日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 コリントの信徒への手紙一 3章6-9節
説 教 「成長させてくださる神」 藤田百合子
主日礼拝
午前10時30分 特別伝道礼拝 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) 創世記15章5-6節
(新約) エフェソの信徒への手紙1章3-5節
説 教 「神の選び」 川越弘牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 コリントの信徒への手紙一 3章6-9節
説 教 「成長させてくださる神」 藤田百合子
午前10時30分 特別伝道礼拝 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) 創世記15章5-6節
(新約) エフェソの信徒への手紙1章3-5節
説 教 「神の選び」 川越弘牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マルコによる福音書10章17-22節
説 教 「金持ちの男」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約) 創世記12章1-9節
(新約) ヘブライ人への手紙11章8-10節
説 教 「わたしが示す地に行きなさい」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マルコによる福音書9章33-37節
説 教 「一番偉いのはだれか」 髙谷史朗長老
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)
聖 書
(旧約) エゼキエル書13章1-7節
(新約) マルコによる福音書9章14-29節
説 教 「信仰の生まれるところ」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書9章2~13節 2024年9月29日(日) 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
主イエスは先週の箇所で、「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(9:1)と言われました。今日の「イエスの姿が変わる」山上の変貌の出来事は、その「六日の後」に起こったのでした。「六」という数字は完全数である「七」の一つ前の数字です。先週の箇所で主は「神の国が力にあふれて現れる」ことを預言されました。それゆえ、今から起こる山上の変貌の出来事は、主イエスの再臨という究極的な出来事ではありません。それ以前に起こる栄光の出来事、主イエスにおいて「神の国が力にあふれて現れる」出来事の一つなのでしょう。
主イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られます。この高い山は、ナザレの南東数キロの地点にある標高562メートルのタボル山だと言われています。その高い山の頂上に到着した時、驚くべきことが起こりました。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」(2~4節)。白は天の御使いの衣が輝く白であったように、主イエスがこの世のものならぬ、天上の栄光に覆われていたことを示しています。しかもモーセのように神様の栄光を受けて照り輝いていたのではなく、主イエス御自身の内から放たれる栄光によって輝いていました。まさに神の独り子としての栄光に輝いておられたのです。
また、主イエスの他にモーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合っていました。皆さんもご承知の通り、モーセはイスラエルの民に神の律法を伝えた指導者でした。またエリヤはモーセの時代から下った紀元前9世紀の北イスラエル王国で活躍した代表的な預言者でした。二人は旧約聖書の律法と預言を代表する両巨頭と言ってもよいでしょう。主イエスはここで二人と何を語り合っておられたのか。主イエスは二人と語り合い、御自身の言葉と御業が神のご計画の正しい実現であることを確認されていたのではないでしょうか。この山上でモーセとエリヤと語り合うことによって、神の救いの計画の全体が想起されます。主イエスは受難予告で示されたように、これから受難、十字架、復活の道を進んで行かれます。それゆえ主イエスがこれから進もうとされている道が、神の救いの歴史全体の中で決定的な事柄であることを、この出来事は暗示しているのです。旧約聖書の代表であるモーセとエリヤによって、神の御子イエス・キリストが歩もうとしている道が、神の救いの御計画の成就であることが証されているのです。
さて、この世のものではない光景を見たペトロは、思わず言葉を発してしまいます。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(5節)ペトロたち3人は、目の前に現れたこの世のものではない光景に、恐怖すら感じました。その恐れに押し潰されそうになっていたのでしょう。そのため、とにかくその恐怖を振り払おうと、思いついたことを口にしたのではないでしょうか。いかにも感情のままに動いてしまうペテロらしい振る舞いです。彼はこの世のものでない輝かしい光景を、いつまでもその場に残しておきたいと考えたのでしょう。その素晴らしい光景を、これからもずっと自分が眺めることができるように、主イエス、モーセ、エリヤそれぞれのために、仮小屋を建てることを提案したのでしょう。
しかし、主イエスは輝く栄光に満ちた山の上には留まられません。ペトロがいつまでもメシア・神の子にふさわしい栄光の姿を見続けたいと願っても、主イエスは罪と悲惨に満ちた地上の世界へと降りて行かれます。そして、父なる神様の御心に従って、苦難と十字架の道を進んで行かれるのです。弟子のペトロに求められているのは、その苦難と十字架の主の御後に従うことなのです。
弟子たちが驚き恐れていた時です。「雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』」(7節)雲は出エジプトの民を主なる神が「雲の柱、火の柱」で導かれたように、神がそこに御臨在されたことを示しています。この山上には旧約聖書を代表するモーセとエリヤが現れただけではありません。主なる神御自身が御臨在されました。そして恐れおののく弟子たちに向かって、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と語りかけられたのです。かつて主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者』という声が、天から聞こえ」ました(マルコ1:11)。しかしその神様の声は、受洗された主イエスに向かって語られたものでした。しかしここでは、3人の弟子たちに向かって「これはわたしの愛する子。これに聞け」と言われているのです。
「これはわたしの愛する子。これに聞け」。この神様からの御声こそが、この山上の変貌の出来事の中心です。神様は御自身の愛する御子イエス・キリストに聞くことが、まさに御自身に聞くことだと言われたのです。神様の御心と御業が100パーセント、愛する御子によって行われます。ヨハネによる福音書で主御自身がこう言われています。「なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っているのである」(ヨハネ14:9~10)。そうであるからこそ、信じる者たちに求められているのは、御子イエス・キリストに聞いていくことなのです。その御言葉に聞き従っていくことなのです。
その神様の御声を確かに聞いたと思った弟子たちは、我に返り、急いで当たりを見回します。しかし、あたかも夢から覚めたかのごとく、モーセやエリヤの姿はありません。神様の声が聞こえた雲も見当たりません。ただ主イエスだけが彼らと一緒におられたのです。弟子たちは自分たちと一緒にいてくださる主イエスを見たのです。
「彼らと共におられたイエスを見た」。何が起こったのかと当惑しつつも、主だけは一緒にいてくださったという、弟子たちの安堵感が感じられます。そうです! 真の神でありながら真の人となられた主イエスは、わたしたちがどんな境遇に置かれようとも、共にいてくださいます。私たちの先頭に立って私たちを導かれる方ですが、それだけではありません。わたしたち人間といつも一緒にいてくださいます。わたしたちは主が共にいてくださるわたしたち自身を、信仰の目ではっきり見ることができるのです。
確かに聖書の中の弟子たちのように、地上の人間として歩まれる主イエスを私たちは見ることはできません。しかし死に打ち勝ち復活されたイエス・キリストは、今も聖霊を通してわたしたちと共にいてくださいます。信仰の目によって、イエス・キリストが共にいてくださる自分自身をわたしたちは見ることができます。たとえ死の谷の陰を通っていこうとも、主イエスがわたしたちから離れ給うことはありません。信仰者はそこに、何ものにも換えることのできない安心感を与えられるのです。
さて、9節以下には、山を降りる時に主イエスと弟子たちの間で交わされたやりとりが記されています。まず主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはならない」と命じられました。弟子たちのメシア理解は、「サタン、引き下がれ」と叱責されたペテロを見れば分かるように、きわめて不十分なものでした。メシアが苦難と十字架の道をたどることを彼らは理解していませんでした。それゆえ主イエスは弟子たちの不十分な理解によって大勢の群衆が混乱することのないように、弟子たちに口止めをされたのでしょう。実際、弟子たちは主イエスが受難予告の中で語られた「…三日の後に復活することになっている」という御言葉を、理解することができなかったのです。
また、弟子たちは11節以下で預言者エリヤの到来について、主イエスに質問しています。確かに預言書であるマラキ書には、主なる神様が「大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と言われた御言葉が収められているのです。そして主イエスの時代の律法学者たちは、エリヤの到来はまだ起こってはいない、将来のことだと考えていたのです。しかし主イエスは、そうではなくエリヤはすでに到来したと言われます。そしてそれは、人々に悔い改めを迫り、水による洗礼を授けていたバプテスマのヨハネであったのです。メシア・救い主が到来する前に、人々にその備えをさせるのがエリヤの再来であるヨハネの使命でした。しかしユダヤの領主であったヘロデ・アンティパスは、無残にも彼の首をはねてしまいました。主イエスが言われるように、ヨハネを「人々は好きなようにあしらった」のです。
そして、そのようなユダヤの人々による拒絶は、メシア・救い主である主イエス・キリストにも向けられます。イエス・キリストは、ユダヤの民が長年待望していた救い主でありましたが、人々はそれを理解しませんでした。「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」という聖書の預言が成就することになってしまったのです。こうして救い主を迎える道備えをする再来のエリヤであるバプテスマのヨハネも、救い主である人の子イエス・キリストも、神様に逆らう人間の罪と頑なさのゆえに拒絶され、命を奪われたのです。
しかし、主イエスが受難予告で繰り返されたように、「多くの苦しみを受け…排斥されて殺され、三日の後に復活する」ことによって、救い主イエス・キリストは人間の罪を贖い、神様と人間との間に和解をもたらし、神様のお与えくださる永遠の命へと、私たちを迎え入れてくださったのです。旧約聖書のモーセとエリヤが律法と預言を通して証しした神様の救いのご計画が、十字架への道のりを歩まれたイエス・キリストによって実現したのです。神様は「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われました。このイエス・キリストの苦難と十字架によって人間を救うことが、人間を愛して止まない神様の御心だったのです。
わたしたちの救いは、「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われたイエス・キリストにかかっています。この他のだれによっても、救いは得られません(使徒4:12)。わたしたち信仰者には、わたしたちを先だって導くだけでなく、わたしたちとどんな時も共にいてくださるイエス・キリストがいてくださいます。このお方を信じて、この方を証しする聖書の御言葉に日々生かされて、今しばらくの地上の歩みを続けていきたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と、体面でオンラインで共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。神さま、あなたはわたしたち信仰者に、栄光にみちた主イエスの姿を垣間見させてくださいます。苦難と十字架を歩まれる主イエスこそが、あなたの救いのご計画を成就するメシアであることを示してくださいます。どうか、この真の救い主であるお方の御後に確信をもって従うことができますよう導いていてください。能登半島では巨大な地震の後、今回の未曽有の豪雨によって、大きな被害が出ています。どうか能登にある被災者お一人お一人を支え導いていてください。この切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マルコによる福音書9章2-8節
説 教 「主イエスの姿が変わる」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 山根和子長老
聖 書
(旧約) エジプト記3章11-15節
(新約) マルコによる福音書9章2-13節
説 教 「いのちの光に輝く王」 藤田浩喜牧師
マルコ福音書8章31節~9章1節 2024年9月22日(日) 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
先週の箇所で一番弟子のペトロは、主イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いかけに対し、「あなたは、メシアです」と答えました。ペトロは主イエスを「生ける神の子です」と、正しく告白したのです。それが先週の礼拝で私たちが聞いたことでした。
ところが、今日お読みいただいた8章31節以下の箇所では、立派な告白をして主イエスのお褒めにあずかったペトロが、「サタン、引き下がれ」と厳しく叱責されているのです。どうしてこのようなことになったのでしょう。
今日の8章31節に「それから」とあります。「あなたは、メシアです」とペトロに告白されて「それから」ということです。直後のことです。主イエスは次のように弟子たちに教えられたのです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」主イエスは、これからご自分がどのような道をたどられるのかを語られました。これは受難予告と言われ、マルコによる福音書には3回出てきます。そしてこの受難予告によって、主イエスはご自分がどのようにして神の子・メシアの使命を果たされるのかを、弟子たちに教えられました。その道は、ユダヤの権力者たちに迫害され、その結果として死を避けることができないものであったのです。
それを聞いた弟子たちは、主イエスのおっしゃることが理解できませんでした。メシア・神の子である主イエスが殺されてしまうことなど、あり得ないことでした。あってはならないことでした。そのためペトロは、主イエスをわきへお連れして、いさめ始めたというのです。今からメシアとして大事業をなされようとしている主イエスが、少し弱気になっているように思われて、そのような思いを変えていただこうと考えたのかも知れません。
しかし、そのペトロを主イエスは叱りつけられました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、激烈な言葉を浴びせられたのです。この場面はマタイによる福音書4章1~11節にある、主イエスが悪魔(サタン)から誘惑を受けられた場面を思い起こさせます。この時のペトロは神の救いの業を妨げる者、主イエスを誘惑する者としての役割を演じていました。主イエスはペトロの態度と言葉の中に、サタン自身の働きを感じられたのでしょう。だからこそ、それをきっぱり拒絶するために「サタンよ、引き下がれ」と言われたのです。
ある注解者は次のように言っています。「こうした神の計画を考えずに、専ら人間的な推測のみでイエスの前に立ってイエスを導こうとする考えは、神の計画の邪魔をする悪魔の計略と同じである。」主イエスのことを慮り、主イエスの考えを変えようと、ペトロは主イエスをいさめました。しかし、それがどれほど人間の善意から出ていることであっても、主イエスの前に立って主イエスを導こうとすることは許されません。私たちの先に立って私たちを導かれるのは主イエスであって、私たちは主イエスの御後に従う者に他なりません。そうであるからこそ、私たちは何が主の御心であるかを、祈りにおいて聞いていかなくてはならないのです。神の思いよりも人間の思いを優先させようとする時、神の救いのご計画を妨げてしまうことになるのです。
そして、今申しましたことを、主イエスはあらためて確認なさろうとされたのでしょう。34節にあるように主は群衆たちを弟子たちと共に呼び寄せられました。そして、メシア・神の子に従う者が持つべき覚悟について教えられたのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(34~35節)。
主イエスは、弟子すなわち信仰者というのは、主イエスの御後に従う者であると言われます。そしてそれはまず、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」従うことだと言われるのです。主イエスは、私たちが知っていますように、自分の願いではなく父なる神様の御心に従って、十字架の死という苦い杯を受けられました。人間のどうしようもない罪を贖うために、私たちの負うべき十字架を私たちに代わって背負ってくださいました。その主イエスに従うために私たちがなすべきことは何か? それは、神様の御心に従って、私たち自身も誰かのために十字架を背負うことではないでしょうか。
それは、自分の配偶者や子どもや親のため、自分の家族のために十字架を負うことかもしれません。自分の身近な友だちや地域の人たちのために十字架を負うことかもしれません。また、志や使命感を与えられて、外国の困難に置かれた人たちのために十字架を負うことかもしれません。私たち信仰者には、これが神様の御心だと示され、あえてその人たちのために十字架を負う決断をすることがあるのではないでしょうか。主イエスはそのことがわたしの後に従うことであり、自分の命を失うのではなく救うことになると、言われるのです。
35節と36節で「自分の命」という言葉が4回使われていますが、原語では「プシュケー」という言葉です。「生命」という意味もありますが、「魂」とか「自分自身」という意味もある言葉です。「魂」という場合、「永遠の生命を受けることのできる、最も尊い部分」という意味でもあります。私たちは誰かのために十字架を背負うことによって、主イエスと共に十字架で死にます。しかし死んで終わりではありません。主イエスと共に十字架で死んで初めて、主イエスと共に復活の恵みにもあずかることができるのです。
また、神様の御心に従い誰かのために十字架を背負うことは、「自分自身」を救うことでもあるのです。私たちに生きる目的を与え、人生を生きるに値するものにしてくれるのです。先週15日(日)情熱大陸というテレビの番組で、ケニアのナイロビで活動している小児科医公文和子さんの働きが紹介されていました。実はこの番組は習志野教会の長老さんからお薦めいただいたもので、その長老さんが北海道の札幌北一条教会で教会生活をされていた時、青年会でご一緒だったということでした。公文和子さんは和歌山の熱心なクリスチャンホームで育たれ、北海道大学医学部を卒業された後、小児科医となられました。イギリスで熱帯地医療を学ばれ、医療の十分行き届いていない国々で働かれましたが、厳しい現実に対して、自分の無力さに打ちのめされることもありました。そして様々な経験をされたあと、ケニアのナイロビで障害を持った子どもたちと出会い、その子たちの笑顔を見て、この地で子どもたちと共に生きていこうと決心します。そしてナイロビの地に障害を持った子どもたちの施設「シロアムの園」を設立したのでした。今、50人を超える子どもたちが、このシロアムの園に通い、リハビリと療育を受けています。ケニアでは今でも障害を持った人への偏見が強く、そんな子どもが生まれたのは、親が悪いことをしたからだとか、呪われているからだと思われています。ある子どものお母さんは、「障害がうつるから側に来ないでと言われた」体験を、涙ながらに語っていました。そうした社会にあって、シロアムの園は公文和子先生のやさしい笑顔とあたたかい人柄とのお陰もあって、障害を持つ子どもたちと親たちが安心して通える場所となっています。日本に毎夏帰ってきて講演と募金活動をしながら、シロアムの園の切り盛りをする公文和子先生の苦労は、いかばかりかと思います。しかし、先生自身は障害を持った子どもたちの笑顔こそが、自分を支え生かしてくれている。自分は子どもたちから笑顔をはじめ、多くのものを受け取っていることを伝えたいと言われるのです。
私たちは、公文和子先生のような志の高い行動はできないかもしれません。しかし、自分の身近な人たち、少し関わりのできた人たちのために自分を捧げることによって、「自分自身」が支えられ、励まされる経験をするのではないでしょうか。そのような誰かのために十字架を背負う私たちを、主イエスは「わたしの後に続く者だ」と喜んでくださるのです。
さて、主イエスはさらに36節以下で、次のように言われています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(36~38節)。ここには、主イエスの御後に従う弟子たちが、何に究極の価値を置いて生きるかが教えられています。マタイによる福音書4章8節以下にありますように、神に敵対するサタンは、主イエスに「この世の国々とその繁栄ぶり」を見せました。「わたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と誘惑しました。サタンはこの世界を支配する力を持っていることが分かります。しかし、このサタンに身をかがめて全世界を手に入れたとしても、それを自分の思い通りにすることはできません。全世界をどうかしようと思っても、それは自分の思いではなく、サタンの思いに操られているからです。現代の社会においても、暴力や強権を用いて自分の国を思うがまま支配しようとする独裁君主がいます。しかし、それは自分の思い通りにしているように見えても、それはすべてサタンの思いに操られているのです。しかしそれは有限です。人の子が父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来られる時までしか、存在することはできません。サタンの支配はいつまでも存続することはません。人の子が再臨する時に完全に打ち砕かれ、滅ぼされてしまうのです。
それに対して主イエスの御後に従う信仰者は、主イエスが与えてくださる永遠の命を約束されています。この主にある永遠の命は、信仰者が地上の死を迎えても失われることはありません。しかしサタンに身をかがめて自分の命を失った者には、永遠の滅びが待ち受けているのです。なぜなら第一の死の後には永遠の命がありますが、第二の死の後には永遠の滅びだけがあるからであります。
主イエスは今日の最後の9章1節で、このように言われました。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」この主イエスの言葉には、いくつかの解釈が提案されてきました。これは主イエスの再臨のことを語っていると言う人もおります。そうすると弟子たちが生きている間に、主イエスが再臨されると預言されたことになります。しかし、他の解釈をする人もいます。ある人たちは「神の力があふれて現れる」時を、次週学ぶ主イエスが山上で栄光の姿に変わった時だと言います。また別の人は、その時は主イエスが十字架の死から復活された時だと言います。そしてまた、天から聖霊が下されたペンテコステの時だと考える人もいるのです。いずれが正しいかは分かりません。むしろその一つ一つが、「神の国が力にあふれて現れた」出来事だと言えるのではないかと思います。
悩み多き時代です。不条理がこの世には充ち満ちているように感じます。しかし信仰者は、神の国が力にあふれて現れる究極の時として再臨の時を待ち望んでいます。そして、それだけではありません。主イエスは「神の国が力にあふれて現れる」出来事を、私たちの生きる時代にももたらしてくださいます。神の御支配は、私たちの時代にも確かに現れ出るのです。そのことを信じて、希望を抱きつつ信仰者としての歩みを続けていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と対面で、オンラインで共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。今日も聖書の御言葉を示され、主イエスの御後に従う者としての道を示されました。主は私たち一人ひとりの罪のために十字架を背負ってくださいました。私たちは自分のために十字架を背負っていく必要はありません。どうか私たちを、主イエスがそうであったように、誰かのために十字架を背負う者として導き支えてください。立秋からだいぶ経っても、猛暑日の続く日々です。どうか、兄弟姉妹一人ひとりの心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マルコによる福音書8章27-37節
説 教 「ぺトロの信仰告白」 山﨑和子長老
午前10時30分 司式 三宅恵子長老
聖 書
(旧約) 創世記9章8-17節
(新約) マルコによる福音書8章31節-9章1節
説 教 「主に従う真実な道」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マルコによる福音書7章14-23節
説 教 「人を汚すものは何か」 高橋加代子
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) ゼカリヤ書8章1-9節
(新約) マルコによる福音書8章27-30節
説 教 「イエスとは何者か」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マルコによる福音書2章1-12節
説 教 「中風の人のいやし」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約) ヨナ書4章5-11節
(新約) ヨハネによる福音書3章16-17節
説 教 「命を惜しみ給う神の愛」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マルコによる福音書1章16-20節
説 教 「4人の漁師を弟子にする」山根和子長老
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)
聖 書(旧約) エレミヤ書29章4-14節
(新約) マルコによる福音書8章22-26節
説 教 「主イエスが見えるようになる」藤田浩喜牧師