神に知恵を願いなさい

ヤコブの手紙1章1~8節(Ⅱ) 2026年2月22日(日) 主日礼拝説教

                         牧師 藤田浩喜

 先週からヤコブの手紙を読み始めていますが、今日は1章1~8節の2回目です。先週は信仰者が試練に遭うとき、それを忍耐して受け留めることで信仰が強められていくこと、試練に遭遇する兄弟姉妹に寄り添うことができることを学びました。今日の箇所の後半5~8節では、「知恵」に欠けてはいけない、「知恵」を神さまに願いなさいと、ヤコブは勧めているのです。

 5節を読んでみましょう。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてをしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」「知恵」と言われていますが、「知恵」とはなんでしょう。長年の努力と研究によって得られた科学的知識のようなものも「知恵」と言えるでしょう。あるいは人生において様々な経験をする中で習得してきた知見やコツのようなものも「知恵」と言えるでしょう。

 しかし今日読んでいただいた旧約聖書 箴言3章13節以下で、「知恵」はこう歌われていました。13~14節「いかに幸いなことか/知恵に到達した人、英知を獲得した人は。知恵によって得るものは/銀によって得るものにまさり/彼女によって収穫するものは金にまさる。」知恵は、地上の金銀にまさる値打ちのあるものであることが分かります。そして17~18節では、こう続きます。「彼女の道は喜ばしく/平和のうちにたどっていくことができる。彼女をとらえる人には、命の木となり/保つ人は幸いを得る。」知恵はそれを得た人に、喜びと平和、命と幸いをもたらすことが語られます。そして、その知恵とは人間の知恵ではなく、主なる神の知恵であることが明らかにされるのです。19~20節です。「主の知恵によって地の基は据えられ/主の英知によって天は設けられた。主の知識によって深淵は分かたれ/雲は滴って露を置く。」

 この知恵は、人間の知恵ではなく神からの知恵です。現実をありのままに見つめながら、背後に隠されている神の御心を正しく捉えて、それに従って決断し、行動を起こさせる知恵です。その知恵は自分を愛することのできる知恵であり、自分に与えられている地上の生を大切だと知らせてくれる知恵です。箴言で歌われていたように、生きていることを喜ぶことができるようにさせてくれる知恵です。そういう知恵が私たち人間には必要なのであり、そのような知恵を神さまに願いなさいと、著者ヤコブは言うのです。

 しかし、そのような神さまからの知恵をどうやって私たちは得ることができるのでしょう。5~6節前半を読みます。「だれにでも惜しみなくとがめだてをしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」。お与えになる神さまと、疑わず信仰をもって願う人間が、ここでは呼応する関係に置かれます。神さまは、「だれにでも」お与えになります。富める者も貧しい者も、この世で重んじられている者もそうでない者も、経験のある者もない者も、「だれにでも」お与えになります。これが第一点です。

 第二点は「惜しみなく」です。神さまは出し惜しみなどなさいません。求められたものを求められたままに、気前よく出して下さるのです。

 そして第三点として、「とがめだてをしないで」です。これについてある人は、次のように注釈しています。「とがめだてをしないでという言葉が付け加えられているのは、だれかがあまり何度も神に来ることを、恐れないようにするためである。人々の中では、最も寛容な人であっても、だれかが何度も助けを願うと、前に親切にしてやったことを述べて、もう将来は助けない口実をつくるものだ。しかし、神はこのようなことはない。神は終わりも限度もつけないで、神の祝福に新しいものを加える用意がある。」神さまは出し惜しみすることもなさらず、「そんなものまで求めてくるのか」と責めたりすることもなさらずに、何の条件も取り引きもなさらずに、私たちに必要な知恵を与えて下さる、それが神さまであるということです。

 このような神さまに願うのですから、私たち人間の願い求めも神さまに呼応していなくてはなりません。100パーセント与えて下さる神さまに、人間の方も100パーセントの願い求めをしなくてはなりません。「ひたすら与えること」が神さまの本質であるなら、「ひたすら祈ること」が私たち人間の本質でなくてはなりません。だからこそヤコブは、「知恵」を求めようとするときに、「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」と勧めるのです。

 牧師である私にとって、知恵とは何よりも説教についての知恵です。毎週説教について悪戦苦闘しています。学べば学ぶほど、わからないことが増え、未知の領域が広がっていきます。また、自分の知っていること、経験したことだけを語るだけなら、すぐに尽きてしまいます。しかし求めることで、神さまは与えてくださいました。知恵なき者、むしろ知恵がない者であることを知っているからこそ、求めなければならないのです。すると思いがけなく、新しい世界が開かれてくるのです。「神に願いなさい。そうすれば、与えられるの」のです。

 反対に、そうでない求め方や願い方をするならば、どうでしょう。ヤコブは私たちの現実を見透かすかのように、こう言うのです。6節後半~8節です。「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」そういう人は「心がさだまらず」と訳されています。元々の意味は「二つの心」という言葉です。私たちの中に二つの心があって、こっちに行ったりあっちに行ったりするのです。その様は、「風に吹かれて揺れ動く海の波」にもたとえられます。風が海の波を大きく動かすことは、たとえば台風などが来たとき私たちが見聞きすることです。波にコルクが浮いていたとします。すると風が吹くとコルクはどうなるでしょう。岸辺にいたかと思うと、すぐに沖の方に流されてしまいます。留まるところを知りません。そのコルクのように、私たちの心はあっちに行ったり、こっちに来たりして、落ち着くことがありません。その結果、生き方全体が安定を欠いた、不確かなものになってしまうのです。

 その人は、二つの心、二つの魂を持つ者です。一方で神を信じていると自分のことを認めながら、他方で神を信じることの愚かさや頼りなさを心に抱いている者です。目に見えないものの中に確かさがあると思いながら、他方で目に見えるこの世の物にしっかり頼っている者です。神に向かって祈りはするけれども、同時に祈っても聞き届けられることはないと、心のどこかで考えている者です。心の内側に響いて来る上からの声に耳を傾けながら、同時に外から届くこの世の声にも従って行く者です。それが二心の者であり、心が定まらない者であり、従ってその人は生き方全体に安定を欠く者になってしまう、とヤコブは言うのです。

 こうした「二心をもつ」ことは、私たちにも無関係ではありません。それどころか、私たちは心を見透かされてしまったような「ばつの悪さ」を、感じているのではないでしょうか。しかしヤコブはズバッと、「そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません」と言います。信仰者として生き抜く「知恵」を、神さまからいただくことはできないと、断言するのです。

しかし、神さまはそのような私たちの弱さや煮え切らなさをも、ご存じです。そのような二心に揺れる私たちが、神さまにのみ、ひたすら心を向けることができるように、私たちへの愛がどれほど深く大きいものであるかを、示されます。それだけでなく、弱い私たちがひたむきに神さまに求めることができるよう、「聖霊」を与えて下さるのです。

使徒パウロはローマの信徒への手紙8章31節以下(新約285頁)で、こう言っています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」神さまは私たちすべてのために、最愛の御子をさえ惜しまずに、ささげてくださいました。神さまの私たちへの愛の深さと大きさは、御子イエス・キリストの十字架にさやかに啓示されています。このお方を他にして、私たちが依り頼むお方は他にありません。私たちはこのお方だけを見つめ、このお方だけに我が身をゆだねるとき、「我が心、さだまれり」と決断することができます。それによって私たちの生き方全体が、揺らぐことのない確かなものにされるのです。

また、主イエスご自身がルカによる福音書11章9節以下で、こう言われています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」主イエスは、あなたがたの願う神は、人間の父親よりももっと、子どもの願いを聞いてくださる方であると言われます。そこに、私たちが神さまに願い求めをする拠り所もあります。

 そしてそこで最後に主イエスは、次のように言われるのです。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。神さまは私たちが弱い者であり、煮え切らない者であることをご存じです。そのような私たちが、信仰者として生き抜く「知恵」を神さまからいただくことができるよう、神さまは聖霊を働かせてくださいます。神さまご自身が聖霊を注ぎ、私たちがただひたむきに父なる神と向かい合って生きていけるよう、私たちを整えてくださるのです。そこまで懇ろ(ねんごろ)に私たちを導いていてくださるのが、私たちの信じる神さまなのです。この神さまを心から崇め、感謝と讃美を捧げましょう。そして、信仰者として生き抜いていくための「知恵」を、一途に祈り求めていきましょう。お祈りをいたします。

【祈り】

 主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。私たちはあなたの御国を目指しつつ、地上の旅を続けています。しかし、私たちは弱く煮え切らない生き方をしてしまいます。二つの心を、行きつ戻りつしながら、天の声と地上の声の間を揺れ動きます。そこには、不安定さしかなくなく、まことの平安がありません。神さまどうか、私たちに聖霊を注いでくださり、あなたが与えてくださる「知恵」を一心に求めることができるよう、私たちを導いてください。昨日今日は暖かくなりました。春が近づいているのを感じます。しかしまだ気候は不安定で、インフルエンザなども猛威を振るっています。どうか、教会につながる兄弟姉妹を顧み、その健康をお支えください。この拙き感謝と願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。

アアメン。

次週の礼拝 3月1日(日)レントⅡ

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ルカによる福音書19章1~10節

説  教   「徴税人ザアカイ」  髙谷史朗長老

 

主日礼拝   

午前10時30分    司式 藤田浩喜牧師

聖     書

 (旧約) イザヤ書40章6~8節   (聖餐式を執行します)

 (新約) ヤコブの手紙1章9~11節

説  教   「低くされていることの誇り」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝  2月22日(日)レントl

日曜学校  

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    創世記11章1~9節

説  教   「バベルの塔」  山﨑和子長老

 

主日礼拝   

午前10時30分       司式 山根和子長老

聖     書

 (旧約) 箴言3章13~20節   

 (新約) ヤコブの手紙1章1~8節(Ⅱ)

説  教   「神に知恵を願いなさい」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝  2月15日(日)

日曜学校  

 午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    創世記9章1~17節

説  教   「契約」  藤田百合子

 

伝道礼拝   

 午前10時30分       司式 山﨑和子長老

聖     書

 (旧約) 創世記18章16~33節   

 (新約) ルカによる福音書23章32~34節

説  教   「執り成す人として生きる」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝  2月8日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    創世記6章9~22節

説  教   「箱舟」  藤田浩喜牧師

 

主日礼拝  

午前10時30分        司式 三宅恵子長老

聖     書

 (旧約) 列王記上3章9~13節   

 (新約) ヤコブの手紙1章1~8節 (Ⅰ)

説  教   「試練に出会うときは」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝 3月8日(日) レントⅢ

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ルカによる福音書19章28~40節

説  教   「エルサレム入城」  藤田浩喜牧師

 

主日礼拝   

午前10時30分      司式 髙谷史朗長老

聖     書

 (旧約) 創世記18章1~15節

 (新約) ヘブライ人への手紙13章1~2節

説  教   「望みなき者の笑い」  藤田浩喜牧師

辱められ、罵られても

マルコによる福音書15章21~32節  2026年1月25日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜 

 主イエスは、十字架の苦しみをお受けになりました。それは文字通りの死に至る苦しみでした。しかも、まことの神の御子でありながら、人々に罵(ののし)られ、辱められるというものでした。この十字架に架けられたお方を、私たちは我が主、我が神と信じ、今朝も礼拝しています。この主の十字架こそ私たちの救いの根拠であり、神様の愛と真実が現れたものだからです。

 今朝与えられております御言葉において、主イエスが十字架に架けられた時、兵士たちは主イエスの服をくじ引きにして分け合い、主イエスの十字架を見た人々は主イエスを罵り、辱めて、こう言ったと記されています。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」このように、主イエスは十字架に架けられても尚、罵られ、辱められたのです。何ということかと思います。 

 しかし、先ほど読んでいただきました詩編22編には、すでにこの情景が預言されていました。22編8~9節「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。』」そして、18~19節「骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」とあります。これは明らかに今朝与えられている主イエスの十字架の場面と重なります。この詩編の言葉は、主イエスが十字架の上で人々に罵られ、辱められたこと。そして主イエスの服が兵士たちによってくじ引きされて分けられたという、今朝の御言葉が告げる主イエスの十字架の場面と全く重なるわけです。このことは、主イエスの十字架の出来事が、神様の永遠の御計画の中にあったことを意味しているのでしょう。主イエスが十字架の上で、人々に罵られ辱められることを、神様は御存知であったということです。そして、それは主イエスも承知の上であったということでしょう。では、なぜ主イエスはこれほどまで人々に辱められ、罵られなければならなかったのでしょうか。ここには、主イエスの十字架の意味が隠されているのです。

 主イエスの十字架での苦しみの意味、それは、どんな状況の中に生きる人に対しても、「わたしはあなたを知っている。あなたの苦しみも困難も知っている。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを見捨てない。あなたの苦しみ、嘆きをわたしは共に負っている。だから大丈夫。」そのように主イエスは語りかけ、苦しみのただ中にある者と共に歩む神であられるからです。それゆえ、主イエスは十字架の上で、肉体的にも精神的にも、人間が味わう極限の苦しみを味わわれたのです。

 私たちは肉体的な痛みに弱いです。虫歯ができただけでも、情けないほどに弱ってしまいます。しかし、主イエスがここで受けている肉体の痛みは、死ぬまで続く痛みです。死に至る痛みなのです。手と足に釘を刺され、十字架に磔(はりつけ)にされる。傷口から血が流れ出て、出血多量のショック死に至る。午前9時に十字架に架けられてから、午後の3時に息を引き取るまで続く痛みです。23節には「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった」とあります。「没薬を混ぜたぶどう酒」というのは、痛みを和らげるための麻酔薬と思ってよいです。主イエスは、それを受けることを拒まれたのです。それは、十字架での痛み、死にいたる苦しみを味わい尽くすためでした。

 また、私たちは人から辱めを受けることがあれば、もう生きていけないと思うほどに心が萎えてしまいます。あるいは、人に罵られれば、一生忘れることができない悔しさを心に秘めることにもなるでしょう。主イエスはここで、私たちが味わう肉体的痛み、心の痛み、そのすべてを極限まで味わい尽くされたのです。ヘブライ人への手紙4章15節。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」と告げている通りです。私たちの痛みも嘆きも、主イエスは御存知なのです。そして、私たちの痛みも嘆きも、御自分のものとしてくださるのです。そのことによって、主イエスは私たちの痛みと嘆きの向こうにある明日、さらに死の向こうにある復活の命へと私たちの目を向けさせ、私たちをそこへと招いてくださるのです。

 主イエスは、一人で十字架の上で死なれたのではありません。主イエスの右と左には、同じように十字架に架けられた者がおりました。彼らは強盗であったと聖書は記します。十字架に架けられて処刑されても仕方のない犯罪者でした。主イエスはその強盗と一緒に十字架に架けられたのです。それはまさに、死に至るまで罪人と共に歩まれる、神の御子の姿です。主イエスは、天地が造られる前から、天地を造られた父なる神と共に天におられました。しかし、そこから降って来て、馬小屋に生まれ、罪人と共に食事をし、病人を癒やし、そして最後は犯罪人と一緒に処刑されたのです。どこまでも罪人と共に歩まれる神の御子、どこまでも低きに降る神の御子の姿がここにあります。

 私たちの中には、少しでも人より上に行こうとする思いがあります。しかし、主イエスはどこまでも低きに降ろうとされます。その極みが十字架だったのです。それは、どこまでも弱い者、小さい者、罪の中にある者と共にあり、誰一人としてお見捨てにならないお方だからです。だから、私たちはこの方を信じてよいのです。自分にとって得になる人にはよくしてやる。それが私たちにとっては普通でしょう。しかし、それは愛ではありません。主イエスによって示された愛ではないのです。主イエスはこの十字架において、まことの愛とはどういうものであるかを示してくださったのです。

 

 主イエスが受けた罵(ののし)りは、「十字架から降りて自分を救ってみろ」、「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」というものでした。もし、主イエスがこの時十字架から降りたなら、私たちを救うために来られなされた歩みが、すべて無駄になってしまいます。それだけではありません、天地創造以来の神様の永遠の御計画が無に帰してしまうのです。そして、誰一人救われる者がいなくなってしまうわけです。ですから、主イエスは十字架からお降りになりませんでした。

 しかし、この時ほど、主イエスとサタンとが激しく戦われた時はなかったのではないかと思います。この主イエスを罵る人々の背後にはサタンが働いている、そう言ってよいでしょう。サタンは、神様の救いの御計画、主イエスの十字架によって成就する救いの御業を失敗させるために、最後の最も激しい誘惑、霊的戦いを主イエスに仕掛けていたのだと思います。もし、主イエスがこの辱めに耐えかねて、「我こそはメシア、神の独り子、イスラエルの王である」と言って十字架から降りてしまえば、サタンの勝利でありました。しかし、主イエスはこの最大の誘惑を退けられ、十字架の上で痛みと苦しみを味わい尽くされたのです。それは私たちの救いのためでした。それは私たちへの愛のゆえでした。この主イエスが、私たちと共にいてくださるのです。私たちのために、私たちに代わって戦ってくださるのです。

 聖霊なる神様は、私たちに主イエスの十字架の御姿をはっきりとお示しになり、その愛の確かさ、救いの決意を教えてくださいます。この十字架の前で、私たちは目覚めさせていただくのです。自分の罪、自分の傲慢、自分の愚かさ、自分の怠惰、自分の思い違い、それをはっきりと知らされ、神様の御前に悔い改めるのです。主イエスのもとに、神様のもとに立ち帰るというのは、この悔い改めを必要とします。この悔い改めは、主イエスの十字架のもとで、十字架の主イエスとの出会いの中で起きることなのです。主イエスは御自分を救わず、私たちを救ってくださった。十字架から降りず、すべての痛みを味わい尽くされた。私のためにです。そのことを知ったとき、私たちは正直になれる。素直になれる。神様の御前に自らの罪を認める。そして「お赦しください、憐れんでください」と祈ることができるのです。

 私たちにとって、体の痛みは本当に辛いものです。しかし、その痛みの中でこそ、十字架の主イエスが共におられるのです。そして、私たちに語りかけてくださる。「わたしはあなたの痛みを知っている。あなたはひとりではない。ほら、わたしが共にいる。わたしはあなたをひとりにしない。」また、人に罵られ、辱められ、心が萎え、生きる気力も失いかけた時、頭に血が上り、怒りに支配されそうになった時、十字架の主イエスが私たちに語られるのです。「わたしはあなたの怒りを、嘆きを、悲しみを、苦しみを、知っている。わたしも十字架の上でひとりだった。皆がわたしを罵り、嘲った。弟子たちも皆、わたしを捨てて逃げた。だから、わたしは知っている。だから、怒りに身を任せてはいけない。悲しみに支配されてはいけない。わたしが共にいる。わたしはあなたのために明日を備えている。それは十字架の死の後の、復活という明日だ。この悲しみの中でこそ、嘆きの中でこそ、あなたは十字架のわたしと一つになっている。だから、大丈夫。わたしは主。あなたを贖うために十字架に架かった者。」この御声を私たちが聞くなら、私たちは立ち直ることができるのです。

 主イエスの十字架の罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれていました。これは、主イエスがユダヤ人の王と称した、ユダヤを支配しているローマに反逆した者という意味で付けられたものでした。しかし、そこにはただ「ユダヤ人の王」とだけ書かれていたのです。「ユダヤ人の王と称した者」とか「ユダヤ人の王としてローマに反逆した者」とは書かれていなかった。ただ「ユダヤ人の王」です。

 ユダヤ人の王。神の民であるユダヤの本当の王は、神様しかおられません。これは旧約以来の、神の民の基本的な理解です。この罪状書きは図らずも、主イエスがまことの神であられることを示す表札の役割を果たすことになってしまったのです。まことの神であられるユダヤ人の王は、この十字架に架けられた主イエスである。そのことを示すことになったのです。その意味では、この十字架がユダヤ人の王、まことの神としての主イエスの即位式となったのです。

 私たちはこのまことの王である主イエスのもの、主イエスに属する者とされたのです。クリスチャン、キリスト者とは、キリストのものとされた者ということです。私たちは、この十字架にお架かりになった主イエスのものなのです。主イエスの御支配のもとに生かされており、主イエスの復活の命に与る者とされているのです。ですから私たちは最早、自分のために生きるのではないのです。私たちの人生は、ただ一人の主であり王である主イエスのものだからです。このお方と共に、このお方のために生きる。そこに私たちの喜び、希望、誇りがあるのです。この恵みに感謝し、ご一緒に主をほめたたえましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を心から褒め称えます。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。神さま、あなたは御子イエス・キリストを私たちの世界に遣わされました。主イエスは十字架に架けられ、すべての肉体的痛みと精神的な苦しみを経験されました。そのことを通して、主イエスは「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われ」ましたが、それは主イエスが徹頭徹尾、弱い私たちと共に歩んでくださるためでした。どうか、そのことを決して忘れることがありませんよう、わたしたちの心に刻ませてください。今日は午後に年に一度の教会総会を行います。この教会会議を通して、過ぎし一年のあなたの恵みの感謝し、新しい一年の伝道のビジョンを与えられますよう、この教会総会を終始導いていてください。この拙き切なるお祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 2月1日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    創世記4章1~16節

説  教   「カインとアベル」  三宅光 

主日礼拝  

午前10時30分      司式 髙谷史朗長老

聖    書(旧約) イザヤ書60章1~7節   (聖餐式を執行します)

(新約) フィリピの信徒への手紙4章10~23節

説  教   「神に栄光」  山田矩子教師

次週の礼拝  1月25日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    創世記3章1~13節

説  教   「蛇の誘惑」  高橋加代子

 

主日礼拝  

午前10時30分     司式 山根和子長老

聖     書

 (旧約) 詩編22編7~22節 

 (新約) マルコによる福音書15章21~32節

説  教   「辱められ、罵られても」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝  1月18日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ルカによる福音書4章1~13節

説  教   「荒れ野の誘惑」  山﨑和子長老

 

主日礼拝  

午前10時30分        司式 山﨑和子長老

聖     書

 (旧約)エレミヤ書33章1~11節 

 (新約) マルコによる福音書15章16~21節

説  教   「悲しみの道」 藤田浩喜牧師