次週の礼拝   11月3日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    詩編8編4節

説  教   「人間は何ものなのでしょう」 渡辺望

主日礼拝   

午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖     書

  (旧約) 詩編22編23-32節    

  (新約) マルコによる福音書9章38-41節 

説  教 「微笑みをたたえて生きる」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝   10月27日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   コリントの信徒への手紙一 12章12-27節

説  教   「共に苦しみ、共に喜ぶ」 山﨑和子長老

主日礼拝   

午前10時30分  神学校日  司式 三宅恵子長老

聖     書

  (旧約) 詩編8編1-10節  

  (新約) マルコによる福音書9章30-37節 

説  教  「人間の偉さとは何か」  藤田浩喜牧師

わたしが示す地に行きなさい

創世記12章1~9節  2024年10月13日(日) 主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

信仰の父と呼ばれるアブラハム。これからしばらくの間、アブラハムの歩みを辿りながら、私たちの信仰のあり様を整えられていきたいと願っています。

今朝与えられております創世記12章からアブラハムの物語が始まるのですが、その直前の11章27節以下の所に、大変興味深い記述があります。アブラハム、この時はまだアブラムですが、彼の父はテラ、兄弟にはナホルとハランがいた。彼らは、もともとカルデアのウルに住んでいたというのです。このウルという町は、古代メソポタミア文明の中心地です。現在、発掘もされ、中学生の地図にも載っています。チグリス川とユーフラテス川が合流する所の近く、現在はイラク領になっている所にあった町です。このウル、当時の世界最大の文明都市と言ってよいでしょう、そこを出発して、ユーフラテス川を700km程北上して、ハランという町に住んでいたのです。そして、アブラムの妻サライは不妊の女、子どもが産めない体であったというのです。アブラムとその妻サライの家系は、これで終わる。そういうことになるはずだったのです。 

アブラムはすでに75才、妻のサライは65才でした。しかし、突然、アブラムに神さまの言葉が臨んだのです。12章1節「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」いったい、これはどういうことなのでしょうか。4節には「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とあります。神さまが「わたしの示す地に行きなさい」と告げ、アブラムは、その言葉に従って旅立った。ここに「信仰の父アブラハム」が誕生したのです。その後、私たちに至るまで連綿と続く「神の民」の歴史が、ここに始まったのです。「神の民」とは、実に神さまからの「わたしの示す地に行きなさい」との言葉を受け、それに従って旅立つ者としてあり続けてきた者たちのことなのです。この地上における富や財産よりも、神さまの言葉に従うことを、何よりも大切にする民、それが神の民です。アブラハムは、その神の民のあり様を、神の言葉に従って旅立つことによって、あざやかに示したのです。

このことを、ヘブライ人への手紙はこのように記しました。11章8節「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」アブラハムは、この時具体的な行き先を知りませんでした。神さまが示す地というのが、今自分が住んでいる所よりも豊かな土地なのか、住みやすい土地なのか、何も知りませんでした。しかし、彼は旅立ったのです。ただ、神さまが「行きなさい」と言われたからです。

  私の知っている牧師の一人に、十年で任地を移ると決めていて、転任した教会での最初の説教は必ず、この創世記12章でやることにしていたという方がいました。彼は、自分の人生をアブラハムのそれと重ね合わせていたのでしょう。ちなみに、その方の一人息子の名前は基(もとい)でした。別に牧師でなくても、私たちは、人生の中で必ず生きる場所を変えなければならないことがあります。生まれた家を生涯離れることなく、そこに住み続けるという人は、ほとんどいないでしょう。私も、三重県に生まれ、西宮、姫路に住んで、また西宮に戻ったあとここ千葉県柏市に来ました。それぞれ転居する時には、大学に行くためとか、就職のためとか、自分の社会的状況の変化があり、それにともなう転居であったわけですが、しかし今振り返ってみますと、そこには神さまのご計画、導きというものがあったということを思わざるを得ないのです。それは、あの土地でこんなよいことがあった、あんな素敵なことがあったからというのではないのです。もちろん、そういうこともありますけれど、それだけではない。あそこからそこへ、そこからまたあちらへと移っていく中で、自分は天に備えてある神の国への旅をしている、神の国への旅の途中であることを知らされ続けたからです。自分で求めて転居したことは、あまりありませんでしたけれど、移り住んだ所で、信仰の友が与えられました。そしてその兄弟姉妹たちと共に祈り、共に神の国への道を歩んできたのです。ここが大切な所です。

アブラムは、神さまによって「行け」と言われたから旅立ったのですが、その時神さまは、ただ闇雲に「行け」と言われたわけではないのです。神さまは、この旅の涯に備えているものを約束して下さったのです。2~3節「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」最初に申しましたように、アブラムとサライの間には子どもがおりませんでした。サライは不妊の女だったのです。ところが、神さまの約束は、その事実をくつがえすものでした。神さまは、「あなたを大いなる国民とする。」と約束されたのです。これは、アブラムを大きな民族、国民の祖とする、祖先とするということでしょう。そのためにはアブラムとサライの間に子どもが与えられなければ、あり得ないことです。神さまは、現在のアブラムとサライの状況から見れば、全く不可能としか思えないような約束をしたのです。アブラムは、この約束を信じました。この約束を信じて旅立ったのです。確かにアブラムは、具体的にどこに行くのかは知りませんでした。この旅の途中で何が起きるのかも知りませんでした。不安もあったでしょう。しかし、アブラムには、神さまの約束がありました。この神さまの約束、ただそれだけを信じて旅立った。ここに神の民は誕生したのです。

  私たちも明日を知りません。その意味で、不安が全くないと言えば嘘になるでしょう。しかし、神さまの約束があるのです。私たちを守り、支え、導き、神の国へと、復活の命へと招くという、約束があるのです。この神さまの約束を信じて、私たちは旅立つのです。自分が慣れ親しんでいたものから離れて、新しい局面へと、一歩を踏み出していくのです。

  アブラムが与えられた約束は、自分一代で何とかなる、何とかする、そんなものではありませんでした。何十、何百代後に成就する壮大な神さまのご計画による約束だったのです。彼一代のことで言えば、イサクという一人の息子が与えられるということだけだったのです。もちろん、生まれるはずもない子が与えられるのですから、これもまた、大変なことであるには違いありません。しかし、それは、この壮大な神さまの約束と比べるならば、まことに小さなことです。しかし、それは初めの一歩なのです。

 私たちはよく、小さな信仰、大きな信仰という言い方をします。それはどういうことかと言いますと、神さまを小さくする信仰、神さまを大きくする信仰ということだろうと思います。神さまの祝福の御業を、自分の考え、自分の生きている間、そういう制約の中で小さくとらえてしまう。それが小さな信仰ということなのでしょう。私たちは、もっと大きな信仰を与えられたいと思うのです。神さまの御業を、自分の理解や、自分の見通しや、自分の今置かれている状況を超えて、神さまの本来の力、本来のご計画に従ってとらえ、信頼し、それに向かって一歩を踏み出していく信仰です。

アブラムは、「祝福の源となるように」との言葉を与えられました。全て神さまの祝福を受ける者たちの基礎、ここから全ての祝福が始まる、そういう存在にあなたはなるのだと言われたのです。この言葉は、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルの民に受け継がれてきました。そして主イエス・キリストの到来によって、まさに全世界へと広がり、私たちの所へと伝えられてきたのです。このアブラハムによって伝えられた神さまの祝福を今担っているのは、私たちなのです。神さまの祝福は伝えられ、広げられていきます。そして、地上の全ての民が神さまの祝福に入る、神さまの救いに与ることになるのです。このアブラハムの祝福を受け継いだ者は、皆、小さなアブラハムになるのです。私たちは、最早、自分の救いという所にとどまることはできません。全ての民が、この神さまの祝福に与ることを願い、求め、用いられることを喜びとする。私たち信仰者は祝福を世に反映する者とされるのです。

  アブラムがどのような人であったのか、それ程、くわしいことはよく分かりません。少なくとも、アブラムが神さまの祝福の源とされて召し出された時、アブラムがこのような人であったので、神さまはアブラムを選んだというようなことは、一切記されていないのです。それは、私たちが選ばれたのと同じことなのです。無から有を生み出される神さまの救いの御業は、アブラムの人間的な能力によって実現されていくべきものではないからであります。強いてアブラムが神さまに選ばれた理由として挙げるならば、彼には子どもがいなかったということだろうと思います。子どもがいない。だから、大いなる国民の祖となることは不可能。アブラムの能力・力によったのでは実現不可能なことです。この人間的に見れば不可能であるがゆえに、神さまの働きは一層確かになり、明らかになるのです。神さまによらなければ実現しないからです。実に私たちもそうなのです。私たちが神さまの祝福を受け継ぎ、これを伝える者として選ばれた理由は、私たちが有能で、信仰深く、愛に満ちた者であるからではありません。まさに、それと正反対な者であるがゆえに、私たちを選ばれたのではないかと思います。ですから、私たちは自分の力のなさを嘆くには及ばないのです。無から有を生み出される神さまの力を信じていけばよいのです。アブラハムに生まれるはずのないイサクを与えられた神、主イエスを十字架の死から復活させられた神、この神の力を信じて、委ねていけばよいのです。

最後にもう一つ、大切なことを学びたいと思います。それは、7節後半にも、8節にも書いてありますが、彼が旅路の行く先々で、主のために祭壇を築いた、ということです。祭壇を築いて、主の御名を呼びました。申すまでもなく、祭壇は礼拝のためです。次のところでも、またそうしました。アブラハムの生涯は、祭壇から祭壇への生涯でした。特に最初の祭壇は、モレの樫の木のそばにあって、創世記で何度も出て来ます。彼にとっては自分の母教会のようなものでした。彼の生涯は波乱万丈の生涯でしたが、それは、礼拝から礼拝への生涯でした。それなしに、彼の旅における神の祝福は考えられませんでした。これは、私たちが毎週毎週礼拝を守ることによって、人生という旅路を全うすることの原型が、ここに既にある、ということです。私たちは信仰において、このアブラハムの子孫です。御国を目ざす旅を続ける中で、神の祝福を受け、神の祝福を語り伝えていくのです。この週も、私たち一人一人に神さまの祝福が豊かにありますように、祈りを合わせたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】わたしたちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と、体面でオンラインで礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。アブラハムの出発の記事を通して、私たち信仰者の歩みが、行き先も知らない旅であることを知らされました。しかしそのような私たちを、あなたは大いなる救いの約束を与えて導いてくださいます。その約束を信じてあなたを見上げて歩む者としてください。来週は川越弘先生をお迎えして、特別伝道礼拝を行います。どうか、この特別伝道礼拝を豊かに祝し用いてください。季節が進み気温の変化が激しいこの頃です。どうか、兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  10月20日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   コリントの信徒への手紙一 3章6-9節

説  教   「成長させてくださる神」 藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分  特別伝道礼拝  司式 山﨑和子長老

聖     書

  (旧約) 創世記15章5-6節  

  (新約) エフェソの信徒への手紙1章3-5節 

説  教   「神の選び」  川越弘牧師

信仰の生まれるところ

マルコによる福音書9章14~29節 2024年10月6日(日)主日礼拝説教
                            牧師 藤田浩喜

 先週の礼拝では、高い山の上で主イエスが栄光に輝く姿に変貌され、それをペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人が目撃し、畏れの中にも感激したという箇所を読みました。今日の箇所は主イエスたちが山から降りてこられた下界の話です。霊に取りつかれてものが言えず、霊が取りつくと所かまわず地面に引き倒される子どもが、下界にいた弟子たちによって癒やされなかった。弟子たちはその子どもから霊を追い出せなかったという現実が、主イエス一行を待ち構えていたのです。
 イタリアの画家であるラファエロが、山上の変貌の場面を絵に描いていますが、絵の上3分の1のところには、宙を浮く主イエスとモーセとエリヤの神々しい姿が描かれ、下3分の2には下界の混乱した様子が描かれています。その絵の中には確かに体をこわばらせた男の子が手を上げており、父親とおぼしき男性がその男の子を支えています。そして、聖書を携えた律法学者や群衆、そして弟子たちが、何かをめぐって激しく議論している様子が描き込まれているのです。下界である人間の世界で起こっていることが、いかに深刻で混乱に満ちているかを思わされずにはおれないのです。

 今日の聖書箇所には、主イエスの他に、弟子たち、悪霊に取りつかれた子どもとその父親、群衆や律法学者が出てきますが、今日は子どもを連れてきたお父さんに焦点を当てて見ていきましょう。この父親は、霊に取りつかれてものが言えず、霊が取りつくと所かまわず地面に引き倒される子どもを、下界にいた弟子たちのところに連れてきました。主イエスは不在でしたけれども、あの偉大な御方のお弟子さんであれば、子どもから悪霊を追い出してくれるかも知れない。そのような期待があったに違いありません。
しかし、いくら弟子たちが真剣に祈っても、子どもの状態は以前のままでした。「やっぱりダメだったか」と落胆していたところに、主イエスが3人の弟子たちと山から降りてこられました。突然、主イエスが戻ってこられて、父親も周りの人々も驚いたようです。しかし、せっかく主イエスとお会いできたのだからと、父親はこれまでのいきさつを主イエスに説明したのです。主イエスは弟子たちが子どもを癒せなかった状況を嘆かれつつも、その子に関わろうとなさいます。そして「その子をわたしのところに連れて来なさい」(19節)とおっしゃいました。そして悪霊に取りつかれた男の子の様子をじっくりご覧になると同時に、その子の父親に質問をなさったりして、主イエスと父親との対話が進んでいくのです。

 主イエスと子どもの父親との対話ですが、このお父さんは息子のことをよく見ていますし、よく知っていることが分かります。最初に息子の状態を報告した時、父親は的確な言葉で息子の様子を説明しています。「この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます」(17~18節)。そして主イエスに、「このようになったのは、いつごろからか」と質問された時も、「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」(22節)と答えています。父親は日常生活の中で息子と関わり、必要な援助をしてきたのでしょう。そして、繰り返し命の危機に遭遇する息子に対して、父親が盾となり助け出して、ここまで命をつないできたのではないでしょうか。悪霊に取りつかれて苦しみ、壮絶な体験をしてきた息子を見てきた父親は、息子を何とか助けてやりたいと思い続けてきたことでしょう。だからこそ評判の高い主イエスの弟子たちのもとに、息子を連れてきたのでした。しかし、主イエスの弟子たちは息子から悪霊を追い出すことができませんでした。「やはり無理だったのか」、「息子をどうしてやることもできないのか」。失望と無力感は大きかったと思います。父親が主イエスにお会いできた時も、主イエスに対しても大きな期待を抱くことはできなかったのではないでしょうか。

 先々週、ケニアのナイロビで障がいをもった子どもたちの療育施設「シロアムの園」を運営している公文和子先生のことを、皆さんにご紹介しました。あれから興味があって公文先生が書かれた著書『グッド・モーニング・トゥ・ユー!』(いのちのことば社)という本を読みました。『グッド・モーニング・トゥ・ユー!』は、朝子どもたちが「シロアムの園」にやって来た時に、公文先生や職員の人たちが子どもたちに笑顔で語りかける挨拶だということです。この『グッド・モーニング・トゥ・ユー!』という本には、「シロアムの園」の活動が大変詳しく紹介されています。色んな障がいをもった子どもたちのこれまでの生活や「シロアムの園」に通うようになってからの生活が、ていねいに紹介されています。
 「シロアムの園」で小児科医として最も多く先生が診療するのは、感染症とけいれんだといいます。そして障がいをもった子どもたちの中には、けいれんを伴うてんかん症状が現れる子どもたちも少なくないのだそうです。そして子どもたちにてんかん症状があることは、家族に大きなストレスを与えます。てんかん症状は見ている者たちにとっても恐い感じがしますし、このまま死んでしまうのでは、という不安も引き起こします。病状が激しく、慣れていない者の目には恐ろしく見えることもあることから、ケニアの社会では「悪霊が取りついている」と考えられることが少なくありません。そしてケニアにはさらに、てんかんは伝染する病気で、特に、発作の時のよだれやおしっこから感染するという迷信があります。もちろん、てんかんは伝染する病気ではありませんが、この迷信が大きな差別や偏見を引き起こしていると言うのです。さらに、多くの場合、かなり長い期間または一生 薬を飲み続けなければならないので、経済的な負担も計り知れないのです。ケニアには公的な医療保険がなく、障がいをもった子どもたちの家庭の多くは、経済的にギリギリの生活をしています。色んな労苦を負いながら、障がいをもった子どもと共に生きているのです。
 今日の聖書に出てきた子どもの状態が、今日のてんかん症状とよく似ているのは事実ですが、実際どうであったかは分かりません。しかし、今日登場しているお父さんやその家族も、現在のケニアの家庭が背負っているような重荷を、幾重にも背負っていたことはおそらく間違いありません。それだけに一縷の望みを託して主イエスの弟子たちのもとに来たのに、何の甲斐もなかった。そのことは、この父親に失望だけを残すものであったと思うのです。

 さて、主イエスはこの父親にどう向かい合われたでしょう。主は悪霊に取りつかれた子どもの状態やこれまでの経緯をお聞きになって、すぐにその息子から悪霊を追い出されたのではありませんでした。すぐにそれは可能だったと思いますが、主イエスは父親とまさに真剣勝負の対話をなさるのです。主イエスは息子から悪霊を追い出すことだけを、目的とはされません。息子の父親に「信じるとはどういうことか」を分からせようとなさるのです。
 父親は弟子たちへの失望感の中で、こう言います。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(22節)父親がほとんど主イエスに期待していないのが伝わってきます。全幅の信頼は持たないが、それでも「何かあれば」という消極的な思いです。しかし主は、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(23節)と言われます。主イエスは父親の信仰が中途半端であることを暴かれます。そして信じるということは、信じる相手に自分を100%明け渡すことだと教えられたのです。「信じる者には何でもできる」という言葉聞く時、私たちは心の中ですぐにその言葉を否定してしまいます。「私たちにできるわけがない」と思ってしまいます。しかし御業をなさるのは、神の御子イエス・キリストです。この方は「何でもできる」御方です。わたしたちの目の前におられる御方が何でもできる御方であることを知って、100%この御方にお委ねする。全体重、全存在をかけてこの御方に依り頼む。それが信じるということだと、主イエスは教えられるのです。
 主イエスのこのひと言に、息子の父親は目が覚めるような思いがしたに違いありません。目の前におられる方が、はっきり見えてきたのでしょう。父親はすぐに主イエスに向かって叫んだのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24節)。これは100%主イエスにお委ねするという信仰告白だったのです。「信じます」という告白と「信仰のないわたし」という言葉は、理屈で言えば矛盾しています。「信仰のないわたし」は「信じる」と告白することはできません。しかし、わたしたち聞く者には、この告白が真実の言葉であることが分かります。「自分には信仰と呼べるものはない。今はっきりとそれが分かりました。しかしあなたは何でもできる御方であり、わたしのすべてをお委ねできる御方です。どうか信仰と呼べるもののないこのわたしを、お助けください。」主イエスとの出会いと対話によって、父親にはすべてを主に委ねる信仰が生まれたのです。自分をすべて明け渡して、100%依り頼むことのできる御方を見いだしたのです。主イエスは悪霊に取りつかれた子どもを、悪霊から解放しただけではありません。子どもの父親をも救ってくださったのです。これから後、父親が神への信仰、主イエスへの信仰をもって生きていけるようにしてくださったのです。

 先ほどの公文和子先生の「シロアムの園」の生活ですが、通ってくる子どもたちの多くが心身の重い障害を持っています。一人一人に合った療育を続けても、一般の学校に行けるようになる子どもや仕事に就けるようになる子どもは、ほとんどいません。何年、何十年と療育に通いながら、家庭で過ごすことになります。公文先生や施設のスタッフの方たちが日々献身的に療育をされていますが、重い障害が無くなるということはありません。聖書の御言葉に養われ、祈りをもって一日の仕事を始めている「シロアムの園」であっても、主イエスを心から信じていても、障がいがなくなるという奇跡は起こらないのです。
 しかし、障がい者への差別が強い社会にあって、家で隠されるように過ごしてきた子どもたちが、シロアムの園ではあたたかく受け入れられます。施設のスタッフが、その子にあった食事の仕方、遊び方、対応の仕方を保護者と一緒に考えてくれます。孤独に暗中模索で世話をしてきたお母さんやお婆ちゃんも、笑顔で支えてくれる存在によって励まされます。そして、障がいをもった子どもたちが、小さなことでもできることが増えていく、子どもたちの楽しそうな笑顔がだんだん増えていく。そうすると、親御さんもスタッフも一緒に喜び合うことができます。シロアムの園であたたかく受け入れられることで、障がいのある子どもにも、親御さんにも、そして園のスタッフにも、生きる喜びが与えられるのです。「生きていて本当によかった!」と思えるのです。
 主イエスを信じて主イエスに委ねて生きる時、今日の父親がそうであったように、わたしたちには主イエスという御方がだんだん見えてきます。自分を頼りにするのではなく、この御方にすべてをお委ねすればよいのだということが、分かってきます。そして主イエスは、この世が与えることのできない平安をわたしたちに与え、他者と一緒に生きる喜びをわたしたちにもたらしてくださるのです。
人生を一変させるような奇跡は起こらないかもしれません。しかしわたしたちは、わたしたちが生きている時も死ぬ時も、すべてをお委ねすることのできるお方を信じて歩むことができるようになるのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。この父親の叫んだ祈りを、わたしたちの祈りとして、これからの信仰生活を送っていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。10月の第一主日、愛する兄弟姉妹と共に対面でオンラインで、礼拝を守ることができ、心から感謝いたします。神さま、あなたは信仰をわたしたちに与えてくださいます。それは自らの力を誇る信仰ではなく、あなたに全存在をかけて依り頼む信仰です。どうか、かの父親と共に「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と祈ることができますよう導いていてください。季節は変わり、寒暖差の激しいこの頃です。どうか、兄弟姉妹が体調を崩すことなく、日々守られて過ごすことができますよう、お支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

次週の礼拝  10月13日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マルコによる福音書10章17-22節

説  教   「金持ちの男」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分      司式 髙谷史朗長老

聖     書

  (旧約) 創世記12章1-9節  

  (新約) ヘブライ人への手紙11章8-10節 

説  教  「わたしが示す地に行きなさい」  藤田浩喜牧師

いのちの光に輝く主

マルコによる福音書9章2~13節 2024年9月29日(日) 主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

主イエスは先週の箇所で、「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(9:1)と言われました。今日の「イエスの姿が変わる」山上の変貌の出来事は、その「六日の後」に起こったのでした。「六」という数字は完全数である「七」の一つ前の数字です。先週の箇所で主は「神の国が力にあふれて現れる」ことを預言されました。それゆえ、今から起こる山上の変貌の出来事は、主イエスの再臨という究極的な出来事ではありません。それ以前に起こる栄光の出来事、主イエスにおいて「神の国が力にあふれて現れる」出来事の一つなのでしょう。

主イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られます。この高い山は、ナザレの南東数キロの地点にある標高562メートルのタボル山だと言われています。その高い山の頂上に到着した時、驚くべきことが起こりました。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」(2~4節)。白は天の御使いの衣が輝く白であったように、主イエスがこの世のものならぬ、天上の栄光に覆われていたことを示しています。しかもモーセのように神様の栄光を受けて照り輝いていたのではなく、主イエス御自身の内から放たれる栄光によって輝いていました。まさに神の独り子としての栄光に輝いておられたのです。

 また、主イエスの他にモーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合っていました。皆さんもご承知の通り、モーセはイスラエルの民に神の律法を伝えた指導者でした。またエリヤはモーセの時代から下った紀元前9世紀の北イスラエル王国で活躍した代表的な預言者でした。二人は旧約聖書の律法と預言を代表する両巨頭と言ってもよいでしょう。主イエスはここで二人と何を語り合っておられたのか。主イエスは二人と語り合い、御自身の言葉と御業が神のご計画の正しい実現であることを確認されていたのではないでしょうか。この山上でモーセとエリヤと語り合うことによって、神の救いの計画の全体が想起されます。主イエスは受難予告で示されたように、これから受難、十字架、復活の道を進んで行かれます。それゆえ主イエスがこれから進もうとされている道が、神の救いの歴史全体の中で決定的な事柄であることを、この出来事は暗示しているのです。旧約聖書の代表であるモーセとエリヤによって、神の御子イエス・キリストが歩もうとしている道が、神の救いの御計画の成就であることが証されているのです。

さて、この世のものではない光景を見たペトロは、思わず言葉を発してしまいます。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(5節)ペトロたち3人は、目の前に現れたこの世のものではない光景に、恐怖すら感じました。その恐れに押し潰されそうになっていたのでしょう。そのため、とにかくその恐怖を振り払おうと、思いついたことを口にしたのではないでしょうか。いかにも感情のままに動いてしまうペテロらしい振る舞いです。彼はこの世のものでない輝かしい光景を、いつまでもその場に残しておきたいと考えたのでしょう。その素晴らしい光景を、これからもずっと自分が眺めることができるように、主イエス、モーセ、エリヤそれぞれのために、仮小屋を建てることを提案したのでしょう。

 しかし、主イエスは輝く栄光に満ちた山の上には留まられません。ペトロがいつまでもメシア・神の子にふさわしい栄光の姿を見続けたいと願っても、主イエスは罪と悲惨に満ちた地上の世界へと降りて行かれます。そして、父なる神様の御心に従って、苦難と十字架の道を進んで行かれるのです。弟子のペトロに求められているのは、その苦難と十字架の主の御後に従うことなのです。

弟子たちが驚き恐れていた時です。「雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』」(7節)雲は出エジプトの民を主なる神が「雲の柱、火の柱」で導かれたように、神がそこに御臨在されたことを示しています。この山上には旧約聖書を代表するモーセとエリヤが現れただけではありません。主なる神御自身が御臨在されました。そして恐れおののく弟子たちに向かって、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と語りかけられたのです。かつて主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者』という声が、天から聞こえ」ました(マルコ1:11)。しかしその神様の声は、受洗された主イエスに向かって語られたものでした。しかしここでは、3人の弟子たちに向かって「これはわたしの愛する子。これに聞け」と言われているのです。

「これはわたしの愛する子。これに聞け」。この神様からの御声こそが、この山上の変貌の出来事の中心です。神様は御自身の愛する御子イエス・キリストに聞くことが、まさに御自身に聞くことだと言われたのです。神様の御心と御業が100パーセント、愛する御子によって行われます。ヨハネによる福音書で主御自身がこう言われています。「なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っているのである」(ヨハネ14:9~10)。そうであるからこそ、信じる者たちに求められているのは、御子イエス・キリストに聞いていくことなのです。その御言葉に聞き従っていくことなのです。

その神様の御声を確かに聞いたと思った弟子たちは、我に返り、急いで当たりを見回します。しかし、あたかも夢から覚めたかのごとく、モーセやエリヤの姿はありません。神様の声が聞こえた雲も見当たりません。ただ主イエスだけが彼らと一緒におられたのです。弟子たちは自分たちと一緒にいてくださる主イエスを見たのです。

 「彼らと共におられたイエスを見た」。何が起こったのかと当惑しつつも、主だけは一緒にいてくださったという、弟子たちの安堵感が感じられます。そうです! 真の神でありながら真の人となられた主イエスは、わたしたちがどんな境遇に置かれようとも、共にいてくださいます。私たちの先頭に立って私たちを導かれる方ですが、それだけではありません。わたしたち人間といつも一緒にいてくださいます。わたしたちは主が共にいてくださるわたしたち自身を、信仰の目ではっきり見ることができるのです。

 確かに聖書の中の弟子たちのように、地上の人間として歩まれる主イエスを私たちは見ることはできません。しかし死に打ち勝ち復活されたイエス・キリストは、今も聖霊を通してわたしたちと共にいてくださいます。信仰の目によって、イエス・キリストが共にいてくださる自分自身をわたしたちは見ることができます。たとえ死の谷の陰を通っていこうとも、主イエスがわたしたちから離れ給うことはありません。信仰者はそこに、何ものにも換えることのできない安心感を与えられるのです。

さて、9節以下には、山を降りる時に主イエスと弟子たちの間で交わされたやりとりが記されています。まず主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはならない」と命じられました。弟子たちのメシア理解は、「サタン、引き下がれ」と叱責されたペテロを見れば分かるように、きわめて不十分なものでした。メシアが苦難と十字架の道をたどることを彼らは理解していませんでした。それゆえ主イエスは弟子たちの不十分な理解によって大勢の群衆が混乱することのないように、弟子たちに口止めをされたのでしょう。実際、弟子たちは主イエスが受難予告の中で語られた「…三日の後に復活することになっている」という御言葉を、理解することができなかったのです。

 また、弟子たちは11節以下で預言者エリヤの到来について、主イエスに質問しています。確かに預言書であるマラキ書には、主なる神様が「大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と言われた御言葉が収められているのです。そして主イエスの時代の律法学者たちは、エリヤの到来はまだ起こってはいない、将来のことだと考えていたのです。しかし主イエスは、そうではなくエリヤはすでに到来したと言われます。そしてそれは、人々に悔い改めを迫り、水による洗礼を授けていたバプテスマのヨハネであったのです。メシア・救い主が到来する前に、人々にその備えをさせるのがエリヤの再来であるヨハネの使命でした。しかしユダヤの領主であったヘロデ・アンティパスは、無残にも彼の首をはねてしまいました。主イエスが言われるように、ヨハネを「人々は好きなようにあしらった」のです。

 そして、そのようなユダヤの人々による拒絶は、メシア・救い主である主イエス・キリストにも向けられます。イエス・キリストは、ユダヤの民が長年待望していた救い主でありましたが、人々はそれを理解しませんでした。「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」という聖書の預言が成就することになってしまったのです。こうして救い主を迎える道備えをする再来のエリヤであるバプテスマのヨハネも、救い主である人の子イエス・キリストも、神様に逆らう人間の罪と頑なさのゆえに拒絶され、命を奪われたのです。

 しかし、主イエスが受難予告で繰り返されたように、「多くの苦しみを受け…排斥されて殺され、三日の後に復活する」ことによって、救い主イエス・キリストは人間の罪を贖い、神様と人間との間に和解をもたらし、神様のお与えくださる永遠の命へと、私たちを迎え入れてくださったのです。旧約聖書のモーセとエリヤが律法と預言を通して証しした神様の救いのご計画が、十字架への道のりを歩まれたイエス・キリストによって実現したのです。神様は「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われました。このイエス・キリストの苦難と十字架によって人間を救うことが、人間を愛して止まない神様の御心だったのです。

 わたしたちの救いは、「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われたイエス・キリストにかかっています。この他のだれによっても、救いは得られません(使徒4:12)。わたしたち信仰者には、わたしたちを先だって導くだけでなく、わたしたちとどんな時も共にいてくださるイエス・キリストがいてくださいます。このお方を信じて、この方を証しする聖書の御言葉に日々生かされて、今しばらくの地上の歩みを続けていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と、体面でオンラインで共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。神さま、あなたはわたしたち信仰者に、栄光にみちた主イエスの姿を垣間見させてくださいます。苦難と十字架を歩まれる主イエスこそが、あなたの救いのご計画を成就するメシアであることを示してくださいます。どうか、この真の救い主であるお方の御後に確信をもって従うことができますよう導いていてください。能登半島では巨大な地震の後、今回の未曽有の豪雨によって、大きな被害が出ています。どうか能登にある被災者お一人お一人を支え導いていてください。この切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  10月6日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マルコによる福音書9章33-37節

説  教   「一番偉いのはだれか」 髙谷史朗長老

主日礼拝   

午前10時30分  司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖     書

  (旧約) エゼキエル書13章1-7節 

  (新約) マルコによる福音書9章14-29節 

説  教  「信仰の生まれるところ」  藤田浩喜牧師

主に従う真実な道

マルコ福音書8章31節~9章1節   2024年9月22日(日)  主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 先週の箇所で一番弟子のペトロは、主イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いかけに対し、「あなたは、メシアです」と答えました。ペトロは主イエスを「生ける神の子です」と、正しく告白したのです。それが先週の礼拝で私たちが聞いたことでした。

 ところが、今日お読みいただいた8章31節以下の箇所では、立派な告白をして主イエスのお褒めにあずかったペトロが、「サタン、引き下がれ」と厳しく叱責されているのです。どうしてこのようなことになったのでしょう。

 今日の8章31節に「それから」とあります。「あなたは、メシアです」とペトロに告白されて「それから」ということです。直後のことです。主イエスは次のように弟子たちに教えられたのです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」主イエスは、これからご自分がどのような道をたどられるのかを語られました。これは受難予告と言われ、マルコによる福音書には3回出てきます。そしてこの受難予告によって、主イエスはご自分がどのようにして神の子・メシアの使命を果たされるのかを、弟子たちに教えられました。その道は、ユダヤの権力者たちに迫害され、その結果として死を避けることができないものであったのです。

 それを聞いた弟子たちは、主イエスのおっしゃることが理解できませんでした。メシア・神の子である主イエスが殺されてしまうことなど、あり得ないことでした。あってはならないことでした。そのためペトロは、主イエスをわきへお連れして、いさめ始めたというのです。今からメシアとして大事業をなされようとしている主イエスが、少し弱気になっているように思われて、そのような思いを変えていただこうと考えたのかも知れません。

 しかし、そのペトロを主イエスは叱りつけられました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、激烈な言葉を浴びせられたのです。この場面はマタイによる福音書4章1~11節にある、主イエスが悪魔(サタン)から誘惑を受けられた場面を思い起こさせます。この時のペトロは神の救いの業を妨げる者、主イエスを誘惑する者としての役割を演じていました。主イエスはペトロの態度と言葉の中に、サタン自身の働きを感じられたのでしょう。だからこそ、それをきっぱり拒絶するために「サタンよ、引き下がれ」と言われたのです。

 ある注解者は次のように言っています。「こうした神の計画を考えずに、専ら人間的な推測のみでイエスの前に立ってイエスを導こうとする考えは、神の計画の邪魔をする悪魔の計略と同じである。」主イエスのことを慮り、主イエスの考えを変えようと、ペトロは主イエスをいさめました。しかし、それがどれほど人間の善意から出ていることであっても、主イエスの前に立って主イエスを導こうとすることは許されません。私たちの先に立って私たちを導かれるのは主イエスであって、私たちは主イエスの御後に従う者に他なりません。そうであるからこそ、私たちは何が主の御心であるかを、祈りにおいて聞いていかなくてはならないのです。神の思いよりも人間の思いを優先させようとする時、神の救いのご計画を妨げてしまうことになるのです。

 そして、今申しましたことを、主イエスはあらためて確認なさろうとされたのでしょう。34節にあるように主は群衆たちを弟子たちと共に呼び寄せられました。そして、メシア・神の子に従う者が持つべき覚悟について教えられたのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(34~35節)。

 主イエスは、弟子すなわち信仰者というのは、主イエスの御後に従う者であると言われます。そしてそれはまず、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」従うことだと言われるのです。主イエスは、私たちが知っていますように、自分の願いではなく父なる神様の御心に従って、十字架の死という苦い杯を受けられました。人間のどうしようもない罪を贖うために、私たちの負うべき十字架を私たちに代わって背負ってくださいました。その主イエスに従うために私たちがなすべきことは何か? それは、神様の御心に従って、私たち自身も誰かのために十字架を背負うことではないでしょうか。

 それは、自分の配偶者や子どもや親のため、自分の家族のために十字架を負うことかもしれません。自分の身近な友だちや地域の人たちのために十字架を負うことかもしれません。また、志や使命感を与えられて、外国の困難に置かれた人たちのために十字架を負うことかもしれません。私たち信仰者には、これが神様の御心だと示され、あえてその人たちのために十字架を負う決断をすることがあるのではないでしょうか。主イエスはそのことがわたしの後に従うことであり、自分の命を失うのではなく救うことになると、言われるのです。

 35節と36節で「自分の命」という言葉が4回使われていますが、原語では「プシュケー」という言葉です。「生命」という意味もありますが、「魂」とか「自分自身」という意味もある言葉です。「魂」という場合、「永遠の生命を受けることのできる、最も尊い部分」という意味でもあります。私たちは誰かのために十字架を背負うことによって、主イエスと共に十字架で死にます。しかし死んで終わりではありません。主イエスと共に十字架で死んで初めて、主イエスと共に復活の恵みにもあずかることができるのです。

 また、神様の御心に従い誰かのために十字架を背負うことは、「自分自身」を救うことでもあるのです。私たちに生きる目的を与え、人生を生きるに値するものにしてくれるのです。先週15日(日)情熱大陸というテレビの番組で、ケニアのナイロビで活動している小児科医公文和子さんの働きが紹介されていました。実はこの番組は習志野教会の長老さんからお薦めいただいたもので、その長老さんが北海道の札幌北一条教会で教会生活をされていた時、青年会でご一緒だったということでした。公文和子さんは和歌山の熱心なクリスチャンホームで育たれ、北海道大学医学部を卒業された後、小児科医となられました。イギリスで熱帯地医療を学ばれ、医療の十分行き届いていない国々で働かれましたが、厳しい現実に対して、自分の無力さに打ちのめされることもありました。そして様々な経験をされたあと、ケニアのナイロビで障害を持った子どもたちと出会い、その子たちの笑顔を見て、この地で子どもたちと共に生きていこうと決心します。そしてナイロビの地に障害を持った子どもたちの施設「シロアムの園」を設立したのでした。今、50人を超える子どもたちが、このシロアムの園に通い、リハビリと療育を受けています。ケニアでは今でも障害を持った人への偏見が強く、そんな子どもが生まれたのは、親が悪いことをしたからだとか、呪われているからだと思われています。ある子どものお母さんは、「障害がうつるから側に来ないでと言われた」体験を、涙ながらに語っていました。そうした社会にあって、シロアムの園は公文和子先生のやさしい笑顔とあたたかい人柄とのお陰もあって、障害を持つ子どもたちと親たちが安心して通える場所となっています。日本に毎夏帰ってきて講演と募金活動をしながら、シロアムの園の切り盛りをする公文和子先生の苦労は、いかばかりかと思います。しかし、先生自身は障害を持った子どもたちの笑顔こそが、自分を支え生かしてくれている。自分は子どもたちから笑顔をはじめ、多くのものを受け取っていることを伝えたいと言われるのです。

 私たちは、公文和子先生のような志の高い行動はできないかもしれません。しかし、自分の身近な人たち、少し関わりのできた人たちのために自分を捧げることによって、「自分自身」が支えられ、励まされる経験をするのではないでしょうか。そのような誰かのために十字架を背負う私たちを、主イエスは「わたしの後に続く者だ」と喜んでくださるのです。

 

 さて、主イエスはさらに36節以下で、次のように言われています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(36~38節)。ここには、主イエスの御後に従う弟子たちが、何に究極の価値を置いて生きるかが教えられています。マタイによる福音書4章8節以下にありますように、神に敵対するサタンは、主イエスに「この世の国々とその繁栄ぶり」を見せました。「わたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と誘惑しました。サタンはこの世界を支配する力を持っていることが分かります。しかし、このサタンに身をかがめて全世界を手に入れたとしても、それを自分の思い通りにすることはできません。全世界をどうかしようと思っても、それは自分の思いではなく、サタンの思いに操られているからです。現代の社会においても、暴力や強権を用いて自分の国を思うがまま支配しようとする独裁君主がいます。しかし、それは自分の思い通りにしているように見えても、それはすべてサタンの思いに操られているのです。しかしそれは有限です。人の子が父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来られる時までしか、存在することはできません。サタンの支配はいつまでも存続することはません。人の子が再臨する時に完全に打ち砕かれ、滅ぼされてしまうのです。

 それに対して主イエスの御後に従う信仰者は、主イエスが与えてくださる永遠の命を約束されています。この主にある永遠の命は、信仰者が地上の死を迎えても失われることはありません。しかしサタンに身をかがめて自分の命を失った者には、永遠の滅びが待ち受けているのです。なぜなら第一の死の後には永遠の命がありますが、第二の死の後には永遠の滅びだけがあるからであります。

 

 主イエスは今日の最後の9章1節で、このように言われました。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」この主イエスの言葉には、いくつかの解釈が提案されてきました。これは主イエスの再臨のことを語っていると言う人もおります。そうすると弟子たちが生きている間に、主イエスが再臨されると預言されたことになります。しかし、他の解釈をする人もいます。ある人たちは「神の力があふれて現れる」時を、次週学ぶ主イエスが山上で栄光の姿に変わった時だと言います。また別の人は、その時は主イエスが十字架の死から復活された時だと言います。そしてまた、天から聖霊が下されたペンテコステの時だと考える人もいるのです。いずれが正しいかは分かりません。むしろその一つ一つが、「神の国が力にあふれて現れた」出来事だと言えるのではないかと思います。

悩み多き時代です。不条理がこの世には充ち満ちているように感じます。しかし信仰者は、神の国が力にあふれて現れる究極の時として再臨の時を待ち望んでいます。そして、それだけではありません。主イエスは「神の国が力にあふれて現れる」出来事を、私たちの生きる時代にももたらしてくださいます。神の御支配は、私たちの時代にも確かに現れ出るのです。そのことを信じて、希望を抱きつつ信仰者としての歩みを続けていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と対面で、オンラインで共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。今日も聖書の御言葉を示され、主イエスの御後に従う者としての道を示されました。主は私たち一人ひとりの罪のために十字架を背負ってくださいました。私たちは自分のために十字架を背負っていく必要はありません。どうか私たちを、主イエスがそうであったように、誰かのために十字架を背負う者として導き支えてください。立秋からだいぶ経っても、猛暑日の続く日々です。どうか、兄弟姉妹一人ひとりの心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 9月29日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マルコによる福音書9章2-8節

説  教   「主イエスの姿が変わる」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分    司式 山根和子長老

聖     書

  (旧約) エジプト記3章11-15節  

  (新約) マルコによる福音書9章2-13節 

説  教 「いのちの光に輝く王」  藤田浩喜牧師