復活の主が共におられる

ルカによる福音書24章13~35節 2025年4月20日(日)イースター礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今日お読みしました聖書個所には「二人の弟子」が出てきました。そうです、ここで彼らは確かに「弟子」と呼ばれています。イエス・キリストの弟子たちです。しかし、今日の箇所は、彼らがエルサレムから離れていく姿から始まります。他の弟子たちが集まっているエルサレムから離れていくのです。主イエスは死んでしまったからです。だからもはやキリストの弟子であり続ける理由もないし、キリストの弟子としてエルサレムに留まる理由もないのです。エルサレムをあとにした二人の弟子たちにとって、エマオへと向かう旅路は、いわばキリストの弟子であることから離れていく旅に他なりませんでした。そのように、キリストの弟子ではなくなりつつある二人の姿をもって、この話は始まるのです。

 しかし、今日お読みしました箇所の終わりに至りますと、なんと彼らは再びエルサレムにいるではありませんか。彼らはキリストの弟子として他の弟子たちと共にいるのです。いったい何が彼らをエルサレムに帰らせたのか。それが何であるかを伝えているのが今日の物語です。言い換えるならば、この物語は、何が人をキリスト者であり続けさせるのか、キリスト者であること、あり続けることは、いったい何を意味するのかを私たちに伝えている物語なのです。

 はじめに13節以下を御覧ください。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」(13~14節)。

 「この一切の出来事」とは、ナザレのイエスという方が十字架にかけられ殺されたこと、葬られたこと、そして、その遺体が無くなってしまったことなどの諸々の出来事です。その出来事について語り合っている彼らに、一人の人が近づいてきました。そして、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(17節)と尋ねたのです。

 「二人は暗い顔をして立ち止まった」(17節)と書かれています。そして、その人がさらに尋ねるので、彼らは答えました。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです」(19~20節)。

 彼らの思い出の中には、「行いにも言葉にも力ある預言者」としての主イエスがいました。預言者というのは神の言葉を語る人です。預言者は死んでもその言葉は残ります。いや、言葉だけではありません。「行いにも力ある預言者」と言われています。預言者の行為も残ります。言い換えるなら、預言者の生き様が残るのです。そのように、確かに主イエスという御方の言葉と行為は、主イエスが死んでしまった後でも、彼らの心の内にしっかりと生きていたに違いないのです。

 しかし、彼らは暗い顔をしていたのです。それは単に死別の悲しみのゆえではありませんでした。その次にこう書かれています。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)。「望みをかけていました」という言葉は、望みが「過去」になってしまった、ということを意味します。暗い顔をしていたのは、希望がもはや過去のものとなってしまったからです。

 つまり、主イエスの言葉と行いが記憶の中に残っていようと、その生き様による感化が残っていようと、それは希望に結びつきはしなかったということなのです。彼らがどんなに《過去の人》である主イエスについて語り、論じ合っても、そこには救いもなく希望もなかったのです。それゆえに彼らは、キリストの弟子であり続けることもできなかったのです。彼らはエルサレムを離れ、エマオへと向かう道を暗い顔をしながら歩いていたのです。

 さて、ここに見る二人の姿は、一つの大きな事実を示しています。どんなに主イエスの言葉や行為が大きな力を持っていたとしても、そのことによっては、主イエスの弟子たちは後の時代まで存在し続けることはなかった、ということです。それだけでは十字架の後の教会、十字架の後のキリスト者は存在し得なかったのだ、ということです。単に主イエスの言葉や行い、人格的感化が「生きている」というだけでは、キリストの弟子であることはできないのです。

 そこで、15節の御言葉が大きな意味を持つのです。「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」― 復活されたキリストが彼らと共に歩まれたというのです。しかし、彼らはそれが主イエスであることに気づきませんでした。なぜでしょうか。ただ聖書は「二人の目は遮られて」と説明しています。これは31節に関係します。そこで「二人の目が開け、イエスだと分かった」と書かれているのです。共に歩まれる復活のキリストは、目が開かれて初めて認識されるのだ、ということです。

 そのように、二人は復活のキリストに気づいていないのですが、そこにはキリストがなされた一連の働きかけが記されています。彼らが知る前に、すでにキリストの働きかけは始まっているのです。

 キリストは近づいて来られました。一緒に歩き始められました。彼らに問いかけられました。そして、大切なことが25節以下に書かれています。「『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(25~27節)。キリストが聖書の言葉を解き明かされたのです。

 そして、二人は主イエスと共に家に入ります。彼らは一緒の食事の席に着きます。ところが興味深いことに、キリストは客としてではなく、家の主人であるかのように振る舞うのです。キリストがパンを割き、賛美の祈りを唱え、パンを割いて渡されたのです。

 その一連のキリストの働きかけを経て、彼らの目が開かれました。「すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)と書かれています。これは大変奇妙なことです。「目が開けて見えるようになった」というのなら話は分かります。しかし、ここでは逆なのです。見えなくなったというのです。

 そうしますと、結局、キリストが目に見えるか見えないかは、本質的には重要ではないということなのでしょう。重要なのは「目が開けた」ことなのです。今まで共に主イエスが歩んでくださったし、これからも共に歩んでくださることが分かるということだからです。それが信じられるということこそ、大切なことなのです。

 そして、それが信じられた時、彼らは振り返ってこう言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。失望していた彼らの内に、命の火が灯りました。まさに死んでいたような彼らの心の内に、命の火が灯りました。そして、その炎が大きく燃え上がり始めたのです。

 彼らがかつて抱いていた望みはどうなったのでしょうか。相変わらずイスラエルは解放されてはいません。相変わらずローマ帝国の支配のもとにあります。見えるところは何一つ変わってはいません。しかし、彼らはもはや希望を失って暗い顔をして歩いている者ではありません。もはや失意の中に死んでいるような者ではありません。復活のキリストが伴ってくださったこと、これからも伴ってくださることを知ったからです。キリストによって命の炎を内にいただいた人だからです。そして、彼らはエルサレムに引き返します。弟子たちの仲間のもとに戻っていくのです。そこでキリストの弟子として、新たに生き始めるのです。生きておられるキリストの弟子として生き始めるのです。

 このように、キリスト者であり、キリスト者であり続けるということは、いったい何を意味するのかという問いに、今日の聖書箇所は明確に答えています。キリスト者とは、単に二千年前の主イエスの言葉を実践して生きる人ではありません。単に主イエスの行為を模範にして生きる人ではありません。そうではなくて、キリスト者とは復活のキリストと共に生きる人を言うのです。主イエスは単に「過去の人」として思い起こされたり、敬われたりすることを望んではおられません。私たちの現実の中に共に生きることを望んでおられるのです。

 ここに書かれていることは、単にあのクレオパたちの特殊な経験ではありません。教会において私たちに、今も与えられている賜物なのです。ここには今日(こんにち)もなお教会の内において起こっている事、起こり得る事が記されているのです。聖書が解き明かされ十字架と復活の意味が明らかにされることも、聖餐において復活のキリストのご臨在が示されることも、またそこに伴って湧き上がる喜びも賛美も、悲しみと失望によって沈んだ心に命の炎が燃えあがることも、その一切は復活のキリストの働きであり、キリストの賜物なのです。そのように、復活のキリストの働きかけを受けながら、キリストと共に生きる人、それをキリスト者と言うのです。

 そこで見落としてはならないことが一つあります。28節以下に次のように書かれています。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」(28~29節)。

 彼らの内に起こった全ての良きことは、主イエスの一方的な恵みの御業でした。しかし、そのような主の恵みの御業に目が開かれるに至るには、彼ら自身の側からも行ったことがあるのです。それは復活のキリストを《引き止める》ということでした。つまり彼ら自身が主と共にいることを《求めた》ということです。そして、主イエスがパンを裂かれる食卓に身を置いたということです。

 彼らはキリストと知らずに求めました。ありがたいことに、私たちにはすでにキリストの復活が伝えられていますから、私たちは知った上で求めることができます。キリストが御臨在くださることを知った上で、聖餐にあずかることができます。そのように、キリストと共にあることを求めて、私たちは今ここに集まっているのです。

 その求めは、祈りの言葉として讃美歌218番「日暮れてやみはせまり」に繰り返されている言葉です。「主よ、ともに宿りませ」。あの復活の日の夕方、あの弟子たちが主に願い求めたように、私たちも主に向かって共に祈り続けたいと思います。「主よ、ともに宿りませ」と。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を心から讃美いたします。今日、御子イエス・キリストの復活を祝うイースター礼拝を、敬愛する兄弟姉妹と共に守れましたことを感謝いたします。イエス・キリストは死に打ち勝ち、復活され、私たちと共に歩んでくださっています。今も生きて共に歩まれる主イエスの弟子として生きるのが、私たちキリスト者であることを示されました。あなたは今も、聖書の御言葉の解き明かしを通し、聖餐式の恵みを通して、私たちの心に信仰の炎を燃え立たせてくださいます。その大きな恵みを深く覚えつつイースターの出来事を祝わせてください。この礼拝において一人の姉妹が主イエスを救い主と告白し、洗礼を受けられます。どうか、私たちの群れに加わり、キリスト者として歩み始める姉妹の上に、主の祝福と励ましを与えていてください。

群れの中には病を得ている者、高齢のために様々な困難を抱えている者、人生の試練に立たされている者がおります。どうか、一人一人の上に復活のキリストの恵みを豊かに注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

次週の礼拝  4月27日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ヨハネによる福音書20章11~18節

説  教   「婦人よ、なぜ泣いているのか」 高橋加代子

主日礼拝    

午前10時30分        司式 山根和子長老

聖     書

 (旧約) イザヤ書40章27~31節

 (新約) ヨハネによる福音書11章17~26節

説  教   「死の壁を超えるもの」   藤田浩喜牧師

主のひとみの中の私

ルカによる福音書23章32~43節 2025年4月13日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 主イエスがかけられた十字架の上には、「これはユダヤ人の王」という札が掲げてありました。ローマ人が掲げた札です。明らかにユダヤ人を見下して馬鹿にして掲げた札です。「この惨めな無力な男が、彼らユダヤ人の王なのだ!」そんな嘲笑を込めた罪状書です。

 そんなユダヤ人たちを馬鹿にしたような罪状書が掲げられたのは、理由のないことではありません。実際、ユダヤ人の民衆たちは、つい数日前までその男が彼らの王となると本気で信じていたからです。もっともユダヤ人は「ユダヤ人の王」という言い方はしません。「メシア」と呼びます。イスラエルの民が待ち望んできた力ある王です。このナザレのイエスこそ待ち望んできたメシアに違いないと思って、多くの人々はついて来ました。実際、その御方は力ある御方でした。悪霊を追放し、病気を癒し、大群衆に食べ物を与えたなどの数々の奇跡について噂は噂を呼び、その御方の周りにはいつも群衆が取り巻いていたのです。

 5日ほど前にエルサレムに入城された時もそうでした。エルサレムに向かう道には、こんな賛美の歌声が響いていたのです。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」(19:38)。「力ある王がついにエルサレムに来られた!この御方がユダヤ人の王としてローマ人に支配されている我々を今こそ救ってくださる。この王がイスラエルのために国を建て直してくださる。」人々はそんな期待をもってここまでついて来たのです。

 しかし、今、そのメシアであるはずの人物が、十字架に磔(はりつけ)にされているのです。自分の手足すら動かすことができません。「民衆は立って見つめていた」と、今日の35節に書かれていました。彼らが見つめていたのは全く無力なメシアでした。ユダヤ人からすれば、無力なメシアなどあり得ない。無力なメシアなどいらないのです。

 はじめからメシアだとは思っていない議員たちは、嘲って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」それは今や、民衆の声の代弁でもあったことでしょう。「もしメシアなら!」― いや、もはやメシアなどではあり得ない。この嘲りをローマ人も真似します。彼らはメシアとは呼びません。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。ユダヤ人にせよ異邦人にせよ、もはや誰もが、力ある王などとは思っていません。本当に力ある王でなければ、いらないのです。

 結局、そこに見るのは、ある意味では普遍的な人間の姿です。自分たちの求めているものが与えられるという期待があればついて行くのです。しかし、無力であることが明らかになったら、もういらない。もう必要ないのです。その意味において「十字架につけられたメシア」は、普通に考えるならば人間にとって「いらないもの」の代表と言えます。

 しかし、教会は今日に至るまで、十字架につけられたメシア(キリスト)を宣べ伝えてきたのです。後にパウロはこう書いています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(Ⅰコリント1:22~23)。それはなぜなのか。「そんなものいらない」と言われても仕方のない、「十字架につけられたキリスト」を教会が今日まで宣べ伝えてきたのはなぜなのか。―その理由をはっきりと示しているのが、その後に書かれている話です。十字架につけられたメシアの傍らで、いったい何が起こっていたのか。その続きを読んでいきましょう。

 十字架につけられたメシアの両側には、他に二本の十字架が立てられていました。十字架にかけられている一人がイエスを罵ります。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)。先ほどの議員の嘲りに似ていますが、意味合いが少し違います。新共同訳では「自分自身と我々を救ってみろ」となっていますが、原文では「自分自身と我々を救え」という単純な命令文です。彼は嘲っているのではないのです。そこに込められているのは、「自分たちは救われて然るべきだ」という思いです。だからそうしないメシアを罵っているのです。「お前はメシアではないのか。ならば自分自身と俺たちを救え!」

 彼については「犯罪人の一人」と書かれています。いかなる罪を犯したのでしょうか。十字架刑というのは、手間と時間がかかる処刑方法です。そのように時間をかけてさらしものにする、大きな目的は見せしめです。見せしめにされるのは、主(おも)に主人に反抗して反乱を起こした奴隷たちか、ローマの国家権力に対する反逆を企てた活動家たちです。ですから多くの人は、この二人も単なる犯罪者ではなく政治犯であったろうと考えます。わたしもそう思います。

 彼らが政治犯であるならば、主イエスを罵った男の言葉は大変よく分かります。彼らは正義のために戦ってきたのです。神のために戦ってきたのです。少なくとも、彼らの意識としてはそうなのです。しかし、現実には異教のローマ人たちが勝ち誇り、自分たちは十字架にかけられて、苦しみもがいて死を迎えようとしている。正しい者が苦しんで、悪い者がそれを喜んでいる。そんなことは、あってはならないことだという怒りが湧き上がります。「神がおられるなら、メシアが来られたというなら、我々は真っ先に救われて然るべきだろう。お前はメシアではないのか。自分を救え。我々を救え!」

 彼の抱いた思いは、多かれ少なかれ私たちにも覚えがあるようにも思います。苦しみの中で、私たちもしばしば言うのではないでしょうか。「わたしは悪くないのに!」悪い方が苦しんでいなくて、悪くない方が苦しんでいる。もし神がいるなら、もし救い主なるものがいるならば、このような状態のままに置かれているのはおかしいではないか!その思いは私自身覚えがあります。皆さんも、おそらくそうではないでしょうか。

 しかし、同じような立場で、同じ苦しみの中にあったもう一人の人は、そこで全く違ったことを口にしたのです。彼はこう言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40~41節)。

 お前は神をも恐れないのか! そう彼は言いました。彼自身は苦しみの中にあって、死を目の前にしながら、神の御前に身を置いているのです。彼は神への恐れをもって神と向き合っているのです。誰が正しいとか誰が悪いとかいうこの世の判断の中に身を置いているのではなく、神の判断の前に身を置いているのです。その時に、彼は思うのです。わたしは決して正しくなどない!だから、彼は言うのです。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と。

 彼が言う「自分のやったこと」というのは、単にローマの法律に背くことや、反権力闘争において行ってきた、暴力や殺人のことではありません。彼は「自分のやったこと」と、神の御前において言っているのです。そこでは、他の人は知らないかもしれないけれど、神は知っておられることが問題になるのです。他の人は知らないかもしれないけれど、神だけは知っている心の最も深いところまでを含めた、「自分のやったこと」なのです。ある意味では、神だけが知っている自分の人生のすべて、それこそが「自分のやったこと」です。それが正しく裁かれ、正しく報われるとするならばどうなるのか。彼は自分が十字架の上にいることが当然だと思えたのです。

 その時に、隣にいる十字架につけられたメシアは、全く違って見えてくるのです。十字架につけられたメシアなんていらない? とんでもない!彼はメシアが同じ苦しみの中にまで来てくださっていることを見たのです。本来、苦しむ必要のない正しい方が、本当の意味で正しい方が、罪人である我々の苦しみの中にまで来てくださっている。こんなところにまで来てくださっている!そんな思いを込めて彼は言うのです。「しかし、この方は何も悪いことをしていない!」

 彼はそこに、メシアを遣わされた神の憐れみを見たのです。神を恐れる者だけが知ることのできる、神の憐れみを見たのです。ですから、その憐れみに寄りすがって最後の力を振り絞るようにして、彼はメシアに言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。「あなたはこの世に来られ、人間の罪の最も深きところにまで来てくださいました。そこで苦しみもがいている、私のところにまで来てくださいました。そこで見たわたしを、そこでこう祈ったわたしを、どうか忘れないでください」。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

 するとそこで主はすぐさま、彼にこう宣言されたのでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」メシアは苦しむ罪人の傍らにまで来てくださって、今、十字架の上におられる。しかし、メシアは王なのです。王の権能は裁きを行う権能なのです。メシアは最終的な裁きを行う王なのです。その王が権威をもって、十字架の上から宣言するのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる!」と。それは王が権威をもって宣言する、罪の赦しに他なりません。彼は罪を赦された者として、罪のゆえに滅びる者ではなく、主イエスと一緒に楽園にいることになるのです。

 彼は神の国においてではなく、死んだ後にでもなく、生きている間に、依然として苦しみのただ中にある時に、その御方から罪の赦しと救いの宣言を聞くことになりました。これが、今日も私たちに起こっていることなのです。ボッヘッファーという人は言いました。「人は神を十字架へと追いやる。神はこの世においては無力で弱い、しかし神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ、僕たちのもとにおり、また僕たちを助けるのである。」これが十字架につけられたキリストです。教会が宣べ伝えてきた、十字架につけられたキリストです。私たちもまた、十字架につけられたキリストの傍らにいるのです。否、キリストが、私たちの傍らにいてくださるのです。あの赦された罪人と同じところに、私たちもいるのです。そして、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる!」と宣言してくださっているのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。受難週の最初の日に、敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、感謝いたします。御子イエス・キリストは、二人の犯罪人と共に十字架に付けられ、死なれました。それは神様の前に死ぬほかない、罪を重ねてきた私たちを助けるためでありました。御子イエス・キリストは、そのようにして私たちを罪の縄目から解き放ち、永遠にわたって開かれた神の支配の園パラダイスに生きる者としてくださいました。どうか、苦しみのさ中にある時も、地上の死を間近にしている時でさえ、キリストが傍らにいてくださることを、私たちに覚えさせてください。群れの中には、重い病を得ている者、その生涯を終えようとしている者もおります。どうかあなたの全き平安をもって、支え励ましていてください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  4月20日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ヨハネによる福音書20章1~10節

説  教   「復活の朝」  藤田百合子

主日礼拝  

午前10時30分 イースター礼拝  司式 藤田浩喜牧師

聖     書

 (旧約) 詩編37編1~6節   (洗礼式と聖餐式を執行します)

 (新約) ルカによる福音書24章13~35節

説  教   「復活の主が共におられる」   藤田浩喜牧師

神の悲しみ

マルコによる福音書12章1節~12節 2025年4月6日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜   

 「イエスは、たとえで彼らに話し始められた」(1節)。今読んでいただいた聖書において私たちが聞いたたとえ話は、群衆に向けて語られたものではなくて、ある特定の「彼ら」に対して語られた話です。その「彼ら」とは、11章27節に出てきた「祭司長、律法学者、長老たち」です。イスラエルの指導者たちです。このたとえは「彼ら」に対して語られたのです。

 時は主イエスがエルサレムに入城されて二日目です。火曜日のことです。その二日後の夜、主イエスは捕らえられ、金曜日に主は十字架にかけられることになります。つまりその時に向けて、主イエスの逮捕と処刑の準備が着々と進められていた時の話なのです。その準備を進めていたのが、他ならぬこの「彼ら」です。祭司長、律法学者、長老たちなのです。

 もちろん、主イエスはそのことをご存じです。すでにエルサレムに来られる前から、主は弟子たちにこう語っておられたのです。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(10:33)。そのように、今日読んでいただいたたとえ話は、間もなく殺されようとしている方が、自分を殺そうとしている人々に語りかけている話なのです。

 そして、殺そうとしている人々は、そのたとえが自分たちの話であることを、はっきりと理解したのです。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った」(12節)。これが今日読んでいただいた箇所の結末です。

 彼らは、このたとえ話が自分たちの話だと理解しました。息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった農夫たちとは、自分たちのことだと理解しました。主イエスがご自分をこの殺される「息子」にたとえていることも理解したことでしょう。思い当たることがあるからです。実際、目の前にいるナザレのイエスというこの男を、必ず捕らえて殺してやると決意していた彼らなのです。群衆さえいなければ、すぐにでも捕らえて殺してやりたいと思っていた彼らなのです。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」と聖書は語っているのです。

 しかし、この「当てつけて」という訳はある意味では一面的な翻訳です。確かに彼らは「当てつけられた」と感じたに違いない。しかし、もともとの言葉には「当てつけ」というネガティブなニュアンスはありません。ただ「彼らに向けて語られた」と書かれているだけです。

 確かに彼らは、「これは自分たちの話だ」と思って腹を立てたかもしれません。「当てつけやがって!」と。しかし、主イエスはただ単に「彼らの話」をしたかったのではないのです。このたとえ話の中心は悪い農夫たちではないのです。そうではなくて、ぶどう園の主人なのです。「ぶどう園の主人」によってたとえられているのは神様です。主イエスは、父なる神の話をなさりたかったのです。自分が間もなく殺されようとしている時に、自分を殺そうとしている人たちに、父なる神のことを話したかったのです。それは今、彼らがどうしても聞いておかなくてはならない話だったからです。

 たとえ話の内容を見ていきましょう。話は次のように始まります。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」(1~3節)。

 ぶどう園の主人は、「これを農夫たちに貸して旅に出た」と書かれています。ここには主人の信頼が語られています。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園の管理を託しました。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園における仕事を与えました。しかし、農夫たちは主人の信頼を裏切りました。農夫たちは分を忘れて、あたかもぶどう園の所有者であるかのように振る舞うのです。

 そのように人は神の信頼を裏切ります。私たちは神を信じるとか信じないとか言いますけれど、それ以前に神が人間を信じてくださるのです。そのように神はアダムとエバを信じてエデンの園を託されましたし、私たち人間にこの世界の管理を託してくださっています。そして、そのように祭司長、律法学者、長老たちは、イスラエルにおける指導者としての務めを託されたのです。神が信頼してくださって託してくださったのです。しかし、人間は神の信頼を裏切るのです。神を侮るようになるのです。神が主人だとは認めなくなるのです。神が何を求めているかなど、どうでもよくなるのです。自分が何を得るかが、何よりも重要になるのです。神の求めに答えるつもりなど、さらさらない。何かを求められること自体、いやなのです。「農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」。

 しかし、主イエスはこのような話を続けます。「そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された」(4~5節)。ここに語られているのは、まことに驚くべきことです。農夫たちが僕を侮辱したり殺したりしたことではありません。もっと驚くべきことは、この主人が《繰り返し》僕を送ったということです。

 このたとえ話の後に、主イエスはこんな問いかけをしています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。そうです、この主人はそのような力を持っているのです。農夫たちを全滅させる力を持っているのです。この主人が神様のことを喩えているならば、なるほどそうでしょう。神は無力ではありません。御自分を侮る者、逆らう者、信頼を裏切る者を、ただちに滅ぼすことがおできになるでしょう。

 しかし、この主人は農夫たちを直ちに滅ぼしてしまうのではなく、「他の僕」を送るのです。農夫たちは遣わされた僕の頭を殴り、侮辱して帰らせます。それでもなお「もう一人」を送ります。その僕は殺されます。しかし、そのようなことが起こったにもかかわらず、主人はなおも「多くの僕」を送ります。

 これはイスラエルの歴史において、実際に起こったことでした。神はそのように預言者たちを送られました。これを聞いている祭司長たちにとっては、洗礼者ヨハネがそれに当たります。預言者というのは、未来を予告する人のことではありません。日本語では「言葉を預かる者」と書くように、彼らは神の言葉を託されて伝える人たちです。預言者とは、いわば神の呼びかけなのです。神はイスラエルに預言者を遣わし、立ち帰るようにと、繰り返し呼びかけられたのです。

 いや、それだけではありません。このたとえ話はさらに驚くべき展開を見せることになります。このように書かれています。「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」(6節)。この主人の行動は常軌を逸して、愚かであると言わざるを得ないでしょう。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」― 今まで僕たちを侮辱したり殺したりした農夫たちが、息子だからと言って敬うはずがないのは、目に見えています。あまりにも愚かです。

 しかし、この主人の愚かとしか言いようがない行動こそ、このたとえの中心なのです。主イエスはこのようなたとえによって、わたしの父なる神は、このような御方だ、と語っておられるのです。「『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。」― 主イエスは、この最後に送られた「息子」として語っておられるのです。その「息子」として、「わたしの父である神は、愚かとしか言いようがないほどあなたたちを愛して、あなたたちが立ち帰るように呼びかけておられるのだ」と語っておられるのです。この父なる神のことを、彼らに話したかったのです。神はこのような御方なのだということを話したかったのです。そして、これこそ私たちもまた、このたとえから聞かなくてはならないことなのです。

 もちろん主イエスはそれでも、彼らは自分を殺すであろうことは分かっていました。主イエスの話は続きます。「農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」(7~8節)。そうです、主イエスは分かっておられたのです。実際この数日後に、イエス・キリストはエルサレムの外にあるゴルゴタの丘で、十字架にかけられて殺されることになるのです。

 結局、愚かとしか言いようのない神の愛の呼びかけも、無駄に終わってしまったように見えます。主人が息子を送ったこと自体、無意味に思えます。普通に考えたなら、結論は見えています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。

 そうです、これが結論のはずでした。それで全ては終わりのはずです。しかし、そこでイ主イエスは、なおも詩編118編を引用して話を続けるのです。「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』」(10~11節)。

 「家を建てる者の捨てた石」とは、イエス・キリストのことです。主イエスは確かに人の手によって捨てられました。十字架にかけられたということは、そういうことです。神の最後の呼びかけも、無に帰してしまったかのように見えます。しかし、それで終わりではありませんでした。むしろ、そこから決定的に新しいことが始まったと言うのです。捨てられたはずの石が、新しい家の隅の親石となったというのです。

 主イエスの言われるとおりでした。捨てられて十字架にかけられたイエス・キリストが、私たちの罪を贖う犠牲となりました。そこから罪の赦しの福音が、新たに宣べ伝えられるようになりました。そして、そこから教会が誕生しました。イエス・キリストは、確かに新しい神の民である教会の親石となったのです。神は呼びかけを止められたのではありません。そのような形において、イエス・キリストを十字架にかけた祭司長、律法学者、長老たちへの呼びかけを継続されたのです。そして、神を侮り、神の信頼を裏切っているこの世界への呼びかけを継続され、今に至っているのです。その独り子をお与えになるほどに、この世界を愛され慈しまれる神の切なる呼びかけに、心を開いて聞き従う者でありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。受難節の第5主日、敬愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。神さま、あなたは罪人である私たちに、繰り返し悔い改めてみ許に立ち帰るように呼びかけられます。御自身の独り子をさえお与えになるほどに、私たちに呼びかけ続けられます。神に造られた私たちは、神の御ふところに帰らない限り、まことの安らぎを得ることはできません。どうか、あなたの切なる呼びかけに、悔い改めて立ち帰る者としてください。

群れの中には、病を得ている者、高齢ゆえの弱きをおぼえている者、人生の試練に立たされている者がおります。どうか、その一人一人にあなたの恵みの御手を伸べていてください。新しい一週間もあなたの支えと導きを信じて、それぞれの場所で歩ませてください。この切なる願いと感謝を、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

次週の礼拝   4月13日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書  ヨハネによる福音書19章38~42節

説  教  「主イエスの埋葬」  藤田浩喜牧師

主日礼拝    

午前10時30分 受難週 司式 三宅恵子長老

聖     書

 (旧約) イザヤ書53章1~10節

 (新約) ルカによる福音書23章26~43節

説  教 「主のひとみの中の私」   藤田浩喜牧師

人を生かす権威

マルコによる福音書11章27~33節 2025年3月30日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

 今日は、主イエスの最後の一週間の火曜日にあった、神殿での出来事です。

主イエスが神殿の境内をゆっくりと歩いておられると、待ちかまえていたかのように祭司長、律法学者、長老たちが、どやどやと近づいてきて、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と、頭ごなしに問い詰めてきました。

 論争の仕掛け人である「祭司長、律法学者、長老たち」というのは、すでに11章18節で登場しています。主イエスが神殿の商人たちを追い出して「わたしの家は…祈りの家と呼ばれるべきである」と宣言なさった、その直後のところです。「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」(18節)とあります。主イエスに対して殺意を持ったというのです。

 そして、彼らは主イエスをこの世から葬り去るためにはどうしたらいいか、策を練ったのではないでしょうか。今のままであれば、民衆が主イエスをメシアだ、エリヤの再来だと、熱烈に支持している状態ですから、やたらに主イエスを捕らえるというわけにはいきません。まずは民衆の面前で難しい神学論争を仕掛け、窮地に追い込み、化けの皮をはがしてやろう。そうすれば、民衆も目を覚まし、あの男がメシアであるなどという幻想から醒める違いない。そうなればこっちのもので、あの男を「人々を惑わす異端者」として始末すればいい。そんな筋書きが、彼らの中にできあがったのだろうと思います。そのため、この後も主イエスに対して、いくつもの論争が仕掛けられていくのです。

 ところが、実際には主イエスの化けの皮をはがすどころか、自分たちの化けの皮がはがれてしまうのです。もっと丁寧な言い方をしますと、彼らは、論争によって主イエスが偽物のメシアであることを暴こうとし、メシアをかたった罪で殺そうとしていました。ところが、主イエスと問答をしてみると、主イエスのお答えによって、逆に彼らこそが偽物であることがはっきりしてしまったのです。

 

今日は最初の論争である「権威についての問答」です。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」

 彼らが問題にしている「このようなこと」とは、主イエスがロバの子に乗って歓呼の声を浴びながらエルサレムに入城したことや、神殿から商売人を追い出したことなど、一連の主イエスの行動のことでありましょう。また、神殿の中で主イエスが「教えて」おられたことも含んでいたと思います。要するに、それは彼らの縄張りを荒らすことだったのです。

 というのも、彼らは当時のユダヤ教の正当な手続きによって、祭司長、律法学者、長老の職に任じられていました。だからこそ、人々は彼らを神様の僕と認め、教師、牧者、神殿の管理者として尊敬していたのです。それに応じるように、彼らもまた我々こそ神の僕であるという自負をもって、人々を教え、導き、また神殿の務めを果たしていたわけです。

 ところが、そこにどこの馬の骨とも分からないイエスという男がやってきて、誰に任じられたわけでもないのに人々を教えている、神殿で勝手なことをしている。しかも、人々にチヤホヤされている。それが、彼らには気に入らないのです。邪魔なのです。とっても不愉快なのです。だから、「こんなことをするお前は、いったい何様のつもりだ。どんな権威が、どんな資格が、お前にあるのか」と、彼らは主イエスに詰め寄った、というわけです。

 彼らの気持ちは分からないではありません。私が今、こうして聖書を解き明かし、説教をしているのは、私が正規の手続きを経て、牧師に任じられたという自負があるからです。また、みなさんが私のような者のお話を、御言葉の説教として真剣にお聞き下さるのも、同じ事であろうと思うのです。

 ところが、たとえばそこに外から誰かがやってきて、神学校も行かず、教師試験も受けず、按手も受けていないのに、勝手に教えたり、教会の運営を始めたりしたらどうでしょうか。やはり私も、「あなたはどんな権威をもって、そんなことをするのか。誰が、あなたにそんなことをしてもよいという権威を与えたのか」と、問うに違いないと思うのです。

 権威というのは宗教的な権威だけではなく、政治的な権威もありますし、家庭であれば父親の権威、学校であれば先生の権威、職場であれば役職の権威と、色々な権威があります。その権威を問うということは、その権威が正当なものであるかどうか、つまり「あなたにその資格があるか」ということを問うことなのです。あなたには牧師の資格があるのか。父親の資格があるのか。先生と呼ばれる資格があるのか。部長とか社長の資格があるのか。そのような振る舞いをする資格があるのか、と問うことなのです。

 相田みつをさんという方を、ご存じでしょうか。20年以上前に亡くなられた方ですが、素人にはうまいのか下手なのかよくわからない独特の書で詩を書かれて、今も根強い人気をもっておられる方です。仏教に造詣が深く、人の心に訴えてくる素晴らしい詩を書く方です。

 相田さんは書道家であり、詩人でもあるのですが、無名の頃はそれでは食べていけませんから、習字の先生をして生計を立てていました。ところが、道元の禅問答を学んで行くうちに、自分を深く見つめ直す機会を得るのです。「自分のやっていることは何だ」、「習字の先生をして親子四人の生計を立てている、この生ぬるい生き方は何だ」、「今のような安易な生き方をして、安易な書を書く書道家でいいのか」と、自分を問いつめるのです。

 そして、ついにある決心をします。お金や名声などはいらない、書家とか、詩人と呼ばれなくてもいい、ただ本当に自分の心が納得のいく生き方をし、自分の納得のいく仕事をし、自分の心の自由だけは守ろうと、ただ食うためだけにやっていた習字の先生をぱったりと辞めてしまったのです。

 その途端に「親子四人がどうやって食べていけるか」という現実問題が、相田さんに重くのしかかってきます。そこで思いついたのが、心ゆくままに書いた自分の書や詩を生かして、商店の包装紙のデザインをしようということなのです。相田さんは、自分でお店を一軒一軒回って「お宅の包み紙のデザインをさせてくれませんか」と仕事を探しました。ところが、当時はデザインなんて洒落た言葉もなく、そんなものにお金を払う時代でもありません。ことごとく門前払いをされてしまったのでした。

 ところがあきらめずに回っていますと、ようやく話を聞いてくれるお菓子屋さんがありました。ちょっとおもしろいところなので、文章をそのまま引用して紹介させていただきます。

(以下は『いちずに一本道、いちずに一ツ事』よりの引用です。)

 某市にある一軒のお菓子屋さんに飛び込んだ時の話です。「わたしはこれこれこういうもんですが、お宅の包み紙のデザインをやらせてくれませんか」と言って、肩書きも何もついていない名刺を差し出しました。店のご主人曰く、「あなたはどんな経歴の持ち主ですか?」「経歴や肩書きは何もありません。立派な肩書きがあればここまで注文を取りに来ません。ないから来たんです。」わたしは正直に答えました。「あなたはどこか他のお店の仕事をやっていますか?」「いいえ、やっておりません。お宅が初めてです。」「どうしてうちに来ました?」「はい、お宅がこの街で一番いいお店のように思えましたから。」「何か今までにやった仕事の見本はありますか?」「いいえ、ありません。こちらがはじめてです。」「ほう、初めてですか。うちで今使っている包み紙はこれですが」と言って、ご主人は、その時使用していた包装紙を広げて、「これよりもいいものができる自信がありますか?」と、私に聞きました。「そんな自信はありません。あるのはうぬぼれだけです。そのうぬぼれも、やってみなければわかりません。」私は絶対にいいものを作りますとは言いませんでした。それは嘘になるからです。「うん、確かにそうだ。おもしろい、ひとつ頼んでみるかね。」

(引用終わり)

 こうやって相田さんは初めての仕事を取ったというのです。相田さんの「そんな自信はありません。あるのはうぬぼれだけです」という返事、これは本当に素晴らしい返事だと思います。店のご主人に対するだけの返事ではなく、すべての人に対する返事であり、自分の人生に対する答えだと言っても大袈裟ではないと、私は思いました。

 「そんな自信はありません。あるのはうぬぼれだけです」という相田さんの言葉は、他人が自分の仕事を認めてくれるかどうか、それは判らないけれども、私は自分が納得できるような仕事をする、そういう約束ならできるということなのです。本当に自由な心をもった、いや、そういう心で生きていこうと決心をして、それを実行に移した相田さんだからこそ、言える言葉だと思います。

 このような心の自由さということが、実は権威ということと関係してまいります。聖書における「権威」とは、「主権」のことなのです。「主権」というのは、他のものに支配されない、自由で、独立した力です。他人に束縛や支配されないで、自由に振る舞うことができる力です。こういう力をもっているのは、本来は神様だけです。ですからこの言葉も、本当は神様だけに用いられる言葉であったとも言われています。

 それなら、この地上における様々な権威というのは何かといいますと、本当の権威、主権をもっておられる神様が、御心のままに一人一人にゆだねられた権威であると言うことができましょう。ローマの信徒への手紙13章1節にも、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」と書かれています。この地上にある権威というのは、天においても地においても唯一の主権者、独立した自由な力をもった神様にもとに位置づけられた権威だけなのです。その権威のもとにあるからこそ、人は捉われなく自由なのです。

 先ほど、みなさんが権威を問われたらどう答えられますか、とお尋ねしました。あなたには本当に父親なり、母親の資格があるのか、本当に先生と呼ばれる資格があるのか、本当に上司と呼ばれる資格があるのか、そのように問われて「はい」と答えることができますかとお尋ねしました。私は、本当に牧師の資格があるのかと問われたら、相田さんの言葉を借りて、「自信はないが、うぬぼれはあります」と答えるしかないと思うのです。

 皆さんも同じだと思います。紙切れ一枚に「あなたは牧師です」とか、「あなたは教師です」とか、「あなたは父親です」と書いてあっても、何の意味もありません。人が、あなたは良い先生だ、良い父親だ、良い母親だと言ってくれるか、どうかでもありません。自分にはその権威が神様に与えられているのだ、それに対して自分は誠実に生きているのだ、そのように自分で自分のことが信じられることが、その人を本当に牧師なり、教師なり、父親なり、母親にするのではないでしょうか。相田さんがうぬぼれと言ったのも、自分が書家であり、詩人であるということは他人が決めることではなく、天が自分に与えてくれたことなのだという意味だと思うのです。それが心の自由さ、つまり他人に左右されない資格、力、つまり権威というものになってくると思うのです。

 しかし、祭司長、律法学者、長老たちが主イエスに求めた権威は、そういう権威ではありません。あなたが教師である、あなたが祭司である、あなたがメシアであるということを証明する紙切れがあるかどうか、ということなのです。だれがそんなものをあなたに与えたのか、ということなのです。

 ですから、主イエスはこう答えました。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」

 祭司長たちは、「わかりません」と答えます。本当は判らないのではなく、「あれもヨハネが勝手にやったことだ」と思っているのです。けれども、彼らにそのようには言えませんでした。それは、どうしてか。

 「『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言うだろう。しかし、「人からのものだ」と言えば……。』彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、『分からない』と答えた。」(31~33節)

 彼らが自分の考えていることを正直に言えなかったのは、「群衆が怖かった」からであるというのです。もし、彼らが神様の権威に生きていたならば、人を恐れる必要はありません。神様から授かった自由をもって、誰に対しても自分が信じていることを言えばいいのです。それができないというのは、彼らが神様ではなく、人の評価とか評判とか、人間に寄り頼んだ権威に生きていた証拠なのです。

 こうして彼らは、主イエスの化けの皮をはがそうとして、逆に自分たちの化けの皮をはがされてしまった。主イエスの権威を問うて、自分たちの権威が問われてしまった。権威を問われるとは、生き方を問われることです。あなたは何に基にして生きているのか。何を気にして生きているか。あなたのしていることは正しいのか。そういうことが問われることなのです。そしてこの問いは、私たち一人一人にも問われていることを覚えたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日もあなたの御前に礼拝を捧げることができ、心から感謝いたします。神さま、わたしたちはあなたの権威のもとにある時に、まことの自由を得ることができます。人の評価に左右されることなく、あなたのみを見上げて歩んでゆくことができますよう、わたしたちを強めていてください。まだまだ気候の不順な時が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。また春の季節、新しい歩みを始める人たちをあなたが祝し、導いていてください。

このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   4月6日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ヨハネによる福音書19章28~30節

説  教   「主イエスの死」  渡辺望

主日礼拝    

午前10時30分  レントⅤ  司式 藤田浩喜牧師

聖     書

  (旧約) イザヤ書5章1~7節     (聖餐式を執行します)

  (新約) マルコによる福音書12章1~12節

説  教   「神の悲しみ」   藤田浩喜牧師

少しも疑わずに

マルコによる福音書11章20~26節 2025年3月23日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今朝私たちは、父・子・聖霊なる神様を拝むためにここに集まってまいりました。その私たちに、神様は聖書を通して一つの出来事と二つの祈りについての教えを告げられます。一つの出来事とは、実がなっていないいちじくの木が枯れてしまったという出来事です。そして、二つの祈りについての教えとは、祈り求めるものはすべて既に得られたと信じて祈れということと、赦しの心をもって祈れということです。この一つの出来事と二つの教えは、一つにつながっています。バラバラなことではないのです。

 主イエスはエルサレム入城をされた次の日、月曜日ですが、再びエルサレムに向かわれました。その道すがら、葉の茂ったいちじくの木を見て、実が付いていないかと近寄られたのですが、実は付いておりませんでした。すると、主イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」(14節)と言われました。そして、さらに次の日、火曜日ですが、主イエスたちが再びエルサレムに入ろうとすると、その途中で、昨日のいちじくの木が枯れているのを見たというのです。この出来事は何を意味しているのでしょうか。

 ここで起きたことを深く考えることなく読みますと、主イエスは空腹になった。そこでいちじくの木があったので、その実を食べたいと思って木に近寄った。けれど、実が付いていないので腹を立てて、いちじくの木を呪った。すると次の日、そのいちじくの木は枯れていたということになります。この時、いちじくは実をつける季節ではなかったのですから、実が付いていないのは当たり前なのです。それなのに、主イエスは実が付いていないと言って腹を立てて、その木を枯らせてしまわれた。主イエスは何とわがままな方か、ということになりかねません。そんなふうに受け止めますと、この出来事を完全に読み間違うことになると思います。主イエスの十字架は、もうすぐそこまで来ているのです。三日後の金曜日には、十字架にお架かりになって死なれるのです。三日後に自分は死ぬということを受け止め、それを見据えながら時を過ごされている主イエスです。主イエスは大変緊迫した時を過ごしていたはずです。そういう中での出来事なのです。主イエスは弟子たちに、残り少なくなったこの地上での日々の中で、どうしても伝えておかなければならないことがあった。主イエスには、この出来事を通してどうしても弟子たちに教えたいことがあったのです。

 では、この出来事によって主イエスが弟子たちに何としても伝えようとされたこととは一体何だったのでしょうか。それは、「求められた時に実を付けていなければ滅びる」ということです。神様の裁きがあるということです。いちじくというのは、ぶどうと並んで、ユダヤにおいては最も一般的な果物でした。そして、旧約において、いちじくはぶどうと同じように、神の民イスラエルを指すたとえによく用いられておりました。そして、神様の御心に適わない歩みをしているイスラエルの民は、酸っぱいぶどうの実を付けるぶどうの木、あるいは実を付けていないいちじくの木にたとえられてきたのです。主イエスが求めた時に実を付けていないいちじく、すなわち神様の御心に適った歩みをしていない者は、神様の裁きを受け、滅んでしまう。そのことを、この出来事をもってお示しになったということなのです。

 では、その実とは何なのでしょう。主イエスが私たちに求めておられる実とは何なのでしょう。それは信仰です。神様の愛、神様の憐れみを信頼することです。この主イエスが求められる実は、私たちがよい人になって、よい行いを積み上げるというようなことではないのです。そうではなくて、ただ信仰なのです。神様が事を起こし、道を拓いてくださるということを信頼することです。ですから主イエスは、ペトロが「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」と告げますと、すぐに「神を信じなさい」と言われたのです。つまり、「神を信じなさい。そうすれば、この枯れたいちじくのようにはならない。葉が青々と茂ったいちじくでさえ、一晩で枯れさせてしまう神様の力、神様の御業を信頼しなさい。」そう言われたのです。

 ここで主イエスが言われた「神を信じなさい」という言葉は、直訳しますと、「神様の信仰を持て」となります。直訳してもよく分からない言葉になってしまいますので、「神を信じなさい」と訳されているのですが、言われているのは「神様の信仰」なのです。「神様の信仰」という言い方が変ならば、「神様の真実」と言ってもよいでしょう。神様が私たちを造り、導いて、救ってくださろうとしているその御心。そして、実際にそのことをなしてくださる神様の御業。その神様の真実を信頼せよということなのです。ここで、主イエスははっきりと御自身の十字架を見ておられるわけです。神様は、主イエスを十字架に架けることによって、私たちの一切の罪を赦し、神との交わり、永遠の命へと招いてくださるのです。その神様の救いの御心、救いの御業に目を向けよということなのです。

 そして、その神様の真実を信頼するということは、祈りに表れてくるのです。そのような神様の真実を信頼する中で生まれてくる祈りとは、第一に「既に得られたと信じて祈る」というものだと言われるのです。23~24節で主イエスは言われました。「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」山に向かって「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、山に足が生えてきて、海まで歩いて行って飛び込むなどということはありません。山というのは動かないものの代表です。「動かざること山の如し」と言われるように、山は動かないのです。しかし神様は、このどうしても動かないと思える山さえも動かしてくださるということなのです。そのことを信じて祈るということです。これが私たちに求められている信仰であり、祈りなのです。

 私たちは、人生を歩んでいく中で八方塞がりのように思い、どうしたらよいのか分からずに思い悩んでしまう時があります。私はいつも言っていることですが、八方が塞がれても、いつも一方は開いている。それは天です。八方が塞がっても、天は開いている。その天に向かって、神様に向かって祈るのです。神様がこの八方塞がりの状況を、思いもしないあり方で打開してくださる。そのことを信じて祈るのです。

 神様は、私たちの見通しや計画の外におられます。出エジプトの出来事を思い起こしましょう。当時、世界最強・最大の国だったエジプトにおいて、イスラエルは奴隷でした。神様はそのエジプトから奴隷であったイスラエルの民を脱出させたのです。エジプトを脱出したイスラエルの民の前には海があり、エジプト軍が追ってきました。絶体絶命のこの時、神様は海の中に道を拓いてイスラエルを助けてくださったのです。そして40年の荒野の旅がありました。食べ物がないのです。神様は天からのマナをもってイスラエルを養い続けられたのです。水がなくなれば、岩から水を湧き出させてくださいました。どれ一つとっても、こんなことがあるはずがない、こんなこと起こりっこない、そういう出来事をもって神様はイスラエルを助け、救い、導いてくださったのです。

そして、その神様の御心と御業は、主イエスの十字架と復活において完全に成し遂げられたのです。救われるはずのない罪人である私たちのために、神の独り子が十字架にお架かりになって、私たちの裁きの身代わりとなってくださった。こんなことを誰が考え付いたでしょう。誰も思っていなかったことです。そして、このことによって私たちは、天と地を造られた神様に向かって、「父よ」と呼び奉ることを許されたのです。神様は、私たちのために愛する独り子さえ惜しまないお方なのですから、私たちの救いのためには何でもしてくださるのです。私たちはそれを信じてよいのです。いや、主イエスはそのことを信じなさいと、私たちを招いてくださっているのです。

 主イエスは、「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」と言われました。それは、私たちが信じて祈れば、その祈りの力によって事を起こすことができるという意味ではありません。そうではなくて、神様と私たちが、愛によって結ばれている。それゆえに、神様の救いの御心と私たちの心が一つにされ、私たちは神様の救いの御業が現れることを、第一に願う者とされる。そこでは、神様の御心と私たちの心が一つにされる。そうであるならば、祈り求めるものは既に神様の御手の中で与えると決めておられるものなのですから、必ずそうなるのです。つまり、既に得たりと信じて祈ることができるということなのです。神様の愛を私たちが心で受け止め、神様の心と一つとされるように、主イエスは私たちを招いてくださっているのです。それが、得たりと信じて祈るようにと、私たちを招いてくださっているという意味なのです。

 さて、主イエスは続けて、祈りについてもう一つのことを教えてくださいました。25節「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」ここで主イエスが教えてくださったのは、私たちが祈る時、赦しの心をもって祈るということです。神様の愛が、私だけに向けられているのではなく、この人あの人にも同じように向けられていることを心で受け止めること。赦しの祈りはそこから派生してくるのです。

 私たちの人生において最も大きな問題は、この赦しでしょう。私たちが辛く苦しい思いをするのは、愛の交わりが破れるからです。もちろん、病気や経済的問題が、小さな問題であるとは言いません。しかし、私たちが愛の交わりの中に身を置くことができるならば、それらは私たちから生きる力と希望とを奪うような、決定的な問題とはならないでしょう。けれども、愛が破れるならば、私たちは生きる力を、気力を失ってしまいます。この愛の交わりの破れこそ、私たちの人生の中で山のように動かずに、私たちを苦しめる原因なのではないでしょうか。主イエスは、「その山が動くのだ。神様が事を起こしてくださるのだ。」そう励まし、促してくださっているのです。

 私たちが祈る時、「父なる神様」と神様に呼びかけて祈ります。この呼びかけが成立するのは、私たちのために主イエスが十字架に架かってくださったからです。この「父なる神様」の一言が私たちの唇から出る時、私たちはすでに主イエスの十字架の救いの中に、罪の赦しの中に身を置いているのです。この主イエスによる罪の赦しの恵みに与ることなく祈ることは、私たちにはできません。けれども、この主イエスの十字架による赦しに与る者は、赦す者として生きるのです。

 この赦しこそ、私たちがそして世界が、いつの時代でも最も必要としているものなのです。赦せない、恨みと憎しみが支配する中で、私たちは決して幸いになることはできません。私たちの祈りは、自分の幸いを願うところから一歩出て、あの人この人との和解へと導くものなのです。それは、主イエスが平和の主だからであり、赦しを与えるために来られた方だからであり、その方によって私たちが救われたからです。この祈りは、主の祈りの中で、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え」という祈りとして与えられているのです。

 私たちが「父よ」と祈る時、主イエス御自身が私たちと一つになって、神様の前に立ってくださるのです。ここに私たちの祈りがあるのです。この祈りを与えられ、この祈りへと招かれていることを、心より感謝したいと思います。お祈りをいたしましょう。 

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と対面とオンラインで礼拝を守ることができましたことを心から感謝いたします。神さま、御子イエスは十字架を目前にして、一つの出来事を示され、二つの祈りを教えてくださいました。いちじくが枯れた出来事は、わたしたちにあなたの真実に全存在をもって依り頼むことを教えてくれます。

人間の罪の赦しのために御子をさえ惜しまずに与えられた、神さまの愛と真実に依り頼む時に、わたしたちは「既に得たり」という祈りと「赦す祈り」を捧げることができます。どうか、いつもそのことを覚え、心に刻ませてください。群れの中で病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、今試練の中にある兄弟姉妹を顧み、あなたの支えと励ましを与えてください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  3月30日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ヨハネによる福音書19章25~27節

説  教   「母を弟子に託す」  藤田浩喜牧師

主日礼拝    

午前10時30分  レントⅣ  司式 山﨑和子長老

聖     書

  (旧約) 申命記8章11~20節

  (新約) マルコによる福音書11章27~33節

説  教   「人を生かす権威」  藤田浩喜牧師