節は、次のように始まっていました。「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。」
アブラムは、飢饉を避けるため豊かなエジプトに逃れますが、どうもエジプト行きを決めたこと自体、神を信頼し、祈った結果、示された道ではないようです。飢饉という困難に直面して、おろおろしているアブラムの姿が目に浮かびます。
アブラムの旅はそもそも、神の召しによって出発したものでした。もし今回も、アブラムの中に、神さまが「エジプトへ行け」と示されたのだという確信があったならば、彼はもっと自信をもって、エジプトへ行ったのではないでしょうか。一番神に信頼すべき大事なとき、最も苦しいときに、アブラムは神に祈るよりも、この世の知恵で行動しようとしたのです。何か、私たち自身の姿を見ているような感じがします。
どんな信仰者であろうとも、困難に遭ったときに、試練に勝てないで屈服してしまうことがあるということを思い知らされます。
私たちも普段は、「イエス・キリストこそ救い主」と告白して礼拝していても、何か問題が起きたときにはどうでしょう。自分を見失ってしまい、神を信頼するよりも、自分の知恵、あるいはこの世的な処世術の方により頼んで行動するということがあるのではないでしょうか。
詩編30編に、こういう御言葉があります。(p860)7~8節です。
「平穏なときには、申しました
『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。
主よ、あなたの御旨によって
砦の山に立たせてくださったからです。
しかし、御顔を隠されると
わたしたちはたちまち恐怖に陥りました」
まさに、私たち自身の信仰の姿を言い当てているように思います。
ただアブラムは、ここで旅をやめて故郷に引き返したのではありませんでした。もともとアブラムが出発したハランという町は、キャラバン(隊商)の町として栄えていました。豊かでした。ですから、困難に陥った場合、引き返したいと思っても不思議はありません。しかし、彼は後戻りするという道は取らないで、何とか旅を続ける方法を考えたのです。
宗教改革者カルヴァンは、「ここでアブラハムに、引き返すという最も安易な方法を取ることを拒ませたのは、信仰である。信仰をもっていたからこそ、とにかく旅を続けたのだ」というようなことを言っています。アブラムはハランへ引き返すという、いわば最悪の選択をせずに、ひとつの妥協策を講じたのでした。それがエジプト行きであったわけです。そしてエジプトで生き延びるために、妻サライに「妹だ」とうそをつかせることになるのです。
しかしこのことも、決して欲のためではありませんでした。困窮の結果、どうすれば生き延びられるかを考え、思いついたことです。彼は結果として、エジプト王ファラオからいろいろな贈り物をもらうことになりますが、これをもらうためにサライを利用したのではありません。アブラムとサライはついにエジプトへ入ります。そして、アブラムの予感は見事に的中します。14~16節です。
「アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ロバ、らくだなどを与えられた」。
アブラムの作戦は、見事に功を奏します。サライはエジプトの女の中で最高の地位に達し、アブラムはあっという間に大資産家になります。アブラムは、この世的に言えば、最高のものを手にしたと言えるでしょう。
しかし、この話はこれで終わるわけではありません。「アブラムは、ここで旅をやめ、エジプトの住人になった。妻を王に渡したためにひいきをされ、大金持ちとなり、生涯幸せに暮らした」という話ではないのです。話の後半は、「ところが主は」と始まります。ついに神さまが、直接介入されることになります。アブラムのエジプトでのエピソードは、神さま抜きで始まり、神さま抜きでうまくいきかけていました。しかし、このことを神さまは見過ごしにされません。主なる神さまご自身が、「待った」をかけられるのです。17節。
「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」。
ただ不思議なことに、アブラムの不信仰の行為によって神が打たれたのは、アブラムではなく、ファラオと宮廷の人々でした。これは理解に苦しむことです。一体どうなっているのか。まったく説明がありません。私たちに言えることは、神は私たちの想像の範囲を超え、私たちの倫理的基準を超えて行動されるということです。
この物語は、神とアブラムを軸にして述べられていますから、ファラオはあくまでも二次的人物です。ファラオに罪を見いだそうとする人は、こう言うかもしれません。「ファラオの欲望には限りがなかった。たくさんの女性を囲っておきながら、それで満足せず、異国の美しい女性サライを見ると、それさえも自分のものにしようとした。」
しかし、それは関係なさそうです。むしろ、病気の原因がアブラムにあるとわかったときに、ファラオは非常に適切な対応をしました。「逆上して、アブラムを捕らえ、殺してしまった」というのではありません。与えたものを取り上げることもせず、彼を去らせています。事情を知らずにアブラムに関わったファラオを、神さまも正しく導かれるのです。このことからすれば、むしろ、このファラオは神を畏れる、敬虔な異邦人であった、とも言えるでしょう。
神さまは、アブラムに対して、12章3節のところで、こう言われていました。
「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
「地上の氏族はすべて」です。たとえ神から疎外されているように見える他の民も祝福される。最初に祝福された人間を通して、順々に神さまの祝福が広がっていくのです。アブラムを通して、呪いではなく祝福が広がらなくてはならないのです。そして祝福は、ひとり占めするためではなく、他の人に手渡していくためにあるのです。それは生き物のようなもので、自分の籠に入れてしまうと、いつの間にか生気を失って、死んでしまう。他の人にどんどん手渡すことによって祝福は生き続けるのです。祝福された人、祝福された家庭というものには、そういうところがあるのではないでしょうか。泉から水が湧き出るように、それに接する人たちにとめどなく祝福を与えていきます。クリスチァンである喜びも、そのように周りの人に伝えていきたいものです。
アブラムと神との関係で、もう一つ不可解なことは、アブラムの卑怯さにもかかわらず、神はアブラムを祝福するという約束を守り続けられるということです。
「わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。」
この約束は無条件でした。神はアブラムに向かって、「もしあなたが私に従うならば」とか「あなたが正しい人であるならば」とかいう条件はつけていない。ただ一方的に、「私はあなたを祝福する」と言われる。神さまはそのように宣言されるのです。アブラムの方は、神さまに顔向けできないようなことをしでかしました。それにもかかわらず、神さまの方は少しも約束をたがえず、守り続ける。それがアブラムの神なのです。
パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、こういうふうに言っています。(p279)「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:7~8)。
正しい人でもなく、善い人でもなく、罪人である私たちのために、キリストは十字架にかかって死なれた。条件なし。それが神の愛です。これは私たちの理解を超えたことであり、説明がつかない。説明するとすれば、ただ神はそのようにして約束を守り、そのようにして愛を示される、ということだけです。
だからこそ私たちも、それで高慢になってはなりません。この神の愛に応えて、人に祝福を与える人間として生きていきたいと思います。
お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と対面でオンラインで共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。あなたは信じる者に祝福を与え、いかなることがあろうともその祝福を全うしてくださいます。あなたの約束は取り消されません。私たちはそのようなあなたの愛に応えて、あなたに真実に従っていくことができますよう、どうか導いていてください。一年で最も寒さが厳しい季節を迎えています。大雪のために困難を強いられている人々を、あなたが支えていてください。群れの中で病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹をあなたが顧みてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 エレミヤ書1章4-10節
説 教 「エレミヤの召命」 山﨑和子長老
午前10時30分 伝道礼拝 司式 三宅恵子長老
聖 書
(旧約) エレミヤ書17章5-14節
(新約) マルコによる福音書10章35-45節
説 教 「仕えるために来られた主」 藤田浩喜牧師
2025年2月2日(日) 主日礼拝説教
教師 山田矩子
一年ぶりの説教ご奉仕を感謝いたします。今朝は、天候を心配しましたが、つくばひたち野伝道所の礼拝と総会のため、藤田先生がご奉仕くださって感謝しております。
昨年は、中島美穂子姉妹の突然の昇天に際し、南柏教会の皆様とお送りできましたこと、感謝しております。また、年末には、つくばひたち野伝道所の姉妹が天に召され、藤田先生には、重ねてお世話になりました。
今朝は、これまで読み進めてきました「フィリピの信徒への手紙」の続き、4章8〜9節の御言葉に聞いていきたいと思います。この前の所6節で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とのパウロの希望の言葉を聞きました。
パウロは、主イエス・キリストによって罪を赦され、救いの恵みに招かれた人々に、神様から賜った平安な生活を真実に送り続けるために、日々の中にある真実なこと、偽りでないものに、心と目を向けて生きていくように勧めています。
ここには8つの徳が勧められていますが、ギリシア時代には徳ということが大切にされていたといわれます。これは、すべての人が生きる上で大切なことですから、神に作られた一人一人の誰もが、心の中心に置きたい事柄です。特に、ギリシア世界の徳は、善を行うことで、人間の幸福を目指すといわれていました。「ガラテヤの信徒への手紙」には5章22節で「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」と徳をあげています。そしてコリントの信徒への手紙二の6章6節では「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力」などがあげられています。そして、「フィリピの信徒への手紙」4章8節では「すべて真実なこと、すべて気高いこと」というように、一つ一つの徳の前に、「すべて」という言葉が加えられています。それは、ある限定されたことだけではなく、良いものはすべて心に留めなさいという勧めです。
では、パウロは、この8つの徳から、どのようなことをフィリピの人々に伝えたいのでしょうか。ここに述べられていることは、人が生きていくうえで最も基本的なことであり、人と人が信頼して成長していくために、なくてはならないことなのです。
私たちは、真実をもって愛され、接せられて、人格が形作られていきます。喜んだり、悲しんだり、我慢したり、感謝したり、そしてしてはいけないことも学んでいきます。また、人から与えられるだけでなく、果たさなければならないことや担っていかなければならないことにも気付くようになります。ですからパウロは、日々の人とのかかわりの中で気付かされた事、教えられたことを心に留めなさいと言っています。
この「心に留める」という言葉には、物事をよく考えるという意味がありますが、しかし、考えて、それでおしまいというのではなく、助けを必要とされた時にはすぐに力を差し出すことが出来るという意味が込められているといわれています。人は真実に接してもらって生きてきた時、また他者に対しても、自分がしてもらったと同じように真実をもって接することができるといわれています。
続いてパウロは、「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」と勧めます。それはコリントの信徒への手紙一の15章3節、パウロが受けた「キリストの十字架の死と復活」です。キリスト者を迫害しているパウロに主が出会って下さり、罪の赦しを知らされた時、パウロは自分の力で生きているのではなく、神の命を与えられていることを知らされたのです。続く、「聞いたこと、見たこと」は、フィリピ1章30節の「あなたがたが、私の戦いを「かつで見」「今また」それについて聞いています」とあることです。それは、霊にとりつかれている女性を解放したことで牢に入れられ、その中で神に祈り、讃美し続けたことです。そして「今また」といわれていることは、キリストの福音を伝えたために、ローマの牢にとらえられていることです。しかし、ここでもキリストの福音が証されて、福音が前進している喜びの出来事がおこっているのです。
このように、パウロのどのような困難の時でも、神は共にいて下さって、神ご自身が戦って下さること、そして福音を前進させて下さることを信じることができたのです。
それは、パウロが困難から救われるだけでなく、まわりの人々が、まことの神の救いの中に入れられる願いです。パウロにとっての喜びは、一人でも多くの人が罪から救われて、本当の人としての命を全うすることでした。
ですから、フィリピにいる、今、迫害のただ中にあるあなた方も、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている」と福音のために戦ってほしいと、パウロは祈っています。このように、パウロの願いは、信仰者として、人間のまことの幸せを祈り、神の御心が何であるかを尋ねつつ、小さな一つ一つを勇気をもって、実際の行動へ向かっていくのです。そして、福音のために戦う時には、どのような時でも神が共にいて、その戦いは、平和をつくり出す神ご自身がなして下さるのです。平和の神ご自身が、私たち一人一人の一番近くにいて下さり、私たちは、新しい一歩を歩みだすことができます。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 イザヤ書53章1-12節
説 教 「身代わりの苦しみ」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) 創世記12章10-20節
(新約) ローマの信徒への手紙5章6-11節
説 教 「わたしはあなたを祝福する」 藤田浩喜牧師
ヨハネによる福音書2章1~11節 2025年1月26日(日) 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
日本でもそうかもしれませんが、婚礼というのは、家と家とのお祝い事でもありました。この時代のユダヤにおいてもそうであり、家と家との祝い事として婚礼が行われたのです。その婚礼には小さな村ですと、村中の人が集まってきました。調べてみますと、婚礼の宴というのは、当時、この地方では数日にわたって行われたとも書いてありました。ある場合には、おそらく家が傾くほどの出費を覚悟しなければならなかったと思います。
その婚宴の席で、ぶどう酒がなくなってしまいました。花婿の家にとっては一大事です。面目が失われるような出来事と言ってもよいでしょう。おそらく台所の近くにいたマリアは、そのことを知らされて、主イエスのもとに伝えたというのです。こう言われています。
「母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」(3節)
これは単にぶどう酒がなくなったという事実を報告したという話では、おそらくないでしょう。イエス・キリストに対する願い、嘆願、あるいは祈りと言ってもいいかも知れません。そういうものが、この言葉には含まれていたと思います。ぶどう酒がなくなる。せっかくの楽しいお祝いの席でぶどう酒が切れてしまう。
それはある意味で、私たちの人生に似ていると思います。若さとか力とかあるいは意欲とか、ある場合には美しさとか、そういうものを自分の中に持って、その勢いで、自分の持っているものによって道を突破していく。そういう時が人生にはあると思います。しかし、次第にその気力も体力もあるいは美しさも尽きてくる。弱ってくる。突破できなくなる。今までは気力でもって突破できたいろいろな問題が、分厚い壁になってくる。そしてそこに体をぶつけていったら、こちらが傷ついてしまう。みんなそういう地点に立つわけです。行き止まりの場所があるのです。これはまさに、現在の私たちキリスト教会の姿でもあります。どんどん進む高齢化と教勢減少の中で、かつてのような勢いを失い、これ以上は前に進めない閉そく感を覚えているのではないでしょうか。
ぶどう酒はなくなりました。先ほども言いましたように、これはマリアの祈りです。そして花婿、花嫁の両家の困っている状況が、このマリアの背後にはあります。喜びや賑わいのこのお祝いの席でぶどう酒がなくなってしまうと、いっぺんに空気が冷えてしまう。これは切実な祈りです。
しかし主イエスの答えはこうでした。「『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』」。(4節)
ずっと長い間、私もこの言葉につまずきました。なんてつれない言葉だろうと思ったのです。しかしこれは、母と子の肉親の情によってキリストが応えられるということではない、ということを言われたのだと思います。「情に流される」という言葉がありますが、主イエスはそういう形ではマリアの願いにお応えにならない。そういう意味が込められているのではないかと思います。
そしてこう言われました。「わたしの時はまだ来ていません。」イエス・キリストの時があるのです。イエス・キリストが応えられる時があるのです。マリアが願う時ではなく、あるいは私たちが願う時ではなく、イエス・キリストの時があるのです。だからマリアは拒絶されたとは思いませんでした。マリアは備えました。聖書にはこう書いてあります。
「しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」(5節)
これは、マリアがイエス・キリストの時を信じて待つ姿勢です。彼女の思うとおりには応えられないけれども、イエス・キリストの時を信じて待つ姿勢です。その時を信じるからこそ、彼女は備えて待つのです。
ここで私たちは、祈りということについて考えさせられます。祈る人というのは、待っている人のことなのです。祈った人は前に向かうのです。前方を見るのです。そして、備える。信仰というのは、もちろん神さまを信じることです。しかし、神を信じるということは、神さまがどこかにおられるということを信じることではありません。信じる者は神に向かって祈るのです。自分自身を神に向けて投げかけるのです。いろいろな問題をかかえた自分、重荷を負った自分、あるいは行き詰っている自分を、神に投げかけながら生きる。それが神を信じる者の生き方です。
キリストは救い主として私たちを受け止め、そして応えてくださる。「わたしの時はまだ来ていません」。ここに書かれていることは、「救い主の時がある」ということです。私たちの願う時ではないけれど、イエス・キリストが準備してくださる時がある。私の願う時というのは、たいてい〈今、すぐ〉です。すぐ応えてくださらないといけないと私たちは考える。しかし、イエス・キリストの時、救い主の時がある。これはなんと深い慰めでしょうか。私の思うよりもはるかに良い時、私にとって最もふさわしい時、その時を救い主は備えてくださり、その時に応えてくださるのです。
私たちの生きている現実の前にも壁があります。壁はこちらから破ることはできません。先ほど言いました。こちらから何とかして破ろうとしたら、こちらが傷ついてしまう。向こうから破っていただくのです。向こう側から、救い主の方から破っていただいて前に進む。イエス・キリストは言われました。「求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる」。求めるというのは、ただ欲しいと思うだけではありません。祈ることです。そして私たちは神の門をたたきます。門を向こう側から開いていただけるのです。向こう側から、私たちには開けないと思った扉を、一つひとつ開いていただきながら、私たちは前に向かって歩いていきます。それが信仰によって生きるということです。私たちの教会の歩みも、そのようにして道が開かれ、導かれていくのです。祈りつつ、扉を開かれ、前に進ませていただくことができるのです。
「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレス入りのものである。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」(6~7節)
大きな石の水がめです。清めに用いるのです。ユダヤ人たちは、外に出たら汚れる。だから手を洗います。外で汚れてきた汚れを落とすという意味があったのです。だから多量の水が清めのためにあったのです。水を汲むためには、村の真ん中にある井戸まで召し使いたちは歩いていかなければなりません。
村というのは、たいていは井戸があって、その周りに小さな村ができるのです。ですから、水を汲みなさいと言われたら、井戸まで何回も往復しないといけません。僕たちはそうやって、何度も井戸のところまで往復いたしました。彼らは黙って水を運びました。なぜ水を運ばなければならないのか、おそらく彼らにはわからなかったのです。何でこんなことをしているのだろうと思ったと思います。しかし、わかりませんでしたけれども、彼らは黙って運びました。そしてその水がめに運んだ水を、宴会の世話役のところに持っていきなさいと言われたので、彼らはそれを世話役のところに持っていきました。
こう書いてあります。
「イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました』。」(8~10節)
良いぶどう酒がどこから来たのか、世話役にはわかりませんでした。しかし、水を汲んだ召し使いたちは知っていたと書かれています。召し使いたちは自分たちがどうして水を運ばなければならないのか、その時には訳がわかりませんでした。何でこんな重たい物を運ぶのか。もしイエス・キリストにぶどう酒を運ぶように言われたのであれば、彼らは喜んで運んだと思います。しかし、なぜ水を運ばなければならないかわかりませんでした。ただ、自分たちにはわからないけれども、主イエスはその訳を知っていてくださる。それを彼らは信じたのです。この重い荷物の意味を知っていてくださる方がいる。それを信じた。信じたから、彼らは黙って、黙々と運んだのです。
今の自分にはわからないのです。けれども、この意味を知っていてくださる方がいる。信じるということはそういうことです。何もかも訳がわかって、私たちは生きているのではありません。訳がわからないことはいっぱいある。ことに、思いがけない荷を自分が負わなければならないとき、ドサッと何かが自分の肩にかぶさってきたとき、私たちはだれもが「なぜ」と思います。そして、「なぜ自分が」と思います。しかし、その時にも私たちは信じるのです。今、その意味は自分にはわからないけれども、その意味を知っていてくださる方がいる。そのことを信じるのです。信じるから、私たちは水を運ぶのです。黙って、耐えて、水を運ぶのです。
この水は最上のぶどう酒になっていました。私たちの運んでいる重たい水。それはどこかで、ぶどう酒に変えていただく水なのです。悩みながら、そして苦しみながら運ぶその水が、そっくりぶどう酒に変えられるのです。変えていただけるのです。そういう水を私たちは、今運んでいるのだということを忘れてはなりません。
世話役は言いました。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」初めは良い、しかしだんだん味が薄くなる。それは多くの人の考えている人生観です。みんなそう思って生きています。しかし、救い主イエス・キリストにある人生というのは、そうではありません。最後に一番良いぶどう酒に変えていただける。それは私たちに与えられている約束です。すべての労苦がひっくり返って、最上のぶどう酒になる。その時を、私たち一人ひとりのために備えていてくださる方がいる。その方に向けて、その時に向けて、私たちは歩いているのです。
私たちの教会の将来を考える時、人間的に見れば、明るい材料は見当たりません。だんだん衰えていく、力を失っていくようにしか見えません。しかし私たちは、あまりにもこの「人間的に見れば」ということに、囚われすぎてはいないでしょうか。伝道は神の御業です、教会の将来は神の御手の中にあります。主イエス・キリストが、私たちの教会を導いておられます。イエス・キリストのために傾けられた労苦が、無駄になることは決してありません。そして主は、最上のぶどう酒を準備していてくださる。最上のぶどう酒に変えていただけるこの道を、みんなそれぞれに歩ませていただいているのです。約束に満ちた道を、みんな歩ませていただいているのです。私たちはそのことを心から喜び確信しながら、今日の定期総会を始めていきたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を心から讃美いたします。御言葉を通して私たちは、主イエス・キリストがご存じであるということを教えられました。水がめを満たすためにただ水を運んでいるとしか思えないような時も、わたしたちの人生はあなたのご計画の中で、あなたの貴いご用のために用いられています。どうか、そのようなあなたへの深い信頼の中で、信仰者として生きるわたしたちであらしてください。今日礼拝後もたれます今年の定期総会の上に、あなたのよき導きと祝福を与えていてください。群れの中で病床にある者、様々な困難にある者を、あなたたが支え顧みていてください。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 イザヤ書6章1-8節
説 教 「イザヤの召命」 三宅光
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老 (聖餐式を執行します)
聖 書
(旧約) イザヤ書58章6-12節
(新約) フィリピの信徒への手紙4章8-9節
説 教 「共におられる平和の神」 山田矩子教師
マルコによる福音書10章17~31節 2025年1月19日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
主イエスは弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23節)。どうして主イエスはこんなことを言われたのでしょう。それは今日朗読してくださった話の流れから察することができます。その直前に、主イエスは財産のある人と話をしていたからです。
その人は神の救いを求めて主イエスのもとに来た人でした。走り寄って、ひざまずいてこう尋ねたというのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)。彼が切に求めていたのは、死をもって失われないもの、世の終わりにおいても失われない、最終的な神の救いでした。
「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。彼はこれまで自分にできることをしてきたのです。伝えられてきた神の掟も一生懸命に守ってきました。主イエスが「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(19節)と言われた時、彼は即座に答えました。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」しかし、それで十分だとは思えなかったのです。まだ足りない。だから尋ねたのです。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と。
主イエスは彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。この主イエスの言葉は、救いを求める彼を打ちのめしました。彼は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。「たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と聖書は説明しています。そこで主イエスは弟子たちを見回して言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。
ところで、厳密に言いますと、この23節の「財産」と22節の「財産」では、元の言葉が異なります。23節で「財産」と訳されているのは、もともとは「使う」という言葉に由来する単語です。「使えるもの」のことです。確かに「財産」とはそういうものでしょう。彼は財産を持っていた。それは必要に応じて使うことができるものを持っていたということです。欲しいものを得るために、彼は財産を使うことができるのです。
しかし、欲しいものが「永遠の命」だったらどうでしょう。神の救いだったらどうでしょう。それを得るために人は何を使うのか。使えるものは何なのか。通常考えられるのは「善い行い」でしょう。彼もそうでした。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。そう「何かをすること」が必要だと考えた。子供の時から律法を守ってきた積み重ねは、彼にとって永遠の命を得るために「使えるもの」だったのです。
その意味では彼の「財産」はお金だけではありませんでした。幼い頃からの律法遵守、積み上げてきた善い行い、これらもまた彼の財産だったのです。その財産をもって、永遠の命を得、神の国に入ろうとしていたのです。そして、彼がそうしたがっているので、主イエスはそれを一緒に押し進めようとされたのです。「使えるもの」をもって永遠の命を得たいなら、「使えるもの」すべてをそのために使うべきだ、と。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とはそういうことです。しかし、そこで彼は悲しみながら立ち去ることとなりました。
それを見て主は言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」何が問題だったのでしょう。金持ちだったことでしょうか。いわゆる財産を手放せなかったことでしょうか。いいえ、そもそもの問題は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねてきたことなのです。自分が神に差し出すことができるものをもって、救いを得ることができると考えていたことなのです。そうです、人間にはそれができると考えていたことです。
主イエスは今日の27節で、「人にはできないが、神にはできる」とおっしゃいました。「人間にはできる」と思っているうちは、この言葉は大した意味を持ちません。人間にできるなら人間が自分の力でしたらよいのです。「神にはできる。神は何でもできるからだ」。この言葉が本当に意味を持ってくるのは、「人間にはできない」ということが見えてきた時です。主イエスがこう言われたのは、弟子たちが互いにこう言い合っていたからでした。「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)。正確には「それでは、だれが救われることが《できる》だろうか」と言っているのです。もちろん、その意味するところは「だれも救われることが《できない》ではないか」ということです。
「使えるもの」があるならば「できる」と思っているとき、人はそれを使おうと思いますし、使えると思うのです。そのように人間にできると思っているかぎり、「神にはできる」ということに真剣に目を向けることはありません。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。――それは単にお金があるかないかの話ではありません。「人間にはできる」と思っているかどうかということなのです。
「神にはできる」という主イエスの言葉が本当の意味で自分の信仰告白となるのは、救いを得るために「使えるもの」が自分にはない、神に差し出せるものなど何一つない、本当に貧しいものだと自覚した時だけです。ですから主イエスは別の福音書においてこう語っておられるのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)。なぜなら「人間にできることではないが、神にはできる」からです。
そして、「神にはできる」と書かれているとおり、神にしかできないことを神はしてくださったのです。「神にはできる。神は何でもできる」と主は言われましたが、その神の全能を神がどのように使われたか、私たちは福音によって知らされているのです。何でもできる神はその独り子を私たちに与えてくださいました。神は御子を十字架にかけてくださいました。この贖いの犠牲のゆえに、私たちの罪を赦してくださいました。神は私たちを清めて神との交わりに入れてくださいました。神は罪人を救い、永遠の命を与えることがおできになります。「神にはできる。神は何でもできる」。そう語られた主イエスは、実際にその神の御業によって遣わされた方として語っておられるのです。
しかし、そのことがまだ弟子たちには分かっていません。「神にはできる」と主イエスが言っておられるのに、弟子たちは人間がしたことについて語り始めます。ペトロは言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)。「このとおり」というのは文字通りの意味は「ごらんください」です。自分を見てください、というのです。
彼らが考えているのは財産を処分して施すことをしなかった金持ちと自分たちとの比較です。主イエスが単純にお金を手放したか否かを問題にしていると思っている。だから、お金を手放したこと自体が、今度はペトロにとって「使えるもの」になっているのです。その「使えるもの」をもって神と取り引きしようとしている。マタイによる福音書では、ペトロの言葉はこう伝えられています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。
主イエスはペトロの言葉を単純に否定することはしませんでした。弟子たちに対しては、さらに語るべきことがあったからです。主は言われました。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(30節)。
主イエスは「わたしのためまた福音のため」と言われました。大事なことはここで「永遠の命を得るために」とも「神の国に入るために」とも、「来るべき世において報いを得るために」とも主は言われなかったということです。「わたしのためにまた福音のために」は、「わたしの故にまた福音の故に」という意味の言葉です。主イエスの故にとは、どういうことでしょう。福音の故にとはどういうことでしょう。
先にも申しましたように、イエス・キリストという存在そのものが「神にはできる」の現れでした。私たちを救うことができる神の、一方的な恵みの現れだったのです。それゆえにイエス・キリストの到来は「福音」なのです。良き知らせです。その主イエスのためまた福音のために何かを捨てるとするならば、それは恵みに対する応答以外の何ものでもありません。主はそのことを言っておられるのです。
実際に弟子たちはやがて迫害の時代を生きることになるのです。ここに語られていることがやがて実際に起こることを主は知っておられるのです。実際に兄弟や親子の縁を切られることもあるかもしれない。畑や財産を失うこともあるかもしれない。しかし、それは救いを得るために払わなくてはならない犠牲ではないのです。救いを得るために何かを捨てるわけではないのです。それらはすべて恵みに対する応答としてなされることなのです。
それゆえに、主は言われたのです。「この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。この世においても報われ、後の世においても報われる。逆説的ですが、報いを求めてではなく「イエスの故にまた福音の故に」恵みに応えて行ったことが、結局は報いを受けるのです。
そのように、今日の私たちにおいても、何かを行うにせよ、何かを献げるにせよ、何かを手放すにせよ、大事なことは、《ただ神の恵みへの応答として行う》ということなのです。ならば本当に必要なのは、恵みを知るということなのでしょう。恵みを知ることがなければ、わずかな献げ物でさえ惜しむ心や報いを求める心をもってしか献げられなくなります。あるいはペトロのように「ごらんください」になるのです。そうではなく、私たちは神の恵みを知る者となりたい。そして、ただひたすら神の恵みに応えて生きる者となりたい。惜しみなく私たち自身を献げ、必要ならば持てるものを手放せる自由さを持ちたいものです。そう、最終的に「神にはできる」は、そこにまで及ぶことを信じたいと思うのです。「人間にできなくても神にはできる」と。お祈りをいたしましょう。
【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美し、御栄を褒め称えます。今日も愛する兄弟姉妹と対面でオンラインで、礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。今日も共に御言葉に聞きました。どうぞ、あなたが御子を通して与えてくださった恵みを、何よりも私たちが感謝して受け取ることができますよう、導いていてください。昨日は敬愛する栗原章雄さんの送る会を行うことができて感謝いたします。ご遺族の上にあなたの慰めと平安をお与えください。この拙きひと言のお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。