日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録13章1~3節
説 教 「宣教旅行への出発」 藤田百合子
主日礼拝
午前10時30分 伝道礼拝 司式 山根和子長老
聖 書
(旧約) イザヤ書1章11~17節
(新約) マルコによる福音書12章38~44節
説 教 「見せかけの祈りを捨てて」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録13章1~3節
説 教 「宣教旅行への出発」 藤田百合子
主日礼拝
午前10時30分 伝道礼拝 司式 山根和子長老
聖 書
(旧約) イザヤ書1章11~17節
(新約) マルコによる福音書12章38~44節
説 教 「見せかけの祈りを捨てて」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書12章35~37節 2025年6月1日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝与えられております御言葉は、主イエスが十字架にお架かりになる直前に、エルサレム神殿においてメシアについて語られたことが記されています。この神殿における問答は、11章27節から続いている一連の流れの中でなされました。祭司長、律法学者、長老たち、そしてファリサイ派の人とヘロデ派の人、更にサドカイ派の人との問答がなされました。それらは主イエスを陥れるためのものであり、主イエスがメシアではないということを示そうとしたものでした。けれど、主イエスはそれらのすべての問いを、見事な答えで退けられました。今朝与えられております御言葉の直前の所に、34節「もはや、あえて質問する者はなかった」と記されている通りです。しかしそれは、祭司長、律法学者、長老たちというユダヤ社会の指導者たちが、主イエスに降参したということではありません。主イエスを大した者だと認め、主イエスに従う者となったということではありません。言葉や知恵ではかなわない。だったら後に残るのは何か。実力行使のみです。もう主イエスに質問する者はいなかったというのは、その分主イエスの十字架が近づいたということでもあるのです。
主イエスはここで、御自分の方から問いを出されました。誰に出されたのか。私は、主イエスがここで出された問いは、ファリサイ派の人や律法学者、そして祭司長といった、今まで自分に質問してきた人たちに対して、逆に問われた。そう考えてよいと思います。なぜなら、ここでなされた主イエスの問いは、かなり聖書に精通している人に向かってなされたものであったと考えられるからです。聖書に詳しくない人が聞けば、この主イエスの問いは何を言っているのか分からない、何を問うているのか分からない、そのような問いだからです。
主イエスがなされた問いとは、こういうものでした。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」(35~37節)。この問いを一回聞いて、主イエスがここで何を問うているのか、きちんと分かる人がいるでしょうか。主は何を言おうとされているのか。何が言いたいのかよく分からない。そのように思われた方も多いと思います。けれども、ここはとても大切な所ですので、ていねいに見ていきましょう。
まず、「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」です。メシアというのはキリストのことです。旧約におけるメシアは「油注がれた者」という意味で、それをギリシャ語に翻訳するとクリストス(キリスト)となるのです。ですから、メシアもキリストも全く同じなのです。「油注がれた者」というのは、旧約において祭司、王、預言者が神様に選ばれて立てられる時、「油注ぎ」という頭に香油を注ぐ儀式を行ったことに由来します。神様に選ばれ、立てられたことを、目に見える形で示したのが「油注ぎ」です。そして次第に、メシアと言えば、神様に遣わされる救い主を意味するようになっていきました。
主イエスの時代、「メシアはダビデの子」として生まれるということは、ユダヤの常識でした。それは、旧約において預言されていたからですが、新約聖書もこの預言の成就として主イエスの誕生を記しているのです。「ダビデの子」とはダビデの子孫という意味ですが、マタイやルカにある主イエスの系図はそのことを示しています。また主イエスがエリコを出て行こうとされた時、目の見えないバルティマイという物乞いが、主イエスに向かって「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコによる福音書10章47節)と叫びました。この時バルティマイは救い主という意味で主イエスを「ダビデの子」と呼んだのですが、主イエスはそれを否定していません。ところがそれなのに、ここではそれを否定するように言われています。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と言われます。これはどういうことでしょうか。
問題は「ダビデの子」という言葉が、何を意味するのかということでした。「ダビデの子」、それは文字通りには「ダビデの子孫」ということです。しかし、それだけではないのです。律法学者たちがメシアを「ダビデの子」と言う場合、それは「ダビデのようなメシア」、「ダビデの再来としてのメシア」という意味も持っていたのです。それは、律法学者たちだけに限らず、当時のユダヤの人々のメシアに対する理解でした。つまり、メシアはダビデ王のように、武力をもって周りの国々を平定し、ユダヤに繁栄をもたらす御方。当然、ローマ帝国の支配からもユダヤを自由にしてくださる。それが、律法学者たちの、また当時のユダヤの人々のメシア理解だったのです。主イエスはそれに対して、「違う」と言われたのです。このことについて使徒パウロは、ローマの信徒への手紙1章3~4節で「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と言いました。「主イエスは肉によればダビデの子孫。霊によれば神の子」ということです。主イエスは、ダビデの子孫であることを否定しようとされたのではないのです。そうではなくて、「ダビデの子」にダビデがもたらしたのと同じような救いや繁栄しか期待しない律法学者たちに向かって、神様がメシアによって与えられる救いとはそんなものではない、ということを語ろうとされたのです。
次に36節の「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と』」ですが、これは詩編110編1節の引用です。
まずここでややこしいのは、「主は、わたしの主にお告げになった」という所です。最初の「主は」の「主」と、次の「わたしの主」の「主」は、ギリシャ語では同じ言葉が使われていますが、元々のヘブライ語の詩編においては全く違う言葉が使われているのです。最初の「主」は、天地を造られた唯一人の神様を示す言葉であるヤーウェという固有名詞が使われています。次の「わたしの主」の「主」は、主人を表すアドナイという普通名詞が使われているのです。そして、内容から見て、「わたしの主」というのは、救い主・メシアを指していると考えられるのです。さらにこの詩編はダビデが作ったのだから、ダビデ自身がメシアを「わたしの主」と呼んでいることになる。だったら、どうしてメシアはダビデの子なのか。自分の子に向かって、「主」と呼ぶ者がいるか。いない。だから、メシアは単なるダビデの子ではなく、あのダビデさえも「主」と呼ぶような大いなる者なのだ。つまり神の子なのだ。そう主イエスは言おうとされたのです。
この詩編は、ダビデ自身が聖霊を受けて、父なる神様が御子であるメシアに語ったことを記したものだと考えられます。その詩編110編において、メシアがどういう方だと告げられているかと言いますと、神様が「わたしの右の座に着きなさい」と言われた方だということなのです。これは、主イエスが十字架、復活に続いて、天に昇られ、父なる神様の右に座られるということを、御自身の口を通して、詩編110編を引用して告げられたということなのです。神様の右に座するキリスト。これは、私たちが使徒信条において、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神様の右に座しておられます」と、告白していることです。主イエスは十字架に架かって死なれ、三日目に復活し、天に昇り、全能の父なる神様の右に座しておられる。それが私たちの主イエスに対する信仰です。主イエスはそのことを御自身の口で、十字架にお架かりになる前に、告げられたということなのです。
「父なる神様の右に座す」というのは、父なる神様と同じ権能を持って、父なる神様と同じようにすべてを支配しておられるということです。この「右」というのは、方向や位置を示しているのではありません。そうではなくて、この「右」というのは、神様との関係を示しているのです。「神様と同じ力と権威を持つ方として」という意味なのです。そしてこのことは、父・子・聖霊なる三位一体の神様のあり方を示しているのです。
この主イエスの御支配は、「わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と言われているように、やがてすべての悪と罪が主イエスによって打ち破られ、完全な神様の御支配が現れるようになる。その終わりの時、終末のことまで預言されています。この主イエスの御支配は、この世の王であったダビデのような地上の支配ではありません。十字架と復活による、罪と死に対する勝利であり、すべての民の上に臨む御支配なのです。まことのメシアである主イエスは、ダビデのような王などはるかに超えた、あのダビデさえも「わたしの主」と呼ばざるを得ない、神の御子であられるということなのです。
私たちは、主の日毎にここに集い、主イエスの御名をほめたたえています。主イエスの前にひざまずき、主イエスを我が主、我が神と拝んでいます。それは、やがて来る神の国の完成、すべての者が主イエスの前にひざまずき、主イエスを拝み、主をほめたたえることになる。そのことの先取りなのです。そして、それは聖霊なる神様の導きよって、私たちに明らかに示されたことなのです。
聖書に登場する律法学者たちは、よく聖書を学んでいましたし、よく知っていました。旧約聖書のすべてを暗記し、諳(そら)んじていました。その解釈についても、膨大な注釈を学び尽くしておりました。しかし、彼らは分かりませんでした。主イエスが誰であるかということについては、全く何も分からなかったのです。彼らは、詩編110編が告げている本当の意味を知ることはできなかったのです。それは、聖霊によらなければ分かることができないことだからです。
しかし、私たちはそれを知っている。いや、知らされている。何と幸いなことでしょう。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙 一1章27~29節においてこう言っています。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」。律法学者は、自分たちは聖書を知っていると誇りました。確かに、聖書を諳(そら)んじるほどに知っていました。しかし、聖書が告げる最も大切なところを知ることはできませんでした。私たちは、知恵なく無学で、力も高い身分もない。しかし神様は、そのような無きに等しい私たちを選び、主イエスが誰であるかを教え、主イエスの救いに与らせ、神の子としてくださったのです。本当にありがたいことだと思います。この恵みに感謝し、父と子と聖霊なる神様をほめたたえつつ、新しい御国に向かっての一週間の歩みを、ご一緒になして参りたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。主イエスはご自身がダビデにまさる王であることを証しされました。この王は自らを十字架に捧げ、仕える者となることによって、神様の右に坐する王となられました。そして終わりの日に至るまで、わたしたちとこの世界を神様にとりなし続けてくださっています。どうか私たちに聖霊を注いで、王を超えた王である方の御支配の中に生きる者としてください。季節は過ごしにくい梅雨に向かっており、不順な日々が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。私たちの世界はあなたの御心に背き、人間の自己中心と欲望の渦巻く状況の中にあります。どうか、人間の罪の思いを砕き、あなたの御心をこの地上にも実現させてください。この拙き切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
大人と合同で礼拝を守ります。
午前10時30分 ペンテコステ 司式 藤田浩喜牧師
聖 書
(旧約) 創世記11章5~9節 (聖餐式を執行します)
(新約) 使徒言行録2章1~8節
説 教 「交わりの回復」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書12章28~34節 2025年5月25日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日の聖書も「論争の火曜日」についての箇所です。主イエスが十字架におかかりになる三日前のことです。神殿で主イエスが教えておられますと、そこにユダヤ教の指導者たちがやって来て、「何の権威でそんなことをしているのか」と言いがかりをつけてきたのです。これに端を発して、主イエスとユダヤ教の指導者たちとの間で、「ローマ皇帝には税金を納めるべきか、否か」とか、「復活はあるのか、ないのか」というような神学論争が繰り広げられたのでした。
神学論争というのは、神様や信仰について明らかにするために、聖書の解釈を巡ってなされる大切な議論のことです。キリスト教の歴史を見ますと、神学論争の末に異端とされ、迫害されて命を落とした人もたくさんいます。宗教改革期のカトリック教会とプロテスタント教会の対立は、ドイツ30年戦争の原因にもなりました。神学論争というのは、このように血を流すほどの激しい論争になることもあるのです。
それはどうしてなのでしょうか。神様のこと、信仰のことを問うことは、自分の根源、世界の意味を問うことだからです。自分は何者なのか。何のために生きているのか。この世界は悪魔の世界なのか、神の世界なのか。救いはあるのか、ないのか。死後の世界はあるのか、ないのか。その答えいかんによって、人は立ちもするし、倒れもするのです。神学論争というのは、そのように私たちの生の根源を揺るがせるような論争です。だから神学論争というのは自然と激しく、真剣にならざるを得ないのです。
しかし、神様というのは人間には計り知れない御方ですから、いくら議論をしてもなかなか埒(らち)があきません。また、信仰というのも人間の価値や人生の意味までカバーする重要な事柄であるだけに、なかなか簡単に答えを出せるものではありません。はっきりと言うと、神学論争には正解がないのです。ですから、神様を信じない者にとって、神学論争というのは空理空論に思えてしまうということがあるのです。
日本の国会でも、現実から遊離した実りのない議論を表わす言葉として、「神学論争」と言われたことがありました。小泉純一郎元首相も、自衛隊の海外派遣について、野党から憲法9条の解釈論議が出ると、「神学論争はもうやめよう」と応じたことがあります。原理原則や解釈論議ばかりしても、現実の差し迫った問題に対応できないということでしょう。
神学論争を揶揄した大変失礼な言い方だと思うのですが、国会に限らず、世の人々もまた「難しい話はさておいて」というようなことがあるのではないでしょうか。今、目の前にある問題に対する処し方には非常に関心があるけれども、人生の意味とか、目的とか、善悪とは何かとか、そういう私たちの人生の根源を問うような問題とは決して向き合うことなく、その場その場を生きてしまっているということがあると思うのです。
主イエスの「種を蒔く人の譬え」の中に、このようにその場その場をやり過ごして生きている人のことを言い表した、次のような言葉があります。「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」(マタイによる福音書13章5~6節) 。
「根がないために枯れてしまった」とあります。目の前の事ばかりに心を奪われて生きていると、そうなってしまうのです。しかし私たちが、人生の問題をもっと深いところで受けとめようとするならば、「問う」ことの大切さを忘れてはならないと思います。自分は何者なのか。何のために生きるのか。死んだらどうなるのか。罪の赦しはあるのか。救いはあるのか。復活はあるのか。このような問いは、一朝一夕に答えが出るわけではありません。永遠に答えが出ないような気もしてくる。しかし、そのように根源的なことを問うことによって、私たちの人生を支えて下さっている御方、天の父なる神様に出会うことができるのです。
さて、ユダヤ教の指導者たちが主イエスに問うたのは、決して純粋な神学論争のためとは言えませんでした。神学論争を装って、主イエスを言葉の罠にかけ、陥れようとしていたのです。しかし、主イエスはどんな問いに対しても、つまりどう答えても不利になるような問いに対して、実に見事なお答えなさって、彼らを驚かせたのでした。
主イエスに問いかけた人々の中に、一人だけ主イエスのなさった答えを、自分への問いとして真剣に受けとめた人がいました。そして、今までのような下心のある問いではなく、もう一度、主イエスに自分自身の真剣な問いを返すことによって、主イエスにお答えしようとしたのです。「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』」(28節)
この律法学者は、「数ある律法の中で何が一番大切でしょうか」と尋ねました。律法とは、人間の生き方を示した神の教えです。その一番大切なものは何かと問うことは、すなわち自分の生命(いのち)の中心、根源は何かということを問うことなのです。「皇帝に税金を納めるべきでしょうか」とか、「復活した時には誰が夫になるのでしょうか」とか、こういう問題は「何が一番大切か」ということが分かれば、順に解けていくことです。そういう枝葉末節を問うことをやめて、自分の生命(いのち)の根源にあるものを問う、こういう問いが大切なのです。
根源的なことを問うということは、根源的な主イエスの答えが与えられることを願っているわけです。そして、問うことは問われることでもあります。主イエスの答えが示されたならば、今度はそれに根ざして生きているかどうかということが、自分自身に問われることになるのです。この律法学者は、当然そういうことを分かった上で、主イエスにその答えを求めているのです。
それに対する主イエスのお答えは、二つでありました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(29~31節)
「何が一番大切か」と問われた時に、主イエスが一つではなく、二つの答えを示されたということは、とても大切なことだと思います。それは、一番大切なものというのは、一つではなく、二つのものの調和の上にあるということなのです。ある人が、こういうことを言っています。
「およそすべての物事には、両極というものがある。真理は円形ではなく楕円形なのだ。円を描くには、一つの中心点があれば描けるが、しかし、楕円を描くには二つの中心点がいる。そのように真理の世界には、常に両極というものがあるので、お互いが真理に立ちたければ、絶えずその両極をよく見つめて、両極の調和をはからなければならない。それなのに一極だけを見つめて他を見落とせば、その真理はいびつなものになり、一面的になってしまう。そこで決して真理の全体を正確に把握することはできないものだ。」
神様を愛することと、人を愛することも、一面的になってはいけないのです。どちらか極端になってはいけないのです。神様を愛するからといって、人への愛が軽んじるならば、それは間違いです。人を愛するからといって、神への愛を軽んじることも間違いです。神への愛を軽んじても、人への愛を軽んじてもいけない。神を愛することも人を愛することも真剣でなければならない。両方が調和する生き方にこそ、一番大切なことがあるのだということです。
たとえば、神様を愛するということは、教会を大事にすることにつながるでありましょう。そして、人を愛するということは家族の交わりやこの世のつき合いを大事にするにつながると言ってもよいと思います。主イエスは、どちらの方が大切だとは言われないのです。教会を大事にすることによって、家族やこの世のつき合いを軽んじてはいけない。逆に家族やこの世のつき合いを大事にすることによって、教会を軽んじてはいけない。その両方を大事にできる道を求め、そこに生きることが一番大事なのだということなのです。
では、実際には、どんなふうに調和させたらいいのでしょうか。一つには、主イエスが二つのことを共に大切だとおっしゃいながら、第一の掟、第二の掟と順位をつけておられることに注意しなければなりません。まず、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」ということから始まるのです。
ヨハネの手紙 一4章7節には、「愛は神から出ているのです」と記されています。神様の愛が私たちの内に満ち溢れて来て、それが隣人愛として私たちのうちから人へと流れ出ていくのです。このような神の愛をもって、隣人を愛するのでなければ、私たちの愛は必ずや自分の罪のうちに破れるに違いありません。身勝手で迷惑な愛もありますし、中途半端で無責任な愛もあります。身勝手さは自分だけではなく、相手にもあります。こちらが愛することに真剣であっても、相手の我が儘よって振り回され、愛の限界を感じるということもあるでしょう。
愛は、神様から出てくるのです。神様の愛を信じ、全身全霊をもって神様を愛し、自分の中に神様の豊かな愛を戴かなければなりません。そして、それを溢れさせるということが大切なのです。これが「第二の掟」です。第一の掟は神様を愛することであり、第二の掟は隣人を愛することなのです。この二つが共にあることが、一番大切な神様の教えであると、主イエスはお答え下さったのでした
律法学者は、主イエスのお答えを聞いて、その正しさを認めました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」(32~33節)
そして、この律法学者の言葉を聞いて、主イエスも彼の心の正しさを認めて、「あなたは、神の国から遠くない」と言われたというのです。しかし、「遠くない」というのは、微妙な表現です。「あなたは神の国に入れる」とか、「神の国はあなたのものだ」と言われなかったのは、どうしてなのでしょうか。
それは、神の国に入るのは、第一の掟でもなく、第二の掟でもなく、恵みによることだからです。主イエスの十字架の贖いが必要なのです。この律法学者は、自分の生き方の根源を問い、そして神を愛しなさい、隣人を愛しなさいということを教えられました。これからは、この主イエスのお言葉を自分の生き方の中心に据えて生きていこうと、喜びと決意をもってお答えしたのだと思います。
しかし、神様の教えに従って生きるということは、頭で分かっていても、心で分かっていても、それに背くような罪の力が私たちの内に働くのです。この罪の力から救われて、新しい人間として生まれ変わることなしに、神の国に入ることはできないのです。けれども主イエスは、「あなたは、神の国から遠くない」と、彼に仰って下さいました。それは、彼の信仰の状態が近いとか、遠いということではなく、「あなたが神の国に入るために、わたしが十字架にかけられる日が近い」と言う意味ではなかったでしょうか。
主イエスの十字架の救いによって、私たちの罪は赦され、神様との新しい関係に入れられるのです。そして、神様の愛を余すことなく受け取り、その愛をもって隣人を愛し、隣人に仕えることができる人間とされていくのです。恵みは罪に優り、掟に優るのです。感謝すべきことではないでしょうか。
お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。あなたは今日も御言葉をもって私たちを導いてくださいました。あなたは主イエスを通して二重の愛の戒めを教えてくださいました。どうか、あなたを愛する愛によって、私たちの心を、隣人を愛する愛で満たしてください。この二重の愛に生きる生活の豊かさと奥深さを、私たちに味わい知らせてください。私たちの群れには、病床にある兄弟姉妹、高齢のゆえに困難を抱えている兄弟姉妹、人生の試練にあっている兄弟姉妹がおります。どうか、兄弟姉妹のために祈り、労することができますよう、私たちを強めていてください。世界は今大きな混乱と不安の中にあります。どうか、この世界に平和を与えてください。天にあるごとく地にも、あなたの御心を実現させてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録1章12~14節
説 教 「祈って待つ群れ」 三宅恵子長老
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師
聖 書
(旧約) 詩編110編1~7節 (聖餐式を執行します)
(新約) マルコによる福音書12章35~37節
説 教 「王を超える王」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書12章18~27節 2025年5月18日(日)伝道礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日のマルコによる福音書12章18節以下には、「サドカイ派の人々」が登場してきました。福音書によく出て来るファリサイ派と並ぶ、ユダヤ教の一派です。サドカイ派のメンバーは主に、上級祭司、貴族、富裕層の人々です。そのようなこともあり、彼らは社会的な変革を望まない、保守的な人々でした。最高法院においては与党の立場にあり、政治的な指導権を握っていました。
彼らは宗教的にも保守的な一派でした。彼らは聖書のうち、律法の書(つまりモーセ五書、創世記から申命記まで)しか認めません。律法の書に明記されていること以外は、いっさい信じません。ですから彼らは復活を信じない。来世を信じません。「死んだら終わり」ということです。宗教的に保守的な人々が来世を信じないというのは、私たちの感覚からすると変ですが、ユダヤ教においてはそうなのです。確かにモーセ五書だけを見るならば、復活についても、来世についても、文字通りの意味においてそのような表現は出て来ません。同様の理由から、彼らは霊の存在も信じない。メシアを待望することもありません。
しかし、恐らく彼らがそれらを信じなかったのは、モーセの律法に文字通りに書かれていないから、という理由だけではないでしょう。ある意味では信じる必要もなかったのです。この世において恵まれていますから、この世のことだけで十分なのです。目に見えるものだけで十分なのです。現在のことだけでよいのです。終末の希望は必要ないのです。それでも神殿の儀式においては、自分の位置づけを持っています。宗教的なコミュニティにおいては、指導的な立場にあります。この世のことだけ考えていても、十分に宗教的でいられるのです。
ということで、今日の聖書箇所にはそのようなサドカイ派の人々が、「復活はないと言っているサドカイ派の人々」(18節)として登場してきます。これに対して、福音書によく出てくるファリサイ派の人たちは、復活も来世も霊の存在も信じています。ですからサドカイ派とファリサイ派は宗教的には対立関係にあります。そのようなファリサイ派に対して、サドカイ派の人たちが復活や来世があることを否定するために用いていた論拠が、今日の聖書個所に出てきた話なのです。そのような話を、彼らは主イエスのもとに持ってきて論争をしかけたのです。
サドカイ派の人たちは、旧約聖書の申命記を引用してこう語り出します。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」(19節)。ここに出てきますのは、私たちには馴染みの薄い「レビラート婚」という制度です。子孫を絶やさぬための制度でありまして、今日でも世界の少数民族などにおいて見られると言われます。まさにこの律法の言葉こそ、復活がないことの決定的な証拠になると彼らは考えていたのです。
続けて彼らはこう問いかけました。「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」(20~23節)。
これはレビラート婚の制度に馴染みがなくても、例えば配偶者と死別した後に再婚した人のことを考えれば分かると思います。復活があり来世があると困ったことになる、ということです。先にも申しましたように、このような議論は通常ファリサイ派との間でなされていたものです。そして、復活を信じるファリサイ派には一応答えがありまして、この場合、妻は長男のものとなることになっていたそうです。しかし、主イエスはそのようには答えませんでした。
主は言われました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(24~25節)。「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とは、この世におけるあり方とは全く異なるということです。救いが完全に実現している復活の世界を、今のこの世の延長のように考えてはならない、単にこの世の生活から類推して考えてはならない、ということです。
しかし、主イエスは単に答えを与えたのではありません。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」と言われるのです。これは実に強烈な言葉です。明らかに主イエスは、時の宗教家たちの無意味で思弁的な議論にうんざりしているのです。
それはただ単に、復活を否定するためにこんな論争を持ちかけたサドカイ派の人々に対してだけではありません。復活を信じていると言っているファリサイ派の人々に対してもそうなのです。いや、むしろ主イエスはファリサイ派の人たちにこそ、語りたかったのかもしれません。なぜなら先に触れました「妻は長男のものとなる」というような答えこそ、まさに来るべき救いの世界を今の世の延長線でしか考えていないことを示しているからです。
神がその独り子さえもこの世に送り、人の思いを遙かに超えた圧倒的な御力をもって、罪からも死からも解放して完全な救いを与えようされている。それなのにこちら側では、「七人の兄弟と結婚した女は、誰の妻になるんでしょうなぁ」などということを言っているわけです。しかも祭司たちが、律法学者たちが、そんな次元のことを議論しているのです。救いのために遣わされた主イエスとしては、もう悲しくて、情けなくて、うんざりしていたに違いありません。
しかし、彼らの姿は他ならぬ私たちの姿でもあるのでしょう。私たちがたとえどのような者であっても完全に救うことのできる神の力を、今ここにいる私たちは本当に信じているのでしょうか。「あなたがたは聖書も神の力も知らない」とは、私たちに対する言葉でもあるのではないでしょうか。
それゆえに、主イエスは聖書を引用してこのような話をしてくださったのです。「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」(26~27節)。
「『柴』の箇所」というのは、出エジプト記3章に出ているモーセが羊の群れを飼っていた時に、ホレブの山で燃える柴を見たという話です。柴は燃えているのに燃え尽きない。不思議に思って近づいてみると、神がモーセに声をかけられた。その時に神様が自らを表現した言葉がこれです。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6)。
柴の炎は明らかに神の現臨を示しています。神がそこにおられる。しかも、炎は消えないのです。燃え続けている。いわば「燃え続ける神」がそこにおられるのです。神は過去の神ではなく、永遠に神であり続けるということです。神であり続けるということは、抽象的なことではありません。人との関わりにおいて、神であり続けるということです。《あなたの神であり続ける》ということです。モーセはそのような神に出会ったのです。
神は言われました。わたしはアブラハムの神である、と。アブラハムはもう数百年前に死んでいるのです。しかし、神は「わたしはアブラハムの神である」と言われるのです。そして、イサクの神であり、ヤコブの神であるとも言われる。その神がモーセに現れて、わたしは必ずあなたと共にいる、と言われたのです。わたしはあなたの神でもある、ということです。あなたの神であり続ける。そして、あなたが導き出すイスラエルの神となり、イスラエルの神であり続ける。それが、この「『柴』の箇所」で語られていることです。
燃え続ける神、関わり続ける神、あなたの神であり続ける神。神がそのような神として御自身を示されたことこそ、来世を信じる根拠なのです。復活を信じ、完全な救いの世界を信じる根拠なのです。神がアブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神であり、わたしの神であり、あなたの神であるならば、アブラハムもヤコブもわたしもあなたも、死んで終わりではないのです。人は神によって、死んでも生きるのです。神は死んだ者の神ではありません。死の中に私たちを放置しておく神ではありません。死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです。
そのように、モーセは燃え尽きない柴に出会いました。燃え尽きない炎の中から、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」との声を聞きました。そして、私たちもまた、同じように燃え尽きない柴に出会っているのです。すなわち、イエス・キリストこそ、私たちに対して神が御自身を現された「燃え尽きない柴」に他ならないのです。
今日お読みしました箇所は、主イエスが十字架にかけられる数日前のことです。物語は、イエス・キリストへの死へと向かっているのです。炎は燃え尽きてしまうかのように見えます。しかし、柴の炎は燃え尽きませんでした。キリストは復活して、永遠に燃え尽きることのない神の炎を見せてくださったのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」ということを見せてくださったのです。
この神との関わりにおいてこそ、人は本当の意味で死を越えた希望に生きることができるのです。神を礼拝し、神に祈り、神との交わりの中に生きていく。キリストを復活させた神の力に、そのように触れながら生きてこそ、人は復活の希望、来世の希望、完全な救いにあずかる希望を持って生きることができるのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」この主イエスの御言葉を、心に刻み付けたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今朝も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは言われました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」神様は永遠に生きておられます。その神様が私たちの神様であり続けてくださいます。それゆえに私たち死すべき人間も、死を超えて永遠に生きる望みを与えられています。神様、私たち一人一人に、聖書を通して、神の御力によって、そのことを揺るぎなく信じさせてください。まだ5月の中旬ですのに、ここしばらくは気温30度に迫る日が続きます。体調を維持するのが困難です。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。神様、今世界は本当に不安定な状況に置かれています。共に歩もうとしない自国中心主義の政治が、不安を増大させています。どうか、為政者たちの思いを糾し、あなたの御心がこの地にも実現しますよう、世界を導いていてください。この拙き切なる祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録1章6~11節
説 教 「主イエスの昇天」 宇佐美志穂子
午前10時30分 司式 三宅恵子長老
聖 書(旧約) 申命記6章1~15節
(新約) マルコによる福音書12章28~34節
説 教 「愛に生きる道を歩もう」 藤田浩喜牧師
創世記14章1~16節 2025年5月11日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日の聖書である創世記14章は、創世記の中で最も謎に満ちた章です。旧約聖書の中で、最も解釈が難しい箇所の一つであるとも言われます。ここでのアブラムは、かなりの数の部下を従えて、戦場に赴くことのできる軍事指揮官として登場します。そういうアブラムというのは、ここだけです。
また1~11節の問に9人の王の名前が出てきますが、この9人の王が一体誰であったのか全くわかりません。王の名前も地名も、ほとんど捉えどころがありません。この物語の背後には一体何かあったのか、それもわからない。何らかの歴史的事実に基づいているのかどうかもわからない。しかしそれならば、どうしてこんなことをたくさん書く必要があったのか、それも疑問です。この難解な章を解きほぐしながら、宝探しをするようなつもりで読んでみたいと思います。
他のところでは、いつも最初からアブラムが関心の中心ですが、この14章では、最初アブラムとは関係のない王たちの戦いの物語で始まります。これは、聖書に出てくる最初の戦争です。そして残念ながら最後ではありません。この後、聖書には血なまぐさい戦争がたくさん出てくる。そしてその戦争の歴史は聖書の中にとどまらず、今日にいたるまで延々と続いています。
アブラムが戦争に参加したということは、私たちの気持ちを重くさせます。「アブラムよ、お前もか!」と言いたくなります。ただ少しだけ彼を擁護して言えば、アブラムはただただ甥のロトを救出するために、戦争に参加したのでした。アブラムは、甥のロトが捕虜になったというところから登場いたします。
「ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。逃げ延びた一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て、そのことを知らせた。アブラムは当時、アモリ人マムレの樫の木の傍らに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと同盟を結んでいた。アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者318人を召集し、ダンまで追跡した」(14:12~14)。
アブラムは、いつの間にかものすごい力と兵を備えた人間になっています。ア
ブラムは不思議にもこの戦争に勝利し、一夜のうちに同盟軍の英雄になってしまいます(14:15~16)。今や彼には、何でも思いのままであったことと思います。一国の王、権力者になるチャンスでもありました。ここで、彼が権力を手にしていれば、彼の戦いも「甥ロトの救出」を名目にした打算的な戦いであったことになっていたでしょう。
戦いに勝って凱旋したときに、ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」(14:21)と言いましたが、アブラムは「あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません」(14:23)と答えました。このとき、アブラムの心は神に対して開かれており、神が勝利をもたらしてくださったという思いであったのでしょう。ただし「若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々……の分は別です。彼らには分け前を取らせてください」(14:24)と言って、盟友に配慮を見せているのはおもしろいと思います。
さて私たちは、この物語から「正義のための戦争」は正しい、という結論を引き出しそうになりますが、そのことは今日の世界においては、とても危険です。人が戦争をするときには、いつも「正義のために」ということが語られ、人道的動機や宗教的動機が表に担ぎ出されます。しかしその陰には、ほとんどいつも何か別の打算的な目的があって、それをカモフラージュし、その戦争を正当化するために、人道的・宗教的動機がもち出されるからです。
木村公一という牧師が「パクス・アメリカーナとキリストの平和」という講演をなさり、それがブックレット『キリストの平和』に収められています。その中で、木村先生は、マクソーリーという人(米国のカトリックの倫理学者で平和活動家)の「アウグスティヌスとトマス・アキナスの戦争と平和に関する学説」を紹介しておられます。そこでは、「いかなる条件のもとで行われるとすれば、その戦争は正しいのか」という議論がなされているとのことです。誤解のないように言えば、「聖戦」(Holy War)ではなく、「正戦」(Just War)です。マクソーリーによれば、アウグスティヌスは「正戦」に五つの条件をあげているそうです。
第一番目は、宣戦布告という原則です。宣戦布告をしないで開始した戦争、たとえば遊撃戦とか、奇襲とかはよくない。公権による宣戦布告が必要だということです。
第二番目は、戦争は最後の手段であるという原則です。まださまざまな平和的手段が取れるならば、その努力を先にすべきであって戦争に訴えるべきではない。
第三番目には、宣戦布告する側に求められる正しい意図の原則です。戦争突入は正義の回復のためであって、領土の拡張や経済権益の拡大のためであってはならない。
第四番目は、無辜の民衆の殺傷禁止の原則です。民間人を巻き込んではならないし、攻撃してもいけない。つまり、軍と民を明確に区別して、軍だけを戦闘の対象とする、ということです。
第五番目は、釣り合いの原則です。これは、戦争によって発生する被害と、戦争によって回復される善とを天秤にかけて、後者のほうが大きければ、その戦争は「正戦」と言えるということです。
いかがでしょうか。昔は、その条件を満たす戦争があり得たかもしれません。しかし今日はたして、「正戦」は可能なのでしょうか。木村先生は、現代の戦争は、そのどの条件も満たし得ないと言われています。
第一の宣戦布告に関して言えば、「真珠湾攻撃は宣戦布告のない戦争だ」と、しばしば引用されます。アメリカのベトナム戦争も宣戦布告はありませんでした。今日では、「ボタンを押したら24分間で大陸間弾道弾が届いてしまう」というのですから、国会を召集して「宣戦布告を承認してください」と決議をとる暇(いとま)はありません。核大陸間弾道弾や巡航ミサイルは、この宣戦布告の原則を無効にしてしまったのです。
二番目の「最後の手段の原則」と三番目の「正しい意図の原則」は、非常に主観的です。戦争を仕掛ける側にとっては、それはいつも最後の手段であると思っているわけですし、そこにはいつも正しい意図があると思っているわけですから、もともと非常にあやしいものです。
四番目の非戦闘員への攻撃禁止については、今日、民間人を巻き込まないということは、もはやあり得ません。戦争はいつも弱い側の国土が戦場になりますが、その国の民間人を必然的に巻き込んでしまいます。広島と長崎へ投下された原子爆弾も、国際法を無視した一般市民に対する大量殺戮でした。
五番目の「釣り合いの原則」はどうでしょうか。もともと被害を数値化するなどというのはできないことですが、今日の戦争では、起きた後のことを考えると、どんなに回復されるものがよかったとしても、もたらされる被害は計り知れないほど大きいものです。
私たちには、もはやどのような戦争ならあり得るか、と言っている余裕はありません。もはやいかなる戦争もできない時代に突入しているのだ、という現実を認識しなければならないと思います。
さて戦争についての記述の後で、創世記の14章では、凱旋したアブラムの前に謎の人物が現れます。「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」です。サレムとはエルサレムのことであろう、と言われます。メルキゼデクは王であり、かつ祭司でもあったと言います。彼は謎のうちに現れ、謎のうちに去って行きます。「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。『天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。』」(14:18~20)
このメルキゼデクが誰であるかは、よくわからないのですが、詩編110編において言及されて、さらにヘブライ人への手紙でも引用されています。ヘブライ人への手紙の著者は、このメルキゼデクについて、こう記しています。
「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。……メルキゼデクという名の意味は、まず、『義の王』、次に『サレムの王』、つまり『平和の王』です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」 (ヘブライ7:1~3)。
ヘブライ人への手紙の著者は、メルキゼデクがアブラハムよりも上に立ってい
ることを強調し(ヘブライ7:4参照)、彼は大祭司として、イエス・キリストを指し示しているというのです(ヘブライ4:14~8:6)。
メルキゼデクは、アブラムを祝福するために現れました。彼は、王であり、同時に祭司でありました。祭司と王というのは、神と人間の間に立つ重要な職務であると考えられていました。さらに言いますと、もうひとつ神と人間の間に立つ職務は預言者でありました。預言者というのは、神様の言葉を人間に告げる人です。ベクトルで言うと、神から人間への方向の役割を担っている。それに対して、祭司というのは、民に代わって、民を代表して、神に向かって罪の贖いと執り成しを祈る人です。人間から神への方向のベクトルです。王というのは、神に代わって、神のみ心に従って、民を治める職務です。
イエス・キリストというお方は、まさにこの神と人間の間に立つ三つの職務(預言者、祭司、王)を兼ね備えた存在として、この世界に来られました。預言者や祭司や王がその職務に就くときには、油注ぎがなされましたが(出エジプト28:41、サムエル下2:4、列王上19:16等)、まさにキリストという言葉は、「油注がれた者」という意味なのです(ヘブライ語ではメシア)。
新約聖書は、イエス・キリストは神の言葉が肉体となった方(受肉、ヨハネ1:14)と告げています。神の言葉そのものであると言ってもよいでしょう。その意味で、「預言者の中の預言者」です。
また祭司は、そのつど、そのつど、犠牲の捧げものをして罪の赦しを祈ってきましたが、イエス・キリストはご自身がどんな犠牲よりも尊い捧げものです。「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている」(ヘブライ7:26)。ご自身を、私たちの罪のために捧げて、執り成しをなされた「祭司の中の祭司」、大祭司でありました。
同時に、イエス・キリストは、仕えられることによってではなく仕えることによってこの世界を支配された王、「王の中の王」、ヘンデルの「メサイア」のハレルヤ・コーラスにありますように「キング・オブ・キングズ」です。そのような形で、この世界を真実に支配される王です。
メルキゼデクは、そういう祭司の中の祭司、王の中の王をほうふっとさせる存在です。それははるかにイエス・キリストを指し示しています。だからこそ、アブラムの上に立って、アブラムを祝福する地位にあったと考えるのです。
私は牧師という仕事も、預言者と祭司という両方の側面をもっていると思います。大祭司キリストに仕える者として小さな執り成しをするのです。それと同時に、神様の言葉を取り次ぐ小さな預言者でもあります。王というのは直接的にはあてはまらないと思いますが、イエス・キリストが仕えられる王ではなく、人に仕える王であったということからすれば、牧師もそれにならって人に仕える者とならなければならないと思います。
先週牧師のいない伝道所の委員さんたちと、伝道所の将来について話す機会がありました。無牧師の教会が年々増えています。委員さんの一人は、日本キリスト教会はもっと牧師を生み出す努力をしてほしいと、切実な思いを込めて語っておられました。本当にその通りだと思いました。イエス・キリストに仕える小さな預言者、小さな祭司である牧師がもっと生み出されるように、私たちも祈りを篤くしてまいりたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。今日は聖書の御言葉を通して、イエス・キリストが真の預言者・祭司・王であることを示されました。主イエスは神様と私たちの間に立って、御言葉を伝え、私たちのために執り成しをしてくださいます。また、神の御心を行うためにこの世に来られた真の王であられます。主は仕えられるためではなく仕えるために、王となってくださいました。私たちは仲保者であるこのお方によって救われ、永遠の命を与えられています。どうぞどのような時にもイエス・キリストに従い依り頼むことができますよう、私たちを導いていてください。今も世界では戦争が絶えません。為政者は人々のためではなく、人々を犠牲にして自分の欲望を満たそうとしています。どうか、為政者の誤った思いをただし、あなたの御心を天におけるように地にも為さしめてください。この拙き切なる願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録1章3~5節
説 教 「エルサレムを離れず」 山﨑和子長老
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) 出エジプト記3章7~14節
(新約) マルコによる福音書12章18~27節
説 教 「思い違いをすることなく」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書12章13~17節 2025年5月4日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝与えられております御言葉は、マルコによる福音書によれば、受難週の火曜日の出来事です。マルコによる福音書においては11章27節から13章の終わりまで、主イエスが神殿においてなされたたくさんの教えや問答が記されています。実にたくさんの分量が割かれているのですが、ここにある教えや問答がすべてこの火曜日だけでなされたと考える必要はないと思います。色々な時になされた教えが、ここにまとめられたと考えることができるでしょう。
さて、今朝与えられている御言葉において、主イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人が数人、主イエスのもとに遣わされました。彼らは遣わされて来たのですが、遣わしたのは誰かと言えば、11章の終わりの所で、主イエスに権威についての問答を仕掛けた祭司長、律法学者、長老たちであっただろうと思います。彼らは、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の指導者たちであり、当時のユダヤ社会の指導者たちです。彼らに遣わされて、主イエスの言葉じりをとらえて陥れるためにやって来たのです。
ここでファリサイ派やヘロデ派の人が遣わされているのですが、それは主イエスに向けられた問い、主イエスを陥れるためになされた問いの内容と関わっています。元々、ファリサイ派の人とヘロデ派の人とは政治的立場が全く違うのです。ファリサイ派の人というのは、ユダヤ教原理主義と申しますか、神の民であるユダヤ人として、自分たちは律法を守って神様の救いに与るために全精力をそこに注いでいる人たちです。彼らからすれば、汚れた異邦人であるローマに支配されているのはまことに面白くないわけです。一方、ヘロデ派の人というのは、当時のガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスを支持する人たちです。ヘロデ・アンティパスは、ローマ帝国のもとで領主であることを許されている存在ですから、当然、ローマ帝国による支配という現実を支持しているわけです。このようにローマに対しての姿勢ということから見れば、この二つのグループは全く正反対の立場だったわけです。
その二つのグループの人が主イエスの所にやって来て、主イエスに問うのです。14節「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」この税金というのは、多分、人頭税であったと思われます。これは主イエスを陥れるための罠です。どういうことかと申しますと、「税金を納めなくてよい」と主イエスが答えれば、それはローマに反逆する者ということになります。ヘロデ派の人が黙っていません。ローマに訴えて、主イエスを捕らえることができます。逆に、「納めなければならない」と答えれば、人々は主イエスが神様に遣わされた方で、その不思議な力で自分たちをローマから解放してくれると期待していましたから、人々は失望し主イエスから離れるでしょう。更に、ファリサイ派の人々は「ユダヤには神様以外に王はいない」と叫んで、主イエスを糾弾することさえできるわけです。このように、どう答えようとも主イエスを追い詰めることができる、そういう罠がこの問いには仕掛けられていたわけです。
これに対して、主イエスは彼らの策略を見抜かれます。そして、「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」と告げられました。デナリオン銀貨というのは、当時ローマ帝国が発行していた貨幣です。労働者の一日の賃金が1デナリオンでした。ですから、現代の日本で言えば五千円札とか一万円札に相当すると考えてよいでしょう。この銀貨には、当時のローマ皇帝であるティベリウスの肖像と銘が刻まれていました。お金というものは誰でもが造ることができるというものではありません。その国を支配する者だけが発行することができるのです。そして、お金というものは皆が使うものです。だから、ローマ帝国はそれに必ず皇帝の肖像と銘を刻むことにしていました。それは、このお金を造ったのが○○というローマ皇帝であると示すことによって、このお金を使う者は○○皇帝の支配のもとにあるのだということを示すためでした。ですから、ローマは皇帝が替わる度に、必ずその新しい皇帝の肖像と銘が刻まれた貨幣を造ったのです。
エルサレム神殿においてはこのデナリオン銀貨は使うことができず、昔のユダヤのお金に両替しなければならなかったわけですが、ここには「神殿の中にローマの支配は及ばせない」という思いがあったのだと思います。更には、十戒の第二の戒め「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」に反するからということもあったのでしょう。そのようにローマのお金を使えないエルサレム神殿の中で、このようなやり取りが為されたというのも皮肉な気がします。エルサレム神殿の中では使うことのできないローマの銀貨を、彼らは持っていたのです。神殿を一歩出ればローマのお金しか使えないのですから、財布の中にはローマのお金が入っている。皆そうなのです。エルサレム神殿に巡礼に来た人も、ヘロデ派の人もファリサイ派の人も、財布の中にはローマのお金しか入っていないのです。しかし、エルサレム神殿に納めるものはローマのお金ではいけない、そう言って両替しているわけです。何か変です。
神殿の内と外で全く違うように生きているわけです。神殿の外ではローマのお金を使い、ローマの支配の中に生きる。しかし、神殿の中ではローマのお金は使えない。神殿の中では、王はローマ皇帝ではなくて主なる神様ただ一人ということになっている。使い分けているわけです。
主イエスは、彼らが持って来たデナリオン銀貨を見せて、「これは、だれの肖像と銘か」と問われました。彼らが「皇帝のものです」と答えると、主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました。この答えには、ファリサイ派の人もヘロデ派の人も言いがかりを付けようがなく、驚き、黙るしかありませんでした。主イエスは「皇帝のものは皇帝に」と答えることによって、税金は納めるべきだと言われたわけです。これでヘロデ派は黙るしかありません。しかし同時に、「神のものは神に返しなさい」と言うことによって、ただローマの支配だけを認めるのではなくて、ちゃんと神様の御支配を認めているわけです。これでファリサイ派の人も黙るしかありませんでした。
主イエスはここで、ヘロデ派の人からもファリサイ派の人からも責められることのない見事な答えをされたわけです。しかしここで主イエスは、神殿を支配している人々が神殿の外はローマ皇帝の支配、神殿の中は神様の支配というような使い分けをしているのをよしとして、このように言われたのではないのです。聞いた方は、そのように受け取ったかもしれません。しかし、主イエスの意図はそうではありませんでした。確かに、この「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの言葉が、この世の領域・世俗の領域と、教会の領域・信仰の領域とを分けなければならない、そのような考え方の根拠となったという歴史はあります。そして、このような考え方をしなければいけない時もあるのです。例えば、政教分離というあり方は、近代民主主義国家においてはとても大切なもので、これを失えば近代民主主義国家は成り立たないと言ってもよいほどに重要なものです。この政教分離というあり方は、人類が本当に多くの血を流してやっとたどり着いた知恵であり、私は何としてもこれは守らなければならないと考えています。
しかし、主イエスがここで言われたことは、「聖と俗とを分けなさい」ということではないのです。「皇帝のものは皇帝に」というのは確かに、この世の秩序というものを認めるということです。主イエスは、デナリオン銀貨を使うな、税金を納めるな、ローマと戦え、そんなことは言われないのです。いつの時代でも、どこの国でも、理想的な政治、神様の御心が完全に反映されるような政治が行われるなどということはないのです。政治というのは、色々な立場の人がいて、それを認めながら、より良い妥協点を見つけるしかないのです。色々と欠けがあっても、それを認めていくしかない。消費税に反対だからといって、それを納めなくてよいということにはならないのです。私たちはこの世の秩序を認め、良き市民としての歩みをしなければならないのです。
問題は、「神のものは神に」です。この「神のもの」とは何なのでしょうか。デナリオン銀貨には、それを造った皇帝の肖像と銘がありました。では、神様によって造られたもの、それを造られた神様の肖像と銘が入ったものとは何なのでしょうか。それは、神様の似姿に造られた私たち自身です。つまり、私たちの命、私たちの富、私たちの時間、私たちの能力、それらはすべて神様のものなのです。主イエスは「神のものは神に返しなさい」と言われました。私たちは、自分の持てるすべてを神様にお献げして生きるのです。ここまでは皇帝に、ここからは神に、そして残りは自分に。そういうことではないのです。
こう言ってもよいでしょう。私たちは、日曜日の朝だけキリスト者であるわけではないのです。教会にいる時だけ、礼拝している時だけクリスチャン。そんなわけがありません。私たちはいつでもどこでも、何をしていてもキリスト者なのです。この世の秩序のなかで、会社員として、主婦として、夫として、妻として生きている時も、キリスト者なのです。月曜から土曜までは皇帝の支配のもとで、日曜日は神様の支配のもとで。そんな使い分けはできないのです。どうしてか。それは、私たちはあの主イエスの十字架によって、完全に神様のものとされてしまったからです。私たちには最早、父・子・聖霊なる三位一体の神様以外に主人はいないのです。
ですから、この世の秩序の中に生きている時も、私たちの主人、私たちの王は、ただ主なる神様しかいないのです。私たちは二人の王に兼ね仕えることはできません。ですから、もし私たちが、明らかに神様の御心に反することをこの世の主人から求められることがあれば、私たちは断固「No!!」と言わなければならないでしょう。皇帝もまた、神様によってその地位を与えられている者にすぎないからです。しかし、皇帝に仕える時、つまりこの世の秩序の中で生きる時、私たちは神様のものとされている者として、ためらうことなく、健やかに生きるのです。この世界のすべては、主なる神様のものだからです。私たちはキリスト者として仕事をなし、キリスト者として食事を作り、キリスト者として子育てをするのです。私たちの為す日常の営みのすべてが、主人である神様にお仕えする業なのです。牧師の仕事は聖なる業、信徒の日々の生活は俗なる業。そんなことは全くありません。どんな小さな業も、私たちは神様に仕える業として、神様の栄光のためになすのです。それが、あの主イエスの十字架という一点において全てを新しくされてしまった、キリスト者という存在なのです。神様の似姿を刻まれた一人一人として、心を高く上げつつ歩んでいきましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。今日も聖書を通して御言葉を与えられました。私たちキリスト者は神様の肖像と命が刻まれた神様の似姿です。あなた以外に私たちが仕えるべき方はおられません。どうか、真にお仕えするあなたにいつも心を向けつつ、日々の歩みを為すものとしてください。群れの中には病床にある者、齢を重ねて困難を覚える者、人生の試練の中にある者もおります。どうか兄弟姉妹一人一人
を励まし力づけてください。折に適った助けと導きを与えていてください。この拙き切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。