創世記17章1~14節 2025年10月26日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
アブラムが、75歳で神様から召し出されて故郷を離れて出発してから、随分日が経ちました。出発の10年後に、アブラムは妻サライの女奴隷ハガルによって、イシュマエルという息子を得ました。それからさらに14年が過ぎ、イシュマエルは13歳くらいになっていたことでしょう。そこへ、神様は再び語りかけられます。アブラムは99歳になっていました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」(17:1)。
この言葉はアブラムに語られた言葉ですが、同時に聖書全体に響いています。聖書に記されているすべてのことは、もとを正せば、この言葉に由来していると言えるかもしれません。その神様は全能であるだけではなく、全知の神でもあります。全知全能の神。すべてのことを知り、なんでもできるお方。そのお方が、「あなたはわたしに従って歩みなさい。そして全き者となりなさい」と呼びかけられるのです。私たちは、この神様に従って歩むことが求められている。そこにこそ、人間の本来的な姿があり幸せの秘訣があるからです。
「全き者となりなさい」という言葉は、私たちを戸惑わせるかもしれません。神様は全きお方ですが、私たち人間にも同じような完全さを求められるのでしょうか。「全き者」というのは、元来は、傷のないものを意味した言葉だそうです。「神様の約束に信頼し、穢(けが)れのない人生を送れ」、ということでしょう。しかし私たちは、誰だってそう願っているものです。そうしたいと思っても、それができないので悩み、苦しむのです。ただし神様もそのことをご存じです。だからこそ、それを全うできる道をつけてくださるのです。「わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう」(17:2)。
「あなたを増やす」というのは、子孫を増やすということでしょう。さらに「これがあなたと結ぶわたしの契約である」(17:4)と、言葉を続けられるのですが、その契約には、具体的に二つのことが語られていました。
ひとつは、アブラムが多くの国民の父となること。アブラムの子孫から王となる者が出ること。そしてこの契約がアブラム一代だけではなく、アブラムの子孫にも続くということでした(17:4~6)。
もうひとつは、「カナンのすべての土地を、アブラムとその子孫に永久の所有地として与える」ということでした(17:7~8)。子孫繁栄の約束と土地所有の約束です。この箇所が現代のイスラエルとパレスチナの間に暗い影を落としていることは、申し上げなければなりません。
続いて、その契約にちなんで、名前を改めなさい、と言われました。「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい」(17:5)。ここに初めてアブラハムという名前が登場しました。ちなみに「アブラム」とは「高い父」、あるいは「父は高くにいます」という意味であり、「アブラハム」とは、「多くの国民の父」という意味です。
新しい名が与えられるということは、その存在が新しくされることです。だいぶ昔のこと、イースターに洗礼を受けられた方から「先生、洗礼名はいただけないのでしょうか」と聞かれました。私は考えたこともなかったので、とっさに「プロテスタントでは、普通、洗礼名は付けません。私ももっていないのですが……」と答えましたが、その後調べてみたところ、洗礼名の歴史的経緯が少しわかってきました。洗礼名は、元来、聖人等の名前が付けられていて、それはその名前の聖人による守護を願うということと結び付いていたようです。聖人崇敬を拒むプロテスタントは洗礼名を付けることもしなかった、ということかと思います。
聖書の中には、他に、神様からイスラエルという名前をもらったヤコブ(32:29)、イエス・キリストからペトロという名前をもらったシモン(マタイ16:18)、あるいはクリスチャンになったときに、サウロから改名したパウロ(使徒13:9)などの例があります。新しい名前が与えられるというのは、その人の信仰生活において、それなりに意味のあることであるかもしれません。
さて、この子孫繁栄の約束と土地所有の約束の間に、こう語られています。
「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」(17:7)。
なぜ神様がアブラハムと、そしてその子孫と契約を立てられるのか。それは、本当の意味で、「あなたとあなたの子孫の神となる」ためだということなのです。その契約を受け入れたしるしとして、「割礼を受けなさい」と言われました。
ノアの契約のしるしは大空にかかる虹でしたが(9:13)、ここでは、アブラハムの体にそのしるしが刻まれます。割礼というのは、男性器の包皮を切り取るという儀式です。割礼は神とアブラハムとの間の、そしてイスラエル共同体との契約の調印のようなものです。これは、神のものである、神の所有であるというしるしです。そこには恐らく罪の穢(けが)れを切断して、清めるという意味が込められているのだと思います。
もちろん割礼は過去の慣習ではなく、今日に至るまで、ユダヤ教の人々の間でずっと守られてきています。イスラエルというのは、「割礼を身に受けることによって形成される共同体である」ということもできるでしょう。割礼を受けているかどうかが、神の民であるかどうかのしるしとされたのです。
ユダヤ教では、割礼を受けることで、神の民の一員とされました。だから男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、奴隷も割礼を受けるように促されたのです。「それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる」(17:13)と言われました。
しかし聖書を読んでいきますと、ただ割礼を受けただけでは意味がない。内実がそれに伴われなければ意味がないということが、語られるようになっていきます。「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない」(申命記10:16)。新約聖書でも、使徒パウロが、「割礼を受けていても、神様の意志(律法)に従って歩んでいなければ意味がない」と言っております。「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」(ローマ2:25)。
さて、これは私たちクリスチャンの信仰に、どう関係しているのでしょうか。ひとつ大事なことは、割礼は私たちキリスト教の洗礼の予型となっているということです。私たちの洗礼を、ある形で予め映し出しているのです。割礼と洗礼には、共通する部分と違う部分の両方があります。
大前提として、割礼は男性だけの儀式であるということを指摘しておく必要がります。女性はその意味で、契約の受け取り手としては排除されています。
さて、割礼が男性に対してだけの契約のしるしであるのに対して、洗礼というのは男にも女にも等しい恵みです。それは決定的な大きな違いであると思います。
違いについて、もうひとつ言えば、洗礼というのは、それに先立ってその前提となる出来事がありました。それは、イエス・キリストの十字架と復活です。洗礼は、そのことに立ち返り、そのことを思い起こすものです(ローマ6:4~11)
コロサイの信徒への手紙の中に、次のような文章があります。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです(コロサイ2:11~13)。味わい深い言葉であります。これが新しい契約の中身です。古い契約に対して新しい契約、旧約に対する新約というのは、こういうことから来ています。
割礼というのは、はっきりとわかる形で体に刻まれるだけに、形骸化しやすいという面があるかもしれません。割礼を受けているから、もう大丈夫。事実、そういうことがイスラエルの歴史の中で起こって来たので、預言者たちはそれを叱責したのでした。パウロもそういう形だけの割礼を問題にいたしました。
しかしこのことは同時に、私たちの信仰儀式(聖礼典)である洗礼や聖餐も、同じように形骸化する可能性があることを、皮肉にも指し示しているのではないでしょうか。「洗礼を受けたから、もう大丈夫」。「聖餐を受けているから救われている」。それを形骸化させないためにも、いつもイエス・キリストの十字架と復活という、信仰の原点に立ち返って行かなければならないと思います。
最初に引用した言葉ですが、神は、アブラムにこう言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」(17:1)。私たちは全き者にはなれないと思ってしまう。しかしそのことを、神ご自身が全うさせてくださるのです。全き者になれない私たちが全き者として歩むために、神はイエス・キリストを遣わしてくださいました。そして、全き者になれない私たちが全き者として歩むために、その御子を十字架にかけることによって、私たちの罪を贖ってくださったのです。
神様がこの契約を全うしようとすれば、その道しかなかったとも言えます。この言葉(17:1)を発せられたときから、キリストへの道がはるか彼方に見えていたと言ってもよいのではないでしょうか。それが、全能の神が、すべての選択肢の中で選び取られた道でありました。私たちが生きるために。私たちを全き者としていただくために。
私は、割礼と洗礼、イスラエルの信仰共同体とキリスト教会を並べてみて、改めて心に留めたことがありました。それは、割礼が明らかにそうであるように、洗礼もまた、共同体の業だということです。イスラエルというものが割礼を身に受けることによって形成される共同体であるのと同じように、教会は、洗礼を身に受けることによって形成される共同体です。洗礼は、一見、個人の信仰の決心のしるしであるように思われがちです。しかし、私はそうではないと思います。洗礼を受けるということは、信仰共同体の一員になるということなのです。神様とその人が一対一で向き合ってクリスチャンとなり、そういう人が集まって教会を形成するのではありません。共同体の中に加えられるという形で、私たちは召されるのです。私たちの教会も、そのようにして形成された信仰共同体です。
教会はキリストの体です。その教会において、神様の業がなされていく。キリストは教会のかしらであって、教会はキリストの体です。イエス・キリストは、今何を望んでおられるのか。今、この地上で何をしようとしておられるのか。それを祈りつつ模索し、実現していくのが教会です。主イエスの御後に従い、地の塩として働くこと、世の光として世を照らすこと。それが、私たちがこの共同体に加えられた意味なのだと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。神様、あなたは私たち信じる者たちをあなたの民とするために、契約を結んでくださいました。旧約の割礼、新約の洗礼はその契約のしるしです。そしてイエス・キリストは、私たちが神の民として、全き者として生きていくことができるように、ご自身を十字架に付けてくださいました。どうか私たちを、このイエス・キリストの十字架と復活を仰ぎ見つつ生きる者として導いていてください。季節は急激に進み、冬の始まりを思わせる日が続いています。どうか、教会につながる兄弟姉妹の健康をお守りください。群れの中には、高齢に伴う困難を抱えている者、人生の試練の中にある者、大切な存在を失って悲しみの中にある者がおります。どうか、ひとりひとりと共にあって、あなたの慰めと平安を与えていてください。この拙き感謝と願いを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。