日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ヨハネによる福音書19章28~30節
説 教 「主イエスの死」 渡辺望
主日礼拝
午前10時30分 レントⅤ 司式 藤田浩喜牧師
聖 書
(旧約) イザヤ書5章1~7節 (聖餐式を執行します)
(新約) マルコによる福音書12章1~12節
説 教 「神の悲しみ」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ヨハネによる福音書19章28~30節
説 教 「主イエスの死」 渡辺望
午前10時30分 レントⅤ 司式 藤田浩喜牧師
聖 書
(旧約) イザヤ書5章1~7節 (聖餐式を執行します)
(新約) マルコによる福音書12章1~12節
説 教 「神の悲しみ」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書11章20~26節 2025年3月23日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝私たちは、父・子・聖霊なる神様を拝むためにここに集まってまいりました。その私たちに、神様は聖書を通して一つの出来事と二つの祈りについての教えを告げられます。一つの出来事とは、実がなっていないいちじくの木が枯れてしまったという出来事です。そして、二つの祈りについての教えとは、祈り求めるものはすべて既に得られたと信じて祈れということと、赦しの心をもって祈れということです。この一つの出来事と二つの教えは、一つにつながっています。バラバラなことではないのです。
主イエスはエルサレム入城をされた次の日、月曜日ですが、再びエルサレムに向かわれました。その道すがら、葉の茂ったいちじくの木を見て、実が付いていないかと近寄られたのですが、実は付いておりませんでした。すると、主イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」(14節)と言われました。そして、さらに次の日、火曜日ですが、主イエスたちが再びエルサレムに入ろうとすると、その途中で、昨日のいちじくの木が枯れているのを見たというのです。この出来事は何を意味しているのでしょうか。
ここで起きたことを深く考えることなく読みますと、主イエスは空腹になった。そこでいちじくの木があったので、その実を食べたいと思って木に近寄った。けれど、実が付いていないので腹を立てて、いちじくの木を呪った。すると次の日、そのいちじくの木は枯れていたということになります。この時、いちじくは実をつける季節ではなかったのですから、実が付いていないのは当たり前なのです。それなのに、主イエスは実が付いていないと言って腹を立てて、その木を枯らせてしまわれた。主イエスは何とわがままな方か、ということになりかねません。そんなふうに受け止めますと、この出来事を完全に読み間違うことになると思います。主イエスの十字架は、もうすぐそこまで来ているのです。三日後の金曜日には、十字架にお架かりになって死なれるのです。三日後に自分は死ぬということを受け止め、それを見据えながら時を過ごされている主イエスです。主イエスは大変緊迫した時を過ごしていたはずです。そういう中での出来事なのです。主イエスは弟子たちに、残り少なくなったこの地上での日々の中で、どうしても伝えておかなければならないことがあった。主イエスには、この出来事を通してどうしても弟子たちに教えたいことがあったのです。
では、この出来事によって主イエスが弟子たちに何としても伝えようとされたこととは一体何だったのでしょうか。それは、「求められた時に実を付けていなければ滅びる」ということです。神様の裁きがあるということです。いちじくというのは、ぶどうと並んで、ユダヤにおいては最も一般的な果物でした。そして、旧約において、いちじくはぶどうと同じように、神の民イスラエルを指すたとえによく用いられておりました。そして、神様の御心に適わない歩みをしているイスラエルの民は、酸っぱいぶどうの実を付けるぶどうの木、あるいは実を付けていないいちじくの木にたとえられてきたのです。主イエスが求めた時に実を付けていないいちじく、すなわち神様の御心に適った歩みをしていない者は、神様の裁きを受け、滅んでしまう。そのことを、この出来事をもってお示しになったということなのです。
では、その実とは何なのでしょう。主イエスが私たちに求めておられる実とは何なのでしょう。それは信仰です。神様の愛、神様の憐れみを信頼することです。この主イエスが求められる実は、私たちがよい人になって、よい行いを積み上げるというようなことではないのです。そうではなくて、ただ信仰なのです。神様が事を起こし、道を拓いてくださるということを信頼することです。ですから主イエスは、ペトロが「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」と告げますと、すぐに「神を信じなさい」と言われたのです。つまり、「神を信じなさい。そうすれば、この枯れたいちじくのようにはならない。葉が青々と茂ったいちじくでさえ、一晩で枯れさせてしまう神様の力、神様の御業を信頼しなさい。」そう言われたのです。
ここで主イエスが言われた「神を信じなさい」という言葉は、直訳しますと、「神様の信仰を持て」となります。直訳してもよく分からない言葉になってしまいますので、「神を信じなさい」と訳されているのですが、言われているのは「神様の信仰」なのです。「神様の信仰」という言い方が変ならば、「神様の真実」と言ってもよいでしょう。神様が私たちを造り、導いて、救ってくださろうとしているその御心。そして、実際にそのことをなしてくださる神様の御業。その神様の真実を信頼せよということなのです。ここで、主イエスははっきりと御自身の十字架を見ておられるわけです。神様は、主イエスを十字架に架けることによって、私たちの一切の罪を赦し、神との交わり、永遠の命へと招いてくださるのです。その神様の救いの御心、救いの御業に目を向けよということなのです。
そして、その神様の真実を信頼するということは、祈りに表れてくるのです。そのような神様の真実を信頼する中で生まれてくる祈りとは、第一に「既に得られたと信じて祈る」というものだと言われるのです。23~24節で主イエスは言われました。「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」山に向かって「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、山に足が生えてきて、海まで歩いて行って飛び込むなどということはありません。山というのは動かないものの代表です。「動かざること山の如し」と言われるように、山は動かないのです。しかし神様は、このどうしても動かないと思える山さえも動かしてくださるということなのです。そのことを信じて祈るということです。これが私たちに求められている信仰であり、祈りなのです。
私たちは、人生を歩んでいく中で八方塞がりのように思い、どうしたらよいのか分からずに思い悩んでしまう時があります。私はいつも言っていることですが、八方が塞がれても、いつも一方は開いている。それは天です。八方が塞がっても、天は開いている。その天に向かって、神様に向かって祈るのです。神様がこの八方塞がりの状況を、思いもしないあり方で打開してくださる。そのことを信じて祈るのです。
神様は、私たちの見通しや計画の外におられます。出エジプトの出来事を思い起こしましょう。当時、世界最強・最大の国だったエジプトにおいて、イスラエルは奴隷でした。神様はそのエジプトから奴隷であったイスラエルの民を脱出させたのです。エジプトを脱出したイスラエルの民の前には海があり、エジプト軍が追ってきました。絶体絶命のこの時、神様は海の中に道を拓いてイスラエルを助けてくださったのです。そして40年の荒野の旅がありました。食べ物がないのです。神様は天からのマナをもってイスラエルを養い続けられたのです。水がなくなれば、岩から水を湧き出させてくださいました。どれ一つとっても、こんなことがあるはずがない、こんなこと起こりっこない、そういう出来事をもって神様はイスラエルを助け、救い、導いてくださったのです。
そして、その神様の御心と御業は、主イエスの十字架と復活において完全に成し遂げられたのです。救われるはずのない罪人である私たちのために、神の独り子が十字架にお架かりになって、私たちの裁きの身代わりとなってくださった。こんなことを誰が考え付いたでしょう。誰も思っていなかったことです。そして、このことによって私たちは、天と地を造られた神様に向かって、「父よ」と呼び奉ることを許されたのです。神様は、私たちのために愛する独り子さえ惜しまないお方なのですから、私たちの救いのためには何でもしてくださるのです。私たちはそれを信じてよいのです。いや、主イエスはそのことを信じなさいと、私たちを招いてくださっているのです。
主イエスは、「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」と言われました。それは、私たちが信じて祈れば、その祈りの力によって事を起こすことができるという意味ではありません。そうではなくて、神様と私たちが、愛によって結ばれている。それゆえに、神様の救いの御心と私たちの心が一つにされ、私たちは神様の救いの御業が現れることを、第一に願う者とされる。そこでは、神様の御心と私たちの心が一つにされる。そうであるならば、祈り求めるものは既に神様の御手の中で与えると決めておられるものなのですから、必ずそうなるのです。つまり、既に得たりと信じて祈ることができるということなのです。神様の愛を私たちが心で受け止め、神様の心と一つとされるように、主イエスは私たちを招いてくださっているのです。それが、得たりと信じて祈るようにと、私たちを招いてくださっているという意味なのです。
さて、主イエスは続けて、祈りについてもう一つのことを教えてくださいました。25節「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」ここで主イエスが教えてくださったのは、私たちが祈る時、赦しの心をもって祈るということです。神様の愛が、私だけに向けられているのではなく、この人あの人にも同じように向けられていることを心で受け止めること。赦しの祈りはそこから派生してくるのです。
私たちの人生において最も大きな問題は、この赦しでしょう。私たちが辛く苦しい思いをするのは、愛の交わりが破れるからです。もちろん、病気や経済的問題が、小さな問題であるとは言いません。しかし、私たちが愛の交わりの中に身を置くことができるならば、それらは私たちから生きる力と希望とを奪うような、決定的な問題とはならないでしょう。けれども、愛が破れるならば、私たちは生きる力を、気力を失ってしまいます。この愛の交わりの破れこそ、私たちの人生の中で山のように動かずに、私たちを苦しめる原因なのではないでしょうか。主イエスは、「その山が動くのだ。神様が事を起こしてくださるのだ。」そう励まし、促してくださっているのです。
私たちが祈る時、「父なる神様」と神様に呼びかけて祈ります。この呼びかけが成立するのは、私たちのために主イエスが十字架に架かってくださったからです。この「父なる神様」の一言が私たちの唇から出る時、私たちはすでに主イエスの十字架の救いの中に、罪の赦しの中に身を置いているのです。この主イエスによる罪の赦しの恵みに与ることなく祈ることは、私たちにはできません。けれども、この主イエスの十字架による赦しに与る者は、赦す者として生きるのです。
この赦しこそ、私たちがそして世界が、いつの時代でも最も必要としているものなのです。赦せない、恨みと憎しみが支配する中で、私たちは決して幸いになることはできません。私たちの祈りは、自分の幸いを願うところから一歩出て、あの人この人との和解へと導くものなのです。それは、主イエスが平和の主だからであり、赦しを与えるために来られた方だからであり、その方によって私たちが救われたからです。この祈りは、主の祈りの中で、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え」という祈りとして与えられているのです。
私たちが「父よ」と祈る時、主イエス御自身が私たちと一つになって、神様の前に立ってくださるのです。ここに私たちの祈りがあるのです。この祈りを与えられ、この祈りへと招かれていることを、心より感謝したいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と対面とオンラインで礼拝を守ることができましたことを心から感謝いたします。神さま、御子イエスは十字架を目前にして、一つの出来事を示され、二つの祈りを教えてくださいました。いちじくが枯れた出来事は、わたしたちにあなたの真実に全存在をもって依り頼むことを教えてくれます。
人間の罪の赦しのために御子をさえ惜しまずに与えられた、神さまの愛と真実に依り頼む時に、わたしたちは「既に得たり」という祈りと「赦す祈り」を捧げることができます。どうか、いつもそのことを覚え、心に刻ませてください。群れの中で病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、今試練の中にある兄弟姉妹を顧み、あなたの支えと励ましを与えてください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ヨハネによる福音書19章25~27節
説 教 「母を弟子に託す」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 レントⅣ 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) 申命記8章11~20節
(新約) マルコによる福音書11章27~33節
説 教 「人を生かす権威」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書11章12~19節 2025年3月16日(日)伝道礼拝説教
牧師 藤田浩喜
レント(受難節)第二の主の日を迎えています。今朝与えられております御言葉は、マルコによる福音書によれば、受難週の二日目、月曜日の出来事です。主イエスと弟子たちはエルサレムに入ると、エルサレム神殿に行きました。
主イエスが神殿の境内に入ると、そこでは両替人や鳩を売る者たちが商売をしていました。多分、そこは異邦人の庭と呼ばれる、異邦人もここまでは入れる広場だったのではないかと思います。私たちは、神殿の境内と言えば、静かな聖なる畏れに満ちた所というイメージを持つと思いますけれど、主イエスが足を踏み入れたエルサレム神殿の境内は、とてもそのような場所ではなかったようです。多くの人でごった返し、鳩が売られ、両替がなされている。しかもこの時は過越の祭りの直前ですから、祭りに来る人たちで、いつもより多くの人が集まっていたと思います。ここで鳩を売っているというのも、10羽や20羽売っているというのではありません。何百、何千という鳩が売られていたと思います。全部生きている鳩です。この鳩の鳴き声だけでも、相当騒がしかったことでしょう。
ここで、どうして神殿の境内で両替したり鳩が売られたりしていたのか、そのことを説明しますと、こういうことだったのです。まず、両替ですが、巡礼者たちには神殿税とも呼ばれる、毎年すべてのユダヤ人が神殿に納めなければならないものがありました。ユダヤ人たちは巡礼でエルサレム神殿に来た時、必ずこれを納めるのです。問題は、納めるお金、貨幣です。当時使われておりました貨幣は、当然ローマ帝国の貨幣です。その金貨や銀貨にはローマ皇帝の顔がレリーフとなっていました。このローマの貨幣は、エルサレム神殿では使えないのです。エルサレム神殿で使われる貨幣は、ユダヤの国が独立していた時の、自分たちで貨幣を造ることが出来た時代の、昔のユダヤの貨幣でなくてはなりませんでした。でも、そんなものはもう流通していないのですから、巡礼に来た人たちが持っているはずもありません。ですから、この両替人の所に行って、エルサレム神殿用の昔のお金に替えてもらう必要があったということなのです。
また、鳩を売る者ということですが、人々はエルサレム神殿に礼拝しに来るわけです。私たちは、この身体を教会に運んでくれば礼拝ができると思っています。しかし、当時のエルサレム神殿における礼拝は、そうではなかったのです。犠牲をささげる。それが、エルサレム神殿における礼拝のささげ方だったのです。羊とか牛をささげるということもありましたが、貧しい人々はそれができません。そのような場合は、鳩でもよいとされておりました。ですから、巡礼者の圧倒的多数の人々は、犠牲としてささげる鳩をここで買って中に入っていく。そういうことになっていたのです。人々は遠くから、人によっては何週間もかけてエルサレム神殿に来るわけです。とても犠牲としてささげる動物と一緒に旅することはできなかったでしょう。しかも、神様にささげる生き物は健康で傷の無いものでなければなりませんでした。生き物を傷付けないように連れて来るのは大変です。しかしここで買えば、これは傷の無い、神様に犠牲としてささげるのに適している証明書付きのようなものです。神殿が保証しているわけです。当然、神殿の外で買うより割高になります。
巡礼に来る人たちの多くが、この両替人や鳩を売る者たちの世話になったわけです。そして、この両替人や鳩を売る者たちからは、神殿に対するお礼といった名目で、莫大なお金が祭司たちに入る仕組みになっていたわけです。言うなれば、神殿ビジネスと言ってもよいようなことが、公然と行われていたのです。
皆さんはこのような話を聞いてどう思われるでしょうか。両替人や鳩を売る人々は巡礼者のためのサービスとしてやっているわけで、特に問題は無いのではと思われるでしょうか。それとも、神殿の中で商売をするというのはやっぱり変だと思われるでしょうか。
主イエスはこの時、大変なことをなされました。15~16節「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」と記されています。主イエスは随分乱暴なことをされました。両替人や鳩を売る人々にしてみれば、いきなり商売道具を滅茶苦茶にされたわけです。営業妨害も甚だしい。今なら当然警察を呼ぶというような事態でしょう。
どうして主イエスはこんなことをされたのでしょうか。子どもにも、病人にも、貧しい人にも憐れみ深く、優しいイエス様の姿とイメージが重ならないと思われる方もおられるでしょう。この出来事は、宮清めと呼ばれてきました。この出来事は、主イエスがエルサレム神殿を清められた、神殿に相応しく清められたのだと理解されてきたのです。では、主イエスは何から清めようとされたのでしょうか。この宮清めの出来事の意味は何だったのでしょうか。
私は、二つの意味があったと思います。一つは、この商売が異邦人の庭と呼ばれる所でなされていたということです。異邦人は神殿の一番外の所までしか入れませんでした。しかもそこでは今見てきたような商売がなされておりまして、とても神様を礼拝し、祈りをささげることができる状態ではなかった。主イエスは、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と言われたのです。これはイザヤ書56章7節の引用です。このイザヤ書56章は、異邦人も宦官も、つまり当時救われないと考えられていた人々ですが、これらの人々も主に仕え、主を愛し、主の僕となって契約を守るならば、その者たちのささげる犠牲を神様は受け入れる、つまり神様の救いに与る、そう預言されているところです。神様が「わたしの家」と呼ばれるのは神殿のことです。ところが、その神殿において何がなされているか。異邦人は、神殿の境内に入れると言っても一番外の所まで。しかもそこは、多くの巡礼者でごった返し、とても礼拝し祈りをささげることができるような状態ではない。これが神様の御心に適うと思うか。主イエスはそうお語りになったのでしょう。
当時、人々は異邦人は救われないと考えていましたので、神殿の境内に入れるだけでもありがたく思え、そんな感じだったのではないでしょうか。ですから、そこで商売がなされても、それは巡礼者へのサービスなのだからよいことだと考えていたと思います。ここには、異邦人もまた神様に造られたものとして神様の愛の御手の中にあるという思いが欠落していました。主イエスはそれを、「違う」と言われたのです。神殿はユダヤ人も異邦人も含めて、「すべての国の人の祈りの家」でなければならないからです。
さて、もう一つの点です。それは、この宮清めの出来事が、どのような構造の中で記されているかということから考えなければなりません。マルコによる福音書は、この15~19節の宮清めの記事を、実のないいちじくが枯れる、枯らされるという二つの記事の間に挟み込むようにして記しております。このようなサンドイッチのような構造は、外側のパンと内側の具が同じ事を告げている、同じメッセージを持っていることを示すために用いられる書き方なのです。
この枯れたいちじくの木の出来事は、主イエスが求める時に実を付けていなければ滅びる、そのことを出来事として示されたわけです。ということは、この宮清めの出来事もまた、実を結ばない礼拝、何もない罪人として神様の憐れみだけを求めて、ただそれを信頼してささげるのではない礼拝、まことに神様を信頼して互いに赦し合う祈りをしていない神殿は、枯れたいちじくと同じように滅びる。根元から枯れる。そのことを、主イエスはこの荒々しい行動をもってお示しになったということなのです。旧約以来、預言者たちは人々の印象に残る行動、行為を行い、それと共に預言して、その預言を人々の心に刻ませるという伝統がありました。これを行動預言とか象徴預言と言ったりします。代表的なのは、エレミヤ書19章にあります、エレミヤが陶器の壺を人々の見ている前で砕き、エルサレムもこのようになると預言した所です。
主イエスはこの宮清めという、一見突飛な荒々しい行動をもって、人々の心に残る行動をなさり、エルサレム神殿に下される神様の裁きを預言されたということではないかと思うのです。そして実際、エルサレム神殿はこの主イエスの預言の後40年ほどして、紀元後70年にローマ軍によって瓦礫の山と化すのです。
ところで、主イエスはこの時、「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と言われました。しかし、問題はこの時主イエスが、どこに御自分の身を置いておられたのかということなのです。主イエスは、御自分をこのエルサレム神殿の滅び、神様の裁きと無関係な所に身を置いて、このことを告げられたのでしょうか。私は、そうではないと思います。
先ほどこの主イエスの行動が、旧約の預言者の行動預言の伝統にあると申しました。旧約の預言者たちは、エルサレムの滅びを告げる時、自分の身を安全な所に置いて、「エルサレムは滅びる。けれども自分は大丈夫。だが、お前たちは滅びる。」そのような思いの中で、神様の裁きを語るというようなことは決してないのです。そうではなくて、神様に遣わされた預言者たちは、神様の裁きを受ける神の民と同じ所に身を置いて、神の民と苦しみ、嘆きを共にして、悔い改めを求めたのです。愛する同胞の上に下される神様の裁きを、痛みと嘆きをもって告げたのです。自らもエルサレムにとどまり、その同じ苦しみを我が身に負い、神様の裁きの預言を語ったのです。
主イエスもこの時、そうだった。主イエスは、このエルサレム神殿を強盗の巣にしてしまった人々の上に下される神の裁きを自らお引き受けになる、十字架につく、そのことをしっかり見据えて、この裁きの預言をお語りになったのです。主イエスは、この週の内に十字架にお架かりになるのです。主イエスは、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべき神殿を強盗の巣にしてしまった、その人々の罪をも一身にお引き受けになり、十字架にお架かりになるのです。それは、まことの神殿、ユダヤ人も異邦人もなく、神様を愛しその契約の中に生きようとするすべての人が、父なる神様との親しい交わりの中に生きることができる神殿を造られるためでありました。すべての民が神の子とされ、神様に向かって祈りをささげることができるようにされるためでありました。そして事実、主イエスは十字架に架かり、三日目に復活され、天に昇られ、そこから聖霊を注いで、まことの神殿としての教会、神様との親しい交わりが与えられる所としての教会、すべての国の人々の祈りの家である教会を建ててくださったのです。私たちはその恵みに与り、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきこの教会に集い、このように主の日の礼拝を守ることが許されているのです。主イエスの十字架の故に、許されているのです。
私たちは、この教会を強盗の巣にしてはなりません。すべての人に与えられている救いの恵みを自分たちだけのものにするならば、他の人の救いの恵みを奪い取る強盗になってしまいます。私たちが強盗にならないためには、神様の救いの恵みが一人でも多くの人に伝えられ、これに与る者が増し加えられるように、祈りと奉仕をささげ、この主イエスの十字架の御業にお仕えするのです。それが、まことの祈りの家に集う私たちに求められている、まことの礼拝なのです。そのことを心に刻んで、新しい一週間を過ごしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、レントの第2主日を守ることができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と言われました。私たちの教会が、そのような開かれた祈りの家となるために、主イエスは十字架に御自身を捧げられました。そのことを深く心に刻みつつ、レントの日々を過ごさせてください。まだ寒暖差のある日々が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。今、私たちの世界はとても不安定な状態の中にあります。どうかこの世界が敵意と争いの方向ではなく、和解と平和の方向に導かれていきますよう、あなたの御手を伸べていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ヨハネによる福音書18章1~11節
説 教 「主イエスの逮捕」 山﨑和子長老
午前10時30分 レントⅢ 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約) 詩編42編2~12節
(新約) マルコによる福音書11章20~25節
説 教 「少しも疑わずに」 藤田浩喜牧師
讃 美 歌 127 32 298 458 27 奏楽 吉田栄子
創世記13章1~18節 2025年3月9日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
アブラムは飢饉から逃れるために、エジプトに一時滞在するのですが、そのとき、アブラムは自分の命を守るために、妻サライに妹だと嘘をつかせて、エジプトの王に嫁がせてしまうような、弱い、ふがいない人間でした。危機一髪のところで、神様がここに介入して、サライを嫁がせることをストップします。エジプトに疫病が広がって、その原因がアブラムとサライにあることに気づいたエジプトの王ファラオは、この二人をエジプトから去らせます。
ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。
「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、
言わなかったのか。なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。(12:18~20)
彼らはファラオからもらったものを全部持って出ました(12:16参照)。ファラオのほうも、彼らに与えたものを取り上げませんでした。そのことが今日の13章の前提になっています。
アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。(13:1~2)
彼らがエジプトに行ったときは、食べるものさえなかったのですが、今や家畜も金銀もある大金持ちになっていました。やがて、この財産が一族の争いの種となっていきます。恐らく、アブラムはエジプトを出るときには、そのことに気付いていなかったのではないかと思います。
しかし、その問題に直面する前にアブラムの取った行動は、12章後半のアブラムの行動と違って、非常に信仰的です。彼はネゲブまで戻った後、さらにベテルとアイのほうに向かいました。ここはアブラムが最初に祭壇を築いた所でした。この旅は、彼が大きな回り道をして、また元の所へ帰って行く旅でありました。彼は、この旅の途上、自分の犯した過ちを恥ずかしく思い、悔い改めへと導かれたのではないでしょうか。しかもアブラムは、愛と恵みの中で悔い改めをしました。罰の中ではありません。普通に考えれば、私たちが悪いことをしたときには、それ相応の罰を受けて後悔し、「もう二度とこんなことはいたしません」と悔い改めをする、ということになろうかと思います。
ところが、聖書ではそうでない場合のほうが多いのです。私たちは、神様の愛と恵みの中で、自分がそれにふさわしくない人間であるということがわかり、自分の罪もわかるのです。
ルカによる福音書5章にこういう話があります。シモン・ペトロとその仲間たちが一晩中漁をしたけれども何もとれなかった。そこヘイエス・キリストがやってきて、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。本当は信じていないのです。ところが網を降ろすと、どうでしょう。ものすごい大漁になり、舟が沈みそうになりました。そのとき、ペトロはこう言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」(ルカ5:8)
ペトロは、舟が沈みそうになるほどの大漁を経験して、罪の告白をしました。なぜそう導かれたのか、よくわかりません。ただ私たちが罪の告白に導かれるときというのは、こういう場合が多いのではないでしょうか。「お前は悪い奴だ」と言われるときには、かえって反発しますが、圧倒的な主の恵みと愛に触れるとき、それにふさわしくない自分に気付き、自分の罪を知るのです。
アブラムはベテルとアイの間の最初に祭壇を築いた所まで戻ってきました。アブラムが実際に道を踏み外したのはネゲブでしたが、このとき、すでにアブラムの心は神様のほうを向いていませんでした。問題はネゲブ以前に、すでに始まっていたのです。ですから、彼は最初に祭壇を築いた所からやり直しました。「初心に帰る」ということです。
ちょうど私たちが、洗礼を受けたときのことを思い起こして、自分の信仰を最初からやり直そうと思うのに似ているかもしれません。私たちが日曜日ごとに礼拝をするというのも、それに通じるでしょう。一週間、神様のことを忘れて生活し、行動してきたかもしれませんが、ここで礼拝するために呼び集められました。主の名を呼ぶことで一週間を始められることの恵みを味わい、アブラムが初心に立ち返ったような思いで、私たちも礼拝したいと思います。
さて、ここで一つの事件が起こります。それは土地所有をめぐる争いでした。
その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。(13:6~7)
財産が多すぎたことで争いが起きる。財産がなければ起こらなかった問題です。財産をめぐって兄弟が絶交状態になってしまう、本家と分家が分裂する、というような話は、しばしば聞くことです。財産というのは、人間をさらにさらに貪欲にしていく恐ろしい面をもっていると思います。
しかし、このときアブラムは、そういう貪欲からは自由であり、非常に適切な、寛大な判断をしています。
アブラムはロトに言った。
「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」(13:8~9)
12章後半において、計算高く、自分の利益を図ろうとした姿とは大違いです。ここでは神様への深い信頼から、アブラムは心安らかに、ロトに向かって、「先に好きなほうを選びなさい」と言うのです。
このとき、すべてのことを決定する権利をもっていたのは、年長者であり、伯父であるアブラムです。もしもアブラムがロトに向かって、「私は右へ行くから、あなたは左へ行きなさい」と言っていたとしても、ロトはそれに従ったであろうと思います。しかしアブラムは、自分がもっている決定権を、「ロトに先に選ばせてやる」というふうに用いたのです。これは彼にとって大きな決断であったと思います。条件が全く同じであれば、先に選ばせて「残りものに福がある」というようなこともあり得ます。しかし、条件は全く違うように見える。ロトが選ぶことになる「ヨルダン川流域の低地一帯」のほうがはるかによく見えるのです。
ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。(13:10)
ロトは、やはりこちらを選びます。アブラムは、後になって、そのことでロトのことを悪く言ったりはしません。日本では、相手に対して一歩下がるのが礼儀とされていますので、本当は先に選びたいと思っても、一応「お先にどうぞ」と言います。相手がそれを真に受けて、「そうですか」と言って、先にとってしまうと、「なんという礼儀知らず」ということになってしまいます。
しかしここでのアブラムは、そういうことではありません。ロトに先に選ばせるという決断をしているのです。だから、ロトの行動がどうか、ということよりも、アブラムの決断を立派と言うべきでありましょう。そしてこのときのアブラムは、「いかなるときも、主は自分を見捨てないで、自分と共にいてくださる」という信仰をもっていました。ですから、ロトに先に選ばせてやりながら、「神様はきっと自分にふさわしいほうを与えてくださる」と信じたのだと思います。「あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(12:2)と言われた神を信頼して、こう決断したのでした。恐らくアブラムには、「悪く見えるほうが残るであろう」という覚悟ができていたのだと思います。
私の恩師がかつてこう言われたことがあります。「人生の重要な岐路において、どちらに進むべきか迷うことがある。どうしても決断がつかないとき、困難に見えるほうが主の示される道であることが多い」。
この言葉を、そのまま物差しのようにして考えることはできないでしょう。あまりにも非現実的なことをやろうとして、深く考えないで、「困難なほうを選ぶ」などというのは間違っていると思います。ただそういうレベルではなく、もっと深いレベルで、私たちが本当に決断に迷うことがある。人生の大事な転機です。教会の歩みにおいてもそういうときがあるでしょう。そこで、どうして迷っているのかということをよく考えてみれば、自分には進みたいほうと、進みたくないほうがあって、しかも進みたくないほうが恐らく主の示される道だと感じているからではないでしょうか。
イエス・キリストが十字架におかかりになるとき、ゲッセマネの園において、徹夜で祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)。しかし最後には、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と決断して、十字架への道を歩んでいかれました。
このときのアブラムの決断とイエス・キリストの決断とを比べることはできませんが、アブラムの人生にとって、非常に大きなときであったことと思います。そして彼は自分の人生を導いてくれる主を信頼して、決断をしました。それは信仰と愛に満ちた決断であったと思います。彼は、このとき、財産や土地に対する貪欲というものから解放されています。これは恵みのしるしです。
アブラムが立ち返って礼拝することができたことを第一の恵みのしるしであったとすれば、ここで彼が財産から自由になったということは第二の恵みのしるしだと思います。第一の賜物が信仰であるとすれば、第二の賜物は愛であると言えるでしょう。
彼は土地や財産をめぐる争いを、力によって解決するのではなく、愛によって解決しました。今日、これと同じような争いは、あちこちで起きています。親族間の争い、国家間の争い。国家間の争いとなれば戦争になります。そして強いほう、力をもったほうが勝ちます。しかし実は、それで問題が解決したことにはならない。負けたほうはずっと根にもち、チャンスをねらってひっくり返そうとするでしょう。この物語は、力をもった側がどういう態度をとるときに問題が解決に向かうか、ということを示唆しているのではないでしょうか。
エジプトの事件のときも、主が介入してこられましたが(12:17)、ここでも主なる神が登場します。あのときは、呪いをもたらすという形でありましたが、今回は祝福であります。
「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(13:14~16)
ものすごい祝福です。スケールが違います。
私はここで起こったことを見ながら、イエス・キリストの二つの言葉を思い起こしています。どちらもマタイによる福音書の山上の説教の中の言葉です。ひとつは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(必要なもの)はみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。アブラムは自分が生き延びることばかり考えて行動したときには、大きな失敗を犯しました。最初の信仰に立ち返って決断したときには、必要なもの、いやそれ以上のものを神様がちゃんと備えてくださいました。
もうひとつは、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)という言葉です。このときのアブラムは、武力、暴力で争いを解決しようとせず、愛をもって解決した。神様は、そのような人々を祝福し、神の子として地を受け継がせられるのです。
私たちも最初の信仰に立ち返って、主が共におられることを感謝しつつ、歩んでいきましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を共にすることができましたことを、感謝いたします。神さま、私たちは信仰生活の中で、あなたの御心から逸れてしまうことが度々あります。あなたに背いてしまします。しかし、あなたは私たちに働きかけられ、赦しを与え、信仰者として再び歩み始めるよう促してくださいます。どうか、あなたの大いなる愛と慈しみを心に刻みつつ、信仰者としての道を歩ませてください。春の気配を感じつつも、寒暖差の激しいこの頃です。どうぞ、兄弟姉妹一人一人の健康をお支えくださり、必要な助けをお与えください。今この世界にあって、戦争のさ中にある人々、様々な災害の中で労苦している人々の上に、あなたの御手を伸べていてください。この拙き感謝と切なる願いを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ヨハネによる福音書13章1~11節
説 教 「洗足」 藤田百合子
午前10時30分 レントⅡ 司式 山根和子長老
聖 書
(旧約) イザヤ書56章1~8節
(新約) マルコによる福音書11章12~19節
説 教 「祈りの家として生きる」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書11章1~11節 2025年3月2日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日の箇所は主イエスがエルサレムに入城される箇所です。前半の1~6節では、2人の弟子たちが、主イエスの乗られる子ろばを調達に行った時のことが記されています。後半の7節以下では、主イエスがいよいよ子ろばに乗ってエルサレムに入城された場面が生き生きと報告されています。
前半の1~6節は、日曜学校の子どもたちもよく知っているお話です。主イエスの命を受けて二人の弟子たちが、子ろばを借りに行くのです。子ろばの持ち主と主イエスが知り合いで、子ろばを借りる約束ができていたわけではないようです。村に入ってつないであった子ろばをほどいていた弟子たちに、その場にいた人々が「その子ろばをほどいてどうするのか」とたずねます。泥棒に間違えられたとしても不思議ではありません。しかし、主イエスから言われていたように「主がお入り用なのです。すぐそこにお返しになります」と言うと、子ろばを連れて行くのを許してくれたのでした。
これは大変不思議なことです。しかしここには事前の約束ができていたというのではなく、御子イエス・キリストの御力が表れ出ているのです。主イエスはその場にいませんでしたが、弟子たちに預けた御言葉によって、ご自身がなそうとされる計画を実現することができたのです。弟子たちは主の御業を自分の知恵や力で実現していくのではありません。主が預けてくださった御言葉が御業を推し進め、御心を成就していくのです。
でも、どうして主イエスはエルサレムに入られる時に、子ろばに乗られたのでしょうか。この子ろばは「まだだれも乗ったことのない子ろば」であったと言われています。それによって、この子ろばが聖なる目的のために用いられることが示されているのです。経験も実績もない子ろばでした。一人前と言うにはほど遠く、未熟としか言えない子ろばでした。しかし経験も実績もない時だからこそ、神さまが用いてくださるということがあるのです。そんな時だからこそ、神さまにお捧げできる奉仕があるのです。
しかし、この子ろばにはそれ以上に重要な仕事がありました。それは自分がお乗せする主イエスが、どのような御方であるのかを分かるように示すというお仕事でした。主イエスに付き従った人々も、エルサレムで主イエスをお迎えした人々も、主イエスを王としてお迎えしました。ダビデの血統に連なる新しい王さまとして、主イエスに歓呼の声を上げています。「我らの父ダビデの来たるべき国」というのも、ダビデの子孫から生まれる救い主のもたらす王国であり、それが今まさに主イエスの登場によって実現されようとしているということです。新しい王をお迎えして、人々は歓呼の叫びをあげているのです。
しかし、主イエスは軍馬に跨がって凱旋するような、軍事力によって支配する王さまではありません。主イエスは馬ではなく、荷物の運搬や農作業に用いられるおとなしく忍耐強いろばに乗って、エルサレムに入城されます。そのことによって、主イエスという王さまが力によって支配する王ではなく、柔和で謙遜な王さまであることが、はっきりと示されているのです。ですから主イエスをお乗せするのは、ろばの子でなければならなかったのです。
ろばの子に跨がる王さまは、どのような王さまなのでしょうか。今日の箇所の出来事を預言した旧約聖書ゼカリヤ書9章9節には、次のように記されています(旧約1489頁)。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って。雌ろばの子であるろばに乗って。」ここで預言されている王は、「高ぶることがない」と言われています。この言葉の元来の意味は「身をかがめた姿勢」ということです。また「押しつぶされ、虐げられて苦しんでいる様子、経済的に圧迫されている状態」を示します。そしてこの言葉には、「自らを低くする」という意味があるのです。ここから分かりますように、私たちが「王さま」と聞いて連想するのとは、まったく違った王さまの姿なのです。
その王さまの姿は、今日のすぐ前の箇所で述べられていました。私たちの記憶に新しい、弟子のヤコブとヨハネが、主イエスに次ぐナンバー2,ナンバー3の地位を与えてほしいと願った箇所です。主イエスが弟子たちに語った10章42~45節の御言葉です。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」そうです。イエス・キリストは、ご自分が仕える王であり、人間の罪を贖うために自分の命を献げる王であることを、宣言されているのです。
先週2月25日(火)の家庭礼拝暦は、列王記21章1~16節の「ナボトのぶどう畑」の箇所でした。多くの方がその箇所を読まれたと思います。こんな内容でした。北イスラエルの王アハブはサマリヤに宮殿がありました。その宮殿の隣りにナボトという人のぶどう園があり、アハブ王はそこを買って自分の菜園にしたいと思ったのです。アハブは別の土地と交換するからとか、相当の銀で代金を支払うからと話を持ちかけますが、先祖から受け継いだ土地ですからとナボトは断ります。アハブ王はすっかり気落ちしてしまいます。ところが、しょげた夫の姿を見た王妃イゼベルは、夫の代わりに恐ろしい方法を使って、ナボトからぶどう園を取り上げるのです。彼女はアハブ王の名を使って、ナボトの住む町の有力者に手紙を書いて指示を出します。それはその町で断食の祈りを行い、その人々の最前列にナボトを座らせる。そしてナボトの前に二人のならず者を座らせ、ナボトが神と王を呪った、呪いの言葉を口にしたと証言させたのでした。その悪巧みによってナボトは石打ちの刑に処せられます。そして所有者のいなくなった土地を、アハブ王は自分のものとしてしまったのです。王の権力を悪用して、民が大切に守ってきた土地を取り上げる。自分の欲望を満たすためなら、命を奪うことも平気で行う。この箇所を読んだ後、妻と二人で憤慨しました。いつの時代も王というのはこういうことをする。強大な権力を手にした者は、いつもこのような悪辣な方法で自分の欲望を満たそうとする。あの偉大な王と呼ばれたダビデ王ですら、バトシェバを我が物とするために、夫ウリヤを激戦地に行かせて殺してしてしまいました。王の地位と権力を手にすることが、どんなに大きな誘惑であるかをあらためて認識させられるのです。
そう言えば2月20日、ホワイトハウスが公式アカウントに、王冠を被ったトランプ大統領のイラストを載せ、そこには「国王万歳」というメッセージが添えられていたという報道がありました。それに対してマドンナという女性アーティストが、次のようなコメントをX(エックス)に投稿したことが話題になりました。「この国(アメリカ)は王の支配下を逃れた欧州の人々により、人民が統治する新世界を築くために建設された。われわれは今、自身を『われらの王』と称する大統領を頂いている。冗談であったとしても、笑えない。」民を支配し、権力を振るい、自分に反対する者の存在を許さない王たちは、私たちの時代にも確かに存在しているのです。
さて、二人の弟子は子ろばを連れて来ると、その上に自分の服をかけ、主イエスはそれにお乗りになりました。多くの人たちも自分の服を道に敷き、他の人たちは葉の付いた枝を切って道に敷きました。その上を子ろばに跨がった主イエスは進まれ、エルサレムへと入城されました。そして、主の前を行く者も後に従う者も、次のように叫んだのです。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来る国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
「ホサナ」というのは当時の人が使っていたアラム語で、「どうぞ、救ってください」という意味です。人々は主イエスが待ち望んだメシアであり、ダビデの王国を再建する王であると信じて、彼をほめ称えるのです。しかし、この歓喜に湧き立つ群衆も、主イエスがどのような王さまであるかを、正しくは理解していませんでした。彼らが期待していたのは、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる政治的・軍事的な力を持つ王でした。だから主イエスが逮捕されその期待が裏切られると、彼らは手のひらを返したように「イエスを十字架に付けよ」と狂い叫ぶ群衆に変わってしまうのです。
イエス・キリストは確かにダビデの家系に連なる王であり、神が遣わされた救い主でありましたが、地上の王たちとはおおよそ正反対の王さまなのです。力によってではなく、先週申しましたように、愛と憐れみによって私たちを救ってくださる御方なのです。私たちはこの御方に、地上の王に期待するようなことを求めても、何も得ることはできません。主イエスは人々の間違った期待を感じて、ひと言も語らず沈黙を守っておられたのではないでしょうか。主イエスはご自身を十字架に捧げられることで、私たちを罪と死の縄目から救い出してくださいました。仕えられるためではなく仕えるために、奪い取るためではなく与えるために、私たちのもとに来てくださいました。
そのような王さまとして、主エスをお迎えする必要があるのです。そして主イエスを信じる私たちは、仕える生き方、自らを献げる生き方を目指さなくては、主イエスの民となることはできません。この世の目指す王の姿ではなく、主イエスが先だって歩まれた僕としての生き方に倣うとき、主は私たちといつも共に歩んでくださいます。この世の人間の王とは異なり、民のことを第一に考えて、神の民である私たちを支え導いてくださるのです。
私たちが仕えるのは、この世のどんな王でもなく、King of kings、王の中の王と呼ばれるイエス・キリストだけです。この王は天地のすべてを神の愛と憐みをもって治めておられます。力を背景とした地上の王に期待をかけても、それは失望に終わってしまいます。私たちには、王のイメージを180度転換させたイエス・キリストという真の王さまがおられます。この御方に望みを置くならば、私たちの望みは決して失望に終わることはありません。私たちは唯一の主であり王であるこの御方の前にひざまずき、自らを捧げてまいりましょう。そして「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」と、ご一緒に讃美の声を挙げたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなた貴き御名を讃美いたします。今日もあなたをあがめる兄弟姉妹と、対面でオンラインで礼拝を捧げることができますことを感謝いたします。神さま、あなたは御子イエスを仕える王として
この世界に遣わしてくださいました。人々は主の十字架と復活を経験して初めて
そのことを知りました。神さま、私たちも地位や力を求め、それに惑わされてしまう者ですが、真の王である主イエスに倣い、仕える者、僕としての道を歩むことができますよう、導いていてください。そして主イエスを私たちの王としてふさわしくお迎えすることができるようにしてください。 今しばらく寒暖差の激しい日々が続きます。どうか教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ヨハネによる福音書12章20-25節
説 教 「一粒の麦」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 レントⅠ 司式 三宅恵子長老
聖 書
(旧約) 創世記13章8-18節
(新約) マタイによる福音書6章33-34節
説 教 「最初の信仰に立ち帰る」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書10章46~52節 2025年2月23日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
主イエスがエルサレムへと向かう旅の途中のことです。主イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒にエリコの町を出て行こうとしていた時、道端に座っていた盲人の物乞いが突然叫び出しました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。多くの人々が彼を叱りつけ黙らせようとしました。しかし、その男は黙りません。ますます大声で叫び続けます。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。
なぜ人々は彼を「黙らせようとした」のでしょう。単に「うるさかったから」ではありません。大勢の群衆がざわめきながら移動している最中です。一人の叫び声などたかが知れています。黙らせようとしたのは、恐らく、その男が無礼であると映ったからです。もしローマの皇帝が行進をしている時に、誰かが「憐れんでください」と叫び出して直訴したら、無礼者として制止されるでしょう。この場面はそれに近いと言えます。イエスの一行に人々が見ていたのは、まさにエルサレムへと向かう王の行進なのです。それがはっきりと分かりますのはエルサレムに入城する時です。次のように書かれています。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って道に敷いた」(11:8)。そこをイエスの一行が歩いて行く。まさに王の入城のような光景です。
そのように、人々にとって主イエスはまさに王様だったのです。いや、正確に言うならば、王となるべき御方、間もなく即位すべき御方だったのです。主イエスに従う群衆の数は、エリコを出る時点で相当な数に上っていたものと思われます。過ぎ越しの祭りのためにエルサレムへと同行していた巡礼者の群れではありません。皆、主イエスが王になると信じて、ゾロゾロとついて行ったのです。ユダヤはローマの支配下にありました。しかし、主イエスは必ず我々をローマの支配から解放してくださるに違いない。そして、かつてダビデが王であった時のように、偉大なるイスラエルの王国を再建してくださるに違いない。そう信じて、ついて行ったのです。
もちろんそのことを一番期待していたのは、主イエスが選ばれた十二人の弟子たちでした。自分たちは特別だと思っていますから。当然、主イエスが打ち建てる王国においては、特別なポジションが用意されていると信じています。ですから、先週共に学びました箇所では、ヤコブとヨハネという二人の弟子が、こんなことをお願いしたことが書かれていたのです。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)。「栄光をお受けになる」とは、「王になる」という意味です。その時には私たちをナンバー2、ナンバー3にしてくださいとお願いしているのです。そのように抜け駆けする者も現れてくる。当然、他の弟子たちは腹を立てました。皆、同じことを考えているのですから。
ところで、いったいどうして弟子たちは、また大勢の群衆は、主イエスが王となることなど期待できたのでしょうか。どうしてそんなことが実現すると思ったのでしょうか。常識的には考えられないことでしょう。ローマの支配は絶対的なものでしたから。にもかかわらず、人々が新しい王国の到来を期待したのは、明らかに彼らが主イエスの力を見たからです。病気の人が癒される。悪霊に憑かれた人が解放される。五千人以上の人々が満腹させられる。人々は主イエスのなさる一つ一つの奇跡に、計り知れない《神の力》の現れを見たのです。
力に期待して、力ある者の後に着いて行く集団。力に救いを求め、力による偉大な事業の実現を求める集団。ここに見るのはそのような集団です。そして、そのような集団にとって、助けを求めて叫んでいる一人の弱い人などは、邪魔者以外の何ものでもありません。それは偉大な事業の実現にとって妨げでしかないのです。「この御方をなんと心得る!王となるべき御方であるぞ。ダビデの王国を再興する御方であるぞ。物乞いなどに関わり合っている暇などあるか!」叱りつけた人々の思いは、大方そのようなものであったに違いありません。
しかし、あの男は黙らなかったのです。制止されても叫び続けたのです。ナザレのイエスは絶対に憐れんでくださる。声さえ届けば、絶対に憐れんでくださる。彼はそう確信していたのです。もちろん、この男も主イエスが王となるべき御方であると信じています。「ダビデの子イエスよ」と彼は叫びました。ダビデの子孫として来られたまことの王であると信じているのです。しかし、それでもなお、その王は一人の盲人の物乞いを憐れんでくださる王だと信じているのです。
なぜでしょうか。彼は主イエスのことを伝え聞いて知っていたからです。知っていなかったら、「ナザレのイエスだ」と聞いても叫び出すことはなかったでしょう。彼は既に聞いて知っていた。問題はそこで彼が何を聞いていたかです。単に神の力の現れを聞いたのではなかった。そうではなくて彼が聞いていたのは「憐れみ」だったのです。主イエスの御業を通して現わされた、《神の憐れみ》を聞いていたのです。だから「憐れみ」を求めて叫んだのです。
先に申しましたように、目の見える人々は主イエスの奇跡に《神の力》を見たのです。だから力ある王としてのイエスに期待をかけた。しかし、目の見える人が、必ずしも事の本質を見ているとは限りません。むしろ聞くだけだったこの男にこそ、大事なものが見えたのです。《神の力》ではなく、《神の憐れみ》です。一人の小さな者も見過ごしにされない神の憐れみです。
聞くだけだったこの男には分かったのです。神の憐れみの王国が到来したのだ、ということを。その事実を彼は見えないその目で既に見ていたのです。苦しみのどん底で這いつくばっている一人の人間にも、目を留めて憐れんでくださる神の憐れみが到来した!神の憐れみを体現してくださるメシアがついに来られた!彼はその事実を心の目で既に見ていたのです。
だから彼は叫んだのです。力の限りに叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを《憐れんでください》」と。――そして、この人は間違っていませんでした。主イエスは立ち止まって言われたのです。「あの男を呼んできなさい」。
彼は躍り上がって主イエスのもとに来ました。主イエスはその人に言われます。「何をしてほしいのか」。この男はすぐさま答えました。「先生、目が見えるようになりたいのです」。この人は目が見えないゆえに苦しんできました。物乞いをしなくてはならなかったのも、そのゆえでしょう。だから、目が見えるようになりたかった。確かにそうでしょう。
しかし、目が見えるようになることで、彼が本当に見たかったのは何なのでしょうか。それは神の憐れみではなかったかと思うのです。神の憐れみの現れである主イエスの姿を見たかったに違いない。今まで耳にしてきた御方を憐れみの到来を、何よりもその自分の目で見たかったのだろうと思うのです。
彼の願いはかなえられました。主イエスは言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。そして、「盲人は、すぐ見えるようになった」と書かれています。しかし、目が見えるようになった彼は、そのまま立ち去りませんでした。「盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と書かれているのです。彼は開かれた目をもって主イエスの姿を追ったのです。彼の目は主イエスを追いながら、なお道を進まれる主イエスについて行ったのです。
さて、聖書に書かれているのはここまでです。しかし、バルティマイにとって話がそれで終わりにはならなかったことは、容易に想像できます。見える目をもって主イエスの姿を追って行った先には、何が待っていたのでしょうか。この直後に書かれているのは、主イエスがエルサレムに入城されたという出来事です。そして、そのエルサレムにおいて、主は十字架にかけられて殺されることになるのです。つまりこの盲人は、目が見えるようになったために、そして主イエスに付いていったがゆえに、その目で主イエスが十字架にかけられ殺される姿を見なくてはならなかったのです。
「見えるようになんて、ならなければよかった!わたしは見たくなかった!」彼は心底そう思ったに違いありません。しかし、もしそれで終わりなら、彼が経験したことは神の憐れみなどではあり得ないし、彼の目が開かれたというこの物語も語り伝えられることはなかったでしょう。
なぜこの物語が伝えられたのか。なぜ聖書に書かれているのか。そのことを考えて改めて読みますときに、この盲人の物乞いの名前があえて書き記されている事に気づかされます。もともと物乞いの名前を皆が知っていたはずがありません。にもかかわらず、福音書に名前があるということは、この福音書が書かれた頃、バルティマイがキリスト者として教会において良く知られていた人物だったということです。他に名前が記されている、あの十二人たちのようにです。彼はイエスに従った。そして、ティマイの子、バルティマイの名は、教会の歴史の中に書き残されることとなりました。
言い換えるならば、十字架につけられた主イエスを目にした悲しみは、それで終わらなかったということです。やがて彼は知ることになったのです。このキリストの十字架こそ、罪の贖いの犠牲であり、罪の赦しと救いに他ならないということを。その意味において、彼はその開かれた目で、神の憐れみを見た人だと言えるでしょう。私たちの罪を赦すため、罪のあがないの犠牲として御子をさえ死に引き渡される、神の計り知れない憐れみを彼は見たのです。彼はその開かれた目をもって、神の憐れみの王国が確かにイエス・キリストにおいて到来したことを見たのです。
「あなたの信仰があなたを救った」。主が彼の目を癒された時、主はそう言われました。そして、確かに彼は、ただ目を癒された人ではなく、救われた人として、どんな小さな一人に対しても向けられている計り知れない神の憐れみを、今もなお私たちに指し示しているのです。そして、彼と共に信じるようにと、主は私たちを招いていてくださっています。私たちもまた、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を聞くことができるようにと。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に、対面でオンラインで礼拝を守れますことを心から感謝いたします。神さま、あなたは御子イエス・キリストを通して、私たちへの深い憐れみをお示しくださいました。その憐みは御子を十字架にかけ給うことによって、私たちを罪と死から贖い出すほどに深い憐れみでした。私たちは今もあなたの憐みの中で、安心して生きていくことができます。そのことに深く感謝して歩む者とならして下さい。今しばらく冬の寒さが続きます。どうか大雪のために困難の中にある人たちを、守り支えていてください。教会に連なる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。