主イエスの造る家族

マルコによる福音書3章31~35節 2023年11月12日(日)主日礼拝説教

                             牧師  藤田浩喜

 今日読んでいただいたマルコによる福音書3章34~35節にこうありました。「イエスは…周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』」。これは有名な御言葉です。この御言葉をあらためて読むとき、この主イエスの御言葉は今日の「家族」を考える上で、一石を投じているのではないでしょうか。

 ある学者は「今日、家族は自明ではない」と言っています。私たちの時代、親たちの経済的な生活基盤が不安定であると指摘されます。核家族化の進行で、父親は仕事に取られ、ワンオペ育児を強いられている母親も増えています。かつて子育てを下支えしていた地域社会も機能してはいません。そうした中で家庭の教育力が低下してしまい、子育てに悩む家庭も多くなっています。日本キリスト教会岐阜教会は「児童育成園」という児童養護施設と深い関係がありますが、そこで暮らしている子どもたちは、その多くが親のいる子どもたちで、親のいない子どもたちは少ないそうです。また、関心が集まって周囲の人々が通報することが多くなったことも関係していると思いますが、ネグレクトやDV(ドメスティック・バイオレンス)などの虐待を受けている子どもたちの数も増加しています。もちろん個人の責任だけに帰せられるものではなく、社会情勢や行政の施策の貧しさも大きな背景をなしています。そうした複雑な状況の中で、「今日、家族は自明ではない」ということを実感として感じるのです。

 2018年第71回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した是枝裕和(これえだひろかず)監督の「万引き家族」は、多くの方がご存じでしょう。映画の筋をばらすのは営業妨害ですが、5年前の作品ですので少しだけご紹介します。この映画は今日の私たちに、「家族」というものについて鋭い問題提起をしているように思います。おそらくは東京のビルが林立する町の一角に、狭く古い家が時代に取り残されたように立っています。高齢の祖母、中年の父と母、小学校高学年くらいの息子、そして高校生ぐらいの娘の5人が、身の置き所もないような雑然とした家で暮らしています。

 この家族は、お世辞にも褒められた生き方をしてはいません。家族は6万円ほどの祖母の年金を当てにしています。父親は息子に万引きをさせ、足らない日用品や食品をまかなっています。母親はパートでクリーニング工場に勤めていますが、衣類のポケットに残っていたアクセサリーなどの忘れ物をくすねます。高校生ぐらいの娘は怪しげな風俗店で働いて、小遣いを稼いでいるのでした。しかし狭苦しい家で遠慮ない言葉をぶつけ合う家族ではありましたが、そこには親密さや暖かさがあるのです。お互い文句を言い合うのですが、なんだかんだ言って、それぞれが面倒を見合うのです。そして、この「家族」にネグレクトと虐待を受けていた小さな女の子が加わります。一度は両親のもとに返そうと家の前まで連れていくのですが、夫婦がののしりあい、母親がDVを受けている様子を耳にして、自分たちの家に連れ帰ってしまうのです。

 しかし、この小さな女の子が警察によって捜索されることになり、それがきっかけとなって、この家族はバラバラになっていきます。祖母はすでに病死していますが両親は逮捕され、男の子も警察で事情聴取されます。そしてその過程を通して、家族一人一人の抱えていた過去が明らかになります。そして、家族と思われていた5人は、だれ一人血がつながっていない「疑似家族」であることが明らかになるのです。もうその家族がもとの姿に戻ることはありません。そしてあの小さな女の子も、ネグレクトと虐待の待つ自分の家庭に戻らざるをえなくなってしまうのです。「家族とはなにか」、「家族にとって本質的なことは何なのか」、そのことを深く鋭く問いかける作品であると思います。

 さて、今日読んでいただいた箇所で、主イエスは身内である「肉親の家族」と「神の家族」というべきものを対置していることが分かります。主イエスは「肉親の家族」を絶対化してはいません。32節の後半で、主イエスに「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と告げられます。しかし33節で主「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え」られたのです。身内だからということで、主イエスを連れ戻そうとする家族の者たちを拒んでおられるのです。

 もちろん、主イエスは「肉親の家族」を否定しているのではありません。公生涯に入るまでの30年間、主イエスは両親に従順な息子として成長してきました。父の仕事を継いで長男としての責任を果たしてこられたことでしょう。また主イエスが十字架に付けられたとき、主イエスは自分の弟子に「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:27)とおっしゃって、母マリヤのことをその弟子にゆだねています。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハネ19:27)と報告されています。ですから主イエスは、「肉親の家族」をないがしろにしてよいとか、ないがしろにしなさいとおっしゃったのではないのです。

 しかし、真の神であり真の人である主イエスにとって、より本質的で大切な家族がありました。それが主イエスと「主の周りに座っている人たち」から成る家族、「神の家族」なのです。主は34節で、「周りに座っている人々を見回して言われました。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる』」。「神の家族」とは何か、どんな家族なのか。「神の家族」であるための要件は、主イエスが真ん中にいてくださるということです。主イエスが家族の中心になっていてくださることです。イエス・キリストは、この世界に受肉され、十字架と復活の御業によって、わたしたちのすべての罪を贖い、わたしたちを神さまを和解させてくださいました。わたしたちはイエス・キリストのゆえに、罪と死の縄目から解き放たれました。それだけでなく、イエス・キリストのゆえにわたしたちは神さまを「アバ、父よ」と呼ぶことができるようになりました。ですからわたしたちは、イエス・キリストの十字架と復活の救いを信じることで、この「神の家族」に迎え入れられているのです。「神の家族」に属するために、イスラエルの家系に属する必要も、律法学者たちのように律法に精通する必要もありません。イエス・キリストの十字架と復活の救いを信じるなら、どんな人でも「神の家族」に迎え入れていただけるのです。

 そして、この「神の家族」に求められていることは何でしょう。主イエスは今日の35節でこのように述べておられます。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。「神の家族」に求められていることは、「神の御心を行うこと」なのです。「神は愛です」。そして神は愛という究極の御心を行うために、御子イエスを十字架にお掛けになったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。この決定的な御言葉は、そのことを証ししているのです。

そして、神は「神の家族」とされた私たちが、今度は互いに愛し合うことを求めておられます。それが神の御心を行うということなのです。ヨハネによる福音書15章9~12節をご一緒に読んでみましょう。新約198頁です。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっている。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」イエス・キリストがその身を捧げて示してくださった愛の掟によって、互いに愛し合うことが「神の家族」には求められています。しかしこの愛の掟を、神さまご自身が実践して下さり、御子イエス・キリストが模範となって愛の掟を実践してくださいました。私たち「神の家族」に迎え入れられた者たちは、神さまが御子イエスを愛して下さった愛、御子イエスがわたしたちを愛して下さった大いなる愛に支えられて、互いに愛し合うことが求められています。父なる神と御子イエス・キリストの大いなる愛に包まれるようにして、わたしたちは愛し合う者となっていきます。その意味で私たちは、「神の家族」の一員となることによって、互いに愛し合うことを学ぶのです。

 今日は「肉親の家族」と「神の家族」という対照の中で、聖書の御言葉を聞いてきました。「肉親の家族」は、誰でもがつくれるものではありません。一度つくったとしても、それが壊れてしまうことがあります。長年「肉親の家族」であったとしても、年月の経過によってそれが失われてしまうこともあります。

誰もが「肉親の家族」を持っているわけではありません。しかし「神の家族」はそうではありません。「神の家族」は、どんな人にも開かれています。どんな人も「神の家族」に迎え入れていただくことができるのです。

 そして「肉親の家族」を持っている人は、「神の家族」の大きな輪の中に入れられることが大切です。「神の家族」は、真の神であり真の人であるイエス・キリストを中心として形づくられた家族です。その「神の家族」の中に入れられることによって、家族にとって何が本質的なことか、何を失ってはならないかが、分かってくるのです。

 皆さんもご承知のように、「肉親の家族」は遠慮のない関係です。そのあまりの密接さのゆえに、他の家族の心の中にズカズカと踏み込んでしまうこともしてしまいます。子を親の所有物のように見なし、自己実現、自己充足の手段としてしまうこともあります。子が親を便利に利用するだけの打算的な関係になってしまうこともあります。あまりに密接な関係だからこそ、歪んでいたとしてもそれが分からない、ということも起こりうるのです。

 しかし、あの愛の掟を模範として実践してくださったイエス・キリストが、私たちの真ん中にいてくださることを、決して忘れないことが大切です。イエス・キリストを見つめ続ければ、それでよいのです。「神の家族」に属することで、「肉親の家族」は、何が家族の本質であるか、何を家族は失ってはならないかを、学び続けることができるのです。そのような「神の家族」が与えられていることを、私たちは心から感謝したいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、今日も兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができ、心から感謝いたします。あなたは御子イエスを中心とする「神の家族」を造ってくださいました。「神の家族」にはすべての者が招かれています。そしてこの「神の家族」に属し、イエス・キリストを見上げることで、私たちは「家族」にとって何が本質で大切であるかを知ることができます。どうか何よりも「神の家族」として歩ませてください。このひと言のお祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。