日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マルコによる福音書7章14-23節
説 教 「人を汚すものは何か」 高橋加代子
主日礼拝
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) ゼカリヤ書8章1-9節
(新約) マルコによる福音書8章27-30節
説 教 「イエスとは何者か」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マルコによる福音書7章14-23節
説 教 「人を汚すものは何か」 高橋加代子
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) ゼカリヤ書8章1-9節
(新約) マルコによる福音書8章27-30節
説 教 「イエスとは何者か」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書8章22~26節 2024年9月1日主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
ガリラヤ湖畔の町ベトサイダで、主イエスが一人の盲人の目を開かれたという癒しの奇跡が、マルコによる福音書8章22節以下に語られています。この癒しの出来事は、7章31~37節の、耳が聞こえず舌の回らなかった人の癒しの出来事と対になっています。その箇所と本日の箇所との二つの癒しの御業には、共通していることがいくつかあります。先ず、どちらの御業も群衆の目の前でなされたのではなく、癒される人が外に連れ出されていることです。またどちらの癒しにおいても、主イエスが手を触れ、唾を用いておられること、癒しが一瞬で行なわれたのではなくて、ある時間がかかっていることも共通しています。それに、このどちらの話も、マルコ福音書のみが語っており、他の福音書には出てこないという共通点もあります。これらのことから、この二つの癒しの話が一対のものであることが分かるのです。これらの話によってマルコが語ろうとしていることは何でしょうか? それは、神様の救いの時には「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌う」、というイザヤ書35章5節以下の預言が、主イエスにおいて実現したということなのです。
本日の箇所にはその中でも特に、「目の見えない人の目が開かれる」ということが語られています。その救いの御業はどのようにして行なわれたのでしょうか。主イエスは、ご自分のところに連れて来られた目の不自由な人を、その手を取って村の外に連れ出されました。人々の目の前で癒しをなさろうとはされなかったのです。このことは、主イエスが癒しの奇跡を、人々にご自分の力を示して信じさせるためになさってはおられないことを意味しています。目の見えない人の目を開くことができるというのは、神様の恵みをストレートに伝えることができる素晴しい力です。もし皆さんが信仰によってそういう力を得ることができたならばどうするでしょうか。私だったらそれで一儲けしようとするかもしれませんが、良心的な皆さんは、目の見えない人々を癒すことによって神様の恵みを伝えていこうと思うに違いありません。しかし主イエスはそうはなさらなかったのです。主イエスは確かにそういう力を持っておられましたが、それを用いて伝道しようとはなさらなかったのです。それは何故でしょうか。癒しの奇跡によって人を集めて伝道すれば、確かに人は集まるけれども、本当に伝えなければならない神の国の福音は伝わらないからです。
しかしもっと根本的な理由は、癒しの奇跡によって伝道するとしたら、それは病に苦しんでいる人、本日の箇所で言えば目の見えない人を、自分の目的のために利用することになってしまうからではないでしょうか。主イエスは、癒される人との出会いと交わりを大切にしようとしておられるのです。苦しみを抱えているその人と出会い、一対一の関係を結び、それによってその人が神様の救いの恵みを受けることを願っておられるのです。主イエスはそのために、この人を群衆の目のない村の外に連れ出されたのです。
さて、彼と一対一になった主イエスは、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれました。あの耳が聞こえず舌の回らない人の癒しの時には、指を彼の両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられた、とありました。どちらにおいても主イエスは、その人の苦しみの原因となっている部分に、両手でしっかりと触れて下さったのです。その力強い御手によって癒しの御業が行なわれたのです。
彼に手を触れた主イエスは、「何か見えるか」とお尋ねになりました。これは単なる質問ではなくて、目の手術を受けてそれまで包帯を巻かれていた患者がいよいよ包帯を取られた時にお医者さんが、「あなたはもう見えるはずだから、目を開いていっしょうけんめい見てごらん」と促しているような言葉です。主イエスは彼を、そのように励ましておられるのです。「すると、盲人は見えるようになって」と24節にあります。この「見えるようになって」という言葉は直訳すれば「目を上げて」です。以前の口語訳聖書では「顔を上げて」となっていました。この盲人は主イエスの御言葉に励まされて目を上げたのです。すると、何かが見えてきたのです。彼は驚きつつ、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と言いました。
この奇跡は、目の不自由な人にだけ関係する視力回復の出来事ではありません。私たち一人一人に起る救いの御業が、ここに描かれているのです。私たちも、本当に見るべきものを見ることができなくなっている者です。私たちも、目を上げることができなくなっているのです。私たちは、この世の現実をいつも見せつけられています。敵の大軍に包囲されて蟻の這い出る隙間もない、という現実をいつも見つめさせられているのです。そして肉の目に映る現実、圧倒的なこの世の力に取り囲まれている現実こそが、ただ一つの現実であると思ってしまうのです。そしてそこでうろたえ、本当には助けにならない色々なものを求めて右往左往してしまうのです。しかしそれは、私たちの目が閉ざされてしまっているからだ、と聖書は語っています。目を上げて見ることができないから、神様の恵み、守りが分からないのです。そういう意味で私たちは皆、目の見えない者です。先週読んだ8章18節において、主イエスは弟子たちに「目があっても見えないのか」と言っておられましたが、私たちも、たとえ肉体の目は開かれていても、信仰の目が閉ざされ、肝心なことを見ることができずにいるのです。
私たちの、閉ざされている信仰の目は、何によって開かれるのでしょうか。私たちは自分で、この目を見えるようにすることはできません。この盲人がこれまで自分でいくら目を見開いても何も見えなかったのと同じです。また信仰というのは、本当は見えないものを見えたかのように、自分の心に暗示をかけて思い込むことではありません。神様の守りとか恵みは見えないしよく分からないけれども、それがあるということにして、そう思って生きていこう、その方が人生に支えができてよい…、信仰とはそういうものではありません。私たちが何かに支えを見出すこと、あるいは見出したと思い込んで生きることが信仰ではないのです。
そうではなくて、私たちは信仰によって目を開かれて、それまで見えなかった神様の恵み、守りを見ることができるようになるのです。しかも単なる気の持ちようや思い込みではなく、本当にそれが見えるようになるのです。そのことは、主イエス・キリストが私たちに出会って下さることによって起こります。主イエスが私たちに出会い、御言葉を語りかけ、御手を触れて下さると、私たちの目は開かれ、神様の恵みや守りを、目を上げて見ることができるようになるのです。
主イエスとの出会いによって神様の恵みと守りが見えるようになるのは、どうしてでしょうか。それは主イエスがまことの神であられ、しかも私たちと同じ人間となって下さった方だからです。まことの神であられる主イエスが人間となり、私たちの罪を全てご自分の身に引き受けて、身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪の赦しを実現して下さったのです。その主イエスを父なる神様は復活させて、永遠の命を生きる者として下さいました。死に打ち勝って永遠の命を生きておられる主イエスが、今私たちに出会い、語りかけて下さるのです。私たちはその出会いによって、神様のはかり知ることのできない恵みと愛を、自己暗示や気の持ちようではなくて、目を上げてはっきりと見ることができるようになるのです。
主イエスの促しによって目を上げたこの人は、「人が見えます」と言っています。そして、だんだんに彼の目は見えるようになっていったのです。彼が目を上げて真っ先に見た「人」、それは主イエス・キリストだったでしょう。主イエス・キリストという人を、目を上げて一心に見つめていくことの中で、彼の目は次第に見えるようになっていったのです。そこには私たちの信仰の成長が象徴的に示されていると言えます。主イエスを見つめ続けることの中で、私たちは神様の恵みを次第にはっきりと、具体的に見ることができるようになっていくのです。つまり私たちにとって主イエス・キリストは、神様の具体的な愛と恵みを見つめて生きるための唯一の道なのです。
本当に目を開かれるとは、この主イエス・キリストにおける神様の具体的な恵みを見つめる目を開かれることです。それを見つめることができないうちは、私たちは「目があっても見えない」者なのです。それと同じことは、7章31節以下の、耳が聞こえず口の利けなかった人の癒しにおいても語られていました。本当に耳が開かれているとは、主イエス・キリストにおける神様の恵みの御言葉を聞く耳が開かれていることであり、本当に口が利けるとは、その恵みに感謝し、神様をほめたたえる言葉を語ることができることだったのです。そのように、この対になっている二つの癒しの話は、見るべきものを見ることができず、聞くべきことを聞くことができず、語るべきことを語ることのできない私たちが、主イエス・キリストによって目と耳を開かれ、語るべきことを語ることができる者とされた、つまりイザヤ書35章に預言されている救いが実現していることを語っているのです。
この後聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯にあずかることによって私たちは、主イエス・キリストが私たちの救いのために十字架にかかり、肉を裂き、血を流して死んで下さった、そのキリストの体と血とにあずかるのです。その聖餐は、洗礼を受けた者だけがあずかることができるものです。まだ洗礼を受けておられない方々には、聖餐の間、見守っていただくしかありません。しかしこの聖餐における恵みは、主イエス・キリストこそ神様の恵みと救いを具体的に与えて下さるただ一人の方であると信じ、その主イエスとの関係をかけがえのないものとして守っていく、そのような信仰告白と結びついてこそ、本当に恵みとして味わわれていくものなのです。そして主はこの聖餐へと、この礼拝に集っている全ての人を招いておられるのです。主イエスによって目と耳を開かれ、信仰告白の言葉を与えられて、ここにいる全ての人が聖餐に共にあずかる日が来ますように、心から祈り願っております。お祈りをいたします。
【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。台風10号が日本全体に大きな影響を与える中、過ぎし一週間の歩みを守り導いてくださったことを、感謝いたします。台風は熱帯低気圧に変わりそうですが、まだ大雨などの危険は去っておりません。どうか、これ以上被害が拡大することがありませんよう、あなたの守りと支えを与えていてください。今日も共に聖書の御言葉に聞くことができましたことを感謝いたします。どうか私たちに目を上げ、主イエス・キリストを見つめる信仰をお与えください。そして主を見上げて歩む中で、私たちの信仰が深められ、あなたの恵みの御業を見ることができますよう、導いていてください。まだ暑さ厳しい時が続きます。どうか、一人ひとりの心身の健康をお支えください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マルコによる福音書2章1-12節
説 教 「中風の人のいやし」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約) ヨナ書4章5-11節
(新約) ヨハネによる福音書3章16-17節
説 教 「命を惜しみ給う神の愛」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書8章1~21節 2024年8月25日 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝与えられました御言葉を聞いて、「おやっ」と思われた方も多いと思います。今朝与えられております四千人に食べ物を与える記事は、6章30節以下の五千人に食べ物を与えた記事と、ほとんど同じ出来事が記されています。人数が四千人なのか五千人なのか、パンの数が七つなのか五つなのか、残ったパン屑が七籠なのか十二籠なのか、そのような違いはありますけれど、出来事としてはほとんど同じです。どうして同じような出来事が繰り返し記されているのか。そんなことを思われて、「おやっ」と感じられたのではないかと思います。
この同じような二つの出来事が記されていることについて、ある人は、一回の出来事が伝えられているうちに、二つの違った話になったと理解します。だから、ルカとヨハネは五千人の方だけを記したと理解するわけです。しかし、本当にそうなのか。本当は二回あったけれど、同じようなことなのでルカとヨハネは一回だけを記したとも考えられるわけです。ただ、マルコとマタイは二回記しており、それには理由がある、私はそう考えます。では、それはどういう理由かと申しますと、6章にあります五千人の方はユダヤ人たちが養われたのですが、四千人の方は異邦人が養われたという出来事なのです。7章24節で、主イエスはティルスの地方に行かれたと記されています。ここは地中海沿いの異邦人が住む所です。そして、7章31節において、主イエスは「ティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」とあります。この経路は地図を開いてたどってみますと、すべて異邦人の住む所なのです。7章の24節以下、主イエスは異邦人に対して救いの御業をなさいました。そうすると、この四千人に食べ物を与えるという出来事も、異邦人に対してなされた奇跡と理解してよいのだと思います。つまりマルコは、五千人の養いに続いて四千人の養いを記すことによって、主イエスの養いの中に生かされるのはユダヤ人だけではなく、異邦人もまた主イエスの養い、神様の救いに与るのだということを示した。そのように理解することができるのです。
そして主イエスは、この大勢の人々をわずかなパンで養うという出来事を繰り返されることによって、人は神様の驚くべき御力によって養われ、生かされているのだということを、弟子たちの心に深く刻ませようとされたのでしょう。旧約において主の養いによって神の民が生かされた出来事として、私たちはマナの奇跡を思い起こすことができます。イスラエルの民は、エジプトの奴隷の状態から救い出されて約束の地にたどり着くまで40年の間荒野の旅を続けたわけですが、彼らはその間ずっと天からのマナによって養われ続けたのです。これは毎日のことですから、40年の間それが続いたということは、イスラエルの人々、神の民にとって、決して忘れることのできない出来事でした。そして、自分たちは神様の養いの中で生かされているのだということを知ることになったはずです。これは決定的に大切なことでした。神の民とは、主の養いの中で生かされていることを知る民なのです。主イエスは、このことを弟子たちにもしっかり心に刻ませるために、この不思議な出来事を繰り返されたのでしょう。逆に言えば、それほどまでに、主の養いに生かされているということは身につかない。自分の手で、自分の力で稼いで生きているのだという所から、私たちはなかなか離れられないということなのでしょう。実に、信仰に生きる、神の民として生きるということは、この主の養いというものを本気で受け取るという所に、かかっていると言ってもよいほどなのです。
洗礼を受けるために準備する人に、私は、必ず食前の祈りをするようお勧めしています。家族の中でキリスト者が自分一人だけだと、なかなか食前の祈りをするのは難しいということがあるのかもしれません。そのような人には、婦人の方ならば食事の準備をする前に祈りなさいと言います。食事というのは毎日するものですから、食前の祈りが身につけば、今日は一度も祈らなかったということはなくなるわけです。そして、この食前の祈りにおいては、必ず「神様、あなたが備えてくださったこの食事を感謝します」という一言が入るはずです。これによって、私たちは食事の度毎に、自分は主の養いの中に生かされているということを心に刻むことになります。これが本当に大切なのです。また、主の祈りを祈る者は、「我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈るわけですが、そうすると、私たちの毎日の食事は、神様がこの祈りに応えて与えてくださったものとして受け取ることになるでしょう。食事の度ごとに、私たちは神様の愛を改めて心に刻み、神様をほめたたえ、感謝するということになるのです。ここに、生き生きとした神様との交わりに生きる生活が形作られていく一歩があるのです。食前の祈りというのは、ほんとに小さな習慣です。しかし、この様な習慣を身につけていくことによって、私たちは神様との生き生きした交わりの中に生きる姿勢が整えられ、身についていくのです。
さて、11節を見ますと、「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」とあります。以前学んだ7章において、主イエスの弟子の中に食事の前に手を洗わない者がおり、それを巡ってファリサイ派の人々と主イエスは厳しい対立関係に入ってしまいました。ファリサイ派の人々にしてみれば、先祖たちから大切に伝えられてきた生活上の様々な律法を、主イエスが平気で破るというのならば、自分が本当に神様から遣わされた者であるという証拠を見せよということなのです。それが、「天からのしるしを求めた」ということです。
主イエスはこれに対して、「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と告げられました。どうして「決してしるしは与えられない」と言われたのでしょう。四千人に食事を与えたり、耳が聞こえず舌の回らない人をいやしたり、主イエスはたくさんのしるしを示されたではありませんか。それなのに「しるしは与えられない」とはどういうことなのでしょう。それは、主イエスを試そうとする人を満足させるためには、決してしるしは与えられないということなのです。ここで主イエスは「今の時代の者たちには」と言われていますが、これは主イエスが生きた二千年前の人たちには、という意味ではありません。そうではなくて、いつの時代にもいる、しるしを求める人たちのことです。何か驚くべき奇跡を起こしてくれたなら信じてもよい、そう思っている人には主イエスは決してしるしを与えないと言われたのです。いつの時代でも、主イエスは生きて働いてくださり、驚くべき業をなしてくださいます。五千人、四千人の人々を養ったような奇跡だって起こされます。しかし、それが起きたら信じようという人には、決してしるしが与えられることはないのです。
主イエスは再び舟に乗り、ガリラヤ湖を渡りました。この時、弟子たちは舟の上でパンを一つしか持ち合わせておりませんでした。主イエスの一行の食事を用意するのは、担当が決まっていたのかもしれません。その人がたまたま忘れてしまったのでしょう。その時、主イエスは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われました。これを弟子たちは何と聞いたかというと、自分たちがパンを持っていないからだ、主イエスはパンをちゃんと用意しなかった自分たちを叱っているのだと思ってしまったのです。そしてその責任をめぐって、議論し始める始末だったのです。
こんな議論をしている弟子たちに、主イエスは17~18節「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」と告げられたのです。主イエスはパンが一つしかないことを叱ったりしません。忘れることなど、よくあることなのですから。しかし、主イエスがなさった奇跡が何を意味しているのか分からない、悟らない。それ故、主イエスが誰であるのか分からない。そして、主イエスと共にいるということがどういうことなのか分からない。そのような弟子たちに「いい加減、悟りなさい」と告げられたのです。主イエスが誰であり、主イエスと共にいるということがどういうことであるのか分かるならば、それさえ分かれば、パンを一つしか持ってこなかったことについて心配して、心を乱すこともないではないか。そう言われたのです。
そして、主イエスは五千人と四千人に食事を与えた時のことを弟子たちに思い起こさせます。弟子たちはその時のことをちゃんと覚えていました。五つのパンで五千人を養った時、パン屑は十二の籠いっぱいになりました。七つのパンで四千人を養った時は、パン屑が七つの籠いっぱいになりました。弟子たちはそのことを覚えておりました。しかし、それが何を意味しているのかが分からなかったのです。それが主の養いを意味している。それ故、主イエスが共にいてくださるのならば食事の心配などいらない。大丈夫。弟子たちは、その安心の中に生きるということができなかったのです。自分たちは神様の御子と共にいる。神様が自分たちを養ってくださる。だから大丈夫。そう思えなかったのです。五千人の食事、四千人の食事、この出来事をきちんと受け止めていれば、主イエスが共におられるのだから大丈夫、その安心の中に生きることができるはずだということなのです。私たちに与えられているのも、この安心に他なりません。
では、ここで主イエスが言われたファリサイ派の人々のパン種、ヘロデのパン種とは、何を意味しているのでしょうか。ファリサイ派のパン種とは、細かな律法をすべて守って救われようとする律法主義。自分は正しくて救われるけれど、律法を守らない人、異邦人は救われないとする考え方、信仰のあり方です。このファリサイ派のパン種は、いつでもキリスト教会の中に入り込んできます。自分のことは棚に上げて、あの人はどうだ、この人はどうだと非難するのです。このファリサイ派のパン種と無縁な教会などありません。本当に気をつけなければなりません。また、ヘロデのパン種とは、洗礼者ヨハネを殺したヘロデを指しているのでしょう。自分の面目を守るために神様に遣わされた預言者を殺す、そのような人々の思いの中で、主イエスも十字架につけられることになっていくのです。これに気をつけよと言われたのです。
このファリサイ派のパン種にしてもヘロデのパン種にしても、パン種ですからほんの少し入ってくるだけで全体に影響を与えて、その色に染めていってしまう、そういう力を持ったものなのです。主イエスは、これによくよく気をつけなさいと言われたのです。キリスト教会は、その時代、その国の考え方や常識というものと無縁ではありません。いつでもその影響を受けているのです。しかし、どんな時代であっても、神様・主イエスが主なのであって、私たちは主イエスに従う者なのです。自分と主イエスの考えが同じなら従うというのではない。奇跡を見たら信じるのでもない。天地を造られた神様が与えてくださる養いの中に既に生かされているのだから、安心して主イエスと共に歩んでいけばよい。大切なのは、自分の面目を守ることでも、自分の正しさを守ることでも、自分の才覚を信じて生きることでもない。すでに主の養いの中に生かされている事実を感謝と共に受け入れる、そしてその主を心からほめたたえて、主の与えられる平安の中を生きることなのです。そのことを覚えて、ご一緒に歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを崇め礼拝することができましたことを、感謝いたします。あなたは私たち信じる者たちを、あなたの与えてくださっている恵みによって養っていてくださいます。どうか、いつもそのことを覚えさせてください。そして、あなたの豊かな恵みに養われている安心の中で、私たちも与えられている物を共に分かち合っていくことができますよう、導いてください。今週も台風の接近が予想されています。どうか、一人ひとりをそれぞれの場所で守り支えていてください。このひと言の切なるお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マルコによる福音書1章16-20節
説 教 「4人の漁師を弟子にする」山根和子長老
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)
聖 書(旧約) エレミヤ書29章4-14節
(新約) マルコによる福音書8章22-26節
説 教 「主イエスが見えるようになる」藤田浩喜牧師
ヨナ書4章1~4節 2024年8月18日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
私たちの国は8月15日(木)今年の敗戦記念日を迎えました。この時期は平和について思いめぐらすことの多い時ですが、世界情勢を見ると私たちの中にも戦争に対する不安がじわじわと高まっています。ロシアによるウクライナ侵略、パレスチナのガザに対するイスラエルの攻撃、ミャンマーやシリヤでの内戦状態など、世界の各地で戦争状態が続いています。日本においても、中国や北朝鮮に対する危機が煽られる中で、防衛予算が大幅に増額され、台湾有事に備えて沖縄周辺の島々に兵器が配備されています。「戦争へと突入していった時代と状況が似てきた」と心配する人たちもいます。
こうした状況の中で、私たちは私たちの国が戦争へと至らないために何をすればよいのでしょうか。小さな力しか持たない私たちがどうしたら平和を創り出していくことができるのでしょうか。そうした焦りにも似た思いを持っておられる方は、皆さんの中にも多いのではないかと思います。
東京新聞の8月14日(水)朝刊に『考える広場』というページがあり、今回のテーマは「我々は戦争に無力なのか」というものでした。まさに私たちが切実に思っていることですが、そこには3人の方のインタビューが掲載されていました。一人目は歴史学者の藤原辰史さんで、この方は戦争と食物の関係を研究されています。「ナチスの暴力といえば600万人が犠牲になったホロコーストを想起するが、ナチスの食糧戦略で東欧では400万~700万人が餓死したと言われています。…またイスラエルは2007年からガザを完全封鎖し、今回の侵略では100万人以上が飢餓の危機にあると言われています。」イスラエルの攻撃によって4万人以上が亡くなったと報道されていますが、それとは別に食料を入れない戦略によって、比較にならない多くのガザの人々を死へと追いやろうとしているのです。そして、藤原さんは最後に私たち日本人への問題提起も忘れてはいません。かつてのナチスも現在のイスラエルも、「飢えてもいい人」がいると考えているのではないか。しかし日本人はどうであろう。「11人に一人が飢餓に直面する世界に暮らしながら、大量に食品を廃棄する消費生活を平気で続ける私たちの中にも、そうした考え方が根付いているのではないか。人を人として見ているのか。」そのように問うておられるのです。
時間の関係で3人のうちもう一人だけ紹介しましょう。この方は自分の居場所からイスラエルのパレスチナ侵略に抗議している東大農学部3年生の八十島士希(やそじましき)さんです。八十島さんはイスラエル大使館への抗議デモなどに参加しましたが、持続的で地に足がついた運動が必要だと感じるようになりました。そんな時、アメリカの大学で大規模な連帯キャンプが行われていることを知りました。学生たちが大学内にテントを張って、イスラエルを投資先とする資金運用の中止などを大学に要求して抗議し、多くの学生が警察に拘束されていたのです。それを知って八十島さんは、いても立ってもいられなくなりました。東大の芝生広場にテントを張り、パレスチナの旗を掲げて寝泊まりするようになったのです。東大には、侵略で居場所を失った現地の研究者や学生の受け入れ、イスラエル企業と協力する日本企業との契約中止を求めていますが、聞き入れられてはいません。しかし、東大内外からキャンプに加わる学生たちが起こされ、テントには24時間誰かがいる体制を維持しています。教員の中にも差し入れをしてくれる人がいるそうです。自分の居場所での小さな運動ですが、東大のキャンパスを訪れた在日パレスチナ人からは、「元気づけられます。ありがとう」との言葉をもらい、活動の意義を実感したそうです。そして八十島さんも、私たち日本人がガザへの侵略に対して無力ではないことを、次のように述べているのです。「日本から縁遠いと感じる中東ですが、侵略国家と僕たち日本の市民は、企業や大学などを通じてつながっている。虐殺への加担をやめるよう、多くの人々が自分の居場所から訴えれば、平和への大きな力になると信じています。」平和への取り組みは、私たちと現代の戦争とのつながりを意識することから始まるということなのでしょう。
さて、今日読んでいただいた個所は、ヨナ書4章1~4節です。4章1節に「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った」と書いてあります。ヨナの怒りの理由はどこにあるのでしょうか? それは神さまがニネベの町を滅ぼさなかったからだと書いてあります。ヨナは「あと40日したらニネベの町は滅びる。あと39日したら、あと38日したら」と、毎日毎日40日間言い続けてきました。それなのに神さまは、最後のところで「滅ぼさない」と言われたのです。ですからヨナは怒りました。ヨナは、これは不公平だと思ったに違いありません。「あの人たちは悪い人間だ。罪を犯し、神に逆らっている人たちではないか。自分たちイスラエルの民を圧迫し、支配してきたではないか」と怒るのです。
しかし他方でヨナは、主なる神さまがこうなさるのではないかと、予想していました。今日の4章2節後半以下で、彼はこう告白してもいるのです。「わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐みの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」このヨナの告白は、旧約聖書の中で最も偉大な言葉の一つであると言われています。預言者ヨナは自分が信じている神様が、恵みと憐みの神であることを知っていました。たとえ神さまに背き、神さまの前に大きな罪を犯しても、自分の罪を認め、心から悔い改めるならば、それを赦される御方であることを知っていました。神さまは罰を下して滅ぼすことを願うのではありません。罪を認め悔い改め、自分に立ち返ることを何よりも願っておられます。ヨナはアッシリアのニネベに行くように命じられた時から、このことがうすうす分かっていました。自分の信じる神さまが「災いをくだそうとしても思い直される方である」と知っていました。それだからこそ、ヨナはニネベとは正反対のタルシュシュに行き、神さまの使命から逃れようとしたのです。
しかし、神さまは海に投げ込まれたヨナを大魚に吞み込ませ、ニネベまで運ばれました。そして神さまが命じられたように、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫んで呼ばわると、ニネベの王を初めとして、ニネベ中の人たちが
悔い改めました。すると、ヨナが恐れていたように恵みと憐みの神さまは、宣告していた災いを下すことを止められたのです。
ヨナは大きなジレンマの中に立たされていました。人間的に考えればアッシリアは神の民を武力によって蹂躙し、神の民に苦しみを与えた張本人です。憎んでも憎み足りない敵です。しかし、自分たちの信じる神さまは愛と憐みの神さまであり、「災いをくだそうとしても思い直される方である」と知っている。そのようなどうしようもないジレンマの中で、ヨナは苦しみのあまり死を願うのです。「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」(4:3)。しかし神さまはヨナに問われます。「お前は怒るが、それは正しいことか。」神さまは、人間が悲しみや憎しみをどうしても抱いてしまうことをご存じです。痛みや苦しみを与えた相手に、復讐せずにはおれない人間の心を知らない御方ではありません。しかし、それでもなお、自分の人間的な思いに縛られるのではなく、神さまの御業に目を注ぐように促されるのです。
詩編18編31~35節に、このように言われています。「神の道は完全。主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を完全にし、わたしの足を鹿のように速くし、高い所に立たせ、手に戦いの技を教え、腕に青銅の弓を弾く力を帯びさせてくださる。」私たちの信じる神さまは、神の道を歩んでいく者を思いも寄らない仕方で導き、私たちの道を完全にしてくださるというのです。
この夏、城内康伸(しろうちやすのぶ)という人の書いた『奪還―日本人難民6万人を救った男』(新潮社)という本を読みました。私は不勉強にして知らなかったのですが、日本が太平洋戦争で敗北した時、朝鮮半島にはたくさんの日本人が残されていました。日本は朝鮮を植民地支配していたので、たくさんの日本人が生活していたのです。しかし敗戦と同時に、朝鮮半島の北側はソビエト連邦の支配下に、南側はアメリカ合衆国の支配下に置かれました。アメリカは南部にいた日本人を早急に日本に帰還させる政策を取りましたが、ソビエト連邦が支配する北部はそうではありませんでした。北部の指定した場所に集団で移住させ、ソ連兵や朝鮮当局の管理下に置きました。シベリアに抑留される人もいました。食べる物も満足になく、伝染病に見舞われる中で、多くの日本人が生存の危機に立たされていました。しかしそうした中、松村義士男(まつむらぎしお)という人が時間も資金もない中で、同志の人たちと力を合わせ知恵を尽くして、6万人もの日本人を日本に帰還させることに成功したのです。
この松村義士男さんは、戦争前は共産主義者として活動した人でした。危険人物として投獄されたこともありました。しかし、敗戦時に朝鮮半島にいた松村義士男さんは、ロシア語や朝鮮語を流暢に話すことができました。また、共産主義者であったことが、ソビエト連邦や朝鮮の要人たちと交渉をする際に、大いに役立つことになりました。たいへん肝の据わった人物でもあったようです。かつて共産主義者として迫害されたことを根に持つこともなく、同胞日本人を救わんとする人間愛のゆえに、この奪還事業を最後までやり遂げました。かつてマイナスであった共産主義者としての身分が、思いがけないプラスとして大きく用いられました。普遍的な人間愛が思いもよらない奇跡のような出来事を引き起こしたのではないかと、わたしには思われたのです。
もう一つ先々週の8日(木)~9日(金)休暇の最中でしたが、東京中会ヤスクニ・社会問題委員会が主催する「福島フィールドワーク」に百合子と一緒に参加しました。この企画は2011年に起こった東日本大震災による福島第一原発の事故によって多大な被害を被った、福島県の浪江町の今の状況について学び、実際に出かけてフィールドワークをしようというものでした。8日(木)にはこの課題に長年取り組んでおられる日本バプテスト連盟 福島主のあしあとキリスト教会牧師 大島博幸先生から講演を聞き、翌日9日(金)は大島先生のご案内で主に浪江町の震災遺構や最近できた東日本大震災・原子力災害伝承館を見学することができました。また機会があれば皆さんにも報告したいと思います。
ところで、8日(木)の大島博幸先生の講演で、先生はルカによる福音書10章25~37節の「善いサマリア人」のたとえを引いて、自分がなぜ13年も経過した今日、原発被災地の人々に関わっているのかを話されました。復興、復興の掛け声の中で、大部分の人は原発事故を過ぎ去った出来事のように生活している。それも止むを得ない面がある。しかし、自分は傷つき倒れた人を中心にして隣人をというものを考えたいと思う。今だ原発事故のために不自由な生活をしている人たちがいる。放射線の被害に不安をぬぐえないお母さんたちがいる。それは「小さな声」かもしれない。けれどもそのような「小さな声」に寄り添い、その人たちと共に歩んでいくことが、主イエスの問いに答えることではないか。「だれがその人の隣人になったか」という問いに答えることなのではないか。私は大島先生のお話を聞きながら、本当にそうだと思わされました。そして「小さな声」に寄り添うことを、キリスト教会は、そして私たちは忘れてはならないと強く思わされたのです。
よく言われることですが、平和というのは「単に戦争状態のない状態」を指すのではありません。私たちの生きている社会において、人権が尊重され、言論の自由を初めとする様々な自由が保障されている状態を言います。人が人として重んじられ、互いの尊厳が尊重されなければ平和とは言えません。人権や自由が抑圧されている社会は、いつしか戦争を正当化する社会に転落してしまします。そうならないためにも、私たちはこの世界で起こっていることが、私たちの日常と地続きであることを認識しなくてはなりません。そして安易な現実論に取り込まれるのではなく、何が私たちの主イエス・キリストが願い給うことかを、聞き続けていかなくてはならないのです。「あなたは、恵みと憐みの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」この神さまのなさり方と御心にこそ、真実の平和への道が存在することを信じて、歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。台風7号が接近する中で、私たちを守り支えてくださったことを、感謝いたします。8月は戦争と平和について、とりわけ思いを深くするときです。主イエスは「平和を実現する人は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われました。その御言葉の意味を深く尋ね求め、思いめぐらす時を、私たちに過ごさせてください。相変わらず猛暑の日々が続きます。どうか、兄弟姉妹一人ひとりの心身の健康をお支えください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 歴代誌上29章10-11節
説 教 「主の祈り④ 頌栄、アーメン」 藤田百合子
午前10時30分 司式 山根和子長老
聖 書
(旧約) 申命記8章2-10節
(新約) マルコによる福音書8章1-13節
説 教 「主が与えるものを分け合う」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書6章11-13節
説 教 「主の祈り③ 日用の糧、罪のゆるし、試み」 高橋加代子
午前10時30分 司式 三宅恵子長老
聖 書
(旧約) ヨナ書4章1-4節
(新約) エフェソの信徒への手紙4章25-27節
説 教 「神の道、神の御業は完全」 藤田浩喜牧師
マタイによる福音書20章1−15節 2024年8月11日(日) 主日礼拝説教
長老 三宅恵子
皆様おはようございます。今朝与えられましたメッセージは、マタイによる福音書20章1節から16節のぶどう園に雇われていく労働者のたとえの話です。ただいま読んでいただいたこの話は、昔のことになりますが、当時、私が思ったようには単純な話でなかったようで、今回のお説教のご奉仕でもない限り、分からないまま、有耶無耶になったままの状態で私の中でとり残されたものになったことでしょう。今回、学び直して初めて分かったこともありますので、そのお話もしたいと思っています。
藤田先生から勧められました聖書講解書には一番最初に、この例え話はよく誤解されている。と書かれています。よく誤解されているのは、どこのところなのかを問いかけていくだけでも、何かが分かるかもしれないと、良い方に考えてお話を進めていきたいと思います。この一連のお話の中では、明らかにぶどう園の主人の態度が不正なのではないだろうか、そして、最初から働いていた者たちがあとから来た者たちと同じ1タラントンしか貰えないことに憤慨するのも当然ではないだろうか。という意味で、このたとえは、誤解されていると言われています。そうだそうだと思われた方も、いやそんなことじゃないんだよ、と思われた方もいらっしゃるのではないかと思いますが、まずは、私がその昔、どのように間違って捉えたのかをお話したいと思います。
25年くらい前、私は、「天の国は次のようにたとえられる。」というはじめの文章を読んで、単純に、天国はどんなところなのかを知りたいと思ったのです。そして、ここに書かれているように、あるぶどう園の主人が、農園で働く労働者を雇うために夜明けから始まって、9時ごろ、12時ごろ、3時ごろ、そして5時ごろと何度も出かけていって、何もしないで広場に立っている人々に賃金を払ってやるから、ぶどう園で働きなさいと誘う状況を想像してみました。
ぶどう園の主人は、1日分の賃金である 1デナリオンを約束しながら、それぞれの時間にその場に立っている人々を 誘い続けるのですが、流石に、午後になると、そこにいる人々は、今日の分の収入はないのではないか、と諦めながら立ち続けていたことでしょう。そこに、1日分の賃金である1デナリオンを約束しながら、人々を雇い続けていくこの雇い主である人は、本当に、神様に見えます。
「なぜ、何もしないで1日中ここに立っているのか」と尋ねられ、「誰も雇ってくれないのです」と答えている人々は、誰からも雇ってもらえない心細さを抱えてその場に立ち続けるしかなかった人々でした。理由はいろいろあるでしょう。家庭の事情で出遅れたのかもしれませんし、病気だったかもしれません、もしかしたら、立っていたにもかかわらず、何かのタイミングで 気づいて貰えないまま、ずっと立ち続けていたのかもしれません。わたしは、この時多分、自分自身をこの遅く雇われた人々と重ね合わせていたのだと思います。ですから、この遅くまで労働者を雇い入れるために、何度も辛抱強く足を運んでくれたぶどう園の主人に、感謝をしながら、なるほど、これは、このぶどう園は天国のようなもので、主人は神様だなぁと自分の中で納得したのです。農作物の収穫は、その収穫時期に合わせて一気にやってしまわなければなりません。しかし、このときの労働者の雇用は、ぶどうの収穫のための労働力の確保 というよりも、労働者の救済が目的のようです。私なりに天国というもののアウトラインが出来たように思えました。そして、それを、遊びに来ていた友人と夫に嬉々として話したのでした。
その時の友人の返事はとても、衝撃的で、今でも鮮明に覚えていますし、今回説教題としてもう一度考えてみたいと思ったきっかけとなりました。
その時の友人の返事は、遅く出かけて行ったにもかかわらず、雇われると言うような、そういう事態は考えられないというのです。彼女が、明日という日に、仕事を得ようとするならば、自分なら、前の日から準備をして、約束の時間より早く現地に着き、そして試験なり、面接なりを受けて、やっとそこで雇われるのであって、時間にも間に合わないように出かけていって、求職活動をするなどというのはもう、問題外だと言うのです。
彼女の言っていることは、素晴らしく常識的で、なんの問題もありません。むしろ、私は、どこで自分が間違えてしまったのかと思ったくらいでした。言葉が足りなかったのか、十分に言いたいことの説明をすることが出来なかったのか、とにかく、私の思いは二人には、伝わらなかったのです。その時、私には、彼女の言わんとするところが分かりました。それは、慣れ親しんだこの世のルールだからです。
しかし、彼女には、私の言いたいことは分かってもらえないだろうなということも理解できました。この世で生きている私達は、この世のルールに従って生きています。ですから、このように不確実な天国の話を、分かってもらうのは、これはどう考えても私の方が不利で、納得してもらうための説明責任はわたしの方にあります。
このぶどう園の話は、あまりに私達の生きてきた方向性に逆らうものです。誤解を恐れず言うならば、私達は天国とは全く違う方向に促され、追い立てられて生きているのです。冒頭に申し上げました聖書講解書の言葉、「この例え話はよく誤解されている」という意味がよくわかります。
例え話の中心は、15節に見られる<わたしが気前よくしているのでねたましく思うのか>という点です。この話は、ぶどう園の主人が神ご自身であり、すべてわたしたちが受けるものは、神の恵みによって受けているのだから、その神のみ前に当然要求できる報酬、というようなものはない、という点からのみ理解されます。
神からの召しに応じて、自分自身の状況や心境にかかわらず、感謝とともに応答の生活に入っていくことは、まずは大事なスタートでしょう。洗礼が目的地、目標ではなくスタートだと言われる所以です。そこから始まる信仰の旅路だと言ってもいいのではないかと思います。問題は、その後のことだと、例え話はぶどう園の主人の言葉を借りて言っています。報酬である1デナリオンは、すべての人が生きていくうえで必要な恵みです。神による救いには、区別や差別がありません。何時から働き始めようと、1日に必要な金額は一緒なのです。働いた時間に合わせてもらう時間給とは、違うのです。未明から働こうが、5時から働こうが、私達一人ひとりにとって、1デナリオンは、本当に命を長らえるために必要な金額なのです。天国の営みは、私達の地上のやり方とは違います。 本当は、その恵みに値しないにも関わらず、救い主である、イエスキリストの尊い十字架の犠牲の上に成り立っている、申し訳ないような恵みなのです。
信仰生活において、私は、そしてわたしたちは、神の恵みに対して怠惰に、傲慢になっていないだろうかと振り返ってみる必要があります。例え話の中核は、自らに奢っているパリサイ人たちと同様、自分たちこそ一番最初からの働き人だと誇っている弟子たちにもあてて語られています。
そうであるならば、わたしたちは尚更そっと、自分を精査し、吟味する必要があるのではないでしょうか。当然のものとして貰える恵みなどは、ないのです。早くから来て働いていたからと言って、当然のものとして受け取る、1タラントンという、1日を生きていくのに必要な恵みは、私達にはないのです。神の恵みの点から申しますと、この世のルールでは、権利である報酬は、天国においては報酬ではなく恵みであり、なんの代償もなく得られてしまった贈り物であります。すべての人に与えられる、生きていくために必要な1タラントンの恵みは、ただただ主イエス・キリストの尊い十字架の贖いの業の上に、贖われたものなのだ、ということです。
そして、私達が今持っている強みと弱みは、すでにこの恵みの生活に入れられているということではないかと思います。すでにぶどう園という天国の仲間に入れられているということではありますが、それ故に、1タラントンの恵みを当然の報酬と考える際どさです。そこには主イエス・キリストの贖いの十字架はありません。
ルカによる福音書の15章1節から7節に「見失った羊のたとえ」というお話があります。「見失った1匹の羊を探すために、99匹の羊を野原に残して、その1匹の見失った羊を探さないだろうか?」という、イエス様の問いかけです。
みなさんは、このお話をどう思われたでしょうか?初めて、この99匹の羊の話を読んだときのことを、思い出してみてください。私はと言いますと、「残された99匹の羊はいったいどうなるんだろう。」と思ったことを覚えています。この話は、迷いだして、迷子になった1匹の羊が、自分自身であると認識しなければ、理解できないところにあります。
自分の立場を、99匹の羊の中に置いたままで考えますと、福音の意味、救いの御業のありようが分からないということになってしまいます。今は、ありがたいお話だと思っていますが、当時の私はといいますと、自分が迷い出した1匹の羊だとは全く思っていませんでした。ぶどう園の労働者と同様に、神様の支配しておられる天国においては、当然貰うべき報酬や、迷って命が危険に晒されている時に、探し出して貰える権利、というようなものは存在しません。其れはひとえに、ただ「神の恵み」、と言うものであります。
主イエス・キリストは、わたしたちが理解しやすいように例え話でお話されたとあります。しかし、必ずしも例え話が分かりやすいとは限らないことは、今日のたとえの箇所をみてもわかります。文化や風習、当時のイエス様が暮らした環境など考えますと、現代の日本という国に暮らしているわたしたちにとって必ずしも、例え話だからといって、イエス様のお生まれになった頃のたとえが分かりやすいとは言えません。でも、考えるための糸口になります。受ける側の私達の性別や年齢、その話を読むときの、その人の経験や状態などが、密接に関わってくるでしょう。
そういう意味で、私達は、聖書を通して、今、この時の自分の思いや感情や立場を、聖書の中で働かれている主イエス・キリストの聖霊を信じて、そのイエス様に自分自身の思いを託し、繰り広げられる聖書の中のお話をその時その時に理解していいのではないかと思うのです。
失敗しても、誤解したままでも、そのうち、時が巡れば、かならず、その時が来て、必要となった時に、理解させて頂けるのだ、ということで、よいのではないかと思うのです。主イエス・キリストと共にあることで、豊かになっていく人生や思いや生活が、さらに豊かなものとなっていくことを願い、人生という旅の中で、わたしたちが、何かが本当に必要になった時には、私達の救い主である、主イエス・キリストは、わたしたちが理解している以上のものを、教会や兄弟姉妹の交わりを通して、聖書や、聖霊の助けを通して、私達に、神の恵みとして豊かに与えてくださると信じます。お祈りします。
<お祈り>
私達の主、イエス・キリストの父なる神様
今朝は、このような形で兄弟姉妹とともに、あなたの礼拝に参加することを許され感謝いたします。教会の交わりの中で、より深く聖書を識ることが出来ますことに感謝いたします。聖霊の助けにより、正しく御言葉を識るものとしてくださり、識ることにより、神様と隣人を愛するものに、御心を訪ね求めることにより、平和を作るものにしてください。人と世界に、希望を見つけることができずにいる今という時代に、主イエス・キリストの十字架を想い、絶望することなく、日々新たにして、感謝を持って生きる者としてください。これらの感謝と願いを尊い主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書6章9-10節
説 教 「主の祈り② 御名、御国、御心」 三宅光
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) コヘレトの言葉3章1-15節
(新約) マタイよる福音書20章1-16節
説 教 「天の国のたとえ」 三宅恵子長老