心に触れる言葉で

2023年6月18日(日)主日礼拝説教   ルツ記1章19節~2章17節

藤田浩喜牧師 

     

ナオミは、息子の妻ルツを連れて、エルサレムに帰ります。10年以上の歳月が経っていたのでしょう。二人の帰郷に対して、「町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけた」(19節)とあります。10年以上の歳月とモアブの地での多くの苦労が、ナオミの外見の姿を大きく変えたとしても不思議ではありません。女たちは恐る恐る声をかけたのでしょう。

ナオミは女たちに応えて、こう言うのでした。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目にあわせたのです。出て行くときには、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです…」(20~21節)。ナオミは自分の名前が表す意味と、彼女の置かれている状況が真逆であるのを嘆き、自分の今の状況に見合った名前、マラ(苦い)という名で自分を呼んでほしいと言います。名前というのはその人自身を表すものではありますが、彼女は自分を失ったような状況にありました。欠けがいのない夫と二人の息子を異郷の地で失い、彼女は空っぽであり、虚ろでした。彼女は自分が生きている意味や目的を、見出すことができませんでした。そして、彼女をそのような状況に突き落としたのは、全能者である神だと公言してはばからないのです。ナオミは自分自身の人生にも、自分が信じてきたヤハウェなる神にも、絶望してしまったのです。ナオミのような経験は、たとえ信仰者であったとしても、無縁なものではないでしょう。

二人がエルサレムに帰ってきたのは、「大麦の刈り入れの始まるころ」(22節)でした。3月から4月頃でしょう。長い歳月留守をしていたので、家も土地も荒れ果てていたに違いありません。畑があったとしても、使える状態ではなかったでしょう。それでも、二人は生きて行かねばなりません。霞を食って生きていくわけには行きません。そこでルツは、何とか日々生きていくための食べ物を得ようと、落ち穂拾いに行くことを、しゅうとめに申し出るのであります。「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」(2章2節)。貧しい人やみなしご、寡婦がその日を何とか食いつないでいけるようにと、古代イスラエルでは、収穫の時、落ち穂を残しておくことが、レビ記などの律法に定められていました。神から与えられたすべての収穫を自分のものとせず、落ち穂は貧しい人たちのものとするように、定められていました。ルツがしゅうとめのナオミと生きていくためには、落ち穂を拾いに行くしか術がなかったのです。ただ、ミレイの描く絵のように落ち穂拾いが牧歌的なものであったかというと、そうではありませんでした。邪魔にされたり、疎まれたり、心ない言葉を浴びせられたりすることを、覚悟しなければならなかったのです。

ルツが落ち穂拾いに行った畑。それはナオミの夫エリメレクの一族のボアズの畑地であったと、記されています。聖書も記しているように、ルツは「たまたま」(3節)ボアズの畑に行ったのです。2章1節から3節の間に、エリメレクの親族であったこのボアズのことが2度も言及されており、このボアズが第三の登場人物として、大きな役割を果たすことが暗示されています。

しかし、ナオミもこの「有力な親戚」(1節)、イスラエルに多くの畑地を持つ裕福なボアズのことは、忘れていたようです。2章20節で、ルツがその日の出来事をナオミに報告した時に初めて、「その人はわたしたちの縁続きの人です」と思い出しています。こんな裕福な親戚がいるのなら、最初からボアズに頼ればよかったのにと、私たちは思うかも知れません。しかし、人は本当に追いつめられた時、視野が極端にせばまってしまいます。限られたところにしか目が行かず、生きる手だてを見いだせなくなってしまいます。テレビの報道などで、ある老夫婦が食べる物もなく餓死してしまったなどという話を聞くと、「この飽食の日本でなぜ?」、「だれかに助けを求めることもできただろうに」と、不思議に思います。しかし、人が本当にせっぱ詰まってしまうと、他の手だてを考える余裕をなくしてしまいます。どうしようもないと、思い詰めてしまいます。だからこそ、周囲の人たちが困難な状況にあると思われる人たちに、どれだけ関心を向け、思いを届かせているかということが、問われているのだと思います。

さて、畑地の様子を見に来たボアズは、落ち穂を拾っているルツに目を留め、農夫の監督をしている召使いの一人に尋ねます。「あの若い女は誰の娘か」(5節)と。見かけたことのない娘だったので、気になったのかも知れません。召使いは次のように答えます。「あの人は、モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘です。『刈り入れをする…』と願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いておりましたが、今、小屋で一息入れているところです」(6~7節)。監督をしていた召使いは、その娘がモアブの地からナオミと一緒に戻ってきたモアブ人の娘だと、報告しました。召使いは、ルツの働きぶりに感心していることが、伺えます。しかし「モアブの野」、「モアブの娘」と、二度繰り返しています。そのことからも、召使いが好奇の目で、どちらかというと蔑みの視線で、ルツのことを見ていることが分かります。「自分たちの日常生活の中に、異質な存在が紛れ込んでいる、なんでよその国の女が落ち穂拾いなどをしているのか」。そのような思いが、召使いの言葉には滲んでいるように思うのです。

それに対し、ボアズはルツにどう接したでしょう? 8節以下で彼は、ルツにじかに声をかけています。「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。…若い者には邪魔をしないように命じておこう。…」(8~9節)。先ほど述べましたように、イスラエルには貧しい人が落ち穂を拾える制度がありましたが、それは牧歌的なものではありませんでした。からかいの言葉や蔑みの言葉、罵倒の言葉が浴びせられることも少なくありませんでした。しかもルツは、同じ民族に属さないモアブの女です。畑を渡り歩いて落ち穂を拾う彼女が、どんな目に遭わなくてはならないかは、容易に想像ができます。それを知っていたボアズは、自分の所有する畑だけに行って、落ち穂を拾うように助言します。そして、喉が渇いたらいつでも水が飲めるように、若い者にも言っておくからと、彼女のために便宜をはかるのです。

ルツはその言葉に驚きます。落ち穂拾いの現実を覚悟していた彼女は、ボアズのあまりにも厚意的な言葉に、戸惑いすら感じます。彼女は顔を地に伏せながら、「よそ者のわたしにこれほどの目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのはなぜですか」と、問わないわけにはいかなかったのです。

それに対してボアズが言った言葉、それこそが今日のルツ記2章の中心であると、多くの注解者たちは指摘します。11~12節です。「ボアズは答えた。『主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように』」。

ボアズはかねてから、奇特な異邦の女性がいることを、噂で伝え聞いていたのでした。その女性は、夫が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしました。故郷に留まり、父母のもとに帰ることもできたのに、そうはしませんでした。しゅうとめを思いやって、見知らぬ国にまでやってきました。その異邦の女性が、自分の目の前にいることが分かった。だからこそ、そんなあなたに自分はできることをしてあげたいのですと、ボアズは言うのです。彼の心を打ったのは、ルツという女性の真心であったと、思います。悲しみに打ちひしがれ、生きることさえ苦痛になっているしゅうとめのナオミを、一人にしておくわけにはいかない。放ってはおけない。それはルツという人の真心であり、まさにイスラエルの神ヤハウェが、その民に示してくださった真心(ヘセド)に通じるものでありました。だからこそボアズは、モアブの女性であるルツの身の処し方に心を打たれ、自分もその真心に応えたいと、思ったのではないでしょうか。そしてボアズは、ヘセド(真心)そのものである神さまが、目の前にいるルツに豊かに報いてくださり、その御翼のもとに守り、支えてくださるように祈りました。彼女とそのしゅうとめを、ヘセド(真心)そのものである神さまの御手に、委ねているのであります。

このボアズの言葉は、ルツの心にも強く響いたようです。彼女は、こう答えています。13節です。「わたしの主よ…あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」ボアズの言葉がルツの心の琴線に触れ、心からボアズに感謝していることが分かります。彼女は、自分をよそ者という色眼鏡で見ないだけでなく、自分の思いを掬い取り、そこに真心を見てくれたボアズの言葉を聞いて、本当に嬉しかったのだと思います。それだけでなく、ルツの真心をイスラエルの神さまの真心(ヘセド)と響き合うものとして理解し、その神さまの祝福と守りの中に、自分としゅうとめを委ねてくれたボアズの言葉に、ルツは本当に勇気づけられ、励まされたのではないかと思うのです。それはルツの心に触れる言葉だったのです。

ただボアズの場合も、ルツのために大したことをしてやれる訳ではありません。ボアズは、今日のところでルツの落ち穂拾いのために便宜をはかっています。昼食の時には、ルツを呼び、酢に浸したパンと炒り麦をふるまっていますが、彼がしてやれるのは、これ以上のことではありません。落ち穂拾いの時期は長くても、約2ヶ月と言われています。いくら彼の畑で落ち穂を拾わせてやっても、やがてその時期は終わります。ルツとナオミには、その日の食物を確保するための厳しい闘いが待ち受けています。その意味では、少しのことしかできないのです。

それは、私たちもまた同様です。自分の周りにいる人たち、それが親しい友人や教会の仲間であったとしても、ほんの小さなことしかしてやれません。一時しのぎの、その場限りのことしかできません。でも私たちは、私たちの信じる神さまの真心(ヘセド)を知り、御子キリストによって表された神さまの慈しみを知っています。私たちは、この神さまの真心と慈しみに、気がかりな友や仲間を委ねることができます。その人たちのために、祈ることができます。そして、神さまの真心に響き合う、相手を思い遣る言葉を語って、友や仲間を慰めることができます。それはささやかなことではありますが、決して小さなことではないと思うのです。私は今日の箇所から、そのような励ましを受けたように思うのです。神さまの真心を心に深く覚えながら、私たちもその真心に少しでも生きる者として、新しい一週間を過ごしてまいりたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたを讃美し、御言葉の示しを受けましたことを感謝いたします。私たちには気にかかる友人や親しい者たちが多くおります。しかし私たちができることは小さなことでしかありません。自分たちの無力を思います。しかし私たちは御子を与えるほどに私たちを愛し、真心を示してくださったあなたの御手に、大切な者たちを委ねて祈ることができます。小さな業や言葉であなたの慈しみを伝えることができます。どうか、あなたを見上げつつあなたの御心を尋ねつつ、新しい一週間を歩ませてください。病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、試練の中にある兄弟姉妹を支えていてください。この拙きひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。