主イエスが王であられる

マルコによる福音書11章1~11節 2025年3月2日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

今日の箇所は主イエスがエルサレムに入城される箇所です。前半の1~6節では、2人の弟子たちが、主イエスの乗られる子ろばを調達に行った時のことが記されています。後半の7節以下では、主イエスがいよいよ子ろばに乗ってエルサレムに入城された場面が生き生きと報告されています。

前半の1~6節は、日曜学校の子どもたちもよく知っているお話です。主イエスの命を受けて二人の弟子たちが、子ろばを借りに行くのです。子ろばの持ち主と主イエスが知り合いで、子ろばを借りる約束ができていたわけではないようです。村に入ってつないであった子ろばをほどいていた弟子たちに、その場にいた人々が「その子ろばをほどいてどうするのか」とたずねます。泥棒に間違えられたとしても不思議ではありません。しかし、主イエスから言われていたように「主がお入り用なのです。すぐそこにお返しになります」と言うと、子ろばを連れて行くのを許してくれたのでした。
これは大変不思議なことです。しかしここには事前の約束ができていたというのではなく、御子イエス・キリストの御力が表れ出ているのです。主イエスはその場にいませんでしたが、弟子たちに預けた御言葉によって、ご自身がなそうとされる計画を実現することができたのです。弟子たちは主の御業を自分の知恵や力で実現していくのではありません。主が預けてくださった御言葉が御業を推し進め、御心を成就していくのです。

でも、どうして主イエスはエルサレムに入られる時に、子ろばに乗られたのでしょうか。この子ろばは「まだだれも乗ったことのない子ろば」であったと言われています。それによって、この子ろばが聖なる目的のために用いられることが示されているのです。経験も実績もない子ろばでした。一人前と言うにはほど遠く、未熟としか言えない子ろばでした。しかし経験も実績もない時だからこそ、神さまが用いてくださるということがあるのです。そんな時だからこそ、神さまにお捧げできる奉仕があるのです。
しかし、この子ろばにはそれ以上に重要な仕事がありました。それは自分がお乗せする主イエスが、どのような御方であるのかを分かるように示すというお仕事でした。主イエスに付き従った人々も、エルサレムで主イエスをお迎えした人々も、主イエスを王としてお迎えしました。ダビデの血統に連なる新しい王さまとして、主イエスに歓呼の声を上げています。「我らの父ダビデの来たるべき国」というのも、ダビデの子孫から生まれる救い主のもたらす王国であり、それが今まさに主イエスの登場によって実現されようとしているということです。新しい王をお迎えして、人々は歓呼の叫びをあげているのです。
しかし、主イエスは軍馬に跨がって凱旋するような、軍事力によって支配する王さまではありません。主イエスは馬ではなく、荷物の運搬や農作業に用いられるおとなしく忍耐強いろばに乗って、エルサレムに入城されます。そのことによって、主イエスという王さまが力によって支配する王ではなく、柔和で謙遜な王さまであることが、はっきりと示されているのです。ですから主イエスをお乗せするのは、ろばの子でなければならなかったのです。
ろばの子に跨がる王さまは、どのような王さまなのでしょうか。今日の箇所の出来事を預言した旧約聖書ゼカリヤ書9章9節には、次のように記されています(旧約1489頁)。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って。雌ろばの子であるろばに乗って。」ここで預言されている王は、「高ぶることがない」と言われています。この言葉の元来の意味は「身をかがめた姿勢」ということです。また「押しつぶされ、虐げられて苦しんでいる様子、経済的に圧迫されている状態」を示します。そしてこの言葉には、「自らを低くする」という意味があるのです。ここから分かりますように、私たちが「王さま」と聞いて連想するのとは、まったく違った王さまの姿なのです。
その王さまの姿は、今日のすぐ前の箇所で述べられていました。私たちの記憶に新しい、弟子のヤコブとヨハネが、主イエスに次ぐナンバー2,ナンバー3の地位を与えてほしいと願った箇所です。主イエスが弟子たちに語った10章42~45節の御言葉です。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」そうです。イエス・キリストは、ご自分が仕える王であり、人間の罪を贖うために自分の命を献げる王であることを、宣言されているのです。
先週2月25日(火)の家庭礼拝暦は、列王記21章1~16節の「ナボトのぶどう畑」の箇所でした。多くの方がその箇所を読まれたと思います。こんな内容でした。北イスラエルの王アハブはサマリヤに宮殿がありました。その宮殿の隣りにナボトという人のぶどう園があり、アハブ王はそこを買って自分の菜園にしたいと思ったのです。アハブは別の土地と交換するからとか、相当の銀で代金を支払うからと話を持ちかけますが、先祖から受け継いだ土地ですからとナボトは断ります。アハブ王はすっかり気落ちしてしまいます。ところが、しょげた夫の姿を見た王妃イゼベルは、夫の代わりに恐ろしい方法を使って、ナボトからぶどう園を取り上げるのです。彼女はアハブ王の名を使って、ナボトの住む町の有力者に手紙を書いて指示を出します。それはその町で断食の祈りを行い、その人々の最前列にナボトを座らせる。そしてナボトの前に二人のならず者を座らせ、ナボトが神と王を呪った、呪いの言葉を口にしたと証言させたのでした。その悪巧みによってナボトは石打ちの刑に処せられます。そして所有者のいなくなった土地を、アハブ王は自分のものとしてしまったのです。王の権力を悪用して、民が大切に守ってきた土地を取り上げる。自分の欲望を満たすためなら、命を奪うことも平気で行う。この箇所を読んだ後、妻と二人で憤慨しました。いつの時代も王というのはこういうことをする。強大な権力を手にした者は、いつもこのような悪辣な方法で自分の欲望を満たそうとする。あの偉大な王と呼ばれたダビデ王ですら、バトシェバを我が物とするために、夫ウリヤを激戦地に行かせて殺してしてしまいました。王の地位と権力を手にすることが、どんなに大きな誘惑であるかをあらためて認識させられるのです。
そう言えば2月20日、ホワイトハウスが公式アカウントに、王冠を被ったトランプ大統領のイラストを載せ、そこには「国王万歳」というメッセージが添えられていたという報道がありました。それに対してマドンナという女性アーティストが、次のようなコメントをX(エックス)に投稿したことが話題になりました。「この国(アメリカ)は王の支配下を逃れた欧州の人々により、人民が統治する新世界を築くために建設された。われわれは今、自身を『われらの王』と称する大統領を頂いている。冗談であったとしても、笑えない。」民を支配し、権力を振るい、自分に反対する者の存在を許さない王たちは、私たちの時代にも確かに存在しているのです。

さて、二人の弟子は子ろばを連れて来ると、その上に自分の服をかけ、主イエスはそれにお乗りになりました。多くの人たちも自分の服を道に敷き、他の人たちは葉の付いた枝を切って道に敷きました。その上を子ろばに跨がった主イエスは進まれ、エルサレムへと入城されました。そして、主の前を行く者も後に従う者も、次のように叫んだのです。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来る国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
「ホサナ」というのは当時の人が使っていたアラム語で、「どうぞ、救ってください」という意味です。人々は主イエスが待ち望んだメシアであり、ダビデの王国を再建する王であると信じて、彼をほめ称えるのです。しかし、この歓喜に湧き立つ群衆も、主イエスがどのような王さまであるかを、正しくは理解していませんでした。彼らが期待していたのは、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる政治的・軍事的な力を持つ王でした。だから主イエスが逮捕されその期待が裏切られると、彼らは手のひらを返したように「イエスを十字架に付けよ」と狂い叫ぶ群衆に変わってしまうのです。

イエス・キリストは確かにダビデの家系に連なる王であり、神が遣わされた救い主でありましたが、地上の王たちとはおおよそ正反対の王さまなのです。力によってではなく、先週申しましたように、愛と憐れみによって私たちを救ってくださる御方なのです。私たちはこの御方に、地上の王に期待するようなことを求めても、何も得ることはできません。主イエスは人々の間違った期待を感じて、ひと言も語らず沈黙を守っておられたのではないでしょうか。主イエスはご自身を十字架に捧げられることで、私たちを罪と死の縄目から救い出してくださいました。仕えられるためではなく仕えるために、奪い取るためではなく与えるために、私たちのもとに来てくださいました。
そのような王さまとして、主エスをお迎えする必要があるのです。そして主イエスを信じる私たちは、仕える生き方、自らを献げる生き方を目指さなくては、主イエスの民となることはできません。この世の目指す王の姿ではなく、主イエスが先だって歩まれた僕としての生き方に倣うとき、主は私たちといつも共に歩んでくださいます。この世の人間の王とは異なり、民のことを第一に考えて、神の民である私たちを支え導いてくださるのです。
私たちが仕えるのは、この世のどんな王でもなく、King of kings、王の中の王と呼ばれるイエス・キリストだけです。この王は天地のすべてを神の愛と憐みをもって治めておられます。力を背景とした地上の王に期待をかけても、それは失望に終わってしまいます。私たちには、王のイメージを180度転換させたイエス・キリストという真の王さまがおられます。この御方に望みを置くならば、私たちの望みは決して失望に終わることはありません。私たちは唯一の主であり王であるこの御方の前にひざまずき、自らを捧げてまいりましょう。そして「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」と、ご一緒に讃美の声を挙げたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなた貴き御名を讃美いたします。今日もあなたをあがめる兄弟姉妹と、対面でオンラインで礼拝を捧げることができますことを感謝いたします。神さま、あなたは御子イエスを仕える王として
この世界に遣わしてくださいました。人々は主の十字架と復活を経験して初めて
そのことを知りました。神さま、私たちも地位や力を求め、それに惑わされてしまう者ですが、真の王である主イエスに倣い、仕える者、僕としての道を歩むことができますよう、導いていてください。そして主イエスを私たちの王としてふさわしくお迎えすることができるようにしてください。 今しばらく寒暖差の激しい日々が続きます。どうか教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  3月9日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ヨハネによる福音書12章20-25節

説  教   「一粒の麦」  藤田浩喜牧師

主日礼拝    

午前10時30分  レントⅠ  司式 三宅恵子長老

聖     書 

  (旧約) 創世記13章8-18節

  (新約) マタイによる福音書6章33-34節

説  教  「最初の信仰に立ち帰る」  藤田浩喜牧師

安心して立てる

マルコによる福音書10章46~52節 2025年2月23日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 主イエスがエルサレムへと向かう旅の途中のことです。主イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒にエリコの町を出て行こうとしていた時、道端に座っていた盲人の物乞いが突然叫び出しました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。多くの人々が彼を叱りつけ黙らせようとしました。しかし、その男は黙りません。ますます大声で叫び続けます。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。

 なぜ人々は彼を「黙らせようとした」のでしょう。単に「うるさかったから」ではありません。大勢の群衆がざわめきながら移動している最中です。一人の叫び声などたかが知れています。黙らせようとしたのは、恐らく、その男が無礼であると映ったからです。もしローマの皇帝が行進をしている時に、誰かが「憐れんでください」と叫び出して直訴したら、無礼者として制止されるでしょう。この場面はそれに近いと言えます。イエスの一行に人々が見ていたのは、まさにエルサレムへと向かう王の行進なのです。それがはっきりと分かりますのはエルサレムに入城する時です。次のように書かれています。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って道に敷いた」(11:8)。そこをイエスの一行が歩いて行く。まさに王の入城のような光景です。

 そのように、人々にとって主イエスはまさに王様だったのです。いや、正確に言うならば、王となるべき御方、間もなく即位すべき御方だったのです。主イエスに従う群衆の数は、エリコを出る時点で相当な数に上っていたものと思われます。過ぎ越しの祭りのためにエルサレムへと同行していた巡礼者の群れではありません。皆、主イエスが王になると信じて、ゾロゾロとついて行ったのです。ユダヤはローマの支配下にありました。しかし、主イエスは必ず我々をローマの支配から解放してくださるに違いない。そして、かつてダビデが王であった時のように、偉大なるイスラエルの王国を再建してくださるに違いない。そう信じて、ついて行ったのです。

 もちろんそのことを一番期待していたのは、主イエスが選ばれた十二人の弟子たちでした。自分たちは特別だと思っていますから。当然、主イエスが打ち建てる王国においては、特別なポジションが用意されていると信じています。ですから、先週共に学びました箇所では、ヤコブとヨハネという二人の弟子が、こんなことをお願いしたことが書かれていたのです。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)。「栄光をお受けになる」とは、「王になる」という意味です。その時には私たちをナンバー2、ナンバー3にしてくださいとお願いしているのです。そのように抜け駆けする者も現れてくる。当然、他の弟子たちは腹を立てました。皆、同じことを考えているのですから。

 ところで、いったいどうして弟子たちは、また大勢の群衆は、主イエスが王となることなど期待できたのでしょうか。どうしてそんなことが実現すると思ったのでしょうか。常識的には考えられないことでしょう。ローマの支配は絶対的なものでしたから。にもかかわらず、人々が新しい王国の到来を期待したのは、明らかに彼らが主イエスの力を見たからです。病気の人が癒される。悪霊に憑かれた人が解放される。五千人以上の人々が満腹させられる。人々は主イエスのなさる一つ一つの奇跡に、計り知れない《神の力》の現れを見たのです。

 力に期待して、力ある者の後に着いて行く集団。力に救いを求め、力による偉大な事業の実現を求める集団。ここに見るのはそのような集団です。そして、そのような集団にとって、助けを求めて叫んでいる一人の弱い人などは、邪魔者以外の何ものでもありません。それは偉大な事業の実現にとって妨げでしかないのです。「この御方をなんと心得る!王となるべき御方であるぞ。ダビデの王国を再興する御方であるぞ。物乞いなどに関わり合っている暇などあるか!」叱りつけた人々の思いは、大方そのようなものであったに違いありません。

 しかし、あの男は黙らなかったのです。制止されても叫び続けたのです。ナザレのイエスは絶対に憐れんでくださる。声さえ届けば、絶対に憐れんでくださる。彼はそう確信していたのです。もちろん、この男も主イエスが王となるべき御方であると信じています。「ダビデの子イエスよ」と彼は叫びました。ダビデの子孫として来られたまことの王であると信じているのです。しかし、それでもなお、その王は一人の盲人の物乞いを憐れんでくださる王だと信じているのです。

 なぜでしょうか。彼は主イエスのことを伝え聞いて知っていたからです。知っていなかったら、「ナザレのイエスだ」と聞いても叫び出すことはなかったでしょう。彼は既に聞いて知っていた。問題はそこで彼が何を聞いていたかです。単に神の力の現れを聞いたのではなかった。そうではなくて彼が聞いていたのは「憐れみ」だったのです。主イエスの御業を通して現わされた、《神の憐れみ》を聞いていたのです。だから「憐れみ」を求めて叫んだのです。

 先に申しましたように、目の見える人々は主イエスの奇跡に《神の力》を見たのです。だから力ある王としてのイエスに期待をかけた。しかし、目の見える人が、必ずしも事の本質を見ているとは限りません。むしろ聞くだけだったこの男にこそ、大事なものが見えたのです。《神の力》ではなく、《神の憐れみ》です。一人の小さな者も見過ごしにされない神の憐れみです。

 聞くだけだったこの男には分かったのです。神の憐れみの王国が到来したのだ、ということを。その事実を彼は見えないその目で既に見ていたのです。苦しみのどん底で這いつくばっている一人の人間にも、目を留めて憐れんでくださる神の憐れみが到来した!神の憐れみを体現してくださるメシアがついに来られた!彼はその事実を心の目で既に見ていたのです。

 だから彼は叫んだのです。力の限りに叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを《憐れんでください》」と。――そして、この人は間違っていませんでした。主イエスは立ち止まって言われたのです。「あの男を呼んできなさい」。

 彼は躍り上がって主イエスのもとに来ました。主イエスはその人に言われます。「何をしてほしいのか」。この男はすぐさま答えました。「先生、目が見えるようになりたいのです」。この人は目が見えないゆえに苦しんできました。物乞いをしなくてはならなかったのも、そのゆえでしょう。だから、目が見えるようになりたかった。確かにそうでしょう。

 しかし、目が見えるようになることで、彼が本当に見たかったのは何なのでしょうか。それは神の憐れみではなかったかと思うのです。神の憐れみの現れである主イエスの姿を見たかったに違いない。今まで耳にしてきた御方を憐れみの到来を、何よりもその自分の目で見たかったのだろうと思うのです。

 彼の願いはかなえられました。主イエスは言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。そして、「盲人は、すぐ見えるようになった」と書かれています。しかし、目が見えるようになった彼は、そのまま立ち去りませんでした。「盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と書かれているのです。彼は開かれた目をもって主イエスの姿を追ったのです。彼の目は主イエスを追いながら、なお道を進まれる主イエスについて行ったのです。

 さて、聖書に書かれているのはここまでです。しかし、バルティマイにとって話がそれで終わりにはならなかったことは、容易に想像できます。見える目をもって主イエスの姿を追って行った先には、何が待っていたのでしょうか。この直後に書かれているのは、主イエスがエルサレムに入城されたという出来事です。そして、そのエルサレムにおいて、主は十字架にかけられて殺されることになるのです。つまりこの盲人は、目が見えるようになったために、そして主イエスに付いていったがゆえに、その目で主イエスが十字架にかけられ殺される姿を見なくてはならなかったのです。

 「見えるようになんて、ならなければよかった!わたしは見たくなかった!」彼は心底そう思ったに違いありません。しかし、もしそれで終わりなら、彼が経験したことは神の憐れみなどではあり得ないし、彼の目が開かれたというこの物語も語り伝えられることはなかったでしょう。

 なぜこの物語が伝えられたのか。なぜ聖書に書かれているのか。そのことを考えて改めて読みますときに、この盲人の物乞いの名前があえて書き記されている事に気づかされます。もともと物乞いの名前を皆が知っていたはずがありません。にもかかわらず、福音書に名前があるということは、この福音書が書かれた頃、バルティマイがキリスト者として教会において良く知られていた人物だったということです。他に名前が記されている、あの十二人たちのようにです。彼はイエスに従った。そして、ティマイの子、バルティマイの名は、教会の歴史の中に書き残されることとなりました。

 言い換えるならば、十字架につけられた主イエスを目にした悲しみは、それで終わらなかったということです。やがて彼は知ることになったのです。このキリストの十字架こそ、罪の贖いの犠牲であり、罪の赦しと救いに他ならないということを。その意味において、彼はその開かれた目で、神の憐れみを見た人だと言えるでしょう。私たちの罪を赦すため、罪のあがないの犠牲として御子をさえ死に引き渡される、神の計り知れない憐れみを彼は見たのです。彼はその開かれた目をもって、神の憐れみの王国が確かにイエス・キリストにおいて到来したことを見たのです。

 「あなたの信仰があなたを救った」。主が彼の目を癒された時、主はそう言われました。そして、確かに彼は、ただ目を癒された人ではなく、救われた人として、どんな小さな一人に対しても向けられている計り知れない神の憐れみを、今もなお私たちに指し示しているのです。そして、彼と共に信じるようにと、主は私たちを招いていてくださっています。私たちもまた、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を聞くことができるようにと。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に、対面でオンラインで礼拝を守れますことを心から感謝いたします。神さま、あなたは御子イエス・キリストを通して、私たちへの深い憐れみをお示しくださいました。その憐みは御子を十字架にかけ給うことによって、私たちを罪と死から贖い出すほどに深い憐れみでした。私たちは今もあなたの憐みの中で、安心して生きていくことができます。そのことに深く感謝して歩む者とならして下さい。今しばらく冬の寒さが続きます。どうか大雪のために困難の中にある人たちを、守り支えていてください。教会に連なる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  3月2日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ヨハネによる福音書12章12-16節

説  教   「エルサレム入城」 髙谷史朗長老

主日礼拝    

午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖     書

 (旧約) 詩編18編22-29節   

 (新約) マルコによる福音書11章1-11節

説  教 「主イエスが王であられる」  藤田浩喜牧師

仕えるために来られた主

マルコによる福音書10章35~45節 2025年2月16日(日)伝道礼拝説教

牧師 藤田 浩喜

 わたしたちには色々な願いがあります。それは健康を与えられたいとか、人間関係を修復したいといった人間としてごく自然な願いもあれば、ちょっと人には言えないようなひそかな願いもあります。自分では意識していないけれど、無意識に願っていることもあります。

 ヤコブとヨハネは、山上で主イエスのお姿が変貌された特別な場面にも連れて行かれた三人のうちの二人です。つまり、弟子の中でも特に主イエスに近い関係にあった二人でした。その彼らには切なる願いがありました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」つまりこれは、主イエスがこの世界の支配者となられたとき、自分たちをNo2とNo3にしてほしいということでした。

 今日、この記事を読むわたしたちは、その後の十字架と復活の出来事、そのときの弟子たちの行動を知っていますから、この場面で彼らがとんでもないことを願っていることがわかります。そもそも主イエスはこの世の支配者になられるために、この世界に来られたわけではないことをわたしたちは知っています。わたしたちはヤコブとヨハネがこの時、見当違いの愚かしいとも思えることを願っていると感じます。そしてまた彼らが主イエスに従って歩んでいながら、とても世俗的な願いをもっているとも感じます。No2とNo3になりたい、それは出世志向や権力志向のように思えます。序列をつけて人間関係を見ていくということは極めて世俗的なものの考え方に感じます。

 しかし一方で、この時の彼らにとって、この願いがごく自然で当り前のことだと感じられたとしても、それは不思議ではありません。今日の聖書箇所の直前で、主イエスは弟子たちに三度目の受難予告をなさっています。その予告では、過去二回の受難予告より、さらに詳細な予告がなされているのです。つまり受難というものが現実味を帯びて迫ってきている状況であることがわかります。その予告された受難の場所はエルサレムです。そして一行はまさに、そのエルサレムへと上って行く途上だったのです。

弟子たちは三度の受難予告をされても、その内容についてははっきりとは分かっていなかったでしょう。しかし、そこにたいへんな危険があることは覚悟をしていたのです。それでも彼らは主イエスに従って来たのです。具体的にはどういうことが起こるのか分からなくても、主イエスを見捨てることなくついてきたのです。彼らはどういうことなのかはっきりとは分からないまま、復活という言葉に賭けたのだと思います。そのとき主イエスは栄光をお受けになる、主イエスのご支配が実現するのだと考えていたのです。そのために自分たちも命をかけて共に戦う、それだけの覚悟をもって彼らは主イエスに従って来ました。だから、自分たちにはそれなりの報いがあるはずだと彼らは考えたのです。

 だからといって私たちは、彼らが報いを求めることを世俗的だと非難できる立場にはありません。私たち自身もまた信仰生活において、全く見返りを求めていないとは言えないからです。私自身、平安を求めて主イエスを信じました。主イエスを信じたら、不安のない生活ができるかと思ったのです。色々なことが楽になると思ったのです。みなさんひとりひとり、信仰に入られた経緯や思いは異なるでしょう。以前いた教会で知り合った方は「居場所が欲しかった」とおっしゃっていました。私自身は「居場所」という言葉に、多少の違和感を覚えました。信仰的というより、何か教会をこの世的な楽しいコミュニティのように捉えておられるのではないかと感じたからです。でも、どのような動機であれ、そのことを通じて神様は私たちを捉えてくださり、導いてくださいます。一方でご家族や友人に誘われて自然に信仰生活に入られた方も、教会にはたくさんおられます。しかし動機や経緯はどうであれ、私たちは皆、多かれ少なかれ、何らかの自分にとってのプラスになることがあるから、信仰生活を続けているのではないでしょうか。私たちの心は堅い石ころのようなものではありません。意識するしないにかかわらず、何らかの願いを抱いて私たちは信仰生活を送っています。そのわたしたちの願いの中には、ひょっとしたら神様からご覧になって、見当違いのものもあるのかもしれません。

そんなわたしたちに、主イエスはヤコブとヨハネにおっしゃったように「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」とおっしゃるでしょう。でも、主イエスはそうおっしゃりながら、「黙れ、お前たちは何も分かっていない、引き下がれ」とはおっしゃらないのです。わたしたちの信仰生活におけるちょっとズレたような願いも、端から見て信仰的にどうなのだろうと思えるような願いも、主イエスは聞いてくださるのです。そして受け取ってくださるのです。

 ヤコブとヨハネの問題に戻れば、彼らがNo2,No3になりたいと願ったのは単に個人的に立身出世したいということではなく、彼らにとって、イスラエルの救いというのが切実な問題だったという背景もあります。彼らはイスラエルの救いのために、自分を犠牲にしてでも働こうという覚悟はあったのです。彼らはまじめでした。むしろまじめすぎたのです。自分たちのまじめさ、熱心さのゆえに、主イエスがお受けになる栄光に自分たちもあずかれると考えていました。そんな彼らのまじめさを十分に主イエスはご存知でした。そして問われました。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマをうけることができるか」。ヤコブとヨハネはその問いに、真剣に誠実に答えたのです。「できます」と。本当に彼らはできるつもりだったのです。しかし私たちは、そう答えた彼らが実際にはできなかったことを知っています。

そもそも、これから主イエスが飲まれる杯と受けられるバプテスマは、すべての人間の罪を贖うために神の罰を受けられるということでした。神の怒りの重荷は、神でなければ担うことができません。人間には到底担いきることはできません。十字架の出来事は、神の怒り、裁きでした。それと同時に私たちを義として新しい命を与えてくださることでした。それは神でなければできないことでした。

 ヤコブとヨハネだけではなく、すべての人間には耐えることのできない杯を受け、バプテスマをお受けになられ、すべての人間に義と命をあたえてくださったのが、神の御子イエス・キリストでした。そのことを当時のヤコブとヨハネが知ることは、到底できませんでした。主イエスが飲まれる杯と受けられるバプテスマは、ただお一人神の御子だけが担うことのできるものである。それがまったくわからなかったからこそ、彼らは「できます」と答えたのです。

 

 さて、その主イエスへのヤコブとヨハネの直訴を知って、他の弟子たちは腹を立て始めたと言われています。抜け駆けという行為にも、ヤコブとヨハネが自分たちはNo2とNo3にふさわしいと考えていたということにも、他の弟子たちは腹を立てたでしょう。あいつらは自分のことを下に見ていたのか、と思ったことでしょう。しかし抜け駆けが腹立たしかったのは、自分たちも上に行きたいと願っていたからです。自分たちを下に見られて腹を立てたのは、自分たちもまた人間を上と下に分けて見ていたということです。

 そんな弟子たちに、主イエスはおっしゃいます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」これは人に仕える人が偉いのだ、みんなに奉仕する僕のような人が一番上なのだということではありません。そうであれば、逆の競争がおきます。自分こそ、だれよりも仕えている、だから偉いのだ。自分は誰よりも人のために頑張っているから、一番上だということになります。そうではなく、上だ、下だという価値観を棄てなさいということです。上だ、下だ、誰が偉い誰が偉くないという価値観は、私たちが自分たちの熱心さ、まじめさで何かを手に入れることができると考えている時、かならず起こってくるものなのです。

 ヤコブとヨハネは、まじめに主イエスについて行こうと考えていました。イスラエルを熱心に救いたいと考えていました。ですからそのことへの報いがあると考えていました。自分たちのまじめさや熱心さによって何かを手に入れようとするとき、そこには人と比べるということが自然に起こってくるのです。あの人より自分は頑張っている、なのにあの人はどうして不真面目なのだという思いがどうしても起こってきます。私たちも、まじめに頑張って何かを手に入れようとするとき、そこに他の人と比べるという思いが入り込んできます。No2、No3にという思いが入り込んでくるのです。逆に自分はまじめにやっているのに人より劣ってしまうと、劣等感を抱いてしまう。がんばってやろうとしてもできない自分に、自信が持てなくなるのです。人と自分を比べる価値観は人間を不幸にします。そして無駄に心身を消耗させてしまうのです。

モーセの十戒の中に「むさぼってはならない」という戒めがあります。むさぼりというのは、自分の欲求をコントロールできない心です。本来与えられた自分の賜物や恵みを越えてほしがる心です。他人のものをうらやみ、他人のものを欲する心です。人より上に、人より偉く、という上昇志向には、自分に本来与えられた恵みで満足しないむさぼりの心があります。そこには罪があります。しかし、そのように罪深く生きるために、神は私たちをお造りになったのではありません。むさぼりから解き放たれてもっと自由に豊かに生きるために、私たちはこの世界にあるのです。そのために、主イエスはお越しになりました。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と主イエスはおっしゃいました。人より上に人より偉く、そんな思いから私たちを解き放つために主イエスは来られました。「多くの人の身代金」とは「すべての人の身代金」ということです。その身代金が、十字架と復活の出来事によって、キリストの命によって支払われました。それは私たちがまじめだから熱心だから、支払われたのではありません。ただ神の愛と憐れみによって支払われたのです。私たちはその恵みを受けたのです。恵みの上に恵みを受けたのです。

 すでに罪の負債は返済されました。ですから私たちは神の前にあって、もうむさぼる必要はないのです。上に上にと努力する必要はないのです。一人一人に与えられた特別な賜物と役割があります。そこで仕えるのです。一人一人が与えられた隣人のために仕えるのです。それが私たちの杯でありバプテスマです。

 私たちは頑張って人に仕えるのではありません。自分の熱心に頼って人のために奉仕するのではありません。ましてや、自分の欲望を無理に抑え込む必要はありません。すでに身代金は支払われました。私たちは自由な心で喜びをもって神に願い、それぞれにあたえられた所で仕えるのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。御子イエス・キリストは、私たちを罪と死から救うために、十字架の杯を受け、復活してくださいました。主イエスが仕えてくださったことによって、わたしたちは朽ちることのない命に生かされています。どうか、その恵みをいただいているわたしたちが、自由と喜びをもって仕える者となることができますよう、一人一人を導いていてください。互いに仕え合うことだけが教会の歩みを貫くものとなりますよう、わたしたちをお支えください。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  2月23日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    エゼキエル書2章1節-3章3節

説  教   「エゼキエルの召命」   高橋加代子

主日礼拝    

午前10時30分    司式 山根和子長老

聖     書

 (旧約) エレミヤ書29章10-14節   

 (新約) マルコによる福音書10章46-52節

説  教  「安心して立てる」  藤田浩喜牧師

わたしはあなたを祝福する

創世記12章10~20節 2025年2月9日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 創世記12章後半の物語は、アブラム(アブラハム)の失態を描いた物語です。アブラムは、神の召しに従って旅を続けていましたが、旅の途中、ネゲブという地方に来たときに、ひどい飢饉がありました。それでアブラムの一行は、エジプトに避難することにします。

 ところが、エジプトへ行くにあたって、アブラムには一つの心配事がありました。それは、彼の妻サライが美しすぎるということでした。自分の妻が美しいということは、恐らく、これまでアブラムの誇りであったと思いますが、その美しさがかえって災いのもととなろうとしていました。

 そこで、アブラムは一計を案じます。11~12節です。

 「エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。『あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、「この女はあの男の妻だ」と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。』」

 このアブラムの姿は、なんとも情けない感じがします。殺されるのが恐ろしいので、妻に向かって、「うそをついて、自分の命を守ってくれ」というのです。そしていかにも「こんなうそをつかなければならないのも、お前が美しすぎるからだ」と言って、自分の弱さを認めずに、妻のせいにしているようにも聞こえます。これを聞いた妻サライは、どんな気持ちだったでしょうか。「なんとふがいない夫だろう!」と思ったかもしれません。

 これが、私たちの信仰の父アブラムの姿です。ただ信仰によって出発したアブラムが、早くも信仰につまずき、挫折しています。

  

 今日の12章10節は、次のように始まっていました。「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。」

 アブラムは、飢饉を避けるため豊かなエジプトに逃れますが、どうもエジプト行きを決めたこと自体、神を信頼し、祈った結果、示された道ではないようです。飢饉という困難に直面して、おろおろしているアブラムの姿が目に浮かびます。

 アブラムの旅はそもそも、神の召しによって出発したものでした。もし今回も、アブラムの中に、神さまが「エジプトへ行け」と示されたのだという確信があったならば、彼はもっと自信をもって、エジプトへ行ったのではないでしょうか。一番神に信頼すべき大事なとき、最も苦しいときに、アブラムは神に祈るよりも、この世の知恵で行動しようとしたのです。何か、私たち自身の姿を見ているような感じがします。

 どんな信仰者であろうとも、困難に遭ったときに、試練に勝てないで屈服してしまうことがあるということを思い知らされます。

 私たちも普段は、「イエス・キリストこそ救い主」と告白して礼拝していても、何か問題が起きたときにはどうでしょう。自分を見失ってしまい、神を信頼するよりも、自分の知恵、あるいはこの世的な処世術の方により頼んで行動するということがあるのではないでしょうか。

 詩編30編に、こういう御言葉があります。(p860)7~8節です。

 「平穏なときには、申しました

 『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。

 主よ、あなたの御旨によって

 砦の山に立たせてくださったからです。

 しかし、御顔を隠されると

 わたしたちはたちまち恐怖に陥りました」

 まさに、私たち自身の信仰の姿を言い当てているように思います。

 ただアブラムは、ここで旅をやめて故郷に引き返したのではありませんでした。もともとアブラムが出発したハランという町は、キャラバン(隊商)の町として栄えていました。豊かでした。ですから、困難に陥った場合、引き返したいと思っても不思議はありません。しかし、彼は後戻りするという道は取らないで、何とか旅を続ける方法を考えたのです。

 宗教改革者カルヴァンは、「ここでアブラハムに、引き返すという最も安易な方法を取ることを拒ませたのは、信仰である。信仰をもっていたからこそ、とにかく旅を続けたのだ」というようなことを言っています。アブラムはハランへ引き返すという、いわば最悪の選択をせずに、ひとつの妥協策を講じたのでした。それがエジプト行きであったわけです。そしてエジプトで生き延びるために、妻サライに「妹だ」とうそをつかせることになるのです。

 しかしこのことも、決して欲のためではありませんでした。困窮の結果、どうすれば生き延びられるかを考え、思いついたことです。彼は結果として、エジプト王ファラオからいろいろな贈り物をもらうことになりますが、これをもらうためにサライを利用したのではありません。アブラムとサライはついにエジプトへ入ります。そして、アブラムの予感は見事に的中します。14~16節です。

 「アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ロバ、らくだなどを与えられた」。

 アブラムの作戦は、見事に功を奏します。サライはエジプトの女の中で最高の地位に達し、アブラムはあっという間に大資産家になります。アブラムは、この世的に言えば、最高のものを手にしたと言えるでしょう。

 しかし、この話はこれで終わるわけではありません。「アブラムは、ここで旅をやめ、エジプトの住人になった。妻を王に渡したためにひいきをされ、大金持ちとなり、生涯幸せに暮らした」という話ではないのです。話の後半は、「ところが主は」と始まります。ついに神さまが、直接介入されることになります。アブラムのエジプトでのエピソードは、神さま抜きで始まり、神さま抜きでうまくいきかけていました。しかし、このことを神さまは見過ごしにされません。主なる神さまご自身が、「待った」をかけられるのです。17節。

 「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」。

 ただ不思議なことに、アブラムの不信仰の行為によって神が打たれたのは、アブラムではなく、ファラオと宮廷の人々でした。これは理解に苦しむことです。一体どうなっているのか。まったく説明がありません。私たちに言えることは、神は私たちの想像の範囲を超え、私たちの倫理的基準を超えて行動されるということです。

 この物語は、神とアブラムを軸にして述べられていますから、ファラオはあくまでも二次的人物です。ファラオに罪を見いだそうとする人は、こう言うかもしれません。「ファラオの欲望には限りがなかった。たくさんの女性を囲っておきながら、それで満足せず、異国の美しい女性サライを見ると、それさえも自分のものにしようとした。」

 しかし、それは関係なさそうです。むしろ、病気の原因がアブラムにあるとわかったときに、ファラオは非常に適切な対応をしました。「逆上して、アブラムを捕らえ、殺してしまった」というのではありません。与えたものを取り上げることもせず、彼を去らせています。事情を知らずにアブラムに関わったファラオを、神さまも正しく導かれるのです。このことからすれば、むしろ、このファラオは神を畏れる、敬虔な異邦人であった、とも言えるでしょう。

 神さまは、アブラムに対して、12章3節のところで、こう言われていました。

 「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。

  地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

 「地上の氏族はすべて」です。たとえ神から疎外されているように見える他の民も祝福される。最初に祝福された人間を通して、順々に神さまの祝福が広がっていくのです。アブラムを通して、呪いではなく祝福が広がらなくてはならないのです。そして祝福は、ひとり占めするためではなく、他の人に手渡していくためにあるのです。それは生き物のようなもので、自分の籠に入れてしまうと、いつの間にか生気を失って、死んでしまう。他の人にどんどん手渡すことによって祝福は生き続けるのです。祝福された人、祝福された家庭というものには、そういうところがあるのではないでしょうか。泉から水が湧き出るように、それに接する人たちにとめどなく祝福を与えていきます。クリスチァンである喜びも、そのように周りの人に伝えていきたいものです。

 アブラムと神との関係で、もう一つ不可解なことは、アブラムの卑怯さにもかかわらず、神はアブラムを祝福するという約束を守り続けられるということです。

 「わたしはあなたを大いなる国民にし

  あなたを祝福し、あなたの名を高める

  祝福の源となるように。」

 この約束は無条件でした。神はアブラムに向かって、「もしあなたが私に従うならば」とか「あなたが正しい人であるならば」とかいう条件はつけていない。ただ一方的に、「私はあなたを祝福する」と言われる。神さまはそのように宣言されるのです。アブラムの方は、神さまに顔向けできないようなことをしでかしました。それにもかかわらず、神さまの方は少しも約束をたがえず、守り続ける。それがアブラムの神なのです。

 パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、こういうふうに言っています。(p279)「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:7~8)。

 正しい人でもなく、善い人でもなく、罪人である私たちのために、キリストは十字架にかかって死なれた。条件なし。それが神の愛です。これは私たちの理解を超えたことであり、説明がつかない。説明するとすれば、ただ神はそのようにして約束を守り、そのようにして愛を示される、ということだけです。

 だからこそ私たちも、それで高慢になってはなりません。この神の愛に応えて、人に祝福を与える人間として生きていきたいと思います。

お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と対面でオンラインで共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。あなたは信じる者に祝福を与え、いかなることがあろうともその祝福を全うしてくださいます。あなたの約束は取り消されません。私たちはそのようなあなたの愛に応えて、あなたに真実に従っていくことができますよう、どうか導いていてください。一年で最も寒さが厳しい季節を迎えています。大雪のために困難を強いられている人々を、あなたが支えていてください。群れの中で病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹をあなたが顧みてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   2月16日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    エレミヤ書1章4-10節

説  教   「エレミヤの召命」 山﨑和子長老

主日礼拝    

午前10時30分   伝道礼拝  司式 三宅恵子長老

聖     書

  (旧約) エレミヤ書17章5-14節   

  (新約) マルコによる福音書10章35-45節

説  教 「仕えるために来られた主」  藤田浩喜牧師

共におられる平和の神

2025年2月2日(日) 主日礼拝説教

教師 山田矩子

一年ぶりの説教ご奉仕を感謝いたします。今朝は、天候を心配しましたが、つくばひたち野伝道所の礼拝と総会のため、藤田先生がご奉仕くださって感謝しております。

昨年は、中島美穂子姉妹の突然の昇天に際し、南柏教会の皆様とお送りできましたこと、感謝しております。また、年末には、つくばひたち野伝道所の姉妹が天に召され、藤田先生には、重ねてお世話になりました。

今朝は、これまで読み進めてきました「フィリピの信徒への手紙」の続き、4章8〜9節の御言葉に聞いていきたいと思います。この前の所6節で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とのパウロの希望の言葉を聞きました。

パウロは、主イエス・キリストによって罪を赦され、救いの恵みに招かれた人々に、神様から賜った平安な生活を真実に送り続けるために、日々の中にある真実なこと、偽りでないものに、心と目を向けて生きていくように勧めています。

ここには8つの徳が勧められていますが、ギリシア時代には徳ということが大切にされていたといわれます。これは、すべての人が生きる上で大切なことですから、神に作られた一人一人の誰もが、心の中心に置きたい事柄です。特に、ギリシア世界の徳は、善を行うことで、人間の幸福を目指すといわれていました。「ガラテヤの信徒への手紙」には5章22節で「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」と徳をあげています。そしてコリントの信徒への手紙二の6章6節では「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力」などがあげられています。そして、「フィリピの信徒への手紙」4章8節では「すべて真実なこと、すべて気高いこと」というように、一つ一つの徳の前に、「すべて」という言葉が加えられています。それは、ある限定されたことだけではなく、良いものはすべて心に留めなさいという勧めです。

では、パウロは、この8つの徳から、どのようなことをフィリピの人々に伝えたいのでしょうか。ここに述べられていることは、人が生きていくうえで最も基本的なことであり、人と人が信頼して成長していくために、なくてはならないことなのです。

私たちは、真実をもって愛され、接せられて、人格が形作られていきます。喜んだり、悲しんだり、我慢したり、感謝したり、そしてしてはいけないことも学んでいきます。また、人から与えられるだけでなく、果たさなければならないことや担っていかなければならないことにも気付くようになります。ですからパウロは、日々の人とのかかわりの中で気付かされた事、教えられたことを心に留めなさいと言っています。

この「心に留める」という言葉には、物事をよく考えるという意味がありますが、しかし、考えて、それでおしまいというのではなく、助けを必要とされた時にはすぐに力を差し出すことが出来るという意味が込められているといわれています。人は真実に接してもらって生きてきた時、また他者に対しても、自分がしてもらったと同じように真実をもって接することができるといわれています。

続いてパウロは、「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」と勧めます。それはコリントの信徒への手紙一の15章3節、パウロが受けた「キリストの十字架の死と復活」です。キリスト者を迫害しているパウロに主が出会って下さり、罪の赦しを知らされた時、パウロは自分の力で生きているのではなく、神の命を与えられていることを知らされたのです。続く、「聞いたこと、見たこと」は、フィリピ1章30節の「あなたがたが、私の戦いを「かつで見」「今また」それについて聞いています」とあることです。それは、霊にとりつかれている女性を解放したことで牢に入れられ、その中で神に祈り、讃美し続けたことです。そして「今また」といわれていることは、キリストの福音を伝えたために、ローマの牢にとらえられていることです。しかし、ここでもキリストの福音が証されて、福音が前進している喜びの出来事がおこっているのです。

このように、パウロのどのような困難の時でも、神は共にいて下さって、神ご自身が戦って下さること、そして福音を前進させて下さることを信じることができたのです。

それは、パウロが困難から救われるだけでなく、まわりの人々が、まことの神の救いの中に入れられる願いです。パウロにとっての喜びは、一人でも多くの人が罪から救われて、本当の人としての命を全うすることでした。

ですから、フィリピにいる、今、迫害のただ中にあるあなた方も、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている」と福音のために戦ってほしいと、パウロは祈っています。このように、パウロの願いは、信仰者として、人間のまことの幸せを祈り、神の御心が何であるかを尋ねつつ、小さな一つ一つを勇気をもって、実際の行動へ向かっていくのです。そして、福音のために戦う時には、どのような時でも神が共にいて、その戦いは、平和をつくり出す神ご自身がなして下さるのです。平和の神ご自身が、私たち一人一人の一番近くにいて下さり、私たちは、新しい一歩を歩みだすことができます。

次週の礼拝  2月9日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    イザヤ書53章1-12節

説  教   「身代わりの苦しみ」 藤田浩喜牧師

主日礼拝    

午前10時30分    司式 山﨑和子長老

聖     書

 (旧約) 創世記12章10-20節   

 (新約) ローマの信徒への手紙5章6-11節

説  教 「わたしはあなたを祝福する」  藤田浩喜牧師