次週の礼拝  6月22日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    使徒言行録13章4~12節

説  教   「キプロス島での宣教」  高橋加代子

主日礼拝  

午前10時30分        司式 髙谷史朗長老

聖     書

 (旧約) マラキ書3章13~18節     

 (新約) マルコによる福音書13章1~13節

説  教   「輝く日を仰ぎつつ」    藤田浩喜牧師

見せかけの祈りを捨て

マルコによる福音書12章38~44節 2025年6月15日(日)伝道礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今朝は前回の箇所を振り返ることから始めましょう。主イエスは12章35~37節で次のように言われました。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」。

 メシア(救い主)がダビデの子孫として生まれることは、旧約聖書に預言されていたことでした。ですから、主イエスの時代においても、人々はダビデの子孫から生まれるメシアをひたすら待ち望んでいたのです。

 しかし、「ダビデの子」という言葉は、単にメシアがダビデの子孫として生まれること以上を意味していました。メシアが到来することは、失われたダビデの王座が回復されることを意味したのです。すなわち、メシアの統治する偉大なる王国の再建を意味したのです。人々は、イスラエルをローマ人の支配から解放し、独立した強大な王国を打ち建ててくれる、偉大なる王の到来を待ち望んでいたのです。そして民衆は、このナザレのイエスこそ、まさしくそのような王となるべき御方だと信じていたのです。

 しかし主イエスは、メシアがそのような意味における「ダビデの子」であることを否定されたのです。単なる政治的解放者でありダビデの王座を回復する者ではありません。それ以上の者なのだというのが、ここで主イエスの言っておられる事です。

 ここで主イエスが引用しているのは詩編110編です。最初の「主」は旧約聖書における主なる神ヤハウェを指しており、二番目の「主」はメシアを指しています。つまり、メシアはダビデの子であるだけでなく、それ以上に、ダビデの主でもあるのです。この御方は、この世の王以上の御方なのです。詩編110編に歌われているように、神の右の座に就くべき御方、永遠の王として天の王座に就くべき御方なのです。ダビデの主でもあるその御方は、永遠に生きておられる私たちの神でもあるのです。

 

 そして、これに続く今日の二つの物語は、私たちに一つのことをはっきりと示しています。その御方は神の眼差しをもって、私たちに目を向けておられるということです。表面的なことではなく、私たち人間の最も深いところにまで目を向けておられるということです。

 まず、38節以下を御覧ください。主は言われます。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(38~40節)。

 そのように語られている律法学者ですが、そもそも彼らは何を思って律法学者となることを志したのでしょうか。律法学者になることは決して容易なことではありません。長い年月をかけて律法を学び訓練を受けます。そして、正式に任命されて律法学者となるのです。何を思ってその長い準備の期間を過ごしてきたのでしょう。もしその人が敬虔なユダヤ人であるなら、何よりも神に仕える大きな喜びをいだきつつ、律法を学び訓練を受けて備えてきたに違いありません。

 パウロもキリスト者になる以前は、ガマリエルという有名な先生のもとでそのように神の律法を学んでいた人でした。使徒言行録において、そのパウロがかつての自分を振り返って次のように語っています。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」(使徒22:3)。パウロだけが特別だったのではないでしょう。誰でも当初は、神に仕える純粋な熱意をもって律法を学んでいたと思うのです。

 しかし、そのようにして律法学者となった人たちが、主イエスの目にはこのように映っていたのです。こうなってしまったということでしょう。純粋な志をもって歩み始めた彼らが、いつの間にか、長い衣をまとって歩き回ることを好むようになりました。長い衣は権威の象徴でした。人々が彼らの権威を認めるということは、彼らにとって非常に大事なことでした。また、広場で挨拶されることを求めるようになりました。人々から敬われることが彼らの関心事となりました。会堂では上席、宴会では上座に座ることを望むようになりました。他の人より上に位置すると見なされることを望むようになりました。人々から敬虔な人として尊敬されることは極めて大事なことでした。祈りさえも敬虔さをアピールするための手段となりました。

 いったい何が起こったのでしょうか。何が変わってしまったのでしょうか。問題は明らかです。関心が神から人へと移って行ったということです。神がどう御覧になるかということよりも、人がどう見るか、どう評価するか、どういう扱いをするかということの方が、はるかに重要になっていったということです。主イエスの眼差しは確かにそこに向けられていました。そして、主イエスはよくご存知だったのです。いや、彼らも本当は知っているはずでした。そして、ここにいる私たちも知っているのでしょう。本当に意味を持つのは人がどう見るかではないし、どう評価するかでもないということを。主は言われます。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と。

 そのように主イエスは、神の眼差しをもって人に目を向けておられます。そんな話がさらに続きます。

 「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである』」(41~44節)。

 レプトン銅貨二枚というと、今日の金銭感覚で言えば数十円といったところです。しかし、主イエスはそれが「乏しい中からの献げ物である」ことを確かに見ておられました。「皆は有り余る中から」、そして「この人は、乏しい中から」。主イエスの言葉の中には明らかな対比があります。

 「乏しい」というのは、「足りない」ということです。「必要な分さえ欠けている」ということです。むしろ自分が必要としている。お金について言えば、これはとても分かり易いと思います。ある人は自分の経済的な状態を、この貧しいやもめに重ねて見るでしょうし、ある人は自分の状態をここに出て来る「大勢の金持ち」に重ねて見ることができるかもしれません。実際には多くの人は「その中間ぐらい」と言うかもしれません。

 しかし、考えてみますなら「乏しい中から」という言葉が関係するのは、必ずしもお金の話だけではないはずです。経済的に豊かな人が「乏しい」という言葉と全く無縁かと言えば、決してそうではない。「お金はあるけれど、時間がない」という人だっているでしょう。お金も時間もあるけれど、年老いて体力が乏しいという人だっているでしょう。あるいは能力に乏しい、愛に乏しいと感じている人だっているのでしょう。

 そのような乏しさの中で、私たちはしばしば考えるのです。豊かだったら献げられるのに、と。時間がもっとあったら神様に奉仕できるのに。体力があったら、若さがあったら、もっと仕えることができるのに。もっとあの人のように有能だったら、あの人のように愛に溢れた人だったら、神様のお役に立てるのに、と。

 しかし、あのやもめは「乏しい中から」献げたのです。乏しい中からの献げ物だからレプトン銅貨二つなのです。そんな献げ物が、実際的に何の役に立つかと言われても仕方ない。そのような献げ物なのでしょう。しかし、それが役に立つかどうか、意味があるかどうかなど考えないで、あのやもめは「乏しい中から」献げたのです。

 僅かばかりのものです。忙しい人はレプトン二つ分の時間しか献げられないかもしれない。病気の人は、レプトン二つ分のことしかできないかもしれない。でも、主イエスはちゃんと見ておられるのです。「この人は乏しい中から献げたのだ」と。

 先ほど、律法学者たちについて、「問題は明らかです。関心が神から人へと移って行ったということです」と申しました。しかし、そこで言う「人」とは「他人」だけではないのです。そこには「自分」という人間も入るのです。そして、しばしば「自分」という人間の評価が何よりも重要になってしまう。そのようなことも起こります。

 このやもめは他人の目など気にしていなかった。それだけでなく、自分の目も気にしていなかったのです。もっともっと大事なことがあるから。もっともっと大事な方がおられるから。その方を思って、その方のために、「乏しい中から」精一杯献げたのです。そんな彼女にちゃんと目を向けている方がおられました。彼女にとってもっとも大切な、神様の眼差しをもって見ていてくださる方が!主は弟子たちを呼び寄せて言われたのです。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」。

 そして、もう一つ。主イエスはこうも言われました。「この人は、・・・生活費を全部入れたからである。」と。生活費を全部入れたのは、明らかにそれでも大丈夫だと思っているからでしょう。自分が自分の生活を支えているのではない。神様が生かしてくださっている。その信頼があってこその献げ物だったはずです。

 ここに書かれているように持っている生活費を全部献げるというようなことは、恐らくは彼女にとって特別なことなのでしょう。彼女が毎日同じことを繰り返しているとは思えません。生きていけなくなる献げものを、神はお求めにはなりません。その日は彼女にとって特別な日だったのかもしれません。

 しかし、その特別な献げ物に見る「神への信頼」は、一朝一夕で形作られるものではないでしょう。貧しい生活の中にあって、この日だけでなく、これまで毎日毎日、神に信頼して生きてきたということです。ならば、彼女の献げたレプトン二つは、「信頼に生きる日々の生活」をお献げしたものであるとも言えるでしょう。そのように、彼女がこれまでの生活において培ってきた「信頼」という献げ物。主イエスは確かにしっかりと見ておられました。

 そして、彼女のすべてを献げた「信頼」という献げ物に主イエスが目を留められたのは、他ならぬ主イエス御自身が同じように「信頼」を献げようとしておられたからです。どのような形で。十字架の上で死ぬという仕方で。この世の目から見たら、それは犬死としか思われないようなことでした。しかし、主イエスは自分の全てを献げて、その命を神に信頼してゆだねたのです。そして、神はその御方を復活させ、御自分の右の座に着かせられました。これがダビデの主でもあり、私たちの主でもある御方です。主は生きておられます。その主が、この聖書箇所に見るように、今ここに生きている私たちにも目を留めていてくださいます。

その主の眼差しに守られて、私たちは生きていくことができるのです。そのことをいつも覚えていたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは地上の政治的な解放をもたらすメシアではなく、父なる神の座に座る神の御子であることを自ら示されました。その主イエスが今も、私たちに慈しみのまなざしを向け、わたしたちのために父なる神に執り成してくださっています。人の目や自分の目を気にしている私たちですが、今も注がれている主の慈しみのまなざしの中で、自分らしく生きていく者とならしてください。今年もいよいよ梅雨の季節を迎えます。どうぞ兄弟姉妹一人一人の体調をお守りください。世界は今、きな臭い一触即発の状況が各地で見られます。どうか為政者たちの思いをただし、戦いではなく和解と平和を選び取るように、この世界を導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   6月15日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    使徒言行録13章1~3節

説  教   「宣教旅行への出発」   藤田百合子

主日礼拝  

午前10時30分  伝道礼拝   司式 山根和子長老

聖     書

 (旧約) イザヤ書1章11~17節     

 (新約) マルコによる福音書12章38~44節

説  教   「見せかけの祈りを捨てて」    藤田浩喜牧師

交わりの回復

使徒言行録2章1~8節 2025年6月8日(日)ペンテコステ合同主日礼拝

                             牧師 藤田浩喜

 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。ペンテコステという言葉を皆さんは聞いたことがあると思います。この日はどんな日だったでしょう? この日、イエス様のお弟子さんたちは、エルサレムにあったある家の2階に集まっていました。そのお弟子さんたちに聖霊が与えられました。彼らの上に聖霊が降りました。その日がペンテコステだったのです。

 イエス様は天に昇られ父なる神様のもとへ行かれました。イエス様は天に昇られる前、お弟子さんたちにおっしゃったことがありました。一つのことは「エルサレムから離れないで、父なる神様が約束されたものを待ちなさい」ということでした。約束されたものは聖霊でした。そしてイエス様は、こうもおっしゃいました。「あなたがたの上に聖霊が降ります。するとあなたたちに力が与えられます。そしてあなたがたは、エルサレムだけではなく、ユダヤとサマリア、世界の果てまでわたしのことを伝えるようになるでしょう。」イエス様はこのような約束をされました。そして、イスラエルのある家の2階に集まっていた弟子たちに、イエス様が約束されたように聖霊が降ったのです。

 聖霊は「風」によくたとえられます。風は「風が吹いているな」と分かりますが、風そのものは見えませんよね。聖霊も本来は目に見えないものです。ところがどうでしょう。弟子たちに聖霊が降った時こんなことが起こったのです。「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」。台風のような強い風が吹くと、恐いぐらい大きな音がしたり、家中が揺れたりしますね。ちょうどそれと同じようなことがこの時起こったのです。

 それだけではありません。「そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」その家の2階にはイエス様のお弟子さんたちがいました。その数は120人ほどだったと言われています。そのお弟子さんたち一人一人の頭の上に、赤い舌のようなものがとどまりました。聖霊は本来目では見えないものですが、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、鳩の形のような聖霊がイエス様に降ったと、聖書に書かれています。今日礼拝に来られた皆さんに鳩サブレをプレゼントするのですが、それはそんな理由があるからです。ところがペンテコステの時には、一人一人のお弟子さんの頭の上に、赤い舌のような聖霊が降ったのでした。

 そしてそれだけではありません。次の瞬間びっくりするようなことが起こったのです。「すると、一同は聖霊に満たされ、‘霊’が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」「舌」というのは、話をするときに必要なものです。お弟子さんたちは舌のような聖霊が降るとどうなったのか? 一人一人が色んな言葉で話し出したのです。たとえて言うと、あるお弟子さんは英語で、あるお弟子さんは中国語で、あるお弟子さんはドイツ語で、あるお弟子さんはスワヒリ語でというように、違った言葉で話し出したのです。

 集まっていたお弟子さんたちは、みんなイスラエルのガリラヤ生まれ、ガリラヤ育ちの人たちばかりでした。彼らはガリラヤ地方で使われていたアラム語以外に話すことはできませんでした。外国の言葉を勉強したことはありませんでした。皆さんは小学生になると、日本語の他に英語を勉強しますよね。たけるくんやはるかさんは、お母さんから中国語を教えてもらって少し知っているかもしれません。大学生になるとドイツ語やフランス語、スペイン語を勉強する人もいるかも知れません。ところがイエス様のお弟子さんたちは、故郷の言葉アラム語しか話せませんでした。そうであったのに、一人一人がそれぞれ習ったことのない外国の言葉で話し始めたのです。

 そのことは、「七週の祭り」というユダヤのお祭りのためにエルサレムに来ていた大勢の人々を驚かせました。イエス様の時代、「過越しの祭り」、「七週の祭り」、「仮庵の祭り」の時には、多くの国々から神様を信じる信仰者が、エルサレムの町に集まってきました。ヤハウェの神様を信じる人は、当時の世界の色んな国々に散らばって暮らしていました。そんな信仰者たちがお祭りの時にはエルサレムに集まって、神様を礼拝していたのです。

そのユダヤの人たちはユダヤの言葉であるアラム語だけではなく、当然ですが自分の暮らしている国の言葉も話すことができました。そのような外国からやって来たユダヤの人々が、自分の国の言葉を聞きました。ガリラヤ生まれ、ガリラヤ育ちのお弟子さんたちが、自分の住んでいる国の言葉を話している。しかも「神様がどんな大きな御業をなさったか」を一生懸命語っている。その様子を見聞きして、びっくりするしかなかったのです。その人たちが聞いたのは、その人たちが生活する時に使っていた言葉でした。聞いていて一番よく分かる自分の国の言葉でした。そんな毎日使っている言葉で、神様がイエス・キリストによってなしてくださった大いなる御業について聞いたのです。ですから弟子たちの話す言葉が、まっすぐに心の中に入ってきたのではないでしょうか。

 ペンテコステの日に、聖霊が弟子たちの上に降りました。聖霊を与えられてお弟子さんたちは、神様の大きな御業、イエス様が十字架と復活によって成し遂げてくださった大きな恵みを、聞く人の心に届くようにそれぞれの国の言葉で語ることができました。この日起こったことは、本当にびっくりするようなことです。

しかし、お弟子さんたちに与えられたのと同じ聖霊が、皆さんにも与えられています。皆さんはこう思っているかもしれません。「お友だちや周りの人たちにイエス様のことを教えてあげたいけど難しいな」。「どうしたら、イエス様のことを分かってもらえるだろう」。そんなふうに悩んでいる人もいるかも知れません。でも、心配することはありません。聖霊なる神様が、皆さんに力を与えてくださいます。伝えたいと思っている人の心に、まっすぐに届く言葉を与えてくださいます。すぐにはできなくても、いつか必ずイエス様が伝わるように導いてくださいます。私たちは、聖霊の働きを信じて進んでいきたいと思います。

ここからは大人の人たちに向かってもう少し語りたいのですが、今日お読みした旧約聖書の箇所は有名なバベルの塔の物語でした。人間たちはその時、同じ一つの言葉を使って生活していました。そして、人々は驕り高ぶり、高慢になって、神様のところにまで届く高い塔を築きはじめます。人間の力を誇るために建てていたのがバベルの塔でありました。それは科学や技術が進歩し、神様の領域にまで踏み込もうとしている、現代の人間の姿でもあります。

神様はそんな人間の姿を天からご覧になり、その高ぶった企てを阻止されます。

そしてそのためになさったのが、彼らの語っていた言葉を乱される、通じなくされるということでした。言葉が通じなくなった人間は意思疎通ができなくなり、バベルの塔を建てることができなくなったのです。これは人間が思い上がり神のようになろうとするならば、自ら破滅を招くことが示されているのでしょう。

 このバベルの塔の物語に対して、言葉が通じ合い、交わりが回復された出来事が、このペンテコステ・聖霊降臨だったというのです。人と人との交わりが回復する。本当の意味で人々が協力して良き世界を創っていく。そのために神さまは人間に聖霊を与えてくださったのです。神さまは人と人とが理解し合い、協力して良き世界を創っていくために、一つの同じ言語をお与えになったのではありませんでした。同じ日本語を使っていても、私たちの社会を見れば分かるように、互いに理解し合えるとは限りません。同じ言語を使っていても、社会は分断されてしまうのです。そのような人間世界の交わりを回復するために、神様は聖霊を下されました。なぜならば聖霊を受け取り、神様との交わりをまず回復することによって、人間同士の交わりが回復されるからです。聖霊を注がれ、高ぶりを砕かれ、神様の御前に謙遜に生きることによって、人と人との関係が回復されるからです。神さまとの垂直の関係が正しくされて初めて、人と人の水平の関係が回復されるからです。

 そして、先ほど申しましたように聖霊は一人一人の上にとどまり、各人はそれぞれ違った国の言葉で、神様の偉大な御業、イエス・キリストによって成し遂げられた御業を証しし始めました。福音の宣教はその初代教会の始まりの時から、

画一的ではなく多様であったのです。聞く人の状況や聞く人の願いに応えることができるような多様性と柔軟性を備えていたのです。現代は多様性・ダイバーシィを重んじる時代です。私たちキリスト教会はその誕生の初めから、多様性と柔軟性を湛えていたことが分かります。聖霊は同じ唯一の“霊”の働きですが、“霊”は望むままに、一人一人に分け与えられます。そして多様な働きをすることによって、人々を神様のもとに導く、救いの業を成し遂げていくのです。聖霊の風は、初代教会だけでなく今の私たちにも吹き続けています。その聖霊の働きに押し出されて、福音の宣教へと歩み出してまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたのお名前を褒め称えます。

今日は子どもも大人も一緒にペンテコステ礼拝を守ることができて、ありがとうございます。神様あなたは今も私たちに聖霊を与えてくださっています。そしてイエス様によって成し遂げられた大きな恵みの業を、周りの人々に知らせるように励ましてくださいます。一人一人は小さな力しか持っていませんが、どうか聖霊によって私たち勇気づけてください。そして、私たちが聖霊に助けられて良き世界を一緒に創っていくことができるように強めていてください。今日から始まる一週間、一人一人の歩みを支えていてください。このひと言の小さなお祈りを、イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主イエス・キリストの父なる神様、今日はペンテコステ・聖霊降臨日です。主イエスが約束してくださったように、あなたは初めの教会の群れに聖霊を与えてくださいました。そして聖霊は今でも教会に、私たち一人一人に注がれています。どうか、子どもと大人が一緒に守る今日の合同礼拝の上にも、聖霊を豊かに与えてください。そして、聖書を通してあなたの御心がはっきり分かるように、私たちを導いていてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。

王を超える王

マルコによる福音書12章35~37節 2025年6月1日(日)主日礼拝説教                     

                           牧師 藤田浩喜

 今朝与えられております御言葉は、主イエスが十字架にお架かりになる直前に、エルサレム神殿においてメシアについて語られたことが記されています。この神殿における問答は、11章27節から続いている一連の流れの中でなされました。祭司長、律法学者、長老たち、そしてファリサイ派の人とヘロデ派の人、更にサドカイ派の人との問答がなされました。それらは主イエスを陥れるためのものであり、主イエスがメシアではないということを示そうとしたものでした。けれど、主イエスはそれらのすべての問いを、見事な答えで退けられました。今朝与えられております御言葉の直前の所に、34節「もはや、あえて質問する者はなかった」と記されている通りです。しかしそれは、祭司長、律法学者、長老たちというユダヤ社会の指導者たちが、主イエスに降参したということではありません。主イエスを大した者だと認め、主イエスに従う者となったということではありません。言葉や知恵ではかなわない。だったら後に残るのは何か。実力行使のみです。もう主イエスに質問する者はいなかったというのは、その分主イエスの十字架が近づいたということでもあるのです。

 主イエスはここで、御自分の方から問いを出されました。誰に出されたのか。私は、主イエスがここで出された問いは、ファリサイ派の人や律法学者、そして祭司長といった、今まで自分に質問してきた人たちに対して、逆に問われた。そう考えてよいと思います。なぜなら、ここでなされた主イエスの問いは、かなり聖書に精通している人に向かってなされたものであったと考えられるからです。聖書に詳しくない人が聞けば、この主イエスの問いは何を言っているのか分からない、何を問うているのか分からない、そのような問いだからです。

 主イエスがなされた問いとは、こういうものでした。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」(35~37節)。この問いを一回聞いて、主イエスがここで何を問うているのか、きちんと分かる人がいるでしょうか。主は何を言おうとされているのか。何が言いたいのかよく分からない。そのように思われた方も多いと思います。けれども、ここはとても大切な所ですので、ていねいに見ていきましょう。

 まず、「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」です。メシアというのはキリストのことです。旧約におけるメシアは「油注がれた者」という意味で、それをギリシャ語に翻訳するとクリストス(キリスト)となるのです。ですから、メシアもキリストも全く同じなのです。「油注がれた者」というのは、旧約において祭司、王、預言者が神様に選ばれて立てられる時、「油注ぎ」という頭に香油を注ぐ儀式を行ったことに由来します。神様に選ばれ、立てられたことを、目に見える形で示したのが「油注ぎ」です。そして次第に、メシアと言えば、神様に遣わされる救い主を意味するようになっていきました。

 主イエスの時代、「メシアはダビデの子」として生まれるということは、ユダヤの常識でした。それは、旧約において預言されていたからですが、新約聖書もこの預言の成就として主イエスの誕生を記しているのです。「ダビデの子」とはダビデの子孫という意味ですが、マタイやルカにある主イエスの系図はそのことを示しています。また主イエスがエリコを出て行こうとされた時、目の見えないバルティマイという物乞いが、主イエスに向かって「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコによる福音書10章47節)と叫びました。この時バルティマイは救い主という意味で主イエスを「ダビデの子」と呼んだのですが、主イエスはそれを否定していません。ところがそれなのに、ここではそれを否定するように言われています。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と言われます。これはどういうことでしょうか。

 問題は「ダビデの子」という言葉が、何を意味するのかということでした。「ダビデの子」、それは文字通りには「ダビデの子孫」ということです。しかし、それだけではないのです。律法学者たちがメシアを「ダビデの子」と言う場合、それは「ダビデのようなメシア」、「ダビデの再来としてのメシア」という意味も持っていたのです。それは、律法学者たちだけに限らず、当時のユダヤの人々のメシアに対する理解でした。つまり、メシアはダビデ王のように、武力をもって周りの国々を平定し、ユダヤに繁栄をもたらす御方。当然、ローマ帝国の支配からもユダヤを自由にしてくださる。それが、律法学者たちの、また当時のユダヤの人々のメシア理解だったのです。主イエスはそれに対して、「違う」と言われたのです。このことについて使徒パウロは、ローマの信徒への手紙1章3~4節で「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と言いました。「主イエスは肉によればダビデの子孫。霊によれば神の子」ということです。主イエスは、ダビデの子孫であることを否定しようとされたのではないのです。そうではなくて、「ダビデの子」にダビデがもたらしたのと同じような救いや繁栄しか期待しない律法学者たちに向かって、神様がメシアによって与えられる救いとはそんなものではない、ということを語ろうとされたのです。

 次に36節の「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と』」ですが、これは詩編110編1節の引用です。

 まずここでややこしいのは、「主は、わたしの主にお告げになった」という所です。最初の「主は」の「主」と、次の「わたしの主」の「主」は、ギリシャ語では同じ言葉が使われていますが、元々のヘブライ語の詩編においては全く違う言葉が使われているのです。最初の「主」は、天地を造られた唯一人の神様を示す言葉であるヤーウェという固有名詞が使われています。次の「わたしの主」の「主」は、主人を表すアドナイという普通名詞が使われているのです。そして、内容から見て、「わたしの主」というのは、救い主・メシアを指していると考えられるのです。さらにこの詩編はダビデが作ったのだから、ダビデ自身がメシアを「わたしの主」と呼んでいることになる。だったら、どうしてメシアはダビデの子なのか。自分の子に向かって、「主」と呼ぶ者がいるか。いない。だから、メシアは単なるダビデの子ではなく、あのダビデさえも「主」と呼ぶような大いなる者なのだ。つまり神の子なのだ。そう主イエスは言おうとされたのです。

 この詩編は、ダビデ自身が聖霊を受けて、父なる神様が御子であるメシアに語ったことを記したものだと考えられます。その詩編110編において、メシアがどういう方だと告げられているかと言いますと、神様が「わたしの右の座に着きなさい」と言われた方だということなのです。これは、主イエスが十字架、復活に続いて、天に昇られ、父なる神様の右に座られるということを、御自身の口を通して、詩編110編を引用して告げられたということなのです。神様の右に座するキリスト。これは、私たちが使徒信条において、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神様の右に座しておられます」と、告白していることです。主イエスは十字架に架かって死なれ、三日目に復活し、天に昇り、全能の父なる神様の右に座しておられる。それが私たちの主イエスに対する信仰です。主イエスはそのことを御自身の口で、十字架にお架かりになる前に、告げられたということなのです。

 「父なる神様の右に座す」というのは、父なる神様と同じ権能を持って、父なる神様と同じようにすべてを支配しておられるということです。この「右」というのは、方向や位置を示しているのではありません。そうではなくて、この「右」というのは、神様との関係を示しているのです。「神様と同じ力と権威を持つ方として」という意味なのです。そしてこのことは、父・子・聖霊なる三位一体の神様のあり方を示しているのです。

 この主イエスの御支配は、「わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と言われているように、やがてすべての悪と罪が主イエスによって打ち破られ、完全な神様の御支配が現れるようになる。その終わりの時、終末のことまで預言されています。この主イエスの御支配は、この世の王であったダビデのような地上の支配ではありません。十字架と復活による、罪と死に対する勝利であり、すべての民の上に臨む御支配なのです。まことのメシアである主イエスは、ダビデのような王などはるかに超えた、あのダビデさえも「わたしの主」と呼ばざるを得ない、神の御子であられるということなのです。

 私たちは、主の日毎にここに集い、主イエスの御名をほめたたえています。主イエスの前にひざまずき、主イエスを我が主、我が神と拝んでいます。それは、やがて来る神の国の完成、すべての者が主イエスの前にひざまずき、主イエスを拝み、主をほめたたえることになる。そのことの先取りなのです。そして、それは聖霊なる神様の導きよって、私たちに明らかに示されたことなのです。

 聖書に登場する律法学者たちは、よく聖書を学んでいましたし、よく知っていました。旧約聖書のすべてを暗記し、諳(そら)んじていました。その解釈についても、膨大な注釈を学び尽くしておりました。しかし、彼らは分かりませんでした。主イエスが誰であるかということについては、全く何も分からなかったのです。彼らは、詩編110編が告げている本当の意味を知ることはできなかったのです。それは、聖霊によらなければ分かることができないことだからです。

 しかし、私たちはそれを知っている。いや、知らされている。何と幸いなことでしょう。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙 一1章27~29節においてこう言っています。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」。律法学者は、自分たちは聖書を知っていると誇りました。確かに、聖書を諳(そら)んじるほどに知っていました。しかし、聖書が告げる最も大切なところを知ることはできませんでした。私たちは、知恵なく無学で、力も高い身分もない。しかし神様は、そのような無きに等しい私たちを選び、主イエスが誰であるかを教え、主イエスの救いに与らせ、神の子としてくださったのです。本当にありがたいことだと思います。この恵みに感謝し、父と子と聖霊なる神様をほめたたえつつ、新しい御国に向かっての一週間の歩みを、ご一緒になして参りたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。主イエスはご自身がダビデにまさる王であることを証しされました。この王は自らを十字架に捧げ、仕える者となることによって、神様の右に坐する王となられました。そして終わりの日に至るまで、わたしたちとこの世界を神様にとりなし続けてくださっています。どうか私たちに聖霊を注いで、王を超えた王である方の御支配の中に生きる者としてください。季節は過ごしにくい梅雨に向かっており、不順な日々が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。私たちの世界はあなたの御心に背き、人間の自己中心と欲望の渦巻く状況の中にあります。どうか、人間の罪の思いを砕き、あなたの御心をこの地上にも実現させてください。この拙き切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   6月8日(日)

日曜学校   

大人と合同で礼拝を守ります。

主日礼拝  

午前10時30分  ペンテコステ  司式 藤田浩喜牧師

聖     書

 (旧約) 創世記11章5~9節  (聖餐式を執行します)

 (新約) 使徒言行録2章1~8節

説  教   「交わりの回復」    藤田浩喜牧師

愛に生きる道を歩もう

マルコによる福音書12章28~34節 2025年5月25日(日)主日礼拝説教

                       牧師 藤田浩喜

 今日の聖書も「論争の火曜日」についての箇所です。主イエスが十字架におかかりになる三日前のことです。神殿で主イエスが教えておられますと、そこにユダヤ教の指導者たちがやって来て、「何の権威でそんなことをしているのか」と言いがかりをつけてきたのです。これに端を発して、主イエスとユダヤ教の指導者たちとの間で、「ローマ皇帝には税金を納めるべきか、否か」とか、「復活はあるのか、ないのか」というような神学論争が繰り広げられたのでした。

 神学論争というのは、神様や信仰について明らかにするために、聖書の解釈を巡ってなされる大切な議論のことです。キリスト教の歴史を見ますと、神学論争の末に異端とされ、迫害されて命を落とした人もたくさんいます。宗教改革期のカトリック教会とプロテスタント教会の対立は、ドイツ30年戦争の原因にもなりました。神学論争というのは、このように血を流すほどの激しい論争になることもあるのです。

 それはどうしてなのでしょうか。神様のこと、信仰のことを問うことは、自分の根源、世界の意味を問うことだからです。自分は何者なのか。何のために生きているのか。この世界は悪魔の世界なのか、神の世界なのか。救いはあるのか、ないのか。死後の世界はあるのか、ないのか。その答えいかんによって、人は立ちもするし、倒れもするのです。神学論争というのは、そのように私たちの生の根源を揺るがせるような論争です。だから神学論争というのは自然と激しく、真剣にならざるを得ないのです。

 しかし、神様というのは人間には計り知れない御方ですから、いくら議論をしてもなかなか埒(らち)があきません。また、信仰というのも人間の価値や人生の意味までカバーする重要な事柄であるだけに、なかなか簡単に答えを出せるものではありません。はっきりと言うと、神学論争には正解がないのです。ですから、神様を信じない者にとって、神学論争というのは空理空論に思えてしまうということがあるのです。

 日本の国会でも、現実から遊離した実りのない議論を表わす言葉として、「神学論争」と言われたことがありました。小泉純一郎元首相も、自衛隊の海外派遣について、野党から憲法9条の解釈論議が出ると、「神学論争はもうやめよう」と応じたことがあります。原理原則や解釈論議ばかりしても、現実の差し迫った問題に対応できないということでしょう。

 神学論争を揶揄した大変失礼な言い方だと思うのですが、国会に限らず、世の人々もまた「難しい話はさておいて」というようなことがあるのではないでしょうか。今、目の前にある問題に対する処し方には非常に関心があるけれども、人生の意味とか、目的とか、善悪とは何かとか、そういう私たちの人生の根源を問うような問題とは決して向き合うことなく、その場その場を生きてしまっているということがあると思うのです。

 主イエスの「種を蒔く人の譬え」の中に、このようにその場その場をやり過ごして生きている人のことを言い表した、次のような言葉があります。「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」(マタイによる福音書13章5~6節) 。

 「根がないために枯れてしまった」とあります。目の前の事ばかりに心を奪われて生きていると、そうなってしまうのです。しかし私たちが、人生の問題をもっと深いところで受けとめようとするならば、「問う」ことの大切さを忘れてはならないと思います。自分は何者なのか。何のために生きるのか。死んだらどうなるのか。罪の赦しはあるのか。救いはあるのか。復活はあるのか。このような問いは、一朝一夕に答えが出るわけではありません。永遠に答えが出ないような気もしてくる。しかし、そのように根源的なことを問うことによって、私たちの人生を支えて下さっている御方、天の父なる神様に出会うことができるのです。

 

 さて、ユダヤ教の指導者たちが主イエスに問うたのは、決して純粋な神学論争のためとは言えませんでした。神学論争を装って、主イエスを言葉の罠にかけ、陥れようとしていたのです。しかし、主イエスはどんな問いに対しても、つまりどう答えても不利になるような問いに対して、実に見事なお答えなさって、彼らを驚かせたのでした。

 主イエスに問いかけた人々の中に、一人だけ主イエスのなさった答えを、自分への問いとして真剣に受けとめた人がいました。そして、今までのような下心のある問いではなく、もう一度、主イエスに自分自身の真剣な問いを返すことによって、主イエスにお答えしようとしたのです。「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』」(28節)

 この律法学者は、「数ある律法の中で何が一番大切でしょうか」と尋ねました。律法とは、人間の生き方を示した神の教えです。その一番大切なものは何かと問うことは、すなわち自分の生命(いのち)の中心、根源は何かということを問うことなのです。「皇帝に税金を納めるべきでしょうか」とか、「復活した時には誰が夫になるのでしょうか」とか、こういう問題は「何が一番大切か」ということが分かれば、順に解けていくことです。そういう枝葉末節を問うことをやめて、自分の生命(いのち)の根源にあるものを問う、こういう問いが大切なのです。

 根源的なことを問うということは、根源的な主イエスの答えが与えられることを願っているわけです。そして、問うことは問われることでもあります。主イエスの答えが示されたならば、今度はそれに根ざして生きているかどうかということが、自分自身に問われることになるのです。この律法学者は、当然そういうことを分かった上で、主イエスにその答えを求めているのです。

それに対する主イエスのお答えは、二つでありました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(29~31節)

 「何が一番大切か」と問われた時に、主イエスが一つではなく、二つの答えを示されたということは、とても大切なことだと思います。それは、一番大切なものというのは、一つではなく、二つのものの調和の上にあるということなのです。ある人が、こういうことを言っています。

 「およそすべての物事には、両極というものがある。真理は円形ではなく楕円形なのだ。円を描くには、一つの中心点があれば描けるが、しかし、楕円を描くには二つの中心点がいる。そのように真理の世界には、常に両極というものがあるので、お互いが真理に立ちたければ、絶えずその両極をよく見つめて、両極の調和をはからなければならない。それなのに一極だけを見つめて他を見落とせば、その真理はいびつなものになり、一面的になってしまう。そこで決して真理の全体を正確に把握することはできないものだ。」

 神様を愛することと、人を愛することも、一面的になってはいけないのです。どちらか極端になってはいけないのです。神様を愛するからといって、人への愛が軽んじるならば、それは間違いです。人を愛するからといって、神への愛を軽んじることも間違いです。神への愛を軽んじても、人への愛を軽んじてもいけない。神を愛することも人を愛することも真剣でなければならない。両方が調和する生き方にこそ、一番大切なことがあるのだということです。

 たとえば、神様を愛するということは、教会を大事にすることにつながるでありましょう。そして、人を愛するということは家族の交わりやこの世のつき合いを大事にするにつながると言ってもよいと思います。主イエスは、どちらの方が大切だとは言われないのです。教会を大事にすることによって、家族やこの世のつき合いを軽んじてはいけない。逆に家族やこの世のつき合いを大事にすることによって、教会を軽んじてはいけない。その両方を大事にできる道を求め、そこに生きることが一番大事なのだということなのです。

 では、実際には、どんなふうに調和させたらいいのでしょうか。一つには、主イエスが二つのことを共に大切だとおっしゃいながら、第一の掟、第二の掟と順位をつけておられることに注意しなければなりません。まず、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」ということから始まるのです。

 ヨハネの手紙 一4章7節には、「愛は神から出ているのです」と記されています。神様の愛が私たちの内に満ち溢れて来て、それが隣人愛として私たちのうちから人へと流れ出ていくのです。このような神の愛をもって、隣人を愛するのでなければ、私たちの愛は必ずや自分の罪のうちに破れるに違いありません。身勝手で迷惑な愛もありますし、中途半端で無責任な愛もあります。身勝手さは自分だけではなく、相手にもあります。こちらが愛することに真剣であっても、相手の我が儘よって振り回され、愛の限界を感じるということもあるでしょう。

 愛は、神様から出てくるのです。神様の愛を信じ、全身全霊をもって神様を愛し、自分の中に神様の豊かな愛を戴かなければなりません。そして、それを溢れさせるということが大切なのです。これが「第二の掟」です。第一の掟は神様を愛することであり、第二の掟は隣人を愛することなのです。この二つが共にあることが、一番大切な神様の教えであると、主イエスはお答え下さったのでした

 律法学者は、主イエスのお答えを聞いて、その正しさを認めました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」(32~33節)

 そして、この律法学者の言葉を聞いて、主イエスも彼の心の正しさを認めて、「あなたは、神の国から遠くない」と言われたというのです。しかし、「遠くない」というのは、微妙な表現です。「あなたは神の国に入れる」とか、「神の国はあなたのものだ」と言われなかったのは、どうしてなのでしょうか。

 それは、神の国に入るのは、第一の掟でもなく、第二の掟でもなく、恵みによることだからです。主イエスの十字架の贖いが必要なのです。この律法学者は、自分の生き方の根源を問い、そして神を愛しなさい、隣人を愛しなさいということを教えられました。これからは、この主イエスのお言葉を自分の生き方の中心に据えて生きていこうと、喜びと決意をもってお答えしたのだと思います。

 しかし、神様の教えに従って生きるということは、頭で分かっていても、心で分かっていても、それに背くような罪の力が私たちの内に働くのです。この罪の力から救われて、新しい人間として生まれ変わることなしに、神の国に入ることはできないのです。けれども主イエスは、「あなたは、神の国から遠くない」と、彼に仰って下さいました。それは、彼の信仰の状態が近いとか、遠いということではなく、「あなたが神の国に入るために、わたしが十字架にかけられる日が近い」と言う意味ではなかったでしょうか。

 主イエスの十字架の救いによって、私たちの罪は赦され、神様との新しい関係に入れられるのです。そして、神様の愛を余すことなく受け取り、その愛をもって隣人を愛し、隣人に仕えることができる人間とされていくのです。恵みは罪に優り、掟に優るのです。感謝すべきことではないでしょうか。

お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。あなたは今日も御言葉をもって私たちを導いてくださいました。あなたは主イエスを通して二重の愛の戒めを教えてくださいました。どうか、あなたを愛する愛によって、私たちの心を、隣人を愛する愛で満たしてください。この二重の愛に生きる生活の豊かさと奥深さを、私たちに味わい知らせてください。私たちの群れには、病床にある兄弟姉妹、高齢のゆえに困難を抱えている兄弟姉妹、人生の試練にあっている兄弟姉妹がおります。どうか、兄弟姉妹のために祈り、労することができますよう、私たちを強めていてください。世界は今大きな混乱と不安の中にあります。どうか、この世界に平和を与えてください。天にあるごとく地にも、あなたの御心を実現させてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  6月1日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書  使徒言行録1章12~14節

説  教  「祈って待つ群れ」   三宅恵子長老

主日礼拝  

午前10時30分   司式 藤田浩喜牧師

聖     書

 (旧約) 詩編110編1~7節  (聖餐式を執行します)

 (新約) マルコによる福音書12章35~37節

説  教  「王を超える王」   藤田浩喜牧師

思い違いをすることなく

マルコによる福音書12章18~27節 2025年5月18日(日)伝道礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今日のマルコによる福音書12章18節以下には、「サドカイ派の人々」が登場してきました。福音書によく出て来るファリサイ派と並ぶ、ユダヤ教の一派です。サドカイ派のメンバーは主に、上級祭司、貴族、富裕層の人々です。そのようなこともあり、彼らは社会的な変革を望まない、保守的な人々でした。最高法院においては与党の立場にあり、政治的な指導権を握っていました。

 彼らは宗教的にも保守的な一派でした。彼らは聖書のうち、律法の書(つまりモーセ五書、創世記から申命記まで)しか認めません。律法の書に明記されていること以外は、いっさい信じません。ですから彼らは復活を信じない。来世を信じません。「死んだら終わり」ということです。宗教的に保守的な人々が来世を信じないというのは、私たちの感覚からすると変ですが、ユダヤ教においてはそうなのです。確かにモーセ五書だけを見るならば、復活についても、来世についても、文字通りの意味においてそのような表現は出て来ません。同様の理由から、彼らは霊の存在も信じない。メシアを待望することもありません。

 しかし、恐らく彼らがそれらを信じなかったのは、モーセの律法に文字通りに書かれていないから、という理由だけではないでしょう。ある意味では信じる必要もなかったのです。この世において恵まれていますから、この世のことだけで十分なのです。目に見えるものだけで十分なのです。現在のことだけでよいのです。終末の希望は必要ないのです。それでも神殿の儀式においては、自分の位置づけを持っています。宗教的なコミュニティにおいては、指導的な立場にあります。この世のことだけ考えていても、十分に宗教的でいられるのです。

 ということで、今日の聖書箇所にはそのようなサドカイ派の人々が、「復活はないと言っているサドカイ派の人々」(18節)として登場してきます。これに対して、福音書によく出てくるファリサイ派の人たちは、復活も来世も霊の存在も信じています。ですからサドカイ派とファリサイ派は宗教的には対立関係にあります。そのようなファリサイ派に対して、サドカイ派の人たちが復活や来世があることを否定するために用いていた論拠が、今日の聖書個所に出てきた話なのです。そのような話を、彼らは主イエスのもとに持ってきて論争をしかけたのです。

 サドカイ派の人たちは、旧約聖書の申命記を引用してこう語り出します。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」(19節)。ここに出てきますのは、私たちには馴染みの薄い「レビラート婚」という制度です。子孫を絶やさぬための制度でありまして、今日でも世界の少数民族などにおいて見られると言われます。まさにこの律法の言葉こそ、復活がないことの決定的な証拠になると彼らは考えていたのです。

 続けて彼らはこう問いかけました。「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」(20~23節)。

 これはレビラート婚の制度に馴染みがなくても、例えば配偶者と死別した後に再婚した人のことを考えれば分かると思います。復活があり来世があると困ったことになる、ということです。先にも申しましたように、このような議論は通常ファリサイ派との間でなされていたものです。そして、復活を信じるファリサイ派には一応答えがありまして、この場合、妻は長男のものとなることになっていたそうです。しかし、主イエスはそのようには答えませんでした。

 主は言われました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(24~25節)。「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とは、この世におけるあり方とは全く異なるということです。救いが完全に実現している復活の世界を、今のこの世の延長のように考えてはならない、単にこの世の生活から類推して考えてはならない、ということです。

 しかし、主イエスは単に答えを与えたのではありません。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」と言われるのです。これは実に強烈な言葉です。明らかに主イエスは、時の宗教家たちの無意味で思弁的な議論にうんざりしているのです。

 それはただ単に、復活を否定するためにこんな論争を持ちかけたサドカイ派の人々に対してだけではありません。復活を信じていると言っているファリサイ派の人々に対してもそうなのです。いや、むしろ主イエスはファリサイ派の人たちにこそ、語りたかったのかもしれません。なぜなら先に触れました「妻は長男のものとなる」というような答えこそ、まさに来るべき救いの世界を今の世の延長線でしか考えていないことを示しているからです。

 神がその独り子さえもこの世に送り、人の思いを遙かに超えた圧倒的な御力をもって、罪からも死からも解放して完全な救いを与えようされている。それなのにこちら側では、「七人の兄弟と結婚した女は、誰の妻になるんでしょうなぁ」などということを言っているわけです。しかも祭司たちが、律法学者たちが、そんな次元のことを議論しているのです。救いのために遣わされた主イエスとしては、もう悲しくて、情けなくて、うんざりしていたに違いありません。

 しかし、彼らの姿は他ならぬ私たちの姿でもあるのでしょう。私たちがたとえどのような者であっても完全に救うことのできる神の力を、今ここにいる私たちは本当に信じているのでしょうか。「あなたがたは聖書も神の力も知らない」とは、私たちに対する言葉でもあるのではないでしょうか。

 それゆえに、主イエスは聖書を引用してこのような話をしてくださったのです。「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」(26~27節)。

 「『柴』の箇所」というのは、出エジプト記3章に出ているモーセが羊の群れを飼っていた時に、ホレブの山で燃える柴を見たという話です。柴は燃えているのに燃え尽きない。不思議に思って近づいてみると、神がモーセに声をかけられた。その時に神様が自らを表現した言葉がこれです。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6)。

 柴の炎は明らかに神の現臨を示しています。神がそこにおられる。しかも、炎は消えないのです。燃え続けている。いわば「燃え続ける神」がそこにおられるのです。神は過去の神ではなく、永遠に神であり続けるということです。神であり続けるということは、抽象的なことではありません。人との関わりにおいて、神であり続けるということです。《あなたの神であり続ける》ということです。モーセはそのような神に出会ったのです。

 神は言われました。わたしはアブラハムの神である、と。アブラハムはもう数百年前に死んでいるのです。しかし、神は「わたしはアブラハムの神である」と言われるのです。そして、イサクの神であり、ヤコブの神であるとも言われる。その神がモーセに現れて、わたしは必ずあなたと共にいる、と言われたのです。わたしはあなたの神でもある、ということです。あなたの神であり続ける。そして、あなたが導き出すイスラエルの神となり、イスラエルの神であり続ける。それが、この「『柴』の箇所」で語られていることです。

 燃え続ける神、関わり続ける神、あなたの神であり続ける神。神がそのような神として御自身を示されたことこそ、来世を信じる根拠なのです。復活を信じ、完全な救いの世界を信じる根拠なのです。神がアブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神であり、わたしの神であり、あなたの神であるならば、アブラハムもヤコブもわたしもあなたも、死んで終わりではないのです。人は神によって、死んでも生きるのです。神は死んだ者の神ではありません。死の中に私たちを放置しておく神ではありません。死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです。

 そのように、モーセは燃え尽きない柴に出会いました。燃え尽きない炎の中から、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」との声を聞きました。そして、私たちもまた、同じように燃え尽きない柴に出会っているのです。すなわち、イエス・キリストこそ、私たちに対して神が御自身を現された「燃え尽きない柴」に他ならないのです。

 今日お読みしました箇所は、主イエスが十字架にかけられる数日前のことです。物語は、イエス・キリストへの死へと向かっているのです。炎は燃え尽きてしまうかのように見えます。しかし、柴の炎は燃え尽きませんでした。キリストは復活して、永遠に燃え尽きることのない神の炎を見せてくださったのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」ということを見せてくださったのです。

 この神との関わりにおいてこそ、人は本当の意味で死を越えた希望に生きることができるのです。神を礼拝し、神に祈り、神との交わりの中に生きていく。キリストを復活させた神の力に、そのように触れながら生きてこそ、人は復活の希望、来世の希望、完全な救いにあずかる希望を持って生きることができるのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」この主イエスの御言葉を、心に刻み付けたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今朝も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは言われました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」神様は永遠に生きておられます。その神様が私たちの神様であり続けてくださいます。それゆえに私たち死すべき人間も、死を超えて永遠に生きる望みを与えられています。神様、私たち一人一人に、聖書を通して、神の御力によって、そのことを揺るぎなく信じさせてください。まだ5月の中旬ですのに、ここしばらくは気温30度に迫る日が続きます。体調を維持するのが困難です。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。神様、今世界は本当に不安定な状況に置かれています。共に歩もうとしない自国中心主義の政治が、不安を増大させています。どうか、為政者たちの思いを糾し、あなたの御心がこの地にも実現しますよう、世界を導いていてください。この拙き切なる祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン

次週の礼拝   5月25日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    使徒言行録1章6~11節

説  教   「主イエスの昇天」 宇佐美志穂子

主日礼拝  

午前10時30分         司式 三宅恵子長老

聖    書(旧約) 申命記6章1~15節 

(新約) マルコによる福音書12章28~34節

説  教   「愛に生きる道を歩もう」   藤田浩喜牧師