マルコによる福音書11章1~11節 2025年3月2日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日の箇所は主イエスがエルサレムに入城される箇所です。前半の1~6節では、2人の弟子たちが、主イエスの乗られる子ろばを調達に行った時のことが記されています。後半の7節以下では、主イエスがいよいよ子ろばに乗ってエルサレムに入城された場面が生き生きと報告されています。
前半の1~6節は、日曜学校の子どもたちもよく知っているお話です。主イエスの命を受けて二人の弟子たちが、子ろばを借りに行くのです。子ろばの持ち主と主イエスが知り合いで、子ろばを借りる約束ができていたわけではないようです。村に入ってつないであった子ろばをほどいていた弟子たちに、その場にいた人々が「その子ろばをほどいてどうするのか」とたずねます。泥棒に間違えられたとしても不思議ではありません。しかし、主イエスから言われていたように「主がお入り用なのです。すぐそこにお返しになります」と言うと、子ろばを連れて行くのを許してくれたのでした。
これは大変不思議なことです。しかしここには事前の約束ができていたというのではなく、御子イエス・キリストの御力が表れ出ているのです。主イエスはその場にいませんでしたが、弟子たちに預けた御言葉によって、ご自身がなそうとされる計画を実現することができたのです。弟子たちは主の御業を自分の知恵や力で実現していくのではありません。主が預けてくださった御言葉が御業を推し進め、御心を成就していくのです。
でも、どうして主イエスはエルサレムに入られる時に、子ろばに乗られたのでしょうか。この子ろばは「まだだれも乗ったことのない子ろば」であったと言われています。それによって、この子ろばが聖なる目的のために用いられることが示されているのです。経験も実績もない子ろばでした。一人前と言うにはほど遠く、未熟としか言えない子ろばでした。しかし経験も実績もない時だからこそ、神さまが用いてくださるということがあるのです。そんな時だからこそ、神さまにお捧げできる奉仕があるのです。
しかし、この子ろばにはそれ以上に重要な仕事がありました。それは自分がお乗せする主イエスが、どのような御方であるのかを分かるように示すというお仕事でした。主イエスに付き従った人々も、エルサレムで主イエスをお迎えした人々も、主イエスを王としてお迎えしました。ダビデの血統に連なる新しい王さまとして、主イエスに歓呼の声を上げています。「我らの父ダビデの来たるべき国」というのも、ダビデの子孫から生まれる救い主のもたらす王国であり、それが今まさに主イエスの登場によって実現されようとしているということです。新しい王をお迎えして、人々は歓呼の叫びをあげているのです。
しかし、主イエスは軍馬に跨がって凱旋するような、軍事力によって支配する王さまではありません。主イエスは馬ではなく、荷物の運搬や農作業に用いられるおとなしく忍耐強いろばに乗って、エルサレムに入城されます。そのことによって、主イエスという王さまが力によって支配する王ではなく、柔和で謙遜な王さまであることが、はっきりと示されているのです。ですから主イエスをお乗せするのは、ろばの子でなければならなかったのです。
ろばの子に跨がる王さまは、どのような王さまなのでしょうか。今日の箇所の出来事を預言した旧約聖書ゼカリヤ書9章9節には、次のように記されています(旧約1489頁)。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って。雌ろばの子であるろばに乗って。」ここで預言されている王は、「高ぶることがない」と言われています。この言葉の元来の意味は「身をかがめた姿勢」ということです。また「押しつぶされ、虐げられて苦しんでいる様子、経済的に圧迫されている状態」を示します。そしてこの言葉には、「自らを低くする」という意味があるのです。ここから分かりますように、私たちが「王さま」と聞いて連想するのとは、まったく違った王さまの姿なのです。
その王さまの姿は、今日のすぐ前の箇所で述べられていました。私たちの記憶に新しい、弟子のヤコブとヨハネが、主イエスに次ぐナンバー2,ナンバー3の地位を与えてほしいと願った箇所です。主イエスが弟子たちに語った10章42~45節の御言葉です。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」そうです。イエス・キリストは、ご自分が仕える王であり、人間の罪を贖うために自分の命を献げる王であることを、宣言されているのです。
先週2月25日(火)の家庭礼拝暦は、列王記21章1~16節の「ナボトのぶどう畑」の箇所でした。多くの方がその箇所を読まれたと思います。こんな内容でした。北イスラエルの王アハブはサマリヤに宮殿がありました。その宮殿の隣りにナボトという人のぶどう園があり、アハブ王はそこを買って自分の菜園にしたいと思ったのです。アハブは別の土地と交換するからとか、相当の銀で代金を支払うからと話を持ちかけますが、先祖から受け継いだ土地ですからとナボトは断ります。アハブ王はすっかり気落ちしてしまいます。ところが、しょげた夫の姿を見た王妃イゼベルは、夫の代わりに恐ろしい方法を使って、ナボトからぶどう園を取り上げるのです。彼女はアハブ王の名を使って、ナボトの住む町の有力者に手紙を書いて指示を出します。それはその町で断食の祈りを行い、その人々の最前列にナボトを座らせる。そしてナボトの前に二人のならず者を座らせ、ナボトが神と王を呪った、呪いの言葉を口にしたと証言させたのでした。その悪巧みによってナボトは石打ちの刑に処せられます。そして所有者のいなくなった土地を、アハブ王は自分のものとしてしまったのです。王の権力を悪用して、民が大切に守ってきた土地を取り上げる。自分の欲望を満たすためなら、命を奪うことも平気で行う。この箇所を読んだ後、妻と二人で憤慨しました。いつの時代も王というのはこういうことをする。強大な権力を手にした者は、いつもこのような悪辣な方法で自分の欲望を満たそうとする。あの偉大な王と呼ばれたダビデ王ですら、バトシェバを我が物とするために、夫ウリヤを激戦地に行かせて殺してしてしまいました。王の地位と権力を手にすることが、どんなに大きな誘惑であるかをあらためて認識させられるのです。
そう言えば2月20日、ホワイトハウスが公式アカウントに、王冠を被ったトランプ大統領のイラストを載せ、そこには「国王万歳」というメッセージが添えられていたという報道がありました。それに対してマドンナという女性アーティストが、次のようなコメントをX(エックス)に投稿したことが話題になりました。「この国(アメリカ)は王の支配下を逃れた欧州の人々により、人民が統治する新世界を築くために建設された。われわれは今、自身を『われらの王』と称する大統領を頂いている。冗談であったとしても、笑えない。」民を支配し、権力を振るい、自分に反対する者の存在を許さない王たちは、私たちの時代にも確かに存在しているのです。
さて、二人の弟子は子ろばを連れて来ると、その上に自分の服をかけ、主イエスはそれにお乗りになりました。多くの人たちも自分の服を道に敷き、他の人たちは葉の付いた枝を切って道に敷きました。その上を子ろばに跨がった主イエスは進まれ、エルサレムへと入城されました。そして、主の前を行く者も後に従う者も、次のように叫んだのです。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来る国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
「ホサナ」というのは当時の人が使っていたアラム語で、「どうぞ、救ってください」という意味です。人々は主イエスが待ち望んだメシアであり、ダビデの王国を再建する王であると信じて、彼をほめ称えるのです。しかし、この歓喜に湧き立つ群衆も、主イエスがどのような王さまであるかを、正しくは理解していませんでした。彼らが期待していたのは、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる政治的・軍事的な力を持つ王でした。だから主イエスが逮捕されその期待が裏切られると、彼らは手のひらを返したように「イエスを十字架に付けよ」と狂い叫ぶ群衆に変わってしまうのです。
イエス・キリストは確かにダビデの家系に連なる王であり、神が遣わされた救い主でありましたが、地上の王たちとはおおよそ正反対の王さまなのです。力によってではなく、先週申しましたように、愛と憐れみによって私たちを救ってくださる御方なのです。私たちはこの御方に、地上の王に期待するようなことを求めても、何も得ることはできません。主イエスは人々の間違った期待を感じて、ひと言も語らず沈黙を守っておられたのではないでしょうか。主イエスはご自身を十字架に捧げられることで、私たちを罪と死の縄目から救い出してくださいました。仕えられるためではなく仕えるために、奪い取るためではなく与えるために、私たちのもとに来てくださいました。
そのような王さまとして、主エスをお迎えする必要があるのです。そして主イエスを信じる私たちは、仕える生き方、自らを献げる生き方を目指さなくては、主イエスの民となることはできません。この世の目指す王の姿ではなく、主イエスが先だって歩まれた僕としての生き方に倣うとき、主は私たちといつも共に歩んでくださいます。この世の人間の王とは異なり、民のことを第一に考えて、神の民である私たちを支え導いてくださるのです。
私たちが仕えるのは、この世のどんな王でもなく、King of kings、王の中の王と呼ばれるイエス・キリストだけです。この王は天地のすべてを神の愛と憐みをもって治めておられます。力を背景とした地上の王に期待をかけても、それは失望に終わってしまいます。私たちには、王のイメージを180度転換させたイエス・キリストという真の王さまがおられます。この御方に望みを置くならば、私たちの望みは決して失望に終わることはありません。私たちは唯一の主であり王であるこの御方の前にひざまずき、自らを捧げてまいりましょう。そして「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」と、ご一緒に讃美の声を挙げたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなた貴き御名を讃美いたします。今日もあなたをあがめる兄弟姉妹と、対面でオンラインで礼拝を捧げることができますことを感謝いたします。神さま、あなたは御子イエスを仕える王として
この世界に遣わしてくださいました。人々は主の十字架と復活を経験して初めて
そのことを知りました。神さま、私たちも地位や力を求め、それに惑わされてしまう者ですが、真の王である主イエスに倣い、仕える者、僕としての道を歩むことができますよう、導いていてください。そして主イエスを私たちの王としてふさわしくお迎えすることができるようにしてください。 今しばらく寒暖差の激しい日々が続きます。どうか教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。