日曜学校
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録7章54-60節
説 教 「ステファノの殉教」 藤田浩喜牧師
主日礼拝
午前10時30分 司式 三宅恵子長老
聖 書
(旧約)ヨナ書3章1-4節
(新約)マルコによる福音書1章14-15節
説 教 「託された御言葉を語る」 藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録7章54-60節
説 教 「ステファノの殉教」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 司式 三宅恵子長老
聖 書
(旧約)ヨナ書3章1-4節
(新約)マルコによる福音書1章14-15節
説 教 「託された御言葉を語る」 藤田浩喜牧師
マルコによる福音書 6章6節b~13節 2024年5月26日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
主イエスの弟子たちは、いつも主イエスと一緒におりました。主イエスが村から村へと神の国の福音を宣べ伝えて旅をすれば、弟子たちも一緒に旅をしました。主イエスが奇跡をすれば、弟子たちはそれをいつも近くで見ておりました。主イエスがお語りなる言葉も側でいつも聞いておりました。しかし、今朝与えられた御言葉において、主イエスは12人の弟子たちを遣わされました。弟子たちは、初めて主イエスを離れて、自分たちだけで神の国の福音を伝えるために出かけたのです。ずっとではありません。この時だけです。これが終われば、また弟子たちは主イエスと旅を続けたのです。ですから、後に復活された主イエスは、弟子たちを全世界に福音を宣べ伝えさせるために遣わされますが、これはその時に向けての予行演習のようなものではなかったかと思います。主イエスが十字架にお架かりになり、三日目に復活されて、弟子たちを全世界に遣わされる。その本番に向けて、遣わすに当たっての具体的な指示を与え、その通り行ったら上手くいったという成功体験を弟子たちにさせておくためではなかったかと思います。その意味では、ここに記されていることは、現在に至るまで、主イエスに遣わされた者として生きる伝道者、主イエスに遣わされた者として生きる教会、キリスト者のあり様を示している、そう言ってよいと思います。私たちは、主イエスに遣わされた者なのです。
まずここで目にとまりますのは、弟子たちが二人ずつ組にして遣わされたということです。一人ではなかったのです。これは何を意味しているでしょうか。すぐに考えつくのは、困ったり行き詰まったりした時でも、二人ならば、励まし合って、支え合って、事に当たることができるということでしょう。一人というのは大変弱いのです。誘惑にも負けやすいですし、独りよがりにもなりやすいのです。ここでは二人ずつとなっていますが、一人ではないということが大切なのだと思います。
また、この二人ということには、こういう意味もあったと思います。伝道者が伝えるのは神様の愛ですから、自分自身がそのような愛の交わりに身を置いていなければ、語る言葉に力もリアリティーもなくなってしまうということです。その意味で、伝道者の交わり、同労者の交わりというものはとても大切で、また麗しいものだと思っています。神様の愛が現れ出る交わりだからです。
しかし、このように申しますと、伝道者があるいは教会の奉仕者が立ち続けることができるのは、そのような交わりによって支えられることよりも、神様の召命に対する確信によるのではないか、と思われる方もおられるかもしれません。確かに、この召命という事実が何よりも大切なのです。ここで主イエスは「十二人を呼び寄せ」、そして遣わされたのです。主イエスに召し出された者として遣わされる。この事実が何より大切です。しかし、その召命に立ち続けるためには、同労者との交わりが必要なのです。主イエスは、召して遣わすだけではなくて、その召しに立ち続けることができるように、二人ずつ組にされたのです。
教会は、この主イエスの愛と知恵に満ちた配慮を、大切なこととして受け止めてきました。復活された主イエスによって全世界に遣わされた弟子たちの様子が、使徒言行録に記されております。そこで私たちは大伝道者パウロの伝道の歩みを見ることができます。彼は何度も伝道旅行をしておりますが、あの大伝道者パウロは、いつも一人では伝道に行っていないのです。彼はバルナバ、シラス、テモテといった同労者といつも一緒だったのです。ここには、主イエスが二人ずつ組にして使徒たちを遣わされたということが生かされているのだと思います。
8~9節には具体的な命令が記されています。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」ここには常識では考えられないことが記されております。パンも袋も金も持っていくなと言うのです。これと同じ記事がマタイによる福音書10章とルカによる福音書9章に記されておりますが、そこでは、杖も下着も二枚は持っていくなと言われています。ここでは、杖は持っていってよい、履物もよいと言われています。ここで、何は持っていってよい、何は悪いと、中学校の修学旅行の持ち物リストではないのですから、そんなことを詮索してもあまり意味はないだろうと思います。また、ユダヤ教徒の町ではどこでも、旅人のため食べ物と衣服の世話をする人がいたと言われます。
大切なこと、主イエスがここで言われていることは、通常の旅においては持っていくのが当たり前、それが無ければ旅などできないと思うようなものを「持っていくな」と言われたということです。その理由ははっきりしています。弟子たちは神様の愛を伝えに行くのです。神の国は主イエスと共にもう来ている。神様は今、ここで生きて働いてくださっている。だから悔い改めよ。そう宣べ伝えに行くのです。その宣べ伝える事柄を、身を以て証ししなくてどうするかということなのです。神様を信頼しなさいと言っておいて、自分はお金を頼り、二、三日の食糧を確保しておこうというのでは、言っていることとしていることが違います。神様がすべてを守ってくださるのだから、そのことを信じ、神様にすべてを委ねて行きなさい。その神様への信頼がなくて、どうして神の国の福音を宣べ伝えることができますか。「神の国は来ているのです。神様の御支配を信じなさい。それを身を以て示しなさい。」そう主イエスは、この何も持っていくなということによって、告げられたのでありましょう。この生ける神様への信頼、これこそキリスト者になくてはならないものなのです。世の人々がキリスト者に、キリスト教会に目を見張るのは、この生ける神様への信頼と、その信頼に応えてくださる神様の御業なのです。これが無ければ、キリスト教会は語るべき言葉がありません。キリスト教会というものは、これだけ努力しました、その結果こうなりました、そういう世界に生きているのではありません。ただ神様の憐れみ、生ける神様の御業、神様の奇跡を証しする者として立っているのです。
そして11節です。「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」何とも冷たい言葉のように受け取られかねない言葉です。しかし、これも実に主イエスの愛と配慮に満ちた言葉なのです。「足の裏の埃を払い落とす」という行為は、私はもう知らない、あなたとは関係ない、そういうことを示す行為です。ですから、何とも主イエスらしくないと感じてしまいますが、これは遣わされる弟子たちに対しての、主イエスの慰めの言葉なのです。こういうことです。主イエスの福音を携えて弟子たちは村々町々に行くわけです。しかし、そのすべての所で歓迎されるとは限らないのです。この直前のところで、主イエスが故郷のナザレでは歓迎されなかったということが記されています。主イエスでさえそうなのです。まして、弟子たちが、行った村全てにおいて歓迎されたと考える方が不自然でしょう。弟子たちも、村人に受け入れてもらえず、冷たくあしらわれるということがあるだろう。そのような場合、弟子たちはどう思うか。自分に力がなかったからだ。自分は伝道者としてふさわしくないのではないか。自分にはあれができない、これができない。そのように自分を責めるということが起きるのです。そのような思いを抱いたことが一度もないという伝道者はいません。この時主イエスに遣わされた弟子たちもそうだったと思います。主イエスはそのことをあらかじめ知っておられ、この言葉を告げられたのでしょう。つまり、「あなたがたを受け入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら」、それはそこに住む人々の問題であって、あなたがたの責任ではないのだ。それはそこに住む人々が自分で決めたことであって、その人たちの責任なのだ。そのように、前もって上手くいかなかった場合に備えて、お語りになったということなのでありましょう。
もちろん、この主イエスの言葉を逆手に取って、私の言うことを受け入れないのはあなたがたの責任だ、私の責任ではない。そんなふうに伝道者が開き直るのは問題でしょう。自らの欠けをきちんと認めた上で、それでも、その人が福音に耳を、心を開くかどうかは神様がお決めになることであり、聞いた本人が決めることなのです。それは神様の領域であって、私たちの範囲を超えていることなのです。問題は、主イエスに遣わされた者として忠実にその業に仕えているかどうか、その一点に尽きるのです。
さて、主イエスは弟子たちを遣わすに当たって、7節後半で「汚れた霊に対する権能を授け」られました。主イエスは何も与えないで、ただ何も持っていくなと言われたのではないのです。汚れた霊、悪霊と戦い、これを追い出す権能をお与えになったのです。権能という言葉は、耳慣れないかもしれませんが、教会ではとても大切な言葉です。意味は、文字通り権威・権限と力ということです。教会はキリストの権能を行使するために建てられています。キリストの権能は、教会以外のどこにも与えられていないのです。
このキリストの権能は、キリスト教会にずっと与えられているものです。これが与えられているから、教会は教会であり続けているのです。説教、祈祷、洗礼、聖餐、あるいは戒規といったものは、この権能を行使する場面です。この礼拝の場が、汚れた霊を追い出す場なのです。私たちは、様々な心の傷を持っていますし、様々な具体的な課題を持っています。何の問題も持っていない人など一人もいません。しかし、私たちはこの礼拝に集っています。そして、この礼拝に集うたびに、神様が私を愛してくださっていることを、必ず私を救いの完成へと導いてくださることを、心に刻むのです。そのことによって、私たちは一切の悪しき霊の誘惑から守られているのです。悪霊・汚れた霊の働きは明らかです。私たちから生きる力・喜び・勇気・希望・信仰・愛を奪っていくのです。しかし、この礼拝において神様は働いてくださり、再び私たちに信仰を与え、悪しき霊の誘惑から助け出し、御国への歩みを新しく歩み出させてくださるのです。生きることの意味を教え、生きる力と勇気と希望を与えてくださるのです。
悪霊を追い出す権能は、もちろんこの教会にも授けられています。このことを私たちはしっかり受け止めなければなりません。世には汚れた霊どもが跋扈(ばっこ)しています。そして、汚れた霊の囚われ人になっている人が、おびただしくいるのです。この人々を汚れた霊どもから解放し、神様のもとに取り戻すため、キリストのものとするために、この教会は立っているのですし、私たちは遣わされて行くのです。生きる力と勇気を失いかけている人々に、主イエス・キリストによる救いの希望を与える者として遣わされていくのです。聖霊なる神様の御業の道具として、それぞれ遣わされている場において、存分に用いられていくために、共に祈りを合わせましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を合わせることができ、感謝いたします。神様、教会は、キリスト者はイエス・キリストの福音を宣べ伝えるために遣わされています。宣教は権能をもって私たちに託されているあなたの御業です。どうか、主イエスの御命令に従いつつ、喜ばしく福音宣教に仕えさせてください。聖霊においてあなたが共に歩んでくださることを信じて、暗さが支配つつあるように見えるこの世界に、福音の灯を輝かすことができますよう、私たちを強めていてください。今日から始まる一人一人の一週の歩みを、あなたが支え導いていてください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録4章1-14節
説 教 「救われるのはイエス・キリストによって」 渡辺望
午前10時30分 司式 藤田浩喜牧師 (聖餐式を執行します)
聖 書
(旧約)ヨナ書4章1-11節
(新約)マルコによる福音書6章14-29節
説 教 「神の言葉は生きつづける」 藤田浩喜牧師
使徒言行録2章1~4節 2024年5月19日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
◎ペンテコステの日。弟子たちの上に聖霊が降るという出来事が起こりました。
「聖霊降臨」です。使徒言行録2章には、その時の様子とその結果として生じたことが詳しく記されています。
ところで、私自身も教えられてきたことであり、また皆さんもそうではないかと思うのですが、しばしばこのペンテコステというのは「教会の誕生日」であると言われてきました。つまり、この日、聖霊が降ることによってキリストの教会が地上に生まれたという説明です。
私も長い間そう思ってきましたし、とくに疑問も感じなかったのですが、ある時、聖書を読んでいてふと気づいたことがありました。それはこのペンテコステの日よりも前から、教会は存在していたという事実です。
例えば、使徒言行録1章には、聖霊が降るよりも前から弟子たちは一つの場所に集まっていたこと、共に祈っていたことが記されています。さらにはイスカリオテのユダが死んだ後、12人目の使徒を選出して補充するという、教会の組織や制度にかかわる営みまで行われていたことが記されています。それはまさにエクレシア(神の民の集い)にほかなりません。ですから、ペンテコステの日に初めて「教会が誕生した」、「神の民の集いが始まった」というのは、間違っているとまでは言わないものの、不正確な表現のように思われるのです。
そのことに気づいてから、今まで抱いていた先入観や思い込みをひとまず措いて、改めて使徒言行録2章の記事を読んでみました。そこではまず弟子たちの上に聖霊が降るという出来事が、次のように不可思議な、そしてまた一種異様な現象として描写されています。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(1~3節)。
「風」、「音」、「炎のような舌」など、ここには聖霊降臨の出来事が聴覚や視覚など五感に感じられる経験として描かれています。
そして次に、その結果として人々の上に生じた現象が記されています。
「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。聖霊はいろいろな言葉を語る能力を弟子たちに与えたというのです。それは一つの奇跡的な現象であったと言えましょう。
しかし、ここで重要なことは「弟子たちがほかの国々の言葉で話しだした」という不思議な出来事よりも、そうしたさまざまな言葉を通して「福音が語られ始めた」ということこそ、肝心なことなのです。
言い換えるなら、聖霊降臨とは「宣教の開始」を意味する出来事だったのです。
それゆえに、この点から見れば、ペンテコステとは「教会の誕生」というよりも「宣教する教会の誕生」を意味する出来事であり、弟子たちがこの世に向かって公けに主イエス・キリストを宣べ伝える力を与えられ、その働きを直ちに開始した日であったと言うべきなのかもしれません。
◎ところで、このようなペンテコステの出来事と宣教の関係を考える上で、とても大切なことを示唆してくれる一文をご紹介しましょう。これはJ・G・デーヴィスという神学者の記した文章です。
「使徒行伝がえがいている教会は、まずはじめに教会形成を念いりにおこなうべく内省的な期間をついやし、十分な準備ができあがったと思われるようになったときはじめて宣教へと動きだした、というようなものではなかった。準備のあるなしにかかわらず、聖霊がくだったその瞬間から、直ちに、宣教の教会となったのである。なぜなら、その教会は、聖霊の支配のもとにある教会だったからである」(『現代における宣教と礼拝』、日本キリスト教団出版局)。
たしかに弟子たちは、万全の準備や体制、高度の神学的理論や潤沢な活動資金が整ってから、宣教に乗り出したわけではありません。細かいことをいえば、主イエスの復活から数えて50日目、昇天から数えればわずか10日目に、このペンテコステの出来事が起こり、それこそ何が何やら分からぬまま、弟子たちは「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。あれよあれよという問に「宣教を開始させられた」というのが現実であったように思います。
先ほども言いましたように、ペンテコステの前から弟子たちは集まりを持ち、祈っていました。12人目の使徒も補充しました。彼ら彼女らなりに教会を整えることに取り組んでいたと言えるでしょう。
しかし、教会内部のことならともかく、つい50日前に主イエスが処刑されたエルサレムの町の中で、ローマ総督ポンテオ・ピラトや大祭司やファリサイ派の面々がわがもの顔に闊歩する状況のもとで、外部の人々にイエス・キリストの福音を告げ知らせよう、宣教しようなどということを、弟子たち自身が喜んで始めたとは思われません。生まれたばかりの小さな教会を取り巻く環境は、きわめて厳しいものだったはずです。
人間的に考えれば、外部に働きかけるのは「もっと良い機会に」、「もっと準備してから」、「もっと状況が好転してから」というほうが自然なことだったと言えるでしょう。しかし、聖霊は弟子たちの思惑や都合にかかわらず、風のように炎のように、自由自在に彼ら彼女らの上に降り注いだのです。
宣教は聖霊のわざであり、また神ご自身のわざであって、すなわち「神の宣教」(ミッシオ・デイ)なのです。それは人間の計画や発意によるものではありません。弟子たちは「語りたいから語った」わけではありません。「“霊”が語らせ」たので、語らざるをえなかったのです。やむをえず語らなければならなかったとさえ言えるかもしれません。
預言者エレミヤは叫びました。「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです」(20:9)。
主イエスの弟子たちが、エレミヤほどの強烈な抵抗感を持っていたのかどうか分かりません。しかし、神が、そして聖霊がそれを強いたので、「語らせるままに語った」、「語らざるをえなかった」という点では同じです。
それは私たちキリスト者にとって、まさに「強いられた恵み」です。私たちキリスト者は、神がまず最初に始められた宣教のわざに参加させていただく存在です。そして私たちキリスト者は、その宣教のわざを主イエス・キリストのなさった模範に倣って実践する存在です。そしてまた私たちキリスト者は、その宣教のわざを実践する力を聖霊からいただく存在です。
この意味において、宣教とは私たちキリスト者が三位一体の神のもとで行う「神の民のわざ」にほかならないとも言えるでしょう。
◎ところで、先ほど引用したデーヴィスはさらに次のようにも書いています。
「使徒行伝の教会は、宣教それ自体のなかでみずからを革新し、一致を見いだしていったのである」(前掲書)。思いがけない時、聖霊が弟子たちに宣教を開始させます。すると、その宣教の中で、宣教の働きを通して、今度は教会が新たにされていった、そして一つになっていったというのです。
このことについても、私たちは深く思いめぐらさなければなりません。先ほど、宣教とは「神の宣教」であり、私たちキリスト者は「強いられた恵み」として、このわざに参加し、「神の民のわざ」を実践するのだと申しました。しかし、それは宣教においては人間が単なる「神の宣教の道具」として利用されるにすぎないなどということを言いたいわけではありません。むしろこの宣教の出来事を通してもっとも大きな恵みを与えられるのは、宣教に参加する私たち自身なのです。
私たちは宣教に参加することを通して、多くのことを教えられ、多くの恵みを与えられ、教会として「神の民」として育てられていくのです。すなわち、神ご自身が主導権を取られるこの働きに参加することを通して、私たちはそもそも「宣教とはいったいどういうことなのか」ということを、私たち自身の問題として考え抜く機会を与えられます。また、「そのような宣教を担う教会とはどうあるべきなのか」ということを考え抜く機会を与えられます。言葉を換えて言えば、宣教に参加するということは、キリスト者としての私たち自身の姿、私たちのアイデンティティーを確認し形成していくことに必然的に結びついているのです。
すでに見てきたように、弟子たちは万全の態勢、万全の準備が整ってから、宣教に着手したわけではありません。むしろ聖霊によって宣教の働きに無理矢理引き出されたのであり、弟子たちは宣教の現場で苦闘し、悩み、祈ることを通して訓練され、鍛えられ、成長し、また自分自身を吟味していったのです。
使徒言行録の記述は、ペンテコステの日の聖霊降臨という華々しい出来事の後も、しばしば弟子たちの間に問題が起こったこと、失敗や挫折が繰り返し起こったことを伝えています。その意味では、聖霊降臨は弟子たちや初代教会にハッピーエンドをもたらしたわけではありません。
けれども、この時以降、聖霊はどんな時でも弟子たちと共にあり、ペトロやパウロをはじめとする多くの人々を導き、ついにキリストの福音はパレスチナからシリア、小アジア、ギリシア、そして当時の「世界の中心」であったローマにまで達したということが、使徒言行録の中に描かれています。
私たちは使徒言行録において、ついペトロやパウロの個人的な活動や宣教の拡大ということにばかり目を奪われがちです。しかしこうした宣教が展開されていく中で常に弟子たちや初代教会を導き、さまざまな困難と葛藤を通して彼らを成長させてくださった聖霊の働きにこそ、心を向けなければなりません。ある人はこの使徒言行録のことを「聖霊言行録」であるといいました。「使徒」ではなく「聖霊」こそ、この物語の真の主役であるということでしょう。
二千年前に弟子たちや初代教会を導いた聖霊が、同じように現代の私たちをも導いてくださいます。このことを信じて、私たちもまた大胆に私たちの時代における神の宣教のわざに参加し、私たちの教会を形作っていこうではありませんか。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。ペンテコステの日に、あなたは主イエスが約束された聖霊を、弟子たちの群れに降してくださいました。聖霊は宣教する教会を誕生させてくださいました。また聖霊は主の御業を宣べ伝える宣教を通して、教会の群れを成長させ、一つとしてくださいます。その聖霊の風は、今も私たちの群れに吹き続けています。どうか、この聖霊の働きに身をゆだね、聖霊に押し出されて、宣教していくことができますよう、導き強めていてください。今病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹のことを覚えます。一人ひとりの兄弟姉妹と共にいましてくださり、あなたの与えてくださる平安の中で日々を過ごさせてください。この拙きひと言の感謝と切なる願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録3章1-10節
説 教 「わたしには金銀はないが」藤田百合子
午前10時30分 司式 山﨑和子長老
聖 書
(旧約)列王記下4章42-44節
(新約)マルコによる福音書6章6後半-13節
説 教 「遣わされた者として生きる」藤田浩喜牧師
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録1章8節
説 教 「聖霊がくだると力を受ける」 藤田浩喜牧師
午前10時30分 ペンテコステ(聖餐式を執行します) 司式 藤田浩喜牧師
聖 書
(旧約)エレミヤ書20章9節
(新約)使徒言行録2章1-4節
説 教 「宣教する教会の誕生」 藤田浩喜牧師
使徒言行録1章6節-11節 2024年5月5日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝注目したいのは、主イエスの昇天、復活された主イエスが天に上げられたことです。ところで、「昇天」という言葉は日本語で、死ぬことを意味する言葉として用いられることがあります。しかし主イエスの昇天はそれとは全く違う意味ですから、間違えないようにしなければなりません。主イエスの昇天とは、復活した主イエスが結局はまた死んでしまったということではありません。体をもって復活し、もはや死ぬことのない新しい命を生きておられる主イエスが、その生きた体のままで天に昇られたということです。使徒信条の言葉で言うならば、「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」ということです。復活された主イエスは、昇天して、今は、この地上にではなく、天におられ、父なる神様の右の座に着いておられる。そのように、復活して今も生きている主イエスのおられる場所が変わったこと、それが主イエスの昇天なのです。
さて、使徒言行録は主イエスの昇天を語る前に、復活された主イエスと弟子たちとの問答を記しています。弟子たちは6節で主イエスにこう質問をしたのです。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。それに対する主イエスのお答えが7、8節に語られ、9節は「こう話し終わると、イエスは彼らの見ているうちに天に上げられ…」と昇天を語っています。6節以下の問答と昇天とは密接に結び付けられているのです。主イエスの昇天の意味を考える上で、この問答の内容はとても大事です。
弟子たちはここで主イエスに、「イスラエルのために国を建て直して下さるのは、この時ですか」と尋ねています。イスラエルのために国を建て直す、それは旧約聖書に預言されていたメシア・救い主が現れる時に実現すると期待されていた救いです。長く国を失い、あるいは外国の支配下にあったイスラエルが、救い主の出現によって力を盛り返し、外国、敵の支配から脱して自分たちの国を、メシアの王国、神の王国として確立する。そういう救いをイスラエルの民は待ち望んでいたのです。弟子たちは、今こそ主イエスによってその救いが実現するのではないか、と期待しています。死に勝利して復活された主イエスこそ、まことのメシア、救い主であり、この主イエスならイスラエルの国を再興することがお出来になる、と彼らは考えたのです。
主イエスは弟子たちのこの期待を込めた問いに対して、7節でこうお答えになりました。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」。このお答えは、イスラエルのための国の再興という救いが、今すぐに、もう間もなく実現する、という弟子たちの期待に対する否定です。「時や時期は、父なる神様がお決めになることなのであって、あなたがたの知るところではない」。「いつ」ということは父なる神様にお委ねして、今与えられている信仰の生活、主イエスに従う歩みを続けていくことが求められているのです。従ってこの問答に込められている含蓄は、主イエスが復活なさったことによって、神様の救いが完成してしまうと考えるべきではない、ということです。神様の救いのみ業は、まだ継続しているのです。先があるのです。あなたがたはこの先もなお、道を歩み続けていくのだと言っておられるのです。
弟子たちに与えられているこの先の道、彼らがなお歩み続けていかなければならない道とはどのようなものでしょうか。それは、主イエスによって使命を与えられて遣わされていく道です。弟子たちのことが使徒言行録では「使徒たち」と呼ばれています。その意味は「遣わされた者」ということです。復活された主イエスと出会った弟子たちは、その主イエスによって使命を与えられて遣わされていくのです。その使命を語っているのが8節です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。彼らに与えられる使命とは、主イエスの証人、証し人としての使命です。主イエスのことを宣べ伝え、主イエスによって父なる神様が成し遂げて下さった救いのみ業を伝える、そのために彼らは派遣されていくのです。
これは、弟子たちが期待していた、救い主である主イエスが「イスラエルのために国を建て直してくださる」ということとは、かなり違うことです。弟子たちは主イエスの復活によって、神の民イスラエルの王国が目に見える仕方で確立し、主イエスがその王となって下さるものと思っていました。しかし主イエスがお示しになったのは、そのようなイスラエルの王国の建設ではなく、主イエスのことを宣べ伝える証人、証し人の群れの成立だったのです。それは教会の成立です。
そのことが、弟子たちの上に聖霊が降ることによって実現する。それがこの後2章の聖霊降臨、ペンテコステの出来事において起ることです。8節の言葉はペンテコステにおける教会の誕生を予告しているのです。主イエスの復活によって実現していくのは、イスラエルのための国の再興ではなくて、教会の誕生です。
弟子たちが、救い主メシアによる救いの完成として思い描いていたのは、「イスラエルのための」国の再興でした。つまり彼らが考える救いの範囲は、イスラエルの民、旧約聖書以来の、神様に選ばれた民であるユダヤ人に限定されていたのです。けれども主イエスはここで、彼らが聖霊の力を受けて、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と語っておられます。これは、ユダヤ人、イスラエルの民という範囲を越えて、ユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人にも、そして全世界の異邦人にも、主イエスのことが宣べ伝えられ、彼らも主イエス・キリストの救いにあずかり、教会に加えられていく、ということを示しています。使徒たちがこの主イエスのお言葉の通りに、聖霊によって力を与えられ、キリストの証人となり、ユダヤとサマリアの全土に、そして地の果てにまで主イエス・キリストの福音を宣べ伝えていった。そのことを、この使徒言行録は語っていくのです。
主イエスは弟子たちの問いに答えて、このように、彼らに使命が与えられ、遣わされることをお語りになりました。つまり教会が誕生し、歩んでいくことを語られたのです。この主イエスのお言葉には、一つ、前提となっていることがあります。それは、弟子たちの、教会の歩みにおいて、主イエスは少なくとも目に見えるお姿においては、そこに共におられない、ということです。弟子たちが力を受け、主イエスの証人として遣わされるのです。それをしていくのは弟子たちであって、復活された主イエスが陣頭指揮を取ってしていくのではありません。弟子たちが主イエスの証人として遣わされることは、主イエスが共におられないことを前提としているのです。
つまり、今弟子たちの目の前におられ、語りかけておられる主イエスは、彼らの前からいなくなるのです。そのことが起ったのが、主イエスの昇天です。9節に語られている主イエスの昇天の記事は、昇天をそういう事柄として語っています。注意深く読んでみるとそれが分かるのです。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。ただ天に上げられたと語られているのではありません。「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」のです。弟子たちは主イエスを見ていた。するとその主イエスが天に上っていかれ、雲がそのお姿を覆い、もはや弟子たちは主イエスを見ることができなくなった。それが昇天において起ったことなのです。
主イエスが去っていく、目に見えない存在になる。それは大変心細い、不安なことです。けれどもそこに、代って与えられるものがあるのです。それが聖霊です。天に昇り、去っていく主イエスに代って、聖霊が弟子たちに降り、与えられるのです。その聖霊が彼らに力を与え、彼らを全世界へとキリストの証人として遣わしていくのです。
この聖霊の働きの内にある私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることができないことを嘆いたり、心細く思う必要はありません。使徒言行録は、即ち教会の歴史は、主イエスの昇天から、つまり主イエスのお姿が見えなくなったことから始まったのです。主イエスが天に昇り、見えない方になられたからこそ、天から聖霊が与えられ、神様の力が豊かに注がれて、主イエスのことを証しする人たちが立てられたのです。主イエスが天に昇り、私たちの目に見えない方となられたことは、神様の救いの恵みの前進なのです。なぜなら、このことによってこそ私たちは、いつでも、どこにいても、復活された主イエスと共に歩むことができるからです。仕事をしている時も、学校へ行っている時も、家庭にいる時も、外出している時も、起きている時も寝ている間も、目には見えない主イエスが、聖霊のお働きによって私たちと共にいて下さるのです。また私たちは礼拝において、様々な妨げによってここに来ることができず、共に礼拝を守ることができない多くの方々のことを覚えて、執り成し祈ります。それらの方々に、それぞれの置かれた所で、主イエスが共にいて慰めと癒しと支えを与えて下さるように祈るのです。その祈りを神様は聞き届けて下さるのです。私たちはそういう神様の恵みを信じています。そのように主イエスがいつでも、どこでも、誰とでも共にいて下さることを、私たちが信じることができるのは他でもありません。肉体をもって復活された主イエスが、天に昇り、私たちの目には見えないお方となられたが、その代りに聖霊が降って、今私たちの中で働いていて下さることによるのです。
そしてそれに続いて、10節以下のことが語られているのです。「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」。弟子たちは、主イエスが昇っていき、見えなくなった天をいつまでも見上げていました。するとそこに白い服を着た二人の人、つまり天使が現れ、主イエスが「またおいでになる」ことを告げたのです。
天に昇られた主イエスは、またおいでになる方です。まことの神としての権威と力とをもって、主イエスが天から再び降って来られる日がいつか来るのです。その時、今は隠されている主イエスの、そして父なる神様のご支配があらわになり、完成するのです。それによって今のこの世は終わり、神の国が完成するのです。昇天は、主イエスについて語られるべき最後のことではありません。「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」の後には、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」が続いているのです。
主イエスの昇天を見つめ、思う時に、私たちは、同時にその主イエスがまたおいでになること、主の再臨を見つめさせられ、思わされるのです。教会の歩みは、主イエスが天に上げられてからまたおいでになるまでの、昇天と再臨の間の歩みです。この間の時、私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることはできません。しかしこの間の時、私たちは聖霊の働きを受けて歩みます。昇天と再臨の間の時代を、聖霊の導きによって歩むのが教会なのです。その教会に連なって生きる私たちは、目には見えないけれども、復活して永遠の命を生きておられる主イエス・キリストと共に生きることができます。復活された主イエスの証人として、主イエスを証しし、宣べ伝えていく力を与えられます。そしてその主イエスがいつかもう一度、目に見えるお姿で来られ、そのご支配があらわになり、私たちの救いが完成する日を待ち望みつつ、歩むことができるのです。そのような信仰の生活を私たちに与え、力強く導き、支えて下さる聖霊が、今私たちに働きかけていて下さるのです。そのことを忘れないようにしましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と礼拝を共にすることができ、感謝いたします。主イエスは復活され、弟子たちに顕現された後、昇天されました。復活された主イエスをいま私たちは、目で見ることはできません。しかし主の昇天によって遣わされた聖霊が、私たちには与えられています。その聖霊において、どんな時にも、どんな所においても、活ける主イエスが共にいてくださいます。主イエスの昇天が、くすしき神の救いの御計画の大いなる進展の出来事であったことを、私たちに覚えさせてください。そして私たち一人一人が、聖霊によって復活の主の証人として立てられ遣わされていることを覚えさせてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録1章12-14節
説 教 「心を合わせて祈る」 高橋加代子
午前10時30分 司式 髙谷史朗長老
聖 書
(旧約)エレミヤ書31章31-34節
(新約)ヨハネによる福音書16章5-15節
説 教 「新しい契約」 長谷川晴子教師
ヨハネによる福音書21章15~19節 2024年4月28日(日)主日礼拝
牧師 藤田浩喜
教会で行う結婚式では、結婚するふたりに次のように約束をしてもらいます。
「あなたはいま、○○さんと結婚することを神の御旨と信じ、今から後、さいわいな時も災いに会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、たがいに愛し、敬い、仕えて、ともに生涯を送ることを約束しますか。」
牧師が新郎と新婦にそのように尋ね、「はい、そう信じて約束します」と答えてもらうのです。ちょっと想像してほしいのですが、あなたがそう答えた時、牧師があなたに向かって、「本当ですか」と問い返したらどうなると思いますか。そしてあなたが「本当です」と重ねて答えた後で、さらにもう一度、「本当に本当ですか」と牧師が聞き直したらどうなるでしょうか。
ちょうどそれと似たようなことが、今日お読みいただいたヨハネによる福音書の中で、主イエスとペトロとの間に起こったと言っていいでしょう。21章15~17節からにかけて、主イエスがペトロに向かって三度、「あなたはわたしを愛しているか」とお尋ねになり、そのたびにペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたという場面が伝えられています。
三度目に問われた時、「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」とあります。「悲しくなった」とは、情けなくなったということでもありましょう。自分の言うことを信じてもらえないのかという思いでしょうか。
それと同時に、あるいはここで、主イエスに問われ、主イエスに答えている間に、ペトロはかつて自分が主イエスに語った言葉、そして自分のとった行動を思い出したかもしれません。それは主イエスが十字架につけられる前の晩のこと、最後の食事を弟子たちと共にとっていた時のことです。主イエスはペトロに向かって、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われました。
その場面にこう記されています。「ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』」(13章37~38節)事実は、主イエスの預言通りに進んだということを聖書は証言しています。
「主イエスを知らない」と言ったのは三度。「わたしを愛しているか」と問われたのも三度。「ペトロは……悲しくなった」という文章の背後には、それに気づいたペトロの身のすくむような思いが含まれていたのかもしれません。「この方は覚えている。」それはあるいは、自分が今主イエスに「裁かれている」という思い、主イエスに「試されている」という思いだったかもしれません。
だからこそと言うのか、あるいはまた、それにもかかわらずと言うべきか、ペトロの三度目の答えは、それまでの答えにはなかった、こういう言葉から始まっています。「主よ、あなたは何もかもご存じです。」(21:17)そして、この言葉に、「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と続くのです。
私たちは人生の節目節目に大切なことを約束する場合があります。結婚もそうですし、キリスト者となることにおいてもそうです。しかし、現実には、その日その時には真剣な思いとあふれるような誠実さをもってなされた約束が、いつまでも変わることなく揺らぐことなく保ちつづけられているかといえば、そういうわけでもありません。
人生そのものに波があり、山も谷もあるように、さまざまな現実の中でかつて自分の約束した言葉がその力を失い、約束した内容の重さが見失われてしまうような時が必ず何度か訪れます。ただ惰性で夫婦として生活しているように思われる時、ただ惰性で教会に通っているように思われる時が、誰にでもあるのではないでしょうか。また、この人生を生きることの意味が見失われたように思われる時が、誰にでもあるのではないでしょうか。そうした現実があることを認めようとしないのは愚かなことです。
大事なことは、そういう現実に直面した時に自分の人生そのものをきちんと見つめることができるかどうかということであり、信仰者としての原点に立ち帰り、あるいは結婚の原点に立ち帰って、自分自身を見つめることができるかどうかという点にかかっています。
信仰であれ、家庭であれ、そして人生であれ、その真価が問われ、またその豊かさを発見するのは、むしろそうした行き詰まりや挫折に直面した時、それにどう向き合ったかということにかかっている場合が多いように思います。そして、そうした時にこそ、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と答えた(答えざるを得なかった)ペトロの言葉を、私たちもまた、本当に痛切な思いをもって想起すべきではないかと思うのです。
三度、主イエスのことを知らないといった「裏切り」は軽々しい出来事ではありません。三度、ペトロに投げかけられた問いもまた軽々しいことがらではありません。しかし、「三度の裏切り」と「三度の答え」と、思えばそういうきわどい難所において、私たちの信仰も家庭も人生も、鍛えられ、深められ、真実なものになっていくのではないでしょうか。そういったぎりぎりの難所にあって、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と心の底から告白し、すべてを主におまかせし、主のもとに立ち帰るということこそ、キリスト者の信仰生活の要であると思うのです。
すべての人間はイエス・キリストの裁きのもとに置かれています。その裁きとは、人間を滅びに至らせるものではなく、逆に古き姿を裁くことによって、その人を新しい命へ生かそうとする裁きです。イエス・キリストは人間を新たなものに造りかえてくださる方であり、また人間に新しい仕事を示される方であります。
「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と告白するペトロに対し、主イエスがおっしゃった言葉はこうでした。「わたしの羊を飼いなさい。」(21:17)三度とも、主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と命じられました。もともと漁師であった男に向かって、「羊飼いになれ、商売替えをせよ」と命じておられるのです。
主イエスご自身が、ペトロの新しい仕事を決めるのです。ペトロは主イエスが命じられた仕事に従わなければなりません。漁師の仕事は「魚を取ること」であり、「取る」ということにポイントがあります。どんなに大漁であろうと、そこで「取られた魚」はまもなく死んでしまいます。羊飼いの仕事は「羊を飼うこと」であり、養い、育て、生かすことです。羊飼いは羊と共に生きるのです。
「わたしの羊を飼いなさい」という言葉につづけて、さらに主イエスはペトロにこうおっしやいました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(21:18)。
この言葉はペトロが後に十字架につけられて死ぬことの預言であったと言われます。「両手を伸ばして」とは、十字架に釘づけられるために「横に手を伸ばして」の意味であろうというのです。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。」
ペトロは自分で自分の人生を選んで生きてきた人間です。選ばれて主イエスの弟子になったとはいえ、しばしば自分の判断を優先し、主イエスがどうおっしゃるかということよりも、自分がどうしたいか、自分の思いにこだわってきた人間です。それと同時に、一時的には熱して「あなたのためなら命を捨てます」と大見得を切りながら、すぐその後で我が身かわいさのあまり逃げ出すような人間でもあります。「自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた」ような、そういう「出来の悪い羊」、「わがままな羊」、「熱しやすく冷めやすい羊」を抱えながら、羊飼いである主イエスは我が身を捨てて羊を守ってくださいました。
ここでは、その「羊」であったペトロ自身が、主イエスのような「羊飼い」になることを命じられているのです。
ペトロがそのような「羊飼い」にふさわしい才能の持ち主だったわけではありません。しかし、ペトロには、「羊飼い」になることによって、彼自身が学び知らなければならないことがあったのです。自分が「羊」だった時に味わったイエス・キリストの御心を、及ばずながらも自ら「羊飼い」として働くことによってペトロは思いはからなければならないのです。
俗に「子をもって知る親の恩」といいますが、「羊飼い」になってみて、初めて分かる「キリストの心」があるのではないでしょうか。このように「羊」であることと「羊飼い」であること。それはキリスト者として生きる上で私たちが深く味わい知るべきふたつの面であり、味わい知れば知るほどにいよいよ自分の無力さを思い知らされます。それと共に、いよいよ主の恵みに感謝を新たにする機会となり、そしていよいよ真剣に「主よ、あなたは何もかもご存じです」と告白し、主の赦しと支えを祈り求めながら歩みつづけていくことになる体験であると思います。
私たちは「主の羊」として養われつつ、「主の羊を養う者」として、すなわち、互いに互いを配慮し合い、支え合い、導き合って生きていかなければなりません。
ペトロだけが特別だったのではありません。私たちひとりひとりが主イエスの前では「主の羊」であり、大切な掛け替えのない人間です。私たちが心しなければならないことは、主イエスの前で自分がそれほどまでに大切な人間として取り扱われているという事実であり、同時に自分の隣りに座っている人もまた主イエスにとって掛け替えのない特別な人間であり、「主の羊」なのだという事実です。
「主の羊」である私が同じく「主の羊」である隣人と共に生きるということ、そしてお互いに「主の羊を飼う者」として、隣人に対して責任を担い合うということ。それがペトロに告げられた命令の内容であり、私たちへの主の命令であるとは言えないでしょうか。
このように、お互いを生かし合い、お互いに責任を負うという隣人愛のゆえに、キリスト者の生き方はただ自分の好き勝手に「行きたいところへ行く」というものではなく、主イエスのゆえに「行きたくないところへも行く」という課題も含まれているということを、わきまえておかなければなりません。
賛美歌の一節にこうあります。
「主よ、飲むべき わがさかずき、えらびとりて さずけたまえ。
よろこびも かなしみをも、みたしたもう ままにぞ受けん」
(『讃美歌』285番3節)
私たちのことをもっともよくご存じの主が、私たちの歩みも指し示してくださいます。この主の指し示しをまず第一に祈り求め、その示しに応じる備えをつねに整えている者でありたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。復活の主がペトロに3度語られた「愛の命令」を今日は学びました。この3度の愛の命令の中に、失敗し、自ら絶望していた人間を立ち上がらせ、新しい使命に向かわせる主の深い愛を示されました。ペテロに与えられた愛の命令は、私たち一人一人にも与えられています。どうか、この主の御言葉を胸にこれからの人生を歩み続ける者としてください。このひと言の感謝と祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
午前9時15分-10時 礼拝と分級
聖 書 使徒言行録1章6-11節
説 教 「主イエスの昇天」 𠮷田三枝子
午前10時30分 日曜学校日 司式 藤田浩喜牧師
聖 書
(旧約)イザヤ書19章1-4節 (聖餐式を執行します)
(新約)使徒言行録1章6-11節
説 教 「天を見つめる者たち」 藤田浩喜牧師