次週の礼拝  8月11日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書  マタイによる福音書6章9-10節

説  教  「主の祈り② 御名、御国、御心」 三宅光

主日礼拝   

午前10時30分   司式 山﨑和子長老

聖     書

  (旧約) コヘレトの言葉3章1-15節    

  (新約) マタイよる福音書20章1-16節 

説  教  「天の国のたとえ」  三宅恵子長老

主イエスを説得する信仰

マルコによる福音書7章24~30節 2024年7月28日(日) 主日礼拝説教

                                     牧師 藤田浩喜

 さて、今朝の説教題は、「主イエスを説得する信仰」としました。主イエスは神様の独り子です。ヨハネによる福音書によれば、天地創造の御業にも参与された子なる神様です。そんな神様が説得されるというのは、何か変ではないか。永遠の昔から完全にすべてを知り、予定しておられる神様が説得され、御心を変えるなどということがあるのか。そう思われる方もおられるかもしれません。しかし、神様の御心というのは、そんな薄っぺらなものではないのです。神様の救いに与った私たちは、神様が永遠の御計画の中で私を救ってくださった、そう信じております。それは、私たちに信仰が与えられ救われたことだけではありません。結婚にしても、子が与えられることにしても、この両親の元に自分が命を与えられたということも、皆、神様の永遠の御計画の中で与えられたものと受け取り、神様に感謝し、神様をほめたたえるのです。

 しかし、その逆に、あの人は救われないことになっているとは誰も言えないし、それは神様だけが知っておられることです。この神様の領域に、私たちは入り込んではならないのです。ですから、私たちは、この人があの人が救われることを願い、神様に祈ります。また、そのためにできるだけのことをいたします。そしてそのことを神様は喜んで受け取ってくださるし、その祈りに応えてくださるのです。それが、「神様が喜んで説得される」ということです。

 今朝与えられております御言葉において、主イエスはガリラヤからティルスの地方に行かれました。このティルスという町は、地中海に面した所にあります。大変古い町で、フェニキア人が建てた町です。このフェニキア人というのは、アルファベットのもとになる文字を使い始めた民族で、貿易を主とした海洋民族です。ティルスも貿易で大変栄えた都市でした。

 そこに主イエスが行かれたというのです。もちろん、弟子たちも一緒だったと思います。そこは異邦人の住む地方ですから、ユダヤ人たちはあまり行きたがらなかったと思います。特に、ファリサイ派の人々は、自ら汚れの中に入っていくようなものですから、行きたがらなかったでしょう。

主イエスがこの地方に来たのには、二つの理由が考えられます。一つは、7章において、エルサレムから来たファリサイ派の人々や律法学者たちと律法を巡って決定的な対立をしてしまいましたので、身を隠すためということが考えられます。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた」と記されておりますことが、それを暗示しているように思われます。もう一つは、6章30節以下の所で、弟子たちと共に休もうとされたのですが、それができないままでしたので、今度こそ、弟子たちも主イエスも休もうとされた、そう考えることもできるかと思います。いずれにせよ、主イエスはここでは人目につきたくなかった。じっとしていたかったのです。

 ところが、汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女性が、主イエスのことを聞きつけ、救いを求めに来たのです。この女性は、シリア・フェニキアの生まれで、ギリシャ人でした。つまり、ユダヤ人から見れば異邦人です。彼女は、主イエスの所に来ると、主イエスの足もとにひれ伏して、自分の娘をいやして欲しい、汚れた霊を娘から追い出して欲しいと願い求めました。この女性は、今までも多くの汚れた霊を追い出してこられた主イエスだから、きっと自分の娘の悪霊も追い出してもらえるに違いない、そう思ったでしょうし、そうして欲しいと心から願い求めました。私たちも、主イエスならきっとそうしてくださるに違いない、そう思うでしょう。

 ところが、この時主イエスは全く意外な言葉を口にされたのです。27節「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」一読しただけでは、ここで主イエスが何をお語りなったのか分かりにくいかもしれませんが、ここで「子供たち」と言われているのはユダヤ人のことであり、「子犬」と言われているのは異邦人のことを指しています。特にこの場合、幼い娘でしたので、子犬と言われたのでしょう。「パン」というのは救いのこと、この場合は、汚れた霊を追い出すといういやしの業を指しています。ここで、ギリシャ人、異邦人を「犬」にたとえるのは何とも酷いではないか、人種差別も甚だしい、主イエスともあろうお方が何と愛のない言い方をされるのか、そう感じる人もいると思います。確かに、ユダヤ人たちは当時、ギリシャ人や異邦人を犬と呼んで蔑視していたのです。主イエスも他のユダヤ人と同じなのか、そう思う人もいるかもしれません。確かに、そのように読むこともできるでしょう。しかし、ここで決定的に重大なことは、主イエスがこの女性の願いを退けているということです。理由ははっきりしています。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」ということです。つまりまず最初に、神の民であるユダヤ人が救われなければならない。今はその時だ。まだ、異邦人が救われる時は来ていない。そう言われたのです。

 まさに、ここで主イエスが言われていることは、神様の救いの御計画です。救われる者の順序です。主イエスは、「まずユダヤ人だ」と言われて、異邦人であるこの女性の願いを退けたのです。確かに、神様の救いに与るには順番があります。主イエスが十字架にお架かりになり復活されて、すぐに主イエスの福音は日本に来たわけではないのです。ザビエルが日本にキリスト教を伝えたのは16世紀のことでした。その後、鎖国があり、キリシタンの弾圧があり、再びキリストの福音が日本に伝えられたのは19世紀でした。そして、千葉の地に福音が伝えられたのは1870年台でした。何と長い時間がかかったことでしょう。この世界の人々が一斉にキリストの福音に聞き、悔い改めて救われるのではないということは、必ずそこに後先ということが起きるということです。そうやって次々に起きることが、神様の救い歴史、救済史です。どうして、何の理由で、このような順番があるのか、私たちには分かりません。それは、どうして私が先に救いに与り、あの人この人がまだ救いに与っていないのか分からないのと同じでしょう。はっきりしていることは、私たちの方が、まだ救いに与っていないあの人この人よりも立派であったとか、宗教的であったとか、信仰的に熱心であったとか、よい人であったというような理由ではないということです。

 教会では、まだ主イエスを信じていない人、救いに与っていない人を、「未信者」と言います。この言い方は、未だ信者になっていないという意味ですから、私たちは知らないけれども、後で信者になるであろう、なるかもしれない、そういうことを暗に示しているわけです。この言い方は、とてもよいと私は思っています。非信者ではないのです。私たちは、たまたま神様の御心の中で、その人たちより先に救いに与っただけなのです。そして、そのような人たちに私たちは囲まれているわけです。家族の中でも、自分だけがキリスト者であるという人も少なくないでしょう。そういう中で、私たちはどうするのか、その人たちをどう理解し、その人たちのために何をするのかということです。

 この女性は、主イエスにこれほどはっきりと「今は駄目。まだ時が来ていない。」そう断られたにもかかわらず、少しもひるむことなく、退くことなく、主イエスにこう迫ったのです。28節「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」何という言葉でしょう。この女性は、「子犬とは失礼な。何という言い方か。こんな人に娘のことを頼むのではなかった。」そんなふうに腹を立てたりしなかったのです。それどころか、「はい、私の娘は子犬です。しかし、子犬でも、子供が落としたパン屑を食べることはできるでしょう。」そう主イエスに迫ったのです。この女性は諦めなかったのです。そして、この女性の有り様を主イエスは喜ばれたのです。断られてもなお、娘のために救いを求めるこの女性の姿を、主イエスは喜んで受け入れられたのです。そして、29節「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言って、この女性の娘をいやされたのです。

 創世記18章16節以下には、アブラハムが、神様が滅ぼそうとされるソドムの町の人々のために、必死に執り成しをしているやりとりが記されています。ソドムの町に50人の正しい人がいれば、その人たちのためにソドムの町を赦してくださいと願い、それが聞かれると、45人、40人、30人、20人、10人とその数を減らしていき、何とかソドムを助けようとしたアブラハムでした。結局この時、ソドムの町には10人の正しい人もいなかったので、ソドムの町は滅ぼされてしまったのですけれど、神様はアブラハムの、ソドムの町のための執り成しを受け入れてくださいました。この時の神様のお姿と、シリア・フェニキアの女性の、我が娘のための怯まぬ執り成しを受け入れられる主イエスのお姿は、全く重なっています。ここには、愛する者のために必死に執り成し救いを求める者を、決して退けようとはしない神様の姿があるのです。

 このことを知った私たちはどうするのか。それはもう言うまでもないほどに、はっきりしているでしょう。アブラハムのように、この女性のように、まだ救いに与っていない人のために執り成すのです。その人の救いを求め、祈り願うのです。この女性のように、断られても断られても、願い求め祈るのです。救ってくださる方は主イエスしかいないのですし、滅びるのを黙って見ているわけにはいかないのです。その人を愛しているからです。神様を説得するほどの思いを持って、祈ればよいのです。主イエス御自身、マタイによる福音書18章19節で「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と約束されています。マタイによる福音書7章7~8節では「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と約束してくださっています。この主イエスの約束を信じて、執り成しの祈りをしていくこと。それが、先に救われた私たちに求められていることであり、神様、イエス様は、それを喜んで受け取ってくださるのです。愛するが故に、私たちの覚えるあの人この人のために、信じて祈ってまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。神様、あなたの御計画を私たちは人間の知恵で測ることはできません。しかしあなたは人格的なお方であり、私たちの祈りの言葉に耳を傾けてくださいます。あの人この人の救いのために必死に祈る私たちの言葉を、あなたは受け入れ願いを叶えてくださる方です。どうか、そのことをいつも忘れずに、執り成しの祈りを捧げさせてください。命の危険を感じるような猛暑日が続きます。どうか、兄弟姉妹の健康をお守りください。今、病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、悲しみや悩みの中にある兄弟姉妹を、お支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン

次週の礼拝   8月4日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書6章9節

説  教   「主の祈り① 呼びかけ」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖     書

  (旧約) 詩編51編12-19節  

  (新約) マルコよる福音書7章31-37節 

説  教   「恵みの御業を歌う舌」  藤田浩喜牧師

誰があなたを汚すのか

マルコによる福音書7章14~23節 2024年7月21日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

 主は言われました。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7:14~15)。

 「外から人の体に入るもの」というのは、食べ物のことです。「外から人の体に入るもの」については、程度の差こそあれ、私たちは皆、様々なことを気にするだろうと思います。賞味期限を気にします。添加物についてとても気にする人もいるでしょう。それらは皆、健康に関することです。

 そのように、健康に関わる様々なことは気にしますが、食べ物を食べる時に、「これによってわたしは汚れるだろうか」と心配する人は、私たちの中には恐らくいないだろうと思います。「食べ物が人を汚す」という概念は、私たちの生活にはないからです。ところが主イエスの時代のユダヤ人、特にファリサイ派のユダヤ人は違うのです。食べ物によって人は汚れると信じている。そして、それは重大なことなのです。

 例えば、食事の前には手を洗います。これは衛生のためではありません。宗教儀式です。洗わない手で食事をしますと、その食事によって汚れるのです。いや、それだけではありません。この章の3節以下にはこんなことが書かれていました。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(3~4節)。市場では宗教的に汚れた人たち、例えば異邦人などに接触したかもしれません。だから身を清めて食事をしないと「汚れる」のです。

 さらに言うならば、何を食べるかも重要なのです。ユダヤの世界では、食べてはいけない「汚れた」食べ物というものがあるのです。その代表は豚です。トンカツを美味しそうに食べるなんて、もっての他。そんなことをしたら汚れてしまいます。今日でも、厳格なユダヤ人は、例えばやたらにその辺でパンを買って食べたりしません。豚の脂肪であるラードが入っている可能性があるからです。これがユダヤ人の戒律の世界です。

 そのような背景を考えますと、今日お読みした主イエスの言葉が、いかに過激な言葉かが分かるのではないでしょうか。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものなんて何もない」。そう主イエスは言い放ったのです。みんな目を丸くして、「信じられない。あなたはとんでもないことを言っています」と言いたくなるような言葉なのです。

 しかし、主イエスがそのような過激なことを言われたのは、その次を語るためなのです。主はこう言われました。「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。さて、主イエスは何を言わんとしておられるのでしょう。弟子たちには、よく分からなかったようです。ですから、群衆が帰った後に、こっそりと主イエスに尋ねました。すると主はこう答えられたのです。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」(18~19節)。

 「外に出される」と訳されていますが、本当は「便所に出される」って書いてあるのです。食べ物は心の中に入るわけじゃない。腹に入って便所に落ちるのだ。――本当に汚れるか汚れないかを考えるならば、確かに重要なのは「腹」ではなくて「心」だと思います。主イエスは極めて現実的な話をしているわけです。

 では「心」が問題ならば、何が心の中に入って人を汚すのでしょうか。「食べ物」ではなくて、「人の中から出て来るもの」だと主は言われるのです。人の心から出て来るものです。「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」と主イエスは言われるのです。

 「心から出て来る悪い思い」とは何でしょう。その後には、具体的に、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」と書かれています。しかし、口に入るものとの対比で考えられているのですから、「人間の心から、悪い思いが出て来る」と言う時に、まず主の念頭にあったのは、特に「言葉」のことであったと考えられます。すなわち、具体的な悪として現れてくる以前に、既にその心の中にある「悪い思い」が問題なのです。そして、「悪い思い」が心から出て来る時の「言葉」が問題なのです。

 ですからマタイによる福音書では、もう少し詳しくこう表現されているのです。「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」(マタイ15:17~18)。これならはっきりしています。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」。口から出て来る言葉の話です。言葉こそ人を汚すのです。先にも申しましたように、ユダヤ人はどんな食物を口に入れるかに細心の注意を払いました。しかし、それ以上に注意しなくてはならないことがあるのです。どんな言葉を心に入れるかです。言葉によって心は汚されるからです。

 主イエスがこう言われた理由は、分からなくもありません。ユダヤ人の戒律の世界を想像してみてください。表向きはとても秩序だった清い世界です。しかし、戒律の世界は、同時に簡単に裁き合いの世界になるのです。神への感謝と喜びをもって守っているのならよいでしょう。しかし、ただ義務として、自分が嫌々仕方なく守っていることがあると、他の人が同じように守っているかどうかが気になるようになります。守っていないと許せない。批判したくなる。取り決めやしきたりの多い社会は、簡単に悪口と陰口に満ちた社会になるものです。

 また悪口と陰口に満ちた社会では、人からどう見られるかが気になります。他の人からどう見られるかが気になって気になって仕方ない。すると外側だけを一生懸命に取り繕うようになります。しかし、無理が生じますから、見えないところで悪いことをするようにもなってしまいます。ですから、主イエスが言っておられる、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」などは、恐らくユダヤ人社会に生きる彼らにとって、決して無縁のことではなかっただろうと思うのです。

 そして表向きだけきれいな戒律社会において、互いの裁き合い、悪口、陰口、人に対する非難、中傷に耳を傾けていたらどうなるでしょう。あるいは隠れて行っている姦淫やみだらな行いについての話に耳を傾けていたら、またそれらを心に入れながら一緒に話をしていたら、確実に心は汚れていくと思いませんか。それこそゴミ箱のようになっていくことでしょう。

 そう考えますと、これは私たちにとっても無縁の話ではありません。実際どうでしょう。私たちは、普段、どのような言葉を心に入れているのでしょうか。悪口や陰口の輪に加わっている時、誰かそこにいない人を一緒に中傷している時、そのことが自分を汚していることには気づかないものです。いやむしろ、そこで妙な連帯感さえ生まれるかもしれません。あるいは自分が外れていると、今度は自分が悪く言われているのではないかと心配になって、ついつい話に加わってしまうことも起こり得ることでしょう。

しかし、そのようなことをしていれば、心は確実にゴミ箱になっていきます。それは確かです。そして、それは本人だけで終わりません。ゴミ箱は悪臭を放ち始めるのです。やがてそこからゴミが溢れ出ます。心から溢れたものが口から出て来るようになる。すると、今度は他の誰かを汚すことになるでしょう。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」のです。ですから、どのような言葉を心に入れて生活するのかということは、本当は私たちの生活を大きく左右し、さらには人生そのものを左右する大問題であるはずなのです。

 ところで、今日の聖書箇所は「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた」(14節)という言葉から始まっていました。そのように、今日の箇所はその前に書かれていることの続きなのです。今日の箇所の直前には、主の語られたこんな言葉が記されています。「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」(13節)。「あなたたち」というのはファリサイ派の人々と数人の律法学者たち(1節)のことです。

 このことがあったので、主イエスはもう一度群衆を集めて語られたのです。宗教的指導者たちが「神の言葉を無にしている」からです。そして、それは群衆においても同じだからです。「人の中から出て来るものが、人を汚す」という現実が起こっているのは、そもそも本当に心に入れなくてはならないものを入れていないからなのです。「あなたたちは神の言葉を無にしている」と。律法を与えられていながら、聖書を与えられていながら、そこから本当に神の言葉を聞こうとしていない。聞いていない。それこそがそもそもの問題なのです。

 毎年10月31日を私たちは宗教改革記念日として覚えます。なぜ10月31日なのかというと、1517年のこの日、マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に「95か条の提題」を張り出し、そこから宗教改革が始まったからです。かつてキリスト教会においても、神の言葉が無にされていた時代がありました。そのような教会において、宗教改革が起こったことは必然でした。

 今から500年以上前、宗教改革者たちが手がけた大きな事業の一つは、キリスト者が自国語で聖書を読めるようにすることでした。それまではラテン語で読まれていたのです。マルティン・ルターは、聖書をドイツ語に訳しました。何のためでしょう。教会が神の言葉を無にしないためです。神の言葉を聞くためです。本当の意味で、心に入れるべきものを入れるようになるためです。

 それは宗教改革を経て、神がここにいる私たちにも与えてくださっている、とてつもなく大きな恵みです。しかし、私たちはその恵みを本当の意味で受け止めて生活しているのでしょうか。私たちはどのような言葉を、心に入れて生活しているのでしょうか。そのことを今一度心に問いつつ、新しい一週間を歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝し、あなたの御言葉に聞くことができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは「人から出て来るものこそ、人を汚す」と言われました。人から出て来るもの、それは私たちの語る言葉です。私たちの時代は、私たちの歪んだ醜い思いが、人を傷つける言葉となって拡散されてしまう時代です。私たちの内から出るどんなに多くの言葉が、他者を傷つけ、偏見や対立を煽っていることでしょう。どうか、そのことを深く反省する者とならせてください。そして私たちがあなたの御言葉に根差した、塩で味付けられた言葉を語ることができますよう、どうか導いていてください。猛暑の日々が続きます。兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 7月28日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   サムエル記上17章31-51節

説  教   「ダビデとゴリアト」 山﨑和子長老

主日礼拝   

午前10時30分  司式 髙谷史朗長老

聖     書

 (旧約) ミカ書6章1-8節     

 (新約) マルコよる福音書7章24-30節 

説  教   「主イエスを説得する信仰」  藤田浩喜牧師

神のもとに帰れ

ヨナ書3章5~10節 2024年7月14日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

 陸に戻ったヨナは、神の命令を再び受けて、外国の大きな都ニネベに向かって行きました。そして神から語れと命じられた言葉を、彼は語りました。神から命じられた言葉というのは、4節の後半に記されています。「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる。」そして一日分の距離を歩いただけ、つまり一日分の働きをしただけで、彼の語った言葉の効果はすぐに表れたと、5節以下に記されています。「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。」

 断食をすること、粗布をまとうこと、これは悔い改めのしるしです。そのことが身分の高い者にも、低い者にも起こったと記されています。ニネベの人々の早い反応に驚かされます。彼らはヨナを信じたのではなく、神を信じた、と5節に記されています。そして少し劇的には描かれていますけれども、ニネベの人々は、ヨナの宣教の言葉、神の言葉を正しく理解して、悔い改めの行為をいたしました。何か目に見える奇跡とかしるしによって、ニネベの人々が変えられたのではなく、ヨナが語る言葉だけが人々を悔い改めに導き、そして彼らの生き方に180度の変化をもたらしました。

 イザヤ55章11節に、「そのように、わたしの口からでるわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と記されています。神の言葉が語られる時、その言葉の中に込められている神の意思が現実の出来事となる。イザヤはそのように神の言葉が持つ力を語りました。その一つの典型例が、ニネベの人々において起こっていることを知らされます。神の言葉に秘められている力、それは人々を大きく変えることができるものです。私たちは、神の言葉が持つ力への驚きと共に、御言葉を語る者が常に持つべき畏れと謙虚さを同時に示されていることを思うのです。

 ニネベの都においては、さらに驚くべきことが続いて起こっています。それはこの都の王に関わることです。6節において、「このことがニネベの王に伝えられると」と、書き始められています。「このこと」とは、ヨナの宣教の言葉と、それによってニネベの都の人々が悔い改めに導かれたという事実を指しているのでしょう。それを伝え聞いた王は、「王座から降り、王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、そして断食をした」と記されています。これは最大級の悔い改めを示す行為です。この王は、ヨナが語る言葉を聞くことによって、自分自身の中に、神によって裁かれても仕方がない罪や悪があることを認識しました。だからこそ彼に、悔い改めの行為が起こっているのです。ニネベの王は、滅びを予告する神の言葉を、自分とは無関係とは考えませんでした。その言葉によって初めて、自分自身の真の姿を知る者とされました。御言葉を真に聞く時、一人一人の中に新しい自己認識が起こる。そしてその新しい自己認識は、新しい生き方をその人に始めさせる。このことは今日においても真理ではないかと思います。

 ニネベの王はこのように自ら悔い改めただけでなくて、王と大臣たちとの名によって布告を出しました。王が出した布告の内容は、7節後半から9節に記されています。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」この布告は極めて特徴的なものであることが分かります。

 その一つは、断食とか粗布をまとう悔い改めの行為を命じられているのが、国民だけでなくて、牛、羊といった家畜にまで至っているということです。家畜までが断食し、粗布をまとって悔い改めを命じられるのは、何か奇妙な気がします。これは王自身が、神の怒りの激しさを徹底的に理解していることの表れと、見ることができるのではないでしょうか。人間だけでなく、人間の罪によって命ある他のすべてのものが、本来の姿からかけ離れたものになっている。そのような王の認識をとおして、私たちも人間の罪がどれほどこの世界と被造物の上に大きな影を落としているかということを知らなければなりません。そのような訴えがここで差し出されています。

 第二の特徴は、「おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ」と命じられていることです。断食するとか粗布をまとうことは、心の中の悔い改めを表現する行為です。王はそれと同時に、悪の道を離れ、その手から不法を捨てよと言います。それによって心の中だけでなくて、実際の生き方においても方向転換することを命じています。悪の道を離れ、不法を捨てよとの言葉は、現実の生き方そのものにおいて、新しく生きることを命じているのです。

 さて、もう一つ王の布告の特徴を見ますと、重要な言葉が最後に付け加えられていることが分かります。「そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」これが最後の言葉です。これは、嵐の船の中で一人眠っているヨナを起こして、ヨナに祈ることを命じた船長の言葉に通じるものがあります。

 1章6節に、船長が語った言葉が記されています。「船長はヨナのところに来て言った。『寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない』」。ここにも、「かもしれない」という言葉が語られていました。ニネベの王の最後の言葉も、「われわれは滅びを免れるかもしれない」でした。結果を神に委ねる謙虚さと神への畏れとを、船長もニネベの王も持っていることが分かります。王は、先ほど申しましたように、自分やニネベの都の人々の中に、神から滅びを宣告されても止むをえない、罪や悪があることを認識しています。だからこそ、自ら悔い改めの行為をなし、布告を出しました。しかしそれと同時に、神はもしかするとその大きな憐れみと愛とによって、私たちを赦してくださるかもしれない。そうした一縷(いちる)の期待と希望をも捨ててはいないのです。

 この神が思い直されるかもしれない、ということによって表されている信仰には、何が込められているのでしょうか。それは、神は単なる原理や法則ではないということ、神は単に機械的に動くお方ではないということです。生きて働く人格あるお方、その方への信頼が、「神は思い直されるかもしれない」という言葉の中に言い表わされています。しかし同時に、「もしかすると」という言葉の中には、自分たちの期待はそうであるとしても、最終的に事柄を決定されるのは神であるということを承認する謙虚さもこめられている。そのことを私たちは知らなければならないのです。

 さて、結果はどうなったでしょうか。それは10節に記されているとおりです。「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことをご覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と、ニネベの人々に御計画を告げ知らされた神は、御心を変えられたのです。神は、王をはじめニネベの人々や家畜までも断食している、そういう悔い改めの様子を見て、それを心からの悔い改めとして受けとめられたのでした。

 旧約聖書には、神が思い直されるかも知れないという記事だけでなくて、実際に神が思い直されたという記事もしばしば出てきます。出エジプト記32章14節に、「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」とあります。モーセの執り成しによって神は災いを思い直された、と記されています。アモス書にも、神が民にくだすと告げられた災いを、アモスの執り成しの祈りによって思い直されたとの記事が、繰り返し出てきます(特に7章)。

 旧約聖書においてはこのように、神の決定や通告が神によって思い直されて、神の計画が変更されることがしばしば起こっています。それはコロコロと考えが変わる神さまのきまぐれによるものなのでしょうか? 決してそうではありません。神が思い直される出来事には、一つの方向性というものがあります。あるいは一つの原則がある、と言ってもよいかもしれません。神が思い直される時のその方向性とか原則とは何か? それは一言で申すならば、より多くのものを救う方向へと神の決定が変更されるということです。そしてそれは、神の愛から出てくるものなのです。

 私たちはそこに、絶対的な方であられる神のなさることの不思議さを思わされます。決して機械的に動かれる神ではありません。きまぐれに心を変えられるお方でもありません。慈しみとまことに満ちた人格的な存在としての神は、より多くを救うために怒りを起こされることがあり、また同じ目的で裁きの決定を取り除かれることもあるのです。それが私たちの神であります。そしてその不可思議な神の愛の業は、やがて御子イエス・キリストをこの世に遣わす出来事において頂点に達したのです。

 主イエス・キリストは、ニネベの都の人々が、ヨナの宣教によって悔い改めたことを引用しながら、ヨナにまさるものがある、と言われました。ご自身のことであります。神の愛と憐れみと赦しのしるしである主イエス・キリストが、この世に来られました。ヨナではなく神の御子が、この世に派遣されました。教会はそのことを知っています。

 私たちは神の忍耐強さがさらに持続されるように祈りながら、より多くの人々が悪の道から離れて、神との結び付きの中で、新しい自分の命と存在を見出す者となるように、和解と執り成しの務めに励みたいと思います。

 「あなたがたの方向をどこに定めるべきか分からない時は、まず主なる神のもとに帰れ」と、語っている人がいます。迷っている時、どう生きたらよいか分からない時、行き詰った時、まず主のもとに帰れ! 私たちはその言葉を自らへの言葉として聞き取りたいと思います。それと同時に、ヨナがあの短い言葉を語り続けたように、私たちも「神に帰れ、迷っている時には神に帰りなさい」というこのひと言を、今の時代において熱心に語り続けていくよう遣わされています。今日そのことを心に刻みたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。ニネベの町に悔い改めを迫ったヨナの言葉に、ニネベの人々と王は、自らの罪を認め心から悔い改めました。神様もその悔い改めの真実さを受け入れ、ニネベに対する審きを思い留まりました。神様は何にも増して、私たちが砕かれた思いをもってあなたに立ち返り、罪を悔い改めることを願っておられます。神様のその深い愛の御心を私たちが忘れることがありませんよう、どうか私たちを導いていてください。これから季節は、どんどん暑さへと向かいます。どうか、一人一人の健康をお支えください。このひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  7月21日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   サムエル記上16章1-13節

説  教   「ダビデ、油を注がれる」 藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分  司式 山根和子長老

聖     書

 (旧約) 詩編32編1-11節     

 (新約) マルコよる福音書7章14-23節 

説  教 「誰があなたを汚すのか」  藤田浩喜牧師

神の言葉を無にせず

マルコによる福音書7章1~15節 2024年7月7日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

私たちは食事の後で食器を洗うとき、まず洗剤で洗い、そのあとよく濯いで拭きます。でも研修旅行をしたドイツではあまり濯ぐことなく、少々洗剤の泡が食器に付いていても、布巾で泡を拭いているのをよく見かけました。私たち日本人には大変違和感を覚えるものです。習慣の違いなのでしょう。

 今日の聖書の箇所も、食器の洗浄の違いではありませんが、手を洗う、洗わないということから問題が起こっています。私たちも食事の前に手を洗ったり、あるいは外出して帰宅した時にシャワーを浴びたりと、健康を維持するため、あるいは快適に過ごすために、各自が努力しています。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちの言う、手を洗わず食べるという「汚れ」は、どうも衛生上の問題というよりも、宗教上の問題のようで、主イエスの弟子たちを宗教的に攻撃しているようであります。

 ご存じのように、旧約聖書のレビ記などには、清いものと不浄のものについての規定が詳細に記されています。これらは、唯一なる神を聖なる者として位置づけ、イスラエルの民が歩むべき道を具体的に示し、それを守ることによって、選ばれた民の栄光が約束されると、実に分かりやすく命じています。たとえば、外出先で知らないうちに汚れた物に触れたり、あるいは異邦人、異教徒との接触で受けた汚れ、そういう汚れたものをいかに清めるかが重大な関心事でした。また、先祖たちが荒野でさまよい、空腹のときにも導き手である神は見捨てず、天からのパンをもって養われたという体験もありまして、食事というのは、ユダヤ人にとっては特に清められ感謝されたものでなければなりませんでした。ですから、手を洗わないで食事をすることは許されないことでした。

 確かに、このような清浄規定は、本来神への畏れを表明するものであったでしょう。しかし、今日のファリサイ派や律法学者たちは、純粋に神を畏れるゆえに手を洗えと言っているのではないようです。そのことを主イエスは、「神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」、「自分の言い伝えを大事にして、神の掟をないがしろにした」と言われるのです。彼らの言葉の根拠を、「人間の言い伝え」、「自分の言い伝え」として、決して聖なる神に根拠づけられてはいないと喝破されたのです。彼らの信仰を別なものにすり替えていると言われたのです。いつの間にか、モーセの律法の根本精神から離れ、それに味付けし色付けした人々の言い伝えが一人歩きして、唯一絶対なる神が、ないがしろにされてしまった現実を主イエスは指摘されたのです。そして、主イエスは「人から出て来るものが、人を汚すのだ」と、「汚れ」ということの中に、更に深い意味を語られたのでした。

 武蔵野美術大学教授吉田直哉氏が、1985年の夏、撮影のためヒマラヤの麓、ネパールのある村に行った時のことを記しています。この村は海抜1500メートルの傾斜地に位置し、ここへ至るには凸凹の道を歩くしかなく、ポーターを雇って機材と食糧を運びました。余分な物は持って行けず、真っ先にいちばん重いビールを諦めなければなりませんでした。一日の仕事を終え、目の前に流れる清流を見て思わず、「ここで、ビールを冷やしたらおいしいだろうな」と口にしたのを聞きつけた村の少年が、「ビールが欲しいのなら、僕が買って来てあげる」と言いました。そこで、どこまで買いに行くのかと尋ねると、一行が車を捨てた峠までだと言います。大人の足でも往復三時間はゆうにかかる距離です。それは遠すぎると言うと、暗くならないうちに帰るから大丈夫だと言うのです。そこで吉田先生は少年にお金を渡して頼みました。少年は夜の8時頃、5本のビールを背負って帰って来ました。翌日また、「今日はもういらないのか」とその少年が聞くので、「飲みたいが、君にまた頼むのは申し訳ない」と言うと、「今日は土曜日で学校がなく、明日も休みだから、大丈夫だ」と言うもので、1ダースは充分に買えるお金を手渡して頼みました。ところが少年は夜になっても帰って来ません。村人に事故に遭ったのではないかと聞くと、「それほどの大金を預かったのなら持ち逃げしたに決まっている」と、大人たちは口々に言いました。次の日も、学校のある月曜日になっても帰って来ません。そこで、吉田先生は学校に行き、事情を説明して謝罪しました。ところが学校側も、「事故ではなく、持ち逃げしたのだ」と言うのです。吉田先生は、ネパールの予供にとっては信じられないほどの大金を持たせたために、素晴らしい子供の人生を狂わせてしまったと、大変後悔しました。しかし、先生にはどうしてもあの少年が盗みをするとは考えられず、やはり事故ではないかという思いで、いても立ってもおられない気持ちでした。すると、三日目の深夜、宿舎の戸を激しくたたく音がしたので、開けて見ると泥まみれの少年が立っています。訳を聞くと、少年が買いに行った村の店にはビールが三本しかなく、山を四つも越した別の峠の店まで買いに行き、合計十本手に入れたが、途中で転んで三本割ってしまったと、べそをかきながら、七本のビールと割れたビンの破片とつり銭を見せました。その時、吉田先生は思わず少年の肩を抱いて泣いてしまいました。そして、あんなに深く反省したことはないとおっしゃっています。

 さて、主イエスは、「人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と言われます。本当の汚れは手を洗わないというような可視的、衛生的なものによるのではなく、人の心の中から出て来るものによると言われるのです。これは、当時のファリサイ派や律法学者たちの理解とはまったく異なったものでした。それは、清めに関する多くの掟と言い伝えを破棄するのみならず、信仰理解の根本的な変革を主イエスは求められたと言えましよう。儀式、形式を守れば、「汚れ」というものが消えるものではなく、むしろ妬み、欲望、憎しみ等、そのような人の心から出て来るものが、他者を傷つけるのだといわれているのです。神に赦されているのに他者を許せないのが私たちであります。信仰を持って生きるということは、私たちが何か立派に生きることでも、人から誉められる人間になることでもありません。むしろ、見えないところにおられる神に出会い、その神の前に立ち、その神に向かって生きることであります。そのような生き方を阻害する要因は外的条件にあるのではなく、自分自身の中にあるのだと主イエスは言われるのです。そして、「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」というのは、ファリサイ派や律法学者だけに向けられた言葉ではなく、今ここにいる私たち一人ひとりに向けられた言葉でもあるのです。私たち一人ひとりの教会生活をも問うておられるように思えます。先ほどの、吉田先生が、少年の肩を抱いて泣いたこと、そして反省したことの中に、えも言われぬ思いが込められています。それは、深く考えもせず、少年にお金を渡したことだけではありません。それにも増して、村人たちが、事故ではなく持ち逃げしたのだという言葉に納得しようとする思いと、もしも事故であったならどうしようという先生の良心との間で、心が揺れ動き、惑わされている姿であります。しかし、少年が約束したことを最後までやり通したことで、吉田先生は救われました。どこからか、主イエスの「人の中から出て来るものが、人を汚す」の言葉が響いて来るように思うのです。

 ひまわりの便りが聞かれる季節、青く澄んだ夏空のもと、畑や道端で、風に揺れながら咲いている光景は絵のようです。ファリサイ派や律法学者たちは、自分たちの言い伝えを固守することによって、独善的な絵になろうとしたのでしょうか。しかし、主イエスは私たちの汚れをも知り尽くし、まるで一本のひまわりのような、寄る辺ない私たちを、神の愛という青空で包んで下さり、なくてはならない一本一本のひまわりとして、咲かせて下さいます。ひまわりが絵になるこの季節、私たちも感謝をもって咲きほころびたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も猛暑の中、、敬愛する兄弟姉妹と礼拝を守ることができ、心から感謝いたします。主イエスは私たち人間を汚すものがどこから来るのかを示されました。「人の中から出てくるものが、人を汚すのである」。その御言葉は、私たち一人一人の歩みを鋭く問うものです。どうか、主の深い御言葉を見つめつつ、この一週間を過ごさせてください。夏本番のような猛暑が続きます。また新型コロナ感染症も身近なところで流行っています。どうか、一人一人の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン

次週の礼拝 7月14日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   士師記16章29-31節

説  教   「サムソンの力のひみつ」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖     書

 (旧約) ヨナ書3章5-10節     

 (新約) ルカよる福音書11章29-32節 

説  教 「神のもとに帰れ」  藤田浩喜牧師

まことの安心を得るために

ルカによる福音書12章13~21節 2024年6月30日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 主イエスの周りには、多くの群衆が集まっておりました。主イエスは彼らに向かって語ります。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。本当に恐るべき方は、地獄に投げ込む権威を持っている方。あなたがたの髪の毛一本まで数え、あなたがたの全てを知り尽くし、全てをその御手の中に置かれている方。」「人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」主イエスは、私たちがまことの命に生きるための道、死を超えた命について群衆に向かって語られたのです。

ところが、その話が一段落すると、群衆の中の一人が主イエスに向かってこう言ったのです。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」皆さんはどう思われるでしょうか。今主イエスから、死を超えたまことの命に至る道を聞いたばかりです。その場にいた群衆の多くも、「今はそういう話をしている所ではないだろう。」そう思ったのではないかと思うのです。しかしこの人にとって、遺産を分けてもらえるかどうか、この問題がいつも頭から離れない、いつも心を占領していることだったのでしょう。だから、何を聞いても、いつもその問題に心が行ってしまう。たとえ主イエスの話を聞いていても、心はそこに行ってしまう。そういうことだったのではないかと思います。こういうことは、私たちにもよく分かるのではないでしょうか。具体的に困難な問題にぶつかりますと、私たちもいつもそのことが頭から離れない。何をしていても、ふと気がつくとそのことを考えてしまっている。そういうことがあるのです。

 当時の遺産の分け方というのは、長男にほとんどがいってしまいます。そして長男が、他の兄弟たちに分けるというようなことであったようです。この人は長男ではなかったのでしょう。そして、長男は自分に遺産を分けようとしてくれない。自分にも遺産をもらう権利はあるはずだと、この人は思っていたのでしょう。当時の教師、ラビと呼ばれる律法学者達は、日常のあらゆる問題について相談を受け、律法をもとにこうしなさい、こうすることが律法にかなっていると指示する。それが一般になされていることだったのです。この相談の内容というのは、離婚の問題から、隣の家との土地の境界線をめぐる問題、子どもの教育の相談、そしてこの人のように遺産相続をめぐる問題、日常のありとあらゆる問題が持ち込まれてきました。ですから、この人にしてみれば、他の教師たちがしているように、主イエスもこの自分の相続をめぐる問題を、きっと神様の名によって裁定してくれるに違いない、そうしてくれるのが当然だと思っていたのでしょう。

 ところが、主イエスの応えはこの人が期待していたものと全く違ったものでした。14節「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」主イエスはそのように応えたのです。「そんな問題は私は知らん」。そんな言い方です。このような主イエスの姿に出会いますと、私たちはいささか動揺いたします。もっと優しく言ってくれても良いではないか。イエス様は冷たいのではないか。そんな風に感じるのです。確かに、この時の主イエスの言い方は少しも優しくありません。主イエスは愛の人です。まことの愛を知るためには、主イエスを見るしかありません。それは本当のことです。しかし愛というのは、何でもかんでも受け入れ、いつでも誰にでも優しくしているということとは違うのでしょう。

 主イエスがここでこの人を突き放すように語られている理由は、この人がこの遺産相続の問題にいつも心を奪われているような今の状態ではダメだ、その心の向きを遺産相続の問題から神様の方に向けなければならない、そうしなければこの人の救いはない。そうお考えになったからだろうと思うのです。そして主イエスは更にこう告げられました。15節「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」まるで、この遺産相続のことを相談した人は貪欲な人だと人々の前で告げたようなもので、これを言われた人は面白くなかったと思います。たとえそう思われようと、主イエスは遺産相続の問題に心を奪われているこの人の根本には、貪欲の罪があると指摘されたのです。貪欲の罪。それは「もっと欲しい」と思う心です。これにはキリがありません。私たちは信仰において「足ることを知る」ということを学びませんと、いつもこの貪欲という罪に支配されてしまうのです。この罪から無縁で生きられる人はいません。多分、主イエスがこのように言われたということは、この人にとってこの遺産相続の問題は、これがなければ食べていけないというような、せっぱ詰まった問題ではなかったのではないでしょうか。別に、今生活するのに困っている訳ではない。しかし、遺産が入ってくればもっといい。みすみす、自分のものとできるはずのものを手放すことなどできない。そんな心の動きだったのではないでしょうか。だから主イエスは、貪欲に注意せよ、用心せよ、と言われたのだと思います。

 そして主イエスはここで、一つのたとえ話をされました。16節以下にある話です。ある金持ちの畑が豊作だった。あまりに豊作で、それをしまっておく場所もない程でした。そこで、この金持ちは、倉を新しく、大きくいたします。そして、その新しい大きな倉に豊作だった穀物を入れ、財産を入れ、そして安心するのです。「これで、もう何年先までも生きていける、もう大丈夫。食べて、飲んで、楽しもう」。そう、自分に言うのです。小見出しにもありますように、このたとえ話は、昔から「愚かな金持ちのたとえ」と言われてきました。しかし、一体この金持ちのどこが「愚か」だというのでしょうか。この金持ちがしていることは、私たちが普通に考え、普通にしていることではないでしょうか。たくさんの収穫があったら、倉に入れて将来に備えるのは当たり前のことでしょう。来年も豊作とは限らない。凶作かもしれない。だから、豊作の年に蓄えをする。当たり前のことです。これの一体どこが、「愚か」と言われなければならないことなのでしょうか。このたとえの最後で、神様は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われました。「お前が用意した物は、いったいだれのものか」と神様は言われる。金持ちは、当然、自分のものだと思っていたのです。

 実は、このたとえ話において、この翻訳においては表れていないのですが、原文においては、「私の」という言葉が頻繁に出て来ているのです。「私の作物」「私の倉」「私の穀物」「私の財産」。そして「自分に言ってやる」という所は「私の魂に言おう」です。この金持ちは、自分の命を含めて、全ては自分のものと考えていた。そしてそのことこそが、神様に「愚か」と言われている所なのです。命も、富も、食べ物も、全ては神様のものなのです。それを知らずに、全てを自分のもの、自分でどうにでもできるものと考えてしまう。それが「愚か」なのです。それが貪欲の罪の根本に潜んでいるものなのだと、主イエスは告げられたのです。

 私たちの命は神様のものであります。神様が私たちに命を与え、今日も生きよと日毎の糧を与えて下さっている。神様がその必要の全てを備えて下さり、富を与えて下さった。とするならば、私たちは自分の命も富も、本来の所有者である神様のために用いる。神様に献げるべきものとして用いる。このことを忘れる時、私たちは自らの貪欲の罪に支配されてしまうということなのです。

 このたとえ話を読んで、将来のために蓄えるということはいけないことなのかと考える人がいるかもしれません。生命保険も、貯金もいらない、してはいけない。そんなことを主イエスは言われているのではないのです。別に、主イエスは「アリとキリギリス」の話をここでされているのではないのです。アリでもキリギリスでもダメなのです。あの話は、結局、自分の人生を自分でどうするかという話でしょう。そうではなくて、私たちの人生は神様の御手の中にある。このことを私たちが生きる上での根本に据えておかなければならないということなのです。そして、その根本の所に立つ時、私たちは富からも貪欲からも自由になることができるということなのです。

 主イエスは最後に、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われました。神の前に豊かになる。それは、信仰において豊かになるということでしょう。信仰の豊かな人は、神様の恵みの中に生かされていることをよく知っている人です。そしてその人は、自分の富からも自由になることができる人なのです。

  私は牧師として生きていて、いつも難しいと思っていることは、献金というものを教えることなのです。たとえば、結婚式や葬儀があったとき、日程や準備の話をして、最後にお礼はいくらすれば良いのでしょうか、尋ねられることがあります。必ずといってよいほど、この話が出るのです。教会によっては、結婚式はこれだけ、葬式はこれだけと決めている所もあるようですけれど、私はそれでよいのだろうか思っているのです。教会は、献金以外は受け取らないのです。そして献金である以上、それはその人が神様との間で決めることです。献金に相場などというものはありません。あってはならないのです。私はいつも、「お志で結構ですよ。献金に定めはありません」と答えることにしています。そうすると必ず、それでは困ると言われる。本当に困るのでしょう。それは教会に来ていない人だから困る訳ではなくて、教会員であっても困ることなのでしょう。でも私は、本当に困ったら良いと思っているのです。神の前に豊かになる、自分の富から自由になる、そのためのとても大切なチャンスを牧師が奪ってはならないと考えるからです。

 私たちの命も富も時間も、全ては神様のものです。それは何と素敵なことでしょう。私たちは明日を知りません。だから不安になるということなのでしょう。だから、先立つものを用意しておかなければということになる。しかし、私たちが知り得ない明日は、神様の御手の中にあるのです。私たちのためにその独り子さえ惜しまずに与えられた、その父なる神様の御手の中にあるのです。だから、安心して良いのです。ゆだねて良いのです。その大安心の中で、私たちは自分をしばっている貪欲や富の誘惑からも自由にされていくのでしょう。いつも心が向いてしまう問題からも自由にされ、心を神様に向けることができるのであります。この自由の中に生かされている幸いを、心から感謝したいと思います。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。今日は主イエスが語ってくださったたとえを通して、御言葉を与えられました。私たちには将来のことは分かりません。そのため何とか自分の力で、将来への安心を確保しようと思い煩います。確かに将来に備えることは必要なことです。しかし、私たちに与えられるすべての物、そして私たちの命そのものが、あなたが与えてくださったものです。そして私たちには分からない私たちの将来は、あなたの御手の中にあります。私たちを御子を給うほどに愛してくださっている神様の御手の中に守られています。どうかそのことをいつも思い出して、貪欲に走ることなく、あなたにゆだねて生きる者とならしてください。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。