マルコによる福音書1章21~28節 2023年7月2日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
「一行はカファルナウムに着いた」(21節)とあります。主イエスと先週の箇所で弟子になった4人のことでありましょう。カファルナウムは縦長のガリラヤ湖の一番北に面した町で、当時は相当賑わっていたようです。税金を徴収する収税所があり、ローマの士官たちもここに駐在していました。主イエスは故郷ナザレを去って、この町を福音宣教の根拠地とされることになります。
21節に「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた」とあります。会堂・シナゴークは、ユダヤ人の居住するあちらこちらの場所に建てられ、ユダヤ人の教育と安息日に行われる礼拝のために使用されていました。会堂には会堂司がおりまして、会堂の維持管理だけでなく、安息日の礼拝を準備しそれを進行する務めも担っていました。安息日の礼拝は土曜日に行われ、祈りを捧げ、聖書朗読がなされ、礼拝に出席した者が会堂司の促しを受けて、聖書を注釈して会衆に語っていたと言われます。そうした聖書の注釈は、多くの場合、律法の専門家である律法学者が行っていたのでしょう。しかし、この日は主イエスが会堂司に促されて、会衆に聖書の御言葉を解き明かしたのでした。
すると、どうでしょう。「人々はその教えに非常に驚いた」(22節)とあります。この「驚いた」という言葉は、「驚嘆する」、「腰を抜かすほど驚く」という強い意味を持っています。聞いていた聴衆は、度肝を抜かれるような衝撃を受けたのです。どのような教えだったかは書かれていませんが、それは「神の国の福音」、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)を説くものであったでしょう。
しかし会衆が驚嘆したのは、内容よりも主イエスがどう語ったかにありました。
「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(22節)とあります。律法学者と主イエスでは、語る態度やその印象において決定的な違いがあったのです。律法学者は聖書の専門家です。当時の聖書の中心である律法を熟知していたのは勿論ですが、その律法について過去の偉大な学者たちがどのような見解を述べているかも知っていました。「偉大なラビ○○は、この聖書の箇所についてこう述べている…」と、会衆に語りかけました。彼らは過去の偉大な教師たちの言葉を引用して、自分の言葉の権威を示しました。私たち牧師の語る説教も、ある聖書註解者が指摘しているように、本質的には律法学者の言葉とそれほど変わるものではありません。
しかし、主イエスはそうではありませんでした。主イエスは「権威ある者」として教えられました。主御自身を越える権威を必要とされないかのように語られました。まったく独立して語られました。伝承に寄りかからず、専門家たちを引用されませんでした。主イエスは神の声の究極性をもって語られました。人々にとって、そうした人から聞くことは天からの微風(そよかぜ)のようであったのです。
このように主イエスの教えに権威があったのは、なぜでしょう? それは、その教えが神の教えに由来するからでありました。ヨハネによる福音書7章16節で主イエスは、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」と述べておられます。律法学者たちは過去の教師たちの言葉を引用して、自らの言葉の権威を示しました。それに対して、主イエスの言葉は父なる神の教えそのものだったのです。
以前の箇所で学んだように、主イエスが洗礼を受けられた時、主は「…天が裂けて、〝霊〟が鳩のように御自分に降って来るのを、ご覧になりました」(1:10)。「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(1:11)のでした。御子イエス・キリストは、まったく新しい救いの時をもたらされました。かつてイスラエルには、神の霊が生き生きと働いていた救いの時がありました。その救いの時が、長い霊の枯渇期間を経て、ふたたび新しく始まりました。そのような神の霊に満たされた言葉であったがために、主イエスの言葉には権威があったのです。
さて、主イエスが御言葉を教えておられた時のことです。「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ」(23)のです。「汚れた霊」とは、当時の考え方によれば、神から遠ざかり、神に敵対する、目に見えない霊的な存在を意味していたようです。医学や生物学によって原因が究明できない時代のことですから、身体的な病、精神的な病は、このような「汚れた霊」によって引き起こされると考えられたのです。
この汚れた霊に取りつかれた人のことは、会堂に集う人々もよく知っていたに違いありません。会堂に集う信仰仲間の一人として、この人も一緒に礼拝を守っていた。この人の抱える状況が容易ならざることを痛感しながら、この人のために神に祈ることもしていたのではないでしょうか。ここには、神の御前に共に礼拝を捧げる信仰共同体の健やかな姿があるように思います。時として群れの仲間が容易ならざる状況を抱えて苦しむ時があります。その苦しみを、私たちは側(そば)にいてもどうしてやることもできません。自分の無力さを感じます。しかしたとえそうではあっても、私たちは困難の中にある信仰の友と一緒に、神の御前に立ち、イエス・キリストを通して神に礼拝を捧げるのです。この信仰の友の苦しみが少しでも和らげられることを祈りながら、礼拝を守り続けるのです。
この汚れた霊に取りつかれた男の人は、主イエスに向かって叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(24節)。こう叫んだのは、男の人に取りついていた汚れた霊・悪霊でした。悪霊はギリシャ語では複数形が使われており、悪霊たちがどれほど強力にこの人を支配していたかが分かります。そして悪霊たちは、「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と叫んで、主イエスが自分たちと関わるのを拒絶しようとするのです。それは悪霊たちが、主イエスのことを「神の聖者」だと見抜いていたからでした。「神の聖者」とは神御自身を表わしたり、神と特別な関係で結ばれている者であることを表わす言葉です。「神の聖者」である主イエスが、どんなに大きな力を持っているか、自分たちを滅ぼすことすらできることを、悪霊たちは熟知していました。恐れおののいていました。だからこそ、主イエスがこの男の人に干渉するのを何とか阻止しようとしたのです。
しかし、主イエスは悪霊たちがこの人を支配したままでいることを許されません。主イエスは人を神に敵対する者の支配から、神の恵みのご支配へと解放するために来られたからです。主イエスは、「黙れ。この人から出て行け!」とお𠮟りなります。この言葉は私たちに、主イエスがガリラヤ湖で舟に乗っている時、「黙れ。静まれ」と𠮟りつけて突風を静められた出来事(4:35~41)を思い起こさせます。主イエスは激しい突風をも静められる権威をもって、悪霊たちを𠮟りつけ、彼らをその人の外へと追放されたのです。その人を悪霊たちの支配から解放したのです。
この様子を見ていた人々、会堂に集まった人たちは、どんな反応を見せたでしょう。「人々は皆驚いて、論じ合った」(27節)とあります。人々が驚き、論じ合ったことは何か。その論点の中心は次のようなことでした。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(27節)。会堂にいた人々にとって、主イエスの新しい教えは、これまで彼らが経験したことのないものだったのです。
ここで使われている「新しい」という言葉は「カイロス」という言葉で、質的にまったく新しいことを示しています。しかし、これは人々が聖書の解き明かしによって、例えば律法学者から聞いたのとまったく違う内容の言葉を聞いた、というのではありません。そうではなく主イエスが何事かを起こさせる、語られた言葉が現実となる。そのような権威をもって語られたということです。そして、そのような権威ある言葉に触れたとき、会堂にいた人々は驚嘆し、悪霊たちはその人から出て行ったということなのです。言葉を換えて言うなら、主イエスの教えは律法学者たちのように単に聖書の言葉を解釈するだけでなく、ご自分の言葉を実現することのできる新しいものであったのです。
主イエスは、一体どうしてそのような「権威ある新しい教え」をお語りになることができたのでしょう。主イエスがこのような権威を持っておられたのは、先に申し上げたように、主イエスには父なる神によって聖霊が与えられていたからです(1:10)。主イエスは聖霊に満ちておられました。ヨハネの手紙 一 3章8節には、「…悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」と言われています。主イエスは「汚れた霊に取りつかれた人」に聖霊を送り込まれることによって、汚れた霊を追い出されたのであります。
私は今日の説教題を、「驚きを知る知恵」といたしました。会堂に集った会衆は今日の箇所で、権威ある者として語る主イエスの教えに非常に驚きました。そして権威ある者として語られた主イエスの言葉が、汚れた霊をも追い出すのを見聞きして、彼らは驚いたのです。これはまさに、神の国が到来した最初のしるしでありました。
この会堂で起こった驚きが、同じように起こるべき場所が私たちの教会なのです。私たちは主イエスを頭とするこの体なる教会において、主イエスの言葉を権威ある、質的に新しい言葉として聞くことができます。また、人をがんじがらめにし、支配している状態から解き放つ恵みの出来事を引き起こす言葉として、主イエスの言葉を聞くことができるのです。
勿論最初に語りましたように、牧師の語る言葉がそのまま、権威ある言葉、質的に新しい言葉になるというのではありません。牧師はかの律法学者のように、先人が聞き取った聖書の御言葉やそれに応答した信仰告白の言葉を、会衆の皆さんに語ることしかできません。精いっぱい心を込めて語ることしかできません。
しかし、2000年以上前のペンテコステの時から、聖霊の風は常に教会に吹き続けています。風を帆いっぱいに受けて前進する帆船のように、教会は聖霊の風を受けて前進することができます。そして、イエス・キリストを証しするこの聖霊の働きを、教会が開かれた思いで受け取っていくとき、聖書の御言葉は権威ある御言葉、質的に新しい御言葉、私たち信じる者たちを驚かせる御言葉となるのです。これこそが私たちの教会にとって必要な「驚きを知る知恵」なのです。
「これは、いったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ」。そのような驚きと感謝をもって御言葉を聞くことができるよう、心を一つにして礼拝を守り、主の聖餐に与っていきたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを崇め、礼拝することができて感謝です。この教会という群れの中で、祈りと讃美を捧げる礼拝の中で、あなたは説教を通して語られる言葉を、あなたの御言葉として語ってくださいます。どうか聖霊の働きを切に祈りつつ、礼拝を守る群として私たちを育て導いていてください。今、群れの中である病床にある兄弟姉妹、高齢のために困難を覚えている兄弟姉妹、人生の大きな試練に立たされている兄弟姉妹を、支え励ましていてください。このひと言のお祈りを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。