次週の礼拝  5月19日(日) 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    使徒言行録1章8節

説  教   「聖霊がくだると力を受ける」  藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分 ペンテコステ(聖餐式を執行します) 司式 藤田浩喜牧師

聖        書

(旧約)エレミヤ書20章9節  

(新約)使徒言行録2章1-4節 

説     教  「宣教する教会の誕生」  藤田浩喜牧師

天を見つめる者たち

使徒言行録1章6節-11節 2024年5月5日(日)主日礼拝説教

                                            牧師 藤田浩喜

 今朝注目したいのは、主イエスの昇天、復活された主イエスが天に上げられたことです。ところで、「昇天」という言葉は日本語で、死ぬことを意味する言葉として用いられることがあります。しかし主イエスの昇天はそれとは全く違う意味ですから、間違えないようにしなければなりません。主イエスの昇天とは、復活した主イエスが結局はまた死んでしまったということではありません。体をもって復活し、もはや死ぬことのない新しい命を生きておられる主イエスが、その生きた体のままで天に昇られたということです。使徒信条の言葉で言うならば、「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」ということです。復活された主イエスは、昇天して、今は、この地上にではなく、天におられ、父なる神様の右の座に着いておられる。そのように、復活して今も生きている主イエスのおられる場所が変わったこと、それが主イエスの昇天なのです。

 

 さて、使徒言行録は主イエスの昇天を語る前に、復活された主イエスと弟子たちとの問答を記しています。弟子たちは6節で主イエスにこう質問をしたのです。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。それに対する主イエスのお答えが7、8節に語られ、9節は「こう話し終わると、イエスは彼らの見ているうちに天に上げられ…」と昇天を語っています。6節以下の問答と昇天とは密接に結び付けられているのです。主イエスの昇天の意味を考える上で、この問答の内容はとても大事です。

 弟子たちはここで主イエスに、「イスラエルのために国を建て直して下さるのは、この時ですか」と尋ねています。イスラエルのために国を建て直す、それは旧約聖書に預言されていたメシア・救い主が現れる時に実現すると期待されていた救いです。長く国を失い、あるいは外国の支配下にあったイスラエルが、救い主の出現によって力を盛り返し、外国、敵の支配から脱して自分たちの国を、メシアの王国、神の王国として確立する。そういう救いをイスラエルの民は待ち望んでいたのです。弟子たちは、今こそ主イエスによってその救いが実現するのではないか、と期待しています。死に勝利して復活された主イエスこそ、まことのメシア、救い主であり、この主イエスならイスラエルの国を再興することがお出来になる、と彼らは考えたのです。

 主イエスは弟子たちのこの期待を込めた問いに対して、7節でこうお答えになりました。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」。このお答えは、イスラエルのための国の再興という救いが、今すぐに、もう間もなく実現する、という弟子たちの期待に対する否定です。「時や時期は、父なる神様がお決めになることなのであって、あなたがたの知るところではない」。「いつ」ということは父なる神様にお委ねして、今与えられている信仰の生活、主イエスに従う歩みを続けていくことが求められているのです。従ってこの問答に込められている含蓄は、主イエスが復活なさったことによって、神様の救いが完成してしまうと考えるべきではない、ということです。神様の救いのみ業は、まだ継続しているのです。先があるのです。あなたがたはこの先もなお、道を歩み続けていくのだと言っておられるのです。

 弟子たちに与えられているこの先の道、彼らがなお歩み続けていかなければならない道とはどのようなものでしょうか。それは、主イエスによって使命を与えられて遣わされていく道です。弟子たちのことが使徒言行録では「使徒たち」と呼ばれています。その意味は「遣わされた者」ということです。復活された主イエスと出会った弟子たちは、その主イエスによって使命を与えられて遣わされていくのです。その使命を語っているのが8節です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。彼らに与えられる使命とは、主イエスの証人、証し人としての使命です。主イエスのことを宣べ伝え、主イエスによって父なる神様が成し遂げて下さった救いのみ業を伝える、そのために彼らは派遣されていくのです。

 これは、弟子たちが期待していた、救い主である主イエスが「イスラエルのために国を建て直してくださる」ということとは、かなり違うことです。弟子たちは主イエスの復活によって、神の民イスラエルの王国が目に見える仕方で確立し、主イエスがその王となって下さるものと思っていました。しかし主イエスがお示しになったのは、そのようなイスラエルの王国の建設ではなく、主イエスのことを宣べ伝える証人、証し人の群れの成立だったのです。それは教会の成立です。

そのことが、弟子たちの上に聖霊が降ることによって実現する。それがこの後2章の聖霊降臨、ペンテコステの出来事において起ることです。8節の言葉はペンテコステにおける教会の誕生を予告しているのです。主イエスの復活によって実現していくのは、イスラエルのための国の再興ではなくて、教会の誕生です。

 弟子たちが、救い主メシアによる救いの完成として思い描いていたのは、「イスラエルのための」国の再興でした。つまり彼らが考える救いの範囲は、イスラエルの民、旧約聖書以来の、神様に選ばれた民であるユダヤ人に限定されていたのです。けれども主イエスはここで、彼らが聖霊の力を受けて、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と語っておられます。これは、ユダヤ人、イスラエルの民という範囲を越えて、ユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人にも、そして全世界の異邦人にも、主イエスのことが宣べ伝えられ、彼らも主イエス・キリストの救いにあずかり、教会に加えられていく、ということを示しています。使徒たちがこの主イエスのお言葉の通りに、聖霊によって力を与えられ、キリストの証人となり、ユダヤとサマリアの全土に、そして地の果てにまで主イエス・キリストの福音を宣べ伝えていった。そのことを、この使徒言行録は語っていくのです。

 主イエスは弟子たちの問いに答えて、このように、彼らに使命が与えられ、遣わされることをお語りになりました。つまり教会が誕生し、歩んでいくことを語られたのです。この主イエスのお言葉には、一つ、前提となっていることがあります。それは、弟子たちの、教会の歩みにおいて、主イエスは少なくとも目に見えるお姿においては、そこに共におられない、ということです。弟子たちが力を受け、主イエスの証人として遣わされるのです。それをしていくのは弟子たちであって、復活された主イエスが陣頭指揮を取ってしていくのではありません。弟子たちが主イエスの証人として遣わされることは、主イエスが共におられないことを前提としているのです。

つまり、今弟子たちの目の前におられ、語りかけておられる主イエスは、彼らの前からいなくなるのです。そのことが起ったのが、主イエスの昇天です。9節に語られている主イエスの昇天の記事は、昇天をそういう事柄として語っています。注意深く読んでみるとそれが分かるのです。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。ただ天に上げられたと語られているのではありません。「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」のです。弟子たちは主イエスを見ていた。するとその主イエスが天に上っていかれ、雲がそのお姿を覆い、もはや弟子たちは主イエスを見ることができなくなった。それが昇天において起ったことなのです。

 主イエスが去っていく、目に見えない存在になる。それは大変心細い、不安なことです。けれどもそこに、代って与えられるものがあるのです。それが聖霊です。天に昇り、去っていく主イエスに代って、聖霊が弟子たちに降り、与えられるのです。その聖霊が彼らに力を与え、彼らを全世界へとキリストの証人として遣わしていくのです。

この聖霊の働きの内にある私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることができないことを嘆いたり、心細く思う必要はありません。使徒言行録は、即ち教会の歴史は、主イエスの昇天から、つまり主イエスのお姿が見えなくなったことから始まったのです。主イエスが天に昇り、見えない方になられたからこそ、天から聖霊が与えられ、神様の力が豊かに注がれて、主イエスのことを証しする人たちが立てられたのです。主イエスが天に昇り、私たちの目に見えない方となられたことは、神様の救いの恵みの前進なのです。なぜなら、このことによってこそ私たちは、いつでも、どこにいても、復活された主イエスと共に歩むことができるからです。仕事をしている時も、学校へ行っている時も、家庭にいる時も、外出している時も、起きている時も寝ている間も、目には見えない主イエスが、聖霊のお働きによって私たちと共にいて下さるのです。また私たちは礼拝において、様々な妨げによってここに来ることができず、共に礼拝を守ることができない多くの方々のことを覚えて、執り成し祈ります。それらの方々に、それぞれの置かれた所で、主イエスが共にいて慰めと癒しと支えを与えて下さるように祈るのです。その祈りを神様は聞き届けて下さるのです。私たちはそういう神様の恵みを信じています。そのように主イエスがいつでも、どこでも、誰とでも共にいて下さることを、私たちが信じることができるのは他でもありません。肉体をもって復活された主イエスが、天に昇り、私たちの目には見えないお方となられたが、その代りに聖霊が降って、今私たちの中で働いていて下さることによるのです。

そしてそれに続いて、10節以下のことが語られているのです。「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」。弟子たちは、主イエスが昇っていき、見えなくなった天をいつまでも見上げていました。するとそこに白い服を着た二人の人、つまり天使が現れ、主イエスが「またおいでになる」ことを告げたのです。

天に昇られた主イエスは、またおいでになる方です。まことの神としての権威と力とをもって、主イエスが天から再び降って来られる日がいつか来るのです。その時、今は隠されている主イエスの、そして父なる神様のご支配があらわになり、完成するのです。それによって今のこの世は終わり、神の国が完成するのです。昇天は、主イエスについて語られるべき最後のことではありません。「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」の後には、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」が続いているのです。

主イエスの昇天を見つめ、思う時に、私たちは、同時にその主イエスがまたおいでになること、主の再臨を見つめさせられ、思わされるのです。教会の歩みは、主イエスが天に上げられてからまたおいでになるまでの、昇天と再臨の間の歩みです。この間の時、私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることはできません。しかしこの間の時、私たちは聖霊の働きを受けて歩みます。昇天と再臨の間の時代を、聖霊の導きによって歩むのが教会なのです。その教会に連なって生きる私たちは、目には見えないけれども、復活して永遠の命を生きておられる主イエス・キリストと共に生きることができます。復活された主イエスの証人として、主イエスを証しし、宣べ伝えていく力を与えられます。そしてその主イエスがいつかもう一度、目に見えるお姿で来られ、そのご支配があらわになり、私たちの救いが完成する日を待ち望みつつ、歩むことができるのです。そのような信仰の生活を私たちに与え、力強く導き、支えて下さる聖霊が、今私たちに働きかけていて下さるのです。そのことを忘れないようにしましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と礼拝を共にすることができ、感謝いたします。主イエスは復活され、弟子たちに顕現された後、昇天されました。復活された主イエスをいま私たちは、目で見ることはできません。しかし主の昇天によって遣わされた聖霊が、私たちには与えられています。その聖霊において、どんな時にも、どんな所においても、活ける主イエスが共にいてくださいます。主イエスの昇天が、くすしき神の救いの御計画の大いなる進展の出来事であったことを、私たちに覚えさせてください。そして私たち一人一人が、聖霊によって復活の主の証人として立てられ遣わされていることを覚えさせてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  5月12日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    使徒言行録1章12-14節

説  教   「心を合わせて祈る」  高橋加代子

主日礼拝   

午前10時30分  司式 髙谷史朗長老

聖  書

  (旧約)エレミヤ書31章31-34節    

  (新約)ヨハネによる福音書16章5-15節 

説  教   「新しい契約」  長谷川晴子教師

愛の完成

ヨハネによる福音書21章15~19節 2024年4月28日(日)主日礼拝

                                             牧師 藤田浩喜

教会で行う結婚式では、結婚するふたりに次のように約束をしてもらいます。

「あなたはいま、○○さんと結婚することを神の御旨と信じ、今から後、さいわいな時も災いに会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、たがいに愛し、敬い、仕えて、ともに生涯を送ることを約束しますか。」

牧師が新郎と新婦にそのように尋ね、「はい、そう信じて約束します」と答えてもらうのです。ちょっと想像してほしいのですが、あなたがそう答えた時、牧師があなたに向かって、「本当ですか」と問い返したらどうなると思いますか。そしてあなたが「本当です」と重ねて答えた後で、さらにもう一度、「本当に本当ですか」と牧師が聞き直したらどうなるでしょうか。

 ちょうどそれと似たようなことが、今日お読みいただいたヨハネによる福音書の中で、主イエスとペトロとの間に起こったと言っていいでしょう。21章15~17節からにかけて、主イエスがペトロに向かって三度、「あなたはわたしを愛しているか」とお尋ねになり、そのたびにペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたという場面が伝えられています。

 三度目に問われた時、「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」とあります。「悲しくなった」とは、情けなくなったということでもありましょう。自分の言うことを信じてもらえないのかという思いでしょうか。

 それと同時に、あるいはここで、主イエスに問われ、主イエスに答えている間に、ペトロはかつて自分が主イエスに語った言葉、そして自分のとった行動を思い出したかもしれません。それは主イエスが十字架につけられる前の晩のこと、最後の食事を弟子たちと共にとっていた時のことです。主イエスはペトロに向かって、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われました。

 その場面にこう記されています。「ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』」(13章37~38節)事実は、主イエスの預言通りに進んだということを聖書は証言しています。

 「主イエスを知らない」と言ったのは三度。「わたしを愛しているか」と問われたのも三度。「ペトロは……悲しくなった」という文章の背後には、それに気づいたペトロの身のすくむような思いが含まれていたのかもしれません。「この方は覚えている。」それはあるいは、自分が今主イエスに「裁かれている」という思い、主イエスに「試されている」という思いだったかもしれません。

 だからこそと言うのか、あるいはまた、それにもかかわらずと言うべきか、ペトロの三度目の答えは、それまでの答えにはなかった、こういう言葉から始まっています。「主よ、あなたは何もかもご存じです。」(21:17)そして、この言葉に、「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と続くのです。

 私たちは人生の節目節目に大切なことを約束する場合があります。結婚もそうですし、キリスト者となることにおいてもそうです。しかし、現実には、その日その時には真剣な思いとあふれるような誠実さをもってなされた約束が、いつまでも変わることなく揺らぐことなく保ちつづけられているかといえば、そういうわけでもありません。

 人生そのものに波があり、山も谷もあるように、さまざまな現実の中でかつて自分の約束した言葉がその力を失い、約束した内容の重さが見失われてしまうような時が必ず何度か訪れます。ただ惰性で夫婦として生活しているように思われる時、ただ惰性で教会に通っているように思われる時が、誰にでもあるのではないでしょうか。また、この人生を生きることの意味が見失われたように思われる時が、誰にでもあるのではないでしょうか。そうした現実があることを認めようとしないのは愚かなことです。

 大事なことは、そういう現実に直面した時に自分の人生そのものをきちんと見つめることができるかどうかということであり、信仰者としての原点に立ち帰り、あるいは結婚の原点に立ち帰って、自分自身を見つめることができるかどうかという点にかかっています。

 信仰であれ、家庭であれ、そして人生であれ、その真価が問われ、またその豊かさを発見するのは、むしろそうした行き詰まりや挫折に直面した時、それにどう向き合ったかということにかかっている場合が多いように思います。そして、そうした時にこそ、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と答えた(答えざるを得なかった)ペトロの言葉を、私たちもまた、本当に痛切な思いをもって想起すべきではないかと思うのです。

 三度、主イエスのことを知らないといった「裏切り」は軽々しい出来事ではありません。三度、ペトロに投げかけられた問いもまた軽々しいことがらではありません。しかし、「三度の裏切り」と「三度の答え」と、思えばそういうきわどい難所において、私たちの信仰も家庭も人生も、鍛えられ、深められ、真実なものになっていくのではないでしょうか。そういったぎりぎりの難所にあって、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と心の底から告白し、すべてを主におまかせし、主のもとに立ち帰るということこそ、キリスト者の信仰生活の要であると思うのです。

 すべての人間はイエス・キリストの裁きのもとに置かれています。その裁きとは、人間を滅びに至らせるものではなく、逆に古き姿を裁くことによって、その人を新しい命へ生かそうとする裁きです。イエス・キリストは人間を新たなものに造りかえてくださる方であり、また人間に新しい仕事を示される方であります。

 「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と告白するペトロに対し、主イエスがおっしゃった言葉はこうでした。「わたしの羊を飼いなさい。」(21:17)三度とも、主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と命じられました。もともと漁師であった男に向かって、「羊飼いになれ、商売替えをせよ」と命じておられるのです。

 主イエスご自身が、ペトロの新しい仕事を決めるのです。ペトロは主イエスが命じられた仕事に従わなければなりません。漁師の仕事は「魚を取ること」であり、「取る」ということにポイントがあります。どんなに大漁であろうと、そこで「取られた魚」はまもなく死んでしまいます。羊飼いの仕事は「羊を飼うこと」であり、養い、育て、生かすことです。羊飼いは羊と共に生きるのです。

 「わたしの羊を飼いなさい」という言葉につづけて、さらに主イエスはペトロにこうおっしやいました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(21:18)。

 この言葉はペトロが後に十字架につけられて死ぬことの預言であったと言われます。「両手を伸ばして」とは、十字架に釘づけられるために「横に手を伸ばして」の意味であろうというのです。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。」

 ペトロは自分で自分の人生を選んで生きてきた人間です。選ばれて主イエスの弟子になったとはいえ、しばしば自分の判断を優先し、主イエスがどうおっしゃるかということよりも、自分がどうしたいか、自分の思いにこだわってきた人間です。それと同時に、一時的には熱して「あなたのためなら命を捨てます」と大見得を切りながら、すぐその後で我が身かわいさのあまり逃げ出すような人間でもあります。「自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた」ような、そういう「出来の悪い羊」、「わがままな羊」、「熱しやすく冷めやすい羊」を抱えながら、羊飼いである主イエスは我が身を捨てて羊を守ってくださいました。

 ここでは、その「羊」であったペトロ自身が、主イエスのような「羊飼い」になることを命じられているのです。

 ペトロがそのような「羊飼い」にふさわしい才能の持ち主だったわけではありません。しかし、ペトロには、「羊飼い」になることによって、彼自身が学び知らなければならないことがあったのです。自分が「羊」だった時に味わったイエス・キリストの御心を、及ばずながらも自ら「羊飼い」として働くことによってペトロは思いはからなければならないのです。

 俗に「子をもって知る親の恩」といいますが、「羊飼い」になってみて、初めて分かる「キリストの心」があるのではないでしょうか。このように「羊」であることと「羊飼い」であること。それはキリスト者として生きる上で私たちが深く味わい知るべきふたつの面であり、味わい知れば知るほどにいよいよ自分の無力さを思い知らされます。それと共に、いよいよ主の恵みに感謝を新たにする機会となり、そしていよいよ真剣に「主よ、あなたは何もかもご存じです」と告白し、主の赦しと支えを祈り求めながら歩みつづけていくことになる体験であると思います。

 私たちは「主の羊」として養われつつ、「主の羊を養う者」として、すなわち、互いに互いを配慮し合い、支え合い、導き合って生きていかなければなりません。

 ペトロだけが特別だったのではありません。私たちひとりひとりが主イエスの前では「主の羊」であり、大切な掛け替えのない人間です。私たちが心しなければならないことは、主イエスの前で自分がそれほどまでに大切な人間として取り扱われているという事実であり、同時に自分の隣りに座っている人もまた主イエスにとって掛け替えのない特別な人間であり、「主の羊」なのだという事実です。

 「主の羊」である私が同じく「主の羊」である隣人と共に生きるということ、そしてお互いに「主の羊を飼う者」として、隣人に対して責任を担い合うということ。それがペトロに告げられた命令の内容であり、私たちへの主の命令であるとは言えないでしょうか。

 このように、お互いを生かし合い、お互いに責任を負うという隣人愛のゆえに、キリスト者の生き方はただ自分の好き勝手に「行きたいところへ行く」というものではなく、主イエスのゆえに「行きたくないところへも行く」という課題も含まれているということを、わきまえておかなければなりません。

 賛美歌の一節にこうあります。

 「主よ、飲むべき わがさかずき、えらびとりて さずけたまえ。

  よろこびも かなしみをも、みたしたもう ままにぞ受けん」

                        (『讃美歌』285番3節)

 私たちのことをもっともよくご存じの主が、私たちの歩みも指し示してくださいます。この主の指し示しをまず第一に祈り求め、その示しに応じる備えをつねに整えている者でありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。復活の主がペトロに3度語られた「愛の命令」を今日は学びました。この3度の愛の命令の中に、失敗し、自ら絶望していた人間を立ち上がらせ、新しい使命に向かわせる主の深い愛を示されました。ペテロに与えられた愛の命令は、私たち一人一人にも与えられています。どうか、この主の御言葉を胸にこれからの人生を歩み続ける者としてください。このひと言の感謝と祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   5月5日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    使徒言行録1章6-11節

説  教   「主イエスの昇天」 𠮷田三枝子

主日礼拝   

午前10時30分  日曜学校日  司式 藤田浩喜牧師

聖  書

  (旧約)イザヤ書19章1-4節 (聖餐式を執行します)

  (新約)使徒言行録1章6-11節 

説  教   「天を見つめる者たち」  藤田浩喜牧師

備えていてくださる主

ヨハネによる福音書21章1~14節  2024年4月21日(日) 主日礼拝説教 

                                            牧師 藤田浩喜

 どうしてこういうものが聖書の中に含まれているのだろうと考え込んでしまう文書のひとつが、コヘレトの言葉(伝道の書)です。この中には、突き放したようなものの言い方がたくさん含まれており、神への信仰を語りつつ、人生は空しい、すべては空しいと語り、死んでしまえばすべてはおしまいだというふうな、あきらめとも思われるような文章が書き連ねられています。

 虚無的といえば虚無的ですが、ひるがえって考えてみると、こうしたコヘレトの言葉は現代社会に生きる多くの人々にとっては、むしろ身につまされるような痛切な事実を語っているのかもしれません。

 聖書というものは、現実の世界と歴史をリアルに受けとめて記録した文書を集めたものであり、そうした中で生きてきた人間たちの姿をリアルに映し出す文書を集めたものです。さらにまた、そうした人間たちに対して神の力がどのように働いたかということを伝える文書を集めたものです。

 そうである以上、ある時代のある人々が感じざるを得なかった空しい現実の姿、虚無的なものの見方を踏まえながら、なおかつそれでも神に目を向けようとした人々がいたことを、コヘレトの言葉は伝えている。このような文書が残されたということは、ある意味で聖書というもののふところの深さを示しているのかもしれません。

 さて、そのようなコヘレトの言葉の特色ともいうべき死生観を示す文章のひとつが、先ほどお読みいただいた9章4節後半~5節の中で次のように記されています。

  「犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。

   生きているものは、少なくとも知っている

   自分はやがて死ぬ、ということを。

   しかし、死者はもう何ひとつ知らない。」

 また、9節にはこうあります。

  「太陽の下、与えられた空しい人生の日々

   愛する妻と共に楽しく生きるがよい。

   それが、太陽の下で労苦するあなたへの

   人生と労苦の報いなのだ。」

 教会という場所では、結婚式や葬儀が行われます。結婚式であれ葬儀であれ、ただいま、お読みしたようなコヘレトの言葉の一節を朗読することは、まずありえません。結婚するふたりに向かって「人生がいかに空しいものか」を説教することはありえません。また、ご遺族の方々を前にして「死んでしまえばおしまいだ」などと説教することはありえません。

 しかし、それは私たちがキリスト者であり、キリスト教信仰を持っているからこそ言えることであって、現代社会に生きている多くの人々にしてみれば、コヘレトの言葉に語られている断片的な認識の方が、本当はずっと「現実的」だと感じられるかもしれません。

 11節以下にはこういう言葉も出てきます。

 「太陽の下、再びわたしは見た。

  足の速い者が競争に、強いものが戦いに

  必ずしも勝つとは言えない。

  知恵があるからといってパンにありつくのでも

  聡明だからといって富を得るのでも

  知識があるからといって好意をもたれるのでもない。

  時と機会はだれにも臨むが

  人間がその時を知らないだけだ。

  魚が運悪く網にかかったり

  鳥が罠にかかったりするように

  人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。」

 現実とはそういうもの、思いどおりにいかないもの、だからこそ、「すべては空しい」というのが、コヘレトの言葉の結論となるのです。

 さて、本日お読みいただいたヨハネによる福音書21章の記事の中にも、そういった現実を反映するような文章が出てきます。ヨハネによる福音書では、この場面に出てくる湖をティベリアス湖と呼んでいますが、これは他の福音書でガリラヤ湖と呼ばれている湖のことです。

 主イエスの弟子たちは、この時、エルサレムからここに戻ってきていたということなのでしょうか。イエス・キリストの十字架による死、そして、その後の復活という出来事を体験した弟子たちのはずです。しかしそれでもまだ、この時の弟子たちには、何かぼんやりとした雰囲気、ある種の虚脱状態に陥っているような印象が見受けられます。数週間、あるいは数日間の内に体験した大きな出来事の数々が、彼らを打ちのめし、これからどうしたらいいのか、何をなすべきなのか、考えがまとまらない。そんな雰囲気が感じられます。

 「わたしは漁に行く。」(21:3)

 そういってペトロは立ち上がりました。もともとガリラヤ湖の漁師だったペトロです。彼が漁師に戻るつもりだったのかどうか、それは分かりません。いずれにしろ、人は何かを食べなければならないわけで、とりあえず魚でもとってこようという気持ちだったのかもしれません。他の弟子たちも、とりあえずペトロについて立ち上がり、「わたしたちも一緒に行こう」と言いました。その中には、やはりもと漁師だった弟子もいましたが、そうでない者もいました。でも、彼らは皆、主イエスの弟子として一緒に生きてきた仲間でした。

 「わたしたちも一緒に行こう。」(21:3)

 そう言って、とりあえずひとつの舟に乗りこんだのです。しかし、「その夜は何もとれなかった」とあります。どんなにがんばっても、何もとれない夜がある。これこそ人生のリアルな一面であり、コヘレトの言葉にも記されているような、現実とはそういうもの、思いどおりにいかないもの、だからこそ「すべては空しい」という結論に結びつくような一場面であると言えるでしょう。

 しかし、ヨハネによる福音書の出来事は、コヘレトの言葉と同じ結論に至ったわけではありません。何もとれなかった夜であっても、やはりその夜は明けるという、現実のもうひとつの面をヨハネによる福音書は伝えています。

 「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」(21:4)

 夜明けの光の中で、イエス・キリストは弟子たちを見守っておられます。しかし、本当のことを言えば、夜が明ける前の暗闇の中でも、すでにイエス・キリストは弟子たちを見守っておられたのです。何もとれない夜の間も、弟子たちがそれに気づかない間にも、イエス・キリストは彼らを一晩中見守っておられたのです。 「だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」(21:4)

 そこで主イエスが見守っていてくれることが分からない時、私たちに残されるのはコヘレトの言葉の作者が感じたのと同じ気分です。すなわち、「すべては空しい」、これほど労苦しても何も得るものはない、これほどがんばっても人生には実りがない、「すべては空しい」という気分です。

 しかし、福音書が伝えていることは、どんな時でもイエス・キリストは私たちを見守っていてくださるという事実です。私たちにとって、人生の中でどんなにすばらしいことが起ころうと、あるいはまたどんなに悪いことが起ころうとも、いちばん大事なことは、その出来事の背後にいつもイエス・キリストが立っておられるという事実に気づくことに他なりません。

 パウロはローマの信徒への手紙8章28節に、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」という一句を記しました。文語訳聖書では「すべてのこと相働きて益となる」と訳されているこのパウロの言葉は、聞きようによってはずいぶん楽天的な言葉とも感じられる一句です。

 しかし、この言葉を記したパウロという人が、その伝道の生涯において味わった数多くの苦しみ、精神的にも肉体的にも経験した苦しみのことを思う時、そのような人物がその生涯の終わり近い時期に記したであろう、この手紙の中に残したこの一句は、決して安易な気休めといったものではなかったはずです。

 何もとれなかった夜のような体験を何度も味わいつくした後で、それでも、「神を愛する者たち(中略)には、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と記し得たパウロの実感こそ、キリスト教信仰によって生きる私たちが生涯を通して学ぶべき真実なのだと私は思います。

 それは人生とは決して空しいものではないことを宣言する言葉であり、私たちが出会うこと、私たちが体験すること、そのすべてはつねに神にあって豊かな意味を持っているということを教える言葉なのです。

 ヨハネによる福音書は、イエス・キリストが湖から上がってくる弟子たちのために、炭火を起こし、魚を焼き、パンを用意してくださっていたと記しています。

福音書の中には、主イエスがいろいろな人々と食事をする場面がたくさん出てきますが、主イエスご自身が火を起こし、食べものを料理したことが記されているのは、おそらくこの箇所だけではないでしょうか。

 主イエスはそのようにして手ずから整えられた食事を前にして、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」とおっしやいました。そして、パンを取り、弟子たちに与えられました。ここでもまた、エマオでの食事や、最後の晩餐や、それ以前に何度も繰り返された食事のように、主イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげ、パンを裂き、それを弟子たちに分け与えられたのです。

 一日を生きるための糧を、イエス・キリストは弟子たちのために備えてくださいました。人生を生きるための命の源を、イエス・キリストはいつも私たちのために備えてくださるのです。何もとれない夜であっても、主ご自身が私たちのために「朝の食事」を備えていてくださいます。

 今日ここに集う私たちもまた、この湖畔の弟子たちと同様、主イエスに見守られている存在であり、主イエスから命の糧をいただいている存在です。私たちは、この礼拝の場で主イエスに見守られていることを想い起こし、聖餐によって養われ、主に送り出されてこの世の旅路を歩むのです。

 私たちの人生のあらゆる時、あらゆる場面で、良い時にも悪い時にも、健康な時にも病んでいる時にも、喜んでいる時にも悲しんでいる時にも、私たちは測り知ることのできない神の恵みと憐れみの中に置かれています。その恵みと憐れみの中で、私たちはそれぞれの人生を、主に従って歩んでいくのです。私たちは決してひとりではありません。私たちは主と共に生きるのであり、主によって結ばれた仲間たちと共に生きるのです。

 信仰によって生きる時、私たちの人生は決して空しいものに終わることはないというこの事実を、私たちははっきりと心に刻みつけようではありませんか。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も主にある兄弟姉妹、またその家族や親族の方々と共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。父なる神さま、私たちは人生というものが思い通りに行かないものであることを知っています。精いっぱい努力しても、徒労に終わり、虚しさだけが残るような経験をします。しかし、そのような私たちの人生には、私たちを背後から見守ってくださる主イエスのまなざしがあります。そして主イエスは私たちの人生を導き、徒労に終わったかに思える人生にも新しい意味を創り出してくださいます。どうか、そのことを深く信じてあなたを見上げて、それぞれの生涯を歩ませてください。今日は午後に二人の敬愛する姉妹の埋骨式を教会墓地で行います。どうか、その上にもあなたのよき備えと導きを与えていてください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   4月28日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ヨハネによる福音書16章5-11節

説  教   「聖霊の約束」 山﨑和子長老

主日礼拝   

午前10時30分    司式 山根和子長老

聖  書

  (旧約)詩編65編2-6節    

  (新約)ヨハネによる福音書21章15-19節 

説  教   「愛の完成」  藤田浩喜牧師

見ないで信じる者は幸い

ヨハネによる福音書20章19~31節 2024年4月14日(日)主日礼拝説教

                                            牧師 藤田浩喜 

 ヨハネによる福音書20章27節には、復活のキリストがトマスに告げたという、次のような言葉が記録されています。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」キリストが十字架上で釘打たれた手のひらの穴、そしてやはり十字架上で槍で刺し貫かれたわき腹。そこに触ってみなさい、そこに手を入れてみなさいというのです。ずいぶん生々しい言葉です。

 ところで、今日お読みいただいたヨハネによる福音書20章19節に記されている「その日」とはイースターの日のことであり、イースターの晩に起こったことがここに記されています。その夜、キリストは弟子たちが集まっていた家の中にやって来られました。その場所がどこだったのか、詳しい説明はありません。ともかく、「恐れて」、「鍵をかけて」、じっと静まっていた弟子たちの前にキリストが姿を現し、弟子たちの平安を祈ってくださったのです。

 しかし、その晩、弟子のひとりであったトマスはそこにいませんでした。そこに居合わせなかったトマスが、仲間たちの証言を聞いても、ただちにそれを信じられなかったのはむしろ当然だったかもしれません。トマスは言います。  「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 このトマスの言葉に応じるようにして、「8日の後」、つまり一週間後、再びキリストが弟子たちのもとに現れ、トマスに向かって最初にご紹介したような言葉を告げたといいます。

 この場面に登場するトマスは、往々にして「疑いの人」というふうに語られることがあります。しかし、トマスはここで何を「疑った」のでしょうか。 単純に考えれば、トマスが疑ったのは「キリストの復活」だったと言えるでしょう。十字架上でキリストの体につけられた傷跡を見るまでは、「決して信じない」という強い言い方は、悪く言えばトマスの猜疑心の強さを表わしているように思えますし、よく言えば事実を確認しようとするまじめさを示しているようにも思えます。

 しかし、この物語を読む時、私はここでトマスが口走った言葉の真意はそうした復活そのものについての疑いとは少し違うことだったのではないかと感じることがあります。それはどういうことかというと、トマスが自分だけそこに居合わさなかったということ、結果的にであれ何であれ、「仲間外れ」の立場に置かれたということこそ、彼にとっていちばんの衝撃であり痛みだったのではないかということです。

 福音書は、その前後の情景を次のように記しています。「12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」

 この対話の中に、復活のイエス・キリストと再会した弟子たちが驚きを隠せず、それにもかかわらず喜びをもって報告しているのと対照的に、ひとりだけその場に居合わせなかったトマスの心境が反映されているように感じるのです。

 イエス・キリストに会えなかった。自分だけが会えなかった。自分の存在だけが無視されてしまったような、自分だけ仲間から取り残されてしまったような、そんな思い、そんな感情がトマスを襲い、思わず口をついて出てきた言葉が、その後につづく彼の言葉だったのではないかと思うのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」このトマスの言葉の中に、何か子どもがすねているような響きを感じるのは私だけでしょうか。

 とくに自分にとっていちばん大切な人々から見捨てられ、いちばん大事な出来事から取り残されてしまうこと。この場面のトマスとは状況が異なりますが、そういった仲間外れにされるという痛切な体験を、6歳の少年が味わい、そして書き記した詩があります。

「がっこうから うちへかえったら

だれもおれへんねん

あたらしいおとうちゃんも

ぼくのおかあちゃんもにいちゃんも

それにあかちゃんも

みんなでていってしもうたんや

あかちゃんのおしめやら

おかあちゃんのふくやら

うちのにもつがなんにもあらへん

ぼくだけほってひっこししてしもうたんや

ぼくだけほっとかれたんや

ばんにおばあちゃんかえってきた

おじいちゃんもかえってきた

おかあちゃんが

 『たかしだけおいとく』

とおばあちゃんにいうて

でていったんやって」

(灰谷健次郎『わたしの出会った子どもたち』、新潮文庫)

これは「あおやまたかし」という少年が書いた詩の最初の部分です。6歳というから、おそらく小学校一年生くらいでしょう。どういう事情があったのか分かりません。分かっていることは、この子だけが家族の中で取り残されたということです。親も兄弟もみんないなくなってしまった中で、自分だけがおいていかれたのです。

 トマスが経験したこととこの子の経験したことは、もちろんいろいろな面で異なっています。しかし、いちばん親しい人々の間で、思いもよらぬ時に、最も大事な出来事において、自分だけが取り残された、仲間外れにされたという点では、まったく同じです。「ぼくだけほっとかれたんや」という点では同じなのです。

「ぼくだけほっとかれた」という体験は、「交わり」にかかわる問題です。 神は人間を「交わり」の中で生きるものとしてお造りになりました。だから、「交わり」が失われた時、「交わり」が歪んだ時には、人間そのものの本質が歪められてしまったり、人間そのものが失われたりする場合があるのです。

 ところが、私たちが生きている現代社会においては、この「交わり」がたいそう歪められていたり、ひじょうに脆いものとなっていたりする場面に出くわすことがしばしばあります。例えば、教会にはいろいろな人たちがさまざまな問題を抱えて訪ねてきます。その中に、時々、「ホームレス」と呼ばれる人々がいます。話をしてみると、その人たちに共通しているのは「帰る場所がない」ということです。故郷がないわけではありません。家族もまったくいないわけではありません。でも、帰れないし、帰らない。あるいは帰りたくない、というのです。都会にいて何か希望や見通しがあるのかというと、そういうわけでもありません。どこかに知人や支えになる人がいるのかというと、そういうわけでもない人たちがほとんどです。

 「ホームレス」という言葉の本質は、物理的に「家がない」とか「職がない」ということと共に、またそれ以上に、「心のホームレス」、つまり、「交わりがない」、「帰属すべきものがない」ということを意味しているのではないかと思うことがあります。そういう意味における「ホームレス」の状態というものは、決して一部の人だけの問題ではありません。むしろ、それと似た状況は、多かれ少なかれ、私たちの身近なところで、私たちを取り巻いているとは言えないでしょうか。今日、小さな子どもたちから青少年や壮年、高齢者も含めて、また夫婦、親子、兄弟姉妹、友人、職場の仲間などを含めて、私たちの周囲にこのような「交わり」を巡る深刻な問題が横たわっているように思われるのです。

 私たちの時代は、誰もが「ぼくだけほっとかれたんや」という状況に追い込まれかねない時代です。誰もがそういうことに脅え、恐れているように感じられる時代です。そして、誰もが「ほっとかれない」ようにするために、SNSで情報を集めたり、絶えず仲間にメールしたり、あくせくしているように感じられる時代です。「ぼくだけほっとかれたんや」という体験は、人間を歪めてしまう可能性を秘めています。そして、「ぼくだけほっとかれたんや」という体験が頻繁に繰り返されたり、それが常態となってしまうなら、それはその人の人間性を破壊する結果をもたらさないとも限らないのです。

 聖書はイエス・キリストを、「ほっとかない人」として描いています。聖書が伝えるイエス・キリストは、家族から放り出された人、村や町から放り出された人、その社会の中で放り出された人、「ぼくだけほっとかれた」ことを体験した人々のもとにおもむき、そうした人々との間に「交わり」を形作り、それらの人々に生きる勇気を与える方として描かれています。

 今日の福音書は、このイエス・キリストという方が、十字架につけられ、死んで、よみがえった後にも、やはり「ほっとかない人」でありつづけたことを描き出しています。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」どうしようもない困惑と混乱の中に取り残された子どものように、大人気ない言葉を発したトマスに応えて、主イエスはそこにわざわざやって来て、そのようにおっしゃったと福音書は告げています。

 主イエスはここで、「私は決してあなたを忘れているわけではないよ」と言われたのです。ほかの弟子たちを差し置いて、ここで主イエスは、ただひとり、トマスに向かって、「私はあなたをほっておきはしない」とおっしゃったのです。

 トマスはどんな顔をしたのでしょうか。トマスは笑ったのでしょうか。それとも泣いたのでしょうか。本当の問題は主イエスの傷跡を確認するなどということにあったのではありません。主がトマスを忘れたのではないこと。  「ぼくだけほっとかれた」のではないこと。トマスもまた「私の仲間」だと確認してくれること。それがいちばん大事なことだったのです。

 私たちが生きていけるのは、だれかに愛されているからです。だれかが私たちのことを覚えていてくれるからです。キリスト者である私たちは、ぎりぎりのところで、この世のだれもが私のことを忘れ、私を見捨ててしまうような時でさえ、イエス・キリストだけは「私は決してあなたを忘れない」と言ってくださることを信じています。それが私たちを生かすのです。トマスを覚えていてくださった方は、私たちのことも覚えていてくださいます。トマスのためにわざわざやって来てくださる方は、私たちのもとにもその恵みと憐れみのまなざしを注いでくださいます。キリスト者である私たちは、どんな時でも、この方のまなざしのもとで生きているのです。私たちはこのまなざしによって、生かされて生きているのです。この方によって集められていることの喜びを、共に感謝し、共に歩んで行こうではありませんか。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを感謝いたします。復活された主イエスは、ご自身の方から弟子たちのもとに来てくださり、その姿をお示しになりました。そして、最初の時にいなかたったトマスのことを忘れずに、トマスのためだけにもう一度現れてくださいました。主イエスは、私たちをひとりぼっちにすることなく、主との豊かな交わりの中においてくださいます。私たちの教会の交わりも、そのような主との交わりを映し出す交わりとなりますよう、支え励ましていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  4月21日(日) 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   使徒言行録1章3-5節

説  教   「エルサレムを離れず」 藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分  伝道礼拝  司式 三宅恵子長老

聖  書

  (旧約)コヘレトの言葉9章7-10節    

  (新約)ヨハネによる福音書21章1-14節 

説  教   「備えていてくださる主」  藤田浩喜牧師

甦りの主にお会いして

ヨハネによる福音書20章11~18節 2024年4月7日(日)主日礼拝説教

                                             牧師 藤田浩喜

 先週、私たちはイースター礼拝をささげ、主イエスの復活を喜び祝いました。主イエスの復活は、単なる二千年前の不思議な出来事ではなくて、現在の私たちを生かす、私のために起きた出来事であることを改めて心に刻みました。今朝は、復活された主イエスが最初にその御姿を現された場面、マグダラのマリアと出会われた箇所から御言葉に聞いてまいりたいと思います。

 主イエスが復活された日の朝早く、まだ暗いうちにマグダラのマリアは主イエスの墓へ行きました。他の福音書は、この時マリアは香料を持って墓へ行ったと記しています。多分、主イエスの遺体に香料を塗るという、当時一般的に為されていた葬りの儀礼をしてあげたいと思ったのでしょう。ところが主イエスの墓に着いてみると、墓に蓋をするために置かれていたはずの大きな石が取り除けてあり、墓の穴の中に主イエスの遺体は無かったのです。この時マリアの頭に浮かんだのは、主イエスの遺体が誰かによって運び去られたということでした。主イエスが復活されたとは、少しも思っていません。そこで彼女は、主イエスの弟子であるペトロたちのところに走って行って、そのことを報告しました。

 

 主イエスの遺体が無くなっているという知らせを受けたシモン・ペトロともう一人の弟子は、主イエスの墓へと走りました。多分、マグダラのマリアも彼らの後を追うようにして、また主イエスの墓へ戻ったのだと思います。二人の弟子は主イエスの空の墓を見て家に帰ったのですが、マグダラのマリアは墓の前に立ち続け、泣いていました。彼女には泣くしかできなかったのです。

 木曜日の夜に主イエスが捕らえられて以来、彼女は何度泣いたことでしょうか。主イエスがゲッセマネの園で捕らえられたと聞いた時、彼女は泣いたでしょう。主イエスが十字架を背負ってゴルゴタに向かって歩まれた時、彼女は泣いたでしょう。主イエスが十字架につけられ、手と足に釘を打たれた時、彼女は泣いたでしょう。主イエスが十字架の上で息を引き取られた時、彼女は泣いたでしょう。そして安息日に入り、主イエスのいない土曜日、彼女は泣き続けていたことでしょう。そして日曜日の朝、主イエスの墓に来ると、そこに主イエスの遺体は無く、墓は空っぽでした。「わたしの主」、「わたしのイエス様」が取り去られた。誰かがどこかへ運んでしまった。どうしてこんなひどいことをするのか。マリアは墓の前で泣くしかありませんでした。

 泣くしかない。愛する者の苦しみを前にして何もできずに見続けなければならない時、私たちは泣くしかありません。そして愛する者を失った時、人はどうしようもなく泣くしかない。そういう時が私たちにもある。しかし、泣くしかない、もうどうしようもない時に、どうしようもないと思っていた現実の向こうから、私たちの思いを超えた神様の御業が始まっている。そう聖書は告げるのです。

 泣くしかないマリアに向かって、天使は言います。13節「婦人よ、なぜ泣いているのか。」これは、マリアに泣いている理由を尋ねているのではありません。泣いている理由は、分かり切っているのです。天使がここでマリアに告げているのは、「どうして泣いているのですか。もう泣くことはないのですよ。泣かなくてよいのですよ」ということです。しかし、マリアには天使が告げることの意味が分かりません。ですからマリアは、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と天使に言うのです。

 さて、ここで重大なことが記されています。14節です。「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」とあります。マリアは天使とのやり取りの後、後ろを振り向いたのです。するとそこに主イエスが立っておられたのですが、それが主イエスだとは分からなかったと言うのです。どうしてでしょうか。

 第一に、それ程までに主イエスの復活は、弟子たちの思いを超えたものであったということでしょう。弟子たちは主イエスが復活されることを信じ、期待し、その思いが復活の主イエスの話を作ったというようなものではないということです。第二に、主イエスの復活という出来事が、単なる肉体の蘇生というようなことではないということを示していると思います。マルコによる福音書16章12節には、「イエスが別の姿で御自身を現された」とあります。「別の姿」です。確かに主イエスは、十字架の上で死なれたその方として復活されました。その手と足には釘の跡がありました。しかし、その復活された体は、やがては朽ちていくこの肉体と全く同じではなかったということでしょう。別の姿だったから主イエスとは分からなかったということです。第三に、それ以上に大切なことがあります。それは、この主イエスの復活の出来事は、主イエスとの人格的な交わりの中で受け取られるものだということです。

 マリアは確かに、自分の後ろに主イエスが立っておられるのを見た。しかし、それが主イエスだと分からなかった。そして15節で主イエスが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言っても、マリアは相変わらず、主イエスとは分からずに墓の番人だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言っているのです。

ところが、主イエスが「マリア」と呼びかけると、彼女はこの人が主イエスであるとはっきり分かって、「ラボニ(先生)」と振り向きながら答えたのです。この「マリア」、「ラボニ」というやり取りは、マリアが主イエスに付き従ってきた日々の中で、何度も何度も繰り返されていたものでした。マリアは自分に語りかけられる「マリア」という声を聞いて、この方が復活の主イエスであることが分かったのです。それまでは分からなかったのに、です。どうしてか。私は、ここに主イエスの復活の出来事の重大な秘密があると思います。

 主イエスの復活の出来事は、物を上に投げたら下に落ちてくる、水は高い方から低い方へ流れるといった、誰の目から見ても明らかであり、もしその時代に写真機やビデオカメラがあったら写すことができるような、いわゆる客観的事実ということとは、少し次元が違うことなのだと思うのです。もちろん、私は主イエスの復活が実際に起きた歴史的事実ではない、と言っているのではありません。主イエスは確かに復活されたのです。しかし、その出来事は主イエスとの深い人格的な交わりの中でしか、受け取れないものだと思うのです。復活された主イエスに出会った者は、根本的にその人生が変わってしまうのです。主イエスを信じ、主イエスと共に生きるしかない者に変えられるのです。このことこそ、主イエスの復活の出来事の最も重大な点なのです。

 これは、私たちがこの主の日の礼拝のたびごとに経験していることと重なると思います。私は毎週ここで説教をしています。この説教から、自分自身に向けられた主イエスの御言葉を聞き取り、この主イエスに従っていこうとする信仰が与えられるという出来事に与ります。しかしそれは、この説教を聞くすべての人に与えられることではないのです。同じ説教を聞きながら、「さっぱり分からん」ということも起きるのです。聖餐にしても同じです。主イエスの体、主イエスの血潮として、ありがたくこれに与るという人もいれば、ただのパンとブドウ液にしか思えない人もいる。客観的に言えば、説教は牧師が語っていることですし、聖餐はパンでありブドウ液なのです。しかし、これがキリストの言葉となり、キリストの体、キリストの血潮となる。これは聖霊の働きにより私たちに信仰が与えられるから起きることなのです。そして主イエスの復活の出来事も、それと重なるのではないかと思います。

 復活の主イエスに出会うということは、一人ひとり違うのです。みんな同じように復活の主イエスと出会うのではないのです。聖書に記されている復活の主イエスと出会った人で、生前の主イエスとの交わりを持っていなかった人は一人もいません。このマリアのように、主イエスを愛していた人が復活の主イエスと出会っているのです。主イエスを知らない人、愛していない人は、復活の主イエスと出会うこともないし、出会っても気づかないし、意味もないのです。しかし、主イエスを愛する者にとって、主イエスの復活は、主イエスがまことの神であり、救い主であり、死を打ち破られた方であり、自分たちに生きる力と希望とを与えてくださる方であることを明らかにするのです。そして、この方と共に生きていく明確な信仰と決断が与えられるのです。

 

 さて、復活された主イエスとの出会いを与えられたマリアに対して、復活の主はこう告げられました。17節「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」マリアは、復活の主イエスの足もとにひれ伏し、その足を抱いて拝んだのだと思います。主イエスは、そのようなマリアに「そうではないのだ。わたしは天の父なる神様のもとに上っていかなければならない」と言われたのです。復活された主イエスは、いつまでも復活された姿のままで、マリアや弟子たちと共におられるわけにはいかない。天に上らなければならないと言われる。それは、復活された主イエスが天に上り、そして聖霊を注いでくださるためです。主イエスが天に上られるのは、再び聖霊として下られるためです。

 13節を見ますと、マリアは主イエスに対し「わたしの主」という言い方をしています。マリアは復活された主イエスにすがりつき、これが「わたしの主」、もう離さない、そんな思いだったでしょう。しかし、それはまさに主イエスを「わたしの主」にしてしまうことでした。わたしの思い、わたしの願い、わたしの理解の中に、主イエスを捕らえてしまおうとすることなのです。主イエスはそのようなマリアの思いを退けられます。主イエスには主イエスの道がある。それは天の父なる神様が定められたものであり、天より下り、また天に上る道です。主イエスは、マリアたちとは復活の姿ではなく、聖霊として共にいることになるのです。すべての者といつでもどこででも共にいてくださるためです。

 私たちは、主イエスの姿は見えません。しかし、説教が与えられ、聖餐が与えられています。これによって、私たちは主イエスの御声を聞き、主イエスの肉と血潮に、命に与るのです。私たちはここで、生ける主イエスとのいきいきとした交わりに生きることができるのです。この主イエスに励まされて、復活の希望と光の中を歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができ、感謝いたします。主は死の力を打ち破り、復活されました。そして、今はあなたの御許にあって、助け主である聖霊を送り、私たちを生かしてくださっています。御言葉による説教と主の聖餐によって、私たちを養ってくださっています。この恵みを深く覚える者としてください。群れの中には、病床にある者、高齢の労苦を負っている者、人生の試練に立たされている者がおりますが、復活の恵みを豊かに注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン