日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録12章1-17節
説 教 「ペトロ、牢屋からの救出」 藤田浩喜牧師
主日礼拝
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) 詩編15編1-5節
(新約) ルカによる福音書12章13-21節
説 教 「まことの安心を得るために」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録12章1-17節
説 教 「ペトロ、牢屋からの救出」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約) 詩編15編1-5節
(新約) ルカによる福音書12章13-21節
説 教 「まことの安心を得るために」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書6章45~56節 2024年6月23日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
旧約において最も有名な出来事は、皆さんもご存じの出エジプトの出来事です。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民に、エジプト軍が迫ってきています。前は海です。イスラエルの民は絶体絶命のピンチです。この時イスラエルの民はモーセにこう言うのです。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。いったい、何をするためにエジプトから導き出したのですか。」この時に至るまで、イスラエルの民は何度も何度も神様の御手による奇跡を経験しているのです。蛙の奇跡、あぶの奇跡、疫病の奇跡、雹(ひょう)の奇跡等々、そして過越の出来事も経験しているのです。それでも、前は海、後ろはエジプトの軍隊という状況になりますと、ダメなのです。大丈夫などととても言えないのです。神様に向かって、モーセに向かって、文句を言い始めるのです。
そのような、うろたえ、つぶやくイスラエルの民に対して、モーセはこう告げました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」モーセは、イスラエルの民を叱りつけるように告げるのです。そして、モーセは神様に祈り、神様はモーセが海に向かって手を差し伸べると、海の水を分かれさせて道を造り、イスラエルの民はその海の中に拓かれた道を通って逃げることができたのです。これは本当に大きな、その後何千年にもわたって神の民において語り継がれる大きな出来事でした。
しかし、イスラエルの民は、この出来事によってどんな時も大丈夫と言える民になったかと申しますと、そうはならなかったのです。食べ物が無くなればエジプトの方がよかったと不平を言い、水が無くなればつぶやくのです。そのたびに神様は、マナを与え、うずらの大群で肉を与え、岩から水を出して、イスラエルの民を養われたのです。神の民が、どんな時でも神様を信頼して大丈夫と言って歩むことができるようになるには、時間もかかるし並大抵のことではないのです。
私たちもそうなのです。生まれつき信仰深いなどという人は一人もいないのです。神様を信じたといっても、誰でも不安になるし、大丈夫と言いたいけれど言えない時があるのです。しかし神様は、そのような不信仰な私たちを全部承知の上で召し出し、神の子とし、御国への道を歩ませてくださっているのです。神様は、その都度その都度、必要のすべてを備えてくださり、全能の御腕を以て私たちを守り、支え、導いてくださっているのです。
さて、マルコによる福音書の御言葉を見ましょう。45節に「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」とあります。「それからすぐ」というのは、直前の、男だけで五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で養われたという奇跡が行われたすぐ後で、ということでしょう。主イエスは、弟子たちだけを舟に乗せてガリラヤ湖の向こう岸にあるベトサイダに向かわせ、御自身は群衆を解散させられました。ここで、主イエスと弟子たちは別れたのです。弟子たちは舟の上、主イエスは陸の上です。ところが、弟子たちが乗っている舟が逆風に遭って、少しも前に進まない。弟子たちが舟に乗ったのは夕方だと思われます。それが、夜が明ける頃になっても、つまり12時間、丸半日、夜通し舟を漕いでも、逆風にあおられて、向こう岸に着くことができなかったというのです。その間、主イエスは何をしておられたのでしょうか。46節「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた」とあります。主イエスは山の中で祈っておられたのです。
マルコによる福音書4章35節以下にも、同じような状況が記されていました。弟子たちと主イエスを乗せた舟が、やはりガリラヤ湖で嵐に遭ったのです。この時、主イエスは風を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と言われました。すると、嵐は静まってしまいました。しかし、今回は弟子たちの乗った舟に主イエスはおられません。そのことを強調するように、47節「舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた」と記されています。弟子たちは湖の真ん中、主イエスは陸の上。携帯電話もヘリコプターもありません。この弟子たちと主イエスの隔たりは絶対的なものでした。しかし、48節には「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」とあります。いったい、主イエスはどのようにして弟子たちを「見た」のでしょうか。夜明け前の暗闇の中だけれど、主イエスは見晴らしの良い山の上にいたので、湖を見渡すことができた。弟子たちの舟が逆風の中で立ち往生しているのが見えた、ということなのでしょうか。そうではないでしょう。主イエスは祈っておられたのです。その祈りの中で、主イエスは弟子たちの状況を見たということではないかと思うのです。弟子たちには主イエスの姿は見えません。しかし、主イエスはいつでもどんな時でも、弟子たちの状況を祈りの中で覚えて、見てくださっているのです。この近さを、聖書は告げているのです。弟子たちには見えない。しかし、主イエスには見えている。私たちもそうなのです。主イエスのことは見えない。しかしそれは、主イエスが私たちから遠いということを意味していないのです。主イエスは、私たち一人一人を、その祈りの中で見ておられるのです。弟子たちが、主イエスに祈っていただいていたように、私たちもまた、主イエスに祈られ、見ていただいているのです。私たちの歩みは、この主イエスの祈りのまなざしの中にあるのです。
主イエスは、弟子たちの困り果てた状況をただ見ていただけではありませんでした。主イエスは湖の上を歩いて、弟子たちのところに来られたのです。これは、弟子の誰も考えてもいないあり方でした。主イエスは、いつも私たちの思いを超えたあり方で、その御姿を現し、救いの御業を行われます。私たちが、こうなったらよいのにと思うようには、なかなかなりません。しかし、主イエスは、そして神様は、私たちの期待以上の、私たちが考えていなかったあり方で、大丈夫と言えるようにしてくださるのです。出来事を起こしてくださるのです。主イエスは何と湖の上を歩くというあり方で、弟子たちのところに来られたのです。
しかしこの時、弟子たちは湖上を歩く主イエスを見て、幽霊だと思って、大声で叫んだのです。「ギャー!おばけー!」というような叫びだったかもしれません。暗い湖の上を人が歩いているのを見れば、誰でもそう思うでしょう。そして、主イエスが弟子たちの舟に乗り込まれると、風は静まりました。弟子たちは非常に驚きました。そして聖書は52節で「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と告げるのです。
パンの出来事。これは先週見ましたように、物質保存の法則を超えてしまっているわけで、これは主イエスが、無から全世界を造られた全能の神様の独り子であることを示しているわけです。しかし、弟子たちはそのことを理解していなかったというのです。大変な力を持った方だとは思ったでしょう。これで、食べることは心配しなくてよいと思ったかもしれません。しかし、主イエスがただ一人の神様の御子、まことの神であられるという理解には至らなかったというのです。
実は、この湖の上を歩いてこられるこの出来事も、主イエスがまことの神であられるということを示しているのです。それは二つのことから言えます。第一に、48節「湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」という所と、50節の主イエスが弟子たちと話された「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という所です。
どうして、主イエスは湖の上を歩いて近づいてきたのに「そばを通り過ぎようとされた」のでしょうか。通り過ぎて、先に何があるというのでしょう。しかし、これは旧約において、神様が自らの姿を現される時の現し方なのです。二つの例を挙げますと、モーセが神様に栄光を示してくださいと求めた時、神様はモーセを岩の裂け目に入れて、栄光を通り過ぎさせました(出エジプト記33章18~23節)。また、預言者エリヤがバアルの預言者と戦い、王妃イゼベルに命を狙われてホレブの山に逃げた時、エリヤの前を主が通り過ぎて行かれました(列王記上19章11節)。このように、主イエスが弟子たちの前を通り過ぎるというあり方は、主イエスがまことの神であることを示しているのです。
また、主イエスがここで「わたしだ」と言われているのは、神様が御自身のことを言われる時の言い方なのです。ヨハネによる福音書には、ギリシャ語で「エゴー、エイミ」と言葉が何度も出てきます。これは神様がモーセに御自身の名を告げられた所で言われた言葉、「わたしはあるという者だ」(出エジプト記3章14節)をギリシャ語に置き換えたものなのです。つまり、主イエスはここで、「わたしは神だ。アブラハム、イサク、ヤコブが拝んだ神、イスラエルをエジプトから導き出した神である。だから、安心しなさい。恐れることはない。と言われているのです。天地を造られたまことの神様である主イエスが、共にいてくださる。だから大丈夫なのです。ここに私たちの平安の源があるのです。
しかし、この時弟子たちが湖の上で逆風にあおられ、にっちもさっちもいかなかったのは、主イエスが舟に強いて乗せたからではないか。弟子たちは主イエスに舟に乗せられなかったら、そもそもこんな目に遭わなくて済んだのではないか。その通りなのです。イスラエルの民もエジプトにいたままだったら、奴隷のままでいたのなら、苦しい出エジプトの旅をする必要はなかったのです。このことは何を意味するでしょうか。それは、神様に召し出されて始まった私たちの信仰の歩みは、決して順風満帆であるわけではないということです。そして、たとえ順風満帆でなくても、それでも私たちは大丈夫なのです。
それは、個々人の信仰の歩みにおいてもそうですし、昔から舟にたとえられるキリスト教会の歩みにおいても同じです。逆風に吹かれたり、嵐に遭ったりするのです。漕いでも漕いでも、ちっとも前に進まない。もうダメだ。沈んでしまう。そう思うような状況に追い込まれることもあるのです。しかし、大丈夫なのです。天と地を造られた全能の神様が、その全能の御力を以て、私たちを守り、支え、導いてくださるからです。父なる神様の御前にあって、主イエスが私たちのために執りなしの祈りをしてくださっているからです。この主イエスの祈りの中に、私たちの一日一日はあるのです。だから、大丈夫なのです。私たちの抱えている問題や課題は、私たちの願ったような形ではなくても、必ず道が拓かれます。海の中にさえも、道を拓いてくださる神様です。湖の上も歩いて来られる主イエスです。その主イエスが、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と告げておられるのです。だから、私たちは大丈夫なのです。この一週も安んじて、主の備えてくださった道を歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を共にし、あなたの御言葉に養われましたことを感謝いたします。主イエスはまことの神として、「安心しなさい、わたしである」とおっしゃいます。困難のときにこそ、ご自分が私たちと共におられることを示し、励ましてくださいます。そのことを心から信じ、主イエスにすべてをゆだねて、これからもそれぞれの生涯を歩ませてください。このひと言の切なる感謝と願いを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録10章24-34節
説 教 「神は人を分け隔てなさらない」 高橋加代子
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約)ダニエル書9章15-19節
(新約)マルコによる福音書6章45-56節
説 教 「行き悩む者と共に歩む主」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録10章9-16節
説 教 「ペトロの見た幻」 山﨑和子長老
午前10時30分 伝道礼拝 司式 山根和子長老
聖 書
(旧約)詩編126編1-6節
(新約)マルコによる福音書6章30-44節
説 教 「いのちを分け与えられる主」 藤田浩喜牧師
ヨナ書3章1~4節 2024年6月9日(日) 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
魚の腹の中に三日三晩閉じこめられていたヨナは、神が魚に命じられると陸地へ吐き出されました。彼は、彼の身を襲った一連の出来事の最初の地点に戻ったと、言ってよいでしょう。1章1節の振り出しに戻ったのです。
そしてここで、最初と同じように、主の言葉がもう一度ヨナに臨みました。主の言葉が臨む、つまり主なる神が再びヨナに向かって、直接的に語りかけられたのです。その神の言葉の内容は後で学びますけれども、要するに最初の命令と同じように、ニネベという大きな都へ行くことを命じる内容になっています。言葉は少し変わっていますが、1章2節の神の言葉と、3章2節の神の言葉とは、内容的には全く一つです。ニネベに行け、それがヨナに対する神の変わらぬ命令でした。
ニネベに神の言葉を運んで行くのに、なぜヨナでなければならないのでしょうか。いやだと言って逃げるヨナではなくて、彼以外のもっとふさわしい預言者、もっとふさわしい人物を、なぜ神はお選びにならないのでしょうか。私たちがそう考えるだけではなくて、ヨナ自身もそのように考えたと推測することもできます。また、聖書に出てくる人物の中で、神の命令にすぐに応じることができなかった人々を私たちは幾人も知っています。例えば、出エジプトの指導者となるべく主なる神の命令を受けたモーセは、次のように神に訴えています。「ああ主よ、どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」。モーセは、「わたしは言葉が巧みではないのです。他の人を遣わしてください」と神に訴えました。
偉大な預言者として知られるエレミヤも、主の言葉が初めて臨んだ時、次のように答えています。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」。エレミヤも神のご委託や命令に応えることができないと、最初に応じています。しかしモーセに対しても同じですけれども、エレミヤには再び次のような主の言葉が臨みました。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいる」。こう言われて、エレミヤは神の命令どおり預言者としての働きをせざるを得なくさせられました。彼らは自分に臨んだ主の言葉に従う者となったのです。ヨナも、そのような変化を強いられることになります。誰が、ある務めをなすのにふさわしいかは、人が決めるのではなくて、神がお決めになられる、ということを教えられます。ニネベに行って主なる神の言葉を語る者は、ヨナでなければならない、それは神がお決めになられたことでした。神がお決めになられたことであるならば、そこでは、人間の反抗や抵抗や挫折を超えて、神のご意志が貫かれていくのです。神の側の必然性は変わらないと、言わざるを得ません。箴言16章9節に、「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩備えてくださる」と、記されています。また19章21節には、「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」とも述べられています。このことがヨナにおいて起ころうとしています。
ヨナに再び臨んだ主なる神の言葉は、先ほど触れましたように、1章2節の言葉と基本的には同じです。異なった点があるとすれば、第一回目の1章では、「彼らの悪はわたしの前に届いている」という言葉があって、それを受けて神の言葉がニネベに宣べ伝えられなければならないと語られていたことです。「もう見過ごしにできないほどに悪がその都に満ちているから、御言葉を携えてそこに行け」。ニネベに派遣される理由、神の動機がそのように記されていました。
それに対して3章では、そのことは語られていません。3章には「わたしがお前に語る言葉を告げよ」という新しい命令が加えられています。そのように神がヨナに託す言葉のみを語れとの、厳しい制約を課せられている点が、最初の命令と表面的に違っています。この「わたしがお前に語る言葉」と言われている「言葉」という用語は、原語的には旧約聖書においてここだけにしか用いられていない言葉です。それは、宣言、宣告、通告といった内容を持つ用語なのです。つまり対話の言葉というものではない。相手の了解を求めたりするような性格の言葉ではなくて、ある意味では相手が承認しようがしまいが、とにかく一方的に語らなければならない、宣告しなければならない言葉、それが、わたしがお前に語る言葉といわれる「言葉」の性格なのです。
主イエス・キリストが宣教活動を始められた時の第一声も、そういう性格の言葉でした。「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」。これは対話とか、相手の了解を求めて語る性格の言葉ではありません。神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ。これは罪の指摘の言葉であり、悔い改めを命じる言葉であり、そしてその言葉に従う時に、赦しとしての祝福が約束されていることを宣言する言葉なのです。
ヨナは、神が語れと命じられた言葉のみを語ればよいのです。彼はニネベに行って、自分が語るべき言葉を工夫し、考え出し、ニネベの人々と対話しながら、何とかして彼の独特の話術、語り方で相手を説得しようとする必要はないということです。彼は、神の言葉を運ぶ器、道具に徹することが求められています。2章の終わりの「救いは、主にこそある」との確信に立って、ただ託された御言葉をそのまま語り告げればよいのです。もちろん心を込めて、相手を思いやりつつということは必要でしょうけれども、もっと大事なことは、神が命じられた言葉を曲げないで、その内容を薄めないで語る、ということです。今日(こんにち)の説教者の務めもそこにあります。ヨナはそのようにしてニネベに向かって新たな出発をいたしました。
さて、彼が語ったのはどんな言葉であったでしょう。彼が語った言葉は極めて簡潔です。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」。これだけしか記されていません。文字どおり、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」とだけ彼は語ったのか、それとも要約すればこのことにつきる、ということなのか、それははっきりいたしません。
しかし、それにしても、取り付く島もないほどに、冷たく言い放つような言葉です。まさに、宣告であり、宣言であり、通告です。こういう語り方をしたのはヨナの性格によるのか、それともこれだけしか彼は語ってはいけなかったのか、そういうことで論じられることがあります。ヨナは、割り当てられた言葉を機械的に、無機質に語っているに過ぎない、と考える人もいます。この語り方の中に、彼がニネベに行ったのは心からの服従ではなかった、仕方なく行ったことのしるしがあるのではないか、と考える人もいます。
一方、ヨナが語った言葉は、ヨナ自身の人柄とか性格から出てくるものではなくて、これこそが神が語れと命じられた宣言的な言葉そのものである、と理解する人もいます。神が命じられた言葉は、この一語に尽きるという理解もできます。しかし重要なことは、その内容とその言葉がもたらした結果の方です。
この結果については5節以下に記されていますので、次回ご一緒に学ぶことにいたします。今日は、その言葉の内容を考えてみましょう。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」。これは滅びの宣言です。しかも自然現象の中で滅んで行くのではなくて、明らかに神によって滅ぼされるとの通告です。巨大な都ニネベの悪も巨大であった。それゆえに神はあと四十日したらこの都を滅ぼすと告げておられます。
四十という数字は一つの事柄が満ちることを示す数字として、聖書の中でしばしば出てまいります。モーセがシナイ山に登って、神から十戒を受けた時、彼は四十日四十夜山にいた、と出エジプト記に記されています。イエス・キリストがサタンから誘惑を受けて、荒れ野におられた期間も、四十日と記されています。その他、四十という数字は、一つの事柄が満ちるという意味をもつものとして、聖書の中にしばしば出てくる数字です。
ニネベの都もあと四十日間だけが残されている、と語られています。この数字には二つの意味があります。一つは、悪に対する神の忍耐に期限があることを示す数字であるということです。異教の地とはいえ、ニネベの都の悪は目を覆うものがあった。神はこれ以上この都の悪を放っておくわけにはいかない、見過ごすわけにはいかない、という宣告がここにあります。このように、四十という数字は、神の忍耐の期限を表わすものとして理解することができる側面があります。
もう一つの面は、四十日の猶予は、その間に人々が悔い改めれば滅びを免れることができる、という憐れみの期間を意味しているということです。つまり、神の第一の意思、神の最大の御心は、滅ぼすことにあるのではなくて、人々に警告を与え、悔い改めを促し、そして人々を赦すことにあるということです。これを私たちは、四十日の猶予ということの中に見ることができるのです。
「心を翻してわたしのもとへ帰れ」と神はしばしば呼びかけられました。そのことこそが、神の御心の中心にあるのです。裁きの告知は裏を返せば、その審判から免れよという、救いへの神の激しい招きの言葉です。滅びが宣言される、裁きが告げられるということは、それを避けてわたしのもとに帰って来いという、神の熱い呼びかけを含んでいるのです。ニネベの都に対して四十日の猶予が与えられている、その間に彼らは神のもとに帰らなければなりません。私たちもまた許されている時の間に、神のもとに帰らなければなりません。
こうして小さなヨナが、巨大な都ニネベに向かって、一回りするのに三日もかかるニネベに向かって、懸命に神の言葉をもって叫んでいます。大きな都ニネベにおける彼の宣教の姿を頭の中に思い描いてみる時に、痛々しさを覚えさせられます。一人で大きな都に向かって、しかも滅びを語らなければならない、痛々しいヨナの姿が浮かんできます。しかしそれがヨナに定められた生き方であるならば、彼はそれを生きていくほかありません。そしてそれを生きて行く先に、神からの祝福が備えられています。私たちにおいても同じです。辛くても与えられた務めを、置かれている場で果たしていく時に、その先に祝福が約束されているのです。また、辛くても、与えられた命を今ある場で生きていく時に、私たちだけが祝福を受けるだけでなく、他の人々の祝福の基として私たちが用いられていくのです。神は、そのように私たちを取り扱われるお方なのです。そのことを忘れてはなりません。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝し、あなたの御言葉を聞くことができましたことを、感謝いたします。神さま、あなたはヨナに宣教の言葉を託されたように、私たちにも宣教の言葉を託してくださっています。それは必ずしも世の人々にとって、耳ざわりのよい言葉ではないかもしれません。しかし、あなたの御言葉が世の人々にまことの命をもたらす言葉であることを信じて、その務めを果たさせてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録7章54-60節
説 教 「ステファノの殉教」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 三宅恵子長老
聖 書
(旧約)ヨナ書3章1-4節
(新約)マルコによる福音書1章14-15節
説 教 「託された御言葉を語る」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書 6章14~29節 2024年6月2日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝与えられております御言葉は、洗礼者ヨハネが少女の踊りの褒美に首をはねられたという、まことに痛ましい出来事が記されております。
この出来事は、主イエスが人々を悔い改めさせるために12人の弟子たちを村々に二人ずつ遣わされたという記事と、弟子たちがその伝道の旅を終えて主イエスの所に来て報告したという記事との間に挟まれた形で記されております。ちょうどサンドウィッチのようになっているわけです。このようなサンドウィッチ構造のものは、挟まれているものが挟んでいるものをより明確にするために、強調するために、こういう構造にしてあると考えられるのです。この場合ですと、人々に悔い改めを求めるために主イエスによって弟子たちが遣わされたわけです。そのことを更に明確に強調するためにこの記事があるとすれば、それはここに記されている出来事は、悔い改めというものがどんなに難しいことであるか、あるいは悔い改めないとはどういうことなのか、そのことを具体的に示しているということなのでしょう。
悔い改めるということが、主イエスの福音を信じてその救いに与るためにはどうしても必要なことです。そして、この悔い改めは、どうしても今までの自分が変わるということを意味するわけです。何も変わらないで悔い改めるということはあり得ない。しかし、人は変わりたいと思っても、なかなか変われない。あるいは、変わりたくないという、堅い、石のような心を持っているものなのです。これが砕かれないと、主イエスの福音を受け入れることができないわけです。
今朝与えられております御言葉は、三つの部分に分けられます。初めは14~16節で、人々は主イエスをどう見ていたのか、そしてヘロデはどう見ていたのかということが記されています。次は17~20節に、ヘロデがヨハネを捕らえた理由が記されています。そして21~29節に、どのようにしてヨハネは首をはねられることになったのかということが記されています。
順に見てまいりましょう。14節「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った」とあります。主イエスのことが人々の評判になり、遂にヘロデの耳にも入ったというのです。このヘロデというのは、ヘロデ大王の息子の一人でヘロデ・アンティパスという人です。彼は当時ガリラヤとベレアの領主でした。
人々は主イエスのことを、「洗礼者ヨハネが生き返ったのだ」、「いや、エリヤだ。」「いや、昔の預言者のような預言者だ」と、いろいろ言うわけです。人々は、主イエスがただ者ではないということは分かるのです。ただの人なら、主イエスがなさるような奇跡を行えるはずがないからです。それは正しいわけですが、主イエスが救い主だ、キリストだ、神の子だと言う人は誰もいなかったようです。そういう中で、ヘロデはどう思ったかと言いますと、16節に「ところが、ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った」とあります。ヘロデはヨハネが生き返ったのだと思ったというのです。ここには、ヨハネの首をはねてしまったことへの恐れというものがあると思います。彼は、確信を持ってヨハネの首をはねたのではないのです。成り行き上、そうなってしまったと言ってもよいかもしれません。
そもそも、どうしてヘロデはヨハネを捕らえて牢に入れたのか。17~18節には「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言ったからである」とあります。このヘロデ・アンティパスは、異母兄弟であるフィリポの妻であったへロディアを妻としたのです。ヨハネはそのことを、律法に違反していると糾弾したのです。これは、十戒の第七戒である、姦淫の罪を犯していることは明らかでしょう。民衆から大変な支持があるヨハネがそのように自分を糾弾するのを、領主であったヘロデは、黙って見ていることはできなかったのです。それで、捕らえて牢に入れたということなのです。
領主ヘロデに対してこのようなことを大っぴらに言えばどうなるかということを、ヨハネ自身全く予想していなかったわけではないでしょう。しかし、ヨハネは言いました。なぜでしょう。理由ははっきりしています。ヨハネが預言者だったからです。神様の御前に生きる者だったからです。ヨハネにしてみれば、領主であろうと誰であろうと、神様の御前に、御言葉に従って生きなければならないのであって、明らかに神様の御心に反している者を黙っておくことはできない。そういうことだったのだと思います。
このヨハネに対しての態度が、ヘロデとへロディアとでは随分違うことが19~20節に記されております。「そこで、へロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」妻のへロディアは、ヨハネを殺そうと思っていたのです。一方、ヘロデは、ヨハネを捕らえて牢に入れたといっても、それでもヨハネが正しい人、神様に遣わされた聖なる人であると分かっていたというのです。それ故、「彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」というのです。このヘロデの心をどう理解すればよいのでしょうか。私は、この時の領主ヘロデの心は、「悔い改めに遠くない」、そういう状態ではなかったかと思います。ヘロデはヨハネが語ることが正しいと分かっているのです。そして神様が自分に求めていることが何かということも分かっている。そして、分かるがゆえに、彼は「当惑した」のです。「そんなことを言われても困る。そんなふうには自分は変われない。」と思った。だから当惑したのです。でも、ヨハネの語ることは正しいから、それを退けたり、まして殺したりすることなどできない。それどころか、ヨハネの語ることに喜んで耳を傾けていたのです。
そして、遂にその日が来ました。21節「ところが、良い機会が訪れた」とあります。ヨハネを殺すのですから少しも「良い」機会ではないのですけれど、それはヘロデの誕生日でした。地位の高い役人や軍人、有力者等々、ガリラヤの政財界の主立った人たちが集められ、宴会が催されたのです。その宴会の席で、へロディアの娘、これはヘロデとの間の子ではなく、前の夫との間の子と考えられています。聖書には名前は出て来ないのですが、その名はサロメと伝えられています。サロメはこの時はまだ少女と言われる年齢だったわけですが、この宴会の場で踊ったというのです。当時の宮廷の常識からすれば、王の娘が人前で、しかも宴会の席で踊るなどということは、全く考えられないことでした。考えられないことだからこそ、大いに盛り上がったのでありましょう。ヘロデは酒の勢いも手伝ったのでしょう。少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と言い、固く誓ったのです。少女は座を外し、母親のへロディアに相談しました。するとへロディアは、「洗礼者ヨハネの首を」と娘に告げたのです。娘はヘロデのところに戻ると、母親に言われたとおり、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願いました。何とも恐ろしい言葉です。へロディアの、ヨハネへの憎しみの深さには恐ろしいものを感じます。人は、自分のしたことが間違っていると指摘されると、ここまでの憎しみを抱くものなのかと思わされます。へロディアにしてみれば、自分のプライドも傷つけられたということでもあったでしょう。しかし、これは多かれ少なかれ、誰でも身に覚えがあることでもありましょう。
問題は、この時のヘロデの対応です。「何をバカなことを言っているのか」で済ますこともできたと思います。しかし、そうはしなかったのです。26節「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった」とあります。何と愚かなことでしょう。ヘロデは客の手前、この願いを退けなかったというのです。客の手前です。招いた客に何と思われるか。そのことを思うと、この願いを退けたくなかったのです。彼は「ヘロデの口約束は当てにならない」と言われることを恐れたのでしょうか。そうではないと思います。「ヘロデはヨハネを恐れている」。そう思われたくなかったということなのではないでしょうか。自分は領主だ。何も恐れるものはないのだ。自分がこのガリラヤで一番偉いし力もある。そのことを示したかったということなのでしょう。
まことに愚かなことです。先ほど、ヘロデは悔い改めに遠くないと申しました。確かに遠くなかったと思います。しかし、悔い改めるためには、一歩を踏み出さなければならない。その一歩を、ヘロデは踏み出せなかったのです。そして、そうしている内に、へロディアの策略によって、逆の一歩、神様の御心を退けるという一歩を踏み出してしまったのです。ここで注目すべきは、「客の手前」という言葉です。ヘロデは人の目、人の評価というもので自分の一歩を決めてしまったということなのです。一方、ヨハネは神様の御前に立ち続けました。人の目を気にして人の前で生きるのか、神様の目を考えて神様の御前に生きるのか。悔い改めるとは、この「誰の前に生きるのか」という所において、決定的な転換を求めるものなのです。私たちは誰の前に生きるのか。人の前か、神の前か。それが問われるのです。
もちろん、私たちはこの世に生きているのですから、人の目など全く気にしないということはあり得ません。神の御前に生きているのだからと、傍若無人に生きてもよいということでもありません。しかし、人の目を気にして神様の御心に反することも行ってしまうということが、悔い改めた者の歩みでないことは明らかでありましょう。悔い改めるとは、何よりも神様の御前に生きる者となるということなのです。ヘロデは、その一歩を踏み出せなかったということなのです。そして、それゆえに主イエスの話を聞いて「ヨハネが生き返った」のだと思い、恐れ、怯えなければならなかったのです。
さて、洗礼者ヨハネは、王の娘の踊りの褒美という、まことに愚かな理由で殺されることになってしまいました。何とも痛ましいことであります。しかしこのことは、主イエス・キリストの十字架を指し示しているのです。主イエスもまた、祭司長や律法学者たちの妬みのために十字架につけられたのです。ピラトは主イエスを十字架に架けないで済むようにしたいと思いましたが、「十字架につけよ」と叫ぶ人々の声に押されて、ヘロデと同じように、まさに人々の手前、十字架につけることを決めたのでした。ヨハネの死も、主イエスの死も、人間の罪のゆえでした。神様は、ヨハネの死も、主イエスの死も、お止めにはなりませんでした。神様は何もしない、そのようにも見えます。しかし、そうなのでしょうか。愚かな人間の、罪にまみれた、憎しみや妬みの結果もたらされた死です。しかし、そのヨハネの死は主イエス・キリストの十字架の死と一つにされ、永遠の命へとつながっているのです。私たちは、天の御国において、きっと洗礼者ヨハネとも相見えることでしょう。
神様の御前に生きた者の命が、無駄に失われるなどということはあり得ないのです。神様の御前に生きる私たちにも、その命が備えられています。その希望を確かにしてくださるために、神様は聖餐を備えてくださったのです。ただ今から私たちは聖餐に与ります。この聖餐は、悔い改めて神様の御前に生きる者とされた者が、やがて天において主イエスと共に与る食卓を指し示しています。今、共々に聖餐に与り、御国に向かって神様の御前に生きる者としての歩みを、いよいよ確かにしていただきたいと心から願うのであります。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を心から褒め称えます。今日も御言葉をお与えくださり、あなたの御心を示してくださったことを感謝いたします。どうかヘロデのように人の目を気にするのではなく、神様の御前に生きる者として、私たちを導き支えていてください。あなたに望みを置きつつ、それぞれの人生を生きる者とさせてください。今週も教会につながる兄弟姉妹の歩みをお守りくださり、折にかなった導きと励ましをお与えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録4章1-14節
説 教 「救われるのはイエス・キリストによって」 渡辺望
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)
聖 書
(旧約)ヨナ書4章1-11節
(新約)マルコによる福音書6章14-29節
説 教 「神の言葉は生きつづける」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書 6章6節b~13節 2024年5月26日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
主イエスの弟子たちは、いつも主イエスと一緒におりました。主イエスが村から村へと神の国の福音を宣べ伝えて旅をすれば、弟子たちも一緒に旅をしました。主イエスが奇跡をすれば、弟子たちはそれをいつも近くで見ておりました。主イエスがお語りなる言葉も側でいつも聞いておりました。しかし、今朝与えられた御言葉において、主イエスは12人の弟子たちを遣わされました。弟子たちは、初めて主イエスを離れて、自分たちだけで神の国の福音を伝えるために出かけたのです。ずっとではありません。この時だけです。これが終われば、また弟子たちは主イエスと旅を続けたのです。ですから、後に復活された主イエスは、弟子たちを全世界に福音を宣べ伝えさせるために遣わされますが、これはその時に向けての予行演習のようなものではなかったかと思います。主イエスが十字架にお架かりになり、三日目に復活されて、弟子たちを全世界に遣わされる。その本番に向けて、遣わすに当たっての具体的な指示を与え、その通り行ったら上手くいったという成功体験を弟子たちにさせておくためではなかったかと思います。その意味では、ここに記されていることは、現在に至るまで、主イエスに遣わされた者として生きる伝道者、主イエスに遣わされた者として生きる教会、キリスト者のあり様を示している、そう言ってよいと思います。私たちは、主イエスに遣わされた者なのです。
まずここで目にとまりますのは、弟子たちが二人ずつ組にして遣わされたということです。一人ではなかったのです。これは何を意味しているでしょうか。すぐに考えつくのは、困ったり行き詰まったりした時でも、二人ならば、励まし合って、支え合って、事に当たることができるということでしょう。一人というのは大変弱いのです。誘惑にも負けやすいですし、独りよがりにもなりやすいのです。ここでは二人ずつとなっていますが、一人ではないということが大切なのだと思います。
また、この二人ということには、こういう意味もあったと思います。伝道者が伝えるのは神様の愛ですから、自分自身がそのような愛の交わりに身を置いていなければ、語る言葉に力もリアリティーもなくなってしまうということです。その意味で、伝道者の交わり、同労者の交わりというものはとても大切で、また麗しいものだと思っています。神様の愛が現れ出る交わりだからです。
しかし、このように申しますと、伝道者があるいは教会の奉仕者が立ち続けることができるのは、そのような交わりによって支えられることよりも、神様の召命に対する確信によるのではないか、と思われる方もおられるかもしれません。確かに、この召命という事実が何よりも大切なのです。ここで主イエスは「十二人を呼び寄せ」、そして遣わされたのです。主イエスに召し出された者として遣わされる。この事実が何より大切です。しかし、その召命に立ち続けるためには、同労者との交わりが必要なのです。主イエスは、召して遣わすだけではなくて、その召しに立ち続けることができるように、二人ずつ組にされたのです。
教会は、この主イエスの愛と知恵に満ちた配慮を、大切なこととして受け止めてきました。復活された主イエスによって全世界に遣わされた弟子たちの様子が、使徒言行録に記されております。そこで私たちは大伝道者パウロの伝道の歩みを見ることができます。彼は何度も伝道旅行をしておりますが、あの大伝道者パウロは、いつも一人では伝道に行っていないのです。彼はバルナバ、シラス、テモテといった同労者といつも一緒だったのです。ここには、主イエスが二人ずつ組にして使徒たちを遣わされたということが生かされているのだと思います。
8~9節には具体的な命令が記されています。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」ここには常識では考えられないことが記されております。パンも袋も金も持っていくなと言うのです。これと同じ記事がマタイによる福音書10章とルカによる福音書9章に記されておりますが、そこでは、杖も下着も二枚は持っていくなと言われています。ここでは、杖は持っていってよい、履物もよいと言われています。ここで、何は持っていってよい、何は悪いと、中学校の修学旅行の持ち物リストではないのですから、そんなことを詮索してもあまり意味はないだろうと思います。また、ユダヤ教徒の町ではどこでも、旅人のため食べ物と衣服の世話をする人がいたと言われます。
大切なこと、主イエスがここで言われていることは、通常の旅においては持っていくのが当たり前、それが無ければ旅などできないと思うようなものを「持っていくな」と言われたということです。その理由ははっきりしています。弟子たちは神様の愛を伝えに行くのです。神の国は主イエスと共にもう来ている。神様は今、ここで生きて働いてくださっている。だから悔い改めよ。そう宣べ伝えに行くのです。その宣べ伝える事柄を、身を以て証ししなくてどうするかということなのです。神様を信頼しなさいと言っておいて、自分はお金を頼り、二、三日の食糧を確保しておこうというのでは、言っていることとしていることが違います。神様がすべてを守ってくださるのだから、そのことを信じ、神様にすべてを委ねて行きなさい。その神様への信頼がなくて、どうして神の国の福音を宣べ伝えることができますか。「神の国は来ているのです。神様の御支配を信じなさい。それを身を以て示しなさい。」そう主イエスは、この何も持っていくなということによって、告げられたのでありましょう。この生ける神様への信頼、これこそキリスト者になくてはならないものなのです。世の人々がキリスト者に、キリスト教会に目を見張るのは、この生ける神様への信頼と、その信頼に応えてくださる神様の御業なのです。これが無ければ、キリスト教会は語るべき言葉がありません。キリスト教会というものは、これだけ努力しました、その結果こうなりました、そういう世界に生きているのではありません。ただ神様の憐れみ、生ける神様の御業、神様の奇跡を証しする者として立っているのです。
そして11節です。「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」何とも冷たい言葉のように受け取られかねない言葉です。しかし、これも実に主イエスの愛と配慮に満ちた言葉なのです。「足の裏の埃を払い落とす」という行為は、私はもう知らない、あなたとは関係ない、そういうことを示す行為です。ですから、何とも主イエスらしくないと感じてしまいますが、これは遣わされる弟子たちに対しての、主イエスの慰めの言葉なのです。こういうことです。主イエスの福音を携えて弟子たちは村々町々に行くわけです。しかし、そのすべての所で歓迎されるとは限らないのです。この直前のところで、主イエスが故郷のナザレでは歓迎されなかったということが記されています。主イエスでさえそうなのです。まして、弟子たちが、行った村全てにおいて歓迎されたと考える方が不自然でしょう。弟子たちも、村人に受け入れてもらえず、冷たくあしらわれるということがあるだろう。そのような場合、弟子たちはどう思うか。自分に力がなかったからだ。自分は伝道者としてふさわしくないのではないか。自分にはあれができない、これができない。そのように自分を責めるということが起きるのです。そのような思いを抱いたことが一度もないという伝道者はいません。この時主イエスに遣わされた弟子たちもそうだったと思います。主イエスはそのことをあらかじめ知っておられ、この言葉を告げられたのでしょう。つまり、「あなたがたを受け入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら」、それはそこに住む人々の問題であって、あなたがたの責任ではないのだ。それはそこに住む人々が自分で決めたことであって、その人たちの責任なのだ。そのように、前もって上手くいかなかった場合に備えて、お語りになったということなのでありましょう。
もちろん、この主イエスの言葉を逆手に取って、私の言うことを受け入れないのはあなたがたの責任だ、私の責任ではない。そんなふうに伝道者が開き直るのは問題でしょう。自らの欠けをきちんと認めた上で、それでも、その人が福音に耳を、心を開くかどうかは神様がお決めになることであり、聞いた本人が決めることなのです。それは神様の領域であって、私たちの範囲を超えていることなのです。問題は、主イエスに遣わされた者として忠実にその業に仕えているかどうか、その一点に尽きるのです。
さて、主イエスは弟子たちを遣わすに当たって、7節後半で「汚れた霊に対する権能を授け」られました。主イエスは何も与えないで、ただ何も持っていくなと言われたのではないのです。汚れた霊、悪霊と戦い、これを追い出す権能をお与えになったのです。権能という言葉は、耳慣れないかもしれませんが、教会ではとても大切な言葉です。意味は、文字通り権威・権限と力ということです。教会はキリストの権能を行使するために建てられています。キリストの権能は、教会以外のどこにも与えられていないのです。
このキリストの権能は、キリスト教会にずっと与えられているものです。これが与えられているから、教会は教会であり続けているのです。説教、祈祷、洗礼、聖餐、あるいは戒規といったものは、この権能を行使する場面です。この礼拝の場が、汚れた霊を追い出す場なのです。私たちは、様々な心の傷を持っていますし、様々な具体的な課題を持っています。何の問題も持っていない人など一人もいません。しかし、私たちはこの礼拝に集っています。そして、この礼拝に集うたびに、神様が私を愛してくださっていることを、必ず私を救いの完成へと導いてくださることを、心に刻むのです。そのことによって、私たちは一切の悪しき霊の誘惑から守られているのです。悪霊・汚れた霊の働きは明らかです。私たちから生きる力・喜び・勇気・希望・信仰・愛を奪っていくのです。しかし、この礼拝において神様は働いてくださり、再び私たちに信仰を与え、悪しき霊の誘惑から助け出し、御国への歩みを新しく歩み出させてくださるのです。生きることの意味を教え、生きる力と勇気と希望を与えてくださるのです。
悪霊を追い出す権能は、もちろんこの教会にも授けられています。このことを私たちはしっかり受け止めなければなりません。世には汚れた霊どもが跋扈(ばっこ)しています。そして、汚れた霊の囚われ人になっている人が、おびただしくいるのです。この人々を汚れた霊どもから解放し、神様のもとに取り戻すため、キリストのものとするために、この教会は立っているのですし、私たちは遣わされて行くのです。生きる力と勇気を失いかけている人々に、主イエス・キリストによる救いの希望を与える者として遣わされていくのです。聖霊なる神様の御業の道具として、それぞれ遣わされている場において、存分に用いられていくために、共に祈りを合わせましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を合わせることができ、感謝いたします。神様、教会は、キリスト者はイエス・キリストの福音を宣べ伝えるために遣わされています。宣教は権能をもって私たちに託されているあなたの御業です。どうか、主イエスの御命令に従いつつ、喜ばしく福音宣教に仕えさせてください。聖霊においてあなたが共に歩んでくださることを信じて、暗さが支配つつあるように見えるこの世界に、福音の灯を輝かすことができますよう、私たちを強めていてください。今日から始まる一人一人の一週の歩みを、あなたが支え導いていてください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録3章1-10節
説 教 「わたしには金銀はないが」藤田百合子
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約)列王記下4章42-44節
(新約)マルコによる福音書6章6後半-13節
説 教 「遣わされた者として生きる」藤田浩喜牧師