主のよき力に守られて

マタイによる福音書2章13~23節  2023年12月31日(日)主日礼拝

                           牧師 藤田浩喜

◎今日は本年最後の礼拝を守っておりますが、クリスマスの時期にはあまり選ばれることのない箇所をテキストにいたしました。それは2千年前の最初のクリスマスも、決して平和なクリスマスではなかったということを、思い起こすためです。今日のテキストの直前部分には、有名な物語が記されています。それは東の国の占星術の学者たち(博士たち)が黄金、乳香、没薬の贈り物をもって、生まれたばかりの救い主キリストを礼拝するためにやって来たという美しい物語です。

 彼らは救い主の生まれた場所を探し当てる前に、エルサレムへ立ち寄り、ヘロデ王を訪ねました。そしてこう尋ねたのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)。ところが、それを聞いたヘロデは、「もしかすると自分の地位が脅かされるのではないか」と不安になり、一計を案じるのです。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(同2:8)。もちろんそれは、嘘です。彼らから、その赤ちゃんの居場所を聞き出し、暗殺しようと企んだわけです。

 しかし彼らは、その救い主を見つけて、礼拝した後で、夢で神からのお告げを聞きます。「ヘロデのところへ帰るな」(同2:12)。彼らは別の道を通って、自分たちの国へ帰っていきました。そのことを知ったヘロデは激怒いたします。そして、「二歳以下の男の赤ん坊を一人残らず殺せ、皆殺しにせよ」という命令を下すのです。

◎クリスマスの喜びの歌声が、自分の子供を殺された母親の泣き叫びでかき消されるようです。マタイはこのように記しております。「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから』」(マタイ2:17~18)。

 この言葉は少し説明が必要かもしれません。ラマというのは、ベツレヘムのこと、あるいはその近くにあった古代の町であります。ラケルの墓はそこにありました。ラケルというのは、創世記に出てくる女性であり、イスラエルの族長であったヤコブの妻です。ちなみにヤコブは、アブラハムの孫、イサクの息子です。ヤコブは神の人と格闘して、イスラエルという祝福された名前をもらうのです。イスラエルとは、「神は支配したもう」という意味です。ラケルはその「イスラエル」という名前の男の妻でありますから、いわば、イスラエル民族の母のような意味合いをもっているのでしょう。そのラケルが泣いている。墓の中から泣いている。子供が取られたから。このところに、預言者エレミヤの名前が出ていますが、この言葉は実は旧約のエレミヤ書からの引用です。エレミヤがずっと昔に語った言葉をマタイが用いたのでした。エレミヤ書31章15節に、こう記されています。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子はもういないのだから」。

 ここでは、イスラエルの民のもう一つの悲しい歴史が重ねられているのです。それはバビロン捕囚という出来事でありました。イスラエル王国はダビデ王、ソロモン王の時代には栄華を極めるのですが、その後どんどん落ちぶれていき、さらに国は北と南の二つに分裂いたしました。エレミヤの時代にはすでに北王国イスラエルは滅び、南王国ユダもバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々が捕虜としてバビロンに連れて行かれました。これが、紀元前6世紀に起こった、バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。このラマはバビロンに連れて行かれた時の通過点であったといわれています。その連れて行かれる人を見て、ラケルが墓の中から泣いている。慰めてほしくない。子供はもう帰らないのだから、ということなのです。

 マタイはこれを、ヘロデ王の幼児虐殺事件と重ね合わせました。あのエレミヤの預言の言葉が、今ここに実現している。ラケルの泣き声が時代を超えて、こだましているのです。バビロン捕囚の時代の母親の嘆きと、クリスマスの時のヘロデ王に殺された母親の泣き叫ぶ声がこだましている。ここ3か月、新聞やテレビのニュースで、イスラエル軍がパレスチナのガザを攻撃し、そこを必死で逃げ回っているパレスチナの子どもたちの姿、また死んだ子どもたちのために泣き叫んでいる人の姿が映し出されています。ウクライナにおいてもそうでありましょう。あのラケルの泣き声は、今日までもこだましているのです。あのラケルの泣き声が地球全体を覆い尽くすようにこだましているのです。

 2千年前にこの泣き声を生み出したものは、ヘロデ王の敵意でありました。それが、力をもたない者の上にふりかかってくるのです。力を持つ者、権力を持つ者、武力を持つ者の敵意と欲望、それが罪のない人々の死と、その家族の嘆きを生み出すのです。

◎しかし、いかがでしょうか。今日のテキストは、そうした暗い出来事の中で、かすかではありますが、確かな希望を告げております。それは、どのようなヘロデ王の敵意も、あるいは彼の暴力も、軍事力も、イエス・キリストを見つけ出して、殺すことはできなかったということであります。神が守ろうとされるものは、どんな力も及ばない、不思議な力で守られるのです。それは、彼がこの時死んではならなかったからです。彼が死ぬべき時は、別に定められていました。ですから、神はあらゆる手段を用いてイエス・キリストを守り抜かれました。このことは私たちの希望です。私たちは敵意がぶつかる中で起こる痛ましい現実について、ラケルと共に嘆かなければならないでしょう。またそのような現実を生み出している敵意というものを、憎まなければならないでしょう。そうした悲劇が一日も早くなくなるようにと、真剣に祈らなければならないでしょう。しかしそういう暗い現実の中にあっても、幼子イエスは不思議にも守られ、生き延び、成長していくのです。聖書は、そのことに私たちの目を向けさせようとします。私たちはそのことを信じるがゆえに、どんな時にも希望をもって、この世の困難な課題に対して真剣に、しかし心のゆとりを失わないで、立ち向かう勇気が与えられるのではないでしょうか。

 詩編46編にこういう言葉があります。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地は姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」(詩編46:2~4)。

◎幼子イエスを守るために、大切な働きをしたのは、マリアの夫ヨセフでした。彼は夢に現れた天使の言葉に聞き従い、自分の郷里を捨ててエジプトへ落ち延びていきました。実の子ではありません。彼が自分の子ではないこの幼子のために払った犠牲が、一体どれほど大きなものであったかと思います。やがて危険が去った時、彼は再び妻マリアとその子イエスを護衛して、故郷ナザレに戻って行きます。

 このヨセフという人物は、実は福音書の最初だけに登場する人です。2章の終わりに、無事にマリアと幼子イエスをナザレに戻した後は、もう出てきません。そういうところから、このヨセフは主イエスが成人する前に、世を去ったのであろうと言われています。もしもそうだとするならば、彼の短い生涯は、いわばイエス・キリストの母となったマリアを守り、彼女から生まれた幼子イエスを受け止め、その命を守るという課題に捧げられたと言うこともできるでしょう。聖書の中のヨセフは、一言もしゃべっていません。それはマリアと違うところです。彼の姿はただ、「信仰の服従」という一語に尽きると思います。美しい姿であると思います。

 私たちにも、このヨセフのような「信仰の服従」が求められているのではないでしょうか。もしもそうしようとするならば、ヨセフが背負ったような犠牲が伴ってくることもあるでしょう。イエス・キリストが後に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と、言われたとおりです。しかし私たちは、犠牲を払って主に従っていくときに、それによって逆に、私たち自身が支えられるという経験をするのではないでしょうか。

◎聖クリストフォロスの伝説をご存じでしょうか(英語ではクリストファーです)。クリストフォロスは川の渡し守でしたが、たまたま一人の少年を背負って川を渡ることになりました。しかし一歩一歩進むうちに、どういうわけか、少年がずしりずしりと重くなっていくのです。彼は水をかぶりながら、足をふんばって何とか川を渡り切りました。クリストフォロスがふとうしろを振り返ってみると、そこはものすごい急流でありました。その時、彼は悟るのです。もしもあの少年の重みがなければ、自分は完全に流されてしまっていたに違いない。その少年こそキリストであり、その重さは世界の重さであった。そういう伝説であります。クリストフォロスは、「少年を運ばなければ、守らなければ」、

と必死の思いでしたが、そこで逆に不思議にも、神のよき力に守られていたのです。ヨセフもきっと、何度もそのような経験をしたに違いないと思います。

◎ディートリヒ・ボンヘッファーという神学者がいました。この人はナチス・ドイツの時代に、ナチス政府に屈しない教会の抵抗運動を起こしましたが、それもやがて挫折していきます。そして最後にヒトラー暗殺を企てる地下組織に加わっていくのですが、些細なことから、それが発覚して投獄され、最後には処刑された人です。1945年4月9日、連合軍がナチス軍を破るわずか数週間前のことでした。このボンヘッファーが、1944年の年の終わりに、獄中で、一つの詩を書き残しております。

 「主のよき力に守られて」という題が付けられています。この詩の中には、いつ死刑に処せられるかわからない不安と主にある平安が、ない交ぜになっています。また彼にはマリアという若い婚約者がいましたが、そのマリアや家族に会いたいという気持ちが、ひしひしと伝わってまいります。しかしながら、それにもかかわらず、神がここに自分を置かれたという状況を受け入れて、獄中にある仲間や、看守たちと共に新年を迎えていこう、という信仰があります。こういう詩であります。

「主のよき力に、確かに、静かに、取り囲まれ、

不思議にも守られ、慰められて、

私はここでの日々を君たちと共に生き、

君たちと共に新年を迎えようとしています。

 過ぎ去ろうとしている時は、私の心をなおも悩まし、

 悪夢のような日々の重荷は、私たちをなおも圧し続けています。

 ああ主よ、どうかこのおびえおののく魂に、

 あなたが備えている救いを与えてください。

あなたが、もし、私たちに、苦い杯を、苦渋にあふれる杯を、

なみなみとついで、差し出すなら、

私たちはそれを恐れず、感謝して、

いつくしみと愛に満ちたあなたの手から受けましょう。

 しかし、もし、あなたが、私たちにもう一度喜びを、

 この世と、まぶしいばかりに輝く太陽に対する喜びを与えてくださるなら

 私たちは過ぎ去った日々のことをすべて思い起こしましょう。

 私たちのこの世の生のすべては、あなたのものです。

あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、

どうか今こそ暖かく、静かに燃やしてください。

そしてできるなら、引き裂かれた私たちをもう一度結び合わせてください。

あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私たちは知っています。

 深い静けさが私たちを包んでいる今、この時に、

 私たちに聞かせてください。

 私たちのまわりに広がる、目に見えない世界のあふれるばかりの音の響きを、

 あなたのすべての子供たちが高らかにうたう讃美の歌声を。

主のよき力に、不思議にも守られて、

私たちは来たるべきものを安らかに待ち受けます。

神は、朝に、夕に、私たちと共にいるでしょう。

そして、私たちが迎える新しい日々にも、

神は必ず私たちと共にいるでしょう」(村椿嘉信訳)。

 この歌にはメロディーがつけられ、賛美歌にもなっています。『讃美歌21』では日本語に訳されたものが、469番として収められております。このあとご一緒に、この賛美歌を歌いましょう。

 皆さんの2023年は、いかがだったでしょうか。様々な思いを秘めながら、私たちも主のよき力に守られていることを信じて、新しい年へと進んでいきましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日2023年最後の礼拝を愛する兄弟姉妹と共に守ることができ、感謝いたします。この1年は2年以上続くロシアとウクライナの戦争に加えて、10月からはイスラエルのガザ侵攻という戦争が今も続いています。2千年前と同様、子を亡くした母親の嘆きが慰められることも拒んで、世界に響き渡っています。権力や武力を持つ者の敵意と欲望は、いつもこのような不条理な悲惨を生み出します。しかしそれと同時に、そうした権力者の暴走を許した私たち自身の怠惰や無関心を懺悔いたします。神様どうかこうした不条理な戦争を一日も早く終結へと導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  1月7日(日) 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ルカによる福音書2章41-52節

説  教   「神殿での少年イエス」 三宅恵子長老

主日礼拝

(聖餐式を執行します)

午前10時30分     司式 藤田浩喜牧師 

聖  書

 (旧約) 詩編27編1-6節    

 (新約) マタイによる福音書2章1-12節 

説  教「夜の旅路-キリストを求めて」藤田浩喜牧師

次週の礼拝  12月31日(日)

 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ルカによる福音書2章22-35節

説  教   「メシアに会うまでは」 宇佐美志穂子

主日礼拝   

午前10時30分     司式 山根和子長老 

聖  書

 (旧約) 詩編46編2-4節      

 (新約) マタイによる福音書2章13-23節 

説  教   「主のよき力に守られて」  藤田浩喜牧師

主に先立って道を備える者

ルカによる福音書 1章57~66節   2023年12月17日(日)主日礼拝説教

                                            牧師 藤田浩喜

アドベント第三の主の日を迎えております。ルカによる福音書は、主イエスの誕生の前に洗礼者ヨハネの誕生を記しております。それは、主イエスの誕生が、偶然、たまたま、その時に起きたことではなくて、神様の御計画の中で起きたことである。そして旧約聖書において預言という形で示されていた神様の御心の成就であるということを示しているわけです。マラキ書3章1節にも「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」と預言されていたように、救い主が来られる前には、主の道を備える者、神様からの使者が遣わされることになっていたからです。救い主が来られる前に、救い主に先立つ者、道を備える者が来ることが預言されており、それが洗礼者ヨハネであると告げているわけです。

神の民は長い間、救い主が来られるのを待っていました。アッシリアに、バビロンに、ペルシャに、ローマに、神の民は800年にわたって世界帝国と言われる巨大な国家に支配され続けました。その中で彼らは待ち続けたのです。そして、遂に救い主が来られたのです。それが主イエス・キリストでした。神様はアブラハムとの契約を忘れず、神の民に救い主を与えてくださったのです。そのことを指し示す者として、洗礼者ヨハネが主イエスの誕生に先駆けて生まれたのです。その意味では、洗礼者ヨハネは、旧約と新約とを結びつける者としての位置が与えられていると言ってよいかと思います。マタイによる福音書は、その冒頭において長い主イエスの系図を掲げることによって、旧約と新約とのつながりを示しました。それに対して、ルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの誕生を記すことによって、旧約とのつながりを示したということなのではないかと思うのです。

今朝与えられております御言葉は、洗礼者ヨハネが誕生した場面が記されておりますけれど、その前に何があったのかをまず少し振り返っておきましょう。1章5~25節に記されていることです。

 洗礼者ヨハネの父ザカリアは祭司でありました。彼が、神殿で香をたく務めをしていた時、天使ガブリエルが現れて、こう告げました。13~17節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」この天使ガブリエルの言葉の中に、生まれて来る子が救い主のために道を備える者であることが示されていました。16~17節です。

しかしこの時、ザカリアは天使ガブリエルの言葉を受け入れることができませんでした。ザカリアも妻のエリサベトも既に年をとっていたからです。100歳のアブラハムと90歳のサラにイサクが与えられた出来事をザカリアは知っていました。しかし、そのようなことが我が身に起きるとは信じられなかったのです。だから彼は、天使にこう言いました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。」これは「しるし」を求めたということでありましょう。それに対して天使ガブリエルは、20節「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と告げ、ザカリアはその時から口が利けなくなってしまったのです。そして、それから妻のエリサベトは本当に身ごもったのです。

そして今日の聖書です。「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。」(57節)というのは、今申しましたようなことがあって、そして10ヶ月が過ぎて男の子が生まれたということです。当然、ザカリアはこの間、口が利けないままでした。この10ヶ月間の沈黙、それはザカリアにとってどういう時間だったのでしょうか。ザカリアは天使ガブリエルによって口が利けなくなってしまったわけですけれど、そのことを恨んで過ごす10ヶ月ということではなかったでしょう。そうではなくて、天使ガブリエルが言った言葉、先程お読みした1章の13~17節の言葉の意味を考え、思い巡らしていたのではないかと思います。そしてまた、アブラハムにイサクが与えられた時のような驚くべき奇跡が起きて自分たちにも子が与えられることの意味、神様がそのことによって示そうとされている御心、それらについて思い巡らす日々ではなかったかと思うのです。

 10ヶ月というのは短い時間ではありません。しかし、本当に神様の御心を知り、そのことによって自分が変わる、神様の御業に仕え切る者となる、そのためには三日や一週間ではダメだったのではないかと思うのです。人が変わるには、時間が必要なのです。そして、口が利けなくなるというのは、日常的に忘れることができないことです。声を発し、話そうとする度に、思い起こさせられることです。それは少しも観念的なことではなく、我が身に刻まれた神様の御業でありました。この神様の御業と共に10ヶ月間、ザカリアは生活しなければならなかったのです。このことは、とても大切なことだったと思います。ザカリアはそのような時を過ごし、そして遂に「月が満ち」たのです。

子どもが誕生するというのは、いつの時代でも、どこの国でも、喜ばしいこと、嬉しいことです。洗礼者ヨハネが生まれた時もそうでした。近所の人々や親類が皆喜んだのです。これは自然なことです。しかし、ここには神様の御業に対しての驚きと畏れがありません。私たちを根底から支え、生かす、力ある喜び。それは神様の御業に対する驚きと畏れというものと不可分です。自然な喜びというのは、悲しいことがあればそれによって取って代わられてしまうような喜びなのです。しかしここで、神様がザカリアと妻エリサベトに与えられた喜びは、自然な喜びを超えた、神様への驚きと畏れに満ちた喜びでありました。

 生まれた子に割礼を施し名前を付ける。この命名式というものが、当時のユダヤにおいては大変重要でした。近所の人や親類が集まってなされる、子どものお披露目のような意味を持ったものでした。その時に、生まれた子に父の名を取ってザカリアと名付けようとしたのです。ザカリアの家は祭司の家でした。親類の多くも祭司だったはずです。親類の中の偉い人がそう言ったのかもしれません。しかし、その時母のエリサベトが「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言ったのです。女性がこのような公の時に口を挟むことが許されるような時代ではありませんでしたから、人々は驚いたことでしょう。この嫁はなんということを言い出すのか。そんな空気が流れたことでしょう。そこで人々は父のザカリアに「この子に何と名を付けたいか」と尋ねました。するとザカリアは、口が利けませんので字を書く石板を出させ、「この子の名はヨハネ」と書いたのです。

 ザカリアは10ヶ月の間、口が利けませんでしたけれど、どうして自分の口が利けなくなったのか、神殿で天使ガブリエルに会った時のことを、妻のエリサベトに伝えていたに違いないと思います。口は利けないのですから筆談によったのでしょう。ザカリアはエリサベトに事の成り行きを話したに違いないのです。そして、ザカリアもエリサベトも10ヶ月の間に、神様の御心をきちんと受け取り、それに応える者へと変えられていったのだと思います。

 何気ないことでありますけれど、この時ザカリアとエリサベトが同じように神様の御心を受け入れたということが、とても大切なことだと思います。ザカリアだけ、エリサベトだけ、ではなかったのです。ここには信仰において一つとされた夫婦がいるのです。これはまことに幸いなことです。

 ザカリアが「この子の名はヨハネ」と書いた時、それはザカリアが単に天使ガブリエルの言った通りにしただけではありません。それ以上に、ガブリエルが告げたことをすべて、受け入れて信じたということを意味しています。示された神様の御心に従って歩んでいくということを意味していたのです。神様に対しての信仰の告白が、こういう形で成されたということなのです。

 64節「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」とあります。10ヶ月の長い沈黙の後にザカリアの口から出て来たのは、神様への賛美だったのです。ここに、神様の御臨在に触れた者、生ける神様と出会った者の姿があります。私たちの姿がここにあると言ってもよい。私たちは、ザカリアと同じように神様を賛美する者として、神様の救いに与ったのですから。

 ザカリアが神様を賛美する姿を見て、人々は恐れを感じたと65節にあります。どうして人々は恐れたのでしょう。それは、ザカリアの口が利けなくなったことから始まり、老いたエリサベトが身ごもったこと、子が生まれたこと、そして急にザカリアの口が開いて主を賛美したこと、その一連の出来事が神様の御業であることを知らされたからです。彼らは今まで、普通に赤ちゃんの誕生を喜んでいたのです。しかし、この普通だと思っていた出来事が普通ではない、神様の御業であるということを知って、恐れたのです。

 私たちはどうでしょうか。普通であると思っていることの中に、神様の御業を見る眼差しを持っているでしょうか。神様の御業は私たちの日常の中に溢れています。しかし、多くの場合、私たちはその前を普通のこととして通り過ぎているのではないかと思うのです。私たちの眼差しが神様の御業に開かれ、この唇が神様を誉めたたえるために開かれていくことを願うものです。

ザカリアは10ヶ月の間、天使ガブリエルの言葉を思い巡らし、まことの救い主によって救いの成就が成されるということ、そのために我が子ヨハネが用いられること、そのような神様の救いの御計画の中で、自分たち夫婦が選ばれたということを知るに至ったのでしょう。もちろん、それを悟らせたのは聖霊なる神様です。ザカリアの10ヶ月間も、口が利けないという状況は辛い日々であったに違いありません。しかし、その時を神様の時として過ごした者は、神様を賛美する者へと変えられていくのです。私たちもまた、そのような者として召されているのです。来週はクリスマスの主日礼拝です。色々と忙しい日々が続きます。その日々を私たちは、忙しさを嘆くのではなく、主が私に与えてくださった救いの御業を思い巡らす時としていきたいと思うのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。アドベントの第三主日を、敬愛する兄弟姉妹と共に守り、あなたを褒め称えることができましたことを感謝いたします。神様の救いの御業は、あなたを待ち望み、あなたを信じる民によって担われていきます。今日の祭司ザカリアと妻のエリサベトもそうでした。それは今日の信仰者である私たちも同じです。私たちも自らの生き方と奉仕の業によって、あなたの救いの御業を持ち運んでいきます。そのことに気づかされるとき、私たちは畏れに打たれると同時に、あなたに用いられている喜びを与えられます。どうかそのような喜びで、一人ひとりを満たしていてください。 主をこの世界にお迎えした時、この世界は軍事力を背景にした「ローマの平和」の中にありました。そのような冷酷な偽りの平和が、現代においても声高に叫ばれ、人々を支配しています。しかし、神様はそれとは対極にある神の平和の基として、御子をこの世界に誕生させてくださいました。どうか、私たち一人ひとりを、世界を和解させ命を生かす、あたたかさを湛えた神の平和に仕える者としてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

大いなる喜びの知らせ

ルカによる福音書2章8~14節  2023年 12月10日(日) クリスマス合同礼拝

                                             牧師 藤田浩喜

 今日は日曜学校の子どもたちも大人の人たちも一緒に、クリスマスの物語を聞きましょう。2千年以上前のユダヤの国のことです。羊飼いが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。野宿というのは、家の外でお泊りすることです。羊に草を食べさせるためにあちこち旅していた羊飼いたちは、夜も羊の番をしなくてはなりません。狼などの獣や人間の泥棒が羊を取っていかないように、見張っていなくてはなりません。羊飼いの仕事は、夜も起きていなくてはならない大変な仕事なのです。夜はどんどん更けていきました。

 その夜のことです。神さまの使いである天使が、羊飼いたちに近づきました。

「あ、天使だ、天使が立っている!」すると、今まで経験したことのない大きなまばゆい光が彼らを照らしました。「うぁ、まぶしい!」。羊飼いたちは思わず地面に顔を伏せました。そしてぶるぶる震え出しました。「どんなことが起こるんだろう」「どうなってしまうんだろう」。彼らは恐くなってしまったのです。

 すると天使は言いました。「羊飼いたち、恐がる必要はありません。わたしはすべての人々に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝えます。今日ダビデの町ベツレヘムで、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」そして天使は、その救い主である赤ちゃんがベツレヘムの町の飼い葉桶の中に寝かされていることを、教えてくれました。

 すると、どうでしょう。さらにびっくりすることが起こります。いつの間にか、天使だけでなくおびただしい天の大軍が、天使を取り囲むようにいるではありませんか。天の大軍は、戦争をするために来たのではありません。天使といっしょに神さまを賛美するためにやって来ました。天から来た合唱団です。すると天の合唱団は、いっせいに歌ったのです。「神さまのおられる天には、栄光がありますように!地上には平和がありますように!」まばゆい光が満ち溢れる中で、神さまを賛美する声が響き渡りました。「神さまのおられる天には、栄光がありますように!地上には平和がありますように!」

 羊飼いたちは、夢でも見ているように、この素晴らしい光景を見ていたに違いありません。そして、天使たちが彼らを離れると、だれかれなしに言い出したのです。「みんな、僕たちに起こったことを見たかい。天使と天の大軍が、大合唱して神さまを賛美していた。天の神さまの栄光が輝き、地に平和をもたらしてくださる。そんな救い主がお生まれになったんだ。僕たちのための救い主だ。さあ、ベツレヘムに行こう。救い主である赤ちゃんを拝みに行こう!」

 こうして羊飼いたちは、ベツレヘムの町にある馬小屋へと出かけて行ったのです。すべてが、天使が教えてくれた通りでした。羊飼いたちは飼い葉桶の中ですやすやと眠っている赤ちゃんイエスさまにお会いすることができたのです。羊飼いたちは、どんなに嬉しかったでしょう。羊飼いたちは自分たちが見たり聞いたりした不思議な出来事を会う人会う人に話してあげました。そして、神さまを大声で讃美しながら帰っていきました。

 羊飼いたちは、救い主イエスさまのお誕生を知らされましたが、それは不思議な体験でした。びっくりするような出来事でしたね。羊飼いたちが経験したように、救い主イエスさまがお生まれになったことは、天使や天の大軍が大合唱して神さまを賛美するような、素晴らしい出来事でした。

 そして、天使と天の大軍は歌いました。「神さまのおられる天には、栄光がありますように! 地上には平和がありますように!」神さまがおられる天には、栄光があります。そして、神さまが造られたこの世界には、神さまの栄光を表す平和がなくてはなりません。天の栄光には、地の平和こそがふさわしいのです。

 しかし2千年前の世界には、平和がありませんでした。ローマという大国が軍隊の力、富の力によって人々を支配していました。人々は苦しんでいました。今、わたしたちが生きている世界も同じですね。平和とは反対の戦争や争いが、多くの人たちを苦しめています。神さまに逆らい、神さまの御心に背く罪によって、この世界は神様の栄光を受けられなくなってしまったのです。  

 しかし、救い主イエスさまは、神さまの栄光がこの世界に満ち、この世界に本当の平和がもたらされるために、お生まれくださったのです。神さまの天とわたしたちの地をつなぐ架け橋となるために、イエスさまは生まれてくださったのです。そのような驚くべき出来事が、クリスマスの日に起こったのです。

 2016年の11月に作家の村上春樹さんが、デンマークでアンデルセン賞を受けられました。アンデルセンは、「マッチ売りの少女」や「人魚姫」など子ども向けのおとぎ話の作者として有名な人です。そのアンデルセン賞を受けた時、村上さんは受賞講演をしました。それは、アンデルセンの「影」という小さな作品、彼のいつもの作風とはまったく違う作品を取り上げて、語ったものでした。

 「影」という寓話のようなお話をわたしも読んだのですが、それは次のような話です。ある若い学者が南の国に旅をします。その国で過ごしていた彼は、向かいの家の中に何が起こっているのかを知ろうとして、自分の影をその家まで届かせます。しかしその影はそのまま戻っては来ず、学者は影を失くしてしまいます。

けれども彼には小さな影ができ、それが彼の新しい影になるのです。

 月日が流れ、何年も経ちました。ある晩のこと、学者の部屋をノックする音が聞こえます。ドアを開けるとどうでしょう。そこには自分のなくした影が立っていたのです。彼の身なりはとても立派で、高級な衣服や宝石を身に着けていました。しかも話を聞くと、彼はある国の美しい王女を愛するようになり、もうすぐ結婚することになっているというのです。学者の古い影は、知恵と力を得て独立し、今や経済的にも社会的にも、元の主人よりもはるかに卓越した存在になっていたのです。

 その後、学者はかつての影に世界旅行に連れて行ってもらったりしますが、その間に、学者とかつての影の立場は、すっかり逆転していきます。学者の影はいまや主人となり、主人であった学者は影になります。そして、かの美しい王女と結婚する日のこと、恐ろしいことが起こります。彼が影であった過去を知る元の主人は、その事実を口外することのないよう、哀れにも殺されてしまうのです。

 アンデルセンの「影」はそのような寓話なのですが、村上春樹さんはその寓話を取り上げつつ、私たち人間の心の中にある影ということについて、言及します。そして次のような、とても印象的な、洞察に満ちた言葉を語るのです。

「アンデルセンが生きた19世紀、そして僕たち自身の21世紀、必要なときに、僕たちは自分の影と対峙し、対決し、ときには協力すらしなければならない。それには正しい種類の知恵と勇気が必要です。もちろん、たやすいことではありません。ときには危険もある。しかし、避けていたのでは、人々は真に成長し、成熟することはできない。最悪の場合、小説『影』の学者のように自分の影に破壊されて終わるでしょう。」

そして、個人だけでなく国家や社会の中にある影についても、次のように言うのです。「ちょうど、すべての人に影があるように、どんな社会や国家にも影があります。明るく輝く面があれば、例外なく、拮抗する暗い面があるでしょう。ときには、影、こうしたネガティブな部分から目をそむけがちです。あるいは、こうした面を無理やり取り除こうとしがちです。というのも、人は自らの暗い側面、ネガティブな性質を見つめることをできるだけ避けたいからです。影を排除してしまえば、薄っぺらな幻想しか残りません。影をつくらない光は本物の光ではありません」。そして村上さんは、影の部分を無理やり取り除くような例として、侵入者を防ぐために高い壁を作ること、よそ者たちを厳しく排除すること、自らに合うよう歴史を書き換えることを上げます。そして、そのようなことしても結局は、自分自身を傷つけ、苦しませるだけだというのです。

 村上春樹さんは、私たち個人の中にも国家や社会の中にも、暗い影が存在することを指摘します。そのような影の部分を避けたり、無理やり取り除こうとしてはいけない。そうではなく、自分の影と共に生きることを辛抱強く学ばなくてはならない。そして、その内に宿る暗闇を注意深く観察しなさい。時には自らの暗い面と対決することを恐れるべきではない、と言われるのです。

 救い主イエスさまは、天と地をつなぐ平和の礎(いしずえ)として、この世界に与えられました。そして、そのことを知らされた御心に適うひとり一人によって、平和が創り出されていくのです。救い主イエスさまを信じるひとり一人が、平和のためのレンガを一つ一つ積み上げていくのです。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)。羊飼いたちがしたように、クリスマスの大きな喜びの知らせを、精いっぱい、周りにいる人たちに伝えていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。 

【祈り】御子イエスさまをこの世界に遣わしてくださった神さま、あなたを心から讃美いたします。今日は日曜学校の子どもたちも大人の人たちも、いっしょに礼拝を捧げることができました。ありがとうございます。平和の主であるイエスさま信じる私たちが、イエスさまから力をいただき、たとえ小さくても平和を造りだしていけますよう、どうか励ましていてください。午後の「子どものクリスマス」の時も祝福していてください。このお祈りを、イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

次週の礼拝  12月24日(日)

 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書2章1-12節

説  教   「学者たちの礼拝」 山﨑和子長老

主日礼拝  クリスマス礼拝

午前10時30分  司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖  書

 (旧約) ミカ書5章1-3節       

 (新約) ルカによる福音書2章1-7節 

説  教   「クリスマスの決心」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝 12月17日(日)

 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ルカによる福音書2章1-7節

説  教   「主イエスの誕生」 高橋加代子

主日礼拝 アドべントⅢ 

午前10時30分  司式 三宅恵子長老 

聖  書

 (旧約) イザヤ書43章19-25節    

 (新約) ルカによる福音書1章57-66節 

説  教   「主に先立って道を備える者」  藤田浩喜牧師

実を結ぶ神の言葉

マルコによる福音書4章13~20節  2023年12月3日(日)主日礼拝説教

                                          牧師 藤田浩喜

今朝与えられております御言葉は、主イエスがお語りになった「種蒔く人」のたとえの説明の部分です。「種蒔く人」のたとえは、一度聞いたら忘れられない、とても印象的な話です。日曜学校の子どもたちも知っている有名なたとえです。こういう話でした。「種を蒔く人が、種を蒔いた。ある種は道端に落ち、その種は鳥に食べられてしまった。ある種は石ころだらけの所に落ち、すぐに芽を出したけれど根がないため枯れてしまった。ある種は茨の中に落ち、茨に覆われて実を結ばなかった。そして、ある種は良い土地に落ちて、芽が出て、育って、30倍、60倍、100倍の実を結んだ」というものです。

 このたとえ話は大変印象深いのですけれど、何を語っているのか、これだけを聞いたのではよく分からないのではないかと思います。この話そのものは、当時のパレスチナ地方における種蒔きという農業の一場面を語っているに過ぎません。その様子は、私たちが考える種蒔きの様子とは随分違います。私たちが種を蒔く場合、畑を耕して、畝を作り、一粒一粒丁寧に蒔きます。しかし、主イエスの時代の種蒔きは、おおらかと言いますか、おおざっぱと言いますか、種を片手に握っては、文字通りばら蒔いていくのです。それから畑を耕して土をかけるのです。ですから、種が畑の外に飛んでしまうこともありました。道端、石地、茨の生えた中に落ちてしまうこともあったでしょう。当時の人は、種蒔きの農作業を思い起こしながらこの話を聞いていたに違いありません。そんなこともあると思いながら、一度聞いたら決して忘れなかったと思います。しかし、このたとえ話が何を語ったものなのか、それは決して分かりやすくなかったと思います。教会に長く来ておられる方は、この話を聞けば、すぐに「ああ、あの話ね」といった具合に、このたとえ話が何を意味しているのか分かるでしょう。しかし、教会に来られて間もない方は、このたとえ話を聞いて、昔の種蒔きの作業の一場面を語っていることは分かっても、何を意味しているのか、主イエスは何を語ろうとされたのか、そのことがすぐに分かるという人はまずいないのではないでしょうか。

 しかし幸いなことに、このたとえ話には13節以下に、主イエスが弟子たちにされた、たとえの説明が記されています。たとえ話を理解する上で決定的に重要なのは、そのたとえの中に出てくるものが何を指しているかということです。このたとえ話の場合、この蒔かれた種とは神の国の福音でした。それでは道端とは、石ころだらけの所とは、茨の地とは、良い土地とは、何かということです。

 先週私たちは、「種蒔く人」の側に自分を置いて、このたとえに聞くことをいたしました。しかし今日は「種を蒔く人」だけでなく、種が蒔かれる「畑」にも注目したいと思うのです。すでに見てきましたように、この「種を蒔く人」の中に主イエスを見ることができ、さらには私たち自身を見ることもできます。私たちはまた、この「畑」の中に私たち自身を見ることもできるのです。

 主イエスは四種類の土地について語られました。一つは道端、一つは石だらけで土の少ない所、一つは茨の中、最後に「良い土地」です。「四種類の土地」と申しましたが、実は主イエスは、互いに離れた四つの別な場所について語っておられるのではなく、一つの畑の話をしておられるのです。

道端というのは、人が通って踏み固められた、畑の中にできた道のことです。また、「石だらけで土の少ない所」も同じ畑の中です。もともとパレスチナの土地には石が多いのです。その石を一生懸命取り除いて畑にするのです。しかし、全部の石を取り除くことは到底できません。石はどうしても残ります。ここで言われているのは、そのような石の上に薄く土が残っている場所のことです。また畑には「茨」もつきものです。深いところに根を張っています。先週申しましたように灌漑は行いません。ですから深く耕すこともしないのです。水分が蒸発してしまうからです。それゆえに深い茨の根は残ります。それが麦と一緒に延びてくることは、いくらでもあったようです。

私は、このたとえ話を今までたくさんの教会員、求道者の方と読んできましたが、この話の中で、自分はどれに当たると思いますかと聞いて、良い土地ですと答えた人は一人しかいません。その他の100人を超える人たちはほとんど、石ころだらけの所あるいは茨の地と答えます。不思議なことに、道端という人もあまりいないのです。牧師と聖書を読もうして来ている人たちですから、自分は道端ではないだろうと思うようです。

 確かに、「自分は良い土地です。」そうはなかなか言えないと思います。まして信仰のゆえに苦しい目に遭う。迫害なんかに遭ったとしたら、信仰を守り切る自信なんて、誰にもあるというものではありません。そうすると、石ころだらけの所かなと思う。あるいは、いろいろな思い煩いがあって、信仰の生活に徹底できない自分がいる。富の誘惑だって大きい。そう考えると、自分は茨の地かなと思う。それが普通なのだと思います。

 この話の中に自分自身の身を置きますと、いろいろと見えてくることがあるのです。13節以下の主イエスの解説を読みます時、とても耳の痛い話として響いてくるかもしれません。主イエスは言われました。「道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」(15節)。すると私たちは思います。「ああ、これはわたしだ。いつもサタンに御言葉をもっていかれて、何にも残らない。わたしは道端だ」。

 さらに主イエスは言われます。「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」「また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」どれもこれも、自分に当てはまるように聞こえるかもしれません。

 しかし、先にも申しましたように、道端も石だらけの所も茨の地も良い地も、それぞれ別の場所にあるのではなくて、一つの畑の話なのです。ですから、道端が永遠に道端とは限りません。次の年には、石だらけの土地から石が取り除かれているかもしれません。茨が次の年にも生えているとは限りません。どれも皆、良い土地となり得る、畑の一部なのです。御言葉を聞いて受け入れるならば、三十倍、六十倍、百倍という大いなる実りをもたらす、そのような土地なのです。

私たちはそのような土地となり得るのです。そのような私たちとして主イエスは見ていてくださり、今も主は収穫を期待して種を蒔いていてくださっているのです。だからこそ主は言われるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

主イエスは私たちに種を蒔いてくださった。道端のような私たちの心に御言葉を与え、神の国が来ていることを、神様の御支配の中に私たちがすでに生かされていることを知らせようとしてくださった。そして、主の日のたびごとに、種を蒔き続けてくださっている。種を蒔くだけではなくて、様々な人との出会い、また様々な出来事を通して、導き続けてくださっているわけです。何とかして、私たちの中に御言葉が芽を出し、根を張り、大きく成長するようにと育んでくださっている。私たちが、道端から良い地へ、石地から良い地へ、茨の地から良い地へ変わるようにと、働き続けてくださっているのです。だから、私たちは良い地になることが求められています。私たちも良い地になることを求めていますし、必ず良い地になることができるのです。私たちはそのことを信じて良いのです。どうせ自分は石地だ、茨の地だと諦めてはならないのです。それは自分に対してだけではありません。あの人もこの人も、自分の愛するあの人も、道端のままであるはずがないのです。そのことを信じてよいのです。神の国が来ているということを信じるとは、この神様の御業、神様の御支配を信じるということなのです。

 そのように種を蒔く人として主イエスを思い描き、また種を蒔かれている畑として私たち自身を見ることは、私たちにとって大事なことなのだろうと思います。礼拝堂に集まることができない週があります。高齢のために、病気のために、教会に集うことができず、それぞれの場所において聖書を開きます。ネット配信によって、説教原稿を読むことで、神様を礼拝します。礼拝堂に身を置いている時のように説教を聞くことはできないかも知れません。しかし、それでもなおその週の御言葉は与えられているのです。その時も同じように、主イエスは収穫を期待して種を蒔いていてくださるのです。

 ならば大事なのはこちら側です。畑の側なのです。わたしは道端だ、石だらけの所だ、茨の中だ、などと言っていないで、自分自身が実り豊かな者となることを期待して、耳を傾けることが大事なのです。繰り返しますが、私たちはどれも皆、良い土地となり得る、畑の一部なのです。御言葉が私たちの内に留まって芽を出して実り始めるならば、何が起こるか分からない。どんな素晴らしいことがそこから起こってくるか分からない。私たちはそのような、とてつもない可能性を秘めた畑の一部なのです。

 かつてジョン・ウェスレーというひとりの人が、全く気が進まないままにロンドンのアルダースゲートにおける集会に参加しました。そして、蒔かれた御言葉の種が芽を出したのです。1738年5月24日水曜日午後9時15分前頃のことでした。その時、たった一人の人間が御言葉を聞いて受け入れたことが、ある意味でこの世界を変えたのです。この人からメソジスト教会が始まりました。その実りはイギリスからアメリカに、またカナダに広がり、そしてついにこの日本にまで及びました。あの一粒の種を受け入れた土地がなければ、日本にメソジスト教会はなかったのです。

 同じことが私たちの内に起こり得ます。主は「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われます。主イエスは収穫を期待して、今日も御言葉の種を蒔いていてくださっています。そして、私たちはとてつもない可能性を秘めた畑です。私たちの内に落ちた種から始まる神の御業は、私たちの内に留まりません。三十倍、六十倍、百倍にもなるのです。大きな実りを期待しながら、今日も神の御言葉に耳を傾け、神の御言葉を私たちの内に受け入れましょう。主は言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を褒め称えます。神様、今日から私たちは主のご降誕を待ち望むアドベントの時を過ごします。神の御子があなたの御許から、悩み多きこの世界に到来してくださいました。そして馬小屋の飼い葉おけの中に誕生され、御子がこの世界の最も低く、貧しく、悲惨な場所に共にいてくださることを示されました。御子は今も聖霊において、そこに留まり続けていてくださいます。そのことをこの世界に与えられた尽きざる希望として、今年のクリスマスを守らせてください。今、病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、悩みや苦しみの中にある兄弟姉妹を顧みていてください。今も戦闘の止まないウクライナやガザの地をあなたが、顧みていてください。あなたの平和を、天にあるように地にももたらしてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  12月3日(日)

  

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書    ルカによる福音書1章26-38節

説  教   「マリアへのお告げ」 渡辺望

主日礼拝 アドべントⅠ

午前10時30分  司式 藤田浩喜牧師 聖餐式を執行します

聖  書

 (旧約) イザヤ書45章20-25節    

 (新約) マルコによる福音書4章10-20節 

説  教   「実を結ぶ神の言葉」  藤田浩喜牧師