次週の礼拝 10月8日(日)

  

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書9章18-26節

説  教   「二人の女のいやし」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分   司式 山根和子長老

聖  書

 (旧約) 出エジプト記19章1-6節   

 (新約) マルコによる福音書3章13-19節 

説  教   「神の愛を証しする者として」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝 10月1日(日) 

  

日曜学校  

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書8章23-27節

説  教   「嵐を静める」 山根和子長老

主日礼拝   

午前10時30分  司式 藤田浩喜牧師  (聖餐式を執行します)

聖  書

 (旧約) エゼキエル書28章1-10節   

 (新約) マルコによる福音書3章7-12節 

説  教   「神の子に触れる」  藤田浩喜牧師

次週の礼拝 9月24日(日) 

 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書8章5-13節

説  教   「百人隊長のしもべのいやし」 山﨑和子長老

主日礼拝   

午前10時30分  特別伝道礼拝   司式 山﨑和子長老

聖  書

 (旧約) イザヤ書46章1-4節   

 (新約) マタイによる福音書11章28-30節 

説  教   「神に負われる人生」  藤田浩喜牧師

神の愛はあまねく注がれる

ヨナ書1章1~3節    2023年9月17日(日)主日礼拝説教

                              牧師 藤田浩喜 

ルツ記を読み終わりましたので、今日から月一回ヨナ書をご一緒に学んでいきたいと思います。

 ヨナ書は、旧約聖書においてホセア書から最後のマラキ書まで続く12の預言書の一つです。一般にそれを12小預言書と言いますけれども、ヨナ書はその中の一つの文書です。これはヨナという一人の人物が主人公となった、短編小説のような形で書かれています。多くの預言書は、神から預言者に託された言葉、すなわち、預言とか、悔い改めを求める言葉とか、救いの約束の言葉といった、神からの託宣が集められたものとして著されています。それに対してヨナ書は、新約聖書に出てくる一つの譬え話のような性格をもって書かれているのです。

 このヨナ書の主人公となっているヨナという人物は、実在したのかどうか、ということも問題にされることがあります。1節に「アミタイの子ヨナ」と記されています。この人物の名前が旧約聖書に登場する、他のただ一つの個所は、列王記下14章25節です。「ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイ子のヨナ」と記されています。ここに登場するヨナは、イスラエルの王がヤロブアム二世の時代ですから、列王記に出てくる時代をそのままヨナの時代と考えると、紀元前8世紀の半ばと推測されます。

 しかし、実際にヨナ書が書かれたのは、それよりもずっと後の時代、紀元前6世紀~4世紀の間であることが、様々な理由から言われています。言葉遣いとか、背景となった思想ということを考えるとき、ヨナは紀元前8世紀の時代の人物だけれども、実際にヨナ書が書かれたのはそれより200年、300年後の時代だと、推測することができるのです。

 紀元前8世紀頃は、イスラエルの隣国であるアッシリアという国が、力を誇っていた時代でした。イスラエルはその脅威にさらされていました。そしてついには、北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされます。2節に出てくるニネベというのは、アッシリア帝国の首都の名前です。今そのニネベに行くように神から命じられているヨナは、列王記においては預言者と記されていました。

ヨナは神によって、預言者的務めのために呼び出されているのです。

 しかし、ヨナはそれから逃げようとしています。そのヨナがこの書の中心人物であることは間違いないことです。しかし同時に、神がこの書のもう一人の主人公であるということも、ヨナ書を読んでいくときに示されます。ヨナ書はわずか4章で、数えてみても48節しかない短い文書です。その中に主、あるいは神という名が、40回近く用いられています。そのことも示しているように、ヨナ書はヨナを中心に事柄が展開されますが、むしろヨナが神にどのように関わるか、あるいは神がヨナにどのような関わりを持たれるか、そのことが主題となっていると言ってよいのです。誰も近づけないような偉大な預言者ではないヨナと神との関わりを見ていくとき、私たちは自分自身と神との関係をどうしても考えざるを得なくされます。ある人は、私たちの自画像がここに描かれているようであると語っています。そのように私たちは、自分自身のことをこのヨナ書を通して考えさせられるのではないかと思います。

 さて、この書は「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」という文で書き始められています。主の言葉がある人に臨むということは、神がその人に語るべき言葉を託したり、神がある人を何らかの行動に召し出すときに用いられる表現です。それは神の意思が、ある人にはっきりと示されることです。生ける神が今一人の人に向かって動き出しておられる、それが主の言葉が臨むということの意味なのです。神が自分に向かって働きかけておられる、そのことを知った人は、その時何らかの応答をしなければなりません。その言葉が無かったかのように生きることは、もはやできないのです。人はそれに応えなければなりません。

 その時、神の言葉が指し示す方向に素直に歩んで行く応答もあります。神の言葉が意味することがよく分からない、神の御心をもっときちんと知ろうと、祈りの格闘を始める者もいます。さらには、そのような神の御言葉を自分にとっては受け入れ難いと受けとめて、神の前から逃げ出す道を行く者もいます。ヨナはどうしたでしょうか。

 ヨナに臨んだ主なる神の御言葉は、「大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ」でありました。神がヨナに近づいて、ニネベに行きなさい、そこで神の言葉を語りなさいと、新しい務めをヨナにお命じになりました。しかし、それに対してヨナは「主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった」と、3節に記されています。ヨナは無言のうちに神の御言葉に反抗し、神が指し示す方向とは逆の方向に向かって行きます。彼の沈黙の行動の中に、彼の強い意志が読み取れるように思うのです。

 この時のヨナの心の内は、どのようなものであったでしょうか。それを知る手掛かりは、彼に行くように命じられた、「大いなる都ニネベ」に、彼の心の内を知る手掛かりがあると考えられます。ニネベは先ほども申しましたように、当時のアッシリアの首都でした。エルサレムからは、直線で東北方向に700キロ位のところに位置した都市です。国の政治、経済、文化の中心都市でした。それは繁栄の都であり、エルサレムと比べるならばあまりにも大きな街でした。それと同時に、頽廃と堕落の罪が満ちた都でもありました。ヨナにとっては、それは自分とは全く関係のない異国の大都市、そのようにしか、ニネベを捉えることができなかったのではないでしょうか。その悪が神の前に届いていると、主なる神は語られます。その都の悪が、自力では解決できないほど大きなものになっている、見過ごしにできないほど、ニネベの罪が深刻なものになっている。神を抜きにふくれ上がった人間の社会、人間の世界の象徴と代表がここにあります。

 そこに神の御言葉を携えて行けと、ヨナは命じられます。そこで語るべき言葉は、ここには記されていません。しかし、それは当然悪に対する神の警告の言葉であり、悔い改めを求める言葉であったことでしょう。それらの言葉をニネベの人々に語りかけよと言われる。それは裏を返せば、悔い改めるならば、神の救いの恵みが彼らにも与えられるということを、知らせることでもありました。ヨナはそのような神のご計画をいま知らされて、心が騒ぐのです。なぜニネベの人々に、そのようにしなければならないのか。どうして自分がその務めを担わなければならないのか。神はいったい何を考えておられるのだろうかと、ヨナは神への猜疑心に襲われたのかも知れません。

 さらにもう一つ決定的なこととして、自分が信じる神はイスラエルの神であって他の国の神ではない。他の民にとって神の恵みは必要ではない、という選民意識や特権意識が、ヨナの心を支配していたではないでしょうか。それはヨナだけではなくて、当時のほとんどのイスラエルの人々が持っていた偏狭な考え方であり、排他的な思想でした。ヨナはニネベの人々に神の御言葉を語る必要性も、必然性も感じないのです。その責任を覚えるということも全くないのです。救いはイスラエルのみと考えるヨナにとって、ニネベの都の人々は、全く自分の関心外のことである。そのことも、彼が神の前から逃げ出した、一つの原因になっていたのではないかと思うのです。

 しかし、私たちがここで考えなければならないことがあります。それは私たちが関心を持たないものであっても、神が関心を持たれることはあるのだ、ということです。そして神が関心を持たれることであるならば、私たちがそれまで関心を持つことがなかったとしても、私たちは関心を持つことが求められるのです。神の関心は、私たちの関心事にならなければならないということです。

ニネベの悪はヨナには全く関係のないこと、関心のないことでした。しかし、神はその悪の都ニネベにも心を向けられるお方です。そうであるならば、ヨナは自分の思いを超えて、神の関心事を自分の関心事とすべきであったのです。使徒パウロは、信仰の本質を次のように語っています。ローマの信徒への手紙3章29~30節です。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。」パウロはそのように述べています。

 もちろん、ヨナの時代の人々はそこまで神を、世界大の方として捉えることができませんでした。ヨナもその一人でした。しかし、今、神が異邦の国、悪の都ニネベに関心を持たれることが明らかにされた以上、ヨナもまたそれに関心を持つこと、それが彼に求められることでした。しかしヨナはまだ、そのような信仰を自分のものとすることはできていません。神は異邦の人の神でもあるという目を、ヨナはまだ持つことができないでいました。それゆえ、自分の思いとは反することを命じられる神から逃亡することを、彼は企てるのです。

 タルシシュがどこなのかということについては、幾つかの説があります。これについては、大方の人が考える今のスペイン南部にある町として受けとめておきたいと思います。地中海を船に乗って西へ西へ行くと、その果てにタルシシュがある、そういう場所です。ヨナはそこに逃れれば神の目も届かない、そのような地の果てまで行けばいやな務めをしなくてすむ、そう考えたに違いありません。

 タルシシュ行きの船に乗るためにヨナは、現在のテルアビブに近い港町ヤッファに下って行くのです。神は、ヨナに東の方に行けと命じられました。しかしヨナは、西の方に向かって行きました。神が行けと指し示される方向とは逆の方に行きました。神が指し示す方向とは逆の方向に行くこと、それはまさに主から逃れることであります。ヨナは神への不満をもって、神が定められたところではなくて、自分で勝手に決めたところへ向かって行きました。

しかし、いかに当時の地の果てである、土地に逃れたとしても、神から逃れることはできません。詩編の作者は、次のように歌っています。139編7~8節の言葉です。「どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。」神から逃れようとしても、逃れることはできない。それは裏を返せば、神の愛はあまねくそれぞれのところに与えられるということです。いかなるところに逃げようとも、神の愛から逃れる場所はこの世にはどこにも無いということです。そのような積極的なことも、同時に歌われているのではないでしょうか。

 ヨナは神を信じなかったのではありません。神の言葉を聞いて神から逃れようとすることは、神が生きておられることを信じていたからこそ、それに反抗しよう企てた行為です。しかし、神を信じていたとしても、また神の存在を知っていたとしても、いま知らされた神の御計画が、彼にはわずらわしく思えたのです。そのために、神から離れて生きようと試みたのです。人の思いが先行する時、愚かな行動が起こってきます。そしてそれは初めはうまく行っても、必ず失敗してしまうのです。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」、箴言19章21節の言葉です。

 もし、私たちに対する神の御声を聞いたならば、それに従わなくてはなりません。そして神との正しい関係を保って歩んで行くことが必要です。神は私たちと正しい関係を持ちたいと願っておられます。ですから、神の御言葉を受け入れ、神に従っていくことが、私たちのなすべきことなのです。お祈りをいたします。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。神様、あなたの御心は私たち人間の考えることを、遥かに超えて行かれます。あなたは、広く、深く、高く、この世界を見ておられ、この世界に対するご計画をお持ちです。どうか、私たちが人間の物差しであなたの御心を測ることなく、あなたの御心に心から従う者とならせてください。私たちの群れの中には、病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、人生の大きな試練の中にある兄弟姉妹がおります。どうか、それらの兄弟姉妹を特にあなたが顧みてくださり、あなたの御手をもって導いていてください。この拙きひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 9月17日(日)

  

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書4章18-22節

説  教   「弟子の召命」 高橋加代子

主日礼拝   

午前10時30分   司式 髙谷史朗長老

聖  書

(旧約) ヨナ書1章1-3節
(新約) ローマの信徒への手紙3章29-30節 

説  教   「神の愛はあまねく注がれる」 藤田浩喜牧師

真ん中に立ちなさい

マルコによる福音書3章1~6節  2023年9月10日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気を癒されるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に『真ん中に立ちなさい』と言われた」。安息日に会堂に入るということは、言うまでもなく礼拝のためです。礼拝のために会堂に入られますと、片手の不自由な人が礼拝の場にいました。聖書がわざわざそのことを書いているのは、神を礼拝するということと、そこに病める人がいるということとは、切り離されてはならない事柄だからでもあるからです。神は人間の病に関わってくださる方であるからです。人間の弱いところや醜いところを、神様が嫌がって近づかないなどということはないのです。神は人間の弱さや醜さに関わってくださる方であることを、私たちは覚えなければなりません。主イエスが貧しい馬小屋に生まれたことは、そのことを示しています。

 私たちはこの世で多くの人々の中で生きています。いろいろな交わりを持ちながら生きています。しかし、そうした中で私たちの一番弱い部分は、しばしば隠されているものです。あるいは自分の中の一番恥ずかしい部分は、人々の交わりの中では隠されているものであります。差し障りのないところだけで、私たちは多くの人々と出会っています。しかし神は、私たちの最も弱いところに関わってくださる方です。私たちの病める部分に触れ、そこのところで私たちと出会ってくださるのです。だから、私たちも隣人の弱さを覚えるのです。また兄弟姉妹の痛みというものに関わるのです。私たちは神を礼拝しながら、隣人の痛みに近づくことができる者に変えられて行くのです。

主イエスは、この手の萎えた人に向かって、大勢の会衆の中ではっきりとこう言われました。「真ん中に立ちなさい」。この言葉は、この病める人に向かって言われた言葉でありますが、同時にそこに集まって神を礼拝している人々に向かって言われた言葉でもあります。つまり、弱い人を「真ん中に立たせなさい」という言葉です。病んでいる人を礼拝する場所の真ん中に立たせなさいという意味です。弱い人を隅に追いやってはならない、そう言われたのです。人間の弱さや痛みが隠されないで真ん中におかれる、そのことが、神の民が生きているということのしるしとなるからです。人の弱さや痛みが、みんなの配慮の中に置かれ、そしてみんなの祈りの中に置かれる、そこで神の民は神の民として生かされて行くのです。弱いところや醜いところはみんな隠されて、きれいごとだけで出会っている、そんなところに神の民はあるのではありません。弱いところをめぐってみんなが集まっている、共に祈りが捧げられている、配慮されているということの中に、神の民の生きているしるしがあると言えるのではないかと思います。

「人々は、イエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」。ある人々がおりまして、彼らは果たして主イエスが片手の萎えた人を癒すかどうか注目していたというのです。彼らは、安息日の規定がひょっとしたら破られるかもしれないというふうに思って、主イエスの行動を見守っていたのです。安息日の規定とは、安息日には仕事をしてはいけないということであります。そして、病人をなおすということは、仕事と考えられていました。だから、主イエスは安息日の規定を破るのではないかと、人々は意地の悪い観察をしていたのであります。

今日の聖書で「片手の萎えた人」という言葉が出てきます。1節に出てきますが、3節にも「手の萎えた人」、5節にも「その人」と出てきます。そして、主イエスは安息日に許されているのは、「命」を救うことではないかと、ファリサイ派の人に問うておられるのです。ここの「命」はプシュケーという言葉ですが、人間である以上持っている人間の値打ちを示すもの、人間の値打ちがそこに根差すものが、この「命」プシュケーです。ファリサイ派の人々は、片手の萎えた人のことを、主イエスを罪に問うための道具のようにしか見ていませんでした。しかし主イエスは、「片手の萎えた人」を、「命」プシュケーを持っている人間として尊重なさるのです。ファリサイ派の人々は、体を損なったりするのは、神様からの祝福から落ちた人間だと考えていました。だから、手が萎えてしまった人も、そういう意味で劣等感を持ちながら片隅に座り込んでいたかもしれない。その人を真ん中に引き出して、そして主イエスが言われるのは、こういう人間こそ安息日の礼拝、私たちの礼拝のただ中に置かれるべきものであるということでした。この人々の、このような人の救いが問題にならないところでは、この人を殺すことをしていることになるのだと、言われたのです。

 安息日の規定、それはつまりしきたりです。しきたりや慣習は、しばしば人間の弱さや貧しさを周辺に置こうとします。なるだけ周辺に置いて人目に触れないところに置こうとする。人間はしばしばそういうふうに慣習やしきたりを造っていくのであります。そういう人々の中で主イエスは言われました。「真ん中に立ちなさい」。人間の弱さや痛みを真ん中に置いて、周辺に置かないで共に担っていきなさい、共に祈っていきなさい、と。そういう中で、神の民は生かされるから。そういう人間の痛みや貧しさを排除して、神を中心とした交わりは成立しないのです。神は失われた羊を訪ねる、そういう神であって、失われた者を排除してしまう神ではないからです。

 世には多くの交わりがあります。その交わりにおいて、人間の弱さは隠され、そして恥とされ、いいところだけを見せることで交わりは成り立っているのです。みんな、ある意味で背伸びしながら生きています。自分はこれだけ能力のある人間であり、自分にはこういう実績がある、自分の親戚には著名な誰々がいる、そんなことをほのめかしながら生きています。そんな交わりが人間を互いに出会わせることはありません。神が私たちの最も弱い部分において、私たちに出会ってくださるように、人間同志も弱さにおいてしか出会えないのです。

 さて、「真ん中に立ちなさい」とキリストは言われました。これは会衆に語られ、そして、手の萎えた人自身に言われた言葉であります。隅にいないで、あなたは「真ん中に立ちなさい」と言われた。自分を恥じて、隅っこのほうにいないで、「真ん中に座りなさい」と言われたのです。これは神に対する姿勢のことを言っています。あるいは人の生きる姿勢についても言っていると思います。つまり、神に対しては、隅っこにいてはいけない。真ん中に立たなければいけないのです。自分のような者は隅っこにいなければ、という意識、それは人間を歪めているものです。たいした人間じゃない、取るに足りないなどと考えて隅っこに身を置く―それが人間を根本的に歪めているのであります。

 主イエスは、人を神の真ん前に呼び出します。自分を恥じなくていい、卑下してはいけない、真ん中に立ちなさい。そのためにキリストは、私たちを贖って、救い出してくださったのです。この罪人を、神の真ん前に立たせるために、キリストは私たちを救い出してくださった。自分のような者は、みんなの足手まといだなんて言ってはいけない。ありのままで生きていい。ありのままで神の真ん前に立っていいのです。隅に隠れてはいけない。人々の陰に隠れて、こそこそしなくていい。神の真ん前に身を置くというところから、癒しは始まります。私たちが隅っこに逃げこんでいては癒されはしない。光の中に出てこなければ花は咲きません。神の真ん前に自分を立たせなければ、神の癒しは始まりません。神の前に身を置く、そこから自分の生活を始めなければならない、そこから神の御業が始まるのです。

「そこでイエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと手は元どおりになった」。「手を伸ばしなさい」と言われました。彼は手を伸ばしたことがありませんでした。その彼に向かって主イエスは、「手を伸ばしなさい」と言われたのです。つまり試みよと言われたのです。できないかも知れない、失敗するかも知れない、あるいは躓くかも知れない、しかしそれを恐れないで試みなさいと、主イエスは言われました。試みるというところから、できることが広がって行きます。なるほど能力には限界があるかも知れません。できないこともある、また他人のようにはできないかも知れないけれども、しかしできることがあるのです。必ずあるのです。人のようにはできない。だから自分にはなんにもできないと、私たちは考えます。しかしできることをやってみる。それが大切なことです。自分なりにできること、それをやってみる。それが私たちが生かされているということです。何一つできないけれど、生かされているという人は世の中には一人もいません。何一つ役に立たないけれど、生かされている人などはいません。だれもが生かされていることで、人の役に立っているのです。

 「手を伸ばしなさい」。できることがあるのです。他の人のようにはできないかも知れないが、あなたなりにできることが必ずある。それをするということが、すなわち私たちが生きるということです。そうでなければ、私たちは生きている意味がありません。神は私たちを生かしていてくださるのです。自分なりにできることをしないということは、自分を駄目にすることです。「手を伸ばしなさい」。試みるのです。できることをやってみるのです。あれができない、これができない、人のようにはできないと、できないことを探すのではなくて、自分に与えられているできることを探すのです。神は私たちに難しいことを求めておられるのではありません。私にできることをする、そのことを神は求めておられるのです。

「手を伸ばしなさい」。八方ふさがりで、何もできないということなどないのです。手を伸ばしてみる、試みてみる、そうすれば神は必ず私たちに救いの御手をさしのべてくださる。私たちにできることを必ず示してくださる。そうやって私たちは、癒されていくのです。何もしないで癒されるというのではないのです。神に生かされて、自分にできることをやってみるということで、人間として癒されていくのです。主イエスの御声に励まされて、神にわが身をゆだねて、前へと進みゆく私たちでありたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。今日も私たちを様々な仕方でこの礼拝に集わしめてくださり、心から感謝いたします。今日も御言葉を通して、私たちの教会がどのような群れであるかを示され、感謝いたします。私たちは一人一人、弱さや欠け、痛みを抱えています。劣等感に苛まれることもたびたびです。しかし、主イエスはそれだからこそ、「弱さや欠けのまま、真ん中に立ちなさい、ためらわずに私の前に立ちなさい」と言ってくださいます。お互いが主の御前に立つよう、励まし合い喜び合う中で、私たちは群れとして癒されていきます。どうか、私たちの教会がそのような群れとなることができますよう、導いていてください。台風13号は千葉県にも多くの被害をもたらしました。今もその被害の中で労苦しておられる方々がたくさんおられます。どうか、そのお一人お一人を顧みてくださり、支え励ましていてください。この拙き、ひと言の切なるお祈りを、私たちの主、イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 9月10日(日)

 

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイによる福音書4章1-11節

説  教   「荒れ野の誘惑」 藤田浩喜牧師

主日礼拝   

午前10時30分   司式 山根和子長老

聖  書

 (旧約) エレミヤ書17章14-18節   

 (新約) マルコによる福音書3章1-6節 

説  教 「真ん中に立ちなさい」 藤田浩喜牧師

まことの安息への招き

マルコによる福音書2章23~28節  2023年9月3日(日)主日礼拝説教

                              牧師 藤田浩喜

主イエスの時代、安息日規定というものがありました。これは聖書には記されていないのですけれど、安息日を守るとは具体的にはどういうことなのかということを規定したものです。それには39種類の「してはならないこと」があって、それが各々6項目にわたって記されているので、安息日には合計234のしてはならないことがあったのです。例えば、安息日に歩いてよいのは約900メートルと決められていました。万歩計で言うと、1300歩くらいでしょうか。これなど、20分も歩いたら超えてしまいます。また、火を使って食事を作るのもダメです。こうなれば、家でじっとしているしかありません。

 どうしてそういうことになったのかと申しますと、これはイスラエルの歴史と深い関係があるのです。紀元前6世紀にバビロン捕囚という出来事がありました。神の民であるにもかかわらず神様に背いたイスラエルは、神様の裁きとして国を滅ぼされ、国の主だった人々は皆、遠いバビロンに連れて行かれるということが起きたのです。その後神様がバビロンをペルシャによって滅ぼされたので、イスラエルの民はエルサレムに戻って国を再建したわけです。そして、もう二度とバビロン捕囚のような目に遭わないようにと、しっかり律法を守り、神の民として真面目に歩んでいこう、そうイスラエルの民は心に刻んだのです。その結果、十戒を徹底的に守る、そういう姿勢がユダヤ教の基本となったのです。それが具体的な形として現れたものが、安息日規定なのです。ですから、現代の私たちから見れば首をかしげたくなるような234項目にも及ぶ禁止事項も、当時の人々は大真面目に、まさに命懸けで守ろうとしたのです。

 こんな話もあります。紀元前2世紀にユダヤがシリアと戦争をするのですが、その時、安息日に攻撃を受けました。するとユダヤの人々は、安息日に戦うことは律法違反であるとして、安息日規定を破るよりは殺されることを選ぶと言って、多くの者がこの時戦うことなく殺されていったというのです。

 安息日を守るということにはこのようなイスラエルの歴史が背景にあり、安息日規定は主イエスの時代ここまで厳格に規定されていたということなのです。

さて、聖書に戻りますが、23~24節「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った」とあります。主イエスの弟子たちは麦畑を通る時に麦の穂を摘んだのです。これは、弟子たちが腹を空かせていたので、麦の穂を摘んで、それを両手でこすって籾殻(もみがら)を落として食べたということでしょう。私はしたことはないのですが、以前、80代、90代の方に聞いたところ、自分たちも小学校の帰りによくやったものだと言っておられました。ちょうどガムを噛んだようになるそうです。ファリサイ派の人々はこの弟子たちの行動を、「安息日にしてはならないこと」をしていると言って見とがめるわけです。これは他人の畑の麦を盗んだと言って責めているのではないのです。律法には、貧しい人が自分のものではない畑で、手で麦の穂をとることは許されていたのです。律法は本来、貧しい人、弱い人に対して、そのような配慮に満ちたものなのです。ここで、ファリサイ派の人々が問題にしたのは、「安息日にしてはならないこと」をしているということでした。つまり、弟子たちの行動が、収穫するという労働にあたる、脱穀という労働にあたる、ということだったのです。

 これを、「馬鹿げている」と言って済ませることはできません。彼らは、本気で、命懸けで、律法を守ろうとしていたからです。安息日規定を破る者は石打ちの刑なのです。実際に、このようなことで石打ちの刑で殺されるということがあったとは考えづらいですが、そういう定めになっていたのです。

これに対しての主イエスの答えが、25節以下に記されています。ここで、主イエスは三つのことを語られました。

 第一に、主イエスは、ダビデが、律法で祭司しか食べることができないと定められている、神殿にささげられた供えのパンを食べ、供の者にも与えたという、旧約聖書に記されている出来事をまず告げました。これはサムエル記上21章に記されている出来事です。ダビデは王になる前、サウル王に命を狙われます。そして、逃亡していく中で空腹になった時、大祭司から神殿にささげられていたパンを受け取り、食べたのです。しかし、ダビデがそのことによって神様に裁かれたとは記されていないのです。このダビデの話は、もちろんファリサイ派の人々も知っています。

 ここで主イエスがダビデの話を出した時、ファリサイ派の人々はどう思ったでしょう。「何を言っているのだ。ダビデ王は神様に選ばれた、神の民の王ではないか。まだ王になっていなかったとはいえ、王になることはすでに神様によって決められていたのだから、飢え死にしたりすることが御心に適わないことは明らかではないか。ダビデ王は特別だ。そのダビデ王とお前と何の関係がある。ダビデ王と自分を同じ所に置くなど、もっての外。何と失礼な、分を弁えていない者なのか。」そんなふうに思ったのではないでしょうか。

 主イエスはここで、たまたま都合よくダビデの話があったので、これを持ってきたということではなかったと思います。そうではなくて、主イエスは、ファリサイ派の人々が感じたように、ダビデを持ち出して、ダビデと自分は同じではないかと言ったのだと思います。ダビデの子であるわたし、救い主であるわたしが、ダビデがしたようにしているのだ。何か問題があるのか。ダビデが問題なかったように、わたしも問題ない。いや、わたしはそれ以上に問題ないのだ。なぜなら、安息日を定めたのはわたしの父であり、わたしは父と一つなのだから。そう主イエスはここで告げられたのではないかと思うのです。

そして、第二に、主イエスは27節で、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と告げられました。これは、安息日に限らず、律法というものは、神様が神の民との間に愛の交わりという関係を保持するために与えられたものであるという、根本的な理解を示されたのです。そもそも安息日というのは、神様が6日間で世界を造られ、7日目に休まれたということに由来するのです。それは7日目の安息日を守ることによって、神様の創造の御業を覚え、神様に感謝を捧げ、神様との交わりを生活の中で整えていく、そのためのものであります。「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という第四戒において大切なのは、「これを聖別する」、神様のものとして分けるということです。だから、何もしないという点に意味があるのではなくて、神様のものとする、神様にこの日一日をささげる、神様のための日とする、自分のために使わない、神様のために用いるということに意味があるということなのです。

 そしてまた、安息日のもう一つの意味は、申命記5章14~15節に記されています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」とあります。ここでは明らかに、安息日は、天地創造の御業と共に、出エジプトの出来事を思い起こすための日とされているのです。そして、エジプトにおいてイスラエルの民は奴隷であったのだから、そこから神様によって解放されたのだから、今あなたが使っている奴隷も、あなたと同じように休ませなさい。それが神様の御心だと告げているわけです。イスラエルの民にも奴隷にも、つまりまさに人間に安息する日を神様は与えてくださったということなのです。何もしないということのために一生懸命努力する、そういう日なのではなくて、神様が与えてくださった安息、休み、これを感謝して受け止めるということが大切なのだ。それが御心なのだと告げられたのです。

第三に主イエスが言われたのは、28節「だから、人の子は安息日の主でもある」との言葉です。この「人の子」というのは、主イエスが御自分のことを言われる時に用いる言い方です。主イエスは御自分が安息日の主だと言われたのです。安息日というのは、今まで見たように、神様が天地を造られたこと、そして今もすべてを支配し、私たちを守り、支えてくださっていることを覚えると共に、出エジプトの出来事によって神の民を救われたことを覚えるために定められたものです。この安息日の意味が根本的に新しくされ、より徹底された。それが主イエス・キリストの到来であり、十字架と復活の出来事でありました。

 旧約における安息日は、週の終わりの日ですから、土曜日です。しかし、主イエス・キリストが与えてくださった安息に生きる私たちが守る安息日は、日曜日です。主イエスが復活され、新しい命の創造がこの日に始まったからです。この主イエスによって与えられる新しい命、復活の命に生きるよう召し出されたのが、私たちなのです。実に、主イエスは私たちに、律法を守ることによってではなく、ただ主イエス・キリストを信じる、このことによって与えられる新しい安息日を与えるために来られたのです。主イエスは文字通り、命を懸けて、新しい安息日を定められたのです。この新しい安息日は、人のためにあるのです。私たちは神様に愛され、神様を愛し、人を愛し、神様と人とに仕える者として新しくされた。そのことを心に刻み、新しくされた者として、ここから新しく歩み出していく。そういう日としてこの日を定められたのです。ですからまさしく、主イエス・キリストは安息日の主なのです。この主を愛し、主の御声を聞き、主と共にあることを感謝するために、新しい安息日としての主の日、この日曜日があるのです。

 私たちは今から主の聖餐に与ります。聖餐を受けることによって、主イエス・キリストによって与えられている安息を心に刻み、主イエス・キリストによって与えられた新しい命を受けるのです。御言葉を受け、聖餐に与った者として、まことの安息と平安を与えられた者として、今日から始まる新しい一週の歩み、御国への歩みへと踏み出してまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美し、あなたの御栄を褒め称えます。今日も私たちを礼拝に集わせてくださり、心から感謝いたします。あなたは私たちに日曜日という安息日を与えてくださいました。これは安息日の主である御子イエスが、新たに定めでくださった安息日です。この日は旧約の安息日と同じように、あなたを礼拝するために取り分けられた日であり、わたしたちが真の安息に入れられるために、あなたが与えてくださった日です。どうか、この主の日の礼拝において、主イエスが十字架と復活によって創造してくださった新しい命に生きることができますよう、私たちを導いていてください。今週の火曜日には鈴木充子姉の葬儀も行われます。どうかその上にも、あなたの御支えと祝福をお与えください。この拙き切なるお祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。

次週の礼拝 9月3日(日) 

  

日曜学校   

午前9時15分-10時  礼拝と分級

聖  書   マタイの福音書3章13-17節

説  教   「主イエスの洗礼」 髙谷史朗長老

主日礼拝   

第一主日ですので聖餐式を行います

午前10時30分より   司式  藤田浩喜牧師

聖  書

 (旧約) イザヤ書56章1-8節  

 (新約) マルコによる福音書2章23-28節 

説  教   「まことの安息への招き」  藤田浩喜牧師

喜びによって新しくされる

マルコによる福音書2章18~22節 2023年8月27日(日)礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

私が大学生の時ですが、学生の団体が主催して「飢餓ランチ」という取り組みをしていたことがありました。それはお昼ごはんに食パン1枚とインスタントコーヒー一杯を用意する。会場に集まってきた人は500円を箱に入れる。もちろん食パン1枚とインスタントコーヒー1杯が500円もするわけはありません。学生の団体はパンとコーヒーの原価を差し引いて、余ったお金を集めて定期的に、海外の飢餓地域の支援をする団体に送っていたのです。私も何回か「飢餓ランチ」を利用しました。食パン1枚とインスタントコーヒーでは、もちろん大学生の空腹を満たすことはできません。しかし何か少しだけですけれど、心に満たされたものを感じました。自分が質素な食事をすることで、見知らぬ他者と少しでもつながっているような思いがしたからかもしれません。

さて、今日お読みいただいた聖書の箇所では、「断食」のことが問題になっています。私たちの時代では「断食」(食を断つ)ということを健康のために行うことがあるようですが、主イエスの時代はそうではありませんでした。「断食」は神様の前に信仰者が罪を犯したことへの、ざんげや悲しみのしるしとして行われました。レビ記にはユダヤ暦の7月4日の大贖罪日に「断食」をするように命じられていました。主なる神様に対して犯した罪を、イスラエル全体がざんげし悔い改める日に、この「断食」は行われたのです。

 しかし、今日の聖書に登場するバプテスマのヨハネの弟子たちは、先生のヨハネが人々に強く悔い改めを迫る人でしたので、しばしば「断食」をしていました。また、ファリサイ派の人々も、週に2回月曜日と木曜日に「断食」をしていたと言います。バプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、

食を断つことで自分の罪を見つめ、神様に向かってざんげと悲しみを言い表したのでした。それは意義あることであり、本来敬虔な思いからなされていたのです。バプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、「断食」こそ信仰者のなすべき敬虔だと考えていました。

そのため、あまり熱心に「断食」を行わない主イエスの弟子たちを見て、「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と問うたのでした。そこには非難の思いが込められていました。また、先々週見ましたように、主イエスと弟子たちは徴税人レビの家の客となり、大勢の徴税人や罪人と呼ばれていた人たちと食事を共にしました。その食卓は大変賑やかで、大いに食べたり飲んだりしたことでしょう。そんな主イエスと弟子たちの姿を見て、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、敬虔さのかけらもないと感じたのでありましょう。

しかし主イエスは、彼らにこのように言われたのです。19節です。「イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない』」。これはだれにでもよく分かるたとえです。主イエスの時代、婚礼は人生の一大行事であり、祝宴は1週間以上も続いたと言われます。現代の結婚式の披露宴は平均3時間ぐらいでしょうが、豪華な食事をいただき杯を傾けながら、お祝いの時を過ごします。披露宴は喜びの雰囲気で満たされ、新しく歩み出す二人を祝福する思いに包まれています。披露宴の席は、何も食べず、何も飲まない「断食」とは対極にある場所です。

主イエスは、「わたしが来たことによって、今あなたがたは婚宴の席、断食など思いもよらない喜びの宴に招かれたいるのだ」と宣言されているのです。花婿は旧約聖書の時代から主なる神様を表わす言葉でありました。主イエスはこの福音書の冒頭で、「時は満ち、神の支配は近づいた」(マルコ1:15)と宣言されました。主イエスがこの世界に来られたことで、主イエスを通して神様ご自身が到来されました。そして神の国・神のご支配は今や完成に向かって進んでいるのです。そのことを知らされている信仰者にとってなすべきことは、苦悶の表情を浮かべて「断食」をすることではありません。そうではなく結婚式の披露宴に招かれた客のように、何よりも喜ぶことなのです。

先々週の箇所で、徴税人レビの用意した食卓に主イエスとその一行が客となって来てくださいました。丈夫な人ではなく病人を、正しい人ではなく罪人を御国に招いてくださる主イエスを食卓にお迎えしたのです。その場にいた徴税人レビたち、罪人と言われていた人たちは、どんなに大きな喜びに包まれたでしょう。主イエスの示してくださった愛と憐みに、どれほど心打たれたでしょう。それと同様、私たちのもとにはこのイエス・キリストが来てくださっているのですから、私たちは何よりもそのことを喜ぶのです。すべてのことはこの喜びから始まっていくのです。

ただしキリスト教会は、その歴史において「断食」をまったくしなかったかと言うと、そうではありません。主イエス御自身が荒れ野で40日40夜サタンの試みに遭われた時に「断食」されています。また使徒言行録には、使徒を選ぶ時や使徒を伝道に派遣する時に、初代教会の信徒たちが「断食」して祈ったという記事が出てきます。また、主イエスは今日の20節で「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」と言われています。初代教会においても、イエス・キリストが十字架で苦しまれ、死を遂げられたことを覚えて「断食」する習慣があったことを、聖書註解者たちは記しています。私たちがレントの時、受難節の時を、主の十字架の苦しみを想起して過ごすように、初代教会のキリスト者たちも「断食」をして、自分の罪を悔い改めたのでしょう。しかし、イエス・キリストが到来されたことによって、「断食」という敬虔を表わす行いは、今や全く違ったものになったのです。

敬虔さを表わす「断食」は、主イエスが到来した今、どのようなものとなったのでしょう。「断食」について述べている2つの聖書箇所から考えて見ましょう。一つはマタイによる福音書6章16~18節です。ここは主イエス御自身が「断食」について教えておられるところです。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

主イエスの時代、本来神の前に自分の犯した罪を悔いて悲しむために行われていた「断食」は、人に見せるためのものになっていました。自分が他の人よりどれだけ敬虔かを誇るために、「断食」が行われていました。顔を歪めて苦しさをこらえて週に何度も「断食」をすることで、周りの人々から賞賛を受けていました。そんな「断食」はもう人間から報いを受けている。神様から報いを受けることはできない。もし神様から報いを受けたいと思うなら、「断食」していることが周りの人に分からないようにしなさい。隠れたところでしなさいと言われるのです。「断食」は今日の信仰者には、「祈り」、「奉仕」、「献金」などに読み替えることができるでしょう。そうした信仰の表現である行為は、人に見せびらかすものでも、人と競うものでもありません。主イエス・キリストのゆえに「アバ、父よ」と呼ぶことのできる父なる神様が、私たちを見てくださっています。父なる神様は、私たちのどんなに小さな信仰の行為をも、あたたかく喜んで受け入れてくださいます。「この御方にだけ見ていただければ、それでよい。父なる神様だけに見て頂きなさい」と、主イエスは言われるのです。

もう一つ、「断食」について教えられるのは、今日司式長老に読んでいただいた旧約聖書イザヤ書58章です。ここでは3節から8節をもう一度読んでみましょう。最初に当時のイスラエルの人々が問います。「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。」それに対する神様の応答が語られるのです。「見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。 

わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。」

 イザヤは、神の御言葉を語ります。あなたが自分に仕えてくれる人に暴虐な振る舞いをするなら、いくら敬虔な仕草で「断食」を行ったとしても、それをわたしは受け入れない。正しさや正義が踏みにじられるところでは、神は「断食」を喜ばれないのです。また、同胞が悪者に苦しめられ、虐げられている。食べる物も着る物もなく、苦しんでいる。そのような同胞に何の手も差し伸べないなら、いくら熱心に「断食」しても、わたしはそれを少しも喜ばない。愛を失った冷えた心で行われた「断食」を、神は受け入れようとはされないのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されました」(ヨハネ3:16)。イエス・キリストは、私たちすべての者を罪と死の縄目から解き放つために、十字架にご自身を捧げられました。その主イエスに従う弟子たちの信仰の行いも、主イエスに倣うものでなくてはなりません。「祈り」、「奉仕」、「献金」といった信仰の行為も、正義を行うこと、愛の手を差し伸べることと何の関わりもないところで捧げられるのなら、神様がそれを喜ばれることはないのです。しかしそれとは反対に、イエス・キリストが到来され今わたしたちと共におられるという喜びの中で、正義を行うこと、愛の手を差し伸べる方向へと少しでも進んで行くなら、神様は私たちの捧げる信仰の行いを喜んで受け取ってくださるのです。そしてその行為によって私たち自身が癒されていくのです。

さて、今日の箇所の21節以下には、二つの小さなたとえが語られ、その二つは同じ一つのことを教えています。それは、新しいものを受け入れるためには、古いものでは間に合わない、役に立たないということです。新しい布切れで古い服を繕っても、縮んだ布切れに引っ張られ、服は破れてしまします。新しいぶどう酒を古い革袋に入れても、新しいぶどう酒は発酵して、古い革袋をダメにしていまいます。新しいものを受け入れるには、受け入れる側も新しくされなくてはなりません。新しいものとは、救い主イエス・キリストの到来と神のご支配の始まりです。人類がかつて経験したことのない、その新しい救いと喜びを受け入れるために、受ける側の私たちも新しくされる必要があるのです。古いものにこだわり、前例を踏襲して安心しようとする私たちです。しかしイエス・キリストの救いと喜びを、心から受け入れることができるように、聖霊によって絶えず新しくされていく私たちでありたいと思います。お祈りします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も色んな仕方で敬愛する兄弟姉妹と礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。神様、私たちはあなたに様々な敬虔な行いをお捧げいたします。しかしそれはあなたや周囲の人々に評価してもらうためではありません。主イエスによってあなたご自身が到来し、御国が完成へと向かっている喜びの中で、感謝の応答として捧げるものであります。どうか、その大きな喜びの中で、一つ一つの業を行わせてください。昨日、長く教会員として教会に仕え、主にある交わりを結んでくださった鈴木充子さんが、あなたの御許に召されました。どうぞ、姉妹をあなたの全き平安の内に憩わせてください。ご遺族の上にあなたの慰めと平安を与えてください。残暑の厳しい日が続きます。どうか兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。この拙き感謝と切なる願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。