マルコによる福音書15章16~21節 2026年1月18日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
主イエスは、ピラトによって十字架に架けられることとされ、鞭で打たれて兵士たちに引き渡されました。この鞭打ちは、それだけで息絶えてしまう者がいるほど激しいものでした。革の鞭に鉄や石の鋲(びょう)が付いているもので打たれるのです。背中からもお腹からも血が流れたことでしょう。主イエスは、もう立っていることができないほどに痛めつけられました。
その弱り果てた主イエスを、さらにローマの兵士たちがなぶりものにしたのです。まず主イエスに紫の服を着せます。これは多分、ローマの兵士たちが着ていた赤紫の短いコートのようなものだったと思います。それを、王様や皇帝が着る紫のローブに見立てたのです。そして、王冠の代わりに茨の冠を編んでかぶらせました。茨には5cmほどの硬いトゲがあり、そのトゲが主イエスの頭や額に突き刺さり、血が流れたことでしょう。
死刑になることが決まっているのだから、どんなに痛めつけても同じこと。兵士たちは、日頃の憂さ晴らしのつもりだったのでしょうか。人間の奥底には、日頃は表に出ることはあまりありませんが、人を痛めつけ苦しめることに喜びを覚えるという闇があるのでしょう。その人が一番嫌なこと、苦しいことを見つけて、そこを突いてくる。しかし、主イエスはこの時も黙っておられました。主イエスは嵐を静めることもできたし、病の人々を癒やすこともおできになりました。その力を、主イエスはこの時、御自分のためにお使いにはならなかったのです。
兵士たちは、主イエスの前にひざまずき、主イエスを拝む仕草をして、「ユダヤ人の王、万歳」と言ってはやし立てたのです。鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、体中傷だらけになったその体に、安っぽい赤紫の服を着せられ、偽りの礼拝を受け、「ユダヤ人の王」と言ってはやし立てられる。主イエスはまた、王様の持つ笏(しゃく)を模した葦の棒を持たされました。そして、その棒で頭を叩かれ、唾を吐きかけられ、「ユダヤ人の王」とはやし立てられました。神様が最も嫌われる、偽りの礼拝。神様を侮る行為。「もう赦せない。勘弁できない。」そう言って立ち上がってもよさそうなものです。しかし、そこまでされても、主イエスは神の子としての力をお使いにならず、ただ兵士たちがするままにされました。
こんな神様がいるでしょうか。鞭打たれ、足元もおぼつかないほどに弱り果て、兵士たちに侮辱され、それでも何もしない。ただただ痛めつけられている神です。主イエスは、十字架を背負わされ、ゴルゴタという所まで歩かされます。主イエスの周りには、主イエスをはやし立てる群衆がいたことでしょう。主イエスは黙って、十字架を背負って歩まれました。
主イエスが歩まれた道は、「悲しみの道」と呼ばれます。これはラテン語で「ヴィア・ドロローサ」と言い、主イエスが裁かれたピラトの官邸から、十字架に架けられ、死んで葬られた墓までの道、エルサレムにある1kmほどの小道につけられた名前です。今も毎週金曜日には、カトリック教会のフランシスコ会の主催で、十字架を担いだ修道僧の後を付いて多くの人々がその道を歩みます。その道には14のステーション、とどまる所があって、主イエスがここで鞭打たれた、から始まり、ここで十字架の重さに膝を折られた、ここで十字架に架けられた、と続くわけです。その14のステーションで、主イエスの御姿を思い起こし、祈るのです。主イエスのこの十字架への歩みを思い起こして祈る。主イエスの十字架へと歩む姿を心に刻むようにして祈る。
これは、エルサレムのヴィア・ドロローサにおいてだけ行われているものではないのです。これは「十字架の道行き」と言って、四旬節、レントの期間には必ず、金曜日にカトリック教会で行われるものなのです。そのために、カトリック教会の礼拝堂には必ず、壁に14のステーションを示す絵なり、レリーフなりが飾ってあるのです。広い敷地を持つ修道院では、山や庭にこの14のステーションが作られている所もあります。私たちには、「十字架の道行き」を行うという伝統はありません。しかし、イースターの前、受難節・レントの期間に、主イエスの苦しみを心に刻むということは同じです。やり方は違いますが、主イエスの苦しみを心に刻むということにおいては、変わることはありません。
しかし、どうして代々のキリスト者たちは、この主イエスの苦しみ、御受難を心に刻んできたのでしょうか。理由は、二つあると思います。
第一に、この主イエスの苦しみは私のためである、ということを心に刻むためです。主イエスは、これほどの苦しみを私のために、私に代わって受けてくださったということ。ここに、主イエスの私たちへの愛がはっきりと示されているからです。こんなにしてまで、私を救おうとしてくださった主イエス。その主イエスの苦しみの姿を心に刻み、主イエスの愛を思うのです。愛は、愛するその人のために苦しむことをも引き受けることです。主イエスの苦しみは、その私たちへの愛の極みなのです。主イエスはこの時、この苦しみから逃れようとすればできたのです。でも、そうはされなかった。自分を助ければ、私たちを救うことができないからです。私たちの身代わりにならないからです。
第二に、私たちが主イエスの苦しみの姿を心に刻むのは、私の苦しみが主イエスの苦しみにつながっていることを心に刻むためです。私たちはいろいろな苦しみを経験します。人に馬鹿にされたり、軽んじられたりすれば、夜も眠れないほどに腹を立てます。愛する者との関係が破れて、生きる意欲を失ってしまいそうになることもある。生活の苦しみもある。そのすべての苦しみが、この主イエスの苦しみとつながっている。主イエスは、苦しみの中にある人と共にいてくださるのです。苦しむ私と共に苦しんでくださっている。インマヌエルの神、我らと共にいてくださる神は、苦しみのただ中で、私と共にいてくださるのです。主イエスは、苦しみの中にいる者を決して一人にはしないのです。ヴィア・ドロローサ、悲しみの道を歩まれた主イエスは、私たちの悲しみを知っておられる、その悲しみの中で私たちと共に歩んでくださるのです。
私たちは苦しみの中で、ひとりぼっちのような気がするものです。誰も私の苦しみなんて分かってくれない。確かに、人は人の苦しみを分かることはできないでしょう。しかし、神様は違う、主イエスは違うのです。主イエスは知っている。知っているだけではなくて、私と共にいて、私と共に歩み、私を背負い、支えてくださる。私たちは苦しみ悲しみに出会いたくない。しかし、その苦しみ悲しみの中で、私たちは神と出会う、主イエスと出会うのです。
主イエスは刑場であるゴルゴタという所に着くまでに、もう十字架を背負うことができないほどに弱られました。十字架といっても、主イエスがここで担がされたのは十字架の横木ではなかったかと考えられています。この時、キレネ人のシモンという人が、たまたま通りかかります。そして、ローマの兵士はこの人に主イエスの十字架を背負わせたのです。彼にしてみれば、何のことやら分からず、何と運が悪いのかと思ったことでしょう。しかし、このことがこの人の人生を変えてしまいました。
21節に、この人は「アレキサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人」であったと記されています。どうして、この人の名が記されているのか。また、どうしてこの人の二人の息子の名前までもが記されているのか。このマルコによる福音書が記されたのは、主イエスが十字架にお架かりになってから30年ほど後のことです。ここで、名前が記されているということは、この福音書が記された時に、この二人の息子はキリストの教会ですでに名前を知られている人であったということを意味していると考えられます。つまり、主イエスの十字架を無理矢理担がされた人の息子はキリスト者になった。そして多分、シモンもキリスト者になったということなのだと思います。
どうして、何があって、そういうことになったのかは分かりません。しかし、長い教会の歴史の中で、このキレネ人シモンという人の有り様が私と同じだと、受け止める多くの人を生んできたのも事実なのです。何も分からずに、主イエスの愛の業に用いられることになってしまう。そうして、その業に仕えている中で信仰を与えられる。そういうことがあるのでしょう。私もそういう人に何人も出会ってきました。例えば、何も知らずに教会の幼稚園で働くようになり、そこで主イエスに出会って信仰を与えられた人などは、その典型的な例でしょう。キリスト教音楽との出会いの中で与えられた人もいるでしょう。神様は信仰のある人だけをその愛の業に用いるのではありません。自由に選んで用いられる、その営みの中で信仰が与えられるということは、決して少なくないのです。
そしてまた、このキレネ人シモンの姿は、キリスト教会の姿を指し示すものとして受け止められてきました。つまり、主イエスの十字架を背負って歩む教会ということです。主イエスの十字架を背負う。もちろん、罪の赦しを与える主イエスの十字架は、主イエスだけのものです。しかし、主イエスの救いを宣べ伝えるための労苦は、キリスト教会に与えられた務めです。それはこの主イエスの十字架を背負うということなのです。この主イエスの救いを宣べ伝える労苦というものは、主イエスの愛に仕えるということですから、具体的なあの人のために、この人のために喜んで労苦するということになるでしょう。私たちは、自分の労苦だけで精一杯と思っているかもしれません。しかし、私たちはそこから一歩踏み出していく者として召されているのです。
そうは言われても、私はもう年をとりました、人のためにもう何もできそうもありません。そう思う方もおられるかもしれません。もちろん、若くて元気な人は、それに見合ったことをすればよいのですが、年老いた者は何もできない。そんなことはないのです。なぜなら、私たちは「祈れる」からです。どんなに年老いても、体が動かなくなっても、私たちはその人のために、その人に代わって祈ることができるのです。それは、紛れもなく主イエスの十字架を担う行為なのです。世の人は主イエスを知りません。ですから祈ることも知りません。そのような世の人々のために、その人に代わって祈るのです。
今朝、柏市の中で主の日の礼拝に集っている人は、一体何人いるでしょうか。2000人はいないでしょう。50万近い人の中で、ほんのわずかな者だけが神様の御前に集って礼拝している。それは、この柏市に住むすべての人のために、その人たちに代わって私たちが礼拝しているということなのです。その意味では、このように主の日に礼拝をささげるということ自体が、実に主イエスの十字架を背負ってなされる営みなのです。しかしそれは、誰にも感謝されることはないでしょう。でも、それでよいのです。なぜなら、主イエスはお喜びになられるからです。そこに、私たちの喜びもあるからです。私たちはただ主イエスに喜ばれること、それを何よりも喜びとするものとされた者だからです。ただ主イエスに喜ばれる歩みを、神様の御前になしていきたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。神さま、御子イエス・キリストは、ヴィア・ドロローサ、悲しみの道を歩まれました。ローマの兵士たちによる辱めと侮辱を受けられた主イエスは、ひと言の反論も報復の行為もすることなく、ゴルゴタをめざして十字架を背負って歩かれました。それはただひとえに私たちの身代わりとなって、罪の裁きである十字架の死を受けられるためでした。私たちを愛するがゆえに、主イエスは苦難と十字架の道を歩まれたのです。どうか、私たち信じる者たちも愛するということの深い意味を知ることができるよう、導いていてください。そして私たちの身代わりとなって十字架を負ってくださった主イエスに、心からの感謝と讃美を捧げさせてください。今週の後半は冬の厳しい寒さがやって来るようです。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。この拙き切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。