マルコによる福音書4章26~32節 2024年1月28日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日は、この礼拝の後で2024年度の教会総会が開かれます。2023年度の歩みを振り返り神様が導いてくださったことを感謝すると共に、2024年度の計画を立て、心を合わせ、祈りを合わせて、御心に適った歩みをしていくことを具体的に決めていく時です。皆さん出席していただき、共に祈りを合わせていただきたいと思います。そのような教会総会に先立って今朝与えられました御言葉は、主イエスがお語りになった神の国についての二つのたとえです。二つとも、神の国を植物の種にたとえているものです。神の国のたとえと申しましても、神の国はこんな所だと言って絵に描くようなイメージを持っているわけではありません。花が咲いていたり、天使が飛んでいたり、そんなことを語っているのではないのです。神の国というのは、直訳すれば神の支配という意味ですが、神様の御支配は主イエスと共に来ました。神の国はもう来ているのです。ここに来ている。この教会に、私たちの中に、既に来ている。まだ完成はしていません。しかし、既に来ている。ですから、神の国についてこんな所だ、あんな所だと言ってイメージする必要はないのです。そうではなくて、既に来ている神の国がどんなに力強く成長するものなのか、そのことに私たちの目を向けさせる、気づかせる。それが、この二つの神の国のたとえが語られた意味なのです。
順に見てまいりましょう。26~28節「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。』」とあります。ここで告げられていることは、神の国、神様の御支配というものは、蒔かれた種が自然に成長するように、種を蒔いた人の力によるものではなく、神様の力によって芽を出し、成長して、実を結ぶものだということです。
種を蒔いた人は、水をやったり雑草を取ったりはしますけれど、蒔いた種そのものには何もしません。種が根を張り、芽を出すのを待つだけです。待つしかない。種の持っている力、芽を出し、成長し、実をつける力を信じて待つしかないのです。神の国もそれと同じだと言うのです。
私たちは、神の言葉を伝える業に励みます。それは、神の国の種を蒔くようなものです。礼拝や祈祷会、様々な集会などで御言葉が語られる。祈りがささげられる。それらはすべて神の国の種蒔きです。もっと言えば、そのような聖書が開かれて読まれる時ばかりではなく、私たちが出会ういろいろな人たちとの会話、仕草、そのすべてが種蒔きなのです。私たちは、そんな意識はしないで生きているかもしれません。しかし、そういうものなのです。キリスト者として、神様に愛され、神様を愛する者として生きる。そこにおいて私たちは、自分が意識しようとしまいと、神の国の証人として立っているのです。私たちが教会に来るようになった時、あるいは来てからでもいいですが、私たちは具体的な誰かに出会って、教会に来よう、教会に来続けようと思ったはずです。その出会った人は、私に神の国の種を蒔いているつもりはなかったかもしれない。しかし、あの人に出会って、あの人と知り合いになって、教会につながった。それは事実なのです。その時、あの人がこう言った、こうしてくれた。それがきっかけだったのです。そんなことを言われても、その人は「えっ!」と思うだけかもしれません。しかし、そうなのです。もちろん、私たちが主イエスを信じ救われるまでには、その一人の人との出会いだけではなく、いろいろな人との出会いがあり、導きがあったでしょう。いろいろなことがあった。それは「神様のお導き」としか言いようがないのです。神の国とはそのように、私たちがこれをした、あれをした、そういうことを超えて、「神様のお導き」としか言いようのない出来事の連鎖によって成長するものなのだということなのです。
こう言ってもよいでしょう。私たちが蒔いた神の国の種は、神様のお導きの中で成長していくのだから、それを信じ、安心して待てばよいのだということです。 私たちは、2023年度、いろいろなことを行いました。主イエスの福音が、この筑波の地により豊かに、より広く、より深く伝えられていくために、そのことを願って、いろいろなことをしました。それは、すぐに結果が出たものもあれば、出ないものもある。しかし、種が蒔かれたことは確かなことなのですから、私たちは神様のお導きというものを信じて、待てばよいのです。
29節を見ますと、「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」とあります。この収穫というのは二通りに理解できると思います。一つは、終末です。主イエスが再び来られる時、それは神の国の完成の時であります。それまで神の国は成長を続けるということです。歴史を貫き、世界中に広がっていくのです。もう一つの収穫についての理解は、私たちが主イエスを信じ、主イエスと共に生きるようになるということです。具体的には、洗礼や信仰告白の時も、この収穫の時と受け取ることができるだろうと思います。洗礼者が生まれるということは、神様が生きて働いてくださっていることを私たちが具体的に知らされる時です。そして、一人の洗礼者が出るまでには、気が遠くなるような長い間、神様が導き続けてくださったということがあるわけです。
教会総会においては、必ず教勢報告というものがあります。教勢という言葉は、「教える」に「勢い」と書くのですが、これは教会用語だと思いますが、教会がとても大切にしているものです。何人の人が洗礼を受け、何人が天に召され、礼拝には何人が出席したのかということが報告されるわけです。それは「ただの数字だ」と言えば数字なのですけれど、その数字一つ一つの背後に、気が遠くなるような神様の具体的なお導きというものを、私たちは見るのです。そこで私たちがよくよく心しておかなければならないことは、この教勢報告というものを、決して「私たちがしたことの成果」として見てはいけないということです。たとえば、洗礼者何名という記述においても、私たちがこれこれをした結果こうなったということではないのです。もちろん、神様は私たちがなしたすべてのことを用いてくださいます。しかし、その自分がしたことの結果ではないのです。いくつもの教会を経て、私たちの教会で洗礼を受ける場合だってあります。逆もあるでしょう。長い間日曜学校で学んだ子が、大人になって別の教会で洗礼を受ける。そんなことはよくあることです。私たちは種を蒔く。その種が必ず芽を出し、成長し、豊かな実をつけることを信じて、種を蒔くのです。しかし、その種が芽を出し、茎を伸ばし、実をつけるのは、その種の力、福音の力、神様の力によるのであって、私たちがこれこれをしたから実を結んだということではないのです。私たちは種を蒔く。その種が、成長してやがて実を結ぶことを信じて種を蒔く。それがいつ、どこで実を結ぶのかは分かりません。しかし、必ず実を結ぶ。このことが信じられなければ、私たちは伝道などできないと思います。伝道とは、この必ず実を結ばせてくださる神様のお導きというものを信じて、なせる精一杯のものをささげていくことなのです。
さて、二つ目のたとえは、「からし種」のたとえです。からし種というのは、粒マスタードに入っている、あの小さな粒です。ゴマよりもっとずっと小さい、小さな小さな種です。しかし、これが生長しますと、3mにもなるといいます。神の国は、このからし種のようなものであると言うのです。
この「からし種」のように小さな種だと言われているのは、主イエス・キリスト御自身、またその御業や言葉を指していると考えてよいでしょう。主イエスがなされた業も言葉も、歴史的に言えば、当時の巨大なローマ帝国の辺境の地における、小さな出来事に過ぎませんでした。パレスチナ地方で一時、人々の注目を集めたかもしれませんけれど、主イエスが公の場で宣教されたのは、たったの3年です。弟子たちも、数えるほどしかいませんでした。歴史の流れの中で、誰にも憶えられず、忘れ去られ、消えていっても少しもおかしくなかった。しかし、そうはなりませんでした。それは、イエス・キリストというお方がまことの神であられたからです。神の国の到来そのものであったからです。主イエスと共に神の国が来たからです。主イエスと共に生きることが、神の国に生きることだからです。主イエスというお方は、十字架の上で死んで終わりではなかったからです。
主イエスがもたらした神の国は、十字架の死で終わらず、主イエスの復活、さらにペンテコステの出来事を経て、全世界に広がり、極東にある日本の私たちの所にまでやって来ました。小さなからし種から始まった神の国の到来は、全世界の人々が宿るほどに枝を張り、成長を続けています。
私は、この神の国の成長というものを、アブラハムの祝福の継続であり、展開だと理解しています。先ほど、創世記15章を読んでいただきました。神様によって召し出されたアブラハム。彼は、ある日神様から召命を受けます。創世記12章1~3節「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』」
この神様の言葉に従って、彼は生まれ故郷を離れ、旅立ちました。75歳の時です。しかし、彼には子どもがいませんでした。時が経ち、それでも子どもは与えられませんでした。彼は、自分の子孫が大いなる国民となるということを信じられなくなりました。その時与えられた御言葉が15章4~5節です。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」アブラハムは、この神様の言葉を信じました。後にアブラハムは、100歳の時に一人の男の子、イサクを与えられます。そして、イサクの子がヤコブ、ヤコブの12人の男の子がイスラエル12部族となりました。アブラハムと交わした神様の約束は、イスラエル民族という形で成就したように見えます。しかし、それで終わりではなかったのです。新しいイスラエルとしての神の教会の誕生によって、アブラハムの約束は更に継続され、発展した形で展開したのです。アブラハムから始まった神の民は、ユダヤ民族だけでなくキリスト教会というあり方で異邦人にも開かれ、全世界に広がったのです。今、神の民は、天の星の数ほどに、海辺の砂粒ほどに、増えました。そして、これからも増し加えられていくでしょう。
アブラハムはこの時、神様の御言葉を信じる、目に見える根拠は与えられていませんでした。しかし、彼は信じたのです。6節「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。このアブラハムの信仰こそ、神の国の到来という救いの現実に生かされている私たちが立っている所でもあるのです。アブラハムは信じたのです。そして、神様はそれを義と認められたのです。
私たちもまた、主イエス・キリストを信じるのです。ただ独りの神の子と信じる。この方の十字架によって一切の罪が赦され、私たちも神の子とされたことを信じるのです。この御子の復活によって、自分にも永遠の命が与えられたことを信じるのです。その信仰によって、私たちは神様に義と認められ、神の国に生きる者とされたのです。ただ信仰によって義とされた。私たちがよき業をなしたから義とされたのではありません。ただ、神様が憐れんでくださり、私たちを愛してくださり、主イエスの尊い血潮のゆえに神の子として私たちを受け入れてくださったからです。この神様の愛によって、神の国は広がり、成長し続けるのです。私たちの業によってではありません。ただ神様のお導きによってなのです。ですから、私たちに求められていることは、いつもこの一つのことです。神様の御業を信じるということです。信じて、心安んじて、精一杯種を蒔き続けるということです。
種の蒔き方を工夫するのはよいことです。しかし、成長させてくださるのは神様です。この神様の、生きて働いてくださる具体的なお導きを信じて、私たちはそれぞれが遣わされている場において、精一杯種を蒔き続けていくのです。すぐに芽が出なくても、動じることなく、安んじて蒔き続けていけばよいのです。なぜなら、神の国は既にここに来ているからです。私たちはもう、神の国に生き始めているからです。この種の成長力を一番よく知っているのは私たちです。それは、だれよりも私たち自身が変えられたからです。神の国に宿る者とされているからです。神様を愛し、主イエスを愛し、神様を信頼し、主イエスを信頼し、神様の言葉に従い、主イエスと共に生きる。ここに神の国は既に来ています。私たちは、その完成を願い、待ち望みながら、2024年度の歩みを主の御前にささげていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に、あなたの御前に礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。神様、私たちは既に神の国、神の御支配に生かされています。そして、この神の国、神の御支配は、あなたの愛によって広がり、完成へと向かっていきます。私たちの目にしている現実にもかかわらず、神の国、神の御支配は力強く前進しています。どうかそのことを深く信じさせてください。今日は礼拝の後、定期総会が行われます。この大切な教会会議を初めから終わりまで、導いていてください。あなたの示してくださる宣教のビジョンに導かれて、私たちの群れが進んでいくことができますように。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。