神の国のビジョンに生きる

マルコによる福音書4章26~32節  2024年1月28日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜 

 今日は、この礼拝の後で2024年度の教会総会が開かれます。2023年度の歩みを振り返り神様が導いてくださったことを感謝すると共に、2024年度の計画を立て、心を合わせ、祈りを合わせて、御心に適った歩みをしていくことを具体的に決めていく時です。皆さん出席していただき、共に祈りを合わせていただきたいと思います。そのような教会総会に先立って今朝与えられました御言葉は、主イエスがお語りになった神の国についての二つのたとえです。二つとも、神の国を植物の種にたとえているものです。神の国のたとえと申しましても、神の国はこんな所だと言って絵に描くようなイメージを持っているわけではありません。花が咲いていたり、天使が飛んでいたり、そんなことを語っているのではないのです。神の国というのは、直訳すれば神の支配という意味ですが、神様の御支配は主イエスと共に来ました。神の国はもう来ているのです。ここに来ている。この教会に、私たちの中に、既に来ている。まだ完成はしていません。しかし、既に来ている。ですから、神の国についてこんな所だ、あんな所だと言ってイメージする必要はないのです。そうではなくて、既に来ている神の国がどんなに力強く成長するものなのか、そのことに私たちの目を向けさせる、気づかせる。それが、この二つの神の国のたとえが語られた意味なのです。

 順に見てまいりましょう。26~28節「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。』」とあります。ここで告げられていることは、神の国、神様の御支配というものは、蒔かれた種が自然に成長するように、種を蒔いた人の力によるものではなく、神様の力によって芽を出し、成長して、実を結ぶものだということです。

 種を蒔いた人は、水をやったり雑草を取ったりはしますけれど、蒔いた種そのものには何もしません。種が根を張り、芽を出すのを待つだけです。待つしかない。種の持っている力、芽を出し、成長し、実をつける力を信じて待つしかないのです。神の国もそれと同じだと言うのです。

 私たちは、神の言葉を伝える業に励みます。それは、神の国の種を蒔くようなものです。礼拝や祈祷会、様々な集会などで御言葉が語られる。祈りがささげられる。それらはすべて神の国の種蒔きです。もっと言えば、そのような聖書が開かれて読まれる時ばかりではなく、私たちが出会ういろいろな人たちとの会話、仕草、そのすべてが種蒔きなのです。私たちは、そんな意識はしないで生きているかもしれません。しかし、そういうものなのです。キリスト者として、神様に愛され、神様を愛する者として生きる。そこにおいて私たちは、自分が意識しようとしまいと、神の国の証人として立っているのです。私たちが教会に来るようになった時、あるいは来てからでもいいですが、私たちは具体的な誰かに出会って、教会に来よう、教会に来続けようと思ったはずです。その出会った人は、私に神の国の種を蒔いているつもりはなかったかもしれない。しかし、あの人に出会って、あの人と知り合いになって、教会につながった。それは事実なのです。その時、あの人がこう言った、こうしてくれた。それがきっかけだったのです。そんなことを言われても、その人は「えっ!」と思うだけかもしれません。しかし、そうなのです。もちろん、私たちが主イエスを信じ救われるまでには、その一人の人との出会いだけではなく、いろいろな人との出会いがあり、導きがあったでしょう。いろいろなことがあった。それは「神様のお導き」としか言いようがないのです。神の国とはそのように、私たちがこれをした、あれをした、そういうことを超えて、「神様のお導き」としか言いようのない出来事の連鎖によって成長するものなのだということなのです。

 こう言ってもよいでしょう。私たちが蒔いた神の国の種は、神様のお導きの中で成長していくのだから、それを信じ、安心して待てばよいのだということです。 私たちは、2023年度、いろいろなことを行いました。主イエスの福音が、この筑波の地により豊かに、より広く、より深く伝えられていくために、そのことを願って、いろいろなことをしました。それは、すぐに結果が出たものもあれば、出ないものもある。しかし、種が蒔かれたことは確かなことなのですから、私たちは神様のお導きというものを信じて、待てばよいのです。

 29節を見ますと、「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」とあります。この収穫というのは二通りに理解できると思います。一つは、終末です。主イエスが再び来られる時、それは神の国の完成の時であります。それまで神の国は成長を続けるということです。歴史を貫き、世界中に広がっていくのです。もう一つの収穫についての理解は、私たちが主イエスを信じ、主イエスと共に生きるようになるということです。具体的には、洗礼や信仰告白の時も、この収穫の時と受け取ることができるだろうと思います。洗礼者が生まれるということは、神様が生きて働いてくださっていることを私たちが具体的に知らされる時です。そして、一人の洗礼者が出るまでには、気が遠くなるような長い間、神様が導き続けてくださったということがあるわけです。

 教会総会においては、必ず教勢報告というものがあります。教勢という言葉は、「教える」に「勢い」と書くのですが、これは教会用語だと思いますが、教会がとても大切にしているものです。何人の人が洗礼を受け、何人が天に召され、礼拝には何人が出席したのかということが報告されるわけです。それは「ただの数字だ」と言えば数字なのですけれど、その数字一つ一つの背後に、気が遠くなるような神様の具体的なお導きというものを、私たちは見るのです。そこで私たちがよくよく心しておかなければならないことは、この教勢報告というものを、決して「私たちがしたことの成果」として見てはいけないということです。たとえば、洗礼者何名という記述においても、私たちがこれこれをした結果こうなったということではないのです。もちろん、神様は私たちがなしたすべてのことを用いてくださいます。しかし、その自分がしたことの結果ではないのです。いくつもの教会を経て、私たちの教会で洗礼を受ける場合だってあります。逆もあるでしょう。長い間日曜学校で学んだ子が、大人になって別の教会で洗礼を受ける。そんなことはよくあることです。私たちは種を蒔く。その種が必ず芽を出し、成長し、豊かな実をつけることを信じて、種を蒔くのです。しかし、その種が芽を出し、茎を伸ばし、実をつけるのは、その種の力、福音の力、神様の力によるのであって、私たちがこれこれをしたから実を結んだということではないのです。私たちは種を蒔く。その種が、成長してやがて実を結ぶことを信じて種を蒔く。それがいつ、どこで実を結ぶのかは分かりません。しかし、必ず実を結ぶ。このことが信じられなければ、私たちは伝道などできないと思います。伝道とは、この必ず実を結ばせてくださる神様のお導きというものを信じて、なせる精一杯のものをささげていくことなのです。

 さて、二つ目のたとえは、「からし種」のたとえです。からし種というのは、粒マスタードに入っている、あの小さな粒です。ゴマよりもっとずっと小さい、小さな小さな種です。しかし、これが生長しますと、3mにもなるといいます。神の国は、このからし種のようなものであると言うのです。

 この「からし種」のように小さな種だと言われているのは、主イエス・キリスト御自身、またその御業や言葉を指していると考えてよいでしょう。主イエスがなされた業も言葉も、歴史的に言えば、当時の巨大なローマ帝国の辺境の地における、小さな出来事に過ぎませんでした。パレスチナ地方で一時、人々の注目を集めたかもしれませんけれど、主イエスが公の場で宣教されたのは、たったの3年です。弟子たちも、数えるほどしかいませんでした。歴史の流れの中で、誰にも憶えられず、忘れ去られ、消えていっても少しもおかしくなかった。しかし、そうはなりませんでした。それは、イエス・キリストというお方がまことの神であられたからです。神の国の到来そのものであったからです。主イエスと共に神の国が来たからです。主イエスと共に生きることが、神の国に生きることだからです。主イエスというお方は、十字架の上で死んで終わりではなかったからです。

 主イエスがもたらした神の国は、十字架の死で終わらず、主イエスの復活、さらにペンテコステの出来事を経て、全世界に広がり、極東にある日本の私たちの所にまでやって来ました。小さなからし種から始まった神の国の到来は、全世界の人々が宿るほどに枝を張り、成長を続けています。

 私は、この神の国の成長というものを、アブラハムの祝福の継続であり、展開だと理解しています。先ほど、創世記15章を読んでいただきました。神様によって召し出されたアブラハム。彼は、ある日神様から召命を受けます。創世記12章1~3節「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』」

この神様の言葉に従って、彼は生まれ故郷を離れ、旅立ちました。75歳の時です。しかし、彼には子どもがいませんでした。時が経ち、それでも子どもは与えられませんでした。彼は、自分の子孫が大いなる国民となるということを信じられなくなりました。その時与えられた御言葉が15章4~5節です。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」アブラハムは、この神様の言葉を信じました。後にアブラハムは、100歳の時に一人の男の子、イサクを与えられます。そして、イサクの子がヤコブ、ヤコブの12人の男の子がイスラエル12部族となりました。アブラハムと交わした神様の約束は、イスラエル民族という形で成就したように見えます。しかし、それで終わりではなかったのです。新しいイスラエルとしての神の教会の誕生によって、アブラハムの約束は更に継続され、発展した形で展開したのです。アブラハムから始まった神の民は、ユダヤ民族だけでなくキリスト教会というあり方で異邦人にも開かれ、全世界に広がったのです。今、神の民は、天の星の数ほどに、海辺の砂粒ほどに、増えました。そして、これからも増し加えられていくでしょう。

 アブラハムはこの時、神様の御言葉を信じる、目に見える根拠は与えられていませんでした。しかし、彼は信じたのです。6節「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。このアブラハムの信仰こそ、神の国の到来という救いの現実に生かされている私たちが立っている所でもあるのです。アブラハムは信じたのです。そして、神様はそれを義と認められたのです。

 私たちもまた、主イエス・キリストを信じるのです。ただ独りの神の子と信じる。この方の十字架によって一切の罪が赦され、私たちも神の子とされたことを信じるのです。この御子の復活によって、自分にも永遠の命が与えられたことを信じるのです。その信仰によって、私たちは神様に義と認められ、神の国に生きる者とされたのです。ただ信仰によって義とされた。私たちがよき業をなしたから義とされたのではありません。ただ、神様が憐れんでくださり、私たちを愛してくださり、主イエスの尊い血潮のゆえに神の子として私たちを受け入れてくださったからです。この神様の愛によって、神の国は広がり、成長し続けるのです。私たちの業によってではありません。ただ神様のお導きによってなのです。ですから、私たちに求められていることは、いつもこの一つのことです。神様の御業を信じるということです。信じて、心安んじて、精一杯種を蒔き続けるということです。

 種の蒔き方を工夫するのはよいことです。しかし、成長させてくださるのは神様です。この神様の、生きて働いてくださる具体的なお導きを信じて、私たちはそれぞれが遣わされている場において、精一杯種を蒔き続けていくのです。すぐに芽が出なくても、動じることなく、安んじて蒔き続けていけばよいのです。なぜなら、神の国は既にここに来ているからです。私たちはもう、神の国に生き始めているからです。この種の成長力を一番よく知っているのは私たちです。それは、だれよりも私たち自身が変えられたからです。神の国に宿る者とされているからです。神様を愛し、主イエスを愛し、神様を信頼し、主イエスを信頼し、神様の言葉に従い、主イエスと共に生きる。ここに神の国は既に来ています。私たちは、その完成を願い、待ち望みながら、2024年度の歩みを主の御前にささげていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に、あなたの御前に礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。神様、私たちは既に神の国、神の御支配に生かされています。そして、この神の国、神の御支配は、あなたの愛によって広がり、完成へと向かっていきます。私たちの目にしている現実にもかかわらず、神の国、神の御支配は力強く前進しています。どうかそのことを深く信じさせてください。今日は礼拝の後、定期総会が行われます。この大切な教会会議を初めから終わりまで、導いていてください。あなたの示してくださる宣教のビジョンに導かれて、私たちの群れが進んでいくことができますように。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   2月4日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ヨブ記1章1-21節

説  教   「ヨブの信仰①」 三宅光

主日礼拝   

午前10時30分  司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖  書

  (旧約) 詩編94編1-7節    

  (新約) マルコによる福音書4章35-41節 

説  教  「船路を主イエスと共に行く」 藤田浩喜牧師

次週の礼拝  1月28日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書18章21-35節

説  教   「『仲間をゆるさない家来』のたとえ」 高橋加代子

主日礼拝   

午前10時30分     司式 三宅恵子長老 

聖  書

 (旧約) 創世記15章1-6節    

 (新約) マルコによる福音書4章26-34節 

説  教   「神の国のビジョンに生きる」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝   1月21日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書18章10-14節

説  教   「『迷い出た羊』のたとえ」 藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分     司式 山﨑和子長老 

聖  書

  (旧約) イザヤ書26章1-6節    

  (新約) フィリピの信徒への手紙4章1-7節 

説  教   「人知を超える神の平和」  山田矩子教師

神の豊かさに生きる

マルコによる福音書4章21~25節 2024年1月14日(日)礼拝説教 

                          牧師 藤田浩喜

 今朝与えられている御言葉は、主イエスがお語りになった「ともし火」のたとえと「秤」のたとえです。これはどちらも「たとえ」ですから、とても単純な話です。こういう話です。誰かが「ともし火」を持って来る。この「ともし火」というのは、小さな皿のようなものに油が入っていて、芯が浸してあって頭が少し出ている。そこに火が灯されているものです。テレビの時代劇などに出てくるものと同じ様なものを考えていただけばよいかと思います。この「ともし火」を持って来た人は、それを升の下や寝台の下に置きはしない。燭台の上に置くではないかと言うのです。「ともし火」は、ストーブを消す時を考えていただいたらよいと思いますが、消す時には嫌な臭いがします。ですから、臭いが出ないように、升をかぶせて消したのです。そして、蹴飛ばしたりしてはいけませんので、ベッドの下に入れた。ここで主イエスは、当時の生活の一場面を用いてお語りになったのです。誰かが「ともし火」を持って来たら、それは燭台に置いて部屋を明るくするのであって、消すためではないと言われたのです。当たり前のことです。

 また、豆でも小麦でも、買う時には升のような秤で量って買うわけです。現代の日本では秤が店によって違うなどという事はありませんけれど、当時は升の大きさが店によって違い、多かったり少なかったりする。その日常の場面を用いて主イエスはお語りになっているわけです。そして、自分の秤が大きければ多く与えられるし、小さければ少ししか与えられないというのです。

 この二つのたとえは、当時の日常生活の一場面を切り取ったような話ですから、話そのものは単純なもので、よく分かります。しかし、それが何を意味しているのかということになりますと、話は別です。それは、以前学んだ種蒔く人のたとえでもそうでした。話としては難しいところは少しもない。しかし、何を言われているのか、その意味は何かということになると、さっぱり分からない。これが主イエスのたとえの、一つの大きな特徴なのです。どうして、そうなのでしょう。

 話は簡単で単純だけれども、何を言っているのか分からない。私は、これと全く同じ思いを抱いたことがあります。それは、私が初めて礼拝に通い始めた頃に持った、説教に対しての思いです。それが全くこれと同じだったのです。牧師の語る説教は、特に難しい日本語を使うわけではない。言葉としては分かるのです。しかし、何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。毎週礼拝に集っても、心に残るとか、「ああ、そうだ」と思うことが無い。今思いますと、あれだけ分からなくて、よく毎週通ったものだと思います。説教だけじゃなくて、讃美歌も分からない。祈っていることも分からない。どれもこれも日本語としては分かる。しかし、分からない。どうしてなのか。

 主イエスはここで、23節「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。この言葉は、以前「種蒔く人」のたとえを語られた時にも、9節で同じ言葉で言われています。「聞く耳のある者は聞きなさい。」なるほど、教会に通い始めた頃の私には、この聞く耳がなかったということなのだと思います。聞くには聞くが理解できない。それは聞く耳がないからなのです。実は、日本語としては分かるけれど何を言っているのか理解できないというのは、何も主イエスのたとえに限ったことではないのです。牧師の説教も、聖書の言葉も、主イエスのこのたとえと同じ性質のものなのです。

 主イエスのたとえも、聖書が告げていることも、説教も、いつもただ一つのことを語っている。それは主イエスの福音です。イエス・キリストとは誰なのか。イエス・キリストによって与えられた救いとは何か。イエス・キリストによって救われた者はどうなるか。そのことを告げているのです。それは、信仰を与えられなければ分かることはありません。それは、語られていることが訳の分からないことであるから分からないのではなくて、聞く者が語る者と同じ所に立っていないからなのです。あるいは、語る者が前提としていることと、聞く側が前提としていることが違っていれば、話は通じない。そう言ってもよいかと思います。主イエスはこのことを指して「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのです。

 「聞く耳のある者は聞きなさい」というのは、何か上からものを言っているように聞こえるかもしれません。話を聞いて分かる者だけが分かればいいのだ。そんなふうに聞こえるかもしれません。しかし、主イエスはそんな思いでこれを告げているのではありません。牧師もまた、そんな思いで毎週説教しているのではないのです。何とか分かって欲しいのです。しかし、本気で分かろうとしなければ、本気で聞こうとしなければ、分からないのです。自分の耳が変わらなければ、分からないのです。自分の耳が変わらなければ、自分が生きる上で自分が求めること、前提となっていることが変えられなければ決して分からないし、受け入れることができない。それが、主イエス・キリストの福音というものなのです。

 主イエスは今日の24節で、「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」と言われました。自分が聞いていることが何なのか、そのことに注意しなければならないのです。主イエスは、単に生活の一場面を語っているわけではないのです。当たり前です。主イエスは神の国の福音を告げているのです。私たちはそれぞれ自分の秤を持っています。それは、自分の経験やこの世の常識といったもので作られたものでしょう。ある人にとっては健康が一番でしょうし、ある人にとってはお金が一番かもしれません。この自分の秤が変わらなければ、主イエスが語っていることは分からないということなのです。しかし、この秤が主イエスの求めているものに変わりますと、どんどん分かってくる。どんどん与えられてくるのです。

 聖書というものは本当に不思議な書物で、一箇所分かりますとどんどん分かってくる。しかし、なかなかすべてが分かるということはない。ですから、次から次へと、どんどん与えられ続けていくものなのです。私は洗礼を受けて45年、牧師になって36年ですが、今もどんどん与えられ続け、分からされ続けております。「ほう、そういうことなのか!」と、分からせていただいています。

 では、この自分の秤が変わる時の重要点は何かと申しますと、「私は罪人である」ということを知ることだと思います。あれをしてしまった、これをしてしまった。そういう意味での罪人ということでもありますが、それ以上に重大なことがあります。それは、自分に命を与え愛してくださっている神様を裏切り、神様の愛に感謝することもなく、自分の欲を満たすためにばかり生きている者であったということを認めることなのです。

 自分が欲することを満たそうとすることのどこが悪いのか。確かに、この世の法律は、それを罰することはありません。しかし、そのことによって私たちは隣人(となりびと)を傷つけ、神様の御心を痛ませてきたのではないでしょうか。そのことは、人と比べてもそれは分かりません。他人と比べたら、自分はそれほど悪い人間ではない。どちらかと言えばよい人間ではないか、そう思うのが自然でしょう。しかし神様は、誰にも言えない、心の底にある闇の思いをも御存知です。そして、その闇の心を新しくしよう、そう言って招いてくださっているのです。そのために、主イエスは来てくださったのです。

 どうして自分が罪人であるということを知ることが重要であるかと申しますと、このことが分かった時、主イエスが私のために来られ、私のために十字架にお架かりになり、私のために復活されたということが分かるからなのです。大切なのは「私のために」です。「私の罪のために」です。聖書の言葉が、牧師が語る説教が、他ならぬ私のことを言っているということが分かるようになるからです。この時、自分の秤が変わるからなのです。

 さて、今朝与えられておりますもう一つのたとえ、「ともし火」のたとえですが、ここで語られている「ともし火」とは何を指しているのでしょうか。すぐに思わされることは、主イエス・キリスト御自身を指しているということでしょう。確かに主イエスは、御自分を殺そうとする人たちがいても逃げも隠れもせずに、十字架に架けられて殺されるということに至りました。その結果、主イエス・キリストというお方は、当時のローマ帝国から見れば、東の辺境の地ユダヤの、更に田舎のガリラヤから出て、今では全世界において何十億という人々が主の日のたびごとに礼拝をささげるまでになっています。22節「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と言われている通りです。主イエスはまことの世の光として、すべての人に生きる力と勇気を与えています。どのように生きればよいのかという、人生の灯台のように光を放ち続けておられるのです。

 そしてこの光は、私たちに与えられたイエス・キリストに対する信仰と愛をも表しているのです。この福音が記されました頃、キリスト教会は、社会における少数者であったと思います。自分はイエス・キリストを信じています。そのように明言できないような雰囲気があったのではないかと思います。それは私たちもよく分かるでしょう。この柏の地で、キリスト者ですと人前で言うことは何となく気が引けるという思いが、私たちもどこかであるのではないかと思います。しかし、主イエスは「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と言われるのです。わたしの与える信仰と愛は隠そうとしても隠せるものではないということでしょう。もっと言えば、主イエスはここで、「わたしが与えたともし火は、消そうにも消えない、圧倒的な力と輝きを持って、私たちをそして全世界を照らし続けるものなのだ。」そう告げられたということなのではないでしょうか。

 私たちは、自分に与えられている信仰と愛とを、あまりに小さなものとして考えているのではないでしょうか。私たちの信仰は、天と地を造られたただ独りの神様が私たちに与えてくださったものであり、それは私たち自身をそしてこの世界を造り変えていく大きなものなのです。現代人は、信仰というものを自分の心の中のことだと思っているところがあります。しかし、それは正しくないのです。主イエス・キリストが与えてくださった信仰そして愛は、到底私たちの心の中に収まってしまうような小さなものではないのです。私たちに注がれた主イエスへの信仰も愛も、それは私たちから外に向かって、この世に向かって溢れ出していくものなのです。いよいよ、主の救いの御業にお仕えする者として、私たち一人一人が用いられていくことを願い求めたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。あなたは御子を、この世界に、私たちの心に、光として遣わして下さいました。この光は、人の思いを超えて、この世界に広く、深く照り渡っていきます。どうかその大いなる御業に仕える者として、一人一人を用いていてください。あなたの御心がこの地においても実現されますように。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名において、お捧げいたします。アーメン。

夜の旅路-キリストを求めて

マタイによる福音書2章1~12節  2024年1月7日(日)主日礼拝説教 

                            牧師 藤田浩喜

マタイによる福音書のクリスマス物語には、救い主の誕生を祝うために、はるばる東方から旅をしてきた占星術の学者たちのことが語られています。はるか東方からラクダにまたがって来るのですから、2週間ほどかかるでしょう。そのため世々の教会は1月6日をエピファニー(公現祭)と定め、異邦人である学者たちに救い主が初めて顕現されたことを、記念するようになったのです。

その意味では、公現祭までがクリスマスと言うこともできるでしょう。

 ところで、ここでいう「東方」というのがどこのことなのかは、はっきりしません。パレスチナから見て東の方向ですから、ペルシアだという人もおれば、アラビアだという人もあり、またインドのことだという人もあります。

 いずれにしても、この話を語ったり聞いたりしてきた人々にとって、「東方の学者たち」という表現は、なにかエキゾチックで夢物語のような印象を与えたことでしょう。それだけに、後世になればなるほど、この学者たちについては、さまざまな解釈がなされ、またいろいろな伝説が生み出されていきました。

 長い間、代々のキリスト者たちは、「救い主に出会う」というただそれだけの目的をもってはるばると旅路を歩みつづけるこの「東方の学者たち」に、それぞれの信仰的な関心を寄せてきました。そして彼らの姿に自分自身の思いを重ね合わせてきたのです。

 さて、この物語を読んでいくと、学者たちは救い主への「贈り物」として「黄金、乳香、没薬」を携えてきたと伝えられています。これらはいずれもその時代にあっては高価な品物で、薬品や化粧品、また薬味としても用いられたといいます。

 ところが、この学者たちにとっては、いささか困ったことがありました。それは贈り物を携えてきたにもかかわらず、実は自分たちが「いったいどこの誰にこの贈り物を献げるのか」ということが、最後の最後まではっきりと分からなかったということです。

 彼らは自分たちがどこに行くのかということすら知りませんでした。これは不思議なことであり、不自然なことです。

 誰であれ、贈り物をしようというときに、いったいそれを誰に「贈る」のかも分からないなどということがあるでしょうか。人に出会うために旅に出た人間が、自分の目指している相手の人がどこの誰なのかも分からないなどということがあるのでしょうか。この学者たちの旅はあまりにも頼りない旅だったと言わねばなりません。

 けれども、実際に聖書の中から読み取ることのできる、「東方の学者たち」とは、誰に出会うのかも分からぬまま、その人のために贈り物を携えて、見通しのない旅路を行く人々。そういう人々だったのです。

さて、そうはいうものの、実は目的の定かならぬ旅路を歩むという点に関して言えば、この「東方の学者たち」の姿も、私たちひとりひとりの人生も、一脈相通じるところがあるように思います。

 人生を「旅」にたとえることは、キリスト教のみならずさまざまな宗教や哲学、また文学などの世界でも行われてきました。

「旅」というものは、ふつう目的地や旅程が決まっているものです。目的も、見通しも、計画もはっきりしないまま、歩き出さなければならないような旅は、私たちを困惑させます。けれども、実に困ったことに、実際の「人生の旅」とは、そういうたぐいの旅にほかならないのです。

 私たちは目的や見通しや計画を立てた上で、この世に生まれてきたわけではありません。「気がついてみたら生まれていた」というのが実態です。「気がついてみたら旅に出ていた」のです。恐ろしいことに、「人生の旅」はその日程ひとつを考えても、私たちの思い通りにはいかないしろものです。50年後に終わる旅なのか、それとも5日後に終わる旅なのか、それすら私たちは知りません。それはまさに、思いもよらぬうちに始まってしまった旅であり、思いがけない時に終わる旅です。「今夜、お前の命は取り上げられる」(ルカ福音書12章20節)という神の言葉が、いつ私たちに告げられるのか、だれひとり知らないのです。

 仏教のほうでしたか、「人生は無明長夜(むみょうじょうや)」という言葉があります。人生というものは、灯りのない長い長い闇夜の中を生きるようなものだという意味でしょうか。実際、本当の闇の中では、私たちの目はなんの役にもたちません。また、私たちの手足も感覚も、ほとんど役にたちません。闇の中で歩いていても、それが果たして前に進んでいるのか、道から外れているのか、それともただ堂々めぐりをしているだけなのか。私たちには分かりません。もしかしたら、私たちの人生というものは、多くの時間、そんな堂々めぐりをしながら、悩んだり、苦しんだり、悲しんだり、そして時には喜んだりして、過ぎていくというだけのことなのかもしれないのです。

 さて、マタイ福音書の東方の学者たちの物語には、ひとつの「星」が登場します。目的地も、旅程も、日程も、贈り物を贈る相手すらも分からない、この頼りない旅路を行く博士たちを、この星が導いたというのです。

 「星」が導くというからには、おそらく、この人たちは夜しか旅ができなかったのではないでしょうか。暗く見通しのきかない中を、足下も不安なまま、おぼつかない足取りで一歩一歩進んでいくのが、彼らの「夜の旅路」です。

 「人生の旅」を歩くために、私たちは闇の中で目を凝らし、知恵と力を振りしぼって先々を見通しながら、この世の荒波を泳ぎわたっていこうと努めます。「人生の旅」を進んでいくとき、私たちはただひたすらに前を見つめ、がむしやらに闇の中に進むべき道を探そうとします。

 けれども、このクリスマス物語の中で聖書が語っていることは、ただひたすらに前を見るということではなく、まず「星を見る」、「天を仰ぐ」ということです。「前を見つめて歩く」のではなく、むしろ「上を向いて歩こう」と、聖書は教えているのです。

 私たちにとって「天を仰ぐ」、「上を向く」という姿勢は、ある意味で、絶望的な姿を表しているといえるかもしれません。自分自身の知恵や才覚に行きづまった時、私たちは嘆息しながら「天を仰ぐ」ことがあります。

 しかしまた、そうしたとき、そうすることによって、今までとはまったく違った情景が見えてくることも事実です。

 天にある「星」は、人間の小さな努力や、自己満足や、欲求不満などにかかわりなく、いつもまたたいています。私たちが生まれる前から、そして死んだ後にも、そこにまたたきつづけているのです。

 詩編の中でひとりの詩人は、天を見ながらこう歌いました。

  「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。

  月も、星も、あなたが配置なさったもの。

   そのあなたが、御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。

   人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。」

(詩編8編4~5節)

 変わることなく大きく開かれた天、そこに散りばめられた星々に、昔の人々は神のみわざを見たのです。「天を仰ぐ」ことによって、この詩人は世界とその中に生きとし生けるすべてのものを支えたもう神の大いなる恵みを見たのです。

 人間の手のわざではなく、神のわざに目をそそぐこと。それが「天を仰ぐ」ということであり、「星に導かれる」ということです。「天を仰ぐ」ことは、自分自身と人間に対して絶望しても、神に対して絶望しないことを告白する信仰者の姿であるとさえ言えるかもしれません。それは、私の人生が、恵みとあわれみに富みたもう神の手の中にあることを信じ、感謝する信仰者の姿なのです。

 さて、先ほども触れましたが、星に導かれて歩んだ東方の学者たちは「黄金、乳香、没薬」という贈り物を携えていたといいます。

 この贈り物については、その当時の価値あるものを献げて、救い主の誕生をお祝いしようとしたのだという解釈がふつうです。しかしある説によると、これらのものは実はこの学者たちの商売道具だったとも言います。よく知られているように、古代の世界で「占星術の学者」というのは、「天文学者」でもあれば、「占い師」でもあり、また「魔術師」のような存在でもあったようです。  

「黄金、乳香、没薬」というのは、彼らがそうした仕事をする上で用いた道具だったというのです。もしこの解釈が正しいとすれば、彼らは、今までの自分たちの生活のもととなっていたもの、これまでの「人生の旅」を送る上で彼らを支えていたいちばん大事なものを、キリストのもとに差し出すために携えていったことになります。

 それはいったい何を意味するのでしょう。

 それは、彼らがただ単に高価なもの貴重なものを救い主の誕生プレゼントとして贈ったということではなく、彼らのそれまでの「人生」を象徴するもの、彼らのそれまでの生き方そのものを、イエス・キリストの前に献げたということであり、さらにいえば、そうした過去の生き方を清算しようとしたのだということを表しているのではないでしょうか。

 彼らの旅は、「救い主を見物しよう」といった好奇心からの物見遊山の旅ではありません。彼らの旅は歴史的イベントに立ち会い、そのお祝い騒ぎに参加するためのものでもありません。彼らの旅は「これまでの彼らの生き方を終える旅」だったのであり、「これからの新しい生き方を始めるための旅」だったのであります。

 クリスマスに立ち会うということは、私たちがこれまでの自分自身の生き方を清算すること、新たな生き方へ踏み出すことにつながっています。

 冬は空気が澄んで夜空がきれいです。私たちも「天」を仰ぎ、「星」を見つめながら、それに導かれて夜の旅路を進んでいく学者たちの姿を思い浮かべてみようではありませんか。そして、闇の中に浮かび上がるそのシルエットを想像しながら、私たちもまた主イエス・キリストにあって、これまでの人生を顧みつつ、またこれからの人生の歩みに目を凝らしつつ、冬の夜のひとときを送りたいと思うのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。2024年最初の主日礼拝を敬愛する兄弟姉妹と共に守ることができましたことを感謝いたします。この新しい一年も私たちの教会と一人一人の歩みを導いていてください。見通すことのできない地上の歩みに目を奪われがちな私たちですが、天におられるあなたにこそ目を注ぐ者としてください。心を高くし、あなたの語ってくださる御言葉にこそ耳を澄ますことができますように。一人一人を強めていてください。国内では能登半島を中心に大きな地震が起こり、多くの被災者の方々が避難生活を続けています。また海外ではウクライナやパレスチナのガザで戦争が続き、多くの人々が苦しみと悲しみの中にあります。神さまどうか、苦しみや嘆き、困難の中にある人たちを、励まし支えてください。このような状況を一日も早く過ぎ去らせてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

次週の礼拝  1月14日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書15章21-28節

説  教   「カナンの女」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分     司式 髙谷史朗長老 

聖  書

 (旧約) エゼキエル書33章10-11節    

 (新約) マルコによる福音書4章21-25節 

説  教   「神の豊かさに生きる」  藤田浩喜牧師

主のよき力に守られて

マタイによる福音書2章13~23節  2023年12月31日(日)主日礼拝

                           牧師 藤田浩喜

◎今日は本年最後の礼拝を守っておりますが、クリスマスの時期にはあまり選ばれることのない箇所をテキストにいたしました。それは2千年前の最初のクリスマスも、決して平和なクリスマスではなかったということを、思い起こすためです。今日のテキストの直前部分には、有名な物語が記されています。それは東の国の占星術の学者たち(博士たち)が黄金、乳香、没薬の贈り物をもって、生まれたばかりの救い主キリストを礼拝するためにやって来たという美しい物語です。

 彼らは救い主の生まれた場所を探し当てる前に、エルサレムへ立ち寄り、ヘロデ王を訪ねました。そしてこう尋ねたのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)。ところが、それを聞いたヘロデは、「もしかすると自分の地位が脅かされるのではないか」と不安になり、一計を案じるのです。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(同2:8)。もちろんそれは、嘘です。彼らから、その赤ちゃんの居場所を聞き出し、暗殺しようと企んだわけです。

 しかし彼らは、その救い主を見つけて、礼拝した後で、夢で神からのお告げを聞きます。「ヘロデのところへ帰るな」(同2:12)。彼らは別の道を通って、自分たちの国へ帰っていきました。そのことを知ったヘロデは激怒いたします。そして、「二歳以下の男の赤ん坊を一人残らず殺せ、皆殺しにせよ」という命令を下すのです。

◎クリスマスの喜びの歌声が、自分の子供を殺された母親の泣き叫びでかき消されるようです。マタイはこのように記しております。「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから』」(マタイ2:17~18)。

 この言葉は少し説明が必要かもしれません。ラマというのは、ベツレヘムのこと、あるいはその近くにあった古代の町であります。ラケルの墓はそこにありました。ラケルというのは、創世記に出てくる女性であり、イスラエルの族長であったヤコブの妻です。ちなみにヤコブは、アブラハムの孫、イサクの息子です。ヤコブは神の人と格闘して、イスラエルという祝福された名前をもらうのです。イスラエルとは、「神は支配したもう」という意味です。ラケルはその「イスラエル」という名前の男の妻でありますから、いわば、イスラエル民族の母のような意味合いをもっているのでしょう。そのラケルが泣いている。墓の中から泣いている。子供が取られたから。このところに、預言者エレミヤの名前が出ていますが、この言葉は実は旧約のエレミヤ書からの引用です。エレミヤがずっと昔に語った言葉をマタイが用いたのでした。エレミヤ書31章15節に、こう記されています。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子はもういないのだから」。

 ここでは、イスラエルの民のもう一つの悲しい歴史が重ねられているのです。それはバビロン捕囚という出来事でありました。イスラエル王国はダビデ王、ソロモン王の時代には栄華を極めるのですが、その後どんどん落ちぶれていき、さらに国は北と南の二つに分裂いたしました。エレミヤの時代にはすでに北王国イスラエルは滅び、南王国ユダもバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々が捕虜としてバビロンに連れて行かれました。これが、紀元前6世紀に起こった、バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。このラマはバビロンに連れて行かれた時の通過点であったといわれています。その連れて行かれる人を見て、ラケルが墓の中から泣いている。慰めてほしくない。子供はもう帰らないのだから、ということなのです。

 マタイはこれを、ヘロデ王の幼児虐殺事件と重ね合わせました。あのエレミヤの預言の言葉が、今ここに実現している。ラケルの泣き声が時代を超えて、こだましているのです。バビロン捕囚の時代の母親の嘆きと、クリスマスの時のヘロデ王に殺された母親の泣き叫ぶ声がこだましている。ここ3か月、新聞やテレビのニュースで、イスラエル軍がパレスチナのガザを攻撃し、そこを必死で逃げ回っているパレスチナの子どもたちの姿、また死んだ子どもたちのために泣き叫んでいる人の姿が映し出されています。ウクライナにおいてもそうでありましょう。あのラケルの泣き声は、今日までもこだましているのです。あのラケルの泣き声が地球全体を覆い尽くすようにこだましているのです。

 2千年前にこの泣き声を生み出したものは、ヘロデ王の敵意でありました。それが、力をもたない者の上にふりかかってくるのです。力を持つ者、権力を持つ者、武力を持つ者の敵意と欲望、それが罪のない人々の死と、その家族の嘆きを生み出すのです。

◎しかし、いかがでしょうか。今日のテキストは、そうした暗い出来事の中で、かすかではありますが、確かな希望を告げております。それは、どのようなヘロデ王の敵意も、あるいは彼の暴力も、軍事力も、イエス・キリストを見つけ出して、殺すことはできなかったということであります。神が守ろうとされるものは、どんな力も及ばない、不思議な力で守られるのです。それは、彼がこの時死んではならなかったからです。彼が死ぬべき時は、別に定められていました。ですから、神はあらゆる手段を用いてイエス・キリストを守り抜かれました。このことは私たちの希望です。私たちは敵意がぶつかる中で起こる痛ましい現実について、ラケルと共に嘆かなければならないでしょう。またそのような現実を生み出している敵意というものを、憎まなければならないでしょう。そうした悲劇が一日も早くなくなるようにと、真剣に祈らなければならないでしょう。しかしそういう暗い現実の中にあっても、幼子イエスは不思議にも守られ、生き延び、成長していくのです。聖書は、そのことに私たちの目を向けさせようとします。私たちはそのことを信じるがゆえに、どんな時にも希望をもって、この世の困難な課題に対して真剣に、しかし心のゆとりを失わないで、立ち向かう勇気が与えられるのではないでしょうか。

 詩編46編にこういう言葉があります。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地は姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」(詩編46:2~4)。

◎幼子イエスを守るために、大切な働きをしたのは、マリアの夫ヨセフでした。彼は夢に現れた天使の言葉に聞き従い、自分の郷里を捨ててエジプトへ落ち延びていきました。実の子ではありません。彼が自分の子ではないこの幼子のために払った犠牲が、一体どれほど大きなものであったかと思います。やがて危険が去った時、彼は再び妻マリアとその子イエスを護衛して、故郷ナザレに戻って行きます。

 このヨセフという人物は、実は福音書の最初だけに登場する人です。2章の終わりに、無事にマリアと幼子イエスをナザレに戻した後は、もう出てきません。そういうところから、このヨセフは主イエスが成人する前に、世を去ったのであろうと言われています。もしもそうだとするならば、彼の短い生涯は、いわばイエス・キリストの母となったマリアを守り、彼女から生まれた幼子イエスを受け止め、その命を守るという課題に捧げられたと言うこともできるでしょう。聖書の中のヨセフは、一言もしゃべっていません。それはマリアと違うところです。彼の姿はただ、「信仰の服従」という一語に尽きると思います。美しい姿であると思います。

 私たちにも、このヨセフのような「信仰の服従」が求められているのではないでしょうか。もしもそうしようとするならば、ヨセフが背負ったような犠牲が伴ってくることもあるでしょう。イエス・キリストが後に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と、言われたとおりです。しかし私たちは、犠牲を払って主に従っていくときに、それによって逆に、私たち自身が支えられるという経験をするのではないでしょうか。

◎聖クリストフォロスの伝説をご存じでしょうか(英語ではクリストファーです)。クリストフォロスは川の渡し守でしたが、たまたま一人の少年を背負って川を渡ることになりました。しかし一歩一歩進むうちに、どういうわけか、少年がずしりずしりと重くなっていくのです。彼は水をかぶりながら、足をふんばって何とか川を渡り切りました。クリストフォロスがふとうしろを振り返ってみると、そこはものすごい急流でありました。その時、彼は悟るのです。もしもあの少年の重みがなければ、自分は完全に流されてしまっていたに違いない。その少年こそキリストであり、その重さは世界の重さであった。そういう伝説であります。クリストフォロスは、「少年を運ばなければ、守らなければ」、

と必死の思いでしたが、そこで逆に不思議にも、神のよき力に守られていたのです。ヨセフもきっと、何度もそのような経験をしたに違いないと思います。

◎ディートリヒ・ボンヘッファーという神学者がいました。この人はナチス・ドイツの時代に、ナチス政府に屈しない教会の抵抗運動を起こしましたが、それもやがて挫折していきます。そして最後にヒトラー暗殺を企てる地下組織に加わっていくのですが、些細なことから、それが発覚して投獄され、最後には処刑された人です。1945年4月9日、連合軍がナチス軍を破るわずか数週間前のことでした。このボンヘッファーが、1944年の年の終わりに、獄中で、一つの詩を書き残しております。

 「主のよき力に守られて」という題が付けられています。この詩の中には、いつ死刑に処せられるかわからない不安と主にある平安が、ない交ぜになっています。また彼にはマリアという若い婚約者がいましたが、そのマリアや家族に会いたいという気持ちが、ひしひしと伝わってまいります。しかしながら、それにもかかわらず、神がここに自分を置かれたという状況を受け入れて、獄中にある仲間や、看守たちと共に新年を迎えていこう、という信仰があります。こういう詩であります。

「主のよき力に、確かに、静かに、取り囲まれ、

不思議にも守られ、慰められて、

私はここでの日々を君たちと共に生き、

君たちと共に新年を迎えようとしています。

 過ぎ去ろうとしている時は、私の心をなおも悩まし、

 悪夢のような日々の重荷は、私たちをなおも圧し続けています。

 ああ主よ、どうかこのおびえおののく魂に、

 あなたが備えている救いを与えてください。

あなたが、もし、私たちに、苦い杯を、苦渋にあふれる杯を、

なみなみとついで、差し出すなら、

私たちはそれを恐れず、感謝して、

いつくしみと愛に満ちたあなたの手から受けましょう。

 しかし、もし、あなたが、私たちにもう一度喜びを、

 この世と、まぶしいばかりに輝く太陽に対する喜びを与えてくださるなら

 私たちは過ぎ去った日々のことをすべて思い起こしましょう。

 私たちのこの世の生のすべては、あなたのものです。

あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、

どうか今こそ暖かく、静かに燃やしてください。

そしてできるなら、引き裂かれた私たちをもう一度結び合わせてください。

あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私たちは知っています。

 深い静けさが私たちを包んでいる今、この時に、

 私たちに聞かせてください。

 私たちのまわりに広がる、目に見えない世界のあふれるばかりの音の響きを、

 あなたのすべての子供たちが高らかにうたう讃美の歌声を。

主のよき力に、不思議にも守られて、

私たちは来たるべきものを安らかに待ち受けます。

神は、朝に、夕に、私たちと共にいるでしょう。

そして、私たちが迎える新しい日々にも、

神は必ず私たちと共にいるでしょう」(村椿嘉信訳)。

 この歌にはメロディーがつけられ、賛美歌にもなっています。『讃美歌21』では日本語に訳されたものが、469番として収められております。このあとご一緒に、この賛美歌を歌いましょう。

 皆さんの2023年は、いかがだったでしょうか。様々な思いを秘めながら、私たちも主のよき力に守られていることを信じて、新しい年へと進んでいきましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日2023年最後の礼拝を愛する兄弟姉妹と共に守ることができ、感謝いたします。この1年は2年以上続くロシアとウクライナの戦争に加えて、10月からはイスラエルのガザ侵攻という戦争が今も続いています。2千年前と同様、子を亡くした母親の嘆きが慰められることも拒んで、世界に響き渡っています。権力や武力を持つ者の敵意と欲望は、いつもこのような不条理な悲惨を生み出します。しかしそれと同時に、そうした権力者の暴走を許した私たち自身の怠惰や無関心を懺悔いたします。神様どうかこうした不条理な戦争を一日も早く終結へと導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  1月7日(日) 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ルカによる福音書2章41-52節

説  教   「神殿での少年イエス」 三宅恵子長老

主日礼拝

(聖餐式を執行します)

午前10時30分     司式 藤田浩喜牧師 

聖  書

 (旧約) 詩編27編1-6節    

 (新約) マタイによる福音書2章1-12節 

説  教「夜の旅路-キリストを求めて」藤田浩喜牧師

次週の礼拝  12月31日(日)

 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ルカによる福音書2章22-35節

説  教   「メシアに会うまでは」 宇佐美志穂子

主日礼拝   

午前10時30分     司式 山根和子長老 

聖  書

 (旧約) 詩編46編2-4節      

 (新約) マタイによる福音書2章13-23節 

説  教   「主のよき力に守られて」  藤田浩喜牧師