次週の礼拝  9月21日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    創世記2章7~17節

説  教   「土のちりで形づくられた人間」 高橋加代子

主日礼拝   

午前10時30分         司式 山﨑和子長老

聖     書

 (旧約) ヨナ書4章4~12節  

 (新約) マルコによる福音書14章32~42節

説  教   「心燃える祈りを」  藤田浩喜牧師

永遠の中に生まれた者

マルコによる福音書14章27~31節  2025年9月7日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 私たちは信仰の歩みにおいて、つまずくということがあります。必ずあります。大きなつまずき、小さなつまずき、人それぞれいろいろあるでしょうが、「私はつまずいたことはない」と言い切れる信仰者は一人もいないでしょう。何につまずくのか。それも人それぞれでしょう。

 つまずくというのはどういうことでしょう。そこにあるとは思ってもいなかった石につまずく。石があるのは分かっていたけれど、それを避けたつもりで避けきれずにつまずく。階段は終わったと思ったら、もう一段あってつまずく。足を上げたつもりだったのに、十分に上がっていなくて段差につまずく。つまずくというのは大体そういうことでしょう。

 信仰においてつまずくというのも、そういうことです。こうなると思っていたのにそうならない。あるいは、思ってもいなかった出来事に遭ってしまう。例えば、キリスト者になれば、真面目にキリスト者として生活していれば、神様が良くしてくれると思う。ところが、とんでもないことが起こる。本当に神様は自分を愛してくれているのか、守ってくれているのか、分からなくなる。この場合、神様につまずいているわけです。これはなかなか深刻です。あるいは、人につまずくということもあるでしょう。あの人にこう言われた。あれでもクリスチャンか。クリスチャンなんて、牧師なんて、教会なんて、信じられない。そういうこともあるでしょう。これは人につまずいているわけです。これもなかなか深刻です。あるいは、自分はよい人だと思っていたけれど、自分の一言で人をひどく傷つけてしまったことに気づかされる。自分は何と愛の無い人間かと思わされる。イエス様を信じてもちっとも変わらない。これは自分につまずいたわけです。  

 このように、神様につまずく、人につまずく、自分につまずく、いろいろなつまずき方がある。しかし、共通しているのは、神様はこういう方だ。教会とは、牧師とは、キリスト者とはこういうものだ。あるいは、自分はこういう人間だ。そのような自分の考え、理解の仕方、思い込みと言ってもよいのかもしれませんが、それが崩れる、崩される。そこでつまずくということが起きるのだろうと思います。自分の思いが裏切られる、破られる、崩される。これはとても辛いことではあるのですが、私たちの信仰の歩みにおいては、必ず起きることなのです。

 どうして、そのようなことになってしまうのでしょうか。私たちは誰だってつまずきたくない。信仰のつまずきなど知らずに、天の御国へと真っ直ぐ歩んでいきたい。そう思っています。にもかかわらず、必ずつまずきは起きる。どうしてでしょうか。

 それは、この自分の思い、考え、見通し、そのようなものの根っこに、自分を頼る、自分を誇るということがあるからなのです。キリスト教の信仰は、ただ神様を頼るということですから、この自分を頼り自分を誇るという心は、打ち砕かれていかなければなりません。その打ち砕かれる時に避けられないのが、つまずきということなのではないでしょうか。打ち砕かれたくない私が抵抗する。正しいのは私だという所に立ち続けようとする。そこでつまずくのです。その意味では、つまずくということは、私たちの信仰の成長においてはどうしても必要なこと、とても大切なことなのだとも言えるのです。このつまずきの時にどうするのか。信仰を捨てるのか、祈るのをやめるのか、教会に来るのをやめるのか、聖書を読むのをやめるのか。それとも、そのつまずきの中でなお聖書を読み、祈り、礼拝に集い、奉仕を続けるのか。このどちらの歩みをするかで、私たちの信仰の成長は全く違ったものになるのです。つまずきの時こそ、特別な成長の時、気づきの時、恵みの時なのです。その時にこそ、私たちは自分が何者であり、主イエスはどういうお方なのか、福音とは何か、そのことがはっきり示されるからです。

 今朝与えられた御言葉において、主イエスは弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われました。ちょうど、過越の食事を終え、ゲツセマネの園に向かわれる途中のことです。このゲツセマネの園で主イエスは祈られ、その祈りが終わると、ユダの裏切りによって捕らえられてしまいます。弟子たちと一緒にいるのはあと数時間。主イエスはもう、十字架への歩みを始めておられます。その緊迫した時の流れの中で、主イエスが弟子たちに言われた言葉です。少し前に過越の食事の席で、主イエスは弟子の一人がわたしを裏切ろうとしていると告げられたばかりです。そして今度は「あなたがたのうちの一人」ではなく、「あなたがたは皆」です。弟子たちはみな、わたしにつまずくと告げられたのです。例外はないのです。

 そして、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と言われました。これはゼカリヤ書13章7節の引用ですけれど、主イエスがここで言おうとされたことははっきりしています。「羊飼い」は主イエスでしょう。「羊」は弟子たちのことです。とすれば、「わたし」とは父なる神様ということになります。つまり、神様が主イエスを打つ。十字架にお架けになる。すると、弟子たちは散ってしまう。主イエスを見捨てて逃げてしまう。そう告げられたのです。主イエスは御自身が十字架にお架かりになった後、何が起きるのか、正確にお語りになったのです。そして実際、その通りになりました。

 これを聞いたペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と明言します。この時のペトロは本気でそう思っていたでしょう。口から出まかせに言ったのではないと思います。しかし、主イエスはそのペトロの言葉を受けて、30節「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と告げられました。とても具体的です。ペトロは自分の言葉が、主イエスに信用されていないと思ったのでしょう。ですから、さらに力を込めて主イエスに言います。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」そして、他の弟子たちもペトロと同じように言ったのです。

 私たちはこの話の結末を知っています。ペトロは主イエスの予告通り、主イエスが大祭司のもとで裁かれている時、大祭司の中庭において、主イエスを「知らない」と、三度主イエスとの関係を否定したのです。そして、鶏が鳴きました。何もかも、主イエスがお語りになったとおりでした。

 主イエスはどうしてこの時、弟子たちがみな散ってしまうこと、そして、鶏が二度鳴く前にペトロが三度自分を知らないと言うことを告げたのでしょうか。理由ははっきりしていると思います。ペトロが、そして弟子たちが自分につまずき自分を捨てて逃げてしまうことを主イエスは御存知でした。けれども、そのつまずきを彼らの信仰の気づきの時とするため、ペトロや弟子たちの信仰を、失わせないようにするためだったのです。

 これほどはっきり予告されたので、ペトロは、この主イエスの言葉を忘れることはありませんでした。そして、主イエスを三度知らないと言ってしまった時、何もかもが主イエスの言われたとおりであったことを知ります。自分の弱さ、不甲斐なさを、主イエスは全て御存知であったと気づくのです。自分は知らなかった。しかし、主イエスは御存知であった。そのことを知るのです。

 そして、主イエスはこの時十字架を語ると同時に、28節で「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と告げています。十字架の死の後、三日目に復活する。そして、ガリラヤに行く。ここで主イエスは「あなたがたより先に」と言われました。それは、文字通り弟子たちよりも早くガリラヤに行くという意味と、「先頭に立って」という意味とに読むことができます。

 主イエスの十字架を見た弟子たちは、もうこれですべてが終わったと思ったでしょう。また、自分は主イエスを裏切ってしまったという自責の念を持ったことでしょう。弟子たちは主イエスの十字架につまずいたのです。しかも、自分は決して裏切らない、つまずかないと言っていたのに、あっさりと裏切ってしまった。そのような弟子たちに、復活された主イエスはその御姿を現されたのでした。そして、復活された主イエスは、彼らを再び弟子として召し出されたのです。復活された主イエスは、自分を見捨てて逃げ去った弟子たちに対して、恨み言一つ言われませんでした。それどころかこの弟子たちに、全世界に出て行って福音を宣べ伝えることをお命じになったのです。そして、御自身がその先頭に立って行かれると告げられたのです。

 弟子たちが主イエスに伝えるように命じられた福音とは何でしょうか。主イエスを信じて、頑張って主イエスに従いましょう。そして救いに与りましょうということでしょうか。それは、十字架の前までペトロが持っていた信仰のあり方です。他の誰がつまずいても私はつまずかない。たとえ一緒に死ぬようなことになっても裏切らない。ペトロは本気でそう思っていました。そうすることが信仰者の道であり、主イエスの弟子たる者の姿だと思っていました。しかし、彼はそうできなかったのです。

主イエスはそのことを百も承知で、自分を弟子として召し出してくださっていた。しかも、そのような私を、再び弟子として召し出してくださった。この主イエスの赦しと召しこそが福音なのです。「主イエスの十字架は、主を三度知らないと言ったこの私のために、私に代わって、私の罪の裁きをお受けになるためであった」。そのことをペトロは知りました。ペトロも他の弟子たちも、自分の中に救いに値するものなど何も無いことを知らされました。自分は立派な信仰者ではないことを徹底的に知らされました。そして同時に、そのような自分がなお神様に赦され、愛され、召されている。救われている。そのことを知ったのです。

これが福音です。ペトロも他の弟子たちも、この時主イエスにつまずいたから、主イエスが与えてくださる救いが何であるか、福音とは何であるかということが分かったのです。信仰深いとか信仰熱心であるということは、よいことであるに違いありません。しかし、私たちの信仰深さや熱心などと言ったところで、そんなものは実に頼りないものでしかないのです。主イエスはそんなことはすべて承知の上で、私たちを召し出してくださったのです。そして、私たちに先立って進み行かれるのです。

 弟子たちは、神様に対するイメージも、主イエスに対するイメージも、すべて十字架で砕かれたのです。自分は漁師という仕事も捨てて主イエスに従ってきた。主イエスを裏切ることなんて絶対に無い。そう思っていた自分に対するイメージまでも粉々に砕かれたのです。そして、福音を知ったのです。まことの神様と出会ったのです。復活の主イエスと出会ったのです。

 自分に自信のある人は、信仰の歩みにおいてその自信を砕かれることを必ず経験します。牧師も同じことです。何度も何度も経験します。それは、何度砕かれてもこの自分への自信というものは、その度に頭をもたげてしまうからです。実に手強い、実にしつこいのです。それが私たちの罪というものなのです。神様を信頼するのではなくて、自分の能力、見通し、経験というものに頼る。何度砕かれても、この不信仰が頭をもたげてくるのです。神様はこの不信仰を、まことに深い愛をもって打ち砕いてくださるのです。そして、そこに起きるのがつまずきです。だから、私たちは必ずつまずくのです。何度でもつまずくのです。

 しかし、つまずきの中で神様の愛と真実は私たちを離れているのではありません。そうではなく、その時にこそ、神様の愛と真実とは私たちに豊かに注がれているのです。傷つくことによってしか気づくことができない愚かな私たちのために、神様はつまずきをも与えてくださるのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を褒め称えます。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。神様、私たちは信仰生活においてつまずくことがあります。しかしそれは私たちを、あなたに真実に依り頼む者とするための、大切な成長の機会であることを示されました。つまずきを経験した時にこそ、私たちが祈り、聖書を読み、あなたの御心を問い続けることができますよう、弱い私たちを強め導いていてください。9月に入りましたが、まだ厳しい残暑の日々が続いています。どうか、兄弟姉妹の心身の健康を支え、この季節を乗り切ることができますよう、導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

次週の礼拝  9月14日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    創世記1章26~31節

説  教   「神にかたどって創造された人間」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分         司式 三宅恵子長老

聖    書(旧約) 創世記16章7~16節  

(新約) コリントの信徒への手紙一10章13節

説  教   「逃れる道を備えられている」  藤田浩喜牧師

いのちを満たすために

マルコによる福音書14章22~26節 2025年8月31日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 プロテスタント教会はある時代まで、毎月第一日曜日に聖餐を守るということをしておりませんでした。日本キリスト教会でも、クリスマス、イースター、そして、夏期総員礼拝、冬期総員礼拝と、年に四回だけ聖餐を守ったのです。この年に四回の聖餐をいうのは、宗教改革者カルヴァンの時代から、改革派教会の一つの伝統となっていました。歴代の牧師たちは、総員礼拝と呼ぶことによって、皆が聖餐に与ることを願ったのです。そして、何よりも聖餐を重んじる教会を建て上げていきたかったのではないかと思うのです。

 その思いは私も同じです。私たちの教会は、今は毎月、第一日曜の礼拝には聖餐を守っています。もちろん、クリスマス、イースター、ペンテコステにも守ります。ですから、聖餐を守るのは一年に14、5回と、以前に比べて回数は増えました。しかし、回数が増えたから聖餐を以前よりも重んじるようになったとは、単純には言えないでしょう。自分は何としても聖餐に与る。その思いが、教会員の中にみなぎっていなければならないのだと思うのです。

 私を育ててくれた小田朝美という牧師は、60年近く一つの教会で牧会された方ですが、神学校に行っておりました私に、「この教会も最近になって、やっと第一日曜の礼拝出席が他の週より多くなった。聖餐を重んじるという信仰が、少し身に付いてきたのではないかと思う。」そう言われたことがありました。この言葉を聞きながら、この牧師は何としても聖餐を重んじる教会を建てていきたい、そういう思いで牧会・伝道をしていたということが伝わってきました。牧師の思いは、皆同じなのです。私もそうです。私は、洗礼の準備会や転入の準備会で、いつもこう申します。「毎週、礼拝に集えない、そういう時がある。仕事や家庭の事情や体調など、いろんな時が来る。そういう時には、第一週の礼拝を守って下さい。何としても聖餐に与って下さい。ここにあなたの命がかかっているのですから。生涯、聖餐に与り続ける歩みをして下さい。この聖餐に、あなたの信仰を支え続ける力がある。自分が何者であり、どこに向かって歩む者であるのかを、私たちはこの聖餐のたびごとに新しく示されるのです。」

 宗教改革者カルヴァンは、「この聖餐は、弱い私共の為に主イエスが制定して下さった」と申しました。この私たちの弱さとは、キリスト以外のものに目を奪われ、心を奪われてしまうという弱さです。キリストの恵み以上に、自分を生かすものがあるかのように、地上のものに目も心も奪われてしまう弱さです。その私たちの弱さを主イエスはよくご存知であったがゆえに、その私たちの信仰の歩みを励まし、支え、導くために、聖餐を制定して下さったと言うのです。その通りだと思います。信仰、信仰と言ったところで、やっぱり、大切なのはお金だ、健康だ、家族だ、そんな思いが私たちの中に浮かんできます。そのような私たちのために、目と心と耳とを、天の父なる神様と、主イエスとに向かわせ続けるために、主イエスは聖餐を制定して下さった。そして、二千年の教会の歴史は、その出発の時から、この聖餐に与り続ける歴史だったのです。教会とは何よりも、聖餐に与り続ける者たちの群なのです。

 今朝与えられている御言葉は、主イエスが弟子たちと最後の晩餐を守られた時、弟子たちに語られた言葉が記されています。言うまでもなくこの場面は、後に教会が聖餐として守ることになったものを、主イエスが制定された所です。この主イエスと弟子たちの最後の晩餐の食事は、ユダヤ教において大切な食事として守られてきた、過越の食事でした。過越の食事、それは、イスラエルの民がエジプトを脱出し神の民として誕生したことを記念した食事でした。

 イスラエルの民がエジプトの奴隷であった時、彼らはモーセによって率いられ、エジプトを脱出いたしました。その時、エジプトの王はなかなかイスラエルの民がエジプトを出て行くことを認めません。そこで、神様は次々とエジプトの国に災いを下し、エジプトの王様にイスラエルの民がエジプトを出て行くことを認めさせようとしたのです。ナイル川の水を血に変えたり、蛙を大量発生させたり、家畜に疫病をはやらせたり、いなごを大量発生させたり、色々するわけです。エジプトの王ファラオは、災いが下ると、モーセに「もうエジプトを出て行ってよい」と言うのですけれど、災いが収まると、言葉をひるがえして、出て行ってはいけないと言う。そんなことが何度も繰り返されて、ついに最後の災い、エジプト中の初子、その家で最初に生まれた子どもを、王様の家から牢屋につながれている人の家まで、すべてが神様に撃たれて殺されるということが起きたのです。しかし、イスラエルの人の家は全て守られました。神様の裁き、神様の災いが、イスラエルを過ぎ越して行った。そのことを記念して守られたのが過越の祭りであり、その時に食べたのが、過越の食事でした。この過ぎ越しの出来事によって、イスラエルの民はエジプトを脱出し、現在のパレスチナの地に移り住むようになりました。この旅の途中、シナイ山で神様とイスラエルの民は契約をいたしました。この契約が十戒なのです。

 少し長々と、出エジプトの話をしました。それは、この主イエスが制定された聖餐が、過越の食事であったということを、どうしても覚えておいてほしいからなのです。過越の食事というのは、イスラエルの民にとって、あの出来事があったから今の自分がある、あの神様の救いの出来事こそ自分達の原点である、そのことを心に刻む食事だったということなのです。

 あの過ぎ越しの出来事は、イスラエルの民にとって、決定的な民族誕生の出来事、神様の救いの出来事でありました。しかし、あの過ぎ越しの出来事は、実に主イエス・キリストによる救いの出来事の預言、主イエス・キリストによる救いの雛型だったのです。あの過ぎ越しの出来事によってイスラエルが誕生したように、主イエス・キリストの十字架の出来事によって、新しい神の民、キリスト教会は誕生しました。あの主イエス・キリストの十字架の出来事によって、神の裁きは、私たちの上を過ぎ越して行ったのです。あの主イエス・キリストの十字架によって、私たちは神様と契約を結んだのです。あの主イエス・キリストの十字架により、私たちは罪の奴隷から解放され、神の子とされたのです。イスラエルの民が、過越の食事をして、自分たちが神の民とされたことを心に刻んだように、私たちもまた、新しい過越の食事としての聖餐に与るたびごとに、あの主イエス・キリストの十字架の出来事のゆえに、自分が罪赦され、神の子とされ、神様と契約を結んだ者であることを心に刻むのです。

 私は今、聖餐に与るたびに、自分のために主イエス・キリストがなして下さった十字架の出来事を心に刻むと申し上げました。これはまことに大切なことなのです。しかし、聖餐に与るということはそれだけではないのです。主イエスの過去を思い起こすというだけではないのです。聖餐は、過去だけではなくて、主イエスの現在と主イエスの未来を指し示します。現在の主イエスと私たちの交わり、将来の私たちと主イエスとの交わりをも、私たちに指し示しているのです。

 主イエスはパンを取り、言われました。「取りなさい。これはわたしの体である。」そして杯を取り、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」私たちは、聖餐に与るたびに、主イエス・キリストの体と血とに与るのです。これはもちろん、このパンがキリストの肉に変わる、このブドウ液がキリストの血に変わるということを意味しているわけではありません。キリストは十字架にかかり、三日目によみがえり、天に昇られたのです。復活されたキリストは、今、天におられるのです。しかし、聖霊として、キリストはこの聖餐のパンとブドウ液に臨まれるのです。そして、主イエスは「私の体を、私の血を、あなたに与える。」そう告げられているのです。私たちは、この聖餐に与るたびに、キリストの命そのものに与るのです。私の体、私の血とは、私の命ということでしょう。あの十字架にかかり、三日目によみがえられたキリストの命、復活の命、とこしえからとこしえまで生き給うキリストの永遠の命、この命に私たちは与るのです。キリストの命が私たちの中に入り、私たちと一つになる。私たちの肉体はおとろえます。しかし、キリストの命と一つにされた私たちの命がおとろえ、滅びることはありません。私たちはなお罪を犯すことがあるでしょう。しかし、最早、その罪に支配されることはありません。私たちを支配するのは罪ではなく、私たちの命と一つになって下さった、キリストご自身なのです。私たちが神様を愛し、罪を憎み、争いをしりぞけ、平和を求める者とされている。愛に生きようとする者とされている。これは、私たちの中にキリストが宿り、私たちの命がキリストの命と一つにされている確かな「しるし」なのです。

 さらに、聖餐は私たちに与えられている将来を私たちに示します。主イエスが再び地上に来られる時、私たちは復活し、永遠の命に与り、代々の聖徒と共に、神の食卓につくのです。父なる神と、主イエス・キリストと共に与る、喜びの食卓です。私たちは、その日に向かって、この地上の生涯を歩んでいるのです。私たちの地上の生涯は、何となく過ぎていく日々の連続というようなものではないのです。行き先があるのです。やがて死を迎えようとも、その先があるのです。キリストと一つの食卓を囲む神の国の祝宴であります。

 実にこの聖餐には、天地創造から終末に至る、神様の救いの御業の全て、神様の救いの全歴史が流れ込み、私たちに注がれるのです。神様の救いの御業の、過去・現在・未来の全てが、ここにあるのです。今、この聖餐の恵みの全てを語り尽くすことはできません。聖餐に与り続ける中で、聖餐の恵みの中に生きる幸いを味わっていっていただきたいと思います。

 私たちの教会は、体調を崩し、礼拝に集うことができなくなった方々のために、訪問聖餐を行います。クリスマスやイースターの近くに行うことが多いのですが、その時にしか行わないということではないのです。このことはよく覚えておいていただきたいのです。誰かが聖餐に与りたいと申し出られたなら、教会はいつでも聖餐を行う用意があるのです。牧師を煩わせてはいけないなどと、遠慮しないでください。高齢になり、体調を崩し、礼拝に集うことができなくなっても、一人一人がキリストの体であるこの教会を形作っているのです。キリストの体である教会を形作っている者とは、キリストの体である聖餐に与る者であるということなのです。それは、高齢になり、体調を崩されても、少しも変わることはないのです。私たちはキリストの体を形作っている者として、これからも共々に、この聖餐の恵みに与っていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を讃美し御栄を褒め称えます。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。今日はイエス・キリストが制定くださった聖餐式の箇所を学びました。この聖餐式の中にあなたの恵みのすべてが凝縮されていることを、あらためて知らされました。どうか、生涯にわたって聖餐式にあずかっていく中で、恵みの一つ一つを味わい知ることができますよう、私たちを導いていてください。9月を迎えようとしていますのに、まだ日中は猛暑日が続きます。夏の疲れも蓄積しています。どうか、兄弟姉妹の心身の健康を支え、熱中症の危険などからお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  9月7日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    創世記1章1~5節

説  教   「神は言われた。『光あれ。』」 髙谷史朗長老

主日礼拝   

午前10時30分  司式 藤田浩喜牧師  (聖餐式を執行します)

聖     書

 (旧約) 出エジプト記13章17~22節  

 (新約) マルコによる福音書14章27~31節

説  教   「永遠の中に生まれた者」  藤田浩喜牧師

心の痛みを知る者

マルコによる福音書14章10~21節 2025年8月24日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 マルコによる福音書を読み進めてきましたが、遂に主イエスが十字架にお架かりになる日の出来事について記されているところに入ります。今朝与えられております御言葉14章12節に、「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」とありますが、ここから15章の終わりまで、主イエスが十字架に架けられて死んで墓に葬られるまでですが、これはすべて一日の内に起きたことです。聖書の一日は、日没に始まり次の日の日没までですから、マルコによる福音書では6ページほどを用いて、この一日の出来事が記されているわけです。

 主イエスが十字架にお架かりになったその日は、「最後の晩餐」という主イエスと弟子たちが最後の食事をしたところから始まります。この食事は「過越の食事」と呼ばれる、宗教的な意味が大変深い食事でした。「過越の小羊を屠る日」とありますように、この食事では小羊を食べることになっていました。この食事については、出エジプト記の12章43節以下に記されております。

 出エジプトの時、神様はイスラエルの民をエジプトから救い出そうとされますが、エジプト王ファラオはそれを許しません。モーセとファラオの交渉がなされますが、ファラオは大事な労働力であるイスラエルの民が出て行くことを許しませんでした。そこで、神様は十の災いをエジプトに与えます。それでもファラオが許さなかったので、遂に神様は過越の出来事をもって、イスラエルの民をエジプトから去らせるようにされたのです。この過越の出来事とは、家畜を含めすべてのエジプトの家の初子(ういご)を神様が撃って死なせるという、まことに凄惨な出来事でした。こんなひどい目に遭うなら、イスラエルの民はとっとと出て行けということになって、やっとエジプトを出ることができたのです。そして、イスラエルの民は出エジプトの40年の旅を終え、ヨルダン川を渡り、約束の地に入ってそこに定着し、やがて国を建てるということになったわけです。

 つまり、イスラエルにとってこの過越の出来事は、民族の出発、民族の起源となる大変重要な出来事であり、それを覚えるための祭、それが過越祭でありました。この過越の出来事の時、神様はイスラエルの民に、小羊を屠ってその血を家の入り口の鴨居と柱に塗るように命じられました。羊の血が塗ってある家は、神様の裁きが「過ぎ越し」ていったのです。だから、過越祭なのです。過越の食事において小羊が屠られるのは、家の入り口の鴨居と柱に羊の血を塗ったことによって裁きが過ぎ越したことを覚えてのことでした。

 この祭りのために、大勢のユダヤ人たちがエルサレムに集まってきておりました。そうしますと、過越の食事をする場所を確保するということが大問題だったのです。多くの場合エルサレムに来た人たちは、友人や親戚を頼り、その家の一部屋を借りて、この食事をしたのです。弟子たちがまず心配したのも、この場所のことでした。弟子たちが主イエスに、12節「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と尋ねたのは、そういう意味です。

 それに対して、主イエスは言われました。13~15節「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」とお答えになりました。不思議な答え方です。「○○通りの誰々さんの家で過越の食事ができるように話をしてある。」そういう言い方ではありませんでした。多分、このように言われた弟子たちは、これから何が起きるのか分からなかったと思います。「とりあえずエルサレムに行きなさい。行ったら水がめを運んでいる男に出会う」と言われたのです。エルサレムのどの通りなのか、細かい指示は全く無く、ただ「水がめを運ぶ男と出会うから、その人について行って、その人が家に入ったら、その家の主人にこう言いなさい」と言われたのです。過越の祭りの時なのですから、エルサレムは人でごった返していたでしょう。こんな指示だけで本当に大丈夫なのだろうかと、私などは考えてしまいます。当時は、水がめを運ぶのは女性の仕事でしたので、男の人が運んでいれば確かに目立つし、目印にはなったでしょう。でも、これだけで本当に上手くいくのかなと、私などは心配になってしまいます。せめて、エルサレムの何々門の前とか、何々通りくらいの指示がなければ、偶然に会うことができるなどということは無いだろう。そんなふうにも思います。

 しかし、弟子たちはこの時、主イエスに言われたとおりにエルサレムに行き、無事、水がめを運ぶ男を見つけ、その人の後についていって家の主人に会い、主イエスの言われたとおりの言葉を告げると、二階の広間が用意されており、彼らは過越の食事の用意をそこに整えたのです。

 弟子たちは主イエスに言われた時、これから何がどうなるのか、見当もつかなかったと思います。しかし、主イエスは知っておられた。そして、主イエスの言われた通りになったということです。そして、無事に過越の食事の用意を整えることができたのです。ここで大切なことは、主イエスの言葉に従うということです。私たちには分からなくても、主イエスはすべてを御存知であり、すべて御存知の上で命じておられるのです。だから安心して従えばよいのです。

 しかし、なかなかそうはいかない。自分にも見通しがあり、計画があり、目論見もある。主イエスの言う通りといっても、何の見通しもないのでは、とても従うことなどできない。そのような思いが私たちの中にないでしょうか。しかし、信じなければ、主イエスの言葉を信頼して歩み出さなければ、何も起きないのです。信仰の証しは生まれないのです。

 聖書は、そのように信じることができなかった弟子のことも、ここで記しています。それがイスカリオテのユダです。ユダは、祭司長たちの所に行って、主イエスを引き渡すことを約束しました。どうして彼がそんなことをしたのか、理由は記されておりません。ヨハネによる福音書は、「サタンが彼の中に入った」(13章27節)と記し、ルカによる福音書も「サタンが入った」(22章3節)と記しています。マタイによる福音書は、ユダが「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と祭司長たちに語った(26章15節)と記して、お金のためであったことを暗に示しています。しかし、どうしてユダが主イエスを裏切ったのか、マルコによる福音書は記していません。

 はっきりしていることは、ユダは主イエスに従うことをやめたということです。ユダの中に具体的にどのような思いがあったのかは分かりません。いずれにせよはっきりしているのは、ユダは主イエスに従うことをやめたということです。主イエスに従うことをやめるということは、自分が主人になることです。主イエスの言葉や思いに従うのではなく、自分の思い、自分の考え、自分の見通し、自分の正義、自分の欲に従ったということです。

 マルコによる福音書はユダのことを、10節「十二人の一人イスカリオテのユダ」と言い、主イエスは自分を裏切る者を、20節「十二人のうちの一人で」と言っています。イスカリオテのユダは、主イエスが選んだ十二弟子の一人だったのです。ユダも主イエスの召しを受け、すべてを捨てて主イエスに従ってきたのです。それなのに、この時、主イエスに従うのをやめたのです。

 「ユダは特別に悪い人間であった。極悪人であった。とんでもない人間であった。」そのように聖書が記していたなら、私たちは「自分とユダとは関係ない、自分はこんなに悪い人間ではない。大丈夫。」そう思えるでしょう。しかし、聖書はそのようには言っていないのです。18~19節「一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。」主イエスがこの食事の席で、自分を殺そうとしている者がいると告げると、弟子たちは「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めたのです。つまり、「私ではないですよね。イエス様、お前ではないと言ってください」と、弟子たちは皆主イエスに言ったというのです。これは、「自分ではない」と言い切る弟子はいなかったことを示しているのでしょう。ユダは裏切った。主イエスに従うことをやめた。しかしその可能性は、ここにいた弟子たち全員にあったということなのです。主イエスに従うことをやめて、自分の思い、自分の計画で歩み出す。正しいのは主イエスではなく自分だ。そのように考え、行動する。その可能性は、主イエスの弟子全員にある。そして私たちも例外ではないのです。

 この時、ユダが主イエスを裏切るなどということは、他の弟子たちは誰も知りませんでした。だから、「まさか私のことでは」と口にしたのでしょう。しかし、主イエスは御存知でした。そして、このユダの裏切りによって、御自分が十字架に架けられて死ぬことも御存知でした。ですから、21節「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」と言われたのでしょう。

 だったら、どうしてそれを回避されなかったのでしょうか。ここで「わたしを裏切ろうとしているのはユダだ」と主イエスが言えば、他の弟子たちがユダを取り押さえたでしょう。しかし、主イエスはそうはされませんでした。それは、ユダの裏切りによって十字架に架けられて死ぬのが、神様の御心であることを知っておられたからです。主イエスは神様に従い通されたのです。主イエスはすべてを知った上で、十字架への道を歩まれたのです。

 さて、主イエスはここで、ユダに対してこう言われました。21節「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」この言葉は主イエスらしくない、ユダに対してあまりにも冷たいではないか、そう思われる方もいるかもしれません。しかし、主イエスはここで、ユダを突き放すようにしてこの言葉を語られたのではないのです。「その者は不幸だ」の「不幸だ」という言葉は、「ああ」という感嘆の言葉なのです。つまり、主イエスはユダに対して、「ああ、何ということか」と嘆いておられるのです。主イエスは心を痛めておられるのです。

 主イエスに召され、主イエスに従う者になった。命の祝福を受け、神様の御用に仕える者となった。何という幸いでしょう。しかし、ユダは自らその神様の祝福を捨ててしまった。何ということか。これがどんなに不幸なことかは、主イエスにしか分かりませんでした。ユダは主イエスを裏切った後、首を吊って死んでしまいます。主イエスはそれを、御存知だったのではないでしょうか。

 私たちは確かに、誰でもユダになってしまう可能性があります。そして、そうなってしまうことを誰よりも悲しみ、嘆かれるのは主イエスなのです。主イエスの召し、御心というものは、時として私たちにはよく分からないことがあります。主イエスについていけないと思うかもしれない。私たちはユダになる可能性があるし、あるいはすでにユダであるのかもしれません。しかし、私たちが何度でも悔い改めて、再び主イエスに従う者となるように、主イエスはいつも私たちを導こうとしてくださっているのです。私たちは、この主イエスの憐れみを信じてよいのです。そしてユダになるということが、どんなに不幸なことかを弁えなければなりません。それは、光を失い、希望を失い、生きる力を失い、そして滅びの道へと歩んでいくことになることなのです。聖なる畏れをもって、このことを受け止めなくてはなりません。そして、私たちを光へと導いてくださる主イエスにゆだねて、信仰者の歩みを続けてまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。神様、主イエスに「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしていると」言われた時、だれ一人「わたしは裏切りません」と断言することができませんでした。そこには主イエスの御心に従うのではなく、自分の思いや計画に従おうとする、わたしたちの罪があらわにされています。ユダを見舞った弱さは、わたしたちの弱さでもあります。どうか、そのことをわたしたちがわきまえ知ることができますよう、導いていてください。季節の変化を朝夕は感じるものの、まだ日中は猛暑の日が続きます。どうか、兄弟姉妹一人一人の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、わたしたちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

人の哀しみと神のご計画

創世記16章1~6節 2025年8月17日(日)伝道礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜 

 アブラムは、神様から「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」(15:5)という約束を与えられていました。しかしいつまで待っても、子どもが与えられる気配はありません。アブラムもサライも、もう子どもが与えられる年齢ではありませんでした。そこで彼らはある行動に移ります。サライには、ハガルという女奴隷がいました。サライはアブラムに言いました。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(16:2)。

 このハガルは「エジプト人奴隷」(16:3)でありました。アブラムとサライは、かつて飢饉を逃れてエジプトに一時滞在したことがありました(12:10~20)。エジプトを出るときには、たくさんの財産を持って出た、ということでしたので、この女奴隷ハガルもその中に入っていたのかもしれません。

 今回の16章の物語は、あのエジプト事件と通じるものがあり、しかも対比的な内容です。エジプト行きのときには、アブラムは「妻が美しすぎるので、自分が殺されるかもしれない」と不安になり、妻サライに「どうかわたしの妹だ、と言ってくれ」と頼みました。アブラムの予測は的中いたします。案の定、彼女は人目を引くのですが、予想外のことまで起きてきます。ファラオの妻にされそうになったのでした。しかしそれを神様は見過ごしにされません。神様が介入し、疫病を起こさせ、二人はエジプトから出ていくことになりました。

 さて、あのときはアブラムがサライに頼んだのですが、今回は、サライのほうからの頼みです。彼女はどうしても子どもが欲しかったのでしょう。

 サライの提案は、当時彼らが住んでいた世界ではしばしば行われていたことのようです。妻が子どもを産めない場合、妻はその夫に対して奴隷女を身代わりとして提供する。生まれてきた子どもは、女主人によって出生したものとみなされる。その子どもは女主人の所有とされる。そういう法律があったようです。古くハムラビ法典の中にあるそうです。今日の「代理母(だいりぼ)」に近いものかもしれません。これは、子どものいない主人夫婦に対しては、深い理解を示したものであると言えますが、代わりを務める女性にしてみれば、子どもを産むための代用品、目的を遂げるための手段とみなされるわけですから、いかにも非人間的な扱いです。もともと奴隷ですからそれも当然、となるのかもしれませんが。

「アブラムは、サライの願いを聞き入れた。アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった」(16:2~4)。75歳と65歳の夫婦が十年間待ち続けたのです。それでも子どもが与えられなかったわけですから、彼らの行動も無理もないように思えます。そこにはある種の悲哀が漂っています。                            

 エジプト事件のときには、アブラムがサライとファラオを巻き込んで自分を救おうとしましたが、今回はサライがアブラムとハガルを巻き込んで、自分の地位を高めようとします。かつてはアブラムがファラオをだましてサライを自分の力で動かそうとしましたが、今回はサライがアブラムを説得して、ハガルを自分の力で動かそうとします。かつてはアブラムが保身のためにサライをモノとして扱いましたが、今回はサライが自分の願いのために、ハガルをモノとして扱います。サライは、父権制社会においては女という弱い立場にありましたが、ここではさらに弱い立場の者(奴隷)を利用するのです。夫も夫であれば、妻も妻という感じがします。

 アブラムは、サライの計画を止めようとはしません。彼は、「サライの願いを聞き入れた」(16:2)とあります。もしかしたら、アブラムもそれを、つまり若い女奴隷と床を共にして子どもを得ることを、望んでいたのかもしれません。自分のほうからは言えないことを、サライのほうから言ってくれたので、喜んで床を共にした、ということもあり得るでしょう。

 これは、創世記3章の「禁断の木の実を食べる」話にも通じます。あのとき、アダムは、妻に差し出されて、その実を食べました(3:6)。この服従(妻の言いなりになること)は、あたかも今回のやっかいな問題の前兆のようです。

 このところの「(サライはハガルを)夫の側女とした」という文章は、原文では「妻として夫に与えた」という表現です。この日からハガルはサライの女奴隷であるだけではなく、アブラムの第二夫人になるのです。「あなた、これを食べなさい」と差し出されたものを食べる。ハガルが「禁断の木の実」になるのです。あのときと同じです。夫のほうは、妻から差し出されたものを、疑うことも、反対することもなく、食べる(受け入れる)のです。ここでは、アブラムは全く従属的な人間です。

 ここから物語は、三人の複雑な関係へと展開していきます。それまで全く受動的であったハガルが、一人の人間として自分の意志をもち始めます。いやこれまでも、もっていたのでしょうが、それが表面に出てくるのです。

 サライの計画通り、ハガルは妊娠いたしました。ところが、サライの想定外のことが同時に起こってしまいました。ハガルは、自分が妊娠したのを知ると、女主人を「軽んじ」始めたのです(16:4)。原文では「彼女の目に、取るに足りないものとなった」という表現です。それは立場の逆転を予期させることでした。ヘブライ人であるサライは、既婚であり、裕福であり、自由ですが、老齢で不妊の女です。他方、エジプト人であるハガルは、独身であり、貧乏であり、奴隷ですが、若くて妊娠可能です。

 ハガルはそれまで奴隷という立場でしか、ものを見ることができませんでしたが、新しいものの見方が彼女の中に入ってきました。高められていた女主人が低くなり、地位の低い奴隷が高められるのです。サライは期せずして、この状況を準備してしまったことになります。ハガルをアブラムに第二夫人として与えることによって、ハガルの地位を押し上げ、それに応じて、自分自身を低めることになってしまった。二人の緊張関係が高まっていきます。

 この二人の女性の人間関係の変化については、当然アブラムの態度も影響しているのでしょう。ハガルが妊娠したのを知ると、アブラムはハガルをこれまで以上に重んじたり、かわいがったりしたのではないでしょうか。サライにしてみればおもしろくありません。しかし今もなお、サライはアブラムの第一夫人であり、ハガルの女主人です。

 サライは、再び夫に詰めよります。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました」(16:5)。さらに神様をもち出して、「主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」(16:5)。

 彼女の論理は、どうも破綻しているように思えるのですが、もう何を言っても耳に入らない感じです。「女奴隷を与えた」ときに、その帰結は彼女も負うべきものでしょう。しかし彼女は、その責任を夫に転嫁しようといたします。彼女にしてみれば、「あなたがもっとハガルをきちんと教育すべきだった。なんで私をもっと尊敬するようにさせなかったの!」ということでしょう。その「恐妻家」に対して、アブラムのほうもたじたじです。なすすべがない。彼自身にもきっと負い目があったのでしょう。その日以降、アブラムはハガルと「べったり」になり、サライを遠ざけていたのかもしれません。それにしても妻公認のもとに、若い女を夫に与えたら一体どうなるか、サライは予期できなかったのでしょうか。

 アブラムの答えも全くふがいないものです。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい」(16:6)。もう少し、ハガルの立場に立ってやれなかったものかと思います。アブラムはアブラムで、こういう三角関係になってしまった責任を自分で負うことはせずに、その責任を放棄して逃げるだけです。

 これも、あのエデンの園で禁断の木の実を食べてしまったときとよく似ています。あのときアダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)と、女と神様に責任を転嫁しました。主体性が全くない。そして女のほうも、「蛇がだましたので、食べてしまいました」(3:13)という答えをしたのでした。

 この日から、女主人の女奴隷に対する虐待が始まりました。アブラムが責任を負わない結果を、ハガルが負わされることになります。一番弱い立場のものがそれを負わされるのです。サライは直接、彼女を虐待したかもしれませんが、アブラムのしたことも(広義の)「ネグレクト(無視)」という虐待にあたるのではないかと思います。

 そしてハガルは、耐えられなくなって、サライのもとから逃げ出すのです。このハガルは、聖書の中で、抑圧者のもとから逃げ出した最初の人間となりました。彼女はエジプト人なので立場は逆ですが、奇しくも出エジプトの先駆者となったと言うこともできるでしょう。

 さて、この物語を私たちはどう読めばいいのでしょうか。三人三様に非があることは事実です。しかしその中で、ハガルの「女主人を軽んじる」という非は最も小さなものでしょう。彼女がそういうところへ陥れられたのですから。むしろ彼女は身ごもって、これまでの自分とは違う自分の価値を見いだしたのかもしれません。ただそれが未熟なままで生の形で現れたので、上に立つ人間のハラスメントに遭うことになったのです(パワハラ)。しかもアブラムとの性行為を強いられたことはセクハラにもあたるでしょう。

 サライの行為は一番問題があるかもしれませんが、彼女もまた「子どもをもたなければ女として認められない」という、抑圧社会における被害者でもあるように思います。サライの悲哀を感じるのです。

 しかしある状況においては被害者であっても、立場が逆転するととたんに虐待者になるのです。それは今日に至るまで、いろいろな形で起こっているのではないでしょうか。

 例えば、今日におけるユダヤ人をめぐる問題もそうでしょう。ユダヤ人はこの2000年間、特にキリスト教世界において大きな差別を受けてきました。その最大の悲劇が、第二次世界大戦中のアウシュビッツを代表とするユダヤ人の大量虐殺であると思います。その責任はキリスト教世界にあります。

 その次の時代に何か起こったか。1948年中東の真っただ中にイスラエル国が建国されました。世界中の同情がユダヤ人に集まっていたときですから、国連もそれをさっと認めました。もともとそこにはパレスチナ人が住んでいたのですが、「国なき民に国を、民なき国に民を」というキャッチフレーズがまことしやかに語られました。

 しかし、その後の70年間に起こって来たことは、パレスチナ人の排除と迫害であります。ドイツを初めヨーロッパ各地であれほど痛めつけられたユダヤ人が、イスラエルにおいては加害者となってしまうのです。イスラエルの背後にある国々は、あのときアブラムがサライに言ったのと同じように、「その土地はあなたのものだ。好きなようにするがいい」と、イスラエルのパレスチナ虐待を容認しています。その結果が、今日のイスラエルによるパレスチナのジェノサイド(虐殺)にまで及んでいるのです。その中心にいるのは、そもそもの責任者であるキリスト教世界の国々です。ドイツも過去の負い目から口出しできません。私たちはクリスチャンとして、そういう重い責任から出発しなければならないと思います。そうでなければ、問題は解決しないでしょう。

 しかし神は、それぞれの悲哀を知っておられる。そして悲哀がそのままでは終わらないという約束をしておられます。イエス・キリストは言われました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)。

 このときのサライの悲しみもやがて、別の形、もっと大きな形で慰めを受けることになります。またこのとき一番大きな苦しみを受けたハガルの悲しみも、神様は忘れてはおられません。ハガルがサライのもとから逃げていく中で、神様は御使いを通して、彼女に励ましと慰めの言葉をかけられることになるのです。この物語は、この後も続いていくのです。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができましたことを、感謝いたします。創世記のアブラムの物語を通して、人間の愚かさとそれゆえに負うべき哀しみを知らされました。こうした愚かさと哀しみは、わたしたち一人一人のものでもあります。どうか、あなたに目を上げて、この愚かさと哀しみから決別することができますよう、わたしたちを導いていてください。そしてあなたが必ず与えてくださるまことの慰めを、待ち望むことができるようにしてください。まだまだ暑さ厳しい日々が続きます。どうか兄弟姉妹の心身の健康を支え、猛暑の日々を無事に過ごすことができますよう、導いていてください。この拙きひと言の切なる願いを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   8月24日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    コリントの信徒への手紙一 13章1~13節

説  教   「信仰と希望と愛」   山﨑和子長老

主日礼拝  

午前10時30分     司式 山根和子長老

聖     書

 (旧約) 詩編41編2~14節 

 (新約) マルコによる福音書14章10~21節

説  教   「心の痛みを知る者」  藤田浩喜牧師

一粒の麦、もし死なば、多くの実を結ぶべし 

                                                  

ヨハネによる福音書12章20節~26節 2025年8月10日(日)主日礼拝説教

                              長老 髙谷史朗

 先ほど司式者に読んでいただいた、ヨハネによる福音書12章の20節、21節に、「祭りのとき、エルサレムに上ってきた人々の中に、何人かのギリシャ人がきており、イエスの弟子フィリポに「イエスにお目にかかりたいのです、と頼んだ。」とあります。これに対して、主イエスは23節で、「人の子が栄光を受けるときがきた。」と述べられました。これは、主イエスが極めて重大な決意表明をされたものである、と言えましょう。

なぜかと申しますと・・・・

 主イエスはヨハネの福音書において、これまで周りの人々や弟子たちに「わたしの時はまだきていない」と幾度となく述べられていたからです。具体的には、2章4節;カナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われた時や、7章6節と8節;仮庵の祭りでエルサレムに向かおうとされた時、「わたしの時はまだ来ていない」と述べられています。また、ヨハネ福音書の記者自身も、7章30節と8章20節;主イエスが捕らえられそうになった時、「それはイエスの時がまだ来ていなかったからである。」と記しています。

 では、なぜ、主イエスは今、正に、「人の子が栄光を受けるときがきた。」と述べられたのでしょうか?

これは、20節からの「ギリシャ人の何人か」が主イエスに面会を申し込んだということが重要な意味を持つと考えられます。ユダヤ人から見ると当時のギリシャ人とは異邦人の代表であり、従って外国人全体をさしていると考えられるからです。外国人の代表であるギリシャ人が主イエスの教えを学ぶために、はるばるやってきたということは、いよいよユダヤ人の枠を超えて、主イエスの教えが、世界宣教に向かってスタートする「新しい時」の始まりを告げる決意表明であったと言えるのではないでしょうか?

「人の子が栄光を受けるときがきた。」という言葉を耳にしたユダヤ人たちは、ついに積年の恨みであるローマを打ち破り、主イエスが新しいイスラエル王国を建設する栄光の時を一瞬夢見たかもしれません。しかし、続いて、「はっきりと言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままであるが、死ねば多くの実を結ぶ」という、主イエス自らの十字架を暗示する言葉を聴いたときに、彼らはどのような驚きと落胆をもってその言葉を受け止めたことでしょうか?なぜなら、それは、主イエスがご自身の死の意味を一粒の麦にたとえ、自らの命を捧げることによってやがて多くの人たちに救いと命をもたらすという約束を意味しているからです。

「一粒の麦」とは、あくまで主イエスご自身のことなのですが、本日、私たちはこれを単なる抽象的な理想像として捉えるのではなく、この言葉によって、私たちが「自分としてどう生きていくか」ということを問われているものとして受け止めながら、話を進めて参りたいと思います。

 まず、はじめに、「一粒の麦」の言葉に応答する形で、一人の日本人の物語をご紹介したいと思います。

 皆様、三浦綾子さんの書かれた塩狩峠という小説をお読みになったことがありますでしょうか?実は、この小説の冒頭に、この一粒の麦の言葉が象徴的に使われているのですが、内容は、当時、旭川六条教会の会員であった長野政雄氏(小説では、主人公永野信夫となっています)にまつわる実話を元にして描かれた長編小説です。

そのクライマックスの場面で、寒い冬のある日、長野政雄さんは、塩狩峠を運行する列車の事故に遭遇して、車中の人々を守るために自らの命を投げうって列車の下敷きになり、そのおかげで列車が止まり多くの人々の命が救われたという事件が描かれております。

もう少し、端的に事故の状況と彼の人となりをご理解いただくために、塩狩峠の事故現場付近に設置された記念碑に刻まれている文章を原文のままお読みしたいと思います。お聴きください。

「明治42年2月28日、夜、塩狩峠に於いて、最後尾の客車、突如連結が分離、逆降暴走す。乗客全員、転覆を恐れ、色を失い騒然となる。時に、乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐中より、クリスチャンたる氏の常持せし遺書発見せらる。『「苦楽生死均しく感謝、余は感謝してすべてを神に捧ぐ』 はその1節なり。30歳なりき。」とあります。この彼の死は、決して無駄な死ではありませんでした。彼の行動を通して、多くの命が守られ、多くの人々が彼の信仰に心を打たれました。そして、その証(あかし)は、今日に至るまで多くの人の心を動かし、語り継がれています。皆様、この長野さんがとった行動は、正しく「地に落ちて死んだ一粒の麦」そのものと言えるのではないでしょうか?

 では、私たちにとっての、「一粒の麦」とは何でしょうか?

私たちは日々の生活の中で、これほど大きな自己犠牲を求められることはないかもしれません。が、主イエスは続けてこう語られました。

25節;「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。さて、ここで自分の命を「憎む」とは、いったいどういう意味と解釈すべきでしょうか?

 おそらく、「憎む」という言葉は、「愛する」と対立する言葉としてとして使われているものと理解できますが、この「憎む」という言葉の意味するところが、自分自身よく理解できませんでした。

何とかその意味するところを知りたいと思い、文語訳聖書や口語体のいろいろな聖書を紐解いてみても、全て「憎む」とありました。また、英文の聖書をみても「hate」(憎む)となっており、疑問は解決できませんでした。が、一つの英文の聖書のみ、「give up」となっているのを発見しました。「give up」とは通常我々がほぼ日本語として使う言葉で、「あきらめる」とか、「降参する」「放棄する」などの意味で使いますが、ダメもとで、何十年か振りに、学生時代に使った、研究社の大英和辞典を紐解いてみたところ、なんと、「give up」の1番の意味として、「引き渡す」、「捧げる」とあったのです。 なので、ここでは、「自分の命を憎む人」は、「自分の命を捧げる人」と解釈したいと思います。

 では、私たちにとって「自分の命を捧げる」とは、どういうことと考えるべきでしょうか?

 次のことがヒントになると思われます。

皆様よくご存じの、聖路加国際病院の理事長であった、日野原重明さんが「いのちのバトン-97歳のぼくから君たちへ」という子供向けの講演の中で、「命とは何か」を問い、その答えとして、彼は、「命とは、人間が持っている時間のこと」と定義しました。すなわち「いのちは時間であり、いかに時間を使うかで、人生の質が決まる」、また、寿命とは長さではなく重さである、とも述べられています。

 時間とは、人間はもちろん、森羅万象すべてに均しく与えられている賜物と言えますが、彼は、「命」を単なる物理的な存在ではなく、その人がその人らしく使える「時間」として捉えることをすすめています。つまり、その人にとっての人生すべての時間が命であり、その時間をどのように使うのか、が重要であるというメッセージなのです。つまり、日野原氏の「命=時間」という考え方は、単に生きることをいうのではなく、人生を豊かに意味深く生きていこうということを示唆していると言えるのではないでしょうか?

 本題に戻りたいと思います。

では、主イエスから私たちに与えられた、「命を憎む」或いは「命を捧げる」とはどういうことと考えられるでしょうか?言い換えれば、私たちは日常生活の中でどうすれば「一粒の麦」として、生きることができるのでしょうか?ご一緒に考えてみたいと思います。

もちろん、塩狩峠の長野さんのように、実際に命を差し出すことを強いられる機会はそうそうありませんし、むしろ、決してそういう機会には遭遇しないようにと願いたいものです。

しかし、実際のところ、主イエスが私たちに求めておられる「命を憎む、あるいは捧げる」はもっと身近で、もっと具体的で、私たちの日常の中にあるものと考えてもいいのではないでしょうか?

日野原さんの言葉を参考にしつつ、たとえば、

・誰かのために、自分のもてる時間、エネルギーを惜しまず、差し出すこと。言い換えれば、日々の中で、自分の都合や欲を脇に置いて、自分の時間を使い、誰かのために尽くすことは「自分の命を」憎むことになるのではないでしょうか?

・また、誰かのために祈ること。それは大事な自分の時間を使っているのですから、自分の命を捧げていることにならないでしょうか?さらに発展して、

・人との対話の中で、自分の意見を押し付けるのではなく、相手の思いに耳を傾けること  

・人から認められなくても、見えないところで誠実に働き続けること、など、など。

 これらは全て、自分の命を「捧げる」という小さな行いの積み重ねと言えないでしょうか?それはまさしく、「一粒の麦」がハラハラと静かに土に落ちていく瞬間なのです。そして、神様は、私たちの一つ一つの小さな行いを見ておられ、それを通して、実を結ばせてくださるのではないでしょうか?

26節では、「私に仕えようとする者は、わたしに従え。父はその人を大切にしてくださる。」とあります。

 私たちが、父なる神様の恵みを得て、命を「捧げる」という新しい歩みに生きるときには、主イエスが共におられ、自分が主イエスと共にあることを知ることができるのではないでしょうか?そして、これらの行いを通じて、自分が主イエスとともにあるということを実感できることこそ、私たちの何にも代え難い喜びと言えるのではないでしょうか?

 最後に、ヨハネによる福音書15章12~13節の御言葉をお読みして終わりたいと思います。

「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

                                              以上

お祈りいたします。

恵み深き天の父なる神様、

今日も兄弟姉妹と共に礼拝をまもり、ヨハネの福音書12章の「一粒の麦」について学ぶことができましたことを、感謝いたします。神様、「一粒の麦」である、主イエスの十字架と復活により、私たちに命を与え、永遠の命の実を結んでくださいましたことをこころから感謝いたします。

どうか私たちも、自己の殻に閉じこもるのではなく、隣人のために生き、仕える者となれますように。
痛みや損失を恐れることなく、愛と勇気をもって歩んでいけますよう導いてください。そして、私たちの小さな献げが、あなたの御手によっていつの日か豊かな実を結ぶことを信じさせてください。

これらの感謝と願いを貴き主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。       アーメン。