信仰の生まれるところ

マルコによる福音書9章14~29節 2024年10月6日(日)主日礼拝説教
                            牧師 藤田浩喜

 先週の礼拝では、高い山の上で主イエスが栄光に輝く姿に変貌され、それをペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人が目撃し、畏れの中にも感激したという箇所を読みました。今日の箇所は主イエスたちが山から降りてこられた下界の話です。霊に取りつかれてものが言えず、霊が取りつくと所かまわず地面に引き倒される子どもが、下界にいた弟子たちによって癒やされなかった。弟子たちはその子どもから霊を追い出せなかったという現実が、主イエス一行を待ち構えていたのです。
 イタリアの画家であるラファエロが、山上の変貌の場面を絵に描いていますが、絵の上3分の1のところには、宙を浮く主イエスとモーセとエリヤの神々しい姿が描かれ、下3分の2には下界の混乱した様子が描かれています。その絵の中には確かに体をこわばらせた男の子が手を上げており、父親とおぼしき男性がその男の子を支えています。そして、聖書を携えた律法学者や群衆、そして弟子たちが、何かをめぐって激しく議論している様子が描き込まれているのです。下界である人間の世界で起こっていることが、いかに深刻で混乱に満ちているかを思わされずにはおれないのです。

 今日の聖書箇所には、主イエスの他に、弟子たち、悪霊に取りつかれた子どもとその父親、群衆や律法学者が出てきますが、今日は子どもを連れてきたお父さんに焦点を当てて見ていきましょう。この父親は、霊に取りつかれてものが言えず、霊が取りつくと所かまわず地面に引き倒される子どもを、下界にいた弟子たちのところに連れてきました。主イエスは不在でしたけれども、あの偉大な御方のお弟子さんであれば、子どもから悪霊を追い出してくれるかも知れない。そのような期待があったに違いありません。
しかし、いくら弟子たちが真剣に祈っても、子どもの状態は以前のままでした。「やっぱりダメだったか」と落胆していたところに、主イエスが3人の弟子たちと山から降りてこられました。突然、主イエスが戻ってこられて、父親も周りの人々も驚いたようです。しかし、せっかく主イエスとお会いできたのだからと、父親はこれまでのいきさつを主イエスに説明したのです。主イエスは弟子たちが子どもを癒せなかった状況を嘆かれつつも、その子に関わろうとなさいます。そして「その子をわたしのところに連れて来なさい」(19節)とおっしゃいました。そして悪霊に取りつかれた男の子の様子をじっくりご覧になると同時に、その子の父親に質問をなさったりして、主イエスと父親との対話が進んでいくのです。

 主イエスと子どもの父親との対話ですが、このお父さんは息子のことをよく見ていますし、よく知っていることが分かります。最初に息子の状態を報告した時、父親は的確な言葉で息子の様子を説明しています。「この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます」(17~18節)。そして主イエスに、「このようになったのは、いつごろからか」と質問された時も、「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」(22節)と答えています。父親は日常生活の中で息子と関わり、必要な援助をしてきたのでしょう。そして、繰り返し命の危機に遭遇する息子に対して、父親が盾となり助け出して、ここまで命をつないできたのではないでしょうか。悪霊に取りつかれて苦しみ、壮絶な体験をしてきた息子を見てきた父親は、息子を何とか助けてやりたいと思い続けてきたことでしょう。だからこそ評判の高い主イエスの弟子たちのもとに、息子を連れてきたのでした。しかし、主イエスの弟子たちは息子から悪霊を追い出すことができませんでした。「やはり無理だったのか」、「息子をどうしてやることもできないのか」。失望と無力感は大きかったと思います。父親が主イエスにお会いできた時も、主イエスに対しても大きな期待を抱くことはできなかったのではないでしょうか。

 先々週、ケニアのナイロビで障がいをもった子どもたちの療育施設「シロアムの園」を運営している公文和子先生のことを、皆さんにご紹介しました。あれから興味があって公文先生が書かれた著書『グッド・モーニング・トゥ・ユー!』(いのちのことば社)という本を読みました。『グッド・モーニング・トゥ・ユー!』は、朝子どもたちが「シロアムの園」にやって来た時に、公文先生や職員の人たちが子どもたちに笑顔で語りかける挨拶だということです。この『グッド・モーニング・トゥ・ユー!』という本には、「シロアムの園」の活動が大変詳しく紹介されています。色んな障がいをもった子どもたちのこれまでの生活や「シロアムの園」に通うようになってからの生活が、ていねいに紹介されています。
 「シロアムの園」で小児科医として最も多く先生が診療するのは、感染症とけいれんだといいます。そして障がいをもった子どもたちの中には、けいれんを伴うてんかん症状が現れる子どもたちも少なくないのだそうです。そして子どもたちにてんかん症状があることは、家族に大きなストレスを与えます。てんかん症状は見ている者たちにとっても恐い感じがしますし、このまま死んでしまうのでは、という不安も引き起こします。病状が激しく、慣れていない者の目には恐ろしく見えることもあることから、ケニアの社会では「悪霊が取りついている」と考えられることが少なくありません。そしてケニアにはさらに、てんかんは伝染する病気で、特に、発作の時のよだれやおしっこから感染するという迷信があります。もちろん、てんかんは伝染する病気ではありませんが、この迷信が大きな差別や偏見を引き起こしていると言うのです。さらに、多くの場合、かなり長い期間または一生 薬を飲み続けなければならないので、経済的な負担も計り知れないのです。ケニアには公的な医療保険がなく、障がいをもった子どもたちの家庭の多くは、経済的にギリギリの生活をしています。色んな労苦を負いながら、障がいをもった子どもと共に生きているのです。
 今日の聖書に出てきた子どもの状態が、今日のてんかん症状とよく似ているのは事実ですが、実際どうであったかは分かりません。しかし、今日登場しているお父さんやその家族も、現在のケニアの家庭が背負っているような重荷を、幾重にも背負っていたことはおそらく間違いありません。それだけに一縷の望みを託して主イエスの弟子たちのもとに来たのに、何の甲斐もなかった。そのことは、この父親に失望だけを残すものであったと思うのです。

 さて、主イエスはこの父親にどう向かい合われたでしょう。主は悪霊に取りつかれた子どもの状態やこれまでの経緯をお聞きになって、すぐにその息子から悪霊を追い出されたのではありませんでした。すぐにそれは可能だったと思いますが、主イエスは父親とまさに真剣勝負の対話をなさるのです。主イエスは息子から悪霊を追い出すことだけを、目的とはされません。息子の父親に「信じるとはどういうことか」を分からせようとなさるのです。
 父親は弟子たちへの失望感の中で、こう言います。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(22節)父親がほとんど主イエスに期待していないのが伝わってきます。全幅の信頼は持たないが、それでも「何かあれば」という消極的な思いです。しかし主は、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(23節)と言われます。主イエスは父親の信仰が中途半端であることを暴かれます。そして信じるということは、信じる相手に自分を100%明け渡すことだと教えられたのです。「信じる者には何でもできる」という言葉聞く時、私たちは心の中ですぐにその言葉を否定してしまいます。「私たちにできるわけがない」と思ってしまいます。しかし御業をなさるのは、神の御子イエス・キリストです。この方は「何でもできる」御方です。わたしたちの目の前におられる御方が何でもできる御方であることを知って、100%この御方にお委ねする。全体重、全存在をかけてこの御方に依り頼む。それが信じるということだと、主イエスは教えられるのです。
 主イエスのこのひと言に、息子の父親は目が覚めるような思いがしたに違いありません。目の前におられる方が、はっきり見えてきたのでしょう。父親はすぐに主イエスに向かって叫んだのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24節)。これは100%主イエスにお委ねするという信仰告白だったのです。「信じます」という告白と「信仰のないわたし」という言葉は、理屈で言えば矛盾しています。「信仰のないわたし」は「信じる」と告白することはできません。しかし、わたしたち聞く者には、この告白が真実の言葉であることが分かります。「自分には信仰と呼べるものはない。今はっきりとそれが分かりました。しかしあなたは何でもできる御方であり、わたしのすべてをお委ねできる御方です。どうか信仰と呼べるもののないこのわたしを、お助けください。」主イエスとの出会いと対話によって、父親にはすべてを主に委ねる信仰が生まれたのです。自分をすべて明け渡して、100%依り頼むことのできる御方を見いだしたのです。主イエスは悪霊に取りつかれた子どもを、悪霊から解放しただけではありません。子どもの父親をも救ってくださったのです。これから後、父親が神への信仰、主イエスへの信仰をもって生きていけるようにしてくださったのです。

 先ほどの公文和子先生の「シロアムの園」の生活ですが、通ってくる子どもたちの多くが心身の重い障害を持っています。一人一人に合った療育を続けても、一般の学校に行けるようになる子どもや仕事に就けるようになる子どもは、ほとんどいません。何年、何十年と療育に通いながら、家庭で過ごすことになります。公文先生や施設のスタッフの方たちが日々献身的に療育をされていますが、重い障害が無くなるということはありません。聖書の御言葉に養われ、祈りをもって一日の仕事を始めている「シロアムの園」であっても、主イエスを心から信じていても、障がいがなくなるという奇跡は起こらないのです。
 しかし、障がい者への差別が強い社会にあって、家で隠されるように過ごしてきた子どもたちが、シロアムの園ではあたたかく受け入れられます。施設のスタッフが、その子にあった食事の仕方、遊び方、対応の仕方を保護者と一緒に考えてくれます。孤独に暗中模索で世話をしてきたお母さんやお婆ちゃんも、笑顔で支えてくれる存在によって励まされます。そして、障がいをもった子どもたちが、小さなことでもできることが増えていく、子どもたちの楽しそうな笑顔がだんだん増えていく。そうすると、親御さんもスタッフも一緒に喜び合うことができます。シロアムの園であたたかく受け入れられることで、障がいのある子どもにも、親御さんにも、そして園のスタッフにも、生きる喜びが与えられるのです。「生きていて本当によかった!」と思えるのです。
 主イエスを信じて主イエスに委ねて生きる時、今日の父親がそうであったように、わたしたちには主イエスという御方がだんだん見えてきます。自分を頼りにするのではなく、この御方にすべてをお委ねすればよいのだということが、分かってきます。そして主イエスは、この世が与えることのできない平安をわたしたちに与え、他者と一緒に生きる喜びをわたしたちにもたらしてくださるのです。
人生を一変させるような奇跡は起こらないかもしれません。しかしわたしたちは、わたしたちが生きている時も死ぬ時も、すべてをお委ねすることのできるお方を信じて歩むことができるようになるのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。この父親の叫んだ祈りを、わたしたちの祈りとして、これからの信仰生活を送っていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。10月の第一主日、愛する兄弟姉妹と共に対面でオンラインで、礼拝を守ることができ、心から感謝いたします。神さま、あなたは信仰をわたしたちに与えてくださいます。それは自らの力を誇る信仰ではなく、あなたに全存在をかけて依り頼む信仰です。どうか、かの父親と共に「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と祈ることができますよう導いていてください。季節は変わり、寒暖差の激しいこの頃です。どうか、兄弟姉妹が体調を崩すことなく、日々守られて過ごすことができますよう、お支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

次週の礼拝  10月13日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マルコによる福音書10章17-22節

説  教   「金持ちの男」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分      司式 髙谷史朗長老

聖     書

  (旧約) 創世記12章1-9節  

  (新約) ヘブライ人への手紙11章8-10節 

説  教  「わたしが示す地に行きなさい」  藤田浩喜牧師

いのちの光に輝く主

マルコによる福音書9章2~13節 2024年9月29日(日) 主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

主イエスは先週の箇所で、「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(9:1)と言われました。今日の「イエスの姿が変わる」山上の変貌の出来事は、その「六日の後」に起こったのでした。「六」という数字は完全数である「七」の一つ前の数字です。先週の箇所で主は「神の国が力にあふれて現れる」ことを預言されました。それゆえ、今から起こる山上の変貌の出来事は、主イエスの再臨という究極的な出来事ではありません。それ以前に起こる栄光の出来事、主イエスにおいて「神の国が力にあふれて現れる」出来事の一つなのでしょう。

主イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られます。この高い山は、ナザレの南東数キロの地点にある標高562メートルのタボル山だと言われています。その高い山の頂上に到着した時、驚くべきことが起こりました。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」(2~4節)。白は天の御使いの衣が輝く白であったように、主イエスがこの世のものならぬ、天上の栄光に覆われていたことを示しています。しかもモーセのように神様の栄光を受けて照り輝いていたのではなく、主イエス御自身の内から放たれる栄光によって輝いていました。まさに神の独り子としての栄光に輝いておられたのです。

 また、主イエスの他にモーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合っていました。皆さんもご承知の通り、モーセはイスラエルの民に神の律法を伝えた指導者でした。またエリヤはモーセの時代から下った紀元前9世紀の北イスラエル王国で活躍した代表的な預言者でした。二人は旧約聖書の律法と預言を代表する両巨頭と言ってもよいでしょう。主イエスはここで二人と何を語り合っておられたのか。主イエスは二人と語り合い、御自身の言葉と御業が神のご計画の正しい実現であることを確認されていたのではないでしょうか。この山上でモーセとエリヤと語り合うことによって、神の救いの計画の全体が想起されます。主イエスは受難予告で示されたように、これから受難、十字架、復活の道を進んで行かれます。それゆえ主イエスがこれから進もうとされている道が、神の救いの歴史全体の中で決定的な事柄であることを、この出来事は暗示しているのです。旧約聖書の代表であるモーセとエリヤによって、神の御子イエス・キリストが歩もうとしている道が、神の救いの御計画の成就であることが証されているのです。

さて、この世のものではない光景を見たペトロは、思わず言葉を発してしまいます。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(5節)ペトロたち3人は、目の前に現れたこの世のものではない光景に、恐怖すら感じました。その恐れに押し潰されそうになっていたのでしょう。そのため、とにかくその恐怖を振り払おうと、思いついたことを口にしたのではないでしょうか。いかにも感情のままに動いてしまうペテロらしい振る舞いです。彼はこの世のものでない輝かしい光景を、いつまでもその場に残しておきたいと考えたのでしょう。その素晴らしい光景を、これからもずっと自分が眺めることができるように、主イエス、モーセ、エリヤそれぞれのために、仮小屋を建てることを提案したのでしょう。

 しかし、主イエスは輝く栄光に満ちた山の上には留まられません。ペトロがいつまでもメシア・神の子にふさわしい栄光の姿を見続けたいと願っても、主イエスは罪と悲惨に満ちた地上の世界へと降りて行かれます。そして、父なる神様の御心に従って、苦難と十字架の道を進んで行かれるのです。弟子のペトロに求められているのは、その苦難と十字架の主の御後に従うことなのです。

弟子たちが驚き恐れていた時です。「雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』」(7節)雲は出エジプトの民を主なる神が「雲の柱、火の柱」で導かれたように、神がそこに御臨在されたことを示しています。この山上には旧約聖書を代表するモーセとエリヤが現れただけではありません。主なる神御自身が御臨在されました。そして恐れおののく弟子たちに向かって、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と語りかけられたのです。かつて主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者』という声が、天から聞こえ」ました(マルコ1:11)。しかしその神様の声は、受洗された主イエスに向かって語られたものでした。しかしここでは、3人の弟子たちに向かって「これはわたしの愛する子。これに聞け」と言われているのです。

「これはわたしの愛する子。これに聞け」。この神様からの御声こそが、この山上の変貌の出来事の中心です。神様は御自身の愛する御子イエス・キリストに聞くことが、まさに御自身に聞くことだと言われたのです。神様の御心と御業が100パーセント、愛する御子によって行われます。ヨハネによる福音書で主御自身がこう言われています。「なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っているのである」(ヨハネ14:9~10)。そうであるからこそ、信じる者たちに求められているのは、御子イエス・キリストに聞いていくことなのです。その御言葉に聞き従っていくことなのです。

その神様の御声を確かに聞いたと思った弟子たちは、我に返り、急いで当たりを見回します。しかし、あたかも夢から覚めたかのごとく、モーセやエリヤの姿はありません。神様の声が聞こえた雲も見当たりません。ただ主イエスだけが彼らと一緒におられたのです。弟子たちは自分たちと一緒にいてくださる主イエスを見たのです。

 「彼らと共におられたイエスを見た」。何が起こったのかと当惑しつつも、主だけは一緒にいてくださったという、弟子たちの安堵感が感じられます。そうです! 真の神でありながら真の人となられた主イエスは、わたしたちがどんな境遇に置かれようとも、共にいてくださいます。私たちの先頭に立って私たちを導かれる方ですが、それだけではありません。わたしたち人間といつも一緒にいてくださいます。わたしたちは主が共にいてくださるわたしたち自身を、信仰の目ではっきり見ることができるのです。

 確かに聖書の中の弟子たちのように、地上の人間として歩まれる主イエスを私たちは見ることはできません。しかし死に打ち勝ち復活されたイエス・キリストは、今も聖霊を通してわたしたちと共にいてくださいます。信仰の目によって、イエス・キリストが共にいてくださる自分自身をわたしたちは見ることができます。たとえ死の谷の陰を通っていこうとも、主イエスがわたしたちから離れ給うことはありません。信仰者はそこに、何ものにも換えることのできない安心感を与えられるのです。

さて、9節以下には、山を降りる時に主イエスと弟子たちの間で交わされたやりとりが記されています。まず主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはならない」と命じられました。弟子たちのメシア理解は、「サタン、引き下がれ」と叱責されたペテロを見れば分かるように、きわめて不十分なものでした。メシアが苦難と十字架の道をたどることを彼らは理解していませんでした。それゆえ主イエスは弟子たちの不十分な理解によって大勢の群衆が混乱することのないように、弟子たちに口止めをされたのでしょう。実際、弟子たちは主イエスが受難予告の中で語られた「…三日の後に復活することになっている」という御言葉を、理解することができなかったのです。

 また、弟子たちは11節以下で預言者エリヤの到来について、主イエスに質問しています。確かに預言書であるマラキ書には、主なる神様が「大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と言われた御言葉が収められているのです。そして主イエスの時代の律法学者たちは、エリヤの到来はまだ起こってはいない、将来のことだと考えていたのです。しかし主イエスは、そうではなくエリヤはすでに到来したと言われます。そしてそれは、人々に悔い改めを迫り、水による洗礼を授けていたバプテスマのヨハネであったのです。メシア・救い主が到来する前に、人々にその備えをさせるのがエリヤの再来であるヨハネの使命でした。しかしユダヤの領主であったヘロデ・アンティパスは、無残にも彼の首をはねてしまいました。主イエスが言われるように、ヨハネを「人々は好きなようにあしらった」のです。

 そして、そのようなユダヤの人々による拒絶は、メシア・救い主である主イエス・キリストにも向けられます。イエス・キリストは、ユダヤの民が長年待望していた救い主でありましたが、人々はそれを理解しませんでした。「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」という聖書の預言が成就することになってしまったのです。こうして救い主を迎える道備えをする再来のエリヤであるバプテスマのヨハネも、救い主である人の子イエス・キリストも、神様に逆らう人間の罪と頑なさのゆえに拒絶され、命を奪われたのです。

 しかし、主イエスが受難予告で繰り返されたように、「多くの苦しみを受け…排斥されて殺され、三日の後に復活する」ことによって、救い主イエス・キリストは人間の罪を贖い、神様と人間との間に和解をもたらし、神様のお与えくださる永遠の命へと、私たちを迎え入れてくださったのです。旧約聖書のモーセとエリヤが律法と預言を通して証しした神様の救いのご計画が、十字架への道のりを歩まれたイエス・キリストによって実現したのです。神様は「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われました。このイエス・キリストの苦難と十字架によって人間を救うことが、人間を愛して止まない神様の御心だったのです。

 わたしたちの救いは、「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われたイエス・キリストにかかっています。この他のだれによっても、救いは得られません(使徒4:12)。わたしたち信仰者には、わたしたちを先だって導くだけでなく、わたしたちとどんな時も共にいてくださるイエス・キリストがいてくださいます。このお方を信じて、この方を証しする聖書の御言葉に日々生かされて、今しばらくの地上の歩みを続けていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と、体面でオンラインで共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。神さま、あなたはわたしたち信仰者に、栄光にみちた主イエスの姿を垣間見させてくださいます。苦難と十字架を歩まれる主イエスこそが、あなたの救いのご計画を成就するメシアであることを示してくださいます。どうか、この真の救い主であるお方の御後に確信をもって従うことができますよう導いていてください。能登半島では巨大な地震の後、今回の未曽有の豪雨によって、大きな被害が出ています。どうか能登にある被災者お一人お一人を支え導いていてください。この切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  10月6日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マルコによる福音書9章33-37節

説  教   「一番偉いのはだれか」 髙谷史朗長老

主日礼拝   

午前10時30分  司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖     書

  (旧約) エゼキエル書13章1-7節 

  (新約) マルコによる福音書9章14-29節 

説  教  「信仰の生まれるところ」  藤田浩喜牧師

主に従う真実な道

マルコ福音書8章31節~9章1節   2024年9月22日(日)  主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 先週の箇所で一番弟子のペトロは、主イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いかけに対し、「あなたは、メシアです」と答えました。ペトロは主イエスを「生ける神の子です」と、正しく告白したのです。それが先週の礼拝で私たちが聞いたことでした。

 ところが、今日お読みいただいた8章31節以下の箇所では、立派な告白をして主イエスのお褒めにあずかったペトロが、「サタン、引き下がれ」と厳しく叱責されているのです。どうしてこのようなことになったのでしょう。

 今日の8章31節に「それから」とあります。「あなたは、メシアです」とペトロに告白されて「それから」ということです。直後のことです。主イエスは次のように弟子たちに教えられたのです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」主イエスは、これからご自分がどのような道をたどられるのかを語られました。これは受難予告と言われ、マルコによる福音書には3回出てきます。そしてこの受難予告によって、主イエスはご自分がどのようにして神の子・メシアの使命を果たされるのかを、弟子たちに教えられました。その道は、ユダヤの権力者たちに迫害され、その結果として死を避けることができないものであったのです。

 それを聞いた弟子たちは、主イエスのおっしゃることが理解できませんでした。メシア・神の子である主イエスが殺されてしまうことなど、あり得ないことでした。あってはならないことでした。そのためペトロは、主イエスをわきへお連れして、いさめ始めたというのです。今からメシアとして大事業をなされようとしている主イエスが、少し弱気になっているように思われて、そのような思いを変えていただこうと考えたのかも知れません。

 しかし、そのペトロを主イエスは叱りつけられました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、激烈な言葉を浴びせられたのです。この場面はマタイによる福音書4章1~11節にある、主イエスが悪魔(サタン)から誘惑を受けられた場面を思い起こさせます。この時のペトロは神の救いの業を妨げる者、主イエスを誘惑する者としての役割を演じていました。主イエスはペトロの態度と言葉の中に、サタン自身の働きを感じられたのでしょう。だからこそ、それをきっぱり拒絶するために「サタンよ、引き下がれ」と言われたのです。

 ある注解者は次のように言っています。「こうした神の計画を考えずに、専ら人間的な推測のみでイエスの前に立ってイエスを導こうとする考えは、神の計画の邪魔をする悪魔の計略と同じである。」主イエスのことを慮り、主イエスの考えを変えようと、ペトロは主イエスをいさめました。しかし、それがどれほど人間の善意から出ていることであっても、主イエスの前に立って主イエスを導こうとすることは許されません。私たちの先に立って私たちを導かれるのは主イエスであって、私たちは主イエスの御後に従う者に他なりません。そうであるからこそ、私たちは何が主の御心であるかを、祈りにおいて聞いていかなくてはならないのです。神の思いよりも人間の思いを優先させようとする時、神の救いのご計画を妨げてしまうことになるのです。

 そして、今申しましたことを、主イエスはあらためて確認なさろうとされたのでしょう。34節にあるように主は群衆たちを弟子たちと共に呼び寄せられました。そして、メシア・神の子に従う者が持つべき覚悟について教えられたのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(34~35節)。

 主イエスは、弟子すなわち信仰者というのは、主イエスの御後に従う者であると言われます。そしてそれはまず、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」従うことだと言われるのです。主イエスは、私たちが知っていますように、自分の願いではなく父なる神様の御心に従って、十字架の死という苦い杯を受けられました。人間のどうしようもない罪を贖うために、私たちの負うべき十字架を私たちに代わって背負ってくださいました。その主イエスに従うために私たちがなすべきことは何か? それは、神様の御心に従って、私たち自身も誰かのために十字架を背負うことではないでしょうか。

 それは、自分の配偶者や子どもや親のため、自分の家族のために十字架を負うことかもしれません。自分の身近な友だちや地域の人たちのために十字架を負うことかもしれません。また、志や使命感を与えられて、外国の困難に置かれた人たちのために十字架を負うことかもしれません。私たち信仰者には、これが神様の御心だと示され、あえてその人たちのために十字架を負う決断をすることがあるのではないでしょうか。主イエスはそのことがわたしの後に従うことであり、自分の命を失うのではなく救うことになると、言われるのです。

 35節と36節で「自分の命」という言葉が4回使われていますが、原語では「プシュケー」という言葉です。「生命」という意味もありますが、「魂」とか「自分自身」という意味もある言葉です。「魂」という場合、「永遠の生命を受けることのできる、最も尊い部分」という意味でもあります。私たちは誰かのために十字架を背負うことによって、主イエスと共に十字架で死にます。しかし死んで終わりではありません。主イエスと共に十字架で死んで初めて、主イエスと共に復活の恵みにもあずかることができるのです。

 また、神様の御心に従い誰かのために十字架を背負うことは、「自分自身」を救うことでもあるのです。私たちに生きる目的を与え、人生を生きるに値するものにしてくれるのです。先週15日(日)情熱大陸というテレビの番組で、ケニアのナイロビで活動している小児科医公文和子さんの働きが紹介されていました。実はこの番組は習志野教会の長老さんからお薦めいただいたもので、その長老さんが北海道の札幌北一条教会で教会生活をされていた時、青年会でご一緒だったということでした。公文和子さんは和歌山の熱心なクリスチャンホームで育たれ、北海道大学医学部を卒業された後、小児科医となられました。イギリスで熱帯地医療を学ばれ、医療の十分行き届いていない国々で働かれましたが、厳しい現実に対して、自分の無力さに打ちのめされることもありました。そして様々な経験をされたあと、ケニアのナイロビで障害を持った子どもたちと出会い、その子たちの笑顔を見て、この地で子どもたちと共に生きていこうと決心します。そしてナイロビの地に障害を持った子どもたちの施設「シロアムの園」を設立したのでした。今、50人を超える子どもたちが、このシロアムの園に通い、リハビリと療育を受けています。ケニアでは今でも障害を持った人への偏見が強く、そんな子どもが生まれたのは、親が悪いことをしたからだとか、呪われているからだと思われています。ある子どものお母さんは、「障害がうつるから側に来ないでと言われた」体験を、涙ながらに語っていました。そうした社会にあって、シロアムの園は公文和子先生のやさしい笑顔とあたたかい人柄とのお陰もあって、障害を持つ子どもたちと親たちが安心して通える場所となっています。日本に毎夏帰ってきて講演と募金活動をしながら、シロアムの園の切り盛りをする公文和子先生の苦労は、いかばかりかと思います。しかし、先生自身は障害を持った子どもたちの笑顔こそが、自分を支え生かしてくれている。自分は子どもたちから笑顔をはじめ、多くのものを受け取っていることを伝えたいと言われるのです。

 私たちは、公文和子先生のような志の高い行動はできないかもしれません。しかし、自分の身近な人たち、少し関わりのできた人たちのために自分を捧げることによって、「自分自身」が支えられ、励まされる経験をするのではないでしょうか。そのような誰かのために十字架を背負う私たちを、主イエスは「わたしの後に続く者だ」と喜んでくださるのです。

 

 さて、主イエスはさらに36節以下で、次のように言われています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(36~38節)。ここには、主イエスの御後に従う弟子たちが、何に究極の価値を置いて生きるかが教えられています。マタイによる福音書4章8節以下にありますように、神に敵対するサタンは、主イエスに「この世の国々とその繁栄ぶり」を見せました。「わたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と誘惑しました。サタンはこの世界を支配する力を持っていることが分かります。しかし、このサタンに身をかがめて全世界を手に入れたとしても、それを自分の思い通りにすることはできません。全世界をどうかしようと思っても、それは自分の思いではなく、サタンの思いに操られているからです。現代の社会においても、暴力や強権を用いて自分の国を思うがまま支配しようとする独裁君主がいます。しかし、それは自分の思い通りにしているように見えても、それはすべてサタンの思いに操られているのです。しかしそれは有限です。人の子が父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来られる時までしか、存在することはできません。サタンの支配はいつまでも存続することはません。人の子が再臨する時に完全に打ち砕かれ、滅ぼされてしまうのです。

 それに対して主イエスの御後に従う信仰者は、主イエスが与えてくださる永遠の命を約束されています。この主にある永遠の命は、信仰者が地上の死を迎えても失われることはありません。しかしサタンに身をかがめて自分の命を失った者には、永遠の滅びが待ち受けているのです。なぜなら第一の死の後には永遠の命がありますが、第二の死の後には永遠の滅びだけがあるからであります。

 

 主イエスは今日の最後の9章1節で、このように言われました。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」この主イエスの言葉には、いくつかの解釈が提案されてきました。これは主イエスの再臨のことを語っていると言う人もおります。そうすると弟子たちが生きている間に、主イエスが再臨されると預言されたことになります。しかし、他の解釈をする人もいます。ある人たちは「神の力があふれて現れる」時を、次週学ぶ主イエスが山上で栄光の姿に変わった時だと言います。また別の人は、その時は主イエスが十字架の死から復活された時だと言います。そしてまた、天から聖霊が下されたペンテコステの時だと考える人もいるのです。いずれが正しいかは分かりません。むしろその一つ一つが、「神の国が力にあふれて現れた」出来事だと言えるのではないかと思います。

悩み多き時代です。不条理がこの世には充ち満ちているように感じます。しかし信仰者は、神の国が力にあふれて現れる究極の時として再臨の時を待ち望んでいます。そして、それだけではありません。主イエスは「神の国が力にあふれて現れる」出来事を、私たちの生きる時代にももたらしてくださいます。神の御支配は、私たちの時代にも確かに現れ出るのです。そのことを信じて、希望を抱きつつ信仰者としての歩みを続けていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と対面で、オンラインで共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。今日も聖書の御言葉を示され、主イエスの御後に従う者としての道を示されました。主は私たち一人ひとりの罪のために十字架を背負ってくださいました。私たちは自分のために十字架を背負っていく必要はありません。どうか私たちを、主イエスがそうであったように、誰かのために十字架を背負う者として導き支えてください。立秋からだいぶ経っても、猛暑日の続く日々です。どうか、兄弟姉妹一人ひとりの心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 9月29日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マルコによる福音書9章2-8節

説  教   「主イエスの姿が変わる」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分    司式 山根和子長老

聖     書

  (旧約) エジプト記3章11-15節  

  (新約) マルコによる福音書9章2-13節 

説  教 「いのちの光に輝く王」  藤田浩喜牧師

イエスとは何者か

マルコによる福音書8章27~30節 2024年9月15日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 マルコによる福音書をご一緒に読み進めていますが、今朝与えられております御言葉は、分量的にも内容的にも、マルコによる福音書の真ん中に当たります。今朝与えられております御言葉において、ペトロが遂に主イエスに対して「あなたは、メシアです」、救い主、キリストですと告白いたします。この告白以後、主イエスは御自身が十字架に架けられて死ぬこと、三日目に復活することを、弟子たちにはっきりと語り始められます。そして主イエスは、御自身が十字架に架けられるためにエルサレムへと歩みを進めていくことになるのです。主イエスは、これまでも様々な奇跡をなし、教えを語ってこられましたが、それらはすべて、御自身が誰であるかということを示すためであり、御自身を遣わされた神様の御心が何であるかを示すためでした。そして遂に、十分なあり方ではないにせよ、弟子たちが主イエスをメシアであると告白するに至りました。ここに至って、主イエスが御自身の本当の目的、なさねばならないことを明らかにすることのできる備えができたのです。

 さて、ペトロが主イエスをメシアであると告白する前に、主イエスは弟子たちにこう言われました。27節「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」この問いに対しては、弟子たちは比較的気楽に答えることができたと思います。「『洗礼者ヨハネだ』と言っている人もいます、『エリヤだ』と言っている人もいます、『預言者の一人だ』と言っている人もいます。」多分、これが当時の、主イエスに対する人々の正直な思いだったのでしょう。

 この三通りの答え方には、それぞれ背景があります。洗礼者ヨハネというのは、主イエスに洗礼を授けた人です。人々から大変な支持を受けておりましたが、ヘロデ王によって殺されてしまいました。人々の中には、主イエスを、このヨハネが生き返ったのだと思う人がいたと言うのです。それほどまでに、人々は洗礼者ヨハネを本当の預言者と思い、彼に対して期待する所が大きかったということなのでしょう。そしてそこには、ヨハネこそ救い主・メシアではないかと期待していた人々の思いもあったのではないかと思います。

 また、「エリヤだ」と言う人々もいました。このエリヤというのは、旧約聖書の列王記に出て来る人です。主イエスより800年も前の、旧約聖書における代表的な預言者であり、数々の奇跡をなした力ある預言者でした。主イエスをあのエリヤの再来だと言うのです。それは、救い主、メシアが来る時には、その前にエリヤが再び来るという預言がマラキ書などにあり、主イエスをエリヤだと言う人々は、その救い主・メシアが到来する事への期待があったということでしょう。

 そして、「預言者の一人」と言う人もいました。マラキという預言者が出て以来久しく、何百年もユダヤには預言者は現れていませんでした。しかし、洗礼者ヨハネといい、主イエスといい、本当の預言者が次々と現れている。次は本当に救い主、メシアが来るのではないか。そのような期待が人々の中にあったということなのだと思います。

 つまり、主イエスが生きた時代、イスラエルの人々の間には、救い主が現れるのではないかという期待があったということなのです。そしてその期待感が、主イエスに対する人々の思いの中に、現れていると見てよいではないかと思います。

 主イエスは次に、弟子たちにこうお尋ねになりました。29節「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」これは大変厳しい問いです。「人々は何と言っているか」という問いならば、自分のことではありませんので、気楽に答えることができたでしょう。しかし、「あなたは」と問われると、話は別です。この問いに対して、弟子たちは一瞬、沈黙したのではないかと思います。そして、その沈黙を破るようにして、一番弟子のペトロが「あなたは、メシアです」と答えたのです。

この答えは、それまでの、洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だという答えとは、全く質が違う答えなのです。洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だというのは、平たく言えば、「神様に遣わされた凄い人だ」ということです。しかし、ペトロが口にした「メシアです」というのは、凄い人だということではないのです。そうではなくて、旧約において預言されてきた救い主、この方によって歴史が変わり新しい時代に入っていく、この方によって神様の救いの業が完成する、この方によって神様の御心が完全に現される、もっとはっきり言えば、天地を造られた神様そのもの、私たちが拝むべきお方ということなのです。聖書は、天地の造り主である神様しか拝むことをしません。ですから、どんなに凄い人、偉い人であっても、それが人であるならば、拝むことはしません。しかし、メシアは全く別なのです。

 このメシアという言葉、これは直訳すれば、油注がれた者という意味のヘブル語です。この油注がれた者という意味のギリシャ語がキリストです。ですから、メシアもキリストも全く同じ意味です。旧約において、油を注がれて神様の御用に立てられる大切な職責が三つあります。預言者、祭司、王です。メシア、キリストは、まことの預言者、まことの祭司、まことの王として来られる。そういう方として旧約以来イスラエルの民が待望していた方だったのです。この方によって神様の御心は完全に明らかにされ、この方によって完全な救いが実現され、この方によって神様の御支配が完全に行われる。それがメシア、キリストなのです。それは、凄い人、偉い人というのとは全く次元が違います。この方によって天地創造以来の神様の救いの御計画が完成されるのです。

 マタイによる福音書16章13節以下にはここと同じ記事が記されておりますが、そこではペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えています。「メシア」を「生ける神の子」と言い換えています。これは、ペトロがメシアの意味を解釈しているわけです。ただの偉い人なんかじゃない、天地を造られた神様の独り子だと告白しているわけです。そして、それに対して主イエスは、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われました。主イエスのことを何か凄い人だ、偉い人だと思う、そのような方として受け入れる。それは難しいことではありません。主イエスの言葉を一つでも聞き、奇跡の一つでも見れば、そのくらいのことは誰でも思います。社会の教科書にだって、主イエスはソクラテスやお釈迦様や孔子と並んで聖人に数えられています。偉い人とは、そういうことでしょう。

 しかし、ペトロがここで告白したのは、そういうことではないのです。あなたはキリスト、神の子、救い主、私が拝むべきお方、私の主人。そう告白したのです。それは、主イエスを信じた、主イエスを信じる信仰がここに生まれたということなのです。ですから主イエスは、マタイによる福音書によれば「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われたのです。天の父なる神さまによって示されなければ、主イエスがキリストであるということは、誰も告白することはできないからなのです。信仰は与えられるものです。神さまが与えてくださるものです。そうでなければ、主イエスを神の子、救い主、キリストと信じることはできないからです。

 主イエスを救い主、キリストと告白するということは、単なる言葉の問題ではありません。その人がその信仰によってどう生きるかということです。この「信仰によって生きる」ということが抜けてしまえば、信仰にはなりません。当たり前のことです。もちろん、私たちの信仰はどこまでも不完全であり、私たちはどこまでも不信仰でありましょう。しかし、不完全なりに、不信仰なりに、何とか「イエスはキリストです」、「イエスは私の主です。」この信仰に生きたいと思う。そしてそのために、天の父なる神様の支えと導きを願い祈る。それが私たちの歩みなのでしょう。

 私たちが、「イエスはキリストです」と告白するということは、「イエスは主なり」と告白することと結びついています。この二つの告白は分けることができません。主イエスはキリストですが私の主ではありませんとか、主イエスは私の主ですがキリストではありません。そんな信仰はないでしょう。私たちの信仰は、「イエス様あなたはキリストです。そして、私の人生の主人は私ではなく、イエス様あなたです。」そう告白し、生きることです。この二つの信仰告白は分けることはできません。だから私たちは、「主、イエス・キリスト」と言うのです。「私の主人であるイエス様、あなたはキリストです。」そう告白し、その信仰に生きるのです。

 キリスト教会が生まれたのは、ローマ帝国の時代でした。ローマの文化は、ギリシャ神話と同じ神話を基礎にしていますから、元々多神教であり、自然宗教です。これは日本も同じです。多神教の文化の中では、人間が平気で神様になり、拝まれるということが起きます。ローマ帝国の時代、ローマ皇帝もまた拝まれました。主イエス・キリストは、ギリシャ語ではキュリオス・イエスース・クリストスと言うのですが、この主という言葉、キュリオスという言葉は、ローマ皇帝に対しても用いられていたのです。

しかしキリスト者たちは、キュリオス・イエスース・クリストスと言うことによって、私の主、私のキュリオスは、救い主キリストである主イエスであってローマ皇帝ではない、ということを言い表すことになってしまったのです。もちろん、ローマ皇帝に忠誠を誓わないとか、反逆するということではありません。しかし、私の主は主イエスなのです。主イエスを差し置いて、この世におけるどんな権力ある者に対しても、「あなたが私の主」とは言えなかったのです。これは当然、キリスト者たちを厳しい状況へと追い込みました。それでも、キリスト者たちは、自分の主人は主イエスです、主イエスは生ける神の子キリストなのですから、そう告白し、生きたのです。私たちの主は、ただキリストである主イエスだけなのです。この告白の意味することを、いつも心に刻みつけながら、新しい一週間を歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】私たちの主であるイエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。神さま、私たちはあなたの遣わされた御子を、主イエス・キリストと呼び、崇めています。私たちに救いを与え、私たちが主とするお方はこの方しかおりません。どうか、私たちがこのお方を世に向かって力強く告白すると共に、このお方に依り頼んで生きることができますよう、私たちを導いていてください。今日の礼拝後私たちの教会の信仰の先輩方を覚えて、お祝いの愛餐会を行います。どうか、信仰の先輩方があなたの御護りとお支えの中で日々歩むことができますよう、導いていてください。この拙き切なるひと言のお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 9月22日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級
聖  書  マルコによる福音書8章27-37節
説  教  「ぺトロの信仰告白」 山﨑和子長老

主日礼拝   

午前10時30分   司式 三宅恵子長老
聖   書
  (旧約) 創世記9章8-17節  
  (新約) マルコによる福音書8章31節-9章1節 
説  教  「主に従う真実な道」 藤田浩喜牧師

命を惜しみ給う神の愛

ヨナ書4章5~11節 2024年9月8日(日) 主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

 8回にわたって学んでまいりましたヨナ書も、最終場面に至りました。ヨブ記などがいわゆるハッピーエンドという形でその物語を閉じているのに対して、ヨナ書は、最後に神の言葉が語られることによって閉じられています。そのために一つの物語が終わったというよりも、そこから何か新しいものが始まるような雰囲気が、この終わりの部分に漂っている感じさえします。別の言葉で言えば、私たちのこれからの生き方に新しい課題が差し出されて、ヨナ書が閉じられているということです。

 さて最後の部分、神の言葉で締めくくられているこの部分を学ぶに当たって、ヨナの状況をもう一度確認しておきましょう。彼は、悔い改めて滅びから免れたニネベの都がこのままで終わることはあるまいと考えて、あるいはそのことに期待して、都の東の方に仮小屋を建てて、都の成り行きを見届けようとします。神はそのようなヨナのために、とうごまの木という一つの植物を生えさせ、木陰を作り、ヨナが暑さをしのぐことができるようにしてくださいました。ヨナはそのとうごまの木を非常に喜びました。

 ところが神は、ご自分で備えられたとうごまの木を、これもまたご自分で用意された一匹の虫によって食い荒らさせて、一夜にして枯らしてしまわれました。そのため灼熱の太陽の日射しがヨナの上に降りそそぎ、また東からの熱風もヨナに吹きつけて、ヨナは激しい苦しみと暑さの中で死を求めて叫んでいます。8節です。「生きているよりも、死ぬ方がましです」。

そのように死を願うヨナに神が語りかけられている言葉が、10節、11節に記されています。ヨナに語りかけられている最初の言葉は、「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる」というものでした。ここに「お前は」という呼びかけがなされています。その「お前は」というのは、11節に出てきます「それならば、どうしてわたしが…」という時の「わたし」との対比の中で用いられていることに、気づかされます。お前ヨナと、わたし神とが、対比的に描かれています。

ヨナが死ぬほどに悔しい思いをしている枯れてしまったとうごまの木は、ヨナが自分で植えて、丹精込めて、苦労をしながら育てたものではありませんでした。ヨナの知らない間に神が一夜にして生えさせて、ヨナの暑さを防いでくださったものでした。このとうごまの木に、ヨナの愛情が注がれてきたわけではありません。ヨナにとってはいわば自然現象の一つに過ぎないようなものでした。

しかしそれは、ヨナにとって都合のよいものであったことは事実です。思いがけない現象として生じてきたとうごまの木を、ヨナは単純に喜びました。そしてそれが枯れ果てて、暑さが襲って来た時、枯れたとうごまの木を残念に思い、暑さの苦しみの中で、彼は自ら死ぬことを願いました。神はそのようなヨナに対して、「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」と鋭い調子で問いかけておられます。神は、自分の死をさえ願うヨナの怒りが、過ちであることを自覚させようとしておられます。それと同時に、一本の木が死ぬことを惜しむヨナの心に目を向けられます。あなたはとうごまの木の死を悲しんでいる、その心を手がかりにして、もっと大切なことを考えてみなさい。神はそのようにして今、ヨナに教えようとしておられます。

とうごまの木が生えたことと枯れたこととは、神の教育的な目的がそこには込められていました。神は、身のまわりの出来事から霊的な事柄へと、ヨナを高めようとしておられます。そしてそれが、11節最後の言葉によって明らかにされます。「それならば、どうしてわたしがこの大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。神はそのように語っておられます。

ここでまず注目すべきことは、先ほども述べましたように、「それならば、どうしてわたしが…」と言われるこの「わたし」という言葉です。神がご自身について、強い調子で語っておられます。ヨナに対して、「お前は一本の木の死をさえ惜しんでいる」と語られ、「そうであるならば、ましてや、すべてのものの造り主であり、あなたがたの神であるこのわたしが、人の命を惜しまないでおられようか」と、これも強い調子で神はヨナに語りかけておられます。ヨナが、自分自身の都合・不都合、利益・不利益ということから目を離して、神の真実なお姿に目を向けることを、今求めておられます。

「惜しむ」という言葉が二度用いられていますが、これは憐れむとか、心ひかれるとか、いとおしく思うという意味を持っています。ヨナのとうごまの木の死を惜しむ心を、神は大切にしながら、そこに着目しながら、それ以上に神がニネベの都の人々の命を惜しむ心を、あなたは理解しなければならない。ヨナは神の御心に、畏れと感動とを持って触れることが求められているのです。

神は大いなる都ニネベについて、次のように語っておられます。「そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいる」。右も左もわきまえないというのは、物事の道理が分からない子どもに関して用いられることが多い表現です。ここでは子どものことだけではなくて、神の律法を知らない異邦の人々、あるいはもっと言うならば、真の神も真の救いもまだ知らされていない異教の国の人々という意味で、この言葉が用いられていると考えてもよいでしょう。そのような人々は、神の愛の対象外にあるのではなくて、彼らこそ神の愛が向けられるべき人々なのだというのが、ここでの神の教えです。しかもそれらの人々が、12万人以上もいると言われています。また人間だけではなくて、無数の家畜たちのことにも言及されているのです。

右も左もわきまえない12万人の人々。けれどもそうであっても、神の御言葉が語りかけられるならば、神のもとに戻ってくることができた人々でした。物言わぬ家畜であっても、これもまた、造り主なる神の御手によって造り出されたものです。これらの人々も家畜も、神の愛の対象なのです。それらが罪のゆえに滅んでいくことを、わたしは惜しまないでおられようかと、神はヨナに語りかけておられます。あなたが一本のとうごまの木を惜しんでいる以上に、わたしはそれと比べようもなく12万人以上のニネベの都の人々の滅びを惜しむのだ。無数の家畜たちが滅んでいくのを見過ごせないのだと、神の声が力強くヨナに語りかけられています。愛に急き立てられた神の御声が響いてくるように思います。

マタイによる福音書20章1節以下において、イエス・キリストは、よく知られているぶどう園の労働者の譬え話を語っておられます。朝早くから夕方まで、主人が町に出て労働者を雇ってくる話です。その中で、朝早くから働いた者にも、夕方わずか1時間しか働かなかった者にも、ぶどう園の主人は、夕方仕事が終わった時に、同じ賃金を払いました。その時、朝早くから働いた者が主人に不平をもらす場面があります。主人はその不平をもらす者に、こう答えます。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。この主人によって表されている愛と慈しみの大きさは、神の愛と慈しみの広がりを示すものです。神の愛はすべての人に及ぶ、先に選ばれた者だけではなくて、すべての者に及ぶのです。そのことを知ることは、それを知った者自身の救いと希望につながっていきます。ヨナは、この神の愛の広がりの中で、自分自身を正しく位置づけることが求められているのです。

そのことを知る時に、この認識は新しい世界の扉を開くものとなります。このヨナへの促しは、私たち一人一人にも実は向けられています。そのことを私たちは、二つのことを通して考えておきたいと思います。

その一つは、わたしたち自身の内にあるヨナ的なものを取り除けと、促がされているということです。救いに値する者とそうでない者とを私たちは簡単に選り分けてはいないか。交わりに値する者とそうでない者との仕分けを私たちはいつの間にかやってはいないか、そういう自己吟味が促されています。また、教会や信仰者が現在の状況で満足し切っていないかどうかも、問われています。主イエス・キリストは、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と、ヨハネによる福音書で語っておられます。その御言葉に従った業を、教会や信仰者は今なそうとしているのかどうか、このことが問われています。それと同時に、神の愛の広がりに仕えることへの新たなる召し出し・召命を、私たちは今ここで受けているのです。

そしてもう一つの考えておきたいことは、ニネベの都の右も左もわきまえない人々や無数の家畜を愛された神の愛は、今日生きるのに困難を覚えたり、望みや力を失っている一つ一つの魂に対しても、差し向けられているということです。神をすでに知っている者に対して、神は愛を注ぎ給います。それだけではなく、神をまだ知らない者にも神の愛は注がれます。神を知らない人々の命を惜しみ給う神は、懸命に生きようとしながらも、生きる喜びと意義を見出すことができないでいる人々の命をも惜しまれる、それをいとおしく思われるお方なのです。

分かりにくい社会です。生きにくいこの世です。誠実に生きようとする者が、必ずしも報われることのない社会です。しかし、そこに神は愛する独り子イエス・キリストを送ってくださいました。それはまさに、このような世界に生きる私たち一人一人への神の愛のしるし、そこに生きる私たちの命を惜しみ給う神の愛のしるしなのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

その神の愛にお応えする道は、私たちが今与えられている命を、イエス・キリストを与えてくださった神を見つめつつ、精一杯生き抜くことです。そのような私たちに、私たち一人一人の命を惜しみ給う神は、常に必要な助けと導きを与えてくださるでしょう。その神がい給う限り、私たちの人生は死ぬよりも生きる方がましなのです。そのような神がわたしの神としてい給う限り、私たちの人生は生きるに値するものなのです。ヨナ書を結んでいる神の最後の言葉は、今も力強く響いているのです。そのことを覚えましょう。お祈りをいたします。

【お祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を褒め称えます。今日も愛する兄弟姉妹と顔を合わせて、またネットを通して、共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。今日もヨナ書を通して御言葉を与えられました。あなたが願われるのは罪ある私たち人間が滅びることではありません。私たち人間が罪を悔い改めてあなたのもとに立ち帰ることです。あなたはまだあなたのことを知らない、囲いの外にいる人々の命をも惜しまれます。その命を救おうとされます。イエス・キリストを通して示されたその深い神の愛を、私たちの宣教の業を通して伝えさせてください。そのために私たち一人ひとりを用いてください。まだまだ残暑の厳しい日々が続きます。どうか兄弟姉妹の健康をお支えくださり、あなたの平安をもって導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  9月15日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マルコによる福音書7章14-23節

説  教   「人を汚すものは何か」 高橋加代子

主日礼拝   

午前10時30分   司式 山﨑和子長老

聖     書

  (旧約) ゼカリヤ書8章1-9節  

  (新約) マルコによる福音書8章27-30節 

説  教   「イエスとは何者か」  藤田浩喜牧師