日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書5章13-16節
説 教 「地の塩、世の光」 三宅恵子長老
主日礼拝
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)
聖 書
(旧約) ホセア書11章1-4節
(新約) マタイによる福音書2章13-23節
説 教 「神の確かな導きを信じて」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書5章13-16節
説 教 「地の塩、世の光」 三宅恵子長老
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)
聖 書
(旧約) ホセア書11章1-4節
(新約) マタイによる福音書2章13-23節
説 教 「神の確かな導きを信じて」 藤田浩喜牧師
マタイによる福音書2章1~12節 2024年12月22日(日)クリスマス礼拝
牧師 藤田浩喜
どの世界でも、スターというのは輝いています。野球界のスター、フィギアスケート界のスター、将棋界のスターなど、華々しい活躍をしている人たちを思い起こすことができるでしょう。しかし、スター(星)は、遠い夜空に見上げる存在であり、私たちから遠く離れているという感じがするのではないでしょうか。
今日の聖書にも、星・スターが登場します。東の国でユダヤの新しい王の誕生を知らせる星を見て、占星術の学者たちがユダヤの国にやって来たというのが、今日の聖書のお話なのです。当時、それぞれの人は生まれながらに自分の星をもっており、その人が生まれると同時にその星も現れ、死ぬと同時にその星も消滅する。特に偉大な人物の誕生に際しては奇跡の星が現われ、特別な天体現象が起こるという民間信仰があったようです。そのような考えに基づいて、「ユダヤに新しい王さまが生まれたようだ。その偉大な方を拝まなければと、占星術の学者たちがらくだに乗って、砂漠を旅して、ユダヤの国にたどり着いたのでした。
占星術の学者たちが最初に訪れたのは、エルサレムにあるヘロデ王の宮殿でした。ユダヤの新しい王さまというのだから、都エルサレムの王の宮殿に生まれられたのではないか。学者たちがそう考えたのも当然です。しかし、ヘロデ王はそのことを知りませんでした。それどころか、新しい王によって自分の王位が奪われるのではないかと、不安になりました。そこで、その新しい王がどこに生まれるのかを祭司長や律法学者に調べさせました。それは、ユダのベツレヘムでした。それを知ったヘロデ王は、その場所を学者たちに教え、「その子のことが詳しく分かったら教えてくれ、あとでわたしも拝みに行くから」と言いました。しかしヘロデは新しい王を拝みに行く気などなかったでしょう。その子の居場所が分かったら、その子を亡き者にしようと考えていたのです。いずれにせよ、神さまはヘロデの企みをも用いて、学者たちに新しい王の生まれた場所を知らせたのです。
占星術の学者たちは、ベツレヘムに向かって出発します。すると、どうでしょう。彼らが「東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(9~10節)とあります。10節の「その星を見て喜びにあふれた」は、原文では「甚だしく大きな喜びを非常に喜んだ」となっています。彼らの喜びが普通ではなかった、喜びを爆発させたことが伝わってくるのです。
それにしても、不思議に思うことがあります。学者たちが東の国で見た星は、ユダヤへの旅の間、どうしていたのでしょう。エルサレムのヘロデの宮殿に向かった時は、どうだったのでしょう。その間は、姿を隠していたのでしょうか。それとも、雲が出ていたり雨が降っていたので、見えなかったのでしょうか。その可能性も排除することはできませんが、皆さんも不思議に思われるのではないでしょうか。
しかし私は、飛躍した考えかも知れませんが、星は目立たない、控えめな形で学者たちを絶えず導いていたのではないかと、思うのです。星は夜空に輝き、美しく瞬きます。昔の人たちは、星の位置とその光を頼りに、船を操り、旅の歩みを進めることができました。しかし、新しいユダヤの王、柔和で愛に満ちた御子イエス・キリストという星は、遠く離れたところから見上げられるだけのお方ではありませんでした。御子を求め、御子に出会いたいと願う者を、目立たない、控えめな仕方で、しかも間違いなく確かに護り、導いてくださる。ヘロデの狡猾な知恵をも出し抜いて、その悪辣な知恵を用いて、彼らをご自分のもとに導いてくださった。御子イエス・キリストの星は、私たちの身近にあって、私たちが意識していないときにも、私たちを護り、導いてくださるのです。
旧聞に属しますが、2018年のNHKの大河ドラマは「西郷どん」(せごどん)でした。鈴木亮平さんが西郷隆盛を、奥さんの糸さんを黒木華(はる)さんが演じていました。この西郷隆盛が亡くなってほどなく、人々は夜空に大きく赤く輝く星の出現を見たと言います。その不思議な赤い星を見た人々は、あの星は西郷さんが亡くなって星になったに違いないと、評判になったようです。そのため、夜空にまたたくその星は西郷星(さいごうぼし)と、人々から呼ばれたそうです。これは実際には、火星の大接近だったことが分かっています。しかしそこには、西郷隆盛という偉大な人物の死を惜しむ民衆の素朴な思いが込められていたのでしょう。
しかし、西郷隆盛の幼馴染であり、3番目の奥さんになった糸さんは、それを否定します。「だんなさまは、ぞげな人ではなか。人々から遠く離れたところから、見上げられる人ではなか。いつも困っている人、悲しんでいる人んところへ行って、その人んたちのために、忙しく走りまわっておられた。」そんなふうに糸さんは言うのです。迷いなくきっぱりと言うのです。
そう言えば、はるか前の第一回目の「西郷どん」(せごどん)で、明治時代もだいぶ経ったころ、上野に西郷さんの銅像が立ちました。皆さんご存知の薩摩犬(さつまいぬ)を連れ、浴衣のような着物に身を包んだ姿の西郷さんの銅像です。その銅像の除幕式に招かれた白髪をたたえた糸さんが、こんなことを言っていたのです。「うちのだんなさーはこんな人じゃなか。」その時は、風貌や容姿が似ていないので、糸さんが怒っているのかと、思っていました。しかし、最終回に西郷星のことを語る糸さんの言葉を聞いて、糸さんの思いがようやく理解できたように思ったのです。西郷隆盛は、星のように遠くから人々に見上げられるような人ではない。また、銅像のように人々から功績をたたえられ、あがめられるような人でもない。
「うちのだんなさーは、いつも困っている人、悲しんでいる人んところへ行って、その人んたちのために、忙しく走りまわっておられた。」そんな、人々と分け隔てなく、一緒に汗をかき、働く人であった。それが糸さんの言いたかったことだったのではないかと思ったのです。
160年程前に生きた日本人と、神さまがこの世界に遣わした神の御子を同列に論じることはできません。人間は有限であり、神は無限であり永遠です。
しかし、御子イエス・キリストがどのようなお方であるかということを、私たちに示す手がかりを与えてくれるのではないでしょうか。
御子イエス・キリストは、私たちのはるか彼方で、美しく輝いているだけの方ではありません。その偉大さや神神しさをあがめられるだけの方ではありません。
そのお方は、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6~8)。御子は私たちのために、私たちの身代わりとなって、十字架の死を遂げられ、私たちを罪の呪いから贖い出してくださったのです。そして主は言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28~30)。私たちの生きる重荷、負うべき労苦を主が共に負ってくださって、私たちに安らぎを与えてくださるのです。
たとえ星が見えなくて、姿を隠しているように思える時も、私たちの知らないところで、私の苦しみを負い、私たちを人知れず支えてくださる。それが、私たちの主、御子イエス・キリストなのです。
皆さんもご存知の「足あと」という有名な詩は、そのことを最も深くイメージ豊かに示してくれています。最後にその詩をお読みいたします。
〈あしあと〉
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
マーガレット・F・パワー
救い主イエス・キリストはそのようなお方なのです。
この御子の御降誕を、ご一緒に喜び、褒めたたえましょう。
お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今年も御子のご降誕を祝う礼拝を、愛する兄弟姉妹と守ることができ、心から感謝いたします。御子イエス・キリストは、どんな時にも私たちから離れることなく、私たちを支えてくださいます。私たちの苦しみや悲しみを共に負って歩いてくださいます。そのような御方がこの世界に、私たちのもとに、与えられたのがクリスマスです。どうか、心からの喜びと讃美をもって、この時を祝わせてください。暗さが増しつつある私たちの世界ではありますが、光であるイエス・キリストを高く掲げて歩む私たちであらしめてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 マタイによる福音書2章1-12節
説 教 「学者たちの礼拝」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約) イザヤ書11章10節
(新約) ルカによる福音書2章22-38節
説 教 「救い主を抱きしめて」 藤田浩喜牧師
ルカによる福音書2章1~7節 2024年12月15日(日) クリスマス合同礼拝
牧師 藤田浩喜
クリスマスですね。クリスマスの絵本はいっぱいありますが、アトリーという人の『クリスマスのちいさなおくりもの』という絵本があります。
あるクリスマス・イブのことです。その家には、クリスマスだというのに、クリスマスツリーもなければ、クリスマスのごちそうもありませんでした。というのも、家の奥さんが病気で入院し、家には気落ちしたお父さんと小さな子どもたちしかいなかったからです。そんな事情でしたから、クリスマスの用意が何もできなかったのです。
すると、その家に住んでいたねずみたちが、その家で飼われていたねこのおばさんに言いました。「クリスマス・イブだと言うのに、どうしてこの家にはツリーもごちそうもないんだ。」「ねこさん、あなたが何とかしてください。」「今夜はみんながなかよくする夜でしょ。」「おれたちも手伝いますよ。」
「なかよくする夜だって?ああそうだったね、今夜は。」「じゃあ、わたしもお前たちを、食べたりしないようにするよ。」
こうして、ねこのおばさんと、ねずみたちが力を合わせて、クリスマスの用意をすることになりました。日頃はねこに食べられないように逃げ回っていたねずみたちでしたが、クリスマス・イブは特別だったのです。ねこのおばさんは、家のふたりの子どもたちが、サンタさんからクリスマスプレゼントをもらえるように、ねずみたちに、子どもたちのくつ下を取りにいかせます。くつ下はだんろの前につるします。それから、ねずみたちに食糧庫から材料を取ってきてもらって、ミンスパイとケーキを作ります。ミンスパイというのは、3センチぐらいの小さな丸いお菓子で、中には干した果物、良い香りのする香料が入っています。
オーブンでケーキを焼いている間に、ねずみたちは飾りつけの花を作り、ねこのおばさんは雪の降る外に出かけて、クリスマスツリーにするもみの木やひいらぎをさがしに行きます。みんなが手伝ってくれたおかげで、寂しかったおうちは、にぎやかな飾りつけがされ、美しいクリスマスツリーも立てられました。部屋にはミンスパイやクリスマスケーキが焼き上がったおいしそうな香りが立ち込めています。すっかり準備の整った家に、子どもたちが楽しみにしていたサンタクロースがやってきました。サンタクロースは、こんなに美しく飾られた部屋は見たことがないと感心します。そして二人の子どもたちにはもちろん、ねずみたちやねこのおばさんにもプレゼンをあげました。そして、こんな言葉を残して、トナカイのそりに乗って、夜空へとかけていきました。「さあ、クリスマスだ。どんなにちいさなつつましいものたちのことも、忘れてはならないぞ。さあ、行こう、トナカイたちよ。…クリスマスのよい知らせを伝えにいこう。」
こうしてお母さんが病気で寂しく暗かったこの家に、クリスマスがやって来たのでした。ねずみたちとねこのおばさんがなかよく力をあわせて、やさしいクリスマスの贈り物をしたのです。
今、皆さんといっしょに、イエスさまがお生まれになった聖書の箇所を読みました。皆さんもよく知っている飼い葉おけに寝かされた赤ちゃんイエスさまのお話です。この箇所には、二人の王さまが出てくるのです。一人はローマの皇帝アウグストゥスという王さまです。この王さまは日本の何十倍もの大きさのローマ帝国を治めていました。強い軍隊も持っていました。この王さまが、「住民登録をしなさい」と命令すると、どんな人もこの命令に従わなくてはなりませんでした。だからこそ、ヨセフさんはお腹にあかちゃんのいるマリアさんを連れて、ナザレからベツレヘムへ旅をしなくてはならなかったのです。だれもその命令に逆らうことはできなかったのです。
もう一人の王さまは、飼い葉おけに寝かされたあかちゃんイエスさまでした。この王さまは、人間のいちばん暗い、いちばん貧しいところにお生まれになった神さまの御子でした。しかし、このイエスさまこそ、わたしたちにとって本当の王さまであり、救い主ですよ、と聖書は語っているのです。
ローマの王さまは巨大な力を持っていましたが、もう今はいません。その王さまが治めていたローマ帝国も影も形もありません。でも、イエスさまという王さまは今も、わたしたちの心の中におられます。そして、この世界に、わたしたちのもとにきてくださったイエスさまのことを思うとき、心があたたかくなります。そして、わたしたちはお互い仲よくしよう、困っている人の役に立とうと、やさしくなることができるのです。あのねずみたちとねこのおばさんのように、力をあわせてつらく悲しんでいる人のために、何かよいことをしたいと思うのです。
イエスさまが生まれて、もう2000年以上たっています。しかし今も、クリスマスは私たちの心にイエスさまを思い起こさせ、わたしたちに人を思いやるやさしい心を与えてくださいます。与え続けてくださっています。このようなお方こそが、王さまの中の王さま、本当の王さまではないでしょうか。このすばらしい王さまのお生まれを、今年も皆さんと一緒にお祝いしたいと思います。
お祈りをいたします。
【お祈り】イエス様の父なる神様、あなたの御名をほめたたえます。今日は子どもと大人が一緒に礼拝を捧げることができて、ありがとうございます。神様はイエス様という本当の王さまを、この世界に与えてくださいました。このイエス様がいつも私たちと一緒にいてくださいます。そのイエス様に励まされて、私たちもやさしい心をもち、互いに助け合うことができますよう導いていてください。今苦しんでいる人たち、悲しんでいる人たちを、どうか慰め支えていてください。
このひと言のお祈りを、イエス様のお名前によってお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ルカによる福音書2章8-20節
説 教 「羊飼いと天使」 山﨑和子長老
午前10時30分 クリスマス礼拝 司式 藤田浩喜牧師
聖 書
(旧約) 詩編29編1-11節 (聖餐式を執行します)
(新約) マタイによる福音書2章1-12節
説 教 「キリストの星に導かれて」 藤田浩喜牧師
ルカによる福音書1章26~38節 2024年12月8日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝はアドベント第二の主日礼拝を守っています。あと2週間でクリスマスです。クリスマスは、神の御子イエス・キリストがこの世界に誕生してくださったことを喜び、神さまに礼拝を捧げる日です。神の御子がこの世界に誕生するために、その母となる使命を与えられたのが、ナザレの村に住む一女性であるマリアでした。今日お読みいただいたルカによる福音書1章26~38節は、そのマリアに御子が宿ることを、天使ガブリエルが伝える「受胎告知」の場面です。
最近、この10月に逝去された高階秀爾(たかなししゅうじ)という美術史家の書いた、『受胎告知 ~絵画でみるマリア信仰~』という小さな本を読みました。受胎告知は、西洋絵画の歴史において多くの画家が手がけた題材であったようです。それは絵の注文主の多くが、教会や修道院や王侯貴族であったことと関係しています。そして、教会などに飾られた絵画は、文字の読めない庶民の信徒たちにとって、聖書の福音を知らせる視聴覚教材でもあったのでした。特にカトリック教会では、マリアは神の母(テオ・トコス)として絶大な崇敬を受けていましたので、各時代の画家たちは競うようにして、受胎告知の絵を描いたのでした。
日本にある受胎告知の絵としては、倉敷市の大原美術館にあるエル・グレコの受胎告知が有名です。画面の右側には、大きな翼を背中につけた天使ガブリエルが、1メートルほど宙に浮きながら、右手を高く上げ、マリアを見つめています。マリアは驚いたような、恍惚としたような表情で、天使を見上げています。マリアの左手はつい今まで読んでいただろう聖書のページに、栞代わりに置かれています。右手は手のひらを天使に向けて、御告げを受け入れる恭順の意志を表しています。天使とマリアの間には、聖霊の働きを表す白い鳩が、稲妻のような光と共に描かれています。そして、受胎告知の絵にはつきものの、花瓶に生けられた花も添えられているのです。しかし一つ、多くの受胎告知の絵と違う点が、エル・グレコの絵にはあります。それは、多くの受胎告知の絵では、天使が左にマリアが右に描かれるのに対し、彼の絵では天使が右にマリアが左に描かれているのです。いずれにしても、エル・グレコは、夜の場面に起こった神秘的でドラマチックな出来事として、受胎告知を描いたのでした。私たちもかつての画家のように、受胎告知の場面を心に描き出すことができるかもしれません。
さて、聖書の今日の箇所に入っていきましょう。神の御子イエス・キリストを宿すということを、マリアは天使ガブリエルから告げられます。その告知の時、ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけます。28節です。それだけではありません。30節では「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と言われます。ナザレのおとめマリアに起こることが、「恵み」であると言われるのです。
マリアに「恵み」が臨んだ、到来したというのです。それはどんな「恵み」であったのでしょう?それは28節にありましたように、「主があなたと共におられる」ということでした。主なる神の御子を、その身に宿すということでした。神から与えられた聖霊の力が臨み、神の御子をその内に宿すようになる。そのことによって、主が共にいてくださる。それが天使の告げる「恵み」であったのです。
ある聖書の注解者は、「第一のマリアに起こったことは、第二、第三のマリアにも起こる」と、書いていました。そうです。御子イエス・キリストを肉体に宿したのは、ナザレのおとめマリアだけです。しかし、私たちも信仰において御子イエス・キリストを心に宿すことができます。上からの力である聖霊が臨むとき、第二、第三のマリアになることができます。御子イエス・キリストが聖霊によって私たちの内に宿ることによって、神は私たちと共にいてくださいます。クリスマスの出来事によって与えられた「恵み」は、マリアだけではなくて、私たち信じるすべての者に与えられるのです。
しかし、この「恵み」、マリアに与えられた「恵み」はどんな恵みであったのでしょう? この「恵み」は、ただありがたいだけの安っぽい「恵み」ではありませんでした。マリアは、神の御子を身ごもると聞いたとき、この超自然的な出来事が、彼女の将来にどんな茨の道を用意するか、知らなかったはずはありません。婚約者であるヨセフは、自分の言うことを信じてくれるだろうか。世間の人々は、普通ではない妊娠をどう思うだろうか。何と噂するだろうか。そのような不安や戸惑いが、なかったはずはありません。マリアに与えられた「恵み」は、そうした深い思い悩みと無関係ではなかったのです。
またこの「恵み」は、我が子である主イエスがユダヤの官憲に捕らえられ、ローマ総督の手によって十字架に掛けられるという悲しみへと、彼女を突き落とすものでした。十字架から降ろされた主イエスを抱くマリアを描いたピエタ像は、マリアのそのような悲しみを表しています。そのように、主イエスを内に宿し、主が共におられるという「恵み」は、人として経験する様々な苦しみや悲しみから、私たちを遠ざけるものではないのです。この「恵み」があるから、人生の困難が無くなるということではないのです。かえって信仰者であるがゆえに、そのような困難と真正面から向き合わなければならないこともあるのです。
使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、このように言っています。1章29節です。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」イエス・キリストを信じるキリスト者は、キリストのために苦しむという「恵み」も与えられている、とパウロは言うのです。考えてみれば、キリストを宣べ伝えるために、パウロほど多くの苦しみを経験した人はいないでしょう。その苦しみの一端は、コリントの信徒の手紙二11章23節以下に記されています。「わたしは…苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭で打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目にあったことも度々でした。…」
しかし、キリストのために苦しむ苦しみ、キリストを内に宿す者として味わう苦しみは、苦しみで終わるのではありません。それはやがて、「恵み」として受け取ることになる苦しみなのです。キリストを信じるがゆえに味わう人生の様々な苦しみは、「恵み」へと変えられます。無目的な、無意味なままに終わることはありません。私たちと共におられる神さまは、そのような「恵み」を与えてくださるお方なのです。嘆きの谷をくぐり抜ける「恵み」を与えてくださるのです。
母マリアは、主イエスが誕生してから約30年後に、我が子が十字架につけられる姿を見なければなりませんでした。十字架を見つめる女性たちの中には、母マリアの姿がありました。マリアはその時、胸の潰れるような思いをしたに違いありません。しかし、その母マリアはそれからしばらくして、復活の主イエスに出会うことになるのです。無惨に死んでいったと思っていた我が子が、復活した。そして、誕生の時天使に告げられたように、「いと高き方の子と言われるよう」になった。父なる神さまの永遠の御支配を、この世界にもたらす王となられた。思慮深く、神さまのなさることを思いめぐらす人であった母マリアは、自分の味わった不安や困難、悲しみが、このような神さまの大いなる救いのご計画が実現するためのものであったことを、悟ることができたのです。
そして、第一のマリアに起こったことは、第二、第三のマリアである私たちにも起こります。私たちもマリアのように、そしてパウロのように、信仰者として歩む中で、様々な不安や苦しみ、悲しみに遭遇します。信仰者でなければ遭わなくてもよかった苦しみに、見舞われることもあるでしょう。私たちのどこが「恵まれた方」なのかと、叫んでしまうこともあるかもしれません。しかし、神さまは必ず、主にあって神さまが共にいてくださることが「恵み」であることを悟らせてくださいます。信仰者として生きる中で経験しなければならなかった苦しみや悲しみを、私たちは神さまの摂理の中で、「恵み」をして受け取ることができるようにしてくださるのです。
今日の箇所で天使ガブリエルは、マリアの戸惑いを聞いて、「神にはできないことは何一つない」と言いました。今日の聖書の文脈では、年老いた女性や男性を知らない女性が身ごもるということが、「できない」ことと考えられているのでしょう。確かにそれは、人間の常識を越えたことです。しかし、それだけではありません。神さまは、さらに大きな、人間にはできないと思われることをなさいます。神さまは私たちの人生に意味を与えられます。私たちが歩んできた人生の意味そのものを、神さまは創り出してくださるのです。
苦労続きで、自分の人生に何の意味があるのだろうと、私たちは思い悩みます。今まで生きてきて、自分の人生にどんな意味があったのだろうと、虚しくなることがあるかもしれません。私たちの存在そのものが、ぐらぐらと揺らいでしまうのです。しかし「神にはできないことは何一つない」。神さまは、私たちが後悔してきた人生、諦めていた人生の意味を、まったく180度変えてしまうことがおできになるのです。私たちの人生に、全く違う人生の意味を創造してくださる、創り出してくださるのです。そしてそれは、私たちがどのような人生の段階にいようと、どのような状況の中にあろうと、妨げられることはないのです。なぜならば、「神にはできないことは何一つない」からです。
そのような「恵み」が与えられたのが、クリスマスの時でした。そしてその「恵み」を知らされた私たちもまた、マリアと共に心から信仰を言い表すことができるのです。神さまの導きにわが身のすべてを、おゆだねすることができるのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日もアドベント第2主日礼拝を、愛する兄弟姉妹と共に守ることができましたことを、心から感謝いたします。神の独り子を宿すこととなったマリアの箇所を共に学びました。マリアに起こったことは、信仰において私たち一人ひとりにも起こります。聖霊の働きによって私たちはイエス・キリストを心に宿します。そのことよって、神さまが私たちと共におられるという「恵み」を与えられます。その「恵み」の広さ、深さ、大きさを味わうのが、キリスト者の人生です。どうか、「神共にいます」という恵みに生かされて生涯を歩み通すことができますよう、私たちを導いていてください。12月らしくない気候が続きましたが、今日から本格的な寒さが到来します。どうか、教会につながる兄弟姉妹を顧み、その心身の健康をお支えください。そして主の御降誕を待ち望む喜びの中で、この一週間を過ごさせてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
休校
午前10時30分 アドベントⅢ 司式 山根和子長老
聖 書
(旧約) イザヤ書9章5-6節
(新約) ルカによる福音書2章1-7節
説 教 「飼い葉桶の救い主」 藤田浩喜牧師
ルカによる福音書1章5~25節 2024年12月1日(日) 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日はアドベント第1主日です。アドベントは主の御降誕と主の再臨を、希望をもって待ち望む時です。素晴らしいことが起こるのを、今か今かと待つような嬉しさがこの時期にはあるのです。
しかし、今日の聖書に登場する夫婦には、「希望」がありませんでした。祭司ザカリアとその妻エリサベトでした。この夫婦は主なる神さまに仕える人として、申し分のない夫婦でした。祭司の妻は必ずしも祭司の娘でなくてもよかったようですが、エリサベトは祭司の家系であるアロン家の娘でした。また、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」(6節)と記されています。このザカリアとエリサベトはユダヤにあって、最も敬虔な生活を送っていた夫婦だったのです。しかし、彼らには子供がありませんでした。しかも「二人とも既に年をとっていた」(7節)とあり、年齢的に見て、二人に子供が与えられる可能性はありませんでした。だから二人には、将来を楽しみに待つ「希望」がなかったのです。
子供がいないから「希望」がない。私たちの時代においては、そんなことはないでしょう。夫婦お二人で幸せな生活を送っているご夫婦はたくさんいます。これからやってくる時代の困難さを思って、子供にそんな苦労はさせたくないと、子供を持たない選択をする夫婦もいます。今の時代は二千年前とは違います。
しかし、ザカリアとエリサベトの生きた時代の社会は、そうではありませんでした。子供が与えられないことは、神さまの祝福から漏れていることでした。子供のいないことは恥と考えられていました。ですから子供が生まれないことは、その望みが絶たれたことを意味するからです。二人は神さまに仕える最も敬虔な夫婦でした。それだけに一層、悩みも深かっただろうと思うのです。しかし、年齢的に、二人に子供が与えられる可能性はありません。二人は神さまに仕えながらも、「希望」を見いだせない日々を送っていたのです。
ある日のこと、ザカリアは「自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをして」いました。イスラエルには神殿に仕える祭司団が24組あり、ザカリアは第8番目のアビア組に属していました。各組は年に2回8日間、神殿で奉仕をすることになっていました。そして、当番になっていた組は、聖所に入って香をたく務めをする祭司をくじで決めることになっており、その日まさに、ザカリアが香をたく当番に指名されたのでした。聖所で香をたくのはたいへん名誉なことで、くじで指名されたことのある人は、二度とくじを引くことはできませんでした。祭司にとって、まさに一生に一度の大事な務めだったのです。
この香をたく儀式は、一日朝夕2回行われ、参拝した人々は外で祭司が出てくるのを待っていました。香をたいた祭司が聖所の外に出てきたとき、参拝者たちのために祝福の祈りを捧げることになっていたのです。たくさんの人々が集まっていたようなので、2回の儀式のうち、これは夕方の回であっただろうと考えられています。
ザカリアが聖所で香をたいていた時のことです。その時、驚くべきことに、「主の天使が現れ、香壇の右に立った」(11節)のです。神御自身や主の御使いが現れて、恐れを感じない人はありません。ザカリアも、神さまに仕える祭司でしたが、御使いを見て「不安になり、恐怖の念に襲われた」(12節)のでした。
御使いは、「恐れることはない」と、無理なことを言います。そして「あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む」(13節)と告げたのです。そして、その子がどのような子になるかを、13~17節にかけて、ザカリアに語って聞かせるのです。「その子をヨハネ(主は恵み深い)と名付けなさい。」「その子は主に仕える偉大な人となり、聖霊に満たされ、イスラエルの多くの人々を神さまのもとに立ち帰らせる。」「救い主をお迎えするために、イスラエルの人々を準備のできた民として整えるだろう。」主の御使いは、生まれてくる男の子が再来のエリヤにたとえられる偉大な人になると告げました。
しかし、ザカリアはその言葉をまともに聞くことはできませんでした。男の子が与えられる!そんなことがあろうはずはない!そのためザカリアは、御使いにこのように言わざるを得なかったのです。「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)。ザカリアは「そんな突拍子もないことは、何かしるし(=証拠)でもないと信じられません。なぜなら、私も妻も老人だからです」と、反論したのでした。
ザカリアがそう言わないではおれないのは、分かります。しかし、子供が与えられるのは、この夫婦の切なる願いであったはずです。ところが、この願いが神さまによって聞き入れられると聞いた途端、人間的な常識が邪魔をして、それを素直に受け取ることができなかった。神さまに願うことが、人間の常識の範囲内でしかないということが、ここに表れてしまっているのです。神さまは、人間が可能だと考えることしかお出来にならない、という思いこみがザカリアにはあったのです。
こういうことは、私たち人間の常なのかもしれません。聖書の中にも、似たようなことが出てきます。使徒言行録12章には、ペトロが捕らえられていたヘロデ王の牢から救い出されたという出来事が記されています。初代教会の仲間たちは、ペトロが守られ救われるように、熱心に祈りを合わせていました(12節)。ところが牢から出てきたペトロが彼らのもとに帰ってくると、だれもそれを信じようとはしないのです。ロデという女中が一生懸命ペトロが帰ってきたと伝えても、信じません。「あなたは気が変になっているのだ」とか「それはペトロを守る天使だろう」と言うばかりで、まったく本気にしないのです。あれほどペトロが救い出されることを熱心に祈っていたのに、当のペトロが現れると、それを信じることができない。ヘロデ王の堅固な牢に入れられ、4人一組の兵士たちに監視されたペトロは、さすがにそこから出ることはできないだろう。そのような人間の常識内でしか、ものを考えることはできなかったのです。しかし、信仰というのは、神の約束された御業が、人間の常識に妨げられないで実現することを、信じることではないでしょうか。
今日の20節で、主の御使いガブリエルは、自分の使命が何であるかを述べた後、次のように言います。「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」「あなたの願いは実現するというわたしの言葉」よりも、「年取った自分たちには子供は与えられないという人間の常識」の方を、あなたは信じた。だから、あなたはわたしの言葉が実現するまで口が利けなくなると、ガブリエルは告げたのでした。
私たち信仰者は、色々な願い事をするために祈りを捧げます。祈りを欠かすことはありません。しかしその祈りを、どんな気持ちで捧げているでしょう。いくら祈っても、神さまがしてくださるのは、私たちの考える常識の範囲のことだろう。それを越えるようなことは、たとえ願ったとしても、起こりはしないだろう。そのようにあきらめて、私たちは祈っているのではないでしょうか。その意味で私たちは、祈っていても、自分の考えを越えた「希望」を心に持つことはできないのです。私たちの考える神さまは、人間的常識を越え出ることのできない、こじんまりした神さまなのです。
しかし、キリスト教の歴史、教会の歴史は、私たちの神さまが「死者を復活させる」ほどの大きな神さまであることを、証ししています。人間の考えや常識を遙かに越えて、ご自身の御業を実現される神さまであることを示しています。この「死せるものよみがえらせたもう」神さまの大いなる御業に目を注ぐとき、私たちは人間の常識に捕らわれない、人間の常識を越えた「希望」を持つことができるのです。
東京大学の玄田有史(げんだゆうじ)先生という社会学の先生が、『希望のつくり方』(岩波新書)という本を書いておられます。その中で、日本のどんな地域に住む人が、「希望」を持って生きているかを調査され、その結果を報告されています。もちろん日本全国をくまなくというのではなく、都市部や郡部など規模や状況の違う10カ所ほどの場所で質問形式の調査をなさったのです。その中で一番「希望」を持っていた人が多かったのは、東京ではありませんでした。実は岩手県の釜石市だったのです。釜石と言えば、13年前の東日本大震災で大きな被害を被ったところです。経済的にも新日鐵釜石工場が閉鎖され、大きな打撃を受けたところです。歴史的に見ても、地震や津波の災害を繰り返し経験しています。そのような町の人たちがより多くの「希望」を持っているというのは、不思議な感じがします。それはどうしてか。釜石の人たちは、何度も自然災害や社会の変動によって、どん底に落とされる経験をしている。しかし、その度にどん底の状態から這い上がって、よみがえった経験を持っている。「きっと、何とかなる」「もう一度立ち上がることができる」と思っている。だからこそ、多くの「希望」を持つことができるというのです。過去に何度もどん底からよみがえったその経験が、将来に対して「希望」を抱かせるのです。
それは私たち信仰者にも、当てはまることではないでしょうか。キリスト教会は、二千年の歴史の中で度々、驚くべき神の御業を体験してきました。神さまの御業が、人間の罪と悪に彩られた歴史をも貫いて成就してきたことを知らされています。私たちは自分の考える常識の縄目から、なかなか自由になることができません。けれども、主なる神さまがなさってきた御業に目を注ぐとき、常識を越えた「希望」を抱くことができるのです。尽きることのない「希望」に生かされることができるのです。
祭司ザカリアは、祭司でありながら「時がくれば実現する神の言葉」を信じることができず、口が利けなくされました。しかし、その沈黙の時は、彼が主なる神の御業に思いを深める大切な時となったに違いありません。そしてこの後の聖書箇所が語るように、約束通り、救い主の道備えをする男の子(後のバプテスマのヨハネ)が誕生し、その名前を付けたとき、彼の口はほどけ、しゃべれるようになります。そして、彼は神さまの大いなる御業を讃える「ザカリアの賛歌」を歌うようになるのです。
私たち人間は、時として神のなさることに「希望」を抱けなくなることがあるでしょう。しかし、主イエス・キリストを見上げ、聖書の御言葉に依り頼んでいく時に、神さまは私たちに「希望」を与えてくださいます。そして、自らの口で、神さまを讃えずにはおれない者としてくださるのです。ザカリア夫妻がそうであったように、それは私たちが幾つになっても神さまが与えてくださる「希望」なのです。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と対面とオンラインで、共に礼拝を捧げることができましたことを心から感謝いたします。神さま、今日から私たちは主の御降誕と再臨を待ち望むアドベントの時を過ごします。どうか主を心からお迎えする気持ちをもってこの時期を過ごさせてください。私たちの世界には、私たちの心を暗くし不安を掻き立てるようなことが起こります。しかし私たちの願いを遥かに超えた御業をなさる神さまを信じて、希望の光を灯し続けることができますよう、私たちを導いていてください。群れの中には様々な試練の中に立たされている兄弟姉妹がおります。神さま、どうか兄弟姉妹と共にいましてくださり、あなたの慰めと平安をお与えください。この拙き切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 ルカによる福音書1章26-38節
説 教 「マリアへのお告げ」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 アドベントⅡ 司式 三宅恵子長老
聖 書
(旧約) サムエル記上1章12-20節
(新約) ルカによる福音書1章26-38節
説 教 「キリストを宿すこと」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書10章1~12節 2024年11月24日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日の聖書箇所はお読みいただいてお分かりのように、主イエスがファリサイ派の人々と、後には弟子たちと、離縁することについて対話をされている箇所です。ある注解書を見ておりましたら、今日の注解の最後に「しかし、離婚、再婚など、倫理的問題には慎重な解釈が求められる」(新共同訳新約聖書略解)と記されていました。確かに、結婚、離婚、再婚などの事柄は、現代社会にあっては単純に判断できるテーマではありません。
たとえば2019年の統計では、離婚件数は約20万9千件で、婚姻件数約59万9千件の約35%弱となっており、結婚した3組に1組が離婚したことになります。これは欧米と比べればまだ低いようですが、一世代上の離婚率(1990年)と比べると13%も上昇しています。しかし、これは悪いことばかりとは言えず、世間体をはばかったり妻の経済力が低くて本意でない結婚生活を継続していた日本人が、自分たちの意志で離婚という選択をできるようになったということでもあります。不幸せな結婚生活を無理に続けるよりも、離婚して新しい人生を歩み始める方が、後悔のない人生を送れるのではないでしょうか。
そうした時代状況にある私たちに、今日の聖書はどのようなことを語りかけているのでしょう。ご一緒に聞いていきたいと思います。
主イエスは、「ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」というところから、今日の箇所は始まります。ヨルダン川の向こう側とは、ペレア地方だと考えられます。主イエスはガリラヤ地方を去って、エルサレムへの最後の旅に出られるのです。主イエスはこれまでと同じように、神の国の福音を宣ベ伝え、人々の病を癒やし、人々から悪霊を追い出されていたのでしょう。
そこにファリサイ派の人々が近寄って来ます。複数の人たちでしょう。彼らは次のように主イエスに尋ねたのでした。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」(2節)。例によってファリサイ派の人々は、謙遜に教えを聞こうとしたのではありません。「イエスを試そうとした」とあります。「陥れようとした」と訳している聖書もあります。彼らは「ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談していました」(マルコ3:6)。そのため主イエスが「適っている」と答えても、「適っていない」と答えても、主イエスを罪に陥れることのできるような質問をしたのです。
たとえば、離縁が律法に適っていないと主イエスが答えられたらどうでしょう。私たちは領主ヘロデ・アンティパスが自分の兄弟の妻へロディアと結婚した時、そのことを律法に違反することだと訴えたバプテスマのヨハネが、獄に入れられ首をはねられたことを知っています。主イエスであれば「適っていない」と言うだろうと見越して、そんな質問をしたのではないでしょうか。
それに対して主イエスは、次のようにお答えになったのです。「イエスは、『モーセはあなたたちに何と命じたか』と問い返された」(3節)。主イエスは質問に対しては、質問によって応じられます。十戒をホレブの山で神様から直々に授かったモーセがどう言っているかと、問い返されたのです。「彼らは、『モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました』と言った」(4節)。ファリサイ派の人々は、モーセがしたことを引き合いに出して、離縁することが律法では許されていると述べたのです。
しかし、主イエスは全面的に同意なさることはありませんでした。「イエスは言われた。『あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ』」(5節)。主イエスはここで、モーセが離縁を許したということを認めておられます。確かに申命記4章1節にも、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と定められているのです。しかし主イエスは、それは人間の頑固さや弱さ、移ろいやすさに押し切られてモーセが許したことであり、モーセ自身も本意ではなかったと言われるのです。
確かにモーセは、主なる神様に問うた上で、離縁状を書いて離縁することを許しました。しかしそれは、人間の持つ頑なさや弱さ、移ろいやすさを考慮して神様が容認されたことであり、消極的な承認だったのです。しかし、当時の社会では、この申命記の規定を悪用する例が後を断ちませんでした。正当な理由もないのに、離縁状を渡しさえすれば、夫の思うとおりに離婚ができるというような、身勝手な風潮がありました。主イエスはそのような当時の風潮に、鋭い警告を発しておられるのです。
キリスト教はその歴史において、離婚に対して「それを認めない」というスタンスを貫いてきたことは、事実です。しかし旧約聖書の律法も今日の主イエスも、人間の持つ頑なさや弱さ、移ろいやすさのゆえに、離婚ということが起こり得ることを、認めているように思います。主イエスは、人間の弱さや移ろいやすさをご存じない方ではありません。そのことは私たちが心に留めるべきことではないかと思います。
さて、主イエスは離縁の規定の身勝手な利用を戒められた後、そもそも神が定められた結婚がどういうものであったかを示されます。それを示されることによって、神様が結婚というものをいかに大切にされているかを教えられるのです。6節以下の主イエスの御言葉を読んでみましょう。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(6~9節)。
主イエスはここで、創世記1章27節、5章2節の御言葉を引用なさいます。ここで述べられている男と女の創造は、モーセが十戒を与えられる遥か前の出来事です。ここで主イエスが注目されるのは、常にそうであるように、神のことです。神の創造の御業とその背後にある神のご意志に遡られます。モーセから始めるのは不十分であって、そもそもの「初め」に立ち帰らなくてはならないのです。
神様は人を男と女という別々の存在にお造りになりました。別々の人格にお造りになったと言ってよいでしょう。その二人が神様の御心によって「結ばれ」、一体となった。二人は別々ではなく「一体」となった。ここで「結ばれる」という言葉は、「にかわ」で「くっつける」という意味の言葉です。それほど強固な結びつきです。「一体」とは「一つの肉」という言葉です。それほどに一体であるゆえに、二人の間に他のものが割り込むようなことがあってはならないのです。
わたしは結婚式を控えたお二人と準備会をする時、創世記のこの箇所をいつもご一緒に学びます。そして、こんなことをお話しします。「神様の前で誓約したお二人は、夫婦の関係を第一にしなくてはなりません。今までは両親との関係が第一であったかもしれませんが、それは第二の位置に退き、夫婦の関係が第一になるのです。ですから、結婚した以上は、何よりも夫婦の関係を第一にして、たとえ親御さんであっても、その関係に割り込ませるようなことがあってはなりません。ましてや、友人関係や仕事、趣味などが、二人の関係に割り込むようなことがあってはいけません。二人は神様によって一体とされたのですから。」
男と女が一体となることは、単に人間的な結びつきではありません。神様が深い御心によって二人を結び合わせて、祝福してくださいました。結婚は神様が引き合わせ、結び合わせてくださったものです。それだからこそ、人は第一義的に結婚を重んじるように求められているのです。結婚の背後には、神様の御心があるのです。それを無視してはなりません。「人は神が結び合わせてくださったものを、引き離してはならない」のです。
しかし、今日の箇所で私たちが聞くべきことは、それだけでしょうか。神様は私たちを男と女に創造された。別々の人格として創造されたことを覚えなくてはなりません。創世記2章によれば、女は男と助け合う者として創造されました。今日では「助け合う者」は、パートナーと考えられています。対等の人格として、互いに助け合う存在が、男であり女なのです。地上のどんな有用な家畜も愛らしいペットも、人にとって「助け合う者」にはなれないのです。
ある注解者は、男と女が結ばれ一つとなることは、神様の祝福だと言います。それはどんな祝福かというと、両者が互いに「助け合う者」となる祝福であり、このことは「同じ軛(くびき)をかける」ことだというのです。マタイによる福音書11章28節以下の有名な言葉で、軛を負うという言葉を、皆さんもご存じでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」神様は男と女が結婚することによって、一つの同じ軛を男と女にかけられたのです。つまり神様は、同じ軛を負う夫婦を互いに助け合わせ共に働かせることよって、人間に与えられた労苦が軽減され、日々の生活に安らぎがもたらされるようにしてくださったというのです。一つの同じ軛を負っていくことができるように、神様は男と女を一つとされたのです。
しかし、たとえ神様の御心に導かれて、結び合わされ結婚したとしても、夫婦の関係が破れてしまうという現実が、人間には起こります。共に助け合うことができなくなることがあります。一緒に生活することが労苦を軽減するのではなく、一層労苦を増し加えてしまうことがあります。日々の生活から安らぎが失われ、不安やいらだちだけが増していくことがあります。そのような人間の現実を、イエス・キリストはご存じです。同じ一つの軛を負うことができなくなった人間の悲しみに、主イエスは寄り添ってくださいます。私たちはそのようなイエス・キリストの慈しみと憐みを信じて、今までとは別の御心を尋ね求めていくことが許されているのではないでしょうか。神様の与えてくださる新しい祝福を祈り求めていってもよいのだと思うのです。
今日の10~12節では、家に戻ってからの主イエスと弟子たちとの対話が記されています。弟子たちは先ほどのファリサイ人との対話に納得のいかないところがあって、話を蒸し返したのでしょう。弟子たちは離縁状を渡して離縁することに対して、厳しい警告をなさった主イエスの言葉に納得がいかなかったのでしょう。彼らもまた、当時の自分勝手な風潮に染まっていて、男が離縁に対してより自由な権限を確保しておきたいと考えていたのでしょう。そのような自己中心的な彼らに対して、妻を取るに足らない理由で離縁して、他の女性と結婚する者は姦淫の罪を犯すことになると、警告なさったのです。
主イエス・キリストは、神様が創造された人間を大切にされます。相手を妻であれ夫であれ、道具のように扱い、神のかたちとして創造された人間の尊厳を踏みにじる者を許されません。その反対に、イエス・キリストは神のかたちとして創造された私たちを、どんな時にも見捨て給うことはありません。傷ついた者たちを、慈しみ愛し抜いてくださいます。その愛のために主イエスは十字架に付いてくださったのです。私たちにはこのイエス・キリストがおられることを覚えたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】私たちの主であるイエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も対面でオンラインで、敬愛する兄弟姉妹と礼拝を捧げることができますことを、心から感謝いたします。神様、あなたは私たちを男と女に創造されました。それは私たちが異なる人格として創造されていることです。あなたと私たちが人格的な交わりを与えられているように、私たちも人格的な交わりをもって生きるように求めておられます。どうか、男と女という関係だけでなく、その性別を越えて私たちが人格的な交わりを与えられ、共に生きることができるよう導いていてください。次の主日からはアドベントを迎えます。寒さも一段と増していきます。どうか、兄弟姉妹一人一人の健康を支え、クリスマスを心待ちにする日々を送らせてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。