次週の礼拝  11月24日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    コヘレトの言葉12章1-14節

説  教   「青春の日々にこそ、創造主に心を留めよ」 藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分  司式 山﨑和子長老

聖     書

  (旧約) 創世記2章18-24節   

  (新約) マルコによる福音書10章1-12節

説  教 「いつも十字架の恵みを見上げて」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝  11月17日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    箴言30章7-9節

説  教   「二つの願い」 高橋加代子

主日礼拝   

午前10時30分   司式 髙谷史朗長老

聖     書

  (旧約) イザヤ書66章22-24節   

  (新約) マルコによる福音書9章42-50節

説  教  「神の国に入ろう」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝   11月10日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    箴言6章20節

説  教   「父母の教えを守れ」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分(召天者を覚える日) 司式 山根和子長老

聖     書

  (旧約) 詩編16編1-11節   

  (新約) ヨハネの手紙一 2章28節-3章3節

説  教  「御子に似た者となる望み」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝   11月3日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    詩編8編4節

説  教   「人間は何ものなのでしょう」 渡辺望

主日礼拝   

午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖     書

  (旧約) 詩編22編23-32節    

  (新約) マルコによる福音書9章38-41節 

説  教 「微笑みをたたえて生きる」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝   10月27日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   コリントの信徒への手紙一 12章12-27節

説  教   「共に苦しみ、共に喜ぶ」 山﨑和子長老

主日礼拝   

午前10時30分  神学校日  司式 三宅恵子長老

聖     書

  (旧約) 詩編8編1-10節  

  (新約) マルコによる福音書9章30-37節 

説  教  「人間の偉さとは何か」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝  10月20日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   コリントの信徒への手紙一 3章6-9節

説  教   「成長させてくださる神」 藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分  特別伝道礼拝  司式 山﨑和子長老

聖     書

  (旧約) 創世記15章5-6節  

  (新約) エフェソの信徒への手紙1章3-5節 

説  教   「神の選び」  川越弘牧師

次週の礼拝  10月13日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マルコによる福音書10章17-22節

説  教   「金持ちの男」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分      司式 髙谷史朗長老

聖     書

  (旧約) 創世記12章1-9節  

  (新約) ヘブライ人への手紙11章8-10節 

説  教  「わたしが示す地に行きなさい」  藤田浩喜牧師

いのちの光に輝く主

マルコによる福音書9章2~13節 2024年9月29日(日) 主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

主イエスは先週の箇所で、「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(9:1)と言われました。今日の「イエスの姿が変わる」山上の変貌の出来事は、その「六日の後」に起こったのでした。「六」という数字は完全数である「七」の一つ前の数字です。先週の箇所で主は「神の国が力にあふれて現れる」ことを預言されました。それゆえ、今から起こる山上の変貌の出来事は、主イエスの再臨という究極的な出来事ではありません。それ以前に起こる栄光の出来事、主イエスにおいて「神の国が力にあふれて現れる」出来事の一つなのでしょう。

主イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られます。この高い山は、ナザレの南東数キロの地点にある標高562メートルのタボル山だと言われています。その高い山の頂上に到着した時、驚くべきことが起こりました。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」(2~4節)。白は天の御使いの衣が輝く白であったように、主イエスがこの世のものならぬ、天上の栄光に覆われていたことを示しています。しかもモーセのように神様の栄光を受けて照り輝いていたのではなく、主イエス御自身の内から放たれる栄光によって輝いていました。まさに神の独り子としての栄光に輝いておられたのです。

 また、主イエスの他にモーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合っていました。皆さんもご承知の通り、モーセはイスラエルの民に神の律法を伝えた指導者でした。またエリヤはモーセの時代から下った紀元前9世紀の北イスラエル王国で活躍した代表的な預言者でした。二人は旧約聖書の律法と預言を代表する両巨頭と言ってもよいでしょう。主イエスはここで二人と何を語り合っておられたのか。主イエスは二人と語り合い、御自身の言葉と御業が神のご計画の正しい実現であることを確認されていたのではないでしょうか。この山上でモーセとエリヤと語り合うことによって、神の救いの計画の全体が想起されます。主イエスは受難予告で示されたように、これから受難、十字架、復活の道を進んで行かれます。それゆえ主イエスがこれから進もうとされている道が、神の救いの歴史全体の中で決定的な事柄であることを、この出来事は暗示しているのです。旧約聖書の代表であるモーセとエリヤによって、神の御子イエス・キリストが歩もうとしている道が、神の救いの御計画の成就であることが証されているのです。

さて、この世のものではない光景を見たペトロは、思わず言葉を発してしまいます。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(5節)ペトロたち3人は、目の前に現れたこの世のものではない光景に、恐怖すら感じました。その恐れに押し潰されそうになっていたのでしょう。そのため、とにかくその恐怖を振り払おうと、思いついたことを口にしたのではないでしょうか。いかにも感情のままに動いてしまうペテロらしい振る舞いです。彼はこの世のものでない輝かしい光景を、いつまでもその場に残しておきたいと考えたのでしょう。その素晴らしい光景を、これからもずっと自分が眺めることができるように、主イエス、モーセ、エリヤそれぞれのために、仮小屋を建てることを提案したのでしょう。

 しかし、主イエスは輝く栄光に満ちた山の上には留まられません。ペトロがいつまでもメシア・神の子にふさわしい栄光の姿を見続けたいと願っても、主イエスは罪と悲惨に満ちた地上の世界へと降りて行かれます。そして、父なる神様の御心に従って、苦難と十字架の道を進んで行かれるのです。弟子のペトロに求められているのは、その苦難と十字架の主の御後に従うことなのです。

弟子たちが驚き恐れていた時です。「雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』」(7節)雲は出エジプトの民を主なる神が「雲の柱、火の柱」で導かれたように、神がそこに御臨在されたことを示しています。この山上には旧約聖書を代表するモーセとエリヤが現れただけではありません。主なる神御自身が御臨在されました。そして恐れおののく弟子たちに向かって、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と語りかけられたのです。かつて主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者』という声が、天から聞こえ」ました(マルコ1:11)。しかしその神様の声は、受洗された主イエスに向かって語られたものでした。しかしここでは、3人の弟子たちに向かって「これはわたしの愛する子。これに聞け」と言われているのです。

「これはわたしの愛する子。これに聞け」。この神様からの御声こそが、この山上の変貌の出来事の中心です。神様は御自身の愛する御子イエス・キリストに聞くことが、まさに御自身に聞くことだと言われたのです。神様の御心と御業が100パーセント、愛する御子によって行われます。ヨハネによる福音書で主御自身がこう言われています。「なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っているのである」(ヨハネ14:9~10)。そうであるからこそ、信じる者たちに求められているのは、御子イエス・キリストに聞いていくことなのです。その御言葉に聞き従っていくことなのです。

その神様の御声を確かに聞いたと思った弟子たちは、我に返り、急いで当たりを見回します。しかし、あたかも夢から覚めたかのごとく、モーセやエリヤの姿はありません。神様の声が聞こえた雲も見当たりません。ただ主イエスだけが彼らと一緒におられたのです。弟子たちは自分たちと一緒にいてくださる主イエスを見たのです。

 「彼らと共におられたイエスを見た」。何が起こったのかと当惑しつつも、主だけは一緒にいてくださったという、弟子たちの安堵感が感じられます。そうです! 真の神でありながら真の人となられた主イエスは、わたしたちがどんな境遇に置かれようとも、共にいてくださいます。私たちの先頭に立って私たちを導かれる方ですが、それだけではありません。わたしたち人間といつも一緒にいてくださいます。わたしたちは主が共にいてくださるわたしたち自身を、信仰の目ではっきり見ることができるのです。

 確かに聖書の中の弟子たちのように、地上の人間として歩まれる主イエスを私たちは見ることはできません。しかし死に打ち勝ち復活されたイエス・キリストは、今も聖霊を通してわたしたちと共にいてくださいます。信仰の目によって、イエス・キリストが共にいてくださる自分自身をわたしたちは見ることができます。たとえ死の谷の陰を通っていこうとも、主イエスがわたしたちから離れ給うことはありません。信仰者はそこに、何ものにも換えることのできない安心感を与えられるのです。

さて、9節以下には、山を降りる時に主イエスと弟子たちの間で交わされたやりとりが記されています。まず主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはならない」と命じられました。弟子たちのメシア理解は、「サタン、引き下がれ」と叱責されたペテロを見れば分かるように、きわめて不十分なものでした。メシアが苦難と十字架の道をたどることを彼らは理解していませんでした。それゆえ主イエスは弟子たちの不十分な理解によって大勢の群衆が混乱することのないように、弟子たちに口止めをされたのでしょう。実際、弟子たちは主イエスが受難予告の中で語られた「…三日の後に復活することになっている」という御言葉を、理解することができなかったのです。

 また、弟子たちは11節以下で預言者エリヤの到来について、主イエスに質問しています。確かに預言書であるマラキ書には、主なる神様が「大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と言われた御言葉が収められているのです。そして主イエスの時代の律法学者たちは、エリヤの到来はまだ起こってはいない、将来のことだと考えていたのです。しかし主イエスは、そうではなくエリヤはすでに到来したと言われます。そしてそれは、人々に悔い改めを迫り、水による洗礼を授けていたバプテスマのヨハネであったのです。メシア・救い主が到来する前に、人々にその備えをさせるのがエリヤの再来であるヨハネの使命でした。しかしユダヤの領主であったヘロデ・アンティパスは、無残にも彼の首をはねてしまいました。主イエスが言われるように、ヨハネを「人々は好きなようにあしらった」のです。

 そして、そのようなユダヤの人々による拒絶は、メシア・救い主である主イエス・キリストにも向けられます。イエス・キリストは、ユダヤの民が長年待望していた救い主でありましたが、人々はそれを理解しませんでした。「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」という聖書の預言が成就することになってしまったのです。こうして救い主を迎える道備えをする再来のエリヤであるバプテスマのヨハネも、救い主である人の子イエス・キリストも、神様に逆らう人間の罪と頑なさのゆえに拒絶され、命を奪われたのです。

 しかし、主イエスが受難予告で繰り返されたように、「多くの苦しみを受け…排斥されて殺され、三日の後に復活する」ことによって、救い主イエス・キリストは人間の罪を贖い、神様と人間との間に和解をもたらし、神様のお与えくださる永遠の命へと、私たちを迎え入れてくださったのです。旧約聖書のモーセとエリヤが律法と預言を通して証しした神様の救いのご計画が、十字架への道のりを歩まれたイエス・キリストによって実現したのです。神様は「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われました。このイエス・キリストの苦難と十字架によって人間を救うことが、人間を愛して止まない神様の御心だったのです。

 わたしたちの救いは、「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われたイエス・キリストにかかっています。この他のだれによっても、救いは得られません(使徒4:12)。わたしたち信仰者には、わたしたちを先だって導くだけでなく、わたしたちとどんな時も共にいてくださるイエス・キリストがいてくださいます。このお方を信じて、この方を証しする聖書の御言葉に日々生かされて、今しばらくの地上の歩みを続けていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と、体面でオンラインで共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。神さま、あなたはわたしたち信仰者に、栄光にみちた主イエスの姿を垣間見させてくださいます。苦難と十字架を歩まれる主イエスこそが、あなたの救いのご計画を成就するメシアであることを示してくださいます。どうか、この真の救い主であるお方の御後に確信をもって従うことができますよう導いていてください。能登半島では巨大な地震の後、今回の未曽有の豪雨によって、大きな被害が出ています。どうか能登にある被災者お一人お一人を支え導いていてください。この切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  10月6日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マルコによる福音書9章33-37節

説  教   「一番偉いのはだれか」 髙谷史朗長老

主日礼拝   

午前10時30分  司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖     書

  (旧約) エゼキエル書13章1-7節 

  (新約) マルコによる福音書9章14-29節 

説  教  「信仰の生まれるところ」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝 9月29日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マルコによる福音書9章2-8節

説  教   「主イエスの姿が変わる」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分    司式 山根和子長老

聖     書

  (旧約) エジプト記3章11-15節  

  (新約) マルコによる福音書9章2-13節 

説  教 「いのちの光に輝く王」  藤田浩喜牧師