日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 歴代誌上29章10-11節
説 教 「主の祈り④ 頌栄、アーメン」 藤田百合子
主日礼拝
午前10時30分 司式 山根和子長老
聖 書
(旧約) 申命記8章2-10節
(新約) マルコによる福音書8章1-13節
説 教 「主が与えるものを分け合う」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 歴代誌上29章10-11節
説 教 「主の祈り④ 頌栄、アーメン」 藤田百合子
午前10時30分 司式 山根和子長老
聖 書
(旧約) 申命記8章2-10節
(新約) マルコによる福音書8章1-13節
説 教 「主が与えるものを分け合う」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書6章11-13節
説 教 「主の祈り③ 日用の糧、罪のゆるし、試み」 高橋加代子
午前10時30分 司式 三宅恵子長老
聖 書
(旧約) ヨナ書4章1-4節
(新約) エフェソの信徒への手紙4章25-27節
説 教 「神の道、神の御業は完全」 藤田浩喜牧師
マタイによる福音書20章1−15節 2024年8月11日(日) 主日礼拝説教
長老 三宅恵子
皆様おはようございます。今朝与えられましたメッセージは、マタイによる福音書20章1節から16節のぶどう園に雇われていく労働者のたとえの話です。ただいま読んでいただいたこの話は、昔のことになりますが、当時、私が思ったようには単純な話でなかったようで、今回のお説教のご奉仕でもない限り、分からないまま、有耶無耶になったままの状態で私の中でとり残されたものになったことでしょう。今回、学び直して初めて分かったこともありますので、そのお話もしたいと思っています。
藤田先生から勧められました聖書講解書には一番最初に、この例え話はよく誤解されている。と書かれています。よく誤解されているのは、どこのところなのかを問いかけていくだけでも、何かが分かるかもしれないと、良い方に考えてお話を進めていきたいと思います。この一連のお話の中では、明らかにぶどう園の主人の態度が不正なのではないだろうか、そして、最初から働いていた者たちがあとから来た者たちと同じ1タラントンしか貰えないことに憤慨するのも当然ではないだろうか。という意味で、このたとえは、誤解されていると言われています。そうだそうだと思われた方も、いやそんなことじゃないんだよ、と思われた方もいらっしゃるのではないかと思いますが、まずは、私がその昔、どのように間違って捉えたのかをお話したいと思います。
25年くらい前、私は、「天の国は次のようにたとえられる。」というはじめの文章を読んで、単純に、天国はどんなところなのかを知りたいと思ったのです。そして、ここに書かれているように、あるぶどう園の主人が、農園で働く労働者を雇うために夜明けから始まって、9時ごろ、12時ごろ、3時ごろ、そして5時ごろと何度も出かけていって、何もしないで広場に立っている人々に賃金を払ってやるから、ぶどう園で働きなさいと誘う状況を想像してみました。
ぶどう園の主人は、1日分の賃金である 1デナリオンを約束しながら、それぞれの時間にその場に立っている人々を 誘い続けるのですが、流石に、午後になると、そこにいる人々は、今日の分の収入はないのではないか、と諦めながら立ち続けていたことでしょう。そこに、1日分の賃金である1デナリオンを約束しながら、人々を雇い続けていくこの雇い主である人は、本当に、神様に見えます。
「なぜ、何もしないで1日中ここに立っているのか」と尋ねられ、「誰も雇ってくれないのです」と答えている人々は、誰からも雇ってもらえない心細さを抱えてその場に立ち続けるしかなかった人々でした。理由はいろいろあるでしょう。家庭の事情で出遅れたのかもしれませんし、病気だったかもしれません、もしかしたら、立っていたにもかかわらず、何かのタイミングで 気づいて貰えないまま、ずっと立ち続けていたのかもしれません。わたしは、この時多分、自分自身をこの遅く雇われた人々と重ね合わせていたのだと思います。ですから、この遅くまで労働者を雇い入れるために、何度も辛抱強く足を運んでくれたぶどう園の主人に、感謝をしながら、なるほど、これは、このぶどう園は天国のようなもので、主人は神様だなぁと自分の中で納得したのです。農作物の収穫は、その収穫時期に合わせて一気にやってしまわなければなりません。しかし、このときの労働者の雇用は、ぶどうの収穫のための労働力の確保 というよりも、労働者の救済が目的のようです。私なりに天国というもののアウトラインが出来たように思えました。そして、それを、遊びに来ていた友人と夫に嬉々として話したのでした。
その時の友人の返事はとても、衝撃的で、今でも鮮明に覚えていますし、今回説教題としてもう一度考えてみたいと思ったきっかけとなりました。
その時の友人の返事は、遅く出かけて行ったにもかかわらず、雇われると言うような、そういう事態は考えられないというのです。彼女が、明日という日に、仕事を得ようとするならば、自分なら、前の日から準備をして、約束の時間より早く現地に着き、そして試験なり、面接なりを受けて、やっとそこで雇われるのであって、時間にも間に合わないように出かけていって、求職活動をするなどというのはもう、問題外だと言うのです。
彼女の言っていることは、素晴らしく常識的で、なんの問題もありません。むしろ、私は、どこで自分が間違えてしまったのかと思ったくらいでした。言葉が足りなかったのか、十分に言いたいことの説明をすることが出来なかったのか、とにかく、私の思いは二人には、伝わらなかったのです。その時、私には、彼女の言わんとするところが分かりました。それは、慣れ親しんだこの世のルールだからです。
しかし、彼女には、私の言いたいことは分かってもらえないだろうなということも理解できました。この世で生きている私達は、この世のルールに従って生きています。ですから、このように不確実な天国の話を、分かってもらうのは、これはどう考えても私の方が不利で、納得してもらうための説明責任はわたしの方にあります。
このぶどう園の話は、あまりに私達の生きてきた方向性に逆らうものです。誤解を恐れず言うならば、私達は天国とは全く違う方向に促され、追い立てられて生きているのです。冒頭に申し上げました聖書講解書の言葉、「この例え話はよく誤解されている」という意味がよくわかります。
例え話の中心は、15節に見られる<わたしが気前よくしているのでねたましく思うのか>という点です。この話は、ぶどう園の主人が神ご自身であり、すべてわたしたちが受けるものは、神の恵みによって受けているのだから、その神のみ前に当然要求できる報酬、というようなものはない、という点からのみ理解されます。
神からの召しに応じて、自分自身の状況や心境にかかわらず、感謝とともに応答の生活に入っていくことは、まずは大事なスタートでしょう。洗礼が目的地、目標ではなくスタートだと言われる所以です。そこから始まる信仰の旅路だと言ってもいいのではないかと思います。問題は、その後のことだと、例え話はぶどう園の主人の言葉を借りて言っています。報酬である1デナリオンは、すべての人が生きていくうえで必要な恵みです。神による救いには、区別や差別がありません。何時から働き始めようと、1日に必要な金額は一緒なのです。働いた時間に合わせてもらう時間給とは、違うのです。未明から働こうが、5時から働こうが、私達一人ひとりにとって、1デナリオンは、本当に命を長らえるために必要な金額なのです。天国の営みは、私達の地上のやり方とは違います。 本当は、その恵みに値しないにも関わらず、救い主である、イエスキリストの尊い十字架の犠牲の上に成り立っている、申し訳ないような恵みなのです。
信仰生活において、私は、そしてわたしたちは、神の恵みに対して怠惰に、傲慢になっていないだろうかと振り返ってみる必要があります。例え話の中核は、自らに奢っているパリサイ人たちと同様、自分たちこそ一番最初からの働き人だと誇っている弟子たちにもあてて語られています。
そうであるならば、わたしたちは尚更そっと、自分を精査し、吟味する必要があるのではないでしょうか。当然のものとして貰える恵みなどは、ないのです。早くから来て働いていたからと言って、当然のものとして受け取る、1タラントンという、1日を生きていくのに必要な恵みは、私達にはないのです。神の恵みの点から申しますと、この世のルールでは、権利である報酬は、天国においては報酬ではなく恵みであり、なんの代償もなく得られてしまった贈り物であります。すべての人に与えられる、生きていくために必要な1タラントンの恵みは、ただただ主イエス・キリストの尊い十字架の贖いの業の上に、贖われたものなのだ、ということです。
そして、私達が今持っている強みと弱みは、すでにこの恵みの生活に入れられているということではないかと思います。すでにぶどう園という天国の仲間に入れられているということではありますが、それ故に、1タラントンの恵みを当然の報酬と考える際どさです。そこには主イエス・キリストの贖いの十字架はありません。
ルカによる福音書の15章1節から7節に「見失った羊のたとえ」というお話があります。「見失った1匹の羊を探すために、99匹の羊を野原に残して、その1匹の見失った羊を探さないだろうか?」という、イエス様の問いかけです。
みなさんは、このお話をどう思われたでしょうか?初めて、この99匹の羊の話を読んだときのことを、思い出してみてください。私はと言いますと、「残された99匹の羊はいったいどうなるんだろう。」と思ったことを覚えています。この話は、迷いだして、迷子になった1匹の羊が、自分自身であると認識しなければ、理解できないところにあります。
自分の立場を、99匹の羊の中に置いたままで考えますと、福音の意味、救いの御業のありようが分からないということになってしまいます。今は、ありがたいお話だと思っていますが、当時の私はといいますと、自分が迷い出した1匹の羊だとは全く思っていませんでした。ぶどう園の労働者と同様に、神様の支配しておられる天国においては、当然貰うべき報酬や、迷って命が危険に晒されている時に、探し出して貰える権利、というようなものは存在しません。其れはひとえに、ただ「神の恵み」、と言うものであります。
主イエス・キリストは、わたしたちが理解しやすいように例え話でお話されたとあります。しかし、必ずしも例え話が分かりやすいとは限らないことは、今日のたとえの箇所をみてもわかります。文化や風習、当時のイエス様が暮らした環境など考えますと、現代の日本という国に暮らしているわたしたちにとって必ずしも、例え話だからといって、イエス様のお生まれになった頃のたとえが分かりやすいとは言えません。でも、考えるための糸口になります。受ける側の私達の性別や年齢、その話を読むときの、その人の経験や状態などが、密接に関わってくるでしょう。
そういう意味で、私達は、聖書を通して、今、この時の自分の思いや感情や立場を、聖書の中で働かれている主イエス・キリストの聖霊を信じて、そのイエス様に自分自身の思いを託し、繰り広げられる聖書の中のお話をその時その時に理解していいのではないかと思うのです。
失敗しても、誤解したままでも、そのうち、時が巡れば、かならず、その時が来て、必要となった時に、理解させて頂けるのだ、ということで、よいのではないかと思うのです。主イエス・キリストと共にあることで、豊かになっていく人生や思いや生活が、さらに豊かなものとなっていくことを願い、人生という旅の中で、わたしたちが、何かが本当に必要になった時には、私達の救い主である、主イエス・キリストは、わたしたちが理解している以上のものを、教会や兄弟姉妹の交わりを通して、聖書や、聖霊の助けを通して、私達に、神の恵みとして豊かに与えてくださると信じます。お祈りします。
<お祈り>
私達の主、イエス・キリストの父なる神様
今朝は、このような形で兄弟姉妹とともに、あなたの礼拝に参加することを許され感謝いたします。教会の交わりの中で、より深く聖書を識ることが出来ますことに感謝いたします。聖霊の助けにより、正しく御言葉を識るものとしてくださり、識ることにより、神様と隣人を愛するものに、御心を訪ね求めることにより、平和を作るものにしてください。人と世界に、希望を見つけることができずにいる今という時代に、主イエス・キリストの十字架を想い、絶望することなく、日々新たにして、感謝を持って生きる者としてください。これらの感謝と願いを尊い主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書6章9-10節
説 教 「主の祈り② 御名、御国、御心」 三宅光
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) コヘレトの言葉3章1-15節
(新約) マタイよる福音書20章1-16節
説 教 「天の国のたとえ」 三宅恵子長老
マルコによる福音書7章24~30節 2024年7月28日(日) 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
さて、今朝の説教題は、「主イエスを説得する信仰」としました。主イエスは神様の独り子です。ヨハネによる福音書によれば、天地創造の御業にも参与された子なる神様です。そんな神様が説得されるというのは、何か変ではないか。永遠の昔から完全にすべてを知り、予定しておられる神様が説得され、御心を変えるなどということがあるのか。そう思われる方もおられるかもしれません。しかし、神様の御心というのは、そんな薄っぺらなものではないのです。神様の救いに与った私たちは、神様が永遠の御計画の中で私を救ってくださった、そう信じております。それは、私たちに信仰が与えられ救われたことだけではありません。結婚にしても、子が与えられることにしても、この両親の元に自分が命を与えられたということも、皆、神様の永遠の御計画の中で与えられたものと受け取り、神様に感謝し、神様をほめたたえるのです。
しかし、その逆に、あの人は救われないことになっているとは誰も言えないし、それは神様だけが知っておられることです。この神様の領域に、私たちは入り込んではならないのです。ですから、私たちは、この人があの人が救われることを願い、神様に祈ります。また、そのためにできるだけのことをいたします。そしてそのことを神様は喜んで受け取ってくださるし、その祈りに応えてくださるのです。それが、「神様が喜んで説得される」ということです。
今朝与えられております御言葉において、主イエスはガリラヤからティルスの地方に行かれました。このティルスという町は、地中海に面した所にあります。大変古い町で、フェニキア人が建てた町です。このフェニキア人というのは、アルファベットのもとになる文字を使い始めた民族で、貿易を主とした海洋民族です。ティルスも貿易で大変栄えた都市でした。
そこに主イエスが行かれたというのです。もちろん、弟子たちも一緒だったと思います。そこは異邦人の住む地方ですから、ユダヤ人たちはあまり行きたがらなかったと思います。特に、ファリサイ派の人々は、自ら汚れの中に入っていくようなものですから、行きたがらなかったでしょう。
主イエスがこの地方に来たのには、二つの理由が考えられます。一つは、7章において、エルサレムから来たファリサイ派の人々や律法学者たちと律法を巡って決定的な対立をしてしまいましたので、身を隠すためということが考えられます。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた」と記されておりますことが、それを暗示しているように思われます。もう一つは、6章30節以下の所で、弟子たちと共に休もうとされたのですが、それができないままでしたので、今度こそ、弟子たちも主イエスも休もうとされた、そう考えることもできるかと思います。いずれにせよ、主イエスはここでは人目につきたくなかった。じっとしていたかったのです。
ところが、汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女性が、主イエスのことを聞きつけ、救いを求めに来たのです。この女性は、シリア・フェニキアの生まれで、ギリシャ人でした。つまり、ユダヤ人から見れば異邦人です。彼女は、主イエスの所に来ると、主イエスの足もとにひれ伏して、自分の娘をいやして欲しい、汚れた霊を娘から追い出して欲しいと願い求めました。この女性は、今までも多くの汚れた霊を追い出してこられた主イエスだから、きっと自分の娘の悪霊も追い出してもらえるに違いない、そう思ったでしょうし、そうして欲しいと心から願い求めました。私たちも、主イエスならきっとそうしてくださるに違いない、そう思うでしょう。
ところが、この時主イエスは全く意外な言葉を口にされたのです。27節「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」一読しただけでは、ここで主イエスが何をお語りなったのか分かりにくいかもしれませんが、ここで「子供たち」と言われているのはユダヤ人のことであり、「子犬」と言われているのは異邦人のことを指しています。特にこの場合、幼い娘でしたので、子犬と言われたのでしょう。「パン」というのは救いのこと、この場合は、汚れた霊を追い出すといういやしの業を指しています。ここで、ギリシャ人、異邦人を「犬」にたとえるのは何とも酷いではないか、人種差別も甚だしい、主イエスともあろうお方が何と愛のない言い方をされるのか、そう感じる人もいると思います。確かに、ユダヤ人たちは当時、ギリシャ人や異邦人を犬と呼んで蔑視していたのです。主イエスも他のユダヤ人と同じなのか、そう思う人もいるかもしれません。確かに、そのように読むこともできるでしょう。しかし、ここで決定的に重大なことは、主イエスがこの女性の願いを退けているということです。理由ははっきりしています。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」ということです。つまりまず最初に、神の民であるユダヤ人が救われなければならない。今はその時だ。まだ、異邦人が救われる時は来ていない。そう言われたのです。
まさに、ここで主イエスが言われていることは、神様の救いの御計画です。救われる者の順序です。主イエスは、「まずユダヤ人だ」と言われて、異邦人であるこの女性の願いを退けたのです。確かに、神様の救いに与るには順番があります。主イエスが十字架にお架かりになり復活されて、すぐに主イエスの福音は日本に来たわけではないのです。ザビエルが日本にキリスト教を伝えたのは16世紀のことでした。その後、鎖国があり、キリシタンの弾圧があり、再びキリストの福音が日本に伝えられたのは19世紀でした。そして、千葉の地に福音が伝えられたのは1870年台でした。何と長い時間がかかったことでしょう。この世界の人々が一斉にキリストの福音に聞き、悔い改めて救われるのではないということは、必ずそこに後先ということが起きるということです。そうやって次々に起きることが、神様の救い歴史、救済史です。どうして、何の理由で、このような順番があるのか、私たちには分かりません。それは、どうして私が先に救いに与り、あの人この人がまだ救いに与っていないのか分からないのと同じでしょう。はっきりしていることは、私たちの方が、まだ救いに与っていないあの人この人よりも立派であったとか、宗教的であったとか、信仰的に熱心であったとか、よい人であったというような理由ではないということです。
教会では、まだ主イエスを信じていない人、救いに与っていない人を、「未信者」と言います。この言い方は、未だ信者になっていないという意味ですから、私たちは知らないけれども、後で信者になるであろう、なるかもしれない、そういうことを暗に示しているわけです。この言い方は、とてもよいと私は思っています。非信者ではないのです。私たちは、たまたま神様の御心の中で、その人たちより先に救いに与っただけなのです。そして、そのような人たちに私たちは囲まれているわけです。家族の中でも、自分だけがキリスト者であるという人も少なくないでしょう。そういう中で、私たちはどうするのか、その人たちをどう理解し、その人たちのために何をするのかということです。
この女性は、主イエスにこれほどはっきりと「今は駄目。まだ時が来ていない。」そう断られたにもかかわらず、少しもひるむことなく、退くことなく、主イエスにこう迫ったのです。28節「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」何という言葉でしょう。この女性は、「子犬とは失礼な。何という言い方か。こんな人に娘のことを頼むのではなかった。」そんなふうに腹を立てたりしなかったのです。それどころか、「はい、私の娘は子犬です。しかし、子犬でも、子供が落としたパン屑を食べることはできるでしょう。」そう主イエスに迫ったのです。この女性は諦めなかったのです。そして、この女性の有り様を主イエスは喜ばれたのです。断られてもなお、娘のために救いを求めるこの女性の姿を、主イエスは喜んで受け入れられたのです。そして、29節「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言って、この女性の娘をいやされたのです。
創世記18章16節以下には、アブラハムが、神様が滅ぼそうとされるソドムの町の人々のために、必死に執り成しをしているやりとりが記されています。ソドムの町に50人の正しい人がいれば、その人たちのためにソドムの町を赦してくださいと願い、それが聞かれると、45人、40人、30人、20人、10人とその数を減らしていき、何とかソドムを助けようとしたアブラハムでした。結局この時、ソドムの町には10人の正しい人もいなかったので、ソドムの町は滅ぼされてしまったのですけれど、神様はアブラハムの、ソドムの町のための執り成しを受け入れてくださいました。この時の神様のお姿と、シリア・フェニキアの女性の、我が娘のための怯まぬ執り成しを受け入れられる主イエスのお姿は、全く重なっています。ここには、愛する者のために必死に執り成し救いを求める者を、決して退けようとはしない神様の姿があるのです。
このことを知った私たちはどうするのか。それはもう言うまでもないほどに、はっきりしているでしょう。アブラハムのように、この女性のように、まだ救いに与っていない人のために執り成すのです。その人の救いを求め、祈り願うのです。この女性のように、断られても断られても、願い求め祈るのです。救ってくださる方は主イエスしかいないのですし、滅びるのを黙って見ているわけにはいかないのです。その人を愛しているからです。神様を説得するほどの思いを持って、祈ればよいのです。主イエス御自身、マタイによる福音書18章19節で「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と約束されています。マタイによる福音書7章7~8節では「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と約束してくださっています。この主イエスの約束を信じて、執り成しの祈りをしていくこと。それが、先に救われた私たちに求められていることであり、神様、イエス様は、それを喜んで受け取ってくださるのです。愛するが故に、私たちの覚えるあの人この人のために、信じて祈ってまいりましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。神様、あなたの御計画を私たちは人間の知恵で測ることはできません。しかしあなたは人格的なお方であり、私たちの祈りの言葉に耳を傾けてくださいます。あの人この人の救いのために必死に祈る私たちの言葉を、あなたは受け入れ願いを叶えてくださる方です。どうか、そのことをいつも忘れずに、執り成しの祈りを捧げさせてください。命の危険を感じるような猛暑日が続きます。どうか、兄弟姉妹の健康をお守りください。今、病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、悲しみや悩みの中にある兄弟姉妹を、お支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書6章9節
説 教 「主の祈り① 呼びかけ」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)
聖 書
(旧約) 詩編51編12-19節
(新約) マルコよる福音書7章31-37節
説 教 「恵みの御業を歌う舌」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書7章14~23節 2024年7月21日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
主は言われました。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7:14~15)。
「外から人の体に入るもの」というのは、食べ物のことです。「外から人の体に入るもの」については、程度の差こそあれ、私たちは皆、様々なことを気にするだろうと思います。賞味期限を気にします。添加物についてとても気にする人もいるでしょう。それらは皆、健康に関することです。
そのように、健康に関わる様々なことは気にしますが、食べ物を食べる時に、「これによってわたしは汚れるだろうか」と心配する人は、私たちの中には恐らくいないだろうと思います。「食べ物が人を汚す」という概念は、私たちの生活にはないからです。ところが主イエスの時代のユダヤ人、特にファリサイ派のユダヤ人は違うのです。食べ物によって人は汚れると信じている。そして、それは重大なことなのです。
例えば、食事の前には手を洗います。これは衛生のためではありません。宗教儀式です。洗わない手で食事をしますと、その食事によって汚れるのです。いや、それだけではありません。この章の3節以下にはこんなことが書かれていました。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(3~4節)。市場では宗教的に汚れた人たち、例えば異邦人などに接触したかもしれません。だから身を清めて食事をしないと「汚れる」のです。
さらに言うならば、何を食べるかも重要なのです。ユダヤの世界では、食べてはいけない「汚れた」食べ物というものがあるのです。その代表は豚です。トンカツを美味しそうに食べるなんて、もっての他。そんなことをしたら汚れてしまいます。今日でも、厳格なユダヤ人は、例えばやたらにその辺でパンを買って食べたりしません。豚の脂肪であるラードが入っている可能性があるからです。これがユダヤ人の戒律の世界です。
そのような背景を考えますと、今日お読みした主イエスの言葉が、いかに過激な言葉かが分かるのではないでしょうか。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものなんて何もない」。そう主イエスは言い放ったのです。みんな目を丸くして、「信じられない。あなたはとんでもないことを言っています」と言いたくなるような言葉なのです。
しかし、主イエスがそのような過激なことを言われたのは、その次を語るためなのです。主はこう言われました。「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。さて、主イエスは何を言わんとしておられるのでしょう。弟子たちには、よく分からなかったようです。ですから、群衆が帰った後に、こっそりと主イエスに尋ねました。すると主はこう答えられたのです。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」(18~19節)。
「外に出される」と訳されていますが、本当は「便所に出される」って書いてあるのです。食べ物は心の中に入るわけじゃない。腹に入って便所に落ちるのだ。――本当に汚れるか汚れないかを考えるならば、確かに重要なのは「腹」ではなくて「心」だと思います。主イエスは極めて現実的な話をしているわけです。
では「心」が問題ならば、何が心の中に入って人を汚すのでしょうか。「食べ物」ではなくて、「人の中から出て来るもの」だと主は言われるのです。人の心から出て来るものです。「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」と主イエスは言われるのです。
「心から出て来る悪い思い」とは何でしょう。その後には、具体的に、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」と書かれています。しかし、口に入るものとの対比で考えられているのですから、「人間の心から、悪い思いが出て来る」と言う時に、まず主の念頭にあったのは、特に「言葉」のことであったと考えられます。すなわち、具体的な悪として現れてくる以前に、既にその心の中にある「悪い思い」が問題なのです。そして、「悪い思い」が心から出て来る時の「言葉」が問題なのです。
ですからマタイによる福音書では、もう少し詳しくこう表現されているのです。「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」(マタイ15:17~18)。これならはっきりしています。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」。口から出て来る言葉の話です。言葉こそ人を汚すのです。先にも申しましたように、ユダヤ人はどんな食物を口に入れるかに細心の注意を払いました。しかし、それ以上に注意しなくてはならないことがあるのです。どんな言葉を心に入れるかです。言葉によって心は汚されるからです。
主イエスがこう言われた理由は、分からなくもありません。ユダヤ人の戒律の世界を想像してみてください。表向きはとても秩序だった清い世界です。しかし、戒律の世界は、同時に簡単に裁き合いの世界になるのです。神への感謝と喜びをもって守っているのならよいでしょう。しかし、ただ義務として、自分が嫌々仕方なく守っていることがあると、他の人が同じように守っているかどうかが気になるようになります。守っていないと許せない。批判したくなる。取り決めやしきたりの多い社会は、簡単に悪口と陰口に満ちた社会になるものです。
また悪口と陰口に満ちた社会では、人からどう見られるかが気になります。他の人からどう見られるかが気になって気になって仕方ない。すると外側だけを一生懸命に取り繕うようになります。しかし、無理が生じますから、見えないところで悪いことをするようにもなってしまいます。ですから、主イエスが言っておられる、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」などは、恐らくユダヤ人社会に生きる彼らにとって、決して無縁のことではなかっただろうと思うのです。
そして表向きだけきれいな戒律社会において、互いの裁き合い、悪口、陰口、人に対する非難、中傷に耳を傾けていたらどうなるでしょう。あるいは隠れて行っている姦淫やみだらな行いについての話に耳を傾けていたら、またそれらを心に入れながら一緒に話をしていたら、確実に心は汚れていくと思いませんか。それこそゴミ箱のようになっていくことでしょう。
そう考えますと、これは私たちにとっても無縁の話ではありません。実際どうでしょう。私たちは、普段、どのような言葉を心に入れているのでしょうか。悪口や陰口の輪に加わっている時、誰かそこにいない人を一緒に中傷している時、そのことが自分を汚していることには気づかないものです。いやむしろ、そこで妙な連帯感さえ生まれるかもしれません。あるいは自分が外れていると、今度は自分が悪く言われているのではないかと心配になって、ついつい話に加わってしまうことも起こり得ることでしょう。
しかし、そのようなことをしていれば、心は確実にゴミ箱になっていきます。それは確かです。そして、それは本人だけで終わりません。ゴミ箱は悪臭を放ち始めるのです。やがてそこからゴミが溢れ出ます。心から溢れたものが口から出て来るようになる。すると、今度は他の誰かを汚すことになるでしょう。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」のです。ですから、どのような言葉を心に入れて生活するのかということは、本当は私たちの生活を大きく左右し、さらには人生そのものを左右する大問題であるはずなのです。
ところで、今日の聖書箇所は「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた」(14節)という言葉から始まっていました。そのように、今日の箇所はその前に書かれていることの続きなのです。今日の箇所の直前には、主の語られたこんな言葉が記されています。「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」(13節)。「あなたたち」というのはファリサイ派の人々と数人の律法学者たち(1節)のことです。
このことがあったので、主イエスはもう一度群衆を集めて語られたのです。宗教的指導者たちが「神の言葉を無にしている」からです。そして、それは群衆においても同じだからです。「人の中から出て来るものが、人を汚す」という現実が起こっているのは、そもそも本当に心に入れなくてはならないものを入れていないからなのです。「あなたたちは神の言葉を無にしている」と。律法を与えられていながら、聖書を与えられていながら、そこから本当に神の言葉を聞こうとしていない。聞いていない。それこそがそもそもの問題なのです。
毎年10月31日を私たちは宗教改革記念日として覚えます。なぜ10月31日なのかというと、1517年のこの日、マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に「95か条の提題」を張り出し、そこから宗教改革が始まったからです。かつてキリスト教会においても、神の言葉が無にされていた時代がありました。そのような教会において、宗教改革が起こったことは必然でした。
今から500年以上前、宗教改革者たちが手がけた大きな事業の一つは、キリスト者が自国語で聖書を読めるようにすることでした。それまではラテン語で読まれていたのです。マルティン・ルターは、聖書をドイツ語に訳しました。何のためでしょう。教会が神の言葉を無にしないためです。神の言葉を聞くためです。本当の意味で、心に入れるべきものを入れるようになるためです。
それは宗教改革を経て、神がここにいる私たちにも与えてくださっている、とてつもなく大きな恵みです。しかし、私たちはその恵みを本当の意味で受け止めて生活しているのでしょうか。私たちはどのような言葉を、心に入れて生活しているのでしょうか。そのことを今一度心に問いつつ、新しい一週間を歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝し、あなたの御言葉に聞くことができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは「人から出て来るものこそ、人を汚す」と言われました。人から出て来るもの、それは私たちの語る言葉です。私たちの時代は、私たちの歪んだ醜い思いが、人を傷つける言葉となって拡散されてしまう時代です。私たちの内から出るどんなに多くの言葉が、他者を傷つけ、偏見や対立を煽っていることでしょう。どうか、そのことを深く反省する者とならせてください。そして私たちがあなたの御言葉に根差した、塩で味付けられた言葉を語ることができますよう、どうか導いていてください。猛暑の日々が続きます。兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 サムエル記上17章31-51節
説 教 「ダビデとゴリアト」 山﨑和子長老
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約) ミカ書6章1-8節
(新約) マルコよる福音書7章24-30節
説 教 「主イエスを説得する信仰」 藤田浩喜牧師
ヨナ書3章5~10節 2024年7月14日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
陸に戻ったヨナは、神の命令を再び受けて、外国の大きな都ニネベに向かって行きました。そして神から語れと命じられた言葉を、彼は語りました。神から命じられた言葉というのは、4節の後半に記されています。「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる。」そして一日分の距離を歩いただけ、つまり一日分の働きをしただけで、彼の語った言葉の効果はすぐに表れたと、5節以下に記されています。「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。」
断食をすること、粗布をまとうこと、これは悔い改めのしるしです。そのことが身分の高い者にも、低い者にも起こったと記されています。ニネベの人々の早い反応に驚かされます。彼らはヨナを信じたのではなく、神を信じた、と5節に記されています。そして少し劇的には描かれていますけれども、ニネベの人々は、ヨナの宣教の言葉、神の言葉を正しく理解して、悔い改めの行為をいたしました。何か目に見える奇跡とかしるしによって、ニネベの人々が変えられたのではなく、ヨナが語る言葉だけが人々を悔い改めに導き、そして彼らの生き方に180度の変化をもたらしました。
イザヤ55章11節に、「そのように、わたしの口からでるわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と記されています。神の言葉が語られる時、その言葉の中に込められている神の意思が現実の出来事となる。イザヤはそのように神の言葉が持つ力を語りました。その一つの典型例が、ニネベの人々において起こっていることを知らされます。神の言葉に秘められている力、それは人々を大きく変えることができるものです。私たちは、神の言葉が持つ力への驚きと共に、御言葉を語る者が常に持つべき畏れと謙虚さを同時に示されていることを思うのです。
ニネベの都においては、さらに驚くべきことが続いて起こっています。それはこの都の王に関わることです。6節において、「このことがニネベの王に伝えられると」と、書き始められています。「このこと」とは、ヨナの宣教の言葉と、それによってニネベの都の人々が悔い改めに導かれたという事実を指しているのでしょう。それを伝え聞いた王は、「王座から降り、王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、そして断食をした」と記されています。これは最大級の悔い改めを示す行為です。この王は、ヨナが語る言葉を聞くことによって、自分自身の中に、神によって裁かれても仕方がない罪や悪があることを認識しました。だからこそ彼に、悔い改めの行為が起こっているのです。ニネベの王は、滅びを予告する神の言葉を、自分とは無関係とは考えませんでした。その言葉によって初めて、自分自身の真の姿を知る者とされました。御言葉を真に聞く時、一人一人の中に新しい自己認識が起こる。そしてその新しい自己認識は、新しい生き方をその人に始めさせる。このことは今日においても真理ではないかと思います。
ニネベの王はこのように自ら悔い改めただけでなくて、王と大臣たちとの名によって布告を出しました。王が出した布告の内容は、7節後半から9節に記されています。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」この布告は極めて特徴的なものであることが分かります。
その一つは、断食とか粗布をまとう悔い改めの行為を命じられているのが、国民だけでなくて、牛、羊といった家畜にまで至っているということです。家畜までが断食し、粗布をまとって悔い改めを命じられるのは、何か奇妙な気がします。これは王自身が、神の怒りの激しさを徹底的に理解していることの表れと、見ることができるのではないでしょうか。人間だけでなく、人間の罪によって命ある他のすべてのものが、本来の姿からかけ離れたものになっている。そのような王の認識をとおして、私たちも人間の罪がどれほどこの世界と被造物の上に大きな影を落としているかということを知らなければなりません。そのような訴えがここで差し出されています。
第二の特徴は、「おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ」と命じられていることです。断食するとか粗布をまとうことは、心の中の悔い改めを表現する行為です。王はそれと同時に、悪の道を離れ、その手から不法を捨てよと言います。それによって心の中だけでなくて、実際の生き方においても方向転換することを命じています。悪の道を離れ、不法を捨てよとの言葉は、現実の生き方そのものにおいて、新しく生きることを命じているのです。
さて、もう一つ王の布告の特徴を見ますと、重要な言葉が最後に付け加えられていることが分かります。「そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」これが最後の言葉です。これは、嵐の船の中で一人眠っているヨナを起こして、ヨナに祈ることを命じた船長の言葉に通じるものがあります。
1章6節に、船長が語った言葉が記されています。「船長はヨナのところに来て言った。『寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない』」。ここにも、「かもしれない」という言葉が語られていました。ニネベの王の最後の言葉も、「われわれは滅びを免れるかもしれない」でした。結果を神に委ねる謙虚さと神への畏れとを、船長もニネベの王も持っていることが分かります。王は、先ほど申しましたように、自分やニネベの都の人々の中に、神から滅びを宣告されても止むをえない、罪や悪があることを認識しています。だからこそ、自ら悔い改めの行為をなし、布告を出しました。しかしそれと同時に、神はもしかするとその大きな憐れみと愛とによって、私たちを赦してくださるかもしれない。そうした一縷(いちる)の期待と希望をも捨ててはいないのです。
この神が思い直されるかもしれない、ということによって表されている信仰には、何が込められているのでしょうか。それは、神は単なる原理や法則ではないということ、神は単に機械的に動くお方ではないということです。生きて働く人格あるお方、その方への信頼が、「神は思い直されるかもしれない」という言葉の中に言い表わされています。しかし同時に、「もしかすると」という言葉の中には、自分たちの期待はそうであるとしても、最終的に事柄を決定されるのは神であるということを承認する謙虚さもこめられている。そのことを私たちは知らなければならないのです。
さて、結果はどうなったでしょうか。それは10節に記されているとおりです。「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことをご覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と、ニネベの人々に御計画を告げ知らされた神は、御心を変えられたのです。神は、王をはじめニネベの人々や家畜までも断食している、そういう悔い改めの様子を見て、それを心からの悔い改めとして受けとめられたのでした。
旧約聖書には、神が思い直されるかも知れないという記事だけでなくて、実際に神が思い直されたという記事もしばしば出てきます。出エジプト記32章14節に、「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」とあります。モーセの執り成しによって神は災いを思い直された、と記されています。アモス書にも、神が民にくだすと告げられた災いを、アモスの執り成しの祈りによって思い直されたとの記事が、繰り返し出てきます(特に7章)。
旧約聖書においてはこのように、神の決定や通告が神によって思い直されて、神の計画が変更されることがしばしば起こっています。それはコロコロと考えが変わる神さまのきまぐれによるものなのでしょうか? 決してそうではありません。神が思い直される出来事には、一つの方向性というものがあります。あるいは一つの原則がある、と言ってもよいかもしれません。神が思い直される時のその方向性とか原則とは何か? それは一言で申すならば、より多くのものを救う方向へと神の決定が変更されるということです。そしてそれは、神の愛から出てくるものなのです。
私たちはそこに、絶対的な方であられる神のなさることの不思議さを思わされます。決して機械的に動かれる神ではありません。きまぐれに心を変えられるお方でもありません。慈しみとまことに満ちた人格的な存在としての神は、より多くを救うために怒りを起こされることがあり、また同じ目的で裁きの決定を取り除かれることもあるのです。それが私たちの神であります。そしてその不可思議な神の愛の業は、やがて御子イエス・キリストをこの世に遣わす出来事において頂点に達したのです。
主イエス・キリストは、ニネベの都の人々が、ヨナの宣教によって悔い改めたことを引用しながら、ヨナにまさるものがある、と言われました。ご自身のことであります。神の愛と憐れみと赦しのしるしである主イエス・キリストが、この世に来られました。ヨナではなく神の御子が、この世に派遣されました。教会はそのことを知っています。
私たちは神の忍耐強さがさらに持続されるように祈りながら、より多くの人々が悪の道から離れて、神との結び付きの中で、新しい自分の命と存在を見出す者となるように、和解と執り成しの務めに励みたいと思います。
「あなたがたの方向をどこに定めるべきか分からない時は、まず主なる神のもとに帰れ」と、語っている人がいます。迷っている時、どう生きたらよいか分からない時、行き詰った時、まず主のもとに帰れ! 私たちはその言葉を自らへの言葉として聞き取りたいと思います。それと同時に、ヨナがあの短い言葉を語り続けたように、私たちも「神に帰れ、迷っている時には神に帰りなさい」というこのひと言を、今の時代において熱心に語り続けていくよう遣わされています。今日そのことを心に刻みたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。ニネベの町に悔い改めを迫ったヨナの言葉に、ニネベの人々と王は、自らの罪を認め心から悔い改めました。神様もその悔い改めの真実さを受け入れ、ニネベに対する審きを思い留まりました。神様は何にも増して、私たちが砕かれた思いをもってあなたに立ち返り、罪を悔い改めることを願っておられます。神様のその深い愛の御心を私たちが忘れることがありませんよう、どうか私たちを導いていてください。これから季節は、どんどん暑さへと向かいます。どうか、一人一人の健康をお支えください。このひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 サムエル記上16章1-13節
説 教 「ダビデ、油を注がれる」 藤田百合子
午前10時30分 司式 山根和子長老
聖 書
(旧約) 詩編32編1-11節
(新約) マルコよる福音書7章14-23節
説 教 「誰があなたを汚すのか」 藤田浩喜牧師