次週の礼拝   1月26日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    マタイによる福音書7章7-12節

説  教   「人にしてもらいたいことは、人にしなさい」 藤田百合子

主日礼拝    

午前10時30分    司式 山根和子長老

聖     書

  (旧約) 詩編124編1-8節  

  (新約) ヨハネによる福音書2章1-12節

説  教  「水を運ぶという人生」  藤田浩喜牧師

柔らかな心に生きる

マルコによる福音書10章13~16節 2025年1月12日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 主イエスとその一行は、エルサレムを目指して旅を続けられていましたが、その途中ペレヤ地方に入って行かれました。そこでも主イエスは、集まって来る人々に神の国の福音を宣べ伝えられました。また助けを求める多くの人たちのために、力ある業をなさっておられました。

 その時のことです。主「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た」のです。「人々」とあるのは、子どもたちの親かあるいは親戚であったでしょう。「子供たち」というのは、幅広い年齢を指す言葉ですが、ルカによる福音書の並行個所には「乳飲み子までも」とあるので、乳児か幼児ぐらいの子どもたちであったのでしょう。

 いつの時代も親は、子どもたちの将来に「幸(さち)多かれ」と祈ります。そして子どもたちの将来を少しでも不安のない確かなものとするために、寺社仏閣に詣でたり、徳の高い宗教者から祝福を受けたりすることを願います。それは主イエスの時代も同じであり、親たちは偉大なお方である主イエスが来られたと聞いて、自分の子どもたちを主のもとに連れてきたのです。

 ところが、主イエスの「弟子たちはこの人々を叱った」とあります。手をおいてもらおうと子どもたちを連れてきた親たちを、厳しく叱責したのです。それはなぜであったでしょう。主イエスはこの地においても、多忙を極めておられました。集まって来る群衆に神の国の福音を宣べ伝え、主に助けを求める大勢の人々に癒しの業をなさっておられました。弟子たちはそのような主イエスを、子どものことで煩わせてはいけないと思って、叱責したのかも知れません。

 あるいは弟子たちは、自己本位な御利益だけを求める親たちの姿を許しがたいと思ったのかも知れません。子どもたちを連れてきた親たちは、神の国の福音を聞こうとやって来たのではありませんでした。主イエスに救いを求めて、ここに来たわけではありませんでした。自分の子どもに少しでも主イエスの御利益があるように、それだけを求めてやって来ました。弟子たちはそのような親たちが、主イエスを真剣に求める人たちへの伝道には邪魔になるだけだと考えて、彼らを押し止めようとしたのではないでしょうか。弟子たちなりの配慮と真剣さからそうしたのではないかと思うのです。

 ところが、主イエスはどうなさったでしょう。14節にはこのようにあります。「しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』」主イエスは、親たちではなく、弟子たちに対して「憤られた」と言うのです。この「憤られた」という言葉は、マタイやルカの並行個所には見られず、マルコだけに使われている言葉です。弟子たちなりの配慮や真剣さを考えると、主イエスが急に「憤られた」というのは、奇異な感じすらします。しかし、「憤られた」ということの中に、主イエスの断じて譲ることのできない御心が、強く表わされているように思うのです。

 主イエスは、「神の国はこのような者たちのものである」と言われています。これは、神の国にはだれが招かれているかという問いに、置き換えることができます。「神の国には、子どもたちのような者たちが招かれている」と言うのです。

 子どもたちは、いつの時代にも親にとっては欠けがいのない存在です。しかし社会の中では、本当には大切にされていません。大人中心の社会の中では、たえず周辺に置かれ、軽んじられているのではないでしょうか。 ゲーム機やケイタイ、サブスクの購買者として、あるいは子育てや教育に関わる様々なサービスの対象としては、大事にされているかも知れません。大事なお客さんです。しかし、大人社会の勝手な都合や利害によって、利用され搾取される存在であるのです。

 今日の弟子たちにとっても、子どもたちは神の国、神の救いからいちばん遠い存在であったに違いありません。弟子たちはメシアである主イエスに仕える自分たちが、神の国にいちばん近いと考えていました。その彼らの外には、主イエスに救いを求めて集まって来た群衆がいる。その外には自分の救いには無関心で子どもの御利益のためだけに集まって来ている親たちがいる。そして何も分からず、ただ連れてこられた子どもたちは、神の国から最も遠いところにいるというのが、弟子たちの認識だったのではないでしょうか。

 しかし主イエスは、最も遠くにあると思われていた者、周辺に追いやられていた者、子どもたちのような者たちが、神の国には招かれていると言われています。神は誰よりも先に、それらの者を御国へと招かれます。それはクリスマスのメッセージでした。神が真っ先に招いておられる者たちを、人間が自分の思慮や判断で妨げてはならない。神の御心を妨げてはならない。主イエスは、彼らのしようとしたことが、神の御心を妨げることであったがゆえに、「憤られた」のです。

かつてフィリポ・カイザリアで、受難予告をされた主イエスを、弟子のペトロがいさめようとしたことがありました。そのとき主イエスは、「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロを厳しく叱責されました。それと同じような憤りを、ここにも見る思いがするのです。また主イエスは、徴税人や罪人と食事を共にしていたとき、それを批判するファリサイ派の人たちに対して、こう言われました。「『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マタイ9章12~13節)。救いから最も遠いと見なされていた者、周辺に押しやられている者が真っ先に招かれている。それゆえに主イエスは、「妨げてはならない!」と厳しく言われたのです。

 しかし、どうして主イエスは、そのように断言されたのでしょう。なぜ、救いから最も遠いと見なされていた者、周辺に押しやられている者が、真っ先に神の国に招かれているのでしょう。主イエスは、私たちの疑問に答えるかのように、次のように言われるのです。15節「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」主イエスは、神の国に入ることのできる要件は「子供のようになること」だ、と教えておられるのです。

 そこではもちろん、子ども、特に幼な子のもつ純真さとか汚れのなさとかが言われているのではありません。子どもと関わった経験のある人なら、だれでも知っているように、子どもはいつも純真であるわけではなく、汚れがないわけでもありません。そうではなく、ここでは親や世話をしてくれる大人にすべてを委ねきっている子どもたちのあり方に、光が当てられています。幼い子どもは、本能的と言ってもよいほど、親に頼り切っていいます。そして頼り切っているがゆえに、安心しきって、今日という日を力いっぱい生きています。そのような子どもたちの有り様が、私たちのお手本なのです。この子どもたちのように、父なる神にすべてを委ねきっていることが、神の国に入ることの要件なのです。

 幼稚園の子どもたちなどを見ていると感じますが、小さい子どもにとっては、親ほど大切な存在はありません。幼稚園では、先生たちがお母さん代わりです。お母さんやお父さんが大好きで、お母さん、お父さんに頼りきっているのです。子どもたちは、そんな大好きなお母さん、お父さんには、いつも注目していてほしい、見ていてほしいと考えます。そのため親にとって望ましいことをして褒められると、その褒められた行動を何度でも繰り返して、いつの間にか身に付けてしまうのです。他方、親にとって望ましくないことをして叱られても、親が叱るという仕方で注目してくれることが分かると、それを何度でも繰り返すのです。親は子どもが望ましい行動をとったときには、積極的に注目を与えてやるべきなのに、案外褒めることもせずにやり過ごしています。一方、子どもが望ましくない行動をとったときには、その行動を無視するべきなのに、叱る、怒るということを繰り返して、かえって子どもに注目を与えすぎてしまいます。その結果、子どもは望ましくない行動をすることで、親から注目してもらえることが分かっているで、望ましくない行動を繰り返してしまうのです。たとえ叱られたり、怒られたりしても、それでもいいから、大好きな親に注目してもらいたいと願うのが、小さな子どもなのです。親からまったく顧みなれないこと以上に、辛いことはありません。そのようなことから考えても、小さな子どもがいかに親に頼りきっているかが、痛いほどに分かるのです。

 考えてみると、世の人々から救いに遠いと思われていた人々、すなわち徴税人、遊女、罪人といった人たちは、この幼な子のような切実さで、父なる神さまに依り頼んでいたのではないでしょうか。彼らはこの次の箇所に出てくる富める青年のように、自分の正しさや功績に頼ることはできませんでした。この人たちは、主イエスの語る福音を聞き、主が罪にあえぐ自分たちのところに医者として来られたということを、驚きと喜びをもって聞き取ったに違いありません。そんな彼らにとって、父なる神さまに依り頼むことが、彼らを支えてくれるすべてでした。彼らは神さまに依り頼む以外に、自分たちが生きていく道はないことを知っていいました。それはまさに「幼な子」のもつ切実さでした。けれども、そのような切実さの故に、彼らは神の国に入る資格を得ていたのです。

 今日の個所で主イエスの弟子たちは、人々が子どもたちを主のもとに連れてくるのを叱った、妨げようとしました。それは弟子たちが、利己的な御利益を求める親たちを福音宣教の妨げになると考えたからです。人は自分の功績や敬虔さを積み重ねていくことによって、つまり自分の立派さによって、神の御国へと近づいて行かなくてはならないと、考えていたからだと思うのです。

 しかし、彼らは最後まで主イエスに従って行くことができたかというと、そうではありませんでした。主イエスのいちばん近くにあることを自負していた弟子が、主イエスがユダヤの官憲に逮捕され、十字架に付けられることが分かると、主イエスを見捨てて逃げ去りました。「命を捨てることになっても、あなたに従っていきます」と豪語したペトロさえ、3度も主イエスを知らないと否定しました。弟子たちは主イエスを裏切りました。彼らは主イエスに近い者であるどころか、弟子と呼ばれる資格すら失ってしまったのです。

 しかし、十字架の死から復活された主イエスは、もう一度彼らを、ご自分のもとに招かれました。復活された主イエスは、彼らの罪を赦し、再び弟子として立たせ、神の国の福音を宣べ伝えさせるために、彼らを派遣したのです。弟子たちそのような挫折と再生の経験をして、主イエスが今日の個所でおっしゃっていることの本当の意味が、分かったのではないでしょうか。

主は、「子どもたちをわたしのところに来させなさい、妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃいました。それは、私たち人間のだれもが、幼な子のような者でしかあり得ないからなのです。自らの力や立派さで、神の国に至ることはできません。何もできない無力さの中で、主イエスに依り頼み、招いていただくことによってしか、神の国にはいることはできないからです。主の憐れみと赦しの中でのみ、神の御国に入ることができるからです。主イエスは今日の個所で、まさに私たちのような者を招こうとされて、「妨げてはならない」と憤ってくださったのです。今日の聖書で、招かれ、抱き上げられ、手をおいて祝福していただいた幼な子は、実は私たち自身の姿なのです。

主イエスのそのような恵みと憐れみを覚えて、そして私たちを御国に招くためにご自身を十字架に捧げられた主の深い愛を覚えて、今日から始まる新しい一週間を歩んでいきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心より讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に、対面とオンラインで礼拝を守ることができ、感謝いたします。今日は主のもとに子どもたちが来るのを妨げた弟子たちに、主イエスが憤られたという箇所を学びました。主が憤られたということの中に、子どものように神の国を受け入れる者を、何としてでも招こうとされる主イエスの強い思いを知らされました。どうか、私たちも子どものように、神さまにすべてをゆだねて依り頼む者となることができますよう、私たちを導いていてください。群れの中には病床にある者、高齢ゆえに様々な労苦を抱えている者、人生の試練に立たされている者がおります。どうか、あなたが共にいまして、その御手をもって一人ひとりを支えていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  1月19日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    マタイによる福音書6章25-34節

説  教   「思い悩むな」  高橋加代子

主日礼拝    

午前10時30分   司式 三宅恵子長老

聖     書

  (旧約) 創世記18章9-15節  

  (新約) マルコによる福音書10章17-22節

説  教 「キリストのまなざしの中で」  藤田浩喜牧師

神の確かな導きを信じて

マタイによる福音書2章13~23節 2025年1月5日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 クリスマスの恵みの時を過ごし、今2025年最初の礼拝を守っています。ここにおられるお一人おひとりが、新たな思いをもって、このときを迎えておられることでしょう。そうした中で、わたしたちは今日、御子イエス・キリストの誕生後の出来事についてご一緒に学びたいと思います。

 クリスマス礼拝においては、マタイによる福音書2章1~12節から御子イエス・キリストの誕生に際して、本来そのことを喜ぶべきユダヤの人々、エルサレムの人々には何の喜びもなく、ただ、異邦の世界の占星術の学者のみが、御子に礼拝をささげ、大きな喜びを示した、ということを知りました。それによって、イエス・キリストが、ユダヤの国という限られた所においてだけでなく、全世界において崇められるべき真の救い主であり、王である、ということが明らかに示されました。

 このように、マタイによる福音書は、ルカによる福音書のように、喜びという色彩で御子キリストの誕生の物語を記すことはしていません。唯一、学者たちの喜びが記されているだけです。これは、何を意味しているのでしょうか。ベツレヘムへの旅、家畜小屋での誕生、ゆりかご代わりの飼葉おけ、あとで学ぶエジプトへの避難、ガリラヤのナザレでの滞在、その一つひとつが赤子の誕生と幼子の成長にとって、大変な困難と危険を伴うものであったことは、誰の目にも明らかなことです。

 神の御子であり、世界の人々を救う働きをなさるお方が、なぜに、これほどの苦悩を誕生のときから味わわねばならなかったのか。ほとんどの人々が、そのような問いを抱くのではないでしょうか。最初のクリスマスの出来事には、喜びや明るさももちろんありますけれども、特にマタイ福音書においては悲しみや暗さの方がより前面に出ているということが、わたしたちがもつ偽わらざる印象です。

 この暗さの中に、わたしたちは、少なくとも二つのことを見ることができるように思います。その一つは、わたしたち人間の主イエスに対する拒絶ということです。自分自身をすべてのものの主(あるじ)としたがる人間にとって、真の主としてご自身を表されるイエス・キリストに対する激しい拒否が、もう既に幼子イエスに対して投げつけられているということです。エルサレムの人々や律法学者・祭司長たちのイエスに対する無関心も、ユダヤの王として君臨していたヘロデ王の恐怖と殺意も、それはわたしたち自身が、生まれながらに持っている神の御業への拒絶を表しているものである、ということなのです。したがってわたしたちは、彼らの主イエスに対する冷淡で、憎悪に満ちた反応は、わたしたち自身も持っているのだ、ということを知らなければならないでありましょう。

 もう一つのことは、イエス・キリストの誕生と成長の初期における苦しみの中に、既に主イエスの十字架の苦難の予兆が表れている、ということです。幼子イエスが受けた苦しみは、やがて成長して十字架の上で受ける苦しみと死の予兆です。御子キリストが、人類の罪を担って、十字架の上で贖いの業を成しとげられるということが、既に御子の誕生とその後の成長における苦しみという形で示されているのです。マタイはそのことを明らかにしようとしています。

 神は、あえてそのような中に、御子キリストを生まれさせ給いました。ここに、罪人すべてに向けられた神の救いのご意志を読みとることができます。主イエスの飼い葉おけの上に既に十字架の影が射している、といわれるのは、そういう意味においてなのです。したがってクリスマスを祝うということは、わたしたちがキリストと共に苦難を担うとの決意が伴ってこそ意義がある、ということになるのです。このように、御子の苦悩には、単に当時そういう状況であったということではなくて、むしろ、神のご意図が隠されていることを、読みとることが求められているのです。

 ところで、御子キリストを拒絶したのは、当時のユダヤ人であり、また、その中に、わたしたち自身の主イエスに対する姿勢が示唆されていることを見たのですが、それを典型的に表したのがヘロデ王でした。このヘロデ王は、日曜学校の生徒たちが聖誕劇をやるときなどには、やり手がいなくて困ることがあるほどに、悪役のイメージが強い人物です。確かにそのとおりの人物であったのでしょうが、この人物の中に表されている罪を、わたしたちは自分の中にもあるものとして重ねて考察するということは、大切なことがらであるように思います。

 ヘロデは一体何をしたのでしょうか。よくご承知のとおり、学者たちがユダヤ人の王として生まれたイエスを確かめたあと、ヘロデのもとに立寄るように命じたのに、それを裏切ったことを知って(12節)、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(16節)のです。幼児虐殺という残忍行為の首謀者がヘロデでした。それだけでなく彼は、身内の者や我が子をも、自分の地位を狙うものとして殺した悪名高い人物であります。

 パスカル『パンセ』(随想録)に次の文章があります。「ヘロデが殺させた2歳以下の子どもたちの中に、ヘロデ自身の子どももいたことをローマ皇帝アウグストが知ったとき、こう言った、『ヘロデの息子になるよりは、ヘロデの豚になる方が安全だ』と」。それほどに言われる残虐なヘロデの手から、幼子イエスはどのようにして逃れることができたのでしょうか。それは、主の天使がヨセフに現れて、エジプトに逃れるように告げることによってでした。ヨセフに守られて、御子イエスは魔の手から逃れることができたのです。

 また、ヘロデの死後、その息子アルケラオがユダヤを治めるようになったときにも、ガリラヤのナザレに逃れて成長することができました。こうして御子は守られたのですが、その背後においてヘロデの手による幼児虐殺という大いなる犠牲が払われたのでした。そのようなことを伴いながらではあっても、主イエスの幼い命が守られたことはなぜだったのでしょうか。

 それらはすべて、やがて避けることのできない神の決定としての十字架の死のために備えるものであった、ということによるのではないでしょうか。十字架による贖い、救いの完成という大事業をなすまで、主イエスは神の御手によって守られたということでありましょう。仕えさせるためでなく、仕えるための生涯を主が全うするために、時が必要でありました。そして、その時が満ちたとき、神はご自身の御子の命さえ奪いとられることをお許しになったのです。わたしたちにおいても同じであります。それぞれに時がある、ということを深く思わせられます。自分に与えられた務めと命(めい)とに誠実に立ち向かっていくときも、立ち上がるときも走り出すときも、また辞するときも死ぬときも、神ご自身の定めのままにそのことが示され、また、行われるということを、わたしたちは確信してよいのであります。

 そのような神への固い信頼と全面的な明け渡しというものを、わたしたちは、ヨセフの行動の中に見ることができます。ヨセフの神の御言葉への忠実さは、既に1章18節以下のところに示されていました。天使の言葉である「妻マリアを迎え入れなさい」、「その子をイエスと名付けなさい」に対して、ヨセフは「妻を迎え入れ」(24)、「その子をイエスと名付けた」(25)というように素直に従いました。そのようなヨセフの姿勢は、今日の箇所においては、三度にわたって記されています。第一に13節と14節において幼子を連れてエジプトに逃げ、そこにとどまったこと、第二に20節と21節において幼子を連れてイスラエルの地に帰ったこと、そして第三に22節と23節においてガリラヤのナザレヘ行くようにとのお告げに従ったことです。14節において「夜のうちに」エジプトへ行った行為などは、特にヨセフの神の御言葉への全き従順と敏速な応答とを示しているといってよいでしょう。躊躇なく神に従う一人の忠実な僕がそこにいるのです。

 ほかに何の頼るべきものを持たないものであったとしても、これほどに自分と愛する家族とを神の御言葉に委ねて生き続けたヨセフの姿に、わたしたちは心ひかれるものを感じないわけにはいきません。信仰はある種の愚かさを伴うものであるのかも知れません。先が見えない中で、今示される御言葉に愚直なまでに従うということが、信仰の領域にはあるのです。

 それほど単純に信じてもよいのかとか、それほど献身的に仕える必要があるのかとか、そんなに素直に神の約束や希望を受け入れてもよいのかというように、他の人から見れば、愚かとしか思えないほどの信仰に生きることは、実際にあり得ることではないでしょうか。ヨセフがどれほど深く、主イエスを通してなそうとしておられる神の御業やご計画を知っていたのだろうか、という疑問はあるでしょう。しかし、つねに神の言葉を尋ね、それを待ち、それに依存して生きた生き方は、わたしたち一人ひとりに信仰の旅路のあり方を教え示してくれるものでありましょう。

 そして、さらに、ヨセフを超えて、このヨセフを導かれた神のみ腕の確かさを彼の上に見ることが求められています。ヨセフの従順を生み出しだのは神の確かさであったのです。「わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか」(イザヤ50:2)。そんなことはないと神は言われます。その確かなみ手、み腕が、この全世界と歴史とを導き、また、わたしたち一人ひとりの上にも伸ばされているのです。

 さて、御子のすべての出来事に神の隠されたご意図がある、ということを先ほど述べました。そのことをマタイ福音書は、旧約聖書における預言や約束が成就した、という形で示すのであります。そのことはすでに1章22節で示されましたが、今日の箇所では次のように言われます。15節の「主が預言者をとおして言われたこと」とはホセア書11章1節のことです。また17~18節のエレミヤの預言は、エレミヤ書31章15節に出てきます。さらに23節の「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言は、イザヤ書11章1節や士師記13章5節などがそのことを語っている、と考えられています。

 今詳細に旧約と新約を照らし合せて検討することはできませんけれども、マタイが御子に起こる一つひとつの出来事の背後に、神の確かなご意志とご計画があることを示すことによって、御子イエスが「インマヌエル」と呼ばれるにふさわしい実体を備えたお方であることを証ししようとしているのです。主イエスに起こることは、神のみ腕の中で起こるのだ、という信仰の告白がここにあります。  

そして、そのことを明らかにすることによって、この福音書は、わたしたち自身が主イエス・キリストと共にあるならば、このわたしたちにおいても、神は共にいてくださり、神の御腕の中でわたしたちのすべてのことが起こるのだということを教えようとしているのです。イエス・キリストが共にいてくださるから、大丈夫だと告げられているのです。どのように激しい苦悩でも、悲痛なことであっても、神が主イエスにおいてわたしたちと共にいてくださるならば、神がご存じであり、計画しておられること以外のことは起こらない、と確信してよいのです。インマヌエルと呼ばれる主イエス・キリストによって、そのような神との確かな結びつきが始まったことをわたしたちは確信できるのです。

 新しい年を、都エルサレムから主イエスを閉め出したユダヤ人のようにではなくて、自分の心の王座に、主イエス・キリストを唯一の主としてお迎えしましょう。そして、わたしたちの国と世界の平和と和解、私たちの社会における共に生きる関係の確立のために、それぞれの賜物に応じて用いられるものでありたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日2025年最初の礼拝を愛する兄弟姉妹と共に守ることができ、心から感謝いたします。御子イエス・キリスト誕生後の出来事を共に学びました。幼子が人間の憎悪をまとった支配者のゆえに翻弄されつつも、神さまに守られ導かれたことを共に聞きました。そこに父ヨセフのあなたにすべてをゆだねる信仰があったことを知らされました。わたしたちもヨセフの信仰に倣い、あなたの御心にゆだねていく1年を送らせてください。世界は今多くの危うさと不安の中にあります。どうか今戦争のさ中にある人々、激しい災害のために苦境に置かれている人々に、あなたの守りと平安をお与えください。群れの中には病床にある兄弟姉妹、高齢ゆえの労苦を負っている兄弟姉妹がおります。どうか、一人ひとりをあなたが支え導いていてください。あなたの平安で満たしていてください。このひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝   1月12日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    マタイによる福音書5章43-48節

説  教   「敵を愛しなさい」  藤田浩喜牧師

主日礼拝    

午前10時30分      司式 山﨑和子長老

聖     書

  (旧約) 詩編36編1-11節  

  (新約) マルコによる福音書10章13-16節

説  教  「柔らかな心に生きる」  藤田浩喜牧師

救い主を抱きしめて

ルカによる福音書2章25~35節 2024年12月29日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 先ほど司式長老に読んでいただいた聖書の箇所は、クリスマスの後日譚とも言うべき所です。御子イエスは生まれて8日目に割礼を受け、正式にイエスと名付けられました。割礼は男の子が神の民イスラエルに属する「しるし」であり、イエスという名は生まれる前に天使から示された名前でした。それから33日後、ヨセフとマリアは赤ちゃんを連れて、エルサレム神殿にやって来ました。それは生まれた赤ちゃんを神さまに献げ、再び神さまから受け取る儀式に参加するためでした。ヨセフとマリアは貧しかったので、神さまから子どもを受け取る贖いのいけにえとして、山鳩一つがいか家鳩の雛二羽を神さまに献げたのでした。

 その神殿に来たヨセフとマリア、何より幼子イエスとまみえた人がいました。それはシメオンとアンナという人でした。大事なことの証人は、一人ではなく二人いなくてはならないとされていました。だから二人の人が、幼子イエスとまみえたのでしょう。二人には違ったところがありました。一人は男で、一人は女です。シメオンについてどういう人であったかそのプロフィールは分かりませんが、アンナについては結婚後7年で夫と死別したとか、今84歳であるとかプロフィールが分かります。しかし、二人には共通したところがありました。それは二人とも高齢であったということです。シメオンについて年齢は記されていません。しかし2章29節の「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉から、シメオンも高齢であると昔から考えられてきました。

 まず、シメオンについてですが、あらためて彼はどういう人だったのでしょう。25~26節を読んでみましょう。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」そして「シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき」(27節)、いけにえを献げに来ていたヨセフとマリア、幼子イエスと遭遇したのでした。

 シメオンが、どこに住み、どんな仕事をしていたか、家族はどうだったかなどは、少しも記されていません。特別な地位にある人でも、神殿に仕える聖職者でもなく、信仰をもった一庶民であったということかも知れません。しかし、ここを読んでいて気づかされるのは、「聖霊」や「霊」という言葉が3回も使われているということです。「聖霊が彼にとどまっていた」(25節)、「お告げを聖霊から受けていた」(26節)、「“霊”に導かれて神殿の境内に入って来た」(27節)とあります。ここから察するに、シメオンという信仰者は「神の御心を悟る賜物を持った」信仰者だったのではないでしょうか。「神の御心が何であるか」を、他の人よりも深く敏感に悟ることのできる人が、シメオンであったのではないかと思うのです。勿論それは、神さまが彼に「聖霊」を通して示されたのです。

 シメオンが「聖霊」を通して示された御心は、実に驚くべきものであり、人知では計り知れない深いものでした。まず、彼には「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」(26節)という御心が示されていました。その御心通りに、シメオンはエルサレム神殿で、救い主なる御子イエスに出会うことができたのです。そして、彼は幼子イエスを胸に抱きながら、このお方がどのような救いを成し遂げるお方であるかを、語ります。31~32節「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」シメオンは示された御心によって、救い主イエスが、イスラエルだけでない、全世界の異邦人にも救いをもたらす方であることを語るのです。また、34節以下を見ますと、主イエスが長じて救い主の働きを始められたとき、どのようなことが起こるのか、そして主イエスがどのような最後を遂げるのかまでも、正確に見通しているのです。救い主イエスのお働きによって、主に敵対する者も現れるが、主によって苦しみから立ち上がる者も多く現れる。そして、最後には人間の罪をすべて背負って、十字架の死を遂げられる。その時には、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と予告します。シメオンは母マリアが、主イエスの十字架の目撃者となることを、予告しているのです。

 そのように、神の御心を深く敏感に悟ることのできたシメオンでした。しかしだからこそ、それに伴う労苦もあります。彼は「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいました。彼は「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と示されていました。シメオンは神の御心を深く敏感に悟る人であったために、いつも将来に目を凝らしていました。援軍の到来を待つ見張人のように、緊張感をもって救い主を待ち望んでいました。周囲に救い主について希望を失っている者がいれば、「元気を出しなさい。救い主はかならず来られるから!」と励まし続けていたに違いありません。それは決して、簡単なことではなかったでしょう。御心を知らされた者にしか分からない、苦労や忍耐があったに違いありません。

 しかし、待ち続けていた救い主とお会いすることができ、そのお方を腕に抱くことができた。やっとお目にかかることができた。その時にシメオンは、あの有名な言葉を語るのです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(29節)。この言葉は、「救い主をこの目で見ることができたので、安らかに生涯を終えることができます」という意味でしょう。しかしそれと同時に注解者たちは、ここの「主」が神を表わす「キュリオス」ではなく、いわゆる「家の主人」を表わす「デスポテース」という言葉が使われ、「去らせる」も僕をその務めに「留めおくことなく自由にさせる」という言葉が使われていると指摘しています。つまり、長年果たしてきた僕としての仕事・役割から自由にされるという意味も、そこにはあるのです。神の御心を深く知らされた者は、その御心に生き続ける使命があります。挫けることなく、その御心の実現を待ち望み、その御心を周囲の人たちに伝え続けていく使命があります。シメオンは救い主イエスにお会いして、その重大な務めから解放されたと、安堵の思いを言い表してもいるのです。

 シメオンは特別な賜物を与えられた人でしたが、私たち現代を生きるキリスト者も聖霊を与えられ、聖霊に導かれています。そして、シメオンがそうであったように、神の御心をイエス・キリストを通して示されています。その御心の最大のものは、クリスマスに神の御子が到来され、十字架と復活によって人間の罪を贖い、死に打ち勝ってくださったということです。そして、終わりの日にもう一度主イエスが到来され、この世界の救いを完成してくださるということです。その神さまの御心を私たちは信じ、その日の到来を待ち望みつつ、この世に福音を語り続けているのです。それは、21世紀の日本に生きる私たちにとって、簡単なことではありません。世の無理解や反発を受けながら伝道していくのです。

 こうした状況は、野球になぞらえることができるかもしれません。クリスチャンチームとこの世チームが、試合をしています。9回裏2アウト、イエス様がバッターボックスに立ち、さよならホームランを打ってくださいました。白球は確かにフェンスを越えていきました。クリスチャンチームは勝利を確信します。ところがこの世チームには、イエス様のホームランは見えていません。試合が終わったことは認めません。そこで、そのまま延長戦に突入し、クリスチャンチームは防戦一方の戦いを続けている。いつ終わるか分からない、厳しい試合が続いていると言うのです。「なるほど」と思いました。イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、決定的な勝利がもたらされました。しかし、それは世の多くの人たちが認めるには至ってはいません。端(なな)からバカにする人もいます。しかし、御心を示されたキリスト者は、終わりの日を待ち望みつつ、緊張感をもって福音を語り続けていくのです。神さまがその務めを解いてくださるその日まで、神さまの御心に仕え続けていくのです。

 さて、神殿で幼子主イエスにまみえたもう一人の人は、女預言者アンナという人でした。この人については先に申し上げたように、かなり詳しくプロフィールが記されています。彼女は結婚しましたが、わずか7年で夫と死別しました。10代の後半が結婚年齢であったとすると、20代半ばでやもめとなったことになります。それから約60年の間、女一人で人生を生き抜いてきたのでした。夫との死別後のアンナの生涯がどのようなものであったかは、分かりません。女預言者という務めが、職業として成り立ったのかどうかも不明です。しかし、確実なことは、彼女が神殿での信仰生活を、どれだけ生きる拠り所としていたかです。「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」(37節)とあります。若い日の夫との死別という悲劇に見舞われたアンナは、神殿を拠り所とし、神さまから決して離れようとはしませんでした。礼拝をし、断食と祈りを欠かしませんでした。そのアンナに、神さまは思いもよらない恵みを与えられました。彼女はイスラエルが待ち望んだ救い主イエスさまとお会いし、そのことを周囲の信仰者たちに伝えることができたのです。預言者にとって、救い主の誕生を伝えることほど、誉れある大きな務めはありません。信仰生活を生きる拠り所として生涯を過ごしたアンナに、神さまは大いなる祝福を与えられたのです。

 私たち現代の信仰者も、人生で色んな出来事に見舞われたことをきっかけに、教会の門をくぐることになった方たちが多いと思います。人生には予想もしないことが起こります。心を刺し通されるような悲しみもあります。しかし神さまは、傷ついて御翼の陰に避難して来る者たちを、あたたかく抱きしめてくださいます。その者を癒し、養い、育ててくださいます。そしてアンナがそうであったように、新しい使命に喜びをもって、生きることができるようにしてくださるのです。

 今日はクリスマスの後日談として、シメオンとアンナが幼子イエスとお会いしたところを読みました。二人には違ったところがありましたが、いずれもその信仰の生涯を、神さまの守りと導きのうちに過ごしました。神さまが与えてくださる務めに生きたのです。それは簡単なことではなかったでしょう。しかし神さまはその生涯の最晩年に救い主と見える機会を与えてくださり、彼らの人生を満たしてくださったのです。「わたしは主なる神にあって生涯を全うした!」と感謝と共に人生を振り返ることができたのです。そのような祝福に満たされた人生を、神さまは一人一人に用意してくださっています。そのような主にある人生を歩む決意を、一年を終えるに当って心に刻みたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】この世界を導き、教会を導いてくださる父なる神さま、あなたの御名を讃美いたします。今日は今年最後の礼拝です。この一年も教会を守り導き、一人一人の生活を支えて下さったことを、心より感謝いたします。新しい年がどんな年になるかは分かりませんが、あなたから託された福音宣教の働きをたゆまず行うことができますよう、強めていてください。共に礼拝をなし、祈りと讃美を捧げ、御国を仰ぎ望みながら、歩み続ける私たちとしてください。このひと言の小さなお祈りを、主イエスの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  1月5日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    マタイによる福音書5章13-16節

説  教   「地の塩、世の光」  三宅恵子長老

主日礼拝    

午前10時30分  司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖     書

  (旧約) ホセア書11章1-4節  

  (新約) マタイによる福音書2章13-23節

説  教  「神の確かな導きを信じて」  藤田浩喜牧師

キリストの星に導かれて

マタイによる福音書2章1~12節 2024年12月22日(日)クリスマス礼拝

                           牧師 藤田浩喜

 どの世界でも、スターというのは輝いています。野球界のスター、フィギアスケート界のスター、将棋界のスターなど、華々しい活躍をしている人たちを思い起こすことができるでしょう。しかし、スター(星)は、遠い夜空に見上げる存在であり、私たちから遠く離れているという感じがするのではないでしょうか。

 今日の聖書にも、星・スターが登場します。東の国でユダヤの新しい王の誕生を知らせる星を見て、占星術の学者たちがユダヤの国にやって来たというのが、今日の聖書のお話なのです。当時、それぞれの人は生まれながらに自分の星をもっており、その人が生まれると同時にその星も現れ、死ぬと同時にその星も消滅する。特に偉大な人物の誕生に際しては奇跡の星が現われ、特別な天体現象が起こるという民間信仰があったようです。そのような考えに基づいて、「ユダヤに新しい王さまが生まれたようだ。その偉大な方を拝まなければと、占星術の学者たちがらくだに乗って、砂漠を旅して、ユダヤの国にたどり着いたのでした。

 占星術の学者たちが最初に訪れたのは、エルサレムにあるヘロデ王の宮殿でした。ユダヤの新しい王さまというのだから、都エルサレムの王の宮殿に生まれられたのではないか。学者たちがそう考えたのも当然です。しかし、ヘロデ王はそのことを知りませんでした。それどころか、新しい王によって自分の王位が奪われるのではないかと、不安になりました。そこで、その新しい王がどこに生まれるのかを祭司長や律法学者に調べさせました。それは、ユダのベツレヘムでした。それを知ったヘロデ王は、その場所を学者たちに教え、「その子のことが詳しく分かったら教えてくれ、あとでわたしも拝みに行くから」と言いました。しかしヘロデは新しい王を拝みに行く気などなかったでしょう。その子の居場所が分かったら、その子を亡き者にしようと考えていたのです。いずれにせよ、神さまはヘロデの企みをも用いて、学者たちに新しい王の生まれた場所を知らせたのです。

 占星術の学者たちは、ベツレヘムに向かって出発します。すると、どうでしょう。彼らが「東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(9~10節)とあります。10節の「その星を見て喜びにあふれた」は、原文では「甚だしく大きな喜びを非常に喜んだ」となっています。彼らの喜びが普通ではなかった、喜びを爆発させたことが伝わってくるのです。

 それにしても、不思議に思うことがあります。学者たちが東の国で見た星は、ユダヤへの旅の間、どうしていたのでしょう。エルサレムのヘロデの宮殿に向かった時は、どうだったのでしょう。その間は、姿を隠していたのでしょうか。それとも、雲が出ていたり雨が降っていたので、見えなかったのでしょうか。その可能性も排除することはできませんが、皆さんも不思議に思われるのではないでしょうか。

 しかし私は、飛躍した考えかも知れませんが、星は目立たない、控えめな形で学者たちを絶えず導いていたのではないかと、思うのです。星は夜空に輝き、美しく瞬きます。昔の人たちは、星の位置とその光を頼りに、船を操り、旅の歩みを進めることができました。しかし、新しいユダヤの王、柔和で愛に満ちた御子イエス・キリストという星は、遠く離れたところから見上げられるだけのお方ではありませんでした。御子を求め、御子に出会いたいと願う者を、目立たない、控えめな仕方で、しかも間違いなく確かに護り、導いてくださる。ヘロデの狡猾な知恵をも出し抜いて、その悪辣な知恵を用いて、彼らをご自分のもとに導いてくださった。御子イエス・キリストの星は、私たちの身近にあって、私たちが意識していないときにも、私たちを護り、導いてくださるのです。

 旧聞に属しますが、2018年のNHKの大河ドラマは「西郷どん」(せごどん)でした。鈴木亮平さんが西郷隆盛を、奥さんの糸さんを黒木華(はる)さんが演じていました。この西郷隆盛が亡くなってほどなく、人々は夜空に大きく赤く輝く星の出現を見たと言います。その不思議な赤い星を見た人々は、あの星は西郷さんが亡くなって星になったに違いないと、評判になったようです。そのため、夜空にまたたくその星は西郷星(さいごうぼし)と、人々から呼ばれたそうです。これは実際には、火星の大接近だったことが分かっています。しかしそこには、西郷隆盛という偉大な人物の死を惜しむ民衆の素朴な思いが込められていたのでしょう。

 しかし、西郷隆盛の幼馴染であり、3番目の奥さんになった糸さんは、それを否定します。「だんなさまは、ぞげな人ではなか。人々から遠く離れたところから、見上げられる人ではなか。いつも困っている人、悲しんでいる人んところへ行って、その人んたちのために、忙しく走りまわっておられた。」そんなふうに糸さんは言うのです。迷いなくきっぱりと言うのです。

 そう言えば、はるか前の第一回目の「西郷どん」(せごどん)で、明治時代もだいぶ経ったころ、上野に西郷さんの銅像が立ちました。皆さんご存知の薩摩犬(さつまいぬ)を連れ、浴衣のような着物に身を包んだ姿の西郷さんの銅像です。その銅像の除幕式に招かれた白髪をたたえた糸さんが、こんなことを言っていたのです。「うちのだんなさーはこんな人じゃなか。」その時は、風貌や容姿が似ていないので、糸さんが怒っているのかと、思っていました。しかし、最終回に西郷星のことを語る糸さんの言葉を聞いて、糸さんの思いがようやく理解できたように思ったのです。西郷隆盛は、星のように遠くから人々に見上げられるような人ではない。また、銅像のように人々から功績をたたえられ、あがめられるような人でもない。

「うちのだんなさーは、いつも困っている人、悲しんでいる人んところへ行って、その人んたちのために、忙しく走りまわっておられた。」そんな、人々と分け隔てなく、一緒に汗をかき、働く人であった。それが糸さんの言いたかったことだったのではないかと思ったのです。

 160年程前に生きた日本人と、神さまがこの世界に遣わした神の御子を同列に論じることはできません。人間は有限であり、神は無限であり永遠です。

しかし、御子イエス・キリストがどのようなお方であるかということを、私たちに示す手がかりを与えてくれるのではないでしょうか。

 御子イエス・キリストは、私たちのはるか彼方で、美しく輝いているだけの方ではありません。その偉大さや神神しさをあがめられるだけの方ではありません。

そのお方は、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6~8)。御子は私たちのために、私たちの身代わりとなって、十字架の死を遂げられ、私たちを罪の呪いから贖い出してくださったのです。そして主は言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28~30)。私たちの生きる重荷、負うべき労苦を主が共に負ってくださって、私たちに安らぎを与えてくださるのです。

 たとえ星が見えなくて、姿を隠しているように思える時も、私たちの知らないところで、私の苦しみを負い、私たちを人知れず支えてくださる。それが、私たちの主、御子イエス・キリストなのです。

 皆さんもご存知の「足あと」という有名な詩は、そのことを最も深くイメージ豊かに示してくれています。最後にその詩をお読みいたします。

〈あしあと〉

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

 わたしと語り合ってくださると約束されました。

 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

 ひとりのあしあとしかなかったのです。

 いちばんあなたを必要としたときに、

 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

 わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

 ましてや、苦しみや試みの時に。

 あしあとがひとつだったとき、

 わたしはあなたを背負って歩いていた。」 

マーガレット・F・パワー

 救い主イエス・キリストはそのようなお方なのです。

 この御子の御降誕を、ご一緒に喜び、褒めたたえましょう。

 お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今年も御子のご降誕を祝う礼拝を、愛する兄弟姉妹と守ることができ、心から感謝いたします。御子イエス・キリストは、どんな時にも私たちから離れることなく、私たちを支えてくださいます。私たちの苦しみや悲しみを共に負って歩いてくださいます。そのような御方がこの世界に、私たちのもとに、与えられたのがクリスマスです。どうか、心からの喜びと讃美をもって、この時を祝わせてください。暗さが増しつつある私たちの世界ではありますが、光であるイエス・キリストを高く掲げて歩む私たちであらしめてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

次週の礼拝   12月29日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    マタイによる福音書2章1-12節

説  教   「学者たちの礼拝」   藤田浩喜牧師

主日礼拝    

午前10時30分       司式 髙谷史朗長老

聖     書

  (旧約) イザヤ書11章10節

  (新約) ルカによる福音書2章22-38節

説  教   「救い主を抱きしめて」  藤田浩喜牧師

飼い葉桶の救い主

ルカによる福音書2章1~7節  2024年12月15日(日) クリスマス合同礼拝

                          牧師 藤田浩喜

 クリスマスですね。クリスマスの絵本はいっぱいありますが、アトリーという人の『クリスマスのちいさなおくりもの』という絵本があります。

 あるクリスマス・イブのことです。その家には、クリスマスだというのに、クリスマスツリーもなければ、クリスマスのごちそうもありませんでした。というのも、家の奥さんが病気で入院し、家には気落ちしたお父さんと小さな子どもたちしかいなかったからです。そんな事情でしたから、クリスマスの用意が何もできなかったのです。

 すると、その家に住んでいたねずみたちが、その家で飼われていたねこのおばさんに言いました。「クリスマス・イブだと言うのに、どうしてこの家にはツリーもごちそうもないんだ。」「ねこさん、あなたが何とかしてください。」「今夜はみんながなかよくする夜でしょ。」「おれたちも手伝いますよ。」

 「なかよくする夜だって?ああそうだったね、今夜は。」「じゃあ、わたしもお前たちを、食べたりしないようにするよ。」

 こうして、ねこのおばさんと、ねずみたちが力を合わせて、クリスマスの用意をすることになりました。日頃はねこに食べられないように逃げ回っていたねずみたちでしたが、クリスマス・イブは特別だったのです。ねこのおばさんは、家のふたりの子どもたちが、サンタさんからクリスマスプレゼントをもらえるように、ねずみたちに、子どもたちのくつ下を取りにいかせます。くつ下はだんろの前につるします。それから、ねずみたちに食糧庫から材料を取ってきてもらって、ミンスパイとケーキを作ります。ミンスパイというのは、3センチぐらいの小さな丸いお菓子で、中には干した果物、良い香りのする香料が入っています。

 オーブンでケーキを焼いている間に、ねずみたちは飾りつけの花を作り、ねこのおばさんは雪の降る外に出かけて、クリスマスツリーにするもみの木やひいらぎをさがしに行きます。みんなが手伝ってくれたおかげで、寂しかったおうちは、にぎやかな飾りつけがされ、美しいクリスマスツリーも立てられました。部屋にはミンスパイやクリスマスケーキが焼き上がったおいしそうな香りが立ち込めています。すっかり準備の整った家に、子どもたちが楽しみにしていたサンタクロースがやってきました。サンタクロースは、こんなに美しく飾られた部屋は見たことがないと感心します。そして二人の子どもたちにはもちろん、ねずみたちやねこのおばさんにもプレゼンをあげました。そして、こんな言葉を残して、トナカイのそりに乗って、夜空へとかけていきました。「さあ、クリスマスだ。どんなにちいさなつつましいものたちのことも、忘れてはならないぞ。さあ、行こう、トナカイたちよ。…クリスマスのよい知らせを伝えにいこう。」

こうしてお母さんが病気で寂しく暗かったこの家に、クリスマスがやって来たのでした。ねずみたちとねこのおばさんがなかよく力をあわせて、やさしいクリスマスの贈り物をしたのです。

今、皆さんといっしょに、イエスさまがお生まれになった聖書の箇所を読みました。皆さんもよく知っている飼い葉おけに寝かされた赤ちゃんイエスさまのお話です。この箇所には、二人の王さまが出てくるのです。一人はローマの皇帝アウグストゥスという王さまです。この王さまは日本の何十倍もの大きさのローマ帝国を治めていました。強い軍隊も持っていました。この王さまが、「住民登録をしなさい」と命令すると、どんな人もこの命令に従わなくてはなりませんでした。だからこそ、ヨセフさんはお腹にあかちゃんのいるマリアさんを連れて、ナザレからベツレヘムへ旅をしなくてはならなかったのです。だれもその命令に逆らうことはできなかったのです。

もう一人の王さまは、飼い葉おけに寝かされたあかちゃんイエスさまでした。この王さまは、人間のいちばん暗い、いちばん貧しいところにお生まれになった神さまの御子でした。しかし、このイエスさまこそ、わたしたちにとって本当の王さまであり、救い主ですよ、と聖書は語っているのです。

ローマの王さまは巨大な力を持っていましたが、もう今はいません。その王さまが治めていたローマ帝国も影も形もありません。でも、イエスさまという王さまは今も、わたしたちの心の中におられます。そして、この世界に、わたしたちのもとにきてくださったイエスさまのことを思うとき、心があたたかくなります。そして、わたしたちはお互い仲よくしよう、困っている人の役に立とうと、やさしくなることができるのです。あのねずみたちとねこのおばさんのように、力をあわせてつらく悲しんでいる人のために、何かよいことをしたいと思うのです。

イエスさまが生まれて、もう2000年以上たっています。しかし今も、クリスマスは私たちの心にイエスさまを思い起こさせ、わたしたちに人を思いやるやさしい心を与えてくださいます。与え続けてくださっています。このようなお方こそが、王さまの中の王さま、本当の王さまではないでしょうか。このすばらしい王さまのお生まれを、今年も皆さんと一緒にお祝いしたいと思います。

お祈りをいたします。

【お祈り】イエス様の父なる神様、あなたの御名をほめたたえます。今日は子どもと大人が一緒に礼拝を捧げることができて、ありがとうございます。神様はイエス様という本当の王さまを、この世界に与えてくださいました。このイエス様がいつも私たちと一緒にいてくださいます。そのイエス様に励まされて、私たちもやさしい心をもち、互いに助け合うことができますよう導いていてください。今苦しんでいる人たち、悲しんでいる人たちを、どうか慰め支えていてください。

このひと言のお祈りを、イエス様のお名前によってお捧げいたします。アーメン。