日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ルツ記2章1-16節
説 教 「み翼のもとに逃れて来た」 藤田浩喜牧師
主日礼拝
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) ゼファニア書3章16-20節
(新約) マルコによる福音書3章31-35節
説 教 「主イエスの造る家族」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ルツ記2章1-16節
説 教 「み翼のもとに逃れて来た」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) ゼファニア書3章16-20節
(新約) マルコによる福音書3章31-35節
説 教 「主イエスの造る家族」 藤田浩喜牧師
コリントの信徒への手紙 二 5章1~10節 2023年11月5日(日)主日礼拝
牧師 藤田浩喜
今日は召天者記念礼拝を皆さまと一緒に守ることができて感謝です。ここにおられる皆さまのほとんどが、ご自分のご家族を亡くされた経験をもっておられることでしょう。突然、ある日ご家族を亡くされた方もあるでしょうし、しばらくの間看取りの期間を過ごした後、ご家族が亡くなったという方もあるでしょう。どんなに手厚く看取りをなさった場合でも、看取った家族には「悔い」というか「心残り」があるものです。「生きている間に、こうしてやればよかった。こんなこともできたのに」と、心残りを感じているのです。看取りの期間があった家族でもそう感じるとすれば、突然ご家族を亡くされた場合には、いっそう強く、そのように感じるのではないかと思います。
私は父を中学校2年生の時に亡くし、母を今から14年前に亡くしました。父の時は自分がまだ子どもでしたので、看取ったという記憶はありません。しかし、母の場合は私は50歳になろうとしており、西宮の牧師館に引き取った時期もありましたので、妻と一緒に母の世話をし、看取ったという記憶があります。
できることは精一杯したと思う反面、息子として至らなかったことも多く、「こうしてあげればよかった。どうしてできなかったんだろう」と、今でも心が痛むことがあります。「できることならあの世に行った時に、『あの時はごめんな』と謝りたい」と思う気持ちがあります。そのように謝りたいというだけではありません。「もう一度会えたら、こんな言葉も掛けたい、こんな報告もしたい」という願いを、ここにおられる皆さまも持っておられるのではないでしょうか。そのような願いを心に抱いている私たちに、今日の箇所でパウロは、私たちの死後のこと、死んで後に経験することを語っているのです。
今日読んでいただいた箇所のすぐ前、4章18節でパウロは「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言っています。有名な言葉です。私たちキリスト者は、信仰によって見えるものだけではなく、見えないものに目を注ぎ、見ています。その信仰によって見ているものは何か。その一つとして今日の5章1節以下で挙げられているのが、「天にある永遠の住みか」なのです。それは死んで後のことです。目に見えないものですから、一目瞭然というわけにはいきません。そのためパウロは、建物のイメージや着物を着るイメージを用いながら、「天にある永遠の住みか」を描き出そうとしているのです。
「天にある永遠の住みか」とは、そもそもどういうものか。パウロの他の手紙、たとえばコリントの信徒への手紙 一 15章などから示されることは、「天にある永遠の住みか」とは、新しい「霊的な『体』」と言い換えることができます。この「霊的な『体』」は、滅びることも、死んでしまうこともありません。「信じる者は、「肉体の『体』ではない、「霊的な『体』」を受ける。それは滅びることも、死んでしまうこともない。」パウロはそのように語っているのです。
では、その信じる者が死んで後受ける「霊的な『体』」である「天にある永遠の住みか」には、どんな性質や特徴があるのでしょう。私たちもイメージを豊かにしながら、パウロの語る言葉に聞きましょう。まず、第一に「天にある永遠の住みか」は、「地上の住みかである幕屋」とは対照的です。わたしたちの地上の住みかである幕屋は、先ほど述べた言葉で言えば、地上を生きる「肉的な『体』」です。今生きている地上の体です。幕屋はテントであり、テントは私たちが知っているように時が経つと劣化して、朽ち果ててしまいます。また、暴風などの自然災害によって、突然壊れてしまうこともあります。それが地上を生きる「肉的な『体』」です。しかし、「天にある永遠の住みか」は人間が造ったものではなく、神によって備えられた建物です。神が備えてくださった建物ですから、朽ちることも壊れることもありません。永遠に揺らぐことなく建ち続けるのです。
しかし「天にある永遠の住みか」と「地上の住みかである幕屋」は、まったく無関係で、何の接点もないのかと言うと、そうではありません。パウロは2~3節で次のように言っています。「わたしたちは、天から与えられる住かを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。」地上を生きる「肉的な『体』」は、皆さんも実感されているように、悩みや苦しみを避けることはできません。4節にありますように「重荷を負ってうめ」くように毎日を生きています。パウロにしても福音を宣べ伝える上で、筆舌に尽くしがたい苦しみを経験しました。しかし、「天にある永遠の住みか」は、そのような「地上の住みかである幕屋」の上に、重ね着するものであります。「地上の住みかである幕屋」が無くなったり、消滅したりすることはありません。そのイメージから分かるように、地上を生きる「肉的な『体』」は、新しい「霊的な『体』」を与えられても、私たちの人格は継続していきます。その人自身、私自身であることは変わりません。継続していくのです。私たちが地上の人生おいて過ごしてきた日々の記憶、私たちが結んできた様々な関係、たとえば親子関係や友人関係が、決して消滅してしまうことはないのです。
「天にある永遠の住みか」についてパウロが語る第3のことは、4節に記されています。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられた住みかを上に着たいからです。」ここでは、「天にある永遠の住みか」を上に着たい理由が述べられています。パウロは「死は最後の敵である」(Ⅰコリ15:26)と述べています。そして死をここにいる者は誰一人、経験したことはありません。死は善も悪もすべて飲み込んでしまう。死によって私たちの存在が飲み込まれてしまい、死すべきものは永遠に消え去ると思って、人は苦しむのではないでしょうか。人が死ねば「無」になる。何も残らないのではないかと、恐れるのです。
しかし、パウロはそうではない。死すべきものは命に、すなわち永遠の命に飲み込まれてしまうのだ、と言うのです。パウロはコリントの信徒への手紙 一15章54節で、同じようなことを次のように述べています。322頁、57節まで読んでみましょう。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」このように、イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、今や死そのものが、復活の命に飲み込まれているのです。信じる者を待っているのは死ではない。復活の命なのです。
先週、高木慶子(よしこ)さんが書いた『大切な人をなくすということ』という本を読みました。高木さんはカトリックのシスターで、死を迎える患者のターミナルケアや遺族へのグリーフケアを長年なさっている方です。小さな本ですが、とても中身の濃い本です。多くのことを教えられましたが、一つのエピソードだけ、今日はご紹介したいと思います。
高木さんは53歳の吉永さん(仮名ですが)を、病床に訪ねられていました。この方はバリバリ仕事をされ、会社の部長にまで昇進された方でした。この吉永さんにすい臓がんがあることが分かり、お医者さんからは余命3か月と言われました。ご本人は最初、「僕は仕事をするだけして、後はバタンキューでいい」とおっしゃっていました。しかしそれは「がんばっている姿を見せていないと家族が心配すると思った」、「自分自身を甘やかしたら、それでおしまいになるから」と思っていたからでした。
しかし、口ではそうは言っても、心は平静でいられるわけではありません。吉永さんの「死を受け入れるための」苦闘が始まります。ある日、吉永さんは高木さんに「家族と別れることがどんなに辛いことか分かりますか?」と尋ねます。そして、死が近づいてくる実感を淡々と語られるのです。「体がね、伝えてくるんです。家族と別れる時が近いということを。以前はね、砂を嚙むような感じしかしなくても、食事をとることができたんです。ちゃんと、食べることができました。でも、今は食べてももどしてしまう。食事のにおいをかぐだけでもイヤになってしまう。」「自分の体が刻一刻と変わっていくことが分かるんです。昨日の自分と今日の自分が違うなんてものじゃない。一時間前の自分といまの自分がすでに違うんです。」そして、吉永さんは目に涙を浮かべて、こうおっしゃったのです。「孫がくるとね、一か月後にはもう会えないんだと思ってしまうのです。もう、やり切れないですよ。」
しかし、高木さんとの対話が続いていく中で、がんの告知を受けてから一か月半が経った頃から、吉永さんは少しずつ、ご自分の死を受け入れることができるようになったのでした。そして、高木シスターの「また、向こうで会いましょうね」という語りかけに、「死んでもまた家族に会えるんですね」とホッとした表情を浮かべて、亡くなって行かれたと言うのです。
吉永さんと関わられたエピソードの中で、高木さんは次のような大変深い言葉を語っておられます。少し長いですがお聞きください。
「人は自分の死を突きつけられた時、そうそう簡単にはそれを受け入れることはできません。『人は死んだら無になる』とおっしゃる方は多いですよね。しかし、実際に死を突きつけられると、人間そんなことは言っていられないのです。自分が『無』になってしまう。そう思ったら、とてつもない虚無感と絶望感にさいなまれるはずです。無になるということの恐ろしさを、ありありと感じてしまうのです。なぜなら無になってしまうと、愛する家族と再会できなくなるわけですから。でも、亡くなる前に自分の人生を認め受け入れ、肯定できた方は、『また、向こうで会いましょうね』という言葉を口にすることができるようになられます。
それは、簡単なことではありません。……無になってしまうことの恐ろしさを感じて初めて、「そうじゃない、そうあってはならないと思うようになるのです。」「無になってしまうと考えたら、家族に会うことはできません。そこには希望がありません。でも、死んだ後でも会えると思えば、希望がわいてきます。家族に対して『向こうで待っているよ』と言えたら、それはご本人にとっても、遺される家族にとっても救いになるのです。」やがて死と直面しなければならない私たちとって、これは本当に深い切実な言葉ではないでしょうか。
今日の聖書の5節で、パウロは次のように言っています。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは神です。神はその保証として“霊”を与えてくださったのです。」私たちは信仰によって、見えないものに目を注いでいます。そのきわめて大切な一つが、「天にある永遠の住みか」を与えられるという約束なのです。信仰によって霊、聖霊を与えられた私たちは、見えないものに目を注ぎつつ、やがてその約束が実現することを確かに待ち望むことができるのです。ここの「保証」は「手付金」とも訳されます。完全な救いと新しい「霊的『体』」を与えられることは、確かにまだ起こっていません。しかし、本当の支払いは残っているとしても、手付金は最後の支払いを保証するものなのです。神さまがイエス・キリストにあって、そのことを保証してくださっているのです。心安んじて、イエス・キリストに委ねて歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたします。
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
【祈り】生と死を統べ治めたもう主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日の主日礼拝を、先に召された兄弟姉妹を覚える礼拝として守ることができ、感謝いたします。神さま、あなたは信じる者たちに聖霊をお与えくださり、見えないものを見させてくださっています。神さまが備えてくださっている「天にある永遠の住みか」がその一つです。地上にあっては重荷を負ってうめいている私たちではありますが、この「天にある永遠の住みか」を仰ぎ望みつつ、希望をもって歩ませてください。大切なご家族やご親族を天に送られた方々が、今日の礼拝を守っております。どうぞ、そのお一人お一人の上に、主の慈しみと平安を豊かに注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。
マルコによる福音書3章20~30節 2023年10月29日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日の箇所には、マタイ福音書、ルカ福音書に同じような内容を記した並行記事があります。その一つのルカによる福音書11章14節以下で、「主イエスは口を利けなくする悪霊を追い出し、口の利けない人がものを言い始めた」とあります。そうした状況を受けて、主イエスは律法学者たちと「ベルゼブル論争」をなさったのです。主イエスと身内の人たちとのやりとりについては、次回マルコによる福音書を学ぶときに扱いたいと思います。
今日登場している律法学者たちは、わざわざ「エルサレムから下って来た」のでした。律法学者というのは、ユダヤの宗教生活を規定していた律法の専門家です。その専門家たちが、近頃目覚ましい働きで評判になっている主イエスの正体を見極めようとやって来たのでしょう。専門家には専門家としての誇りと自負があります。そこで主イエスのことを見聞きして、彼らは一つの結論を出しました。それは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、あるいは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったのです。
「ベルゼブル」というのは、本来古くからあるシリアの神の名前であり、おそらく「神殿の主」という意味であったと言われています。この神の名は王国時代に言葉をもじって「バアル・ゼブブ」(蠅の王)と軽蔑的に呼ばれるようになりました。そして、その後次第に、この異教の神の名が悪魔を示すものとなっていったと言うのです。異教の神の名というのは、往々にしてこのような末路をたどってしまうのでしょう。いずれにしてもエルサレムの権威を帯びた律法学者たちは、主イエスの悪霊追放の業が神の聖霊ではなくて、悪霊の頭の力によってなされていると断定したのです。より力の強い悪霊が、それより弱い悪霊を追い出したと、彼らは考えたのです。
それに対して主イエスは、どのように応じられたでしょう。23節に「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた」とあります。たとえは、ある事柄を理解するとき、それを理解しやすいように語って聞かせるものです。主イエスはけんか腰で反論されたのではありませんでした。律法学者たちが十分理解して納得できるように、たとえを用いられたのでした。それは相手が民衆であっても、律法学者のような専門家であっても変わらなかったのです。
主イエスは言われました。23節後半以下です。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」国であろうと、家であろうと、サタンであろうと、内部で争ったり、分裂したりすれば、立ち行かない。滅んでしまう。そんな墓穴を掘るようなことを、狡猾なサタンがするはずがない。主イエスはこのたとえによって、悪霊を追放したのが同じ悪霊ではないことを分からせようとしたのです。
確かに国も、家も内輪もめして争えば、分裂し崩壊してしまいます。イスラエル王国は、ソロモン王の後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます。すると紀元前8世紀には北イスラエル王国がアッシリア帝国に、紀元前6世紀には南ユダ王国が新バビロニア帝国に滅ぼされます。確かに王国は、分裂すると立ち行くことはできないのです。今日の私たちの世界も、分裂や分断が進んでおり、このままでは機能不全に陥ってしまうのではないかと恐れます。しかし人間ではない狡猾なサタンは、墓穴を掘るようなことをするはずはありません。ますます結束を固くして、私たちの世界を神様の御心に反した方向へと連れて行こうとしているのです。
主イエスが語られたもう一つのたとえは、家に押し入る強盗のたとえでした。27節です。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」主イエスがこのようなたとえを語られたのは、ある人から悪霊を追い出すというのは、その人を支配していた悪霊に代わって、神からの聖霊が支配するようになることだからでしょう。
ある家に押し入り、その家を略奪する場合、最初にすることは、その家を守っている最も「強い人」を捕まえて、縛り上げることです。最も強い人をやっつければ、他の人たちは抵抗する気力が無くなり、略奪は一気に進みます。それによって、略奪する者はその家を自分のものにすることができるのです。
悪霊に支配された人から悪霊を追い出し、その人を奪還する場合も同じです。悪霊の頭とも言うべき「強い人」を捕まえ、縛り上げなければ、どれだけいるか分からない悪霊を屈服させ、追い出すことはできません。悪霊の頭は、主イエスにとって縛り上げるべき敵であって、力を借りるような存在ではありません。悪霊に支配されていた人から悪霊が追放されたのです。口が利けなくする霊に取りつかれていた人が、口が利けるようになったのです。それは主イエスが、まず悪霊の頭を縛り上げられたということです。主イエスは悪霊の頭を凌駕するさらに「強い人」であったということです。そのように語ることによって、主イエスは律法学者たちの思い違いを正そうとされたのです。
主イエスは神が遣わされた神の御子です。主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と宣言されました。神は主イエスにおいて、主イエスを通して働かれます。主イエスが悪霊を追い出す霊は、神の聖霊に他なりません。したがって人は、その聖霊を汚れた悪霊と混同してはいけません。御子イエスによってなされている神の救いの行為を、破壊的なサタンの行為と取り違えてはなりません。主イエスは「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)と言われました。主イエスは、どんな人に対しても神の国・神のご支配が始まっていることを、喜ばしく語り告げられるのです。
さて主イエスは、20節を「はっきり言っておく」という言葉で語り始めます。「アーメン レゴー ヒューミン」、「まことにわたしはあなたがたに言う」というのが直訳です。このフレーズは、主イエスがきわめて大切なことを語られるときに、使われるフレーズです。28~30節で主イエスが語られる言葉は、それほど大切な言葉なのです。それを信じるか否かで、救われるか滅びるかが決まってしまうような、分水嶺になるような言葉なのです。読んでみましょう。「『人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。』イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである。」
後半の29節以下で言われているのは、聖霊を冒瀆する者への警告です。聖霊を冒瀆するというのは、30節にあるように「彼(つまり主イエス)が汚れた霊に取りつかれている」と言うことです。主イエスがなさっておられる悪霊追放などの力ある業は、聖霊ではなく悪霊によってなされている」と言うことです。これは先ほど見ましたように、エルサレムの権威を帯びた律法学者たちが考え、言っていたことでした。主イエスの力ある業が神からの聖霊によってなされていることを、彼らは認めませんでした。「人々が言っていたからである」の「言っていた」という未完了形の言葉は、繰り返し、継続してなされていたことを示しています。彼らは心を頑なにして、主イエスの力ある業が聖霊によることを断じて認めようとしませんでした。神の御子である主イエスに心を閉ざし、決して開こうとしませんでした。そのような「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と警告されているのです。
ただし、ここでの「永遠に」は原語では、「この世に」という言葉です。慣用的に「永遠に」と訳されることが多いのですが、「その時代を通して」と訳すことも可能です。そうではありますが、主イエスによる力ある業を、聖霊による御業と認めないことは、決して許されない罪なのです。主イエスによって神の国・神のご支配が始まっていることを頑なに認めないことは、決して赦されない罪なのです。というよりも、唯一それだけが赦されない罪なのです。
「まことにわたしはあなたがたに言う」という言葉で始まる主イエスの言葉は、それだけではないのです。29節の警告の言葉に心を奪われて、よい知らせを不明確にしてはなりません。主イエスは一番大切な大前提として、このように語っておられるのです。28節です。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。」29~30節で言われていることは、唯一の例外規定のようなものです。主イエスが語られた御言葉の本体は、まさにこの28節にあるのです。人の子つまり私たちが犯す罪やどんな冒瀆の言葉もすべて赦されているということ。それらはすべて、主イエスの十字架の贖いによってすべて赦されているということなのです。
私たち人間は、時として疑ったり、迷ったりすることがあります。神さまに激しく反発して、神さまに背を向けてしまうことがあります。神さまの御心が分からなくなってしまい、神さまを疑ってしまうことがあります。しかし、そのような疑い、迷い、挫折がどのように大きなものであり、どのように遠く神さまから離れてしまっても、神さまはそれを赦してくださるのです。なぜなら、そのような罪を重ねる私たちを神さまと和解させ、救いに至らせるために御子イエスは来られたからです。
また、私たちは人の窺い知れないような罪を、心に抱えているかも知れません。私たちはその心に抱えている罪を、「赦されない罪」だと感じているかも知れません。自分には神さまに打ち明けることも叶わないような、赦されざる罪があると思っているのです。しかし、そうではありません。私たちは神さまの御前で、どんな罪も過ちもすべて赦されています。なぜなら、そのような罪を私たちに代わって贖うために、イエス・キリストは十字架に架かられたからです。神さまの目からご覧になる時、私たちの犯すどんな罪も赦されているのです。私たちは神さまの御前で、臆することなく顔を上げることができるのです。
しかし、赦されざるただ一つの罪があります。それは御子イエス・キリストを通して働かれる聖霊の御業を信じないことです。ある人はこう言いました。「聖霊の働きを信ぜず、赦しに反抗する者だけが、赦しから除外されるのである。」主イエスの到来によって、喜ばしい神のご支配が始まっているのです。罪に支配されていた私たちを、イエス・キリストはその支配から奪い返して下さり、神様の恵みのご支配へと移してくださったのです。その決定的な恵みの御業を、私たちは心を大きく開いて受け入れましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。神さま、あなたは御子イエスにおいて御業をなさいます。そこには神の聖霊が働いています。聖霊の働きは、主イエスこそ救い主であることを私たちに分からせ、罪の赦しを私たちに得させることです。どうぞ、そのような聖霊の働きを、心を大きく開いて受け取ることができるようにしてください。ハマスとイスラエル、ウクライナとロシアの間で戦闘が続けられています。被害が拡大しています。どうか神様、これらの地に平和をもたらしてください。ひと言の切なるお祈りを、御子イエスの御名によってお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ルツ記1章1-18節
説 教 「あなたの神はわたしの神」 𠮷田三枝子
午前10時30分 (召天者を覚える日) 司式 藤田浩喜牧師
(聖餐式を執行します)
聖 書
(旧約) 申命記7章6-8節
(新約) コリントの信徒への手紙二 5章1-10節
説 教 「天にある永遠の住みか」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書14章13-21節
説 教 「五千人の給食」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 (神学校日) 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) イザヤ書49章14-18節
(新約) マルコによる福音書3章20-30節
説 教 「誰がキリストを知るのか」 藤田浩喜牧師
マタイによる福音書22章15〜22節 2023年10月22日(日)主日礼拝説教
長老 山﨑和子
主イエスのところにファリサイ派とヘロデ派の人たちが一緒にやってきて、自分たちが皇帝に税金を払うのは律法にかなっているのか、いないのかと問いかけます。15節からの記述をもう一度読んでみます。「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そしてその弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた」とあります。この時、遣わした人々というのは議会の主だった人たちだったかもしれません。元々ファリサイ派とヘロデ派は互いに相容れない思想を持っていた人たちの集まりですからこの二つの派閥が「一つにまとまる」などということは有り得ない状況だったのです。でも、主イエスの評判が日に日に高くなっていったことを危険な兆候と思った議会は、何とかここで主イエスを徹底的に貶めなくてはならないと思ったのでしょう。それは16節からの、わざとらしい持って回った慇懃無礼な口上に如実に表れています。彼らは、このように尋ねればイエスが「おさめなくても良い」と答えるのではないかと想定していたのかもしれません。そうすればローマにすり寄っていたヘロデ派の人は怒ってその場でイエスをローマの総督に引き渡そうとするかもしれないし、仮に「おさめるべき」とイエスが答えたとしたら、今度はローマに反感を持っているファリサイ派が怒って、イエスはローマにへつらう裏切り者だと宣伝するようになるでしょう。どちらであっても、この日限りでイエスの人気は地に堕ちるでしょうし、どちらか一方の答え方しか有り得ないと、彼らは得意満面でやってきたに違いないのです。
けれども、勢い込んで税に対する詰問を付き付けた人々に対する主イエスの対応は、全く予想を裏切るものでありました。主イエスはその場でデナリオン銀貨を提出させて「これは、誰の肖像と銘か」と問われます。まことに周囲の意表を突く問いかけでありました。ここで問題にされている「税」とは、ユダヤ人がローマに支払いを義務づけられている人頭税のことです。人頭税は、ローマのデナリオン銀貨で支払うことが義務づけられていましたから、その銀貨にローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていることは誰でもがよくよく知っていることであって、わざわざこんな質問をされるイエスの意図が分からなかったのでしょう。「皇帝のものです」という答えの蔭には(それがどうした?)と言いたい気持ちがありありと見えるような気がします。が、主イエスはならば皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい、とはっきり皆の前で宣言されるのです。
この聖書の箇所はマタイによる福音書だけでなく、3つの共感福音書のすべてに記されている記事でもあり、よく知られている話です。私も子どもの頃からこの話は日曜学校で聞いていましたが、子どもの時にはイエス様の答えがどういうことなのか、分かりませんでした。つまりイエス様は税金を治めることがいいことだと言われたのか、それとも悪いことだ言われたのか、この答えではわからないし、その意味で問いの答えになっていないじゃないの、と思ったのです。だから長年この税金の記述は喉に小骨がささったような違和感を持ち続けてきたような気もするのです。
主イエスは「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われます。税金を納めるべきことに何の反発も示してはおられないのです。今日の箇所の少し前、17章の24節以下に神殿税に関する主イエスの見解が示されています。人々がペトロに「あなたがたの先生は神殿税を納めないのか?」と聞いた時にペトロは「納めます」と答えているし、その時に主が魚の口から銀貨を取り出してペトロと二人分の税を払うようにと指示されたと記されています。人がその所属社会の中で決められた規範に従って生きることを主イエスは決して否定されません。ここで私たちは、先ほど読んで頂いたサムエル記の記事のことを思い出します。旧約の時代、イスラエルの人々は、周りの国々と領土の獲得をめぐって絶えず争いに巻き込まれていましたが、自分たちも周りの国々のように王を持ちたいとサムエルに願い出たのです。この時サムエルは、人の手によって国が治められることに反対します。イスラエルは神が選んだ民族であり、これまでずっと神によって守られてきた民族でもあります。なぜ今になって唯一の神を信頼して御手に委ねることを拒むのかと問うのですが、人々は聞く耳を持ちません。そうして最終的に神ご自身が人の選択をお赦しになって、その判断を任せられるのです。これ以後イスラエルは王国としての歩みを始めることになるのですが、その歩みがどんなふうに滅亡へと進んでいったかは歴史が証明しています。間違いはいつも一方的に人の側にあるのです。神様は、人にご自分の気持ちを強制するのでなく、自由な選択に任せようとされるかたであります。主イエスご自身がそうあるべきと思って居られるのでなくても人が決めた決まりであるならそのようにすればいい、という程のお気持ちであっただろうと思われます。ならばもう一つの「神のものは神に返しなさい」のほうはどう考えればいいでしょうか?
創世記1章27節には、神は人を神にかたどって創造された、とはっきり記されています。私たち人間は誰でも初めから神にかたどって、即ち神の肖像と銘が刻まれたものとして創られているのです。そのことを忘れた時に人は神を退けて、自分自身を神のように扱い始めます。
私たちすべての人間には神の像が刻まれています。言い換えれば私たち自身が神の貨幣であります。神は、私たちをそのご計画の遂行のために貨幣のように用いられます。私たちのすべては神様のご用に用いられるために造られているのです。貧しい者はその貧しさによって、病気の人はその病気を以って現に今、主に用いられるのだと思います。何の役にも立たない、不必要な人間は一人も居ないのです。何と素晴らしいことではありませんか。
ファリサイ派とヘロデ派の人たちは、税金を払うことは良いことか、悪いことかという二者択一の問題でしか物を考えることが出来ませんでした。同様に「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」と言われた主イエスの言葉を私たちは、どれが皇帝のものでどれが神のものなのか、やっぱり二者択一の問題として捕らえてはいないでしょうか?
皇帝のものも神のものであります。私たちは神が良しとされた世界に生き、あらゆるものを神から賜っている中で、なおそれを自らの意志で使い道を考える自由を与えられています。私たちは、自分の判断で自由に使い道を考えていいような錯覚を起していますが、すべては神のものであることを思って、何をどのように使うにせよそれは神にお返しすべきものであることを忘れてはならないと思うのです。神の貨幣である私たちは、神様のご用のために用いられることだけを願って自身をささげ尽くすしか生きる意味を持っていない筈なのです。にも拘わらず私たちのうち誰一人として自分自身をまるごと主のものとして捧げつくす生き方など出来ないのです。例えばあなたの持ち物を全て売り払って貧しい人たちにささげなさいと言われたら、又あなたの一人息子を焼き尽くす生贄としてわたしにささげなさいと言われたら、わたしたちは喜んで従うことが出来るでしょうか?多分できないでしょう。今持っている財産も、与えられた家族も、みんな神様が下さったものだと頭ではわかっているはずなのに、いざとなったら「お願いです。これだけは私から取り上げないでください」と泣きながら懇願するしか無いのが私たちの姿であります。けれども、そんな欲深いわたしたちを深く憐れんで、父なる神様に執り成し続けてくださっているかたがおられます。主イエス・キリストです。
主は私たち一人一人を極限まで愛し給い、慈しみをこめて何度でも何十、何百回でも許してくださって、父なる神のみ元へといざなって下さっているのです。そのことを深く覚えて、こんにち只今よりおぼつかない足取りながらも主イエスが辿られた道筋を追うものとして一日一日を生かされていきたいと心から願っています。
祈り
父なる神様、私たち一人一人はあなたの貨幣であって、ただ御心のままに用いられる以外に生きる意味を持っていないものであることを教えられました。私たちはいつになっても自分のしたいことしか出来ない愚かで罪深いものであります。どうか犯してきた数々の過ちを許して、これから先の日々もあなたに従っていくものとして一人一人を導いてください。この拙いひとことの祈りを尊き主イエス・キリスのの御名によっておささげ致します。
アーメン
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書13章24-30節
説 教 「毒麦のたとえ」 高橋加代子
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約) サムエル記上8章1-22節
(新約) マタイによる福音書22章15-22節
説 教 「皇帝への税金」 山﨑和子長老
ヨナ書1章4~6節 2023年10月15日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
ヨナは、神さまから逃げて行きました。タルシシュ行きの切符を買って船に乗り、船底の方に行って寝てしまいました。神さまはこのことを全部ご存知でした。それでも「あれは失敗者だ。神を裏切った者だ」とレッテルをはって、葬り去るのではありません。嵐を起こして、ヨナがそれ以上遠くへ逃げないようにされました。そして、「自分が間違っていました。神さまの命令に従います」と言うようになるのを、待っておられたのです。
ここで重要なのは神さまの恵み、恩寵に対しての正しい理解です。恵み、恩寵には3種類あることが知られています。第一は一般恩寵と言われる、すべての人に公平に与えられる恵みで、第二は救いの恵み、第三は特別な恵みです。
まず第一の一般恩寵、一般的恵みですが、神さまの恵みはクリスチャンだけに与えられるのではなく、クリスチャンでない人にも与えられています。それを示す聖句を一つ挙げてみましょう。マタイによる福音書5章45節。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」太陽や雨がなければ、私たちは生きていくことができません。健康やお金もすべての人に与えられるものです。ですからこれは、クリスチャンであるなしに関わりなく、一般的に与えられる恵みなのです。
第二の恵み、恩寵は救いの恵みです。救いの恵みは、私たちを救いに導いてくれる、救いを実現してくれる恵みです。これは私たちを教会に行かせ、キリストを信じて救われたいという願いを起こさせ、聖書が解き明かされる時に私は救われなければならないと悟らせ、信じる決断をした時に私たちの中に救いを実現してくださり、永遠の命をいただいて歩んでいくようにさせてくれる聖霊の働きです。それは、神さまの愛が行為として現れたものと言えるでしょう。私たちが救われたのは、自分の努力や決意、意志の力や功績によるのではありません。私たちが救われたのは、恵みにより信仰によると聖書は言っています(エフェソ2:8)。神さまの恵みがなかったら、だれ一人救われることはありません。神さまの恵み、恩寵が今日も働いているから、私たちは救われており、今日も教会に来て礼拝ができる、神さまを賛美することができるのです。神さまの恵みは、目に見えない形で今も働いているのです。
第三の恵み、恩寵は、特別な恵みだと先ほど言いました。この特別な恵みとは、クリスチャンの間に働く神さまの特別な働きかけですが、特にクリスチャンが神さまの御心から離れている時に、その人たちを引き戻すために働く神さまの御業です。ですからここで、逃げて行くヨナに神さまが働きかけたのは、この第三の恵み、特別な恵みであったと言えるでしょう。ヨナが神さまから逃げ続けて行ったら、彼は永遠にレッテルをはられて、「ヨナは神さまを裏切った。ヨナは逃げて行った」で終わりになってしまったでしょう。でも神さまはヨナを愛しておられますから、ヨナを引き戻したい、もう一度神さまとの正しい関係に戻したいと願って働きかけたのです。これが特別な恵みです。それがこの場合、嵐を起こさせたのです。
この特別な恵みは、頭をなでて「いい子だから帰って来なさいよ」と言うのではありません。神さまは時には、引き戻すために嵐を送ります。そして、ヨナのように「もうだめだ。これで自分の人生はおしまいだ」と覚悟して、海の中に投げ込まれるという、死を味わうような体験を通させるかもしれません。けれども、神さまはそこで滅ぼそうとしていないのです。神さまはしばしばこのように嵐を用いて、特別な恵みを与えられるのです。今現在、嵐に直面している人、苦難に直面し、私の人生は揺れ動いているという人がいるかも知れません。その人はその経験を、神さまの特別な恵みが私に及んでいるのだと、考えることもできるのです。
ある人がクリスチャンホームで育ち、ずっと教会に行っていました。ところがこの人は、いつもいたずらをすると「おまえだろう」と言われ、「違うよ。お姉ちゃんだよ」と言っても、「おまえに違いない」と言われていたそうです。実際にお姉ちゃんがしていたのに、いつも叱られ役になっていました。けれどもこれも、神さまの恵みだったのです。というのは、その人は悪いことができないようにされていたからです。後で分かったことですが、その人のおばあちゃんが「神さま、この子は将来神さまのご用に立つ人です。どうぞ悪から守ってください。そして神さまのご用に大きく用いられるようにしてください」とお祈りしていたそうです。神さまの特別な恵みは、こういう具合にも働くのです。ある場合は罪を犯して逃げて行こうとする時に、それを止めるために与えられ、ある場合には罪を犯さないように止めるために与えられるのです。
さて、次に今日の個所から示されることは、私たちが罪を犯し、神さまに逆らう生活をすると、それは他の人々にも影響を与えるようになることです。ヨナは自分だけの問題として、逃げて行きました。けれども、ヨナが船に乗ったために、船に乗っている人全員が迷惑をしたのです。船長を初め、船員たちは右往左往し、船に乗っていた乗客たちは生きた心地がしませんでした。しかも、「積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした」(1:5)と書いてあります。そのせいで財産を全部失った人もいたかもしれません。それに対してヨナは、どうやって弁償するのでしょうか。
私たちの人生とはそういうものです。私たちが「神さまに従いたくない。別の所へ行きたい」と思うのは自由です。そして、それは自分だけのことで、他の人には関係ないと思うかもしれません。けれども、家族や親せき、友人、地域の人、さらに見知らぬ人など、多くの人々に影響を与えるのです。私たちはこの人生を、自分一人で生きているのではなく、多くの人に影響を及ぼしながら生きていることを覚えたいと思うのです。
船長以下、船のクルーが右往左往していた時、ヨナはどうしていたでしょう。ヨナは嵐の中で、船の底に行って眠っていました。私たちも仕事がうまく行かないからと、ふて寝をしてしまうかもしれません。それは普通の寝方ではなく、何があってもひたすら寝続けるもので、これは心理的に逃避することです。船は揺れて沈みそうになり、水がどんどん入って来て、皆は荷物を投げ捨てているのに、ヨナは寝ていました。とうとう船長が来て、「起きてください。なぜ寝ているのですか?」とヨナを起こしました。
本当は嵐がやって来た時に、ヨナが一番先に「私は神さまから逃げて来た。神さまはやっぱりお怒りになり、私を追いかけておられる」と気がつかなければいけなかったのです。けれどもヨナは、主なる神を知らない船長に起こされなければ、問題に気がつかなかったのです。そして「起きてあなたの神を呼びなさい、祈りなさい」と言われる始末だったのです。
ここで私たちは、ヨナのことを自分のこととして考える必要があると思います。私たちも神さまの御心から離れていると、ヨナの状態になってしまいます。周囲が大変な嵐になっていて、周りの人々が騒いで右往左往しているのに、クリスチャンが知らん顔をしているようなことがないでしょうか。もしそうだとすれば、ヨナと同じなのです。本当はそういう問題に対して何が原因であるか、私たちはよく知っているわけですから、神さまに訴え、祈ることができるはずです。ある人は、クリスチャン以上に、世の中の人の方が今日の世界に対して危機感を持っていると言いました。クリスチャンは「私たちは恵まれています。救われています」と自分を安全圏に置いてしまって、周りがどこまで危険な状態になっているか気づいていません。しかし、世の中の人は神さまを知らないために、かえって危機感を持ち、どうしたら人類は救われるのか、どうしたら滅びから逃れることができるかを真剣に考えています。もしそうだとしたら、これは私たちに対する痛烈な批判であると言わなければならないでしょう。しかも世の人たちに、「あなたの神さまに真剣に祈ってください」と言われたらどうでしょう。私たちは他人から言われなくても、祈らなければならない立場にいるのではないでしょうか。
世の中の人が今、悩んで、苦しんで、滅んでいこうとする時に、眠っている場合ではないのです。目をこらして、神さまの前に訴え、祈らなければならないはずです。それなのに、神さまから離れていくという間違った決断をしたために、祈るどころではない。信者でない人に「あなたの神さまに祈ってください」と言われるような状態にまでなってしまう。ここに、神さまの御心から離れて行った預言者ヨナの悲劇的な姿を見ます。しかし、それはヨナだけのことではなく、今日の教会やそこに集うクリスチャン一人ひとりに対する、痛烈な問題提起でもあるように思うのです。
しかしこのようなヨナに対して、神さまは彼を見限るようなことはしません。神さまは「ヨナよ、これが罰だ!」と怒りをぶちまけるのではなくて、ヨナを引き戻そうとしておられるのです。
『くまさぶろう』という絵本があります。くまさぶろうは、何でも盗んでしまうスリでした。しかも、盗まれた人が盗まれたことにまったく気づかないくらい鮮やかに、盗んでしまうのです。彼の技量は時が経つにつれて、どんどん巧みになっていきます。そして、小さい物や大きな物だけでなく、人の心の中にある気持ちまで、盗み取ることができるようになったのです。ところが、困ったことが起きます。くまさぶろうが、おできをこしらえた子どもの気持ちを盗み取ると、子どもはにっこり泣き止みます。でも、くまさぶろうの頭には大きなおできができ、痛くて仕方ないのです。一人暮らしのお年寄りの寂しい気持ちを盗み取ると、お年寄りには笑顔が戻ります。でも、くまさぶろうの心は寂しくて切なくて、いても立ってもいられなくなってしまうのです。
イエス・キリストは、私たちと同じ人間としてお生まれ下さいました。それは、決して抽象的なことではありません。御子イエス・キリストは、くまさぶろうのように、私たちの心の中にある気持ち、痛さや寂しさや辛さや悲しみを、我がこととして受け留めてくださいました。受け留めてくださっただけでなく、私たちに代わって、そのような思いを引き受けて、担い切ってくださった。我がこととして全部引き受けて、私たちに笑顔を取り戻させてくださった。そのような本当に具体的なことが、イエス・キリストによって起こったのです。
ヨナのように神さまから離れようとする私たちですが、イエス・キリストに示された神の驚くべき愛は決して変わることなく、いまも注がれ続けています。そのことを、いつも心に覚えつつ、クリスチャンとして与えられている使命を自覚して、新しい一週へと歩みを進めて行きましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。神さま、あなたは私たちに「特別な恵み」を与えてくださっています。それはあなたから離れようとするわたしたちを、あなたのもとに立ち返らせてくださる恵みです。どうぞ、どんな時もそのようなな恵みが与えられていることを、私たちに悟らせてください。ガザ地区で悲惨な戦闘が起ころうとしています。政治的な思惑や野心のためにいつも犠牲になるのは、名もなき市民や子どもたちです。神さまどうか、この不条理な状況を一日も早く終わらせ、この地に真の平和をもたらせてください。この拙きひと言の切なる願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書13章1-9節
説 教 「棚まきのたとえ」 藤田百合子
午前10時30分 司式 三宅恵子長老
聖 書
(旧約) ヨナ書1章4-6節
(新約) 使徒言行録27章13-20節
説 教 「神さまの特別な恵み」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書3章13~19節 2023年10月8日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
「山」は聖書において特別な場所です。祈りのために赴く場所であり、神さまからの啓示が行われる場所でした。主イエスは「山」に登られると、そこで十二人の弟子たちを選ばれたのでした。今日の3章13節以下を読みますと、こうあります。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二名を任命し、使徒と名付けられた」(13~14節前半)。
この文章には、原語を見ると「彼自身が」という主語を強調する言葉が使われています。主イエスはこれまで自分と行動を共にしてきた人々の中から、彼自身がお決めになった弟子を選び出されたのでした。ヨハネによる福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と言われています。そのように十二使徒の選任も、主のご意志によって行われたのでした。
その際、主イエスは「これと思う」人々を呼び寄せられたとあります。主イエスが「この人になってほしい」と望まれた人が選ばれたのです。おそらく主イエスは、それまで一緒に旅をし行動を共にする中で、適切な弟子たちを見極めておられたのでしょう。主イエスは一人ひとりのことを十分に熟慮された上で、十二人を選ばれたのです。
このことは、今日の主の弟子である私たちも同じです。私たちがキリスト者となったのは、自分の意志が先にあったからではなく、主イエスが私たちの願う以前に私たちを選んでくださったからです。そして、私たちがキリスト者となったのは、主イエス御自身がそれを望まれたからなのです。主は私たちのことをよくご覧になった上で、「この人ならキリスト者としてやっていける」と見極めてくださり、私たちを選んでくださったのです。
この「イエス・キリストに選ばれた」という確信以上に、大切なものはありません。私たちは人生において、信仰がぐらついてしまうことがあります。「こんな自分が信仰者であってよいのか」と、自分の信仰に自信が持てなくなるときがあります。しかし、私たちの信仰の土台は、私たちの意志や信念ではなく、イエス・キリストの選びです。「こんな私を主イエスがキリスト者として選んでくださった」という確信です。信仰の試練は何度も押し寄せて来るでしょう。私たちはその度に、この選びの確信に立ち返っていきたいと思います。
ところで、十二使徒はどのような使命のために立てられたのでしょう。14節から15節を読んでみましょう。「そこで、十二名を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」ここは他の共観福音書と読み比べてみると、興味深いことが分かります。まず、ルカによる福音書は、十二人の使命については述べていません。「十二人を選んで使徒と名付けられた」(ルカ6:13)とあるだけです。一方、マタイによる福音書は「十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」(マタイ10:1)とあります。マタイとマルコを読み比べてみると、「悪霊を追い出す権能を持たせるため」というのはマタイによる福音書と同じです。主イエスの生きておられた時代、心身の様々な病気は「汚れた霊・悪霊」の仕業によると考えられていました。ですからマタイもマルコも、悪霊を追い出し、病気を癒す権能を授けられ、それを行使することが、十二使徒の使命であったことが分かります。
現代のキリスト教会においても、「癒し」の働きは重要です。心や体の病気については、そのほとんどの領域を現代医学が担っており、それはまことに感謝すべきことです。しかし、最先端の医学でも力の及ばない「たましいの癒し」や「人が全存在において癒される」という課題が、この世から無くなることはありません。そのような癒しの課題に、現代の教会は真剣に取り組み、それを担っていく必要があるのだと思います。
さて、マルコによる福音書の今日の箇所は、「悪霊を追い出す権能を持たせる」使命の他に、2つの使命を記しています。「彼ら(十二人)を自分のそばに置くため」、「また、派遣して宣教させ」るためという、2つの使命を加えているのです。マルコ福音書だけが、これらの使命について丁寧に教えています。だからこそ、ぜひ注目したいのです。
マルコによる福音書は、十二使徒として主イエスの側にいること、「主イエスと共にいること」が第一のことだと言うのです。そこに、使徒としての使命の「いのち」があると言うのです。私たちはここで、十二使徒がどのような日々をこの後送ることになったかを思い起こしてみましょう。彼らはガリラヤ地方から都のあるユダヤ地方へと旅をして行きます。主イエスはその場所場所で、神の国の福音を宣べ伝え、力ある業を行われます。汚れた霊を追い出し、様々な病気を癒されます。彼ら十二使徒は、主イエスの側にいて、主イエスの説く福音を聞き、主のなされる御業の目撃証人となります。そして、皆さんもご承知の通り、弟子たちは十字架に至る主の苦難を目撃し、その後時をおかずに復活の主の目撃証人となるのです。十二使徒たちは主イエスの側におかれることによって、主イエスの御言葉と御業の証人となったのです。
しかし、主イエスの証人となっただけではありません。弟子たちは、主イエスと一緒に旅をしている間にも、二人一組となって各地に派遣され宣教しました。マルコによる福音書6章6節後半以下には、十二使徒が二人ずつ、汚れた霊に対する権能を授けられて、人々を悔い改めさせるために宣教したことが記されています。また、私たちが知っているように、使徒たちは主イエスが復活された後、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)という主イエスの大宣教命令に応えて、ユダヤを越えて、地中海世界全体への宣教に出かけていきます。
この宣教は使徒たちだけで進めたのではありません。彼らは主イエスから聞いた神の国の福音や主イエスがなさった力ある業を、人々に証ししました。人間の罪のために身代わりとなって十字架に付けられたお方が、復活して今も生きておられることを証ししました。自分たちと共に歩んでくださっていることを証ししました。そうです。使徒たちは、主イエスが地上の生涯を歩まれている時も、天の父なる神さまの御もとに上られた後も、主イエスと共に宣教の業を続けたのです。使徒たちの使命にとって第一のことは、「主イエスと共にいる」ということなのです。主イエスと共にいて、主イエスから力をいただいて、「主イエスと共に」福音を宣べ伝えるのが、使徒たちの使命なのです。
これは今日の主の弟子である私たちにとっても同じです。十二使徒にとって最も重要な使命は、主イエスと共にいることでした。それと全く同じように、どのキリスト者にとっても、特別な奉仕を任された時に、最も重要なのは主イエスと共にいることです。十二使徒は主イエスとの親しい交わりから、御国の宣教と悪霊追放の力を受けることができました。それは今日の私たちにとっても同じです。私たちは今も、私たちの祈りの生活によって、私たちが聖書を学ぶことによって、そしてキリスト者同士の交わりによって、イエス・キリストと共に居ることができます。主の御そばに置かれます。そして、私たちが奉仕の業を進める力は、まさにそこから生まれてくるのです。
主イエスは弟子たちに、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)と言われました。主イエスの御後に従うとは、具体的にどういう歩みなのだろうかと、私たちは考えることがあるのではないでしょうか。どうしたら、主の御後に従って行くことができるのだろうか。当たり前のように思われるかもしれませんが、それはどこまでも「主と共にいる」ということなのです。主イエスから離れては、主イエスの御後に従って行くことはできないからです。この世でキリスト者とし歩む私たちの生き方は様々です。果たすべき役割、求められている務めも様々です。しかし、それぞれの遣わされた場で、主イエスと共にいること、生ける主イエスから離れないこと以上に、重要なことはないのです。私たちは立派に従って行かなくてもよいのです。転んだり立ち止まってしまってもよいのです。なぜなら、先立ち行くイエス・キリストは私たちを置いてきぼりにはしません。私たち一人ひとりが歩むペースに合わせて歩んでくださるからです。
さて、今日の聖書に戻りますと、16節以下には十二使徒の名前が、何名かの者にはその仇名(あだな)と共に記されています。4人はガリラヤ湖の漁師であった人たちです。「雷の子ら」と仇名されるような、血の気の多い弟子たちもおりました。徴税人だった人も、イスラエルをローマから解放するためには武力行使も辞さない「熱心党」に属していた人もいました。他の11人はガリラヤ地方出身でしたが、12番目のユダだけは、ユダヤ地方のカリオテ出身の人でした。
このように見てくると分かりますように、主イエスが選ばれた十二使徒は、出自(しゅつじ)も仕事も性格も違う、多様な人たちからなる集団だったのです。その中でも先ほど申しましたようにマタイは徴税人でした。他方シモンは、熱心党員でした。徴税人として実質上ローマ帝国に仕えていたマタイと、神以外のいかなる権力も否定し、ローマ帝国からの解放を武力で成し遂げようとしていたシモンが、同じ主イエスの弟子となったのです。水と油のような二人、およそ正反対の立場にある二人が、十二使徒の仲間となったのです。同じ主イエスの弟子であるということだけが、彼らの共通点だったのです。
それは、今日の教会も同じです。教会にも様々な世代の人たち、様々な境遇の人たち、様々な性格の人たちが集められています。教会はその多様性を豊かさとして受け容れていくように召されている群れなのです。ある世代の人たち、ある社会層の人たち、ある考えの人たちが、教会を牛耳るようなことがあってはなりません。そうではなく、私たちはイエス・キリストの弟子であるということにおいて、一致するように召されているのです。人間の集まりである教会ですから、時として反目や対立も起こるでしょう。しかし、教会の頭であるイエス・キリストは、ご自身への信仰において、教会を一つにしてくださいます。一致へと導いてくださいます。そのことを心から信じて、主にゆだねて、教会形成と福音宣教に励んでいきたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。神さま、あなたは私たちをキリスト者として選び、その使命のために働く者としてくださいました。その使命は、私たちが主イエスと共にい続けることによって、果たされていきます。どうか、どんな時にも主イエスから離れずに、主イエスに支えられて進みゆくものとしてください。急に秋らしくなってきました。教会に連なる兄弟姉妹の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。