創世記18章1~15節 2026年3月8日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日読んでいただいた旧約聖書には、アブラハムとサラという夫婦が出てきました。彼らはイスラエルの先祖となる人たちです。神が彼らに与えた約束はこうでした。「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」(創世13:16)。私たちはその約束が後に、イスラエル民族として現実となったことを知っています。しかし、当時、アブラハムにはまだ一人の子供もいませんでした。
それから長い年月が経ちました。相変わらず、アブラハムとサラにはまだ一人の子供もいませんでした。そして、すでにアブラハムもサラも年老いていました。神の約束はどうなったのでしょう。今日お読みいただきましたのは、そんなある日の出来事です。
神様は天使をアブラハムのところに遣わしました。しかし、一目で天使とわかるような姿で遣わしにはなりませんでした。アブラハムに分からないように、三人の旅人の姿で、天使たちを遣わしたのです。
三人の旅人がアブラハムの住んでいた天幕(テント)の近くを通りかかりました。本当は天使なのです。しかし、アブラハムは知りません。アブラハムはどうしたでしょう。その旅人たちをとても親切にもてなしたのです。その様子が18章1節から8節にかけて書かれています。彼が旅人をもてなす姿が、極端と思えるほどに際だった形で描き出されています。
アブラハムは言いました。「水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください」(4・5節)。そう言って、アブラハムは旅人たちのためにご馳走を用意しました。そして、彼らが食べている間、そばに立って自ら給仕してもてなしたのでした。
その人たちが神の御使いだからではありません。アブラハムは知りませんから。恐らく普段からそのように旅人をもてなしていたのでしょう。天使に仕えるかのように、人々に親切に仕えることを常としていたのでしょう。そのような生活をもって、はからずも天使たちをもてなすことになりました。それはひいては神様をもてなしたということになろうかと思います。
イランのことに詳しい坂梨祥(さち)という方が、テレビでイラン情勢を解説されていました。その時、イランの家庭に招かれた際にふるまわれたご馳走の写真を紹介されていました。イランの人たちは、訪れたお客さんに対して食べきれないご馳走を出して、もてなしてくださるとおっしゃっていました。そんなイランの普通の人々が、一日も早く戦争の恐怖から解放されるよう祈るばかりです。
新約聖書にこんな言葉が書かれています。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」(ヘブライ13:2)。誰かのために何かをする時に、「なんでわたしがこんなことをしなくてはならないのか」と、不平を言いながら行うこともできます。しかし、「もしかしたら気づかずに天使たちに仕えているのかもしれない」と、思いながら行うこともできるのでしょう。ならば、仕え方もずいぶん違ってくるかもしれません。
さて、そのように神様から遣わされた、旅人の姿をした天使たちは、アブラハムの心のこもったもてなしを受けました。しかし、彼らは食事をしに来たわけではありません。神の御言葉を伝えにきたのです。
天使の一人が言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(10節)。アブラハムはこれを聞いてびっくりしたと思います。そして、気づいたに違いありません。この人たちはただの旅人ではない。この人たちは、「子孫を与える」と言われた神の約束を知っている。この人たちは、神の御言葉を伝えに来てくれたのだ、と。
しかし、神様の御言葉を信じることは、とても難しいことでした。アブラハムはすでに年を取っていましたから。とても男の子が生まれるとは思えません。それは、妻のサラも同じでした。サラもこの言葉を、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていました。そして、聖書にはこのように書かれているのです。「サラはひそかに笑った」。
この「ひそかに笑った」という言葉は、サラをとても身近に感じさせます。確かに、こういうことは私たちにもあるのでしょう。あからさまには笑わないのです。アブラハムもサラも、神様を信じている信仰者ですから。「そんなこと、いくら神様でもできないでしょう」と言って、笑い飛ばすようなことはしません。
でも、ひそかに笑うのです。「そんなことはないでしょう」、「そんなこと言ったって、現実はそう甘くはないですよ」。「信仰は信仰、現実は現実です」と、そう心の中でつぶやいて、ひそかに笑うのです。「サラはひそかに笑った」。サラの気持ちはよくわかります。
しかし、人間にとって「ひそかに」であっても、神様はすべてご存知です。彼らの一人が言いました。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。…」(13~14節)。それはまさに、すべてをご存知である神様の言葉でした。ですから聖書には、天使が言ったとは書いてない。「主はアブラハムに言われた」と書かれているのです。そう、主が言われたのです。
サラはドキッとしたことでしょう。神が語られるということは、すべてをご存知である神が語られるということなのです。そこで、サラは恐ろしくなりました。サラは偽りの後ろに隠れようとしました。彼女は打ち消して言います。「わたしは笑いませんでした」。しかし、もとより神様から隠れられるはずがありません。主は言われます。「いや、あなたは確かに笑った」。
教会生活の中で、神様との関わりの中で与えられる一つの経験は、神様は何もかもご存知だと実感するという経験です。「いや、あなたは確かに笑った」と聞いた時のサラのように。
しかし、すべてをご存知である御方は、恵み深い御方でもあるのです。「主に不可能なことがあろうか」という問いかけは、ひそかに笑ったサラの不信仰を責める言葉ではありませんでした。そうではなくて「信じなさい」という呼びかけに他ならなかったのです。ですから、サラのひそかな不信仰にもかかわらず、こう続けられているのです。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」(14節)。
「サラはひそかに笑った。」しかし、主はそんなサラに、本当の「笑い」を与えようとしておられたのでした。
主の約束のとおり、やがてサラはみごもって男の子を産みました。そして、その子は「イサク」と名付けられることになるのです。その名前は「彼は笑う」という意味です。その時にサラが口にした言葉が、後の箇所で次のように記されています。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑いを共にしてくれるでしょう」(21:6)。
サラは心から笑えるようになりました。神の御言葉を信じることができなくて、心の中でひそかに笑っていたサラでした。しかし、主は、そんなサラが神の御業を見て、心から笑えるようにしてくださいました。――「主に不可能なことがあろうか」。
それから1800年ほど経ったある日、神様は天使を一人のおとめのところに遣わしました。今度は旅人の姿ではありません。その天使の名はガブリエル。おとめの名前はマリアと言いました。ガブリエルはマリアに、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げました。いわゆる「受胎告知」の場面です。マリアは言いました。「どうしてそんなことがありまえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。するとガブリエルはこう言ったのです。「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)。
聖書が神の言葉として私たちに語っていることは、老人に子供が生まれることよりも、はるかに大きなことです。神の独り子が人間となりこの世に来られた、というのです。そんなことがあるだろうか。――「主に不可能なことがあろうか」。
それだけではありません。神の独り子が十字架にかかられ、すべての人の罪を代わりに負って死なれた。すべての人の罪の贖いは成し遂げられた。罪の贖いを成し遂げて死なれたイエスは、復活させられ、天に挙げられ、今も生きておられる。そんなことがあるだろうか。――「主に不可能なことがあろうか」。
本来何よりも不可能なことは、罪深い私たちが救われることなのでしょう。こんな私たちの罪が赦され、救われ、永遠の命を与えられ、死を越えた希望をもって生きられること。それこそ本当は不可能な、信じがたいことではないでしょうか。やがて罪と死から完全に解放されて、神の栄光にあずかることになる。主は私たちの目から涙をことごとく拭い取ってくださる。悲しみのゆえの涙も、怒りと憎しみのゆえの涙も、挫折と絶望の涙も、すべて過去のこととなるのです。そんなことがどうしてありえるでしょうか。しかし、聖書は言うのです。「主に不可能なことがあろうか」と。
サラにとってそうであったように、私たちにとっても、これは「信じなさい」との呼びかけの言葉に他なりません。主は私たちに「信じなさい」と呼びかけ、やがて本当の笑いを与えてくださるのです。やがて私たちはその約束の実現を見て、心から笑うことになるのです。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。神さま、私たちはあなたの約束の御業を心から信じることができません。「そんなことがあるだろうか?」と、皮肉な笑いを浮かべてしまう私たちです。しかし、あなたは約束の御業を実現され、私たちの乾いた笑いを、心からの笑いに変えてくださいます。「主に不可能なことがあろうか」ということを、身をもって経験させてくださいます。どうか、信じない者ではなく、あなたの励ましをいただいて信じる者にしてください。だんだん春を感じる季節となってきました。しかしまだ寒暖の差があり、感染症も流行っています。どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人の健康をお支えください。先週の火曜日に、南柏教会と深いかかわりのある山下廣先生が逝去されました。明日はつくばひたち野伝道所でその葬儀も行われます。その葬儀の上に、あなたの御支えとお導きをお与えください。ご遺族の上にあなたの慰めと平安をお与えください。この拙き感謝と願いを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。