次週の礼拝  2月18日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ヨブ記19章25-27節

説  教   「わたしをあがなう方」 山﨑和子長老

主日礼拝   

午前10時30分 伝道礼拝(レントⅠ) 司式 髙谷史朗長老

聖  書

  (旧約) ヨナ書2章1-3節    

  (新約) マタイによる福音書12章38-42節 

説  教   「主を叫ぶことに生きる」  藤田浩喜牧師

航路を主イエスと共に行く

マルコによる福音書4章35~41節   2024年2月4日(日)主日礼拝説教

牧師 藤田浩喜

 今日の4章35節を見ますと、「その日の夕方になって」と書かれていました。その日、主イエスは集まってきたおびただしい群衆に、たとえをもって神の国について教えておられました。主イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上から語りかけます。群衆は皆、湖畔にいてそれを聞いていました。そして、その日の夕方、主イエスは弟子たちに言われたのです。「向こう岸へ渡ろう」と。
 暗くなってから舟を出すこと自体は、珍しいことではありませんでした。夜通し漁をすることもあるのですから。また、弟子たちの多くは漁師ですから、舟を出して良い日かどうかも、ある程度はわかります。その日は舟を出しても良いと判断したのでしょう。「向こう岸へ渡ろう」と言っても、はるか彼方へ舟を出すわけではありません。せいぜい10キロ~20キロの間です。ですから主イエスは無理な要求をしているわけではありません。
 しかし、それでもなお弟子たちにとっては、正直言ってあまり気が進まない話だったと思います。というのも、主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と言って指さしていた先は、「ゲラサ人の地方」だったからです。それはユダヤ人ではなく異邦人が住んでいる地域です。5章を見ますと、その地方の人たちはどうも豚を飼っていたらしい。ユダヤ人の感覚からすると、そこは汚れた人々が汚れたことをして生活している土地なのです。そんなところには行きたくないし、そんな人々とは関わりたくもない。しかし、主は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。

 主イエスがそう言われるので、仕方なくも舟を出しました。群衆を後に残し、主イエスを舟に乗せたまま彼らは漕ぎ出します。すると、やがて激しい突風に見舞われることとなりました。経験を積んだ漁師たちでも予測を誤る時はあるようです。「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」(37節)。ちなみに「水浸し」と訳されているところは、「(水が)今や舟いっぱい」という表現ですから、事態はかなり深刻です。舟は沈みそうになっていたのです。
 しかし、その嵐の中にあって主イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられました。弟子たちは主イエスを起こして言います。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」 これが今日の聖書個所の前半部分です。
 皆さん、ここを読まれておかしいと思いませんか? 嵐なのに主イエスが寝ていることではありません。嵐なので主イエスを起こした、ということです。ガリラヤ湖と舟に関して弟子たちの方が専門家なのでしょう。一方主イエスと言えば、大工の息子ですから、舟に関しては素人以外の何者でもありません。
 実際、彼らは起こす直前まではそう考えていたと思います。「眠っておられた」と書かれていました。言い換えるならば、誰もそれまで起こそうとはしなかった、ということです。舟はいきなり水でいっぱいにはなりません。かき出しても水が入るから一杯になるのです。彼らがなんとか努力して、舟が沈まないように対処していたとき、彼らは主イエスを眠ったままにしておいたのです。必要ではなかった。素人ですから。嵐の中で格闘している時には、むしろ素人は寝ていてくれた方がよかったのです。
 ところがこの場面において、彼らはその素人でしかない主イエスを起こして、こう言っているのです。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38節)。おかしいでしょう。ここに書かれていることは、普通に考えるならば異常な光景です。

 しかし、もう一方で彼らの気持ちもよく分かります。多かれ少なかれ私たちにも身に覚えがあるからです。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったのは、実際おぼれそうになったからです。長年の経験と自分たちの持っている技術と持ち前の根性では、どうにもならなくなったから、今さらですが、彼らはこのような言葉を口にしているのです。
 想像してみてください。主イエスが群衆に語りかけていた時、彼らは舟の中にいたのです。一番近いところで主イエスの話を聞いていたのです。神の国の話を聞いていたのです。神の支配について聞いていた。百倍にもなる御言葉の種の話も聞いていたのです。そのように、神のなさることについて聞いていたのです。
 しかし、嵐の中にあっては、そんな話はどこかへ飛んでしまいました。神の話は神の話。現実は現実。今は現実の方が大事なのであって、神様関係の御方は寝ていてもらっていたほうがいい。素人は足手まといですから。
 このようなことは、私たちにもあるのでしょう。神の話は神の話。現実は現実。この大変な時に聖書や教会どころじゃありません。こんな時に信仰の話でもないでしょう!礼拝どころじゃないでしょう!そうやって、自分の経験や技術や根性で一生懸命に対処しようとしている時には、神様のことは後回しになります。
 しかし、彼らはどうにもならなくなった時に、そこに寝ている方のことを思い起こしたのです。きっと思い出したことでしょう。主イエスを通して神の権威と力が現わされていたことを。カファルナウムの会堂において、汚れた霊に「黙れ、この人から出て行け」と命じると、たちまち汚れた霊は出て行ったことを。また、中風の人が床に乗せられてつり降ろされてきた時に、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じられると、病は癒され、その人は床を担いで出て行ったことを。
 だから、自分の力や頑張りではどうにもならなくなった時、彼らは主イエスを求めたのです。この御方を通して現れた神の権威を求めたのです。「神の話は神の話。現実は現実」ではなくて、現実の中に神の権威と力が現れることを求めたのです。ならば主イエスを起こさなくてはなりません。おぼれそうなのですから。彼らは主イエスを起こして言いました。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。

 すると主イエスはにわかに起き上がり、あのカファルナウムの会堂の時のように、「黙れ。静まれ」と命じられました。そして話は「すると、風はやみ、すっかり凪になった」(39節)と続きます。奇跡を伝えたいだけならば、話はこれで終わりでしょう。しかし、大事なのはその後です。「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか』」(40節)。
 「なぜ怖がるのか」と主は問われます。それは「怖がる必要はないではないか」ということです。風がやんで凪ぎになったから、怖がる必要がないのではない。まだ突風が吹いている時でも、波をかぶって舟が沈みそうになっているその時でも、本当は怖がる必要などなかったということなのです。本当に目を向けるべきところに目を向けていたならば!
 そうです。彼らが必死で自分たちの力で対処しようとしていた時に、同じ舟の中に主イエスはおられたのです。「神の話は神の話。現実は現実」と思っていた時に、実はそこに主イエスはおられたのです。そこで主イエスは安らかに眠っておられたのです。何もなさらなかったのです。皆さん、神の権威や力は、ただ奇跡の類によってのみ現されるのではないのです。そうではなく、主イエスは眠っていることによって、何もなさらないことによって、奇跡を行う以上にはっきりと、神の圧倒的な権威と力を現しておられたのです。そして、彼らに必要だったのは、ただ信じることだけだったのです。主は言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。

 さて、最初の話に戻ります。そもそも、これらのことは「向こう岸へ渡ろう」という主の言葉から始まりました。主が指さしていたのは異邦人の地でした。そこには出会いたくない、関わりたくない人々がいる。しかし、主は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」。
 教会の歴史は、この「向こう岸へ渡ろう」という主イエスの言葉によって導かれてきた歴史でした。主イエスはユダヤ人でした。十二弟子もユダヤ人でした。当初は教会にはユダヤ人しかいなかったのです。そこに異邦人が加わって来るようになったのは、ある時から異邦人にも福音を伝えるようになったからです。
 もともとユダヤ人は、異邦人とは一緒に食事はしませんでした。異邦人が加われば、「異邦人との食事」という全く未知の要素が入ってきます。当然、まったく馴染みのない習慣やものの考え方も入ってきます。感じ方も違う人たちと、共にいることになる。当然、教会の雰囲気も変わってくるでしょう。ユダヤ人が自分たちにとって居心地のよい教会を望むなら、絶対に異邦人に伝道などしない方がよいのです。しかし、主イエスは言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。そして、教会は向こう岸へと渡ったのです。
 私たちもまた、安全なところ、自分たちの慣れ親しんだところ、今まで慣れ親しんだあり方に留まりたいと思うものです。前に踏み出したくない。舟は出したくない。ゲラサ人とは関わりたくない。異質なものとは関わりたくない。しかし、主イエスは先へと、向こう岸へと行こうとしておられる。自分一人ではなく、私たちと一緒に行くことを望まれるのです。ですから私たちにも言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。
 そこでこそ、あの弟子たちが舟の中において身をもって学んだことを、私たちもまた知っておく必要があるのでしょう。舟を出せばいろいろなことは起こってきます。嵐に遭うかもしれません。舟は沈みそうになるかもしれません。しかし、その時こそ、キリストが共におられることに目を向けなくてはならないのです。そして、求められているのは「信仰」であることを思い起こさなくてはならないのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と主は言われます。そこでこそ、「主よ、私たちは信じます。私たちは、あなたと同じ舟の中にいるのですから」。そのように言える者でありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を共にすることができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは私たちと共にあって、「向こう岸へ渡ろう」と促されます。それは教会の歩みにおいて、キリスト者の生き方において、私たちにも呼びかけられる促しです。どうか、主イエスを信じて、主にゆだねて、前進していくものとならしてください。南柏教会は先週の主の日に今年の定期総会を行い、あなたから福音宣教のヴィジョンを示されました。さまざまな波風が私たちを襲うことがあるかもしれませんが、主の御守りと御導きを信じて、あなたの託してくださった福音宣教の使命に喜ばしく仕えさせてください。群れの中には、病床にある者、高齢のゆえに労苦している者、人生の試練に立たされている者たちがおります。どうか一人一人と共にいてくださり、あなたの励ましと平安を与えてください。私たちの世界では不条理な戦争が各地で起こっています。そこで暮らす人々の苦しみや悲しみは計り知れません。どうか、そのような戦争が一日も早く収束に向かい、平和な日常生活を取り戻すことができますように。国内にあっては、能登半島地震の被災者の方々が、この寒さが一番厳しい時に、避難生活を強いられています。どうか、お一人お一人の健康を支えてくださり、この試練の時を無事に乗り越えさせてください。これらの拙き切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

次週の礼拝  2月11日(日) 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ヨブ記2章1-10節

説  教   「ヨブの信仰②」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分     司式 山根和子長老 

聖  書

  (旧約) イザヤ書55章6-13節    

  (新約) マルコによる福音書5章1-20節 

説  教   「すこやかに家に帰る者とされ」  藤田浩喜牧師

神の国のビジョンに生きる

マルコによる福音書4章26~32節  2024年1月28日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜 

 今日は、この礼拝の後で2024年度の教会総会が開かれます。2023年度の歩みを振り返り神様が導いてくださったことを感謝すると共に、2024年度の計画を立て、心を合わせ、祈りを合わせて、御心に適った歩みをしていくことを具体的に決めていく時です。皆さん出席していただき、共に祈りを合わせていただきたいと思います。そのような教会総会に先立って今朝与えられました御言葉は、主イエスがお語りになった神の国についての二つのたとえです。二つとも、神の国を植物の種にたとえているものです。神の国のたとえと申しましても、神の国はこんな所だと言って絵に描くようなイメージを持っているわけではありません。花が咲いていたり、天使が飛んでいたり、そんなことを語っているのではないのです。神の国というのは、直訳すれば神の支配という意味ですが、神様の御支配は主イエスと共に来ました。神の国はもう来ているのです。ここに来ている。この教会に、私たちの中に、既に来ている。まだ完成はしていません。しかし、既に来ている。ですから、神の国についてこんな所だ、あんな所だと言ってイメージする必要はないのです。そうではなくて、既に来ている神の国がどんなに力強く成長するものなのか、そのことに私たちの目を向けさせる、気づかせる。それが、この二つの神の国のたとえが語られた意味なのです。

 順に見てまいりましょう。26~28節「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。』」とあります。ここで告げられていることは、神の国、神様の御支配というものは、蒔かれた種が自然に成長するように、種を蒔いた人の力によるものではなく、神様の力によって芽を出し、成長して、実を結ぶものだということです。

 種を蒔いた人は、水をやったり雑草を取ったりはしますけれど、蒔いた種そのものには何もしません。種が根を張り、芽を出すのを待つだけです。待つしかない。種の持っている力、芽を出し、成長し、実をつける力を信じて待つしかないのです。神の国もそれと同じだと言うのです。

 私たちは、神の言葉を伝える業に励みます。それは、神の国の種を蒔くようなものです。礼拝や祈祷会、様々な集会などで御言葉が語られる。祈りがささげられる。それらはすべて神の国の種蒔きです。もっと言えば、そのような聖書が開かれて読まれる時ばかりではなく、私たちが出会ういろいろな人たちとの会話、仕草、そのすべてが種蒔きなのです。私たちは、そんな意識はしないで生きているかもしれません。しかし、そういうものなのです。キリスト者として、神様に愛され、神様を愛する者として生きる。そこにおいて私たちは、自分が意識しようとしまいと、神の国の証人として立っているのです。私たちが教会に来るようになった時、あるいは来てからでもいいですが、私たちは具体的な誰かに出会って、教会に来よう、教会に来続けようと思ったはずです。その出会った人は、私に神の国の種を蒔いているつもりはなかったかもしれない。しかし、あの人に出会って、あの人と知り合いになって、教会につながった。それは事実なのです。その時、あの人がこう言った、こうしてくれた。それがきっかけだったのです。そんなことを言われても、その人は「えっ!」と思うだけかもしれません。しかし、そうなのです。もちろん、私たちが主イエスを信じ救われるまでには、その一人の人との出会いだけではなく、いろいろな人との出会いがあり、導きがあったでしょう。いろいろなことがあった。それは「神様のお導き」としか言いようがないのです。神の国とはそのように、私たちがこれをした、あれをした、そういうことを超えて、「神様のお導き」としか言いようのない出来事の連鎖によって成長するものなのだということなのです。

 こう言ってもよいでしょう。私たちが蒔いた神の国の種は、神様のお導きの中で成長していくのだから、それを信じ、安心して待てばよいのだということです。 私たちは、2023年度、いろいろなことを行いました。主イエスの福音が、この筑波の地により豊かに、より広く、より深く伝えられていくために、そのことを願って、いろいろなことをしました。それは、すぐに結果が出たものもあれば、出ないものもある。しかし、種が蒔かれたことは確かなことなのですから、私たちは神様のお導きというものを信じて、待てばよいのです。

 29節を見ますと、「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」とあります。この収穫というのは二通りに理解できると思います。一つは、終末です。主イエスが再び来られる時、それは神の国の完成の時であります。それまで神の国は成長を続けるということです。歴史を貫き、世界中に広がっていくのです。もう一つの収穫についての理解は、私たちが主イエスを信じ、主イエスと共に生きるようになるということです。具体的には、洗礼や信仰告白の時も、この収穫の時と受け取ることができるだろうと思います。洗礼者が生まれるということは、神様が生きて働いてくださっていることを私たちが具体的に知らされる時です。そして、一人の洗礼者が出るまでには、気が遠くなるような長い間、神様が導き続けてくださったということがあるわけです。

 教会総会においては、必ず教勢報告というものがあります。教勢という言葉は、「教える」に「勢い」と書くのですが、これは教会用語だと思いますが、教会がとても大切にしているものです。何人の人が洗礼を受け、何人が天に召され、礼拝には何人が出席したのかということが報告されるわけです。それは「ただの数字だ」と言えば数字なのですけれど、その数字一つ一つの背後に、気が遠くなるような神様の具体的なお導きというものを、私たちは見るのです。そこで私たちがよくよく心しておかなければならないことは、この教勢報告というものを、決して「私たちがしたことの成果」として見てはいけないということです。たとえば、洗礼者何名という記述においても、私たちがこれこれをした結果こうなったということではないのです。もちろん、神様は私たちがなしたすべてのことを用いてくださいます。しかし、その自分がしたことの結果ではないのです。いくつもの教会を経て、私たちの教会で洗礼を受ける場合だってあります。逆もあるでしょう。長い間日曜学校で学んだ子が、大人になって別の教会で洗礼を受ける。そんなことはよくあることです。私たちは種を蒔く。その種が必ず芽を出し、成長し、豊かな実をつけることを信じて、種を蒔くのです。しかし、その種が芽を出し、茎を伸ばし、実をつけるのは、その種の力、福音の力、神様の力によるのであって、私たちがこれこれをしたから実を結んだということではないのです。私たちは種を蒔く。その種が、成長してやがて実を結ぶことを信じて種を蒔く。それがいつ、どこで実を結ぶのかは分かりません。しかし、必ず実を結ぶ。このことが信じられなければ、私たちは伝道などできないと思います。伝道とは、この必ず実を結ばせてくださる神様のお導きというものを信じて、なせる精一杯のものをささげていくことなのです。

 さて、二つ目のたとえは、「からし種」のたとえです。からし種というのは、粒マスタードに入っている、あの小さな粒です。ゴマよりもっとずっと小さい、小さな小さな種です。しかし、これが生長しますと、3mにもなるといいます。神の国は、このからし種のようなものであると言うのです。

 この「からし種」のように小さな種だと言われているのは、主イエス・キリスト御自身、またその御業や言葉を指していると考えてよいでしょう。主イエスがなされた業も言葉も、歴史的に言えば、当時の巨大なローマ帝国の辺境の地における、小さな出来事に過ぎませんでした。パレスチナ地方で一時、人々の注目を集めたかもしれませんけれど、主イエスが公の場で宣教されたのは、たったの3年です。弟子たちも、数えるほどしかいませんでした。歴史の流れの中で、誰にも憶えられず、忘れ去られ、消えていっても少しもおかしくなかった。しかし、そうはなりませんでした。それは、イエス・キリストというお方がまことの神であられたからです。神の国の到来そのものであったからです。主イエスと共に神の国が来たからです。主イエスと共に生きることが、神の国に生きることだからです。主イエスというお方は、十字架の上で死んで終わりではなかったからです。

 主イエスがもたらした神の国は、十字架の死で終わらず、主イエスの復活、さらにペンテコステの出来事を経て、全世界に広がり、極東にある日本の私たちの所にまでやって来ました。小さなからし種から始まった神の国の到来は、全世界の人々が宿るほどに枝を張り、成長を続けています。

 私は、この神の国の成長というものを、アブラハムの祝福の継続であり、展開だと理解しています。先ほど、創世記15章を読んでいただきました。神様によって召し出されたアブラハム。彼は、ある日神様から召命を受けます。創世記12章1~3節「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』」

この神様の言葉に従って、彼は生まれ故郷を離れ、旅立ちました。75歳の時です。しかし、彼には子どもがいませんでした。時が経ち、それでも子どもは与えられませんでした。彼は、自分の子孫が大いなる国民となるということを信じられなくなりました。その時与えられた御言葉が15章4~5節です。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」アブラハムは、この神様の言葉を信じました。後にアブラハムは、100歳の時に一人の男の子、イサクを与えられます。そして、イサクの子がヤコブ、ヤコブの12人の男の子がイスラエル12部族となりました。アブラハムと交わした神様の約束は、イスラエル民族という形で成就したように見えます。しかし、それで終わりではなかったのです。新しいイスラエルとしての神の教会の誕生によって、アブラハムの約束は更に継続され、発展した形で展開したのです。アブラハムから始まった神の民は、ユダヤ民族だけでなくキリスト教会というあり方で異邦人にも開かれ、全世界に広がったのです。今、神の民は、天の星の数ほどに、海辺の砂粒ほどに、増えました。そして、これからも増し加えられていくでしょう。

 アブラハムはこの時、神様の御言葉を信じる、目に見える根拠は与えられていませんでした。しかし、彼は信じたのです。6節「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。このアブラハムの信仰こそ、神の国の到来という救いの現実に生かされている私たちが立っている所でもあるのです。アブラハムは信じたのです。そして、神様はそれを義と認められたのです。

 私たちもまた、主イエス・キリストを信じるのです。ただ独りの神の子と信じる。この方の十字架によって一切の罪が赦され、私たちも神の子とされたことを信じるのです。この御子の復活によって、自分にも永遠の命が与えられたことを信じるのです。その信仰によって、私たちは神様に義と認められ、神の国に生きる者とされたのです。ただ信仰によって義とされた。私たちがよき業をなしたから義とされたのではありません。ただ、神様が憐れんでくださり、私たちを愛してくださり、主イエスの尊い血潮のゆえに神の子として私たちを受け入れてくださったからです。この神様の愛によって、神の国は広がり、成長し続けるのです。私たちの業によってではありません。ただ神様のお導きによってなのです。ですから、私たちに求められていることは、いつもこの一つのことです。神様の御業を信じるということです。信じて、心安んじて、精一杯種を蒔き続けるということです。

 種の蒔き方を工夫するのはよいことです。しかし、成長させてくださるのは神様です。この神様の、生きて働いてくださる具体的なお導きを信じて、私たちはそれぞれが遣わされている場において、精一杯種を蒔き続けていくのです。すぐに芽が出なくても、動じることなく、安んじて蒔き続けていけばよいのです。なぜなら、神の国は既にここに来ているからです。私たちはもう、神の国に生き始めているからです。この種の成長力を一番よく知っているのは私たちです。それは、だれよりも私たち自身が変えられたからです。神の国に宿る者とされているからです。神様を愛し、主イエスを愛し、神様を信頼し、主イエスを信頼し、神様の言葉に従い、主イエスと共に生きる。ここに神の国は既に来ています。私たちは、その完成を願い、待ち望みながら、2024年度の歩みを主の御前にささげていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に、あなたの御前に礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。神様、私たちは既に神の国、神の御支配に生かされています。そして、この神の国、神の御支配は、あなたの愛によって広がり、完成へと向かっていきます。私たちの目にしている現実にもかかわらず、神の国、神の御支配は力強く前進しています。どうかそのことを深く信じさせてください。今日は礼拝の後、定期総会が行われます。この大切な教会会議を初めから終わりまで、導いていてください。あなたの示してくださる宣教のビジョンに導かれて、私たちの群れが進んでいくことができますように。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   2月4日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ヨブ記1章1-21節

説  教   「ヨブの信仰①」 三宅光

主日礼拝   

午前10時30分  司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖  書

  (旧約) 詩編94編1-7節    

  (新約) マルコによる福音書4章35-41節 

説  教  「船路を主イエスと共に行く」 藤田浩喜牧師

次週の礼拝  1月28日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書18章21-35節

説  教   「『仲間をゆるさない家来』のたとえ」 高橋加代子

主日礼拝   

午前10時30分     司式 三宅恵子長老 

聖  書

 (旧約) 創世記15章1-6節    

 (新約) マルコによる福音書4章26-34節 

説  教   「神の国のビジョンに生きる」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝   1月21日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書18章10-14節

説  教   「『迷い出た羊』のたとえ」 藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分     司式 山﨑和子長老 

聖  書

  (旧約) イザヤ書26章1-6節    

  (新約) フィリピの信徒への手紙4章1-7節 

説  教   「人知を超える神の平和」  山田矩子教師

神の豊かさに生きる

マルコによる福音書4章21~25節 2024年1月14日(日)礼拝説教 

                          牧師 藤田浩喜

 今朝与えられている御言葉は、主イエスがお語りになった「ともし火」のたとえと「秤」のたとえです。これはどちらも「たとえ」ですから、とても単純な話です。こういう話です。誰かが「ともし火」を持って来る。この「ともし火」というのは、小さな皿のようなものに油が入っていて、芯が浸してあって頭が少し出ている。そこに火が灯されているものです。テレビの時代劇などに出てくるものと同じ様なものを考えていただけばよいかと思います。この「ともし火」を持って来た人は、それを升の下や寝台の下に置きはしない。燭台の上に置くではないかと言うのです。「ともし火」は、ストーブを消す時を考えていただいたらよいと思いますが、消す時には嫌な臭いがします。ですから、臭いが出ないように、升をかぶせて消したのです。そして、蹴飛ばしたりしてはいけませんので、ベッドの下に入れた。ここで主イエスは、当時の生活の一場面を用いてお語りになったのです。誰かが「ともし火」を持って来たら、それは燭台に置いて部屋を明るくするのであって、消すためではないと言われたのです。当たり前のことです。

 また、豆でも小麦でも、買う時には升のような秤で量って買うわけです。現代の日本では秤が店によって違うなどという事はありませんけれど、当時は升の大きさが店によって違い、多かったり少なかったりする。その日常の場面を用いて主イエスはお語りになっているわけです。そして、自分の秤が大きければ多く与えられるし、小さければ少ししか与えられないというのです。

 この二つのたとえは、当時の日常生活の一場面を切り取ったような話ですから、話そのものは単純なもので、よく分かります。しかし、それが何を意味しているのかということになりますと、話は別です。それは、以前学んだ種蒔く人のたとえでもそうでした。話としては難しいところは少しもない。しかし、何を言われているのか、その意味は何かということになると、さっぱり分からない。これが主イエスのたとえの、一つの大きな特徴なのです。どうして、そうなのでしょう。

 話は簡単で単純だけれども、何を言っているのか分からない。私は、これと全く同じ思いを抱いたことがあります。それは、私が初めて礼拝に通い始めた頃に持った、説教に対しての思いです。それが全くこれと同じだったのです。牧師の語る説教は、特に難しい日本語を使うわけではない。言葉としては分かるのです。しかし、何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。毎週礼拝に集っても、心に残るとか、「ああ、そうだ」と思うことが無い。今思いますと、あれだけ分からなくて、よく毎週通ったものだと思います。説教だけじゃなくて、讃美歌も分からない。祈っていることも分からない。どれもこれも日本語としては分かる。しかし、分からない。どうしてなのか。

 主イエスはここで、23節「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。この言葉は、以前「種蒔く人」のたとえを語られた時にも、9節で同じ言葉で言われています。「聞く耳のある者は聞きなさい。」なるほど、教会に通い始めた頃の私には、この聞く耳がなかったということなのだと思います。聞くには聞くが理解できない。それは聞く耳がないからなのです。実は、日本語としては分かるけれど何を言っているのか理解できないというのは、何も主イエスのたとえに限ったことではないのです。牧師の説教も、聖書の言葉も、主イエスのこのたとえと同じ性質のものなのです。

 主イエスのたとえも、聖書が告げていることも、説教も、いつもただ一つのことを語っている。それは主イエスの福音です。イエス・キリストとは誰なのか。イエス・キリストによって与えられた救いとは何か。イエス・キリストによって救われた者はどうなるか。そのことを告げているのです。それは、信仰を与えられなければ分かることはありません。それは、語られていることが訳の分からないことであるから分からないのではなくて、聞く者が語る者と同じ所に立っていないからなのです。あるいは、語る者が前提としていることと、聞く側が前提としていることが違っていれば、話は通じない。そう言ってもよいかと思います。主イエスはこのことを指して「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのです。

 「聞く耳のある者は聞きなさい」というのは、何か上からものを言っているように聞こえるかもしれません。話を聞いて分かる者だけが分かればいいのだ。そんなふうに聞こえるかもしれません。しかし、主イエスはそんな思いでこれを告げているのではありません。牧師もまた、そんな思いで毎週説教しているのではないのです。何とか分かって欲しいのです。しかし、本気で分かろうとしなければ、本気で聞こうとしなければ、分からないのです。自分の耳が変わらなければ、分からないのです。自分の耳が変わらなければ、自分が生きる上で自分が求めること、前提となっていることが変えられなければ決して分からないし、受け入れることができない。それが、主イエス・キリストの福音というものなのです。

 主イエスは今日の24節で、「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」と言われました。自分が聞いていることが何なのか、そのことに注意しなければならないのです。主イエスは、単に生活の一場面を語っているわけではないのです。当たり前です。主イエスは神の国の福音を告げているのです。私たちはそれぞれ自分の秤を持っています。それは、自分の経験やこの世の常識といったもので作られたものでしょう。ある人にとっては健康が一番でしょうし、ある人にとってはお金が一番かもしれません。この自分の秤が変わらなければ、主イエスが語っていることは分からないということなのです。しかし、この秤が主イエスの求めているものに変わりますと、どんどん分かってくる。どんどん与えられてくるのです。

 聖書というものは本当に不思議な書物で、一箇所分かりますとどんどん分かってくる。しかし、なかなかすべてが分かるということはない。ですから、次から次へと、どんどん与えられ続けていくものなのです。私は洗礼を受けて45年、牧師になって36年ですが、今もどんどん与えられ続け、分からされ続けております。「ほう、そういうことなのか!」と、分からせていただいています。

 では、この自分の秤が変わる時の重要点は何かと申しますと、「私は罪人である」ということを知ることだと思います。あれをしてしまった、これをしてしまった。そういう意味での罪人ということでもありますが、それ以上に重大なことがあります。それは、自分に命を与え愛してくださっている神様を裏切り、神様の愛に感謝することもなく、自分の欲を満たすためにばかり生きている者であったということを認めることなのです。

 自分が欲することを満たそうとすることのどこが悪いのか。確かに、この世の法律は、それを罰することはありません。しかし、そのことによって私たちは隣人(となりびと)を傷つけ、神様の御心を痛ませてきたのではないでしょうか。そのことは、人と比べてもそれは分かりません。他人と比べたら、自分はそれほど悪い人間ではない。どちらかと言えばよい人間ではないか、そう思うのが自然でしょう。しかし神様は、誰にも言えない、心の底にある闇の思いをも御存知です。そして、その闇の心を新しくしよう、そう言って招いてくださっているのです。そのために、主イエスは来てくださったのです。

 どうして自分が罪人であるということを知ることが重要であるかと申しますと、このことが分かった時、主イエスが私のために来られ、私のために十字架にお架かりになり、私のために復活されたということが分かるからなのです。大切なのは「私のために」です。「私の罪のために」です。聖書の言葉が、牧師が語る説教が、他ならぬ私のことを言っているということが分かるようになるからです。この時、自分の秤が変わるからなのです。

 さて、今朝与えられておりますもう一つのたとえ、「ともし火」のたとえですが、ここで語られている「ともし火」とは何を指しているのでしょうか。すぐに思わされることは、主イエス・キリスト御自身を指しているということでしょう。確かに主イエスは、御自分を殺そうとする人たちがいても逃げも隠れもせずに、十字架に架けられて殺されるということに至りました。その結果、主イエス・キリストというお方は、当時のローマ帝国から見れば、東の辺境の地ユダヤの、更に田舎のガリラヤから出て、今では全世界において何十億という人々が主の日のたびごとに礼拝をささげるまでになっています。22節「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と言われている通りです。主イエスはまことの世の光として、すべての人に生きる力と勇気を与えています。どのように生きればよいのかという、人生の灯台のように光を放ち続けておられるのです。

 そしてこの光は、私たちに与えられたイエス・キリストに対する信仰と愛をも表しているのです。この福音が記されました頃、キリスト教会は、社会における少数者であったと思います。自分はイエス・キリストを信じています。そのように明言できないような雰囲気があったのではないかと思います。それは私たちもよく分かるでしょう。この柏の地で、キリスト者ですと人前で言うことは何となく気が引けるという思いが、私たちもどこかであるのではないかと思います。しかし、主イエスは「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と言われるのです。わたしの与える信仰と愛は隠そうとしても隠せるものではないということでしょう。もっと言えば、主イエスはここで、「わたしが与えたともし火は、消そうにも消えない、圧倒的な力と輝きを持って、私たちをそして全世界を照らし続けるものなのだ。」そう告げられたということなのではないでしょうか。

 私たちは、自分に与えられている信仰と愛とを、あまりに小さなものとして考えているのではないでしょうか。私たちの信仰は、天と地を造られたただ独りの神様が私たちに与えてくださったものであり、それは私たち自身をそしてこの世界を造り変えていく大きなものなのです。現代人は、信仰というものを自分の心の中のことだと思っているところがあります。しかし、それは正しくないのです。主イエス・キリストが与えてくださった信仰そして愛は、到底私たちの心の中に収まってしまうような小さなものではないのです。私たちに注がれた主イエスへの信仰も愛も、それは私たちから外に向かって、この世に向かって溢れ出していくものなのです。いよいよ、主の救いの御業にお仕えする者として、私たち一人一人が用いられていくことを願い求めたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。あなたは御子を、この世界に、私たちの心に、光として遣わして下さいました。この光は、人の思いを超えて、この世界に広く、深く照り渡っていきます。どうかその大いなる御業に仕える者として、一人一人を用いていてください。あなたの御心がこの地においても実現されますように。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名において、お捧げいたします。アーメン。

夜の旅路-キリストを求めて

マタイによる福音書2章1~12節  2024年1月7日(日)主日礼拝説教 

                            牧師 藤田浩喜

マタイによる福音書のクリスマス物語には、救い主の誕生を祝うために、はるばる東方から旅をしてきた占星術の学者たちのことが語られています。はるか東方からラクダにまたがって来るのですから、2週間ほどかかるでしょう。そのため世々の教会は1月6日をエピファニー(公現祭)と定め、異邦人である学者たちに救い主が初めて顕現されたことを、記念するようになったのです。

その意味では、公現祭までがクリスマスと言うこともできるでしょう。

 ところで、ここでいう「東方」というのがどこのことなのかは、はっきりしません。パレスチナから見て東の方向ですから、ペルシアだという人もおれば、アラビアだという人もあり、またインドのことだという人もあります。

 いずれにしても、この話を語ったり聞いたりしてきた人々にとって、「東方の学者たち」という表現は、なにかエキゾチックで夢物語のような印象を与えたことでしょう。それだけに、後世になればなるほど、この学者たちについては、さまざまな解釈がなされ、またいろいろな伝説が生み出されていきました。

 長い間、代々のキリスト者たちは、「救い主に出会う」というただそれだけの目的をもってはるばると旅路を歩みつづけるこの「東方の学者たち」に、それぞれの信仰的な関心を寄せてきました。そして彼らの姿に自分自身の思いを重ね合わせてきたのです。

 さて、この物語を読んでいくと、学者たちは救い主への「贈り物」として「黄金、乳香、没薬」を携えてきたと伝えられています。これらはいずれもその時代にあっては高価な品物で、薬品や化粧品、また薬味としても用いられたといいます。

 ところが、この学者たちにとっては、いささか困ったことがありました。それは贈り物を携えてきたにもかかわらず、実は自分たちが「いったいどこの誰にこの贈り物を献げるのか」ということが、最後の最後まではっきりと分からなかったということです。

 彼らは自分たちがどこに行くのかということすら知りませんでした。これは不思議なことであり、不自然なことです。

 誰であれ、贈り物をしようというときに、いったいそれを誰に「贈る」のかも分からないなどということがあるでしょうか。人に出会うために旅に出た人間が、自分の目指している相手の人がどこの誰なのかも分からないなどということがあるのでしょうか。この学者たちの旅はあまりにも頼りない旅だったと言わねばなりません。

 けれども、実際に聖書の中から読み取ることのできる、「東方の学者たち」とは、誰に出会うのかも分からぬまま、その人のために贈り物を携えて、見通しのない旅路を行く人々。そういう人々だったのです。

さて、そうはいうものの、実は目的の定かならぬ旅路を歩むという点に関して言えば、この「東方の学者たち」の姿も、私たちひとりひとりの人生も、一脈相通じるところがあるように思います。

 人生を「旅」にたとえることは、キリスト教のみならずさまざまな宗教や哲学、また文学などの世界でも行われてきました。

「旅」というものは、ふつう目的地や旅程が決まっているものです。目的も、見通しも、計画もはっきりしないまま、歩き出さなければならないような旅は、私たちを困惑させます。けれども、実に困ったことに、実際の「人生の旅」とは、そういうたぐいの旅にほかならないのです。

 私たちは目的や見通しや計画を立てた上で、この世に生まれてきたわけではありません。「気がついてみたら生まれていた」というのが実態です。「気がついてみたら旅に出ていた」のです。恐ろしいことに、「人生の旅」はその日程ひとつを考えても、私たちの思い通りにはいかないしろものです。50年後に終わる旅なのか、それとも5日後に終わる旅なのか、それすら私たちは知りません。それはまさに、思いもよらぬうちに始まってしまった旅であり、思いがけない時に終わる旅です。「今夜、お前の命は取り上げられる」(ルカ福音書12章20節)という神の言葉が、いつ私たちに告げられるのか、だれひとり知らないのです。

 仏教のほうでしたか、「人生は無明長夜(むみょうじょうや)」という言葉があります。人生というものは、灯りのない長い長い闇夜の中を生きるようなものだという意味でしょうか。実際、本当の闇の中では、私たちの目はなんの役にもたちません。また、私たちの手足も感覚も、ほとんど役にたちません。闇の中で歩いていても、それが果たして前に進んでいるのか、道から外れているのか、それともただ堂々めぐりをしているだけなのか。私たちには分かりません。もしかしたら、私たちの人生というものは、多くの時間、そんな堂々めぐりをしながら、悩んだり、苦しんだり、悲しんだり、そして時には喜んだりして、過ぎていくというだけのことなのかもしれないのです。

 さて、マタイ福音書の東方の学者たちの物語には、ひとつの「星」が登場します。目的地も、旅程も、日程も、贈り物を贈る相手すらも分からない、この頼りない旅路を行く博士たちを、この星が導いたというのです。

 「星」が導くというからには、おそらく、この人たちは夜しか旅ができなかったのではないでしょうか。暗く見通しのきかない中を、足下も不安なまま、おぼつかない足取りで一歩一歩進んでいくのが、彼らの「夜の旅路」です。

 「人生の旅」を歩くために、私たちは闇の中で目を凝らし、知恵と力を振りしぼって先々を見通しながら、この世の荒波を泳ぎわたっていこうと努めます。「人生の旅」を進んでいくとき、私たちはただひたすらに前を見つめ、がむしやらに闇の中に進むべき道を探そうとします。

 けれども、このクリスマス物語の中で聖書が語っていることは、ただひたすらに前を見るということではなく、まず「星を見る」、「天を仰ぐ」ということです。「前を見つめて歩く」のではなく、むしろ「上を向いて歩こう」と、聖書は教えているのです。

 私たちにとって「天を仰ぐ」、「上を向く」という姿勢は、ある意味で、絶望的な姿を表しているといえるかもしれません。自分自身の知恵や才覚に行きづまった時、私たちは嘆息しながら「天を仰ぐ」ことがあります。

 しかしまた、そうしたとき、そうすることによって、今までとはまったく違った情景が見えてくることも事実です。

 天にある「星」は、人間の小さな努力や、自己満足や、欲求不満などにかかわりなく、いつもまたたいています。私たちが生まれる前から、そして死んだ後にも、そこにまたたきつづけているのです。

 詩編の中でひとりの詩人は、天を見ながらこう歌いました。

  「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。

  月も、星も、あなたが配置なさったもの。

   そのあなたが、御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。

   人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。」

(詩編8編4~5節)

 変わることなく大きく開かれた天、そこに散りばめられた星々に、昔の人々は神のみわざを見たのです。「天を仰ぐ」ことによって、この詩人は世界とその中に生きとし生けるすべてのものを支えたもう神の大いなる恵みを見たのです。

 人間の手のわざではなく、神のわざに目をそそぐこと。それが「天を仰ぐ」ということであり、「星に導かれる」ということです。「天を仰ぐ」ことは、自分自身と人間に対して絶望しても、神に対して絶望しないことを告白する信仰者の姿であるとさえ言えるかもしれません。それは、私の人生が、恵みとあわれみに富みたもう神の手の中にあることを信じ、感謝する信仰者の姿なのです。

 さて、先ほども触れましたが、星に導かれて歩んだ東方の学者たちは「黄金、乳香、没薬」という贈り物を携えていたといいます。

 この贈り物については、その当時の価値あるものを献げて、救い主の誕生をお祝いしようとしたのだという解釈がふつうです。しかしある説によると、これらのものは実はこの学者たちの商売道具だったとも言います。よく知られているように、古代の世界で「占星術の学者」というのは、「天文学者」でもあれば、「占い師」でもあり、また「魔術師」のような存在でもあったようです。  

「黄金、乳香、没薬」というのは、彼らがそうした仕事をする上で用いた道具だったというのです。もしこの解釈が正しいとすれば、彼らは、今までの自分たちの生活のもととなっていたもの、これまでの「人生の旅」を送る上で彼らを支えていたいちばん大事なものを、キリストのもとに差し出すために携えていったことになります。

 それはいったい何を意味するのでしょう。

 それは、彼らがただ単に高価なもの貴重なものを救い主の誕生プレゼントとして贈ったということではなく、彼らのそれまでの「人生」を象徴するもの、彼らのそれまでの生き方そのものを、イエス・キリストの前に献げたということであり、さらにいえば、そうした過去の生き方を清算しようとしたのだということを表しているのではないでしょうか。

 彼らの旅は、「救い主を見物しよう」といった好奇心からの物見遊山の旅ではありません。彼らの旅は歴史的イベントに立ち会い、そのお祝い騒ぎに参加するためのものでもありません。彼らの旅は「これまでの彼らの生き方を終える旅」だったのであり、「これからの新しい生き方を始めるための旅」だったのであります。

 クリスマスに立ち会うということは、私たちがこれまでの自分自身の生き方を清算すること、新たな生き方へ踏み出すことにつながっています。

 冬は空気が澄んで夜空がきれいです。私たちも「天」を仰ぎ、「星」を見つめながら、それに導かれて夜の旅路を進んでいく学者たちの姿を思い浮かべてみようではありませんか。そして、闇の中に浮かび上がるそのシルエットを想像しながら、私たちもまた主イエス・キリストにあって、これまでの人生を顧みつつ、またこれからの人生の歩みに目を凝らしつつ、冬の夜のひとときを送りたいと思うのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。2024年最初の主日礼拝を敬愛する兄弟姉妹と共に守ることができましたことを感謝いたします。この新しい一年も私たちの教会と一人一人の歩みを導いていてください。見通すことのできない地上の歩みに目を奪われがちな私たちですが、天におられるあなたにこそ目を注ぐ者としてください。心を高くし、あなたの語ってくださる御言葉にこそ耳を澄ますことができますように。一人一人を強めていてください。国内では能登半島を中心に大きな地震が起こり、多くの被災者の方々が避難生活を続けています。また海外ではウクライナやパレスチナのガザで戦争が続き、多くの人々が苦しみと悲しみの中にあります。神さまどうか、苦しみや嘆き、困難の中にある人たちを、励まし支えてください。このような状況を一日も早く過ぎ去らせてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

次週の礼拝  1月14日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書15章21-28節

説  教   「カナンの女」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分     司式 髙谷史朗長老 

聖  書

 (旧約) エゼキエル書33章10-11節    

 (新約) マルコによる福音書4章21-25節 

説  教   「神の豊かさに生きる」  藤田浩喜牧師