日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書5章43~48節
説 教 「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」 藤田浩喜牧師
主日礼拝
午前10時30分 特別伝道礼拝 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約) 創世記3章15~19節
(新約) マルコによる福音書8章22~26節
説 教 「希望に支えられて生きるということ」 崔炳一教師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書5章43~48節
説 教 「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 特別伝道礼拝 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約) 創世記3章15~19節
(新約) マルコによる福音書8章22~26節
説 教 「希望に支えられて生きるということ」 崔炳一教師
マルコによる福音書14章43~52節 2025年9月28日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝与えられている御言葉は、主イエスがユダの裏切りによって捕らえられる場面です。この直前が、先週見ましたゲツセマネの祈りの場面でした。その最後のところで、主イエスは弟子たちにこう言われました。41~42節「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。ここには、十字架に向かって敢然と歩まれる主イエスの姿がはっきり記されております。主イエスは「時が来た」と言われます。この「時」とは、捕らえられて十字架へと歩む時です。そしてこの「時」は、神様が備え給うた時なのです。主イエスは、神様の御計画の時が来たことを悟り、そして言われたのです、「立て、行こう」。主イエス自らが行かれるのです。
「さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た」(43節)とあります。一体、この時主イエスを捕らえに来た人々は、どれほどの人数だったのでしょうか。主イエスがすんなり捕らえられましたので、特に乱闘騒ぎになることもなく済んでしまいました。ですから何となく、それほど大勢ではなかったのではないか、私は長い間そんなふうに思っておりました。聖書には人数は記してありませんので分かりませんけれど、ヨハネによる福音書には、この時「一隊の兵士と千人隊長」が一緒であったことが記されています。最低でも百人、あるいは数百人の人々がやって来たのでしょう。主イエスを捕らえに来た人々は、手に手に剣や棒を持っていました。この時、主イエスが何かとんでもない不思議な業をするかもしれない、そんなふうにも思っていたかもしれません。ですから、きっと恐る恐る近づいたことでしょう。泰然自若としている主イエス。一方、手に手に剣や棒を持ち、大勢でありながら恐る恐る近づく人たち。
その先頭にユダがいました。ユダは、自分が接吻する人が主イエスだと合図を決めておりました。月明かりがあったとはいえ、12人のうちの誰が主イエスであるのか、見分けるのは容易ではなかったからです。この「接吻する」という言葉は、「愛する」とも訳せる言葉です。この接吻は愛する者、家族や友人などと交わす挨拶でした。この場合、互いに両手で抱き合って、頬や頭に接吻するのです。ユダはいつもと同じように、「先生」と言って主イエスに接吻しました。ユダはこの愛の印である接吻をもって、主イエスを裏切ったのです。
この時、主イエスはこのユダの接吻を避けることをされませんでした。主イエスはこれを受けたのです。十字架への歩みを決めておられた主イエスにとって、今さらこのユダの裏切りの印としての接吻を拒む必要はなかった。そうなのかもしれません。しかしそれ以上に、主イエスにとってユダは、この時もなお「先生」と言って接吻してくる弟子の一人だったのではないか。私にはそう思えてならないのです。
他の弟子たちはこの時、皆主イエスを見捨てて逃げてしまったのです。そして、もう少し後でペトロは、主イエスを三回否認するのです。そのような弟子たちを主イエスは見捨てられたでしょうか。そうではなかった。復活された主イエスは、彼らを再び弟子として召し出し、世界宣教へと遣わしたのです。主イエスは弟子たちを見捨てたりはしていないのです。であれば、ユダもそうだったのではないか。ユダにとっては裏切りの印でしかなかった接吻を、主イエスはいつもと同じように、愛の印として受けられたのではないか。私にはそう思えるのです。
主イエスが選ばれた十二弟子の一人のユダが裏切ったというのは、まことに驚くべきことです。しかしこれは、神様が、主イエスが、何にも先が見えない方だったということを示しているのではないのです。ユダが裏切って、主イエスの十字架の救いが貫徹されたのです。神様の救いの御業は、裏切りによって頓挫するのではなく、それによって貫徹されたのです。いつの時代でも、キリスト教会には裏切りと言えるようなことが起きるのです。しかし、それで教会が無くなってしまうということはなかったし、今もないのです。
このユダの裏切りということから、私は日本の教会が出発した時の一つの事実を思い起こすのです。明治5年、9名の受洗者が与えられ、それ以前に洗礼を受けていた2名と計11名によって、日本最初のプロテスタント教会、日本基督公会(現在の日本基督教会横浜海岸教会)が設立されたのです。ところが、この11名の信徒の内2名は、確実に明治政府からのスパイだったのです。彼らが政府に出したその報告書が残っています。さらに、1名の本願寺から送られたスパイだったと言われている人もいます。驚くべきことでしょう。しかし、それで日本伝道は頓挫したでしょうか。しなかったのです。神様の救いの御業というものは、人間の裏切りなどいうものによって台無しになるなどいうことはないのです。
さて、ユダが主イエスに接吻すると、人々は主イエスに「わーっ」と襲いかかり、主イエスを捕らえました。人々が恐れていたような、主イエスからの反撃はありませんでした。ただ、一人だけ、剣を抜いて大祭司の手下に切りつけて片耳を切り落とすということが起きました。ヨハネによる福音書は、それがペトロであったと記しています。そして、耳を切り落とされた人の名はマルコスであったと記しています。また、ルカによる福音書では、主イエスは「やめなさい。もうそれでよい」と言われ、耳をいやされたと記されています。この剣を抜いた人は、主イエスを守るためというよりも、大勢の人々に囲まれて恐ろしくなって、持っていた剣を振り回したということなのではないでしょうか。しかし、主イエスはそれをやめさせ、まことに静かに捕らえられたのです。
そして言われました。48~49節「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」これは大変な皮肉です。昼間、大勢の人のいる前では、神殿の中では、わたしを捕らえなかった。いつでもできたのに、そうしなかった。なぜだ。それは、あなたたちがやっていることは、昼間にはできない業、闇の業だからだろう。人前をはばかる業だからだろう。闇に乗じて行っていることが、それを示している。これについては14章2節に、「彼らは『民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう。』と言っていた」と記されています。主イエスの話を喜んで聞いている群衆を前にして主を捕らえるのは、群衆を刺激し、騒乱が起きる。それを恐れていたわけです。彼らは、神様に従う業だと思っていたのでしょうけれど、本当のところ、人を恐れていたのです。主イエスは、この「人を恐れるあり方」が本当に神様に従う姿なのか、そう告げておられるのでしょう。
主イエスは静かに捕らえられました。十字架に架けられることを分かった上でした。なぜなら、主イエスはそれが神様の御心であることを知っておられたからです。それは、49節の「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」に明確に示されています。この「聖書の言葉」とは、詩編22編やイザヤ書53章に示されているメシアの受難預言を指しています。主イエスは、これは聖書の言葉が実現するためだ、つまりこれが神様の御心なのだと告げられたのです。
さて、50節にはとても印象深い言葉が記されています。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」淡々と聖書は記しておりますけれど、この一節は、私たちの心にとても深く突き刺さる言葉です。数時間前に「決してわたしはつまずきません」と、主イエスの前に誓った弟子たちでした。ペトロだけではないのです。皆そう言ったのです。しかし、実際に主イエスが捕らえられる段になると、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまったのです。この記事を見て皆さんはどう思われるでしょうか。何とだらしのない弟子たちだと思うでしょうか。私も同じだと思うでしょうか。私ならどうするでしょうか。
ここでマルコによる福音書は、51~52節に一つのエピソードを加えています。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」。これはマルコによる福音書にしか記されておりません。この「一人の若者」は一体誰なのか。名前が記されていないので、本当のところは分かりません。しかし、教会の歴史の中で、この若者はこの福音書を記したマルコではないかと言われてきました。主イエスが捕らえられたこの時、マルコがそこに居合わせたのかどうか分かりません。しかし、これがマルコだと人々は読んできたのです。
この福音書を書いたマルコという人は、使徒言行録によれば、初代教会の人々が集まって祈っていたエルサレムの家の息子です(使徒12:12)。母親がキリスト者で、彼は二代目でした。そして、バルナバとパウロと共に第一回伝道旅行に行った伝道者でした。しかし、マルコはその第一回伝道旅行の途中で帰ってきてしまったようなのです。パウロの第二回伝道旅行にマルコを連れて行くかどうかで、パウロとバルナバは意見が分かれてしまい、バルナバはマルコを連れて、パウロはシラスを連れて、別々に第二回伝道旅行に行ったことが記されています(使徒言行録15章36~44節)。
マルコは逃げたのです。パウロの伝道旅行は命の危険にさらされるものでした。その伝道旅行で、マルコは逃げたのです。その出来事をさかのぼるこのゲツセマネにおいて主イエスが捕らえられた時、その場に彼がいたのかどうか分かりません。しかし、そうでなかったとしても、福音書記者マルコはここで、パウロと伝道旅行に行った時に途中で逃げ帰ってしまった自分の姿を、この時主イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちの姿に重ね合わせて、ここに書き込んだのではないか。私にはそう思えてならないのです。マルコもまた、自分は主イエスを見捨ててしまった者だ、そのことを本当に知ったから、福音を告げる伝道者になれたし、その福音に基づいて福音書を記すことができたのだろうと思うのです。
主イエスの十字架への歩みにおいて、弟子たちの弱さ、情けなさ、不信仰、裏切りが次々と記されています。それは、本当にそうであったということだけではなくて、それが福音の本質を明確に告げる出来事だからなのでありましょう。
福音とは、どこまでもついて行きますと言っていたのに、いざという時に主イエスを見捨てて逃げてしまう、その弟子たちをなおも赦し、愛し、用い給う神の愛なのです。主イエスの十字架は、この自分を見捨てた者の罪を担い、その者に罪の赦しを与えるものなのです。主イエスを我が主、我が神と信じて受け入れて歩み始める。主イエスを愛し、従う。しかし、信じ切れない。愛し切れない。従い切れない。主を裏切るようなこともしてしまう。その通りです。そのような私が、なおも赦され、愛され、生かされているのです。それが福音です。ですから何度でも、主イエスに励まされて、御心によって生きる道へと新しく歩み出していくのです。福音は私たちを、あきらめない者へと導き続けるのです。主イエスが、神様が、私たちを捉えて離さないからです。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から褒め称えます。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを、感謝いたします。神さま、弟子のユダは愛のしるしである接吻をもって、主イエスを裏切りました。しかし主イエスは、他の裏切った弟子たちと同じように、ユダを愛し、彼が悔い改めて立ち帰ることを願っておられたのだと思います。神さま、あなたは主イエスにあって何度も何度も私たちの罪を赦し、御国に向かって立ち上がるよう励まし導いていてくださいます。そのことをいつも私たちに覚えさせてください。今日は礼拝の後に、南柏教会に長らく仕えて下さった戸村曻次さんの記念会を行います。その記念会の上にあなたの祝福を与えてください。信仰に生きた先輩の思い出を分かち合う豊かなひと時としてください。10月を迎えようとしていますが、まだ寒暖差のある日が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書5章38~42節
説 教 「復讐してはならない」 渡辺望
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)
聖 書
(旧 約) ダニエル書7章11~14節
(新 約) マルコによる福音書14章53~65節
説 教 「神が与えてくださる幻」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書14章32節~42節 2025年9月21日(日)伝道礼拝説教
牧師 藤田浩喜
主イエスはひどく恐れていました。ゲツセマネでの主イエスの様子を聖書はこのように伝えています。「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』」(33~34節)。
恐れている主イエスを想像すると、何かとても不思議な気がします。これまでの流れを考えるとなおさらです。主イエスはここに至るまでに、すでに少なくとも三回は御自分の受難を予告しておられるからです。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(10:33~34)。これは三度目の予告です。エルサレムに入られる前から、そこで自分の身に何が起こるかをすでに知っておられたのです。知りながら、あえてエルサレムに向かわれたはずなのです。
この直前の食事についても、これが弟子たちと共にする最後の食事であることを、主は知っておられたはずです。だからこそ、その食事の際に「これはわたしの体である」と言ってパンを与え、「これはわたしの血である」と言って杯を回されたのです。さらに言うならば、裏切ったユダが祈りの場所に人々を手引きして連れてくることさえも知っていたのです。その場所こそが、群衆に知られることなくイエスを捕らえるためには格好の場所だったからです。そのことを知っているのに、あえてゲツセマネに祈りに来られたのです。わざわざ捕らえられるために、来られたようなものです。
ならば、そこで本来期待されるのは、泰然として捕らえに来る者たちを静かに待つキリストの姿でしょう。恐れることなく、うろたえることなく、ただその時を静かに待つキリストの姿。―しかし、そのような姿はここには見られません。キリストは恐れ、苦しみもだえて祈っておられるのです。ここに描かれているのは、実に期待はずれとも奇妙とも言える光景です。
しかし、読者の期待を裏切るこの姿こそ、キリストの受けた苦しみが何であるのかを雄弁に物語っているとも言えるのです。
主はこう祈っています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(36節)。取りのけてほしい「この杯」とは、いったい何なのでしょうか。十字架につけられて殺されること ―確かにそうです。しかし、それが意味するのは、ただ単に肉体的・精神的苦痛を伴う死ということではありません。確かに十字架刑は残酷な刑罰です。しかし、十字架刑によって殺されたのは、何もイエス・キリストだけではないのです。現に主イエスと共に二人の犯罪人が、十字架にかけられていたのです。そして、肉体的・精神的苦痛という意味だけならば、世の中にはもっと大きな苦しみを味わいながら死んでいった人はいくらでもいたはずです。主イエスが「この杯」と呼んでいるものが、そのようにすでに誰かが経験したことのある苦しみであろうはずがありません。
では、主イエスに与えられた「この杯」とは何だったのでしょうか。それはただ苦しんで死んでいくということではなくて、《神に裁かれて死んでいく》ということだったのです。もちろん、キリストは自分自身の罪のゆえに神から裁かれる必要はありません。この御方には罪がありませんでした。この御方は父なる神を愛し、人を愛して生きられました。この御方は父なる神と一つでした。ですから、この御方が背負っていたのは自分の罪ではありません。そうではなく、私たちの罪です。それは私たちすべての人間の代わりに、神の裁きを受け、神に見捨てられることを意味したのです。それこそが、メシアの苦しみだったのです。
実際、この箇所を読む度に思います。私たちは神の裁きが何であるかについて、恐らく何も知らないのだ、と。辛いことが続いて、「神から見捨てられた」と感じることはあるかも知れません。しかし、私たちは神から見捨てられるということがどういうことか、恐らく何も知らないのです。だから、すべてを知っておられる神の御前において、罪を犯してきたこと、罪人であるという事実に恐れおののくこともないのでしょう。罪の赦しを受けることなく死ぬことを、本当の意味で恐れることもないのでしょう。
しかし、主イエスは違います。罪人として、罪を背負ったまま死ぬことがどれほど恐ろしいことであるか、罪ある者として神に裁かれることがどれほど恐ろしく、悲しく、苦しいことであるかを御存じだったのです。この世界の罪、私たち人間の罪を背負うということが、いかなる苦しみであるかを知っておられたのです。それが、今日の聖書箇所におけるキリストの恐れと苦しみの姿の中に、語られていることなのです。
それゆえに主は、ひれ伏して父なる神に願い求めたのです。「この杯をわたしから取りのけてください」と。しかし、父に向き続け、苦しみもだえながら祈られる主イエスに、御父は何も語られませんでした。そう、ひと言も。しかし沈黙はしばしば言葉以上に、雄弁に語ります。沈黙こそが主イエスに与えられた答えでした。―わかりました。あなたの御心なのですね。主は父に語りかけます。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)。
そのように神が沈黙される時に、それでもなお「アッバ、父よ」と呼びかけ、父への信頼をもって御心に従おうとしている御姿を、私たちはここに見るのです。
しかし、この箇所を読みます時に、父の御心に信頼をもって従うことは、主イエスにとってさえ、決して容易なことではなかったことを知るのです。先に見たとおり、主イエスは「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と口にするのです。ならば、本来ならそこで祈りは完結しているのではないでしょうか。ところが、39節にはこう書かれているのです。「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた」。
「同じ言葉で祈られた」ということは、もう一度「この杯をわたしから取りのけてください」と願ったということです。そして、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」に、再び行き着いたということです。
これを主イエスは、何回繰り返したのでしょうか。ここには主が三回ペトロたちのところに戻って来られたことが書かれています。しかし、主がただ三回だけ「同じ言葉で祈られた」とは思いません。もしそうならば、弟子たちは眠っていて聞き逃しているはずですから、二回目が同じ言葉であることは分かりません。さらに言えば、二回目の時も眠っていたのですから、同じ言葉で祈っていたのをいったい誰が聞いていたのでしょう。
要するに考えられることは、弟子たちが眠りこける前から、主イエスは同じ言葉で繰り返し祈り続けていたということです。あるいは、ルカによる福音書では「いつものようにオリーブ山に行かれると」(ルカ22:39)と書かれていますから、主イエスはエルサレムに来られてから毎日のように、そのように祈っていたのかもしれません。
主イエスであっても、祈りなくしては従い得なかったのです。繰り返し父の名を呼ぶことなくして、父への信頼をもって立ち上がることはできなかったのです。前に進むことはできなかったのです。そのように天の父にすがりつくようにして繰り返し祈っておられた主イエスだからこそ、眠っていた弟子たちにこう言われたのです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(38節)。
「誘惑に陥らぬように」―彼らにとっての「誘惑」とは何でしょう。眠りへと誘う誘惑でしょうか。いいえ、もっと大きな誘惑が待っていることを、主イエスはご存知でした。
こんなことがありました。ゲツセマネに到着する前のことです。主イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたは皆わたしにつまずく」(27節)。つまり、主イエスを見捨てて弟子たちが散ってしまうことを、主は予告したのです。その時、ペトロは言い返しました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。しかし、主イエスはそのペトロにこう言われました。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。ペトロはさらに言い返しました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。そして、「皆の者も同じように言った」(31節)と書かれています。今日の箇所の直前に書かれていることです。
確かに、主イエスが彼らの目の前で捕らえられることは、彼らにとって試練です。そして、そこには誘惑もあります。「あなたがたは皆わたしにつまずく」。その誘惑があります。彼らは「つまずきません」と言いました。実際はどうだったでしょう。シモン・ペトロは三度、主イエスを知らないと言いました。他の弟子たちも、主イエスを見捨てて逃げ出しました。ある意味で彼らは、誘惑に負けたことになります。
しかし本当の誘惑は、その後に来るのです。彼らは深い悲しみ知ることになります。彼らは自分自身に対し、深い絶望を味わうことになります。主イエスはそうなることが分かっているのです。だから、ルカによる福音書では、主イエスがペトロにこう言ったと記されています。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:23)。
悲しみの中に、特に自らの弱さ、自らの罪のゆえの悲しみの中に誘惑があります。自分に対する絶望の中に誘惑があります。悪魔はそこで、人を神から引き離しにかかってくるのです。信じることをやめさせようとする。従うことをやめさせようとするのです。それゆえに主は言われるのです。「誘惑に陥らないように祈りなさい」と。
実は、主イエスがペトロたちの離反を予告した時、一言こう付け加えていました。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(28節)と。弟子たちは確かに主を見捨てて逃げていく。しかし、主イエスはその先を見つめておられたのです。彼らは、それで終わりになってはならない。自分に絶望して終わってはならないのです。悪魔によって引き離されてはならないのです。信じることをやめてはならないのです。自分がどのような惨めなありさまであろうが、信じることをやめてはならないのです。主が先にガリラヤに行って待っていてくださるからです。
あの時、主イエスが言ってくださった、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」という言葉は、深く彼らの心の内に留まったことでしょう。そして、弟子たちの心に留まったその御言葉が伝えられ、今日、私たちにも同じ御言葉が与えられているのです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」。祈っていなさい ―そう、あの時、父にすがりつくように繰り返し祈り続けた主イエスのように」。聖書はそのように、私たちに呼びかけているのです。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。主イエスはゲツセマネの園で、「アッバ、父よ…この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。しかしその祈りは、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」へと至りました。主イエスがその祈りを、何度も繰り返し、祈り続けられたことを聖書は語ります。
神さまにこの祈りを祈り続けることなくして、私たちは人生の最大の誘惑を退けることはできません。どうか、人生の大きな困難に陥っている時にこそ、主イエスのゲツセマネの祈りを思い起こさせてください。今日は礼拝の後に、信仰の先輩たちを囲んでお祝いの愛餐会を行います。長い人生を歩んでこられた信仰の先輩たちを支えてくださった神様に心から感謝しつつ、交わりのよき時を持たせてください。季節はやっと秋へと向かっているように感じます。しかしまだ寒暖の差が激しく体調の整えにくい日々です。どうぞ、兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 創世記2章18~24節
説 教 「人に合う助ける者」 藤田百合子
午前10時30分 司式 山根和子長老
聖 書
(旧約) イザヤ書49章7~9節
(新約) マルコによる福音書14章43~52節
説 教 「恐れからの自由」 藤田浩喜牧師
創世記16章7~16節 2025年9月14日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
子どもが与えられないサライに代わって、女奴隷ハガルがアブラムの子どもを身ごもると、三人の関係は微妙に変わってきました。ハガルが女主人であるサライを軽んじ始めたというのですが、サライのひがみ、被害妄想であったかもしれません。いずれにしろ、サライのハガルいじめが始まりました。精神的虐待だけではなく、肉体的虐待もあったかもしれません。とうとうハガルはそれに耐え切れなくなって、サライのもとから逃げるのです。
「サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた」(16:6)。しかしそうして逃げたハガルを、神様は放っておかれることはなさいませんでした。彼女のもとに御使いを送ります。「主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った。『サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか』」(16:7~8)。 「『女主人サライのもとから逃げているところです』」と答えると、主の御使いはこう答えました。『女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい』」(16:9)。
この言葉を、私たちはどういうふうに聞くべきでしょうか。注意して聞かなければなりません。聞きようによっては、「奴隷は主人のもとから逃げるべきではない。奴隷は主人のものだ」ということを正当化する言葉として用いられるかもしれません。
聖書という書物は、幅の広い書物です。色々な文脈で、色々なことを語っていますから、自分の立場に都合のいい言葉を拾い出して、それをつないでいきますと、どんな思想でも聖書の言葉によって正当化できてしまうような面があります。
言葉というのは両刃の剣です。誰が、どういう文脈で、どういう目的でその言葉を語っているかによって、意味が全く違ってくることがあります。ここでの「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」という言葉も、奴隷制を正当化する言葉になりかねません。このテキストは、かつて南北アメリカ大陸で、アフリカから連れて来られた黒人たちを奴隷として所有していた人にとっては、そしてそれを肯定していた教会にとっては、都合のいいテキストではなかったかと思います。彼らはこの箇所を根拠に、「奴隷は主人のもとから逃げてはならない」ということを安易に主張したのではないでしょうか。
しかし神の使いがこの言葉を発したのは、もっと違った意味であったと思います。それは、その後の問答によく表れています。御使いは、こういうふうに続けました。「『わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす』」(16:10)。
「『今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから。彼は野生のろばのような人になる』」(16:11~12)。
「あなたは捨てられてはいない。神様はあなたと共にいる。あなたも祝福を受ける」と告げたのです。
ちなみにイスラームの伝統でも、アブラハムはイブラヒームと呼ばれ、敬われます。イシュマエル(イスマイール)も特別な存在です。ハガルはクルアーン(コーラン)には出てこないのですが、やはりイスラームの人々の信仰の母のように慕われているそうです。私は、そういうふうな形で、このときの神様の約束が実現していったのではないかと思うのです。
ハガルは御使いの言葉を聞き、「主の御名を呼んで、『あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です』」と、信仰の告白をし、「『神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか』」(16:13)と語りました。「神様を見た者は死ぬ」と考えられていましたので、「その後も死ななかった」ということでしょう。
ハガルは、御使いの言葉通りに女主人のもとに帰ってアブラムの子どもを産み、イシュマエルと名付けました。ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは86歳であったということです。
この物語は、聖書の神がアブラハムとサラ(サライ)の神であるだけではなくて、ハガルの神でもあるということを示しています。ハガルの神ということは、苦しめられ、迫害を受け、いわば祝福の外に置かれているように見える者の神ということです。
神様の約束は、アブラハム、イサク、ヤコブヘと受け継がれていきます。それが主流です。しかし神様はそこで、アブラハム、サラ、イサクに、排他的に関わっておられるのではありません。特に私たちクリスチャン(そしてユダヤ教の人々)は注意して聞かなければならないでしょう。私たちは、神様が教会を建て、それを通して神様の働きが進んでいくと信じています。確かに聖書はそう語ります。しかし、私たちがそれを自分の占有物のようにすることはできません。神様の働きは、私たちの思いを超えて、自由に働くのです。今日のハガルの物語は、そのことを私たちに告げているのではないでしょうか。イエス・キリストの恵みを受けている私たちは、そのことも聞かなければならないと思います。
今日の御言葉は、本来的には、「今置かれている自分の現実から逃げるな」ということを私たちに告げていると思います。
40年近く前ですが、東京神学大学に船水衛司という旧約聖書神学の先生がおられました。この方は、学者というよりは、教育者として、あるいは神学生に対する牧会者(牧師)として、優れた人であったようです。学生たちの父親のような存在であり、成績がいくら悪くても絶対に落とさないことで有名だったそうです。「どうせ牧師になれば苦労するのだから、早く卒業してそれから苦労すればいい」という持論をもっておられました。そういう先生でしたから、神学校の中にありながら、学生たちは冗談のようにして「仏の船水」(?)と呼んでいとのことです。
1986年の卒業式の日のことです。船水先生は、その一年前にすでに退職なさっていましたが、特別にスピーチをしてくださったそうです。いつもゆっくりと、ゆったりと噛んで含むような話し方をされるのですが、その日もそうであったといいます。次のようなスピーチでした。
「1986年 卒業生を送ることば 船水衛司
わたしの今の心境は、娘を嫁にやる父親のそれです。よろこびと、不安と、切なさとを綯(な)い交ぜになった気持ちです。
一つだけ、はなむけのことばを申しますと、「逃げるな」、ということです。牧会上、生活上、また自分自身の信仰の上で、行き詰ったと思う時、祈りのうちに、一歩前進することです。必ず、狭いけれども、いのちに至る道が拓かれています。
これは、足掛け70年のわたしの生涯における、実感です。なお、この点については創世記第16章における「ハガルの場合」について学習して下さい。
死ぬまで、わたしも皆さんのために祈っています。
2月26日 送別会にて」
この原稿(コピー)は大串眞という牧師が、記念に船水先生からいただいて持っていたのでした。大串牧師は高校を卒業して、すぐに東京神学大学に入学し、卒業クラスで一番若かった人でした。東京を離れたことがなかったのが、いきなり独身で四国の土佐、しかも高知市からも遠く離れた宿毛(すくも)伝道所に赴任いたしました。小さな伝道所の主任として孤独であったようです。随分とつらい経験もしたようです。逃げ出したくなることも何度かあったようです。その大串牧師は、「牧師をしていて、つらいことがある度に、この船水先生の言葉を読み返してがんばってきた」と記しています。大串牧師はこの地で約20年牧師を務めた後、現在は千葉県佐倉市のユーカリが丘教会で伝道牧会をされています。
この船水先生の「逃げるな」という言葉のニュアンスと、神が御使いを通してハガルに言われた「逃げるな」というニュアンスには、同じ響きがあります。それは、奴隷主が「奴隷は逃げてはいけない」というのとは全く違った響きです。
このとき、神様(天使)はハガルに向かって、「逃げるな。家に帰れ」と言って、突き放したわけではありません。ハガルと共に、ハガルの現実の中へと帰って行かれるのです。ハガルは現実の中で絶望し、現実からさまよい出て、荒れ野で神様と出会って、神様と共に自分の持ち場へと帰って行ったのです。
「逃げるな」と言われた神様は、逆説的にハガルにちゃんと逃げ道を用意していてくださった、と言えるのではないでしょうか。パウロはこう言いました。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)。
厳しい現実の中で、もう八方ふさがりで早くこの現実から逃げ出したいと私たちが思うときにも、神様はひとつの道を指し示してくださるのだと思います。それがどういう道であるか、一概には言えません。もしかすると、形の上では、そこから逃げる道であるかもしれません。
ブラジルでは16~19世紀に、逃亡した奴隷たちが、森の奥地でキロンボと呼ばれる共同体を形成し、自給自足の生活を送りました(今も多数残っています)。そういう形もあり得ると思います。自分の現実をしっかりと見据え、神様が共に歩んでくださるということを信じて歩め、と励まされているのです。
アブラハム物語は、これまで典型的な父権制の物語として読まれてきましたが、今、これをそうしたしがらみから解き放ち、女性のサラの視点、さらに女奴隷であったハガルの視点で読み直そうという試みが活発になってきています。
歴史の陰の部分に置かれてきたハガルが前面に出されることによって、「神はそのように苦しみを受け、迫害を受けてきた人々と共におられる」という福音が、よりはっきりと伝わるようになってきているのではないでしょうか。聖書を私たちの現実に合わせて読むのではありません。私たちの現実こそが、聖書の御言葉によって深く鋭く問われていくのです。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。今日も創世記の御言葉を通して、「逃げるな、わたしがあなたがたと共にいる」という力強い御言葉を聞くことができました。聖書を私たちは自分の都合のよいように安易に聞いてしまいますが、聖書の御言葉はそのような私たちを貫き砕くことによって、なくてはならない福音の言葉を響かせてくださいます。どうか、謙遜に一途に御言葉から聞く者とならせてください。この一週間もあなたに支えられ導かれて歩むことができますように。この拙き切なるお祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 創世記2章7~17節
説 教 「土のちりで形づくられた人間」 高橋加代子
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) ヨナ書4章4~12節
(新約) マルコによる福音書14章32~42節
説 教 「心燃える祈りを」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書14章27~31節 2025年9月7日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
私たちは信仰の歩みにおいて、つまずくということがあります。必ずあります。大きなつまずき、小さなつまずき、人それぞれいろいろあるでしょうが、「私はつまずいたことはない」と言い切れる信仰者は一人もいないでしょう。何につまずくのか。それも人それぞれでしょう。
つまずくというのはどういうことでしょう。そこにあるとは思ってもいなかった石につまずく。石があるのは分かっていたけれど、それを避けたつもりで避けきれずにつまずく。階段は終わったと思ったら、もう一段あってつまずく。足を上げたつもりだったのに、十分に上がっていなくて段差につまずく。つまずくというのは大体そういうことでしょう。
信仰においてつまずくというのも、そういうことです。こうなると思っていたのにそうならない。あるいは、思ってもいなかった出来事に遭ってしまう。例えば、キリスト者になれば、真面目にキリスト者として生活していれば、神様が良くしてくれると思う。ところが、とんでもないことが起こる。本当に神様は自分を愛してくれているのか、守ってくれているのか、分からなくなる。この場合、神様につまずいているわけです。これはなかなか深刻です。あるいは、人につまずくということもあるでしょう。あの人にこう言われた。あれでもクリスチャンか。クリスチャンなんて、牧師なんて、教会なんて、信じられない。そういうこともあるでしょう。これは人につまずいているわけです。これもなかなか深刻です。あるいは、自分はよい人だと思っていたけれど、自分の一言で人をひどく傷つけてしまったことに気づかされる。自分は何と愛の無い人間かと思わされる。イエス様を信じてもちっとも変わらない。これは自分につまずいたわけです。
このように、神様につまずく、人につまずく、自分につまずく、いろいろなつまずき方がある。しかし、共通しているのは、神様はこういう方だ。教会とは、牧師とは、キリスト者とはこういうものだ。あるいは、自分はこういう人間だ。そのような自分の考え、理解の仕方、思い込みと言ってもよいのかもしれませんが、それが崩れる、崩される。そこでつまずくということが起きるのだろうと思います。自分の思いが裏切られる、破られる、崩される。これはとても辛いことではあるのですが、私たちの信仰の歩みにおいては、必ず起きることなのです。
どうして、そのようなことになってしまうのでしょうか。私たちは誰だってつまずきたくない。信仰のつまずきなど知らずに、天の御国へと真っ直ぐ歩んでいきたい。そう思っています。にもかかわらず、必ずつまずきは起きる。どうしてでしょうか。
それは、この自分の思い、考え、見通し、そのようなものの根っこに、自分を頼る、自分を誇るということがあるからなのです。キリスト教の信仰は、ただ神様を頼るということですから、この自分を頼り自分を誇るという心は、打ち砕かれていかなければなりません。その打ち砕かれる時に避けられないのが、つまずきということなのではないでしょうか。打ち砕かれたくない私が抵抗する。正しいのは私だという所に立ち続けようとする。そこでつまずくのです。その意味では、つまずくということは、私たちの信仰の成長においてはどうしても必要なこと、とても大切なことなのだとも言えるのです。このつまずきの時にどうするのか。信仰を捨てるのか、祈るのをやめるのか、教会に来るのをやめるのか、聖書を読むのをやめるのか。それとも、そのつまずきの中でなお聖書を読み、祈り、礼拝に集い、奉仕を続けるのか。このどちらの歩みをするかで、私たちの信仰の成長は全く違ったものになるのです。つまずきの時こそ、特別な成長の時、気づきの時、恵みの時なのです。その時にこそ、私たちは自分が何者であり、主イエスはどういうお方なのか、福音とは何か、そのことがはっきり示されるからです。
今朝与えられた御言葉において、主イエスは弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われました。ちょうど、過越の食事を終え、ゲツセマネの園に向かわれる途中のことです。このゲツセマネの園で主イエスは祈られ、その祈りが終わると、ユダの裏切りによって捕らえられてしまいます。弟子たちと一緒にいるのはあと数時間。主イエスはもう、十字架への歩みを始めておられます。その緊迫した時の流れの中で、主イエスが弟子たちに言われた言葉です。少し前に過越の食事の席で、主イエスは弟子の一人がわたしを裏切ろうとしていると告げられたばかりです。そして今度は「あなたがたのうちの一人」ではなく、「あなたがたは皆」です。弟子たちはみな、わたしにつまずくと告げられたのです。例外はないのです。
そして、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と言われました。これはゼカリヤ書13章7節の引用ですけれど、主イエスがここで言おうとされたことははっきりしています。「羊飼い」は主イエスでしょう。「羊」は弟子たちのことです。とすれば、「わたし」とは父なる神様ということになります。つまり、神様が主イエスを打つ。十字架にお架けになる。すると、弟子たちは散ってしまう。主イエスを見捨てて逃げてしまう。そう告げられたのです。主イエスは御自身が十字架にお架かりになった後、何が起きるのか、正確にお語りになったのです。そして実際、その通りになりました。
これを聞いたペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と明言します。この時のペトロは本気でそう思っていたでしょう。口から出まかせに言ったのではないと思います。しかし、主イエスはそのペトロの言葉を受けて、30節「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と告げられました。とても具体的です。ペトロは自分の言葉が、主イエスに信用されていないと思ったのでしょう。ですから、さらに力を込めて主イエスに言います。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」そして、他の弟子たちもペトロと同じように言ったのです。
私たちはこの話の結末を知っています。ペトロは主イエスの予告通り、主イエスが大祭司のもとで裁かれている時、大祭司の中庭において、主イエスを「知らない」と、三度主イエスとの関係を否定したのです。そして、鶏が鳴きました。何もかも、主イエスがお語りになったとおりでした。
主イエスはどうしてこの時、弟子たちがみな散ってしまうこと、そして、鶏が二度鳴く前にペトロが三度自分を知らないと言うことを告げたのでしょうか。理由ははっきりしていると思います。ペトロが、そして弟子たちが自分につまずき自分を捨てて逃げてしまうことを主イエスは御存知でした。けれども、そのつまずきを彼らの信仰の気づきの時とするため、ペトロや弟子たちの信仰を、失わせないようにするためだったのです。
これほどはっきり予告されたので、ペトロは、この主イエスの言葉を忘れることはありませんでした。そして、主イエスを三度知らないと言ってしまった時、何もかもが主イエスの言われたとおりであったことを知ります。自分の弱さ、不甲斐なさを、主イエスは全て御存知であったと気づくのです。自分は知らなかった。しかし、主イエスは御存知であった。そのことを知るのです。
そして、主イエスはこの時十字架を語ると同時に、28節で「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と告げています。十字架の死の後、三日目に復活する。そして、ガリラヤに行く。ここで主イエスは「あなたがたより先に」と言われました。それは、文字通り弟子たちよりも早くガリラヤに行くという意味と、「先頭に立って」という意味とに読むことができます。
主イエスの十字架を見た弟子たちは、もうこれですべてが終わったと思ったでしょう。また、自分は主イエスを裏切ってしまったという自責の念を持ったことでしょう。弟子たちは主イエスの十字架につまずいたのです。しかも、自分は決して裏切らない、つまずかないと言っていたのに、あっさりと裏切ってしまった。そのような弟子たちに、復活された主イエスはその御姿を現されたのでした。そして、復活された主イエスは、彼らを再び弟子として召し出されたのです。復活された主イエスは、自分を見捨てて逃げ去った弟子たちに対して、恨み言一つ言われませんでした。それどころかこの弟子たちに、全世界に出て行って福音を宣べ伝えることをお命じになったのです。そして、御自身がその先頭に立って行かれると告げられたのです。
弟子たちが主イエスに伝えるように命じられた福音とは何でしょうか。主イエスを信じて、頑張って主イエスに従いましょう。そして救いに与りましょうということでしょうか。それは、十字架の前までペトロが持っていた信仰のあり方です。他の誰がつまずいても私はつまずかない。たとえ一緒に死ぬようなことになっても裏切らない。ペトロは本気でそう思っていました。そうすることが信仰者の道であり、主イエスの弟子たる者の姿だと思っていました。しかし、彼はそうできなかったのです。
主イエスはそのことを百も承知で、自分を弟子として召し出してくださっていた。しかも、そのような私を、再び弟子として召し出してくださった。この主イエスの赦しと召しこそが福音なのです。「主イエスの十字架は、主を三度知らないと言ったこの私のために、私に代わって、私の罪の裁きをお受けになるためであった」。そのことをペトロは知りました。ペトロも他の弟子たちも、自分の中に救いに値するものなど何も無いことを知らされました。自分は立派な信仰者ではないことを徹底的に知らされました。そして同時に、そのような自分がなお神様に赦され、愛され、召されている。救われている。そのことを知ったのです。
これが福音です。ペトロも他の弟子たちも、この時主イエスにつまずいたから、主イエスが与えてくださる救いが何であるか、福音とは何であるかということが分かったのです。信仰深いとか信仰熱心であるということは、よいことであるに違いありません。しかし、私たちの信仰深さや熱心などと言ったところで、そんなものは実に頼りないものでしかないのです。主イエスはそんなことはすべて承知の上で、私たちを召し出してくださったのです。そして、私たちに先立って進み行かれるのです。
弟子たちは、神様に対するイメージも、主イエスに対するイメージも、すべて十字架で砕かれたのです。自分は漁師という仕事も捨てて主イエスに従ってきた。主イエスを裏切ることなんて絶対に無い。そう思っていた自分に対するイメージまでも粉々に砕かれたのです。そして、福音を知ったのです。まことの神様と出会ったのです。復活の主イエスと出会ったのです。
自分に自信のある人は、信仰の歩みにおいてその自信を砕かれることを必ず経験します。牧師も同じことです。何度も何度も経験します。それは、何度砕かれてもこの自分への自信というものは、その度に頭をもたげてしまうからです。実に手強い、実にしつこいのです。それが私たちの罪というものなのです。神様を信頼するのではなくて、自分の能力、見通し、経験というものに頼る。何度砕かれても、この不信仰が頭をもたげてくるのです。神様はこの不信仰を、まことに深い愛をもって打ち砕いてくださるのです。そして、そこに起きるのがつまずきです。だから、私たちは必ずつまずくのです。何度でもつまずくのです。
しかし、つまずきの中で神様の愛と真実は私たちを離れているのではありません。そうではなく、その時にこそ、神様の愛と真実とは私たちに豊かに注がれているのです。傷つくことによってしか気づくことができない愚かな私たちのために、神様はつまずきをも与えてくださるのです。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を褒め称えます。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。神様、私たちは信仰生活においてつまずくことがあります。しかしそれは私たちを、あなたに真実に依り頼む者とするための、大切な成長の機会であることを示されました。つまずきを経験した時にこそ、私たちが祈り、聖書を読み、あなたの御心を問い続けることができますよう、弱い私たちを強め導いていてください。9月に入りましたが、まだ厳しい残暑の日々が続いています。どうか、兄弟姉妹の心身の健康を支え、この季節を乗り切ることができますよう、導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 創世記1章26~31節
説 教 「神にかたどって創造された人間」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 三宅恵子長老
聖 書(旧約) 創世記16章7~16節
(新約) コリントの信徒への手紙一10章13節
説 教 「逃れる道を備えられている」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書14章22~26節 2025年8月31日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
プロテスタント教会はある時代まで、毎月第一日曜日に聖餐を守るということをしておりませんでした。日本キリスト教会でも、クリスマス、イースター、そして、夏期総員礼拝、冬期総員礼拝と、年に四回だけ聖餐を守ったのです。この年に四回の聖餐をいうのは、宗教改革者カルヴァンの時代から、改革派教会の一つの伝統となっていました。歴代の牧師たちは、総員礼拝と呼ぶことによって、皆が聖餐に与ることを願ったのです。そして、何よりも聖餐を重んじる教会を建て上げていきたかったのではないかと思うのです。
その思いは私も同じです。私たちの教会は、今は毎月、第一日曜の礼拝には聖餐を守っています。もちろん、クリスマス、イースター、ペンテコステにも守ります。ですから、聖餐を守るのは一年に14、5回と、以前に比べて回数は増えました。しかし、回数が増えたから聖餐を以前よりも重んじるようになったとは、単純には言えないでしょう。自分は何としても聖餐に与る。その思いが、教会員の中にみなぎっていなければならないのだと思うのです。
私を育ててくれた小田朝美という牧師は、60年近く一つの教会で牧会された方ですが、神学校に行っておりました私に、「この教会も最近になって、やっと第一日曜の礼拝出席が他の週より多くなった。聖餐を重んじるという信仰が、少し身に付いてきたのではないかと思う。」そう言われたことがありました。この言葉を聞きながら、この牧師は何としても聖餐を重んじる教会を建てていきたい、そういう思いで牧会・伝道をしていたということが伝わってきました。牧師の思いは、皆同じなのです。私もそうです。私は、洗礼の準備会や転入の準備会で、いつもこう申します。「毎週、礼拝に集えない、そういう時がある。仕事や家庭の事情や体調など、いろんな時が来る。そういう時には、第一週の礼拝を守って下さい。何としても聖餐に与って下さい。ここにあなたの命がかかっているのですから。生涯、聖餐に与り続ける歩みをして下さい。この聖餐に、あなたの信仰を支え続ける力がある。自分が何者であり、どこに向かって歩む者であるのかを、私たちはこの聖餐のたびごとに新しく示されるのです。」
宗教改革者カルヴァンは、「この聖餐は、弱い私共の為に主イエスが制定して下さった」と申しました。この私たちの弱さとは、キリスト以外のものに目を奪われ、心を奪われてしまうという弱さです。キリストの恵み以上に、自分を生かすものがあるかのように、地上のものに目も心も奪われてしまう弱さです。その私たちの弱さを主イエスはよくご存知であったがゆえに、その私たちの信仰の歩みを励まし、支え、導くために、聖餐を制定して下さったと言うのです。その通りだと思います。信仰、信仰と言ったところで、やっぱり、大切なのはお金だ、健康だ、家族だ、そんな思いが私たちの中に浮かんできます。そのような私たちのために、目と心と耳とを、天の父なる神様と、主イエスとに向かわせ続けるために、主イエスは聖餐を制定して下さった。そして、二千年の教会の歴史は、その出発の時から、この聖餐に与り続ける歴史だったのです。教会とは何よりも、聖餐に与り続ける者たちの群なのです。
今朝与えられている御言葉は、主イエスが弟子たちと最後の晩餐を守られた時、弟子たちに語られた言葉が記されています。言うまでもなくこの場面は、後に教会が聖餐として守ることになったものを、主イエスが制定された所です。この主イエスと弟子たちの最後の晩餐の食事は、ユダヤ教において大切な食事として守られてきた、過越の食事でした。過越の食事、それは、イスラエルの民がエジプトを脱出し神の民として誕生したことを記念した食事でした。
イスラエルの民がエジプトの奴隷であった時、彼らはモーセによって率いられ、エジプトを脱出いたしました。その時、エジプトの王はなかなかイスラエルの民がエジプトを出て行くことを認めません。そこで、神様は次々とエジプトの国に災いを下し、エジプトの王様にイスラエルの民がエジプトを出て行くことを認めさせようとしたのです。ナイル川の水を血に変えたり、蛙を大量発生させたり、家畜に疫病をはやらせたり、いなごを大量発生させたり、色々するわけです。エジプトの王ファラオは、災いが下ると、モーセに「もうエジプトを出て行ってよい」と言うのですけれど、災いが収まると、言葉をひるがえして、出て行ってはいけないと言う。そんなことが何度も繰り返されて、ついに最後の災い、エジプト中の初子、その家で最初に生まれた子どもを、王様の家から牢屋につながれている人の家まで、すべてが神様に撃たれて殺されるということが起きたのです。しかし、イスラエルの人の家は全て守られました。神様の裁き、神様の災いが、イスラエルを過ぎ越して行った。そのことを記念して守られたのが過越の祭りであり、その時に食べたのが、過越の食事でした。この過ぎ越しの出来事によって、イスラエルの民はエジプトを脱出し、現在のパレスチナの地に移り住むようになりました。この旅の途中、シナイ山で神様とイスラエルの民は契約をいたしました。この契約が十戒なのです。
少し長々と、出エジプトの話をしました。それは、この主イエスが制定された聖餐が、過越の食事であったということを、どうしても覚えておいてほしいからなのです。過越の食事というのは、イスラエルの民にとって、あの出来事があったから今の自分がある、あの神様の救いの出来事こそ自分達の原点である、そのことを心に刻む食事だったということなのです。
あの過ぎ越しの出来事は、イスラエルの民にとって、決定的な民族誕生の出来事、神様の救いの出来事でありました。しかし、あの過ぎ越しの出来事は、実に主イエス・キリストによる救いの出来事の預言、主イエス・キリストによる救いの雛型だったのです。あの過ぎ越しの出来事によってイスラエルが誕生したように、主イエス・キリストの十字架の出来事によって、新しい神の民、キリスト教会は誕生しました。あの主イエス・キリストの十字架の出来事によって、神の裁きは、私たちの上を過ぎ越して行ったのです。あの主イエス・キリストの十字架によって、私たちは神様と契約を結んだのです。あの主イエス・キリストの十字架により、私たちは罪の奴隷から解放され、神の子とされたのです。イスラエルの民が、過越の食事をして、自分たちが神の民とされたことを心に刻んだように、私たちもまた、新しい過越の食事としての聖餐に与るたびごとに、あの主イエス・キリストの十字架の出来事のゆえに、自分が罪赦され、神の子とされ、神様と契約を結んだ者であることを心に刻むのです。
私は今、聖餐に与るたびに、自分のために主イエス・キリストがなして下さった十字架の出来事を心に刻むと申し上げました。これはまことに大切なことなのです。しかし、聖餐に与るということはそれだけではないのです。主イエスの過去を思い起こすというだけではないのです。聖餐は、過去だけではなくて、主イエスの現在と主イエスの未来を指し示します。現在の主イエスと私たちの交わり、将来の私たちと主イエスとの交わりをも、私たちに指し示しているのです。
主イエスはパンを取り、言われました。「取りなさい。これはわたしの体である。」そして杯を取り、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」私たちは、聖餐に与るたびに、主イエス・キリストの体と血とに与るのです。これはもちろん、このパンがキリストの肉に変わる、このブドウ液がキリストの血に変わるということを意味しているわけではありません。キリストは十字架にかかり、三日目によみがえり、天に昇られたのです。復活されたキリストは、今、天におられるのです。しかし、聖霊として、キリストはこの聖餐のパンとブドウ液に臨まれるのです。そして、主イエスは「私の体を、私の血を、あなたに与える。」そう告げられているのです。私たちは、この聖餐に与るたびに、キリストの命そのものに与るのです。私の体、私の血とは、私の命ということでしょう。あの十字架にかかり、三日目によみがえられたキリストの命、復活の命、とこしえからとこしえまで生き給うキリストの永遠の命、この命に私たちは与るのです。キリストの命が私たちの中に入り、私たちと一つになる。私たちの肉体はおとろえます。しかし、キリストの命と一つにされた私たちの命がおとろえ、滅びることはありません。私たちはなお罪を犯すことがあるでしょう。しかし、最早、その罪に支配されることはありません。私たちを支配するのは罪ではなく、私たちの命と一つになって下さった、キリストご自身なのです。私たちが神様を愛し、罪を憎み、争いをしりぞけ、平和を求める者とされている。愛に生きようとする者とされている。これは、私たちの中にキリストが宿り、私たちの命がキリストの命と一つにされている確かな「しるし」なのです。
さらに、聖餐は私たちに与えられている将来を私たちに示します。主イエスが再び地上に来られる時、私たちは復活し、永遠の命に与り、代々の聖徒と共に、神の食卓につくのです。父なる神と、主イエス・キリストと共に与る、喜びの食卓です。私たちは、その日に向かって、この地上の生涯を歩んでいるのです。私たちの地上の生涯は、何となく過ぎていく日々の連続というようなものではないのです。行き先があるのです。やがて死を迎えようとも、その先があるのです。キリストと一つの食卓を囲む神の国の祝宴であります。
実にこの聖餐には、天地創造から終末に至る、神様の救いの御業の全て、神様の救いの全歴史が流れ込み、私たちに注がれるのです。神様の救いの御業の、過去・現在・未来の全てが、ここにあるのです。今、この聖餐の恵みの全てを語り尽くすことはできません。聖餐に与り続ける中で、聖餐の恵みの中に生きる幸いを味わっていっていただきたいと思います。
私たちの教会は、体調を崩し、礼拝に集うことができなくなった方々のために、訪問聖餐を行います。クリスマスやイースターの近くに行うことが多いのですが、その時にしか行わないということではないのです。このことはよく覚えておいていただきたいのです。誰かが聖餐に与りたいと申し出られたなら、教会はいつでも聖餐を行う用意があるのです。牧師を煩わせてはいけないなどと、遠慮しないでください。高齢になり、体調を崩し、礼拝に集うことができなくなっても、一人一人がキリストの体であるこの教会を形作っているのです。キリストの体である教会を形作っている者とは、キリストの体である聖餐に与る者であるということなのです。それは、高齢になり、体調を崩されても、少しも変わることはないのです。私たちはキリストの体を形作っている者として、これからも共々に、この聖餐の恵みに与っていきたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を讃美し御栄を褒め称えます。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。今日はイエス・キリストが制定くださった聖餐式の箇所を学びました。この聖餐式の中にあなたの恵みのすべてが凝縮されていることを、あらためて知らされました。どうか、生涯にわたって聖餐式にあずかっていく中で、恵みの一つ一つを味わい知ることができますよう、私たちを導いていてください。9月を迎えようとしていますのに、まだ日中は猛暑日が続きます。夏の疲れも蓄積しています。どうか、兄弟姉妹の心身の健康を支え、熱中症の危険などからお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。