列王記下4章42-44節 ヨハネによる福音書 6章1-15節 2025年10月19日(日)伝道礼拝説教
教師 渡部 静子
かつて私が20代の頃、私の神学生時代です。その頃は日本キリスト教団の教会に属しておりまして、東京や神奈川、千葉地区の青年たちで盲人と晴眼者(目の見える人)たちの相互理解を目指す「ひとつの会」というのがありました。そこに私も参加していたことがありました。「ひとつの会」は、夏には富士山のふもとでキャンプをしたり、点字の学習会をしたりしたのですが、ある時のキャンプで、聖書の中でどの個所があるいは、どの人物が好きかということを発表し合うということになりました。
愛唱讃美歌というのは50年も前でも、言われていたと思いますが、愛唱聖句というのはその頃はあまり考えたことがありませんでした。一応、神学生ですから、聖書は大体は読んで知っているつもりでしたが、え、好きな個所? 好きな人物? どうしよう。答える順番が来るので、どこかなぁ、どこかなぁと急いで考えて、今日の個所の大麦のパン五つと魚二匹を持っていた少年(ヨハネによる福音書6:9)と答えたのであります。そして、その考えは今も変わらないように思います。
家を出るとき、お母さんが渡してくれた「五つのパンと二匹の魚」のお弁当、お弁当を持っていない人がいたら、分けてあげるのよ、と言われて持って出た。そんなお弁当を持ってイエス様に会いに行ったこの少年。自分はこの少年のような者だと思ったのです。
さて、主イエスが五つのパンと二匹の魚で男五千人を養われたという奇跡の出来事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書全部に記されている出来事です。4つの福音書全部に記されている奇跡は、このパンの奇跡が唯一のものです。そして、ヨハネ福音書は一番最後に書かれた福音書で、ふつう共観福音書に記されていない主イエスの言葉や出来事を記しているのですが、共観福音書に記されているのに、さらにヨハネも記している奇跡がこのパンの奇跡なのであります。それはこのパンの奇跡の出来事の重要性と、それから、ヨハネ福音書には他の目的がありました。どういう目的か、そのことはあとでお話したいと思います。
ヨハネ福音書では、パンの奇跡はガリラヤ湖の向こう岸の山の上で起こったと記します。大勢の群衆が主イエスを追って集まって来たのです。主イエスが病人たちをいやす奇跡を見たからだと言います。ちなみに、マルコ福音書は、そんなふうにして集まってきた群衆は、「飼い主のいない羊のような有様」だと記し、それを主イエスは「深くあわれまれた」と記すのはマルコとマタイです(マルコ6:34, マタイ14:14)
ヨハネによる福音書のこの個所にはこの言葉は記されていないのですが、少し寄り道をしましょう。「あわれむ」という言葉は、単なる同情ではありません。岩波訳の聖書はここを「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた」と訳しています。「腸(はらわた)のちぎれる想い」、それほどの深い愛の御心であります。
「腸のちぎれるような思い」という感情を私たちは持ったことがあるでしょうか。いつ、どんな時に、どんなことで、そのような思いになったでしょうか。自分が深く信頼していた誰かに裏切られたときに、腸がちぎれるほどの悔しさを味わうということがあるかもしれません。あるいは、大切な人が大きな苦しみの中にあるときに、何もしてあげられないけれども、腸がちぎれるほどの苦しみを一緒に味わうようなことがあるかもしれません。あるいはまた、ガザ地区の人たちの惨状に、そのような思いになることもあるかもしれません。
主イエスが味わわれた「腸のちぎれる思い」とは、群衆が「飼い主のいない羊」のような有様だったから、でありました。飼い主のいない羊。羊にとって飼い主である羊飼いがいなければ生きていくことは出来せん。牧草がどこにあるか、水がどこにあるか、わかりませんし、野獣や羊泥棒に襲われる危険もあるのです。まさに命の危機であります。主イエスを追い求めて集まってきた群衆は、まさに主イエスの目には飼い主のいない羊たちに映ったのでした。飼い主のいない羊の惨状をご存じだったからです。
そこで主イエスは彼らを養うことを考えられたのです。「人はパンのみで生きるものではありません」が、しかし、人はパン無しで生きることも出来ないのです。飢えの問題は人間にとって深刻な問題であることを主イエスはご存じでした。
そこで主イエスは12弟子の一人フィリポにお尋ねになりました。「この人達に食べさせるには、どこでパンを買えば良いだろうか」(5節)フィリポは、この奇跡が起こったベトサイダ出身でしたから、その地方に通じていると思われたからでしょう(ヨハネ1:44, ルカ9:10)。フィリポは答えます。「(たとえパンを売る店があって)めいめいが少しずつ食べることにしたとしても、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(7節)フィリポは大勢の群衆を前に当惑しながら答えます。
「200デナリオン分のパン」、1デナリオンは、ローマの貨幣で成人男子の一日の日当であります。200デナリオン、すなわち、200日分、7か月の労働に対する賃金であり、主イエスの時代と現代では貨幣価値も全く違いますが、それでもそれは途方もない金額となり、自分たちにはまったく対応できないものでありました。
すると、もう一人の弟子アンデレが代わって主イエスに言うのです。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう」(9節)。五つのパンと二匹の魚、それはわずかなもの、小さいものの象徴のようです。男だけでも5千人もの人々を前にして、全く、何の役にも立たないかのように見えるものです。しかも、ここでヨハネは、この五つのパンと二匹の魚を持っていたのは少年だと記します。そして、パンが「大麦のパン」だと、さらに詳しく記しています。大麦のパンは、さらに質素な食事であります。貧しい人々のパンでありました。
主イエスはどうされたでしょうか。主イエスは弟子たちを促して人々を座らせます。そこには草がたくさん生えていました。この地域に草が茂るのは、春の雨の直後の3月末から1か月ほどだそうです。時期は早春でありました。そこで忘れられない出来事が起こったのです。「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(11節)すると、人々は満腹したのです。人々は満腹したというのです。
先ほど旧約聖書の列王記下4章42節以下を朗読していただきましたが、そこには預言者エリシャが大麦のパン20個で空腹の人々100人の腹を満たした出来事が記されています。パンが20個で100人。しかし、それをはるかに超える出来事が今、主イエスによってなされたのでありました。イエス・キリストは預言者エリシャをはるかに超えるお方であることが明らかにされた出来事でありました。
主イエスは言われます。人々が満腹したとき、主イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった(13節)
なぜパンの屑を集めさせたのでしょうか。ユダヤの習慣では、奴隷のために何かを残すことがならわしだったそうです。自分たちだけのことを考えていない、ユダヤの習慣だそうです。そのパンの屑は、日ごろ持ち歩いていた小さな籠に集められました。弟子たち一人ひとりが持っていた十二の籠がいっぱいになったのでした。
主イエスは何もないところからではなく、わずかなものであっても、そしてそれが質素な、貧しいものであっても、それを用いて、パンの奇跡をなさったのでありました。13節には、「集めると、人々が大麦パンを食べて」と、もう一度、食べたのは「大麦パン」だと記されているのです。ヨハネ福音書だけの記載の仕方です。
私はまさに、ここに出て来る少年に、あるいは少年が持っていた大麦パンに、自分自身を重ねています。自分自身も、自分の手にあるものも、それは本当に小さく貧しく、まさに無に等しいものにすぎません。しかし、それが主イエスによって受け入れられ、祝福され、主の御用のために用いられるとき、神様は実に不思議なみわざを行ってくだるということを味わってきた45年でした。この少年はどんなに喜んだことでしょうか。「ぼくの持ってきたパンと魚、イエス様のために使ってくださいと差し出したら、イエス様はとても不思議なみわざをなさったんだよ」。それは震えるほどの喜びと感動を味わった、決して忘れられない出来事となったのではないでしょうか。
私たちの手の中にあるもの、それはどんなに小さく、わずかであり、決して立派ではないものであっても、主イエスの御前に差し出され、主イエスが用いられるとき、それは一粒のからし種が、地上のどんな種より小さいからし種が、蒔くと成長してどんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が巣を作れる程大きな枝を張ると、主イエスは語られましたが、とてもふしぎなみわざをどんなにたくさんの人たちが味わい経験してきた歴史でありましょうか。私たち自身が、そして私たちの持っているものが貧しいこと、弱いことを嘆くことはありません。恥じることもないのです。ただ、主に信頼して、謙虚に主にささげる、そのことが大切なのであります。
さて、ここで終わりではありません。ヨハネ福音書は、他の福音書のように、5千人の給食の出来事を記すのですが、それだけではありません。ヨハネ福音書6章全体が、すなわち、6章71節までが、一つの主題で貫かれているのです。いわば、1-15節は、さらに大切なことを展開していくための導入のようになっているのです。
ヨハネ福音書は、マタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書が伝えていないこと、「五つのパンと二匹の魚」の奇跡は、それを持っていたのが少年だったこと、しかも、そのパンは大麦のパンという質素な、貧しい人たちが食べるものであることを記しているのですが、そのこと以外に、いや、そのこと以上に大切なこととして記していることがあるのです。それは6章の35節であります。
ヨハネ福音書はパンの奇跡をこの真理に結びつけるのです。35節「わたしは命のパンである」。48節にも繰り返されています。そして、それは聖餐式のパンに重ねられていくのです。命のパンであるイエス・キリストご自身が一人ひとりに分け与えられる。その命のパンをいただいて生きる人は永遠の命を与えられるという神の恵みの深さを語るのです。もし、このときの少年が、長じてこの真理の深さを知ったなら、イエス様ってすごいなぁ。あのとき大麦のパンを差し出して本当に良かったなぁと、聖晩餐にあずかりながら、イエス様のみからだであるパンをしみじみ感謝しながら、いただいたのではないかと想像するのです。
私はさらに最後に短くもう一つのことをお話したいのです。神様は、大麦のパンさえも、差し出されるときに用いてくださる恵み豊かな方であります。そのことを知って感謝です。で終わってはいけないのです。
個人的なことですが、私はこの3月で退職したのですが、退職してもなかなか時間がとれず、何か月かかかって、やっと本の処分や書類の整理等が終わりました。その時に発見したのですが、昔々、キリスト新聞に執筆を依頼されて書いたものが出てきたのです。
その中にこんな一文がありました。それは神学生のときに読んだ本に熱く心を動かされ共鳴したというもので、それはボンヘッファーやバルトの言葉です。「キリスト教信仰の核心は『他者のための存在』であるイエスの存在にあずかる新しい生である。教会は他者のために存在するときにのみ教会である」。「私と私の信仰が豊かにされる、それが信仰の目標ではない。むしろ、神のみわざの完成が目標である。すべての者は福音の恵みを受けた者として、他の枝えだの救いのために徹底的に仕える者とされる。そのために召されているのである。」ボンヘッファーやバルトの本を心を躍らせて読んだことが記されていました。この点に関しても、私は神学生時代とあまり変わってはいません。
私は「慰安婦」問題との取り組みを与えられて、その関連の情報がメーリングリストで届きます。少し前のものですがこんなメールがありました。「イスラエルのイラン攻撃から、報復の連鎖が始まっています。学術会議のこと、東海村村長の変身、ロサンゼルスへの州兵の派遣、そして、ガザの惨状、次々起こることに心が引き裂かれそうです。
今、ガンジーの言葉に惹かれます。『あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである』」。
確かに、私たちが世界を変えることはできません。しかし、世界によって変えられてしまう。どうせやっても、とあきらめてしまうことが問題なのです。世界によって変えられないようにするために、私たちも目前のことに振り回されるのみではなく、小さな取り組みを継続するのです。それはキリストの十字架の贖いをいただき、説教と聖晩餐に養われているのですから、小さな応答の歩みをささげるものとされたいと願うのです。
【祈り】
父なる神さま、
あなたの御名が崇められますように。今日は、あなたの愛したもう南柏教会の兄弟姉妹たちと共に礼拝をささげる機会を与えられ、心から感謝いたします。あなたは小さな私たち一人ひとりをいつくしんでくださり、私たちを通してさえ、あなたのご用をなさせてくださいます。さらに、あなたにお仕えすることを通して、私たちの信仰を養ってくださいます。
心から感謝いたします。あなたはまことに、私たち朽ちる者が朽ちてしまわない、命の道を開いてくださいました。御子イエス・キリストこそ、そのために天から降ってこられたまことのパンであられます。あなたは毎週、主日ごとに牧師を通して、イエス・キリストご自身からの命のパンの養いに豊かにあずからせてくださっています。その福音宣教と教会形成のみわざがさらに祝福されますように。どうか、この群れが主イエスの恵みに力強くこたえて歩む歩みであらせてください。
この週もそれぞれが遣わされていく家庭や職場、学び舎、地域社会を祝福してくださり、そこにおいて一人ひとりが主イエスの恵みを分かち合い、また隣人に仕える歩みをなさせてください、特に傷ついた隣人を気遣い、小さくされている人たちを覚える歩みであらせてください。
これらの祈りを主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。