喜びによって新しくされる

マルコによる福音書2章18~22節 2023年8月27日(日)礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

私が大学生の時ですが、学生の団体が主催して「飢餓ランチ」という取り組みをしていたことがありました。それはお昼ごはんに食パン1枚とインスタントコーヒー一杯を用意する。会場に集まってきた人は500円を箱に入れる。もちろん食パン1枚とインスタントコーヒー1杯が500円もするわけはありません。学生の団体はパンとコーヒーの原価を差し引いて、余ったお金を集めて定期的に、海外の飢餓地域の支援をする団体に送っていたのです。私も何回か「飢餓ランチ」を利用しました。食パン1枚とインスタントコーヒーでは、もちろん大学生の空腹を満たすことはできません。しかし何か少しだけですけれど、心に満たされたものを感じました。自分が質素な食事をすることで、見知らぬ他者と少しでもつながっているような思いがしたからかもしれません。

さて、今日お読みいただいた聖書の箇所では、「断食」のことが問題になっています。私たちの時代では「断食」(食を断つ)ということを健康のために行うことがあるようですが、主イエスの時代はそうではありませんでした。「断食」は神様の前に信仰者が罪を犯したことへの、ざんげや悲しみのしるしとして行われました。レビ記にはユダヤ暦の7月4日の大贖罪日に「断食」をするように命じられていました。主なる神様に対して犯した罪を、イスラエル全体がざんげし悔い改める日に、この「断食」は行われたのです。

 しかし、今日の聖書に登場するバプテスマのヨハネの弟子たちは、先生のヨハネが人々に強く悔い改めを迫る人でしたので、しばしば「断食」をしていました。また、ファリサイ派の人々も、週に2回月曜日と木曜日に「断食」をしていたと言います。バプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、

食を断つことで自分の罪を見つめ、神様に向かってざんげと悲しみを言い表したのでした。それは意義あることであり、本来敬虔な思いからなされていたのです。バプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、「断食」こそ信仰者のなすべき敬虔だと考えていました。

そのため、あまり熱心に「断食」を行わない主イエスの弟子たちを見て、「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と問うたのでした。そこには非難の思いが込められていました。また、先々週見ましたように、主イエスと弟子たちは徴税人レビの家の客となり、大勢の徴税人や罪人と呼ばれていた人たちと食事を共にしました。その食卓は大変賑やかで、大いに食べたり飲んだりしたことでしょう。そんな主イエスと弟子たちの姿を見て、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、敬虔さのかけらもないと感じたのでありましょう。

しかし主イエスは、彼らにこのように言われたのです。19節です。「イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない』」。これはだれにでもよく分かるたとえです。主イエスの時代、婚礼は人生の一大行事であり、祝宴は1週間以上も続いたと言われます。現代の結婚式の披露宴は平均3時間ぐらいでしょうが、豪華な食事をいただき杯を傾けながら、お祝いの時を過ごします。披露宴は喜びの雰囲気で満たされ、新しく歩み出す二人を祝福する思いに包まれています。披露宴の席は、何も食べず、何も飲まない「断食」とは対極にある場所です。

主イエスは、「わたしが来たことによって、今あなたがたは婚宴の席、断食など思いもよらない喜びの宴に招かれたいるのだ」と宣言されているのです。花婿は旧約聖書の時代から主なる神様を表わす言葉でありました。主イエスはこの福音書の冒頭で、「時は満ち、神の支配は近づいた」(マルコ1:15)と宣言されました。主イエスがこの世界に来られたことで、主イエスを通して神様ご自身が到来されました。そして神の国・神のご支配は今や完成に向かって進んでいるのです。そのことを知らされている信仰者にとってなすべきことは、苦悶の表情を浮かべて「断食」をすることではありません。そうではなく結婚式の披露宴に招かれた客のように、何よりも喜ぶことなのです。

先々週の箇所で、徴税人レビの用意した食卓に主イエスとその一行が客となって来てくださいました。丈夫な人ではなく病人を、正しい人ではなく罪人を御国に招いてくださる主イエスを食卓にお迎えしたのです。その場にいた徴税人レビたち、罪人と言われていた人たちは、どんなに大きな喜びに包まれたでしょう。主イエスの示してくださった愛と憐みに、どれほど心打たれたでしょう。それと同様、私たちのもとにはこのイエス・キリストが来てくださっているのですから、私たちは何よりもそのことを喜ぶのです。すべてのことはこの喜びから始まっていくのです。

ただしキリスト教会は、その歴史において「断食」をまったくしなかったかと言うと、そうではありません。主イエス御自身が荒れ野で40日40夜サタンの試みに遭われた時に「断食」されています。また使徒言行録には、使徒を選ぶ時や使徒を伝道に派遣する時に、初代教会の信徒たちが「断食」して祈ったという記事が出てきます。また、主イエスは今日の20節で「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」と言われています。初代教会においても、イエス・キリストが十字架で苦しまれ、死を遂げられたことを覚えて「断食」する習慣があったことを、聖書註解者たちは記しています。私たちがレントの時、受難節の時を、主の十字架の苦しみを想起して過ごすように、初代教会のキリスト者たちも「断食」をして、自分の罪を悔い改めたのでしょう。しかし、イエス・キリストが到来されたことによって、「断食」という敬虔を表わす行いは、今や全く違ったものになったのです。

敬虔さを表わす「断食」は、主イエスが到来した今、どのようなものとなったのでしょう。「断食」について述べている2つの聖書箇所から考えて見ましょう。一つはマタイによる福音書6章16~18節です。ここは主イエス御自身が「断食」について教えておられるところです。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

主イエスの時代、本来神の前に自分の犯した罪を悔いて悲しむために行われていた「断食」は、人に見せるためのものになっていました。自分が他の人よりどれだけ敬虔かを誇るために、「断食」が行われていました。顔を歪めて苦しさをこらえて週に何度も「断食」をすることで、周りの人々から賞賛を受けていました。そんな「断食」はもう人間から報いを受けている。神様から報いを受けることはできない。もし神様から報いを受けたいと思うなら、「断食」していることが周りの人に分からないようにしなさい。隠れたところでしなさいと言われるのです。「断食」は今日の信仰者には、「祈り」、「奉仕」、「献金」などに読み替えることができるでしょう。そうした信仰の表現である行為は、人に見せびらかすものでも、人と競うものでもありません。主イエス・キリストのゆえに「アバ、父よ」と呼ぶことのできる父なる神様が、私たちを見てくださっています。父なる神様は、私たちのどんなに小さな信仰の行為をも、あたたかく喜んで受け入れてくださいます。「この御方にだけ見ていただければ、それでよい。父なる神様だけに見て頂きなさい」と、主イエスは言われるのです。

もう一つ、「断食」について教えられるのは、今日司式長老に読んでいただいた旧約聖書イザヤ書58章です。ここでは3節から8節をもう一度読んでみましょう。最初に当時のイスラエルの人々が問います。「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。」それに対する神様の応答が語られるのです。「見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。 

わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。」

 イザヤは、神の御言葉を語ります。あなたが自分に仕えてくれる人に暴虐な振る舞いをするなら、いくら敬虔な仕草で「断食」を行ったとしても、それをわたしは受け入れない。正しさや正義が踏みにじられるところでは、神は「断食」を喜ばれないのです。また、同胞が悪者に苦しめられ、虐げられている。食べる物も着る物もなく、苦しんでいる。そのような同胞に何の手も差し伸べないなら、いくら熱心に「断食」しても、わたしはそれを少しも喜ばない。愛を失った冷えた心で行われた「断食」を、神は受け入れようとはされないのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されました」(ヨハネ3:16)。イエス・キリストは、私たちすべての者を罪と死の縄目から解き放つために、十字架にご自身を捧げられました。その主イエスに従う弟子たちの信仰の行いも、主イエスに倣うものでなくてはなりません。「祈り」、「奉仕」、「献金」といった信仰の行為も、正義を行うこと、愛の手を差し伸べることと何の関わりもないところで捧げられるのなら、神様がそれを喜ばれることはないのです。しかしそれとは反対に、イエス・キリストが到来され今わたしたちと共におられるという喜びの中で、正義を行うこと、愛の手を差し伸べる方向へと少しでも進んで行くなら、神様は私たちの捧げる信仰の行いを喜んで受け取ってくださるのです。そしてその行為によって私たち自身が癒されていくのです。

さて、今日の箇所の21節以下には、二つの小さなたとえが語られ、その二つは同じ一つのことを教えています。それは、新しいものを受け入れるためには、古いものでは間に合わない、役に立たないということです。新しい布切れで古い服を繕っても、縮んだ布切れに引っ張られ、服は破れてしまします。新しいぶどう酒を古い革袋に入れても、新しいぶどう酒は発酵して、古い革袋をダメにしていまいます。新しいものを受け入れるには、受け入れる側も新しくされなくてはなりません。新しいものとは、救い主イエス・キリストの到来と神のご支配の始まりです。人類がかつて経験したことのない、その新しい救いと喜びを受け入れるために、受ける側の私たちも新しくされる必要があるのです。古いものにこだわり、前例を踏襲して安心しようとする私たちです。しかしイエス・キリストの救いと喜びを、心から受け入れることができるように、聖霊によって絶えず新しくされていく私たちでありたいと思います。お祈りします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も色んな仕方で敬愛する兄弟姉妹と礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。神様、私たちはあなたに様々な敬虔な行いをお捧げいたします。しかしそれはあなたや周囲の人々に評価してもらうためではありません。主イエスによってあなたご自身が到来し、御国が完成へと向かっている喜びの中で、感謝の応答として捧げるものであります。どうか、その大きな喜びの中で、一つ一つの業を行わせてください。昨日、長く教会員として教会に仕え、主にある交わりを結んでくださった鈴木充子さんが、あなたの御許に召されました。どうぞ、姉妹をあなたの全き平安の内に憩わせてください。ご遺族の上にあなたの慰めと平安を与えてください。残暑の厳しい日が続きます。どうか兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。この拙き感謝と切なる願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。