主は立ち帰る者を救われる

マルコによる福音書2章13~17節 2023年8月6日(日)主日礼拝説教

                        牧師 藤田浩喜

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(17節)。この聖句は皆さんもご存じの有名な聖句です。主イエスが徴税人のレビを弟子としてお召しになり、彼の家で仲間の徴税人や罪人たちと食事を共にされていました。その様子を見て主イエスを非難してきたファリサイ派の律法学者に、主イエスはこの言葉をお語りになりました。

 「丈夫な人には医者はいらない。」これは当たり前のことです。しかし私たちは果たして丈夫なのでしょうか。肉体の健康を保つために健康診断が必要なように、私たちは自分の生き方や心のあり方が果たして健全であるか、病んでいないかを診断しなくてはなりません。主イエスの御言葉は鋭いメスのように、あるいはCTやMRIのように、私たちがふだん自覚していない、心の奥にある病巣に迫るのです。私たちは健康でしょうか? 病気ではないでしょうか?

 ここで「丈夫な人」というのは、原語では「力を持っている人」という意味です。他人の力を借りなくても、自分の力で生きていくことのできる人です。主イエスを非難したファリサイ派の人々は、自分の努力で律法を守り、神の御心にかなう人間として生きていけるとうぬぼれていました。そして律法を持たない異邦人や、律法を守ることのできない罪人を軽蔑していました。主イエスはこのように、神の助けがなくても人間の力で生きることができると自負している人のことを、「丈夫な人」と呼んで皮肉(ひにく)っておられるのです。

 人間のすぐれた知性によって、すばらしい科学文明を築き上げた現代人もまた、神がなくても、人間の知性と人間が生み出した科学技術によって、輝かしい未来を築くことができると自負している「丈夫な人」です。多くの現代人にとって、神は死んだのであり、宗教は弱い人間がすがりつく迷信にすぎません。

 そして私たち自身もまた、自分の知恵や力によって生きていけるとうぬぼれている、「丈夫な人」となってはいないでしょうか。私たちは自分の考えによって将来の計画を立て、それを実現するために必要な学力、技術、財産、権力などを手に入れようと、懸命に努力しています。腕力や外見的な魅力も必要かもしれません。学校教育は私たちが「丈夫な人」として、自分の力で生きていける実力を身に付ける手段になっています。神なき世界では人間の力だけが頼りです。

 このような、人間の力だけが頼りである「丈夫な人」の社会では、隣人はもはや愛する対象ではありません。自分が生きるために蹴落とさなければならない競争相手です。「敵を愛しなさい」というような主イエスの教えは、センチメンタルな弱者の道徳としか見なされません。弱者は敗北し、社会の底辺にまで追いやられる。そのような傾向は、今日の新自由主義や自己責任論の台頭によって一層強まったように思います。こうした油断もすきもない、砂漠のような世界に、私たちは「丈夫な人」として、自分の力によって生きているのです。

 このような自分の力や能力だけを誇る、「丈夫な人」をつくる学校教育において、不登校やいじめなど、様々な問題が起こることは当たり前です。神を見失った現代の世の中で、自分は「丈夫な人」であると思い込んで生きている私たちこそ、最も根の深い文明の病に、知らず知らずのうちに冒されている病人であることを、認めなければなりません。宗教の根本問題は、神が存在するかどうかといった思弁的な事柄ではありません。私たち人間は果たして神なしに生きることができるかという、日常生活に直結する私たちの生き方が問われているのです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」ここで主イエスに病人と呼ばれているのは、主イエスと食事を共にしている徴税人や罪人のことです。徴税人は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国のために、同胞のユダヤ人から重税を取り立て、そのうえ税金のうわまえをはねて私腹を肥やしていました。

ユダヤ人が汚れていると見なしていた異邦人と接触することも多く、異邦人の手先として働いていたので、ユダヤ社会の嫌われ者だったのです。また、ここの罪人とは十戒をはじめとする律法を知らず、守らない人々でした。その中にはクリスマスに登場する羊飼いのような人たちも含まれていたでしょう。律法によってユダヤの民を指導していたファリサイ派の人たちは、彼らを社会の病人と見なし、あたかも伝染病を忌み嫌うように、彼らと食事をすることはもちろん、接触することさえ拒んでいたのです。

 徴税人や罪人たちは社会の落伍者として、一人前の人間とは認められず、だれからも相手にされませんでした。彼らは劣等感と寂しさにさいなまれながら、生きていたに違いありません。徴税人は、大勢の人を招いて食事を振る舞うだけの財力を持っていましたが、それは彼の心の穴を埋めてはくれませんでした。「丈夫な人」の社会は、常にこのように落ちこぼれ、疎外され、差別された人々をつくります。人間が支え合うのではなく、同じ人間を差別し、疎外することこそ、最も深い社会の病気です。「丈夫な人」として生きている時、私たちもこの病に冒されてはいないでしょうか。

 病人は「丈夫な人」のように、自分の力だけでは生きることができず、医師や看護師の助けがなければ一日も生きていけない弱い者です。自分の力に自信をもって生きてきた人も、いったん病気にかかると、そのことを痛感します。重い病気で入院した経験のある人は、不安と心細さに悩まされます。病院の先生や看護師さんの存在がどんなに安心感を与えてくれるかを知っています。

 それは身体上のことだけではありません。私たち人間の存在そのものが、弱く壊れやすい存在なのです。大切なことは、私たちもまた決して「丈夫な人」ではないことを認めることです。自分の力では律法を守ることができず、神の恵みによって支えられなければ、一日も生きることのできない病人であると認めることです。私たちの中には、「丈夫な人」は一人もいません。ただ自分は「丈夫だ」と思い込んでいる病人がいるだけなのです。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。主イエスはそう言われます。たいていの晩餐会や宴会には、いわゆる有名人が第一に招かれて、上席にすえられます。地位や富や業績のある人、人気者のタレントなどはひっぱりだこです。そこにわざわざ病人を招く人はありません。

 しかし医師は病院に、病人だけを招きます。健康な人を招いていたのでは、仕事になりません。毎日毎日、病人だけを相手にして全力で治療する医師の仕事は貴いものです。そしてイエス・キリストは、私たちの魂を癒す、まことの医師として働かれます。罪という死に至る病から私たちを解放し、本当に健康な人間として生かすために、私たちの世界に来られたのです。

 ところで主イエスは、「わたしは罪人を招くために来た」とおっしゃった。ところが、ここでは招かれているのです。徴税人レビが招いている。ここの光景はまことに不思議な光景だと思います。主は、「わたしは罪人に招かれるために来たのだ」と、おっしゃったかのようなのです。

 ある説教者が、ドイツのキリスト者たちの間でなされている食卓の祈りを紹介していました。こういう祈りです。「主よ、来てください。私たちのお客になってください。そして、あなたが与えてくださったものをここで祝福してくださいますように。アーメン。」食卓にお客を迎えた時にも、この祈りはささげられます。この祈りには、次のような信仰が込められているのです。「ここでわたしがもてなす食べ物はあなたがくださったものです。あなたがくださったものを、あなたがここで祝福してください。そうすればこの食卓は真実の食卓になります。

 徴税人のレビがそういう祈りをしたとは言えません。けれども私は、レビの心の中にあったものは同じであったと思います。主イエスを迎えながら、彼は主イエスに迎えられている喜びを味わっているのです。主イエスがここにお客さんになっていてくださるということで、自分がこの方の客として招き入れられたことを、どんなに喜んだかわからない。どんなに豪華なご馳走の並ぶ食卓であっても、これまでの食事はレビの心を満たすものではなかったでしょう。しかし、この主イエスというお客によって、はじめて自分の作った食卓が真実の祝福の中に置かれている。レビはそのことを信じることができて、喜んでいたと思います。

 「あなたが与えてくださったものをあなたが祝福してください」という祈りは、この食べ物で示されているようなわたしの命を、あなたが祝福してくださる時、ここに真実のいのちが生まれる、わたしの生活があるという信頼を言い表しています。それはしかし、食卓についてだけ言い得ることではありません。たとえば、私たちが忙しさの中に、どうしてよいのか分からなくなるようなことがあっても、もし、「主イエスよ、ここに一緒にいてください、この生活はあなたが与えてくださったものです、あなたが祝福してください」と祈ることができれば、どんなにさいわいでしょう。そのような祈りをなし得る確信の中に立つことができれば、私たちはどんな生活にも耐えられるように思うのです。主イエスが招かれるために来てくださったおかげで、主イエスが祝福していてくださることが見える。私たちの人生の中に、主イエスがお客として来てくださったことによって、私たちの人生はこれまでとは違った意味を持つものに変えられるのです。

 徴税人レビは主イエスに召しを受けて、本当にびっくりしたと思います。自分でも見たことがないようなまなざしで、自分の生活、自分を見て、祝福して、わたしについて来てごらん、あなたは健康になれる、と言ってくださった方があるのです。そう言われて気づいたのです。自分が病んでいたことを。人間としてまともに生きていなかったことを。どんな人々の厳しい言葉によるよりも、軽蔑の言葉によるよりも、痛い思いで知ったと思います。主イエスの愛はそういうふうに、私たちの間違った生活に気づかせます。そして呼び出してくださいます。わたしについて来い、と言われます。わたしの後について来ればそれでいいのだ、と言われます。わたしのいる所にいてくれればいいのだと言われます。わたしの祝福の中にいてくれれば、それであなたは健やかになれると言われます。それが、主イエスの招きなのであります。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今御子イエス・キリストは、わたしたちのところに客となって来てくださいました。それは「丈夫な人」と思い込んでいる私たちが本当は「病める者」であることに気づかせ、主が与えてくださる祝福と平安によって私たちを癒すためであります。どうか、その癒しを心を開いて素直に受け取ることができますよう、私たちを導いていてください。日本列島は今、大きな被害をもたらす台風と異例とも言える酷暑に見舞われています。どうか、この新しい一週間をあなたの御手の守りの中で無事に過ごすことができますよう、一人一人を支えていてください。今日は広島に原爆が落とされた日です。私たちの世界が核使用という愚かさを二度と繰り返すことがないよう、どうか導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。