命の冠をいただくために

ヤコブの手紙1章12~18節 2026年3月15日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

                        

 今日のヤコブの手紙1章12節に、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」とあります。苦しみや試練はできることなら、避けたいと思うのが私たちの率直な思いであり、願いです。しかし苦しみや試練を避けることができないのが、私たちの人生です。そこで耐え忍ぶほかないのです。

 ここに「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」とあります。ヤコブ書は人間が人間として生きていくことにおいて何か大切かと問い、それは忍耐であると言っています。とくに信仰者として生きていく上でもっとも大切なことは、忍耐であるというのです。忍耐ということがいかに大切であるかを語りたいがために、ヤコブはこの手紙を書き始めたと言ってもよいのです。後の5章7~11節においても、忍耐について語られています。とくに11節では「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います」とありますが、今日の個所はそこにつながっているのです。ヤコブ書は最初と最後に近いところで、「忍耐」について強調していることがわかります。

 ここでは「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」とあります。「耐え忍ぶ」という言葉は、原文では「あるものの下に留まる」という意味の言葉です。あるものの下に居続けることです。辛く苦しいからと言って、そこから逃げたり、離れたりせず、踏み留まることです。私たちは辛いこと、苦しいことを経験し、試練に出遭うと、そこから逃れたいと思います。たとえばひとつの責任、立場から逃れたり、責任を放棄して、逃れることもできます。生きることが辛くて死を選ぶことも、ある意味では逃避することです。

 しかしどんなにつらくても、そこから逃れないで、留まることが忍耐なのです。そして、そこに留まる人は幸いであるというのです。文の最初に「幸いである」とあり、幸いであることが強調されています。「幸いである。試練を耐え忍ぶ人は」という幸福宣言なのです。主イエスは「こころの貧しい人たちは幸いである」と言われましたが、遡って詩編1編1節では、「いかに幸いなことか」とあります。これらの言葉が背景にあって、ヤコブは「幸いである」と言っているのです。これは単に「ハッピー」という意味ではありません。まさにハプニングとしての幸いだというのでなく、神の変わることのない祝福を意味しているのです。

 また「適格者」という言葉は、金属の純度を確かめる時のことを意味しています。金属が燃える火の中で精錬されるように、私たちの信仰が試練という火の中で純粋なものにされていくのです。神への信仰が本物であるかどうか、偽りのない、純粋なものであるかどうかテストされて、本物であると認められることです。人はこのような試練の中でテストされ、試練を通して真実の人間となって行くのです。むしろ神に従い始めた時に、その信仰は本物であるかどうかテストされるのです。ある人が「試されるほどに愛されている」と言いました。人間は自由であるからこそ、テストされ、忍耐が試されるのです。忍耐は自由にされた人間の基本的な生き方なのです。主イエスが40日の空腹の後に試みに遭ったのも、主イエスが神の子であることが明らかにされたからでした。

 信仰の父と言われたアブラハムは祝福の基とされましたが、その時からさまざまな試練に遭うことになったのです。とくに念願の子どもイサクが与えられましたが、やがて成長していったある時、アブラハムがかなり晩年にさしかかっていましたが、生涯でもっとも厳しい試練に遭うことになったのです。イサクを犠牲として献げよ、という神の命令でした。これはアブラハムのゲッセマネであったと言えます。彼は苦闘し迷ったことでしょう。しかし神の命令に従ってイサクを献げる決意をしました。ところがその時、ストップがかかり、そこには犠牲の雄羊が用意されていたのです。そこで「主の山に、備えあり」と言われたのです(創世記22:1~19)。人生は若い時に試練に遭うだけではなく、アブラハムのように、人生の晩年になってからも、厳しい試練はやってくるということです。しかしそれに耐えるところに、人生の醍醐味があるとも言えるのです。試練を忍耐するところに、幸いがあるのです。ベートーベンは「苦しみを通って喜びへ」と言いました。苦しみがなければ喜びもないのです。試練がなければ、耐えることもなく、忍耐することがなければ、幸いもないのです。試練は辛く苦しいものです。しかしそれを忍耐するところに、幸いがあるのです。そこには理由があり、根拠があります。「適格者と認められ」、また「命の冠をいただくからである」とも言われています。「命の冠」とは勝利であり、栄誉です。まさに永遠の命という勝利なのです。

 ところが13節に「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです」とあります。「誘惑」は原文では「試練」と同じ言葉です。「試練に遭うとき」と言ってもよいのです。試練はどこから来るのでしょうか。たしかにアブラハムは神から試練を受けました。イスラエルの40年間の荒野の旅も、神の戒めを守るかどうか、心を試すためであったということが、申命記8章2節にあります。しかしユダヤ教でも、神は本来、人間を試みないという考えがありました。そしてヤコブ書はこの考えを受け継いでいるのです。試練や誘惑に遭ったとき、だれも「神に誘惑されている」と言ってはならないのです。神は誘惑なさらないからです。神は悪意の方ではなく、善意の方なのです。

 そうではなく、14節に「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです」とあります。誘惑は自分自身のもつ欲望に由来するのです。自分の中にうごめいている欲望こそが諸悪の根源なのです。人が試みに遭い、誘惑を受けるのは、神の責任ではなく、人間の責任であり、私たち自身の責任なのです。自分自身の欲望が、誘惑の出所です。「それぞれ」という言葉によって、各人の責任であることが鋭く指摘されているのです。欲望に引かれ、唆されるとは、猟師がおとりを使って獲物をおびき寄せることを意味しています。誘惑の原因は私たち一人ひとりの中、心の中にあるのです。だから誘惑の原因を神に転嫁し、責任をなすりつけ、自分の責任逃れをしてはならないのです。人間のこのような欲望は恐ろしいものです。欲望から罪が生まれるからです。この世の罪はすべて、人間の欲望から生まれるのです。

 こうして、15節には「そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」とあります。実際、死は人間の自然の摂理、運命です。生まれた者が死ぬのは自然なのです。しかしここでは死の原因は罪であると言うのです。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)とも言われています。死の原因である罪をたぐっていくと、欲望があるのです。死は肉体の死を意味するだけでなく、魂の死であり、永遠の滅びなのです。このような絶望的な永遠の滅びに対して、試練に耐え忍ぶ者は「命の冠をいただく」というのです。

 三浦綾子さんは『明日のあなたへ』の中で、「試練のない生活、それが最大の試練だ」というある人の言葉を引用しています。試練はできれば回避したいものですが、もし人生に試練がなく、苦しみがなかったら、どうなるでしょうか。生徒や学生にテストがなければ、これほど楽なことはありません。テストがあるから、一生懸命に勉強し、知識や知恵が身につき、忍耐力も養われます。あるいはスポーツには試合がつきものですが、試合があるからこそ一生懸命に練習するのです。人生において、試練がなければ、忍耐することもなく、人間として成長することもできません。自分に与えられた人生の課題を受け止め、真実に生きようとすれば、必ず試練に直面せざるをえないのです。試練があるからこそ、人生は人生と呼ぶにふさわしいものとなるのです。

 そこで三浦綾子さんは、次のように言っています。「私は長い病気の間、この世に病気がなければよいと思った。自分の人生にこんなに病みつづける日が来ようとは……と嘆いたこともあった。だが、今となっては、自分の人生を振り返ってみるのに、その受けた試練は、宝玉のようなものだと感じている。もしも今まで、只の一度も試練に遭わず、病むことを知らず、思いのままになる人生であったとしたら、私は涙というものを知らない人間になったであろう。…神は無駄なことをなさらないお方だ。神の与え給う試練には、それなりの深い意味があるのではあるまいか」と。

 試練とは、あるものの下に留まるということでした。しかしいったい誰がこのような大きな試練を耐え忍び、厳しいテストに合格し、適格者と認められることができるでしょうか。ヘブライ人への手紙12章2節に、「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった」とあります。忍耐するということ、あるものの下に留まり続けるとは、十字架のキリストのもとに、神の言葉のもとに留まり続けることにほかなりません。忍耐とは私たちが耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、我慢するということではなく、その前にすでに十字架の死を耐え忍ばれたイエス・キリストの恵みのもとに留まり、真実な神の言葉に信頼して、その言葉のもとに留まり、神の約束の言葉が実現するのを待つということなのです。

 その意味で、忍耐は希望と結びついてくるのです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:3~4)のです。やがて命の冠をいただき、永遠の命を受ける希望をもって待つことが、忍耐にほかなりません。生れてから死ぬまでの、紆余曲折の人生において、私たちはどんなに忍耐の時を過ごさねばならないことでしょう。すべて人生は忍耐の連続です。しかしその中でこそ、十字架を耐え忍ばれた主イエスが、私たちと共にいますことを経験するのです。

 試練に遭うと、罰があたったからであるとか、何かの祟りだとか思われることがあります。しかしそうではありません。神谷美恵子さんはハンセン病の人たちに出会った時、次のように思われたそうです。「どうしてこの私ではなくあなたが? あなたは代わって下さったのだ」と。主イエスは十字架にかかられました。「どうしてこの私ではなくあなたが? あなたは代わって下さったのだ」と、主イエスに言わねばならないのです。

 最後に若い日に読んだ本の中に、次のような言葉があったのをあらためて思い出します。マルティン・ルターの言葉です。「私はすべての人間から捨てられても、迫害されても、それだけ少なく神を信じることをしない。私は貧しくても、軽蔑されても、それだけ少なく神を信じることをしない。私は神を試みる何らの徴をも神から求めない。神がいかに長く私をまたせても、私は絶えず神を信じる」と。つらい試練も、イエス・キリストにおいて、人生の宝玉となるのです。キリストのもとに留まり続けたいものです。かならず耐える力が与えられ、逃れの道が開かれるでしょう。これからもいろいろな苦しみや問題に遭うでしょう。しかしそこから逃げ出すことなく、踏み留まり、キリストと共にあり、勝利者に永遠の命である命の冠が与えられることを確信したいものです。試練は完全に至るための大いなる益となるのです。

【祈り】私たちを罪と死から贖い取ってくださった主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの聖なる御名を讃美いたします。あなたは試練を耐え忍ぶ者に「命の冠」を約束してくださっています。しかし私たちの心の中には、「悪い傾向」「肉の側面」があり、それが「欲望」となって、私たちをあなたから離れさせようとします。そのような「誘惑」に陥るのは、私たちの内にある「欲望」のゆえです。どうか、そうした抗しがたい弱さを抱えた私たちであることを、素直に認めることができますように。そして、あなたが与えてくださった「主の祈り」に生き、主が私たちのために捧げてくださっている祈りに生かされていくことができますように。季節は進み、春の兆しをそこここに感じます。しかし、日によって寒暖の差が激しく、インフルエンザなどの感染症も収まっていません。どうか教会につながる兄弟姉妹一人一人の体調をお守りください。今週は3月19日・20日と第75回定期中会が横浜海岸教会で開催されます。どうか、この教会会議をあなたの御手の内に導き支えていてください。この拙き感謝と願いを主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アアメン。

次週の礼拝 3月22日(日) レントⅤ

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ルカによる福音書23章23~38節

説  教   「十字架上の執り成し」  高橋加代子

 

主日礼拝   

午前10時30分      司式 山﨑和子長老

聖     書

 (旧約) 詩編22編2~6、23~32節

 (新約) マルコによる福音書15章33~41節

説  教   「私たちを救うイエスの死」  藤田浩喜牧師

望みなき者の笑い

創世記18章1~15節 2026年3月8日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

 今日読んでいただいた旧約聖書には、アブラハムとサラという夫婦が出てきました。彼らはイスラエルの先祖となる人たちです。神が彼らに与えた約束はこうでした。「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」(創世13:16)。私たちはその約束が後に、イスラエル民族として現実となったことを知っています。しかし、当時、アブラハムにはまだ一人の子供もいませんでした。

 それから長い年月が経ちました。相変わらず、アブラハムとサラにはまだ一人の子供もいませんでした。そして、すでにアブラハムもサラも年老いていました。神の約束はどうなったのでしょう。今日お読みいただきましたのは、そんなある日の出来事です。

 神様は天使をアブラハムのところに遣わしました。しかし、一目で天使とわかるような姿で遣わしにはなりませんでした。アブラハムに分からないように、三人の旅人の姿で、天使たちを遣わしたのです。

 三人の旅人がアブラハムの住んでいた天幕(テント)の近くを通りかかりました。本当は天使なのです。しかし、アブラハムは知りません。アブラハムはどうしたでしょう。その旅人たちをとても親切にもてなしたのです。その様子が18章1節から8節にかけて書かれています。彼が旅人をもてなす姿が、極端と思えるほどに際だった形で描き出されています。

 アブラハムは言いました。「水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください」(4・5節)。そう言って、アブラハムは旅人たちのためにご馳走を用意しました。そして、彼らが食べている間、そばに立って自ら給仕してもてなしたのでした。

 その人たちが神の御使いだからではありません。アブラハムは知りませんから。恐らく普段からそのように旅人をもてなしていたのでしょう。天使に仕えるかのように、人々に親切に仕えることを常としていたのでしょう。そのような生活をもって、はからずも天使たちをもてなすことになりました。それはひいては神様をもてなしたということになろうかと思います。

 イランのことに詳しい坂梨祥(さち)という方が、テレビでイラン情勢を解説されていました。その時、イランの家庭に招かれた際にふるまわれたご馳走の写真を紹介されていました。イランの人たちは、訪れたお客さんに対して食べきれないご馳走を出して、もてなしてくださるとおっしゃっていました。そんなイランの普通の人々が、一日も早く戦争の恐怖から解放されるよう祈るばかりです。

 新約聖書にこんな言葉が書かれています。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」(ヘブライ13:2)。誰かのために何かをする時に、「なんでわたしがこんなことをしなくてはならないのか」と、不平を言いながら行うこともできます。しかし、「もしかしたら気づかずに天使たちに仕えているのかもしれない」と、思いながら行うこともできるのでしょう。ならば、仕え方もずいぶん違ってくるかもしれません。

 さて、そのように神様から遣わされた、旅人の姿をした天使たちは、アブラハムの心のこもったもてなしを受けました。しかし、彼らは食事をしに来たわけではありません。神の御言葉を伝えにきたのです。

 天使の一人が言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(10節)。アブラハムはこれを聞いてびっくりしたと思います。そして、気づいたに違いありません。この人たちはただの旅人ではない。この人たちは、「子孫を与える」と言われた神の約束を知っている。この人たちは、神の御言葉を伝えに来てくれたのだ、と。

 しかし、神様の御言葉を信じることは、とても難しいことでした。アブラハムはすでに年を取っていましたから。とても男の子が生まれるとは思えません。それは、妻のサラも同じでした。サラもこの言葉を、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていました。そして、聖書にはこのように書かれているのです。「サラはひそかに笑った」。

 この「ひそかに笑った」という言葉は、サラをとても身近に感じさせます。確かに、こういうことは私たちにもあるのでしょう。あからさまには笑わないのです。アブラハムもサラも、神様を信じている信仰者ですから。「そんなこと、いくら神様でもできないでしょう」と言って、笑い飛ばすようなことはしません。

 でも、ひそかに笑うのです。「そんなことはないでしょう」、「そんなこと言ったって、現実はそう甘くはないですよ」。「信仰は信仰、現実は現実です」と、そう心の中でつぶやいて、ひそかに笑うのです。「サラはひそかに笑った」。サラの気持ちはよくわかります。

 しかし、人間にとって「ひそかに」であっても、神様はすべてご存知です。彼らの一人が言いました。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。…」(13~14節)。それはまさに、すべてをご存知である神様の言葉でした。ですから聖書には、天使が言ったとは書いてない。「主はアブラハムに言われた」と書かれているのです。そう、主が言われたのです。

 サラはドキッとしたことでしょう。神が語られるということは、すべてをご存知である神が語られるということなのです。そこで、サラは恐ろしくなりました。サラは偽りの後ろに隠れようとしました。彼女は打ち消して言います。「わたしは笑いませんでした」。しかし、もとより神様から隠れられるはずがありません。主は言われます。「いや、あなたは確かに笑った」。

 教会生活の中で、神様との関わりの中で与えられる一つの経験は、神様は何もかもご存知だと実感するという経験です。「いや、あなたは確かに笑った」と聞いた時のサラのように。

 しかし、すべてをご存知である御方は、恵み深い御方でもあるのです。「主に不可能なことがあろうか」という問いかけは、ひそかに笑ったサラの不信仰を責める言葉ではありませんでした。そうではなくて「信じなさい」という呼びかけに他ならなかったのです。ですから、サラのひそかな不信仰にもかかわらず、こう続けられているのです。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」(14節)。

 「サラはひそかに笑った。」しかし、主はそんなサラに、本当の「笑い」を与えようとしておられたのでした。

 主の約束のとおり、やがてサラはみごもって男の子を産みました。そして、その子は「イサク」と名付けられることになるのです。その名前は「彼は笑う」という意味です。その時にサラが口にした言葉が、後の箇所で次のように記されています。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑いを共にしてくれるでしょう」(21:6)。

 サラは心から笑えるようになりました。神の御言葉を信じることができなくて、心の中でひそかに笑っていたサラでした。しかし、主は、そんなサラが神の御業を見て、心から笑えるようにしてくださいました。――「主に不可能なことがあろうか」。

 それから1800年ほど経ったある日、神様は天使を一人のおとめのところに遣わしました。今度は旅人の姿ではありません。その天使の名はガブリエル。おとめの名前はマリアと言いました。ガブリエルはマリアに、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げました。いわゆる「受胎告知」の場面です。マリアは言いました。「どうしてそんなことがありまえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。するとガブリエルはこう言ったのです。「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)。

 聖書が神の言葉として私たちに語っていることは、老人に子供が生まれることよりも、はるかに大きなことです。神の独り子が人間となりこの世に来られた、というのです。そんなことがあるだろうか。――「主に不可能なことがあろうか」。

 それだけではありません。神の独り子が十字架にかかられ、すべての人の罪を代わりに負って死なれた。すべての人の罪の贖いは成し遂げられた。罪の贖いを成し遂げて死なれたイエスは、復活させられ、天に挙げられ、今も生きておられる。そんなことがあるだろうか。――「主に不可能なことがあろうか」。

 本来何よりも不可能なことは、罪深い私たちが救われることなのでしょう。こんな私たちの罪が赦され、救われ、永遠の命を与えられ、死を越えた希望をもって生きられること。それこそ本当は不可能な、信じがたいことではないでしょうか。やがて罪と死から完全に解放されて、神の栄光にあずかることになる。主は私たちの目から涙をことごとく拭い取ってくださる。悲しみのゆえの涙も、怒りと憎しみのゆえの涙も、挫折と絶望の涙も、すべて過去のこととなるのです。そんなことがどうしてありえるでしょうか。しかし、聖書は言うのです。「主に不可能なことがあろうか」と。

 サラにとってそうであったように、私たちにとっても、これは「信じなさい」との呼びかけの言葉に他なりません。主は私たちに「信じなさい」と呼びかけ、やがて本当の笑いを与えてくださるのです。やがて私たちはその約束の実現を見て、心から笑うことになるのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。神さま、私たちはあなたの約束の御業を心から信じることができません。「そんなことがあるだろうか?」と、皮肉な笑いを浮かべてしまう私たちです。しかし、あなたは約束の御業を実現され、私たちの乾いた笑いを、心からの笑いに変えてくださいます。「主に不可能なことがあろうか」ということを、身をもって経験させてくださいます。どうか、信じない者ではなく、あなたの励ましをいただいて信じる者にしてください。だんだん春を感じる季節となってきました。しかしまだ寒暖の差があり、感染症も流行っています。どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人の健康をお支えください。先週の火曜日に、南柏教会と深いかかわりのある山下廣先生が逝去されました。明日はつくばひたち野伝道所でその葬儀も行われます。その葬儀の上に、あなたの御支えとお導きをお与えください。ご遺族の上にあなたの慰めと平安をお与えください。この拙き感謝と願いを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 3月15日(日) レントⅣ

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ルカによる福音書22章31~34節

説  教   「ペトロの裏切りの予告」  藤田百合子

 

主日礼拝   

午前10時30分      司式 三宅恵子長老

聖     書

 (旧約) 申命記8章2~6節

 (新約) ヤコブの手紙1章12~15節

説  教   「命の冠をいただくために」  藤田浩喜牧師

低くされていることの誇り

ヤコブの手紙1章9~11節  2026年3月1日(日) 主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 ヤコブの手紙をご一緒に読んでいますが、今日の1章9~10節前半にこう言われています。「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。」これが今日の聖書が語っているメッセージですが、すぐにはピンと来ない御言葉です。「貧しい兄弟」ということは分かりますが、その人が「高められる」とはどういうことでしょう。また「富んでいる者」というのは分かりますが、その人が「低くされる」とはどういうことを言うのでしょう。

 まず、「貧しい兄弟」はヤコブの手紙においては、社会的・経済的に貧しいキリスト者たちのことが念頭に置かれていたでしょう。当時の教会には、裕福な商人や皇帝に仕える役人のような人たちもいましたが、奴隷身分の人たちやその日その日を暮らしていくのに精一杯の人たちもいたのです。

 私たちの時代も、相対的貧困ということが問題になっています。日本人の平均収入の半分以下で生活している世帯が、15.7%(2021年)もあると言われます。そうした家庭では、食費を切り詰めるために母親が十分な食事を摂っていない。子どもたちも、金銭的な理由で大学の進学を諦めたり、家計を支えるために毎日のようにアルバイトをしていると言われます。子ども食堂が各地で開かれている背景には、そうした相対的貧困があります。

 そのような社会的・経済的貧困は、国や自治体の政策によって解消されなくてはなりませんし、様々な援助を行うことも必要です。また「貧しさ」には、社会的・経済的なものだけでなく、精神的な貧しさや肉体的な貧しさといったものもあるでしょう。それらの「貧しさ」自体が良いものであるとか、誇れるものであるというのでは、勿論ありません。

「自分が高められることを誇りに思いなさい」とあります。旧約聖書以来、「神は低き者を高めてくださる」という考えが聖書を貫いています。色んな意味での「貧しさ」に甘んじなければならないのは、確かにやるせないことです。辛いことです。しかし、人はその貧しさの中で、気づかされることがあります。神さまがその貧しさにおいて、私たち人間に近づこうとしてくださっていることです。神さまは御子イエス・キリストを、貧しい馬小屋の飼い葉桶に誕生させました。そして御子イエス・キリストを、人間の罪の償いのために犯罪者たちと共に十字架にお付けになりました。これ以上に貧しい姿はありません。しかしそれは、色々な貧しさを経験せざるを得ない人間が、そこで絶望ではなく、私たちと共にあろうとする神さまを、見出すためであったのです。傍らにおられ、共に歩んでくださる主イエスが、貧しい私たちを救いへと引き上げてくださった。罪を赦し、神の子たる身分へと引き上げてくださった。だからこそ、貧しい兄弟はそのことを誇りに思いなさい、と言われるのです。

 では、「富んでいる者は、自分が低くされていることを誇りに思いなさい」とはどういうことでしょう。富んでいる者については6行にわたって記されており、著者の強調点がこちらに置かれていることは明らかです。こちらの場合も「富んでいる」こと自体が、悪いとは考えられていません。生まれながら、様々なものに富んでいる人はいます。生まれながら富んでいるという状況を引き継いで行かなくてはならない人たちもいます。

 しかし「富んでいる者」にとって、「自分が低くされる」ということが大切です。「富んでいる者」は低くされているからこそ、自分を誇れるのであって、それ以外ではないのです。この「自分が低くされる」ですが、英語の翻訳では「恥をかかされる」、「屈辱を味わう」という言葉が使われています。自分が追い求めてきたことがダメ出しをされ、面目を失うといった感じでしょうか。今まで自分のやってきたことが否定された。そのことを誇りに思いなさいと言うのです。これは、どういうことでしょう。

 前回のところを少し思い出していただきたいのですが、神さまに対して「二心を持ってはいけない」と戒められていました。1章8節に、そのような者は「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」と言われていました。「二心をもつ」とは、神さまも信じるけれども、他のものにも信頼を置く人のことです。「富んでいる人」というのは、この誘惑が大きいのです。旧約聖書の時代から、富が神に敵対する人間の偶像になってしまうことが、何度も戒められてきました。

 地上の富は、お金を考えてみると分かることですが、この世において大変頼りになるものです。「世の中にお金で買えないものはない」と豪語する人もいます。そうでなくても、お金が自分や家族の人生を守ってくれると考えて、私たちは生命保険に入ったり、貯金をしたりするのではないでしょうか。確かに地上の富は、そういった意味で、安心と安全をもたらしてくれます。

 しかし、そのことが逆に災いをして、お金以外のものが見えなくなってしまう。

 神さまを頼みとせず、この世の富だけを頼みにするようになってしまうのです。今まで見えていた神さまのお姿が、まったく見えなくなってしまう。貧しい者は貧しさの中で神さまを見出しましたが、富める人は富に夢中になるあまり、神さまのお姿を見失ってしまう。富んでいる人には、はるかにその誘惑が大きいのです。だからこそ手紙の著者は、そのようなあり方にダメ出しをされ、面目を失い、正気に引き戻されることが、富んだ者には大切で、誇りとなると言うのです。

 そして10節後半から11節で、富を偶像としてしまう人がどんな人生を歩んでしまうか、パレスチナの自然を題材に描き出してみせるのです。「富んでいる者は草花のように滅び去るからです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消え失せるのです。」パレスチナの気候は寒暖の差が激しく、日中は灼熱の太陽が地面を照らします。それに伴い、南東のアラビアからは熱風が吹きつけ、朝に生えていた草花も一瞬にして枯れてしまうのだそうです。ある注解者は、高温に熱せられたオーブンを開けたときの熱風のようだと言っています。比較的穏やかな自然の中で暮らす日本人には想像できませんが、朝生えていた草花がどこにあったか分からなくなってしまうような激変が、そこでは起こるのです。

 富んでいる人は、外見的にも、その暮らしぶりにも、美しさを湛えていたかもしれません。その様子は人々の羨望の的であったでしょう。しかし、人の命は何の前触れもなく、突然取り去られることがあります。主イエスが話された「愚かな金持ち」のたとえ話が、思い起こされます。有り余る財産と豊かな収穫を納める倉を建てた金持ちは、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(ルカ12:19)と、自分に言いました。彼は富によって、心配のない将来を確保したと思いました。しかしまさにその夜、金持ちの命は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」という御言葉と共に取り上げられてしまったのです。

 富んだ人はますます富を追い求め、富の力で人生を揺るぎないものにしようとします。その思いはどんどんエスカレートします。しかし、富んだ者に必要なのは、人は突然地上から取り去られることのある者であり、その事態に直面したとき、富は全く無力であると悟ることです。そして、今までの生き方にダメ出しをされて、本来あるべき自分の姿に引き戻されることです。人には地上の富以上に頼りになる方がおられ、その方は私たちを愛し、死をも乗り越えさせてくださる永遠の命を与えてくださると信じることです。そのことによって、富という偶像を拝む息苦しさや束縛感から解放されます。イエス・キリストの父なる神だけを礼拝する純粋な思いと、何物にも捉われない平安な心を与えられます。だからこそ手紙の著者は、「富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい」と、心を込めて諭しているのです。

 藤井風さんというシンガーソングライター、ピアニストがおられます。岡山弁を話す素朴な感じの好青年で、とても自然体を失わずに音楽活動をされています。今や日本だけでなく海外にも活動の場を広げておられる方です。ご存じの方もおられるでしょう。この藤井風さんに「帰ろう」という歌があります。色んな聞き方ができるのかも知れませんが、私には人生を終え、世を去って行く人の思いを歌っているように感じました。ミュージックビデオを見ますと、色んな世代の人たちが、藤井さんを含め、前に向かって進んで行きます。ある人はさらにその先に進んで行き、ある人たちは進んで行く人を見送っているようにも見えます。二人で手をつないで先に行こうとする高齢のカップルも見えます。そういうシーンの続く中、二番の歌詞でこんなふうに歌われるのです。

…わたしのいない世界を/上から眺めていても/何一つ 変わらず回るから/少し背中が軽くなった。
 それじゃ それじゃ またね/国道沿い前で別れ/続く町の喧騒 後目(しりめ)に一人行く/ください ください ばっかで/何も あげられなかったね/生きてきた 意味なんか 分からないまま
 ああ 全て与えて帰ろう/ああ 何も持たずに帰ろう/与えられるものこそ 与えられたもの/ありがとう、って胸をはろう/待ってるからさ、もう帰ろう
幸せ絶えぬ場所、帰ろう/去り際の時に 何が持っていけるの/一つ一つ 荷物 手放そう/憎み合いの果てに何が生まれるの/わたし、わたしが先に 忘れよう   

あぁ今日からどう生きてこう

 曲があってこその歌詞なのですが、この地上で持っていたもの、抱えていたものを手放して、心解き放たれて、先へ向かおうとする気持ちが伝わってきました。

 こんな気持ちで世を去ることができたらいいなと、心が軽くなるような思いがしました。そして私たち信仰者には、その進む先に待っていてくださる方がおられます。私たちの歩みを、愛をもって導いてくださった神さまが、地上の命を終えた後も待っていて下さいます。そのことに、私たちは何とも言えない安らぎと希望を与えられます。二心なくまっすぐに神さまを信じる者の幸い、自分が低くされていることを誇りに思える幸いが、ここにはあるのです。お祈りをいたします。

【祈り】

 主イエス・キリストの父なる神さま、あなたのくすしき御名を讃美いたします。私たちの人生は、貧しさと豊かさに彩られています。色々な境遇に置かれる私たちです。しかし、どのような境遇にあろうとも、あなたの愛と慈しみに目を注ぎ、あなたに望みを持ち続ける者として歩ませてください。いつ地上の命が絶えるか分からないはかなさを帯びている私たちですが、持てるものや抱えたものを手放し、軽やかな心であなたの御許に進んで行くことができますよう、私たちを導いていてください。季節は少しずつ進み、寒さが残る中にも春の気配を感じます。しかし寒暖の差が激しく、体調を整えにくい季節です。感染症も流行っています。どうか、教会に連なる兄弟姉妹一人一人の健康をお支えください。この拙き感謝と切なる願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アアメン

神に知恵を願いなさい

ヤコブの手紙1章1~8節(Ⅱ) 2026年2月22日(日) 主日礼拝説教

                         牧師 藤田浩喜

 先週からヤコブの手紙を読み始めていますが、今日は1章1~8節の2回目です。先週は信仰者が試練に遭うとき、それを忍耐して受け留めることで信仰が強められていくこと、試練に遭遇する兄弟姉妹に寄り添うことができることを学びました。今日の箇所の後半5~8節では、「知恵」に欠けてはいけない、「知恵」を神さまに願いなさいと、ヤコブは勧めているのです。

 5節を読んでみましょう。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてをしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」「知恵」と言われていますが、「知恵」とはなんでしょう。長年の努力と研究によって得られた科学的知識のようなものも「知恵」と言えるでしょう。あるいは人生において様々な経験をする中で習得してきた知見やコツのようなものも「知恵」と言えるでしょう。

 しかし今日読んでいただいた旧約聖書 箴言3章13節以下で、「知恵」はこう歌われていました。13~14節「いかに幸いなことか/知恵に到達した人、英知を獲得した人は。知恵によって得るものは/銀によって得るものにまさり/彼女によって収穫するものは金にまさる。」知恵は、地上の金銀にまさる値打ちのあるものであることが分かります。そして17~18節では、こう続きます。「彼女の道は喜ばしく/平和のうちにたどっていくことができる。彼女をとらえる人には、命の木となり/保つ人は幸いを得る。」知恵はそれを得た人に、喜びと平和、命と幸いをもたらすことが語られます。そして、その知恵とは人間の知恵ではなく、主なる神の知恵であることが明らかにされるのです。19~20節です。「主の知恵によって地の基は据えられ/主の英知によって天は設けられた。主の知識によって深淵は分かたれ/雲は滴って露を置く。」

 この知恵は、人間の知恵ではなく神からの知恵です。現実をありのままに見つめながら、背後に隠されている神の御心を正しく捉えて、それに従って決断し、行動を起こさせる知恵です。その知恵は自分を愛することのできる知恵であり、自分に与えられている地上の生を大切だと知らせてくれる知恵です。箴言で歌われていたように、生きていることを喜ぶことができるようにさせてくれる知恵です。そういう知恵が私たち人間には必要なのであり、そのような知恵を神さまに願いなさいと、著者ヤコブは言うのです。

 しかし、そのような神さまからの知恵をどうやって私たちは得ることができるのでしょう。5~6節前半を読みます。「だれにでも惜しみなくとがめだてをしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」。お与えになる神さまと、疑わず信仰をもって願う人間が、ここでは呼応する関係に置かれます。神さまは、「だれにでも」お与えになります。富める者も貧しい者も、この世で重んじられている者もそうでない者も、経験のある者もない者も、「だれにでも」お与えになります。これが第一点です。

 第二点は「惜しみなく」です。神さまは出し惜しみなどなさいません。求められたものを求められたままに、気前よく出して下さるのです。

 そして第三点として、「とがめだてをしないで」です。これについてある人は、次のように注釈しています。「とがめだてをしないでという言葉が付け加えられているのは、だれかがあまり何度も神に来ることを、恐れないようにするためである。人々の中では、最も寛容な人であっても、だれかが何度も助けを願うと、前に親切にしてやったことを述べて、もう将来は助けない口実をつくるものだ。しかし、神はこのようなことはない。神は終わりも限度もつけないで、神の祝福に新しいものを加える用意がある。」神さまは出し惜しみすることもなさらず、「そんなものまで求めてくるのか」と責めたりすることもなさらずに、何の条件も取り引きもなさらずに、私たちに必要な知恵を与えて下さる、それが神さまであるということです。

 このような神さまに願うのですから、私たち人間の願い求めも神さまに呼応していなくてはなりません。100パーセント与えて下さる神さまに、人間の方も100パーセントの願い求めをしなくてはなりません。「ひたすら与えること」が神さまの本質であるなら、「ひたすら祈ること」が私たち人間の本質でなくてはなりません。だからこそヤコブは、「知恵」を求めようとするときに、「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」と勧めるのです。

 牧師である私にとって、知恵とは何よりも説教についての知恵です。毎週説教について悪戦苦闘しています。学べば学ぶほど、わからないことが増え、未知の領域が広がっていきます。また、自分の知っていること、経験したことだけを語るだけなら、すぐに尽きてしまいます。しかし求めることで、神さまは与えてくださいました。知恵なき者、むしろ知恵がない者であることを知っているからこそ、求めなければならないのです。すると思いがけなく、新しい世界が開かれてくるのです。「神に願いなさい。そうすれば、与えられるの」のです。

 反対に、そうでない求め方や願い方をするならば、どうでしょう。ヤコブは私たちの現実を見透かすかのように、こう言うのです。6節後半~8節です。「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」そういう人は「心がさだまらず」と訳されています。元々の意味は「二つの心」という言葉です。私たちの中に二つの心があって、こっちに行ったりあっちに行ったりするのです。その様は、「風に吹かれて揺れ動く海の波」にもたとえられます。風が海の波を大きく動かすことは、たとえば台風などが来たとき私たちが見聞きすることです。波にコルクが浮いていたとします。すると風が吹くとコルクはどうなるでしょう。岸辺にいたかと思うと、すぐに沖の方に流されてしまいます。留まるところを知りません。そのコルクのように、私たちの心はあっちに行ったり、こっちに来たりして、落ち着くことがありません。その結果、生き方全体が安定を欠いた、不確かなものになってしまうのです。

 その人は、二つの心、二つの魂を持つ者です。一方で神を信じていると自分のことを認めながら、他方で神を信じることの愚かさや頼りなさを心に抱いている者です。目に見えないものの中に確かさがあると思いながら、他方で目に見えるこの世の物にしっかり頼っている者です。神に向かって祈りはするけれども、同時に祈っても聞き届けられることはないと、心のどこかで考えている者です。心の内側に響いて来る上からの声に耳を傾けながら、同時に外から届くこの世の声にも従って行く者です。それが二心の者であり、心が定まらない者であり、従ってその人は生き方全体に安定を欠く者になってしまう、とヤコブは言うのです。

 こうした「二心をもつ」ことは、私たちにも無関係ではありません。それどころか、私たちは心を見透かされてしまったような「ばつの悪さ」を、感じているのではないでしょうか。しかしヤコブはズバッと、「そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません」と言います。信仰者として生き抜く「知恵」を、神さまからいただくことはできないと、断言するのです。

しかし、神さまはそのような私たちの弱さや煮え切らなさをも、ご存じです。そのような二心に揺れる私たちが、神さまにのみ、ひたすら心を向けることができるように、私たちへの愛がどれほど深く大きいものであるかを、示されます。それだけでなく、弱い私たちがひたむきに神さまに求めることができるよう、「聖霊」を与えて下さるのです。

使徒パウロはローマの信徒への手紙8章31節以下(新約285頁)で、こう言っています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」神さまは私たちすべてのために、最愛の御子をさえ惜しまずに、ささげてくださいました。神さまの私たちへの愛の深さと大きさは、御子イエス・キリストの十字架にさやかに啓示されています。このお方を他にして、私たちが依り頼むお方は他にありません。私たちはこのお方だけを見つめ、このお方だけに我が身をゆだねるとき、「我が心、さだまれり」と決断することができます。それによって私たちの生き方全体が、揺らぐことのない確かなものにされるのです。

また、主イエスご自身がルカによる福音書11章9節以下で、こう言われています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」主イエスは、あなたがたの願う神は、人間の父親よりももっと、子どもの願いを聞いてくださる方であると言われます。そこに、私たちが神さまに願い求めをする拠り所もあります。

 そしてそこで最後に主イエスは、次のように言われるのです。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。神さまは私たちが弱い者であり、煮え切らない者であることをご存じです。そのような私たちが、信仰者として生き抜く「知恵」を神さまからいただくことができるよう、神さまは聖霊を働かせてくださいます。神さまご自身が聖霊を注ぎ、私たちがただひたむきに父なる神と向かい合って生きていけるよう、私たちを整えてくださるのです。そこまで懇ろ(ねんごろ)に私たちを導いていてくださるのが、私たちの信じる神さまなのです。この神さまを心から崇め、感謝と讃美を捧げましょう。そして、信仰者として生き抜いていくための「知恵」を、一途に祈り求めていきましょう。お祈りをいたします。

【祈り】

 主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。私たちはあなたの御国を目指しつつ、地上の旅を続けています。しかし、私たちは弱く煮え切らない生き方をしてしまいます。二つの心を、行きつ戻りつしながら、天の声と地上の声の間を揺れ動きます。そこには、不安定さしかなくなく、まことの平安がありません。神さまどうか、私たちに聖霊を注いでくださり、あなたが与えてくださる「知恵」を一心に求めることができるよう、私たちを導いてください。昨日今日は暖かくなりました。春が近づいているのを感じます。しかしまだ気候は不安定で、インフルエンザなども猛威を振るっています。どうか、教会につながる兄弟姉妹を顧み、その健康をお支えください。この拙き感謝と願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。

アアメン。

次週の礼拝 3月1日(日)レントⅡ

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ルカによる福音書19章1~10節

説  教   「徴税人ザアカイ」  髙谷史朗長老

 

主日礼拝   

午前10時30分    司式 藤田浩喜牧師

聖     書

 (旧約) イザヤ書40章6~8節   (聖餐式を執行します)

 (新約) ヤコブの手紙1章9~11節

説  教   「低くされていることの誇り」  藤田浩喜牧師

執り成す人として生きる

創世記18章16~33節 2026年2月15日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今日の聖書は、アブラハムに神の使いが現れたということが書かれている箇所です。そしてこの神の使いは、アブラハムにこういうふうに言いました。17~18節です。「主は言われた。『わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る』」。

 ここで、アブラハムという人物、一人の人間に神の祝福があらためて約束されます。アブラハムとその子孫が祝福を受けるという約束です。アブラハムとその子孫は大いなる国民となって、強い国民となって、人々の中に住むと言われています。しかしそれは、アブラハムとその子孫たちだけが祝福されるという意味ではありません。こう言われていました。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」と。世界のすべての国民は、このアブラハムとその子孫の存在によって祝福に入れられるというのです。

 祝福に入るというのは、祝福の輪の中に引き入れられるということです。アブラハムとその子孫が神の祝福の中で生きることによって、周りの人々も、その祝福の中に引き入れられると言われているのです。ですから、アブラハムの祝福というのは、彼とその子孫だけが祝福されるということではありません。神の祝福の世界に生きる、そのことによって他の人々が祝福に入れられるというのです。

 信仰というのは、言うまでもなく神を知ることです。神が存在しておられることを知ること。しかし、神様がどこかにおられることを知ることだけが信仰ではありません。自分の存在が、この自分の命が祝福されているということを知ること、それが信仰です。この命が、この自分の命が神に喜ばれている、それを知ることが私たちの信仰です。そしてそのことを本当に知る人は、その喜びを他に伝えようとするのです。つまり、自分のこの命が祝福されているというその喜びを、他の人に伝えないではいられないのです。

 こんなたとえが許されるかもしれません。打ち沈んでいる人々の中に一人の喜んでいる人間がいる。そのことによって、この集団全体が支えられるということがありうるのです。あるいは、みんなが希望を失っている中に、少数の希望を失わない人間がいることによって、その全体が支えられるということが起こりうるのです。それが、信仰者がこの世に生かされていることの意味だということを知りたいと思うのです。

 沈みかけている船から、みんなが逃げ出そうとしている時に、その船の中に踏みとどまっている人間がいることによって全体が支えられる。イエス・キリストは弟子たちに、あなたがたは地の塩であると言われました。少数の、少量の塩が物の腐敗を防ぎます。少量の塩が料理全体の味を引き立てます。少数の信仰者がこの世に遣わされていることの意味は、そこにあると思います。周りを支えるものとしてそこに遣わされているのです。

 私たちはこの世の人々のことを嘆いたり、あるいは批判をしたりするためではない、そこで祈るものとしてこの世に遣わされているということを忘れてはなりません。私たちは自分の置かれている場所で、祈って支えるのです。それが信仰者のこの世における在り方です。アブラハムもそういう人間でした。

 ここに、ソドムとゴモラの街のことが出てきます。ソドムとゴモラの街には罪が満ちて、人々の訴えが神のもとに届いていると書かれています。20~21節。「主は言われた。『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡(ぎょうせき)が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう』」。

 ソドムとゴモラの街から訴えが神のもとに届いたと言われています。この「訴え」という言葉は、ある註解書では「悲鳴」という言葉で言い換えていました。「悲鳴」、悲鳴が神のもとに届いた。

神の使いはソドムに向かいました。22~23節にこう書いてあります。「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った」。

 神の使いはソドムに向かいました。これはもちろん、神の裁きを行うためです。

しかし、アブラハムはなお主の御前にいたと記されています。アブラハムは今まさに神がなそうとしておられることに、納得ができなかったからです。だから彼はなお主の御前にいた、と書かれています。

 祈るということはそういうことでしょう。神の御心だからといって、何でも受け入れて引き下がるのは信仰ではありません。それは単なるあきらめです。信仰者というのは、祈る人間のことを指しています。踏みとどまって祈る。そして祈って神様の御心を知るのです。祈らないで、ああ神様の御心だから仕方がない、というのは全然神様の御心をわかっていないのです。祈って初めて私たちは神様の御心を自分に受けとめることができるのです。

 アブラハムは神に、進み出て言います。「『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか』」(23~25節)。「主は言われた。『もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう』」。(26節)。

 アブラハムは祈るのです。まさに神が、神の使いがソドムに向かっている時に、神の前に踏みとどまって祈ります。一体神様あなたは、正しいものも悪いものも一緒に滅ぼされるのですか。五十人の正しい人があの街にいたならば、その五十人の人もソドムの罪と一緒に滅ぼされるのですか、と彼は神に問うのです。すると神は、いや五十人の正しい人がいたならば、わたしは滅ぼさないだろうと言われます。さらにアブラハムは五十人に五人欠けたらどうでしょうか、と聞きます。いや四十五人でもわたしは滅ぼさない。いや、四十人だったらどうでしょうか。いや三十人だったらどうでしょうか。いや三十人いたら、正しい人が三十人いたらわたしは滅ぼさないと神は言われます。二十人ではどうですか。そして最後に十人ではどうですか、とアブラハムは神に問います。十人の正しい人がいたらその十人のために滅ぼさないと、神は約束されます。

 ここでアブラハムは、ただ祈っているのではありません。勇気を振り絞って、彼は迫っているのです。23節に「アブラハムは進み出て言った」と、神の前に進み出て言ったと言われています。それから27節では、「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます」というふうに彼は神に祈っています。塵あくたに過ぎない自分ですが。そうやって数を減らしながら彼は勇気を絞って神様に祈り続けています。身を削るようにして彼は祈っています。神と向き合うということは、楽なことではありません。

 私たちは、祈るということについてよく知っています。そんなに楽ではない。つまり、それが誰かとおしゃべりするようなことであるならば、もっと簡単に私たちには祈ることができるでしょう。しかし、そうではない。ちょうど波が岩にぶつかるように、ぶつかって砕けるように、人は神に向き合いながら変えられていくのです。自分が打たれる経験をする。神に祈りながら自分が砕かれる経験をする。そうやって自分が変えられながら、神様の御心がわかってくるのです。アブラハムは祈りながら、神の御心がわかってきました。それは、この世の人々を惜しむ神様の御心です。この世の人々を愛おしむ神の御心、それが祈りの中で、祈りながら彼にはわかってきたのです。

 27節「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます」、とアブラハムは言います。彼は塵あくたに過ぎない自分だということを自覚しています。神の御前に立つとそのことはよくわかります。自分は神様に何かを頼む、祈る資格なんかはある人間だとは思わない。しかし彼は祈るのです。なぜならば、赦されていることを知っているからです。自分は赦されている人間だということを知っているから、祝福されている人間だということを知っているから、彼は敢えて祈るのです。つまらない人間が、受け入れられていることを知っているから、だから彼は祈るのです。この塵あくたに過ぎない者の祈りを聞くために、神は私たちを救い出してくださっているのです。この私たちの祈りを聞くことを神様は望んでいてくださる。そのために私たちは救い出されているのです。

 五十人いたら、という祈りから、もし十人しかいなかったらという祈りに変わります。それでもこの街全体を救っていただけますか。そして彼は十人のために滅ぼさないという神の答えを引き出します。そして、それ以上は聞きませんでした。一人ならどうですかということを聞くこともできたでしょう。しかしアブラハムは、それ以上は聞きませんでした。なぜなら彼は理解したのです。一人の正しい人がいたら、神はこの街を滅ぼされないのだということを。一人の正しい人のゆえに街全体は滅ぼされないのだ、ということを彼は理解しました。だから彼は、これ以上は祈らなかったのです。

 私たちは救い主イエス・キリストの十字架上の祈りを思い出します。ルカによる福音書23章34節の祈りです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。十字架の周りには、このキリストを十字架につけた人間たちが騒いでいます。罵っています。自分たちの傲慢と思い上がりによって、罪なきものを十字架に抹殺しようとしている人間たちが、十字架の周りにひしめいています。そしてもしこの群衆を滅ぼしてしまえば、この傲慢な思い上がった人間を滅ぼしてしまえば、それで問題は解決するのです。つまり、罪人は滅ぼしてしまえば、これで問題は解決するのです。

 しかし神は、そのように問題を解決しようとはなさいませんでした。ここにイエス・キリストの一つの祈りがあるのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか知らないのです」。人々の罪ゆえの呪いを神から一身に受けながら、イエス・キリストは十字架の上でそのように祈られました。

 この祈りによって私たちは救われています。この祈りによってこの世は守られています。私たちのうちの誰か、どこかに正しい人がいるのではないのです。義人はいない。一人もいない。誰もいません。しかしこの世界には正しい一人がいるのです。十字架のイエス・キリスト。だからこの世界は捨てられません。この世界は滅ぼされません。この世界は呪われません。だから私たちも呪われてはいない、呪われない、そのことを私たちは知っています。

 このキリストの祈りを知っている私たち、私たちもこの世の只中で祈るのです。この世のために私たちも祈る、自分の周りにいる人々のために私たちも執り成しの祈りをするのです。なぜならそれが神の国の業だからです。そうやって私たちは神の国の業に、この罪人が参与していくのです。

 多くの人々はこの世にあって、この世を嘆き、この世を恨み、この世の人々を批判する。しかし、私たちはこの世の只中にあって、あのイエス・キリストがしてくださったように、いや、今もこの世がイエス・キリストの祈りによって支えられていることを知っているから、私たちも遣わされた場所で祈る人間になるのです。執り成しの祈りをする人間になるのです。

 それが、神の民としてこの世に遣わされている私たちの存在の意味だということを忘れてはなりません。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。アブラハムの祈りを通して、私たちがひとりのお方イエス・キリストの祈りゆえに救われていることを知りました。どうか、主に倣って私たちも、世のために執り成しの祈りを捧げ続けていくことができるようにしてください。群れの中には、病気の兄弟姉妹、高齢のため困難を抱えている兄弟姉妹がおります。どうか、神さまが兄弟姉妹と共にあって、一人一人に励ましと平安を与えていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  2月22日(日)レントl

日曜学校  

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    創世記11章1~9節

説  教   「バベルの塔」  山﨑和子長老

 

主日礼拝   

午前10時30分       司式 山根和子長老

聖     書

 (旧約) 箴言3章13~20節   

 (新約) ヤコブの手紙1章1~8節(Ⅱ)

説  教   「神に知恵を願いなさい」  藤田浩喜牧師

試練に出会うときは

ヤコブの手紙1章1~8節(Ⅰ)2026年2月8日(日) 主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今日からヤコブの手紙をご一緒に読んでいきたいと思います。ヤコブの手紙は、ヤコブという個人が送った手紙と考えられています。このヤコブとはだれか、12弟子の一人であるゼベダイの子ヤコブなのか、ゼベダイの子とは違う方のヤコブではないか。また、主の兄弟である弟ヤコブではないかとも言われています。学者の間でも結論は出ていませんが、主の兄弟ヤコブを尊敬し、彼の名前を借りて書かれた手紙ということにしておきたいと思います。手紙の受取人はだれか、今日の1章1節は、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」と言っています。この手紙の書かれた紀元1世紀末に、旧約聖書のイスラエルの十二部族はもはや存在していません。しかし主イエスに呼び集められたキリスト教会が、新しいイスラエル、新しい12部族として立てられていました。ヤコブはおそらく当時地中海世界で誕生していた各地のキリスト教会に向けて、この手紙を書いたのでしょう。その意味では新しいイスラエルに属する現代の私たちにも、この手紙は向けられているのです。

 ヤコブの手紙は宗教改革者マルティン・ルターから「わらの書簡」と呼ばれました。主イエスの名が2回しか出てきませんし、主の十字架と復活のことがどこにも触れられていないからです。大切な教理を欠いている、内実が無いということで「わらの書簡」と呼ばれたのでしょう。しかし、多くの注解者が言うように、この手紙はそうした教理や信仰上の教えを前提とした上で、キリスト者の具体的な生活やその行いについて、鋭く教えを述べているのではないでしょうか。主イエスを信じる信仰によって救われたキリスト者が、その救いにふさわしくどのように聖化の生活を送ったらよいのか。そのことを旧約の箴言のように、格言風に説いているのがヤコブの手紙と言えるように思います。「箴言」は漢字文化の中で命名されたものですが、ツボを突く言葉という意味を持っています。新約の箴言であるヤコブの手紙も、私たち信仰者の日頃の生活や行いを、ツボを突くような鋭さで問い直してくれるのです。

 それでは本文を見ていきましょう。1章2節にはこう書かれています。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」この御言葉には驚かされます。試練とは、私たちの生活を一変させてしまうような困った出来事、つらい出来事、悲しい出来事です。私たちは試練に遭うと動揺し、立ちすくんでしまいます。それなのに、試練に遭ったらこの上ない喜びと思いなさいとは、どういうことでしょうか。これは一般社会の人たちが、受け入れられることではありません。神さまを信じ、救い主イエス・キリストを信じるキリスト者が、その信仰のゆえに受け入れるべきことだと思います。

 「試練」という言葉は、元の言葉で「ペイラスモス」と言います。これは「試練」と同時に「誘惑」という意味でもあります。ある人は「試練は神が信仰者を鍛錬し、成長させ、新しい命を約束された者にふさわしくしていく、神の創造的業である」と言います。他方「誘惑は、悪意を持った者(サタン)が信仰者を神から引き離そうとし、罪へと近づけ、滅びへと誘うものである」と言います。私たち人間は、生きている間に、困難な出来事、つらい出来事、悲しい出来事に遭遇します。それらを避けることはできません。しかし、それらの出来事を、悪意を持った他者の仕業と考えたり、運が悪かったとしか考えないならば、それは私たちを罪と滅びに近づけます。私たちを神さまから引き離してしまします。反対に、たとえ困難な出来事、つらい出来事、悲しい出来事に出会っても、そこに神さまの隠れた御心を尋ね求めていく時、それは試練として私たちを鍛え、成長させ、新しい命を約束された者にふさわしい者としてくださるのです。

 もちろんそれは、容易なことではありませんし、長い時間を必要とすることです。隠された御心は簡単には分かりません。私たちは、荒れ野で主イエスが40日間サタンの試みを受けた時、聖書の御言葉によってその試みを退けたことを思い起こします。また、ゲッセマネの園で十字架の死という苦い杯を前にした時、主イエスが血の滴るような汗を流して、祈られたことを思い起こします。神の子イエス・キリストでさえ、聖書の御言葉と切なる祈りによって、試練に耐えられたのですから、私たちの場合はなおさらです。御言葉に養われ、祈りによって力づけられることによって、初めて試練を受け留めていくことができるのです。

 さて、試練に出会うと、どうしてそれが喜びにつながるのでしょう。ヤコブの手紙はそれについてこう言うのです。3~4節です。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。ヤコブの手紙は、試練があなたがたの中に忍耐を生み出し、あなたがたを完全で申し分のない人にするというのです。使徒パウロはローマの信徒への手紙5章4節で、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と言っています。パウロが「練達」と言っていることを、ヤコブの手紙は「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になる」と、言い表しているのでしょう。ただここで言われているのは、神さまのような完全さを身に着けるということではありません。「完全な」という言葉は、「ある部分で充実し、完全である」という意味です。これは神に供えられる際にふさわしい犠牲の動物や、神に奉仕する上で適格な祭司に使われる言葉です。また「欠けたところのない」というのも、定められた目標や目的に向かって完全であるという意味です。学者が学問の入門段階を通過し、熟達した境地に達した状態や、ある人が肉体的に未成熟な年代を過ぎて、完全に成長している状態を、この言葉は表しています。つまりキリスト者が、神の前に信仰者として期待されている状態に達している、信仰者として成熟した段階に達していることが、この言葉によって表現されているのです。完全無欠の人になるということでは、決してないのです。いずれにしても、試練は忍耐を生み出し、その忍耐が私たち信仰者を成熟した状態へと至らせてくれる。だからこそ、「試練と出会うことは喜びである」と言われているのです。

 ある注解者は、キリスト者はスポーツマンのようなものだと言っています。コーチが練習量を多くすれば多くするほど、その課程は強化され、スポーツマンは喜びを覚える。というのも、勝利を得る厳しい道に、自分が次第にふさわしい者となっていくのが分かるから、と言うのです。自分の力の成長が、多くの練習を重ねることによって実感できる。それが自信になっていくということでしょう。

 それと同様のことが信仰者にも言えます。人生を見舞う色々な試練は、信仰者に忍耐を求めます。忍耐はスポーツマンに課せられた厳しい練習のように、決して楽なものではなく、つらく苦しいものです。しかし、その忍耐を、聖書の御言葉に養われ、祈りから得る力によって担い続けていくとき、私たちの忍耐力は、大きくなっていきます。忍耐する実力が着いてきます。それによって、この後どんな試練が襲ってきても、それを恐れないで、正面から受け留めることができる。信仰の実力ともいうべきものが備わっていくのです。船は嵐の時、襲い来る大波に船の舳先(へさき)を向けてまっすぐに進んで行く時、大波の中を突き進んで行くことができます。反対に大波を避けようとして舵を切ってしまうと、大波は船の脇腹に襲い掛かり、船を転覆させてしまいます。それと同様、人生の大波を前にしても、それから逃げない姿勢が、忍耐によって培われていくのです。

 また、この忍耐する信仰の実力は、他の信仰の兄弟姉妹の助けにもなります。成熟した大人は、社会の中で他者と関わりながら、他者と共に生きていきます。それと同様に、信仰に生きるということの中には、必ず他者が含まれるのです。自分のことだけでなくて、試練の中にある他者のために思いを寄せる。その人のために祈り、共に重荷を負い合う者とされていきます。他者を視野に入れることのできない信仰はあり得ません。私たちが経験する忍耐は、そういう信仰者を造り上げていくのです。

 避けることのできない試練を、臆することなく、人のせいにするのでもなく、自分に与えられたものとして、引き受けていく。同じ主を信じる兄弟姉妹が試練に見舞われた時、先に試練を受けた者として深く共感し、兄弟姉妹のために祈る、進んでその重荷の一端を担っていこうとする。そのような成熟した信仰者を、ヤコブの手紙は「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」と呼んでいるのです。

 書物からの受け売りですが、ある訪問者が、銀細工人がるつぼで銀を精錬するのを見ていたそうです。銀細工人はるつぼの下に火をつけ、火がだんだん強くなっていきます。その間ずっと、銀細工人はそのるつぼの中を入念にのぞき込んでいるのでした。不思議に思って訪問者は尋ねました。「なぜ、そんなにじっと見ているのですか。何を探しているのですか。」「私は私の顔を探しているのです。」これが答えでした。「銀の中に私自身の顔が映るようになると、私は仕事をやめます。それが完成のしるしだからです。」銀細工人は、不純な物を取り除いて銀を完全なものにするために、銀を火にかけました。そして、るつぼの中をのぞきこみ、自分の顔がはっきり映るようになった時、そこに完成のしるしを見たのです。試練というのは、私たちの上に神の怒りを下す、刑罰のようなものではありません。試練は私たちに、神さまの愛を注いでくれます。神さまは苦悩や試練や悲しみを通して、私たちの中に神さまの御姿を探し求めておられます。それは神の子のしるしであり、そこに神さまは完成のしるしをご覧になるのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」この聖句に込められた神さまの深い御心を、私たちは聞き逃さないようにしたいと思います。お祈りをいたします。 

【祈り】 主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。私たちは人生において、さまざまな出来事に見舞われます。その出来事に私たちはたじろぎ、動揺してしまいます。しかし、そうした出来事を、私たちに与えられた試練として受け留めさせてください。その試練の意味は、容易に知ることができません。しかし、主イエスがそうであったように、御言葉によって、あなたに祈ることによって、この試練を受け留めさせてください。

昨日からこの冬一番の寒さが続いています。教会につながる兄弟姉妹の心身の健康を支え、一人一人に平安を与えていてください。今日から始まります新しい一週間、それぞれの場であなたを見上げつつ過ごさせてください。今日はまた、国政選挙が行われています。どうか私たちの国を顧みてくださり、私たちの国があなたの御心に適った歩みをすることができるよう、導いていてください。この拙き感謝と願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アアメン。