日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録1章3~5節
説 教 「エルサレムを離れず」 山﨑和子長老
主日礼拝
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) 出エジプト記3章7~14節
(新約) マルコによる福音書12章18~27節
説 教 「思い違いをすることなく」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録1章3~5節
説 教 「エルサレムを離れず」 山﨑和子長老
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) 出エジプト記3章7~14節
(新約) マルコによる福音書12章18~27節
説 教 「思い違いをすることなく」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書12章13~17節 2025年5月4日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝与えられております御言葉は、マルコによる福音書によれば、受難週の火曜日の出来事です。マルコによる福音書においては11章27節から13章の終わりまで、主イエスが神殿においてなされたたくさんの教えや問答が記されています。実にたくさんの分量が割かれているのですが、ここにある教えや問答がすべてこの火曜日だけでなされたと考える必要はないと思います。色々な時になされた教えが、ここにまとめられたと考えることができるでしょう。
さて、今朝与えられている御言葉において、主イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人が数人、主イエスのもとに遣わされました。彼らは遣わされて来たのですが、遣わしたのは誰かと言えば、11章の終わりの所で、主イエスに権威についての問答を仕掛けた祭司長、律法学者、長老たちであっただろうと思います。彼らは、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の指導者たちであり、当時のユダヤ社会の指導者たちです。彼らに遣わされて、主イエスの言葉じりをとらえて陥れるためにやって来たのです。
ここでファリサイ派やヘロデ派の人が遣わされているのですが、それは主イエスに向けられた問い、主イエスを陥れるためになされた問いの内容と関わっています。元々、ファリサイ派の人とヘロデ派の人とは政治的立場が全く違うのです。ファリサイ派の人というのは、ユダヤ教原理主義と申しますか、神の民であるユダヤ人として、自分たちは律法を守って神様の救いに与るために全精力をそこに注いでいる人たちです。彼らからすれば、汚れた異邦人であるローマに支配されているのはまことに面白くないわけです。一方、ヘロデ派の人というのは、当時のガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスを支持する人たちです。ヘロデ・アンティパスは、ローマ帝国のもとで領主であることを許されている存在ですから、当然、ローマ帝国による支配という現実を支持しているわけです。このようにローマに対しての姿勢ということから見れば、この二つのグループは全く正反対の立場だったわけです。
その二つのグループの人が主イエスの所にやって来て、主イエスに問うのです。14節「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」この税金というのは、多分、人頭税であったと思われます。これは主イエスを陥れるための罠です。どういうことかと申しますと、「税金を納めなくてよい」と主イエスが答えれば、それはローマに反逆する者ということになります。ヘロデ派の人が黙っていません。ローマに訴えて、主イエスを捕らえることができます。逆に、「納めなければならない」と答えれば、人々は主イエスが神様に遣わされた方で、その不思議な力で自分たちをローマから解放してくれると期待していましたから、人々は失望し主イエスから離れるでしょう。更に、ファリサイ派の人々は「ユダヤには神様以外に王はいない」と叫んで、主イエスを糾弾することさえできるわけです。このように、どう答えようとも主イエスを追い詰めることができる、そういう罠がこの問いには仕掛けられていたわけです。
これに対して、主イエスは彼らの策略を見抜かれます。そして、「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」と告げられました。デナリオン銀貨というのは、当時ローマ帝国が発行していた貨幣です。労働者の一日の賃金が1デナリオンでした。ですから、現代の日本で言えば五千円札とか一万円札に相当すると考えてよいでしょう。この銀貨には、当時のローマ皇帝であるティベリウスの肖像と銘が刻まれていました。お金というものは誰でもが造ることができるというものではありません。その国を支配する者だけが発行することができるのです。そして、お金というものは皆が使うものです。だから、ローマ帝国はそれに必ず皇帝の肖像と銘を刻むことにしていました。それは、このお金を造ったのが○○というローマ皇帝であると示すことによって、このお金を使う者は○○皇帝の支配のもとにあるのだということを示すためでした。ですから、ローマは皇帝が替わる度に、必ずその新しい皇帝の肖像と銘が刻まれた貨幣を造ったのです。
エルサレム神殿においてはこのデナリオン銀貨は使うことができず、昔のユダヤのお金に両替しなければならなかったわけですが、ここには「神殿の中にローマの支配は及ばせない」という思いがあったのだと思います。更には、十戒の第二の戒め「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」に反するからということもあったのでしょう。そのようにローマのお金を使えないエルサレム神殿の中で、このようなやり取りが為されたというのも皮肉な気がします。エルサレム神殿の中では使うことのできないローマの銀貨を、彼らは持っていたのです。神殿を一歩出ればローマのお金しか使えないのですから、財布の中にはローマのお金が入っている。皆そうなのです。エルサレム神殿に巡礼に来た人も、ヘロデ派の人もファリサイ派の人も、財布の中にはローマのお金しか入っていないのです。しかし、エルサレム神殿に納めるものはローマのお金ではいけない、そう言って両替しているわけです。何か変です。
神殿の内と外で全く違うように生きているわけです。神殿の外ではローマのお金を使い、ローマの支配の中に生きる。しかし、神殿の中ではローマのお金は使えない。神殿の中では、王はローマ皇帝ではなくて主なる神様ただ一人ということになっている。使い分けているわけです。
主イエスは、彼らが持って来たデナリオン銀貨を見せて、「これは、だれの肖像と銘か」と問われました。彼らが「皇帝のものです」と答えると、主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました。この答えには、ファリサイ派の人もヘロデ派の人も言いがかりを付けようがなく、驚き、黙るしかありませんでした。主イエスは「皇帝のものは皇帝に」と答えることによって、税金は納めるべきだと言われたわけです。これでヘロデ派は黙るしかありません。しかし同時に、「神のものは神に返しなさい」と言うことによって、ただローマの支配だけを認めるのではなくて、ちゃんと神様の御支配を認めているわけです。これでファリサイ派の人も黙るしかありませんでした。
主イエスはここで、ヘロデ派の人からもファリサイ派の人からも責められることのない見事な答えをされたわけです。しかしここで主イエスは、神殿を支配している人々が神殿の外はローマ皇帝の支配、神殿の中は神様の支配というような使い分けをしているのをよしとして、このように言われたのではないのです。聞いた方は、そのように受け取ったかもしれません。しかし、主イエスの意図はそうではありませんでした。確かに、この「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの言葉が、この世の領域・世俗の領域と、教会の領域・信仰の領域とを分けなければならない、そのような考え方の根拠となったという歴史はあります。そして、このような考え方をしなければいけない時もあるのです。例えば、政教分離というあり方は、近代民主主義国家においてはとても大切なもので、これを失えば近代民主主義国家は成り立たないと言ってもよいほどに重要なものです。この政教分離というあり方は、人類が本当に多くの血を流してやっとたどり着いた知恵であり、私は何としてもこれは守らなければならないと考えています。
しかし、主イエスがここで言われたことは、「聖と俗とを分けなさい」ということではないのです。「皇帝のものは皇帝に」というのは確かに、この世の秩序というものを認めるということです。主イエスは、デナリオン銀貨を使うな、税金を納めるな、ローマと戦え、そんなことは言われないのです。いつの時代でも、どこの国でも、理想的な政治、神様の御心が完全に反映されるような政治が行われるなどということはないのです。政治というのは、色々な立場の人がいて、それを認めながら、より良い妥協点を見つけるしかないのです。色々と欠けがあっても、それを認めていくしかない。消費税に反対だからといって、それを納めなくてよいということにはならないのです。私たちはこの世の秩序を認め、良き市民としての歩みをしなければならないのです。
問題は、「神のものは神に」です。この「神のもの」とは何なのでしょうか。デナリオン銀貨には、それを造った皇帝の肖像と銘がありました。では、神様によって造られたもの、それを造られた神様の肖像と銘が入ったものとは何なのでしょうか。それは、神様の似姿に造られた私たち自身です。つまり、私たちの命、私たちの富、私たちの時間、私たちの能力、それらはすべて神様のものなのです。主イエスは「神のものは神に返しなさい」と言われました。私たちは、自分の持てるすべてを神様にお献げして生きるのです。ここまでは皇帝に、ここからは神に、そして残りは自分に。そういうことではないのです。
こう言ってもよいでしょう。私たちは、日曜日の朝だけキリスト者であるわけではないのです。教会にいる時だけ、礼拝している時だけクリスチャン。そんなわけがありません。私たちはいつでもどこでも、何をしていてもキリスト者なのです。この世の秩序のなかで、会社員として、主婦として、夫として、妻として生きている時も、キリスト者なのです。月曜から土曜までは皇帝の支配のもとで、日曜日は神様の支配のもとで。そんな使い分けはできないのです。どうしてか。それは、私たちはあの主イエスの十字架によって、完全に神様のものとされてしまったからです。私たちには最早、父・子・聖霊なる三位一体の神様以外に主人はいないのです。
ですから、この世の秩序の中に生きている時も、私たちの主人、私たちの王は、ただ主なる神様しかいないのです。私たちは二人の王に兼ね仕えることはできません。ですから、もし私たちが、明らかに神様の御心に反することをこの世の主人から求められることがあれば、私たちは断固「No!!」と言わなければならないでしょう。皇帝もまた、神様によってその地位を与えられている者にすぎないからです。しかし、皇帝に仕える時、つまりこの世の秩序の中で生きる時、私たちは神様のものとされている者として、ためらうことなく、健やかに生きるのです。この世界のすべては、主なる神様のものだからです。私たちはキリスト者として仕事をなし、キリスト者として食事を作り、キリスト者として子育てをするのです。私たちの為す日常の営みのすべてが、主人である神様にお仕えする業なのです。牧師の仕事は聖なる業、信徒の日々の生活は俗なる業。そんなことは全くありません。どんな小さな業も、私たちは神様に仕える業として、神様の栄光のためになすのです。それが、あの主イエスの十字架という一点において全てを新しくされてしまった、キリスト者という存在なのです。神様の似姿を刻まれた一人一人として、心を高く上げつつ歩んでいきましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。今日も聖書を通して御言葉を与えられました。私たちキリスト者は神様の肖像と命が刻まれた神様の似姿です。あなた以外に私たちが仕えるべき方はおられません。どうか、真にお仕えするあなたにいつも心を向けつつ、日々の歩みを為すものとしてください。群れの中には病床にある者、齢を重ねて困難を覚える者、人生の試練の中にある者もおります。どうか兄弟姉妹一人一人
を励まし力づけてください。折に適った助けと導きを与えていてください。この拙き切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ヨハネによる福音書20章24~29節
説 教 「見ないのに信じる人は幸いである」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老
聖 書(旧約) 創世記14章1~12節
(新約) ヘブライ人への手紙6章20節~7章4節
説 教 「御心が行われますように」 藤田浩喜牧師
ヨハネによる福音書11章17~27節 2025年4月27日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
私は3つの教会で38年間牧師をしてきましたが、仕えてきた教会の交わりの中で、多くの方々が天に召されてまいりました。私は牧師として、お一人おひとりの方々の死に直面して、本当に死の持っている如何ともしがたい凶暴な力に圧倒されてきました。死というものが私たち人間の肉体にとっていかに決定的な力を持っているか、そして死を前にして、私たちの肉体がいかにもろいものであるかということを思い知らされてきたのです。
何度にもわたる大きな手術を受けても効果なく、死に屈していかなければならなかった方もありました。思いもかけず突然、死が襲いかかってきた方もありました。長い病の中で確実にその命がむしばまれ、死に至った方もありました。死に至るまでの道のりには、それぞれ違ったものがありましたが、しかし、死は確実に私たちの命を飲み込んでいくということだけは、いやというほど思い知らされたものでした。
こうした死の凶暴な力に直面するごとに、私はいつも大きな問いの前に立たされてきました。それは、「あなたは復活を信じていますか」という問いでした。そしてそのたびごとに私は、「率直に言ってよくわからない」、「主イエスにあって復活するというのが一体どういうことなのか、私にはまだよくわからない」という、自分自身の信仰の不確かさを思い知らされてきたのです。
しかし同時に、不思議なことですけれども、死がすべてのものを支配しているように見えながらも、死がなお支配しきれないものがそこにある、ということも見させられてきたのです。なぜなら、死が命を飲み込もうとするまさにその瞬間に、かえって希望と喜びとが、死につつある人の中に満ちてくることを何度も見てきたからです。命が敗北しようとするまさにその時に、主イエスの命がそこで輝いていると感じられることが何度もあったからです。このことは私にとっては不思議としか言いようのないことでした。
今申しましたように、私は牧師として多くの方々の死に直面してきました。しかしそんな時でも、いつも心はどこか冷ややかでした。人の死に立ち会いながらも、私の心の中のどこかで「死はいっさいの終わりだ」という声のささやくのを聞いていたのです。もちろん牧師としてそんなことを他の人に言うわけにまいりませんから、黙っていましたけれど、しかし心のどこかにそのようなしらけた思いがあったのは事実なのです。
「もうすべては終わったんです。いくら悲しんでも、もうその人は戻らないのです。死んだという事実を冷静に受けとめて対処する方が大切です」ということを思い、時には口から出したいような思いが何度もありました。恐ろしいニヒリズムです。死に対する深い絶望感のなせる業だったのでしょう。
しかし今、私は死の中にこれまでとは少し違ったものを感じることができるようになりました。もちろん死が凶暴な力を失ったからということではありません。あるいは私が人の死に慣れてきたということでもありません。死そのものは相変わらずそのたびごとに凶暴で、正視できないほど恐ろしいものです。そのことは少しも変わることはないのですけれど、いま私は死に直面しても、何かゆとりといいますか、余裕というものを持つことができるようになっているのです。
ゆとりとか余裕とかと言いますと、死と闘い、苦しんでいる人々に対しては何とも不謹慎な態度です。また、愛する者の死を悲しんでいる人々に対しては、心ないことだと批判されるかもわかりません。あるいは、他人事として冷ややかに傍観しているから、ゆとりや余裕など持ちうるのだと言われるかもしれません。
けれども、私はそういう意味でゆとりとか余裕とかを言っているのではありません。死は相変わらず耐えがたいものですが、いまの私は、そうした苦しみうめく人と共に主イエスがいたもう、ということを見ることができるようになったのです。それは私か勝手に感じているとか、あるいは私だけがそのように思いこんでいるということではないのです。そうではなくて、死に直面している人がその苦しみの中で主イエスを見、主イエスにすべてをゆだね、死に向かいつつも、なおあるゆとりと余裕とを持っておられるその姿を、私が見ることができるようになったということなのです。
兄弟ラザロの死を悲しんだマルタは、「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:21)と主イエスに不満をもらしました。
マルタはここで、「もしあなたがいてくださいましたなら」と言っています。「もし……ならば」、私たちもこうした言葉をくりかえし口にします。もしあのとき病院に行っておれば、こんなことにはならなかったであろうにとか、もっと早くから健康管理をしていたならば、こんなに早く死ななくてもすんだだろうにとか、私たちはうしろへうしろへと目を向けていこうとします。
マルタもまた過去へと目を向けて、主イエスに不満を言いました。「もしあなたがいてさえくださいましたならば……」
その時主イエスは答えられました。「あなたの兄弟はよみがえるであろう」(ヨハネ11:23)と。
ところがマルタはこれを聞いて、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」(ヨハネ11:24)と答えました。こんどはマルタは、終わりの日という未来に向かって目を向けたのです。このマルタの答えは一見信仰深いものに思えます。
さきほど、私は死を前にして「あなたはよみがえりを信じていますか」と何度も問われる経験をしてきたと言いましたが、その時、マルタのように「終わりのの日の復活の時に復活することは存じています」と、確信を持って答えることができたなら、どれほど気が楽だったかと思います。しかし、私にはそこまでの確信はなかったのです。
マルタははっきりと、終わりの日によみがえることは知っていると申しました。
しかし、主イエスはこのマルタに向かって、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と答えられています。なんだか、すれ違いの問答に終わっている感じがします。そうです。確かに、マルタは一生懸命主イエスに向かって答えています。
しかし、彼女は主イエスご自身を見ていないのです。マルタは「二つの時」に向かって目を向けていました。一つは「もしあの時にあなたがいてくださいましたならば」と過去に向けてです。そしてその次には、「終りの日の復活の時に復活することは存じています」と、目をはるか先の未来へと向けていたのです。
しかし、主イエスが求めておられるのは、過去とか未来に目を向けるのではなく、いま、マルタの前に立つ主イエスを見つめるということなのです。いま、マルタの前に立っておられる主イエス、彼女の悲しみと嘆きとに共にいたもうその主に向かって目を向けること、それが新しい命のはじまりであることを主イエスは語っておられるのです。
よみがえりの命は、はるか未来に起こることではなく、この主イエスと出会っているところからすでに始まっているのです。私たちの肉体がまさに朽ち果てようとしている時でも、死の苦しみに耐えられずにうめいている時でも、いやもう冷たい躯(むくろ)と化しつつあるその瞬間にあっても、主イエスに向かって目を向け、主イエスにすべてをゆだねることによって、主イエスの命が、すでに私たちのうちにおいて始まっているのです。「私を信じる者は、死んでも生きる」ということは、そういうことなのです。
前任の教会でのことです。私たちはSさんというご婦人を天にお送りしました。Sさんは若き日に信仰を与えられ、家庭においても、また教会においても誠実そのものの人柄でした。長らく教会の執事としてもご奉仕くださり、日曜日にはだれよりも先に教会に来て、ご奉仕されていました。
70歳を超えてから脳梗塞を起こされたことがあり、お嬢さんが看護師長をされている大阪府豊中市の病院で手術を受けられました。手術の直前にお訪ねしました時は、手術前の緊張からでしょうか、手術や病状への不安を訴えておられました。しかし、すぐに「クリスチャンのくせに、こんなことではイエス様に笑われますね」と、少し恥ずかしそうに笑っておられました。私は「そんなことありませんよ。みんな死ぬのがこわいのですから」と、慰めにもならないことを言うだけでした。
その後小康状態となり、退院して同じ豊中市内の高齢介護施設に入所されていました。しかし一年ぐらい後に体調を崩され、病状がさらに悪化しました。お会いするたびに肉体は日ましに衰えているのは明らかでした。しかし、信仰はかえって強められておられることを感じました。
亡くなる少し前にお訪ねしましたが、もう声を出す元気もなかったのでしょうか、ノートにボールペンで「もうすぐ神様のところに行けそうです」と書かれ、次に私の手のひらに指で「ありがとう、皆さんによろしく」と書き残されたのでした。手のひらに書かれた「見えない文字」を見ながら、私は主イエスの「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」という言葉を心の中でくりかえし味わっていたのでした。
先週、私たちはイエス・キリストの復活を祝うイースター礼拝を守りました。私たちの毎日の生活にはいろいろな苦しみや悩みがあります。そして私たちの肉体は確実に死へと向かって進んでいくのです。しかし私たちの肉体が、そして私たちの人生がどのようなものであったとしても、私たちはそのまっただ中で「私を信じるならばたとい死んでも生きる」と語りかけ、私たちと共に歩まれる方のあることを知らされるのです。多くの人々の死に直面して、その死の悲しみと苦しみの中にありながら、それぞれの方が主イエスに向かって、「主を信じます」と告白してこられたのを見ることが許されてきました。
イースター礼拝を守った私たちも、「主よ、信じます」という告白を共にしたいと願います。そしてその告白が私たちの口からなされる時、私たちの現実がどのようなものであったとしても、いまここで、キリストにある新しい命に生かされていることを、私たちは確信してよいのです。主イエスを信じる者は、死んでも生きかえるからです。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。神さま、私たちの目をいつも主イエスに注がせてください。私たちがイエス・キリストの復活の命に生きることができますよう、一人一人を支えていてください。今日礼拝後に行われる墓前礼拝の上に、あなたの導きと祝福をお与えください。このひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ヨハネによる福音書20章19~23節
説 教 「聖霊を受けよ」 𠮷田三枝子
午前10時30分 日曜学校日 司式 藤田浩喜牧師
聖 書
(旧約) 列王記下21章1~9節 (聖餐式を執行します)
(新約) マルコによる福音書12章13~17節
説 教 「神に仕えることを学ぶ」 藤田浩喜牧師
ルカによる福音書24章13~35節 2025年4月20日(日)イースター礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日お読みしました聖書個所には「二人の弟子」が出てきました。そうです、ここで彼らは確かに「弟子」と呼ばれています。イエス・キリストの弟子たちです。しかし、今日の箇所は、彼らがエルサレムから離れていく姿から始まります。他の弟子たちが集まっているエルサレムから離れていくのです。主イエスは死んでしまったからです。だからもはやキリストの弟子であり続ける理由もないし、キリストの弟子としてエルサレムに留まる理由もないのです。エルサレムをあとにした二人の弟子たちにとって、エマオへと向かう旅路は、いわばキリストの弟子であることから離れていく旅に他なりませんでした。そのように、キリストの弟子ではなくなりつつある二人の姿をもって、この話は始まるのです。
しかし、今日お読みしました箇所の終わりに至りますと、なんと彼らは再びエルサレムにいるではありませんか。彼らはキリストの弟子として他の弟子たちと共にいるのです。いったい何が彼らをエルサレムに帰らせたのか。それが何であるかを伝えているのが今日の物語です。言い換えるならば、この物語は、何が人をキリスト者であり続けさせるのか、キリスト者であること、あり続けることは、いったい何を意味するのかを私たちに伝えている物語なのです。
はじめに13節以下を御覧ください。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」(13~14節)。
「この一切の出来事」とは、ナザレのイエスという方が十字架にかけられ殺されたこと、葬られたこと、そして、その遺体が無くなってしまったことなどの諸々の出来事です。その出来事について語り合っている彼らに、一人の人が近づいてきました。そして、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(17節)と尋ねたのです。
「二人は暗い顔をして立ち止まった」(17節)と書かれています。そして、その人がさらに尋ねるので、彼らは答えました。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです」(19~20節)。
彼らの思い出の中には、「行いにも言葉にも力ある預言者」としての主イエスがいました。預言者というのは神の言葉を語る人です。預言者は死んでもその言葉は残ります。いや、言葉だけではありません。「行いにも力ある預言者」と言われています。預言者の行為も残ります。言い換えるなら、預言者の生き様が残るのです。そのように、確かに主イエスという御方の言葉と行為は、主イエスが死んでしまった後でも、彼らの心の内にしっかりと生きていたに違いないのです。
しかし、彼らは暗い顔をしていたのです。それは単に死別の悲しみのゆえではありませんでした。その次にこう書かれています。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)。「望みをかけていました」という言葉は、望みが「過去」になってしまった、ということを意味します。暗い顔をしていたのは、希望がもはや過去のものとなってしまったからです。
つまり、主イエスの言葉と行いが記憶の中に残っていようと、その生き様による感化が残っていようと、それは希望に結びつきはしなかったということなのです。彼らがどんなに《過去の人》である主イエスについて語り、論じ合っても、そこには救いもなく希望もなかったのです。それゆえに彼らは、キリストの弟子であり続けることもできなかったのです。彼らはエルサレムを離れ、エマオへと向かう道を暗い顔をしながら歩いていたのです。
さて、ここに見る二人の姿は、一つの大きな事実を示しています。どんなに主イエスの言葉や行為が大きな力を持っていたとしても、そのことによっては、主イエスの弟子たちは後の時代まで存在し続けることはなかった、ということです。それだけでは十字架の後の教会、十字架の後のキリスト者は存在し得なかったのだ、ということです。単に主イエスの言葉や行い、人格的感化が「生きている」というだけでは、キリストの弟子であることはできないのです。
そこで、15節の御言葉が大きな意味を持つのです。「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」― 復活されたキリストが彼らと共に歩まれたというのです。しかし、彼らはそれが主イエスであることに気づきませんでした。なぜでしょうか。ただ聖書は「二人の目は遮られて」と説明しています。これは31節に関係します。そこで「二人の目が開け、イエスだと分かった」と書かれているのです。共に歩まれる復活のキリストは、目が開かれて初めて認識されるのだ、ということです。
そのように、二人は復活のキリストに気づいていないのですが、そこにはキリストがなされた一連の働きかけが記されています。彼らが知る前に、すでにキリストの働きかけは始まっているのです。
キリストは近づいて来られました。一緒に歩き始められました。彼らに問いかけられました。そして、大切なことが25節以下に書かれています。「『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(25~27節)。キリストが聖書の言葉を解き明かされたのです。
そして、二人は主イエスと共に家に入ります。彼らは一緒の食事の席に着きます。ところが興味深いことに、キリストは客としてではなく、家の主人であるかのように振る舞うのです。キリストがパンを割き、賛美の祈りを唱え、パンを割いて渡されたのです。
その一連のキリストの働きかけを経て、彼らの目が開かれました。「すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)と書かれています。これは大変奇妙なことです。「目が開けて見えるようになった」というのなら話は分かります。しかし、ここでは逆なのです。見えなくなったというのです。
そうしますと、結局、キリストが目に見えるか見えないかは、本質的には重要ではないということなのでしょう。重要なのは「目が開けた」ことなのです。今まで共に主イエスが歩んでくださったし、これからも共に歩んでくださることが分かるということだからです。それが信じられるということこそ、大切なことなのです。
そして、それが信じられた時、彼らは振り返ってこう言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。失望していた彼らの内に、命の火が灯りました。まさに死んでいたような彼らの心の内に、命の火が灯りました。そして、その炎が大きく燃え上がり始めたのです。
彼らがかつて抱いていた望みはどうなったのでしょうか。相変わらずイスラエルは解放されてはいません。相変わらずローマ帝国の支配のもとにあります。見えるところは何一つ変わってはいません。しかし、彼らはもはや希望を失って暗い顔をして歩いている者ではありません。もはや失意の中に死んでいるような者ではありません。復活のキリストが伴ってくださったこと、これからも伴ってくださることを知ったからです。キリストによって命の炎を内にいただいた人だからです。そして、彼らはエルサレムに引き返します。弟子たちの仲間のもとに戻っていくのです。そこでキリストの弟子として、新たに生き始めるのです。生きておられるキリストの弟子として生き始めるのです。
このように、キリスト者であり、キリスト者であり続けるということは、いったい何を意味するのかという問いに、今日の聖書箇所は明確に答えています。キリスト者とは、単に二千年前の主イエスの言葉を実践して生きる人ではありません。単に主イエスの行為を模範にして生きる人ではありません。そうではなくて、キリスト者とは復活のキリストと共に生きる人を言うのです。主イエスは単に「過去の人」として思い起こされたり、敬われたりすることを望んではおられません。私たちの現実の中に共に生きることを望んでおられるのです。
ここに書かれていることは、単にあのクレオパたちの特殊な経験ではありません。教会において私たちに、今も与えられている賜物なのです。ここには今日(こんにち)もなお教会の内において起こっている事、起こり得る事が記されているのです。聖書が解き明かされ十字架と復活の意味が明らかにされることも、聖餐において復活のキリストのご臨在が示されることも、またそこに伴って湧き上がる喜びも賛美も、悲しみと失望によって沈んだ心に命の炎が燃えあがることも、その一切は復活のキリストの働きであり、キリストの賜物なのです。そのように、復活のキリストの働きかけを受けながら、キリストと共に生きる人、それをキリスト者と言うのです。
そこで見落としてはならないことが一つあります。28節以下に次のように書かれています。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」(28~29節)。
彼らの内に起こった全ての良きことは、主イエスの一方的な恵みの御業でした。しかし、そのような主の恵みの御業に目が開かれるに至るには、彼ら自身の側からも行ったことがあるのです。それは復活のキリストを《引き止める》ということでした。つまり彼ら自身が主と共にいることを《求めた》ということです。そして、主イエスがパンを裂かれる食卓に身を置いたということです。
彼らはキリストと知らずに求めました。ありがたいことに、私たちにはすでにキリストの復活が伝えられていますから、私たちは知った上で求めることができます。キリストが御臨在くださることを知った上で、聖餐にあずかることができます。そのように、キリストと共にあることを求めて、私たちは今ここに集まっているのです。
その求めは、祈りの言葉として讃美歌218番「日暮れてやみはせまり」に繰り返されている言葉です。「主よ、ともに宿りませ」。あの復活の日の夕方、あの弟子たちが主に願い求めたように、私たちも主に向かって共に祈り続けたいと思います。「主よ、ともに宿りませ」と。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を心から讃美いたします。今日、御子イエス・キリストの復活を祝うイースター礼拝を、敬愛する兄弟姉妹と共に守れましたことを感謝いたします。イエス・キリストは死に打ち勝ち、復活され、私たちと共に歩んでくださっています。今も生きて共に歩まれる主イエスの弟子として生きるのが、私たちキリスト者であることを示されました。あなたは今も、聖書の御言葉の解き明かしを通し、聖餐式の恵みを通して、私たちの心に信仰の炎を燃え立たせてくださいます。その大きな恵みを深く覚えつつイースターの出来事を祝わせてください。この礼拝において一人の姉妹が主イエスを救い主と告白し、洗礼を受けられます。どうか、私たちの群れに加わり、キリスト者として歩み始める姉妹の上に、主の祝福と励ましを与えていてください。
群れの中には病を得ている者、高齢のために様々な困難を抱えている者、人生の試練に立たされている者がおります。どうか、一人一人の上に復活のキリストの恵みを豊かに注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ヨハネによる福音書20章11~18節
説 教 「婦人よ、なぜ泣いているのか」 高橋加代子
午前10時30分 司式 山根和子長老
聖 書
(旧約) イザヤ書40章27~31節
(新約) ヨハネによる福音書11章17~26節
説 教 「死の壁を超えるもの」 藤田浩喜牧師
ルカによる福音書23章32~43節 2025年4月13日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
主イエスがかけられた十字架の上には、「これはユダヤ人の王」という札が掲げてありました。ローマ人が掲げた札です。明らかにユダヤ人を見下して馬鹿にして掲げた札です。「この惨めな無力な男が、彼らユダヤ人の王なのだ!」そんな嘲笑を込めた罪状書です。
そんなユダヤ人たちを馬鹿にしたような罪状書が掲げられたのは、理由のないことではありません。実際、ユダヤ人の民衆たちは、つい数日前までその男が彼らの王となると本気で信じていたからです。もっともユダヤ人は「ユダヤ人の王」という言い方はしません。「メシア」と呼びます。イスラエルの民が待ち望んできた力ある王です。このナザレのイエスこそ待ち望んできたメシアに違いないと思って、多くの人々はついて来ました。実際、その御方は力ある御方でした。悪霊を追放し、病気を癒し、大群衆に食べ物を与えたなどの数々の奇跡について噂は噂を呼び、その御方の周りにはいつも群衆が取り巻いていたのです。
5日ほど前にエルサレムに入城された時もそうでした。エルサレムに向かう道には、こんな賛美の歌声が響いていたのです。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」(19:38)。「力ある王がついにエルサレムに来られた!この御方がユダヤ人の王としてローマ人に支配されている我々を今こそ救ってくださる。この王がイスラエルのために国を建て直してくださる。」人々はそんな期待をもってここまでついて来たのです。
しかし、今、そのメシアであるはずの人物が、十字架に磔(はりつけ)にされているのです。自分の手足すら動かすことができません。「民衆は立って見つめていた」と、今日の35節に書かれていました。彼らが見つめていたのは全く無力なメシアでした。ユダヤ人からすれば、無力なメシアなどあり得ない。無力なメシアなどいらないのです。
はじめからメシアだとは思っていない議員たちは、嘲って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」それは今や、民衆の声の代弁でもあったことでしょう。「もしメシアなら!」― いや、もはやメシアなどではあり得ない。この嘲りをローマ人も真似します。彼らはメシアとは呼びません。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。ユダヤ人にせよ異邦人にせよ、もはや誰もが、力ある王などとは思っていません。本当に力ある王でなければ、いらないのです。
結局、そこに見るのは、ある意味では普遍的な人間の姿です。自分たちの求めているものが与えられるという期待があればついて行くのです。しかし、無力であることが明らかになったら、もういらない。もう必要ないのです。その意味において「十字架につけられたメシア」は、普通に考えるならば人間にとって「いらないもの」の代表と言えます。
しかし、教会は今日に至るまで、十字架につけられたメシア(キリスト)を宣べ伝えてきたのです。後にパウロはこう書いています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(Ⅰコリント1:22~23)。それはなぜなのか。「そんなものいらない」と言われても仕方のない、「十字架につけられたキリスト」を教会が今日まで宣べ伝えてきたのはなぜなのか。―その理由をはっきりと示しているのが、その後に書かれている話です。十字架につけられたメシアの傍らで、いったい何が起こっていたのか。その続きを読んでいきましょう。
十字架につけられたメシアの両側には、他に二本の十字架が立てられていました。十字架にかけられている一人がイエスを罵ります。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)。先ほどの議員の嘲りに似ていますが、意味合いが少し違います。新共同訳では「自分自身と我々を救ってみろ」となっていますが、原文では「自分自身と我々を救え」という単純な命令文です。彼は嘲っているのではないのです。そこに込められているのは、「自分たちは救われて然るべきだ」という思いです。だからそうしないメシアを罵っているのです。「お前はメシアではないのか。ならば自分自身と俺たちを救え!」
彼については「犯罪人の一人」と書かれています。いかなる罪を犯したのでしょうか。十字架刑というのは、手間と時間がかかる処刑方法です。そのように時間をかけてさらしものにする、大きな目的は見せしめです。見せしめにされるのは、主(おも)に主人に反抗して反乱を起こした奴隷たちか、ローマの国家権力に対する反逆を企てた活動家たちです。ですから多くの人は、この二人も単なる犯罪者ではなく政治犯であったろうと考えます。わたしもそう思います。
彼らが政治犯であるならば、主イエスを罵った男の言葉は大変よく分かります。彼らは正義のために戦ってきたのです。神のために戦ってきたのです。少なくとも、彼らの意識としてはそうなのです。しかし、現実には異教のローマ人たちが勝ち誇り、自分たちは十字架にかけられて、苦しみもがいて死を迎えようとしている。正しい者が苦しんで、悪い者がそれを喜んでいる。そんなことは、あってはならないことだという怒りが湧き上がります。「神がおられるなら、メシアが来られたというなら、我々は真っ先に救われて然るべきだろう。お前はメシアではないのか。自分を救え。我々を救え!」
彼の抱いた思いは、多かれ少なかれ私たちにも覚えがあるようにも思います。苦しみの中で、私たちもしばしば言うのではないでしょうか。「わたしは悪くないのに!」悪い方が苦しんでいなくて、悪くない方が苦しんでいる。もし神がいるなら、もし救い主なるものがいるならば、このような状態のままに置かれているのはおかしいではないか!その思いは私自身覚えがあります。皆さんも、おそらくそうではないでしょうか。
しかし、同じような立場で、同じ苦しみの中にあったもう一人の人は、そこで全く違ったことを口にしたのです。彼はこう言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40~41節)。
お前は神をも恐れないのか! そう彼は言いました。彼自身は苦しみの中にあって、死を目の前にしながら、神の御前に身を置いているのです。彼は神への恐れをもって神と向き合っているのです。誰が正しいとか誰が悪いとかいうこの世の判断の中に身を置いているのではなく、神の判断の前に身を置いているのです。その時に、彼は思うのです。わたしは決して正しくなどない!だから、彼は言うのです。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と。
彼が言う「自分のやったこと」というのは、単にローマの法律に背くことや、反権力闘争において行ってきた、暴力や殺人のことではありません。彼は「自分のやったこと」と、神の御前において言っているのです。そこでは、他の人は知らないかもしれないけれど、神は知っておられることが問題になるのです。他の人は知らないかもしれないけれど、神だけは知っている心の最も深いところまでを含めた、「自分のやったこと」なのです。ある意味では、神だけが知っている自分の人生のすべて、それこそが「自分のやったこと」です。それが正しく裁かれ、正しく報われるとするならばどうなるのか。彼は自分が十字架の上にいることが当然だと思えたのです。
その時に、隣にいる十字架につけられたメシアは、全く違って見えてくるのです。十字架につけられたメシアなんていらない? とんでもない!彼はメシアが同じ苦しみの中にまで来てくださっていることを見たのです。本来、苦しむ必要のない正しい方が、本当の意味で正しい方が、罪人である我々の苦しみの中にまで来てくださっている。こんなところにまで来てくださっている!そんな思いを込めて彼は言うのです。「しかし、この方は何も悪いことをしていない!」
彼はそこに、メシアを遣わされた神の憐れみを見たのです。神を恐れる者だけが知ることのできる、神の憐れみを見たのです。ですから、その憐れみに寄りすがって最後の力を振り絞るようにして、彼はメシアに言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。「あなたはこの世に来られ、人間の罪の最も深きところにまで来てくださいました。そこで苦しみもがいている、私のところにまで来てくださいました。そこで見たわたしを、そこでこう祈ったわたしを、どうか忘れないでください」。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
するとそこで主はすぐさま、彼にこう宣言されたのでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」メシアは苦しむ罪人の傍らにまで来てくださって、今、十字架の上におられる。しかし、メシアは王なのです。王の権能は裁きを行う権能なのです。メシアは最終的な裁きを行う王なのです。その王が権威をもって、十字架の上から宣言するのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる!」と。それは王が権威をもって宣言する、罪の赦しに他なりません。彼は罪を赦された者として、罪のゆえに滅びる者ではなく、主イエスと一緒に楽園にいることになるのです。
彼は神の国においてではなく、死んだ後にでもなく、生きている間に、依然として苦しみのただ中にある時に、その御方から罪の赦しと救いの宣言を聞くことになりました。これが、今日も私たちに起こっていることなのです。ボッヘッファーという人は言いました。「人は神を十字架へと追いやる。神はこの世においては無力で弱い、しかし神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ、僕たちのもとにおり、また僕たちを助けるのである。」これが十字架につけられたキリストです。教会が宣べ伝えてきた、十字架につけられたキリストです。私たちもまた、十字架につけられたキリストの傍らにいるのです。否、キリストが、私たちの傍らにいてくださるのです。あの赦された罪人と同じところに、私たちもいるのです。そして、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる!」と宣言してくださっているのです。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。受難週の最初の日に、敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、感謝いたします。御子イエス・キリストは、二人の犯罪人と共に十字架に付けられ、死なれました。それは神様の前に死ぬほかない、罪を重ねてきた私たちを助けるためでありました。御子イエス・キリストは、そのようにして私たちを罪の縄目から解き放ち、永遠にわたって開かれた神の支配の園パラダイスに生きる者としてくださいました。どうか、苦しみのさ中にある時も、地上の死を間近にしている時でさえ、キリストが傍らにいてくださることを、私たちに覚えさせてください。群れの中には、重い病を得ている者、その生涯を終えようとしている者もおります。どうかあなたの全き平安をもって、支え励ましていてください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ヨハネによる福音書20章1~10節
説 教 「復活の朝」 藤田百合子
午前10時30分 イースター礼拝 司式 藤田浩喜牧師
聖 書
(旧約) 詩編37編1~6節 (洗礼式と聖餐式を執行します)
(新約) ルカによる福音書24章13~35節
説 教 「復活の主が共におられる」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書12章1節~12節 2025年4月6日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
「イエスは、たとえで彼らに話し始められた」(1節)。今読んでいただいた聖書において私たちが聞いたたとえ話は、群衆に向けて語られたものではなくて、ある特定の「彼ら」に対して語られた話です。その「彼ら」とは、11章27節に出てきた「祭司長、律法学者、長老たち」です。イスラエルの指導者たちです。このたとえは「彼ら」に対して語られたのです。
時は主イエスがエルサレムに入城されて二日目です。火曜日のことです。その二日後の夜、主イエスは捕らえられ、金曜日に主は十字架にかけられることになります。つまりその時に向けて、主イエスの逮捕と処刑の準備が着々と進められていた時の話なのです。その準備を進めていたのが、他ならぬこの「彼ら」です。祭司長、律法学者、長老たちなのです。
もちろん、主イエスはそのことをご存じです。すでにエルサレムに来られる前から、主は弟子たちにこう語っておられたのです。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(10:33)。そのように、今日読んでいただいたたとえ話は、間もなく殺されようとしている方が、自分を殺そうとしている人々に語りかけている話なのです。
そして、殺そうとしている人々は、そのたとえが自分たちの話であることを、はっきりと理解したのです。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った」(12節)。これが今日読んでいただいた箇所の結末です。
彼らは、このたとえ話が自分たちの話だと理解しました。息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった農夫たちとは、自分たちのことだと理解しました。主イエスがご自分をこの殺される「息子」にたとえていることも理解したことでしょう。思い当たることがあるからです。実際、目の前にいるナザレのイエスというこの男を、必ず捕らえて殺してやると決意していた彼らなのです。群衆さえいなければ、すぐにでも捕らえて殺してやりたいと思っていた彼らなのです。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」と聖書は語っているのです。
しかし、この「当てつけて」という訳はある意味では一面的な翻訳です。確かに彼らは「当てつけられた」と感じたに違いない。しかし、もともとの言葉には「当てつけ」というネガティブなニュアンスはありません。ただ「彼らに向けて語られた」と書かれているだけです。
確かに彼らは、「これは自分たちの話だ」と思って腹を立てたかもしれません。「当てつけやがって!」と。しかし、主イエスはただ単に「彼らの話」をしたかったのではないのです。このたとえ話の中心は悪い農夫たちではないのです。そうではなくて、ぶどう園の主人なのです。「ぶどう園の主人」によってたとえられているのは神様です。主イエスは、父なる神の話をなさりたかったのです。自分が間もなく殺されようとしている時に、自分を殺そうとしている人たちに、父なる神のことを話したかったのです。それは今、彼らがどうしても聞いておかなくてはならない話だったからです。
たとえ話の内容を見ていきましょう。話は次のように始まります。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」(1~3節)。
ぶどう園の主人は、「これを農夫たちに貸して旅に出た」と書かれています。ここには主人の信頼が語られています。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園の管理を託しました。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園における仕事を与えました。しかし、農夫たちは主人の信頼を裏切りました。農夫たちは分を忘れて、あたかもぶどう園の所有者であるかのように振る舞うのです。
そのように人は神の信頼を裏切ります。私たちは神を信じるとか信じないとか言いますけれど、それ以前に神が人間を信じてくださるのです。そのように神はアダムとエバを信じてエデンの園を託されましたし、私たち人間にこの世界の管理を託してくださっています。そして、そのように祭司長、律法学者、長老たちは、イスラエルにおける指導者としての務めを託されたのです。神が信頼してくださって託してくださったのです。しかし、人間は神の信頼を裏切るのです。神を侮るようになるのです。神が主人だとは認めなくなるのです。神が何を求めているかなど、どうでもよくなるのです。自分が何を得るかが、何よりも重要になるのです。神の求めに答えるつもりなど、さらさらない。何かを求められること自体、いやなのです。「農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」。
しかし、主イエスはこのような話を続けます。「そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された」(4~5節)。ここに語られているのは、まことに驚くべきことです。農夫たちが僕を侮辱したり殺したりしたことではありません。もっと驚くべきことは、この主人が《繰り返し》僕を送ったということです。
このたとえ話の後に、主イエスはこんな問いかけをしています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。そうです、この主人はそのような力を持っているのです。農夫たちを全滅させる力を持っているのです。この主人が神様のことを喩えているならば、なるほどそうでしょう。神は無力ではありません。御自分を侮る者、逆らう者、信頼を裏切る者を、ただちに滅ぼすことがおできになるでしょう。
しかし、この主人は農夫たちを直ちに滅ぼしてしまうのではなく、「他の僕」を送るのです。農夫たちは遣わされた僕の頭を殴り、侮辱して帰らせます。それでもなお「もう一人」を送ります。その僕は殺されます。しかし、そのようなことが起こったにもかかわらず、主人はなおも「多くの僕」を送ります。
これはイスラエルの歴史において、実際に起こったことでした。神はそのように預言者たちを送られました。これを聞いている祭司長たちにとっては、洗礼者ヨハネがそれに当たります。預言者というのは、未来を予告する人のことではありません。日本語では「言葉を預かる者」と書くように、彼らは神の言葉を託されて伝える人たちです。預言者とは、いわば神の呼びかけなのです。神はイスラエルに預言者を遣わし、立ち帰るようにと、繰り返し呼びかけられたのです。
いや、それだけではありません。このたとえ話はさらに驚くべき展開を見せることになります。このように書かれています。「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」(6節)。この主人の行動は常軌を逸して、愚かであると言わざるを得ないでしょう。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」― 今まで僕たちを侮辱したり殺したりした農夫たちが、息子だからと言って敬うはずがないのは、目に見えています。あまりにも愚かです。
しかし、この主人の愚かとしか言いようがない行動こそ、このたとえの中心なのです。主イエスはこのようなたとえによって、わたしの父なる神は、このような御方だ、と語っておられるのです。「『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。」― 主イエスは、この最後に送られた「息子」として語っておられるのです。その「息子」として、「わたしの父である神は、愚かとしか言いようがないほどあなたたちを愛して、あなたたちが立ち帰るように呼びかけておられるのだ」と語っておられるのです。この父なる神のことを、彼らに話したかったのです。神はこのような御方なのだということを話したかったのです。そして、これこそ私たちもまた、このたとえから聞かなくてはならないことなのです。
もちろん主イエスはそれでも、彼らは自分を殺すであろうことは分かっていました。主イエスの話は続きます。「農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」(7~8節)。そうです、主イエスは分かっておられたのです。実際この数日後に、イエス・キリストはエルサレムの外にあるゴルゴタの丘で、十字架にかけられて殺されることになるのです。
結局、愚かとしか言いようのない神の愛の呼びかけも、無駄に終わってしまったように見えます。主人が息子を送ったこと自体、無意味に思えます。普通に考えたなら、結論は見えています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。
そうです、これが結論のはずでした。それで全ては終わりのはずです。しかし、そこでイ主イエスは、なおも詩編118編を引用して話を続けるのです。「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』」(10~11節)。
「家を建てる者の捨てた石」とは、イエス・キリストのことです。主イエスは確かに人の手によって捨てられました。十字架にかけられたということは、そういうことです。神の最後の呼びかけも、無に帰してしまったかのように見えます。しかし、それで終わりではありませんでした。むしろ、そこから決定的に新しいことが始まったと言うのです。捨てられたはずの石が、新しい家の隅の親石となったというのです。
主イエスの言われるとおりでした。捨てられて十字架にかけられたイエス・キリストが、私たちの罪を贖う犠牲となりました。そこから罪の赦しの福音が、新たに宣べ伝えられるようになりました。そして、そこから教会が誕生しました。イエス・キリストは、確かに新しい神の民である教会の親石となったのです。神は呼びかけを止められたのではありません。そのような形において、イエス・キリストを十字架にかけた祭司長、律法学者、長老たちへの呼びかけを継続されたのです。そして、神を侮り、神の信頼を裏切っているこの世界への呼びかけを継続され、今に至っているのです。その独り子をお与えになるほどに、この世界を愛され慈しまれる神の切なる呼びかけに、心を開いて聞き従う者でありたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。受難節の第5主日、敬愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。神さま、あなたは罪人である私たちに、繰り返し悔い改めてみ許に立ち帰るように呼びかけられます。御自身の独り子をさえお与えになるほどに、私たちに呼びかけ続けられます。神に造られた私たちは、神の御ふところに帰らない限り、まことの安らぎを得ることはできません。どうか、あなたの切なる呼びかけに、悔い改めて立ち帰る者としてください。
群れの中には、病を得ている者、高齢ゆえの弱きをおぼえている者、人生の試練に立たされている者がおります。どうか、その一人一人にあなたの恵みの御手を伸べていてください。新しい一週間もあなたの支えと導きを信じて、それぞれの場所で歩ませてください。この切なる願いと感謝を、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。