マルコによる福音書2章1~12節 2023年7月30日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
「四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」。病気の人を主イエスのところに連れて行こうとする人々がおりました。病人を連れて行こうとしますと、群衆がいっぱいいて、なかなか主イエスのところに行くことができませんでした。彼らは屋根にのぼり、穴をあけて病人を主イエスの前につり降ろしたと書かれています。信仰というものには、妨げがあるということを示唆している出来事ではないかと思います。神に近づこうとすると、そこに妨げが入ってくるのです。あるいは、祈ろうとすると、そこになんらかの妨げが入ってくるということです。四人はその妨げを突き抜けて近づいて行きました。自分たちと共にいる病気の友人のために、その妨げを越えて、主イエスのところに行ったのです。屋根がどんな屋根であったか詳しいことは分かりませんが、おそらく当時の建物からしますと、フラットな屋根であっただろうと思います。そして、家の外側には、屋根の上にのぼる階段がついていたようです。彼らはそこからのぼって行って、群衆のために近づけないので屋根をこじあけたのであります。
「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と、言われた」。「その人たちの信仰を見て」と書いてあります。そしてこの中風の人を癒されたということが最終的に言われているのです。その信仰というのは何かと言えば、おそらく困難を越えて近づいて行く信仰のことでありました。信仰というものはさまざまな困難を越えて近づいて行くところに、表われてくるのです。困難、妨げるもの、それは、人々の群れでありました。世間の常識がある場合には、困難ということであるかもしれません。あるいは、この世の騒がしさが信仰を妨げる困難であるかもしれません。そういう妨げを越えて行った人々の信仰というものに対して、主イエスは答えられたのだと聖書は言っているのです。つまり、信仰というものは妨げを突き抜けて、初めてそこで、生きたものとして証しがなされるのであります。
人々は、床のままで病める人を、主イエスの目の前につり降ろしました。ずいぶん乱暴なやり方です。彼らは自分たちの困難を主イエスの前に、言わば突き出したのです。ありのまま突き出した。自分たちの今、悩んでいる課題、痛みというものをそのまま主イエスの前に突き出したのです。そこには体裁も、礼儀もありませんでした。実に不躾なやり方で主イエスの前に、病人を連れて行ったのです。しかし、主イエスは彼らの求めに答えられました。なぜならば、主イエスとの交わり、出会いというものは、そういう仕方で生まれるからです。私たちの抱えている問題や、痛みや苦しみが、そのまま持ち出される。そこから、救い主との交わりというものは始まるのです。それがなければ始まらないと言わなければなりません。私たちが日々担っている重荷や課題、それを持って私たちは、神に、救い主に出会っていくのです。それなしに、私たちが神に出会う道というものはありません。何か、いろいろ考えて結局、神がいるんじゃないか、というふうなことではないのです。自分が担っている課題を背負って、そしてそれを突き出して行くという中で、私たちは救い主に出会って行くのです。神は私たちの声を聞くことを求めておられるのです。私たちのぎりぎりの声を聞くことを、神は待っておられる。その一点から神との出会いは始まるのです。
主イエスは、「彼らの信仰を見て」と言われています。彼らの信仰です。病気の人の信仰というのではありません。病気の人を連れて来た人たちの信仰とも考えられますし、あるいはこの病気の人を含めて、五人の人たちの信仰のことを指しているのかもしれません。この人々の信仰を見て、主イエスはその信仰に答えられたというのです。一人の病人に答えられたというよりも、五人のこの人々の求めに答えられたのです。
この人々は問題のない人々のグループではありませんでした。健康な人々だけが集まっているグループではありませんでした。病気の人たちを自分たちの中に抱えこんでいる、そういう共同体でありました。病める人の痛みを自分たちの痛みとして、病める人の課題を自分たちの課題として担っている、そういう交わりでした。彼らは自分たちの中に一人の病める人を抱えこみ、担い、その人のために行動し、その人のために声をあげ、そしてキリストに近づいたのです。主イエスはその人々の求めに答えられました。つまり、主イエスはこの中風の人を癒されることによって、この五人の人たちの共同体全体に答えられたのです。
この病める人というのは、このグループの誰でもありうることでした。この時にはこの人であり、別の時には別の人が病むということがある。ある時にはある人が弱り、他の時には別の人が弱るということがありうる。ある時にはこの人が困っており、ある時には他の人が切羽詰まるということがありうるものです。その弱さを共に悩みながら、その痛みをいっしょに痛みながら、共に重荷を負い合い助けを求めて行く。そうしていっしょに癒されて行く。それが共同体です。それが信仰の共同体であります。
聖書はこの共同体のことを、別のところでは「体」というふうに言っています。私たちは「体」だと言っています。ある者は「体」の手であり、ある者は足であり、ある者は目であり、ある者は口だ。その「体」のひとつが痛めば他もいっしょに悩む。そういう「体」だと言うのです。一つの「肢体」の調子が良くなれば「体」全体が喜ぶ。それが人間の共同体だと、聖書は言うのです。つまり、人間は、そのようにして一人一人として神の前に生かされて行くのではなく、一つの共同体として神の前に生かされ、そして神の前で癒されて行く存在だということです。どうしてこんな重荷を自分たちが背負わなければならないかと、私たちは思うかもしれない。しかしそうではない。それを担って行く中で、自分たちが癒されて行く。そういう形でしか、人間というものは、神によって癒され得ない存在だということを知らなければなりません。自分だけ癒されるなんてことはありえない。いっしょに重荷を担い合いながら、いっしょに課題を担い合いながら痛みを背負いながら、そして共にそこで癒されて行く。そこに、神の前に生きる共同体があるのであります。
主イエスの癒しの言葉は、こうでありました。先ず「あなたの罪はゆるされる」ということであり、「起きて歩け」というものでした。赦されるということは、言うまでもなく神に赦されるという意味です。あなたの罪は神に赦される。神に受け入れられる。こういった時に人の赦しのために重荷を負う、十字架を負うという主イエスの決意がこめられているのです。キリストが赦すと言われた時には、背後にキリストの苦難があることを忘れてはなりません。人は赦され、そして受け入れられて、初めて歩くことができるのです。だから「赦された」と言い、「起きて歩け」と言われるのです。赦されたから、あなたは神に受け入れられているから、自分らしく起きて歩いて行きなさい、と。
子どもは自分を愛してくれている人、自分を受け入れてくれる人の前で、真に子どもらしく振る舞うことができます。子どもらしく遊ぶ。しかし、知らない所で誰かに監視されたり、監督されたりしている状況の中で、子どもは子どもらしく振る舞うことはできません。萎縮をしてしまうのです。
聖書の中に、タラントンの話があります(マタイ福音書25:14~30)。主人が旅に行く時に、僕たちにお金を預けます。ある者には五タラントン、ある者には二タラントンを預ける。たくさんのお金です。そして、ある者には一タラントンを預けて旅に出ます。五タラントンを預かった者は、その五タラントンで、主人がいなくなった間に商売をして五タラントンを儲けた。しかし、一タラントン預けられた人は、それを土の中に隠しておいた。主人が帰って来た時に、それを土から出してきて、主人に返したというのです。主人は、彼をこの屋敷から追い払えと言って、彼を排除するわけですが、その時に一タラントン預けられた人が言った言葉があります。こう言ったのです。「あなたが、過酷な人で、まかないところから刈り、散らさないところから集めるような残酷な人だと知っていたから、この預けられたお金を土の中に隠しておいたのです。そのまま、ここにあります」。
このことは、私たちにたいへん重要なことを教えていると思うのです。主人が監視している、主人は自分を監督している。採点をしているとしか思えない時に、人は生きられないのです。自分が何か意地の悪い神か運命のもとで生かされているとしか思えない時に、私たちは生きることはできないのです。何をしても失敗するかもしれないと、恐れなければならない、失敗したらどうしようかと恐れなければならない。五タラントン預けられた人も、二タラントン預けられた人も、彼らは商売をしたと書いてあります。商売というものは、失敗をするかも知れません。失敗をする危険があります。しかし、彼らは失敗を恐れませんでした。主人が自分たちに任せてくれていると思ったから、彼らは疑わないで、失敗を恐れないで、この自分に与えられたタラントンを働かせたのです。失敗を恐れず、自分らしく生きる者が、人生の収穫を得ることができるのだと聖書は言っているのです。びくびくしながら、何かを恐れながら生きているかぎり、私たちは、何もこの人生から収穫を得ることはできない。あのたとえ話は、そのことを私たちに伝えているのです。
主イエスは言われました。「あなたの罪はゆるされる、だから起きて歩きなさい」。あなたは、神に受け入れられ、赦されているのだから、だからあなたらしく生きて行きなさい。赦された者として、神を信頼して、自分の足で歩いて行きなさい。意地の悪いまなざしのもとにあるのではない。イエス・キリストによる赦しのうちに、祝福のうちに、私たちの命は今あるのです。それ以外ではない。だから失敗を恐れないで、自分の足で歩いて行きなさい。自分らしく歩いて行きなさい。そのために私たちは救われているのです。びくびくしながら生きるためでなく、私が私らしく生きることのできるために、私たちは神のもとに引き寄せられているのです。私たちはそういう命に今、生かされているのだということをぜひ覚えたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に、教会においてあるいはネットを通して礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。中風の友達を主の目の前に運んできた人たちの出来事を通して、私たちは信仰に生きる共同体のあり方を示されました。私たち教会も、様々なことが起こります。群れの中に病気に苦しむ兄弟姉妹があり、大きな困難に立たされる兄弟姉妹があります。そしてそれは私たちの誰にでも起こることなのです。神さまどうか、私たちの教会がそのような悩みや苦しみを共に担い合うことができますよう、導き強めていてください。群れの一人が癒されるために心を合わせて祈り、そのことを通して群全体が健やかにされていくことができますよう、支えていてください。前例のないような猛暑の日々が続いています。どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお守りください。この世界にあなたにある平和をもたらしてください。このひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して、お捧げいたします。アーメン。