ルカによる福音書6章27節~36節 2023年8月13日(日) 主日礼拝説教
長老 山根和子
今日のテキストで、イエスは「敵を愛せ」と命じられました。主の教える愛について学びを深めたいと思います。
主イエスは、27-28節「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と命じられます。ここに敵への愛について三つの方法が示されています。それは、憎む者に対しては親切にすること、悪口や呪いについては祝福をすること、侮辱する者に対しては執り成しの祈りをすることです。主イエスは、この世を支配する原則に対して、同じ原則で対抗するのではなく、この世の力とは、相容れない、神の国の自由な愛をもって対応する事を求められます。
でも、わたしたちは、悪口を言われれば、相手への悪感情が増し、侮辱されれば、それ以上に相手を貶めたくなります。打たれれば、打ち返し、奪われれば、奪われた以上に取り返したくなります。これが、わたしたちの本性ではないでしょうか。
わたしたちは、自分を愛してくれる人を愛し、自分によくしてくれる人に善いことをし、返してもらうことを当てにして貸す者たちなのです。わたしたちは、愛を得るために人を愛し、親切を受けるために人に善いことをし、利益を見込んで人に貸し与えることを行っているだけにすぎません。恩には恩で報いる原則、恩返しであり、返礼でしかありません。すべて自分のために愛するのであり、見返りを求めて親切にし、貸すのです。自己の利益を求めているだけで、そこに神の恵みに値するものは何も見いだすことはできません。わたしたちの自己中心的な生き方に気づかされます。しかし主の教える愛は、自己中心とは反対のことなのです。わたしたちが行っている愛と、主の教える愛とは、あまりにもかけ離れているのです。
主イエスは、35節「敵を愛しなさい。人に善いことをしなさい。何もあてにしないで貸しなさい」と命じます。敵をも愛する制限のない、無条件で、徹底的な愛を教えられます。
敵に対する愛とは、自分のためにではなく、他者のために生きるということです。自分を放棄し、他者の利益を願うのです。わたしたちは、自分の愛する人のためには、自分を犠牲にして生きることができるかもしれません。しかし、主イエスの教える愛は、憎しみ呪う敵のために自分を捨てて、相手を生かそうとします。侮辱を受けるというだけの消極的なものではありません。罪を犯す者を救おうとする積極的な行動となります。主イエスは、わたしたちに、他者のために神のみ心にかなう善いことをしなさい、何も当てにしないで貸しなさいと勧めるのです。
そうすれば、神からの報い、交換原則によってではなく、神からの自由な恵みがあるに違いないと言われます。神は、恩知らずにも、悪人にも、情け深い方だからです。神は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる方なのです。だから「あなたがたの父なる神が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と命じられます。
ここで、旧約聖書のヨナ書を見てみましょう。4章1節に、ヨナはそれが大いに不満で怒ったとあります。それとは何か、前章までの流れを振り返りつつ見てみましょう。
神はヨナに、大都市ニネベに行って、主の言葉を語れと命じられます。ニネベは、神の民イスラエルを悩まし、苦しめているアッシリアの首都です。神は、ヨナに敵対するニネベに一人赴き、悪を告発することを命じました。しかし、ヨナは、恐ろしかったのでしょう。神の言葉に従うことを嫌って、神の命令に背きます。ヨナは、神の支配から逃れられると考えたのです。人は、自分の力を信じる時、自分が主となり、神に従わないのです。ヨナは、神に命じられたニネベとは反対のタルシシュに向かう船に乗り込みます。その結果、嵐の海に投げ込まれ、ヨナは魚の腹の中に閉じ込められました。命の危機に瀕した時、ヨナは、神に助けを求めて祈ります。悔い改めの祈りです。神は、この祈りを聞き入れ、彼を救われます。ヨナは、自分自身の判断で生きていけると考えましたが、神の支配からは逃れられず、強制的に神のみ言葉に仕える者とされました。
神はヨナをニネベの町に送り、主の言葉を告げさせます。それは「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」という災いを告げる言葉でした。ヨナは、悪がはびこる町に神の裁きを告げて回ります。すると、ニネベの人々は、神の言葉を信じたのです。ヨナの予想に反して、ニネベの人々は神の言葉を聞いて、すぐに悔い改めました。神は、ニネベの人々が悪を離れ、心から悔い改めたのをご覧になって、災いをくだすことを思い直されました。これが3章までのいきさつです。
ヨナは、ニネベを滅ぼすことを思い直された神の寛大さに対して激しく怒ったのです。ヨナは、神が恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとして思い直される方であることを知っていました。この神の憐れみが自分の仲間であるヘブライ人に対して与えられるのならば、ヨナは、共に喜び神に感謝したことでしょう。しかし、この恵みは、神の法を知らない、また守れない異邦人に与えられました。ヨナは、ニネベの人々に宣告した災いが撤回されたことに不満なのです。ニネベの人々は、神の好意を受けるに相応しくないとヨナは考えたからです。
ヨナは、神の偉大な愛を認識していたにもかかわらず、ヘブライ人としての選民意識にとらわれて、狭い民族愛から抜け出ることができません。ニネベの人を生かそうする神の良い業を見ても喜ぶことができません。それどころか、「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているより死ぬ方がましです。」と神に怒りをぶつけるのです。
不服を述べるヨナに、神は「お前は怒るが、それは正しいことか」と問います。反省を促される神の問いかけにヨナは答えません。ヨナの態度はかたくなです。ヨナは、都を出て東の方に行き、座り込みます。そして、仮小屋を建て、日差しを避けてその中に座りました。ヨナは言葉ではなく、態度で神に反抗するのです。40日後、どうなるか、ニネベの行く末を見届けようとします。ここに、ニネベの滅びを期待して座り込むヨナの頑固な姿が浮かびあがります。
神は、神のみ心を求めず思い違いをしているヨナを、体験を通して、神の真実の愛に目覚めさせようとします。強烈な日差しの中、仮小屋に座るヨナのために、神は「とうごまの木」を生えさせ、日陰を作られます。ヨナは、それを喜びます。ところが、主は、虫に命じて、一夜にして、「とうごまの木」を枯らしました。その上、東風を吹きつけさせ、ヨナを苦しめます。東風とはニネベに特有の草木を枯らし、人間の思考さえ失わせるほどの熱風です。頭上に照り付ける直射日光を遮るものもなく、熱風まで吹き付けてきました。ヨナはぐったりして、生きているより死ぬ方がましだと弱音を吐きます。涼しい木陰を作ってくれていた「とうごまの木」を失い残念でなりません。
これを聞いて、神はヨナに言われます。10節「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。
神は、神に背く民をも愛されます。神は、ニネベをその繁栄と偉大さのために惜しまれたのではありません。右も左もわきまえない人々の命を何よりも憐れまれ、惜しまれ、救われるのです。罪を犯す者を救おうとする愛です。
主イエスは、貧しい人、虐げられている人、弱い人、異邦人、罪人のためにこの世界に来てくださいました。神は、資格のない者、右も左もわきまえない者を救うために主イエスをこの世界に送ってくださったのです。神の深い憐れみ、慈しみは、人には、はかり知ることはできません。それは敵をも愛する愛だからです。神の愛は、わたしたちの思いをはるかに超えて大きいのです。神は、分け隔てなく一人一人を価値ある存在として愛しておられます。そして、神は、主イエスによって、すべての人々を救われるために今も働かれています。主イエスによる神の救いにおいては、人間の側から主張すべき何らの権利はありません。それにもかかわらず、神の側から自由に与えられる愛と、救いの御業は、すべての人に差し出されています。
かたくななわたしたちは、神の救いのご計画をなかなか理解することができません。そのため、ヨナのように、主の恵みの業に、戸惑い、悩み、苦しむことがあるかもしれません。たとえそうであっても、それは無駄にはならないと思えるのです。神を信じ、人とかかわり続ける中で、わたしたちは主の御旨を知らされ、変えられていくからです。
わたしたち一人一人の力は、小さく、わずかなものです。取るに足らない者であります。一人の力でこの世界を変えることはできないでしょう。しかし、一人一人の力が、何も生み出さないわけではありません。神は、右も左もわきまえないわたしたちだからこそ、み言葉によって導いてくださるからです。わたしたちはこの神に望みをおき、自分のすべてをかけて従うのです。主の十字架を仰ぎ見つつ、慈しみ深い主に信頼して、平和を、真実を、良き未来のために祈りつつ行動するのです。救いは主にあります。何の力もないと嘆き、諦めるのではなく、このわたしを生かし、用いてくださる主イエスに信じ従うとき、この世界は確かに変えられていくのです。
信仰は、聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まります。この主に信頼して従っていきたいと思います。
祈り
父なる神様、いつもみ言葉によってわたしたちを導いてくださり感謝します。
どうか、わたしたちに向けられている、あなたの愛に気づかせてください。
わたしたちがあなたの愛の恵みに応えて、御心にかなう良き働きができますように、互いに支え合い、祈り合う者たちをなさせてください。
戦後78年を迎えます。平和を築き上げる努力を怠らないように、わたしたちを励ましてください。争いのない社会を作り出す知恵と力を与えてください。
連日の暑さで体を弱らせている一人一人の健康をお守りください。
主イエスキリストの御名によって祈ります。