日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 出エジプト記12章29-42節
説 教 「最後の災いと出発」 高橋加代子
主日礼拝
午前10時30分 司式 三宅恵子長老
聖 書
(旧約) イザヤ書42章1-4節
(新約) マルコによる福音書1章40-45節
説 教 「主イエスは深く憐れまれて」藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 出エジプト記12章29-42節
説 教 「最後の災いと出発」 高橋加代子
午前10時30分 司式 三宅恵子長老
聖 書
(旧約) イザヤ書42章1-4節
(新約) マルコによる福音書1章40-45節
説 教 「主イエスは深く憐れまれて」藤田浩喜牧師
ルツ記3章1~18節 2023年7月16日 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
◎ルツ記を月に一度学んでいますが、今日はその3回目です。ルツはボアズという人の畑にたまたま行き、そこでルツのことを伝え聞いていたボアズから、様々な親切を受けました。たくさんの落ち穂を拾わせてもらい、食べきれないほどの炒り麦を昼食としてもらいました。しかも、それだけではありません。これから大麦や小麦の収穫が終わるまで、他の畑には行かないで、ボアズの畑で落ち穂を拾うことができるよう、便宜を図ってくれたのです。
◎夕暮れになり、ルツはナオミのもとに帰ります。ルツの手には、1エファ(36ℓ)ほどの大麦と、ルツが昼食時に食べきれなかった炒り麦が携えられていました。ナオミはそれを見て、目を見張ります。驚いたナオミはルツに、次のように言ったのでした。「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか。あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように」(19節)。ルツに親切を示してくれた人のおかげで、このように多くのものを持ち帰れたことが、ナオミには分かったのです。
それを聞いてルツは、今日行った畑の主が、ボアズという名前の人だったことを報告します。するとナオミは、その名を聞いて思い出したに違いありません。彼女は、もう一度祝福の言葉を述べながら、次のように言ったのです。「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある一人です」(20節)。ナオミはこの有力な親戚の名前を聞き、たまたまルツが落ち穂拾いに行った先がその人の畑だったことを聞き、不思議な思いに捉えられたに違いありません。何か新しいことが、自分と異邦人の嫁ルツに起こりつつあるのではないかと、感じたのではないでしょうか。それまでの無気力で、生きることすら苦痛であったナオミに、小さな明るい兆しが生まれつつありました。そして彼女は、ルツに向かって、ボアズの示してくれた親切に甘えて、収穫の季節が終わるまで、これからも彼の畑で落ち穂拾いをするように、ルツを励ましたのでありました。
◎大麦と小麦の収穫は、約2ヶ月であったと言われます。ルツは、来る日も来る日も、ボアズの所有する畑に行って、雇われた女性たちと一緒に、落ち穂を拾い続けました。その中で毎日ではないにしても、主人のボアズと顔を合わせたり、言葉を交わしながら、昼食を共にしたりしたことでしょう。そうした中で、ボアズとルツの心は、少しずつ通い合っていったのではないでしょうか。ナオミも毎日、ルツの顔色、膚つや、立ち居振る舞い、ボアズの好意の数々をじっと観察しながら、二人の間に芽生えた愛情を感じ取っていたに違いありません。私の経験から申し上げても、こういった男女間の変化には、男性よりも女性の方が敏感であるように思われます。そこでナオミは、新しい事態が開かれるようにと、大変大胆な行動へと、ルツを促したのです。
3章1節の後半です。「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。あなたが一緒に働いてきた女たちの雇い主はわたしたちの親戚です。あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまでは気づかれないようにしなさい。あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。その後すべきことは、あの人が教えてくれるでしょう」(1~4節)。
ナオミは常軌を逸したようなことを、ルツに促しているように見えるかも知れません。しかし、今日の箇所に登場するナオミもルツもボアズも、お互いに対する愛と責任のゆえに、思い切った決断と行動に出ているのです。思い返してみれば、モアブの地で息子たちを失ったとき、姑のナオミが一番案じたのは、嫁たちが幸せになるための落ち着き先でした。それを得させようと、モアブの故郷に帰るように、ナオミは強く促したのでした。ルツはナオミと共にいることを選んで姑に付いてきましたが、「幸せになる落ち着き先」を見つけることは、ナオミが決して忘れることのない宿題であったに違いありません。彼女はルツの毎日の様子を見ながら、思いを寄せ始めているボアズとの結婚の道を開こうと、大胆かつ綿密な行動へと、ルツを向かわせたのです。
勿論、自分たちに責任のある有力な親戚ボアズに、ナオミが直接、ルツとの結婚を願い出てもよかったのではないかと、思われる方がおられるでしょう。そう考えるのも無理はありません。しかし、ナオミが感じているのは、二人の心が通い合っているという気配であり、どこまでも推測の域を出るものではありません。また、ルツを「わたしの娘よ」(10節)と呼んでいるボアズは、ルツとはだいぶ歳が離れていたようであり、ルツの本心が分からない状況では、たとえ姑が結婚を頼んできたとしても、まともに取り合おうとしなかったのではないでしょうか。人間通のナオミは、そうしたことも見通した上で、ルツを大胆な行動へと向かわせたと思うのです。
ナオミの大胆な提案に対して、ルツはどうしたでしょう。5節以下を見ますと、次のようにあるのです。「ルツは、『言われるとおりにいたします』と言い、麦打ち場に下って行き、しゅうとめに命じられたとおりにした。ボアズは食事をし、飲み終わると心地よくなって、山と積まれた麦束の端に身を横たえた。ルツは忍び寄り、彼の衣の裾で身を覆って横になった」(5~7節)。ルツは何の躊躇もなく姑の言う通りにし、ボアズのもとに赴いたのです。
モアブの地では、郷(さと)に帰るよう言われても、決して従わなかったルツが、ここでは何の迷いもないかのように、大胆に行動しているのです。勿論、そこにはボアズに対して、ルツが思いを寄せていたこともあったに違いありません。しかしルツもまた、ボアズが本当のところ自分をどう思っているか、確信を持てたわけではないでしょう。しかし、ルツにはナオミのために、しなければならないことがありました。それはナオミのために安定した生活を保障してあげること。そればかりでなく、すべてのものを失い、からっぽになって故郷に帰ってきたナオミのために、エリメレクの家を再興し、子孫を残すことでありました。ナオミに対するそのような愛と責任の故に、ルツも大胆な行動に出ることを辞さなかったのです。
そのようなルツの思いは、ルツがいることにボアズが気づいたときに、彼女が語った言葉にもよく表れています。ルツはボアズに、次のように言うのです。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」(9節)。ルツは、ボアズがエリメレクの家を再興する責任を負っている親戚であり、その力を持つ人であることが分かっていました。そのような責任を負う立場にある親戚を、ヘブル語では「ゴーエール」と言いますが、ボアズはその有力な一人でした。ルツは自分の願いからだけでなく、むしろ姑のために、ボアズが自分たちの庇護者になってくれるように、一心に願うのです。
◎そのようなルツの思いと行動を、当のボアズはどう受け留めたでしょう。彼もまた、真正面からルツの思いと決断を受け留めました。彼は次のように言うのです。「わたしの娘よ。どうかあなたの主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたの言うとおりにします」(10~11節)。ボアズもまた、「ゴーエール」の責任のゆえに、そしてルツへの愛の故に、ルツの願いを真正面から受け留めることを約束したのでした。
ここでボアズが「あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった」と言っています。若ければ若いというだけでその後を追っかけるような風潮が、当時はあったようです。先ほど述べましたように、ボアズとルツはだいぶ年齢差があったようですが、ルツはそうした風潮に流されることはありませんでした。
また、「今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています」とは、少しわかりにくいかも知れませんが、今示したルツの真心と、これまでの真心が比べられています。この真心という言葉は原語では「ヘセド」という言葉であり、神さまにはついては「真実」と訳され、人間については「誠実」とか「真心」と訳されます。神さまの「ヘセド」(真実)を知る人間が、それに励まされて他者に示すのが、人間の「ヘセド」つまり「誠実」であり「真心」なのです。ルツはこの「真心」のゆえに、故郷のモアブを捨て、ナオミの故郷であるベツレヘムにやって来ました。そして姑と自分が生きるために、毎日落ち穂拾いに出かけたのです。それが彼女の、今までの「真心」でした。ところが彼女は、姑のためにエリメレクの家を再興し、その子孫を残すために、ボアズの庇護を求め、結婚を申し出ています。その彼女の重い決断を、ボアズは「今あなたが示した真心」だと言っています。そしてその「真心」は、今までの「真心」よりもまさっていると言って、ルツの行動に心から感動しているのです。その真剣な決断に対して、彼もまた、真剣な決断で応えようとしているのです。
◎しかし、ボアズが言っていますように、「ゴーエール」の立場にいるのは、彼だけではありませんでした。ボアズ以上に、エリメレクの家に責任のある人が、エルサレムにはいました。その人が、「自分が責任を果たす」と言うならば、ボアズは引き下がるより他はなく、ルツと結婚することもかないません。そこでボアズは、明日その人と話をつけることを、ルツに約束した上で、「朝まで休みなさい」とルツに言うのでした。
ボアズは、そのような約束をした後、ルツをナオミのもとに帰すこともできました。所期の目的は果たされたからです。それなのになぜ、ルツを長く引き留めたのか。それは想像するほかはありませんが、よく言われるのは、夜中に外を歩き回ることで彼女が危険に晒されることを、ボアズが避けたかったからという説です。この説はもっともであり、ボアズの高潔な性格をよくあらわしています。しかし、ボアズはここでルツを自分の傍らに置いておきたい、せめて同じ場所にいてほしいと願ったのではないでしょうか。なぜなら、翌朝、最も親しい親戚が、どのような決断を下すかは、彼には分からないからです。ひょっとしたら、ボアズがルツとともに二人だけの時間をもてるのは、これが最初で最後かもしれないからです。こうした切ない思いを想像することは、たとえそれが聖書であったとしても、許されるのではないでしょうか。
◎さて、今日の3章1~18節を見てきましたが、そこにはお互いの愛と責任のゆえに、大きな決断をした3人の姿が語られていました。それは「ゴーエール」という当時の制度をめぐるものでしたが、ナオミもルツもボアズも、相手の人生において失われたものを、その人のために取り戻そう、買い戻そうとして、大きな決断をしました。その意味で「ゴーエール」という制度が、一族の中で子孫や土地を失った者を、その人に代わって親族が贖い、買い戻す制度であったことは、大変示唆的であったと思うのです。
私たち人間は、ナオミがそうであったように、人生において色々な掛けがいのないものを失ってしまいます。すっかり虚ろになり、生きる気力さえ失ってしまうことがあります。しかし、神さまはそのような虚ろなままで、人間を放置されることはありません。神さまはご自身が私たちの「ゴーエール」として、私たちの喪失したものを贖い、買い戻し、取り戻してくださいます。神さまは、ご自身の「ヘセド」(真実)のゆえに、贖い、買い戻し、取り戻してくださいます。それが最も端的に現れたのが、旧約における出エジプトであり、新約におけるイエス・キリストの十字架と復活だったのです。人間が罪によって喪失した最大のものを、神は取り戻してくださったのです。
そして、神の「ゴーエール」をイスラエルにおいて人間の間で映し出すものが、「ゴーエール」という制度への誠実であったのです。人間が神の真実に励まされ、他者のために真心をもって、保護と援助の手を差し伸べようとする。そのために愛と責任に基づく決断と行動をする。そのことは他でもありません。主なる神さまの救いと保護を、力強く証しものでもあるのです。それは、ルツの時代だけでなく私たちの時代においても、神さまが願われていることなのです。今日の箇所はそのことを、私たちに教えているのです。お祈りをいたしましょう。
【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。神様あなたは、信じる者たちのために「真実」を示してくださいます。その真実のゆえに、私たちが罪のゆえに喪ったものを、御子イエス・キリストによって贖い出してくださいました。どうか、そのようなあなたの真実に励まされて、私たちもそれぞれの場で誠実に、愛と責任をもって生きていくことができますよう、強めていてください。暑さの大変厳しい日が続いています。どうか教会につながる兄弟姉妹の健康を支え、日々の歩みを導いていてください。この拙きひと言のお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 出エジプト記12章1-13節
説 教 「過越の食事」 藤田百合子
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) ルツ記3章1-18節
(新約) マタイによる福音書22章34-40節
説 教 「真実を知るゆえの誠実」藤田浩喜牧師
マルコによる福音書1章29~39節 2023年7月9日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
◎木曜日にテレビを見ていましたら、「亀山リトリート」という看板が目に飛び込んできました。何でも最近は人込みを避けて、自然の豊かな場所でのんびり疲れを癒したり、キャンプをしたりするのが人気で、それがリトリートと呼ばれているとのことでした。その情報の紹介は他の場所についてものでしたので、「亀山リトリート」とはいったいどこだろうと気になりました。わたしは三重県の亀山市の生まれなので「もしや」と思ってググってみると、なんとそれは千葉県の君津市にあることが分かりました。「三重県の亀山じゃないんだ。でも千葉県の君津なら行ける!」近いうちにぜひ行ってみたいと思っています。
◎さて、今日読んでいただいた箇所の最後の方、35節を見ますと、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」と記されています。主イエスは日頃から毎朝、父なる神様に祈っておられたに違いありません。それは敬虔なユダヤ人の習慣でもありました。しかし、聖書を読むと、主イエスは時々人里離れた寂しい所へ行き、独り祈られることがありました。誰にも妨げられず、父なる神様と祈りの交わりを持たれたのです。
世々のキリスト教会は、この主イエスに倣って、日常生活の慌ただしさを避けて、自然の豊かな場所に行ってお祈りをしたり、黙想をして自分を見つめたりする時を大切にしてきました。それをキリスト教会も「リトリート」(退修・しりぞいておさめる)として大事にしてきたのです。今はなかなかできませんが、教会に集う人たちが自然の豊かな宿泊施設などに出かけて修養会を持つということがよく行われました。これもリトリートの一つであったのだと思います。
では、主イエスはなぜ、人里離れた所へ行って、静かに祈られたのでしょうか。ある聖書の注釈書は、「主イエスがそのような時と場所を要求する人間性をもっておられたからだ」と書いています。別の注釈者は、人里離れた所で祈られる「主イエスは完全な人間性を表わしている」と書いています。主イエスは私たちと同じ「真の人」として、リトリートの時を持たれたのです。いな、リトリートの時を持たずにはおられなかったのです。
思い出してみると、主イエスは宣教や病気の癒しなど、多くの業をなさった後で、寂しい所に退き祈られました。今日の箇所のような時がそれでしょう。33節にあるように、「町中の人が、(主イエスのおられた)家の戸口に集まって」来たので、主は色んな病気にかかっている大勢の人たちを癒され、悪霊を追い出されたりしたのです。また、主イエスは自分と一緒に福音宣教を担う12弟子を選んで派遣する時も祈られました。ゲッセマネの園で十字架の杯を受けるか否か、血の汗を滴らせて悩まれた時も一人祈られました。福音宣教を始められる前、荒れ野でサタン・悪魔の試みに遭われた時も、独りで祈られました。このように主イエスは「真の人」として、延々と続く御業に疲れたとき、大きな誘惑を受けた時、そして重大な決断をなそうとした時、力と導きを求めて神様に祈られたのです。そして、日頃の喧騒を離れて独り父なる神様と向き合うことは、主イエスがそうであるからには、どの人間にとっても必要なことなのです。「真の人」であるイエス・キリストが人生の節目節目でリトリートの時を必要とされたのですから、リトリートを必要としない人間など一人もいないのです。独り神さまの前に静まって、思いを神様に向けて祈り続ける。一生の中で、幾多の山や谷を通って行かなければならない私たちなのですから、日毎の祈りに加えて、独り一途に祈りに集中しなければならない時が私たちにはあるのです。
ヘブライ人への手紙5章7節には、神と私たち人間を和解させる大祭司として仕えられた主イエスのことが記されています。主イエスは神と人間の仲立ちとなるために、「罪を犯されなったが、あらゆる点において、わたしたちと同様の試練に遭われたのです」(ヘブ4:15)。そのことが、5章7節で次のように記されているのです。新約聖書406頁です。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」
「真の人」である主イエスがそうであったように、私たちも肉に生きている人間です。肉である私たちは、弱さと愚かさに苛(さいな)まれています。その現実の姿を嫌というほど見せつけられて、激しい叫びをあげること、涙を流さなくてはならないことが、幾度もあるのではないでしょうか。
主イエスは、地上では「真の人」として生きられました。それは私たち人間がどのようにこの地上の生活を歩んで行くかの模範を示してくださったのです。主イエスは、人間の生活において、活動すること、休息すること、祈ることが、生活の本質的なリズムであることを例示されます。そこから考えると最近人気のリトリートには、祈ることが欠けているのではないでしょうか。そして主イエスは、私たち人間にとって、どのような時に、どのように祈るべきかも例示してくださいます。人には過重なストレスに押しつぶされそうになる時、強烈な誘惑に引きずられそうになる時があります。大きな決断を迫られて、身がすくんでしまいそうになる時があります。それは人生のピンチというべき時です。そうした時にこそ、主イエスがなさったように祈りに集中することが最善の方法なのです。日頃の慌ただしい生活からひと時離れて、父なる神様の御前にひざまずき、祈りの時を持つ。祈りは静かな祈りである必要はありません。激しい叫び声をあげ、涙を流しながらでもよい。思いの丈(たけ)を思いっきりぶつけたらよい。そのような一途で必死な祈りを、神様もまた真剣に真正面から受け留め、お聞き入れくださるのです。真の人である主イエスが、私たちの模範となってくださったのです。
◎さて、主イエスが人里離れた所へ出て行って祈らなくてはならなくなった事の始まりは、主イエスがシモンとアンデレの家で、ペトロの姑の熱病を治したことが始まりでした。このいやしのうわさや前週学んだ悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出したうわさが広まりました。その結果、町中の人が戸口に集まってきました。主イエスは彼らの求めに応じて、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやしたり、また多くの悪霊を追い出したりなさいました(34節)。
主イエスは多くの力ある業をなさって、ひどく疲れておられたに違いありません。その疲れをいやし、父なる神様と聖霊によって新しい力をいただくために、主イエスは人里離れた所へ出て行かれ、祈っておられました。しかし、シモンたち4人の弟子たちは、そんな主イエスの大切な祈りの時を無視するかのように
主を探し出し、「みんなが探しています」と告げたのでした。弟子たちは、主イエスが多くの病人をいやしたり、悪霊を追い出されたりしたのを見て、驚き、興奮していたのではないでしょうか。自分たちが従う決心をした方が、次々に力ある御業をなされるのを見て、弟子である自分たちも何か特別な者になったかのように錯覚してしまったのではないでしょうか。4人の弟子たちは主イエスがなさった力ある業に心奪われてしまい、熱病に浮かされるように舞い上がってしまったのです。そのような弟子たちと対照的なのが、今日のペトロの姑なのです。
ペトロの姑は熱病にかかり、床に就いていました。主イエスは彼女のそばに行き、手を取って起こされます。すると彼女の熱は去り、彼女は一同をもてなした、とあるのです。姑の熱病がどのような症状であったのかは記されていません。しかし「熱を出す」という言葉は、「火」・ファイヤーという言葉から来ています。なので単に熱があるという軽いものではなく、全身が燃えるような高熱に苦しめられていたのかもしれません。「熱中症」という病気があるように、高熱は時として人の命を脅かすことすらあるのです。
また、今日の箇所での「熱病」は、この箇所を解き明かす説教において、体の病以上のこととして読み解かれてきました。ヒエロニムスという古代の教父は、紀元4世紀にエルサレムでなされた説教において、次のように語っています。「ああ、その方がわれわれの家に来て、中に入り、その命令によってわれわれの罪の熱病を癒してくださるように。なぜなら、われわれの誰もが熱病に苦しむからである…。」ヒエロニムスは、ここの熱病を肉体にとどまらない罪の熱病と受け取っているのです。また、J.H.ニューマンという牧師は有名な祈りの中で、次のように祈っています。「おお主よ、一日中われわれを守ってください。…人生の熱病がなくなり、われわれの仕事が終わるまで。」ニューマンも熱病が肉体の病であるだけでなく、われわれ人間を熱にうなされるような状態にしてしまう深刻な人生の事柄として捉えているのです。熱にうなされるような状態に陥って、正常な判断を失ってしまう。その結果、取り返しのつかないような致命的な状況へと自分を追い込んでしまう。そのような数々の熱病が、私たちの人生を取り囲んでいるのではないでしょうか。
しかし、今日の31節で「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」とあります。このシモンの姑の出来事は、肉体の熱病の癒しにはとどまりません。この癒しは、あらゆる種類の熱病を癒す主イエス・キリストの力と権威を示しているのです。
主によって熱病をいやされたシモンの姑は、その後どうしたでしょう。「彼女は一同をもてなした」とあります。ここで使われている言葉は、原語では「仕える、給仕をする、奉仕をする、世話をする」という意味を持っています。多くの聖書註解者は、食事などの給仕をしたと理解しており、おそらくそうであっただろうと思います。しかし、「彼女は一同をもてなした」というさりげない表現は、主イエスの癒しに対する姑の応答が、己を低くして仕えるという弟子の本来のあり方を示しているように思うのです。主イエス御自身が己を低くして僕のように私たちに仕えてくださいました。その主に倣って自らへりくだり、謙遜に仕えていくことが、主の御後に従うことなのです。あの4人の弟子たちのように、熱病に浮かされたように、舞い上がってしまうことではないのです。
姑は主イエスに癒された感謝の応答として、自分にできることを精いっぱい行いました。心をこめて行いました。新約聖書に記された女性たちの奉仕は、主の十字架を見守ったこと、なきがらに香油を塗りに行ったこと、身の回りの世話をしたことなどです。その場でできることを、たとえささやかであっても献身的に行ったことが、印象的に記されています。そのことを通して聖書は、救われたことに対する精いっぱいの感謝の応答こそが、主イエスに仕える者として主の御後に従うことだということを、私たちに示しているように思うのです。そのことを私たちも、心に刻みたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹を教会に集め、共に礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。神様、主イエスは真の人としてこの地上の歩みを全うされました。主イエスの歩みの中に、私たち人間が追い求めるべき生き方があります。主のなされた祈りの中に、私たちに与えられた祈りの恵みと喜びがあることを、私たちの心に刻ませてください。今重い病床にある姉妹を顧み、永遠の命を賜る希望をもって姉妹を支えていてください。生きる上での様々な悩みと苦しみを抱えている兄弟姉妹を、あなたが支えていてください。この拙きひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 出エジプト記3章1-12節
説 教 「モーセの召命」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約) サムエル記下23章2-5節
(新約) マルコによる福音書1章29-39節
説 教 「祈りにおいてこそ知る喜び」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書1章21~28節 2023年7月2日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
「一行はカファルナウムに着いた」(21節)とあります。主イエスと先週の箇所で弟子になった4人のことでありましょう。カファルナウムは縦長のガリラヤ湖の一番北に面した町で、当時は相当賑わっていたようです。税金を徴収する収税所があり、ローマの士官たちもここに駐在していました。主イエスは故郷ナザレを去って、この町を福音宣教の根拠地とされることになります。
21節に「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた」とあります。会堂・シナゴークは、ユダヤ人の居住するあちらこちらの場所に建てられ、ユダヤ人の教育と安息日に行われる礼拝のために使用されていました。会堂には会堂司がおりまして、会堂の維持管理だけでなく、安息日の礼拝を準備しそれを進行する務めも担っていました。安息日の礼拝は土曜日に行われ、祈りを捧げ、聖書朗読がなされ、礼拝に出席した者が会堂司の促しを受けて、聖書を注釈して会衆に語っていたと言われます。そうした聖書の注釈は、多くの場合、律法の専門家である律法学者が行っていたのでしょう。しかし、この日は主イエスが会堂司に促されて、会衆に聖書の御言葉を解き明かしたのでした。
すると、どうでしょう。「人々はその教えに非常に驚いた」(22節)とあります。この「驚いた」という言葉は、「驚嘆する」、「腰を抜かすほど驚く」という強い意味を持っています。聞いていた聴衆は、度肝を抜かれるような衝撃を受けたのです。どのような教えだったかは書かれていませんが、それは「神の国の福音」、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)を説くものであったでしょう。
しかし会衆が驚嘆したのは、内容よりも主イエスがどう語ったかにありました。
「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(22節)とあります。律法学者と主イエスでは、語る態度やその印象において決定的な違いがあったのです。律法学者は聖書の専門家です。当時の聖書の中心である律法を熟知していたのは勿論ですが、その律法について過去の偉大な学者たちがどのような見解を述べているかも知っていました。「偉大なラビ○○は、この聖書の箇所についてこう述べている…」と、会衆に語りかけました。彼らは過去の偉大な教師たちの言葉を引用して、自分の言葉の権威を示しました。私たち牧師の語る説教も、ある聖書註解者が指摘しているように、本質的には律法学者の言葉とそれほど変わるものではありません。
しかし、主イエスはそうではありませんでした。主イエスは「権威ある者」として教えられました。主御自身を越える権威を必要とされないかのように語られました。まったく独立して語られました。伝承に寄りかからず、専門家たちを引用されませんでした。主イエスは神の声の究極性をもって語られました。人々にとって、そうした人から聞くことは天からの微風(そよかぜ)のようであったのです。
このように主イエスの教えに権威があったのは、なぜでしょう? それは、その教えが神の教えに由来するからでありました。ヨハネによる福音書7章16節で主イエスは、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」と述べておられます。律法学者たちは過去の教師たちの言葉を引用して、自らの言葉の権威を示しました。それに対して、主イエスの言葉は父なる神の教えそのものだったのです。
以前の箇所で学んだように、主イエスが洗礼を受けられた時、主は「…天が裂けて、〝霊〟が鳩のように御自分に降って来るのを、ご覧になりました」(1:10)。「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(1:11)のでした。御子イエス・キリストは、まったく新しい救いの時をもたらされました。かつてイスラエルには、神の霊が生き生きと働いていた救いの時がありました。その救いの時が、長い霊の枯渇期間を経て、ふたたび新しく始まりました。そのような神の霊に満たされた言葉であったがために、主イエスの言葉には権威があったのです。
さて、主イエスが御言葉を教えておられた時のことです。「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ」(23)のです。「汚れた霊」とは、当時の考え方によれば、神から遠ざかり、神に敵対する、目に見えない霊的な存在を意味していたようです。医学や生物学によって原因が究明できない時代のことですから、身体的な病、精神的な病は、このような「汚れた霊」によって引き起こされると考えられたのです。
この汚れた霊に取りつかれた人のことは、会堂に集う人々もよく知っていたに違いありません。会堂に集う信仰仲間の一人として、この人も一緒に礼拝を守っていた。この人の抱える状況が容易ならざることを痛感しながら、この人のために神に祈ることもしていたのではないでしょうか。ここには、神の御前に共に礼拝を捧げる信仰共同体の健やかな姿があるように思います。時として群れの仲間が容易ならざる状況を抱えて苦しむ時があります。その苦しみを、私たちは側(そば)にいてもどうしてやることもできません。自分の無力さを感じます。しかしたとえそうではあっても、私たちは困難の中にある信仰の友と一緒に、神の御前に立ち、イエス・キリストを通して神に礼拝を捧げるのです。この信仰の友の苦しみが少しでも和らげられることを祈りながら、礼拝を守り続けるのです。
この汚れた霊に取りつかれた男の人は、主イエスに向かって叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(24節)。こう叫んだのは、男の人に取りついていた汚れた霊・悪霊でした。悪霊はギリシャ語では複数形が使われており、悪霊たちがどれほど強力にこの人を支配していたかが分かります。そして悪霊たちは、「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と叫んで、主イエスが自分たちと関わるのを拒絶しようとするのです。それは悪霊たちが、主イエスのことを「神の聖者」だと見抜いていたからでした。「神の聖者」とは神御自身を表わしたり、神と特別な関係で結ばれている者であることを表わす言葉です。「神の聖者」である主イエスが、どんなに大きな力を持っているか、自分たちを滅ぼすことすらできることを、悪霊たちは熟知していました。恐れおののいていました。だからこそ、主イエスがこの男の人に干渉するのを何とか阻止しようとしたのです。
しかし、主イエスは悪霊たちがこの人を支配したままでいることを許されません。主イエスは人を神に敵対する者の支配から、神の恵みのご支配へと解放するために来られたからです。主イエスは、「黙れ。この人から出て行け!」とお𠮟りなります。この言葉は私たちに、主イエスがガリラヤ湖で舟に乗っている時、「黙れ。静まれ」と𠮟りつけて突風を静められた出来事(4:35~41)を思い起こさせます。主イエスは激しい突風をも静められる権威をもって、悪霊たちを𠮟りつけ、彼らをその人の外へと追放されたのです。その人を悪霊たちの支配から解放したのです。
この様子を見ていた人々、会堂に集まった人たちは、どんな反応を見せたでしょう。「人々は皆驚いて、論じ合った」(27節)とあります。人々が驚き、論じ合ったことは何か。その論点の中心は次のようなことでした。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(27節)。会堂にいた人々にとって、主イエスの新しい教えは、これまで彼らが経験したことのないものだったのです。
ここで使われている「新しい」という言葉は「カイロス」という言葉で、質的にまったく新しいことを示しています。しかし、これは人々が聖書の解き明かしによって、例えば律法学者から聞いたのとまったく違う内容の言葉を聞いた、というのではありません。そうではなく主イエスが何事かを起こさせる、語られた言葉が現実となる。そのような権威をもって語られたということです。そして、そのような権威ある言葉に触れたとき、会堂にいた人々は驚嘆し、悪霊たちはその人から出て行ったということなのです。言葉を換えて言うなら、主イエスの教えは律法学者たちのように単に聖書の言葉を解釈するだけでなく、ご自分の言葉を実現することのできる新しいものであったのです。
主イエスは、一体どうしてそのような「権威ある新しい教え」をお語りになることができたのでしょう。主イエスがこのような権威を持っておられたのは、先に申し上げたように、主イエスには父なる神によって聖霊が与えられていたからです(1:10)。主イエスは聖霊に満ちておられました。ヨハネの手紙 一 3章8節には、「…悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」と言われています。主イエスは「汚れた霊に取りつかれた人」に聖霊を送り込まれることによって、汚れた霊を追い出されたのであります。
私は今日の説教題を、「驚きを知る知恵」といたしました。会堂に集った会衆は今日の箇所で、権威ある者として語る主イエスの教えに非常に驚きました。そして権威ある者として語られた主イエスの言葉が、汚れた霊をも追い出すのを見聞きして、彼らは驚いたのです。これはまさに、神の国が到来した最初のしるしでありました。
この会堂で起こった驚きが、同じように起こるべき場所が私たちの教会なのです。私たちは主イエスを頭とするこの体なる教会において、主イエスの言葉を権威ある、質的に新しい言葉として聞くことができます。また、人をがんじがらめにし、支配している状態から解き放つ恵みの出来事を引き起こす言葉として、主イエスの言葉を聞くことができるのです。
勿論最初に語りましたように、牧師の語る言葉がそのまま、権威ある言葉、質的に新しい言葉になるというのではありません。牧師はかの律法学者のように、先人が聞き取った聖書の御言葉やそれに応答した信仰告白の言葉を、会衆の皆さんに語ることしかできません。精いっぱい心を込めて語ることしかできません。
しかし、2000年以上前のペンテコステの時から、聖霊の風は常に教会に吹き続けています。風を帆いっぱいに受けて前進する帆船のように、教会は聖霊の風を受けて前進することができます。そして、イエス・キリストを証しするこの聖霊の働きを、教会が開かれた思いで受け取っていくとき、聖書の御言葉は権威ある御言葉、質的に新しい御言葉、私たち信じる者たちを驚かせる御言葉となるのです。これこそが私たちの教会にとって必要な「驚きを知る知恵」なのです。
「これは、いったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ」。そのような驚きと感謝をもって御言葉を聞くことができるよう、心を一つにして礼拝を守り、主の聖餐に与っていきたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを崇め、礼拝することができて感謝です。この教会という群れの中で、祈りと讃美を捧げる礼拝の中で、あなたは説教を通して語られる言葉を、あなたの御言葉として語ってくださいます。どうか聖霊の働きを切に祈りつつ、礼拝を守る群として私たちを育て導いていてください。今、群れの中である病床にある兄弟姉妹、高齢のために困難を覚えている兄弟姉妹、人生の大きな試練に立たされている兄弟姉妹を、支え励ましていてください。このひと言のお祈りを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
7月5日(水)午後2時 司会:山﨑和子長老
『わたしたちの信仰』久野牧著(15聖化)
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 出エジプト記2章1-10節
説 教 「モーセの誕生」 三宅光
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師
聖書朗読
(旧約) 創世記1章1-5節
(新約) マルコによる福音書1章21-28節
説 教 「驚きを知る知恵」 藤田浩喜牧師
2023年6月25日(日)主日礼拝説教 マルコによる福音書1章16~20節
牧師 藤田浩喜
今日出てきたガリラヤ湖はパレスチナ最大の淡水湖で、南北は20キロに及び、東西は最も広いところで12キロもあります。面積は166平方キロで、この湖は魚に富み、風光明媚なところであったようです。ガリラヤ湖で魚を獲る漁師たちが多くいました。しかし冷蔵技術の発達していない時代ですから、鮮魚が流通することは、ほとんどありません。そのため、そこで獲れるたくさんの魚を塩づけにする仕事が、ガリラヤ地方の主要産業であったと言われます。
そのガリラヤ湖のほとりを主イエスが歩いておられた時のことです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と、神の福音を宣べ伝え始められた主イエスは、これから共に伝道の業を担う2組、4人の弟子たちを御許(みもと)に招かれたのであります。
今日の弟子を招かれた記事には、細々(こまごま)したことは述べられていません。召された4人が以前に主イエスと面識があったかどうかとか、召しを受けたとき彼らがどんな気持ちであったとかも、記されていません。そうではなく、ここでは本当に決定的なことだけが、浮き彫りにして示されています。それだけに、弟子として主イエスに召されるとはどういう出来事なのか、何が起こるのかが、ここにははっきりと記されているのです。
「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった」(16節)とあります。主イエスがシモン、後のペテロとその兄弟アンデレに出会われます。その出会いは、主イエスが漁師として働いている二人の姿に目を留められるところから始まります。主イエスの方から出会ってくださるのです。
この時代のユダヤ教において、律法の教師、ラビに弟子入りしたい者は、弟子の方から教師のところにやって来て、その門を叩きました。どの教師の弟子になりたいかは、許可されるかどうかは別にして、弟子の方が決めました。しかし、主イエスの場合は、弟子にしようとする者を主御自身がお決めになって、主の方から呼びかけられるのです。
またこの呼びかけは、二人が湖で網を打っている最中(さなか)になされました。シモンとアンデレにとって、湖で網を打つのは漁師として彼らが、毎日のように行っていたことです。繰り返されていた日常生活の一コマです。それは後に出てくる、舟の中で網の手入れをしていた、ゼベダイの子ヤコブとヨハネも同様です。いつもと変わらない日常の営みがなされていました。しかし、主イエスの招きはまさに、このような日常生活の真っただ中で起こったのです。
イエス・キリストが私たちの主として出会ってくださる、言い換えると私たちが主イエスを信じ、その御後に従う者とされる出来事は、何か特別な場所や機会にしか起きないということではありません。聖なる場所に赴いて、敬虔な行いをしないと起こらないというのではありません。私たちが毎日の生活の中で繰り返している日常、どちらかと言えば疲れを感じたり、意味を見失ってしまいそうになるような日常生活の繰り返しの中で、主イエスは語りかけてくださいます。そして私たちを、主イエスを信じて御後に従う弟子としてくださるのです。
主イエスはシモンとその兄弟アンデレに呼びかけられました。17節です。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」すぐ後で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネにも同じ呼びかけをしたことでしょう。主は何よりもまず、「わたしについて来なさい」「わたしに従って生きて行く者となりなさい」と、招いてくださったのです。
私たち人間は、誰かの声に従って生きていくのではないかと思います。この人の後についていきたい、この人の声に従って生きていけば大丈夫という存在を、探し求めているのではないでしょうか。そのような存在は、なかなか見つからないこともあります。「この声が従うべき声だ」、「あの声が従うべき声だ」と右往左往しているうちに、人生の大半を費やしてしまうことも稀ではありません。
また、誰の声に従って行くかで、私たちの行きつく先は大きく違ってきます。耳ざわりのよい、心地よい声が聞こえてくるかもしれません。いかにも優しく語りかけてくるでしょう。しかしその声の主が邪悪な欲望や自分勝手な目的を隠しているなら、従う者も間違った破滅の道へと連れて行かれてしまうのです。
一方、イエス・キリストが、「わたしについて来なさい」と呼びかけられます。主イエスは、人間を罪とその結果である滅びから救うために、神が遣わされた御方です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。イエス・キリストは、真実なお方です。この主イエスの招きに私たちが生涯をかけて従っていくときに、私たちは何のために生きているか分からないような無気力な生活から抜け出すことができます。そして、目標のはっきりした新しい人生が私たちの前に開けてくるのです。
私はこの主の呼びかけを聞くとき、古代の教会指導者であったポリカルポのことを思い出します。彼はスミルナ(現在のトルコ近く)の司教であり、近隣の諸教会に手紙を書いて、ローマ帝国の迫害下にある信徒たちを励ましました。そのポリカルポがローマ皇帝マルクス・アウレリウスの時、迫害によって捕らえられます。高齢のポリカルポを処刑するに忍びなかった皇帝は、彼に信仰を捨てるように迫ります。しかしポリカルポはこのように答えたのです。「私は86年間、キリストに従ってきましたが、主はただの一度も私にひどいことをしませんでした。どうして私の王であり救い主である方を汚すようなことができましょう。」こう答えて彼は、火あぶりの刑に処せられながらも、神を賛美して殉教していったのです。イエス・キリストに従う道は、平坦な苦労の無い道であるとは限りません。喜びと平安だけでなく、労苦や苦しみを味わうときもあります。しかし、それは私たちの救い主イエス・キリストが共に歩んでくださる道です。感謝をもって思い起こすことのできる道であり、後悔することはないのです。
さて、「わたしについて来なさい」と呼びかけられた主は、彼らに言われます。「人間をとる漁師にしよう。」2組、4人の弟子たちは、主イエスに召されて、「人間をとる漁師」になるのです。ガリラヤ湖で魚を獲っていた4人が、主イエスに従い「人間をとる漁師」になる。ここには、主イエスに従う者となった弟子たちに、大きな生き方の変化が起こることが示されています。
「魚をとる漁師」が「人間をとる漁師」になる。4人が漁師であることは継続しています。しかしその両者には大きな違いがあります。「魚をとる漁師」は魚を捕まえ、殺して食べます。しかし「人間をとる漁師」は、人間に永遠の命に至る食べ物であるイエス御自身を与えて、人間を生かすために獲るのです。また「魚をとる漁師」は、魚を誰かに売り渡すために獲ります。しかし「人間をとる漁師」は、獲った人間を誰かに売り渡すためではなく、死に至る罪から買い戻すために獲るのです。福音を宣べ伝えることによって、世の人々を死ではなく永遠の命へと至らせる。世の人々を罪の支配から神のご支配へと買い戻す。それが「人間をとる漁師」の使命です。主イエスに招かれ弟子となったキリスト者には、この「人間をとる漁師」としての使命が加わるのです。
私たち洗礼を授けられてキリスト者になった者たちのほとんどは、この世で仕事を持ち、社会の中で役割を担っています。主イエスの弟子たちのように、この世の職業を捨てて伝道者になる人は、牧師や伝道師のように一部の者でしかありません。しかし、キリスト者となり主イエスの御後に従う者は、だれ一人例外なく「人間をとる漁師」としての使命をゆだねられているのです。だれもが神の国の福音を宣べ伝える働きに参与しているのです。
そして、「人間をとる漁師」の働き、つまり神の国の福音を宣べ伝える働きは、この世で従事している仕事、この社会で担っている役割を通して、豊かに押し広げられていきます。こうした仕事や役割を持つ人たちがキリスト者であることによって、「キリストの香り」が持ち運ばれていくのです。もし、主の福音宣教が、教会という場所でしか行われないとしたら、福音宣教はどんなに小さく狭い場所での営みに留まってしまうことでしょう。非キリスト教国の日本にあっては、ごく小さな範囲に限られてしまいます。しかし、この世で様々な職業を持ち、社会で多様な働きを担っているキリスト者が、「人間をとる漁師」の働きに参与することによって、その範囲は大きく広げられていくのです。日々働いている職場において、教育現場やそれぞれの家庭において、それぞれが属している地域社会の中で、神の国・神のご支配が広げられていくのです。
そしてこのことは反対に、私たちのこの世の職業、社会での役割を、本当の意味で生きがいあるものにするのではないでしょうか。宗教改革後の近代プロテスタンティズムにおいて、一般の職業を神の召命(ベルーフ)と受け止める考え方が現れてきました。工場主も職人も店の店主も、それを神様が与えてくださった召命と受け取り、その職業を通して神様の栄光を現そうと考えるようになったのです。神様の召命を受けているのですから、勤勉であることや倫理的に正しいことが目標とされたのです。一方、私たちの生きる現代社会においては、そのようには考えません。キリスト者もこの世の職業は職業、信仰は信仰と分けて考えることが当たり前になってはいるように思います。
しかし、そのように職業と信仰を完全に分けてしまうことの結果として、自らの職業に生きがいを見出しにくいというマイナス面も現れているのではないでしょうか。私たち人間は、このことのためにわたしは生まれて来たのだという、一人一人に与えられている使命を見出すことが大切です。それによって、人は意味のある人生を歩むことができるのです。私たちはこの世の職業、社会での役割を担っていますが、それと同時に主イエスから与えられた「人間をとる漁師」の働きをも合わせて担っていく。そのように自分の職業や役割を、福音宣教の光の中で神様から与えられた使命として受け取り直していく。そのときに、私たちの人生はより大きな生きがいを持つものとなっていくのではないでしょうか。
今日の箇所で、シモンとアンデレは、網を捨てて主イエスに従って行きます。網は仕事をする上でなくてならない道具です。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して主に従います。二人は家族や少なくない財産を捨てて主イエスに従ったのです。ここで示されていることを心に留めなくてはなりません。それらの大切なものを捨てるということはどういうことか。それらのものを拠り所としてはならない。ただお一人の救い主イエス・キリストだけにすべてをおゆだねして生きなさい。そのことが召された弟子たちには求められているのです。この一点を外すことはできません。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も礼拝に集められ、あなたを讃美することができましたことを感謝します。神様、あなたはイエス・キリストを通して私たちを弟子として召してくださいました。私たちは主イエスの御後に従う人生を歩んでいます。どうか、一人一人の人生をその御手をもっ、て確かに導いていてください。この拙きひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。
6月21日(水)午後2時 司会:戸村タエ子
『わたしたちの信仰』久野牧著(14信仰義認)
6月25日(日)
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録28章11-16節
説 教 「ついにローマに」 高橋加代子
午前10時30分 司式 山根和子長老
聖書朗読
(旧約) エレミヤ書1章4-8節
(新約) マルコによる福音書1章16-20節
説 教 「従うべき者は誰か」 藤田浩喜牧師
2023年6月18日(日)主日礼拝説教 ルツ記1章19節~2章17節
藤田浩喜牧師
ナオミは、息子の妻ルツを連れて、エルサレムに帰ります。10年以上の歳月が経っていたのでしょう。二人の帰郷に対して、「町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけた」(19節)とあります。10年以上の歳月とモアブの地での多くの苦労が、ナオミの外見の姿を大きく変えたとしても不思議ではありません。女たちは恐る恐る声をかけたのでしょう。
ナオミは女たちに応えて、こう言うのでした。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目にあわせたのです。出て行くときには、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです…」(20~21節)。ナオミは自分の名前が表す意味と、彼女の置かれている状況が真逆であるのを嘆き、自分の今の状況に見合った名前、マラ(苦い)という名で自分を呼んでほしいと言います。名前というのはその人自身を表すものではありますが、彼女は自分を失ったような状況にありました。欠けがいのない夫と二人の息子を異郷の地で失い、彼女は空っぽであり、虚ろでした。彼女は自分が生きている意味や目的を、見出すことができませんでした。そして、彼女をそのような状況に突き落としたのは、全能者である神だと公言してはばからないのです。ナオミは自分自身の人生にも、自分が信じてきたヤハウェなる神にも、絶望してしまったのです。ナオミのような経験は、たとえ信仰者であったとしても、無縁なものではないでしょう。
二人がエルサレムに帰ってきたのは、「大麦の刈り入れの始まるころ」(22節)でした。3月から4月頃でしょう。長い歳月留守をしていたので、家も土地も荒れ果てていたに違いありません。畑があったとしても、使える状態ではなかったでしょう。それでも、二人は生きて行かねばなりません。霞を食って生きていくわけには行きません。そこでルツは、何とか日々生きていくための食べ物を得ようと、落ち穂拾いに行くことを、しゅうとめに申し出るのであります。「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」(2章2節)。貧しい人やみなしご、寡婦がその日を何とか食いつないでいけるようにと、古代イスラエルでは、収穫の時、落ち穂を残しておくことが、レビ記などの律法に定められていました。神から与えられたすべての収穫を自分のものとせず、落ち穂は貧しい人たちのものとするように、定められていました。ルツがしゅうとめのナオミと生きていくためには、落ち穂を拾いに行くしか術がなかったのです。ただ、ミレイの描く絵のように落ち穂拾いが牧歌的なものであったかというと、そうではありませんでした。邪魔にされたり、疎まれたり、心ない言葉を浴びせられたりすることを、覚悟しなければならなかったのです。
ルツが落ち穂拾いに行った畑。それはナオミの夫エリメレクの一族のボアズの畑地であったと、記されています。聖書も記しているように、ルツは「たまたま」(3節)ボアズの畑に行ったのです。2章1節から3節の間に、エリメレクの親族であったこのボアズのことが2度も言及されており、このボアズが第三の登場人物として、大きな役割を果たすことが暗示されています。
しかし、ナオミもこの「有力な親戚」(1節)、イスラエルに多くの畑地を持つ裕福なボアズのことは、忘れていたようです。2章20節で、ルツがその日の出来事をナオミに報告した時に初めて、「その人はわたしたちの縁続きの人です」と思い出しています。こんな裕福な親戚がいるのなら、最初からボアズに頼ればよかったのにと、私たちは思うかも知れません。しかし、人は本当に追いつめられた時、視野が極端にせばまってしまいます。限られたところにしか目が行かず、生きる手だてを見いだせなくなってしまいます。テレビの報道などで、ある老夫婦が食べる物もなく餓死してしまったなどという話を聞くと、「この飽食の日本でなぜ?」、「だれかに助けを求めることもできただろうに」と、不思議に思います。しかし、人が本当にせっぱ詰まってしまうと、他の手だてを考える余裕をなくしてしまいます。どうしようもないと、思い詰めてしまいます。だからこそ、周囲の人たちが困難な状況にあると思われる人たちに、どれだけ関心を向け、思いを届かせているかということが、問われているのだと思います。
さて、畑地の様子を見に来たボアズは、落ち穂を拾っているルツに目を留め、農夫の監督をしている召使いの一人に尋ねます。「あの若い女は誰の娘か」(5節)と。見かけたことのない娘だったので、気になったのかも知れません。召使いは次のように答えます。「あの人は、モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘です。『刈り入れをする…』と願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いておりましたが、今、小屋で一息入れているところです」(6~7節)。監督をしていた召使いは、その娘がモアブの地からナオミと一緒に戻ってきたモアブ人の娘だと、報告しました。召使いは、ルツの働きぶりに感心していることが、伺えます。しかし「モアブの野」、「モアブの娘」と、二度繰り返しています。そのことからも、召使いが好奇の目で、どちらかというと蔑みの視線で、ルツのことを見ていることが分かります。「自分たちの日常生活の中に、異質な存在が紛れ込んでいる、なんでよその国の女が落ち穂拾いなどをしているのか」。そのような思いが、召使いの言葉には滲んでいるように思うのです。
それに対し、ボアズはルツにどう接したでしょう? 8節以下で彼は、ルツにじかに声をかけています。「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。…若い者には邪魔をしないように命じておこう。…」(8~9節)。先ほど述べましたように、イスラエルには貧しい人が落ち穂を拾える制度がありましたが、それは牧歌的なものではありませんでした。からかいの言葉や蔑みの言葉、罵倒の言葉が浴びせられることも少なくありませんでした。しかもルツは、同じ民族に属さないモアブの女です。畑を渡り歩いて落ち穂を拾う彼女が、どんな目に遭わなくてはならないかは、容易に想像ができます。それを知っていたボアズは、自分の所有する畑だけに行って、落ち穂を拾うように助言します。そして、喉が渇いたらいつでも水が飲めるように、若い者にも言っておくからと、彼女のために便宜をはかるのです。
ルツはその言葉に驚きます。落ち穂拾いの現実を覚悟していた彼女は、ボアズのあまりにも厚意的な言葉に、戸惑いすら感じます。彼女は顔を地に伏せながら、「よそ者のわたしにこれほどの目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのはなぜですか」と、問わないわけにはいかなかったのです。
それに対してボアズが言った言葉、それこそが今日のルツ記2章の中心であると、多くの注解者たちは指摘します。11~12節です。「ボアズは答えた。『主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように』」。
ボアズはかねてから、奇特な異邦の女性がいることを、噂で伝え聞いていたのでした。その女性は、夫が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしました。故郷に留まり、父母のもとに帰ることもできたのに、そうはしませんでした。しゅうとめを思いやって、見知らぬ国にまでやってきました。その異邦の女性が、自分の目の前にいることが分かった。だからこそ、そんなあなたに自分はできることをしてあげたいのですと、ボアズは言うのです。彼の心を打ったのは、ルツという女性の真心であったと、思います。悲しみに打ちひしがれ、生きることさえ苦痛になっているしゅうとめのナオミを、一人にしておくわけにはいかない。放ってはおけない。それはルツという人の真心であり、まさにイスラエルの神ヤハウェが、その民に示してくださった真心(ヘセド)に通じるものでありました。だからこそボアズは、モアブの女性であるルツの身の処し方に心を打たれ、自分もその真心に応えたいと、思ったのではないでしょうか。そしてボアズは、ヘセド(真心)そのものである神さまが、目の前にいるルツに豊かに報いてくださり、その御翼のもとに守り、支えてくださるように祈りました。彼女とそのしゅうとめを、ヘセド(真心)そのものである神さまの御手に、委ねているのであります。
このボアズの言葉は、ルツの心にも強く響いたようです。彼女は、こう答えています。13節です。「わたしの主よ…あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」ボアズの言葉がルツの心の琴線に触れ、心からボアズに感謝していることが分かります。彼女は、自分をよそ者という色眼鏡で見ないだけでなく、自分の思いを掬い取り、そこに真心を見てくれたボアズの言葉を聞いて、本当に嬉しかったのだと思います。それだけでなく、ルツの真心をイスラエルの神さまの真心(ヘセド)と響き合うものとして理解し、その神さまの祝福と守りの中に、自分としゅうとめを委ねてくれたボアズの言葉に、ルツは本当に勇気づけられ、励まされたのではないかと思うのです。それはルツの心に触れる言葉だったのです。
ただボアズの場合も、ルツのために大したことをしてやれる訳ではありません。ボアズは、今日のところでルツの落ち穂拾いのために便宜をはかっています。昼食の時には、ルツを呼び、酢に浸したパンと炒り麦をふるまっていますが、彼がしてやれるのは、これ以上のことではありません。落ち穂拾いの時期は長くても、約2ヶ月と言われています。いくら彼の畑で落ち穂を拾わせてやっても、やがてその時期は終わります。ルツとナオミには、その日の食物を確保するための厳しい闘いが待ち受けています。その意味では、少しのことしかできないのです。
それは、私たちもまた同様です。自分の周りにいる人たち、それが親しい友人や教会の仲間であったとしても、ほんの小さなことしかしてやれません。一時しのぎの、その場限りのことしかできません。でも私たちは、私たちの信じる神さまの真心(ヘセド)を知り、御子キリストによって表された神さまの慈しみを知っています。私たちは、この神さまの真心と慈しみに、気がかりな友や仲間を委ねることができます。その人たちのために、祈ることができます。そして、神さまの真心に響き合う、相手を思い遣る言葉を語って、友や仲間を慰めることができます。それはささやかなことではありますが、決して小さなことではないと思うのです。私は今日の箇所から、そのような励ましを受けたように思うのです。神さまの真心を心に深く覚えながら、私たちもその真心に少しでも生きる者として、新しい一週間を過ごしてまいりたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを讃美し、御言葉の示しを受けましたことを感謝いたします。私たちには気にかかる友人や親しい者たちが多くおります。しかし私たちができることは小さなことでしかありません。自分たちの無力を思います。しかし私たちは御子を与えるほどに私たちを愛し、真心を示してくださったあなたの御手に、大切な者たちを委ねて祈ることができます。小さな業や言葉であなたの慈しみを伝えることができます。どうか、あなたを見上げつつあなたの御心を尋ねつつ、新しい一週間を歩ませてください。病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、試練の中にある兄弟姉妹を支えていてください。この拙きひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。