2023年5月21日(日)主日礼拝説教 ルツ記1章1~19節
牧師 藤田浩喜
今日本では、難民申請3回目以降は強制送還できるようにする入管難民法政府案が国会で審議されています。強制送還によって命の危険すら招くということで、反対する運動も続けられています。かつて難民申請が認められず強制送還され、国連独自の難民認定(マンデート難民)によってニュージーランドで暮らせるようになった、トルコ出身のクルド人男性カザンキランさんは、東京新聞の取材を受け、今回の難民法改正について次のように語っておられます。「政治や経済の面で重要な日本に似合わない法律、信じられないし、とても悲しい」。「日本で生まれら子どもは日本のことしか知らない。特別に保護してほしい。」「難民の保護は、難民自身の問題ではない。人権、民主主義、人類の問題。」私たちの国がどのような国に変貌しようとしているのか。それは一見私たちの生活から遠いと考えられている問題と地続きです。密接に関わっています。私たちも深い関心をもって見守っていく必要があるのではないでしょうか。
今日読んでいただいたルツ記1章1~19節に登場するエリメレクとその妻ナオミも、難民でした。時は王が登場する前の士師記の時代です。この時代、イスラエル国内では血みどろの部族間の争いがあり、対外的にはカナン、ペリシテ、その他の外敵との戦いが絶えませんでした。人々は敵の侵入に怯えながら日々を過ごさなくてはなりませんでした。
それだけではありません。1節には「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲った…」とあります。害虫や日照りによる飢饉は、古代社会から現代に至るまで人間を生存の危機に追い込みます。食べ物がないということは、死に直結します。そのため、ベツレヘムに住んでいたエリメレクとその妻ナオミは、マフロンとキルヨンの二人の息子を連れてモアブの地に移り住んだのでした。
なぜ、モアブの地であったかは分かりません。理由は述べられていません。この地の気候は多様性があったようなので、日照りによる飢饉を逃れられる場所もあったのかもしれません。しかし、モアブとイスラエルは必ずしも友好国というわけではありませんでした。旧約聖書には、何度も戦いを交えたことが記されています。エリメレクが逃れた時は、戦争状態では勿論なかったでしょうが、見ず知らずの異国に難を逃れて、そこで生活の基盤を築くことは、どんなに大変なことであったでしょう。そんな心労がたたったせいか、エリメレクは妻と二人の息子を残して死んでしまうのです。
さて、それからがもっと大変でした。まだ小さな二人の息子のいるナオミが、モアブという異国の地で生き抜かなくてはなりませんでした。社会福祉制度もなく、女性が仕事をするような社会的環境も全く整ってはいません。しかもそこは、故郷から遠く離れた異国の地でした。そこで女親一人で二人の息子を育てなくてはならない労苦がどれほど大きなものであったかは、想像することもできません。
私の母も、町工場で働きながら10年間心臓病の父を看病し、父は私が中学2年の時に他界しました。父の看病をしている時も、父が他界してからも大変な苦労の連続であったと思いますが、父は入り婿でしたので、母は自分の故郷で生活することができました。実家はすぐ前にあり、親戚縁者のいるところで、生活することができました。もし都会の見知らぬところで生活しなければならなかったならば、その労苦は計り知れないものであったでしょう。そのようなことを考えると、異境の地で子育てをしなければならなかったナオミの味わった苦労を思わないではおれないのです。
しかし、ナオミは今日の箇所からも伺えるように、本当に気丈な女性であったようです。彼女はモアブの地で、女手一つで二人の息子を立派に成人させました。そればかりか、二人の息子はそれぞれ、モアブの女性を妻として迎え入れ、家庭を築きました。息子たちの妻の名は、オルパとルツでした。この時ナオミは、どんなに喜び、安堵したことでしょう。長年の苦労がやっと報われたと、肩の荷を降ろしたに違いありません。
しかし、一体ナオミにはどれだけ過酷な出来事が起こるのでしょう。ナオミの希望そのものであった二人の息子、マフロンとキルヨンは、子どもを残さないままに、次々と他界したのです。ナオミは、モアブの地にやって来て、夫だけでなく、二人の息子も失ってしまいました。ナオミのもとには、息子の二人の嫁、オルパとルツだけが残りました。不条理としか思えないような悲劇が、彼女を襲ったのです。
彼女は、目の前が真っ暗になったに違いありません。しかし、彼女は生きていかなければなりません。生きる手だてを考えなくてはなりません。その時のことです。「主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを彼女はモアブの野で聞いた」(6節)。それは、イスラエルの飢饉が終わりを告げたということでした。それを聞いたナオミは、故郷のベツレヘムに帰ることにしたのでした。
故郷に帰るにつき、ナオミにはしなくてはならないことがありました。それは8節以下に記されているように、息子たちの二人の妻、オルパとルツを、モアブにある彼女たちの故郷へ帰らせることだったのです。8節以下をご覧ください。「ナオミは二人の嫁に言った。『自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように』」。
ナオミが二人の嫁たちと暮らしたのが、4節にあるように「十年ほど」であるなら、当時の結婚年齢を考えると、オルパとルツは、20代半ばであったのではないかと思います。ナオミは、嫁たちが「自分の里」(=母の家)に戻り、新しい嫁ぎ先を与えられることが、彼女たちに最もよいことだと考えていました。女性が一人で生きることが困難な時代です。ナオミのみならず、殆どの人たちがそう考えたことでしょう。
しかし、オルパとルツは、声をあげて泣き、「いいえ、御一緒にあなた民のもとへ帰ります」(10節)と言ったのでした。不幸続きの姑を一人にするのが、忍びなかったのでしょう。
そこで、ナオミは心を鬼にして、彼女たちが姑である自分についてきても、何の望みもないことを重ねて言い渡したのでした。ナオミは、自分にはあなたたちの夫になるような息子を産むことはできない。年とった自分が、今仮に誰かと再婚して子どもを身ごもったとしても、その子が成人するまであなたたちは待たなくてはならない。そんなことがあってよいはずはない。ナオミはそのように二人の嫁を諭し、自分の里に帰って再婚するよう強く進めたのでした。
このナオミの説得に、オルパはその思いを受け止めて、ナオミに別れを告げて、彼女のもとを去っていきました。オルパは姑の言う通りにすることが、ナオミの気持ちを大切にすることだと考えたのでしょう。
しかしルツは、ナオミの重ねての説得にも関わらず、ナオミのもとから離れようとはしなかったのです。ルツは次のように言ったのです。16~17節です。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」ルツは、「ナオミの行く所に自分も行きます。ナオミの属するイスラエルの民が自分の民です。ナオミの信じる神さまを自分も信じます。モアブではなくナオミの故郷であるイスラエルで生涯を終えます」、とまで言いました。ルツの言った言葉は、確かに美しくはありますが、尋常な言葉ではありませんでした。そしてナオミは、ルツが自分の決意を変えそうもないのを悟って、「ルツを説き伏せることをやめた」(18節)のでした。
ここまで申し上げたのが、今日のルツ記1章1~19節の概略です。皆さんは、今日の箇所を読まれてどのような感想を持たれたでしょう。
今日の箇所はドラマチックな箇所です。ルツのどこまでもナオミを離れないという決意の強さにも、心を動かされます。しかし、今日の箇所を、度重なる不幸に見舞われた姑に、どこまでも献身的に仕えようとした嫁のお話というふうに、読んでよいのでしょうか? キリスト教の歴史の中では、そのような道徳的なお話として読まれてきたことも事実です。
しかし、今日の箇所をよく見てみると、敬うべき姑の言うことに涙を流しつつ聞き入れたのは、ルツではなくオルパの方でした。オルパは、姑の言葉に従うことが、彼女の気持ちを大切にすることだと悟って、泣く泣くナオミと別れの口づけを交わしたのです。その意味では、ルツの献身ぶりだけに光を当てるのは、正しいことではないでしょう。
実際、あるアメリカの女性の聖書学者は、ルツにはひょっとすると、モアブの自分の里の家に帰れない事情があったのかも知れないと、推測しています。たとえば、モアブの女性である彼女が、異国のイスラエルの男性と結婚する時、家族から反対され、勘当されたということもあるかも知れないと言っています。そうであれば、ルツにはもはや故郷に自分の帰る場所はないのです。
また、その聖書学者は、ルツをベツレヘムに連れていくことは、ナオミにとっても重荷となることだったのではないかと、推測しています。ナオミは後の箇所でも述べているように、何もかも失った「うつろ」で惨めな状態で、故郷に帰ろうとしています。その彼女が、かつては敵対関係にあったモアブの女性を息子の嫁にしたことは、どちらかというと隠しておきたいことだったのではないでしょうか。それゆえ、ルツを連れていくことは、ナオミにとっても気の重いことではなかったかというのです。以上述べたことは、聖書学者のうがった見方かも知れません。しかし、ルツという女性をあまりに理想化しすぎないためにも、心に留めたい指摘だと思うのです。
それでは、今日の聖書は私たちに、どんなことを語りかけているのでしょう。私は今日の箇所を読むとき、ナオミのあまりに淡々とした、冷静すぎる言葉が気になるのです。
ナオミという女性は、モアブの地に身を寄せて以来、考えられないような不幸に見舞われました。飢饉を逃れるためやって来たモアブでは、頼りにしていた夫をなくしました。女手一つで、異国の地で二人の息子を育て上げたと思ったのも束の間、彼女の希望そのものであった二人の息子は他界し、子孫を残すこともありませんでした。彼女はまさに、何もかも失って、「うつろ」な状態になってしまったのです。
そしてそのことをナオミは、神さまからの裁きだと考えています。13節で彼女は、二人の嫁に里に帰るよう説得したとき、こう言いました。「あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから」。また、後の20節では、「全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」と嘆いています。ナオミはこのような打ち続く不幸は神さまの下したものであり、それはどうすることもできないことだと、諦め切っているのです。彼女にとって、神さまは不幸をお与えになる方であり、そんな神さまに何一つ希望を見いだせなくなってしまったのです。彼女の淡々とした、冷静な言葉を聞くときに、もはや神さまに何の希望も抱こうとしない心、堅く閉ざされた無感覚ともいえる心の状態を見るのです。
しかし、神さまはナオミをそのような堅く閉ざされた心の状態のままに、しておかれませんでした。ルツという嫁の尋常とは思えない言葉と行いを通して、彼女の堅く閉ざされた心を、少しずつこじ開けられ始めようとされているのです。ルツには、どのような事情や思いがあったかは分かりません。しかしいずれにせよ、このルツという一人の異邦の女性を通して、神さまはナオミのこれからの人生に、深く関わることを決めておられるのです。
苦難の最中にある人間は、周りの世界が見えなくなり、自分の思いの中に閉じこもってしまいます。ナオミの諦めに満ちた言葉は、苦難の中に陥った人間の心を露わにしています。しかし、ナオミが孤独と虚ろさをかみしめている時に、すでに神さまがそれに先だって彼女を顧みていることを、今日の箇所は告げます。ナオミはやがて、尋常とも言える仕方で一緒についてきたルツが、彼女のこれからの人生に大きな影響を与えるようになることを、知らされていくのであります。そしてそれは、私たち一人一人にも同じように関わられる神さまの物語なのです。
お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。この主日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができ、心から感謝いたします。私たちは人生の様々な出来事のゆえに、「うつろ」になってしまい、あなたに心を閉ざしてしまうことがあります。望みを失いそうになります。しかし、そのような私たちにあなたは関わって下さり、あなたの大いなるご計画の中に導き入れてくださいます。どうか、そのような御手の働きに心を開くことができるよう、私たちを支えていてください。この拙きひと言のお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。