次週の礼拝   1月21日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書18章10-14節

説  教   「『迷い出た羊』のたとえ」 藤田百合子

主日礼拝   

午前10時30分     司式 山﨑和子長老 

聖  書

  (旧約) イザヤ書26章1-6節    

  (新約) フィリピの信徒への手紙4章1-7節 

説  教   「人知を超える神の平和」  山田矩子教師

神の豊かさに生きる

マルコによる福音書4章21~25節 2024年1月14日(日)礼拝説教 

                          牧師 藤田浩喜

 今朝与えられている御言葉は、主イエスがお語りになった「ともし火」のたとえと「秤」のたとえです。これはどちらも「たとえ」ですから、とても単純な話です。こういう話です。誰かが「ともし火」を持って来る。この「ともし火」というのは、小さな皿のようなものに油が入っていて、芯が浸してあって頭が少し出ている。そこに火が灯されているものです。テレビの時代劇などに出てくるものと同じ様なものを考えていただけばよいかと思います。この「ともし火」を持って来た人は、それを升の下や寝台の下に置きはしない。燭台の上に置くではないかと言うのです。「ともし火」は、ストーブを消す時を考えていただいたらよいと思いますが、消す時には嫌な臭いがします。ですから、臭いが出ないように、升をかぶせて消したのです。そして、蹴飛ばしたりしてはいけませんので、ベッドの下に入れた。ここで主イエスは、当時の生活の一場面を用いてお語りになったのです。誰かが「ともし火」を持って来たら、それは燭台に置いて部屋を明るくするのであって、消すためではないと言われたのです。当たり前のことです。

 また、豆でも小麦でも、買う時には升のような秤で量って買うわけです。現代の日本では秤が店によって違うなどという事はありませんけれど、当時は升の大きさが店によって違い、多かったり少なかったりする。その日常の場面を用いて主イエスはお語りになっているわけです。そして、自分の秤が大きければ多く与えられるし、小さければ少ししか与えられないというのです。

 この二つのたとえは、当時の日常生活の一場面を切り取ったような話ですから、話そのものは単純なもので、よく分かります。しかし、それが何を意味しているのかということになりますと、話は別です。それは、以前学んだ種蒔く人のたとえでもそうでした。話としては難しいところは少しもない。しかし、何を言われているのか、その意味は何かということになると、さっぱり分からない。これが主イエスのたとえの、一つの大きな特徴なのです。どうして、そうなのでしょう。

 話は簡単で単純だけれども、何を言っているのか分からない。私は、これと全く同じ思いを抱いたことがあります。それは、私が初めて礼拝に通い始めた頃に持った、説教に対しての思いです。それが全くこれと同じだったのです。牧師の語る説教は、特に難しい日本語を使うわけではない。言葉としては分かるのです。しかし、何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。毎週礼拝に集っても、心に残るとか、「ああ、そうだ」と思うことが無い。今思いますと、あれだけ分からなくて、よく毎週通ったものだと思います。説教だけじゃなくて、讃美歌も分からない。祈っていることも分からない。どれもこれも日本語としては分かる。しかし、分からない。どうしてなのか。

 主イエスはここで、23節「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。この言葉は、以前「種蒔く人」のたとえを語られた時にも、9節で同じ言葉で言われています。「聞く耳のある者は聞きなさい。」なるほど、教会に通い始めた頃の私には、この聞く耳がなかったということなのだと思います。聞くには聞くが理解できない。それは聞く耳がないからなのです。実は、日本語としては分かるけれど何を言っているのか理解できないというのは、何も主イエスのたとえに限ったことではないのです。牧師の説教も、聖書の言葉も、主イエスのこのたとえと同じ性質のものなのです。

 主イエスのたとえも、聖書が告げていることも、説教も、いつもただ一つのことを語っている。それは主イエスの福音です。イエス・キリストとは誰なのか。イエス・キリストによって与えられた救いとは何か。イエス・キリストによって救われた者はどうなるか。そのことを告げているのです。それは、信仰を与えられなければ分かることはありません。それは、語られていることが訳の分からないことであるから分からないのではなくて、聞く者が語る者と同じ所に立っていないからなのです。あるいは、語る者が前提としていることと、聞く側が前提としていることが違っていれば、話は通じない。そう言ってもよいかと思います。主イエスはこのことを指して「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのです。

 「聞く耳のある者は聞きなさい」というのは、何か上からものを言っているように聞こえるかもしれません。話を聞いて分かる者だけが分かればいいのだ。そんなふうに聞こえるかもしれません。しかし、主イエスはそんな思いでこれを告げているのではありません。牧師もまた、そんな思いで毎週説教しているのではないのです。何とか分かって欲しいのです。しかし、本気で分かろうとしなければ、本気で聞こうとしなければ、分からないのです。自分の耳が変わらなければ、分からないのです。自分の耳が変わらなければ、自分が生きる上で自分が求めること、前提となっていることが変えられなければ決して分からないし、受け入れることができない。それが、主イエス・キリストの福音というものなのです。

 主イエスは今日の24節で、「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」と言われました。自分が聞いていることが何なのか、そのことに注意しなければならないのです。主イエスは、単に生活の一場面を語っているわけではないのです。当たり前です。主イエスは神の国の福音を告げているのです。私たちはそれぞれ自分の秤を持っています。それは、自分の経験やこの世の常識といったもので作られたものでしょう。ある人にとっては健康が一番でしょうし、ある人にとってはお金が一番かもしれません。この自分の秤が変わらなければ、主イエスが語っていることは分からないということなのです。しかし、この秤が主イエスの求めているものに変わりますと、どんどん分かってくる。どんどん与えられてくるのです。

 聖書というものは本当に不思議な書物で、一箇所分かりますとどんどん分かってくる。しかし、なかなかすべてが分かるということはない。ですから、次から次へと、どんどん与えられ続けていくものなのです。私は洗礼を受けて45年、牧師になって36年ですが、今もどんどん与えられ続け、分からされ続けております。「ほう、そういうことなのか!」と、分からせていただいています。

 では、この自分の秤が変わる時の重要点は何かと申しますと、「私は罪人である」ということを知ることだと思います。あれをしてしまった、これをしてしまった。そういう意味での罪人ということでもありますが、それ以上に重大なことがあります。それは、自分に命を与え愛してくださっている神様を裏切り、神様の愛に感謝することもなく、自分の欲を満たすためにばかり生きている者であったということを認めることなのです。

 自分が欲することを満たそうとすることのどこが悪いのか。確かに、この世の法律は、それを罰することはありません。しかし、そのことによって私たちは隣人(となりびと)を傷つけ、神様の御心を痛ませてきたのではないでしょうか。そのことは、人と比べてもそれは分かりません。他人と比べたら、自分はそれほど悪い人間ではない。どちらかと言えばよい人間ではないか、そう思うのが自然でしょう。しかし神様は、誰にも言えない、心の底にある闇の思いをも御存知です。そして、その闇の心を新しくしよう、そう言って招いてくださっているのです。そのために、主イエスは来てくださったのです。

 どうして自分が罪人であるということを知ることが重要であるかと申しますと、このことが分かった時、主イエスが私のために来られ、私のために十字架にお架かりになり、私のために復活されたということが分かるからなのです。大切なのは「私のために」です。「私の罪のために」です。聖書の言葉が、牧師が語る説教が、他ならぬ私のことを言っているということが分かるようになるからです。この時、自分の秤が変わるからなのです。

 さて、今朝与えられておりますもう一つのたとえ、「ともし火」のたとえですが、ここで語られている「ともし火」とは何を指しているのでしょうか。すぐに思わされることは、主イエス・キリスト御自身を指しているということでしょう。確かに主イエスは、御自分を殺そうとする人たちがいても逃げも隠れもせずに、十字架に架けられて殺されるということに至りました。その結果、主イエス・キリストというお方は、当時のローマ帝国から見れば、東の辺境の地ユダヤの、更に田舎のガリラヤから出て、今では全世界において何十億という人々が主の日のたびごとに礼拝をささげるまでになっています。22節「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と言われている通りです。主イエスはまことの世の光として、すべての人に生きる力と勇気を与えています。どのように生きればよいのかという、人生の灯台のように光を放ち続けておられるのです。

 そしてこの光は、私たちに与えられたイエス・キリストに対する信仰と愛をも表しているのです。この福音が記されました頃、キリスト教会は、社会における少数者であったと思います。自分はイエス・キリストを信じています。そのように明言できないような雰囲気があったのではないかと思います。それは私たちもよく分かるでしょう。この柏の地で、キリスト者ですと人前で言うことは何となく気が引けるという思いが、私たちもどこかであるのではないかと思います。しかし、主イエスは「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と言われるのです。わたしの与える信仰と愛は隠そうとしても隠せるものではないということでしょう。もっと言えば、主イエスはここで、「わたしが与えたともし火は、消そうにも消えない、圧倒的な力と輝きを持って、私たちをそして全世界を照らし続けるものなのだ。」そう告げられたということなのではないでしょうか。

 私たちは、自分に与えられている信仰と愛とを、あまりに小さなものとして考えているのではないでしょうか。私たちの信仰は、天と地を造られたただ独りの神様が私たちに与えてくださったものであり、それは私たち自身をそしてこの世界を造り変えていく大きなものなのです。現代人は、信仰というものを自分の心の中のことだと思っているところがあります。しかし、それは正しくないのです。主イエス・キリストが与えてくださった信仰そして愛は、到底私たちの心の中に収まってしまうような小さなものではないのです。私たちに注がれた主イエスへの信仰も愛も、それは私たちから外に向かって、この世に向かって溢れ出していくものなのです。いよいよ、主の救いの御業にお仕えする者として、私たち一人一人が用いられていくことを願い求めたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。あなたは御子を、この世界に、私たちの心に、光として遣わして下さいました。この光は、人の思いを超えて、この世界に広く、深く照り渡っていきます。どうかその大いなる御業に仕える者として、一人一人を用いていてください。あなたの御心がこの地においても実現されますように。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名において、お捧げいたします。アーメン。

夜の旅路-キリストを求めて

マタイによる福音書2章1~12節  2024年1月7日(日)主日礼拝説教 

                            牧師 藤田浩喜

マタイによる福音書のクリスマス物語には、救い主の誕生を祝うために、はるばる東方から旅をしてきた占星術の学者たちのことが語られています。はるか東方からラクダにまたがって来るのですから、2週間ほどかかるでしょう。そのため世々の教会は1月6日をエピファニー(公現祭)と定め、異邦人である学者たちに救い主が初めて顕現されたことを、記念するようになったのです。

その意味では、公現祭までがクリスマスと言うこともできるでしょう。

 ところで、ここでいう「東方」というのがどこのことなのかは、はっきりしません。パレスチナから見て東の方向ですから、ペルシアだという人もおれば、アラビアだという人もあり、またインドのことだという人もあります。

 いずれにしても、この話を語ったり聞いたりしてきた人々にとって、「東方の学者たち」という表現は、なにかエキゾチックで夢物語のような印象を与えたことでしょう。それだけに、後世になればなるほど、この学者たちについては、さまざまな解釈がなされ、またいろいろな伝説が生み出されていきました。

 長い間、代々のキリスト者たちは、「救い主に出会う」というただそれだけの目的をもってはるばると旅路を歩みつづけるこの「東方の学者たち」に、それぞれの信仰的な関心を寄せてきました。そして彼らの姿に自分自身の思いを重ね合わせてきたのです。

 さて、この物語を読んでいくと、学者たちは救い主への「贈り物」として「黄金、乳香、没薬」を携えてきたと伝えられています。これらはいずれもその時代にあっては高価な品物で、薬品や化粧品、また薬味としても用いられたといいます。

 ところが、この学者たちにとっては、いささか困ったことがありました。それは贈り物を携えてきたにもかかわらず、実は自分たちが「いったいどこの誰にこの贈り物を献げるのか」ということが、最後の最後まではっきりと分からなかったということです。

 彼らは自分たちがどこに行くのかということすら知りませんでした。これは不思議なことであり、不自然なことです。

 誰であれ、贈り物をしようというときに、いったいそれを誰に「贈る」のかも分からないなどということがあるでしょうか。人に出会うために旅に出た人間が、自分の目指している相手の人がどこの誰なのかも分からないなどということがあるのでしょうか。この学者たちの旅はあまりにも頼りない旅だったと言わねばなりません。

 けれども、実際に聖書の中から読み取ることのできる、「東方の学者たち」とは、誰に出会うのかも分からぬまま、その人のために贈り物を携えて、見通しのない旅路を行く人々。そういう人々だったのです。

さて、そうはいうものの、実は目的の定かならぬ旅路を歩むという点に関して言えば、この「東方の学者たち」の姿も、私たちひとりひとりの人生も、一脈相通じるところがあるように思います。

 人生を「旅」にたとえることは、キリスト教のみならずさまざまな宗教や哲学、また文学などの世界でも行われてきました。

「旅」というものは、ふつう目的地や旅程が決まっているものです。目的も、見通しも、計画もはっきりしないまま、歩き出さなければならないような旅は、私たちを困惑させます。けれども、実に困ったことに、実際の「人生の旅」とは、そういうたぐいの旅にほかならないのです。

 私たちは目的や見通しや計画を立てた上で、この世に生まれてきたわけではありません。「気がついてみたら生まれていた」というのが実態です。「気がついてみたら旅に出ていた」のです。恐ろしいことに、「人生の旅」はその日程ひとつを考えても、私たちの思い通りにはいかないしろものです。50年後に終わる旅なのか、それとも5日後に終わる旅なのか、それすら私たちは知りません。それはまさに、思いもよらぬうちに始まってしまった旅であり、思いがけない時に終わる旅です。「今夜、お前の命は取り上げられる」(ルカ福音書12章20節)という神の言葉が、いつ私たちに告げられるのか、だれひとり知らないのです。

 仏教のほうでしたか、「人生は無明長夜(むみょうじょうや)」という言葉があります。人生というものは、灯りのない長い長い闇夜の中を生きるようなものだという意味でしょうか。実際、本当の闇の中では、私たちの目はなんの役にもたちません。また、私たちの手足も感覚も、ほとんど役にたちません。闇の中で歩いていても、それが果たして前に進んでいるのか、道から外れているのか、それともただ堂々めぐりをしているだけなのか。私たちには分かりません。もしかしたら、私たちの人生というものは、多くの時間、そんな堂々めぐりをしながら、悩んだり、苦しんだり、悲しんだり、そして時には喜んだりして、過ぎていくというだけのことなのかもしれないのです。

 さて、マタイ福音書の東方の学者たちの物語には、ひとつの「星」が登場します。目的地も、旅程も、日程も、贈り物を贈る相手すらも分からない、この頼りない旅路を行く博士たちを、この星が導いたというのです。

 「星」が導くというからには、おそらく、この人たちは夜しか旅ができなかったのではないでしょうか。暗く見通しのきかない中を、足下も不安なまま、おぼつかない足取りで一歩一歩進んでいくのが、彼らの「夜の旅路」です。

 「人生の旅」を歩くために、私たちは闇の中で目を凝らし、知恵と力を振りしぼって先々を見通しながら、この世の荒波を泳ぎわたっていこうと努めます。「人生の旅」を進んでいくとき、私たちはただひたすらに前を見つめ、がむしやらに闇の中に進むべき道を探そうとします。

 けれども、このクリスマス物語の中で聖書が語っていることは、ただひたすらに前を見るということではなく、まず「星を見る」、「天を仰ぐ」ということです。「前を見つめて歩く」のではなく、むしろ「上を向いて歩こう」と、聖書は教えているのです。

 私たちにとって「天を仰ぐ」、「上を向く」という姿勢は、ある意味で、絶望的な姿を表しているといえるかもしれません。自分自身の知恵や才覚に行きづまった時、私たちは嘆息しながら「天を仰ぐ」ことがあります。

 しかしまた、そうしたとき、そうすることによって、今までとはまったく違った情景が見えてくることも事実です。

 天にある「星」は、人間の小さな努力や、自己満足や、欲求不満などにかかわりなく、いつもまたたいています。私たちが生まれる前から、そして死んだ後にも、そこにまたたきつづけているのです。

 詩編の中でひとりの詩人は、天を見ながらこう歌いました。

  「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。

  月も、星も、あなたが配置なさったもの。

   そのあなたが、御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。

   人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。」

(詩編8編4~5節)

 変わることなく大きく開かれた天、そこに散りばめられた星々に、昔の人々は神のみわざを見たのです。「天を仰ぐ」ことによって、この詩人は世界とその中に生きとし生けるすべてのものを支えたもう神の大いなる恵みを見たのです。

 人間の手のわざではなく、神のわざに目をそそぐこと。それが「天を仰ぐ」ということであり、「星に導かれる」ということです。「天を仰ぐ」ことは、自分自身と人間に対して絶望しても、神に対して絶望しないことを告白する信仰者の姿であるとさえ言えるかもしれません。それは、私の人生が、恵みとあわれみに富みたもう神の手の中にあることを信じ、感謝する信仰者の姿なのです。

 さて、先ほども触れましたが、星に導かれて歩んだ東方の学者たちは「黄金、乳香、没薬」という贈り物を携えていたといいます。

 この贈り物については、その当時の価値あるものを献げて、救い主の誕生をお祝いしようとしたのだという解釈がふつうです。しかしある説によると、これらのものは実はこの学者たちの商売道具だったとも言います。よく知られているように、古代の世界で「占星術の学者」というのは、「天文学者」でもあれば、「占い師」でもあり、また「魔術師」のような存在でもあったようです。  

「黄金、乳香、没薬」というのは、彼らがそうした仕事をする上で用いた道具だったというのです。もしこの解釈が正しいとすれば、彼らは、今までの自分たちの生活のもととなっていたもの、これまでの「人生の旅」を送る上で彼らを支えていたいちばん大事なものを、キリストのもとに差し出すために携えていったことになります。

 それはいったい何を意味するのでしょう。

 それは、彼らがただ単に高価なもの貴重なものを救い主の誕生プレゼントとして贈ったということではなく、彼らのそれまでの「人生」を象徴するもの、彼らのそれまでの生き方そのものを、イエス・キリストの前に献げたということであり、さらにいえば、そうした過去の生き方を清算しようとしたのだということを表しているのではないでしょうか。

 彼らの旅は、「救い主を見物しよう」といった好奇心からの物見遊山の旅ではありません。彼らの旅は歴史的イベントに立ち会い、そのお祝い騒ぎに参加するためのものでもありません。彼らの旅は「これまでの彼らの生き方を終える旅」だったのであり、「これからの新しい生き方を始めるための旅」だったのであります。

 クリスマスに立ち会うということは、私たちがこれまでの自分自身の生き方を清算すること、新たな生き方へ踏み出すことにつながっています。

 冬は空気が澄んで夜空がきれいです。私たちも「天」を仰ぎ、「星」を見つめながら、それに導かれて夜の旅路を進んでいく学者たちの姿を思い浮かべてみようではありませんか。そして、闇の中に浮かび上がるそのシルエットを想像しながら、私たちもまた主イエス・キリストにあって、これまでの人生を顧みつつ、またこれからの人生の歩みに目を凝らしつつ、冬の夜のひとときを送りたいと思うのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。2024年最初の主日礼拝を敬愛する兄弟姉妹と共に守ることができましたことを感謝いたします。この新しい一年も私たちの教会と一人一人の歩みを導いていてください。見通すことのできない地上の歩みに目を奪われがちな私たちですが、天におられるあなたにこそ目を注ぐ者としてください。心を高くし、あなたの語ってくださる御言葉にこそ耳を澄ますことができますように。一人一人を強めていてください。国内では能登半島を中心に大きな地震が起こり、多くの被災者の方々が避難生活を続けています。また海外ではウクライナやパレスチナのガザで戦争が続き、多くの人々が苦しみと悲しみの中にあります。神さまどうか、苦しみや嘆き、困難の中にある人たちを、励まし支えてください。このような状況を一日も早く過ぎ去らせてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

次週の礼拝  1月14日(日)

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書15章21-28節

説  教   「カナンの女」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分     司式 髙谷史朗長老 

聖  書

 (旧約) エゼキエル書33章10-11節    

 (新約) マルコによる福音書4章21-25節 

説  教   「神の豊かさに生きる」  藤田浩喜牧師

主のよき力に守られて

マタイによる福音書2章13~23節  2023年12月31日(日)主日礼拝

                           牧師 藤田浩喜

◎今日は本年最後の礼拝を守っておりますが、クリスマスの時期にはあまり選ばれることのない箇所をテキストにいたしました。それは2千年前の最初のクリスマスも、決して平和なクリスマスではなかったということを、思い起こすためです。今日のテキストの直前部分には、有名な物語が記されています。それは東の国の占星術の学者たち(博士たち)が黄金、乳香、没薬の贈り物をもって、生まれたばかりの救い主キリストを礼拝するためにやって来たという美しい物語です。

 彼らは救い主の生まれた場所を探し当てる前に、エルサレムへ立ち寄り、ヘロデ王を訪ねました。そしてこう尋ねたのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)。ところが、それを聞いたヘロデは、「もしかすると自分の地位が脅かされるのではないか」と不安になり、一計を案じるのです。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(同2:8)。もちろんそれは、嘘です。彼らから、その赤ちゃんの居場所を聞き出し、暗殺しようと企んだわけです。

 しかし彼らは、その救い主を見つけて、礼拝した後で、夢で神からのお告げを聞きます。「ヘロデのところへ帰るな」(同2:12)。彼らは別の道を通って、自分たちの国へ帰っていきました。そのことを知ったヘロデは激怒いたします。そして、「二歳以下の男の赤ん坊を一人残らず殺せ、皆殺しにせよ」という命令を下すのです。

◎クリスマスの喜びの歌声が、自分の子供を殺された母親の泣き叫びでかき消されるようです。マタイはこのように記しております。「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから』」(マタイ2:17~18)。

 この言葉は少し説明が必要かもしれません。ラマというのは、ベツレヘムのこと、あるいはその近くにあった古代の町であります。ラケルの墓はそこにありました。ラケルというのは、創世記に出てくる女性であり、イスラエルの族長であったヤコブの妻です。ちなみにヤコブは、アブラハムの孫、イサクの息子です。ヤコブは神の人と格闘して、イスラエルという祝福された名前をもらうのです。イスラエルとは、「神は支配したもう」という意味です。ラケルはその「イスラエル」という名前の男の妻でありますから、いわば、イスラエル民族の母のような意味合いをもっているのでしょう。そのラケルが泣いている。墓の中から泣いている。子供が取られたから。このところに、預言者エレミヤの名前が出ていますが、この言葉は実は旧約のエレミヤ書からの引用です。エレミヤがずっと昔に語った言葉をマタイが用いたのでした。エレミヤ書31章15節に、こう記されています。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子はもういないのだから」。

 ここでは、イスラエルの民のもう一つの悲しい歴史が重ねられているのです。それはバビロン捕囚という出来事でありました。イスラエル王国はダビデ王、ソロモン王の時代には栄華を極めるのですが、その後どんどん落ちぶれていき、さらに国は北と南の二つに分裂いたしました。エレミヤの時代にはすでに北王国イスラエルは滅び、南王国ユダもバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々が捕虜としてバビロンに連れて行かれました。これが、紀元前6世紀に起こった、バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。このラマはバビロンに連れて行かれた時の通過点であったといわれています。その連れて行かれる人を見て、ラケルが墓の中から泣いている。慰めてほしくない。子供はもう帰らないのだから、ということなのです。

 マタイはこれを、ヘロデ王の幼児虐殺事件と重ね合わせました。あのエレミヤの預言の言葉が、今ここに実現している。ラケルの泣き声が時代を超えて、こだましているのです。バビロン捕囚の時代の母親の嘆きと、クリスマスの時のヘロデ王に殺された母親の泣き叫ぶ声がこだましている。ここ3か月、新聞やテレビのニュースで、イスラエル軍がパレスチナのガザを攻撃し、そこを必死で逃げ回っているパレスチナの子どもたちの姿、また死んだ子どもたちのために泣き叫んでいる人の姿が映し出されています。ウクライナにおいてもそうでありましょう。あのラケルの泣き声は、今日までもこだましているのです。あのラケルの泣き声が地球全体を覆い尽くすようにこだましているのです。

 2千年前にこの泣き声を生み出したものは、ヘロデ王の敵意でありました。それが、力をもたない者の上にふりかかってくるのです。力を持つ者、権力を持つ者、武力を持つ者の敵意と欲望、それが罪のない人々の死と、その家族の嘆きを生み出すのです。

◎しかし、いかがでしょうか。今日のテキストは、そうした暗い出来事の中で、かすかではありますが、確かな希望を告げております。それは、どのようなヘロデ王の敵意も、あるいは彼の暴力も、軍事力も、イエス・キリストを見つけ出して、殺すことはできなかったということであります。神が守ろうとされるものは、どんな力も及ばない、不思議な力で守られるのです。それは、彼がこの時死んではならなかったからです。彼が死ぬべき時は、別に定められていました。ですから、神はあらゆる手段を用いてイエス・キリストを守り抜かれました。このことは私たちの希望です。私たちは敵意がぶつかる中で起こる痛ましい現実について、ラケルと共に嘆かなければならないでしょう。またそのような現実を生み出している敵意というものを、憎まなければならないでしょう。そうした悲劇が一日も早くなくなるようにと、真剣に祈らなければならないでしょう。しかしそういう暗い現実の中にあっても、幼子イエスは不思議にも守られ、生き延び、成長していくのです。聖書は、そのことに私たちの目を向けさせようとします。私たちはそのことを信じるがゆえに、どんな時にも希望をもって、この世の困難な課題に対して真剣に、しかし心のゆとりを失わないで、立ち向かう勇気が与えられるのではないでしょうか。

 詩編46編にこういう言葉があります。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地は姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」(詩編46:2~4)。

◎幼子イエスを守るために、大切な働きをしたのは、マリアの夫ヨセフでした。彼は夢に現れた天使の言葉に聞き従い、自分の郷里を捨ててエジプトへ落ち延びていきました。実の子ではありません。彼が自分の子ではないこの幼子のために払った犠牲が、一体どれほど大きなものであったかと思います。やがて危険が去った時、彼は再び妻マリアとその子イエスを護衛して、故郷ナザレに戻って行きます。

 このヨセフという人物は、実は福音書の最初だけに登場する人です。2章の終わりに、無事にマリアと幼子イエスをナザレに戻した後は、もう出てきません。そういうところから、このヨセフは主イエスが成人する前に、世を去ったのであろうと言われています。もしもそうだとするならば、彼の短い生涯は、いわばイエス・キリストの母となったマリアを守り、彼女から生まれた幼子イエスを受け止め、その命を守るという課題に捧げられたと言うこともできるでしょう。聖書の中のヨセフは、一言もしゃべっていません。それはマリアと違うところです。彼の姿はただ、「信仰の服従」という一語に尽きると思います。美しい姿であると思います。

 私たちにも、このヨセフのような「信仰の服従」が求められているのではないでしょうか。もしもそうしようとするならば、ヨセフが背負ったような犠牲が伴ってくることもあるでしょう。イエス・キリストが後に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と、言われたとおりです。しかし私たちは、犠牲を払って主に従っていくときに、それによって逆に、私たち自身が支えられるという経験をするのではないでしょうか。

◎聖クリストフォロスの伝説をご存じでしょうか(英語ではクリストファーです)。クリストフォロスは川の渡し守でしたが、たまたま一人の少年を背負って川を渡ることになりました。しかし一歩一歩進むうちに、どういうわけか、少年がずしりずしりと重くなっていくのです。彼は水をかぶりながら、足をふんばって何とか川を渡り切りました。クリストフォロスがふとうしろを振り返ってみると、そこはものすごい急流でありました。その時、彼は悟るのです。もしもあの少年の重みがなければ、自分は完全に流されてしまっていたに違いない。その少年こそキリストであり、その重さは世界の重さであった。そういう伝説であります。クリストフォロスは、「少年を運ばなければ、守らなければ」、

と必死の思いでしたが、そこで逆に不思議にも、神のよき力に守られていたのです。ヨセフもきっと、何度もそのような経験をしたに違いないと思います。

◎ディートリヒ・ボンヘッファーという神学者がいました。この人はナチス・ドイツの時代に、ナチス政府に屈しない教会の抵抗運動を起こしましたが、それもやがて挫折していきます。そして最後にヒトラー暗殺を企てる地下組織に加わっていくのですが、些細なことから、それが発覚して投獄され、最後には処刑された人です。1945年4月9日、連合軍がナチス軍を破るわずか数週間前のことでした。このボンヘッファーが、1944年の年の終わりに、獄中で、一つの詩を書き残しております。

 「主のよき力に守られて」という題が付けられています。この詩の中には、いつ死刑に処せられるかわからない不安と主にある平安が、ない交ぜになっています。また彼にはマリアという若い婚約者がいましたが、そのマリアや家族に会いたいという気持ちが、ひしひしと伝わってまいります。しかしながら、それにもかかわらず、神がここに自分を置かれたという状況を受け入れて、獄中にある仲間や、看守たちと共に新年を迎えていこう、という信仰があります。こういう詩であります。

「主のよき力に、確かに、静かに、取り囲まれ、

不思議にも守られ、慰められて、

私はここでの日々を君たちと共に生き、

君たちと共に新年を迎えようとしています。

 過ぎ去ろうとしている時は、私の心をなおも悩まし、

 悪夢のような日々の重荷は、私たちをなおも圧し続けています。

 ああ主よ、どうかこのおびえおののく魂に、

 あなたが備えている救いを与えてください。

あなたが、もし、私たちに、苦い杯を、苦渋にあふれる杯を、

なみなみとついで、差し出すなら、

私たちはそれを恐れず、感謝して、

いつくしみと愛に満ちたあなたの手から受けましょう。

 しかし、もし、あなたが、私たちにもう一度喜びを、

 この世と、まぶしいばかりに輝く太陽に対する喜びを与えてくださるなら

 私たちは過ぎ去った日々のことをすべて思い起こしましょう。

 私たちのこの世の生のすべては、あなたのものです。

あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、

どうか今こそ暖かく、静かに燃やしてください。

そしてできるなら、引き裂かれた私たちをもう一度結び合わせてください。

あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私たちは知っています。

 深い静けさが私たちを包んでいる今、この時に、

 私たちに聞かせてください。

 私たちのまわりに広がる、目に見えない世界のあふれるばかりの音の響きを、

 あなたのすべての子供たちが高らかにうたう讃美の歌声を。

主のよき力に、不思議にも守られて、

私たちは来たるべきものを安らかに待ち受けます。

神は、朝に、夕に、私たちと共にいるでしょう。

そして、私たちが迎える新しい日々にも、

神は必ず私たちと共にいるでしょう」(村椿嘉信訳)。

 この歌にはメロディーがつけられ、賛美歌にもなっています。『讃美歌21』では日本語に訳されたものが、469番として収められております。このあとご一緒に、この賛美歌を歌いましょう。

 皆さんの2023年は、いかがだったでしょうか。様々な思いを秘めながら、私たちも主のよき力に守られていることを信じて、新しい年へと進んでいきましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日2023年最後の礼拝を愛する兄弟姉妹と共に守ることができ、感謝いたします。この1年は2年以上続くロシアとウクライナの戦争に加えて、10月からはイスラエルのガザ侵攻という戦争が今も続いています。2千年前と同様、子を亡くした母親の嘆きが慰められることも拒んで、世界に響き渡っています。権力や武力を持つ者の敵意と欲望は、いつもこのような不条理な悲惨を生み出します。しかしそれと同時に、そうした権力者の暴走を許した私たち自身の怠惰や無関心を懺悔いたします。神様どうかこうした不条理な戦争を一日も早く終結へと導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝  1月7日(日) 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ルカによる福音書2章41-52節

説  教   「神殿での少年イエス」 三宅恵子長老

主日礼拝

(聖餐式を執行します)

午前10時30分     司式 藤田浩喜牧師 

聖  書

 (旧約) 詩編27編1-6節    

 (新約) マタイによる福音書2章1-12節 

説  教「夜の旅路-キリストを求めて」藤田浩喜牧師

次週の礼拝  12月31日(日)

 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   ルカによる福音書2章22-35節

説  教   「メシアに会うまでは」 宇佐美志穂子

主日礼拝   

午前10時30分     司式 山根和子長老 

聖  書

 (旧約) 詩編46編2-4節      

 (新約) マタイによる福音書2章13-23節 

説  教   「主のよき力に守られて」  藤田浩喜牧師

主に先立って道を備える者

ルカによる福音書 1章57~66節   2023年12月17日(日)主日礼拝説教

                                            牧師 藤田浩喜

アドベント第三の主の日を迎えております。ルカによる福音書は、主イエスの誕生の前に洗礼者ヨハネの誕生を記しております。それは、主イエスの誕生が、偶然、たまたま、その時に起きたことではなくて、神様の御計画の中で起きたことである。そして旧約聖書において預言という形で示されていた神様の御心の成就であるということを示しているわけです。マラキ書3章1節にも「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」と預言されていたように、救い主が来られる前には、主の道を備える者、神様からの使者が遣わされることになっていたからです。救い主が来られる前に、救い主に先立つ者、道を備える者が来ることが預言されており、それが洗礼者ヨハネであると告げているわけです。

神の民は長い間、救い主が来られるのを待っていました。アッシリアに、バビロンに、ペルシャに、ローマに、神の民は800年にわたって世界帝国と言われる巨大な国家に支配され続けました。その中で彼らは待ち続けたのです。そして、遂に救い主が来られたのです。それが主イエス・キリストでした。神様はアブラハムとの契約を忘れず、神の民に救い主を与えてくださったのです。そのことを指し示す者として、洗礼者ヨハネが主イエスの誕生に先駆けて生まれたのです。その意味では、洗礼者ヨハネは、旧約と新約とを結びつける者としての位置が与えられていると言ってよいかと思います。マタイによる福音書は、その冒頭において長い主イエスの系図を掲げることによって、旧約と新約とのつながりを示しました。それに対して、ルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの誕生を記すことによって、旧約とのつながりを示したということなのではないかと思うのです。

今朝与えられております御言葉は、洗礼者ヨハネが誕生した場面が記されておりますけれど、その前に何があったのかをまず少し振り返っておきましょう。1章5~25節に記されていることです。

 洗礼者ヨハネの父ザカリアは祭司でありました。彼が、神殿で香をたく務めをしていた時、天使ガブリエルが現れて、こう告げました。13~17節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」この天使ガブリエルの言葉の中に、生まれて来る子が救い主のために道を備える者であることが示されていました。16~17節です。

しかしこの時、ザカリアは天使ガブリエルの言葉を受け入れることができませんでした。ザカリアも妻のエリサベトも既に年をとっていたからです。100歳のアブラハムと90歳のサラにイサクが与えられた出来事をザカリアは知っていました。しかし、そのようなことが我が身に起きるとは信じられなかったのです。だから彼は、天使にこう言いました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。」これは「しるし」を求めたということでありましょう。それに対して天使ガブリエルは、20節「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と告げ、ザカリアはその時から口が利けなくなってしまったのです。そして、それから妻のエリサベトは本当に身ごもったのです。

そして今日の聖書です。「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。」(57節)というのは、今申しましたようなことがあって、そして10ヶ月が過ぎて男の子が生まれたということです。当然、ザカリアはこの間、口が利けないままでした。この10ヶ月間の沈黙、それはザカリアにとってどういう時間だったのでしょうか。ザカリアは天使ガブリエルによって口が利けなくなってしまったわけですけれど、そのことを恨んで過ごす10ヶ月ということではなかったでしょう。そうではなくて、天使ガブリエルが言った言葉、先程お読みした1章の13~17節の言葉の意味を考え、思い巡らしていたのではないかと思います。そしてまた、アブラハムにイサクが与えられた時のような驚くべき奇跡が起きて自分たちにも子が与えられることの意味、神様がそのことによって示そうとされている御心、それらについて思い巡らす日々ではなかったかと思うのです。

 10ヶ月というのは短い時間ではありません。しかし、本当に神様の御心を知り、そのことによって自分が変わる、神様の御業に仕え切る者となる、そのためには三日や一週間ではダメだったのではないかと思うのです。人が変わるには、時間が必要なのです。そして、口が利けなくなるというのは、日常的に忘れることができないことです。声を発し、話そうとする度に、思い起こさせられることです。それは少しも観念的なことではなく、我が身に刻まれた神様の御業でありました。この神様の御業と共に10ヶ月間、ザカリアは生活しなければならなかったのです。このことは、とても大切なことだったと思います。ザカリアはそのような時を過ごし、そして遂に「月が満ち」たのです。

子どもが誕生するというのは、いつの時代でも、どこの国でも、喜ばしいこと、嬉しいことです。洗礼者ヨハネが生まれた時もそうでした。近所の人々や親類が皆喜んだのです。これは自然なことです。しかし、ここには神様の御業に対しての驚きと畏れがありません。私たちを根底から支え、生かす、力ある喜び。それは神様の御業に対する驚きと畏れというものと不可分です。自然な喜びというのは、悲しいことがあればそれによって取って代わられてしまうような喜びなのです。しかしここで、神様がザカリアと妻エリサベトに与えられた喜びは、自然な喜びを超えた、神様への驚きと畏れに満ちた喜びでありました。

 生まれた子に割礼を施し名前を付ける。この命名式というものが、当時のユダヤにおいては大変重要でした。近所の人や親類が集まってなされる、子どものお披露目のような意味を持ったものでした。その時に、生まれた子に父の名を取ってザカリアと名付けようとしたのです。ザカリアの家は祭司の家でした。親類の多くも祭司だったはずです。親類の中の偉い人がそう言ったのかもしれません。しかし、その時母のエリサベトが「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言ったのです。女性がこのような公の時に口を挟むことが許されるような時代ではありませんでしたから、人々は驚いたことでしょう。この嫁はなんということを言い出すのか。そんな空気が流れたことでしょう。そこで人々は父のザカリアに「この子に何と名を付けたいか」と尋ねました。するとザカリアは、口が利けませんので字を書く石板を出させ、「この子の名はヨハネ」と書いたのです。

 ザカリアは10ヶ月の間、口が利けませんでしたけれど、どうして自分の口が利けなくなったのか、神殿で天使ガブリエルに会った時のことを、妻のエリサベトに伝えていたに違いないと思います。口は利けないのですから筆談によったのでしょう。ザカリアはエリサベトに事の成り行きを話したに違いないのです。そして、ザカリアもエリサベトも10ヶ月の間に、神様の御心をきちんと受け取り、それに応える者へと変えられていったのだと思います。

 何気ないことでありますけれど、この時ザカリアとエリサベトが同じように神様の御心を受け入れたということが、とても大切なことだと思います。ザカリアだけ、エリサベトだけ、ではなかったのです。ここには信仰において一つとされた夫婦がいるのです。これはまことに幸いなことです。

 ザカリアが「この子の名はヨハネ」と書いた時、それはザカリアが単に天使ガブリエルの言った通りにしただけではありません。それ以上に、ガブリエルが告げたことをすべて、受け入れて信じたということを意味しています。示された神様の御心に従って歩んでいくということを意味していたのです。神様に対しての信仰の告白が、こういう形で成されたということなのです。

 64節「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」とあります。10ヶ月の長い沈黙の後にザカリアの口から出て来たのは、神様への賛美だったのです。ここに、神様の御臨在に触れた者、生ける神様と出会った者の姿があります。私たちの姿がここにあると言ってもよい。私たちは、ザカリアと同じように神様を賛美する者として、神様の救いに与ったのですから。

 ザカリアが神様を賛美する姿を見て、人々は恐れを感じたと65節にあります。どうして人々は恐れたのでしょう。それは、ザカリアの口が利けなくなったことから始まり、老いたエリサベトが身ごもったこと、子が生まれたこと、そして急にザカリアの口が開いて主を賛美したこと、その一連の出来事が神様の御業であることを知らされたからです。彼らは今まで、普通に赤ちゃんの誕生を喜んでいたのです。しかし、この普通だと思っていた出来事が普通ではない、神様の御業であるということを知って、恐れたのです。

 私たちはどうでしょうか。普通であると思っていることの中に、神様の御業を見る眼差しを持っているでしょうか。神様の御業は私たちの日常の中に溢れています。しかし、多くの場合、私たちはその前を普通のこととして通り過ぎているのではないかと思うのです。私たちの眼差しが神様の御業に開かれ、この唇が神様を誉めたたえるために開かれていくことを願うものです。

ザカリアは10ヶ月の間、天使ガブリエルの言葉を思い巡らし、まことの救い主によって救いの成就が成されるということ、そのために我が子ヨハネが用いられること、そのような神様の救いの御計画の中で、自分たち夫婦が選ばれたということを知るに至ったのでしょう。もちろん、それを悟らせたのは聖霊なる神様です。ザカリアの10ヶ月間も、口が利けないという状況は辛い日々であったに違いありません。しかし、その時を神様の時として過ごした者は、神様を賛美する者へと変えられていくのです。私たちもまた、そのような者として召されているのです。来週はクリスマスの主日礼拝です。色々と忙しい日々が続きます。その日々を私たちは、忙しさを嘆くのではなく、主が私に与えてくださった救いの御業を思い巡らす時としていきたいと思うのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。アドベントの第三主日を、敬愛する兄弟姉妹と共に守り、あなたを褒め称えることができましたことを感謝いたします。神様の救いの御業は、あなたを待ち望み、あなたを信じる民によって担われていきます。今日の祭司ザカリアと妻のエリサベトもそうでした。それは今日の信仰者である私たちも同じです。私たちも自らの生き方と奉仕の業によって、あなたの救いの御業を持ち運んでいきます。そのことに気づかされるとき、私たちは畏れに打たれると同時に、あなたに用いられている喜びを与えられます。どうかそのような喜びで、一人ひとりを満たしていてください。 主をこの世界にお迎えした時、この世界は軍事力を背景にした「ローマの平和」の中にありました。そのような冷酷な偽りの平和が、現代においても声高に叫ばれ、人々を支配しています。しかし、神様はそれとは対極にある神の平和の基として、御子をこの世界に誕生させてくださいました。どうか、私たち一人ひとりを、世界を和解させ命を生かす、あたたかさを湛えた神の平和に仕える者としてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

大いなる喜びの知らせ

ルカによる福音書2章8~14節  2023年 12月10日(日) クリスマス合同礼拝

                                             牧師 藤田浩喜

 今日は日曜学校の子どもたちも大人の人たちも一緒に、クリスマスの物語を聞きましょう。2千年以上前のユダヤの国のことです。羊飼いが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。野宿というのは、家の外でお泊りすることです。羊に草を食べさせるためにあちこち旅していた羊飼いたちは、夜も羊の番をしなくてはなりません。狼などの獣や人間の泥棒が羊を取っていかないように、見張っていなくてはなりません。羊飼いの仕事は、夜も起きていなくてはならない大変な仕事なのです。夜はどんどん更けていきました。

 その夜のことです。神さまの使いである天使が、羊飼いたちに近づきました。

「あ、天使だ、天使が立っている!」すると、今まで経験したことのない大きなまばゆい光が彼らを照らしました。「うぁ、まぶしい!」。羊飼いたちは思わず地面に顔を伏せました。そしてぶるぶる震え出しました。「どんなことが起こるんだろう」「どうなってしまうんだろう」。彼らは恐くなってしまったのです。

 すると天使は言いました。「羊飼いたち、恐がる必要はありません。わたしはすべての人々に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝えます。今日ダビデの町ベツレヘムで、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」そして天使は、その救い主である赤ちゃんがベツレヘムの町の飼い葉桶の中に寝かされていることを、教えてくれました。

 すると、どうでしょう。さらにびっくりすることが起こります。いつの間にか、天使だけでなくおびただしい天の大軍が、天使を取り囲むようにいるではありませんか。天の大軍は、戦争をするために来たのではありません。天使といっしょに神さまを賛美するためにやって来ました。天から来た合唱団です。すると天の合唱団は、いっせいに歌ったのです。「神さまのおられる天には、栄光がありますように!地上には平和がありますように!」まばゆい光が満ち溢れる中で、神さまを賛美する声が響き渡りました。「神さまのおられる天には、栄光がありますように!地上には平和がありますように!」

 羊飼いたちは、夢でも見ているように、この素晴らしい光景を見ていたに違いありません。そして、天使たちが彼らを離れると、だれかれなしに言い出したのです。「みんな、僕たちに起こったことを見たかい。天使と天の大軍が、大合唱して神さまを賛美していた。天の神さまの栄光が輝き、地に平和をもたらしてくださる。そんな救い主がお生まれになったんだ。僕たちのための救い主だ。さあ、ベツレヘムに行こう。救い主である赤ちゃんを拝みに行こう!」

 こうして羊飼いたちは、ベツレヘムの町にある馬小屋へと出かけて行ったのです。すべてが、天使が教えてくれた通りでした。羊飼いたちは飼い葉桶の中ですやすやと眠っている赤ちゃんイエスさまにお会いすることができたのです。羊飼いたちは、どんなに嬉しかったでしょう。羊飼いたちは自分たちが見たり聞いたりした不思議な出来事を会う人会う人に話してあげました。そして、神さまを大声で讃美しながら帰っていきました。

 羊飼いたちは、救い主イエスさまのお誕生を知らされましたが、それは不思議な体験でした。びっくりするような出来事でしたね。羊飼いたちが経験したように、救い主イエスさまがお生まれになったことは、天使や天の大軍が大合唱して神さまを賛美するような、素晴らしい出来事でした。

 そして、天使と天の大軍は歌いました。「神さまのおられる天には、栄光がありますように! 地上には平和がありますように!」神さまがおられる天には、栄光があります。そして、神さまが造られたこの世界には、神さまの栄光を表す平和がなくてはなりません。天の栄光には、地の平和こそがふさわしいのです。

 しかし2千年前の世界には、平和がありませんでした。ローマという大国が軍隊の力、富の力によって人々を支配していました。人々は苦しんでいました。今、わたしたちが生きている世界も同じですね。平和とは反対の戦争や争いが、多くの人たちを苦しめています。神さまに逆らい、神さまの御心に背く罪によって、この世界は神様の栄光を受けられなくなってしまったのです。  

 しかし、救い主イエスさまは、神さまの栄光がこの世界に満ち、この世界に本当の平和がもたらされるために、お生まれくださったのです。神さまの天とわたしたちの地をつなぐ架け橋となるために、イエスさまは生まれてくださったのです。そのような驚くべき出来事が、クリスマスの日に起こったのです。

 2016年の11月に作家の村上春樹さんが、デンマークでアンデルセン賞を受けられました。アンデルセンは、「マッチ売りの少女」や「人魚姫」など子ども向けのおとぎ話の作者として有名な人です。そのアンデルセン賞を受けた時、村上さんは受賞講演をしました。それは、アンデルセンの「影」という小さな作品、彼のいつもの作風とはまったく違う作品を取り上げて、語ったものでした。

 「影」という寓話のようなお話をわたしも読んだのですが、それは次のような話です。ある若い学者が南の国に旅をします。その国で過ごしていた彼は、向かいの家の中に何が起こっているのかを知ろうとして、自分の影をその家まで届かせます。しかしその影はそのまま戻っては来ず、学者は影を失くしてしまいます。

けれども彼には小さな影ができ、それが彼の新しい影になるのです。

 月日が流れ、何年も経ちました。ある晩のこと、学者の部屋をノックする音が聞こえます。ドアを開けるとどうでしょう。そこには自分のなくした影が立っていたのです。彼の身なりはとても立派で、高級な衣服や宝石を身に着けていました。しかも話を聞くと、彼はある国の美しい王女を愛するようになり、もうすぐ結婚することになっているというのです。学者の古い影は、知恵と力を得て独立し、今や経済的にも社会的にも、元の主人よりもはるかに卓越した存在になっていたのです。

 その後、学者はかつての影に世界旅行に連れて行ってもらったりしますが、その間に、学者とかつての影の立場は、すっかり逆転していきます。学者の影はいまや主人となり、主人であった学者は影になります。そして、かの美しい王女と結婚する日のこと、恐ろしいことが起こります。彼が影であった過去を知る元の主人は、その事実を口外することのないよう、哀れにも殺されてしまうのです。

 アンデルセンの「影」はそのような寓話なのですが、村上春樹さんはその寓話を取り上げつつ、私たち人間の心の中にある影ということについて、言及します。そして次のような、とても印象的な、洞察に満ちた言葉を語るのです。

「アンデルセンが生きた19世紀、そして僕たち自身の21世紀、必要なときに、僕たちは自分の影と対峙し、対決し、ときには協力すらしなければならない。それには正しい種類の知恵と勇気が必要です。もちろん、たやすいことではありません。ときには危険もある。しかし、避けていたのでは、人々は真に成長し、成熟することはできない。最悪の場合、小説『影』の学者のように自分の影に破壊されて終わるでしょう。」

そして、個人だけでなく国家や社会の中にある影についても、次のように言うのです。「ちょうど、すべての人に影があるように、どんな社会や国家にも影があります。明るく輝く面があれば、例外なく、拮抗する暗い面があるでしょう。ときには、影、こうしたネガティブな部分から目をそむけがちです。あるいは、こうした面を無理やり取り除こうとしがちです。というのも、人は自らの暗い側面、ネガティブな性質を見つめることをできるだけ避けたいからです。影を排除してしまえば、薄っぺらな幻想しか残りません。影をつくらない光は本物の光ではありません」。そして村上さんは、影の部分を無理やり取り除くような例として、侵入者を防ぐために高い壁を作ること、よそ者たちを厳しく排除すること、自らに合うよう歴史を書き換えることを上げます。そして、そのようなことしても結局は、自分自身を傷つけ、苦しませるだけだというのです。

 村上春樹さんは、私たち個人の中にも国家や社会の中にも、暗い影が存在することを指摘します。そのような影の部分を避けたり、無理やり取り除こうとしてはいけない。そうではなく、自分の影と共に生きることを辛抱強く学ばなくてはならない。そして、その内に宿る暗闇を注意深く観察しなさい。時には自らの暗い面と対決することを恐れるべきではない、と言われるのです。

 救い主イエスさまは、天と地をつなぐ平和の礎(いしずえ)として、この世界に与えられました。そして、そのことを知らされた御心に適うひとり一人によって、平和が創り出されていくのです。救い主イエスさまを信じるひとり一人が、平和のためのレンガを一つ一つ積み上げていくのです。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)。羊飼いたちがしたように、クリスマスの大きな喜びの知らせを、精いっぱい、周りにいる人たちに伝えていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。 

【祈り】御子イエスさまをこの世界に遣わしてくださった神さま、あなたを心から讃美いたします。今日は日曜学校の子どもたちも大人の人たちも、いっしょに礼拝を捧げることができました。ありがとうございます。平和の主であるイエスさま信じる私たちが、イエスさまから力をいただき、たとえ小さくても平和を造りだしていけますよう、どうか励ましていてください。午後の「子どものクリスマス」の時も祝福していてください。このお祈りを、イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

次週の礼拝  12月24日(日)

 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書2章1-12節

説  教   「学者たちの礼拝」 山﨑和子長老

主日礼拝  クリスマス礼拝

午前10時30分  司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)

聖  書

 (旧約) ミカ書5章1-3節       

 (新約) ルカによる福音書2章1-7節 

説  教   「クリスマスの決心」  藤田浩喜牧師