次週の礼拝  7月21日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   サムエル記上16章1-13節

説  教   「ダビデ、油を注がれる」 藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分  司式 山根和子長老

聖     書

 (旧約) 詩編32編1-11節     

 (新約) マルコよる福音書7章14-23節 

説  教 「誰があなたを汚すのか」  藤田浩喜牧師

神の言葉を無にせず

マルコによる福音書7章1~15節 2024年7月7日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

私たちは食事の後で食器を洗うとき、まず洗剤で洗い、そのあとよく濯いで拭きます。でも研修旅行をしたドイツではあまり濯ぐことなく、少々洗剤の泡が食器に付いていても、布巾で泡を拭いているのをよく見かけました。私たち日本人には大変違和感を覚えるものです。習慣の違いなのでしょう。

 今日の聖書の箇所も、食器の洗浄の違いではありませんが、手を洗う、洗わないということから問題が起こっています。私たちも食事の前に手を洗ったり、あるいは外出して帰宅した時にシャワーを浴びたりと、健康を維持するため、あるいは快適に過ごすために、各自が努力しています。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちの言う、手を洗わず食べるという「汚れ」は、どうも衛生上の問題というよりも、宗教上の問題のようで、主イエスの弟子たちを宗教的に攻撃しているようであります。

 ご存じのように、旧約聖書のレビ記などには、清いものと不浄のものについての規定が詳細に記されています。これらは、唯一なる神を聖なる者として位置づけ、イスラエルの民が歩むべき道を具体的に示し、それを守ることによって、選ばれた民の栄光が約束されると、実に分かりやすく命じています。たとえば、外出先で知らないうちに汚れた物に触れたり、あるいは異邦人、異教徒との接触で受けた汚れ、そういう汚れたものをいかに清めるかが重大な関心事でした。また、先祖たちが荒野でさまよい、空腹のときにも導き手である神は見捨てず、天からのパンをもって養われたという体験もありまして、食事というのは、ユダヤ人にとっては特に清められ感謝されたものでなければなりませんでした。ですから、手を洗わないで食事をすることは許されないことでした。

 確かに、このような清浄規定は、本来神への畏れを表明するものであったでしょう。しかし、今日のファリサイ派や律法学者たちは、純粋に神を畏れるゆえに手を洗えと言っているのではないようです。そのことを主イエスは、「神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」、「自分の言い伝えを大事にして、神の掟をないがしろにした」と言われるのです。彼らの言葉の根拠を、「人間の言い伝え」、「自分の言い伝え」として、決して聖なる神に根拠づけられてはいないと喝破されたのです。彼らの信仰を別なものにすり替えていると言われたのです。いつの間にか、モーセの律法の根本精神から離れ、それに味付けし色付けした人々の言い伝えが一人歩きして、唯一絶対なる神が、ないがしろにされてしまった現実を主イエスは指摘されたのです。そして、主イエスは「人から出て来るものが、人を汚すのだ」と、「汚れ」ということの中に、更に深い意味を語られたのでした。

 武蔵野美術大学教授吉田直哉氏が、1985年の夏、撮影のためヒマラヤの麓、ネパールのある村に行った時のことを記しています。この村は海抜1500メートルの傾斜地に位置し、ここへ至るには凸凹の道を歩くしかなく、ポーターを雇って機材と食糧を運びました。余分な物は持って行けず、真っ先にいちばん重いビールを諦めなければなりませんでした。一日の仕事を終え、目の前に流れる清流を見て思わず、「ここで、ビールを冷やしたらおいしいだろうな」と口にしたのを聞きつけた村の少年が、「ビールが欲しいのなら、僕が買って来てあげる」と言いました。そこで、どこまで買いに行くのかと尋ねると、一行が車を捨てた峠までだと言います。大人の足でも往復三時間はゆうにかかる距離です。それは遠すぎると言うと、暗くならないうちに帰るから大丈夫だと言うのです。そこで吉田先生は少年にお金を渡して頼みました。少年は夜の8時頃、5本のビールを背負って帰って来ました。翌日また、「今日はもういらないのか」とその少年が聞くので、「飲みたいが、君にまた頼むのは申し訳ない」と言うと、「今日は土曜日で学校がなく、明日も休みだから、大丈夫だ」と言うもので、1ダースは充分に買えるお金を手渡して頼みました。ところが少年は夜になっても帰って来ません。村人に事故に遭ったのではないかと聞くと、「それほどの大金を預かったのなら持ち逃げしたに決まっている」と、大人たちは口々に言いました。次の日も、学校のある月曜日になっても帰って来ません。そこで、吉田先生は学校に行き、事情を説明して謝罪しました。ところが学校側も、「事故ではなく、持ち逃げしたのだ」と言うのです。吉田先生は、ネパールの予供にとっては信じられないほどの大金を持たせたために、素晴らしい子供の人生を狂わせてしまったと、大変後悔しました。しかし、先生にはどうしてもあの少年が盗みをするとは考えられず、やはり事故ではないかという思いで、いても立ってもおられない気持ちでした。すると、三日目の深夜、宿舎の戸を激しくたたく音がしたので、開けて見ると泥まみれの少年が立っています。訳を聞くと、少年が買いに行った村の店にはビールが三本しかなく、山を四つも越した別の峠の店まで買いに行き、合計十本手に入れたが、途中で転んで三本割ってしまったと、べそをかきながら、七本のビールと割れたビンの破片とつり銭を見せました。その時、吉田先生は思わず少年の肩を抱いて泣いてしまいました。そして、あんなに深く反省したことはないとおっしゃっています。

 さて、主イエスは、「人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と言われます。本当の汚れは手を洗わないというような可視的、衛生的なものによるのではなく、人の心の中から出て来るものによると言われるのです。これは、当時のファリサイ派や律法学者たちの理解とはまったく異なったものでした。それは、清めに関する多くの掟と言い伝えを破棄するのみならず、信仰理解の根本的な変革を主イエスは求められたと言えましよう。儀式、形式を守れば、「汚れ」というものが消えるものではなく、むしろ妬み、欲望、憎しみ等、そのような人の心から出て来るものが、他者を傷つけるのだといわれているのです。神に赦されているのに他者を許せないのが私たちであります。信仰を持って生きるということは、私たちが何か立派に生きることでも、人から誉められる人間になることでもありません。むしろ、見えないところにおられる神に出会い、その神の前に立ち、その神に向かって生きることであります。そのような生き方を阻害する要因は外的条件にあるのではなく、自分自身の中にあるのだと主イエスは言われるのです。そして、「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」というのは、ファリサイ派や律法学者だけに向けられた言葉ではなく、今ここにいる私たち一人ひとりに向けられた言葉でもあるのです。私たち一人ひとりの教会生活をも問うておられるように思えます。先ほどの、吉田先生が、少年の肩を抱いて泣いたこと、そして反省したことの中に、えも言われぬ思いが込められています。それは、深く考えもせず、少年にお金を渡したことだけではありません。それにも増して、村人たちが、事故ではなく持ち逃げしたのだという言葉に納得しようとする思いと、もしも事故であったならどうしようという先生の良心との間で、心が揺れ動き、惑わされている姿であります。しかし、少年が約束したことを最後までやり通したことで、吉田先生は救われました。どこからか、主イエスの「人の中から出て来るものが、人を汚す」の言葉が響いて来るように思うのです。

 ひまわりの便りが聞かれる季節、青く澄んだ夏空のもと、畑や道端で、風に揺れながら咲いている光景は絵のようです。ファリサイ派や律法学者たちは、自分たちの言い伝えを固守することによって、独善的な絵になろうとしたのでしょうか。しかし、主イエスは私たちの汚れをも知り尽くし、まるで一本のひまわりのような、寄る辺ない私たちを、神の愛という青空で包んで下さり、なくてはならない一本一本のひまわりとして、咲かせて下さいます。ひまわりが絵になるこの季節、私たちも感謝をもって咲きほころびたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も猛暑の中、、敬愛する兄弟姉妹と礼拝を守ることができ、心から感謝いたします。主イエスは私たち人間を汚すものがどこから来るのかを示されました。「人の中から出てくるものが、人を汚すのである」。その御言葉は、私たち一人一人の歩みを鋭く問うものです。どうか、主の深い御言葉を見つめつつ、この一週間を過ごさせてください。夏本番のような猛暑が続きます。また新型コロナ感染症も身近なところで流行っています。どうか、一人一人の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン

次週の礼拝 7月14日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   士師記16章29-31節

説  教   「サムソンの力のひみつ」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖     書

 (旧約) ヨナ書3章5-10節     

 (新約) ルカよる福音書11章29-32節 

説  教 「神のもとに帰れ」  藤田浩喜牧師

まことの安心を得るために

ルカによる福音書12章13~21節 2024年6月30日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 主イエスの周りには、多くの群衆が集まっておりました。主イエスは彼らに向かって語ります。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。本当に恐るべき方は、地獄に投げ込む権威を持っている方。あなたがたの髪の毛一本まで数え、あなたがたの全てを知り尽くし、全てをその御手の中に置かれている方。」「人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」主イエスは、私たちがまことの命に生きるための道、死を超えた命について群衆に向かって語られたのです。

ところが、その話が一段落すると、群衆の中の一人が主イエスに向かってこう言ったのです。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」皆さんはどう思われるでしょうか。今主イエスから、死を超えたまことの命に至る道を聞いたばかりです。その場にいた群衆の多くも、「今はそういう話をしている所ではないだろう。」そう思ったのではないかと思うのです。しかしこの人にとって、遺産を分けてもらえるかどうか、この問題がいつも頭から離れない、いつも心を占領していることだったのでしょう。だから、何を聞いても、いつもその問題に心が行ってしまう。たとえ主イエスの話を聞いていても、心はそこに行ってしまう。そういうことだったのではないかと思います。こういうことは、私たちにもよく分かるのではないでしょうか。具体的に困難な問題にぶつかりますと、私たちもいつもそのことが頭から離れない。何をしていても、ふと気がつくとそのことを考えてしまっている。そういうことがあるのです。

 当時の遺産の分け方というのは、長男にほとんどがいってしまいます。そして長男が、他の兄弟たちに分けるというようなことであったようです。この人は長男ではなかったのでしょう。そして、長男は自分に遺産を分けようとしてくれない。自分にも遺産をもらう権利はあるはずだと、この人は思っていたのでしょう。当時の教師、ラビと呼ばれる律法学者達は、日常のあらゆる問題について相談を受け、律法をもとにこうしなさい、こうすることが律法にかなっていると指示する。それが一般になされていることだったのです。この相談の内容というのは、離婚の問題から、隣の家との土地の境界線をめぐる問題、子どもの教育の相談、そしてこの人のように遺産相続をめぐる問題、日常のありとあらゆる問題が持ち込まれてきました。ですから、この人にしてみれば、他の教師たちがしているように、主イエスもこの自分の相続をめぐる問題を、きっと神様の名によって裁定してくれるに違いない、そうしてくれるのが当然だと思っていたのでしょう。

 ところが、主イエスの応えはこの人が期待していたものと全く違ったものでした。14節「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」主イエスはそのように応えたのです。「そんな問題は私は知らん」。そんな言い方です。このような主イエスの姿に出会いますと、私たちはいささか動揺いたします。もっと優しく言ってくれても良いではないか。イエス様は冷たいのではないか。そんな風に感じるのです。確かに、この時の主イエスの言い方は少しも優しくありません。主イエスは愛の人です。まことの愛を知るためには、主イエスを見るしかありません。それは本当のことです。しかし愛というのは、何でもかんでも受け入れ、いつでも誰にでも優しくしているということとは違うのでしょう。

 主イエスがここでこの人を突き放すように語られている理由は、この人がこの遺産相続の問題にいつも心を奪われているような今の状態ではダメだ、その心の向きを遺産相続の問題から神様の方に向けなければならない、そうしなければこの人の救いはない。そうお考えになったからだろうと思うのです。そして主イエスは更にこう告げられました。15節「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」まるで、この遺産相続のことを相談した人は貪欲な人だと人々の前で告げたようなもので、これを言われた人は面白くなかったと思います。たとえそう思われようと、主イエスは遺産相続の問題に心を奪われているこの人の根本には、貪欲の罪があると指摘されたのです。貪欲の罪。それは「もっと欲しい」と思う心です。これにはキリがありません。私たちは信仰において「足ることを知る」ということを学びませんと、いつもこの貪欲という罪に支配されてしまうのです。この罪から無縁で生きられる人はいません。多分、主イエスがこのように言われたということは、この人にとってこの遺産相続の問題は、これがなければ食べていけないというような、せっぱ詰まった問題ではなかったのではないでしょうか。別に、今生活するのに困っている訳ではない。しかし、遺産が入ってくればもっといい。みすみす、自分のものとできるはずのものを手放すことなどできない。そんな心の動きだったのではないでしょうか。だから主イエスは、貪欲に注意せよ、用心せよ、と言われたのだと思います。

 そして主イエスはここで、一つのたとえ話をされました。16節以下にある話です。ある金持ちの畑が豊作だった。あまりに豊作で、それをしまっておく場所もない程でした。そこで、この金持ちは、倉を新しく、大きくいたします。そして、その新しい大きな倉に豊作だった穀物を入れ、財産を入れ、そして安心するのです。「これで、もう何年先までも生きていける、もう大丈夫。食べて、飲んで、楽しもう」。そう、自分に言うのです。小見出しにもありますように、このたとえ話は、昔から「愚かな金持ちのたとえ」と言われてきました。しかし、一体この金持ちのどこが「愚か」だというのでしょうか。この金持ちがしていることは、私たちが普通に考え、普通にしていることではないでしょうか。たくさんの収穫があったら、倉に入れて将来に備えるのは当たり前のことでしょう。来年も豊作とは限らない。凶作かもしれない。だから、豊作の年に蓄えをする。当たり前のことです。これの一体どこが、「愚か」と言われなければならないことなのでしょうか。このたとえの最後で、神様は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われました。「お前が用意した物は、いったいだれのものか」と神様は言われる。金持ちは、当然、自分のものだと思っていたのです。

 実は、このたとえ話において、この翻訳においては表れていないのですが、原文においては、「私の」という言葉が頻繁に出て来ているのです。「私の作物」「私の倉」「私の穀物」「私の財産」。そして「自分に言ってやる」という所は「私の魂に言おう」です。この金持ちは、自分の命を含めて、全ては自分のものと考えていた。そしてそのことこそが、神様に「愚か」と言われている所なのです。命も、富も、食べ物も、全ては神様のものなのです。それを知らずに、全てを自分のもの、自分でどうにでもできるものと考えてしまう。それが「愚か」なのです。それが貪欲の罪の根本に潜んでいるものなのだと、主イエスは告げられたのです。

 私たちの命は神様のものであります。神様が私たちに命を与え、今日も生きよと日毎の糧を与えて下さっている。神様がその必要の全てを備えて下さり、富を与えて下さった。とするならば、私たちは自分の命も富も、本来の所有者である神様のために用いる。神様に献げるべきものとして用いる。このことを忘れる時、私たちは自らの貪欲の罪に支配されてしまうということなのです。

 このたとえ話を読んで、将来のために蓄えるということはいけないことなのかと考える人がいるかもしれません。生命保険も、貯金もいらない、してはいけない。そんなことを主イエスは言われているのではないのです。別に、主イエスは「アリとキリギリス」の話をここでされているのではないのです。アリでもキリギリスでもダメなのです。あの話は、結局、自分の人生を自分でどうするかという話でしょう。そうではなくて、私たちの人生は神様の御手の中にある。このことを私たちが生きる上での根本に据えておかなければならないということなのです。そして、その根本の所に立つ時、私たちは富からも貪欲からも自由になることができるということなのです。

 主イエスは最後に、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われました。神の前に豊かになる。それは、信仰において豊かになるということでしょう。信仰の豊かな人は、神様の恵みの中に生かされていることをよく知っている人です。そしてその人は、自分の富からも自由になることができる人なのです。

  私は牧師として生きていて、いつも難しいと思っていることは、献金というものを教えることなのです。たとえば、結婚式や葬儀があったとき、日程や準備の話をして、最後にお礼はいくらすれば良いのでしょうか、尋ねられることがあります。必ずといってよいほど、この話が出るのです。教会によっては、結婚式はこれだけ、葬式はこれだけと決めている所もあるようですけれど、私はそれでよいのだろうか思っているのです。教会は、献金以外は受け取らないのです。そして献金である以上、それはその人が神様との間で決めることです。献金に相場などというものはありません。あってはならないのです。私はいつも、「お志で結構ですよ。献金に定めはありません」と答えることにしています。そうすると必ず、それでは困ると言われる。本当に困るのでしょう。それは教会に来ていない人だから困る訳ではなくて、教会員であっても困ることなのでしょう。でも私は、本当に困ったら良いと思っているのです。神の前に豊かになる、自分の富から自由になる、そのためのとても大切なチャンスを牧師が奪ってはならないと考えるからです。

 私たちの命も富も時間も、全ては神様のものです。それは何と素敵なことでしょう。私たちは明日を知りません。だから不安になるということなのでしょう。だから、先立つものを用意しておかなければということになる。しかし、私たちが知り得ない明日は、神様の御手の中にあるのです。私たちのためにその独り子さえ惜しまずに与えられた、その父なる神様の御手の中にあるのです。だから、安心して良いのです。ゆだねて良いのです。その大安心の中で、私たちは自分をしばっている貪欲や富の誘惑からも自由にされていくのでしょう。いつも心が向いてしまう問題からも自由にされ、心を神様に向けることができるのであります。この自由の中に生かされている幸いを、心から感謝したいと思います。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。今日は主イエスが語ってくださったたとえを通して、御言葉を与えられました。私たちには将来のことは分かりません。そのため何とか自分の力で、将来への安心を確保しようと思い煩います。確かに将来に備えることは必要なことです。しかし、私たちに与えられるすべての物、そして私たちの命そのものが、あなたが与えてくださったものです。そして私たちには分からない私たちの将来は、あなたの御手の中にあります。私たちを御子を給うほどに愛してくださっている神様の御手の中に守られています。どうかそのことをいつも思い出して、貪欲に走ることなく、あなたにゆだねて生きる者とならしてください。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  7月7日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書  士師記7章1-7節

説  教  「ギデオンのつのぶえ」 三宅恵子長老

主日礼拝   

午前10時30分 司式 山崎和子長老

聖     書

 (旧約) イザヤ書29章13-21節 

 (新約) マルコよる福音書7章1-13節 

説  教  「神の言葉を無にせず」  藤田浩喜牧師

行き悩む者と共に歩む主

マルコによる福音書6章45~56節 2024年6月23日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 旧約において最も有名な出来事は、皆さんもご存じの出エジプトの出来事です。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民に、エジプト軍が迫ってきています。前は海です。イスラエルの民は絶体絶命のピンチです。この時イスラエルの民はモーセにこう言うのです。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。いったい、何をするためにエジプトから導き出したのですか。」この時に至るまで、イスラエルの民は何度も何度も神様の御手による奇跡を経験しているのです。蛙の奇跡、あぶの奇跡、疫病の奇跡、雹(ひょう)の奇跡等々、そして過越の出来事も経験しているのです。それでも、前は海、後ろはエジプトの軍隊という状況になりますと、ダメなのです。大丈夫などととても言えないのです。神様に向かって、モーセに向かって、文句を言い始めるのです。

 そのような、うろたえ、つぶやくイスラエルの民に対して、モーセはこう告げました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」モーセは、イスラエルの民を叱りつけるように告げるのです。そして、モーセは神様に祈り、神様はモーセが海に向かって手を差し伸べると、海の水を分かれさせて道を造り、イスラエルの民はその海の中に拓かれた道を通って逃げることができたのです。これは本当に大きな、その後何千年にもわたって神の民において語り継がれる大きな出来事でした。

 しかし、イスラエルの民は、この出来事によってどんな時も大丈夫と言える民になったかと申しますと、そうはならなかったのです。食べ物が無くなればエジプトの方がよかったと不平を言い、水が無くなればつぶやくのです。そのたびに神様は、マナを与え、うずらの大群で肉を与え、岩から水を出して、イスラエルの民を養われたのです。神の民が、どんな時でも神様を信頼して大丈夫と言って歩むことができるようになるには、時間もかかるし並大抵のことではないのです。

 私たちもそうなのです。生まれつき信仰深いなどという人は一人もいないのです。神様を信じたといっても、誰でも不安になるし、大丈夫と言いたいけれど言えない時があるのです。しかし神様は、そのような不信仰な私たちを全部承知の上で召し出し、神の子とし、御国への道を歩ませてくださっているのです。神様は、その都度その都度、必要のすべてを備えてくださり、全能の御腕を以て私たちを守り、支え、導いてくださっているのです。

 さて、マルコによる福音書の御言葉を見ましょう。45節に「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」とあります。「それからすぐ」というのは、直前の、男だけで五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で養われたという奇跡が行われたすぐ後で、ということでしょう。主イエスは、弟子たちだけを舟に乗せてガリラヤ湖の向こう岸にあるベトサイダに向かわせ、御自身は群衆を解散させられました。ここで、主イエスと弟子たちは別れたのです。弟子たちは舟の上、主イエスは陸の上です。ところが、弟子たちが乗っている舟が逆風に遭って、少しも前に進まない。弟子たちが舟に乗ったのは夕方だと思われます。それが、夜が明ける頃になっても、つまり12時間、丸半日、夜通し舟を漕いでも、逆風にあおられて、向こう岸に着くことができなかったというのです。その間、主イエスは何をしておられたのでしょうか。46節「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた」とあります。主イエスは山の中で祈っておられたのです。

 マルコによる福音書4章35節以下にも、同じような状況が記されていました。弟子たちと主イエスを乗せた舟が、やはりガリラヤ湖で嵐に遭ったのです。この時、主イエスは風を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と言われました。すると、嵐は静まってしまいました。しかし、今回は弟子たちの乗った舟に主イエスはおられません。そのことを強調するように、47節「舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた」と記されています。弟子たちは湖の真ん中、主イエスは陸の上。携帯電話もヘリコプターもありません。この弟子たちと主イエスの隔たりは絶対的なものでした。しかし、48節には「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」とあります。いったい、主イエスはどのようにして弟子たちを「見た」のでしょうか。夜明け前の暗闇の中だけれど、主イエスは見晴らしの良い山の上にいたので、湖を見渡すことができた。弟子たちの舟が逆風の中で立ち往生しているのが見えた、ということなのでしょうか。そうではないでしょう。主イエスは祈っておられたのです。その祈りの中で、主イエスは弟子たちの状況を見たということではないかと思うのです。弟子たちには主イエスの姿は見えません。しかし、主イエスはいつでもどんな時でも、弟子たちの状況を祈りの中で覚えて、見てくださっているのです。この近さを、聖書は告げているのです。弟子たちには見えない。しかし、主イエスには見えている。私たちもそうなのです。主イエスのことは見えない。しかしそれは、主イエスが私たちから遠いということを意味していないのです。主イエスは、私たち一人一人を、その祈りの中で見ておられるのです。弟子たちが、主イエスに祈っていただいていたように、私たちもまた、主イエスに祈られ、見ていただいているのです。私たちの歩みは、この主イエスの祈りのまなざしの中にあるのです。

 主イエスは、弟子たちの困り果てた状況をただ見ていただけではありませんでした。主イエスは湖の上を歩いて、弟子たちのところに来られたのです。これは、弟子の誰も考えてもいないあり方でした。主イエスは、いつも私たちの思いを超えたあり方で、その御姿を現し、救いの御業を行われます。私たちが、こうなったらよいのにと思うようには、なかなかなりません。しかし、主イエスは、そして神様は、私たちの期待以上の、私たちが考えていなかったあり方で、大丈夫と言えるようにしてくださるのです。出来事を起こしてくださるのです。主イエスは何と湖の上を歩くというあり方で、弟子たちのところに来られたのです。

 しかしこの時、弟子たちは湖上を歩く主イエスを見て、幽霊だと思って、大声で叫んだのです。「ギャー!おばけー!」というような叫びだったかもしれません。暗い湖の上を人が歩いているのを見れば、誰でもそう思うでしょう。そして、主イエスが弟子たちの舟に乗り込まれると、風は静まりました。弟子たちは非常に驚きました。そして聖書は52節で「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と告げるのです。

パンの出来事。これは先週見ましたように、物質保存の法則を超えてしまっているわけで、これは主イエスが、無から全世界を造られた全能の神様の独り子であることを示しているわけです。しかし、弟子たちはそのことを理解していなかったというのです。大変な力を持った方だとは思ったでしょう。これで、食べることは心配しなくてよいと思ったかもしれません。しかし、主イエスがただ一人の神様の御子、まことの神であられるという理解には至らなかったというのです。

 実は、この湖の上を歩いてこられるこの出来事も、主イエスがまことの神であられるということを示しているのです。それは二つのことから言えます。第一に、48節「湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」という所と、50節の主イエスが弟子たちと話された「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という所です。

 どうして、主イエスは湖の上を歩いて近づいてきたのに「そばを通り過ぎようとされた」のでしょうか。通り過ぎて、先に何があるというのでしょう。しかし、これは旧約において、神様が自らの姿を現される時の現し方なのです。二つの例を挙げますと、モーセが神様に栄光を示してくださいと求めた時、神様はモーセを岩の裂け目に入れて、栄光を通り過ぎさせました(出エジプト記33章18~23節)。また、預言者エリヤがバアルの預言者と戦い、王妃イゼベルに命を狙われてホレブの山に逃げた時、エリヤの前を主が通り過ぎて行かれました(列王記上19章11節)。このように、主イエスが弟子たちの前を通り過ぎるというあり方は、主イエスがまことの神であることを示しているのです。

 また、主イエスがここで「わたしだ」と言われているのは、神様が御自身のことを言われる時の言い方なのです。ヨハネによる福音書には、ギリシャ語で「エゴー、エイミ」と言葉が何度も出てきます。これは神様がモーセに御自身の名を告げられた所で言われた言葉、「わたしはあるという者だ」(出エジプト記3章14節)をギリシャ語に置き換えたものなのです。つまり、主イエスはここで、「わたしは神だ。アブラハム、イサク、ヤコブが拝んだ神、イスラエルをエジプトから導き出した神である。だから、安心しなさい。恐れることはない。と言われているのです。天地を造られたまことの神様である主イエスが、共にいてくださる。だから大丈夫なのです。ここに私たちの平安の源があるのです。

 しかし、この時弟子たちが湖の上で逆風にあおられ、にっちもさっちもいかなかったのは、主イエスが舟に強いて乗せたからではないか。弟子たちは主イエスに舟に乗せられなかったら、そもそもこんな目に遭わなくて済んだのではないか。その通りなのです。イスラエルの民もエジプトにいたままだったら、奴隷のままでいたのなら、苦しい出エジプトの旅をする必要はなかったのです。このことは何を意味するでしょうか。それは、神様に召し出されて始まった私たちの信仰の歩みは、決して順風満帆であるわけではないということです。そして、たとえ順風満帆でなくても、それでも私たちは大丈夫なのです。

 それは、個々人の信仰の歩みにおいてもそうですし、昔から舟にたとえられるキリスト教会の歩みにおいても同じです。逆風に吹かれたり、嵐に遭ったりするのです。漕いでも漕いでも、ちっとも前に進まない。もうダメだ。沈んでしまう。そう思うような状況に追い込まれることもあるのです。しかし、大丈夫なのです。天と地を造られた全能の神様が、その全能の御力を以て、私たちを守り、支え、導いてくださるからです。父なる神様の御前にあって、主イエスが私たちのために執りなしの祈りをしてくださっているからです。この主イエスの祈りの中に、私たちの一日一日はあるのです。だから、大丈夫なのです。私たちの抱えている問題や課題は、私たちの願ったような形ではなくても、必ず道が拓かれます。海の中にさえも、道を拓いてくださる神様です。湖の上も歩いて来られる主イエスです。その主イエスが、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と告げておられるのです。だから、私たちは大丈夫なのです。この一週も安んじて、主の備えてくださった道を歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を共にし、あなたの御言葉に養われましたことを感謝いたします。主イエスはまことの神として、「安心しなさい、わたしである」とおっしゃいます。困難のときにこそ、ご自分が私たちと共におられることを示し、励ましてくださいます。そのことを心から信じ、主イエスにすべてをゆだねて、これからもそれぞれの生涯を歩ませてください。このひと言の切なる感謝と願いを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  6月30日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書  使徒言行録12章1-17節

説  教  「ペトロ、牢屋からの救出」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分  司式 山﨑和子長老

聖     書

  (旧約) 詩編15編1-5節    

  (新約) ルカによる福音書12章13-21節 

説  教  「まことの安心を得るために」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝  6月23日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書 使徒言行録10章24-34節

説  教 「神は人を分け隔てなさらない」 高橋加代子

主日礼拝   

午前10時30分 司式 髙谷史朗長老

聖     書

  (旧約)ダニエル書9章15-19節    

  (新約)マルコによる福音書6章45-56節 

説  教 「行き悩む者と共に歩む主」  藤田浩喜牧師

託された御言葉を語る

ヨナ書3章1~4節  2024年6月9日(日)     主日礼拝説教

牧師 藤田浩喜

 魚の腹の中に三日三晩閉じこめられていたヨナは、神が魚に命じられると陸地へ吐き出されました。彼は、彼の身を襲った一連の出来事の最初の地点に戻ったと、言ってよいでしょう。1章1節の振り出しに戻ったのです。

 そしてここで、最初と同じように、主の言葉がもう一度ヨナに臨みました。主の言葉が臨む、つまり主なる神が再びヨナに向かって、直接的に語りかけられたのです。その神の言葉の内容は後で学びますけれども、要するに最初の命令と同じように、ニネベという大きな都へ行くことを命じる内容になっています。言葉は少し変わっていますが、1章2節の神の言葉と、3章2節の神の言葉とは、内容的には全く一つです。ニネベに行け、それがヨナに対する神の変わらぬ命令でした。

 ニネベに神の言葉を運んで行くのに、なぜヨナでなければならないのでしょうか。いやだと言って逃げるヨナではなくて、彼以外のもっとふさわしい預言者、もっとふさわしい人物を、なぜ神はお選びにならないのでしょうか。私たちがそう考えるだけではなくて、ヨナ自身もそのように考えたと推測することもできます。また、聖書に出てくる人物の中で、神の命令にすぐに応じることができなかった人々を私たちは幾人も知っています。例えば、出エジプトの指導者となるべく主なる神の命令を受けたモーセは、次のように神に訴えています。「ああ主よ、どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」。モーセは、「わたしは言葉が巧みではないのです。他の人を遣わしてください」と神に訴えました。

 偉大な預言者として知られるエレミヤも、主の言葉が初めて臨んだ時、次のように答えています。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」。エレミヤも神のご委託や命令に応えることができないと、最初に応じています。しかしモーセに対しても同じですけれども、エレミヤには再び次のような主の言葉が臨みました。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいる」。こう言われて、エレミヤは神の命令どおり預言者としての働きをせざるを得なくさせられました。彼らは自分に臨んだ主の言葉に従う者となったのです。ヨナも、そのような変化を強いられることになります。誰が、ある務めをなすのにふさわしいかは、人が決めるのではなくて、神がお決めになられる、ということを教えられます。ニネベに行って主なる神の言葉を語る者は、ヨナでなければならない、それは神がお決めになられたことでした。神がお決めになられたことであるならば、そこでは、人間の反抗や抵抗や挫折を超えて、神のご意志が貫かれていくのです。神の側の必然性は変わらないと、言わざるを得ません。箴言16章9節に、「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩備えてくださる」と、記されています。また19章21節には、「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」とも述べられています。このことがヨナにおいて起ころうとしています。

 ヨナに再び臨んだ主なる神の言葉は、先ほど触れましたように、1章2節の言葉と基本的には同じです。異なった点があるとすれば、第一回目の1章では、「彼らの悪はわたしの前に届いている」という言葉があって、それを受けて神の言葉がニネベに宣べ伝えられなければならないと語られていたことです。「もう見過ごしにできないほどに悪がその都に満ちているから、御言葉を携えてそこに行け」。ニネベに派遣される理由、神の動機がそのように記されていました。

 それに対して3章では、そのことは語られていません。3章には「わたしがお前に語る言葉を告げよ」という新しい命令が加えられています。そのように神がヨナに託す言葉のみを語れとの、厳しい制約を課せられている点が、最初の命令と表面的に違っています。この「わたしがお前に語る言葉」と言われている「言葉」という用語は、原語的には旧約聖書においてここだけにしか用いられていない言葉です。それは、宣言、宣告、通告といった内容を持つ用語なのです。つまり対話の言葉というものではない。相手の了解を求めたりするような性格の言葉ではなくて、ある意味では相手が承認しようがしまいが、とにかく一方的に語らなければならない、宣告しなければならない言葉、それが、わたしがお前に語る言葉といわれる「言葉」の性格なのです。

 主イエス・キリストが宣教活動を始められた時の第一声も、そういう性格の言葉でした。「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」。これは対話とか、相手の了解を求めて語る性格の言葉ではありません。神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ。これは罪の指摘の言葉であり、悔い改めを命じる言葉であり、そしてその言葉に従う時に、赦しとしての祝福が約束されていることを宣言する言葉なのです。

 ヨナは、神が語れと命じられた言葉のみを語ればよいのです。彼はニネベに行って、自分が語るべき言葉を工夫し、考え出し、ニネベの人々と対話しながら、何とかして彼の独特の話術、語り方で相手を説得しようとする必要はないということです。彼は、神の言葉を運ぶ器、道具に徹することが求められています。2章の終わりの「救いは、主にこそある」との確信に立って、ただ託された御言葉をそのまま語り告げればよいのです。もちろん心を込めて、相手を思いやりつつということは必要でしょうけれども、もっと大事なことは、神が命じられた言葉を曲げないで、その内容を薄めないで語る、ということです。今日(こんにち)の説教者の務めもそこにあります。ヨナはそのようにしてニネベに向かって新たな出発をいたしました。

 さて、彼が語ったのはどんな言葉であったでしょう。彼が語った言葉は極めて簡潔です。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」。これだけしか記されていません。文字どおり、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」とだけ彼は語ったのか、それとも要約すればこのことにつきる、ということなのか、それははっきりいたしません。

 しかし、それにしても、取り付く島もないほどに、冷たく言い放つような言葉です。まさに、宣告であり、宣言であり、通告です。こういう語り方をしたのはヨナの性格によるのか、それともこれだけしか彼は語ってはいけなかったのか、そういうことで論じられることがあります。ヨナは、割り当てられた言葉を機械的に、無機質に語っているに過ぎない、と考える人もいます。この語り方の中に、彼がニネベに行ったのは心からの服従ではなかった、仕方なく行ったことのしるしがあるのではないか、と考える人もいます。

 一方、ヨナが語った言葉は、ヨナ自身の人柄とか性格から出てくるものではなくて、これこそが神が語れと命じられた宣言的な言葉そのものである、と理解する人もいます。神が命じられた言葉は、この一語に尽きるという理解もできます。しかし重要なことは、その内容とその言葉がもたらした結果の方です。

 この結果については5節以下に記されていますので、次回ご一緒に学ぶことにいたします。今日は、その言葉の内容を考えてみましょう。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」。これは滅びの宣言です。しかも自然現象の中で滅んで行くのではなくて、明らかに神によって滅ぼされるとの通告です。巨大な都ニネベの悪も巨大であった。それゆえに神はあと四十日したらこの都を滅ぼすと告げておられます。

 四十という数字は一つの事柄が満ちることを示す数字として、聖書の中でしばしば出てまいります。モーセがシナイ山に登って、神から十戒を受けた時、彼は四十日四十夜山にいた、と出エジプト記に記されています。イエス・キリストがサタンから誘惑を受けて、荒れ野におられた期間も、四十日と記されています。その他、四十という数字は、一つの事柄が満ちるという意味をもつものとして、聖書の中にしばしば出てくる数字です。

 ニネベの都もあと四十日間だけが残されている、と語られています。この数字には二つの意味があります。一つは、悪に対する神の忍耐に期限があることを示す数字であるということです。異教の地とはいえ、ニネベの都の悪は目を覆うものがあった。神はこれ以上この都の悪を放っておくわけにはいかない、見過ごすわけにはいかない、という宣告がここにあります。このように、四十という数字は、神の忍耐の期限を表わすものとして理解することができる側面があります。

 もう一つの面は、四十日の猶予は、その間に人々が悔い改めれば滅びを免れることができる、という憐れみの期間を意味しているということです。つまり、神の第一の意思、神の最大の御心は、滅ぼすことにあるのではなくて、人々に警告を与え、悔い改めを促し、そして人々を赦すことにあるということです。これを私たちは、四十日の猶予ということの中に見ることができるのです。

 「心を翻してわたしのもとへ帰れ」と神はしばしば呼びかけられました。そのことこそが、神の御心の中心にあるのです。裁きの告知は裏を返せば、その審判から免れよという、救いへの神の激しい招きの言葉です。滅びが宣言される、裁きが告げられるということは、それを避けてわたしのもとに帰って来いという、神の熱い呼びかけを含んでいるのです。ニネベの都に対して四十日の猶予が与えられている、その間に彼らは神のもとに帰らなければなりません。私たちもまた許されている時の間に、神のもとに帰らなければなりません。

 こうして小さなヨナが、巨大な都ニネベに向かって、一回りするのに三日もかかるニネベに向かって、懸命に神の言葉をもって叫んでいます。大きな都ニネベにおける彼の宣教の姿を頭の中に思い描いてみる時に、痛々しさを覚えさせられます。一人で大きな都に向かって、しかも滅びを語らなければならない、痛々しいヨナの姿が浮かんできます。しかしそれがヨナに定められた生き方であるならば、彼はそれを生きていくほかありません。そしてそれを生きて行く先に、神からの祝福が備えられています。私たちにおいても同じです。辛くても与えられた務めを、置かれている場で果たしていく時に、その先に祝福が約束されているのです。また、辛くても、与えられた命を今ある場で生きていく時に、私たちだけが祝福を受けるだけでなく、他の人々の祝福の基として私たちが用いられていくのです。神は、そのように私たちを取り扱われるお方なのです。そのことを忘れてはなりません。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝し、あなたの御言葉を聞くことができましたことを、感謝いたします。神さま、あなたはヨナに宣教の言葉を託されたように、私たちにも宣教の言葉を託してくださっています。それは必ずしも世の人々にとって、耳ざわりのよい言葉ではないかもしれません。しかし、あなたの御言葉が世の人々にまことの命をもたらす言葉であることを信じて、その務めを果たさせてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  6月16日(日) 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書 使徒言行録10章9-16節

説  教 「ペトロの見た幻」 山﨑和子長老

主日礼拝   

午前10時30分 伝道礼拝  司式 山根和子長老

聖     書

 (旧約)詩編126編1-6節    

 (新約)マルコによる福音書6章30-44節 

説  教 「いのちを分け与えられる主」  藤田浩喜牧師