次週の礼拝   8月24日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    コリントの信徒への手紙一 13章1~13節

説  教   「信仰と希望と愛」   山﨑和子長老

主日礼拝  

午前10時30分     司式 山根和子長老

聖     書

 (旧約) 詩編41編2~14節 

 (新約) マルコによる福音書14章10~21節

説  教   「心の痛みを知る者」  藤田浩喜牧師

一粒の麦、もし死なば、多くの実を結ぶべし 

                                                  

ヨハネによる福音書12章20節~26節 2025年8月10日(日)主日礼拝説教

                              長老 髙谷史朗

 先ほど司式者に読んでいただいた、ヨハネによる福音書12章の20節、21節に、「祭りのとき、エルサレムに上ってきた人々の中に、何人かのギリシャ人がきており、イエスの弟子フィリポに「イエスにお目にかかりたいのです、と頼んだ。」とあります。これに対して、主イエスは23節で、「人の子が栄光を受けるときがきた。」と述べられました。これは、主イエスが極めて重大な決意表明をされたものである、と言えましょう。

なぜかと申しますと・・・・

 主イエスはヨハネの福音書において、これまで周りの人々や弟子たちに「わたしの時はまだきていない」と幾度となく述べられていたからです。具体的には、2章4節;カナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われた時や、7章6節と8節;仮庵の祭りでエルサレムに向かおうとされた時、「わたしの時はまだ来ていない」と述べられています。また、ヨハネ福音書の記者自身も、7章30節と8章20節;主イエスが捕らえられそうになった時、「それはイエスの時がまだ来ていなかったからである。」と記しています。

 では、なぜ、主イエスは今、正に、「人の子が栄光を受けるときがきた。」と述べられたのでしょうか?

これは、20節からの「ギリシャ人の何人か」が主イエスに面会を申し込んだということが重要な意味を持つと考えられます。ユダヤ人から見ると当時のギリシャ人とは異邦人の代表であり、従って外国人全体をさしていると考えられるからです。外国人の代表であるギリシャ人が主イエスの教えを学ぶために、はるばるやってきたということは、いよいよユダヤ人の枠を超えて、主イエスの教えが、世界宣教に向かってスタートする「新しい時」の始まりを告げる決意表明であったと言えるのではないでしょうか?

「人の子が栄光を受けるときがきた。」という言葉を耳にしたユダヤ人たちは、ついに積年の恨みであるローマを打ち破り、主イエスが新しいイスラエル王国を建設する栄光の時を一瞬夢見たかもしれません。しかし、続いて、「はっきりと言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままであるが、死ねば多くの実を結ぶ」という、主イエス自らの十字架を暗示する言葉を聴いたときに、彼らはどのような驚きと落胆をもってその言葉を受け止めたことでしょうか?なぜなら、それは、主イエスがご自身の死の意味を一粒の麦にたとえ、自らの命を捧げることによってやがて多くの人たちに救いと命をもたらすという約束を意味しているからです。

「一粒の麦」とは、あくまで主イエスご自身のことなのですが、本日、私たちはこれを単なる抽象的な理想像として捉えるのではなく、この言葉によって、私たちが「自分としてどう生きていくか」ということを問われているものとして受け止めながら、話を進めて参りたいと思います。

 まず、はじめに、「一粒の麦」の言葉に応答する形で、一人の日本人の物語をご紹介したいと思います。

 皆様、三浦綾子さんの書かれた塩狩峠という小説をお読みになったことがありますでしょうか?実は、この小説の冒頭に、この一粒の麦の言葉が象徴的に使われているのですが、内容は、当時、旭川六条教会の会員であった長野政雄氏(小説では、主人公永野信夫となっています)にまつわる実話を元にして描かれた長編小説です。

そのクライマックスの場面で、寒い冬のある日、長野政雄さんは、塩狩峠を運行する列車の事故に遭遇して、車中の人々を守るために自らの命を投げうって列車の下敷きになり、そのおかげで列車が止まり多くの人々の命が救われたという事件が描かれております。

もう少し、端的に事故の状況と彼の人となりをご理解いただくために、塩狩峠の事故現場付近に設置された記念碑に刻まれている文章を原文のままお読みしたいと思います。お聴きください。

「明治42年2月28日、夜、塩狩峠に於いて、最後尾の客車、突如連結が分離、逆降暴走す。乗客全員、転覆を恐れ、色を失い騒然となる。時に、乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐中より、クリスチャンたる氏の常持せし遺書発見せらる。『「苦楽生死均しく感謝、余は感謝してすべてを神に捧ぐ』 はその1節なり。30歳なりき。」とあります。この彼の死は、決して無駄な死ではありませんでした。彼の行動を通して、多くの命が守られ、多くの人々が彼の信仰に心を打たれました。そして、その証(あかし)は、今日に至るまで多くの人の心を動かし、語り継がれています。皆様、この長野さんがとった行動は、正しく「地に落ちて死んだ一粒の麦」そのものと言えるのではないでしょうか?

 では、私たちにとっての、「一粒の麦」とは何でしょうか?

私たちは日々の生活の中で、これほど大きな自己犠牲を求められることはないかもしれません。が、主イエスは続けてこう語られました。

25節;「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。さて、ここで自分の命を「憎む」とは、いったいどういう意味と解釈すべきでしょうか?

 おそらく、「憎む」という言葉は、「愛する」と対立する言葉としてとして使われているものと理解できますが、この「憎む」という言葉の意味するところが、自分自身よく理解できませんでした。

何とかその意味するところを知りたいと思い、文語訳聖書や口語体のいろいろな聖書を紐解いてみても、全て「憎む」とありました。また、英文の聖書をみても「hate」(憎む)となっており、疑問は解決できませんでした。が、一つの英文の聖書のみ、「give up」となっているのを発見しました。「give up」とは通常我々がほぼ日本語として使う言葉で、「あきらめる」とか、「降参する」「放棄する」などの意味で使いますが、ダメもとで、何十年か振りに、学生時代に使った、研究社の大英和辞典を紐解いてみたところ、なんと、「give up」の1番の意味として、「引き渡す」、「捧げる」とあったのです。 なので、ここでは、「自分の命を憎む人」は、「自分の命を捧げる人」と解釈したいと思います。

 では、私たちにとって「自分の命を捧げる」とは、どういうことと考えるべきでしょうか?

 次のことがヒントになると思われます。

皆様よくご存じの、聖路加国際病院の理事長であった、日野原重明さんが「いのちのバトン-97歳のぼくから君たちへ」という子供向けの講演の中で、「命とは何か」を問い、その答えとして、彼は、「命とは、人間が持っている時間のこと」と定義しました。すなわち「いのちは時間であり、いかに時間を使うかで、人生の質が決まる」、また、寿命とは長さではなく重さである、とも述べられています。

 時間とは、人間はもちろん、森羅万象すべてに均しく与えられている賜物と言えますが、彼は、「命」を単なる物理的な存在ではなく、その人がその人らしく使える「時間」として捉えることをすすめています。つまり、その人にとっての人生すべての時間が命であり、その時間をどのように使うのか、が重要であるというメッセージなのです。つまり、日野原氏の「命=時間」という考え方は、単に生きることをいうのではなく、人生を豊かに意味深く生きていこうということを示唆していると言えるのではないでしょうか?

 本題に戻りたいと思います。

では、主イエスから私たちに与えられた、「命を憎む」或いは「命を捧げる」とはどういうことと考えられるでしょうか?言い換えれば、私たちは日常生活の中でどうすれば「一粒の麦」として、生きることができるのでしょうか?ご一緒に考えてみたいと思います。

もちろん、塩狩峠の長野さんのように、実際に命を差し出すことを強いられる機会はそうそうありませんし、むしろ、決してそういう機会には遭遇しないようにと願いたいものです。

しかし、実際のところ、主イエスが私たちに求めておられる「命を憎む、あるいは捧げる」はもっと身近で、もっと具体的で、私たちの日常の中にあるものと考えてもいいのではないでしょうか?

日野原さんの言葉を参考にしつつ、たとえば、

・誰かのために、自分のもてる時間、エネルギーを惜しまず、差し出すこと。言い換えれば、日々の中で、自分の都合や欲を脇に置いて、自分の時間を使い、誰かのために尽くすことは「自分の命を」憎むことになるのではないでしょうか?

・また、誰かのために祈ること。それは大事な自分の時間を使っているのですから、自分の命を捧げていることにならないでしょうか?さらに発展して、

・人との対話の中で、自分の意見を押し付けるのではなく、相手の思いに耳を傾けること  

・人から認められなくても、見えないところで誠実に働き続けること、など、など。

 これらは全て、自分の命を「捧げる」という小さな行いの積み重ねと言えないでしょうか?それはまさしく、「一粒の麦」がハラハラと静かに土に落ちていく瞬間なのです。そして、神様は、私たちの一つ一つの小さな行いを見ておられ、それを通して、実を結ばせてくださるのではないでしょうか?

26節では、「私に仕えようとする者は、わたしに従え。父はその人を大切にしてくださる。」とあります。

 私たちが、父なる神様の恵みを得て、命を「捧げる」という新しい歩みに生きるときには、主イエスが共におられ、自分が主イエスと共にあることを知ることができるのではないでしょうか?そして、これらの行いを通じて、自分が主イエスとともにあるということを実感できることこそ、私たちの何にも代え難い喜びと言えるのではないでしょうか?

 最後に、ヨハネによる福音書15章12~13節の御言葉をお読みして終わりたいと思います。

「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

                                              以上

お祈りいたします。

恵み深き天の父なる神様、

今日も兄弟姉妹と共に礼拝をまもり、ヨハネの福音書12章の「一粒の麦」について学ぶことができましたことを、感謝いたします。神様、「一粒の麦」である、主イエスの十字架と復活により、私たちに命を与え、永遠の命の実を結んでくださいましたことをこころから感謝いたします。

どうか私たちも、自己の殻に閉じこもるのではなく、隣人のために生き、仕える者となれますように。
痛みや損失を恐れることなく、愛と勇気をもって歩んでいけますよう導いてください。そして、私たちの小さな献げが、あなたの御手によっていつの日か豊かな実を結ぶことを信じさせてください。

これらの感謝と願いを貴き主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。       アーメン。    

次週の礼拝  8月17日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    コリントの信徒への手紙一 10章13節

説  教   「試練と共に逃れる道をも」   高橋加代子

主日礼拝  

午前10時30分  伝道礼拝   司式 山﨑和子長老

聖     書

 (旧約) 創世記16章1~6節 

 (新約) マタイによる福音書5章46節

説  教   「人の哀しみと神のご計画」  藤田浩喜牧師

主の御心を慰める美しさ

マルコによる福音書14章1~9節  2025年8月3日(日) 主日礼拝説教  

                           牧師 藤田浩喜

 聖書は私たちに、全く新しい生き方、美しいあり方を教えます。それは「献げる」という生き方、「献げる」というあり方です。私たちは、どうすれば手に入るか、自分のものにすることができるか、そのことにばかりに関心があり、興味を持ちます。それはお金であったり、富であったり、社会的な地位や名誉であったりします。しかし、それらを手に入れてどんなに自分のものにしても、美しくないのです。一方、自分の持っているものをどう用い、どう使うか、そのあり方によって私たちは美しくなれる。そして、それは「献げる」というあり方なのだと、聖書は教えてくれるのです。教会に来ても、どうすればお金持ちになれるかは教えてくれません。しかし、自分の持っているものをどのように用いれば美しくなれるか、そのことは教えてくれます。それが「献げる」というあり方です。

 私たちがこの「献げる」という生き方をする根拠、また最も徹底した献げ方が示されているのが、主イエスの十字架です。十字架は、二千年前の犯罪人に対する刑罰ですから、それ自体が美しいはずはありません。目をそむけたくなるように悲惨で、残酷なものです。しかし、主イエスの十字架は違います。主イエスは、天と地を造られたただ一人の神様の御子でした。全く罪無きお方であり、父なる神様と共に天におられました。しかし、この世界に来られ、人間と同じ姿となり、罪の中に生きる私たちのために、私たちに代わって、神様の裁きをお受けになりました。それが主イエスの十字架です。主イエスは、御自分の命を十字架の上で献げられたのです。この主イエスの身代わりの死によって、私たちは一切の罪の裁きを免れ、神様に向かって「父よ」と呼ぶことができるようになり、新しい命に生きる者とされました。主イエスは私たちのために、私たちに代わって、御自身の命を献げられたのです。だから、主イエスの十字架は美しいのです。

 

 さて、今朝与えられております御言葉、マルコによる福音書14章は「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった」と始まります。この祭りはイスラエルの人々にとって、民族のアイデンティティーを確認する大切な祭りであり、民族意識が最高潮に達する時でもありました。世界中からユダヤ人たちが帰ってきて、この祭りに参加しました。

 この時、祭司長たちや律法学者たちは、主イエスを殺そうと考えたのです。どうして、当時のユダヤ教の指導者たちは、主イエスを殺そうとしたのでしょうか。更に2節には「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていたとあります。どうして祭りの間はやめておこうと考えたのでしょうか。

 それは、主イエスがこれまで様々な奇跡を行い、教えを語ったので、民衆の中では、主イエスこそ旧約の預言者たちが語っていた救い主、メシアではないかという期待が高まっていたからでした。主イエスがメシア=キリストであるとするならば、自分たちが築いてきた当時のユダヤ教における指導的な立場、秩序、それが根底から崩される。そのことを恐れたからです。だから殺そうとしたのです。しかし、民衆の支持がありましたから、民族意識が最高潮に達するこの祭りの時に、そのようなことをすれば暴動になりかねない。だから、祭りの間はやめよう。そう考えたのです。

 ここには、自分が手に入れたものを何としても手放したくない人間の姿があります。自分に損害を与える者ならば、殺してでも排除してしまおうとする人間の姿です。これが結局のところ、損か得かで動いてしまう人間の姿なのでしょう。これを美しいと思う人はいないでしょう。しかし、これが損得だけで生きてしまう私たちの姿なのです。

 聖書は、この祭司長たちや律法学者たちに対比するように、3節からの出来事を記しています。場所はベタニア。エルサレムから3kmほど東に行った、小さな村です。主イエスはこの村の重い皮膚病の人シモンの家におられました。多分、この重い皮膚病にかかっていたシモンを、主イエスが以前、癒やされたのだろうと思います。それ以来、シモンとその家族は、主イエスに感謝し、主イエスを愛し、交わりを持っていたのだと思います。

 その家で、主イエスが食事をしていた時です。この時主イエスは、一人で食事をしていたのではありません。シモンの家の人や主イエスの弟子たちも一緒だったと思います。そこに一人の女性が入ってきました。そして突然、驚くべき行動に出たのです。彼女は自分の持っていたナルドの香油の入った小さな石膏の壺を壊して、その香油を主イエスの頭に注いだのです。部屋は、むせ返るほど香油の香りで一杯になったことでしょう。この香油は大変高価なもので、三百デナリオン以上に売ることができるものでした。三百デナリオンというのは、労働者の一日の賃金が一デナリオンでしたから、一年分の収入に当たる金額です。この行動は、「非常識な」と非難されても仕方の無い、突飛なものでした。実際、その場にいた人たちの何人かは「憤慨した」と、聖書は記しています。

 しかし、どうしてこの女性は、こんな突飛な行動をしたのでしょうか。理由は記されていません。はっきりしていることは、主イエスが8節で「この人はできるかぎりのことをした」と言われているように、この女性は有り余る中からこのナルドの香油を主イエスの頭に注いだのではなくて、この高価な香油はこの女性にとって全財産と言ってもよいようなものであったということです。確かに、この女性がどうしてこんなことをしたのか、聖書は何も記していません。ただ言えることは、この女性には、自分の全財産と言ってもよいこのナルドの香油を、主イエスの頭に注がないではいられない何かがあったということ、そしてそれは感謝の思いであり、喜びの思いであり、愛だったのだろうということです。

 この女性の行動に対して、その場にいた人の何人かが憤慨して、こう言いました。4~5節「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」彼女のことを厳しくとがめたのです。この人たちの言っていることは正論です。「もったいないことを。もっと有効に使うことができるのに」ということです。

 三百デナリオン以上で売って、貧しい人に施す。これはよいことであるに違いありません。皆さんもそう思われるのではないでしょうか。しかし、もしこの香油が一デナリオンの価値しか無いものだったらどうでしょうか。人々はこれほど憤慨したでしょうか。この女性のしたことをとがめている人々は、明らかに、三百デナリオンという金額に心が向いています。しかし、この女性はどうでしょう。彼女は、もしこの香油が一デナリオンの価値しかなくても、それが自分の持っているすべてであるとしたなら、同じことをしただろうと思うのです。彼女は計算していないのです。愛は計算しないものだからです。彼女は主イエスに、自分の持つ一番良いものを献げたかったのです。

 主イエスは、この女性をかばうようにして言われました。6~7節です。「するがままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」主イエスは明日、十字架の上で死ぬのです。主イエスはそのことを見つめておられます。貧しい人はいつもあなたがたと一緒にいる。これから、いくらでも貧しい人のために施すことはできるし、そうしたらよい。でも、わたしはもう明日、十字架に架けられるのだ。そう言われたのです。もし、私たちの愛する人が明日死んでしまうと知ったならば、できる限りのことをその人のためにしよう、したい、そう思うのではないでしょうか。

 そして、続けてこうも言われました。8節「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」主イエスは明日金曜日に十字架にお架かりになり、午後の3時に息を引き取られることになります。金曜日の日没、午後の6時頃でしょうか、そこから安息日が始まりますので、主イエスは十字架から下ろされると、取るものも取りあえず、墓に葬られたのです。当時の葬り方は、遺体を焼くことなく、そのまま横穴に入れます。遺体は腐敗し、臭いが出ます。ですから、遺体を葬るときには、遺体には香料を塗ることになっていたのです。しかし、主イエスの葬りの時、そのような時間はありませんでした。その意味で、このナルドの香油が、主イエスの葬り、埋葬の準備となったのです。

 更にこう言うこともできるでしょう。主イエスは救い主・キリストとして十字架にお架かりになるのです。すべての人の罪を担われる。全く罪無きお方として、十字架に架けられる。主イエスの十字架はその意味で、キリストの即位式であると言われます。このキリストとは、「油注がれた者」という意味のメシアというヘブル語を、全く同じ意味のギリシャ語に置き換えた言い方です。旧約において、油注がれて即位したのは、王様、祭司、そして預言者でした。主イエスは、まことの王、まことの祭司、まことの預言者として十字架にお架かりになりました。その主イエスが、まことの王、祭司、預言者として油を注がれるという事が、このナルドの香油をかけられるという出来事によって成し遂げられたのです。

 もちろん、この女性はそんなことは考えてもいなかったでしょう。しかし、主イエスは、この女性のできるかぎりの献げ物を、そのようなものとして喜んでお受け取りくださったということなのです。主イエスは、この女性のしたことを、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」と言われました。この「良いこと」とは、「美しいこと」とも訳せる言葉です。主イエスは、この女性のできるかぎりの献げ物をする行為を、美しいことと言ってくださった。そして、御自身の埋葬の準備、キリストの油注ぎとして受け取ってくださいました。主イエスはそのように、私たちができるかぎりの献げ物を献げることを、美しいこととして受け取ってくださり、私たちの思いを超えた意味を与えてくださるのです。

 この女性のした行為は美しい業として、二千年経っても、この地球の裏側まで伝えられました。この女性はそんなふうになるとは、考えたこともなかったでしょう。私たちは何も、自分のしたことがそのように世界中の人に覚えられることを求めているわけではありません。しかし、この女性のしたことは、誰よりも主イエス御自身、神様御自身が受け容れ、覚えてくださったことでありましょう。そこに、この女性の喜びがあったのだと思います。

 私たちは今朝、献げる者として生きるようにと御言葉を受けました。損得を超えて私たちに命を与えてくださった神様に、私たちのために御自身の命を献げてくださった主イエスに、私たちは、自分の持っている力や時間や富を、お献げして歩んでいきたいと思います。私たちの献げる物がどんなに小さなものであっても、それができるかぎりの献げ物であるならば、神様は喜んで受け取ってくださり、美しいと言ってくださり、覚えてくださるのです。そこに、私たちの本当の喜びがあるのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。神様、あなたは御子イエス・キリストを通して、他者のために「捧げる」という行為を示してくださいました。その主イエスに呼応して

一人の女性が自分の財産のすべてであるかぐわしい香油を、惜しみなく主イエスに注ぎました。愛することから始まった「捧げる」行為は、人間の計算や損得を超えていきます。どうか私たちも、主イエスの十字架を仰ぎつつ、主の御後に続く者として生きることができますよう、励まし導いていてください。猛暑の日々が続きます。どうか教会につながる兄弟姉妹の体調をお守りくださり、この厳しい季節を無事に過ごすことができますよう、支えていてください。この拙き切なるお祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

次週の礼拝  8月10日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    コリントの信徒への手紙一 9章24~27節

説  教   「目標を目指して」   三宅光

主日礼拝  

午前10時30分    司式 三宅恵子長老

聖    書

(旧約) イザヤ書53章1~6節 

(新約) ヨハネによる福音書12章20~26節

説  教 「一粒の麦、もし死なば、多くの実を結ぶべし」 髙谷史朗長老

目を覚ましていなさい

マルコによる福音書13章28~37節 2025年7月27日(日)主日礼拝説教

                              牧師 藤田浩喜

 主イエスは、御自身が十字架にお架かりになる直前に、世の終わり、終末について預言なさいました。マルコによる福音書13章全体がその預言を記していたのですが、その最後の所が今朝与えられている御言葉です。

 少し前に、世の終わりである大きな終末と、私たちの人生の終わりである小さな終末があるということをお話ししました。世の終わりである終末についてはあまりピンと来ない人でも、自分の人生に終わりがあるということは分かります。

この二つの終末、大きな終末と小さな終末には重なるところがあります。それは、この世界にしても、自分の人生にしても、それが閉じられることによって完全に終わってしまうのではないということです。大きな終末は、ここで主イエスが「人の子が戸口に近づいている」と言われたように、「人の子」つまり主イエス御自身が再び来られる。そのことによって、この目に見える世界は終わり、新しい世界、新天新地が来るわけです。それと同じように、小さな終末、私たちの人生は死をもって終わるのですけれど、それですべてが終わるのではないのです。死の向こうに、復活の命によみがえって主イエスと再びお会いするということがあるのです。このことを悟れと、私たちは言われているのです。

 

 では、悟ってどうするのでしょうか。それは、終わりが来ることを知っている者として生きよ、いつ終わりが来てもよいように備えて生きよ、ということです。この「終わりがいつ来てもよいように生きる」、それが「目を覚ましている」ということなのです。

 主イエスは32節で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」と言われました。大きな終末がいつ来るのかは、主イエスも天使たちも知らないのです。天地を造られた父なる神様しか知りません。いつの時代にも、「○年○月に世の終わりが来る」と言って不安をあおる人々がいます。しかし主イエスは、「わたしも天使たちも知らない」と言われたのです。それゆえ、いつ終わりが来るかを知っていると言う人は、自分は主イエスよりも知恵があると言っているのと同じです。これはあり得ないことでしょう

 主イエスはここで、終末がいつ来るのかは分からないと言われたのですが、分からないから備えていなければならないということなのです。主イエスがこのことを告げられて2000年経つけれど、まだ「終わりの日」は来ていないではないか。だったら、自分の目の黒いうちには来ないだろう。そう思う人も多いかもしれません。しかし、たとえそうであっても、私たち一人一人にやがて来る小さな終末から逃れられる人は誰もいないのです。そして、それはいつやって来るか分からない。私は怖がらせているのではありません。主イエスも私たちを恐れさせようとされたのではないのです。そうではなくて、終わりが来ることを知らない者のように、ただ面白おかしく生きればよいということではダメだ。そしてまた、終わりが来るのだから何をやっても無駄だと、すべてを諦めて生きるのでもない。主イエスが再び来ることによって来る終わり、新しい世界の創造、そして自分の人生の終わり、主イエスの御前に立つその日が来ることを知っている者は、第三の道を歩むのだ。それが「目を覚まして生きる」ということなのです。

 「目を覚ましていなさい」ということを、33節、35節、37節で、主イエスは繰り返しお語りになりましたけれど、その前に31節で、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と告げられました。天地は滅びる。それがいつ来るのかは分からない。でも心配することはない。なぜなら、主イエスがお語りになった言葉、救いの約束、それは決して滅びないからです。それはこの世界が終わる時、主イエスが再び来られて世界を新しくされるという約束です。この地上での生涯を閉じた者が、その時主イエスの御前に復活させられるという約束です。その約束は確かなことだから、「目を覚まして生きよ」と言われたのです。

この「目を覚まして生きる」というあり方を、主イエスは34節で、「家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」と言われました。このたとえにおいて、「僕たち」とは私たちのことです。「家を後に旅に出る人」とは主イエスのことでしょう。

 主イエスはこのことを教えた数日後に、十字架にお架かりになるのです。もちろん主イエスは、十字架にお架かりになって終わったのではありません。三日目に復活され、40日にわたってその復活の姿を弟子たちに現されました。そして、天に昇って行かれました。今は天の父なる神様の右におられ、この世界を支配しておられます。しかし、私たちはこの目で主イエスを見ることはできません。その意味で十字架にお架かりになられる主イエスは、僕たちを残して旅に出るようなものなのです。そして主イエスは、この地上に残される弟子たちに仕事を与え、再び御自身が来られる時まで「目を覚ましているように」と言われたのです。

 主イエスは旅に出たのですから、必ず戻って来られるのです。それが主イエスの再臨です。もう戻って来られないのであれば、僕たちは待つ必要はありません。目を覚ましている必要は無いのです。しかし、主イエスは来られるのです。だから、私たちは目を覚まして待っていなければならないのです。

 この「目を覚ましているように」と告げられた門番の仕事、目を覚ましてし続けなければならない仕事、責任とは何でしょうか。ここには具体的には記してありませんが、幾つも考えることができるでしょう。三つのことを考えてみます。

 第一に思わされますことは、この「目を覚ましていなさい。」と主イエスが言われたもう一つのとても有名な場面、それは14章32節からのゲツセマネの祈りの場面です。この時、主イエスは御自身の十字架の死を目前にして本当に必死に祈られたのですが、その時ペトロたちは眠りこけてしまったのです。しかも、何度主イエスに起こされても眠ってしまう。実に三回も眠りこけてしまったのです。その弟子たちに主イエスが言われたのが、「目を覚まして祈っていなさい」という言葉でした。

 この出来事はペトロとヨハネとヤコブしか知らない出来事ですから、彼らが黙っていればこのように聖書に記されることはなかったでしょう。しかし、この様に聖書に記されているということは、彼らが自分でこの出来事を話したということです。私は、彼らが何度もこの話をしたのではないかと思います。「私たちは、イエス様が十字架にお架かりなる前の日に必死で祈っておられたのに、眠りこけてしまった。イエス様は『目を覚まして祈っていなさい』と言われた。だから、もう眠りこけることなく、私たちは祈りつつ歩んでいくのです。」そのように話したのではないでしょうか。

 このことを考えますと、「目を覚まして生きる」ということは、祈る者として生きる、祈りを忘れずに生きる、ということになるのではないかと思います。終わりが来る。しかしそれは、主イエスが再び来られるというあり方で来るのです。ですから、いつ主イエスが来られてもよいように、主イエスの御前に生きる。それは祈る者として生きる、祈りつつ生きるということでありましょう。

 第二に、ここで主イエスは、弟子たちつまり私たちを門番にたとえられているのです。門番とは、主人の家を守るために立っている者でしょう。もちろん、一人の門番がずっと寝ないで起きているというわけにはいきません。現代で言えば、三交代制ということだったのかもしれません。この主人の家とは、主イエスの家ですから教会のことでありましょう。ですからこれは、教会を守る、主イエスの教え、主イエスの救い、それを盗まれないように、つまり間違ったものに変えられないように守るというようにも読めるでしょう。そして、そのように使徒以来の信仰を守っていくという責任・使命というものは、一人の門番だけに課せられている責任ではありません。僕全員、つまり教会全体に課せられている使命であり、責任なのです。

 第三に、主イエスは一番大切な教えとして、神様を愛することと隣人を愛することを教えてくださいました。ですから、この「目を覚まして生きる」ということは、愛に生きることなのだとも言えるでしょう。神様に愛され、神様を愛する。隣人を愛し、隣人に仕える。この愛に生きることこそ、目を覚まして生きる者の姿なのだと言ってもよいと思います。山に籠もって大変な修行をすることなど、主イエスは私たちにお求めになったりはしません。そうではなくて、日常の、目の前にいる一人一人に心を遣い、時間を使い、体を使うことです。愛に生きるということは、仕える者として生きるということです。自分の目の前にいる人を愛し、これに仕えるということです。

 祈って、教会を守り、愛に生きる。それが終わりの来ることを知った者としての、私たちの責任・使命であり、「目を覚まして生きる」ということなのです。

 私たちは、毎週ここに集まって主の日の礼拝を守っています。この礼拝を守る中に、祈って、教会を守り、愛に生きる私たちの具体的な姿があります。祈りつつ生きる、教会を守る、愛に生きるということの扇の要の位置にあるのが、この主の日の礼拝なのです。主の日の礼拝を守ることによって、私たちは「祈って、教会を守り、愛に生きる者」として整えられ、押し出されていくのです。

 言い換えますと、私たちは主の日のたびごとにここに集まって、終わりの日への備えをしている、いつ終わってもよいための備えをしているということなのです。この礼拝において、私たちは主イエスの御言葉、主イエスが与えてくださった救いの約束が確かなものであることを心に刻み、その御言葉を信頼して、新しい一週へと歩み出していくのです。この礼拝において、私たちは祈る者としての姿勢を正され、主イエスの教えを聞き、愛に生きる者としての志を新たにされるのです。今朝、「目を覚ましていなさい」と主イエスは私たち一人一人に告げられました。この主イエスの御言葉が私たち一人一人の心に宿り、私たちの一足一足の歩みを導いてくださることを、心から祈り願っていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。主イエスは「目を覚ましていなさい」と私たちに語られます。それは再臨の主が、いつこの世界に戻られてもよいようにということです。その日は大いなる喜びの日です。どうか、その日を待ち望みつつ、祈り続け、教会を守り、愛に生きることができますよう、私たちひとりひとりを強めていてください。

猛暑の日々が続いています。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。熱中症などの危険からお守りください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   8月3日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ルカによる福音書12章4~7節

説  教   「一羽のすずめ」  藤田浩喜牧師

主日礼拝  

午前10時30分     司式 藤田浩喜牧師

聖     書

 (旧約) 雅歌4章8~11節    (聖餐式を執行します)

 (新約) マルコによる福音書14章1~9節

説  教   「主の御心を慰める美しさ」    藤田浩喜牧師

わたしの言葉は滅びない

マルコによる福音書13章28~31節 2025年7月20日(日)伝道礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

                      

今朝朗読されたマルコによる福音書第13章28節に、「いちじくの木から教えを学びなさい」という主イエス・キリストの御言葉が記されています。いちじくの木は、主イエスがおられた地域ではごくありふれた、どこにでもある木でした。主イエスもここで、いちじくの木の様子が季節によって変わっていくことを示しておられます。それによって教えようとしておられるのは、移り変わっていく木の姿から、今がどのような時なのかを知れ、ということです。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近いことが分かる」ということです。

ここに、聖書における物事の見方、捉え方の一つの特徴が表れています。それは、物事を時の流れの中で捉え、今がどのような時で、これからどうなっていくのかを考える、ということです。それを歴史的感覚と言うこともできます。歴史の年表を思い浮かべて下さい。年表は直線的です。そういう直線的な歴史の流れの中を生きているという感覚です。そこでは、過去を振り返り、過去の影響の下にある現在を見つめ、今どうすることによってこれからどうなっていくという展望を持って、将来に向かって進んで行かなければならないのです。

主イエスがいちじくの木から学べと言っておられるのは、そういう歴史的感覚です。しかもそれは、私たちがよく耳にしているような、これからの世界経済はどうなっていくかとか、少子高齢化が社会にどのような影響を及ぼしていくか、気候変動によって地球はどうなっていくかなどといった、深刻な問題ではありますが、しかし目先の歴史を見つめる感覚ではありません。主イエスはもっと根本的な、この世の終わりをも視野に入れた歴史的感覚を持つようにと言っておられるのです。29節に「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」とあります。いちじくの葉から夏の接近を知るように、「これらのこと(すなわち、13章のこれまでのところで述べられた出来事)」を見たら「人の子が戸口に近づいている」ことを悟れ。それは、主イエスがもう一度この世に来られ、それによってこの世が終わる時が近づいているということです。主イエスの再臨によるこの世の終わりを視野に入れて生きよ、と主イエスは言っておられるのです。

しかしそれは、あと何年で主イエスがもう一度来てこの世が終わるのか、ということをいつも考えながら生きるということではありません。「人の子が戸口に近づいている」という言葉をそのような感覚で捉えるなら、初代の教会の時代からもう二千年が経とうとしているのに、まだ人の子は来ていない、主イエスのこの御言葉は間違っていたのではないか、ということになるでしょう。しかしこの御言葉は、世の終わりまであと何年か、ということを考えさせようとしているのではないのです。教会の歴史の中には時折そういう間違いに陥った人々が現れました。何年何月何日にこの世が終わる、などと言い出す人が現れたのです。そのような思いに捕えられてしまった人は、本来神様から自分に与えられているはずの日常の生活に手がつかなくなってしまいます。そして「もうじきこの世が終わるなら、今さら何をしても仕方がない、せいぜいやりたいことを好きなだけして楽しもう」という享楽的な生き方になるのです。しかし「人の子が戸口に近づいている」ことを意識しつつ生きる生き方とは、そのようなものではないのです。

それでは、どのように生きることが世の終りを意識して生きることなのでしょうか。宗教改革者ルターの言葉とされていますが、「たとえ明日この世が終わるとしても、私は今日リンゴの木の苗を植える」という言葉があります。この言葉に現されている生き方こそ「人の子が戸口に近づいている」こと、つまりこの世の終わりが始まっていることを、正しく意識して生きる信仰者の生き方なのです。

このルターの言葉には、この世の終わりを視野に入れた歴史的感覚が語られています。歴史的感覚を持つとは、過去を振り返ることによって今の時代の意味を捉え、将来への展望を持って、今自分がなすべきことを見定め、実行していくことです。つまり「私は今日リンゴの木の苗を植える」ということに示されているように、今をしっかりと生きることです。つまりこの言葉に言い表されているように、この世の終わり、終末を見つめつつ、それでも刹那的な生き方に陥らない歴史的感覚を持ちつつ、将来への展望を持って、今を生きることが大切なのです。

それは、この世の終わり、終末を見つめる時だけのことではありません。私たちの人生の終わりである死を見つめる時にも、同じことが起こります。死は、私たちの人生の終末であり、この世において自分が持っている全てのものを失う時です。この世における自分の営みが無に帰することです。そういう死が自分にも必ず訪れますし、人生は その死に向かって確実に近づいているのです。死は私たちに「終わり」があることを意識させます。私たちの人生が、閉じられた円の上を繰り返し回る円環的なものはなくて、始めがあり終わりがある直線なのだということを、死が教えているのです。つまり死は、私たちの人生に終わりがあることを見つめさせることを通して、この世の終わり、終末を私たちに見つめさせるのです。この世の終わりが、私たちの人生において先取りされるのが死であると言うことができます。その死を正面から見つめる時、私たちはやはり空しさに捕えられ、刹那的になってしまう。そうならないためには、明白な事実である死をできるだけ見ないように、それには触れないように蓋をして、ごまかして生きている、それが私たちの現実なのではないでしょうか。その点からいえば、「たとえ明日この世が終わるとしても、私は今日リンゴの木の苗を植える」と言ったあのルターの言葉は驚くべきものです。それは言い換えれば、明日死ぬことが確実に分かっているとしても、私は今日も自分のいつもの仕事をする」ということです。このように、終わりを、死を、正面から見つめつつ、それによって動じることなく、刹那的にならずに、今をしっかりと生きていくという生き方は、一体どこから生まれるのでしょうか。

その秘密は、本日の箇所の31節にあると言うことができるでしょう。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。ここには、天地が滅びること、つまりこの世が終わり、人間の営みが全て無に帰することが明確に見つめられています。しかしそれと同時に、その終わり、喪失、崩壊においても決して滅びることのないものがあることが見つめられているのです。その「滅びないもの」とは「わたしの言葉」です。主イエス・キリストの御言葉、神様の御言葉です。天地が滅びても、神の言葉だけは決して滅びない、その滅びないものを見つめる時に、そこには展望が与えられ、刹那的にならない生き方が与えられていく。主イエスはそのことを私たちに見つめさせようとしているのです。

天地は滅びても神の言葉は決して滅びない。旧約聖書イザヤ書40章6節以下にも同様のことが語られています(旧約1124頁)。主の風が吹きつけると、草は枯れ、花はしぼむ、しかし私たちの神の言葉はとこしえに立つ。その草や花とは、「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」とありますから、この世を生きている私たちのことです。私たちは、主の風、熱風によって、草や花のように枯れ、しぼんでいくのです。そのことが私たち一人一人の人生において起こるのが死であり、この世界全体に最終的に起こるのがこの世の終わりなのです。しかしその終わりの時の崩壊、滅亡を越えて、神の言葉はとこしえに立ち、決して滅びない。ルターは、その決して滅びることのない神の言葉を見つめていたのです。それゆえに、全てのものが滅びていくこの世の終わりを見つめつつ、また自らの人生の終わりである死をも見つめつつ、なお展望をもって、刹那的になることなく、「明日この世が終わるとしても、私は今日リンゴの木の苗を植える」と言うことができたのです。

この神の言葉が、天地が滅びてもなお滅びることがないというのは本当でしょうか。天地が滅びて人間が皆死んでしまえば、どのような言葉も人間と共に滅びてしまうのではないかと、私たちは思います。しかしそうではないのです。そのことを告げているのが、主イエス・キリストの復活です。神の子主イエスは、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さっただけではありません。その主イエスを、父なる神様が復活させて下さったのです。つまり主なる神様が死の力を打ち破って、主イエスに、新しい命、永遠の命を与えて下さったのです。

それは、私たちにも同じ復活の命、永遠の命を与えて下さるためです。主イエスを復活させて下さったことによって神様は、私たちをも死の支配から解放し、永遠の命を与えて下さるということを約束して下さっているのです。神の言葉は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した神様のこの救いの約束を告げ知らせています。言い換えれば、独り子イエス・キリストによって示された神様の愛が、死の力をも打ち破るものであり、私たちの人生の終わりである死を越えてなお、私たちを新しく生かすものであることを、神の言葉は告げているのです。それゆえに、この神の言葉、そこに示された神の愛は、私たちの死と共に滅びてしまうようなものでありません。この世の終わりに天地が滅びても、それと共に滅びてしまうことはないのです。

この世の終わりに天地が滅びる、そのことは既に始まっており、そこに向けての苦しみを既に私たちは味わっています。しかしそれらの大きな苦しみを経て、最終的に実現するのは、26節に語られていたこと、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」ということなのです。つまり人の子主イエスが、救い主としての力と栄光をもってもう一度来て下さり、そのご支配が誰の目にも明らかな仕方で確立するのです。それによって私たちの救いが完成し、復活と永遠の命が与えられるのです。私たちキリスト者は、そのことを待ち望みつつ、忍耐と希望に生きるのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を讃美し御栄を褒め称えます。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。神様、御子イエス・キリストは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました。この御言葉はイエス・キリスト御自身であり、主が十字架と復活によってもたらしてくださった永遠の命です。この世界の終わり、自分の命の終わりを必ず経験する私たちですが、この滅びない御言葉に支えられて、今という時を建設的に、自分の使命を覚えて生きることができるようにしてください。暑さが大変厳しい日がしばらく続きます。どうか教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   7月27日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    使徒言行録16章6~10節

説  教   「マケドニア人の幻」   山﨑和子長老

主日礼拝  

午前10時30分        司式 髙谷史朗長老

聖     書

 (旧約) イザヤ書25章1~10節前半 

 (新約) マルコによる福音書13章32~37節

説  教   「目を覚ましていなさい」    藤田浩喜牧師

希望をもって待つ者たち

創世記15章7~21節 2025年7月13日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

神様は、アブラムを満天の星空のもとに立たせて、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と言い、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。そして最後に、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と結ばれていました。15章5~6節の有名な御言葉です。

 「義」というのは、説明しにくい概念のひとつですが、ひと言で言えば、「ただしさ」ということです。もっとも聖書で言う「ただしさ」とは、必ずしも「間違いを犯さない」というようなことではありません。それは、神様と人間の間に「きちんとした関係が成り立っている」ということ。関係概念なのです。

 やがて新約聖書において、この創世記15章前半はとても大きな意味をもつようになります。特にパウロは、ここに信仰の根源のようなものを見いだしたのでした。つまりアブラムはなんらかの行いによって義と認められたのではない。言い換えれば、犠牲の捧げものであるとか、割礼であるとか、あるいは善行をするとか、そういう行為によってではなく、ただ「神様の約束を信じた」という信仰によって義と認められ、それによって神様と「きちんとした関係をもつことができるようになった」ということです(ローマ4:3、9~11参照)。それが私たちの信仰の模範であるというのです。パウロは、これをイエス・キリストヘの信仰、つまりイエス・キリストを信じることによって義とされる、というふうに展開していきました。

 これは「行いはどうでもよい」ということではありません。私たちは、そこで神様ときちんとした関係にあるならば、それにふさわしいよい行いをするように、よく生きるようにと、促されていくのです。

さて、そこから15章の後半へと移っていきます。この後半は、前半とは随分異質な感じがします。犠牲の動物などの血なまぐさい記述があります。実は、この15章後半は、前半よりもかなり前の時代に書かれたものであると言われています。6節と7節の問には断絶があり、ここでがらりと調子が変わります。6節までは神学的、あるいは思想的な感じがするのに対して、7節以下は素朴で生々しい物語です。9~12節をご覧ください。

 「主は言われた。『三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしもとに持って来なさい。』アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」。そして17節にはこうあります。

「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」(15:17)

 先ほど申し上げたように、血なまぐさい記述ですが、これは非常に古い時代からの契約の習慣がベースになっていると言われます。大昔、誰かと誰かが契約を結ぶときには、次のようにいたしました。契約をする当事者が立ち会いの上で、いけにえの鳥や動物を真っ二つに切り裂き、その死体を向かい合わせに置きます。そしてその二つに裂かれた動物の間を両方の当事者が通るのです。それは、もしもどちらかがこの契約に違反することがあれば、この裂かれた動物のようになっても文句は言わない、ということを意味したそうです(エレミヤ34:18参照)。自分に呪いをかけるようなものです。だから必ずこの契約を守る、という誓いを込めた儀式でした。

 しかし神様と人間の契約は、初めから不釣り合いな中で結ばれる契約です。もしも、これを厳格に適用しようとすれば、人間は滅びるしかありません。それでも神は、人間と真実な関係(=義なる関係)をもち続けようとされる。どうすればよいのか。特別な形で契約を結ばれるのです。それは、対等な関係の契約ではなく、神が人間に向かって誓いを立てるという契約です。

 神様は、アブラムに動物を持って来させ、それを置かせました。夜になってから、「突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた」(15:17)とあります。神様の側の何かが通り過ぎたのです。アブラムのほうは、その裂かれた動物の間を通っていません。これは、一方的な神の契約であると言ってもよいでしょう。これは、神がアブラムを裏切らないという誓いのしるしでありました。もしも「それでは私も」というふうに、アブラムも同じように誓いを立てた上で成立した契約であれば、アブラムは、いつの日か引き裂かれることになったかもしれません。

 これはノアのときの契約を引き継ぐものであると思います。あのノアのときも、神様が一方的にノアと契約を結ばれました(9:9)。神と人間が条件付きで契約を結べば、人間の不誠実によってそれが破綻してしまうということを、神はご存知なのです。どんなにしても神は人間と真実な関係をもち続けようとされる。そのために一方的に、ご自分の側で犠牲を払うのです。いわばご自分に呪いをかけられるのです。ノアの神、アブラハムの神とは、そういう神です。人間のほうがどんなに神を裏切ろうとも、神は「私は裏切らない」と言われる。

 ですから、私たちが、その神様とただしい関係をもち続けるために求められているのは、神がそういう神であることを知って、その神を信頼し切るということです。「ただ信仰によってのみ義とされる」という言葉は、そういうことを意味しています(ローマ3:21~28参照)。そしてそれはイエス・キリストを信じる信仰へとつながっていきます。つまり神のその意志、誠実であろうとする意志、どんなにしてでも人間との真実な関係をもち続けるという意志が、イエス・キリストをこの地上へと遣わすことになります。

 さらに、このとき、二つに裂かれた動物、そしてその間を、煙を吐く炉と松明が通り過ぎるという出来事は、イエス・キリストの受難、十字架をも指し示しているのではないでしょうか。イエス・キリストこそは、神と人間が真実な関係をもち続けるために遣わされたお方であり、イエス・キリストこそは、神ご自身が供えられた犠牲の捧げものであったからです。イエス・キリストが神の小羊であるとは、そのことを指し示しています(ヨハネ1:29参照)。

11節を見ますと、「はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った」とあります。いかがでしょうか。私は、これは私たちの信仰生活を暗示しているように思います。信仰をもつということは、そのじゃまをするものを追い払うような一面があるのではないでしょうか。神様と私たちとの間に割って入り、その関係を妨げるものがあるのです。信仰生活はある意味では戦いなのです。

 私たちは、私たちを神から引き離そうとする力、誘惑に取り囲まれています。信仰をもたない人からすれば、「あいつはなんであんな馬鹿げたものを信じているのだろう」と笑われそうです。アブラムは、それをひたすら追い払ったのです。私たちの信仰生活もそのようなものでしょう。

 信仰とは、神との約束に固着し続けることです。つらい試練の中で神を信じられなくなることがあります。さまざまな誘惑の中で神など忘れてしまうこともあります。あるいはそんな神様の一方的な約束などはあるはずがない、そんなことが許されるはずがない、という思いもつきまといます。そういう神様から引き離そうとする力と絶えず戦っていなければ、私たちはすぐに離れてしまいます。だから私たちは、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。

さて最後になりましたが、13~16節の言葉に注目してみましよう。ここにも大切なことが記されています。アブラムの深い眠りの中で、神様が語られた言葉です。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである」(15:13~16)。

 不思議な言葉です。後に、「どうして自分たちは、神様の約束にもかかわらず、つらい経験をするのだろう。エジプトで奴隷になってしまったのだろう」という問いがあって、それに答えるかのようにして、後の時代の人によって挿入されたとも言われます。

 私は、ここにも信仰生活の不安、疑い、戦いというものがよく表されていると思います。どうして神様は約束を果たされないのか。約束の遅延です。信仰生活というのは、別の言葉で言えば、待つことだと思います。深い闇に包まれることもあります。ちょうどこのときアブラムが経験したように、大いなる暗黒が私たちに臨むこともあります。

このときのアブラムにとっては、息子が与えられるという小さな約束ですらも、さらにさらに待たされることになりました。イシュマエルが与えられても、「その子ではない」と、さらに引き伸ばされました。この記述からしますと、神が約束されたことが本当に成就するのは、まだまだこれから四百年以上も先であるというのです。気の遠くなるような話です。しかもその間には奴隷となって、他の民族に仕えなければならないという屈辱的なことまで含まれています。もしも信仰と希望がなかったならば、神様の約束は果たされなかったということになっていたでありましょう。

 アブラムも、子どもが与えられないというつらい状況の中で、ただ神から待つことを強いられました。これから先も、すぐにその約束がかなえられるわけではありません。しかし、信仰とは神の約束を信じて待つことです。どんなに苦しい状況にあっても、その状況を神が知っていてくださり、それをいつの日か喜びに変えてくださると、信じて待つことです。どんなに不可能に思えることであっても、もしもそれが必要なことであれば、必ず神がかなえてくださると、希望をもって耐えることです。そして「待つ」ことは決して受動的ではありません。待つということは祈るということです。祈るということは戦うということです。信仰の戦いによって、私たちは内側から強められていくのです。どんな厳しい道を通らなくてはならないとしても、希望をもって待ち続ける私たちでありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができ、感謝いたします。

父なる神様、あなたは一方的な恵みによって私たちと契約を結び、私たちをイエス・キリストの十字架と復活による救いへと導き入れてくださいました。あなたの契約は何があろうとも必ず果たされます。約束は破られることはありません。どうか、約束の実現を忍耐強く、祈りをもって、待ち望むことができますよう、私たちを励ましていてください。今週は猛暑に加えて、台風の接近が予想されています。どうか、兄弟姉妹の心身の健康を支え、様々な危険からお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。