ルカによる福音書24章13~35節 2025年4月20日(日)イースター礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日お読みしました聖書個所には「二人の弟子」が出てきました。そうです、ここで彼らは確かに「弟子」と呼ばれています。イエス・キリストの弟子たちです。しかし、今日の箇所は、彼らがエルサレムから離れていく姿から始まります。他の弟子たちが集まっているエルサレムから離れていくのです。主イエスは死んでしまったからです。だからもはやキリストの弟子であり続ける理由もないし、キリストの弟子としてエルサレムに留まる理由もないのです。エルサレムをあとにした二人の弟子たちにとって、エマオへと向かう旅路は、いわばキリストの弟子であることから離れていく旅に他なりませんでした。そのように、キリストの弟子ではなくなりつつある二人の姿をもって、この話は始まるのです。
しかし、今日お読みしました箇所の終わりに至りますと、なんと彼らは再びエルサレムにいるではありませんか。彼らはキリストの弟子として他の弟子たちと共にいるのです。いったい何が彼らをエルサレムに帰らせたのか。それが何であるかを伝えているのが今日の物語です。言い換えるならば、この物語は、何が人をキリスト者であり続けさせるのか、キリスト者であること、あり続けることは、いったい何を意味するのかを私たちに伝えている物語なのです。
はじめに13節以下を御覧ください。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」(13~14節)。
「この一切の出来事」とは、ナザレのイエスという方が十字架にかけられ殺されたこと、葬られたこと、そして、その遺体が無くなってしまったことなどの諸々の出来事です。その出来事について語り合っている彼らに、一人の人が近づいてきました。そして、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(17節)と尋ねたのです。
「二人は暗い顔をして立ち止まった」(17節)と書かれています。そして、その人がさらに尋ねるので、彼らは答えました。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです」(19~20節)。
彼らの思い出の中には、「行いにも言葉にも力ある預言者」としての主イエスがいました。預言者というのは神の言葉を語る人です。預言者は死んでもその言葉は残ります。いや、言葉だけではありません。「行いにも力ある預言者」と言われています。預言者の行為も残ります。言い換えるなら、預言者の生き様が残るのです。そのように、確かに主イエスという御方の言葉と行為は、主イエスが死んでしまった後でも、彼らの心の内にしっかりと生きていたに違いないのです。
しかし、彼らは暗い顔をしていたのです。それは単に死別の悲しみのゆえではありませんでした。その次にこう書かれています。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)。「望みをかけていました」という言葉は、望みが「過去」になってしまった、ということを意味します。暗い顔をしていたのは、希望がもはや過去のものとなってしまったからです。
つまり、主イエスの言葉と行いが記憶の中に残っていようと、その生き様による感化が残っていようと、それは希望に結びつきはしなかったということなのです。彼らがどんなに《過去の人》である主イエスについて語り、論じ合っても、そこには救いもなく希望もなかったのです。それゆえに彼らは、キリストの弟子であり続けることもできなかったのです。彼らはエルサレムを離れ、エマオへと向かう道を暗い顔をしながら歩いていたのです。
さて、ここに見る二人の姿は、一つの大きな事実を示しています。どんなに主イエスの言葉や行為が大きな力を持っていたとしても、そのことによっては、主イエスの弟子たちは後の時代まで存在し続けることはなかった、ということです。それだけでは十字架の後の教会、十字架の後のキリスト者は存在し得なかったのだ、ということです。単に主イエスの言葉や行い、人格的感化が「生きている」というだけでは、キリストの弟子であることはできないのです。
そこで、15節の御言葉が大きな意味を持つのです。「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」― 復活されたキリストが彼らと共に歩まれたというのです。しかし、彼らはそれが主イエスであることに気づきませんでした。なぜでしょうか。ただ聖書は「二人の目は遮られて」と説明しています。これは31節に関係します。そこで「二人の目が開け、イエスだと分かった」と書かれているのです。共に歩まれる復活のキリストは、目が開かれて初めて認識されるのだ、ということです。
そのように、二人は復活のキリストに気づいていないのですが、そこにはキリストがなされた一連の働きかけが記されています。彼らが知る前に、すでにキリストの働きかけは始まっているのです。
キリストは近づいて来られました。一緒に歩き始められました。彼らに問いかけられました。そして、大切なことが25節以下に書かれています。「『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(25~27節)。キリストが聖書の言葉を解き明かされたのです。
そして、二人は主イエスと共に家に入ります。彼らは一緒の食事の席に着きます。ところが興味深いことに、キリストは客としてではなく、家の主人であるかのように振る舞うのです。キリストがパンを割き、賛美の祈りを唱え、パンを割いて渡されたのです。
その一連のキリストの働きかけを経て、彼らの目が開かれました。「すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)と書かれています。これは大変奇妙なことです。「目が開けて見えるようになった」というのなら話は分かります。しかし、ここでは逆なのです。見えなくなったというのです。
そうしますと、結局、キリストが目に見えるか見えないかは、本質的には重要ではないということなのでしょう。重要なのは「目が開けた」ことなのです。今まで共に主イエスが歩んでくださったし、これからも共に歩んでくださることが分かるということだからです。それが信じられるということこそ、大切なことなのです。
そして、それが信じられた時、彼らは振り返ってこう言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。失望していた彼らの内に、命の火が灯りました。まさに死んでいたような彼らの心の内に、命の火が灯りました。そして、その炎が大きく燃え上がり始めたのです。
彼らがかつて抱いていた望みはどうなったのでしょうか。相変わらずイスラエルは解放されてはいません。相変わらずローマ帝国の支配のもとにあります。見えるところは何一つ変わってはいません。しかし、彼らはもはや希望を失って暗い顔をして歩いている者ではありません。もはや失意の中に死んでいるような者ではありません。復活のキリストが伴ってくださったこと、これからも伴ってくださることを知ったからです。キリストによって命の炎を内にいただいた人だからです。そして、彼らはエルサレムに引き返します。弟子たちの仲間のもとに戻っていくのです。そこでキリストの弟子として、新たに生き始めるのです。生きておられるキリストの弟子として生き始めるのです。
このように、キリスト者であり、キリスト者であり続けるということは、いったい何を意味するのかという問いに、今日の聖書箇所は明確に答えています。キリスト者とは、単に二千年前の主イエスの言葉を実践して生きる人ではありません。単に主イエスの行為を模範にして生きる人ではありません。そうではなくて、キリスト者とは復活のキリストと共に生きる人を言うのです。主イエスは単に「過去の人」として思い起こされたり、敬われたりすることを望んではおられません。私たちの現実の中に共に生きることを望んでおられるのです。
ここに書かれていることは、単にあのクレオパたちの特殊な経験ではありません。教会において私たちに、今も与えられている賜物なのです。ここには今日(こんにち)もなお教会の内において起こっている事、起こり得る事が記されているのです。聖書が解き明かされ十字架と復活の意味が明らかにされることも、聖餐において復活のキリストのご臨在が示されることも、またそこに伴って湧き上がる喜びも賛美も、悲しみと失望によって沈んだ心に命の炎が燃えあがることも、その一切は復活のキリストの働きであり、キリストの賜物なのです。そのように、復活のキリストの働きかけを受けながら、キリストと共に生きる人、それをキリスト者と言うのです。
そこで見落としてはならないことが一つあります。28節以下に次のように書かれています。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」(28~29節)。
彼らの内に起こった全ての良きことは、主イエスの一方的な恵みの御業でした。しかし、そのような主の恵みの御業に目が開かれるに至るには、彼ら自身の側からも行ったことがあるのです。それは復活のキリストを《引き止める》ということでした。つまり彼ら自身が主と共にいることを《求めた》ということです。そして、主イエスがパンを裂かれる食卓に身を置いたということです。
彼らはキリストと知らずに求めました。ありがたいことに、私たちにはすでにキリストの復活が伝えられていますから、私たちは知った上で求めることができます。キリストが御臨在くださることを知った上で、聖餐にあずかることができます。そのように、キリストと共にあることを求めて、私たちは今ここに集まっているのです。
その求めは、祈りの言葉として讃美歌218番「日暮れてやみはせまり」に繰り返されている言葉です。「主よ、ともに宿りませ」。あの復活の日の夕方、あの弟子たちが主に願い求めたように、私たちも主に向かって共に祈り続けたいと思います。「主よ、ともに宿りませ」と。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を心から讃美いたします。今日、御子イエス・キリストの復活を祝うイースター礼拝を、敬愛する兄弟姉妹と共に守れましたことを感謝いたします。イエス・キリストは死に打ち勝ち、復活され、私たちと共に歩んでくださっています。今も生きて共に歩まれる主イエスの弟子として生きるのが、私たちキリスト者であることを示されました。あなたは今も、聖書の御言葉の解き明かしを通し、聖餐式の恵みを通して、私たちの心に信仰の炎を燃え立たせてくださいます。その大きな恵みを深く覚えつつイースターの出来事を祝わせてください。この礼拝において一人の姉妹が主イエスを救い主と告白し、洗礼を受けられます。どうか、私たちの群れに加わり、キリスト者として歩み始める姉妹の上に、主の祝福と励ましを与えていてください。
群れの中には病を得ている者、高齢のために様々な困難を抱えている者、人生の試練に立たされている者がおります。どうか、一人一人の上に復活のキリストの恵みを豊かに注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。