契約を守り抜かれる神

創世記17章1~14節 2025年10月26日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 アブラムが、75歳で神様から召し出されて故郷を離れて出発してから、随分日が経ちました。出発の10年後に、アブラムは妻サライの女奴隷ハガルによって、イシュマエルという息子を得ました。それからさらに14年が過ぎ、イシュマエルは13歳くらいになっていたことでしょう。そこへ、神様は再び語りかけられます。アブラムは99歳になっていました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」(17:1)。                                  

 この言葉はアブラムに語られた言葉ですが、同時に聖書全体に響いています。聖書に記されているすべてのことは、もとを正せば、この言葉に由来していると言えるかもしれません。その神様は全能であるだけではなく、全知の神でもあります。全知全能の神。すべてのことを知り、なんでもできるお方。そのお方が、「あなたはわたしに従って歩みなさい。そして全き者となりなさい」と呼びかけられるのです。私たちは、この神様に従って歩むことが求められている。そこにこそ、人間の本来的な姿があり幸せの秘訣があるからです。

 「全き者となりなさい」という言葉は、私たちを戸惑わせるかもしれません。神様は全きお方ですが、私たち人間にも同じような完全さを求められるのでしょうか。「全き者」というのは、元来は、傷のないものを意味した言葉だそうです。「神様の約束に信頼し、穢(けが)れのない人生を送れ」、ということでしょう。しかし私たちは、誰だってそう願っているものです。そうしたいと思っても、それができないので悩み、苦しむのです。ただし神様もそのことをご存じです。だからこそ、それを全うできる道をつけてくださるのです。「わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう」(17:2)。

 「あなたを増やす」というのは、子孫を増やすということでしょう。さらに「これがあなたと結ぶわたしの契約である」(17:4)と、言葉を続けられるのですが、その契約には、具体的に二つのことが語られていました。

 ひとつは、アブラムが多くの国民の父となること。アブラムの子孫から王となる者が出ること。そしてこの契約がアブラム一代だけではなく、アブラムの子孫にも続くということでした(17:4~6)。

 もうひとつは、「カナンのすべての土地を、アブラムとその子孫に永久の所有地として与える」ということでした(17:7~8)。子孫繁栄の約束と土地所有の約束です。この箇所が現代のイスラエルとパレスチナの間に暗い影を落としていることは、申し上げなければなりません。

  

 続いて、その契約にちなんで、名前を改めなさい、と言われました。「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい」(17:5)。ここに初めてアブラハムという名前が登場しました。ちなみに「アブラム」とは「高い父」、あるいは「父は高くにいます」という意味であり、「アブラハム」とは、「多くの国民の父」という意味です。

 新しい名が与えられるということは、その存在が新しくされることです。だいぶ昔のこと、イースターに洗礼を受けられた方から「先生、洗礼名はいただけないのでしょうか」と聞かれました。私は考えたこともなかったので、とっさに「プロテスタントでは、普通、洗礼名は付けません。私ももっていないのですが……」と答えましたが、その後調べてみたところ、洗礼名の歴史的経緯が少しわかってきました。洗礼名は、元来、聖人等の名前が付けられていて、それはその名前の聖人による守護を願うということと結び付いていたようです。聖人崇敬を拒むプロテスタントは洗礼名を付けることもしなかった、ということかと思います。

 聖書の中には、他に、神様からイスラエルという名前をもらったヤコブ(32:29)、イエス・キリストからペトロという名前をもらったシモン(マタイ16:18)、あるいはクリスチャンになったときに、サウロから改名したパウロ(使徒13:9)などの例があります。新しい名前が与えられるというのは、その人の信仰生活において、それなりに意味のあることであるかもしれません。

 さて、この子孫繁栄の約束と土地所有の約束の間に、こう語られています。

「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」(17:7)。

 なぜ神様がアブラハムと、そしてその子孫と契約を立てられるのか。それは、本当の意味で、「あなたとあなたの子孫の神となる」ためだということなのです。その契約を受け入れたしるしとして、「割礼を受けなさい」と言われました。

 ノアの契約のしるしは大空にかかる虹でしたが(9:13)、ここでは、アブラハムの体にそのしるしが刻まれます。割礼というのは、男性器の包皮を切り取るという儀式です。割礼は神とアブラハムとの間の、そしてイスラエル共同体との契約の調印のようなものです。これは、神のものである、神の所有であるというしるしです。そこには恐らく罪の穢(けが)れを切断して、清めるという意味が込められているのだと思います。

 もちろん割礼は過去の慣習ではなく、今日に至るまで、ユダヤ教の人々の間でずっと守られてきています。イスラエルというのは、「割礼を身に受けることによって形成される共同体である」ということもできるでしょう。割礼を受けているかどうかが、神の民であるかどうかのしるしとされたのです。

 ユダヤ教では、割礼を受けることで、神の民の一員とされました。だから男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、奴隷も割礼を受けるように促されたのです。「それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる」(17:13)と言われました。

 しかし聖書を読んでいきますと、ただ割礼を受けただけでは意味がない。内実がそれに伴われなければ意味がないということが、語られるようになっていきます。「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない」(申命記10:16)。新約聖書でも、使徒パウロが、「割礼を受けていても、神様の意志(律法)に従って歩んでいなければ意味がない」と言っております。「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」(ローマ2:25)。

 さて、これは私たちクリスチャンの信仰に、どう関係しているのでしょうか。ひとつ大事なことは、割礼は私たちキリスト教の洗礼の予型となっているということです。私たちの洗礼を、ある形で予め映し出しているのです。割礼と洗礼には、共通する部分と違う部分の両方があります。

 大前提として、割礼は男性だけの儀式であるということを指摘しておく必要がります。女性はその意味で、契約の受け取り手としては排除されています。

 さて、割礼が男性に対してだけの契約のしるしであるのに対して、洗礼というのは男にも女にも等しい恵みです。それは決定的な大きな違いであると思います。

 違いについて、もうひとつ言えば、洗礼というのは、それに先立ってその前提となる出来事がありました。それは、イエス・キリストの十字架と復活です。洗礼は、そのことに立ち返り、そのことを思い起こすものです(ローマ6:4~11)

 コロサイの信徒への手紙の中に、次のような文章があります。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです(コロサイ2:11~13)。味わい深い言葉であります。これが新しい契約の中身です。古い契約に対して新しい契約、旧約に対する新約というのは、こういうことから来ています。

 割礼というのは、はっきりとわかる形で体に刻まれるだけに、形骸化しやすいという面があるかもしれません。割礼を受けているから、もう大丈夫。事実、そういうことがイスラエルの歴史の中で起こって来たので、預言者たちはそれを叱責したのでした。パウロもそういう形だけの割礼を問題にいたしました。

 しかしこのことは同時に、私たちの信仰儀式(聖礼典)である洗礼や聖餐も、同じように形骸化する可能性があることを、皮肉にも指し示しているのではないでしょうか。「洗礼を受けたから、もう大丈夫」。「聖餐を受けているから救われている」。それを形骸化させないためにも、いつもイエス・キリストの十字架と復活という、信仰の原点に立ち返って行かなければならないと思います。

 最初に引用した言葉ですが、神は、アブラムにこう言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」(17:1)。私たちは全き者にはなれないと思ってしまう。しかしそのことを、神ご自身が全うさせてくださるのです。全き者になれない私たちが全き者として歩むために、神はイエス・キリストを遣わしてくださいました。そして、全き者になれない私たちが全き者として歩むために、その御子を十字架にかけることによって、私たちの罪を贖ってくださったのです。

 神様がこの契約を全うしようとすれば、その道しかなかったとも言えます。この言葉(17:1)を発せられたときから、キリストへの道がはるか彼方に見えていたと言ってもよいのではないでしょうか。それが、全能の神が、すべての選択肢の中で選び取られた道でありました。私たちが生きるために。私たちを全き者としていただくために。

 私は、割礼と洗礼、イスラエルの信仰共同体とキリスト教会を並べてみて、改めて心に留めたことがありました。それは、割礼が明らかにそうであるように、洗礼もまた、共同体の業だということです。イスラエルというものが割礼を身に受けることによって形成される共同体であるのと同じように、教会は、洗礼を身に受けることによって形成される共同体です。洗礼は、一見、個人の信仰の決心のしるしであるように思われがちです。しかし、私はそうではないと思います。洗礼を受けるということは、信仰共同体の一員になるということなのです。神様とその人が一対一で向き合ってクリスチャンとなり、そういう人が集まって教会を形成するのではありません。共同体の中に加えられるという形で、私たちは召されるのです。私たちの教会も、そのようにして形成された信仰共同体です。

 教会はキリストの体です。その教会において、神様の業がなされていく。キリストは教会のかしらであって、教会はキリストの体です。イエス・キリストは、今何を望んでおられるのか。今、この地上で何をしようとしておられるのか。それを祈りつつ模索し、実現していくのが教会です。主イエスの御後に従い、地の塩として働くこと、世の光として世を照らすこと。それが、私たちがこの共同体に加えられた意味なのだと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。神様、あなたは私たち信じる者たちをあなたの民とするために、契約を結んでくださいました。旧約の割礼、新約の洗礼はその契約のしるしです。そしてイエス・キリストは、私たちが神の民として、全き者として生きていくことができるように、ご自身を十字架に付けてくださいました。どうか私たちを、このイエス・キリストの十字架と復活を仰ぎ見つつ生きる者として導いていてください。季節は急激に進み、冬の始まりを思わせる日が続いています。どうか、教会につながる兄弟姉妹の健康をお守りください。群れの中には、高齢に伴う困難を抱えている者、人生の試練の中にある者、大切な存在を失って悲しみの中にある者がおります。どうか、ひとりひとりと共にあって、あなたの慰めと平安を与えていてください。この拙き感謝と願いを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

[次週の予定]   11月2日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    マタイによる福音書6章25~34節

説  教   「思い悩むな」   𠮷田三枝子

主日礼拝   

午前10時30分 (召天者を覚える日) 司式 山根和子長老

聖     書

 (旧約) 詩編66編5~12節

 (新約) ペトロの手紙一 1章3~9節

説  教   「天の資産を受け継ぐ者」 藤田浩喜牧師

五つのパンと二匹の魚を差し出して

列王記下4章42-44節 ヨハネによる福音書 6章1-15節 2025年10月19日(日)伝道礼拝説教 

           教師 渡部 静子

 かつて私が20代の頃、私の神学生時代です。その頃は日本キリスト教団の教会に属しておりまして、東京や神奈川、千葉地区の青年たちで盲人と晴眼者(目の見える人)たちの相互理解を目指す「ひとつの会」というのがありました。そこに私も参加していたことがありました。「ひとつの会」は、夏には富士山のふもとでキャンプをしたり、点字の学習会をしたりしたのですが、ある時のキャンプで、聖書の中でどの個所があるいは、どの人物が好きかということを発表し合うということになりました。

 愛唱讃美歌というのは50年も前でも、言われていたと思いますが、愛唱聖句というのはその頃はあまり考えたことがありませんでした。一応、神学生ですから、聖書は大体は読んで知っているつもりでしたが、え、好きな個所? 好きな人物? どうしよう。答える順番が来るので、どこかなぁ、どこかなぁと急いで考えて、今日の個所の大麦のパン五つと魚二匹を持っていた少年(ヨハネによる福音書6:9)と答えたのであります。そして、その考えは今も変わらないように思います。

 家を出るとき、お母さんが渡してくれた「五つのパンと二匹の魚」のお弁当、お弁当を持っていない人がいたら、分けてあげるのよ、と言われて持って出た。そんなお弁当を持ってイエス様に会いに行ったこの少年。自分はこの少年のような者だと思ったのです。

 さて、主イエスが五つのパンと二匹の魚で男五千人を養われたという奇跡の出来事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書全部に記されている出来事です。4つの福音書全部に記されている奇跡は、このパンの奇跡が唯一のものです。そして、ヨハネ福音書は一番最後に書かれた福音書で、ふつう共観福音書に記されていない主イエスの言葉や出来事を記しているのですが、共観福音書に記されているのに、さらにヨハネも記している奇跡がこのパンの奇跡なのであります。それはこのパンの奇跡の出来事の重要性と、それから、ヨハネ福音書には他の目的がありました。どういう目的か、そのことはあとでお話したいと思います。         

 ヨハネ福音書では、パンの奇跡はガリラヤ湖の向こう岸の山の上で起こったと記します。大勢の群衆が主イエスを追って集まって来たのです。主イエスが病人たちをいやす奇跡を見たからだと言います。ちなみに、マルコ福音書は、そんなふうにして集まってきた群衆は、「飼い主のいない羊のような有様」だと記し、それを主イエスは「深くあわれまれた」と記すのはマルコとマタイです(マルコ6:34, マタイ14:14)

 ヨハネによる福音書のこの個所にはこの言葉は記されていないのですが、少し寄り道をしましょう。「あわれむ」という言葉は、単なる同情ではありません。岩波訳の聖書はここを「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた」と訳しています。「腸(はらわた)のちぎれる想い」、それほどの深い愛の御心であります。

 「腸のちぎれるような思い」という感情を私たちは持ったことがあるでしょうか。いつ、どんな時に、どんなことで、そのような思いになったでしょうか。自分が深く信頼していた誰かに裏切られたときに、腸がちぎれるほどの悔しさを味わうということがあるかもしれません。あるいは、大切な人が大きな苦しみの中にあるときに、何もしてあげられないけれども、腸がちぎれるほどの苦しみを一緒に味わうようなことがあるかもしれません。あるいはまた、ガザ地区の人たちの惨状に、そのような思いになることもあるかもしれません。

 主イエスが味わわれた「腸のちぎれる思い」とは、群衆が「飼い主のいない羊」のような有様だったから、でありました。飼い主のいない羊。羊にとって飼い主である羊飼いがいなければ生きていくことは出来せん。牧草がどこにあるか、水がどこにあるか、わかりませんし、野獣や羊泥棒に襲われる危険もあるのです。まさに命の危機であります。主イエスを追い求めて集まってきた群衆は、まさに主イエスの目には飼い主のいない羊たちに映ったのでした。飼い主のいない羊の惨状をご存じだったからです。

 そこで主イエスは彼らを養うことを考えられたのです。「人はパンのみで生きるものではありません」が、しかし、人はパン無しで生きることも出来ないのです。飢えの問題は人間にとって深刻な問題であることを主イエスはご存じでした。

 そこで主イエスは12弟子の一人フィリポにお尋ねになりました。「この人達に食べさせるには、どこでパンを買えば良いだろうか」(5節)フィリポは、この奇跡が起こったベトサイダ出身でしたから、その地方に通じていると思われたからでしょう(ヨハネ1:44, ルカ9:10)。フィリポは答えます。「(たとえパンを売る店があって)めいめいが少しずつ食べることにしたとしても、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(7節)フィリポは大勢の群衆を前に当惑しながら答えます。

 「200デナリオン分のパン」、1デナリオンは、ローマの貨幣で成人男子の一日の日当であります。200デナリオン、すなわち、200日分、7か月の労働に対する賃金であり、主イエスの時代と現代では貨幣価値も全く違いますが、それでもそれは途方もない金額となり、自分たちにはまったく対応できないものでありました。

 すると、もう一人の弟子アンデレが代わって主イエスに言うのです。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう」(9節)。五つのパンと二匹の魚、それはわずかなもの、小さいものの象徴のようです。男だけでも5千人もの人々を前にして、全く、何の役にも立たないかのように見えるものです。しかも、ここでヨハネは、この五つのパンと二匹の魚を持っていたのは少年だと記します。そして、パンが「大麦のパン」だと、さらに詳しく記しています。大麦のパンは、さらに質素な食事であります。貧しい人々のパンでありました。

 主イエスはどうされたでしょうか。主イエスは弟子たちを促して人々を座らせます。そこには草がたくさん生えていました。この地域に草が茂るのは、春の雨の直後の3月末から1か月ほどだそうです。時期は早春でありました。そこで忘れられない出来事が起こったのです。「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(11節)すると、人々は満腹したのです。人々は満腹したというのです。

 先ほど旧約聖書の列王記下4章42節以下を朗読していただきましたが、そこには預言者エリシャが大麦のパン20個で空腹の人々100人の腹を満たした出来事が記されています。パンが20個で100人。しかし、それをはるかに超える出来事が今、主イエスによってなされたのでありました。イエス・キリストは預言者エリシャをはるかに超えるお方であることが明らかにされた出来事でありました。

 主イエスは言われます。人々が満腹したとき、主イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった(13節)

 なぜパンの屑を集めさせたのでしょうか。ユダヤの習慣では、奴隷のために何かを残すことがならわしだったそうです。自分たちだけのことを考えていない、ユダヤの習慣だそうです。そのパンの屑は、日ごろ持ち歩いていた小さな籠に集められました。弟子たち一人ひとりが持っていた十二の籠がいっぱいになったのでした。

 主イエスは何もないところからではなく、わずかなものであっても、そしてそれが質素な、貧しいものであっても、それを用いて、パンの奇跡をなさったのでありました。13節には、「集めると、人々が大麦パンを食べて」と、もう一度、食べたのは「大麦パン」だと記されているのです。ヨハネ福音書だけの記載の仕方です。

 私はまさに、ここに出て来る少年に、あるいは少年が持っていた大麦パンに、自分自身を重ねています。自分自身も、自分の手にあるものも、それは本当に小さく貧しく、まさに無に等しいものにすぎません。しかし、それが主イエスによって受け入れられ、祝福され、主の御用のために用いられるとき、神様は実に不思議なみわざを行ってくだるということを味わってきた45年でした。この少年はどんなに喜んだことでしょうか。「ぼくの持ってきたパンと魚、イエス様のために使ってくださいと差し出したら、イエス様はとても不思議なみわざをなさったんだよ」。それは震えるほどの喜びと感動を味わった、決して忘れられない出来事となったのではないでしょうか。

 私たちの手の中にあるもの、それはどんなに小さく、わずかであり、決して立派ではないものであっても、主イエスの御前に差し出され、主イエスが用いられるとき、それは一粒のからし種が、地上のどんな種より小さいからし種が、蒔くと成長してどんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が巣を作れる程大きな枝を張ると、主イエスは語られましたが、とてもふしぎなみわざをどんなにたくさんの人たちが味わい経験してきた歴史でありましょうか。私たち自身が、そして私たちの持っているものが貧しいこと、弱いことを嘆くことはありません。恥じることもないのです。ただ、主に信頼して、謙虚に主にささげる、そのことが大切なのであります。         

 さて、ここで終わりではありません。ヨハネ福音書は、他の福音書のように、5千人の給食の出来事を記すのですが、それだけではありません。ヨハネ福音書6章全体が、すなわち、6章71節までが、一つの主題で貫かれているのです。いわば、1-15節は、さらに大切なことを展開していくための導入のようになっているのです。

 ヨハネ福音書は、マタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書が伝えていないこと、「五つのパンと二匹の魚」の奇跡は、それを持っていたのが少年だったこと、しかも、そのパンは大麦のパンという質素な、貧しい人たちが食べるものであることを記しているのですが、そのこと以外に、いや、そのこと以上に大切なこととして記していることがあるのです。それは6章の35節であります。

 ヨハネ福音書はパンの奇跡をこの真理に結びつけるのです。35節「わたしは命のパンである」。48節にも繰り返されています。そして、それは聖餐式のパンに重ねられていくのです。命のパンであるイエス・キリストご自身が一人ひとりに分け与えられる。その命のパンをいただいて生きる人は永遠の命を与えられるという神の恵みの深さを語るのです。もし、このときの少年が、長じてこの真理の深さを知ったなら、イエス様ってすごいなぁ。あのとき大麦のパンを差し出して本当に良かったなぁと、聖晩餐にあずかりながら、イエス様のみからだであるパンをしみじみ感謝しながら、いただいたのではないかと想像するのです。

 私はさらに最後に短くもう一つのことをお話したいのです。神様は、大麦のパンさえも、差し出されるときに用いてくださる恵み豊かな方であります。そのことを知って感謝です。で終わってはいけないのです。

 個人的なことですが、私はこの3月で退職したのですが、退職してもなかなか時間がとれず、何か月かかかって、やっと本の処分や書類の整理等が終わりました。その時に発見したのですが、昔々、キリスト新聞に執筆を依頼されて書いたものが出てきたのです。

 その中にこんな一文がありました。それは神学生のときに読んだ本に熱く心を動かされ共鳴したというもので、それはボンヘッファーやバルトの言葉です。「キリスト教信仰の核心は『他者のための存在』であるイエスの存在にあずかる新しい生である。教会は他者のために存在するときにのみ教会である」。「私と私の信仰が豊かにされる、それが信仰の目標ではない。むしろ、神のみわざの完成が目標である。すべての者は福音の恵みを受けた者として、他の枝えだの救いのために徹底的に仕える者とされる。そのために召されているのである。」ボンヘッファーやバルトの本を心を躍らせて読んだことが記されていました。この点に関しても、私は神学生時代とあまり変わってはいません。

 私は「慰安婦」問題との取り組みを与えられて、その関連の情報がメーリングリストで届きます。少し前のものですがこんなメールがありました。「イスラエルのイラン攻撃から、報復の連鎖が始まっています。学術会議のこと、東海村村長の変身、ロサンゼルスへの州兵の派遣、そして、ガザの惨状、次々起こることに心が引き裂かれそうです。

 今、ガンジーの言葉に惹かれます。『あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである』」。 

 確かに、私たちが世界を変えることはできません。しかし、世界によって変えられてしまう。どうせやっても、とあきらめてしまうことが問題なのです。世界によって変えられないようにするために、私たちも目前のことに振り回されるのみではなく、小さな取り組みを継続するのです。それはキリストの十字架の贖いをいただき、説教と聖晩餐に養われているのですから、小さな応答の歩みをささげるものとされたいと願うのです。

【祈り】

父なる神さま、

 あなたの御名が崇められますように。今日は、あなたの愛したもう南柏教会の兄弟姉妹たちと共に礼拝をささげる機会を与えられ、心から感謝いたします。あなたは小さな私たち一人ひとりをいつくしんでくださり、私たちを通してさえ、あなたのご用をなさせてくださいます。さらに、あなたにお仕えすることを通して、私たちの信仰を養ってくださいます。

 心から感謝いたします。あなたはまことに、私たち朽ちる者が朽ちてしまわない、命の道を開いてくださいました。御子イエス・キリストこそ、そのために天から降ってこられたまことのパンであられます。あなたは毎週、主日ごとに牧師を通して、イエス・キリストご自身からの命のパンの養いに豊かにあずからせてくださっています。その福音宣教と教会形成のみわざがさらに祝福されますように。どうか、この群れが主イエスの恵みに力強くこたえて歩む歩みであらせてください。

 この週もそれぞれが遣わされていく家庭や職場、学び舎、地域社会を祝福してくださり、そこにおいて一人ひとりが主イエスの恵みを分かち合い、また隣人に仕える歩みをなさせてください、特に傷ついた隣人を気遣い、小さくされている人たちを覚える歩みであらせてください。 

 これらの祈りを主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

次週の礼拝  10月26日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    マタイによる福音書6章9~15節

説  教   「主の祈り②」   藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分  神学校日   司式 山﨑和子長老

聖     書

 (旧約) 創世記17章1~14節

 (新約) コロサイの信徒への手紙2章11~13節前半

説  教   「契約を守り抜かれる神」 藤田浩喜牧師

望みに支えられて生きる

創世記3章15-19節 マルコによる福音書8章22-26節 2025年10月12日((日)特別伝道礼拝説教

教師 崔 炳一(チェ・ピョンイル)

 私は聞いた悲しいお知らせを紹介します。それは、神学大学院で3年間一緒に学んでいた友人のことです。彼は卒業後には東マレシーア(ムスリム地域)で宣教活動をしていました。彼が血液がんで治療を受けているとのことです。彼の報告によれば、人のこぶしの半分くらいの大きさのがん取り除いたとのことです。でも、また違うところで腫瘍がみつかったのです。それを取り除けるとまた、ふともものほうにもがんがみつかった。何度も手術して取り除いてもきりがない。仕方がなく宣教活動を休止してソウルの大学病院で入院生活をしているのです。これまでで25以上の放射線治療を受けていたのですが、最近は頻度を少なくして10回くらいの放射線をうけている。でも、そのあびる放射線のレベルは25回以上のときより強いとのことです。

 そんな彼ですが、報告の最後にローマの信徒への手紙6:13を書き、この御言葉から言い尽くせない慰めを受けており、治療を感謝して受けていますと書いたのです。「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」。がんの塊のような自分の身体を神にささげたい。これが今、がんと闘っている友人牧師の告白であって、まさに彼の信仰であります。創世記3章に書いてあるように、「塵に過ぎない」人間。でも、人生の最後を主にささげたい。それが望みであります。

 信仰が素晴らしい。すごい忍耐だと軽く言えそうなことではないと思います。もし、自分がこういうことに遭遇したら果たしてあのような告白ができるだろうか?と問いかけると、自信はありません。でも、一つ確かに言えるのは、人間苦しみの中で神のことばがあったことです。神が御ことばを通して、友人の苦しみの中に入ってくださったことです。そこで、彼はこれまでとの違う新しい信仰の世界へと導かれており、まさに今そういうことを経験しているとのことです。

 私は「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ」を通して、ガラテヤの信徒への手紙2:19-20を思い起こしました。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。神のことばが臨むとき、また神がことばを通して神の選びを示すとき、そのときから新しい経験の世界へと導かれるのです。それが私の友人の望みであって、彼は、苦しみの中においても望みに支えられているのです。でも、私たちは問うのです。もし、自分がこういう状態だったら。つまり先の見えないときに果たして望みに支えられて生きることを願うのだろうか、ということです。皆さん、如何でしょうか。どう思うのでしょうか。皆さんはなんと答えるのでしょうか。

 さて、今日の聖書箇所に戻りましょう。マルコによる福音書8:22-26です。ここにはある盲人が出ており、彼が主イエスに癒されるのです。目が見えないという障害を背負って生きるとうことって、本当に不幸な状態です。おそらく私たちはその苦しみを知らないと思います。この盲人を主イエスは癒されるのです。23節ですが、主イエスは「彼の目に唾をつけ、両手をその人の上に置きます」。すると、かすかに見えたのです。人が木のように見えたのです。それで主イエスはもう一度、両手を目に当てるのです。すると25節ですが、「何でもはっきり見えるようになった」のです。

 この箇所を読むとき、この盲人は生まれながら盲人ではないことが分かります。それは彼がイエスに「人が木のように見える」と言ったからです。この盲人は、一度くらいは、木をみたこともあり、人を見たこともあります。おそらく途中で何かの原因によって失明をした人だと思うのです。生まれるときから目が見えない。光を経験したことのないので、失礼ですが、苦しいけど途中で失明した人のほうがもっとも苦しいはずです。見えるはずだった人が見えなくなった。治る可能性はほぼゼロ。つまり絶望です。それは人生の終わりを告げることです。生きていても死んでいる状態とやや似ています。生きる意味がない。不幸の不幸です。毎日見えるのはおそらく私たちが目をつぶって見えるような暗い世界のみです。朝起きても、夜になっても同じくらい世界と付き合うのです。望みなしの毎日の中で息をしているだけでした。人々から与えられるもので生きるのです。どんな楽しみがあったのでしょうか。生きる楽しみのない人生って、ほぼ絶望ではないでしょうか。

 しかし、この盲人が主イエスに出会うチャンスが与えられたのです。そして目が見えるようになったのです。この盲人と先ほど紹介した私の友人は同じ恵みを経験しているのだと思います。盲人は主イエスに出会って「光の世界へと導かれた」のです。友人は「キリストの言葉が与えられ、それに支えられ明日への生きる勇気を見つけることができた」からです。二人ともキリストにつながっているのです。主イエスが希望であって、主イエスとの出会いによって望みに支えられる経験ができたのです。目には見えないイエスですが、聖書の御言葉を通して存在を表すのです。それを拒むことはできないのです(ことばを拒むことはできます。また、語られることばを拒むことも十分可能です。でも、見えないけれど、存在するイエスを拒むことはできないのです)。光である主イエスの前で人間を苦しめた暗闇が過ぎ去ったことと同じです。望みとは何か?それはすべての状況が良くなることではないと思います。確かにそれも希望だと言えますが、そのようになるのは主イエスにゆだねることが許されたからです。私たちと私たちの教会が、また社会が主イエスと出会うことができ、そこで御言葉が与えられ、それによって望みなしの自分の明日を委ねることができるのであれば、そのようになると、まさにそのときが、そのことが望みであり、望みに支えられるときなのです。

 Fanny Jane Crosbyという人をご存知ですか。1820-1915(94歳)に召された女性で、およそ生涯において8000~10000以上の讃美歌歌詞、讃美歌をつくった人として知られています。彼女は生まれて6週目のとき医師の過ちで視力が弱くなり、それが原因で視力を失うのです。だからクロスビーほぼ94年間、暗い世界で生きていたのです。彼女の父も彼女が幼いときに天に召されます。家は貧しくなり、生計を母が立てたため、彼女は祖母によって育てられるのです。その祖母は信仰の深い人でした。目は見えないが、祖母の教育によって新約聖書をほとんど暗記ができ、旧約聖書をも創世記から申命記までは暗記し、詩編、ルツ記、箴言をもすべて覚えることができたそうです。しかし、この祖母もクロスビーが11歳のとき天に召されます。

 貧しさの中でもクロスビーの唯一の慰めは、イエス・キリストでした。彼女は毎日祈り、神の導きをひたすら求めていたのです。1834年盲人学校に奨学生として入学が許されます。彼女が書く詩は讃美歌の歌詞となり、いつの間にか彼女は有名な讃美歌歌詞を書く人になっていたのです。けれども、決して平坦な人生ではありませんでした。結婚をしたが、1年後に生まれた子供が生まれて間もなく死ぬ。でも、彼女は彼女慰める人々に、「神は私たちに子どもを授けてくださいました。でも、天使らが降ってきて子どもを天に連れていきました。私たちは子どもを神の玉座に委ねました」と言いながら、むしろ彼女を慰める人々を慰めたそうです。また、愛する夫も天に召されるのです。悲しみと苦しみ、また貧しさが彼女の人生でしたが、生涯において讃美歌歌詞を書き、毎週、彼女の説き明かしを聞くために集まる人々の前で死ぬときまで神のことを伝えたのです。

 クロスビーはアメリカ人が選んだ大統領より尊敬される人だと言われています。彼女は「自分は生まれ変わっても盲人として生まれることを願う。なぜならば、一番先に見る顔がキリストの顔だから」と言ったのです。クロスビーは人生の望みがキリストであって、まさに望みに支えられて生きていた人でした。彼女が書いた讃美歌の歌詞を紹介します。タイトルは「救い主イエスとともに歩む道は」(All the Way My Savior Leads Me)です。『聖歌590番』です。実は私がもっとも好きな讃美歌の1曲ですし、またアメリカのクリスチャンの好きな讃美歌の一つでもあります。

「1、すく主イエスと、ともに行くみは、とぼしきことなく、おそれもあらじ。イエスはやすきもて、こころたらわせ、ものことすべてを、よきになしたもう、ものことすべてを、よきになしたもう。

 2、坂道につよき、御手をさしのべ、こころみのときは、めぐみをたもう。よわきわがたまの、かわきおりしも、目の前の岩は、さけて水わく、目の前の岩は、さけて水わく。

 3、いかにみちみてる、めぐみなるかや、やくそくしませる、家にかえらば。わがたまは歌わん、ちからのかぎり、君にまもられて今日まできぬと、君にまもられて今日まできぬと」。

 いかがでしょうか。とても力強い讃美歌です。ぜひ、You Tubeで聞いてみてください。励まされ、慰められるのです。聞くだけでもキリストに望みを置くことができ、すでに支えられている思いが与えられるのです。苦しき人生がキリストへの望みによって満たされているからです。

 それでは、いつが望みをいだくことのできるときでしょうか?それは、主イエスとの出会いによって主イエスがともにいるときであり、すべての抑圧や偏見、また不信仰から解放されるときです。おそらく、マルコによる福音書8:22-26に出てくる盲人は、偏見の中で生きていたと思います。それは、ヨハネによる福音書9:1-12ですが、生まれつきの盲人を癒す主イエスの奇跡の物語がそれを語っているからです。生まれつき目の見えない人。確かに不幸な人です。その人を見かけられたとき、弟子たちは「この人が生まれつき目の見えない状態で生まれたのは誰の罪ですか?」と主イエスに聞きます。弟子たちがこう聞いたのは、当時のユダヤ人の迷信です。人間が罪を犯したので、神罰をうけたのだという迷信です。そこで主イエスは、誰の罪のせいではなく、「神の業がこの人に現れるためである」と言い返します。

 この主イエスの答えは素晴らしいと思います。弟子たちは原因を考えたのです。でも、いくら原因のみを探っても不幸な現実からこの盲人を解放してあげることはできないのです。主は、しかし神の業が現れるためだと言うのです。見えない現実のみならず、人々から罪深い人と言われていた精神的、心のケア―まで考えてこう言ったのです。癒しによって目が見えるようになったのですが、すべての迷信からも解放されたのです。実は、この盲人のみならず、弟子たちも目が開かれたのではないでしょうか。新しい信仰の世界へと導かれたのです。本当は弟子たちも迷信に囚われていたのです。神の働きがすべての迷信から解放されたのです。こういうときに人間は明日への望みを抱くことができると思います。

 苦しみの原因のみを、あるいは不幸な現実のみばかり議論すると、何の答えは出ておりません。そういうときに、つまり私たちからは先の見えないときにも必ず神が働いておられるときです。私たちが見えない状態に囚われており、本当にみるべきものを見逃すときに、神への信仰によって光が見えてくると神への望みを託すことができるのです。そして、もし、私たちがこういう姿を次の人に見せ、神への思いを伝えることができれば、どんなときにも望みを託す姿を次の人に伝えることができれば、そこに信仰継承がすでに起きるのです。それは、彼らも主イエスに望みを託すことができるからです。それがまさに人生を主イエス・キリストに委ねることではないでしょうか?

 苦しみや絶望の中でも、希望を失わずに生きる力があります。それは、イエス・キリストとの出会いによって与えられる「望み」です。共に希望の光を見つけませんか? 病や苦しみ、将来の不安に押しつぶされそうになることはありませんか?そんな中でも、イエス・キリストとの出会いは、私たちに新しい希望と生きる力を与えてくれます。救い主イエスとともに歩んでくださることを信じながら「望みに支えられて生きる」意味深められることを祈りつつ、仕えていきたいと思います。

次週の礼拝   10月19日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    マタイによる福音書6章9~15節

説  教   「主の祈り①」 山﨑和子長老

主日礼拝   

午前10時30分        司式 三宅恵子長老

聖     書

 (旧約) 列王記下4章42~44節

 (新約) ヨハネによる福音書6章1~15節

説  教   「五つのパンと二匹の魚を差し出して」 渡部静子

神が与えてくださる幻

マルコによる福音書14章53~65節 2025年10月5日(日)主日礼拝説教

                                             牧師 藤田浩喜                   

 ゲツセマネで祈られた主イエスは、ユダの裏切りによって捕らえられ、大祭司の屋敷に連れて来られました。そこに、祭司長、長老、律法学者たち、つまり当時のユダヤの政治・宗教・治安を委ねられておりました最高法院のメンバーが集まって来ました。この最高法院と訳されておりますのは、サンヘドリンと呼ばれる議会で、70名の議員と議長である大祭司によって構成されていました。そこで主イエスの裁判が行われたと聖書は告げています。

 しかし、この時の裁判にはいろいろと異常な点、不当な点がありました。第一に、この裁判は夜に、しかも大祭司の屋敷で行われたということです。当時、サンヘドリンは昼間に、神殿の中で行われなければならないと決まっていました。しかし、主イエスが捕らえられたのは夜。神殿はもう閉まっています。本当ならば、次の日の朝を迎えてから神殿で行われるべきものでした。しかし彼らは、大祭司の家で、夜に主イエスの裁判を行ったのです。

 第二に、この裁判は主イエスを死刑にするための裁判であったということです。裁判というものは、その人に罪があるかないかを明らかにして、罪状が確定したら、罰を決める。そういうものでしょう。しかし、この時の裁判は、55節に「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」とありますように、主イエスを死刑にするために開かれた裁判でした。結論が先に決まっているのです。ですから、これを裁判と呼んでよいのかどうか。まことに異常で不当な裁判でした。

 第三に、この裁判においては、主イエスに不利な偽証が何人もの人によってなされました。偽証は、十戒の第九戒においてはっきり禁じられていることです。しかも、その偽証を求めたのが、サンヘドリンのメンバーたちだったというのです。十戒を徹底して守ることによって神様の前に義とされる。これを信条としているのが、当時のユダヤ教の指導者たちである彼らでした。それなのに、自ら十戒を破り主イエスを死刑にしようとする。これもまことに異常なことであり、不当なものした。

 第四に、偽証が食い違っていたのでそれを採用することができず、主イエスの罪状を定めることができなかったというのです。ユダヤの裁判において、証言は複数の人によって証言されなければ採用されません。多分、当初は祭りの間は主イエスに手を出さないことにしていたのに、ユダの裏切りによって急遽主イエスを捕らえて裁判することになったからでしょう。偽りの証言をする者たちが、綿密に打ち合わせをして口裏を合わせるということができず、証言が食い違ってしまったのです。ここで証言が成立しないのですから、主イエスは無罪放免とされるべきでした。しかし、そうはならなかった。全く異常なことであり、不当なことでした。

 今、この主イエスの裁判の異常性、不当性について述べてきましたが、最後に、根本的にこの裁判が異常であり、不当である理由を述べます。それは、この裁判そのものが「人間が神を裁いている」という点です。人間が神様を裁く。全く倒錯しています。これがこの裁判の最も根本的な問題なのであり、人間の罪とは何であるかということが、はっきり顕れているところなのです。

 さて、人々が為した偽証の中で、一つだけがここに記されています。58節「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」これは偽証です。主イエスはこのようには言っていないのです。しかし、全くの偽証かというと、そうでもありません。ヨハネによる福音書2章19節に、主イエスが「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われたことが記されています。主イエスがここで言われた神殿とは、御自身の体のことでした。主イエスが十字架に架かって死に、三日目に復活される。それによって、人間と神様との間の新しい親しい交わりが与えられる。また、キリストの体としての教会が建てられる。そのことを言われたわけです。神殿とは、神様が御臨在され、そこにおいて人間と神様との交わりが与えられるところです。主イエスは、それが御自身の十字架・復活によって、新しいあり方となる。目に見える神殿ではなくて、キリストの体という教会によって与えられるようになると告げたわけです。

 しかし、人々はそうは聞かなかったのです。主イエスは自ら神殿を打ち倒すとは言っていないのです。そんなつもりもありませんでした。しかし、彼らにはそう聞こえたのです。彼らにしてみれば、神殿といえば、目の前にあるエルサレム神殿しか考えることができませんでした。だからそれを三日で建て直すとは、主イエスが奇跡によって、再び目に見える神殿を建てると言ったと受け止めたのです。当時のユダヤ社会は、このエルサレム神殿を中心とした社会でした。ですから、その神殿を立て直すことを主張する主イエスは、ユダヤ社会を破壊する者、ユダヤ社会に争乱を生み出す者でしかなかったのです。

 

 さて、次々と不利な偽証が為される中、主イエスは沈黙を守ります。61節「イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」とある通りです。私たちは、この主イエスのお姿に、預言者イザヤがイザヤ書53章7節において預言した、苦難の僕を見るのです。イザヤはこう預言しました。「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」まさに主イエスは、これから御自分の上に下される十字架の死を思い、これを受け入れ、覚悟の上で何もお答えにならなかったのでしょう。御自身を死刑にしようとしているこの人たちの罪を担って、代わって神様の裁きをお受けになるために、主イエスは黙って何も言われなかったのです。

 しかし、大祭司をはじめこの場にいたサンヘドリンのメンバーたちには、そのような主イエスのお心は分かりません。偽証する者を立てて証言させたけれども失敗し、罪状を定めることさえできない。大祭司たちの方が追い詰められ、焦っていたのかもしれません。大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、自ら主イエスに尋ねました。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」それでも、主イエスは何もお答えになりません。

 遂に大祭司は核心に迫る問いを主イエスに投げかけました。「お前はほむべき方の子、メシアなのか。」「ほむべき方」というのは、神様と言うのをはばかって使う言葉です。なので、ここで大祭司は「お前は神の子、メシアなのか」と問うたということです。これに「はい」と答えれば、死刑になるに決まっています。主イエスも分かっていました。しかし、主イエスはこうお答えになったのです。

 62節「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」ここで「そうです」と訳されている言葉は、単に「そうです」と言われたのではないのです。これはギリシャ語で「エゴー、エイミ」という言葉ですが、英語で言えば「I am 」というだけの言葉です。しかしこれは、神様が自らを名乗る時に使われる言葉なのです。出エジプト記3章において、モーセが神様からの召命を受けます。この時のモーセと神様とのやり取りの中で、モーセが神様の名前を問います。その時神様は「わたしはある」と答えられたのです。これがギリシャ語に翻訳されると「エゴー、エイミ」となるのです。つまり主イエスは、「わたしは神である。あなたたちはわたしが全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」そう宣言されたということなのです。

 主イエスはこれまで、御自分が神の子、メシアであることをあからさまに言うことはなさいませんでした。弟子たちに語ることはあっても、「だれにも言ってはならない」と口止めしておられました。しかし今、このことを言えば死刑になる、それが分かりきった場面において、主イエスは自らが神の子、メシアであることを明言されたのです。

 なぜでしょうか。それは、主イエスは神の御子として十字架につく。救い主メシアとして十字架につく。そのことをはっきりさせるためでありました。主イエスは神の御子として、すべての者に罪の赦しを得させる救い主として、十字架にお架かりになるのです。ここは曖昧にすることができないことでした。これを曖昧にしてしまえば、主イエスが地上に来られ、数々の奇跡をなし、教えを語り、そして十字架に架かって死なれるということ、そのすべての意味が曖昧になってしまうからです。それはできないことでした。

 主イエスは十字架に架かり、三日目に復活し、四十日後に天に昇り、全能の父なる神様の右に座られます。そして、そこから再び来られて、生きている者と死んでいる者、すべてを裁かれる。これは、初代教会以来、キリスト教会が保持してきた信仰です。使徒信条において「十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神様の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白されている通りです。そして、この主イエスに対する信仰は、主イエス御自身がここでお語りになり、約束なさったことに根拠を持っているのです。

 主イエスは今、どこにおられるでしょう。復活の体をもって、全能の父なる神様の右におられ、神様と共に世界のすべてを支配しておられます。私たちのために執り成してくださっています。私たちは今、その主イエスを信仰のまなざしをもって見上げ、拝んでいるのです。それが私たちの礼拝なのです。

 そして、その主イエスは、時が来れば再び天より下って来られるのです。その時、何が起きるのでしょうか。神様の裁きです。その時には、生きている者も、すでに地上の生涯を閉じた者も、例外なく裁かれるのです。神が、神の子が、私たちを裁くのです。この終末において、人間が神様を裁くという倒錯した不当な裁きは退けられ、神様による、神の御子による正当な裁き、まっとうな裁きが行われるのです。私たちはその日を待ち望み、その日に向かって、この地上の歩みをなしているのです。その歩みにおいて何より大切なことは、神様を神様とするということです。私たちを造り、私たちを支配され、私たちを導いてくださっているお方として、これを愛し、これを信頼し、これに従うのです。

 大祭司は、この主イエスの言葉を聞いて、衣を引き裂いて言いました。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう考えるか。」この大祭司の言葉を受けて、そこにいた最高法院の人々は、主イエスを死刑にすべきだと決議しました。このように、主イエスが十字架に架けられたのは、主イエスが自ら神の子、メシアであることを明言されたからです。主イエスは、神の御子として、メシアとして、十字架に架けられることになったのです。

 そして、主イエスの死刑が決められると、人々は主イエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、平手で打ちました。何ということでしょう。これが群集心理とでも言うべきものでしょうか。このようなことを、人は平気でするのです。自分より弱いと思ったら、その相手を寄ってたかって、やっつけるのです。ここにも私たちの罪の姿が顕わに現れています。しかし主イエスは、この時にもきっと黙っておられたことでしょう。私たちは自分がそのような弱さと醜さを宿していることを、自覚しなければなりません。そして、私たちが自らのこの罪に支配されることなく、神様の御支配の中に生きることができるように、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を心から褒め称えます。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。大祭司の館で主イエスが裁判を受けられた箇所を学びました。主を亡き者としようとする悪意が渦巻く中で、主イエスは自らが神であり、救い主として十字架の死を遂げることを明らかにされました。私たちは主イエスの献身によって罪赦され、復活の命に生きるものとされました。どうか、そのことをいつも思い起こすことができますよう、私たちを導いていてください。今週は水曜日から第75回日本キリスト教会大会が行われます。この教会会議の上に、あなたの恵みと祝福を注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

次週の礼拝   10月12日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    マタイによる福音書5章43~48節

説  教   「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分  特別伝道礼拝  司式 髙谷史朗長老

聖     書

 (旧約) 創世記3章15~19節

 (新約) マルコによる福音書8章22~26節

説  教   「希望に支えられて生きるということ」 崔炳一教師

恐れからの自由

マルコによる福音書14章43~52節 2025年9月28日(日)主日礼拝説教

                              牧師 藤田浩喜

 今朝与えられている御言葉は、主イエスがユダの裏切りによって捕らえられる場面です。この直前が、先週見ましたゲツセマネの祈りの場面でした。その最後のところで、主イエスは弟子たちにこう言われました。41~42節「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。ここには、十字架に向かって敢然と歩まれる主イエスの姿がはっきり記されております。主イエスは「時が来た」と言われます。この「時」とは、捕らえられて十字架へと歩む時です。そしてこの「時」は、神様が備え給うた時なのです。主イエスは、神様の御計画の時が来たことを悟り、そして言われたのです、「立て、行こう」。主イエス自らが行かれるのです。

 「さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た」(43節)とあります。一体、この時主イエスを捕らえに来た人々は、どれほどの人数だったのでしょうか。主イエスがすんなり捕らえられましたので、特に乱闘騒ぎになることもなく済んでしまいました。ですから何となく、それほど大勢ではなかったのではないか、私は長い間そんなふうに思っておりました。聖書には人数は記してありませんので分かりませんけれど、ヨハネによる福音書には、この時「一隊の兵士と千人隊長」が一緒であったことが記されています。最低でも百人、あるいは数百人の人々がやって来たのでしょう。主イエスを捕らえに来た人々は、手に手に剣や棒を持っていました。この時、主イエスが何かとんでもない不思議な業をするかもしれない、そんなふうにも思っていたかもしれません。ですから、きっと恐る恐る近づいたことでしょう。泰然自若としている主イエス。一方、手に手に剣や棒を持ち、大勢でありながら恐る恐る近づく人たち。

 その先頭にユダがいました。ユダは、自分が接吻する人が主イエスだと合図を決めておりました。月明かりがあったとはいえ、12人のうちの誰が主イエスであるのか、見分けるのは容易ではなかったからです。この「接吻する」という言葉は、「愛する」とも訳せる言葉です。この接吻は愛する者、家族や友人などと交わす挨拶でした。この場合、互いに両手で抱き合って、頬や頭に接吻するのです。ユダはいつもと同じように、「先生」と言って主イエスに接吻しました。ユダはこの愛の印である接吻をもって、主イエスを裏切ったのです。

 この時、主イエスはこのユダの接吻を避けることをされませんでした。主イエスはこれを受けたのです。十字架への歩みを決めておられた主イエスにとって、今さらこのユダの裏切りの印としての接吻を拒む必要はなかった。そうなのかもしれません。しかしそれ以上に、主イエスにとってユダは、この時もなお「先生」と言って接吻してくる弟子の一人だったのではないか。私にはそう思えてならないのです。

 他の弟子たちはこの時、皆主イエスを見捨てて逃げてしまったのです。そして、もう少し後でペトロは、主イエスを三回否認するのです。そのような弟子たちを主イエスは見捨てられたでしょうか。そうではなかった。復活された主イエスは、彼らを再び弟子として召し出し、世界宣教へと遣わしたのです。主イエスは弟子たちを見捨てたりはしていないのです。であれば、ユダもそうだったのではないか。ユダにとっては裏切りの印でしかなかった接吻を、主イエスはいつもと同じように、愛の印として受けられたのではないか。私にはそう思えるのです。

 主イエスが選ばれた十二弟子の一人のユダが裏切ったというのは、まことに驚くべきことです。しかしこれは、神様が、主イエスが、何にも先が見えない方だったということを示しているのではないのです。ユダが裏切って、主イエスの十字架の救いが貫徹されたのです。神様の救いの御業は、裏切りによって頓挫するのではなく、それによって貫徹されたのです。いつの時代でも、キリスト教会には裏切りと言えるようなことが起きるのです。しかし、それで教会が無くなってしまうということはなかったし、今もないのです。

 このユダの裏切りということから、私は日本の教会が出発した時の一つの事実を思い起こすのです。明治5年、9名の受洗者が与えられ、それ以前に洗礼を受けていた2名と計11名によって、日本最初のプロテスタント教会、日本基督公会(現在の日本基督教会横浜海岸教会)が設立されたのです。ところが、この11名の信徒の内2名は、確実に明治政府からのスパイだったのです。彼らが政府に出したその報告書が残っています。さらに、1名の本願寺から送られたスパイだったと言われている人もいます。驚くべきことでしょう。しかし、それで日本伝道は頓挫したでしょうか。しなかったのです。神様の救いの御業というものは、人間の裏切りなどいうものによって台無しになるなどいうことはないのです。

 さて、ユダが主イエスに接吻すると、人々は主イエスに「わーっ」と襲いかかり、主イエスを捕らえました。人々が恐れていたような、主イエスからの反撃はありませんでした。ただ、一人だけ、剣を抜いて大祭司の手下に切りつけて片耳を切り落とすということが起きました。ヨハネによる福音書は、それがペトロであったと記しています。そして、耳を切り落とされた人の名はマルコスであったと記しています。また、ルカによる福音書では、主イエスは「やめなさい。もうそれでよい」と言われ、耳をいやされたと記されています。この剣を抜いた人は、主イエスを守るためというよりも、大勢の人々に囲まれて恐ろしくなって、持っていた剣を振り回したということなのではないでしょうか。しかし、主イエスはそれをやめさせ、まことに静かに捕らえられたのです。

 そして言われました。48~49節「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」これは大変な皮肉です。昼間、大勢の人のいる前では、神殿の中では、わたしを捕らえなかった。いつでもできたのに、そうしなかった。なぜだ。それは、あなたたちがやっていることは、昼間にはできない業、闇の業だからだろう。人前をはばかる業だからだろう。闇に乗じて行っていることが、それを示している。これについては14章2節に、「彼らは『民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう。』と言っていた」と記されています。主イエスの話を喜んで聞いている群衆を前にして主を捕らえるのは、群衆を刺激し、騒乱が起きる。それを恐れていたわけです。彼らは、神様に従う業だと思っていたのでしょうけれど、本当のところ、人を恐れていたのです。主イエスは、この「人を恐れるあり方」が本当に神様に従う姿なのか、そう告げておられるのでしょう。

 主イエスは静かに捕らえられました。十字架に架けられることを分かった上でした。なぜなら、主イエスはそれが神様の御心であることを知っておられたからです。それは、49節の「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」に明確に示されています。この「聖書の言葉」とは、詩編22編やイザヤ書53章に示されているメシアの受難預言を指しています。主イエスは、これは聖書の言葉が実現するためだ、つまりこれが神様の御心なのだと告げられたのです。

 

 さて、50節にはとても印象深い言葉が記されています。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」淡々と聖書は記しておりますけれど、この一節は、私たちの心にとても深く突き刺さる言葉です。数時間前に「決してわたしはつまずきません」と、主イエスの前に誓った弟子たちでした。ペトロだけではないのです。皆そう言ったのです。しかし、実際に主イエスが捕らえられる段になると、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまったのです。この記事を見て皆さんはどう思われるでしょうか。何とだらしのない弟子たちだと思うでしょうか。私も同じだと思うでしょうか。私ならどうするでしょうか。

 ここでマルコによる福音書は、51~52節に一つのエピソードを加えています。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」。これはマルコによる福音書にしか記されておりません。この「一人の若者」は一体誰なのか。名前が記されていないので、本当のところは分かりません。しかし、教会の歴史の中で、この若者はこの福音書を記したマルコではないかと言われてきました。主イエスが捕らえられたこの時、マルコがそこに居合わせたのかどうか分かりません。しかし、これがマルコだと人々は読んできたのです。

 この福音書を書いたマルコという人は、使徒言行録によれば、初代教会の人々が集まって祈っていたエルサレムの家の息子です(使徒12:12)。母親がキリスト者で、彼は二代目でした。そして、バルナバとパウロと共に第一回伝道旅行に行った伝道者でした。しかし、マルコはその第一回伝道旅行の途中で帰ってきてしまったようなのです。パウロの第二回伝道旅行にマルコを連れて行くかどうかで、パウロとバルナバは意見が分かれてしまい、バルナバはマルコを連れて、パウロはシラスを連れて、別々に第二回伝道旅行に行ったことが記されています(使徒言行録15章36~44節)。

 マルコは逃げたのです。パウロの伝道旅行は命の危険にさらされるものでした。その伝道旅行で、マルコは逃げたのです。その出来事をさかのぼるこのゲツセマネにおいて主イエスが捕らえられた時、その場に彼がいたのかどうか分かりません。しかし、そうでなかったとしても、福音書記者マルコはここで、パウロと伝道旅行に行った時に途中で逃げ帰ってしまった自分の姿を、この時主イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちの姿に重ね合わせて、ここに書き込んだのではないか。私にはそう思えてならないのです。マルコもまた、自分は主イエスを見捨ててしまった者だ、そのことを本当に知ったから、福音を告げる伝道者になれたし、その福音に基づいて福音書を記すことができたのだろうと思うのです。

 主イエスの十字架への歩みにおいて、弟子たちの弱さ、情けなさ、不信仰、裏切りが次々と記されています。それは、本当にそうであったということだけではなくて、それが福音の本質を明確に告げる出来事だからなのでありましょう。

 福音とは、どこまでもついて行きますと言っていたのに、いざという時に主イエスを見捨てて逃げてしまう、その弟子たちをなおも赦し、愛し、用い給う神の愛なのです。主イエスの十字架は、この自分を見捨てた者の罪を担い、その者に罪の赦しを与えるものなのです。主イエスを我が主、我が神と信じて受け入れて歩み始める。主イエスを愛し、従う。しかし、信じ切れない。愛し切れない。従い切れない。主を裏切るようなこともしてしまう。その通りです。そのような私が、なおも赦され、愛され、生かされているのです。それが福音です。ですから何度でも、主イエスに励まされて、御心によって生きる道へと新しく歩み出していくのです。福音は私たちを、あきらめない者へと導き続けるのです。主イエスが、神様が、私たちを捉えて離さないからです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から褒め称えます。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを、感謝いたします。神さま、弟子のユダは愛のしるしである接吻をもって、主イエスを裏切りました。しかし主イエスは、他の裏切った弟子たちと同じように、ユダを愛し、彼が悔い改めて立ち帰ることを願っておられたのだと思います。神さま、あなたは主イエスにあって何度も何度も私たちの罪を赦し、御国に向かって立ち上がるよう励まし導いていてくださいます。そのことをいつも私たちに覚えさせてください。今日は礼拝の後に、南柏教会に長らく仕えて下さった戸村曻次さんの記念会を行います。その記念会の上にあなたの祝福を与えてください。信仰に生きた先輩の思い出を分かち合う豊かなひと時としてください。10月を迎えようとしていますが、まだ寒暖差のある日が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   10月5日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    マタイによる福音書5章38~42節

説  教   「復讐してはならない」   渡辺望

主日礼拝   

午前10時30分  司式 藤田浩喜牧師  (聖餐式を執行します)

聖     書

 (旧 約) ダニエル書7章11~14節   

 (新 約) マルコによる福音書14章53~65節

説  教   「神が与えてくださる幻」  藤田浩喜牧師