次週の礼拝  11月24日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    コヘレトの言葉12章1-14節

説  教   「青春の日々にこそ、創造主に心を留めよ」 藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分  司式 山﨑和子長老

聖     書

  (旧約) 創世記2章18-24節   

  (新約) マルコによる福音書10章1-12節

説  教 「いつも十字架の恵みを見上げて」  藤田浩喜牧師

御子に似た者となる望み

ヨハネの手紙一2章28節~3章3節   2024年11月10日(日) 主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今朝、私たちは先に天に召された、愛する方々を覚えて礼拝を守っています。皆さんのお手許には、その方々の名前を記した名簿があるかと思います。

私たちは、自分の家族のような親しい者の死に立ち会い、初めて死というものに直面させられるという所があるのではないでしょうか。もちろん、自分自身が命に関わるような大病をされた方にとっては、どうしても死を意識せざるを得ないのですけれど、そうでもない限り私たちは死というものを自分の意識の外に置いて生きているのだろうと思います。しかし、今朝私たちは、天に召された愛する者たちを覚えて、ここに集ってきています。どうしても、死というものについて、まじめに向き合わなければなりません。他人事(ひとごと)としてではなく、自分の愛する者の死です。

 この名簿にある方々は、皆キリスト者として死んだのです。キリスト者として生き、キリスト者として死んだのです。このことは決定的なことです。キリスト者とは、神の子とされた者であるということです。人は生まれながらにして神の子である訳ではありません。神の子となる。神の子とされるのです。どのようにして神の子となるのか。誰によって神の子とされるのか。それは、ただ主イエス・キリストを信じて洗礼を受けることによって、神様ご自身が私たちを神の子となさるのです。キリスト者が神の子であるというのは、自分がそう思っているとか、人がそう見てくれるということではありません。そんなことはあり得ないでしょう。先に天に召された方々が、どんなに立派な人たちであったとしても、「あの人は本当に神の子であった」などとは誰も言ってくれませんし、キリスト者はそれほど立派な人たちばかりである訳でもありません。キリスト者が神の子であるというのは、神様御自身がそのような者として見て下さり、呼んで下さっているからなのです。神様が私たちを「我が子よ」と呼び、私たちを神の子と見て下さっているということなのです。

 しかし、このことは実に驚くべきことではないでしょうか。私たちの一体どこに、神の子と呼ばれるにふさわしい所があると言うのでしょう。どこにもありません。神の子と呼ばれるにふさわしい所など、私たちのどこを探してもないのです。にもかかわらず、神様は私たちを神の子と見て下さるのです。今日のヨハネの手紙 一 3章1節にはこうあります。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」私たちが神様によって神の子と呼ばれるのは、神様がそれほどまで愛して下さったからだと言うのです。そのことを考えてみなければならないと言うのです。どうして、私たちが神の子と神様から呼んでいただけるのか。それは神様が私たちを愛して下さったからです。その愛は、神様に逆らい、敵対し、弱く、罪を犯して生きるしかない私たちのために、愛する独り子をこの世に遣わし、私たちのために、私たちに代わって十字架にかけるほどのものだったのです。このキリストの十字架によって示された神の愛によって、私たちは神の子と見なしていただき、神の子として受け入れていただいたのです。

このことをはっきりと語っているローマの信徒への手紙5章6、8節を読んでみます。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」この愛によって、キリストを信ずる者は神の子とされた。そう神様は宣言して下さったのです。キリスト者が、私たちが神の子であるとは、そういうことです。

世の人が誰も神の子とは思ってくれなくても、神様は神の子と呼び、神の子として受け入れて下さっているということなのです。キリスト者として生きるとは、神様によって神の子として受け入れられた者として生きるということなのです。その人が、たとえ死ぬ直前にキリスト者となったとしても、神の子らしいことを何一つできずに天に召されたとしても、その人はキリスト者として生き、キリスト者として死んだのです。神の子として生き、神の子として死んだのです。神様がそのように見てくださるからです。キリスト者である、神の子であるということは、神様がキリストの十字架のゆえに私たちをそのように見て下さる、受け入れて下さるということなのです。

 この神の子とされたキリスト者の死とは、どういうものなのでしょうか。2節を見てみましょう。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています」とあります。聖書は、死んで後のことについて、天国はこんな所ですと、絵を描くことができるように告げることはありません。「自分がどのようになるかは、まだ示されていません」と言われています。死んだら、魂は肉体を離れてとか、肉体は死んでも魂だけは残ってとか、そんなことはわからないのです。私たちはそのようなことに興味があるかもしれません。しかし、聖書はそのようなことには興味がないのです。そのようなことは、人間が知ることのできることの外のことなのです。知らされていないからです。ですからわからないのです。そんなことはわからなくて良いのです。聖書は私たちの興味に基づいて記されたものではないのです。

しかし聖書は、もっと重大なことを私たちに告げます。それは、「御子が現れるとき、御子に似た者となる」ということです。私たちはすでに神の子とされています。神様によって神の子と見なされ、神の子として受け入れられています。しかし、私たちの中には神の子としてふさわしい実体が備わってはおりません。誘惑に弱く、悪に陥りやすく、罪を犯しやすい私たちです。罪を悔い改めてはまた、犯してしまうような者です。しかし、それにもかかわらず神の子とされています。神様は、私たちのこの姿をこのままにはされません。主イエス・キリストが再び来られる時、私たちはただ独りのまことの神の子である、主イエス・キリストに似た者に造り変えられるのです。主イエス・キリストに似た者として、主イエスが三日目に墓からよみがえられたように復活するのです。ここに、私たちの一切の希望があります。

 それはちょうど、宝石の原石が石ころのようにしか見えなくても、磨いていくと、全く別のもののように光り輝くのに似ています。あるいは、イモ虫がやがてサナギになり蝶になって羽ばたくのに似ています。私たちは、この地上の歩みにおいては、宝石の原石のようなもの。他の石ころと見分けることができないような存在かもしれません。しかし、宝石の原石は磨けば宝石になります。それが、主イエスが再び来られる時なのです。あるいは、イモ虫はどう見てもやがて羽ばたく蝶になるようには見えません。しかし時が来れば蝶になる。それが、主イエスが再び来られる時なのです。私たちが「神の子」とされているということは、私たちが「神の子」の原石であり、イモ虫であり、やがて時が来れば、「キリストに似た神の子」という宝石に、蝶に変えられるという約束をいただいているということなのです。

この主イエスが来られる時、全てが変わるのです。それは、神様がこの世界を造られた創造の時の再現です。新しい創造の時です。私たちはその時、すでに「神の子」とされていた者として、まことのただ独りの神の子である主イエス・キリストに似た者とされるのです。それは、私たちがキリストのように考え、キリストのように愛し、キリストのように仕え、キリストのように父なる神様と顔と顔を合わせてまみえるような、親しい交わりを与えられるということなのです。ここに私たちの希望があります。

 私は牧師として、天国が、神の国がどういうところなのか質問されることがあります。天国が、神の国がどういう所なのか、ペットの「○○ちゃん」もいるのでしょうかと聞かれることがあります。天地を造られた神様が新しく造られる神の国なのですから、きっといるでしょう。そう答えます。しかし、私たちが神の国・天国について知っておかなければならない大切なことは、「○○ちゃんが居るかどうか」ということではありません。大切なことは、天国はどういう所かということよりも、天国においては私たち自身が造り変えられるということなのです。もし私たちの罪が解決されなければ、そこがどんなに素晴らしい世界であったとしても、○○ちゃんがいたとしても、そこでは必ず争いが起き、嘆きがあり、悲しみが生まれるのです。そのような所は決して天国でもないし、神の国でもないのではないでしょうか。神の国においては、私たちがキリストに似た者とされるのです。ここに、神の国の希望、神の国の喜びがあるのです。私たちが神の子とされているということは、私たちが神の国において、その罪を全てぬぐわれた者として新しく造り変えられるという、希望の約束が与えられているということなのです。そして、この神の国の希望は、私たちがこの地上の生涯において出会うどんな苦しみ、悲しみ、病、貧しさ、災い、そして死によっても破られることはありません。なぜなら、この希望は、この地上の生涯において成就するものではないからです。主イエス・キリストが再び来られる時に、成就するものだからです。しかし、この希望は、私たちの地上の生涯と無関係ではありません。なぜならこの希望の約束こそ、私たちがこの地上の生涯を歩む上での道筋を示すものとなるからです。

3章3節に「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」と記されています。キリストに似た者とされる希望を持つ者は、この地上の生涯の歩みにおいて、すでにキリストに似た者となることを目指して歩み出すのです。この目標は、この地上において成就されることはありません。しかし、この目標に向かって私たちは歩みます。なぜなら、私たちはすでに「神の子」とされているからです。私たちは今朝、キリストに似た者にされるという希望の約束を聞きました。この希望に生きる者として、キリストに似た者となることを目指して、この一週間も、主の御前を歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日はこの礼拝を先に召された信仰の先輩方を覚える召天者記念礼拝として守ることができ、感謝をいたします。先に召された兄弟姉妹は、イエス・キリストの救いによって神の子とされて、信仰の生涯を歩みました。終わりの日にイエス・キリストに似た者となる希望を抱いて、あなたの御許に召されました。どうか私たちもその後に続くものとしてください。一人一人の信仰生活を導いていてください。また今日ここに出席された兄弟姉妹のご家族を、あなたが祝してくださり、あなたの恵みで満たしていてください。このひと言の切なるお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  11月17日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    箴言30章7-9節

説  教   「二つの願い」 高橋加代子

主日礼拝   

午前10時30分   司式 髙谷史朗長老

聖     書

  (旧約) イザヤ書66章22-24節   

  (新約) マルコによる福音書9章42-50節

説  教  「神の国に入ろう」  藤田浩喜牧師

微笑みをたたえて生きる

マルコによる福音書9章38~41節 2024年11月3日(日) 主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今日の聖書箇所を読んで、皆さんはどんな感想を持たれたでしょう。主イエスは今日の9章41節で、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と仰いました。社会で生きているわたしたちに対して、色んな態度を取る人たちがいるのは自然なことです。わたしたちに対して好意的で何かにつけて協力してくれる人がいます。一方、わたしたちに対して批判的で事あるごとに反対する人もいます。いつも敵意を向けてくるような人もいるでしょう。また、好意的でも敵対的でもなく、わたしたちに対して関心が薄いという人もいるでしょう。主イエスはそのような様々の立場を取る人たちに囲まれているわたしたちに、「寛容さ」を教えておられるのではないか。明確に敵対する人でなければ、どんな態度を取る人であっても自分の味方だと思って受け入れなさい。心を広くして色んな態度を取る人を受け入れなさい。そのような「寛容さ」を教える勧めとして今日の箇所を読むのです。

 確かに41節の教えを「寛容さ」の勧めとして読むことは、わたしたちにとって有益なことだと思います。教会の群れでもそうですが、物事に対するスタンスには温度差があったり濃淡があったりします。たとえば教会が何か新しい事業を始めようとする時、明確な反対意見が出されるだけでなく、大方は賛成だけれど一部反対、一部賛成だけれど大筋で反対、また正直どちらがいいかまだ分からないという意見も出されます。そのような状況において、明確な反対意見を述べる人以外は、賛成に回ってくれる可能性がある人たち、つまり味方になってくれる可能性がある人たちと考える。そして、その人たちに丁寧に説明し対話を重ねることで、賛成者の数を増やしていくことができるのです。小さな違いに目くじらを立てずに、明確な反対者でなければ、賛成に回ってくれる可能性のある人たちだと考えて、あきらめず粘り強く説得していく。このような心構えは、多様な人が集まる群れである教会の意思決定にとっても必要なものだと思うのです。

 

 しかし今日のところで主イエスは、そのような社会生活を円滑に進める上での処世訓を語られただけなのでしょうか。今日の箇所をもう少し丁寧に見ていきたいと思います。

 今日のところは、十二弟子の一人のヨハネが主イエスに一つの報告をしたところから始まります。38節です。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」主イエスは弟子たちを二人一組にして、町々村々に派遣し、神の国の福音を宣べ伝えさせ、悪霊を追い払う権威を授けました。そのような伝道活動をしていた時に起こったことでしょう。主イエスの弟子ではない人が、主イエスの名によって、悪霊追放の業を行っていました。主イエスの時代にあっては、こうした悪霊追放や不思議な業を行う人が、一定数いたようです。そのような人々は自分が信じる神の名によって、悪霊追放を行っていたようです。ところがゼベタイの子ヨハネが伝道活動をしていた時、彼は「主イエスの名によって」悪霊追放している人を見かけました。ヨハネは「主イエスの名によって」行うなら、自分たちと同じように主イエスの弟子になりなさい、と詰め寄ったのでしょう。しかし、その人は主イエスの弟子に加わることを拒否しました。そこでヨハネは、主の弟子にならないなら、主の名によって悪霊追放してはならないと一喝したというのです。ゼベタイの子ヤコブとヨハネには、主によって「雷の子」いう綽名が付けられていました。声も大きく人を圧倒する男性だったのでしょう。ヨハネは雷のように激しくこの人を叱りつけたのでしょう。

 また、このゼベタイの子ヤコブとヨハネは、この後10章35節以下で主イエスに次のように願っています。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」主イエスに次ぐ、2番目3番目の地位につけてくださいと願っています。彼らには、自分たちが主イエスに選ばれた弟子だという誇りがありました。「自分たちは偉い」と思っていたのでしょう。そうした誇りからも、主の弟子にもならず主の名を使って悪霊追放をするこの人を、見逃すわけにはいかなかったのです。

 そのような報告を主イエスはヨハネから聞きました。主イエスはどうお答えになったでしょう。ヨハネは主からお褒めにあずかると思ったかも知れませんが、こう答えられたのです。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(39~40節)。主イエスは、自分の名を使って悪霊追放することを「やめさせてはならない」と、明確に言われたのです。言い方を換えれば、主イエスの弟子に加わっていない者が、主の名を使って悪霊追放などをしてもよいと言われたのです。

 主イエスはなぜ、弟子となっていない者が主の名を使うことを許されたのでしょうか。一つの理由は、弟子でない者が主イエスの名において悪霊追放などを行えば、このような業を通してであっても主イエスの名前は広がり、主イエス御自身に栄光を帰すことになるからでありましょう。パウロもフィリピの信徒への手紙1章15節以下で同じようなことを述べています。「キリストを宣ベ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音の弁明のために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようとする不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(フィリピ1:15~18)。どういう仕方であろうと、キリストの名が広がり、主イエスに栄光が帰されていくなら、それはよいことなのです。

 また、主イエスはここで「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」と仰っています。主イエスの名を使って悪霊追放などの業を行った人は、主イエスという御方がどれほど真実で力に満ちた御方であるかを実感します。このような御業を実現される主イエスに心惹かれ、この人を信じて生きていきたいと思うようになります。たとえ正式に主イエスの弟子となっていなくても、主イエスに真剣に心を向けるようになります。主イエスは色んな仕方で、様々なところから、自分の味方となる弟子たちを招いてこられるのです。主イエスが味方を増やされる仕方は、人間が考えるよりももっと自由で大らかなのです。

 かつて先の戦争の後、欧米のキリスト教文化に憧れて、多くの若い人たちが教会の門をくぐりました。教会に来た目的は必ずしも信仰を求めてではありませんでした。しかしその中でイエス・キリストに捉えられて洗礼を受け、教会を支える信仰者に成長した人たちが多く与えられました。また、教会は今も女性の方が多く、男女比は1:2以上と言われていますが、かつて教会の門をくぐる男性の少なくない人が、女性との出会いを目的として教会に来たと言われます。しかし最初の動機がどうであれ、その後キリストに捉えられ洗礼を受けた多くの男性が、牧師として献身したり、長老として教会を支えるようになったことを、わたしたちは知っています。イエス・キリストは「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と仰いました。そして自分の弟子になっていない者が、主の名を使うことをお許しになりました。主イエスは、何とかして人々をご自身の救いへと招こうとされています。わたしたちは、このような主イエスの伝道への熱意を受け継ぎたいと願うのです。

 さて、今日の箇所で主イエスは、弟子に加わっていない者に、ご自身の名を使うことを許されました。しかし主イエスは、わたしたち一人ひとりが主の弟子とならなくてよい、と考えられているのではありません。先週申し上げたように、ガリラヤを素通りされ、エルサレムへと向かわれた主イエスは、主(おも)に弟子たちに向けて語られます。苦難と十字架の道を歩もうとされる主イエスの弟子としての心構えを、教えられます。ところが、先週の箇所で弟子たちは、「だれがいちばん偉いか」と道々議論していました。主イエスがこれから歩もうとされる道を、少しも理解していない弟子たちの姿が暴露されます。しかし、そのような弟子としてあまりにも情けない十二弟子を、主イエスは見捨てたり見限ったりはされません。それどころか、これからの苦難と十字架、復活の道のりを通して、主イエスは十二弟子を主の御後に従う弟子たちへと成長させてくださるのです。

 主は39節で「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」と仰っています。しかし、本当にそうだったでしょうか。主の一番弟子を自任していたペトロも他の弟子たちと共に、主の名において悪霊追放や他の力ある業を行っていたでしょう。しかし、そのペテロは主イエスが逮捕され大祭司の館に連れられていったとき、どのような行動を取ったでしょうか。ペトロは自分の身を守るために、主イエスとの関係を否定しました。そして「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」(マルコ14:71)というのです。主の弟子であることを誇っていたペトロをはじめとする弟子たちは、39節が言うようなささやかな味方にすらなれなかったのです。それが、その時の弟子たちの掛け値のない現実だったのです。

 しかし、弟子たちはエルサレムにおいて、主イエスの苦難と十字架の死、三日目の復活を経験します。そして主が昇天された五十日後には、聖霊降臨の出来事を経験します。その一連の出来事を通して、イエス・キリストの名(イエス・キリストご自身と言い換えてもよいでしょう)が、いかなる名であるかを知ります。その名の尊さと重さを知ったのです。その名は悪霊追放をする力だけにとどまりません。その名は弟子たちをはじめとするわたしたち反逆者のために血を流してくださった方の名です。その名はわたしたちすべての人間の罪を赦し、わたしたちを義とする力のある名です。昇天し神の右の座に座られ、ご自身の聖霊を降し、地上に教会を誕生させた方の名です。最初の弟子たちは、自分たちに与えられ、自分たちが担っているイエス・キリストの名が、どのようなものであるかを示されました。弟子たちはそのような一連の出来事を通して、主イエスの御後を歩む弟子たちへと成長させられていったのです。

このようなプロセスは、十二弟子だけではなく今日の弟子であるわたしたちにも当てはまります。キリスト者となってからも、わたしたちは主イエスのことを本当には理解できていないかもしれません。理解不足や間違った思い込みに陥っているかも知れません。しかし主イエスは、そんなわたしたちを見限ることなく、主の名を信じ、主の名を担うことがどんなに貴く、重みのあることかを分からせてくださいます。そして、わたしたちがその全存在をかけて、救い主イエス・キリストに栄光を帰す者となるよう導いてくださるのです。

 今日の箇所の最後で、主イエスはこう言われています。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」ある注解者はこの箇所について、次のような印象的な言葉を記しています。「一杯の水、それほど小さな表れであっても、キリストの名がその人の中で受け入れられることを、天が喜んでいるのである」。この世で伝道をするとき、キリスト者は関わる人たちにキリストの名を伝えます。その名を聞いて、その人たちが水一杯を差し出すほどの小さな好意を与えてくれるとき、天に喜びがあると言うのです。そして、その人たちは神様によって覚えられ、必ず報いを与えられると言うのです。わたしたちがイエス・キリストの名を伝えるということは、小さなことではありません。そのことを神様が覚えてくださるような大いなる出来事となるのです。この主イエスの御言葉に励まされて、新しい一週間もキリスト者として歩み続けてまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができ、感謝いたします。あなたは主の弟子である私たちを遣わし、福音宣教を進められます。あなたはわたしたち人間が思いも寄らない仕方で、人々を救いへと招かれます。あなたのなさり方の自由さ、熱心さに私たちは、いつも驚かされます。わたしたちの宣教には、あなたの熱い思いが注がれています。どうかそのことを信じ、あなたに依り頼む中で宣教の業を進めさせてください。11月に入っても寒暖差のある不順な天候が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康を守り、あなたの祝福のもとで歩ませてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   11月10日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    箴言6章20節

説  教   「父母の教えを守れ」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分(召天者を覚える日) 司式 山根和子長老

聖     書

  (旧約) 詩編16編1-11節   

  (新約) ヨハネの手紙一 2章28節-3章3節

説  教  「御子に似た者となる望み」  藤田浩喜牧師

人間の偉さとは何か

マルコによる福音書9章30~37節 2024年10月27日(日)主日礼拝説教

                         牧師 藤田浩喜

マルコによる福音書について、マルティン・ケーラーという聖書学者は「長い序文付きの受難物語」であると言いました。主イエスが「苦しみを受けて十字架につかれた」ことを、詳細に記しているからです。マルコによる福音書は、十字架の出来事の前にも、イエス・キリストが御自分の苦しみと死について三度予告されたと記しています。この三度の予告は、ちょうどバッハのマタイ受難曲の中でパウル・ゲルハルトの、「血潮したたる主の御かしら」が繰り返し表れるように、主イエスの御生涯を通じて響いて来る主旋律のようなものです。キリストの生涯は、十字架に向かって進む一筋の道でありました。

 本日の聖書個所では、主イエスの一行がガリラヤを通過したことが述べられています。ガリラヤはこれまで主イエスが町々村々を巡り歩いて伝道された、主イエスの働きの本舞台でした。ところが、そこを今の主イエスは人目を避けて通り過ぎようとしておられます。今や主イエスの心がガリラヤから都エルサレムに向かい、十字架に向かっているのです。そして、人々に語りかけるのでなく、弟子たちに語りかけて、十字架に向かう心構えをさせようとしておられるのです。

 ところが弟子たちは、主イエスの「苦しみと死」の教えを理解することができず、またその内容について「怖くて尋ねられなかった」(9:32)のです。第一回の受難予告(8:31)の時は、ペトロが主イエスをわきへ連れて行ってそれをいさめ、逆に主からその甘い考えをきつく正されました。しかし、弟子たちはなお依然としてこの予告の意味を理解することができず、むしろ主イエスに背を向けて、自分たちの運動が成功した暁に、めいめいが高い地位につくことを夢見ていたのです。ですから、かつての活動の根拠地であったカファルナウムに帰って来て、主イエスから「途中で何を議論していたのか」(9:33)と尋ねられると、彼らはそれに答えることができずに、「黙っていた」(9:34)のです。途中での主な議論は、「だれがいちばん偉いか」と議論していたからです。

 このような、主イエスの心を全く理解せずに、他人と自分を比較して能力評価をしたり、自分を他人の上に立てて誇っていた弟子たちに対して、主イエスは「座り」(9:35)直し、て諭されました。この「座る」という言葉は、当時のユダヤ教の教師(ラビ)が弟子たちを教授する姿だと言われています。

 主イエスは弟子たちに、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(9:35)と教えられました。これは、キリストの弟子は、人の上に立ってはならないと命じておられるのでしょうか。主イエスのもとにユダヤ教の会堂長とかローマの軍隊の百人隊長がやって来て教えを乞うていますが、その人たちを主イエスは非難されませんでした。人々が生活を支え、あるいは豊かにするために働くことや、また力に応じて人の上に立つことを、主イエスは禁じられませんでした。

 かつてある教会の青年会の仲間の間で、会社に入って昇進することを願うのはエゴイズムであって、キリスト者には禁じられているのではないかという議論がなされたそうです。彼らは、当時その教会の信徒総代であった企業のトップも務められたことのある方にそれを尋ねたと言います。するとその方は、昇進するということは自分の奉仕の場が広がることであるから、そのために努力することは間違っていないと言われたのでした。この人は自分の地位を「奉仕の場」として受けとめていたのです。

 主イエスの場合も、集団における指導的な働きを一切認められなかったわけではありません。現に御自分の弟子集団の中に十二人という指導グループを作っておられたのです。しかし、主イエスが十字架への道を歩み始められたこの時に、弟子たちがそれに全く無関心であり、自分たちの仲間内での序列争いに夢中になっていることに、心を痛められたのです。

 ここで主イエスは、最も多く恵みを受けている者が最も多く奉仕することを求められていることを指摘され、「すべての人に仕える者になりなさい」と命じられました。これは何よりもまず、主イエス御自身の生き方でした。ある新約学者は、この「仕える者」(ディアコノス)という言葉が、主イエスの姿を最もよく示していると述べています。後に弟子たちの間での序列争いが再燃して、ついにヤコブとヨハネが、主イエスに弟子の第一位の地位を願ったことが記されています。そのとき主イエスは、世俗世界における権力追求的な生き方をはっきりと拒否されて、「仕える者」(ディアコノス)の道こそが、弟子の道であると教えられたのです(10:42~45)。ここで主は御自分こそが「ディアコノス」であると宣言しておられます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(10:45)。

 「ディアコノス」とは、元来は食事の席で給仕をする人のことでした。そこから、家族の生活を配慮すること、さらには何であれ人に奉仕することを指すようになりました。主イエスは、御自分が神の子であるという自覚をもっておられました。神の子であれば、人々が崇め、お仕えするはずです。ところが主は、自分は「仕えられるためでなく、仕えるために」来たと言われます。そして「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と語られます。「身代金」とは、奴隷を買い戻すために支払うお金のことです。つまり、自分の身を犠牲にして人を救うために来たと言われるのです。

 私たちが罪を赦され、神に受け入れて頂くために、主イエスが命を捨ててくださいました。主はそのようにわれわれの僕となってくださったのです。キリスト者は、この僕(キリスト)の僕であります。ですからキリスト者は、神に仕え、人に仕える「僕の僕」として生きることが求められているのです。

 第二次大戦後暫く経った1950(昭和25)年ごろ、「アリの町」といわれた浅草の廃品回収業者の集落の人々を助けて「アリの町のマリア」と慕われた北原怜子(さとこ)という人がいます。この人が若い女性の身でこの集落に住みついたきっかけは、ゼノ神父というポーランドから来た修道士に出会ったからでしたが、その素地はその前につくられていました。

妹さんが取り寄せた高円寺にある光塩女学院の学校案内で、この学校の設立母体であるメルセス修道会のことを知ったのです。メルセス会は、中世末期に十字軍が聖地奪還のために戦っていた時代に創立されました。キリスト教徒とイスラム教徒の戦いは後になるほどイスラム軍の方が優勢になり、多くのクリスチャンが捕虜になり、奴隷にされました。この奴隷となった同朋を買い戻すためにヨーロッパでは募金運動が始まりましたが、先方が奴隷の値段をつりあげるので、間もなくこの買い戻しは困難になりました。

そのようなときに一人の青年がお金をためて、仲間の買い戻しに出かけるのですが、現地についてみると、手持ちの金額ではとても買い戻せないことが分かりました。一人の奴隷を何とか家族のもとに返せないものかと祈っていたとき、ふと心にひらめいたのが「もし自分が、捕虜になっている兵士の身代わりとなって、一生涯、誠心誠意、奴隷として仕えると申し出たら、先方の奴隷の主人も承知してくれるのではあるまいか」という考えでした。交渉を受けた先方は、このとてつもない申し出に驚くのですが、いやいや働く奴隷より、このような誠実な男に働いてもらう方が良いと判断して、それを承知しました。それを聞いた本国スペインの人たちが、彼の先例にならって、奴隷の身代わり運動を始めました。それがメルセス会の起源です。北原怜子さんは高円寺カトリック教会で洗礼を受け、このメルセス会の精神で浅草に出かけて行ったのです。

 このように自分の身を文字通り犠牲にして他者に仕える人がいること、そのすさまじいばかりの愛にわれわれは圧倒されます。しかし、そこから改めて、彼らをそこまで動かした、イエス・キリストの愛に圧倒されるのです。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(Iヨハ3:16)。主イエスが「すべての人に仕えなさい」と言われたのは、この道を歩んでいく私を見つめながら歩みなさい、という励ましなのです。

「だれがいちばん偉いのか。」今日の弟子たちは、こう論じ合っていました。皆さんなら、この問いに何と答えるでしょうか。この問いに対しての答えは、何の注釈も付いていなければ、それは主イエスに決まっています。弟子たちも、そんなことは分かり切ったことで、だれがいちばん偉いかと論じた時に、主イエスのことは論外だったでしょう。主イエスは外して、自分たちの中でだれが偉いのかと論じていたのでしょう。

しかし、それが問題なのです。「だれがいちばん偉いか。」この問いの答えは、主イエス以外ないのです。そして、その答えを明確にするならば、二番以下を比べることに意味がないことを知るはずだからです。なぜなら、主イエスがいちばん偉いということが明らかにされる時、同時に、私たちはただの罪人に過ぎないということも明らかにされるからです。私たちは、自分がただの罪人であることを忘れると、人と比べ、だれが偉いかと言い始める。そして、自分もまんざらではないと思い始める。これが信仰の堕落です。

 私たちは、ただ主イエスを見上げて、主イエスに従っていくだけです。その時、自分の隣にいるのは、ライバルではなくて、共に主イエスに仕える同労者であり、心から愛すべき友であり、神の家族なのです。私たちはその人を批判する前に、自分がその人を受け入れているか、その人に仕えているか、その人を愛しているか、そう主イエスから問われるのでありましょう。

私たちは本当に、よき所などどこにもない、ただの罪人です。しかし、その私のために、神様は主イエスを与えてくださいました。この神様の愛だけが、私たちを助け、私たちを救い、私たちを生かすのです。「わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」(詩編121編1~2節)。助けは、私たちの中から湧き上がってくるのではないのです。ただ、天地を造られた主のもとから助けは来ます。この主から来る助けを信じ、十字架の主イエスに従って、すべての人に仕える者として、この一週間も歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と対面で、オンラインで礼拝を共にすることができましたことを、感謝いたします。だれがいちばん偉いか。これは私たちの心に時として湧き上がってくる思いです。人間は人の上に立ちたいのです。しかし神に御子である主イエスが、仕える者として十字架に御自身を捧げてくださいました。私たちを罪と死から命へと贖いだしてくださいました。この僕として仕えてくださった方の僕として、私たちも従っていくことができますよう強めていてください。気候が不順で寒暖差のある日々です。どうか、群れに繋がる兄弟姉妹一人ひとりの心身の健康をお支えください。この一週間もあなたを見上げて歩ませてください。このお祈りを、主の御名を通してお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   11月3日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    詩編8編4節

説  教   「人間は何ものなのでしょう」 渡辺望

主日礼拝   

午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖     書

  (旧約) 詩編22編23-32節    

  (新約) マルコによる福音書9章38-41節 

説  教 「微笑みをたたえて生きる」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝   10月27日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   コリントの信徒への手紙一 12章12-27節

説  教   「共に苦しみ、共に喜ぶ」 山﨑和子長老

主日礼拝   

午前10時30分  神学校日  司式 三宅恵子長老

聖     書

  (旧約) 詩編8編1-10節  

  (新約) マルコによる福音書9章30-37節 

説  教  「人間の偉さとは何か」  藤田浩喜牧師

わたしが示す地に行きなさい

創世記12章1~9節  2024年10月13日(日) 主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

信仰の父と呼ばれるアブラハム。これからしばらくの間、アブラハムの歩みを辿りながら、私たちの信仰のあり様を整えられていきたいと願っています。

今朝与えられております創世記12章からアブラハムの物語が始まるのですが、その直前の11章27節以下の所に、大変興味深い記述があります。アブラハム、この時はまだアブラムですが、彼の父はテラ、兄弟にはナホルとハランがいた。彼らは、もともとカルデアのウルに住んでいたというのです。このウルという町は、古代メソポタミア文明の中心地です。現在、発掘もされ、中学生の地図にも載っています。チグリス川とユーフラテス川が合流する所の近く、現在はイラク領になっている所にあった町です。このウル、当時の世界最大の文明都市と言ってよいでしょう、そこを出発して、ユーフラテス川を700km程北上して、ハランという町に住んでいたのです。そして、アブラムの妻サライは不妊の女、子どもが産めない体であったというのです。アブラムとその妻サライの家系は、これで終わる。そういうことになるはずだったのです。 

アブラムはすでに75才、妻のサライは65才でした。しかし、突然、アブラムに神さまの言葉が臨んだのです。12章1節「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」いったい、これはどういうことなのでしょうか。4節には「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とあります。神さまが「わたしの示す地に行きなさい」と告げ、アブラムは、その言葉に従って旅立った。ここに「信仰の父アブラハム」が誕生したのです。その後、私たちに至るまで連綿と続く「神の民」の歴史が、ここに始まったのです。「神の民」とは、実に神さまからの「わたしの示す地に行きなさい」との言葉を受け、それに従って旅立つ者としてあり続けてきた者たちのことなのです。この地上における富や財産よりも、神さまの言葉に従うことを、何よりも大切にする民、それが神の民です。アブラハムは、その神の民のあり様を、神の言葉に従って旅立つことによって、あざやかに示したのです。

このことを、ヘブライ人への手紙はこのように記しました。11章8節「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」アブラハムは、この時具体的な行き先を知りませんでした。神さまが示す地というのが、今自分が住んでいる所よりも豊かな土地なのか、住みやすい土地なのか、何も知りませんでした。しかし、彼は旅立ったのです。ただ、神さまが「行きなさい」と言われたからです。

  私の知っている牧師の一人に、十年で任地を移ると決めていて、転任した教会での最初の説教は必ず、この創世記12章でやることにしていたという方がいました。彼は、自分の人生をアブラハムのそれと重ね合わせていたのでしょう。ちなみに、その方の一人息子の名前は基(もとい)でした。別に牧師でなくても、私たちは、人生の中で必ず生きる場所を変えなければならないことがあります。生まれた家を生涯離れることなく、そこに住み続けるという人は、ほとんどいないでしょう。私も、三重県に生まれ、西宮、姫路に住んで、また西宮に戻ったあとここ千葉県柏市に来ました。それぞれ転居する時には、大学に行くためとか、就職のためとか、自分の社会的状況の変化があり、それにともなう転居であったわけですが、しかし今振り返ってみますと、そこには神さまのご計画、導きというものがあったということを思わざるを得ないのです。それは、あの土地でこんなよいことがあった、あんな素敵なことがあったからというのではないのです。もちろん、そういうこともありますけれど、それだけではない。あそこからそこへ、そこからまたあちらへと移っていく中で、自分は天に備えてある神の国への旅をしている、神の国への旅の途中であることを知らされ続けたからです。自分で求めて転居したことは、あまりありませんでしたけれど、移り住んだ所で、信仰の友が与えられました。そしてその兄弟姉妹たちと共に祈り、共に神の国への道を歩んできたのです。ここが大切な所です。

アブラムは、神さまによって「行け」と言われたから旅立ったのですが、その時神さまは、ただ闇雲に「行け」と言われたわけではないのです。神さまは、この旅の涯に備えているものを約束して下さったのです。2~3節「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」最初に申しましたように、アブラムとサライの間には子どもがおりませんでした。サライは不妊の女だったのです。ところが、神さまの約束は、その事実をくつがえすものでした。神さまは、「あなたを大いなる国民とする。」と約束されたのです。これは、アブラムを大きな民族、国民の祖とする、祖先とするということでしょう。そのためにはアブラムとサライの間に子どもが与えられなければ、あり得ないことです。神さまは、現在のアブラムとサライの状況から見れば、全く不可能としか思えないような約束をしたのです。アブラムは、この約束を信じました。この約束を信じて旅立ったのです。確かにアブラムは、具体的にどこに行くのかは知りませんでした。この旅の途中で何が起きるのかも知りませんでした。不安もあったでしょう。しかし、アブラムには、神さまの約束がありました。この神さまの約束、ただそれだけを信じて旅立った。ここに神の民は誕生したのです。

  私たちも明日を知りません。その意味で、不安が全くないと言えば嘘になるでしょう。しかし、神さまの約束があるのです。私たちを守り、支え、導き、神の国へと、復活の命へと招くという、約束があるのです。この神さまの約束を信じて、私たちは旅立つのです。自分が慣れ親しんでいたものから離れて、新しい局面へと、一歩を踏み出していくのです。

  アブラムが与えられた約束は、自分一代で何とかなる、何とかする、そんなものではありませんでした。何十、何百代後に成就する壮大な神さまのご計画による約束だったのです。彼一代のことで言えば、イサクという一人の息子が与えられるということだけだったのです。もちろん、生まれるはずもない子が与えられるのですから、これもまた、大変なことであるには違いありません。しかし、それは、この壮大な神さまの約束と比べるならば、まことに小さなことです。しかし、それは初めの一歩なのです。

 私たちはよく、小さな信仰、大きな信仰という言い方をします。それはどういうことかと言いますと、神さまを小さくする信仰、神さまを大きくする信仰ということだろうと思います。神さまの祝福の御業を、自分の考え、自分の生きている間、そういう制約の中で小さくとらえてしまう。それが小さな信仰ということなのでしょう。私たちは、もっと大きな信仰を与えられたいと思うのです。神さまの御業を、自分の理解や、自分の見通しや、自分の今置かれている状況を超えて、神さまの本来の力、本来のご計画に従ってとらえ、信頼し、それに向かって一歩を踏み出していく信仰です。

アブラムは、「祝福の源となるように」との言葉を与えられました。全て神さまの祝福を受ける者たちの基礎、ここから全ての祝福が始まる、そういう存在にあなたはなるのだと言われたのです。この言葉は、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルの民に受け継がれてきました。そして主イエス・キリストの到来によって、まさに全世界へと広がり、私たちの所へと伝えられてきたのです。このアブラハムによって伝えられた神さまの祝福を今担っているのは、私たちなのです。神さまの祝福は伝えられ、広げられていきます。そして、地上の全ての民が神さまの祝福に入る、神さまの救いに与ることになるのです。このアブラハムの祝福を受け継いだ者は、皆、小さなアブラハムになるのです。私たちは、最早、自分の救いという所にとどまることはできません。全ての民が、この神さまの祝福に与ることを願い、求め、用いられることを喜びとする。私たち信仰者は祝福を世に反映する者とされるのです。

  アブラムがどのような人であったのか、それ程、くわしいことはよく分かりません。少なくとも、アブラムが神さまの祝福の源とされて召し出された時、アブラムがこのような人であったので、神さまはアブラムを選んだというようなことは、一切記されていないのです。それは、私たちが選ばれたのと同じことなのです。無から有を生み出される神さまの救いの御業は、アブラムの人間的な能力によって実現されていくべきものではないからであります。強いてアブラムが神さまに選ばれた理由として挙げるならば、彼には子どもがいなかったということだろうと思います。子どもがいない。だから、大いなる国民の祖となることは不可能。アブラムの能力・力によったのでは実現不可能なことです。この人間的に見れば不可能であるがゆえに、神さまの働きは一層確かになり、明らかになるのです。神さまによらなければ実現しないからです。実に私たちもそうなのです。私たちが神さまの祝福を受け継ぎ、これを伝える者として選ばれた理由は、私たちが有能で、信仰深く、愛に満ちた者であるからではありません。まさに、それと正反対な者であるがゆえに、私たちを選ばれたのではないかと思います。ですから、私たちは自分の力のなさを嘆くには及ばないのです。無から有を生み出される神さまの力を信じていけばよいのです。アブラハムに生まれるはずのないイサクを与えられた神、主イエスを十字架の死から復活させられた神、この神の力を信じて、委ねていけばよいのです。

最後にもう一つ、大切なことを学びたいと思います。それは、7節後半にも、8節にも書いてありますが、彼が旅路の行く先々で、主のために祭壇を築いた、ということです。祭壇を築いて、主の御名を呼びました。申すまでもなく、祭壇は礼拝のためです。次のところでも、またそうしました。アブラハムの生涯は、祭壇から祭壇への生涯でした。特に最初の祭壇は、モレの樫の木のそばにあって、創世記で何度も出て来ます。彼にとっては自分の母教会のようなものでした。彼の生涯は波乱万丈の生涯でしたが、それは、礼拝から礼拝への生涯でした。それなしに、彼の旅における神の祝福は考えられませんでした。これは、私たちが毎週毎週礼拝を守ることによって、人生という旅路を全うすることの原型が、ここに既にある、ということです。私たちは信仰において、このアブラハムの子孫です。御国を目ざす旅を続ける中で、神の祝福を受け、神の祝福を語り伝えていくのです。この週も、私たち一人一人に神さまの祝福が豊かにありますように、祈りを合わせたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】わたしたちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と、体面でオンラインで礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。アブラハムの出発の記事を通して、私たち信仰者の歩みが、行き先も知らない旅であることを知らされました。しかしそのような私たちを、あなたは大いなる救いの約束を与えて導いてくださいます。その約束を信じてあなたを見上げて歩む者としてください。来週は川越弘先生をお迎えして、特別伝道礼拝を行います。どうか、この特別伝道礼拝を豊かに祝し用いてください。季節が進み気温の変化が激しいこの頃です。どうか、兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  10月20日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   コリントの信徒への手紙一 3章6-9節

説  教   「成長させてくださる神」 藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分  特別伝道礼拝  司式 山﨑和子長老

聖     書

  (旧約) 創世記15章5-6節  

  (新約) エフェソの信徒への手紙1章3-5節 

説  教   「神の選び」  川越弘牧師